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アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及 - DSpace at Waseda

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アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及 - DSpace at Waseda
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社学研論集 Vol. 22 2013年9月
論 文
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
― 共和党急進派 C. Sumner の反奴隷制論に焦点をあてて ―
小 池 洋 平*
はじめに
は異なる主張がなされている。それは合衆国憲
1.奴隷制廃止論者 Charles Sumner
法が奴隷制を認めていないという主張である。
1.1 出生から Harvard 大学時代
1.2 法学研究者としての Sumner
このように合衆国憲法に反奴隷制的特徴を見い
1.3 ヨーロッパへ
だす立場は,今日の目から見ると,すでに合衆
1.4 反奴隷制論者として
国憲法によって奴隷制が禁じられているなら
2.Sumner の反奴隷制論
ば,なぜ修正第13条を制定する必要があったの
2.1 独立宣言と奴隷制
かという疑問を生じさせる。
2.2 州内の奴隷制に介入する連邦権限
2.3 人間所有の不当性
南北戦争が勃発する前の時代の反奴隷制
2.4 自由労働観念
論者を合衆国憲法へのアプローチの差に着
むすびにかえて
目 し て 分 類 す る William Wiecek は, 合 衆 国
はじめに
合衆国憲法修正第13条(以下では単に修正第
13条と記す)が奴隷制を禁じていることは良く
知られている。しかし,合衆国憲法によって奴
隷制を禁じることの意味は,単に奴隷制を廃止
憲法を親奴隷制的文書として捉えたギャリ
ソ ン 派(Garrisonian) と, そ れ を 反 奴 隷 制 的
文書として捉えた穏健的立憲主義(moderate
constitutionalism) お よ び 急 進 的 立 憲 主 義
(radical constitutionalism) に 区 分 し て い る(3)。
このギャリソン派の論者が憲法を修正しようと
すること以上のインパクトを持っている。なぜ
するのは理にかなっている。しかし,穏健的立
ならば,合衆国の建国以前から存在した奴隷制
憲主義者と急進的立憲主義者については,憲法
は,合衆国憲法を筆頭に様々な法制度によって
修正は必然的ではない。そうであるならば,修
下支えされていたからである(1)。
正第13条制定の立役者がギャリソン派の論者で
今日において合衆国憲法それ自体が奴隷制
あったかというと,そう簡単に評価することも
を「暗に」認めていたという評価が一般的であ
できない。ギャリソン派というラベルの由来と
(2)
る 。しかし,奴隷制廃止論が全国的に高まり
を見せた1830年代を見てみると,今日の常識と
も な っ た William Lloyd Garrison は, 奴 隷 制 を
認める合衆国憲法を否定すると同時に,そのよ
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程4年(指導教員 西原博史)
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
107
うな合衆国憲法によって設立された合衆国政府
うに,「法の下の平等」は修正第13条ではなく,
をも否定していた。それゆえ,Garrison は連邦
1868年に制定された修正第14条で規定されてい
議会による立法・憲法修正という解決ルート
る。すなわち現在の修正第13条審議のなかで
を採用しなかったからである[小池 2011: 135-
Sumner 案は特異なものであった。
138]。むしろ修正第13条案は,Salmon P. Chase
2つ目の理由は,Sumner を合わせ鏡とする
のような穏健的立憲主義者に分類される人々と
ことで,他の反奴隷制論者の主張の意味を明
共に活動した共和党員らによって支持されてい
らかにすることができるからである。反奴隷
た。
制論者としての Sumner について,これまでい
南北戦争後に修正第13条が可決に至ったこと
(4)
は「偶然の産物」であったかもしれない 。た
しかに,南北戦争の戦況と修正第13条案審議は
密接に結びついている。しかし,たとえ「偶然
くつかの先行研究が光を当ててきた。なかで
も,Ann-Marie Taylor による研究は示唆に富ん
でいる。Taylor は,Sumner が連邦上院議員にな
るまでの時期に主に焦点をあて,彼がギャリソ
の産物」であったとしても,修正第13条案の審
ン派を理解し,急進的立憲主義者に分類される
議はアンテ・ベラム期における奴隷制を巡る議
Lysander Spooner の主張に親近感を抱きながら
論を前提としている。そこで,修正第13条の審
議内容を検討するまえに,それ以前の理論状況
を整理し,検討しておく必要がある。
も政治システムを通じて奴隷制廃止を目指した
と分析している[Taylor 2001: 202]。このよう
に評価される Sumner は,各反奴隷制論者を比
そこで本稿では,南北戦争の最中である1864
較するために有用な素材となりうる。
年2月8日に「すべて人は法の下に平等であ
3つ目の理由は,Sumner と Chase の政治的
り,それゆえ人は他人に奴隷として所有される
ことはなく,そして,連邦議会はこの条文を合
衆国内およびその管轄下にあるいかなる場所
において達成するためのあらゆる法律を制定
することができる(5)」という憲法修正案を議会
な結びつきの強さである。後に述べるように,
Sumner は,Chase が中心となって立ち上げた
自由土地党(Free Soil Party)に参加し,共和
党が結成されると両者ともこれに参加してい
る。 ま た,Sumner が Chase の 反 奴 隷 制 論 を 高
に提出した Charles Sumner 連邦上院議員(マサ
く評価していたという指摘もある[Foner 1995:
る。Sumner を素材とする理由は3つある。
じて,共和党の理論的土台を作ったと評価され
案のユニークさである。実際に制定された修正
これら3つの理由の根底にあるのは,各論者
チューセッツ州選出)の反奴隷制論を検討す
82]。このことから,Sumner の反奴隷制論を通
1つ目の理由は,先にあげた Sumner の修正
る Chase(7)と有用な合わせ鏡となりうる。
第13条の文言と比較すると,Sumner 修正案に
の政治的立場決定を明らかにするための補助線
は奴隷制が「法の下に平等」であるがゆえに禁
をただ単に引こうとするだけではない。むし
じられている。しかし,他の共和党員からださ
ろ,各論者の反奴隷制論の根拠を合衆国憲法と
れた修正案には「法の下の平等」という文言が
の関係で明らかにしようとするものである。こ
(6)
登場していない 。そして良く知られているよ
の分析を進めるにあたって,本稿では人間所有
108
の不当性,州内の奴隷制を廃止する連邦政府権
ルへ入学したことは,彼の後の人生において重
限,そして自由労働観念という3つの観点を設
要な意味をもつ[Marzen 2010: 613]。なぜなら
ば,Sumner が入学する前年に当時合衆国最高
定する。
裁判事であった Joseph Story が同校の Dane 講座
1.Charles Sumner
の教授に着任しており,彼の指導の下で法学研
1.1 出生から Harvard 大学時代
究をする機会を得たからである。
Sumner は1811年1月6日にマサチューセッ
Story は,個々の判例ではなく,法の歴史や
Pinckney Sumner は,Harvard 大学を卒業後に弁
Story が1833年に公刊した Commentaries on the
ツ州ボストンで生まれた(8)。彼の父親 Charles
護士として生計を立てていたが,その収入は
決して多いものではなかった。実際に Pinckney
一 家 が 住 ん で い た の は, ボ ス ト ン 市 内 で も
あまり裕福な人々が住む地区ではなかった。
哲学を講義のなかで強調していた(11)。実際に,
Constitution of the United States では歴史的
記述に多くの分量が割かれている(12)。
Story の下で法学を学んだ Sumner は,ロー・
スクール卒業後の1834年にワシントンへ政治の
Sumner は,読み書きを伯母の私塾で習い,本
舞台を見学しに行く。反奴隷制論との関わりで
ようになった。Sumner が10歳のとき,父親の
るメリーランド州を通過し,そこで奴隷制を
る。Sumner はこの学校へ5年間通い,ラテン
29]。この旅行をきっかけとして,Sumner は奴
を読むことに興味を持ち,ラテン語を独学する
Pinckney は彼を Boston Latin School へ入学させ
(9)
重要なのは Sumner がこの旅行中に奴隷州であ
目の当たりにしたことであった[Donald 1970:
語で書かれた古典を読むこととなる 。
隷制に関して調べるようになる。もちろん,当
家計が苦しかったことから,Pinckney は当初
時 Garrison がボストンで the Liberator を発行
Sumner を College へ進学させる予定ではなかっ
しており,Sumner もこの新聞を目にしてはい
た。しかし,1826年に Pinckney が Suffolk 郡の保
た。さらに,1835年にボストンで Garrison が暴
れた。そのため,Sumner は同年9月に父親の
親 Pinckney は,当時保安官を勤めており,この
安官に任命され,経済的にすこし余裕がうま
徒に襲撃される事件が発生した。Sumner の父
出身校である Harvard College に入学することが
事件へ対応した。そして,Garrison は Pinckney
学,芸術,道徳哲学などに興味を持ち勉学に
者の間に交流が生まれた(13)。ただし,Sumner
で き た。Harvard College 時 代 の Sumner は, 文
励んでいた。そして Sumner は1830年に Harvard
の対応が紳士的であったとして彼へ感謝し,両
自身は Garrison と親しくしていたわけではな
University を卒業した。[Taylor 2001: 29-37]
い。[Taylor 2001: 57-77]
1.2 法学研究者としての Sumner
後約3年間に渡って Sumner は弁護士として活
大 学 卒 業 後 の1830年 秋,Sumner は, 父 と
同 じ く 弁 護 士 に な ろ う と 志 し て Harvard Law
(10)
School に入学する
。Sumner が同ロー・スクー
ワシントンへの旅行から帰ってくると,その
動しはじめる。加えて,Sumner は the North
American Review などの雑誌に法律記事を寄
せたり,連邦巡回裁判所の記録係(reporter)
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
に任命されたり,Harvard Law School で主に証
拠法(the Law of Evidence)の講師を勤めたり
弁護士活動以外にも多忙な日々を送っていた。
[Taylor 2001: 54-74]
1.3 ヨーロッパへ
1837年に Sumner は,学問を修めて見聞を広
めるために,ヨーロッパへ旅立つ。11月25日に
ボストンを出発し,ニューヨーク経由で12月下
旬にフランスの Le Havre へ到着した。到着し
109
テーマであったが,Sumner はこれに不賛成で
あった。そして,Sumner は,多様な反奴隷制
論の共有可能な原理について考えるようにな
[Taylor 2001: 167-175]
る。
Sumner の反奴隷制思想について,反奴隷制
論者であった父親 Pinckney の影響で彼が自然
と反奴隷制的感情を有していたことが指摘さ
れている[Taylor 2001: 74]。また,ボストンで
Garrison が反奴隷制新聞である the Liberator
を発刊しているが,Garrison の扇動的な言葉
たその日に Sumner は市場で女性が重労働をし
づ か い に Sumner は 好 意 的 な 印 象 は も っ て い
スの根本的な差異を感じた。その後 Sumner は,
Garrison が Sumner に与えた影響の程度につい
イタリアに足を運んだ。[Taylor 2001: 88-125]
葉を検討する必要がある。
人種平等を実際に「体験」してきたことは注目
独立記念日の式典における The True Grandeur
ているのを目の当たりにし,アメリカとフラン
1840年5月にボストンに帰るまで,イギリスと
な か っ た[Donald 1981: 111]。 こ れ ら 父 親 や
ては推測の域を出ておらず,Sumner 自身の言
奴隷制との関係では,Sumner がフランスで
Sumner にとって転機となったのは,1845年の
に値する。なぜならば,後に Sumner が平等に
of Nations という演説であった[Orations vol. 1:
ついて語る際,「フランスでは有色人種の若者
が大学で最も高い名誉をうけ,そしてあたかも
彼らが白人であるかのように歓迎されていた。
1-130]。この演説を通じて,Sumner の演説能
力の高さが評判になった。さらに Sumner 自身
もこの才能に気付き,以後演説活動を活発に行
ロースクールでも私は彼ら有色人種と同じ椅子
うようになる。翌年の1846年9月23日,ホイッ
に座っていた」というエピソードが登場してい
グ党マサチューセッツ州大会において Sumner
るからである[Complete vol. 1: 161]。
1.4 反奴隷制論者として
Sumner は,ボストンに戻りしばらくしてか
は,Antislavery Duties of the Whig Party と 題 さ
れた演説(以下では単に Duties 演説と記す)を
行 う[Complete vol. 1: 303-316]。 当 時 の マ サ
チューセッツ州議会ではホイッグ党が長年与党
ら,弁護士としての活動を再開する。そして,
の座についていたことから,政治的な硬直状態
ボ ス ト ン 市 の 教 育 委 員 会(school committee)
にあった。そして,この硬直状態にしびれを切
開かれた反奴隷制集会に Sumner は参加する。
71-72]。この演説で Sumner は,ホイッグ党が
の委員などを勤めていた。1845年ボストンで
Sumner にとってこの時が公の反奴隷制集会に
らしたのが反奴隷制論者であった[田中 2000:
関税や銀行という論点に集中するのではなく,
参加したおそらく最初の時であった。この集会
奴隷制の廃止を党是として掲げるべきだと主張
では Garrison が主張していた北部連邦離脱論が
する[Complete vol. 1: 304-305]。
110
Sumner は, ホ イ ッ グ 党 の な か で も 反 奴 隷
奴隷制を認めるルコンプトン憲法が採択される
員 ―― のリーダーとなっていた。そして,ホ
演説のなかで Douglass と同じく連邦上院議員
制論をとなえる人々 ―― 良心的ホイッグ党
イッグ党という枠組を超えた政治的連合を
Sumner は求めていた。その頃,オハイオ州で
と い う 大 混 乱 を 招 い た(17)。Sumner は,Crime
Andrew Butler(サウスカロライナ州選出)を
このような混乱の元凶として,サンチョ・パン
は奴隷制に対して態度を明確にしないホイッグ
サとドン・キホーテに例えて,激しく非難し
党に限界を感じていた Chase もまた新たな反奴
た(18)。この演説の3日後,Butler の親戚の連邦
隷制政党を求めていた。Chase と Sumner は手紙
下院議員 Preston S. Brooks は,Sumner の頭部を
立ち上げた際に,Sumner が協力することを確
の時に重傷を負い,1859年12月まで上院を欠席
土地党が立ち上がると Sumner は,この動きを
Sumner は奴隷制に反対すること以外にも,
参加する。1848年選挙のとき,Sumner は自由
実際に表れているのは,ボストン市の公立学校
しかし,1850年選挙で Sumner はようやく連邦
Roberts v. City of Boston(1850)である(20)。この
連邦上院議員となった Sumner は反奴隷制論
の平等を定めるマサチューセッツ州憲法下にお
を議会で展開し,その結果自らが暴行事件の被
いて,このような制度は許されないと主張し
害 者 と な っ た。1856年 に Sumner が The Crime
た。1837年 の Matilda v. Larkin Lawrence 事 件 を
でやり取りをし,Chase が新しく自由土地党を
認した[Taylor 2001: 246]。Chase を中心に自由
(14)
賞賛する演説を行い
,自身も自由土地党へ
(15)
土地党の候補者になることができなかった
。
上院議員に選出された[田中 2000: 83]。
杖の持ち手で激しく殴りつけた。Sumner はこ
せざるを得なくなった(19)。
人種間の平等についても主張していた。それが
における人種別学制度が問題となった Sarah C.
事件で Sumner は原告の弁護人として,法の下
against Kansas(以 下 で は 単 に Crime 演 説 と 記
はじめとする逃亡奴隷事件で逃亡奴隷側の弁護
ンザス・ネブラスカ法は,住民主権(popular
わったこの事件の性質はずいぶん異なっている
(16)
す)と題された演説を行った
。1854年のカ
人をつとめた Chase と比較すると,Sumner が携
sovereignty)原理に基づいて,これら地域が奴
[小池 2012b: 232-235]。この差には単純に地
いた。この住民主権の主唱者であった民主党
ハイオ州の Cincinnati という奴隷州(ケンタッ
隷制についてどうするかを住民の決定に委ねて
所属の連邦上院議員 Stephen Douglass(イリノ
理的な原因を考えることができる。Chase がオ
キー州)との境の地で活動した一方,Sumner
イ州選出)は,南部に近いカンザス地域の住民
が活動したボストンは奴隷州から離れていた。
が奴隷制を認めるであろうと目論んでいた。と
そのため,Sumner よりも Chase の方が逃亡奴隷
ころが,奴隷制に反対する北部の人々がカンザ
ス地域に移住した結果,州憲法で奴隷制を認め
事件は身近な問題であった。ただ,Sumner が
Roberts 事件で人種間の平等を訴えた際,彼自
るか否かを巡って奴隷制反対派と奴隷制擁護派
身がヨーロッパでこの平等を体験してきたとい
が激しく対立し,奴隷制を認めないトピーカ憲
うことも大きな要因でもあった。
法がまず採択された。その約2年後には,逆に
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
2.Sumner の反奴隷制論
2.1 独立宣言と奴隷制
111
いた45年に Chase が行った To The People of The
United States 演説(以下では単に To The People
演説と記す)では,平等それ自体を否定しては
アンテ・ベラム期の反奴隷制論者の多くが
いないが,人種間の平等を訴える部分は確認で
独立宣言を反奴隷制的文書として認識してい
きない(23)。
た(21)。Sumner もその例に漏れない(22)。しかし,
また,独立宣言の起草者と合衆国憲法の起草
独立宣言の「すべて人は平等に造られ,生命,
者との間で奴隷制にかんする考え方の連続性を
自由及び幸福追求を含む,一定の奪われること
巡っては対立があった。そしてこの論点は,合
のない権利を創造主によって,与えられてい
衆国憲法が奴隷制を認めているか否かの立場決
る」という「自明の真理」から導き出される人
定に影響を及ぼしている。
種間の平等に関わる結論については差がある。
Garrison や Phillips は, 独 立 宣 言 で「自 明 の
Garrison の場合,独立宣言の諸原理を足がか
真理」を謳い上げた人々が妥協した結果,合衆
りとしながら,有色人種にたいしても白人と同
国憲法が出来上がったという見方を提示してい
様に登用・経済的向上・向学の道が開かれな
る。つまり,独立宣言と合衆国憲法では奴隷制
くてはならないと論じる[アメリカ学会 1953:
にかんする考え方が連続していないと彼らは
近い。Duties 演説において Sumner は,独立宣
Chase は,合衆国憲法の起草者たちは独立宣言
な真理,特に「すべて人は平等に造られ」たと
制問題を回避するような工夫をした結果,合衆
いう偉大(great)な真理を具体的に表現したも
国憲法が制定されたのだと捉えている[Chase
という観点を強調する Sumner の主張は,人種
宣言と合衆国憲法で奴隷制にかんする考え方は
487-488]。Sumner の 主 張 は Garrison の 立 場 に
言で「自明の真理」が自由という肝要(vital)
のであると論じる[Complete vol. 1: 305]。平等
捉えていた[小池 2011: 138-139]。その一方で
で謳い上げた自由をもとに,連邦レベルで奴隷
1847: 39-40]。つまり Chase のなかでは,独立
間の平等を前提としている。この演説の前年,
連続したものである。
Sumner はマサチューセッツ州 New Bedford で活
Sumner は,1848年6月にマサチューセッツ
動する団体から講演を依頼された。しかし,こ
州で行った演説(24)で,建国時に奴隷制につい
の団体が有色人種にメンバーシップ及び講演
て穏健的な形で留保されていたと述べる。そ
会のチケット販売を拒否していることを知っ
して Sumner は,時代を経て奴隷主権力(Slave
た Sumner は, こ の 団 体 に 対 し て Equal Rights
Power)―― 奴隷制の永続と拡大,奴隷主の地
in the Lecture-Room と 題 さ れ た 手 紙 を 送 っ て
位向上に駆り立てられた人々と政治家のコンビ
中 で Sumner は, 自 由 に か ん す る 極 め て 重 要
によって,その留保が崩されてしまい,合衆国
差別を批判しているからである[Complete vol.
[Complete vol. 2: 226-232]。Garrison の立
る(25)
い る[Complete vol. 1: 160-162]。 こ の 手 紙 の
ネーション ―― が合衆国政府を牛耳ったこと
(cardinal)な真理が平等であり,肌の色による
政府が公然と奴隷制を支持してしまったと述べ
1: 161]。その一方で,Sumner がこの手紙を書
場からするとこの穏健的な留保こそが奴隷制
112
との妥協であると評価されるだろう。しかし
衆国憲法第4条2節3項のいわゆる逃亡奴隷条
Sumner は,この留保こそ憲法起草者たちが奴
項について,ここでは「人(person)」と書か
隷制を認めていなかったことの表れであると捉
れており,「財産」―― すなわち奴隷 ―― と書
える[Complete vol. 2: 231]。
かれている訳ではないと論じる[Complete vol.
Sumner は Barbarism of Slavery と 題 さ れ た 演
説において,合衆国憲法が奴隷制を認めてい
るという親奴隷制論者の主張に対して,合衆
6: 229]。
さらに Sumner は,逃亡奴隷条項が奴隷制を
示唆していないだけでなく,積極的に奴隷制
国憲法が制定される以前の2つの国家的宣言
を禁じている条項であると理解する。その根
(national declaration)を引き合いに出して批判
拠は,合衆国憲法案を審議した大陸会議にお
(26)
する。その1つが独立宣言であった
。そし
て,Sumner による独立宣言への依拠の仕方は,
合衆国憲法を解釈するときに1つの参考とすべ
(27)
き建国者たちの意図を表したものであった
。
それが可能なのは,独立宣言の起草者も合衆国
憲法の起草者も同じ哲学の下でそれらを作り上
い て, 逃 亡 奴 隷 条 項 に「servitude」 で は な く
「service」という言葉が用いられたことである。
Sumner は,James Madison が「servitude」 と い
う言葉を奴隷の状態と捉えていたのに対して,
「service」は通常の自由人が行う仕事と捉えて
いたことを指摘する。それゆえ,この逃亡奴隷
げたとの理解を Sumner が踏まえていたからで
条項は奴隷制を認めていないだけでなく,起
あった。
草者たちが意図的に奴隷制を合衆国憲法から
独立宣言と合衆国憲法の起草者たちの意
排除しようとしており,反奴隷制的性格がこ
図を巡るこのような対立を受けて,Lysander
の条項には含まれていると Sumner は主張した。
Spooner は,合衆国憲法を自然権に有利になる
Spooner は,この「service」の意味を Sumner の
果として合衆国憲法が奴隷制を認めているどこ
的には様々な人の仕事を意味しているとして,
ろか,むしろ反奴隷制的文書として捉えるこ
奴隷と関連づける必然性はないと論じている
とができると主張していた[小池 2012a: 145-
[Spooner 1860: 45]。また,この逃亡奴隷条項
立宣言や合衆国憲法の起草者たちの意図を考慮
いる。Chase も逃亡奴隷法の憲法適合性が問題
ように解釈すべきであると述べ,その解釈の結
147]。Spooner の憲法解釈方法では,理論上,独
する必要がない。
Sumner は,独立宣言以外の根拠でも合衆国
ように解釈せず,「service」という言葉が一般
にかんする Sumner の解釈は,Chase と共通して
となった1847年の Van Zandt 事件における弁論
で既にこの言葉の使い分けを根拠に,逃亡奴隷
憲法の反奴隷制的性格を描き出している。人間
条項が奴隷制を想定していない条項であると論
に対する財産権が合衆国憲法上認められている
じていた[Chase 1847: 40]。
という言説に対しては,合衆国憲法にはそのよ
うな言説を示唆する言葉は1つも無く,単なる
2.2 州内の奴隷制に介入する連邦権限
思い込みにすぎないと言っても過言ではないと
合衆国憲法が奴隷制を禁じているとすると,
Sumner は主張する。たとえば,Sumner は,合
連邦政府が州内の奴隷制を廃止できるか否かが
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
113
次に問題となる。修正第13条が制定されたとい
や逃亡する奴隷を手助けした者の弁護人とし
う事実を既に知っている今日の人々から見れ
て,反奴隷制論を展開していた(29)。Chase が対
ば,反奴隷制論者たちが連邦議会にこのような
逃亡奴隷法という文脈のなかで奴隷制にかんす
権限を認めていたと推測するかもしれない。し
る連邦議会の権限を認めなかったことからする
かし,反奴隷制論者の間ではこの点について対
と,州内の奴隷制を廃止する連邦議会の権限を
立が確認できる。
認めることは困難である。
州権を否定し,連邦議会に州内の奴隷制を廃
実は Sumner もまた,対逃亡奴隷法を批判す
止する権限を認めていたのは Spooner である。
る文脈で連邦議会の権限を否定している。それ
を提示する。そして,奴隷制を認めていない合
連邦上院議会で Sumner が行った The Demands
Spooner は,州市民権に優位する合衆国市民権
が最もよく表れているのは,1855年2月23日に
衆国憲法上,奴隷であっても合衆国市民であ
of Freedom と題された演説である(30)。ここで
り,その合衆国市民には等しく合衆国憲法が保
障されていると論理を組み立てる。ここでは
明確に州権が明示的に否定されている[小池
Sumner は,1850年逃亡奴隷法が州権にとって新
たな脅威となっていると論じる[Complete vol.
4: 337]。Sumner のこのような主張は,彼が連
2012a: 230-231]。
邦議会の権限という論点に立ち入る前にこの議
に州内の奴隷制を廃止する権限が存在しないこ
Chase ―― の名前を挙げていることから,基本
しかし Garrison は,合衆国憲法上,連邦議会
論を打ち出したオハイオ選出の大切な友達 ――
とを承認する。Garrison の場合,この承認は,
的には Chase の主張を下敷きにしたものである
彼の合衆国憲法観 ―― 合衆国憲法は奴隷制を
認めている ―― と整合的である(28)。
ことが確認できる[Complete vol. 4: 336]。
Chase も,すくなくとも建国時に既に奴隷制
2.3 人間所有の不当性
を認めていた州に対しては,そのような連邦議
反奴隷制論者たちが考える奴隷制の要素は,
会の権限は及ばないと考えていた。なぜなら
修正第13条が具体的に何を否定しようとしたの
ば,合衆国憲法上,連邦議会には奴隷制にかか
かを検討する際の素材となりうる。1860年の
わる一切の権限を与えられていないからである
Barbarism 演説で Sumner は,奴隷制の要素をい
[小池 2012b: 237-239]。Garrison とちがって合
衆国憲法それ自体を否定しない Chase にとっ
て,合衆国憲法上奴隷制が禁じられているにも
かかわらず,なぜ州内の奴隷制については許
容されるのかという深刻な問題が生じている。
Chase のこのような見立てにつき,連邦法レベ
ルで1793年逃亡奴隷法が制定されていた当時の
状況を踏まえる必要がある。特に Chase の場合,
彼自身が逃亡奴隷法にかんする裁判で逃亡奴隷
くつかあげている(31)。
たとえば Sumner が指摘するのは,婚姻の破
壊(abrogation of marriage) で あ る。 一 夫 多 妻
性を認める奴隷制が婚姻の神聖さと civil power
による契約という側面を損なうものであると
論じる[Complete vol. 6: 132-133]。また,この
要素は,Sumner がそれ以外の要素としてあげ
る,「親子関係の破壊(abrogation of the parental
relation)」と関連している。奴隷制において本
114
来神聖な親子関係が奴隷主の恣意的な支配下に
を所有する観念を明確に否定する[アメリカ学
置かれ,母親の腕の中から奴隷競売人のハン
会 1953: 488]。すなわち,人間が財産として所
マーの下に置かれ,無に帰され(nought)てし
有されていることは,反奴隷制論者たちの間で
まうと Sumner は指摘する[Comple vol. 6: 134]。
は共通性の高い奴隷制の要素であった。
る見方は,Chase の To the People 演説のなかで
2.4 自由労働観念
によって1833年の段階で明確に問題視されてい
の「労 働 の 成 果 す べ て を 横 領 す る こ と(the
このような家族関係の破壊を奴隷制と結びつけ
は表に出てこない。しかし,この点は Garrison
Sumner は Barbarism 演 説 に お い て, あ る 者
る。Garrison 自らが起草した「反奴隷制協会大
appropriation of the toil)」を奴隷制の要素とし
American Anti-Slavery Society)」 で は, 奴 隷 の
要な位置を占めている。なぜならば Sumner は,
題を訴えている[アメリカ学会 1953: 483-490,
働かせるという単一の目的のために用いられて
Sumner が指摘する要素のなかには,家族関
137]。また,Sumner がこの演説で奴隷制が引
会の信条宣言(Declaration of Sentiments of the
家族が奴隷主によって破壊されていることの問
485]。
ても指摘する。この要素は Sumner のなかで重
奴隷制の諸要素が自分たちの仲間を報酬無しに
いると捉えているからである[Complete vol. 6:
係の破壊というような一部の反奴隷制論者のな
き起こす現実的結果を明らかにする時に,自由
かで重視されていない要素もあるが,共通性
労働(free labor)の価値の低下が生じていると
の高い要素もある。それは人間に対する財産
権(property in man)である。自然法の下で人
も述べる[Complete vol. 6: 142]。
こ れ は,Eric Foner が 共 和 党 の 中 核 的 イ デ
間は自分自身に関する生来の権利を付与されて
オロギーとして描き出した自由労働観念を
おり,奴隷制のように人間を家畜や物として
Sumner も共有していたことを示唆している。
捉えることは,この自然法を否定することで
(32)
この自由労働観念とは,「単に労働に対する態
あると Sumner は論じる [Complete vol. 6: 131-
度だけでなく,アンテ・ベラム期の北部社会
性が争われた Jones v. Van Zandt(1847)におい
労働の適正な対価を得ることの重要性を意識
間=財産という定式が成り立たないという発言
でこのような権利が存在していることは,他
を引き合いに出し,奴隷=財産という定式を否
の反奴隷制論者の主張にも確認できる。たと
132]。Chase は,1793年逃亡奴隷法の憲法適合
(33)
て
,James Madison が合衆国憲法のもとで人
(34)
定していた
。また Spooner は,奴隷制の本質
を正当化するもの」であり,労働者が自己の
したものであった(35)。少なくとも自然法の下
えば Garrison は,いかなる人にも「労働の成果
を「人間が財産として所有されている」こと
を取得する権利」があると述べる[アメリカ
であるとストレートに表現している[Spooner
学会 1953: 478; 486]。また,Spooner の場合も,
1860: 69]。 さ ら に Garrison も, さ き に あ げ た
自然的正義(natural justice)のもとで労働によ
隷を無償解放すべきだと主張するなかで,人間
[Spooner 1860: 6; 小池 2012a: 148-149]。さらに
「反奴隷制協会大会の信条宣言」において,奴
る財産獲得が保障されていると考えられていた
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
Chase も,自らが考えた自由土地党の標語「Free
(36)
soil, Free labor, and Free Men
」からも明らか
115
この南北戦争下で Lincoln が奴隷解放予備宣
言及び奴隷解放宣言を出したことは良く知ら
なように,自由労働観念を有していた。
れている。しかしこれら宣言は,あくまでも
ただし,Chase と Sumner が共に共和党で活
大統領権限に基づくものであり,永続的な奴
労働観念がどのように構想されていたのか立ち
1996: 157]。そのため,連邦議会では奴隷制問
動したことを踏まえると,両者の間でこの自由
隷制廃止を保障するものではなかった[Kyvig
入って検討する必要がある。そこで,奴隷制か
題に関係する連邦法,そして憲法修正案につい
ら生じる実害についてそれぞれ論じている部分
て様々な議論が交わされた。これら議論におい
を比較してみたい。Chase は,奴隷制が労働の
て,Sumner をはじめとする反奴隷制論者たち
部分で Chase が指摘するのは,free laborer の労
していったのか。特にアンテ・ベラム期におけ
116]。つまり Chase は,奴隷州で奴隷を所有し
発展を遂げるのかについては,今後の課題とし
価値をおとしめていると論じる。そしてこの
が以前の主張をどのように発展させながら展開
働の価値低下であった[Chase/Cleveland 1867:
る自由労働や州権理論を巡る議論がどのような
ていない白人,特に貧しい白人の労働の価値低
たい。
下を問題視している。Sumner もまた,奴隷主
〔投稿受理日2013. 5. 25 /掲載決定日2013. 6. 27〕
が労働を拒否する奴隷制が存在する所では,白
人労働者が不平等な状態に置かれることを問
題視している。しかし Sumner の語り口は,「黒
注
⑴ さしあたり[田中 1968: 424-442]参照。
人たちにとって絶望が存在しているだけでな
⑵ たとえば[Finkelman 1999: 427-433; Chemerinsky
く」と訴えかえるものであった[Complete vol.
⑶ [Wiecek 1977: 15-16]Wiecek の区分につき[小
出すことによって,奴隷労働によって労働の尊
⑷ [Vorenberg 2001: 3]。 な お, こ の Vorenberg の 見
6: 143]。つまり両者とも,自由労働観念を打ち
厳それ自体が傷つけられていることを主張し
ている。しかし誰の尊厳かという点について,
Chase よりも Sumner の方が広い射程を明示す
るものであった。
むすびにかえて
Sumner が Barbarism 演説を行ってから約5ヶ
2006: 690-691; 小池 2012b: 229-231]参照。
池 2012b: 230]参照。
方を紹介するものとして[朝立 2010: 106]参照。
⑸ Cong. Globe, 38th Cong., 1st Sess. 521.
⑹ 他 の 共 和 党 員 か ら 出 さ れ た 修 正 案 に つ い て
[Zietlow 2012: 101]参照。
⑺ [Foner 1995: 75; 小池 2012b: 231]。
⑻ ちなみに,Garrison は1805年にマサチューセッツ
州ニューベリーポートで,Spooner は1808年に同州
Athol で,Phillips は1811年に同州ボストンでそれ
ぞれ生まれている。また,Chase は1808年にニュー
ハンプシャー州で生まれている。特に Phillips は,
月後,共和党の Abraham Lincoln が合衆国大統
Sumner と 同 じ Boston で 生 ま れ, 後 述 する よ う に
から脱退し始め,南部連合国が結成される。そ
School と Sumner と同じ学校へ通うこととなる。た
して,Lincoln が当選した約5ヶ月後には南北
Law School 時代まで Sumner と親しい交流はなかっ
領に当選した。これを機に,南部諸州が合衆国
戦争が勃発することとなる。
Boston Latin School,Harvard College,Harvard Law
だし,Phillips は裕福な家庭で生まれ育ったため,
た[Taylor 2001: 27]。
116
⑼ Sumner のライフ・ヒストリーにかんして,これ
� この点を指摘する先行研究は多いが,さしあた
的古いものとして[Donald 1970; Donald 1981]を
� [Marzen 2010: 609]。Sumner の著作・演説集を編
までいくつかの研究・伝記が存在している。比較
あげることができる。比較的最近のものとして
[Blue 1994] や[Taylor 2001; Marzen 2010] を あ
り[Tsesis 2004: 11-12]。
纂した Hoar はそのイントロダクションで,Sumner
の政治的黄金律が独立宣言と合衆国憲法であり,
げ る こ と が で き る。Donald や Blue に よ る 研 究 が
その合衆国憲法も独立宣言によって解釈していた
は Sumner が上院議員になるまでをそれまでの研究
� [Chase/Cleveland 1867: 73-125]。もちろん Chase
Sumner の一生を描き出しているのに対し,Taylor
を踏まえて詳細に検討している。
⑽ 1817年 に 創 設 さ れ た Harvard Law School は, 今
日のような巨大な組織ではなく,Sumner が入学し
た1830年の学生数は24名の比較的コンパクトな組
織であったと言われている[田中 1968: 277-280]。
⑾ [Taylor 2001: 51]。 な お 田 中 英 夫 は,Story の 講
義が「基礎法学的な科目は……いっさい省略され」
たと紹介している。ただし,この紹介はあくまで
も Story の理念的なものであって実際の講義とは
「若干の食い違いがあるように思われる」と留保が
ふされ,実際に行われていた講義について述べる
と述べる[Complete vol. 1: xvii]。
は「自明の真理」における平等そのものを否定し
ているわけではない。
� Union among Men of All Parties against the Slave
Power and the Extention of Slavery[Complete vol. 2:
226-240]。
� Sumner は,連邦政府を奴隷主権力から解放する
ことが奴隷制に反対する人々の責務であるとする
[Complete vol. 3: 2]。
� もう1つの文書は1783年に大陸会議で採択され
た「諸邦への呼びかけ(Address to the States)」で
ある。
ものではない[田中 1968: 279]。
� なお,南北戦争後の再建期議会において Sumner
書かれている[Taylor 2001: 51]。
理の具体化されたものであると述べている。合衆
⑿ 同書は Sumner が Story の下で学んでいたときに
は,憲法というものが起草者たちの考えていた原
⒀ Garrison が暴徒に襲われたいわゆる Boston Mob
国憲法は「彼ら〔起草者たち ―― 引用者註〕の再
1-72]参照。また,Pinckney に対する Garrison の感
42nd Cong., 2nd Sess. 825]。再建期における Sumner
につき[Garrison W./Garrison F. vol. 1: 468-522, vol. 2:
現(transcript)」であったのである[Cong. Record,
謝の言葉につき[Garrison W./Garrison F. vol. 2: 29]
の言説については今後の課題としたい。
⒁ Parties, and Importance of a Free-Soil Organization
[ Complete vol. 2 : 299 - 315]及び, Appeal for the
Free-Soil Party[Complete vol. 2: 316-319]参照。
� Garrison は,1833年 の 段 階 で, 連 邦 議 会 に 州 内
の奴隷制を廃止する権限はないことを認めている
[アメリカ学会 1953: 489]。
⒂ ちなみに,このときオハイオ州では Chase が自
� Jones v. Van Zandt 事件では合衆国最高裁で逃亡奴
⒃ Cong. Globe, 34th Cong. 1st Sess., Appendix, 529-
� [Complete vol. 4: 333-351]に収録。
由土地党所属の連邦上院議員に選ばれている。
544.
⒄ このいわゆる「流血のカンザス」事件について
[甲斐 2013: 129-134]参照。
⒅ Cong. Globe, 34th Cong. 1st Sess., Appendix, 531.
⒆ Sumner 暴行事件については様々な先行研究で
紹 介 さ れ て い る が さ し あ た り[藤 原 1960: 487;
McCormick 2007: 1519-1521]参照。
⒇ 59 Mass. 198. 当該事件につき[Wiecek 2007: 241]
参照。なお,マサチューセッツ州では1855年に公
立学校における人種別学を禁じる州法が制定され
た。これは奴隷制廃止論者たちによる勝利であっ
た[フォーナー 2008: 128]。
隷法が連邦議会の権限
� 以 下 本 文 で 取 り 上 げ る 要 素 の 他 に も Sumner
は,知識への門を閉じること(closing the gates of
knowledge)」を奴隷制の要素としてあげている。
奴隷たちは読み書きを禁じられており,それゆえ
彼らの精神も束縛されてしまっていると述べる
[Complete vol. 6: 134]。
� 1864年に連邦上院議会で Sumner は No property in
man と題された演説を行っている。本稿の射程は
アンテ・ベラム期の Sumner の言説にあるため,こ
の演説はここでは扱わない。
� 46 U.S. 215.
� [ Chase 1847 : 81]。他にも Chase は, Birney v.
アンテ・ベラム期における反奴隷制論の波及
Ohio(1837)において,憲法起草者たちが人間同
士の所有関係を認めないように慎重に逃亡奴隷条
項を練り上げたと述べている。この点につき[小
池 2012b: 234]参照。また,Chase の自由労働観念
につき[小池 2013: 152-156]参照。
117
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vol. 21,147-160。
田中きく代 [2000]『南北戦争期の政治文化と移民
―― エスニシティが語る政党再編成と救貧 ――』
(明石書店)。
� [Foner 1995: 9]辻内は,Foner の研究をふまえて,
田中英夫 [1968]『アメリカ法の歴史』(東京大学出
的独立や自己統治などを可能にすることを意味し
辻内鏡人 [1997]『アメリカの奴隷制と自由主義』
自由労働とは,他人のための労働ではなく,経済
ていると説明する[辻内 1997: 67-91]。ただし,
Foner が自由労働観念を曖昧な意味のまま用いてい
ることも指摘されている[辻内 1997: 18]。
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