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初期オスマン朝と西欧諸国:カピチュレーションの基礎研究
初期オスマン朝と西欧諸国:カピチュレーションの基礎研究 発表者氏名:片岡 所属名:神戸学院大学 恵美 非常勤講師 メールアドレス:[email protected] 概要:オスマン朝では、西洋諸国からの在留外国人に対して、領事裁判権や貿易の権利などを恩恵的 に認めた諸特権であるカピチュレーションが付与され、のちに不平等条約へと変質した。一般にカピ チュレーションは 16 世紀に西洋諸国に付与されたものが始まりといわれるが、オスマン朝ではすで に 14 世紀後半から同様の諸特権をイタリア商人に与えていたのである。本研究では、カピチュレー ションに先立つ、初期オスマン朝におけるイタリア商人への諸特権を分析し報告する。 キーワード:オスマン朝、外交、カピチュレーション、貿易、裁判 1 はじめに を利用して、ビザンツ帝国領での商業活動を有利 イスラーム世界では、キリスト教圏とは法体系 に展開し、その状況は 14 世紀も継続していた。ジ が異なることから、外国人をイスラーム法で裁か ェノヴァも 13 世紀後半にビザンツ皇帝ミカエル ずにその国の領事などの代表者に処罰を任せる取 8世にコンスタンティノープルの対岸の居留区ペ り決めの他、居留や通商に関する諸特権を君主が ラ〔=ガラタ〕を下賜され、黒海沿貿易を活発に 恩恵的に付与する内容の外交文書が 9 世紀以降か 行った。ヴェネツィアやジェノヴァはビザンツ皇 ら存在した。この外交文書をアフドナーメと言う。 帝だけでなく、小アジアのトルコ人の君侯たちか 現存してはいないものの、オスマン朝でも第 2 代 らも商業特権を保障されていたが、14 世紀以降、 君主のオルハン(在位 1324~1360 年)の治世に オスマン朝が旧ビザンツ領や小アジアの君侯国を 最初のアフドナーメが付与され、以後の歴代君主 支配下に入れるようになると、オスマン朝とも外 たちも、地中海貿易や黒海貿易で活躍したヴェネ 交交渉を行い、アフドナーメによる商業特権の保 ツィアやジェノヴァなどのイタリア商人に対して 障を求めるようになった。14 世紀後半にオスマン アフドナーメを付与し、彼らの商業活動を保障し 朝がバルカン半島に領土を広げるようになると、 てきた。14 世紀以後、ビザンツ帝国に代わってオ オスマン朝のアフドナーメの重要性は増加してい スマン朝が小アジアやバルカン半島で領土を拡大 った。 したため、アフドナーメを獲得することは、ヴェ ネツィアやジェノヴァの商業活動にとって重要で あった。 3 イタリア商人への諸特権 14 世紀後半から、ヴェネツィア人やジェノヴァ 初期オスマン朝におけるアフドナーメの内容 人は、オスマン朝から商業活動に必要な権利を保 は、第 3 代君主のムラト1世(在位 1360~1389 障されていた。この時代のアフドナーメでは、オ 年)の治世以降、ヴェネツィアやジェノヴァの外 スマン領でヴェネツィア人やジェノヴァ人は、安 交文書に残されている。本研究では、これらの外 全に居留し、通行することが認められ、さらにオ 交文書を分析し、14 世紀後半から 15 世紀半ばま スマン朝側へ定められた税を支払った上で、貿易 でにヴェネツィア人やジェノヴァ人がオスマン朝 を行う権利も認められていた。これに先立って、 から与えられた諸特権を考察する。 ビザンツ帝国でもヴェネツィアやジェノヴァに貿 易を行う権利を認めていたが、ビザンツ帝国では 2 初期オスマン朝とイタリア諸都市 14 世紀の東地中海や黒海ではヴェネツィアや 免税特権が存在したのが、オスマン朝とは異なる 点であった。1453 年にビザンツ帝国が滅亡すると、 ジェノヴァなどのイタリア諸都市の商人が盛んに ヴェネツィアやジェノヴァは改めてオスマン朝と 活動していた。ヴェネツィアは 1082 年にビザン 交渉を行い、アフドナーメを付与された。この際 ツ皇帝アレクシオス1世から与えられた商業特権 には新たにコンスタンティノープルにおける居留 や商業活動の権利の取り決めがなされたが、オス マン朝の外部の民に対する免税特権は認められな かった。 また、裁判権に関しては、ヴェネツィア人が加 害者であった場合、ヴェネツィア側が処罰を行う ことが定められていた。オスマン朝の民が加害者 pp.72-88, 1967. [7] M.Delilbaşı,“The first relations between the Turkish states and the West”, Turkish Review, 1, pp.59-69, 1986. [8] A. Fabris, “From Adrianople to Constantino- であった場合も同様に、処罰はオスマン朝側が行 ple: Venetian-Ottoman Diplomatic Missions, った。1454 年には、ヴェネツィア側はコンスタン 1360-1453”, Mediterranean Historical Review, ティノープルでバイロがヴェネツィア人の間の裁 判権を持つことが定められた。 7, pp.154-200, 1992. [9] K.Fleet, “Turkish-Latin Relations at the end of the Fourteenth Century”, Acta Orientalia: 4 まとめ 初期オスマン朝では、ヴェネツィア人やジェノ ヴァ人に居住や通行を認め、貿易を自由に行う権 利を認めていた。また、裁判権についても、ヴェ a Journal of the Hungarian academy of sciences, 49, pp.131-138, 1996. [10]K.Fleet, “Ottoman grain exports from ネツィア側に加害者の処罰を行う権利を認めてい Western Anatolia at the end of the る。これらの諸権利は、のちの時代のカピチュレ fourteenthcentury”, Journal of the Eco ーションに通じるものである。初期のオスマン朝 nomic and Social History of the Orient, 40, では、外国人が貿易を行う基盤が定められ、カピ (3), pp.283-293, 1997. チュレーションのもとがつくられたのである。 [11] K. fleet, “Turkish-Latin diplomatic relations in the Fourteenth century: The case of 参考文献 the consul”, Oriente Moderno, nuovaserie, [1] L.T.Belgrano, “Prima serie di documenti riguardanti la colonia di Pera”, Atti della Società Ligure di Storia della Patria, 13, 83(3), pp.605-611, 2003. [12] 伊藤不二男、 「近世における領事の裁判権」、 『法政研究』、38 巻、2-4 合併号、129-170 pp.96-336, 1877-84. [2] E. Dalleggio d’Alessio,“Le texte grec du traite conclu par les Genois de Galata avec Mehmet Ⅱ le 1er Juin 1453”, [13] καθ’ εξάμηνον, 11, pp.115-124, 1939. 88-104 ページ、1980 年。 [14] 『社会文化史学』、49 号、59-80 ページ、 Première Recontre Internationale sur Edhem Eldem, pp. 17-105, Istanbul: Isis, 1991. 2007 年。 [15] la section historique de l’Académie roumaine, 2,pp.11-32, 1914. [5] G. M. Thomas, DiplomatariumVenetoLevantinum, Venice, vol.2, pp. 193-368,1899. [6]G.T.Dennis,“The Byzantine-Turkish Treaty of 1403”, Orientalia Christiana Periodica, 33, 林香那、「イギリス・カピチュレーション の締結とレヴァント商人」、 『史境』、58 号、 [4] N.Iorga,“Le privilege de MohammadⅡpour la ville de Péra (1er Juin 1453)”, Bulletin de 林香那、 「一六世紀末から一七世紀初頭にお けるイギリス・カピチュレーションの性格」、 “OttomanGalata,1453-1553’’, l’Empire Ottomane et la Turquie Moderne, ed. 中山治一、 「一五三五年のフランスとトルコ の「条約」について」、 『西洋史学』、CXVIII, Ελληνικά ιστορικόν περιδικόν δημοζίευμα εκδομένον [3] H.İnalcık, ページ、1972 年。 46-66 ページ、2009 年。 [16] 堀井優、 「一六世紀前半のオスマン帝国とヴ ェネツィア―アフドナーメ分析を通して ―」、『史学雑誌』、第 103 編第1号、34- 62 ページ、1994 年。