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11-1 - 賀川記念館
KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(118) 昭和55(1980)年年元⽇日のご夫妻(『⻄西宮⼀一⻨麦教会四⼗十年年の歩み』より) 第 118 回 昭和 55~∼56 年年の吉⽥田源治郎郎と幸 上の写真は、昭和55(1980)年年、新年年礼拝の後の吉⽥田源治郎郎・幸ご夫妻の何とも素敵な姿である。 この年年、『愛と希望:クリスチャン・グラフ』誌2⽉月号で「⽶米寿(88歳)を迎えた吉⽥田源治郎郎牧師」と いう⾒見見開きの記事が掲載され、埴⽣生操の詩「愛の⿊黒いかばん」が収められている。この詩は『吉⽥田先⽣生と 私―⽶米寿記念念⽂文集』に寄稿されたもので、既にこの連載では取り出しているものである。 さて、この年年の4⽉月25⽇日には、社会福祉法⼈人・朝⽇日新聞⼤大阪厚⽣生⽂文化事業団の「社会事業に貢献した先 輩に感謝する会」が、⼤大阪天王寺の「まつむら」に於いて開かれている。 朝⽇日新聞⼤大阪厚⽣生事業団というのは、吉⽥田源治郎郎が戦前「四貫島セツルメント」の働きの中で積極的に連 携を図ったところで、その働きに関しては詳しく紹介済みであるが、この「感謝する会」に吉⽥田源治郎郎夫 妻も招待され、2枚の写真――記念念写真と感謝の記念念品を贈られる写真――とが残されている。 感謝の記念念品を受ける吉⽥田源治郎郎 隣隣は吉⽥田幸 記念念品を贈る⼈人は、事業団の太⽥田緑という⼈人で、彼⼥女女は偶然にも⼆二葉葉幼稚園の卒園児であったらしく、「感 謝の会」の後、この上の2枚の写真と共に、源治郎郎に宛てた⼿手紙が届けられていた。次にその⼿手紙を紹介 させて頂く。 昭和55(1980)年年3⽉月 甲⼦子園⼆二葉葉幼稚園児と共に 過⽇日(10⽉月25⽇日)⼀一⻨麦保育園での集まりの折、吉⽥田摂⽒氏より7本のビデオと1枚のDVDをお預かり した。その中にこの頃の卒園式と思われるものもあり、吉⽥田幸が園児⼀一⼈人ひとりに声をかけて卒園証書を ⼿手渡し、お祝いの挨拶をしている映像が収められていた。 本⽇日7本すべてを⾒見見たが、園児たちの発表会やクリスマス・ページェント、幼稚園の園⻑⾧長研修や1989 年年の幼稚園の同窓会などの映像があった。そしてその中に、甲東教会の芹野俊郎郎牧師が、吉⽥田幸のインタ ビューを試みたものもあり、8ミリフィルムで撮影したものを4分ほどのビデオに纏められていた。吉⽥田 源治郎郎の映像は残されてはいないが、幸のこの映像は貴重である。 阪神間の諸教会が共催して、既に23年年⽬目を迎えたという「イースター礼拝」が、昭和55年年4⽉月6⽇日、 神⼾戸⼥女女学院の校庭で開かれている。23年年前と⾔言えば、昭和32年年からであるが、この「イースター礼拝」 は、吉⽥田源治郎郎の提唱によるものであったらしく、前記の吉⽥田幸をインビューした芹野牧師から、源治郎郎 に宛てたこの年年(昭和55年年)の「イースター礼拝」の報告が届けられている。 イースター礼拝で祝祷をする吉⽥田源治郎郎(撮影年年度度不不祥) 今津⼆二葉葉教会は、昭和56年年 3⽉月29⽇日に「吉⽥田源治郎郎牧 師引退感謝礼拝」を持ってい る。創⽴立立以来主任担任牧師を 務めてきた吉⽥田源治郎郎は、こ の時「神は愛である」と題し て説教を⾏行行っている。『記念念 誌』の「年年表」では「神は愛 である」が、下に収める⽂文章 では「神は愛なり」とある。 「深い感銘を与えた」という この説教は、今も⼤大切切に保存 されているかも知れない。源 治郎郎はこの時90歳を越え ている。 昭和56(1981)年年3⽉月 甲⼦子園⼆二葉葉幼稚園卒園児と共に 吉⽥田源治郎郎は、上記の通り昭和56年年3⽉月29⽇日に「牧師引退感謝礼拝」⾏行行っており、甲⼦子園⼆二葉葉幼稚園 の働きも、事実上この時が最後になったのであろう。上の写真は吉⽥田幸と並んで園児たちと写した最後の 写真ではないかと思われる。 最前列列に園児たちと肩を並べて写る夫妻の姿はまた格別のものがる。 尚、書き忘れていたが、昭和55年年8⽉月13⽇日から15⽇日まで、御殿場東⼭山荘・⾼高根学園・多磨霊園・松 沢教会に於いて「イエスの友会創⽴立立60周年年記念念⼤大会」が開催されている。この記念念⼤大会に於いて、吉⽥田 源治郎郎は、賀川ハル・松雄造酒蔵・⼤大⻄西源太郎郎・杉⼭山健⼀一郎郎・菅沼孝⽂文と共に「感謝状」を受けている。 また、昭和56年年のイエスの友会の「年年譜」を⾒見見ると、7⽉月27⽇日から29⽇日まで、京都・関⻄西セミナー ハウスに於いて「夏期聖修会」が開かれ、嶋⽥田啓⼀一郎郎が講演を⾏行行い、さらに10⽉月1⽇日には、賀川ハルが 東京都より名誉都⺠民の表彰を受けた事も記されている。 そして⻄西宮⼀一⻨麦教会の『四⼗十年年の歩み』の「年年表」を⾒見見ると、⻄西宮⼀一⻨麦教会での吉⽥田源治郎郎の最後の説教 は「昭和55年年12⽉月14⽇日、「待ち望む」(ルカ2:22-40)」であったようである。 吉⽥田源治郎郎が⽇日本基督教団の「引退牧師」となるのは、次回以降降で取り上げる予定の「⼀一⻨麦保育園創⽴立立5 0周年年記念念祝典」が開催された昭和57年年10⽉月11⽇日を終えて2ヶ⽉月後、12⽉月のことであった。 (2010年年11⽉月7⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 10 ⽉月 8 ⽇日補正) KAGAWA GALAXY 吉⽥田源治郎郎・幸の世界(119) 昭和57(1982)年年2⽉月28⽇日 ⻄西宮⼀一⻨麦教会に於ける吉⽥田幸 第 119 回 昭和 57 年年の吉⽥田源治郎郎と幸(1) 昭和57(1982)年年は10⽉月11⽇日に「⼀一⻨麦保育園創⽴立立50周年年記念念祝典」という、吉⽥田源治郎郎と幸 にとっても忘れることの出来ない⼤大きな祝い事が待っていた。今回はその前に、2⽉月28⽇日の⽇日曜⽇日、⻄西 宮⼀一⻨麦教会に於いて「特別礼拝」が持たれ、吉⽥田幸の⽴立立証「思い出」が語られている(上の写真)。 この時の吉⽥田幸の「⽴立立証」は録⾳音されていて、⼀一部分割愛されているようであるが、6年年後(昭和63年年 2⽉月)に発⾏行行された⻄西宮⼀一⻨麦教会創⽴立立40周年年記念念誌『四⼗十年年の歩み』にテープ起こしをされて収められ ている。 この記念念誌が刊⾏行行された時は、吉⽥田源治郎郎が92年年の⽣生涯を終えて既に4年年が過ぎていた(吉⽥田源治郎郎は 昭和59(1984)年年1⽉月8⽇日召天)が、「記念念誌」の冒頭には、「吉⽥田源治郎郎先⽣生を偲んで」在りし⽇日 の説教2篇と森彬牧師の「伝道の⻑⾧長距離離ランナー(故⼈人略略歴に代えて)」、そして最後にこの吉⽥田幸の「思 い出」が収められていた。 既に吉⽥田幸の「思い出」の⼀一部は、この連載の初めのところで取り出しているが、ここでは全⽂文を収めて 置きたい。 当⽇日のものと思われる写真が数枚残されている。 次の写真は、少し拡⼤大したので鮮明ではないが、吉⽥田幸の隣隣は埴⽣生操園⻑⾧長のようである。 テーブルに⾷食事が並び⼿手前の少年年は⾷食べているようなので、礼拝の後に吉⽥田幸を囲んで語らいのひととき を持っているようである。吉⽥田源治郎郎の姿がないが、この⽇日、体調が整わなかったのであろうか。 次の写真もこの時のもので、散会の前のよ うである。 昭和57(1982)年年3⽉月 甲⼦子園⼆二葉葉教会卒園児たちと共に 吉⽥田幸園⻑⾧長 (この年年より吉⽥田源治郎郎は幼稚園の職務から解かれている) 今津⼆二葉葉幼稚園は、昭和39年年8⽉月の町名変更更に伴って、園名を「今津⼆二葉葉幼稚園」から「甲⼦子園⼆二葉葉幼 稚園」に変更更していたが、 「今津⼆二葉葉教会」の⽅方はこの年年(昭和57年年)4⽉月25⽇日の教会総会に於いて「甲 ⼦子園⼆二葉葉教会」へ名称変更更を議決している。 前回先取りして挙げたように、この年年(昭和57年年)5⽉月5⽇日、賀川ハルは94歳でその⽣生涯を終えた事 も、改めて記して置きたい。 次回は昭和57年年の⼤大きな出来事であった「⼀一⻨麦保育園創⽴立立50周年年記念念」とその『記念念誌:⼀一⻨麦のあゆ み』を読んで⾒見見たい。 (2010年年11⽉月6⽇日記す。⿃鳥飼慶陽)(2014 年年 10 ⽉月 9 ⽇日補正)