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カルト/セクト論争と宗教的ナショナリズム

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カルト/セクト論争と宗教的ナショナリズム
カルト/セクト論争と宗教的ナショナリズム
―グローカル化過程におけるナショナル・アイデンティティの追求―
中 野
1
毅
問題の所在と分析枠組
「カルト 」
「セクト」問題をとおして、宗教学は多くの課題に直面した。そのひとつは、
現代社会やそこに生活する人々に直接的な危害や脅威をもたらす運動や集団が、宗教的な主
張と装いをともなって登場したことに由来する。オウム真理教がサリン・ガス事件をおこし 、
また宗教と称して詐欺まがいの行為を行っていた団体や強制的な集金行為を重ねていた教団
も存在した。
「カルト」から精神的、身体的被害を受けた(と主張する)人々も現実にいる 。
このような事実から、それらは「破壊的カルト」であり、社会的に危険で有害な集団である
という批判が噴出し、社会問題として展開した。これらの事実を正面から受け止め、犯罪を
犯罪と断罪していく作業、また被害者を救済していく事業が必要となり、このような実践的
課題に宗教学がどう応えるかが問われている。
それはまた、宗教研究者にとって、宗教的な主張や装いをなす新しい運動や集団を、やや
新奇ではあるが真正な「新」宗教として研究していくだけではすまない状況が出現したこと
を意味する。従来の宗教学や宗教社会学における価値中立的な態度による研究が批判された
り、不可能となる状況に投げ出されたともいえる。宗教研究者は、いかなる価値判断や価値
的立場にたって関与し、研究し、論じているのかが、鋭く問われる。本来は常に問われてい
たはずのこの問題を、日本の宗教研究は批判的に検討する作業を怠っていた。
「カルト」
「セ
クト」問題に直面して、その学問的立場や方法論的立場が改めて問い直されたといえる(1) 。
問題となった団体に調査に入ろうとして、当該団体の当事者から「敵か味方か」と問われ、
拒否される事態もすでに生じている(2) 。研究者であれ、ジャーナリストであれ、関与する者
の実存的立場や「当事者性」が直ちに問われくるのである。
この問題はまた、研究方法の再検討をわれわれに迫っている。宗教の現象学的研究や内在
的理解をめざすだけでは、利用されたり騙されたりする可能性があることをはっきりと認識
しなくてはならない。宗教現象や宗教運動に共感的なあるいは寛容な態度で、彼らの世界を
彼らの文脈において内在的理解をめざす方法のみでは、彼らと同じ地平に接近することは可
能でも、学的理解としては十分ではない。むしろ、その宗教的世界に飲み込まれてしまい、
スポークスマンとして利用される危険性がある。研究対象との適切な距離を保つことを忘れ
た研究は、神学的または宗学的研究の域をでていないことになる。
(1 ) 「カルト」運動をめぐる立場や学問的方法の問題については、中野毅「文化闘争としてのアメリ
カ・カルト論争 」『宗教法』第20号、宗教法学会、2001年11月、において若干考察した。参
照していただければ幸いである。
(2 ) 弓山達夫「カルトをめぐる『当事者性 』
」(「宗教と社会」学会第9回学術大会におけるワークシ
ョップでの報告、2001年6月17日)。
-1-
現在の宗教研究における方法論的枠組みとして問われている課題のひとつは、ここにある。
個々の宗教運動や宗教的世界をその固有性においてとらえるのみでなく、それらを、その発
生と展開の文化的社会的背景の中に位置づける、または当該社会の文化的社会的構造と個別
3
運動との関係を分析するマクロな視点と研究方法(())
が改めて必要となっているのである。
つまり、対象とする宗教的世界や宗教運動それ自体への共感的で内在的な理解をめざすだけ
でなく、それらが展開し存在する総体的社会、それらを取り巻く周辺社会との文化的宗教的
な共通性および異質性、社会組織の原理の共通性および異質性などの両者の関係性と距離を
的確に把握することが必須の課題となった。それは周辺社会からの反応や評価、対立や緊張
をデータとして把握し、広い総体的な社会的文化的文脈の中で当該運動を位置づけること、
そして周辺社会からの応答のもつ政治性を考慮に入れながら、両者の相互作用の過程を把握
することである。さらに付け加えれば、その総体を比較文化的視点から考察していく必要が
あろう。比較文化的視点とは、同一の運動であっても展開する社会が異なれば、背負う意味
や機能、帰結が異なってくる点を明らかにすることにほかならない。こうした作業によって
得られる利点は、単なる学問的理解以上のものがある。その一つは、その運動の周辺社会と
の摩擦がどの程度か、今後増大するか否かを推し量り、将来のトラブルに備えたり、注意を
喚起することも可能となるからである。
こうしたマクロな視角からの比較分析は、ある意味でウェーバー以来の古典的分析である
が、更に現代世界の特徴を加味した検討を行うには、グローバル化との関連を視野に入れな
ければならない。今日ほど、各社会間の人間、文化、宗教、情報、経済その他の分野での相
互交流と相互依存が迅速かつ濃密に行われている時代はなく、単独で孤立した社会はもはや
存在しないからである。筆者が、ここ数年間心を抱いている各国における反カルト運動の展
開も、まさにグローバル化の波に乗って世界的な展開を見せている。そしてこの過程そのも
のが、新宗教運動をめぐる新たな問題を発生させている。たとえば、アメリカ合衆国でカル
トと見なされた運動が、そのレッテルが逆輸入されて、カルトとは見なされていなかった社
会でもカルト批判の対象となってしまう危険性が生じているからである。
グローバル化との関連で、筆者が特に注目している視点は、ロバートソン(Roland Roberts
on)が提唱したグローバル化論とグローカル化(glocalization)論である (4)。グローバル化と
は世界の単一性の増大または世界の縮小、あるいは世界は一つの場だという認識の増大とと
らえられるが、資本主義の拡散によって単一な近代世界システムがグローバルに形成された
(3 ) この点についての論議は、ユルゲン・コッカ『社会史とは何か−その方法と軌跡−』(仲内・土
井訳)日本経済評論社、2000年11月、が有益である。
(4 ) グローバル化および宗教との関連についての議論については、 Roland
Robertson , Globalization;
Social Theoryand Global Culture, London:Sage Publications, 1992 (阿部美哉訳『グローバリゼーショ
ン―地球文化の社会理論』東京大学出版会、1997年)。 R. Robertson & W .R. Garrett ( eds .),
Relgion and Global Order, N.Y.: ParagonHouse , 1991. 阿部美哉はロバートソンの理論の特徴と宗教
の扱い方について、ウォーラーステインやギデンズと対照しながら整理している。本稿も阿部論文を
参考にした。阿部美哉「グローバリゼーションと宗教 」
『宗教研究』第75巻第2号、2001年9
月所収。筆者自身のグローバル化についての詳細な検討は今後の課題である。
-2-
とするウォーラーステインの世界システム論や、グローバル化を近代性の帰結としてとらえ
るギデンズの再帰的近代化論が、宗教の役割を無視または二義的にしか扱っていないのに対
し、ロバートソンは国民国家的諸社会( national societies)・諸社会の世界システム(world
system of societies)・様々な自己(selves)・人類(humankind)という4要素間の相互作用の場と
してのグローバル領域( global field)を設定し、近代以前から進展した構造的にも形式的にも
はるかに複雑な複合的過程としてグローバル化をとらえる。そして、グローバル化は上記諸
要素のそれぞれのアイデンティティーの変容と再形成に深く関わる過程であるとグローバル
化の認識的主観的側面の重要性を強調し、そこに宗教が認知的準拠枠の重要な資源として参
入するととらえる。
ロバートソンのグローバル化論は、さらに世界の同質化や諸国民や諸民族の個別性の抹消
という単純な立論を否定し、普遍性の個別主義化と個別性の普遍主義化をグローバルに推進
する過程とみなす。従ってグローバル化とは他方で多様性の進展と国民的、または民族的、
地域的な固有性の再構成、再主張をともなって進展するがゆえに、グローバルなローカル化、
グローカル化といえると主張する(5) 。かれはグローバル化が進展している現代に、宗教と国
家との緊張が高まっている事実、宗教的ファンダメンタリズムが勃興している事実から考察
を進め、それらは反グローバル化や反近代の産物なのではなく、むしろグローバル化にとも
なう新たなアイデンティティー形成の「原理」( fundamentals)を探求する動向であることを
解明した。ここにグローバル化とナショナリズムの勃興、地域主義やファンダメンタリズム
の勃興との相関関係に、新たな光が当てられた。
本稿は、このような指摘に着目しながら、筆者が数年来論じてきた宗教とナショナリズム
の関係、反カルト/セクト運動とナショナリズムの関係について再考察したものである。
2
多様なナショナリズムの表出
冷戦構造崩壊後の世界秩序は、アメリカ合衆国の一極支配のもとで、世界の平準化=アメ
リカの規準のグローバル化が表面上は急速に進展していくかに思われた。しかし、その過程
でまず展開したものはヨーロッパ連合(EU)や北米自由貿易圏(NAFTA )
、東南アジ
ア諸国連合(ASEAN)のような政治経済的な地域統合の強化であった。この地域統合自
体も、グローカル化の一局面である。その目標は、自由貿易の拡大と経済統合をとおして近
代的国民国家の枠組みを弱め、将来的には国家の解体を指向している。この過程はまだ始ま
ったばかりであり、将来に諸国民や諸民族の個別性の解消が実現するかどうかは不確定であ
る。少なくとも現時点で進行している現象は、冷戦構造化で不完全な形式でしか国民国家を
形成できなかった国々や諸民族が、一方で「一人前の近代国家」の建設をめざす動きであり、
他方では、再びかつての民族的紐帯を強調して再団結しようとする運動や、ある国民として
の文化的再統一または文化的純化を求める運動の展開である。これはまさに、ある種のナシ
(5 ) Robertson (1992), op. cit. , chap.11: The Search for Fundamentals, 特に pp.172 - 178.
訳では省略されている。
-3-
本章は阿部
ョナリズムの噴出と言いうる現象である。ロバートソンの指摘するように、グローバル化の
進展にともなって展開している現象である。
しかし、19世紀から20世紀前半におけるナショナリズム(6) が、
「信教の自由」と「政
教分離 」
「国家の宗教的寛容」を前提とした近代的な「世俗国家」を賛嘆し、国民としての
統合をめざした「政治的ナショナリズム」だとすると、近年のそれは「文化的ナショナリズ
ム」の勃興として区別すべきと考える。
「文化ナショナリズム」とは、吉野によれば「ネー
ションの文化的アイデンティティーおよび共同体的連帯を創造、促進することによってネー
ションの創造、再生をめざす現象」(7) である。さしあたっては従来の国民国家による枠組み
を前提にした概念であるが、理論的には、その枠組みをはずれても、ある種の政治的な共同
体的統合と文化的統一をとおして一つのネーションとしてのアイデンティティーを再確立し
ようとする動きを、文化ナショナリズムと考えることができる。
さらに、これらの運動の多くは、現実には、その文化的同一性の象徴として伝統的宗教や
伝統的教会との再結合をめざす運動として展開している。ユルゲンスマイヤーその他が指摘
するように(8)、これは「宗教的ナショナリズム」ともいえる現象である。こうした宗教的ナ
ショナリズムはインドやイスラム諸国、旧東欧諸国やロシアに典型的に見られる。
他方、いわゆる西側先進諸国においては、一見すると上記の「宗教的ナショナリズム」は
見られないかのようであるが、筆者は、いわゆる反セクト/カルト運動やその政治的キャン
ペーンの中に、間接的な形ではあるが、
「疑似宗教的なナショナリズム」
、または少なくとも、
「文化ナショナリズム」の噴出を見ることができると考えている。
その第一の理由は、文化的であれ、政治的であれ、ナショナリズムは自分の国民国家への
賛嘆と国民意識の高揚をともなうばかりでなく、それを脅かす敵対勢力を外部に設定すると
ともに、内部にも敵を想定して排斥し、社会内部を純化しようとする傾向に由来する。現代
ナショナリズムにとっての内部の敵対勢力は、正統とされる文化や社会を内側から腐食させ
分裂させる「カルト」「セクト」であり、新宗教運動であった。その意味で、反カルト運動
(6 ) ナショナリズムの定義としては、さしあたりハンス・コーンが50年代に「ナショナリズとは、
個人の最高の忠誠心が国民国家に帰さなければならないと感じられるような認識のあり方」とし、こ
れを近代西洋における世俗的で政治的なナショナリズムとする 。HansKohn , Nationalism; Its Meaning
and History, D. van Nostrand , 1955. 中野毅「宗教・民族・ナショナリズム 」
、中野・飯田・山中編
『宗教とナショナリズム』世界思想社、1997年、序章。
(7 ) 吉野耕作「現代日本の文化ナショナリズム 」
、前掲『宗教とナショナリズム』所収。また Kosaku
Yoshino , Cutural Nationalism in Contemporary Japan, Routeledge, 1992. 吉野耕作『文化ナショナリ
ズムの社会学』名古屋大学出版会、1997年. Harumi Befu ( ed.), CulturalNationalism inEastAsia ,
Research papers and policy studies 39, Insititute of EastAsianStudies, UniversityofCalifornia, Berkeley,
1993.
(8 ) Mark Juergensmeyer, The New Cold War?; Religious Nationalism Confronts the Secular State,
University of California Press, 1994 (阿部美哉訳『ナショナリズムの世俗性と宗教性』玉川大学出版会、
1995年). Peter van der Veer, Religious Nationalism; Hindus and Muslims in India, University of
California Press, 1994.
-4-
は周辺社会からの統制運動、逸脱を抑圧する運動であるとともに、社会内部の異質分子を排
斥して純化しようとする一種のナショナリズムの噴出と見なすことができるからである。
第二には、カルト化が周辺社会との相互作用の産物であることによる。残念なことに、当
初から詐欺目的で宗教活動を行ったと思われる確信犯的な団体が最近も発覚して訴えられて
いるが、そうしたごく少数の悪質な例をのぞけば、大半の宗教運動は、世間から理解される
か否かは別として、それなりの宗教的理念と目的をもって活動を開始している。そうした当
初の運動が、周辺社会の受け入れえない「逸脱行為」を常態として行いだすことを「カルト
化」と呼ぶとすれば、その「カルト化」の過程を歩みだす主要な要因には指導者の偏狭さや
判断の誤りなど種々考えられるが、いずれにしてもカルト化過程が周辺社会との相互作用の
中で展開していくと考えるのが、宗教社会学的知見である。従って既に述べたように、周辺
社会の全体構造や文化的伝統、それらの変化や動向が検討対象として重要な意味を持ってく
る。
注目すべき点は、多様な新宗教運動を画一的に「カルト」である断定し、ステレオタイプ
化されたイメージを生みだしたのは、実は「周辺社会の言説」であるという事実である。そ
の社会において正統または主流と見なされる伝統文化と価値体系が一方にあり、それが否定
する、または拒絶する価値や文化の象徴的表現が「カルト」イメージとなる。いわば正統文
化の対抗価値・対抗文化が投影されたものといえる。しかも、その正統と見なされる文化や
価値は、全国民に必ずしもすべてが共有されているものではなく、近代以前であれば君主や
一部の支配層のものであり、近代の国民国家においては国家によって定められた支配的イデ
オロギーまたは公式の国家理念としてのそれである。ゆえに、反カルト運動がカルトを社会
的文化的逸脱と見なして弾劾する行為は、潜在的また間接的にナショナリズムの表出と見な
しうるのである。
3
事例研究(1)アメリカ合衆国における文化闘争(Culture War)
以上のような見解を筆者は、アメリカの新宗教運動、特に国際クリシュナ意識協会(ISKCO
N)とサイエントロジー教会についての歴史的、社会学的研究、およびそれらをカルトと断罪
9
する反カルト運動、特にカルト覚醒ネットワーク(CAN)の活動の研究から得た(())
。
アメリカ合衆国は「信教の自由」と「政教分離制度」の確立した社会であるといわれ、啓
蒙主義的な世俗国家の理念を背景として、民族・人種・宗教を問わず、法の下でのすべての
個人の自由と平等が保障され、それら自由で平等な諸個人の自発的な意思によって相互に結
合してできた契約共同体がアメリカ社会であるというのが、公式な国家イデオロギーである 。
しかし他方で、アメリカは神の意志に基づいた理想的な社会を荒野に築くために、誤った信
仰に堕してしまったイギリスを脱出したピューリタンによってつくられた「神の国」である
(9 ) 中野毅「反カルト運動とアメリカ・ナショナリズム 」、前掲『宗教とナショナリズム』所収。中
野毅「バクティヴェーダーンタ・スワーミーとクリシュナ意識運動 」
、島・坂田編『聖者たちのイン
ド』春秋社、2000年、等を参照のこと。
-5-
という「建国神話」が存在する。それは「キリスト教国アメリカ」
「神の下の国」「丘の上の
町」というピューリタンの伝統的な共同体観念 、宗教や教会の公共性を強調する理念として、
今日まで根強く存続している支配的イデオロギーである((10) 。そのイデオロギーが「アメリ
カ・ナショナリズム」の根底にある文化的歴史的原理として、しばしば登場してくる。
アメリカにおけるいわゆる「カルト」教団の多くは、1960年代から70年代において
公民権運動やベトナム反戦運動などの政治的社会的改革の波とともに、伝統的なアメリカ的
価値への批判を掲げた様々な対抗文化運動として展開したものである。R・ベラーが「新し
い宗教意識」ととらえた様々な新宗教運動である。アメリカにおける「カルト」は、伝統的
なイデオロギーや正統文化に真っ向から対峙する対抗文化だったのであり、その異質性ゆえ
に、伝統に幻滅して反抗する若者に受容されたのである。
この時代以降、アメリカは「人種の坩堝」神話に代表される、
「自由・平等・個人主義」
の共通価値に基づく「多様な移民が融合した新しいアメリカ人」というナショナル・アイデ
ンティティー、まさに「創造された伝統」が崩れはじめ、少数派の平等な権利を実現する多
元文化社会をめざす方向と、レーガン大統領の登場が象徴する「古き良きアメリカ」を再興
しようとする方向の間を揺れ動きながら、今日に至っていることは周知の通りである。アメ
リカは「文化闘争」のただ中にあるのである。
こうした保守再興の潮流の中で、新宗教運動を伝統的な信仰、家族、倫理を破壊するもの
として批判し、それらにまさに再「対抗する」ため発展した運動の一つが「反カルト運動」
である。従って 、
「反カルト」運動は一種の伝統回帰運動としての側面を有しており、保守
的文化を代表するアメリカの文化ナショナリズムの表出なのである。文化的であれ、政治的
であれナショナリズムは、それを脅かす敵対勢力を外部に想定するとともに、内部にも敵を
設定する。この運動にとって内部の敵対勢力は伝統文化を内側から腐食させる「カルト」で
あり、新宗教運動であった。
「カルト」とラベリングされた運動の多くが、程度や様相の差はあれ、疎外された個人を
抱擁する共同体生活、超越的な絶対神とは異なる「内在する神」や「霊性の世界」、富の追
求ではなく愛を、そして菜食主義などの実践に見られる自然との共生など、新しい家族観や
人生観、宗教観、世界観を主張した。それはピューリタン的信仰、自律した個人主義、自由
競争的倫理を理想とする世界、そして何よりも「理想とする家族像」などのアメリカの伝統
的価値の世界と対照的な世界である。反カルト運動の底流には、このような非アメリカ的な
価値の流行に対する敵対心が潜んでいる。リチャードソンは「カルト」による被害者や運動
家などの証言を分析し、そこには逆説的に理想化された「伝統的に正常なアメリカの家族像」
や「アメリカの十代の若者はどのようなものか、あるいはどうあるべきか」という理想型が
(10 )アメリカの社会と国家のこうした性格については、中野毅「政教分離社会とプロテスタンティズ
ム」
、井門富二夫編『アメリカの宗教伝統と文化』大明堂、1992年、第2章。井門富二夫編『ア
メリカの宗教』弘文堂、1992年。森孝一『宗教から読む「アメリカ 」
』講談社選書、1996年 。
同編『アメリカと宗教』日本国際問題研究所、1997年。
-6-
明白に描かれ、カルト批判の前提となっていることを指摘した(11)。両親と一人か二人の子ど
もによる家族。自由意志を持ち、個人主義的な価値観を共有し、親の意見を尊重する従順な
子供たち。アメリカ国家に誇りを持ち、その社会的価値にも順応し、親の理解しうる人生コ
ースを歩むはずの彼ら。このような理想型以外の青年像はあってはならないのであり、子供
たちが自らの意志で選択するはずがなかった 。
「カルト」への入信は、従って、巧妙な罠と
マインド・コントロールによって騙された結果であるに違いないという予断と言説が生まれ
ていったのである。その意味で、反カルト運動は表面的には周辺社会からの統制運動、逸脱
を抑制する運動であるが、潜在的にはアメリカ・ナショナリズムの表現という性格を有して
いたのである。
4
事例研究(2)フランスとEU統合
同様のプロセスや特徴を、EU諸国で展開する反セクト・キャンペーン、特に通称「反セ
クト法」を成立させたフランスにも見ることができる。2001年6月、フランスの国民議
会は、上下両院での二年にわたる審議の後 、
「人権及び基本的自由を侵害するセクト的運動
の防止及び取り締まりを強化する2001年6月12日の法律」(2001年法律504号、通称「反
セクト法」
)(12) を成立させた。
この法律の目的は、表題及び以下の第1条に明記されている。
第1条:法的形態または目的の如何を問わず、活動に参加する者の心理的または身
体的依存状態を作り出し、維持し、利用しようとする目的または効果を有する活動
を続けるすべての法人は、以下に述べる犯罪のいずれかについての刑事上の確定し
た有罪が、法人そのもの、あるいは法人の法律上または事実上の幹部に対し宣告さ
れたときは、本条の定める手続きに従い、解散が宣告されうる。
つまり、第一に、この法律でさす「セクト」または「カルト」とは、
「法的形態または目
的の如何を問わず、活動に参加する者の心理的または身体的依存状態を作り出し、維持し、
利用しようとする目的または効果を有する活動を続ける団体」であること。
第二に、この法人、あるいは幹部が刑法に定める犯罪や不法医療行為、虚偽広告罪を犯し
て有罪の判決がなされた場合、直ちに当該団体を解散できることが、定められた。
他の条項では、上記の有罪判決を受けたとき、その法人を宣伝する行為を青年に向けて行
った場合は、5万フランの罰金を科せられること。また、議会及び政府は「精神操作」「洗
脳」という用語の使用に対する国際的世論からの批判に鑑み、そうした用語と関連する罪の
項目を削除したと主張しているが、形を変えた罰則規定が以下のように未だに残っている。.
第20条:無知・脆弱状態不当濫用罪
(11) J .T. Richardson, "Cult/Brainwashing Cases and Freedom of Religion", Journal of Church and
State, vol.33, no.1, Winter 1991.
( 12 )本法の成立過程と問題点については、小泉洋一「仏の『反セクト法』とその問題点 」
『中外日
報』第26211号、2001年7月12日、に詳しい。条文の日本語も小泉訳による。
-7-
未成年者、もしくは年齢、病気、身体障害、身体的欠陥、精神的欠陥、または妊娠
状態のため著しく脆弱な状態であることが明白な者または犯人にそれが認識される
者、もしくは重大または反復した圧力行為または判断を歪めうる技術の結果、心理
的または身体的依存状態にある者に対して、重大な損害を与えうる作為または不作
為を義務づけるために、そのものの無知または脆弱状態を不当に濫用することは、
3年の拘禁刑および250万フランの罰金に処せられる。
この法律それ自体の問題点の指摘をしている時間はないが、この法が「セクト」
「カルト」
と認定される宗教団体を集中的に取り締まり、解散に追い込むものであることはいうまでも
ない。法律の表題は、
「セクト「カルト」への差別的態度が現れていて、問題である。
「セク
ト」
「カルト」と認定された集団は、すべて基本的人権を蹂躙する集団であると断定されて
しまう結果を生む表現である。
どの団体が「セクト」「カルト」であるか、誰がどの様に決めるかが問題である。厳密な
司法手続きのみにおいて決定されるばかりでなく、政治的に決定される危険性もある。また、
法的規制の直接の対象とならなくとも、マスコミや世論においてセクトと断罪されることに
よって、社会から排斥され、抑圧される結果を誘導してしまう可能性もある。
この法案の形成過程で、既にそうした危険な影響が生じていたことがさまざまに指摘され
ている。この法案制定への動きがでてきた背景には、1994年のスイス及びカナダで太
陽寺院の信者53名が集団自殺を行い、翌95年には日本のオウム真理教によるサリ
ン事件が勃発した。こうした事件に驚愕したフランスでは同95年6月29日、フラン
ス議会が「セクト調査委員会」の設置を承認し、公式に調査・対応の検討を開始した。この
委員会はアラン・ジェスト( Alain Gest)議員を委員長とし、ジャック・ギヤルド(Jaques
Guyard)、ジャン‐ピエール・ブラト( Jean-Pierre
Brad)議員が主たる構成員となり、20人
の証人喚問、21時間に及ぶ密室審査が行われた。宗教研究の専門研究者は呼ばれなかった。
翌96年年1月10日には、
『フランスのセクト』(Les sects en France )と題する議会報告
書が公表されたが、そこには172のセクト名が列挙され、犯罪者組織と同様に有害で危険
な集団として断罪されていた。その一部をあげると、
エホバの証人、サイエントロジー教会、国際クリシュナ意識協会(ISKCON)
超越瞑想(TM)、統一教会、霊友会、崇敬真光、幸福の科学、神慈秀明会
創価学会インターナショナル
などであった。
この報告書は、公表される前にマスコミにリークされ、一大キャンペーンが社会的に展開
され、その過程でセクトへの不寛容で差別的な世論が形成された。列挙された宗教は、いず
れもが何らかの被害を受けることになった。一例を挙げれば、従来、慣行的に使用が認めら
れていた公会堂などの施設の利用を突然拒否されたり、料金を吊り上げられた。子供が学校
で、大人も近隣からセクト・メンバーとして忌避された。メンバーの学校教員が、校長など
から詰問や嫌がらせをされた、などの事例が指摘されている。
他方、一部の宗教団体に対する財政当局による厳しい財務調査や税法改正が行われ、税制
面での締め付けが始まった。1996年1月から、フランス税務当局は「エホバの証人」に
対し一年半に及ぶ税務調査を実施したが、その背景には、「エホバの証人」は免税を受けう
る礼拝団体(association cultulle )ではなく、上記報告で指摘された「セクト」であるとの認定
-8-
があった。この団体の多くの地方教会の内、二つのみが免税団体と認められたにすぎない。
1998年5月には税法が改正され、
「個人寄付」( hand donation, dons manuels)への課税規
定が強化されて、
「エホバの証人」(Jehova's Witnesses)に適用された。宗教団体への初めての
適用であった。その結果、彼らは過去5年間(1992−96年)の20万人以上の会員によ
る寄付金に、60%の課税がなされ、その税額は5000万ドルにのぼった。この費用をま
かなうための寄付にも、さらに60%の課税がなされることになり、明らかに税務面での締
め付けであった 。
「エホバの証人」はその不当性を裁判所に訴えたが、裁判所は逆に彼らの
教会基本財産の差し押さえや抵当設定を命令したのである。この課税措置は、小さなプロテ
スタント系教会( The Evangelical Protestant Church of Besancon)にも適用され、1994―9
7年の寄付金収入に対し、50万ドルの課税がなされた(13) 。
このように「反セクト法」の制定にいたる過程で、議会報告書の発表や国民議会での鳴り
物入りの審議、マスコミによるキャンペーンなどをとおして、セクトへの警戒感、嫌悪感、
忌避感情が深く国民のあいだに浸透した。そうした反セクト感情の定着を背景に、その「被
害」から国民を遠ざけるための「反セクト法」が制定されたのである。注目すべき諸事実は、
第一に、この一連の政治的キャンペーンで「セクト」と断定された団体は、いずれもが正統
派キリスト教会と異なる新宗教であること。第二に、この法案制定や反セクト・キャンペー
ンを積極的に推進したのは、主として左派系議院であり、警察・公安当局、カトリック教会
であり、さらに反聖職主義・反カトリックであったフリーメーソンも共同戦線を担っている
ともいわれている。
以上のことから、次のようにいえよう。第一に、フランスにおける反セクト運動や反セク
ト法の制定は、フランス革命によって成立した反聖職主義に基づくライシテ国家としてのフ
ランス、啓蒙主義的理想に基づく近代国民国家であるフランスを守ろうというナショナリズ
ムが背景にある。
第二に、世俗主義の強いフランスにおいては、一見すると世俗的ナショナリズムと見える
が、そこにはフランスが容認する伝統宗教と異なる宗教、従って、非フランス的な東洋系の
新宗教や少数派宗教を「セクト」と断罪して排斥しようとしている、少なくとも、そのよう
な結果を生みだす政治的行動が行われている。これは間接的な、または潜在的な宗教的ナシ
ョナリズムの表現と言える。換言すれば、非フランス的な文化を極力排除しようとする文化
ナショナリズムの一変形と言える。
第三に、このような動向が生じてきた背景には、移民によるムスリムの増大、グローバル
化の進展によって異文化の社会で生まれた新宗教がフランスにも多数展開しだしたことなど
によって、非フランス的な宗教文化が国内に増大しつつあることへの危機感が強まっている
(13)これらのフランスでの動向については、Newsletter of Human Rights without Frontiers (HRWF) ,
Brussel, 1998.9. Anual Report on International Religious Freedom for 1999, U. S. Department of State ,
1999.9. Religious Intolerance in France, ReligiousTolerance. org, 2000.10, その他のソースによる。
小泉洋一「フランスのセクト対策 」『中外日報』第26149号、2001年2月6日。同「フラン
スにおけるセクトと公法 」
『甲南法学』第40巻3・4号。中野毅「フランス国民議会の理性 」
『潮』
1996年6月号等を参照のこと。
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と考えられる。
第四に、この現象はEU統合の過程と深く関わっていると考えられる。EU統合が進展す
る過程は、冷戦構造崩壊後のグローバル化に伴う地域主義の勃興の一局面であるが、それは
まず加盟各国の経済的統合を進め、次には旧来の国民国家の境界を弱めて全体としての政治
的統合がめざされている。その過程が進展するにつれて、従来の国民的アイデンティティー
の再確認と再強化への要求、国民国家の枠がはずれた後の文化的結合への模索が始まってい
ると考えられる。もし将来、政治的境界がEU域内で完全に撤廃された暁きには、単一で同
質のヨーロッパ人が誕生するであろうか。現時点で言えることは、その可能性よりも、旧国
民、または近代国民国家に吸収される以前の古い民族的結合の必要性が再び叫ばれ、様々な
民族的アイデンティティーの模索と、新しいナショナリズムの勃興を引き起こしていく可能
性の方が強いように思われる。
5
結び
本稿における考察は 、
「カルト」
「セクト」と呼ばれた宗教運動に対する周辺社会や政府の
応答に焦点をあて、そうした動きの背景にある現代のグローバル化とナショナリズムの勃興
との関連をマクロな視角から検討しようとしたものである。そして、近代の初期においては
「世俗的」で「政治的」な性格をもった「ナショナリズム」が、当時の予想に反して、現代
において「宗教性」を再び強く持ち始め、その傾向は旧東欧圏やロシア、インドやスリラン
カなどのいわゆる発展途上国のみでなく、アメリカ合衆国やフランスなどの西洋先進国にも
間接的・潜在的な形態で展開していることを、
「反カルト/セクト・キャンペーン」の分析を
通して明らかにしようとした。それはとりもなおさず、宗教的ナショナリズムの台頭が反近
代や反グローバル化の産物ではなく、グローバル化の過程そのものに関連して生起すること
を明らかにすることでもあった。ロバートソンのグローカル化論の確認でもある。
以上の検討から、さらに現代におけるナショナリズムの諸相を図のように区分することが
できよう。世俗的―宗教的の軸は、ナショナリズムの表出が宗教的色彩や要素をともなって
いるか、否かという区分である。政治的―文化的の軸は、国民国家の形成のような政治的統
治権力の形成と結びついたナショナリズムの表出であるか、必ずしも国家的結合を標榜しな
い文化的ナショナリズムであるかの区分である。外側ほど、それぞれの要素が強くなる。こ
のマトリックスの中に、本稿で論議した種々のナショナリズムを位置づけると、その多様な
諸相の位置と特徴が見えてくる。
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ナショナリズムの諸相
世俗的
近代国民国家の
啓蒙主義的
ナショナリズム
日本人論
政治的
文化的
アメリカの反カルト運動
フランスの反セクト法
インドのヒンドゥ
・ナショナリズム
宗教的
ここに、これまでの検討で論じた事実、つまり宗教的ナショナリズムが途上国・先進国を
問わず強まっている事実を重ね合わせると、ここ四半世紀に世界的に見られる傾向は、図で
いえば右回りの方向に、つまり文化的宗教的ナショナリズムから政治的宗教的ナショナリズ
ムが強く噴出する傾向が読みとれる。この傾向が強まることは、各国間の対立に宗教的な性
格が強まり、急進化する危険性があることになる。
反カルト/セクト・キャンペーンの分析を通して、その方向に世界が動いていくことが明
らかになり、個人的には強い懸念を抱いていた。その矢先の2001年9月11日、イスラ
ム過激派によるものと考えられている未曾有のテロ事件がアメリカ合衆国で勃発した。この
事件はまことに悲しむべき、かつ驚愕的な事件であり、決して許すことのできない蛮行であ
る。多くのアメリカ国民だけでなく、日本人を含む多くの無関係な人々が犠牲となった。
われわれの身近なところにも犠牲者を生んだこの出来事に、筆者はグローバル化時代の危
険性を強く感じるとともに、アメリカ合衆国において「宗教的ナショナリズム」が政治的に
強烈に形成されていく過程を目の当たりにし、さらに憂慮の念を深めている。宗教的ナショ
ナリズムが国家や軍事力などの強制権力、いわゆる広い意味での暴力装置と結びついたとき 、
その攻撃力は強大となるからである。アメリカ政府は、イスラム教との戦いではないと強調
しているが、アメリカ社会に住むイスラム教徒と見なされた人々が敵として攻撃され始め、
アメリカはキリスト教国であるという自覚が一気に高まった。他方、オサマ・ビンラディン
ひきいるアルカイーダやアフガニスタンのタリバン政権は「十字軍に対する聖戦(ジハード)
」
だと強調し始め、政治的な宗教的ナショナリズムの拡大をねらっている(2001年10月)
。
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このテロ攻撃は自爆テロというスタイルから言って、明らかに宗教的「殉教」行為である
とともに、他者の死や犠牲を宗教理念で正当化してしまう最も狭隘でエゴイスティックな行
動パターンとなっている。この目的のためには手段を選ばず、他者の死も当然とする主張と
運動を、原理主義一般と区別して「過激派」ととらえる必要があることはいうまでもない。
その上で、こうしたテロ行為を発生せしめた歴史的政治的さらに宗教的背景を改めて深く考
えると、過激派に限らず、イスラム世界の多くの人々が反米・反西欧という政治的宗教的ナ
ショナリズムに共鳴し、ますます強く主張しだしている事実を直視しなければならない。そ
して、そのイスラム・ナショナリズムを刺激した要因は、中東和平の行き詰まりや先の湾岸
戦争での聖地冒涜という宗教的批判が個別具体的には主張されているが、遠因としては、中
東をいつまでも支配し続けようとする欧米の植民地主義にあり、さらに冷戦崩壊後のアメリ
カ合衆国主導による「グローバル化」への批判があることを、自省の念を持って認識しなけ
ればならない。
このような宗教的ナショナリズム同士の対立や対決が進展すれば、ハンチントンが主張し
た「文明の衝突」(14) が現実のものとなる危険性がある。この危険な罠に西洋世界もイスラム
世界も陥ることなく、両者の伝統の一角に流れる宗教的寛容の精神と慈愛の精神を思い起こ
して共生の世界を構築するために行動することを祈ってやまない。同時に、われわれの日本
国家は、そしてわれわれ日本人は、どのような立場で何を主張し、どう行動するかという「当
事者性」が、またもや鋭く問われている問題であることを忘れてはならないだろう。
補注:本稿は国際宗教社会学会メキシコ大会(2001年8月23日)、および日本宗教学会
第60回大会(2001年9月16日)における報告に加筆修正したものである。
(14) Samuel P . Huntington , The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order , Simon &
Schneider, 1996 (邦訳『文明の衝突』集英社、1998年).
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