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准南子地形訓の基礎的研究
准南子地形訓の基礎的研究 は じ め に 薄 井 俊 二 漏友蘭氏はかつて中国の哲学史を大きく二つの時代に分け、経註という中国哲学史上の大きな存在がまだ権威を備 えていない時代を子学時代と呼んだ麺じ。この子学時代の終りごろには戦国末1秦一包という政治的騒々しさの申で知 的興奮がおこり、さまざまな問題に対する活発な思想活動がみられたのだが、その中には自然そのものを考察の対象 とするものもあった。例えば天空・天体への高い関心と深い理解がみられるわけだが、夫と並称される﹁地﹂への興 味のたかまりと知識の蓄積も進行していった。﹁史記﹂貨殖列伝の司馬遷の観点や近年馬王堆三号墓出土の二枚の地 図など⑨は、当時の地理的知識の豊かさと合理性とを示すものであるが、また同時に島伝などの思索による宇宙論的 世界像の構築も考えられていた。こういつた思想状況の申で、出代初露霜王劉安の命によって作られたという﹁准南 子﹂には、地理・地形に関する知識・学説を豊富に盛り込んだ地形訓と思う文がある。 地形訓の内容を﹁准南子﹂要略訓によってうかがうと次の通りである。. 所以窮南北之脩、極東西之広、経山陵之形、区川谷之居、明万物之主、知生類之衆、列国淵廟堂、規遠近聴路。 地の大きさから地形、地上のさまざまの生き物などを記したものとあり、具体的な内容は陰陽−・五行の説や海外の異 国・神山星斗山の描写などとまことに多彩である。この地理・地形論編集の目的は、先の要略によれば﹁人をして通逼 周備して、動くに物を以ってすべからず、驚くに怪を以てすべからざらしむ﹂というように﹁地﹂に関する知識を提供す ることであり、それは﹁終始を言ひて天地四時に明ならざれば、則ち避緯する所を知らず﹂となるからだという。これ はいわば﹁史記﹂に収められている﹁呂氏春秋﹂の標語﹁天地万物古今の事を備えたり﹂をもじれば﹁地のことを備 一 57 一 えたり﹂というものである。 しかし、従来地理思想・地形論の変遷を解明する資料として珍重されてきた地形訓であるが、これ自体を研究の対 象としたものは稀であるように思ケ。これは﹁准南子﹂全体にを共通する傾向だが、収められている考えの雑多さや 前後の内容のつじつまがあわないことなどが原因となっているのであろう。しかし、ここに収められている知識・学 説が地形訓の中でどのような意味・役割ゆを持たされているのかを考えてみると、雑然としバラバラであるようにみ える地形訓にも編集の意図・方法といったようなものがうかがわれるし、また内容的にみていくつかのグループに分 けることも可能である。そこで今回は地形訓の文に検討を加えそこにみられる編集の傾向性を考え、あわせて検討の 中で気がついた地形訓、ひいては﹁准南子﹂の著述の仕方の性格について触れてみたいと思う。 ※⋮⋮本文の検討に入る前に、論証の便を図る為に地形訓を十三の節に分けておく。これは、内容的に同じと考え られるものを一グループとしたものだが、便宜的に分けたもので小論の中においてのみのものとする。章節の冒頭 部分を挙げる。 第五節 第四節 第三節﹂ 第二節 雄勝土、土勝水、・三: 東方 川谷之所注、日月之所出⋮⋮ 凡地形東西為緯、南北為経⋮⋮ 東方之美者、有轡母聞三三牙瑛焉⋮⋮ 九州之大、純方千里⋮⋮ 中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺⋮⋮ 地形之所載、六合之間⋮⋮ ︹七汐・8︺ ︹七2・8︺ ︹六汐・6︺ ︹四6 9︺ ︹四2 ︹三2 ︹二十 ︹一σ ● 第六節 凡海外三十六国。自西北至西南⋮⋮ 3︺ 第七節 ︹八〃・9︺ ● ● 第八節 維粟武人、在西北阪。硯魚在三三⋮⋮ ︹九2・9︺ ﹂第一節 第九節 江出口山、東流絶漢⋮⋮ 11 l, 12 1l 2 l 第十節 一 ︸ 58 O . ・ ● ■ ● ︹十〃・ 4︺ 掌中振回、條風之所生也⋮⋮ 第十一節 ︹十一θ・ ︺内は四部叢刊本の頁・行数である。 テキストは四部叢刊本を使処し、 諸注を参考とした。 2︺ ︹十σ・ 9︺ ﹁第十二節 突生海人、海人生若函 第十三節, 置土土気也、御三埃天 、回天⋮⋮. .下の︹ 一﹂ では地形訓の本文の検討に入るが、まず第一節から順番に、特に第四節までをやや詳しくみてゆく。 第一節⋮⋮地形之所載、六合之間、四極之内、昭之以日月、経甘貝星辰、紀之以四時、要之以太歳。 天地之間、九州八極。三三九山、山有心塞、県有九薮、県有八等、水有六品。、 何謂九州、東南神州日農土、正南次州日沃土⋮⋮正東甲州日曜土。 .何謂九塞、日大沿、浬陀、⋮⋮居庸。 何回九山、会稽、泰山、王屋⋮⋮孟門。 何回九三、日越三具区、楚三雲夢⋮⋮燕之三余。 −何回八風、東北日四三、東方日條風⋮⋮北方日寒風。 何謂三水、日河水、赤水⋮⋮三水。 闘四海之内、東西二万八千里、南北二万六千里、水道八千里、通谷六︵旧作其牛王下塵改︶、名川六百、陸径三千里。 禺夏干太章耳当三極三千二極、二億三万三千五百里七十五歩、早苗亥歩出北極三襟南極、二億三万三千五里七十五 歩。 凡節水淵薮自三百侭以上、二億三万三千五百五十里。有九淵。七番以息土、墳洪水、以為名山。、加里三月、以下地。 終りの方は禺の治水伝説を仲立ちとして第二節とつながってしまっているが、だいたい右の部分まででひとまとま りとい え よ う 。 一 59 一 まずはじめの一行は、﹁地形の位する所﹂と﹁地形﹂という語ではじまり、地と天体・季節などとの関連の深さを のべたもので馬いわば﹁地とは何か﹂を書いた地形訓の序文的な部分である。 次に天地の間、大地の上には九つの州・山・塞・沢・八つの風、六つの州があるとして、各々の名称をあげている。 これは地理目録とでもいうべきものだが、この目録は単に山や川の名をあげたというだけではなく、中国の地上の名噛 山・名川を収めたということにより地上のことを網羅したとする目録なのである。例として山をみていくと、山とし てここに会稽山・泰山などの九つの山があげられているのだが、このことは同時に九つの山をあげることによって山 のことは総て書いた、述べきったというものである。つまり、この九山は申国の山の代表なのであり、それ故、﹁九 山﹂即﹁中国の全山﹂なのである。そしてこの九つの山名は実在のものか、空想上のものかに関係なく、おそらく当 時山−名山として広く認められていたものを九つあげたものであろう。﹁九﹂という数字が先にあって山名を九つ選 択したものか、名山と呼ぶにふさわしいものがたまたま九つあったのかということはここではあまり問題ではない。 ともかく地形訓では﹁山は九山﹂とされているのである。 このような目録的記述の性格をより明確にするために次の資料をあげておく。 ○東方之美者、有雷母間之殉牙赤墨。東南方之美麗、有会稽之竹箭焉。⋮⋮︵第四節︶ ○崖脊三三其東南方、愛有遺玉⋮⋮和丘在其東北阪⋮⋮昆吾在南方⋮⋮︵第九節︶ ロ 第五節は醤母間山以下岱︵泰︶山まで九つの山をあげているのだが、その山名で先の﹁土の九山﹂と一致している のは会稽・華山・岱山の三つのみである。詳しくは後で述べることにするが、第五節の九つの山はそれぞれある方角 に結びつけられているものであり、方角の象徴としての九山なのである。九といケ数は方角からきたものにすぎず、 またここに山のことが書いてあるからといってそれによって﹁全山﹂を網羅したというものでもない。また第九節は 地誌的に有名な山の名前を列挙したもので、その山の記事がここに収められているというところに意味がある。それ 故ある特定の数にこだわる必要ばなく、収録している山の数を増減したところで文全体が成りたたなくなるというも のでは な い 。 右の二つの資料と比較すれば﹁九山﹂という目録の意味することは明らかであろうが、実は﹁九山﹂の持つ目録的、 一 一 60 ﹁地のこと﹂全てを意味しているというものである。つまり、州・山らを収録している地形訓第一節は﹁地﹂のこと 意味というものは﹁地のこと﹂全体にも及ぼしうるものである。それは第一節では地のこととして、州・山・塞・沢 ・風・水の六項目が挙げられているわけだが、このこ乏は同時に、州・山などの六項目が﹁地のこと﹂を代表しており、 を網羅しているのである。こういつた目録的意味は他の文献の目録的文にもみえるが、次に二つ例をあげておく。 ○天有九野、地有九州、土有九山、山田薬量、沢有九薮、風有八等、水嚢六川。 何謂九野、申央日回天、其三角充氏。東方旧蒼天⋮⋮。 何謂九山、会稽、太山⋮⋮。 何謂九州、河漢之間為豫州、周也。両河之間為翼州、晋也⋮⋮。 ⋮⋮︵以下、九塞、九三、八風、六水の記述あ.り︶⋮⋮︵﹁呂氏春秋﹂有理覧︶ ○両河間日翼州、河南日豫州⋮⋮三日営州。九州。 魯有大野、晋有大陸︵⋮⋮固有焦諜。十三。, 東陵院、南三三慎、⋮⋮八陵。︵﹁爾雅﹂釈地﹂︶ ﹁雨雅﹂は字書であるが、山のような固有名詞に関しては地名目録的な性格を持つ。釈地篇で・は九州・玉食・幕電 といったタイトルのもとに具体的な地名をあげているが、これは州・薮・陵を網羅したものでまた﹁地のこと﹂を網 羅したというものである。﹁呂氏春秋﹂隠逸覧は、地のことについては九州を除く九山・九二・九沢・八風・西水が 項目のみならず個々の名称まで一致しており璽、その目録の持つ意味が﹁准南子﹂と同じく﹁網羅﹂にあろうことは 間違いない。ただ有感覧では﹁天に九野あり﹂と天上のことも一緒に収められているが、これは﹁呂氏春秋﹂では天 地のことをひとまとめに有糠雨に書き、﹁准南子﹂・では天のことは天文訓に、地のことは地形訓にと分けて書いたも のだといえよう。尚、類似する﹁九州﹂については後に述べ.る。 では第一節の検討にもどるが、右の地理目録に続いて、四海の大きさ困水道や陸径の総長をあげ、また禺が太章・ 三三という者に測らせたとして四極の大きさをのべるの爵にまつわる説話的要素を取b除くと£、この部分は中国・ 大地の大きさ・河川の総長などを記したもので、﹁いろいろな地の大きさ﹂をのべようとした為のといえよう。 一 61 一 以上の検討をまとめると、第一節は、 ・地の天・四時との関係 ・地の物の目録 ・地の大きさ という三点を記述したものであり、どれも地を概括的に述べたものということができよう。 第二節⋮⋮︵毘喬虚︶中有増城九重、其高万一千里百一十四歩二尺六寸。 上有大禾、其脩五罪。珠樹玉樹旋樹不死樹在其身、沙業痕耳糞其東、葺草在遡求、碧樹瑠樹在其北。 労有四百四十門。門間四里、門︵旧作里間、依三二改︶九純、二丈五尺。 労有九三、玉横維其西北阪。北門開、以内不周之風。傾宮阜室。 三三・涼風・奨桐在毘喬間閨直中、是其三半。疏圃異事、浸之黄水。黄水三周。復中原。是銀水、飲之不死。 河水出営喬東北阪、貫渤海、入当所導積石山。赤水出其東南阪、西南注南海丹沢之東。赤水之東、盛事。出自窮石、 薬、以潤万物。 至皇祖黎。余波入墨流沙、,絶流沙、南至南海。洋水出其西北阪、入子南海羽民之南。凡細水者、帝之神泉、以和金 毘嵜之丘、或上下之、是謂涼風之山、登之而不死。或一倍之、是心懸圃、登之乃霊、国使風雨。或上下之、笹葉上 天、登之乃神、是謂太帝之居。 抹木在陽州、日之所噴。 建木三都広、衆帝所自上下、日中無景、呼三無響、蓋天地之中也。 若木在建木西、末有十日、其華照下地。 第二節は、毘喬虚という不思議な山と、太陽と関孫のある三本の神樹についての記事である。この両者の持つ意味 は同じものであると考えられるが、とりみえず三木の樹木のうちの建立についてみてみる。 まず建木のある位置をみると、﹁日中無景﹂つまり南中時に太陽が頭上にくるところにあるわけで、こういつた地 一 一 62 点は大地の真中といいかえてもよかろう。またそこでは﹁呼而無智﹂と音が吸いこまれてしまっている。つまり音と いう自然界の物理がそこで調和しているのである。更に建木は﹁衆帝自所上下﹂とあるように天上と地上とを結ぶも のなのであり、天と地の接点なのである。そしてこれらの性質から胴木は﹁蓋し天地の中﹂なのだという。 天という四層構造をのべ、﹁之を登れば乃ち神たロ。是れ太平の居なり﹂とこの隣層を上昇していけば天上に行きつ 地形訓の第二節は箆喬山の描写としてかなりまとまったものといえるが、終りの方で、堺田i涼風之山−懸圃一上 ,口という性格は他の文献にもみえる。 けるとしている。これは、昆黒山が天と地の接点−入口であるということを示すものである。毘群山のこの天への入 ○朝三三於蒼梧骨 夕余至縣圃 欲少留此霊鑑号 日忽忽其将暮︵﹁楚辞﹂雷撃︶ ○黄帝遊乎赤水之北、登乎三三之丘、而四望還帰。︵﹁荘子﹂天地篇︶ ○支離三三旧離旧観於冥伯之丘・毘喬之虚、黄帝之所休。︵﹁荘子﹂至楽篇︶ 離騒の主人公が天上遊覧の途中に立ちよった縣圃は毘下山の上にあるもので、これは毘喬山一縣圃が地上から天上 への道程に存していることを意味しよう。また﹁荘子﹂にも黄帝が毘喬へ来たことがあるというのも、昇天する帝i 黄帝と箆野山との関わりの深さを示しているといえる。また昇天と毘喬山との関わりは、准南王劉安の昇仙伝説を批 判した三三の言葉にもみえ︵←、かなり一般的な考えであったことがわかる。 さて右の天への連絡ロー入口という性格も含め、この下川山とは大地の申央に位置するものだという見解がある。 直接の文献資料としては﹁地の週央を昆需と日ふ﹂﹁昆喬なる者は地の中なり﹂という河図括地象︵いずれも初学楽句 に引。安居香山・中村璋八両氏編﹁緯書集成﹂による︶などがあるが、神話学の立場からMHエリアーデ氏の考えをもとに 毘三山とは大地の中心のシンボルなのであるというものがあ妖・最近では小南一郎氏がまとめておられる⑥。氏の使 われる文献資料は右の緯書の他、﹁准南子﹂よりもやや後のものと思われる﹁毘喬嘘は西北に在り、嵩高を去ること五 へ 万里、地の中なり。其の高さ万一千里、河水其の東北阪より出づ﹂ という,﹁水経﹂の文である。﹁准南子﹂の文に は直接、﹁事忌山は地の中なり﹂という記述はないが、その高さが万一千里であることや黄河の水源であるという記 述が、﹁水連﹂と地形訓は一致しているし、また天と地とを結ぶという性格が﹁天地の中﹂なる建木と同じであるこ 一 ︸ 63 となどから考えると、地形訓においても昆喬山は地の中心として意識されていたものとみてよかろう。 以上より言えることは毘仁山も連木もともに天と地の接点であり、大地の中心なのであることである。つまり第二 節は地の中心について述べたものといえよう。 先に地形訓と﹁本意春秋﹂政始覧にも地の大きさを記した後に次のような地形訓第二節に類似する文を収めている。 白民之南、建木之下、日中無影、呼而無響、蓋天地之中也。 ○極星与天上遊、而天下不移。冬至運行遠道、周行四極、命為玄明。夏至日行近道、乃参干上。当枢之下、無昼夜。 ・先に述べたごとく有始覧は天と地の両方のことを述べている風なので、ここには天と地の二本の柱1天枢と建木が みえる。この簡略な記述ではこの二本の柱についての詳しい性格はわからないが、“﹁天枢移らず﹂﹁枢の下に当たり ては昼夜無し﹂とあり、天分とは天体の軸即ち天の中心なのである。建玉は地形訓とほぼ同じ描写であり、地の中心 ﹁ だといえる。幽この﹁呂氏春秋﹂有機覧と﹁准南子﹂地形訓という二つの文献の先後関係についてはあえて触れないこ ととするが、今地形訓の立場に立ってこの二つの資料を比較してみる。そうすると、有五弦に天と地の二つの中心の ﹁ 64 O 記事があるのに対し、地形訓ではそもそも問題が地に限定されている。そこで地形訓では天に関する記事は削り、か にせよ、目録的記述−地の大きさの記事に続いてなんらかの﹁中心﹂の記事がぎていることでは、両者は一致する。 わりに丸木・若木の記述を加え、更に地の中心の性格を持つ毘喬山の記事を追加したのだということになる。いずれ 第三節⋮⋮九州之大、純方千理。九州之外、乃有八演。直方千里。港北東方日大沢日無二⋮⋮︵略︶⋮⋮。 凡八殖八沢之雲、是雨九州。八殖聖目、刻目八紘。亦方千里。自東北方日和二日荒土⋮⋮︵略︶⋮⋮。 三八紘之気、是出寒暑、目合八正、必以風雨。八紘之外、乃有八極。自東北方日方土之山日蒼門⋮⋮︵略︶ 凡八極之雲、是雨天下。八門之風、是節寒暑。八紘八二八沢通雲、以雨九州融和中土。 略した部分はきわめて図式的なので次に図示する。︵図1︶ 方土之山 蒼門 北極之山 寒門 不周之山幽都之門 和丘 荒土 積泳 委羽 一目沙所 大沢 無通 大男 寒沢 大回 海沢 三極之山 開明之門 三極之山 間闘之門 具区 元沢 大夢 三沢 渚資 丹沢 大野 衆女 三三 反戸 焦擁 炎土 波母之山 三門 南極之山 三門 編駒之山 三門 D 個 一 一 65 この第三節に述べてあるのは一種の同心円的世界像である。中央の一州とその八方にある八州とからなる九州を中 心とし、その外側に九州と同じ方一千里という広さを持つ領域が、黄身一八紘−八極と重なっていくという四層の同 心円的世界像となっている。この世界嫁に似たものは﹁尚書﹂園山の﹁五百里旬服、百里賦納総、二百里納蛭、三百 里納結、服、四百里粟、五百里米。五百里候服⋮⋮。五百里綾服⋮⋮。五百里要服⋮⋮。五百里調書⋮⋮﹂といった五服 の制や、.﹁灘南﹂の王制などにみられる。これら や王制の服制は天子のいる都を頂点としており、その外側に広 がる地域は都から遠ければ遠いほど政治的・文化的に低位にあるというもので、いわば天子を中心とする社会的な同 心円である。それに対し地形訓の同心円は自然地理的なものであるといえる。以下検討する。 一番外側の八極をみると﹁東北方は磁土の山と日い、自門と日ふ﹂とあるように、山と門からなっている。ここで それぞれの持つ意味を考えてみると、山とは行きどまり、即ち地の果てを象徴していると考えられ、また門は、先ほど の第二節に﹁北門開き以て不周の風を内る﹂とあり、ここでも﹁八二の風﹂といっているように、風の入るところを 意味しているものと思われる。つまり世界の八方の果てには門があってその各々から中央に向って風が吹き込んでい るというのである。これは第六節の﹁中央は四達、風気の通ずる所、雨露の会する所なり﹂という記述ともつながる ものであろう。また九州の外側の八面には、例えば南方でいえば浩沢といったように各々に大きな湖があり、そこか ら雲がたち昇り﹁是れ九州に雨ふらす﹂とある。八演の外側の八紘からもそれぞれ気がたち昇っており﹁是れ寒暑を 出す﹂とある。これは八演・八紘から各々の地域に特有の雲や気がたち昇り、それらが八極から吹く風によって中央 に運ばれ九州や備前に寒暑や雨をもたらすというこの世界像の構造を示していよう。このように第三節の世界像は自 然現象を合理的に解釈しようとした自然地理的な同心円的世界像だといえよう心尚この八風と寒暑・降雨との関係を 時間的に並べ時令説としたものが天文訓にみえる→︶。, 次の節の検討に入る前に第一節で残してお・いた九州説についてのべておく。この第三節では中心部分の中国人の居 に九州を有始覧のように現実の地理知識に基づいたものとすると、その各州の位置関係はいびつなものとなってしま 住する地域を九州としその外側に同じ広さの地域が四方八方に広がるという整然とした構造になっている。ここで仮 い、外側の整然としたひろがりと異質なものとなってしまう。それ故、ここでは九州とは中央一八方というきちんと 一 ︸ 66 した位置関係のものでなければならなかったわけで、 がとられているのであろう。 この九州説にひつばられて第一節においても同心円的な九州説 図 ︵ ︶ 第四節⋮⋮東方之美者、三三旧聞三二牙瑛焉。東南方書美者、 有会稽之竹箭焉⋮⋮。 会稽 以下中央まで九つあるのだがこれも図示する。︵図2︶ 一 斥山 留母聞 竹箭 岱嶽 梁山 文皮/三三瑛. 幽都 五穀桑麻魚塩 犀象 金石 華山 筋角 器,\雷 球琳最耳 珠玉 この部分は同じものが﹁爾雅﹂勝地に九府というタイトルを附して収められているが、四方八方と中央の特産物を あげたもので、いわば博物誌である。ところで一般に博物誌というものは多くはある地方・地域の特産品を記したも ので、またそういった知・識の豊富さを誇るものである。 東方、川谷之所動、日月之所出、⋮⋮其道宜麦、多虎豹。南方、陽気重言積、⋮⋮其地宜稲、多三洋⋮⋮。︵第六節︶ 右は東方や南方といった地域の特産物をのべたものであり、禺貢も州という一つの地域ごとに産物をあげているし、 ﹁史記﹂貨殖列伝なども旧戦国諸侯国を一つの領域とレて各々の特色・産物をのべる。これらに対し地形訓のこの博 一 ﹁ 67 物誌は、特産物を特定の山と方角という﹁点と線﹂に結びつけて記述している。このことの持つ意味を以下考えてみ る。 ● 中央の記事をみると、特産物として五穀桑麻魚塩をあげている。ところが﹁史記﹂貨殖列伝によれば﹁夫れ山西は 材竹穀⋮⋮に饒に、山東は魚塩漆練声色多し。江南は⋮⋮﹂とあり、特産物という場合、魚塩は山東、即ち全中国の東 側のものとなっている。﹂それなのに地形訓ではこれが中央の産物とされているというのは、つまり地形訓のいう中央とは 斉などの山東北方を含んだ一般的な中国全域を指していることになろう。東方の産物をいう際、珂耳鼻なるおそらく は宝石であろう物をあげているのも、東方という時に斉などの山東方面はとびこえていることを示す。ところが﹁西 南方の美なる者は、華山の金石有り﹂という西南方の山、華山は、苗代の弘農華陰の華山であり、もし山東あたりを 申央に含めるのならばこの華山周辺も中央に属するものとされてよいものである。また﹁東南の美なる者は、会稽の ことから考えると、ここにいう華山や会稽はその山のある弘農とか越とかいった場所・地域を代表しているのではな 竹箭﹂という会稽山は、第一節では中国を代表する九山のうちに入れられており、中央に属するとしてもよい。この く、西南方とか東南方とか中央からみてその山のある方角を代表しているものであろうど考えられる。つまりここに ある九つの山はそれぞれある方角の象徴として使われているのである。だから泰山は申央の象徴としてここにあげら れているのであって,、実際に泰山付近で塩がとれなくて込かまわないのであり、華山は西南方を連想させるものとし てあげられているわけで、現実にはそこで五穀がとれても﹁西南方の華山﹂というのである。 第四節の性格は亡羊の位置の中央からの距離からも考えられる。会稽・華山といった山を地図の上においてみた場 合、中央−泰山からの距離がまちまちになってしまうが、これは先の第三節のような同心円的発想と違いこの部分は 距離に関心が薄いということを意味しよう。また、会稽のような実際の地理知識に裏づけられた実在の山も、幽都・ 毘命といったおそらくは空想上の山もここでは同じ扱いを受けているが、ある山の名をあげればすぐ特定の方向を連 いようゆ 想させるという点では同じなのである。このことはこの部分の考え方においては距離感が欠落していることを示して 更にこの九つの産物をみると、些些の産物は先ほど述べたように中国人の生活必需品であり、南北・東南・北・南 一 ﹁ 68 の四方の特産物は異国的なものとしてそれぞれの方角にふさわしいものがあげられている。東・西などの残る四方は いずれも宝石・玉石らしいものを特産物としているが、これは﹁山←石﹂という連想を手助けとして、中央一八方の ドド バランスをとるために採用されたものではないかと思われ、この部分が方位の整合性をとろうとしているということ を示していよう。 としているものといえよう。 以上のことから第四節をふり返ると、この部分は博物誌の型をとりながら、中央−八方という方角を印象づけよう 以上第一∼第四節に検討を加えてきたが、ここまでをみると、九州説・九二山説話から風による気候の説明・博物誌 など内容は多彩でまとまりのないもののようにみえる。しかしとりあえずそれぞれの節のいわんとすることをあげて みると次のようになる。 第一節・地と天・四時との関係 噛・地上の物の目録 ・地の大きさ 第二節・地の中心 第三節・地の同心円的構造 第四節①地上の方角と地誌 これちをみると確かに内容的には様々なものだが、地・大地というものを巨視的に見、地全体をトータルなものと して携えるという態度が共通しているといえよう。つまりこの第一∼四節は﹁地の全体像﹂というテーマのもとに様 々な学説・考えを集めたものなのであり、言いかえると、大きさや中心、構造といったいくつかの異なった面から大 地を描こうとしたものなのである。 ただ、右で様々なものを集めたといったが、その際に、ある一つの学説を中心としてまとめてあるということはな さそうである3。例えば、岡惚説話と建木説話とが中心弔いう第二節にともに収められているし、同じく東方・東南 方といった八方位を言いながらも領域の広がりをいう第三節と方角を強調する第四節とでは違いがある。しかし、こ 一 一 69 れらのいずれか一方が他方より劣位にあるとか、学説間のくいちがいの合理化−折衷が図られているということはな さそうで、もとの考えがかなり生のままで並べられているようである。こういつた問題は各々の学説・考えの背景や なま それら相互のつながりの意味の今少しの検討を待って考えることとし︵今は、さまざまなものがさまざまなままに収 録されているという点に注目しておく。 さて、地形訓の第一−第四節があ6テーマを共有するグループとみなしうるということを指摘したがハ第五節以降 をみるとそこには更に二つのテ.ーマと二つのグループがみられる。馬丁ではその二つのテーマの検討に入る。 二 第二のグループは第五−七節にあたり、地形・地上のものの差異・変化を記し、あわせてそれをもたらす要因・原 理を述べたものである。 第五節は﹁凡そ地形は東西を緯とし馬南北を経とす﹂と、緯−経という一つの﹁対﹂を最初にあげ、﹁山は積徳有 た り、川は墨刑有り。高き者は生為り、下き者は死為り⋮⋮﹂以下丘陵と難谷口川の二折と方骨など地形の特徴を﹁対﹂ て生ず﹂﹁是の故に山気は男多く、沢気は女多し﹂といった、気・土・水などをそこに産する物との関係を説いたり、 をなすものととらえ、この対によってそこに産するものの差異を説明するものからはじまり、﹁土地は各々其の類を以 ﹁堅土の人は剛、宇土の人は肥﹂﹁土を食む者は心安くして慧なり、木を食む者は力多くして⋮⋮﹂と土質とそこに 住む人間の体格や、食物とそれを食用としている動物との関係を説くといった、同類相応説の土地版といったものが みられる。また﹁凡そ人民禽獣万物貞虫は各々以て生ずる有り﹂﹁天一地二人三、三三にして九。九九にして八十︷。 一は日を主とし、日の数は十。日は人を主とす。人故に十月目して生ず﹂というようにその動物に因縁の深い数から 在胎月数を割りだすといった﹁数のマジック﹂的なもの、﹁鳥魚は皆陰に属す、陰は陽に属す。故に毒魚は皆卵生な り。魚は水に遊び、鳥は雲に飛ぶ。故に立冬に鷲雀海.に入り、化して蛤となる﹂という陰陽説によって動物の性質・ 変態を説明しようという月令文に似た文などが全体の脈絡をあまり感じさせずに続いている。これらは多彩でばらば ︸ ﹁ 70 らの記述のようにみえるが、つまり陰陽説・対の組み合わせ・数のマジック・土質などに地上の万物の差異・変化の 原因をもとめ、そういった原理・学説を沢山収録したものといえる。そうしてこれらには何か一つの申心的・統一的 学説があるわけではなく、個々の学説相互に矛盾しないような調整が施されているわけでもない。つまり第五節は地 形・地理に関するさまぎまな原理をあげたものといえる。 続く第六節は地域の特徴を記した一種の地誌であるが、地域の特徴を五方位に帰そうとしており、右の第五節でみ た原理のうち五行説などをとり入れて中央と四方との地域差を説明しようというものである。内容をみると、或る程 度は経験的知識による記事もあろうが、単に事柄を記すのみでなく、方位などの性格によってその地域の特徴を述べ ようという傾向が強い。例えば﹁東方は川谷の注ぐ所、日月の且つる所なり。其の人は分形小頭、隆鼻大口、鳶肩企 行す。霰は目に通じ、筋気焉に属す、蒼色は肝を漏り、長大早知にして寿ならず。其の地は麦に開く、虎豹多し﹂と あるが、目・蒼・肝・麦などは五行説などを裏づけとしているものと思われる。つまりこの第六節は説明的な地誌で ある と い え る 。 また第七節にはさまざまの五行説が収められている。﹁木は土に勝ち、土は水に勝ち⋮⋮﹂という五行相理説から、 ﹁木型にして、水は老、火は王、金は囚、土は死たり。火窪にして⋮⋮﹂という王相野、﹁音に五声有り、宮は其の 主なり。色に五章あり、黄は其の主なり﹂といった五音・五章などの説がある。これは五行説に関するまとまった学 説がいくつか集められているものであって、ここでもこれらの五行説のうちいずれかが主導的であるかということよ りも、五行に関する学説がたくさん集めてあるという点に注目しておく。 以上の第五−七節の第ニグループをまとめると次のようになる。第五節においてはさまざまの地上の﹁自然原理﹂ を列挙し、第六節では右の諸原理のうち﹁五﹂に関する原理によって説明された地誌が書かれ、第七節は自然界の原 理のうちの五行説について詳しく述べたものとなっている。つまりこの塁上グループは、地形・地上のものの多様さ をそれをも尤らすいろいろな原理とあわせて述べ、そのことにまって﹁地のことを備えたり﹂としたものである。 * * * 第三のグループは第八−第十節であるが、ここに収められているものは皆知識の量を誇る地誌的なものである。 一 71 一 脩股民.天民.粛慎民⋮⋮有り。酒南より東南方に至るまで、替民.羽民.⋮、﹂以下百東南至東北L.百東北 まず第八節は異域志・異国誌とでもいうべきものである。﹁凡そ海外三十六国有り。西北より西南方に至るまで、 至西北﹂とあり、海外の東西南北方に三十六の国或いは民族があるとする。この三十六国はそれらと同じとみなしう るものが﹁山海経﹂海外経にほぼみえ伺書との関係の深さをうかがわせるが、注目したいのはこの三十六国の配置で ある。その分布をみると、西方−十国、南方一十三国、東方−六国、北方−七癖と方位によって国の数にバラつきがあ る。せっかく三十六という三・四の倍数になっているのに、第一節や第三節でみた整然とした図形をなしておらず、 しており、﹁そのことを知っている﹂という知識の量をほこるものであって、そこに何がしかの世界像や原理を含ん 第五節にあった﹁対﹂のバランスもとれていない。これはこの異国志が海外にある異国を記すことそのものを目的と ではいないことを示している。 第九節は山・沢・丘などとそこ、に産する動植物や神・人間を記したもので一種の博物誌といえる。しかしその書き 方をみると、﹁雛巣・武人 其の東北阪に在り﹂と指事語﹁其﹂の指すものがよくわからない文から始まり、﹁神二 人有り。腎を連ね帝の為に夜に候す。其の西南阪に有り﹂といった短文が羅列的に続いているのみであって、何かま とまりに欠けるものである。ただ、この書き方をみると﹁山海経﹂に似たものがある。例えば﹁男乗丘は西方に在り、 巫威は其の北に在り﹂・﹁流黄・三民は其の北方三百里に在り、軍国は其の東に在り﹂というように、ある一つの事 物をのべ、次にそれからみたある方角し距離にある別の事物を順だにのべていくという書き方、﹁委羽の山に蔽はれ て日を見ず、其の神は人面馬身にして足無し﹂・﹁后稜瀧は野木の西に在り、其の人は死して復た蘇す。其の半ばは へ ヘ へ ヘ ヘ へ へ 魚となりて其の盟に在り﹂というように地名をあげ次に﹁其の神は﹂﹁其の人は﹂と書くやり方などである。 ○南山在其東南⋮⋮比翼鳥在其東っ︵﹁山海経﹂海外南経︶ ○凡雛山之首、自招心界山、以賢母尾之山、凡十山、二千九百五十里。其神・皆皆車身而静瞥。︵﹁同﹂南山経︶ ﹁山海経﹂との直接の園係は不明だが、当時の地誌の書き方の一型式であるのかもしれない。ただ、﹁山海経﹂と 同様、地の全体像といったものとは無縁であり、また何かの統一、まとまりを持たせようという意図も感じられない ものである。これも前節同様、地理的知識の豊富さを眼目としているものである。 ︸ 一 72 最後の第十節は河川に関するもので、河川誌とでもよびうる地理的記録である。﹁江は黒山より出で、東流して漢 を絶え海に入る。左還北流して開母の北に至り、奉還東流して東極に至る。河は積石より出で、睡は荊山より出づ⋮ ⋮﹂。江についてやや詳しく川筋を述べ以下、河・唯・准・漢など三十七の河川の河源をのべたものである。第二節 には﹁赤水は其の東北阪より出で、西南して南海に注ぐ﹂といった四つの川の流れを記したものがあったが、第二節 ったのに対し、この第十節の河源と川筋にはそういった役割りはみられず、知識としてのみでここに収録されている。 の赤水などがいずれも箆籍山の四隅を河源とするという図形的なもので、いわば毘喬山の高さ・聖性を示すものであ つまりこの部分も詳しさ・豊富さを生命とする地誌だといえる。 以上第三のグループをまとめると、これは異域誌・博物誌・河川誌であり、地理上の知識の詳しさ・豊富さを固有 というのである︵←。 名詞をたくさん挙げることによって示した地誌なのである。そしてこの知識の豊富さによって﹁地のことを備えたり﹂ 三 以上、地形訓に含まれるいろいろな地理・地形に関する学説・考えを、各々の持つ意味・役割りに着目して検討し てきたが、それによりみられた地形訓の構成・編集の仕方は次のごとくである。 ﹁准南子﹂地形訓は なく、 ω当時存したさまざまな地理・地形に関する論文・伝承を集めたものだが、これらはバラバラに並んでいるのでは ②﹁全体豫﹂・﹁地上の諸原理﹂・﹁地理的知識﹂という三つのテーマに従って配されており、この三方面から ﹁地のこと﹂を照らし出そうとしたものである。そして ㈲この三つのテーマ、またその各テーマのいずれかが支配的・中心的であるということはなく、同じレベルのもの である。また、これらは、 一 一 73 ④﹁地のこと﹂という大テーマ又は②でみた三つの小テーマの名において結びつけられているものであり、各学説 ・考えの間にみられるくいちがい・矛盾点などはあまり問題としていない、というものである。 ところで地形訓の右の編集の仕方を今少し一般的に言うと、ある一つの問題に対し多方面からアプローチするとい うことであり、答えをいくつも用意するということである。 ところが地形訓をみるとこの方法と表裏一体と思われる次のようなものがある。それは同一のものである思想・事 ですむというものである。例えば毘喬山という神山でいえば、これのもつ﹁大地の中心﹂という意味と﹁中国からみ 柄を別々のテーマのところに分けて書くことにより、その思想・事柄自身の内包する矛盾点・問題点を表面化させない て西北方にある﹂という伝承との落ち着きの悪さは、﹁中心性﹂に関する記述は第二節の北の申心を述べた部分に、 ﹁西北方﹂にあるという記述は方角を述べた第四節にと分けて書くことにより、一応解消されている。また、思索 と知識の蓄積による地誌の混乱−例えば、五行説によれば東方の地は青色に関わる地方なのだが、﹁大人国・聴器﹂ などという異民族がいるとか、﹁轡母聞﹂という山があるとか、大廟・少海という沢があるなどの知識の蓄積があっ たりするなど、これらをまとめようとするのは至難のワザである。そこで五行説による東方の属性は地の原理をの べる第六節に、異民族の知識は異国誌の第八節にといったようにテーマに分けて書き、お互いあまり干渉しあわない ことによって混乱を避けようというのである。 右のような﹁分けて書く﹂という方法は、前にみた﹁八風﹂が天文訓では時令説と結びついてのべられ、地形訓で は方位と結びついてのべられていることや、そもそも﹁呂氏春秋﹂では有恩覧にまとめられていた天地のことを﹁准 子﹂の他の篇にもわたっている。この記述の方法が、﹁准南子﹂全体を通貫するものであるか、また、﹁准南子﹂の特 南子﹂では天文訓に天のことを、地形訓に地のことをと分けて書いてあるように、地形訓のみにとどまらず、﹁潅南 色乏みなしうるかは、他の篇の検討を待たねばならないが、この方法で﹁地﹂に関すること以外を論じているものも みられる。次に一章を設けて紹介しておく。 四 一 一 74 ﹁分けて書く﹂という方法で論じているのは時鳥訓の時令の処理である。そもそも時令説のもつ五行の五と十ニケ 月の十二︵或いは四季の四︶という数字は公約数を持たない為、この数の問題の解決が時令説の展開上大きな問題と なってじた。この五と十二とのくいちがいを時則訓では二つに分けて書くことによってやわらげようとする。まず十 二に基づく事柄については一年を十ニケ月に分ける月令として書く。﹁孟春忌月、招揺指差﹂に始まる時則訓前半を 春 季 春 孟 夏 夏 仲 夏 季 秋 孟 仲 秋 季 秋 孟 冬 仲 冬 冬 季 図 ︵ ︶ 占める月令文がこれで、ここでの各月と五行の関係を図示すると次のようになる。 木 火 土 金 水 仲 −1一﹂ 一 一 一 一 春 孟 これは土の記事を﹁中央土﹂として季夏紀の末尾につけた﹁呂氏春秋﹂十ゴ紀に比べると、一ケ月ながら土が現実 の月を持っているという点で五を生かした月令説であるといえる。しかし∼その為五行の持つ月数はまちまちとなり、 やはり落ち着きが悪い。ところが時則訓にはこの丹令文に続いて﹁五位﹂というものがある。地上を中央と四方とい う五つの地域に分け、﹁東方の極、端石穿り朝鮮を過ぎ⋮⋮﹂と地理的知識によって各地域のリアリティを出し、 ﹁太息・句芒の司さどる所の者なり、万二千里。其の令に曰はく、群禁を挺し⋮⋮﹂という時令説の如き文が収めら れている。ところが実はこの司さどる所の神・人や﹁令に日はく﹂の政令文は五にもとずいた時令文からとったもの し、十二の部﹁分は一年十二ヶ月にからめて従来通りの時間の周期の上に配したもので、このように分けて書くことに なのである。つまり五と十二という割り切れ起い数の要素を持った時令説を、五の部分は方位にからめて平面上に配 より五つある政令も十二ある政令もそれが実行される場を得るのであるゆ 一 ︸ 75 お わ り に 以上の検討により、従来雑多なよせあつめとされた﹁准南子﹂地形訓にも何らかの編集の立場があることを明らか にした。今後は、この編集方法自体の意味するものを考えること、地形訓にみられたいろいろな地理・地形学説につ いてはそれらの背景となる思想・精神を考えることが課題となろう。それには、﹁准南子﹂の他の管巻や、地理・地 思想の要素が強いと思われる緯書の地理説などに対し、本論のような検討を加え、その意図するところをさぐること 形に関する他の文献との比較検討が必要であろう。また、地形訓と親近性のあるとみられる﹁山海経﹂、比較的政治 [﹁准南子﹂︵以下潅と約す︶の九山i会稽●奮●毒●出山●太華●岐中太行・羊腸・跨 ﹁呂氏春秋﹂︵以下呂と約す︶の九山1会稽・太山・王屋・首山・太市・岐山・大行・羊腸・孟門。 ﹁古地図論文集﹂︵文物出版社︶にいくつかの論文が収められている。 ﹁中国哲学史﹂ 注 が必要となろう。 ︵← →︶ [准の九塞夫沿滝馳痢玩.方城ポ殻阪●井脛・令疵.句注・居庸・ 呂の九塞一大湯・冥阻・荊玩・方城・殻・井疵・句注・居庸。 呂の九薮−呉の具・楚の雲夢・秦の陽華・晋の大陸・梁の黒田・宋の当室・斉の海隅・趙の鍾鹿・燕の三余。 准の九薮1越の具区・楚の雲夢・秦の陽画・晋の大陸・鄭の圃田・宋の孟諸・斉の海隅・趙の鍾鹿・燕の昭余。 [ 呂の八風−炎風・酒風・薫風・旧風・凄風・回国・属風・寒風。 准の八風−炎風・條風・景風・巨風・涼風・同風・回田・寒風。 [ 一 一 76 m准の六三−河水.赤水.三水黒水・三水●馨 呂の六水−河水・赤水・三水・黒水・三水・准水。 @この禺の治水説話はこの部分ではたいそうおちつきが悪い。そもそも後にも述べるが毘需山と関係の深いのは ︵← ,黄帝であって萬ではない。これは地形訓編集の際、﹁地の大きさ﹂を述べる部分と次の毘喬山の描写とをつなぐ @六天之門在西北、升天之人、宜凹面需山上。如審干天、宜諸家先唱温語、乃得其階。︵﹁論衡﹂道虚二+四︶ 為に編集者が無理をして萬の治水の話を持ち出してきたのではないかと思われる。 ︵← つまり天へ昇るには箆三山を経由するものなのだといっている。 ⑥ ﹁中国の神話と物語り﹂第一章西王母と七夕伝承の 四、箆嵜山−男心のシンボリズム。 @壁高八風。距月冬至、四十五日條堅田。雪風至四十五日目明庶母至。明輝風至四十五日、清明風調。⋮⋮四二 ︵← 至、則出軽四、四通留。明庶風至、則正封彊、三田疇。⋮⋮。 これは八風による一時が四十五日の八時令であるといえ、地形訓で平面上に展開していた八風を時間軸に置き かえたものである。なお、八風のみが天文訓と地形訓の両方に出ているのは、風が天・地双方ともに関連が深い ごためだと思われる。 @唯、第一節の九州説に顕著なように図形的なバランス・整合性を気にしているという共通の性質はみられよう。 @尚、第十一逃十二、十三節は、それまでの三つのグループ分けには必らずしもあてはまらないものであり、他 ︵← ︵← の文献の研究を待って述べることとする。 一 一 77