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片想いのエンドロール - タテ書き小説ネット
片想いのエンドロール 瀬邑みろん タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範 囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。 ︻小説タイトル︼ 片想いのエンドロール ︻Nコード︼ N5904DD ︻作者名︼ 瀬邑みろん ︻あらすじ︼ 真面目なだけが取り柄な地味男子の秀悟。 断食系 だとか 離乳食系 と言われる 学校内では女子と話したこともなければ名前を呼ばれたこともない 部類に属し、他の男子に くらい筋金入りの奥手男子。 秀悟が心惹かれたのは学校屈指のモテ女子だった。 非モテな地味男が淡い恋心に戸惑いながら、一進一退に成長してい く平凡な初恋物語です。 1 ※設定は現代ですが、随所にリアリティに沿わない部分があります。 あくまでフィクションですので、どうかご了承くださいませ。 2 00 僕は脇役︵前書き︶ 拙い作品ですが、楽しんで頂けたら嬉しいです。 3 00 僕は脇役 僕はどんな物語やドラマでも決して主役にはなり得ない脇役。 物語やドラマなんて言うとちょっと大袈裟だけど、もしも身近な 誰かの人生や思い出││ある時間やある場面の一部を切り取った│ │その中に僕がいたとしても、決して主要キャストにはならない⋮ という意味。 その他大勢 の中に埋れている。それが僕の定位置。 当然ながらお遊戯会や学芸会でセリフの付く役になったこともな い。いつも こうして自分の視点で物事を語っていても、スポットライトが当 たる主役は他にいて、それを見ている立場のような気がしてしまう。 自分の夢の中でさえ、自分が主役だった覚えが殆どない。怖い夢 を見た時も、追いかけられているのは僕ではなく友達だったり、母 さんが見ていた二時間ドラマの主人公の人だったり。だから自分の 人生の中でも主役になることなんてないような気がしていた。 男三人兄弟の真ん中で、兄と比べると幼少期の写真は半分以下だ し、弟と比べると授業参観に費やされた時間は半分以下。それを不 満に思ったこともないし、両親の愛情が偏っているなんて気にした ち こともなく感傷的になったこともない。 ◇◆◇ ﹁相変わらずよね、ここん家﹂ みほ 僕と弟の部屋の入り口に仁王立ちしてふんと鼻を鳴らすのは、イ トコの美帆。 父方の叔父の娘で僕と同じ年。 4 無遠慮にして高圧的なこのイトコが、正直苦手だ。 苦手というより、ちょっと怖い。いや、かなり怖い。 叔父は﹁息子が三人もいて、娘一人の俺んことより静かとは、⋮ ⋮なあ﹂と苦笑いする。 尻に敷かれてる と揶揄されるほど普段 女系家族の婿に入った叔父は、お酒が入ると決まって僕たち兄弟 に発破をかける。娘から は穏やかなだけに、お酒が入っての言動はテレビドラマにありがち な恐妻家の夫そのものだ。 確かに叔父の言う通り、美帆は利発で口達者で、僕たち兄弟三人 合わせても口数も覇気も勝てそうもない。 中学に上がる頃には顔を合わせる機会は減ってきていたものの、 今日のような法事の際には避けられない。 こうして心の声では﹁美帆﹂と敬称を略させて頂いてはいるが、 本人を前にして呼び捨てなんて到底できない。かなり小さい頃は﹁ 美帆ちゃん﹂と呼んでいたらしいが、子供の頃はそうだったとして も今はそんな風に女の子を呼ぶのは気恥ずかしい。僕もそんなお年 頃。 会う機会も殆どなくなっているし、会っても僕から話しかけるよ うな用事なんてない。それでも呼びかけなければいけないときは﹁ あのさ﹂とか﹁ねえ﹂と本人に分かるよう話しかけてやり過ごすよ うにしている。 ﹁男臭くもなければ女っ気もなくて、ある意味ヲタクとかより相当 キモいんですけど﹂ 一応この家にも女性はいるので母さんに失礼な気もするけど、こ の家というより僕たち部屋のことを言っているのだろう。分かって いても、せめて心の中でくらいは揚げ足の一つも取りたくなる。し かし決して口には出すまい。僕は勇者じゃないから。 壁際中央にパーテーション代わりの本棚で軽く間仕切ってある中 5 しんご 2の弟進悟と僕の部屋は、兄さんが小学校に入学する時に叔父夫婦 から贈られたという科学図鑑や辞書が本棚の大部分を占めている。 その他は学校の教科書や資料集で、壁にはメルカトル図法の世界地 図と太陽系惑星図のポスターと文字盤だけの丸い掛け時計。 宿題が出来て、寝るのに支障なければそれで充分なのでは⋮、な んて思いながら僕はバターロールパンを齧って部屋に入れず立ち止 まっていた。僕が思ったのとほぼ同時くらいにイライラ顔で美帆が 振り向いた。ギリッと奥歯を噛み締めた音まで聞こえて来そうで息 しゅう しん を呑んだのも一瞬、叔母の声に救われた。 どけよ って言えばいいじゃ ﹁美帆、帰るわよ。秀くんも進くんも困ってるじゃない﹂ ﹁困ってるなら男なんだから自分で ない。そんなだから男と認識されないのよ。それとも東高なんか行 って女子化しちゃったとか?﹂ ⋮ドSにもほどがあるんですけど。 ﹁男の子にそんなこと言う性格だから彼氏も出来ないんでしょ? ほら、帰るわよ﹂ ﹁私は興味ないだけだし、それに女子高だから!﹂ 言い訳を叫ぶ美帆をよそに、僕らに申し訳なさそうに﹁ごめんね、 美帆の部屋だって大して変わらないのよ﹂と言いながら叔母さんは 美帆の背中を押して玄関に促すと、母さんと親族同士のよくある挨 拶を交わして帰って行った。 ﹁興味ないとか言ってるけどさ、負け惜しみだよな。あの強烈な性 格じゃ、いくら頭良くても男は寄り付かないし﹂ ベッドの上で胡座をかいていた進悟が脚を崩して枕を蹴った。 しゅうにい ﹁あんなこと言われたら、どんなに近所でも東高にだけは行きたく ないって思うね。⋮⋮秀兄ちゃんには悪いけどさ﹂ しののめひがし 僕の通っている東雲東高は、家から徒歩ででも行ける目と鼻の先 6 にある県立高校。創立から百年以上経っているそこそこ歴史の古い 高校で、創設期は女学校だったらしい。 東高は可愛い子が多い 僕たちが生まれる頃には既に共学だったが、創設期からの特色か 全校生徒の約七割が女子生徒だ。しかも と県下でも評判なんだとか。 最近ではちらほらと﹁東高は校内恋愛禁止なのかと疑うレベルの しても有名だという話しは入 カップル率が低いらしい﹂と囁かれ始めているとか。もちろん禁止 男子生徒の青春の墓場 とは聞いたこともない。 ちなみに 学して初めて聞いた。 男子校じゃないため他校からコンパのオファーもなく、他校生た ちは口を揃えて﹁学校内にハイレベルな女子がわんさかいたら紹介 なんて必要ないよね﹂と言うらしい。 そんな風に内情を知らない人たちからは東高の男子は羨ましいと 思われるみたいだが、現実はそんなに甘くない。 理由は至極単純。男子の二倍以上も女子がいたら、そこは完全な る強者と弱者の世界。 たとえば、共学になる前の古い舎屋のため更衣室というものはな く、体育の授業の前後の着替えは女子が教室を占拠する。これは学 年問わず暗黙の了解になっている。男子は教室の廊下の端で黙って 手早く着替えを済ます。不平を零す者もいない。 男女共部の部活動は、部員の男女比にもよるけど、女子が部長を 務めるていることが多い。 生徒会役員もほぼ女子生徒。 決して男子を冷遇した結果ではなく、同じ穴の狢というのか││ 大多数の男子生徒が消極的かまたは受動的だ。 可愛い子が多い と評判の東高女 美帆が毒づいたように、男と認識されない男子生徒たちが御眼鏡 に適うわけもなく、県下で 放課後の東高名物 なるものには本当に度肝を抜かれた。 子たちは校外で彼氏を作る子が多いということらしい。 実際、 7 お金持ち私立校でもなければ女子校でもない、進学校の平均レベ ルよりやや上にある地方のごくごく普通の共学の公立高校にして、 放課後ともなれば校門の前や向かいの路肩にずらりと外車やスポー ツカーが長蛇の列をなす異様とも言える光景。 大学生や専門学校生が彼女のお迎え待ちをしているらしい。 車でのお迎え以外にも校門の前で出待ちしている他校の制服姿の 男子もかなりの数なのだ。 そうやって多くの女子たちが校内の男子に見向きもせず、学校外 の彼氏のもとに駆け寄る姿を複雑な気持ちで指を咥えて見ている│ │というのが東高男子の立ち位置なんだとか。 放課後 を知らなかったのは、中学が逆方向にあったからなん 東高まで徒歩圏内にありながら、度肝を抜かれるような の東高名物 だけど、これを知っていて東高を受験する男子のハートの強さもな かなかのものだと思う。 ﹁草食系男子の巣窟だって友達の姉ちゃんが言ってた。東高に行っ たら90%、三年間彼女なし確定だって﹂ そんな都市伝説まがいな言われ方までされる始末。けど、やっぱ 肉食系男子 が皆 り草食系男子の巣窟なんだろうな。進悟の友達のお姉さん、上手い こと言う。もちろん、目立つタイプのいわゆる 無なわけじゃない。 割合的にはかなり少ないけど、制服を着崩したり髪を染めている 男子も普通にいる。彼らもまた、女子には強く出ないし、受動的だ けど。 その他大勢 に分類されるような 進悟は残念そうに言うけど、女子が強いからといって悪いことば かりでもないと思う。 僕のようにクラスの中で常に タイプも多く、中学の頃と比べて格段に居心地が良い。女子が学校 の男子に無関心な分、美帆のような怖い女の子に絡まれることもな 8 い。 進悟もそういうことに興味ある年なんだなぁ⋮なんて、暢気に感 心していると﹁まあ秀兄ちゃんは興味ないか﹂と苦笑される。 サッコー ﹁つーか何で東高にしたわけ? 秀兄ちゃんなら余裕で桜ノ宮高校 行けたよね? まさか好きな子が東高志望だったとか?﹂ ﹁そんなんじゃないよ﹂ ﹁じゃあどんなんだよ? まあいいか、秀兄ちゃんの人生なんだし﹂ 進悟は手元でブブブと震えた携帯を握りあくびをした。 そう、僕の人生。 どこにも主役にならないからうっかり忘れそうになるけど、一応 僕には僕の人生があり、人生を生きる責任もある。 人生の中で│││なんて言っちゃうと、それなりの歳月を生きて たら・れば の数々。 いたみたいで生意気なんだけど│││繰り返し訪れる取捨選択。そ ・・ して何度となく頭に巡る ﹁東高に行ったら﹂と進悟は言った。誤りの選択の例えとしてネガ ・・ ティブな意味で。そりゃ僕だってここに至るまでネガティブな意味 で、こうだったらと思わなかったわけじゃない。 でも今は、東高に来なかったら見えなかった世界もあると思って る。ややポジティブな意味で。 僕は世間的に分類されるとしたら﹁暗い﹂﹁ヲタク﹂﹁そんな人 いる?﹂なんだろうけど、あまり喋らないだけで別に暗いわけじゃ その他大勢 の立ち位置キープは安定して ないし、特にヲタク趣味もないし、一応存在している││わけなん だけど、小さい頃から いるのではないかと思う。 実際、僕なんて草食系どころか仙人じゃないけど学校内で霞を食 べて生きてる断食系男子になるかもしれない。インドアだし打ち込 9 めるものもないから部活も入ってないし友達も少ない。身長だって 170cmあるかないかを彷徨ってて胸板も薄っぺらくてゴワゴワ の癖っ毛で⋮⋮自慢出来ない部分を数えたらキリがない。 地道に生きるしか取り柄のない保守派で冴えない地味男子なこん な僕にも一応気になる女の子は、いる。 その子には既に彼氏がいる。彼氏に向けられた笑顔だと分かって いながら、気が付いたらその笑顔に魅入ってしまうようになってい た。 僕視点で繰り広げられる僕の人生のドラマの中では、主役は彼女 との彼氏で、僕はきっと語り手。 10 01 青春の墓場 まゆこ はましま ﹁あ、繭子さんだ﹂ 隣の席の浜島が発したその名前に、思わず耳が反応してしまう。 教室前方の入り口の前に立った彼女は浜島の視線に気づくとにっ やなせ こりと手を振り、手に持った紙の束をひらひらさせて視線を少し前 方に移す。浜島がシャーペンのノックの部分で前の席に座る柳瀬の とがし 背中を小突き、柳瀬が彼女の方へ歩いていった。 さかい ﹁浜ちゃん、あそこでヤナちゃんと話してるの富樫の彼女なんだろ ?﹂ 柳瀬の隣の席に座っていた阪井が椅子をずらして後ろに体を傾け る。 ﹁そそ﹂ 浜島が軽く流す。 彼女は手に持った紙を指さして何かを説明している風だった。 ﹁でもご指名は富樫じゃなくてヤナちゃんなわけ?﹂ ﹁あー、それな。あの二人が1年の責任者だから。繭子さんが責任 者でヤナちゃんが副責任者。富樫は面倒くさいことには関与しない の。まあ、俺も他人のこと言えないけどね﹂ 僕の隣の席の浜島とその前に座る柳瀬、窓際の最後列の席の富樫、 繭子さんは隣のクラスで剣道部。富樫の彼女。ちなみに まゆこ この三人は剣道部で行動を共にしていることが多い。﹁繭子さん﹂ ひらおか ││平岡 三人とも、本人の前では﹁平岡さん﹂と呼んでいる。 少し前に浜島が、今年の1年部員で剣道未経験者は自分だけだと ながた 話していた時に、その他は中学で剣道部だった人たちで、柳瀬や平 岡さんや永田さんは、キャリア十年超えだと言っていた。 11 キャリアの長い柳瀬、平岡さん、永田さんが責任者候補に上がり、 東高の慣わし的に男子の柳瀬が副責任者に収まり、女子はジャンケ ンで負けた平岡さんが責任者になったとか。 りえ 永田さんというのは僕たちと同じ3組で、僕は中学も同じだった から顔と名前くらいは一致する。永田理恵さん⋮、だったはず。 中学の頃も全校朝礼などで、市大会優勝とか県大会出場とか表彰 されていた。 目も眉も鼻も口も唇も大きめに彫刻されたようなエキゾチックな 顔立ちで、真っ黒な髪を後ろに一つ結いに束ね、ピンと背筋の伸び た凛々しい風貌だ。西洋風の剣でも振りかざしそうな歌劇の男役み たいな雰囲気で、中学の頃は熱狂的な下級生女子もいたようだった。 浜島は高校で部活に入るつもりはなかったらしいのだが、入学か ら仲良くしている柳瀬の付き合いで剣道部を見学に行き一緒に入部 していた。本人は﹁雰囲気が良かったから﹂と言っていたけど、柳 瀬や富樫とは違い、ほぼ未経験に近い剣道初心者だ。 クラスの女子とあまり話すことはないが、平岡さんとはよく喋る しよく笑う。かなり仲良く見える。 ﹁男女共部っていーよなぁ。女子と仲良く出来て。俺らクラスの女 東高って可愛い子だらけなんでしょ∼ って取り合っ 子から完全に姿見えてないし、中学の同級生に女友達を紹介してっ て言えば、 てももらえねぇし﹂ 不貞腐れる阪井。 ﹁つーか、どうやったら富樫なんかが、あんな清純を絵に描いたよ うな癒し系を落とせるわけ? あの厚顔無恥の富樫が﹂ 阪井の嘆きに浜島が苦笑いした。 ﹁四敗のち、一勝ってやつ? いくつ負けたって最後に勝ちゃ負け なんて帳消しだよな﹂ ﹁浜ちゃん、何それ?﹂ 12 ﹁富樫、六月くらいから四回告ってことごとく惨敗だったんだけど ね。でも九月の半ば過ぎだったかな、OK出たんだよ﹂ ﹁マジで? 月一ペースでフラれて、OKされるなんてことあるか、 フツー。逆にますます嫌われねぇ?﹂ って言ったらしい﹂ なんつってさ、最後には繭子さんも 私なん これ以上フラれたら気まず過ぎるから部活辞める。 ﹁脅迫みたいなもんだよ﹂ ﹁脅迫??﹂ ﹁繭子さんに 以後は他人同士で かに何度もありがとう 富樫が自慢したんだ⋮、と浜島は言った。 ﹁ひゃ∼。すげえな富樫。まあ富樫らしいっちゃ富樫らしいけど、 ハート強えーな。俺なら一度撃沈したら、再浮上出来ねーよ﹂ ﹁脅迫というか熱意の勝利というか、ね﹂ いつの間にか戻ってきた柳瀬が浜島と阪井の会話に言葉を挟み、 目を細めて笑った。 扉の方を見ると、平岡さんは来た時のようにこちらに笑顔で手を 振り去って行った。 ﹁可愛いよなぁ。台湾のネットアイドルのなんとかってコに似てね ? バレー部の先輩たちの間ではもっぱらの噂なんだけど﹂ 阪井の言葉に浜島が頷く。うちの部の先輩たちも言ってるよ、と。 って子を知らない。けど、平 アイドルや流行り物に興味がなさそうな柳瀬までもが、目のあたり なんとか がね、なんて補足してるし。 残念ながら、僕はその 岡さんと似てるのならちょっと興味のあるかも。 ちゃんと名前聞いとけば良かったな。そうしたら家に帰って兄さ んの部屋のパソコンで画像を見たのに。 まあ、わざわざ横槍入れて食いつくのも変だし、いいや。 僕のことも顔見知り程度に認識してくれるのか、彼女は浜島たち 13 と談笑する時のお裾分けみたいに、微かな笑みと軽い会釈をくれる。 ⋮と、都合良い解釈をしている。 言葉なんて交わしたことないけど、彼女からこんな笑顔をお裾分 けして貰えるのなら浜島や柳瀬と席が近くて良かったな⋮、と密か に思っている。浜島たちと近い席にならなかったら、きっと今でも 彼女について何も知らないままだろうけど。 以前から浜島や柳瀬たちと廊下で話す彼女を見掛けてはいたが、 十月に入ってすぐの席替えで浜島の隣の席になり、彼女が富樫の彼 女なんだということを知った。 だからなんとなく訊きそびれていた。いつかのことを。 ﹁ってか、阪井ああいう感じタイプだったっけ?﹂ ﹁いや、パスだ﹂ 何か心当たりがあるのか、浜島が﹁だよなぁ﹂と呟いた。 ﹁可愛いと思うよ、マジで。部活の先輩なんかも、今年の1年で五 本の指に入るって言ってたし。ぶっちゃけ俺の好みの感じより富樫 の彼女の方が数段可愛い﹂ ﹁はあ﹂ ﹁浜ちゃんだって綺麗な芸能人が山ほどいてもその中で好みってあ るだろ? まさか好み以外は綺麗だとも認めないとか言うなよ?﹂ ﹁まあそう言われたら分かるけど﹂ くりはら ﹁俺はさ、もっと上目遣いとかアヒル口とかしちゃって甘ったるー コ い小悪魔ちゃんみたいな感じがいいの。7組の栗原ちゃん分かる? あの娘どストライク。充分過ぎるくらい高嶺の花だけどねぇ。富 樫の彼女って健全過ぎて手出し出来なそうじゃん﹂ ﹁その栗原さんって子は知らないけど、手出せそうな感じが良いっ てことかよ?﹂ ﹁別にそこまで明け透けじゃねぇけどな。でも、一応健康な十六歳 男子なわけだし、妄想の中だけでも期待したいじゃん﹂ な? と阪井は浜島と柳瀬を交互に見た。 14 ﹁ここまで女子と隔たりあると、マジで誰でもいいとか思えてくる けど、富樫の彼女って見た目も雰囲気も健全度が高過ぎて朝ドラ感 ハンパないってか、二次元っぽいんだよな﹂ ﹁二次元?﹂ ﹁そう、なんか作り物みたい。偽物って意味の作り物じゃなく、完 成品って意味な。ちょっと完璧過ぎなんだよな。あんだけ可愛くて 性格も明るくて謙虚で、部活も勉強も真面目なんだろ? 富樫もよ くそんな完璧女子に何度もアタックしたよなぁ﹂ ﹁何だか悪く言われてるみたいで居た堪れないから、それくらいに しといてあげて﹂ いつにも増して柔らかい口調で話しに割って入った柳瀬が阪井を 諌める。 ﹁繭子さんも富樫も、どっちも身内だからさ﹂ ﹁言い方悪かった。ごめん、ヤナちゃん﹂ ﹁うん、分かってる。確かに朝ドラっぽいし、知らない人から見た らやっぱり面白味のない優等生だと思うの分かるから。あれで結構 面白い所あるんだけどね﹂ 柳瀬は楽しそうに笑い、浜島は少し曖昧に頷く。柳瀬の方が彼女 の色々な面を知っているのかも知れないし、単に浜島と柳瀬の笑い のツボは違うのかもしれない。またはそれぞれの持つ印象が異なっ ているのかもしれないが、それは多分誰にも分かりそうもない。 ﹁そりゃそうだよな、テレビの向こうの芸能人だって仕事上のキャ ラだし、二次元だよな。俺も富樫の彼女をよく知らないから二次元 っぽく見えるわけだし。案外よく知ったらベタ惚れしちゃったりし てな﹂ 自分が意識してる相手を、他の誰かも同じように感じるのではな いかと思ってしまうのは何故なんだろう。 平岡さんのことをタイプじゃないと言い切った阪井の言葉よりも、 よく知ったらベタ惚れするかもと言った冗談の方が冗談ではなく聞 こえる。まったく思春期って厄介だ。 15 俺 ﹁俺なんか話したこともない相手だから論外だけど、ゴリ押しした ⋮、なんて思ったりしねぇの?﹂ ら折れてくれた話とか聞くと、浜ちゃんやヤナちゃんなんか でもいけたかな ﹁ないない。どっちもフツーに友達だし﹂ 大袈裟に首を振って可笑しそうに笑う柳瀬が浜島と目を合わせる と、浜島も﹁ないね﹂と深く頷いた。 ﹁まあそうだよな、外野があれこれ言ったって、友達の彼女ともな ると告るとかどうとか、この先一ミリも考えらんねぇよな﹂ 阪井は浜島と柳瀬それぞれに横目で視線を投げて、自分の席へと 戻って行った。浜島が次に言葉を発するまでのほんの二、三秒の二 人の沈黙が、何故だか十秒にも二十秒にも感じた。 ﹁なあ畠中ちゃん、繭子さんの繭って字、難しいよな。最初書けな かったんだよね。糸と虫の位置が逆になったりしてさ﹂ 読めるけど書けと言われたら書けない、そんな部類の漢字だった ことは僕も同じだ。 チャイムが鳴りあっという間に数学の先生が入って来て慌ただし く授業が始まった。 浜島はそれきり何も言わず、教科書を開いた。 浜島、今はサラッと書けるんだろう。糸も虫も収まる所に収まっ て。僕も書けると思う。でもそれは内緒。書く機会もないだろうし、 もしテストで出題されたら、とうの昔から書けたって顔しておこう。 16 02 名前と台詞がついた脇役 秋も終わりに近づき、ついこの間まで黄色い葉で覆われていた枝 を露わにした銀杏の幹が、高くなった空をより高く突き上げている。 寒さが苦手な僕にとって、冷たく長い季節の到来を肌身に感じる この時期は憂鬱以外の何物でもない。空模様とは裏腹にゆっくりと ⋮そして低く、グレーの靄が喉の奥に流れ込んでくる。 キャメル色のダッフルコートを着てクリーム色のマフラーを幾重 にも巻き自転車に乗っての通学。それでも風に晒される部分は寒い。 自転車に乗る時は手袋はしないので当然指先も寒さを受ける。耳よ りも頬よりも、指先が冷えるのが一番つらい。 いつものように体育館の裏手にある駐輪場に自転車を止める。始 業時間には三十分以上早い。登校して来る生徒も殆どなく、第一体 育館からはバスケ部の朝練だろう、ドリブルの音とシューズが床を 摩擦する高い音が聞こえる。 自転車の鍵を外していると、銀杏の落ち葉を踏む滑るような乾い た音と自転車のブレーキの鈍い音がした。 ﹁おはよう。すっかり冬支度だね﹂ 僕が振り向く動作に重ねるように、小さく息を弾ませた優しい響 きの声││ 肩にかかる長さのこげ茶色の艶やかな髪。丸めな卵型の輪郭。控 えめな二重まぶたで少し垂れ目の丸い大きな瞳。真っ直ぐ気味な眉。 化粧なんかしていない陶磁器みたいに白い肌に桜色の薄い唇。 なるほど、かなりの二次元感。冬の澄んだ空気から降りて来た精 霊みたい。 冷たい風の中どれだけ自転車を飛ばしてきたのだろう、上気した 17 薄紅色の頬。潤んだ瞳。頬の色よりやや赤みが差した指先で、自転 車で風に煽られて乱れた髪を二∼三度指で梳くように撫でつけてい た。 高校に入学して八ヶ月近く、女子に﹁おはよう﹂なんて言われた ことはなかったし、言ったこともない。だからその声は自分に向け られたものだなんて思いもしなかった。 高校で僕に﹁おはよう﹂と声を掛けてくれた初めての女子は││、 平岡さんだった。 僕は固まったように何も言えないでいた。 彼女は、その瞳にほんの少しに困惑の色を宿し僕を覗き込むと﹁ そんな 三組の畠中くんだよね? 浜島くんの隣の席の⋮﹂と訊いた。 彼女が僕の姓を知っていてくれた。 もしかしてあの日のことも覚えてくれているだろうか? 儚い期待が一瞬頭の中をよぎった。 浜島くんの隣の なの ﹁そうだよね? あー、良かった。人間違いしちゃったかと思った。 浜島くんの隣の!﹂ 彼女にとっては、どこまでいっても だ。期待した自分が恥ずかしい。というか、東高に入って初めて挨 拶の声をかけてくれた女の子に感謝より落胆なんて地味男の分際で 贅沢すぎる。これは末代までバチが当たる。まあ、こんな冴えない 地味男が伴侶を得られるとも思えないので必然的に僕自身が末代と いうことになりそうだけど。 ﹁⋮ああ、うん﹂ 焦りと緊張で、発したはずの声は呑み込まれてしまった。首を縦 に振れば良いのか横に振れば良いのか分からなかったし、地に足が 着いているのか俯いて確認したいほどくらくらして喉が渇いた。寒 くて仕方なかったはずなのに暑い、いや熱い。どういうわけか特に 18 顔が。 間違ってないと安堵したのか、彼女も息を飲み込むように小さく 頷いて、もう一度﹁おはよう﹂と笑んだ。 この笑みを前にして、覚えていてもらえなかったなんてどうでも いい。今はこうして名前を覚えてくれているじゃないか。浜島や富 樫のエキストラなのに。そして彼女の口から出た﹁おはよう﹂は、 今僕に向けられている。浜島や柳瀬はいない。これ僕になんだ。お 裾分けじゃないんだよね? ⋮⋮そもそも富樫の彼女なんだけど。 ﹁おはよう﹂ 朝も母さんや兄さんに言ってきた言葉なのに声は裏返るわ掠れる わ。情けないことに、絞り出すみたいにしか声が出なかった。 パステルブルーのトートバッグを体の前で抱えて歩く平岡さんが 話し出す。 ﹁畠中くん、いつもこんなに早いの?﹂ ﹁だいたい⋮これくらい、です﹂ ﹁そうなんだ﹂ 彼女が笑う。 ﹁お家、学校から近いの?﹂ ﹁自転車で五分かからない、と思う﹂ ﹁もしかして東雲三中?﹂ ﹁あ、うん﹂ ﹁じゃあ理恵ちゃん⋮、永田さんと同じ中学だね。そっかー﹂ ﹁えっと、⋮その、⋮遠いの?﹂ 質問なんかしてしまった。女子との会話初心者のくせに、いきな り質問なんて難易度高過ぎるだろう。とにかく、してしまったもの は仕方ない。けど、いくら二人しかいないとはいえ、主語を明確に しない質問は宜しくない。失礼だろうとドキドキしつつも恥ずかし くて名前で呼べない。一度も話したことないのに名前を知ってるな んて気持ち悪い、って思われないかと気にしてしまう気弱さも情け 19 ない。彼女が僕の名前を知っていてくれたことは僕にとっては嬉し いことだけど、逆も同じだなんて到底思えない。 ﹁私は新桜ノ宮中だから普段は電車なの﹂ 彼女の住む新桜ノ宮の地区は隣の市で、東高までは電車で三駅ほ ど。距離にしたら十四∼五kmはあるはずだ。 ﹁いつもはもっと遅いんだけど、来週から期末テストでしょ? 部 活もないし運動不足になるから自転車で学校に来てみたの﹂ ﹁あ⋮、ああ、それで﹂ ﹁うん。どれくらい時間かかるのか分からなくて、とりあえず早く 出たら早く着き過ちゃった﹂ 顔を下げて鼻先をトートバッグに押し当てた彼女は、恥ずかしそ うに笑った。 笑うと頬の真ん中より少し口元に近い位置に笑窪ができて、一層 輪郭が丸くなり幼い印象になる。童顔のせいもあり、小柄なイメー ジだったけど、こうして近い距離で並んて歩いてみると、どうにか 170cmギリギリの身長の僕と視線の高さが大きくは変わらない。 その差10cm以内といったところだろうか。160cm以上あり そうだ。 揺れた艶やかな髪や少し伏せられた長い睫毛に見惚れていた。彼 女がこちらを向かないよう願いながら横顔をそっと盗み見ていた。 やっぱり可愛い。 駐輪場から校舎までがこんなに長いと感じたのは後にも先にもこ の時だけだったと思う。 時刻も早く、校舎に向かって歩く制服姿は昇降口のガラス戸を曲 がって行った見知らぬ女子生徒の他は、僕たちくらいだった。みん な結構ギリギリに滑り込むんだなぁ⋮なんて、ふとそんなことも考 えてみたりした。思考に余裕なんかないはずなのに、何故かそうい うことを考えたりするもんなんだな。 20 ﹁一限目、物理なの。嫌だなぁ。3組は?﹂ ﹁現国、です。えっと、あの、物理、嫌いなの?﹂ ﹁うん、苦手。理数は全般的にね。畠中くんは得意?﹂ ﹁文系よりは、っていう程度﹂ ﹁そっか、いいな﹂ ﹁なんで?﹂ ﹁なんとなく。憧れるの、理系脳って﹂ 無邪気にそんなことを言う彼女を見つめていたら、慌てたように ﹁可笑しい?﹂と訊かれた。 そんなことないと訂正したけど、うまく伝えることが出来ないま ま、教室の前に着いた。 ﹁じゃあね﹂と軽い会釈をして彼女は2組の教室に入って行った。 可笑しかったわけじゃないんだ。可愛かったんだ。言えるわけな いけど。 がらんとした教室に入り自分の席に座ると、緊張からの疲労感と 余韻の充足感が複雑に入り混じり、感じたことのない気分になった。 いつもなら静かな教室で本を読んで予鈴までを過ごすのに、本を 開いてもちっとも内容が頭に入って来なかった。文字をいくら目で 追っても、文字は頭の中で何の音にも変換されず、模様のように並 んでいるだけに見えた。 十分後くらいには柳瀬が登校してきて軽い挨拶を交わした。 真面目な柳瀬は登校が早い。本人は混雑した電車が苦手だからと 言うが、学校まで自転車で五∼六分の僕より早く来ていることもあ る。 静かな柳瀬は必要以上に声を掛けて来ない。男同士、その距離感 も心地良い。 彼女と駐輪場で出合ったことを話そうかと思ったが、彼女を何と 呼んで良いのか分からなくて、結局やめた。 少し猫背の柳瀬の後ろ姿を眺め、僕の頭の中に響いていたのは﹁ 21 畠中くん﹂と言った平岡さんの声だった。 何なんだろう、この気持ち。フワフワと浮ついた落ち着きのない この気持ち。 姿を見れば意識してしまうくらいだから、この気持ちが好意なん だというくらいは、自覚している。 今、僕の心の中に小さな箱があって、その箱の中には一枚の紙が 入っている。宝の地図なんじゃなく、ただ正解が書いてあるだけの 紙きれ。僕はその紙にどんな単語が書かれているか、たぶん知って いる。 彼女を見た時、思った時に湧き上がる好意の正体。好意の種類を 的確に表現した単語。 確かめるまでもないと分かりながら、正解を確認したい気持ちと 知らないままでいたい気持ちがせめぎ合う。 知ってしまったら、きっと後には戻れない。抗いようのない感情 に翻弄され、あっという間に呑み込まれてこれまでの僕の全部が、 僕の内側にあるものに支配されてしまいそうだから。 気持ちの正体は想像がついても、自分で制御できない自分が想像 つかなくて、僕はそれを恐れていた。 あの日│││少し早い春一番が吹いた雨上がりの日。 普段なら女子の視界に入らない自信がある地味男な僕だが、少し 前に足を怪我して松葉杖だったせいで、悪目立ちしてしまうという かつて経験したことのない肩身の狭さを味わっていた。 前を歩いている女子たちだって笑ってるよ、そう思って溜め息を ついた直後にその中の一人が不意に振り返った。その女の子の視線 は間違いなく僕を捕らえた。確かに笑ってはいたが、その女の子の 優しい視線に嘲笑の色はなかった。 22 あの時の女の子は平岡さんだった。 浜島たちと話す彼女を目に止めるようになってそう気づいた。 可愛い子だなと思った。あの時松葉杖の男がいたことを覚えてい るかと訊いてみたかった。だけど覚えていたらそれがどうなんだと いう話しだし、女子と会話するすべなど持ち合わせていなかった。 そして彼女が富樫の恋人だと知り、ますますどう切り出して良い か分からなくなった。 だって﹁以前お会いしてますよね?﹂とか﹁僕のこと覚えてます か?﹂なんて時代遅れのナンパ文句みたいじゃないか。 そんな煮え切らない気後ればかりで、話したのも今日が初めてで、 それまで何も変わらない同じ毎日で│││何故気持ちだけが変わっ てきていたんだろう。大きく膨らんでいたんだろう。 異性に免疫も接点もなく、﹁そんな人いたっけ?﹂なんて言われ てしまう僕みたいな人間は、たった一度でも気さくに話しかけられ たり笑顔と目が合っただけで、あらぬ思い込みをエスカレートさせ て意識してしまうんだ、と言われるかもしれない。 引力だよ、平岡さん。 あなたの苦手な物理で、僕は苦手じゃないはずなんだけどさ。着 地点も見えないし、何処に行き着くのか想像もつかない。僕の気持 ちが吸い寄せられているのか、それとも僕自身が吸い寄せられてい るのか分からない。なのに抗えそうもないんだ。何だか、そんな気 がしてならないのは気のせいだろうか。 とりあえず気のせいということにしておこう。 23 03 似て非なる 翌朝以降、駐輪場で彼女に遭遇することはなかった。少しガッカ リしつつも安堵していた。それが自分の常であると思えば、平常心 で本を読むことも出来た。 浜島の隣の席の極めて冴えない地味男としての認識より以前に僕 への認識がないことは、分をわきまえて受け入れることにした。 始業十五分前くらいから窓の外は登校して来る雑踏で一気に賑わ い始め、始業十分前くらいに彼女の姿が見えた。 時々驚いたように目を見開いたり首を傾げたりしながら、楽しそ うに友達と笑い合っていた。ガラス越しに見つめた彼女は眩しくて 可愛らしくて、昨日一緒に校舎まで歩いたなんて夢だったみたいに、 どこまでいってもガラス越しの人に思えた。 ◇ 期末テストも終わり、後は終業式を待つだけだけの惰性の日々に なった。 テストが終わった解放感と十二月特有の気忙しさで、落ち着きの ない空気が校内の至る所に感じられる。耳を横切るのはテストの結 果よりもクリスマス。 この時期の僕にとっての関心事は、もちろんクリスマスなんかで はない。年始に親戚と顔を合わせなければならないのかという一点。 ﹁富樫、クリスマスは? いいよな、彼女のいるヤツは。少し分け ろや﹂ 英語の自習中、柳瀬の隣に椅子を持ってきて課題のプリントを広 げていた富樫と、同じく柳瀬の回答目当てでやって来た阪井がいた。 24 ﹁俺バイト。向こうも用事あるってさ。⋮⋮って、なんで阪井が知 ってんだよ﹂ ﹁この俺が知らないと思ってんの? 侮ってもらっちゃ困りますぜ ?﹂ ﹁ふんっ。しつこく告ったことも、どうせ知ってんだろ?﹂ 富樫は浜島を軽く睨んだけど、浜島は黙々と辞書を引いている。 ﹁粘り勝ち上等じゃん。フリー終身刑がどんだけいると思ってんだ よ、少し分けろや﹂ ﹁俺だって速攻フラれるかも知れねーし。そんで、さっさと別の男 に乗り換えられたりしてな﹂ ﹁おまえさぁ、マジでそういう無神経なこと言うなよな? とにか く少し分けろや﹂ 富樫がプリントを埋め出した時に、今度は阪井が浜島と柳瀬にほ んの一瞬ずつ目を向けた。浜島も柳瀬もプリントを埋めている最中 だった。 ﹁つーか、さっきから少し分けろって何なんだよ。しつけーな、お まえ。どう突っ込むのが正解なんだよ、それ? 分けるも何も、ク リスマスは誘ってみたけど即答で断られたよ。幸せ分けられなくて すみませんねぇ﹂ ﹁まぁ、富樫くんったら。男の恨み節はみっともなくてよ?﹂ ﹁なんだよ、今度はおネェかよ。細かくキャラ変えてくんなっての。 混乱するっつーの﹂ 富樫は眉根を寄せ﹁ま、フラれる方が似合う男なんでね﹂と大袈 裟に口を歪めた。 を決める人気投票の中 ﹁いいのか、ほっといて。文化祭の人気投票で1年の本選候補だっ Mr.&Miss東高 たろ? あっという間に掻っ攫われるぞ﹂ 彼女が文化祭の 間発表で1年の三位につけていたということはコンテストに無縁か つ無関心な僕の耳にもすぐに入ってきた。身近にその彼氏がいるか ら、否が応でも話題に上る。 25 彼女は非常に困惑して実行委員会に辞退を申し出たという。毎年 辞退者が出ないわけでもないらしく、委員会側も渋々了承したとの ことだった。 ﹁そういうの苦手だとか言って辞退したみたいけどな。ついでに言 うと、クリスマスとか乙女の大好物なイベントも苦手なんだとさ。 つーか、いきなり素に戻るのな﹂ ﹁まあ彼女身持ち堅そうだもんなぁ。その点は安心だろうけど、イ ベントに興味ないのは彼氏としては淋しいな。あんなことやこんな ことに発展しちゃう絶好のチャンスなのになぁ﹂ ﹁意外とドライな方でしてね。ケータイも持つ気ないっていうし⋮。 な?﹂ 浜島と柳瀬も今度は富樫の視線に応え、苦笑いしながら頷いた。 ﹁なのに男がクリスマスだの付き合って何ヶ月目だのってチマチマ したこと言ってたら格好悪いじゃん。女々しいとか思われても嫌だ し﹂ ﹁気持ちも分からなくもないけど、五回もフラれてるんだし、今さ ら格好悪いとか気にしてもさぁ﹂ ﹁阪井、悪いけど四回だからな。五回じゃなくて四回だから!﹂ ﹁いーじゃん。クリスマス、断られて五回だろ?細かいこと気にす んなよ、器の小っせえ男だなぁ﹂ ﹁ちょっとマジでそれ凹む。首絞めてもいい?﹂ ﹁サラッと流せる男の方が魅力的でござんすよ﹂ ﹁なあ、畠中ちゃん﹂ 急に富樫から声を掛けられビクッとして顔を上げ、目を合わせて 呼び掛けに応えた。 ﹁罪もない民間人を巻き込むなよ。おまえの下衆で邪悪なオーラで 畠中ちゃんの天使オーラが穢れるだろうが!﹂ ﹁下衆で邪悪ってどういうことだよ? なら阪井は腐れ外道で煩悩 の塊だろ。俺だって畠中ちゃんの半分くらいは天使だぞ?﹂ 26 ﹁富樫が天使など一ミリもあり得ん。畠中ちゃんの半分とか発想自 体がイカレすぎ﹂ ﹁ミリで表すか、ミリで。単位違うだろ﹂ 富樫と阪井の会話が再燃したので、僕は呼ばれなかったことにし て再びプリントに視線を戻した。ついでに解釈不能な天使云々も聞 かなかったことにした。あえて言うことでもないから口には出さな いけど、僕だって兄さんのパソコンでこっそりエロを見たことくら いある。ちなみに兄さんの履歴にもエロの形跡はあった。僕たちの 年頃の男に天使なんているわけがない。 ﹁畠中ちゃんもケータイ持たない派だっけ?﹂ 頭のスイッチが課題のプリントに切り替わったタイミングで再び 富樫に話し掛けられ、たどたどしくなる。 ﹁派とか⋮、そんなんじゃなくて。必要がないだけだよ﹂ 学校に来れば友達と話すけど、学校の外に出てまで話す友達もい ないし話題もない。もちろん彼女もいないし、家族から連絡用にと 持たされる要素もない。 ﹁家、厳しいの? 畠中ちゃん、いかにも育ち良さそうだし﹂ 浜島の言葉に柳瀬や阪井までも肯定的な表情で僕を見た。一体ど んな思い違いをされてるんだろう? ﹁そんなんじゃないよ、ホントに。厳しくもないと思うし、普通だ から。弟や兄さんは持ってるし﹂ ﹁ふぅん、普通、ね。⋮なんか良いよな﹂ 普通 なんだろ 僕の言ったことが何か気に障ったのか、急に富樫の声色が変わっ た。 ﹁ごめん、嫌味とかじゃないんだ。ただ、本当に うなぁって﹂ 気に障ったわけじゃなかったようだ。でも途中で言葉を切ってし まったような富樫の言い方に続きを待ったが、それ以上出てくるこ とはなかった。 27 それから終鈴が鳴るまで、富樫と阪井は軽口を叩き合い最後は柳 瀬の回答を書き写して教室を出て行った。 ﹁平岡さん﹂ 入れ違いのタイミングで教室の扉の前を通りかかった平岡さんを 浜島が呼び止めて手招きした。 気づいた彼女は、教室の前で軽く一礼すると小走りに近づいて来 た。 柳瀬が隣にずれて自分の席を譲り、彼女は浜島と柳瀬に向くよう に椅子を斜め後ろに向けて座った。僕とは正面に近い形になり、僕 にも目を合わせニコッと笑って短く会釈をしてくれた。 ﹁さっき自習だったんだけどさ、平岡さんが話題の中心人物だった よ﹂ ﹁えっ?! どうして?﹂ ニヤニヤと勿体つけた浜島の言い方に、彼女は大きな丸い目を一 層大きく丸くして驚く。 ﹁ケータイ持たない派って﹂ ﹁なんかちょっと誤解が⋮。派とか、そんなんじゃないの。必要な いだけ﹂ 浜島と柳瀬の視線が一斉に僕に突き刺さり、決壊したように二人 同時に笑い出した。 彼女は状況が呑み込めずに放心していたけど、僕は言いようのな い気恥ずかしさで息苦しかった。非モテ男はこんなことでシンパシ ーを感じてしまいそうだから、女子は気をつけた方が良い。この場 合、気をつけようもないか。 ﹁これ絶対に持たない派の組織があるよ。言うことマニュアル通り だし﹂ ひとしきり笑った浜島は目尻を拭いながら息絶え絶えに言う。 ﹁どういうこと?﹂ 本気で首を捻る彼女に柳瀬が説明する。 28 ﹁畠中ちゃんもケータイ持ってなくて、すっかり同じこと言ったん だよ﹂ ・ ・ ﹁そうなの? 畠中くんは、必要ないの?﹂ なんで、もじゃなくて、はなんだろう。不思議な違和感に捕らわ れて答えあぐねていると、穏やかなトーンで柳瀬が話し始めた。 ﹁僕も必要ないって言えば必要ない。買ってからもお金かかるから 結局は親に負担かけるし、自分の物っていうのと違う気がして﹂ ﹁私もそう。自分で使用料を払えないうちは申し訳ないから﹂ ﹁そもそも友達少ないから話しは学校で充分だし。ね、畠中ちゃん ?﹂ 柳瀬はいつだってそうだ。普段は口数が少なくて飄々としてるの に、こんな風に場を繋いでくれたりフォローしてくれる。僕に対し てなのか平岡さんに対してなのか││、きっと両方にだったんだろ うけど。 それにしても、彼女は僕なんかよりもずっと大人なんだな。僕は 本当に携帯電話は必要ないだけで、それ以上のことは考えもしなか った。きっと彼女は必要ないわけじゃない。部活でも学年の責任者 で連絡を回すだろうし、友達も多そうだし。彼氏もいるし、その彼 氏も持って欲しいと思ってる。僕の必要なさとは次元が違う。彼女 はストイックだ。 ﹁なんだよ、俺だけ仲間外れか。まるで悪者みたいな展開だよな﹂ 不貞腐れる浜島に、僕も持ってるから一緒だよと柳瀬は笑った。 ﹁やっぱり家が厳しいのかな﹂ 次は移動教室だからと平岡さんが去ると浜島が呟いた。 ﹁どうだろ? 本人あんまりそういう話ししないし﹂ ﹁柳瀬、小学生の時から道場一緒だったんだろ?﹂ ﹁そうだけど、学校違ったし稽古は週一で女子と男子で時間帯も別 だから、殆ど話したことなかったよ⋮⋮﹂ 柳瀬は言葉を切った後、一瞬口元を何かの言葉の形にしかけたが、 29 すぐに爪を噛むような仕草で口をつぐんでしまった。 僕には柳瀬が彼女の背景をある程度知っているように思えた。 それは柳瀬と彼女だけの見えない絆のようにも感じたし、さり気 なく触れない柳瀬の優しさに、彼女の不可侵の領域のようにも感じ た。 30 04 アイデンティティ 頭の上で掃除機をかける音が聞こえる。モーター音なのに苛立っ ているように聞こえるから不思議だ。最近の掃除機って徹底的にハ ウスダストを除去するだけじゃなくて、使ってる人の気分に合わせ た音を出すのかな。なんだっけ、ストレスの度合いで部分的に色が 変わるサーモグラフィっぽいやつ。そんな機能がつく意味があるの か謎だけど。それ以前に、うちの掃除機は結構古かったよな。 ﹁こんな所で暇潰しなんて、どうかと思うけど?﹂ 宿題を終わらせろと進悟を部屋に追いやったのは母さんなのに。 とっくに宿題を済ませてる僕は進悟に部屋を追い出され、所在なく 居間のソファで本を読んでいれば今度は母さんから邪魔者扱いを受 ける。 ﹁昼間からソファでごろごろしてるなら、大悟と一緒に図書館に行 けば良かったのよ﹂ 十八歳の兄と連れ立って図書館に行く十六歳の男が、この治安の 良い法治国家にどれだけいるのだろう? 心なしか、ソファの周り 邪魔だ のサインに違 だけゴツゴツと荒っぽい音を立てて掃除機をかけられている気がす る。時折、振動が痛い。これは本気で いない。 軽いタッチの推理小説も、山場を過ぎて犯人の目星もついたとこ ろでページに栞を挟み体を起こす。体をずらし床に足を降ろす勢い で少し前屈するように一旦体を折った。さっきまで母さんが掃除機 をかけていた飴色のフローリングは、光に反射して浮かび上がった 無数の擦り傷だらけで、ところどころ艶が剥げ落ちている。こんな 所に注視してしまうのも、暇人が畳の目を数えるという例えを体現 しているのだろう。 宿題も終わってしまっているし、外で遊ぶような友達もいない身 31 としては暇つぶしも楽じゃないんだ。淋しい男子の現状を母さんは 分かってない。残念ながらあなたの愚息殿はリア充から一番遠い位 置にいるんです。 冬休み中は、大掃除の手伝ったり宿題を片付けたりして過ごした。 届いた年賀状は、中学からの友達で同じ東高に来てる友達二人と、 桜ノ宮高に行った友達の計三枚。返事なんてあっという間に終わっ た。 その他には、叔父の家に年始の挨拶に行ったくらいで、例年通り ﹁相変わらず覇気がないな﹂とからかわれた。可愛がられているの 怖いイトコ が不在だったこと。大手予備校 は分かってるけど、毎年新年の話題がこれだと正直言って滅入る。 幸いだったのは、 の公開模試を受けに行ったそうだ。﹁お正月くらい﹂と叔母さんは ボヤいたけど、僕には好都合だった⋮⋮、なんて口にも顔にも出せ つい サクジョ サッ は男子校の桜ノ宮 ない。暢気な受験生の兄さんも﹁さすがサクジョ生。まだ1年なの にすごいね﹂と感心していた。 コー 美帆の通う桜ノ宮女子高校、通称 高校と対のような位置付けの県下有数の公立進学校だ。 この辺りでは昔から、有名私大の付属校よりもサッコーやサクジ ョに通っている方が世間体が良い。叔父や叔母や僕の両親などは昔 から子供に勉強を強いる人たちではないので、学校のレベルなどの 虚栄心に関心がないようだったけど、何より美帆本人が人一倍負け ず嫌いで世間体に固執していた。 美帆からすれば、東高レベルの進学校なんてこれっぽっちも価値 がないのだろう。僕が東高を受験すると叔母づてに知った時は声の ない嘲笑を贈られた。 彼女自身の価値観なのだから否定するつもりは毛頭ないけど、時 折顔を合わせればあれこれと干渉して価値観を強要するような言い 方をされるから堪ったもんじゃない。 32 僕 俺 つね と口にして、美帆に﹁あんた似合わない。 というこの一人称もそうだ。 物心ついた頃に 下品な言い方やめなさいよ﹂と頬を抓られて以来やめた。 彼女は覚えてないだろうけど、僕にとっては一種のトラウマみた と言う 俺 いなもんだと思う。あの時泣かなかっただけでも自分を褒めたい。 と言うのは気恥ずかしいけど、 俺 兄さんや進悟は恐怖のお咎めに遭わなかったのか、一人称は 僕 だ。僕はきっと間が悪かったのだろう。 本当のところ のは気後れするし、どっちにしても柄じゃないと思ったこともある。 今となっては大した問題ではない。問題なのは、美帆が毎年バージ ョンアップしてるってこと。会う機会が減ったとはいえ、一回のダ メージは大きい。あんなに難しい言葉を知っていて勉強も良く出来 て、どうして大人の所作が備わらないのだろう。いつもナーバスで、 烈火のような感情をむき出して、そんなに肩に力が入った生き方し て疲れないのかと思ったりもする。 だけど最近、ふと思う。自分を何かに向かわせる強い意志を持っ ているのって羨ましいなぁ、なんて。 正月の出来事をぼんやり考えていたら気付いた時には掃除機の音 は止み、母さんの姿はキッチンだった。 結構な邪魔扱いをされて、途中から聞きもせず母さんの掃除機が けが終わるまでぼんやりとソファの上に居座っていたともなると、 さすがに申し訳なかった。 ﹁何か手伝おうか?﹂ 母さんのそばまで歩いて行って、一応声を掛けてみる。 ﹁ただいま﹂ 玄関から兄さんの声がして、母さんと僕は同時に﹁おかえり﹂だ け言った。 ﹁特に手伝ってもらうことないから大丈夫よ。大悟の部屋にでも行 33 っててちょうだい﹂ 機嫌は悪くなさそうだけど、居間で暇を持て余していてはやっぱ り目障りなのか。 部屋に戻る兄さんも聞こえていたようで﹁入りなよ﹂と僕を促し た。 ﹁ごめん、お邪魔します﹂ ﹁ベッドでも座っとけよ﹂ 扉の横でコートを脱いで壁のハンガーに掛けている兄の横をすり 抜ける瞬間、冬の空気特有の匂いと残っているはずのない外の冷気 に撫でられた気がした。 同じ家の中だけど、兄さんの部屋は兄さんが持つ匂いがする。 ﹁どうかした?﹂ ﹁あ、うん。他人の部屋だなぁって思って﹂ ﹁なんだよ。自分の家だろ?﹂ 軽く眉を顰めて笑ってから、首を捻るとそのまま左右させてポキ ポキと鳴らした。 兄さんは関東圏の語学系をいくつか受験するらしい。 ﹁あのさ、語学系に進んで何やりたいか考えてる?﹂ ﹁なりたいものか⋮。専門職は考えてないよ。でも学部とか学科を 決めないで受験するわけにいかないだろ?﹂ 兄さんは理系に進むものだと思っていた。 僕たちが中学生の頃、兄さんも理数系の成績が良かったはずで、 文系を志望しているのは意外だった。 ﹁授業やテストなんかでは理数系が得意だよ。公式覚えてれば簡単 に答え出るし。でも理数系を活かせる仕事に魅力を感じるかって言 ったら、どうもしっくり来なかったんだよなぁ﹂ ﹁それでどうして外国語学科?﹂ ﹁結局、中学高校と英語に振り回されちゃったからさ、違う言語を 一から学んで英語に振り回された六年間のリベンジを果たしたい、 ってトコかな﹂ 34 何それ、と突っ込んで笑うと、何だろうなと兄さんも笑った。 ﹁そう言えば、美帆ちゃんも文系に転向するらしいな。判事になり たいんだって。前は研究医になりたいって言ってたのに⋮って叔母 さんが呆れてた。秀、知ってた?﹂ ベッドに浅く腰掛けた僕と向かい合ってフローリングに胡坐をか いた兄さんは、両手を後ろに着いて背中を伸ばした。 ﹁知らなかった﹂ てっきりノーベル化学賞を目指して研究の道に進むのかと思って いたけど、判事か。 幼い頃から高圧的に僕を弾劾してきた怖いイトコは、本格的に裁 く人になろうとしているのか。似合うような気もするけど、独善的 な性格で務まるだろうか。彼女の頭脳で名門大学に合格することや 司法試験にパスすることは約束された未来かもしれないが、司法修 習生の期間に人間的に一皮向けてくれることを願うばかりだ。 ﹁秀はあるの? やりたいこと﹂ ﹁⋮⋮やっぱり、ないとマズいかなぁ﹂ ないのが良いことなのか悪いことなのか分からない。 ﹁やりたいことを見つけるのって簡単なことじゃないよな。まあし っかり考えろよ、のんびりしてたら二年後なんて本当にあっという 間だからな﹂ 二年先があっという間だというのは、分かるようで実感が伴わな い。今から二年前を振り返ると、二年という月日の流れはあっとい う間なのだが、今から二年後と思うと長い時間の先に感じてしまう のだ。 ﹁前から訊きたかったんだけどさ、秀って何で桜ノ宮高を受けなか ったの? 中3の二学期まで桜ノ宮高志望だったよな? 土壇場に なって志望校を変えたくらいだし、東高でなきゃダメな理由でもあ ったのかと思ったんだけど﹂ ﹁それは│││﹂ ダメな理由なんかなかった。もっと言えば桜ノ宮高に行きたい理 35 由もなかった。 ただ受験学区域の中で桜ノ宮高が一番偏差値の高い公立高校だっ たから担任に勧められた。それだけ。 そして願書を取りに行った帰りの電車│││満員電車の中で急カ ーブに差し掛かった時に、将棋倒しの下敷きになり足の骨を折った。 人生初の慣れない松葉杖で、電車やバスで桜ノ宮市まで受験に行 く気力がなかった。道中も不安だったし、いちいち人目を引くのも 嫌だった。もともと戦意なんかなかったけど、完全に戦意喪失して いた。 だから歩いて行ける東高にした。ただそれだけだった。 僕が東高を受験すると知った美帆は﹁暇そうだし勉強くらいしか することないように見えたけど、あんたの成績ってそんなもんだっ たの?﹂と侮蔑の言葉を吐き捨てた。 ﹁まあ目と鼻の先だし、レベルだってそこそこの進学校だし悪いと は思わないけどな。ただ、少しでも偏差値の高いトコに行きたいっ て思うのが一般的だし、秀もそう思って桜ノ宮高を希望してたと思 ってたから﹂ やっぱり変だよな。県外ならまだしも隣の市で、私立で学費がバ カ高いわけでもないのに寸前で志望校変更って。ひょっとして桜ノ 宮高を受験する他の人からイジメに遭ってたとか心配されてるのか な。 ﹁東高が近いから﹂ 近いから松葉杖でも試験を受けに行きやすかった。そう補足する べきなのか│││ ﹁そっか。秀なりに理由があったならいいんだ。桜ノ宮高じゃなく、 敢えて東高を選んだことに秀なりの理由があったなら│││秀なら 見つけられるよ、やりたいこととか、行きたい大学とか﹂ 確固たる理由も自分の意思もどこにもないことが、安心したよう に笑った兄に申し訳ない気持ちになった。 36 僕は、人間でありながら、畠中秀悟という名と形を持ちながら実 は名も形もないのかもしれない。 見えないものはいつだって、漠然としていて不確かで、実体感や 距離感を狂わせる。 たとえ見えているつもりでも、実体感や距離感が感じられていな ければ、見えていないのと同じかもしれない。 進学についての未来よりももっと、二年後の自分の姿さえ見えな いことに気づき、心の中で焦燥感が粟立つのを感じた。 冬休みの宿題もとっくに終わったなんて、手持ち無沙汰になって る場合じゃなかった。僕は本当に目の前のことしか見ていないんだ な。 これじゃ真面目に勉強してるつもりでも、美帆に馬鹿にされても 仕方ないな。 37 05 モラトリアム 休みが明けて、気忙しい三学期を迎える。 晩秋の頃には、北国にでも行くのかと友達から突っ込まれること が多かった僕の登下校スタイルも、この時期になってやっと周りと 足並みが揃う。 剣道部は冬も素足で地獄だと浜島は愚痴を零していたけど、剣道 部の話しを聞くと反射的に平岡さんのことが頭に浮かぶ。彼女もま た朝から足先が凍るような中で素足で稽古するのだろう。 永田さんが柳瀬に﹁高校卒業までに三人全員で三段を目指そう﹂ と言っていたことがあった。三人というのは平岡さんも入るのだろ う。その目標に向かって彼らは稽古に打ち込んでいる││ ブロンズ そんなことを考えながら、窓から見える登校風景の中、見つけた 彼女の姿。冬の朝日の鈍い光で銅色に染まった髪を耳に掛けながら 笑う彼女の横顔は、いつもよりも大人びて見えた。 始業式の翌日、2年で履修する希望選択科目の記入用紙が配られ た。 2年からは地学を除いた物理・化学・生物の三科目から一科目と、 地理・日本史のどちらかを選択する。配られた記入用紙にそれぞれ の科目の希望順位を書いて今週中に日直か担任に提出する、そうい うことらしい。 選択した科目ごとにクラス編成されるのかまでは明言されなかっ たが、時間割や移動教室のことを考えると、恐らくクラス編成に関 係があるような気がした。 ホームルームが終わり先生が退室すると喧騒は一気に増し、それ ぞれが用紙を手に親しい友達と集まっていた。教室内に相談し合う 声が溢れる。 38 近くの席の女子が﹁看護師になりたいから化学か生物が受験に必 要になる﹂と言っているのが聞こえた。その隣の子は、保育科のあ る短大に推薦入試で行きたいから少しでも内申点を上げられるよう に、苦手な物理は外したいと言った。 思った以上に、みんな向かう先を見据えているんだな。 僕は将来の希望や具体的なビジョンは定まっておらず、兄さんと 進路の話しをした晩に自分はどう進んで行きたいのか考えてみたり した。 読書が好きだとは言っても、僕の場合は人と話すのが苦手だから、 気まずい沈黙やそれを埋めるための手持ち無沙汰対策という要素が 大きい。本を読んでいます、という体裁を作っておくことは、会話 に巻き込まれ難い。 だからどちらかというと文学好きで常に本を携帯しているわけで はないので、ジャンルも軽いタッチのミステリーものが多い。難し い本を読んでいないせいか語学系や文化系があまり得意なわけでも なく、むしろ好きなのは理数系だ。 数式や関数などが得意だから電気系か機械系の学部のある大学へ 進学しようかと、漠然と考えた。そこから何を目指して行こうかは 現時点では後回しになってるけど。 兄さんは学費半額免除とはいえ私立高で、大学も私大希望だし、 下には弟もいる。 親の負担を考えると僕は国公立に行けたらと思っている。あくま で今のところは。そうなるといくら理数系進学希望でも、社会科目 の選択も軽視できない。 浜島と柳瀬のところに用紙を片手に富樫がやってきて、何を選択 するか話し合っている。 ﹁先生は必ずしも選択科目がクラス編成に影響するとは限らないっ て言ってるけどさ、しないわけがないだろ﹂ 39 ﹁なんで?﹂ ﹁考えてもみろよ。時間割りで理科の度にそれぞれの科目に分かれ て教室移動するとか非効率だろ﹂ ﹁芸術科目だってそれぞれ分かれるじゃん﹂ ﹁あれは、ほら。そういうもんなんだよ﹂ ﹁なんだよ。急に説得力ねぇな。富樫さん、意味不明﹂ ﹁まあ、そう言うなって。主要教科と副教科じゃ立ち位置が違うっ てことよ﹂ ﹁⋮⋮ヤナちゃん、どう思う?﹂ ﹁たぶんクラス編成に関わると思うけど、念のため放課後2年の先 輩に訊いてみたらいいじゃん﹂ ねえ ﹁あ、なるほどね。さっすが、頭イイね﹂ ﹁ちゅーコトで、永田姐さんも計画に引き入れようと思うわけなん ですが﹂ ﹁繭子さんどうするんだろ。富樫、訊かないの?﹂ ﹁だから今から永田姐さんに交渉するんだよ。今日の放課後、部室 で相談会な﹂ 富樫は悪戯っぽく片眉を上げてニヤッと笑うと永田さんの席の方 へと走って行った。 ﹁なるほどね。永田姐さんを先に攻略して難攻不落の繭子さんを釣 るとは富樫も考えたね﹂ 永田さんが同じクラスになろうと言えば彼女も断るまいと浜島が 苦笑いした。 文化部を含めて幾つかの共部があるけれど、剣道部くらい普通の 共学らしい関係を築いている部もないと思う。 吹奏楽部も比較的結束力が良好だというけど、圧倒的に女子部員 が多く男女同権とは言えないらしい。 同じクラスになろうと思案する富樫たちを見ていて、つくづく彼 らの仲の良さを感じる。あんな風に気の合う仲間同士で同じクラス 40 になって一年過ごしたら楽しいだろうな。 そういう誘いに乗りそうもない真面目な柳瀬までもが楽しそうに そんなことを話すもんだから、剣道部の雰囲気が羨ましく思える。 チームワークっていうんだろうな。 羨ましいけど、そうなりたいわけではない。⋮⋮なんて言ったら、 天邪鬼の負け惜しみみたいに思われるかもしれないけど、純粋に自 分には相容れない雰囲気だと思っている。 コミュニケーション能力も低い上に、コミュニケーション願望も 薄い。僕のようにチームワークなんて言葉とは縁遠い人種だって、 世の中にはたくさんいると思う。 人が嫌いなわけではないけど、輪の中にいなければ淋しいという 概念もない。チームの中で人付き合いを保てる自信もない。 仲間たちと青春時代を共有して謳歌しているグループを淡く緩く 憧れているくらいが僕にはちょうどいい。 富樫が永田さんの席の前で熱弁を奮っている様子がオーバーリア クション過ぎて、遠巻きに見ていた浜島と柳瀬が笑い出す。 富樫の張り切り様も、呆れ顔の永田さんも、遠巻きに笑う浜島と 柳瀬も、青春を謳歌しているワンシーンに映る。 僕と彼らの間には見えない境界線があって、色鮮やかな世界の住 人である彼らを僕はモノクロの世界から見ている。きっと彼らの目 には僕のいる世界がモノクロに見えることはない。色鮮やかな世界 の彼らの視界には溢れかえる光が注いでいて、色のないものがすぐ 近くにあることすら眩しくて気づかないと思う。 富樫がガッツポーズをして踵を返す。 ﹁とりあえず姐さんは選択科目を合わせるのはOKで、どの科目に するかは放課後に部室で相談しようって言ってくれた﹂ 嬉しそうに富樫は、強引に浜島とハイタッチをした。 41 上機嫌で教室を出て行く富樫の背中を見送りながら浜島が柳瀬に 投げかける。 ﹁富樫って付き合い始めてから繭子さんへの態度変わったよな。付 き合う前はゴリゴリ攻めてたのに。さっき永田姐さんを説得してた みたいにさ﹂ ﹁きっと僕たちが思ってる以上にナイーブなんだよ。一番釣りたい 相手から難色を示されるのが怖いんじゃないかな﹂ ﹁あの富樫がそんなタマかよ? 五ヶ月の間に五回告る男だぞ、同 じ相手に。鋼鉄の心臓を持ってなきゃ出来ない芸当だと思うけどね﹂ 解せない表情の浜島に、柳瀬は英語の予習のチェックをしながら 最後は流すように笑っていた。柳瀬には敵わないなと思う。自分の やることだけを淡々とこなしているように見えて、ちゃんと周りを 見ている。浜島のことも、富樫のことも、ちゃんと。 入学して今のクラスで約一年。女子の数と勢いに圧倒されながら も、自己主張が強いタイプや主張を強いるタイプの男子が殆どいな い環境の中で、保護区内の少数部族のように平和に高校生活を過ご してきた。 東高に男子の大多数が似たようなタイプだと分かっていても、ク ラス替えによって新しい面々と新しく人間関係を構築するのかと思 うと、ほんのり気が滅入る。 中学の時にいたような﹁あいつ、超キモーい!﹂なんて地味男を 後ろ指さしてゲラゲラ笑うカースト上層のバラモン女子や、オラオ ラ男子だっているかもしれない。 東高の学区域を考えれば当然のことながら同じ中学出身者は多く、 中学時代は賑やかなグループで見たような男子の顔もチラホラ見か ける。そのうちの大半がめっきりおとなしい。それはありがたいこ とではあるけど、反論できない性格のクラスメイトを標的にしては 大袈裟に揶揄していた姿を思い出すと、おとなしくなっているから 42 と言って親しく出来そうもない。 僕が知らないだけで、今のクラスで僕が親しく付き合っている友 達の中にも中学時代はそういう部類がいたと言われたら身も蓋もな いけれど、そこはまあ、自分の目で見たものがすべてと片づけてお く。 とにかく、人となかなか馴染めない僕が仲良くなれた柳瀬や浜島 とクラスが別れてしまうのはやっぱり少し淋しい。 彼らにとって、学校生活最大かつ最高の居場所は剣道部仲間たち との空間に他ならず、言うなればメインディシュだろう。気軽に挨 オードブルの中に苦手なアイテムがなくて良かった 拶を交わす間柄のクラスメイトとの空間はオードブル。つまり僕と の関わりは 的なものだと思う。 僕にとっての学校生活のメインディシュは? 考えた時に浮かぶ答えは、勉強しかない。特別に勉強熱心なわけ でもないし勉強が生き甲斐なわけでもない。やや消去法気味だけど、 部活動に打ち込むことを選ばず、密に関わる友もない僕の学校生活 を円グラフで表したら勉強の他のものが浮かんで来ない。 僕はそんな空虚な自分に諦めの溜め息をついて、サラサラと紙の 上にシャープペンを滑らせた。 学校生活に情熱も意義も見い出せず、目指す先さえも定まらない 薄っぺらい地味男。そんな自分から脱却したいかと問われたら、脱 却する先になりたい像が描けているわけでもなく、意味なく足掻く 気概もない。 そんな僕に出来ることと言ったら、常に円グラフの中の一番大き い部分を占めるものを選び続けること。 だから僕は理科の中で得意な順に物理を第一希望に選ぶ。社会も そう、歴史は苦手だから地理を第一希望に選ぶ。今はそれだけ。 いつか僕の目の前に見えるいつもと同じ景色が少し変わって見え 43 たりして、僕の円グラフが変化したり、なんなら円グラフなんて投 げ捨ててしまい衝動に駆られたりなんて、一体どんなことが起きた らそんな自分になるのか想像出来ないけど、もしそんな時が来たら また考えればいい。 今は何の変哲もなければ面白味もない、ただの地味男が等身大の 僕。 あっさりと書ききった用紙を二つに折ってそのまま机の中に押し 込んだ。 44 06 春フィルター ﹁なんで休み明けってこんなに怠いんだろうねぇ﹂ サラサラした前髪を風に靡かせて隣を歩くまいちゃんの不安定に 掠れた声がクラクションの音に流された。前髪を長い指で掬って戻 だいご す。色白のまいちゃんは白い額に広がる赤いニキビを気にしている。 ﹁大悟くん、もう東京? 連絡くれたら積荷くらい手伝ったのに﹂ ﹁気持ちだけでもありがとう﹂ 四月になって一週間くらいだというのに、月が変わるだけで、あ たりの空気まで明るく色づいた気がする。そこになかったはずの草 があり、当たり前のように花をつけ、ずっとそうだったかのように 風景として溶け込んでいる。 冬場には空気まで凍って匂いを閉じ込めていたものが、春になり 溶け始める。学校のそばの街道沿いのガソリンスタンドからはガソ リンの匂いがひときわ漂ってきた。 兄さんは大学に通うため三月の最後の週に家を出て東京で一人暮 らしを始めた。本人曰く第二希望にどうにか引っかかった、とのこ と。元々私物が少ない兄さんだけど、引っ越しの荷物は予想してい たよりもずっと少なかった。 内見に行った母さんは﹁今の賃貸って家具や家電なんかも一揃え 付いてるのねぇ﹂と感心していた。 それにより僕と進悟の相部屋生活にも終止符が打たれ、僕は兄さ んの使っていた一人部屋へと栄転になった。 だいごにい 進悟も部屋を一人で使うようになって僕が使っていたベッドや机 や本棚が邪魔になるだろうと思ったが、﹁大悟兄が帰ってきたら俺 の方に泊まってもらうし﹂と進悟が言い出し、僕は兄さんの部屋に 45 家具類は据え置きで、 居抜き物件 に入居した。 僕にとっては、まだまだ肌寒い四月の上旬。外の空気は溶け始め たのに、家族が一人抜けた家の中はどこか寂しく硬質な気配が漂っ ていた│││ 一目で真新しいと分かる制服に身を包んだ人、春らしい淡い色の スーツを着た同伴者たちが前を行く。それぞれの背中には、この道 を歩くことに馴染んでいないそわそわした高揚感が見て取れた。 僕も一年前はこんな感じだったのだろうかと、こそばゆい気持ち になる。中身は何一つ変わった気はしないけど。 ﹁なんか一年って、過ぎてみるとあっという間だよね﹂ 言葉の後半はアクビでグダグダになっていたから、思わず笑うと 薫。名前もあだ名も女の子みたいな彼は かおる まいちゃん本人もつられて笑った。 まいばら まいちゃんこと、米原 同じ東高に通う中学の同級生で、僕に年賀状をくれる数少ない友人 の一人。 家が近いこともあり、ほぼ幼馴染みという感じ。年のうち半分く らいは、こうして一緒に登校している。と、言っても約束や待ち合 わせなどしているわけでもない。まいちゃんの方が学校から近いた め徒歩が多く、僕は気分で自転車だったり徒歩だったりだが、遭遇 率も高いから自然と一緒になる。 僕より身長が高い彼だが変声期が遅く、元々おとなしい性格だっ たけどからかわれることを厭んで思春期になる頃にはますます無口 になっていた。変声期が終わりかけの今は不安定な声をイヤがって いる。 お互いに口数が少ないものの、そんなところも含めて昔から知っ ている同士、一緒に登校していても居心地が良い。 選択科目の希望調査用紙が配られた翌朝、当然のようにその話題 46 になった。お互いが思った通り、二人とも似たような選択だった。 ﹁あくまで聞き囓った話なんだけどさ、物理少ないらしいね﹂ まいちゃんが1年の時の担任の先生は、理科は実験室への移動教 室が多いから選択した理科の科目でクラス単位にまとまる可能性が 高いだろうと言っていた。富樫の言っていたことはあながち間違っ ていなかったみたいだ。 富樫たちがどんな選択希望を出したのかは分からない。 選択希望を揃えることである程度の話はまとまったらしいのだが、 実際にどの科目を選択するかで揉めに揉めたらしい。最初は多数決 で履修したい科目を調べたところ、剣道部にも数式が嫌いだったり 看護や医療方面へ進学したい女子たちが生物を希望したという。と ころが富樫が﹁生物が圧倒的すぎてクラスがたくさん出来る可能性 や、生物以外の第二希望以外に回される人が出てくる可能性が高す ぎる﹂と物理選択を主張したらしい。生物以外なら化学をと考えて いた受験科目に必要組が反対し、更には理数嫌いの浜島も﹁物理だ けは絶対に嫌だ﹂と猛反発。オールマイティとはいえ文系の柳瀬も 難色を示したらしい。 そんなわけで富樫の画策の顛末がどうなったのかは知らないけれ ど、物理希望者が少ないとなるとまいちゃんと同じクラスになる可 能性は高そうだ。 新しいクラスの新しい人間関係が不安だったけど、気心知れた人 が一人でもいそうなことが緊張感を和らげる。 正門から昇降口までの新入生たちの雑踏を抜けると、すぐに在校 生たちの人の波が現れた。 既に階段の途中から、人の声や足音などのざわめきがコンクリー ト壁に反響する。休み中に人の出入りが少なくなっいたせいか、そ 47 れとも雑踏のせいか、埃っぽい空気が喉の手前でざらつく。 1年の時の三階から一つ下がって2年の教室は二階になるので毎 日の昇り降りが少し楽になる。二階まで階段を上がりきると、人混 みの中にひょろっと身長の高い猫背の姿を見つけた。 ﹁あ、畠中ちゃん﹂ よろしくね﹂ 柳瀬はこちらに気づくと、人懐こい笑み浮かべた。 ﹁今年もまた同じクラス! あれ? 理科括りのクラス編成じゃなかったのかな? 柳瀬が物理を第一希望にすると思えないし│││、それとも推定 一番人気の生物を第一希望にして第二希望以下に回されたとか。 ﹁そ、そうなの? 何組?﹂ ﹁2組。浜島もまた一緒﹂ 階段を上がって右側二つ目の教室、2年2組の壁に貼られた名簿 に僕の名前があった。 同じように2組のクラス名簿を見渡して名前がなかったまいちゃ んは﹁クラス一緒じゃなかったんだね。とりあえず俺も自分のクラ ス探すよ﹂と軽く手を上げて雑踏に消えた。 同じクラスになるだろうと思っていたまいちゃんが去っていき、 別のクラスになると思っていた気心知れた柳瀬が同じクラス。突然 失った安堵と埋めらた安堵で頭が混乱する。クラス編成に法則はな かったのだろうか。 しかし目の前の名簿は東高なのかと目を疑うくらい男子の名前が 繭子 の文字に心臓がドクンと鳴り、 多く、赤字で書かれている女子の名前はざっと見ただけで十人前後 のようだった。 そして││ 平岡 ﹁繭子さんも同じ組になったね﹂ 僅かな赤い字の中に 息を呑む。息でも呑まなきゃ﹁えっ?!﹂なんて言ってしまいそう 48 だったから。きっと僕は夢でも見ているんだろう。 何度まばたきしても彼女の名前はそこにあり、ますます混乱し動 揺した。一体どうなってるんだろう。富樫と同じクラスになるんじ ゃなかったの? いや、そんなことは決まってなかったけど。とに かく何が何だかさっぱり分からない。 ﹁富樫は6組だって。あっちがもう一つの物理クラスだろうな。さ っき畠中ちゃんと一緒にいた米原くんもね﹂ 浜島の第二声で我に返る。振り向く前に浜島が小気味良く僕の肩 を叩いた。 ﹁なんだよ、畠中ちゃん。物理選択してたのか。言ってくれよな。 隣の席だったのに水くさいよ。畠中ちゃんが物理だって分かってた ら、もっとすんなり決めてたのに﹂ ﹁えっ、どうして?﹂ ﹁畠中ちゃん頭良いし教われるから心強いじゃん? それに仲が良 い友達がもう一人また一緒かもって思ったら楽しみだろ﹂ 浜島の言葉に胸が詰まった。 浜島や柳瀬とは、僕だって親しくしているつもりでいた。けれど、 浜島や柳瀬にとって学校生活全般はもちろんのことクラス内に限っ ても剣道部の仲間との繋がりが強固でそれと肩を並べるものは存在 しないのだと思っていた。だから自分は彼らにとってオードブルの 中の一アイテムだと。そんな風にどこかで卑屈になって、そしてま た僕にとっても彼らとは相互的な位置付けなのだと思おうとしてい た。特別に親しい間柄ではないのだと合理化していた。ごめん、そ してありがとう。本当に。 三人で教室に入り、とりあえず空いている席に腰を下ろした。1 年の時と同じように柳瀬の後ろに浜島、その隣に僕。 ﹁男子多いなー。東高じゃないみたい﹂ 浜島の言うとおり、まばらに埋まり始めた席は男子ばかりだった。 49 それぞれの同じ中学だった男子や1年の時に同じクラスだった男子 と顔を合わせ、そのたびに軽く挨拶を交わす。 ﹁2年は女クラが三つだってよ﹂ 1組と2組、6組と7組が共学クラスで合同、真ん中の3、4、 5組が女子クラスだと浜島の友達が言っていた。6組はまいちゃん や富樫たちのいるもう一つの物理クラスということだろう。やはり 同じように男子の方が多いらしい。 極端に女子が少ないことを残念がっているような声も聞こえたが、 それが建前のように聞こえるのは気のせいではなさそうだった。女 子ばかりで肩身が狭い空間よりも気が楽に感じたし、残念そうな声 をあげていた男子たちも満更でもなさそうに見えた。 ﹁あ、まゆちゃん!﹂ 窓際の前の方の席に固まっていた三人の女子のうちの二人が立ち 上がり、後ろの扉の方に向かって大きく手を振った。 くぼ さいとう 明日香さん、色白で髪の長い人が斉藤 あすか 少し前に浜島と柳瀬に挨拶していた二人は剣道部の子で、小柄で ふみの 眼鏡を掛けている方が久保 文乃さんだと浜島が教えてくれた。二人とも1年の時は隣の4組 だったらしく、合同の授業もあったはずだけど見たことない顔だっ た。 彼女たちに手を振っていた平岡さんが僕たちの視線に気づいて近 づいてきた。 ﹁1年3組で見た景色そのままなんですけど﹂ 彼女は可笑しそうに笑った。 ﹁知ってる子がたくさんいて嬉しい。楽しくなりそう﹂ 彼女は大きな目を細めて子供のような笑顔を浮かべた。 ﹁物理苦手なのでお世話になります﹂ おどけた口調のまま、ゆっくり頭を下げる彼女の髪がはらりと揺 れ、いつかの髪の匂いが鼻腔を擽った。 春の匂い││ 50 咄嗟に思った。今朝、登校中に感じた春の匂いと種類は違うかも しれないけど、ここにもあった⋮と。 浜島が彼女に調子を合わせて丁寧に﹁ヤナちゃんはもちろんのこ と、畠中ちゃんも相当優秀ですから﹂と指を揃えて手のひらで僕を 示した。 ﹁心強いクラスだね﹂ 彼女は笑顔でそう言い残し、呼んでいた女子の所に駆け寄って行 った。 楽しそうに笑い合っている彼女の横顔が僕の目の奥で、まるで切 り取られた絵画みたいに写った。ふわっと薄桃色の霞ででも掛かっ て、花びらなんか舞ったりして春の匂いがしそう。なんて。こんな を掛けたんだろうけど。 風に僕の日常と彼女の日常が同じ場所になった幸運が僕の気持ちに 春フィルター えさか 予鈴が鳴り、廊下にいた生徒たちがバタバタと教室に駆け込んで くる。 担任は江坂先生。1年の時に物理の授業を受けていた。研究職の 人みたいに白衣姿が馴染んだ江坂先生の独特の雰囲気は嫌いじゃな きず いけれど、声を荒げることもなく抑揚もなくボソボソ喋るので授業 中は眠くなってしまうのが玉に瑕なんだよな。 先生の指示で、各々が好きな席に座っていたのを名簿順に移動し て座り直し、簡単な自己紹介が始まった。 僕の後ろの席に着いた浜島がシャープペンで僕の背中を突つく。 ﹁嬉しいって、あれ。どう考えても俺たちに気を使ったよなぁ﹂ さっきも自分の口で物理が苦手だと彼女は言った。富樫や永田さ んに説得されたのかもしれないけど、苦手な科目を選択までして同 じクラスになるよう揃えたのに富樫とクラスが別れてしまった。 ﹁俺さ、なんかすげぇ嫌な奴なんだよ。2組の名簿の中に繭子さん の名前見つけた時、無意識に富樫の名前を探してたんだよ﹂ なくて││正直、心のどこかで富樫を蹴落とした気分になった気 51 がする、と浜島は苦笑いした。 ﹁繭子さんにしてみたら、なんで富樫じゃなくて⋮⋮同じクラスな のが俺やヤナちゃんなんだ? って話しだよな﹂ 久保さんや斉藤さんと楽しそうに笑い合ったり、後から入ってき た永田さんと両手でハイタッチをしていた平岡さんの笑顔は偽物に は見えなかった。 それとこれとは違うのだろうか。やっぱり本当はがっかりしてい るのかもしれない。 富樫はどんな気持ちでこのクラス替えを受け止めたのだろうか。 ふと彼女を見た。前の席の女子と変わらぬ笑顔で談笑していた。 春フィ はどこかに消えて、このクラスにいるのが富樫じゃなくて けど、浜島にあんなこと言われた後では、僕の能天気な ルター 僕で申し訳ないと密かに心の中で詫びた。 52 07 箱庭の憧憬 ﹁すごいね、マジで﹂ ゴールデンウィークも過ぎ、クラスの雰囲気にも馴染み始めてい た五月中旬。 ご満悦な浜島の様子を不思議に思って見ていると、横から柳瀬が 注釈を加えてくれた。 ﹁新入部員の数が、僕らの学年の倍以上なんだ﹂ 先輩 になれると上機嫌なのだ。 しかも半分以上が未経験者という前代未聞の状態らしく、未経験 で入部した浜島も本当の意味で ﹁それにしても、⋮⋮なぁ﹂ 突然苦々しく表情を歪める浜島。 四月に講堂で新入生を対象に部活動紹介があり、剣道部は平岡さ んと永田さんと柳瀬が出たらしい。 らしい、と言うのはロングホームルームの時間で新入生と各部の 代表が講堂へ行き、あとの生徒は除草作業だったから。除草中の雑 談の中で浜島は、本来なら3年生がプレゼンするのに﹁上段者を差 し置いて実演披露なんて恐れ多いわ﹂と嫌味まがいの逃げ口上で、 柳瀬たちに押し付けたのだと憤慨していた。 新入部員たちの中で平岡さんと永田さんの二人に人気が二分して つら いて、その熱狂ぶりはファンクラブでも結成しそうな勢いなんだと か。部活動紹介を丸投げした3年生たちが顰め面している様は、最 初こそ痛快であったものの、妬みの矛先は彼女たちへの反感という 形で一層風当たりが強くなっているらしい。 ﹁女子の嫉妬は怖いよ﹂ 柳瀬が嘆息すると、浜島が反論する。 ﹁男の嫉妬だって充分ややこしいと思うけど?﹂ 53 女子ばかりでなく男子の中に堂々と平岡さんファンを公言する子 がいて、富樫の虫の居所がも悪いようだ。 そういえば五月に入ってから富樫の姿を殆ど見ていない。 四月中は放課後に教室の前で柳瀬たちを待っているのを見かけた。 富樫が来たタイミングで永田さんが柳瀬にノートを見せてと呼び 止める。浜島も一緒に足止めになり﹁繭子、富樫くんと先に行って て﹂となる。こんな光景が常だった。 柳瀬も浜島も、永田さんが気を利かせていることは分かっていた。 仲睦まじく並んで歩く後ろ姿は、本当に二人はカップルなんだな と再認識するにはお釣りがくるくらいだった。 平岡さんと同じクラスになり、今まで知らなかった面がたくさん 見えてきた。座った背筋がとても綺麗なこと。授業中、黒板を見な がら眉を顰めたり頷いたり、本人に自覚はないのだろうが感情が顔 に出やすいこと。時折睡魔と戦っている姿は、盗み見したまま目が 釘付けになってしまいそうなほど愛くるしい。カクンと落ちかけて 慌てた姿はもっと可愛い。 そ に分類される男子や女子にも気さくに接して、たちまち 誰にでも分け隔てない態度の彼女は、僕みたいにクラス内で の他大勢 皆と打ち解けていた。 最初は人気者の女子から用事以外を話し掛けられる状況に警戒し 人たらし と言うのだろうか? て戸惑って彼らも、いつの間にか平岡さんとは普通に話すようにな っている。彼女みたいな人を 僕も例に漏れず彼女と言葉を交わしている。まだ僕からは挨拶く らいしか声を掛けたことはない。挨拶だけでも大出世だと思ってい る。あんな人気者で可愛い女の子と挨拶することが日常になるなん て、小学校入学からついこの間までの自分からは想像すらし得ない 超常現象だ。 54 すぎの 彼女と同じ新桜ノ宮中出身の杉野の話しでは、彼女の家は桜ノ宮 の古くからの高級住宅地にある大きな日本家屋のお屋敷だとか。 新桜ノ宮中学は桜ノ宮の中心部が校区で生徒数も多く、杉野と彼 女は同じクラスになったこともなく接点もなかったけど、中学の時 から彼女は人気者だったと言っていた。 派手な性格でもないし派手なグループの子というわけでもなかっ たから、表立ってチヤホヤ騒がれていなかったせいで、平岡さん本 人はおそらく自分が人気者だということに無自覚だろうと杉野は言 った。 同じクラスになって﹁杉野くん、同じ中学だったよね?﹂と話し かけられて吃驚したと言った杉野は、嬉しさを隠すように頑張って いるみたいだったけど、心の中がダダ漏れなくらい顔がほころんで いた。 ひ弱で気弱で貧弱で、友達も口数少なくて、ゴワゴワの癖っ毛で 見た目も性格もパッとしない地味男の僕。かたや容姿端麗で文武両 道で誰にでも優しい気さくなお嬢様。 分かってる、同じ空間に居られるだけでも畏れ多いってこと。彼 女にとって僕もクラスメイトの一人だってこと。クラスメイトとし て認識してもらえて毎朝声を掛けてもらえるだけで僕なんかには充 分に幸せだってこと。 毎日言葉を交わすようになったら、もっと話せるようになりたい とか友達だと思ってもらえる間柄になりたいなんて欲も湧いてきて しまうかと思ったけど、僕もそこまで身の程知らずというわけでは なさそうだった。 近くなった気がしてもやっぱり遠い存在だってことを毎分毎秒刻 まれるように思い知らせる日々の中で、憧れに近い着地点に落ち着 いていた。 平岡さんには彼氏がいて、相手は放課後にいつも迎えに来ている 55 6組の富樫だということは、すぐにクラス中で認識されることとな った。クラスの男子の殆どが、他の女子とはまったく別次元の親し みやそれ以上の感情を抱いているの彼女を見ているのだから、特別 な立ち位置にいる男子の存在を感じ取れないわけがなかった。 もっとも学校内で二人が一緒にいる姿は放課後くらいだけと、特 に付き合っていることを隠している気配はなかった。手を繋いだり じゃれ合ったりする糖度の高いカップルではないけれど、目を細め て穏やかに笑いながら彼女の隣を歩く富樫の横顔は、僕たちには見 せないような柔らかさがあった。 その富樫が最近顔を見せない。 ﹁富樫、最近だいぶこじらせちゃってるからね﹂ 恋人でも浜島や僕たちでさえ、平岡さんが誰からも好かれている この状況を目の当たりにしたら複雑な気持ちになるのだから、富樫 の立場では尚更かもしれない。ましてや部活に行けば、平岡さんフ ァンの後輩たち││ ﹁で、他の女子とイチャイチャと﹂ かのう 浜島が吐き捨てると、永田さんが近づいて来て浜島の隣の席に乱 暴に座った。 ﹁同感。なんかムカつくよね﹂ ﹁誤解だよ﹂ 柳瀬が笑って否定する。 ﹁カップルにしか見えないけどな﹂ ﹁そうよ、誤解なわけないじゃない。どうかしてるわよ、加納さん も富樫くんも﹂ 浜島と永田さんが文句を分かち合っている横で、柳瀬が僕に事の 概要を説明してくれた。 話しに参加してたわけじゃないんだけどな。席が浜島の前だから たまたま居合わせただけなんだけどな。 56 かのう 加納 祐美さんという富樫の幼馴染みの子がいて、二人は今同じ ゆみ クラス。 おうちゃく 苦手なのに物理を取ってしまった富樫にノートを見せたり、他の 教科も居眠りしたり横着しようとするのを見兼ねて世話を焼いてい るとのことだった。 ﹁幼馴染みだからって、同じ学校に彼女がいる男に甲斐甲斐しく世 話を焼くのって、どうなの? ママじゃあるまいし。普通、彼女に 頼りなよとか言うもんでしょ?﹂ それに対して柳瀬は、富樫の性格上格好悪い部分を彼女に見せた り頼ったりは出来ないよと言った。 ﹁じゃあ自分で何とかすれば良いだろ。だいたい俺たちだってより によって一番苦手な物理を富樫の誘いで選択したのによ﹂ ﹁確かにそれに関しては僕たち富樫に巻き込まれた感はあるけど、 こっちは身近に永田さんや畠中ちゃんみたいに物理が得意な心強い 友達もいるし﹂ ﹁私の得意科目より柳瀬くんの苦手科目の方が優秀よ。役に立てる レベルじゃないわ﹂ とうどう ﹁6組にだって好きで物理を選択した連中が集まってるだろ?﹂ ﹁二人とも、熱くなるなって。ヤナちゃんが困ってるじゃん﹂ まなぶ 僕の隣の席で音楽を聞いていた風に見えた、ガクちゃんこと東堂 学がイヤホンを外して大きく伸びをした。 ガクちゃんは明るくて真面目で爽やかな見た目そのままの、好青 年を絵に描いたような人。身長も高いし、誠実だし、男らしいし、 顔も整ってるし││僕から見たら、彼女がいないのが不思議なレベ ルで非の打ち所がないくらい格好良い。 ラグビー部のなかった東高に同好会を申請して部活動として立ち 上げた発起人がこのガクちゃんであると、聞いたことがある。最近 では人数が集まらなくてラグビー部は近隣の高校と合同という形が 多いらしいのに、男子生徒の少ない東高で部員を二十ニ名集めてし 57 まったというから、人徳も行動力もかなりのものだ。 そんなガクちゃんに彼女がいないなんて東高の黒魔術としか言い ようがないと浜島も言う。 って名 ガ とか呼ばれてるんだけど、そんな感じで まなぶ インドア派で地味な僕なんかとはあまり話す機会がないようなタ ガク イプなのに、席が隣りになって早々に﹁俺、 前なんで友達には と呼んでいる。 よろしく﹂と気さくに声を掛けてきてくれた。それ以来、僕も クちゃん ﹁なに、東堂くん、聞いてたの?﹂ 永田さんが眉を顰めると、ガクちゃんは破顔して﹁だって永田さ んの声、大きいからさ﹂と永田さんを赤面させた。 ﹁俺は富樫くんも幼馴染みの女子もよく知らないけど、逆に言った ら富樫くんだって浜ちゃんやヤナちゃん以外の2組の男子をよく知 らないと思うんだよ。自分のよく知らない男子だらけの2組で平岡 さんが普通に楽しそうに過ごしてるように見えると思うよ? 特定 の誰かとじゃなくてもさ﹂ ﹁富樫くんが好きなのは相手次第で態度を変えたりしない繭子でし ょ? 繭子は何も変わってないわ!﹂ ﹁最初は誰からも好かれる所に惹かれても、自分だけを見て欲しい って思うようになっていくもんじゃないかなぁ?﹂ ガクちゃんの言葉に永田さんが押し黙った。 ﹁俺なら妬くな。こんな風に言えるのは、今好きな子がいないから だけどさ。実際に好きな子が出来たら、妬いてるなんて恥ずかしく て認められない。余裕のある男ぶるけどね﹂ ﹁理解できるっていうことと、だから許せるっていうのは別だと思 う﹂ 永田さんの放った言葉は、それまでと打って変わって低く静かな トーンだった。 ﹁富樫くんと加納さんがジャレてると、繭子は富樫くんに声かけず 58 に戻ってくるのよ。何で彼女が遠慮しなきゃいけないわけ? 繭子 本人は気にしてないって言ってるけど、どう考えたって気分の良い もんじゃないわ﹂ 永田さんは乱暴に前髪を掻き上げて溜め息をついた。きっちりと 一つに結んだ長い髪の束がハラリと揺れる。 ﹁そのくせ放課後になると繭子と道場まで幸せオーラ全開で歩いて て。富樫くんなんか出来損ないのインド人みたいな顔してモテ男と か勘違いも良いところよ!﹂ 永田さん、それはインド人にも富樫にもかなり失礼だと思います。 チャイムが鳴り先生が入って来て、ガクちゃんも柳瀬も何か言い たそうな顔のまま、それぞれが席へ戻った。 ﹁ガクちゃんみたいなヤツと付き合えば良かったのにな﹂ 自分だけを見て欲しいって思うようになっていくもんじゃない 浜島が時々言うそれを、ガクちゃんは知らない。 かなぁ? ガクちゃんが言ったこの言葉が、後々長きに渡って悩む課題にな るとはこの時は思いもしなかった。 永田さんの話し││ジャレ合う富樫たちを見て気づかれないよう に踵を返す平岡さんが、本当にそれを気にしていないのか││それ ばかりが頭を支配していたから。 チョークが黒板を擦る乾いた音に、ヘリコプターの歪んだプロペ ラ音が重なる。 夏はもうそこまで来ている。 59 08 リケジョ 僕たちの2組と富樫たちのいる6組、この二つの物理クラスは教 室もほぼ端と端で使う階段も違うし交流も少ない。そんな隔たりと 交流の少なさから、じわじわとライバル意識みたいなものが生じ始 めていると永田さんが言う。 リケジョ ﹁もともと理系女子って気が強いからね﹂ 物理の授業の終わり頃、後片付け中に浜島の一言から始まった。 ﹁それは浜ちゃん理論だろ? そんなこと決めつけたら全国のリケ ジョに怒られるぞ? うちのクラスはおとなしそうな子ばかりじゃ ん。永田さんも斉藤さんも浜ちゃんに反論しなよ﹂ ガクちゃんがふざけて斉藤さん永田さんの剣道部コンビを呷る。 二人は顔を見合わせて﹁続きが聞きたいよね﹂と含み笑いをした。 私はオ ﹁おとなしそうな││って、見た目が素朴な子の本当の気質が穏や かとか静かって思い込んでない?﹂ ﹁そりゃ、おとなしい子はおとなしい性格だろう?﹂ ﹁地味でおとなしそうな子に限って実は結構芯が強くて、 シャレにばかり気を取られてる中身のない女になんてなりません って頑なな考えを持ってたりするんだよ﹂ 、と斉藤さんと永田さんに確認を取る。 ﹁そんなもんかなぁ?﹂ どう? ﹁あんまり認めたくないけど、そういう所あるかもね。理恵ちゃん も若干ね﹂ 永田さんをチラッと見てイタズラっぽく斉藤さんが笑うと、永田 さんが斉藤さんの頭をノートで軽く叩いた。キャッキャと遊び始め た二人を余所に浜島談議は続く。 60 ﹁全部とは言わないけどな。多いよ。女子力高い子に憧れつつも、 どうせ自分は似合わないし⋮って諦めてコンプレックスにしちゃっ たり、自分は外見ばっかり飾る薄っぺらい女じゃないから、って自 尊心を保ったり﹂ 美帆みたいだ、と真っ先に思った。そう言えば美帆も理系だった いわさき な。あ、判事を目指しているらしいから今は文系か。 ﹁じゃあ岩崎さんたちは? オシャレ女子だけど物理だろ?﹂ ﹁岩崎さんたちは全然リケジョじゃないから﹂ 岩崎さんたちとは、香水の香りがして化粧をしている大人っぽい 三人組のことだろう。我がクラスで少し浮いている存在の彼女たち は、周りからどう見られようが関係ないようだ。肝心なのは周りの 目ではなく、自分が自分にどう満足するか、といった雰囲気だ。 浜島が言うには、1年で女クラだった彼女たちは﹁三年間で一度 くらいは共学クラスになりたい﹂と物理を選んだとのこと。 ねえ ﹁岩崎さんたちみたいなタイプはリケジョから一番敬遠されるね。 ね? 永田姐さん﹂ 浜島に呼ばれて再び斉藤さんと永田さんが話しに加わった。 ﹁岩崎さんたちね、確かにちょっと話しづらいわ。休み時間はいつ も化粧直ししてるかファッション誌を読んでるかケータイいじって るかでしょー。嫌いってわけじゃないけど仲良いっていうほど接点 ないの﹂ 朝会えばどちらからともなく笑顔で挨拶はし合うけど、それ以外 で特に向こうも話し掛けて来ることはないという。 お ﹁でも岩崎さんたち、まゆちゃんとは結構話してるよね﹂ ﹁繭子だからよ。教室の隅に固まってる根暗っぽいヲタ男くんたち とも、菊地さんたちともフレンドリーだからね﹂ ﹁永田さん、根暗っぽいヲタ男って谷口っちゃんたちのこと? そ ういう言い方はダメだよ。菊地さんたちだって真面目で親切だぞ? クラスの数少ない女同士なんだから仲良くしないと﹂ ﹁あ、ここにもいたわ。オールマイティが﹂ 61 誰とでも態度を変えずに話すガクちゃんのことをからかって永田 さんが笑う。 ﹁まゆちゃんも東堂くんも人間の好き嫌いないのかなぁって、思う 時あるよ。理恵ちゃんなんか、ありまくりだもんね﹂ 斉藤さんはエヘヘと笑って、また永田さんに小突かれていた。 リケヲタ なんて ﹁っていうか、ご存知ないのかしら? ただでさえモテないうちの 学校の男子たちの中でも、物理クラスの男子は 呼ばれて更にモテないらしいわよ?﹂ そんなこと言われてるとは知らなかった。まあ、悪い評判という リケヲタ に当てはまるのだろうけど、 のは得てして当事者の耳には届きにくいもんだ。 僕などは間違いないなく ガクちゃんのような体育会系の爽やか好青年まで僕みたいなのと一 括りにされてしまうのは如何なものか。 終わりのチャイムが鳴り、授業の終わりとともにクラスメイトた ちが続々と退室して行った。 理科係の僕は、最後に理科室の戸締まりをして鍵を準備室に返さ なければならず、全員が退室するのを待ちながら、実験器具の片付 けを始めた。 その時だった。 けいた ﹁たまには啓太もジュースくらい奢ってよね? 奢ってくれなきゃ、 もうお弁当作ってあげないから﹂ 富樫と女の子が笑い合いながら理科室に入って来て、退室しよう とした平岡さんと見事に鉢合わせた。 きっとこの子が加納さんなんだろうとすぐに分かった。富樫の制 服のブレザーの袖を引っ張って体を揺らす姿は、腕を組んでいるよ うにさえ見えた。 ﹁⋮⋮っと、彼女サン。私、お邪魔かしら?﹂ 女の子の言葉に、平岡さんが首を横に大きく振った。何度も何度 62 も。 ﹁ううん、全然、そんな、全然。私、教室に戻るところだから﹂ 明らかにうろたえた様子で、二人に会釈をしてそのまま静かに理 科室を出て行った。 ﹁追いかけて謝りなよ﹂ 永田さんが冷たく富樫を責めた。 ﹁待ってよ。どうして啓太が謝らなきゃならないの?﹂ ﹁加納さんは口を挟まないでくれるかなぁ。自分が邪魔者だって自 覚あるからあんなこと言ったんでしょ?﹂ 彼女サン って言い方すっごく嫌味ったらしい! 私は認 ﹁でも彼女サンは邪魔じゃないって言ったわ。啓太が謝るのは変よ﹂ ﹁その めてませんって聞こえるわ﹂ ﹁もしそうだったとしたら、何か?﹂ 後から理科室に来た6組の女子たちが永田さんの激昂と対峙して いる加納さんの姿を見てざわついた。 ﹁永田さんが祐美に文句言うのってどうなの? 優等生の平岡さん はお友達に悪役を押し付けてご自分は悲劇のお姫様ごっこなの?﹂ ﹁まゆちゃんは、そんな子じゃないから。それに理恵ちゃんから加 納さんに文句言い始めたんじゃないわ。富樫くんに言ったのに加納 さんが入ってきたのよ﹂ 普段静かな斉藤さんが力いっぱいに両手で教科書を抱きしめた姿 勢で反論した。 まだ残っていた2組の男子と後から来た6組の男子が、なんだな んだと女子たちの口論を野次馬した。 元凶の富樫は気怠そうに辟易した顔で棒立ちしたままだった。 ﹁平岡さんみたいにちょっと可愛いからって思い上がってる子、大 ッ嫌い。あの子、あざといわ。祐美の方が富樫くんとお似合いなの に、あの女が彼女ヅラしてるのが気に食わない﹂ ﹁彼女ヅラって何? 彼女なの、繭子は。彼女ヅラは加納さんでし 63 ょ?﹂ ﹁理恵さぁ、中学の後輩が佐々木先輩にフラれた時、新桜ノ宮中の 何で男っ って悪口言ってたじゃん。高 平岡さんが好きだからって言われたって話しを聞いて てああいう女に騙されるんだろう 校が一緒になったら手のひら返すとか調子良くない?﹂ ﹁悪かったと思ってるわ⋮。高校で繭子と友達になって、繭子のこ と知りもしないで悪く言ったこと後悔したわ﹂ ﹁永田さんって、もっと筋の通った人かと思ってたけど、意外とブ レブレなのね。そんな人に偉そうにされても、ちっとも響かないん ですけど﹂ ﹁まったく2組の女子ってどうなってるの? 永田さんもどうかし てるし、平岡さんは平岡さんで清純派ぶって男子の庇護欲をそそろ うとしてるんだわ。ホント、あざとくて計算高い姑息な女﹂ 女子の口論を端で野次馬していた男子も次第に固唾を飲んで静ま っていた中にクスクスと笑い声が飛び込んだ。 ﹁な、何がおかしいのよ?﹂ 笑ったのは岩崎さんたち三人組だった。 ﹁だって。⋮⋮ねぇ?﹂ 岩崎さんは長い髪を人差し指でクルクルと弄びながら、小首を傾 げて艶やかに微笑んだ。 クラスの男子の誰だったかが、岩崎さんをフランス人女優のなん とかに似てると言っていた。残念ながらその女優を知らないので名 前も覚えはいないけど、岩崎さんは見た目も雰囲気も大人びている。 ﹁自分より可愛い子を姑息とかあざといとか、見た目も中身も残念 な人の常套句すぎて﹂ 岩崎さんの甘いウィスパーボイスに続いて他の二人も鈴の音のよ うに笑った。 ﹁世の中に男は腐る程いるのにどっちがマユの彼氏とお似合いとか、 頭弱すぎて笑えてくるっての﹂ 64 まつの 岩崎さんグループの松野さんがあくび混じりに言うと、三人はほ モーゼの海割り 状態になった。 ぼ同時に席を立ち、香水の香りを漂わせながら扉の方へ進んだ。 呆気に取られた人たちが あざとくて計算高い姑息な女 と言ったそ 岩崎さんは一人の女子の前で足を止めて、すっと細い指を伸ばし た。平岡さんのことを の人がビクッと体を硬直させた。岩崎さんは繊細なネイルが施され た指先でその子の襟元を直して微笑んだ。 ﹁そんなギスギスした顔してたら、あなた自身が可哀想﹂ 岩崎さん自身は至極当然の行動だったのかもしれないが、辺りに は緊張の後の安堵の空気が広がっていた。 すれ違いざま岩崎さんグループの松野さんが富樫を覗き込んだ。 ﹁ホントこんなクソダサい男、熨斗付けてくれてやれば良いのよ。 マユがこんなに言われてるのに庇おうともしないなんてサイテーよ﹂ 松野さんはモデルの彼氏がいると噂で、制服を着ていなければ女 子大生くらいに見える。顔なんか男子の握り拳くらい小さく見える し、華奢な体格からは想像出来ないほど、睨んだ威圧感は凄かった。 ﹁で、富樫くんはどう決着つけるのよ? 富樫くんの態度次第では、 これからは道場へ行く時も稽古が終わって下校する時も、私から計 らったりしない﹂ ﹁そういうことも含めて、永田姐さんに甘えてたよな、ごめん﹂ ﹁次、うちのクラス自習だよ﹂ ガクちゃんが言った。教室に戻ったと思っていたけど、理科室で 2組と6組が揉めてると聞いて戻って来たのだろうか。それとも平 岡さんの様子が違ったのだろうか。 ﹁ありがとう。ちょっとアイツ借りる﹂ ﹁啓太、もう授業始まるよ?﹂ ﹁悪りぃ、俺サボるから﹂ 65 呼び止めようとする加納さんや6組の女子たちをよそに富樫は理 科室を出て行った。 ガクちゃんが扉の前に立って﹁ここからは富樫くんと平岡さんの 問題だから﹂と富樫を追おうとする加納さんを言い含めた。 6組の理科係は、まいちゃんだった。 もうすぐ授業が始まるから戸締まりは必要ないと笑われ、僕はま いちゃんと交代して荷物を持って理科室を出た。 教室に戻る時に富樫に伴われて階段を昇る平岡さんを見掛けた。 二人は屋上に行くのだろうと思った。 66 08 リケジョ︵後書き︶ *必ずしも理系女さまが浜島談義に当て嵌まるわけではございませ ん。 67 09 ナンセンス 自習の時間は落ち着かない気分だった。 浜島は頻繁に時計を見たり貧乏揺すりをしたりと僕以上に落ち着 きがなく、柳瀬もいつもより口数が少なかった。ガクちゃんはヘッ ドホンをしたまま黙々と英文解釈に集中していた。 理科室での修羅場もどきの騒動後、それ以前に教室に戻っていた 騒動を知らない浜島から、富樫が走って教室に入って来てそのまま 平岡さんの手首を掴んで強引に連れ去って行ったと聞いた。そう話 した浜島に何があったのかと訊かれガクちゃんが至って簡潔に事情 を告げた。 行き違いがあったようだよ、と。 浜島は詳細を聞きたかったようで消化不良の表情をしていたが、 それ以前のことを話しそうもないガクちゃんを見て諦めたのか黙々 と英語の教科書を広げ始めた。 そしてその時間、彼女は戻らなかった。 四時限目が終わるチャイムが鳴り、永田さんは文化祭実行委員の 会合があると教室を出て行った。 僕はガクちゃんと売店にパンを買いに出た。 ﹁ホント、畠中ちゃんってよく食うよなぁ。そんなに痩せてて、パ ン五個もどこに入るんだよ﹂ ﹁五個くらい、普通じゃない? ガクちゃんだって、多いよ﹂ ガクちゃんの昼食は家から持参の大きめの弁当箱とパン二個。ガ タイもまるで違うラグビー部と帰宅部の胃袋を比較するのもどうか と思うけど、パン五個って多いのかな。 ﹁││っと、畠中ちゃん、あれ⋮﹂ 急に立ち止まりガクちゃんが指差す中庭に富樫と加納さんがいた。 68 自販機から取り出した飲み物を加納さんに手渡している。 ﹁平岡さん、戻ってなかったよな﹂ 富樫も戻ってるし、もう教室にいるだろう。そう思いつつ、ふと 気になって渡り廊下から見上げると屋上の柵に凭れてスカートを靡 かせている肩までの髪型の後ろ姿が見えた。 ﹁ガクちゃん、屋上﹂ 今度は僕が指差し、ガクちゃんは息を呑んだ。 ﹁思い余ったりしてないよな⋮⋮。行こう!﹂ 走り出したガクちゃんの背中を慌てて追った。 ねぇ、ガクちゃん、速いよ。速すぎるって! パンが落ちるって ! パンが潰れるっっ!! でもさ、思い余ってたら背中から柵に凭れたりしてないよね。思 い余った経験ないから何とも言えないけど。 息も絶え絶えに屋上に着いてガクちゃんが重い扉を力いっぱい開 けた。 目に飛び込んで来たのは、後ろ手に肘を柵に絡めて背中を逸らし ストレッチのような動きをしている平岡さんだった。路地を横切る 時に人間と目が合った猫のような表情だと思って、僕は笑った。 前に立ったガクちゃんは、大きな勘違いで錯乱中なのだろう。驚 いて固まった表情の平岡さんは、ガクちゃんの後方にいる僕に視線 を移して一緒に笑ってくれた。 ﹁授業、サボっちゃった﹂ この人の笑顔は一体何度、僕を釘付けにするんだろう。 ﹁自習だからノーカウントだよ﹂ ガクちゃんが彼女の隣りで柵に凭れて並び、そのまま黙った。 ﹁良い子って、今どきナンセンスなのね﹂ ﹁彼に言われたの?﹂ ﹁富樫くんは││、そうは言ってないけど﹂ 69 彼女は言葉を切ってじっと宙を見つめた。 1年の時に、阪井が平岡さんのことを健全度が高過ぎて二次元っ ぽいと言っていたのを思い出した。 ﹁あーあ、なんだか急にお腹空いてきちゃった。もうパン売り切れ てるよね﹂ 渡り廊下の辺りを見下ろして、恨めしそうにおどける彼女は、ど んな経緯があったのか分からないけど富樫の話題は触れたくないよ うな気がした。 ガクちゃんも察したようだった。 ﹁がめつく買い占めてるヤツがそこにいるから分けてもらいなよ。 俺、飲み物買ってくるから﹂ ﹁そんな、悪いよ﹂と呼び止める僕や平岡さんの声を聞きもせず、 ガクちゃんは走り去った。元ジュニア選抜のスリークォーターバッ クは伊達じゃない。なんで東高に入っちゃったんだろう。僕が買い に走るより速いのは明らかだけど、いきなり二人きりにしないでほ しい。 ﹁食べられるだけ好きなやつ食べて﹂ とりあえず僕も座り、買ってきたパンを彼女の前に差し出した。 ﹁いいの?﹂ 透き通る瞳で僕の目を覗き込む。 ﹁いいよ、好きなの取って﹂ 風に消されそうな声しか出せない僕に﹁じゃあお言葉に甘えるね﹂ と、小さく、だけどゆっくりと丁寧に言って、りんごのジャムパン を一つ手に取った。 ﹁ありがとう﹂ ﹁一個で良かったの?﹂ ﹁あ、うん。もちろんパンのこともだけど﹂ ⋮⋮パンのことも? 70 ﹁心配掛けたんだよね。四時限目サボったこと。東堂くんにも畠中 くんにも﹂ 傷つかなかったのかな とも聞こえた。 気づか 言葉が出なかった。心配はした。でも言葉選びが下手な僕が喋る と富樫の話題に触れてしまいそうだった。 ﹁何でき⋮⋮かなかったのかな﹂ とも 風に流されてよく聞き取れなかったが、彼女の独り言は なかったのかな 聞き返そうとした時にまた風が吹いて、揺れた彼女の髪のから漂 う甘い香りにドキドキしてしまった。結局、口を噤んだまま視線を コンクリートの地面を彷徨わせた。 ﹁時々見て気になったけど、畠中くんて、いつもその量を食べてる んだよね?﹂ 声が近い。憧れの││いや、憧れることしか出来ない相手と二人 きりで、名前を呼ばれるシチュエーションに緊張する。 顔を上げると思った以上近くに彼女の笑顔があった。 焦げる。このままだと彼女が見ている前でジリジリと焦げ始めて しまいそうだ。 この距離から微笑まれると沸騰を通り越しそう。実際すごく顔が 熱いし、緊張で手のひらも背中もジリジリした。 彼女の顔は本当に綺麗だった。真っ黒な長いまつ毛や茶色掛かっ た澄んだ瞳に文字通り釘付けにされた僕は、自分が息をしているか も自信がなくなるくらい彼女に見惚れた。無理やり喉の奥で息を呑 み込んで、息をしていることを自分に確認させた。 ﹁痩せの大食いなんだね。羨ましいな、私なんか食べた分だけ丸く なっちゃう﹂ そう言って自分の頬を軽く摘まんだ後に、彼女は小さく﹁不公平 だよ﹂と呟いた。 こんな時は﹁全然太ってないよ﹂とか﹁今のままで充分に可愛い 71 よな﹂なんて受け返すのがマナーなんだろうか。そんな気の利いた 言葉、僕には言えそうもない。ある程度自信のある人か女の子慣れ した人のセリフだと思う。 ﹁⋮⋮ごめん、喋るの下手で﹂ 楽しませることも励ますことも言えないこんな退屈な僕で。 うま ﹁そんな風に思ったことはないよ。畠中くんはいつも慎重に、相手 を傷つけない言葉を選んでくれてる﹂ そんな良いもんじゃない。選ぼうにも巧い言葉なんて浮かばない、 つまらない人間なんだ。 でも嬉しかった。僕のことをそんな風に見てくれる人がいたこと。 それが平岡さんだってこと。 ﹁考え過ぎてどうにもならなくなる時って、あるよね。あれこれ考 え尽くしたつもりで⋮⋮、ふと思うの。こんな平凡でつまらない頭 でどんなに考えても、結局は発想も乏しいんだろうなぁ、って。お 釈迦様の手のひらの周りを回ってるだけの孫悟空みたいね﹂ 2年になって、挨拶とそのオマケのような日常会話だけど、平岡 さんと話すようになって僕なりに感じたことがある。 普段は誰とでも打ち解けている彼女が、自分の感じたことや自分 のことを口にする時、ほんの少し言葉を止めたり詰まらせる。まる ですうっと心を閉ざすみたいに。 そのことに気づいた時は、彼女と親しい女子たちは何とも思わな いのかと不思議に感じた。皆、テレビの話しや学校での出来事など 語ることは尽きないみたいだった。平岡さんが途中で言葉を止めて も別の誰かが喋り出し、常に会話は回っていて、彼女はいつも笑顔 でその輪の中にいた。 富樫とここで話し合っている時、平岡さんが言葉を止めてしまっ ていたら会話が成立するとは思えない。気持ちや主張を言うように 求められれば求められるほど、彼女は言葉を詰まらせ、そして意思 72 とは関係なく心が閉じていたかもしれない。 ﹁地球規模で見たら俺たちが歩いてる距離なんて、孫悟空の比じゃ ないよ﹂ 戻ってきたガクちゃんが紙パックのコーヒー牛乳を僕と平岡さん に放った。 僕たちがお礼を言うとガクちゃんは、僕と反対側の平岡さんの隣 りに座った。 ﹁でもさ、人間は飛行機やロケットを作ったじゃん? 例えたら、 俺たちは今、飛行機を開発する勉強をしてる段階なんだよ。大学だ とか専門学校に行って、飛行機を設計する段階。社会人なりたてで、 ようやく飛行機を製造する段階ってトコかな。その後、試験走行な んかを繰り返してやっと飛べるわけ。つまりさ、高校生の知識と経 験で見えるものなんてたかが知れてるってこと﹂ ﹁東堂くんって冷静に現状把握できてるのね﹂ ﹁いやいや。発想力の限界を孫悟空に例えるセンスは捨てたもんじ ゃないから自信持ちなよ﹂ ﹁東堂くんが言ってくれたみたいに、今の私が導き出せる精一杯の 答えだと思いたい。でもそれじゃ足りなくて、きちんとした答えを 出さなきゃいけない時もある﹂ ﹁それは先を急ぎ過ぎってことじゃない?﹂ ﹁そうなのかなぁ﹂ ﹁精一杯出した答えがいつも正しいとは限らないし、それが不正解 だった時の言い訳にもならないけど、たくさん考えたらその数だけ 教訓も出来るんじゃないかな﹂ ガクちゃんの言葉を最後に、三人黙ってパンを食べてチャイムが 鳴るまでを過ごした。 何かが喉につかえるような感覚は、校庭から巻き上がった砂埃な 73 のか、味が分からなかったパンなのか、何か言おうとして何も言え なかった心残りなのか││ 言えなかった僕とは対照的に、ガクちゃんはあの状況の平岡さん から会話を引き出していた。 悔しい と感じた自分にも驚 本当に役立たず過ぎてなんだか悔しかった。 対人関係での出来事の何かを いたけど、何が悔しいのかよく分からないこともモヤモヤした。 ガクちゃんに嫉妬? 違う。そもそも嫉妬できる土俵にすら立っていない。 喉につかえていたのは砂埃でもパンでも気の利いた言葉でもなか ったのだろう。 74 10 馬鹿馬鹿しい 翌朝、まいちゃんが僕を待っていた。 だいたいいつも一緒に登校しているとはいえ、意図的に待ち合わ せたことなど滅多にない。 挨拶をしてどちらともなく歩き始めると、横列に並んで何かを話 しながら自転車を飛ばす中学生たちのグループ何組かとすれ違った。 ﹁昨日は、なんか⋮すごかったね﹂ 理科室での6組女子と永田さんたちの口論のことだろう。2組の 理科係の僕は、6組の理科係のまいちゃんとあの騒ぎの中で交代し たのだった。 ﹁⋮⋮あのさ、平岡さんてどんな人?﹂ まいちゃんの口から唐突に出た憧れの人の名前に、身体中の血が 炭酸水になったみたいにサワサワと軽い痺れが走る。 ﹁どんな人って⋮⋮﹂ 昨日の騒動の中、本人不在の状態で渦中の人だったから気になる のも仕方ないか。 ﹁富樫の彼女なんだろ?﹂ 心なしかまいちゃんの語気に棘を感じて顔を見ると、いつもなら 額に散らばる赤いニキビが風で晒されるのを気にするのに、前髪に 手をやることもしない。アスファルトに転がる小石をひたすら蹴り 続けて歩いている。人の好い細い目も、ピリピリと鋭い印象にさえ 映る。 ﹁平岡さんがどうかしたの?﹂ ﹁知らない。⋮⋮っていうか、俺、その人のこと良く知らないし﹂ まいちゃんも昨日理科室で平岡さんのことを散々言っていた6組 良く知らない と言うまいちゃんの声にはフェア の女子たちのように思っているのだろうか? 彼女のことを 75 な感情の響きはなかった。 ﹁富樫とは1年生の頃から付き合ってると思う。良い子だよ﹂ と形容されるのは不本意だろう。 と自嘲的に言っていた昨日のことが 良い子 ナンセンス 6組では評判悪くてもね。良い子なんだよ。 ふと、彼女が 頭に浮かんだ。彼女は だけど優等生的な意味だけじゃなく、彼女に感じている好感を形 ボキャ 容する言葉が他に見つからなかった。我ながら泣きたくなるほど 語彙貧だ。 ﹁ふうん。畠中ちゃんまでたぶらかされちゃってるわけね﹂ 驚いた。 驚いてまいちゃんの険しい横顔を見つめた。僕の知っている彼か どうか確認したかったから。こんな彼を僕は知らなかったから。 まいちゃんがこんな毒気のある言い方をするなんて││ 知り合ってから十年くらい経つけど、僕の知ってる彼はそんな人 ではない。小学校からの付き合いのまいちゃんの方が僕自身よりも 僕を正確に、冷静にとらえているかもしれない。まいちゃんがどう 思うかは自由だし、僕は彼と言い争いなんかしたくない。でもやっ ぱり、彼女のことを噂や憶測で悪く言う人の中に入っていてほしく ない。 ﹁そう思ってもいいよ、僕のことは。でもまいちゃんに陰口は似合 わないよ﹂ こんなことを男同士の間柄で言うのも恥ずかし過ぎてあり得ない けど、少しでもまいちゃんに伝わってほしいと思った。 ﹁⋮⋮ごめん。俺、嫌な言い方したな。自分がよく知りもしない人 のこと陰で酷いこと言うなんて、ホント最低だよな﹂ 許してくれる? と言ったまいちゃんの顔は、いつもの優しくて 76 少し内気な顔に戻っていてホッとした。 ﹁よかった﹂ 最低なんかじゃない、まいちゃんは充分いいヤツだよ。 住宅地の辻から旧道に出ると、車の往来が激しくなり、会話も途 東高名物 の送りの車が数台停まっていて、 切れた。ガードレールと高いフェンスに挟まれた学校沿いの歩道を 歩くとずっと向こうに その中の赤いカブリオレから丈の短いスカートを履いた華奢な女の 子が降りて、サングラスをした運転席の男の人に手を振っていた。 白いマスクで小さな顔がすっぽりと覆われてしまっているが、同じ クラスの松野さんだ。 ﹁なんかもう、世界が違うって感じだよなぁ﹂ まいちゃんが呆気に取られた風に溜め息と一緒に零した。 ﹁昨日、富樫に啖呵切った人だよなぁ? モデルか何か?﹂ ﹁そこまでは知らないけど、彼氏がモデルらしいって誰かが言って た││﹂ 松野さんの姿はとっくに正門の奥に消え、僕とまいちゃんはピカ ピカの赤いカブリオレの主を素早く盗み見た。 ﹁サングラスで分からないけど、なんか格好良さそうだよな。東高 の男子なんか眼中にないのも、富樫なんか熨斗つけてくれてやれば いいとか言っちゃう理由も分かる気がするよ﹂ まいちゃんは苦笑いした。 ﹁バカらしくなってくるよな﹂ まいちゃんの言葉の意味が分からず、少し考えていると、突然横 からまいちゃんに首元を羽交い締めされてバランスを崩しかけた。 ﹂ 東高名物 のことをちっとも知らなかった ﹁畠中ちゃんは変わらないな。なんだかホッとするよ﹂ ﹁いきなり何だよ? ﹁俺さ、入学するまで から本当に驚いたんだよ。家から一番近い高校なのに、そんな身近 77 な所にこんな異常な光景があるなんて誰が思う?﹂ それは僕だって同じだ。まさか自分の一番身近にある公立高校が、 彼女を送り迎え迎えする車で渋滞を作ると有名だなんて知りもしな かった。 ﹁東高の男子が女子から殆ど相手にされなくて、しかもさっき見た ようなハイスペックな彼氏がいるわけじゃん﹂ 高そうな車に乗って、高そうな服を着こなして│││ ﹁そりゃあどっちが富樫と似合ってるとか次元が低いって言われる よな﹂ まいちゃんの中で何かが吹っ切れたのか、黙って聞いている僕に 東高名物 に驚いたよ。でも高校生になったら彼女が欲 向かって話し続ける。 ﹁確かに しいとか自分にも彼女が出来るかもなんて期待したわけじゃないん だ﹂ 僕たちの横を路線バスが通過して行き、正門付近のバス停で停ま った。 始業に間に合うには1∼2本早いからか、中から降りてくるのは 1年生ばかりのようだった。 ﹁俺、好きな人いるんだよね﹂ まいちゃんの突然の告白と﹁そうなの?!﹂と反応した僕の声は 停留所を発車するバスのエンジン音に溶けていった。 ﹁1年の時から⋮⋮。だから、加納さんが物理を選択するって知っ た時はちょっと嬉しかった。また同じクラスになれるかなぁ、って。 よく話し掛けて来てくれる人だし、もう少し親しくなれたらなぁ、 って﹂ 僕の頭の中は固まったプリンを掻き混ぜられたみたいに混乱した。 いきなりすぎる。寝耳に水すぎる。 1年の頃から加納さんのことを好きだって意味だよね? そんな 話は初めて聞いた。⋮⋮とはいえ、加納さんという人の存在を知っ 78 たのも最近だし、それに何よりまいちゃんと恋バナなんて今までし たことがない。 あまりに突然で、大きな告白に動揺してしまっているんだ。少し 頭を冷静にしないと││ と、思いつつ│││ ﹁あのさ、えっと、まいちゃんはさ、平岡さんのこと印象良くない ⋮⋮わけ、だよね?﹂ ﹁そのことは、本当にごめん﹂ ﹁ううん、そうじゃなくて﹂ 僕がたどたどしく言葉を切ったり繋げたりしてると、今度はまい ちゃんが怪訝な顔をした。 ﹁ん⋮⋮、だから、えっと。平岡さんが加納さんの、なんていうか ライバルみたいな立場だから?﹂ ﹁平たく言うとそんなトコかな。それこそ最低だけど﹂ ﹁ごめん、伝え方が下手で。責めてるわけじゃないんだ。僕が言い たいのは、まいちゃんは加納さんが好きで││﹂ ﹁畠中ちゃん、声が大きいよ﹂ まいちゃんは顔を真っ赤にして僕を遮った。 そんなに大きい声を出したつもりはなかったし、元々母さんから も﹁もっと大きな声で話しなさい﹂と言われるくらい自他共に認め るレベルで僕の声は張っていない。 と、思ったら、動揺のあまり気づかなかったが、いつの間にか僕 たちは正門を過ぎて校内を歩いていた。 ﹁あ、ごめん﹂ 周囲を見て慌て謝ると、長い付き合いの中で僕の注意力のなさは ﹂ 承知済みのようで、彼は吹き出していた。今度は僕が恥ずかしさで 顔が火照った。 ﹁まいちゃんは加納さんと富樫が付き合ったら良いって思うの? まいちゃんはそれで良いのだろうか? 加納さんを好きなまいち ゃんの気持ちはどうなるんだろう? 79 ﹁さっきも言ったけど、俺は自分に彼女が出来るとか││今の自分 では想像出来ないし、それが加納さんなら⋮⋮なんて、そんなこと 夢にも思えない﹂ ニキビを気にして前髪を弄り出したまいちゃんの言葉を聞いて、 何故か僕は自分の胸に突き刺さるものを感じた。 浜島や永田さんのように、別れたほうが平岡さんのためだと考え る人もいる。クラスの中にも平岡さんのことを好きな男子はたくさ んいて、彼氏がいるとガッカリしていたことは男同士だから知って いる。 昨日の理科室の一件より前にも、今日のまいちゃんが平岡さんの ことを言ったみたいに、富樫に対して非難めいた言葉も時々耳にし ている。 その皆が、平岡さんと富樫が別れて自分が富樫の位置に収まりた いと思っているわけではないと思う。自分が好意を持っている子が 周りから酷いことを言われ、彼氏は彼氏で誤解を受けるくらい他の 女子と親しくしていたら、そんな相手やめとけよ⋮⋮と思うのも自 然なことなんだろう。 僕も平岡さんが悪く言われているのを聞きたくないと思う。言っ てほしくないと思っている。 平岡さんが傷くのは嫌だ。 だからと言って、富樫と別れて欲しいと思ってるわけじゃない。 大きなお世話だけど彼女を大切にして欲しいと思うばかりだ。 もし彼女が富樫と別れたとしても、彼女を幸せに出来るのは僕で はない。 自分のことは棚に上げて、何故まいちゃんは自分じゃダメだと思 うんだろう? なんて思ってしまう。 答えは自分の胸に手を当てるまでもなく分かっているのに、他人 80 のこととなると 自信を持って勇気を出せばいいのに まう。無責任だよな。軽々しいよな。 と思ってし 昇降口に到達して上履きに履き替えた後は当たり障りなく﹁そっ ちは一時限目、なに?﹂という会話になった。 そしてすぐにそれぞれの教室へ向かう校舎の端と端の階段の方面 へと別れた。 僕は歩きながらまいちゃんの後ろ姿を振り返った。まいちゃんは 気づくことなく普通に進んで行った。 言えなかったこと│││ 平岡さんたちの話しからのまいちゃんの打ち明け話という展開で、 何となく後ろめたい後味が残っていた。まいちゃんみたいに好きな 人がいるって断言出来る域ではないけど、憧れの女の子がいるって。 初めての憧れの││、その人が平岡さんだって言わなかったこと。 さすがにこんな他の生徒もたくさん行き交う校内で出来る話しじ ゃないからやめておくけど、いつか話すよ。 自分からそういうこと話すの得意じゃないし、⋮⋮というか誰に も言ったことないからタイミング難しいけど。 でも、もし今度まいちゃんが加納さんのことを話す機会があった ら、僕も話すよ。そんなタイミングで話したら恋バナみたいで、た だの憧れだと言っても信じてもらえないかもしれないけど。言葉、 下手だし。 だけど頑張って話すから。必ず。 最後に振り返り、角の階段に曲がるまいちゃんの後ろ姿に、視線 で誓った。 僕の気持ちを知る僕以外の人 が身近にいるって 本当は言いたくないんだけどね。口に出したら余計に意識してし まいそうだし、 言うのも恥ずかしいから。 それはきっと、まいちゃんも同じだったはずだよね。 81 11 この鳥籠の中で 朝のニュースを見流している終わりの方で、天気予報が梅雨明け 宣言をしてから一週間以上もジメジメとした長雨が続いた。 湿気を吸い込んだ制服で一日を過ごす不快さにも辟易していた。 テスト終わりの解放感は、夏のパワーをもってしても昨年ほどで はなかった。 進学を意識している人が大半で、予備校の話題や勉強のペース配 分について話している声もちらほら聞こえる。 中でも浜島の放つ暗いオーラといったら、解放感なんて言葉とは 程遠かった。 元々理数科目が苦手な浜島は、富樫や柳瀬たちとクラスを合わせ る目的で仕方なく物理を取ったわけで、ギリギリ赤点を免れたレベ ルだったらしい。 おまけに2年からは数学の科目が二つに増え、ただでさえ物理で 苦戦している彼にとって二重三重もの負担になったようだ。 浜島と同じく文系進学希望の柳瀬は相変わらずの勤勉で、どの教 科も平均点を大きく上回っていた。 夏休みに入る前の面談のための進路希望調査のプリントが配られ た。教室内のあちこちがざわめき出し、僕の視線はプリントではな く窓際二列目の前から三番目の席に向いた。 プリントを凝視しているせいか、それとも睫毛が長いせいか、俯 いてひどく悩んでいるように見えた。 期末テストが終わる頃に合わせて、夏の鋭い陽射しがアスファル トに降る。水圧の強すぎるシャワーみたいに。 82 溢れかえったエネルギーは、割れたガラスが飛び散って反射して いるみたいで集中力を溶かす。浮き足立って弾ける空気が、僕の嫌 いな寒い季節とは違った意味で好きになれない。好きになれないと いうより、何故か敬遠してしまう。自分の居場所じゃないみたいな 気がする。 屋上でガクちゃんと平岡さんと一緒にパンを食べた日から少しの 間は、いつもと変わらない平岡さんだった。 クラスの皆とも談笑していたし、授業中もいつもと通りだったし、 放課後に富樫が待っていれば一緒に部活に行っていた。 理科室での一件があったせいか、少しの間は富樫と平岡さんの様 子を窺っている人も多くなっていた。しかし二人にこれといって変 化が見受けられなかったせいか、理科室騒動はすぐに皆の興味の対 象外になったようだった。 それから運動部の県大会が始まって、授業の出席者は疎らになっ ていた。 剣道部が登校してきた朝、左手に包帯を巻いた平岡さんの姿にク ラス中がどよめいた。 2年の女子からは永田さんと平岡さんが団体戦のメンバーに入り 男子は富樫と柳瀬がメンバー入りしていたようだった。富樫は個人 戦にも出場して関東大会出場になったと聞いた。それについては永 田さんが不服そうだった。 ﹁私、富樫くんの剣道好きじゃない。学生剣士のくせに勝てばいい ってやり方がえげつなくて、騙し討ちか喧嘩みたいだもん﹂ 永田さんは時折、柳瀬にそう漏らしていたから、やはりそういう 理由なんだろう。 3年生は個人戦で全滅して団体戦に期待したものの、次鋒を任せ 83 た平岡さんの奮戦で準々決勝まで進み、彼女が左手首を負傷したた め試合続行不可能となり団体戦を棄権したという。 ﹁永田姐さん怒ってたな。繭子さん一人に何戦も勝ち抜いてもらっ て、平岡さんが怪我したらあっさり棄権なんてな﹂ タイミング良く通りかかった永田さんと平岡さんを浜島が呼び止 めて、再び県大会の話しが続いた。 平岡さんが自分の負傷を3年生たちに謝ると、3年生たちは﹁気 にしないで。平岡さんはよく頑張ったから﹂と言い、彼女が斉藤さ んに連れられて医務室へ行ってしまうと﹁使えない子。上級者だと 思ってレギュラーに入れてあげたのに﹂と悪態を吐いていたとか。 怒る永田さんに平岡さんは﹁そう言われる気がしてた﹂と笑ってい た。 隣で聞いていたガクちゃんも﹁なんだよそれ?!﹂と眉根を寄せ た。 永田さんは何度も3年生や引率の副顧問に抗議したそうだ。平岡 さんを交代させるようにと。渋る先輩たちを見て平岡さんは大丈夫 と言い張ったらしいし。 ﹁繭子がいなかったら一回戦敗退だったわよ﹂ 永田さんは憤慨した。 ﹁私がいなくても理恵ちゃんがきっと倒れるまで孤軍奮闘してた気 がする﹂ そんなことを言って飄々とおどける平岡さんに、永田さんは﹁ホ ント繭子と話してると調子狂うわ﹂と肩を竦めた。 ﹁良い経験させてもらえたと思う。あの緊張感の中でひたすら掛か り稽古した気分よ﹂ 平岡さんはにこやかに自分の席の方へ歩き、すれ違いざまに僕と ガクちゃんの真ん中辺りでほんの少し立ち止まって﹁やっぱり良い 子ぶってるかな﹂と囁いて去って行った。 目敏い浜島は﹁さっき何か言われなかった?﹂と訊いてきたけど、 84 僕とガクちゃんは顔を見合わせて﹁さあ﹂と気の抜けた返事をした。 幸い浜島はそれきり特に気にしなかった。 彼女の心の中にあるものを少しだけ共有できた気分で、なんだか 嬉しかった。 ◇ それから彼女は包帯が巻かれた左手で放課後も部活を休み永田さ んたちに申し訳なさそうに挨拶して帰宅組の友人と帰って行く日々 だった。 富樫は相変わらず放課後に2組の前で柳瀬と浜島を呼びに来て、 三人で剣道場に行っていた。 平岡さんは富樫が現れる前に帰ってしまっていたし、二人が並ん だ姿を見掛けなくなっていた。 彼女の小さな異変は次第に2組男子たちの密かな話題となり、憶 測が憶測を呼んでいる。 富樫と別れたのではないか。成績が悪かったのではないか。左手 の負傷が剣道を続けられないほど深刻なものなのではないか。など など。 富樫とのことに関しては、平岡さんはともかく富樫の行動は割と 分かりやすいので、富樫が2組に来ているうちは別れていないのだ ろうという結論になったようだった。 平岡さんの一学期の成績については、剣道部女子たちで点数を見 せ合っていたのを久保さんが浜島に白状させられていたが、成績不 振が理由という線は極めて薄そうだった。 左手の怪我についても、負傷直後に医務室に付き添った斉藤さん が捻挫だったと言っていたので、その後新たな診断結果が出ない限 り違いそうだった。 85 富樫は相変わらずだった。 放課後以外で見掛ける時は相変わらず加納さんが隣にいた。 まいちゃんの話しを聞いてからというもの、富樫と加納さんの仲 の良い様子を平岡さんだけでなくまいちゃんもどんな気持ちで見て いるのだろうかと考えてしまう。僕ってこんなに下世話だったっけ。 │││つまり僕 まいちゃんはと言えば、あれから加納さんの名前も平岡さんの名 大悟くん ﹁大悟くん、サークルとか入っ 前も口にしない。時々出てくる人名は の兄の名だった。 ﹁大悟くん、大学楽しいって?﹂ たの?﹂など、まいちゃんの興味は大学生活だった。もちろん加納 さんのことは気になっているだろうし、気持ちも変わってはいない と思う。 あれ以来、まいちゃんが加納さんのことを話題に出さないので、 結局僕はまいちゃんに平岡さんに憧れてることを言いそびれたまま になっていた。 ◇◆◇ 一学期最後の日、帰りのホームルームが終わると僕は自分の得意 科目で受験出来る学部を調べようと教科棟の二階にある進路資料室 に向かった。 ホームルームが終われば夏休みということもあってか、渡り廊下 を挟んで教室棟と教科棟の賑わい方は雲泥の差だった。 教科棟は三階の音楽室から吹奏楽部の練習の音が聞こえるくらい なもので、いつも以上に閑散としていた。 引き戸を開けると狭く細長い室内には誰もいなかった。荷物を机 の上に置き、両側の壁の高い位置まであるスチール製の本棚を見渡 す。大半は進学情報の大手から発行されている、電話帳サイズの資 料で、やや薄めの﹃理系の進路﹄と書かれた冊子を手に取って座っ た。 86 なかの 隣接した進路指導室から進路相談担当の中野先生の声と女子生徒 らしき声が聞こえた。何を話しているのかまでは聞こえなかったし 聞く気もなく、そのまま資料のページを捲り始めた。 僕は進路相談をしたことはないけれど、3年生の現国を受け持っ ている中野先生は親身で感じが良いと評判だった。成績やレベルで 頭ごなしの言い方をせずに、生徒の希望や意思を尊重して一緒に調 べたり考えたりしてくれるとクラスの女子が話していたのを聞いた ことがある。 ﹁担任は江坂先生⋮だったわよね? 江坂先生には私から言ってお くから。もう少しゆっくり悩んでみて﹂ 一段とハッキリ中野先生の声が聞こえた。 江坂先生? 同じクラスの人なのか。 そうと分かり意識が扉の向こうに集中しそうになった矢先に、相 談室にいた女子生徒は扉を開けながら中野先生に挨拶してこちらへ 入ってきた。 ﹁畠中くん!﹂ 驚いたような声。驚いたのは僕だ。 平岡さんの驚いた声に中野先生が資料室を覗く。 ﹁あら、また2年2組の子。2組は熱心ねぇ。さすが学年トップね﹂ 冷やかすように笑うと、何かあったら呼んでねと言って指導室の 方へ引っ込んだ。 ﹁2組って学年トップなんだ。知らなかった﹂ 僕も知らなかったと言い、心の中で2組おそるべしと思った。 平岡さんは椅子を少し離して隣に座ると﹁話し掛けても大丈夫?﹂ と落ち着いた声で訊いた。 ﹁あ、うん﹂ ﹁この間、進路希望の紙が配られたでしょ。あれってざっくりと、 87 四年制大学とか専門学校とか就職っていう風に書いても良いのか なぁ?﹂ ﹁ざっくりしすぎじゃない? 学部とか、それが無理ならせめて学 校名くらい書いた方がいいと思うけど﹂ 彼女が冗談を言ったのかと僕はやや面喰らったが、彼女は困った ように考え込んだ。いつもなら﹁やっぱりそうだよね﹂なんて照れ 臭そうに笑うのに。 ﹁決まらないの?﹂ ﹁ううん、違うの﹂ 彼女は子供みたいに俯いたままブンブン頭を振る。そしてまた何 か言いたそうに少しだけ唇を動かして、そのまま黙ってしまった。 いつものやつだ、と思った。彼女は自分の心の内を話すのが苦手の ようだ。 ﹁僕は全然決まってないから、書けないかも﹂ 彼女が言葉に詰まって困っているなら、僕が何か喋ろうと思った。 人と話すことも苦手だし、好きな女の子を相手に何を話したら良い かも分からないけど。 ﹁やりたいことがあって、何が必要か調べるのが普通なんだろうけ ど、僕は逆﹂ 夢がないつまらない人間だと言っているようで格好悪かった。 ﹁見つかるといいね﹂ 彼女が資料を覗き込み、ふわっと髪の香りが鼻腔をくすぐった。 ﹁結局得意科目で受験出来るものから選ぶことになると思うけど﹂ やりたいことなんて、誰でも持てるものなんだろうか│││ 簡単なY という文字に苦笑いした。 溜め息をついて資料を閉じ、背表紙に書かれている ES・NOで職業適性診断 88 12 サンドイッチに焙じ茶 ﹁畠中くん、お腹空かない?﹂ そう言えば⋮⋮と思い、時計に目をやると十二時半を少し過ぎて いた。 部活の人たちもいるけど、終業式で売店は開いていなかった。そ う思うとますますお腹が空いたような気になってくる。 ﹁前にパンをご馳走になったままでしょ? 今日売店が開いないか ﹂ ら、ちゃんとしたお返しはできないけど、サンドイッチで良かった らどうかなぁ? 口に合うか分からないけどね、彼女は自信なさそうに言ってトー トバッグの中から淡いミントグリーン色の布に包まれたランチボッ クスのようなものとステンレス製の小さな水筒を取り出した。 ﹁いいの?﹂ ﹁他に生徒がいない時ならいいって中野先生からお許しもらってる から時々こうしてるの﹂ 確かに資料室で食べ物を広げて良いのかってことも気になったけ ど、彼女の昼ごはんを分けてもらっても良いのかって意味だったん だけどな。 いや、遠慮 でもようやく彼女が笑顔になったし、彼女に笑顔で誘われたら断 れる男なんているわけない。 こういう場合、なんてお礼を言えば良いのだろう? しないと図々し過ぎるだろうか⋮なんて考えていると、内扉が開い て中野先生が顔を出した。 ﹁お二人さん、お昼休憩中に申し訳ないけど、これから3年生たち が進路資料室を使うことすっかり忘れてたの。中庭か屋上でランチ できる?﹂ ﹁先生、屋上って一応立ち入り禁止ですよねぇ?﹂ 89 その立ち入り禁止に彼女はいたし、僕とガクちゃんも平気で立ち 入ったんだけど。 ﹁教室棟の屋上はね。でも教科棟の屋上は良いのよ。吹奏楽部や合 唱部も時々使ってるわよ?﹂ 教科棟なんて普段そんなに来るわけじゃないから知らなかった。 僕たちは荷物を持って廊下に出た。 彼女と一緒に階段を昇り、吹奏楽部の楽器の音色が流れる中、僕 たちは教科棟の屋上に辿り着く。 ﹁見て、見て。ベンチまであるー﹂ 駆け出す彼女の乾いた足音に合わせて忙しなくスカートの裾が揺 れる。 貯水槽を囲うフェンスの脇に日焼けしたプラスチックの長いベン チがあり、隅にペンキ缶が灰皿の代用で置かれていた。教科棟の屋 上はタバコを吸う先生のささやかな憩いの場なのだろう。 ﹁座ろっか﹂ 彼女は右寄りに腰掛けてトートバッグをベンチの端側に、資料室 で広げたミントグリーン色した包みを真ん中にを置いた。彼女の荷 物を挟んで反対側に腰掛けると、彼女は包みを開きランチボックス を取り出して蓋を開けた。 中には長方形のサンドイッチが五組ほど綺麗に収まっていた。 トートバッグから携帯用のウェットティッシュを出して僕に勧め てくれたので一枚取って手を拭く。女の子って用意が良いんだな。 それとも平岡さんが噂通りお嬢様だからなのかな。 ﹁畠中くんには少ないかもしれないね。お口に合うか分からないけ ど食べられるだけ食べて﹂ ﹁平岡さんは?﹂ ﹁私は教室で理恵ちゃんたちとお菓子を食べちゃったからお腹が空 いてないの﹂ 90 確かに永田さんたちは間食をしていたのを見掛けたけど、それは 平岡さんが教室を出てからのことだった。 僕に遠慮させないために気を使ってくれてるのだろうか。 ﹁でも﹂ 平岡さんも食べた方がいい、そう言おうと思った。彼女だって本 当はお腹が空いているはずだし、それに彼女が持ってきた昼食なの だから。 ﹁実は作りすぎて朝も同じ物を食べてきたの。こんな風に言うと、 食べ飽きた物を押し付けてるみたいで申し訳ないけど﹂ もしかして、これは彼女の手作り?! 僕は同年代の女子の手料理なんて食べたことがない。あるとすれ ば中2の時のキャンプ飯だけど、もれなく男子の手料理成分も混じ っているし、ああいうのは除外対象。ガクちゃん流に言えばノーカ ウントだ。 ﹁自分で作ってるの?﹂ ﹁うん、そうだけど⋮。やっぱり不安?﹂ 心配そうにおずおずと僕の目を覗き込む彼女。目の奥まで覗き込 むように見つめられたら、平岡さんの手作りサンドイッチを前にし て高揚しまくってるのがバレる。ゴクリと唾を呑み込む音もバレる。 ごまかすために短く咳払いをして軽く呼吸を整えた。 ﹁ううん、そんなことない。⋮いただきます﹂ 頭を下げて一番端のたまごのサンドイッチを掴んで咀嚼した。 美味しいです、心配しなくても充分すぎるほど美味しいです。少 し薄めの優しい塩加減に黒胡椒なのかピリリと香ばしいアクセント。 僕なんてまともに包丁すら握ったことがないようなものなのに、 女の子って高校生にしてこんなにもきちんとしたものを作れてしま うのか。声にならない感激で飲み込むのさえ惜しいと思ってしまう。 売店のパンのお返しが憧れの女の子の手作りサンドイッチだなんて、 まさに海老で鯛を釣りあげた気分。鯛どころの話じゃない。僕にと っては財宝満載の難破船以上だ。 91 ﹁無理しなくて良いからね?﹂ 横から恐々と声を掛けられてハッとする。感激のあまり言葉にな らない幸せで胸を詰まらせていた僕は、きっと神妙な面持ちでゆっ くりと噛み締めながら食べていたのだろう。彼女の目には食べたく もない物をどうにかこうにか口に運んでいるように見えてしまった みたいだ。 ﹁よその人が握ったおにぎり食べられないとか、他人の手料理が無 理っていう人もいるじゃない? もし畠中くんがそうだったらごめ んなさい﹂ ﹁もしそうならコンビニに行ってます﹂ ﹁コンビニのお総菜が食べられない可能性はありませんか?﹂ ﹁だったら売店のパンも食べてませんよ﹂ ﹁なるほど、そうですね﹂ 面と向かって彼女の手料理を﹁美味しい﹂と伝えることは、女子 とまともに会話したことない僕にとって、彼女に﹁可愛いね﹂と言 うくらい恥ずかしくて照れ隠しに丁寧語で凌いだ。 そんなことを知ってか知らずか口調を合わせた彼女が笑う。丸い 大きな目が薄い三日月型に細められる人懐こい笑顔。いつもの彼女 の笑顔。僕の好きな│││ 不意に彼女は大きく息を吐き出してベンチの背もたれに背中を沿 わせて空を仰ぎ見た。 ﹁進路一つ決めるのも大変だよね。高校受験の時は、偏差値が合っ てるとか通いやすいとか制服が可愛いとか仲の良い友達と一緒だと か、そんな感じで決められたけど、高校の先って難しいよね﹂ ﹁平岡さんは、ある程度定まってるって⋮⋮﹂ ﹁うん、そうなんだけどね。自分一人の問題じゃないっていうか、 結局は自分の道って言ってもまだ未成年だし。家族が賛成してくれ るか、ダメだって言われたら別の道を考えるのか﹂ 92 周りがケータイを持っていても持たない彼女。大きな家に住むお 嬢様だという噂だし、きっと厳しい家なんだろう。大きな会社を経 営してたりして継ぐように言われてる、なんてドラマみたいな背景 があるのかな。政略結婚みたいな縁談があるとか? 僕の想像力っ て存外安っぽいよな。 良い子 でいるために勉強したり言い ﹁いくら何かを頑張っても、自分の目的のために頑張ってるんじゃ なかったら意味ないよね。 付けを守ってるなんて、十六歳にもなってダメだよねぇ﹂ 一生懸命に言葉を繋ぐ彼女の横顔が切なかった。 ﹁僕も変わらないと思う﹂ 親の同意はさておき希望の道が定まっている彼女と、そうでない 僕とを同じなんて言ってしまっては失礼だけど。 ﹁進路も考えたことなかったけど、勉強してる。何のため? って 訊く?﹂ 彼女は﹁ううん、訊かない﹂と笑ってくれた。 ﹁ありがとう﹂ ガクちゃんみたいに説得力のあることを言えないのがもどかしい と心の中で悶えながらも、ありがとうと笑うのが精一杯だった。 ﹁あのね、お茶なんだけど、この水筒カップが一つだけだから使い さしなの。それでもいい? 嫌なら自販機で買ってくるよ?﹂ 剣道部の人たちが日頃から男女気にせず、当たり前のように仲間 の弁当をつまんだり飲み物を回し飲みしたりしているのは知ってい る。1年の頃から見慣れた光景で、富樫が永田さんの飲み物の残り を貰い受けたり、永田さんが浜島や柳瀬と弁当のおかずをトレード していたものだった。2年になってクラスにいる剣道部のメンバー は変わっても彼らの行動は同様だった。浜島がこのカップでお茶を 啜っていたのも見覚えがあった。 彼らにとってなんでもないことでも、僕に対して恐縮させてしま ったことが申し訳ない。そして昼食の提案は彼女からだとしても、 93 彼女の分しかない食べ物や飲み物を気心の知れない僕のような男子 に分け与えるような不意な状況を作ってしまったことが更に申し訳 なかった。 畠中くんが嫌じゃないなら﹂ ﹁嫌なことはないよ。むしろ平岡さんが嫌じゃない?﹂ ﹁ううん、私は全然。 嫌なわけあるはずないよ。そりゃ、僕なんかが彼女が口を付ける カップを一緒に使わせてもらうなんて、こんな不足の事態でもない 間接キス ってやつで、無縁この上ない次元も 限り躊躇はする。だってそれは僕のような地味階級の憧れにして青 春の王道中の王道 のだから。 彼女はトートバッグからステンレス製の小ぶりな水筒を取り出し て、カップを兼ねている蓋の部分に湯気が立つ褐色の液体を注ぐ。 伏せられた艶やかな長い睫毛や整った輪郭から目が離せずドキドキ する。 ﹁熱いから気をつけてね﹂ ドキドキしながらカップに口をつける。湯気の立つ熱い焙じ茶が 口の中を心地良く滑った。 他に誰もいない屋上に二人でいるだけでも夢みたいなのに、手作 りのサンドイッチまで食べて、その上彼女の水筒のお茶を飲むなん て、絶対に僕の一生分の幸運を使い果たしてる。明日から不幸しか 来ないかもしれない。いや、無情な目覚まし音が頭上に響いて、夢 落ちとか。もうどっちでもいいや。今この瞬間が僕の人生のピーク でも、夢の中だとしても、どちらにしてもこの瞬間は千載一遇なん だ。 ﹁サンドイッチに焙じ茶って変だよね。私の家って、こういうお茶 ばっかりなの﹂ 恥ずかしそう視線を流す彼女。飲み干して僕が返した上蓋のカッ プにお茶を注ぎ、彼女はそれをごく自然に自分の口に運ぶ。その姿 94 に、鼓動の衝撃で眩暈がしそうなくらい僕の心が騒ぎ出した。 繊細で滑らかな彼女の喉元がお茶を飲み下すリズムで小刻みに揺 れる。 彼女の揺れる喉元に僕の中で何かが弾けた。 ただの憧れだとか、そんな風に自分自身を言いくるめられる時間 には後戻り出来ないのところに立っているのだろう。膨れ上がった 感情が、荒く注ぎすぎた炭酸水みたいに胸の底でせり上がる。 真っ青な空に浮かぶ大きな入道雲でさえも押し流す微風のように、 この強く緩やかな流れに抗えない気がした。 そして僕は思ってしまった。富樫とこんな風に一つのカップでお 茶を分け合わないで、と。 言えるわけがない。言える立場じゃない。むしろ咎められる側は 僕の方。こんなこと考えること自体が理不尽なのだ。 でも苦しいと思った。今僕の目の前にある彼女の笑顔さえ富樫に 向けないでと思ってしまうほど。 さっきまでこの瞬間に僕の幸運を使い果たしても構わないと思う くらい嬉しいと感じていたのに、胸が苦しい。こんな気持ち、初め てだった。消えてしまいたいくらい理不尽で情けなくてどうしよう もない気持ちになった。 ﹁分からないんだよね。今までずっと、良い子にしなさいって言わ れて来たから、良い子過ぎて面白味がないとか、良い子ぶってるっ てダメ出しされても全然直せなくて。言わたれたことだけ守ってき たツケが回ってるのかも。つくづく甘ちゃんだなぁって思う﹂ 95 以前、教室棟の屋上で富樫が去った後に彼女は一人そんなことを ていたんだろうと思った。 彼女のことを出来過ぎていて二次元みたいだとか、優等生ぶって るなんて言う人たちに彼女の苦悩なんて分からない。そんなことを 言ったら﹁他の人には他の人の苦悩がある﹂と彼女は逆に自分を批 という殻の中で彼女は悩 難した人たちを擁護するだろう。僕が見てきた彼女はそういう人だ。 ﹁殻を破るのって勇気いるね﹂ 優等生 彼女はどこか遠くを見つめていた。 モラルとして長い間培われた んでいるのかもしれない。 臆病で自己主張もなく誰かと衝突することもなく生きているだけ に、少しだけ彼女の葛藤が分かるような気がした。 彼女ほどの人にそんな悩みなんてないと思っていた。けれど彼女 も生身の人間なんだ。僕の目の前にいる平岡繭子という明るくて頑 張り屋で人気者の女の子は、二次元なんかじゃない。 ﹁前にも話したけど私は理系脳じゃないから、畠中くんの相談相手 にはなれないかもしれないけど、進路資料室で会って今こんな風に 話してるのも何かの縁だし、また良かったら進路のこととか話して﹂ 彼女が焙じ茶を注ぎ足してくれたカップを受け取って口を付けた。 間接キス のせいだろう。 体中が熱くなったのは熱いお茶のせいじゃなく、モテない地味男の 永遠の憧れ 96 13 処女厨 夏休みの登校日、久しぶりに制服のシャツに腕を滑らせる。 ガソリンスタンドの地面の沸き立つ陽炎にジリジリと鳴く蝉の声 が合わさって、鉄板の上で油が跳ねているようだった。 中学と違い自由研究なんかもないから、登校日なんて言っても生 存確認と掃除くらいだけど、平岡さんの顔を見られるのは嬉しい。 しかし彼女は顔を見せなかった。 家族旅行にでも出掛けたのだろうか。 平岡さんの顔が見られないなら、夏休みの登校日なんて暑くて億 劫な日でしかない。⋮⋮なんてゲンキンすぎるよな。 ﹁嘘だろ? あの平岡さんだぞ﹂ 僕のいるグループは理科室の掃除で近くに先生の目がないことも こいけ あってかなり自由だった。彼女の名前が聞こえた。声の主は軽音部 の小池だった。 ﹁シーッ! 小池、声でかいって!﹂ おざき ﹁それ本当にホントの話?﹂ サッカー部の尾崎が窘め、小池が続ける。 ﹁あーあ、なんかショックだなぁ。俺、かなりファンだったんだけ ど。マジ好きレベルでさー﹂ ﹁俺だってそうだよ﹂ ﹁彼氏いるの分かってたけど、平岡さんだけは結婚まで清い交際っ てのしてそうっていうかさぁ。あー、でもあの彼氏なら手ぇ出しそ う﹂ 二人は壁にもたれながら、⋮⋮チラッと周囲を気にしたが、僕と 97 目が合うことはなかった。 ﹁この間の日曜日、俺たち練習試合だったんだけど、朝早く富樫の 家から平岡さんが出てくるのを北中だった奴が見たらしい。平岡さ んって桜ノ宮だろ? 早朝にあんな離れた所にいるのはどう考えた って朝帰りしかねーだろ﹂ 声を潜めて早口に話し出す尾崎。聞きたくなくても、自分の耳が 尾崎の言葉を掬い上げようとしているのが分かり、我ながら居た堪 れない気持ちになる。 ﹁それでさ、そいつ6組だからさ、今日富樫本人に訊いたらしいん だよ﹂ ﹁なんて?﹂ ﹁平岡さんをお持ち帰りしちゃったのかって﹂ ﹁マジかよ? なんか生々しいな﹂ ﹁ああ。そしたら富樫、否定しなかったらしい﹂ ﹁でも否定しないだけじゃ肯定にはならないだろ。やっぱ俺として は平岡さんの純潔を信じたい!﹂ って言ったらしいぞ﹂ ﹁お気の毒さま。ここだけの話しだから口外するなよ? 富樫の奴 痛がって喚かれて散々だった ﹁うわぁー、そりゃ決定的だな。⋮っていうか、言うかフツー。腹 立つな、おい。平岡さんもこの夏、卒業しちゃったわけか。聞くん じゃなかったかも﹂ ﹁小池ってもしかして処女厨か? まあ、分からなくもないけどな。 岩崎とか栗原とか、他の女子ならまだしも、平岡さんだとやっぱシ ョックだよなぁ﹂ ﹁別に処女厨ってわけじゃねーけどさ、平岡さんの場合は、あの穢 れなきイメージがさぁ⋮﹂ ⋮⋮僕も聞くんじゃなかったと思った。 もちろん理由は彼女に対する見方が変わるから⋮⋮、というもの ではない。 サラサラと揺れて優しく香るあの髪や、小さく震える喉に富樫が 98 触れたのだと思うと、どうしようもなく胸が苦しくなった。ちゃん と息をしているのに、窒息しそうな苦しさに膝の力が抜けていく。 正直、それからどうやって掃除を終えてどうやって帰宅したのか も覚えていない。 神様って本当にいるのかな。終業式の日、あの瞬間に僕の幸運を 使い果たしても構わないと舞い上がっていたのなんてお見通しだっ たんだろう。 あの時見た彼女の仕草の一つ一つを富樫に見せないでほしいと願 ってしまった。富樫は1年の時のクラスの友達なのに。僕が彼女を 知るより前から富樫は彼女と付き合っていたのに。彼女を知ったき っかけは富樫なのに。 だからそんな思い上がった僕に罰が当たったんだ。 そうじゃないなら、あの時限りで一生分の幸運を使い果たしても 構わないなんて軽々しく思ったことを試されているんだ│││ 彼女が優等生の殻を破ろうと葛藤していたのは、富樫のためだっ たんだ。富樫に純潔を捧げる勇気を奮い立たせようと苦悩していた のか。そうだよな。二人は恋人同士なんだもんな。 ◇◆◇ 尾崎は﹁ここだけの話し﹂なんて言っていたが、夏休みが明ける と平岡さんが富樫の家から朝帰りしていたという噂は瞬く間に拡が っていた。 拡げたのは尾崎や小池かもしれないし、平岡さんを目撃した人か おひれ もしれないし、富樫かもしれない。そんなことは分からない。夏休 み中の登校日に尾崎が小池に話していた内容よりもあらゆる尾鰭が ついていた。 平岡さんが登校してくると、あちこちでヒソヒソと話していた男 99 子たちも蜘蛛の子を散らすように着席し、彼女への態度もぎこちな かった。 女クラや他のクラスには首筋に幾つもキスマークを付けて平然と 登校してくる人もいるとかいう話しなのに、どうして平岡さんに限 ってこんなにスキャンダラスな扱いをされるのか腑に落ちない。け れど裏を返せば、それだけ周囲は彼女に穢れのないイメージを抱き それに固執していたのだと思う。彼氏がいると分かっていても。 彼女が﹁おはよう﹂と挨拶しても、浜島は聞こえないふり、柳瀬 は精一杯の作り笑いで軽く手を挙げて応じた。僕もどんな顔をして 良いか分からなかったけど出来るだけいつも通りを意識して挨拶を 返した。 何も変わらなかったのはガクちゃんだった。 ﹁おうっ、もう手首大丈夫なのか? っつーか、登校日バックレん なよ﹂ と言って笑った。 ﹁うん﹂と言って少し微笑んだ彼女は、さっと自分の席に歩いて行 った。彼女の背中が少し淋しそうに見えた。自分のことが噂になっ て僕たちに知れ渡っていると気配で感じたようだった。浜島もその ことに気づいているだろう。 何より暗い気分にさせたのは、彼女自身に心当たりがあった風だ ったこと。そしてその空気を避けるように、席に着いてしまったこ と。 ﹁ねぇ、浜島くん、みんな、どうしたの? 私の顔に何かついてる ?﹂と屈託なく問い質して欲しかった。 いつもみたいに目をまん丸にして驚いて﹁えぇー?! なんでそ んな噂が立ってるの? ない、ない! そんなこと。絶対にないか ら!﹂と全力で可愛い否定をして欲しかった。 だけど彼女はそれを避けた。きっとそれが答えなんだ。 100 ホームルームが終わり先生が退室すると、週番になっていた平岡 さんと松野さんも一緒に退室した。平岡さんがいなくなったタイミ ングで永田さんが近づいて来て浜島の前に立った。すごく怖い顔で。 ﹁なにあれ? 朝の態度。繭子は浜ちゃんに何か悪いことでもした ?﹂ 浜島は舌打ちして溜め息をつく。 ﹁柳瀬くんもね。正直ガッカリしたわ。柳瀬くんだけはどんなこと があってもフェアな態度を取ると思ってたのに﹂ ﹁あのさ、永田さん。口を挟んで悪いんだけど﹂ ガクちゃんが永田さんを宥めるように割って入る。 ﹁責められても仕方ない、うん。この間まで平岡さんが頼みもしな いのに勝手にチヤホヤしといて、手のひら返すような態度取ったわ けだから。永田さんが怒るのも無理ないと思うよ。でも謝ったら余 計に平岡さんを傷つけてしまわないか?﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁開き直るつもりはないんだ。だけど一つだけ言い訳させて欲しい。 平岡さんを傷つけるような態度を取ってしまったことは事実だし、 反省もしてる。ただ、平岡さんのことを嫌いになったとか平岡さん を傷つけるつもりで素っ気なくしたわけじゃないんだ﹂ ﹁東堂くんは違うわ。繭子にいつも通りだったじゃない。繭子は東 堂くんの態度に救われたはず﹂ ﹁そんなことないよ。俺も同じだよ。いつも通りにしなきゃって力 が入って不自然だったと思う。平岡さんを傷つけたかもしれない﹂ ﹁そんなことない、東堂くんだけは他の男子と違う!﹂ ﹁いや、いいんだ。とにかく俺も浜ちゃんもヤナちゃんも畠中ちゃ んも⋮⋮このクラスの男、誰一人として平岡さんを嫌になってなん かいない﹂ ﹁なによ、男子代表みたいなこと言って、格好つけて﹂ ﹁永田さんに伝えなきゃならないことは、そういうことだから。そ 101 れが伝わるなら格好つけてると思われたって構わないよ﹂ ﹁回って全員に訊いたわけでもないのに? 他の男子たちと東堂く んの気持ちが同じだって言い切れる?﹂ ﹁男なんて幼稚で単純だからさ、似たり寄ったりだよ。どうして良 いか分からないんだよ。デリケートな話題だし、どういう態度取っ て良いか分からなくて、ぎこちなくなってるんだよ。そもそも女子 と仲良くなったこともない不器用な連中ばかりなんだ。初めて挨拶 よ した時だってこんな態度だったんだよ﹂ ﹁東堂くんは人が好すぎるよ。どう考えてもそういうヘタレ連中に あなたは含まれてないのに﹂ ガクちゃんの諭すような訴えに永田さんは涙ぐんだ。永田さんは 目尻をささっと拭って鋭く浜島の方を振り返った。 ﹁浜ちゃんだけは絶対に許さないからね。繭子のこと無視した上に 私に舌打ちもしたよね? 一生覚えておくから﹂ 柳瀬とガクちゃんが凍りついている向こう側で、仁王立ちした永 田さんに睨まれた浜島が﹁そんなぁ﹂と情けない声を出して項垂れ た。 掃除の時間には久保さんや斉藤さんたちが微妙に男子との会話を 避けていた。 ヒト 帰り際には尾崎や小池たちに向かって、岩崎さんグループが﹁ウ リやったわけでもないし他人の男を寝取ったわけでもないのにモテ ないヤツらから汚れモノ扱いされるって、どうなの?﹂﹁これだか ら童貞くんたちって惨めよねぇ﹂と聞こえよがしな嘲笑を送ってい た。華やかに見える美女三人の笑みは、一様に目が笑っていなくて 怖かった。 平岡さんのことを陰でコソコソ噂して避けている男子たちに、岩 崎さんたちなりの攻撃なんだろう。 女性至上主義社会の東高の中で、男女の比率が逆転している2組 102 と6組。この二つの写し鏡のようなクラスの決定的な違いは、クラ ス内の男女の仲の良さだった。 このクラスだって6組ほどの結束力はなくても充分に女子と交流 していると感じていた。1年の時には大半の男子は女子にとって不 可視な存在じゃないかと思うくらいだったから。 けれど実際は、僕たちはほとんど平岡さんとしか話していなかっ たんだ。 平岡さんが﹁おはよう﹂と笑い掛け、平岡さんが話し掛け、その 周りに永田さんや斉藤さんがいたんだ。 平岡さんという緩衝材を失って、初めて知った。 103 14 愚の骨頂 男ってバカだなぁとつくづく思う。 平岡さんに対して唯一態度を変えなかったガクちゃんが、自分も 同罪と言ってまで2組男子みんなを庇ってくれたのに、柳瀬を除い た殆どの男子は変な意地が邪魔して引っ込みがつかなくなったまま こじらせていた。 本当はガクちゃんや柳瀬みたいに平岡さんと話したい、平岡さん に笑いかけられたい、と誰もが思っている。グラウンドから教室に 戻る途中、ホースを持ったガクちゃんに水飛沫を浴びせられて笑っ ている平岡さんたちを羨望の目で見つめる男子たちの様子は、僕で さえ目を覆いたくなるほど痛ましかった。 ﹁もうすぐ修学旅行なのになぁ﹂ いつも通り、女子の着替えのため教室を閉め出され廊下で着替え ながら小池がボヤく。 ﹁浜ちゃんはいいじゃん。部活一緒なんだし仲直りするきっかけな んていくらでも転がってるだろ﹂ が気休め的に和ま ﹁実際そうでもないわけよ。永田姐さんの監視が厳しくてさ。最近 項垂れる浜島 じゃ斉藤さんや久保ちゃんまで俺に冷たくて﹂ この頃すっかり見慣れた せる。本人は本気で項垂れているみたいだけど。 永田さんは﹁浜ちゃんにも繭子の思いを味合わせてあ・げ・る﹂ と不敵な笑みを浮かべていたという。本当に一生許さないつもりな のかもしれない。やっぱり女子は怖い。 ﹁でも、そういうの平岡さんが見過ごしたりしないだろう?﹂ 僕もそう思った。平岡さんならきっと﹁浜島くん、どうしたの? 104 理恵ちゃんたちと何かあったの?﹂と気遣うに違いない。 ﹁それがさ、繭子さん今、主将なんだよね。ほら、うちの部ってリ エ・マユ効果で1年がわんさか入ったって言ったじゃん? 初心者 も多いわけ﹂ ﹁ああ、浜ちゃんみたいなのな﹂ ﹁うっ⋮⋮。で、まぁ、繭子さん指導に掛かりっきりなわけ﹂ ﹁浜ちゃんも混ざってくればいいじゃん、初心者なんだから﹂ ﹁小池、俺に恨みでもある?﹂ ﹁別にないけど、軽く憂さ晴らし。平岡さんとこじれてるストレス﹂ ﹁で、富樫は? 最近放課後、来ねえじゃん﹂ 尾崎が会話に加わる。 ﹁富樫は部活に殆ど来てないよ﹂ ﹁嘘だろ?! 確か関東大会進出したんじゃなかったっけ?﹂ ﹁ああ、夏のね。それは二回戦で終わった。バイクが欲しいとか急 に言い出して、最近はバイト始めたみたい。二学期に入ってから一 度しか部活に来てないよ﹂ ﹁は? うちの学校、単車禁止だろ。二輪免許も卒業まで禁止だし。 ⋮⋮意味分かんねぇな﹂ ﹁俺だって意味分かんねぇよ。ホント、最近急に言い出したんだか ら。それに繭子さんとも全然喋ってない﹂ ﹁何かあったのかな。平岡さんを使用済みにして加納祐美に乗り換 えたとか?﹂ ﹁マジでそういうネタ洒落にならねぇから。小池がそんなこと言う 間はクラスの女子全員から仇扱いが続くな。悪夢の修学旅行になる よ、間違いなく﹂ 尾崎がピシャリと言い小池も肩を落とした。 ﹁そうそう、来週から教育実習だろ? うちのクラスにも実習生が 来るらしいぜ﹂ ﹁尾崎は色々と情報通だよな。⋮で、男、女、どっち?﹂ ﹁そこまでは知らねぇけど、修学旅行日程と被って2年のクラスに 105 教育実習ってアリなんかなぁ?﹂ ﹁どうなんだろな。修学旅行期間は1年のクラスとか行くんじゃね ?﹂ ﹁修学旅行来るなら女がいいな。女子アナ系のお姉さま希望﹂ ﹁修学旅行来なくても女がいいよ﹂ ﹁まあな﹂ 教室の内鍵が開けられて、着替え終わった小池たちが入って行っ た。 ◇◆◇ 中間テスト期間になると平岡さんの噂話は表面的には落ち着いた。 進路指導の中野先生が僕たちのクラスの成績が学年トップと言っ ていたけど、意識して見ると特にテスト期間に入ってからの姿勢は 他のクラスと比べても歴然だった。周囲からは﹁2組ってまるで特 進クラスみたいだよな。さすがリケヲタの総本山﹂と揶揄されてい たが、他のクラスがどう見るかよりも目の前のテストに臨む方が大 事だった。 テストが終わり二者面談が始まると、僕は予想通り進む方面が決 まってないことを指摘された。 ﹁今回の中間テスト、畠中は四位かー﹂ 成績が表グラフになって細かく書かれた名簿を右手でなぞりなが ら江坂先生が左手を眼鏡の淵にやる。 答案用紙が返って来る度にあちこちで結果を言い合ったりしてい るせいもあり、一学期の頃から上位の方の順位はクラス内の皆がな んとなく把握しているので僕もある程度知っていた。 うちのクラスの一位は剣道部の久保さんらしい。久保さんはクラ ス一の小柄で、少し厚めのレンズの眼鏡越しに小さな目が特徴のお となしい人だ。インパクトのあるギスギスしたガリ勉とは別の、勉 106 強の出来る女を絵に描いたらこんな感じだろうという、まさにそん なタイプ。とてもおとなしい人で、久保さんとタイプの近い静かな 人たちと一緒にいるか、剣道部の人たちと一緒にいることが多く、 平岡さんと喋っている時だけは、はしゃいだ顔を見せる。 二位は柳瀬で、2組は剣道部のワンツーということになる。ちな みに久保さんがクラス一位だと知ったのも、おとなしい彼女が自分 から成績を公表するはずもなく、柳瀬が﹁久保ちゃんにだけは敵わ ないよ﹂と言ったからだった。⋮⋮とは言うものの、二人の成績は 僅差らしい。 三位はガクちゃん。体育の時も誰よりも華があり、背も高くてイ ケメンで成績も上位。そのうえ友達も多く性格も良くて女子との関 係も良好なレアメタルみたいな人。1年生や3年生の女子から呼び 出されて告られていることもある。 ﹁まあ順位は一学期から一つ下げたが物理と数学だけ取れば柳瀬や 東堂より成績は上だ。しかしなぁ、突出して成績良い科目があって も進みたい方向が決まらなければ受験対策がどんどん遅れるだろう ? 国立に行きたいとか推薦枠を狙うなら、語学科目をもう少し頑 張った方が良いだろうな﹂ 柳瀬は国立大の文系の指定校推薦を取りたいと言っていたし、ガ クちゃんは国立大の工学部系を受験したいと言っていた。 ﹁うちは男子が少ない分、四年制の理数系の推薦枠は少ないし指定 校は競争が厳しいぞ? 畠中の成績なら、ちゃんと受験科目を絞っ てこのまま気を抜かずに頑張れば充分に難関大学レベルの合格圏だ ろうから、まずはそろそろ方向を決めないとな﹂ 江坂先生はチョークで汚れた白衣のポケットからハンカチを取り 出し、外した眼鏡をひとしきり拭いた。 ﹁なるべく早いうちに考えます﹂と返事をして面談を終えた。入れ 替わりに浜島が教室に入る。 ﹁悪りい、畠中ちゃん。帰りに道場に寄って柳瀬にこれ渡してくれ 107 る?﹂ すれ違う時に浜島から 日報 と書かれたノートを渡された。 今日は自転車で来ていたし、武道体育館まで回り道して柳瀬に渡 して帰ればいいか⋮と承諾して浜島からノートを受け取った。 駐輪場とテニスコートの脇のコンクリートの敷いていない細い道 武道場 へと歩いた。青々とした銀杏の木に を通りバスケ部やバレー部が部活をしている第一体育館の奥にある 第二体育館、通称 囲まれている佇まいは、外装を改築された教科棟とは違い東高が古 くからある学校だと物語っている。 いち、に、いち、に⋮と幾重にも揃った声が聞こえた。 ﹁腕を上げる時、もう少し背筋を意識してね﹂ 平岡さんの声が聞こえた。 武道体育館の外、見た限り二十人を超えていそうな1年生っぽい 部員たちの横で平岡さんが素振りの指導していた。 白い道着に白袴姿の彼女は凛として美しかった。剣道の道着って 藍染めばかりだと先入観を持っていたから、白袴姿の平岡さんが眩 しくて用件も忘れたまま見惚れた。 ﹁振り下ろす時は顎を引いて﹂ 初めて見る袴姿の平岡さんは普段見る紺色の制服姿とは全然違っ た印象で、心の中で身悶えした。 後ろの方で竹刀を振っていた五人の男子が、来訪者の気配を感じ たのか振り返って怪訝な顔で僕を見た。 ブレザーの校章で2年と分かったらしく、同時に平岡さんを見て いたと気づいたのか目の中が敵意の色で満ちた。 前に浜島が言っていたことがあったよな。男子1年生部員たちは 平岡さんにご執心なんだって。 ﹁あれ、畠中くん?﹂ 気づいた平岡さんがいつもの調子で大きな目を丸くする。二学期 108 が始まって以来本当に元気がなかったから、普段通りの平岡さんの 表情に緊張が解ける。 ﹁柳瀬に渡してって浜島に頼まれて﹂ ノートを持ち上げて示す。 ﹁そう。浜島くん今日、面談だったよね? じゃあ畠中くんもだっ たんだ﹂ ﹁うん、浜島の前﹂ そう、と彼女は言って僕からノートを受け取った。そして1年生 たちに道場に入って永田さんの指示に従って立ち稽古に入るように 言い、彼女はその場に残った。1年生男子たちの鋭い視線や舌打ち にアウェイ感この上なかったけど、平岡さんは微塵も気づいていな いようだった。あなたがモテるからなんだけど。本当にそういうこ と疎い。 ﹁柳瀬じゃなくて良いのかな﹂ ﹁あ、うん。日報は最終的に部長が管理することになってるから私 で大丈夫。柳瀬くんに用があるなら呼んで来ようか?﹂ やっぱり浜島は未だに永田さんに平岡さん封じされてるのか。 ﹁頼りない部長でみんなに申し訳なくて。うちの部は部長の人が代 々次の部長を指名するんだって。理恵ちゃんの方が適任だと思うん だけどね﹂ 平岡さんはしきりに髪を耳に掛けたり外したりしながら、恥ずか しそうに顔を赤らめた。 ﹁そんなことないよ、後輩にも慕われてる感じだったし﹂ そう言うと、一瞬驚いたような顔をしてまたすぐに恥ずかしそう に笑って﹁ありがとう﹂と言った。このはにかんだ笑顔が何とも言 えず可愛いんだよな。今日は袴姿って相乗効果もあるせいか、恥じ らう姿がいつも以上に奥ゆかしく見えてドギマギした。 でもそんな嬉しさとは裏腹に、僕の知らない彼女を見れば見るほ ど、その全ては富樫のものなんだという仄暗い感情がじわじわと脳 109 裏を侵食する。 だからどうだって言うんだ? 自分でもつくづく愚かで湿っぽい 人間だと思う。 彼女は初めから僕なんかとは住む世界が違う人。彼女の物語の中 で僕なんて脇役どころか名もないエキストラ同然なのに。 なのに息苦しくなってしまう。彼女の全ては他の誰でもない富樫 に捧げられているのだと思うと。 ﹁面談どうだった? 学部とか方向性決まった?﹂ ﹁ごめん、それ渡しに来ただけなんだ﹂ 彼女の問いかけも遮って、僕は駐輪場へと踵を返した。 駐輪場に着いて鞄を荷物カゴに入れた時に銀杏の木を見上げてよ うやく我に返る。 この銀杏の葉が黄色くなって地面に落ちる頃、僕はこの場所で初 めて彼女と話しをした。彼女は地味で存在感のないこんな僕に挨拶 してくれたこの学校で唯一の女の子だった。 あの頃僕は、今ほど彼女を知らなかった。今だって半分も彼女の ことを知らないだろう。それでも僕は、彼女の顔を見て声を聞いて 過ごせる一瞬一瞬がかけがえない幸せだと感じた。こんな冴えない 僕にも分け隔てなく幸せをくれて、冴えない人生に一筋の暖かい光 を灯してくれた彼女│││ 僕なんかの一挙手一投足で傷つく人間なんていないと思ってきた。 ちっぽけな存在としてそれなりに生きて、できるだけ他人に嫌な思 いをさせたり迷惑掛けたりしないよう心掛けていたつもりでいた。 他人の人生にさざ波ひとつ立てない人間だと自負していた。けれど、 そのどれも間違いだった。 些細な僕の些細な態度が、彼女を傷つけてしまったと感じた。本 当にバカだと後悔した。 もう一度、武道場に行こう。 110 ガクちゃんが言ったように謝ることで彼女を二重に傷つけるなら、 ただもう一度会ってもう一度彼女と僕の面談の話しをしよう。聞い てもらおう。 自転車に鍵を挿して、道場まで押した。 ﹁何か用すか?﹂ 壁の脇に設置された水飲み場に藍染めの道着を着た背の高い三人 の剣道部員がいて僕に声を掛けた。素振りの時に僕に敵意の目を向 けた五人の1年生部員のうちの三人だとすぐに分かった。 山本 と黄色く刺繍してある端整な顔立 ﹁マユ先輩なら稽古してます。たいした用じゃないなら集中させて あげたいんですけど﹂ 道着の合わせの部分に ちの男子が剣呑に放つ。 ﹁マユ先輩に何か酷いこと言いました? 道場に戻って来たマユ先 輩の笑顔が微妙に暗いんで﹂ ﹁もしかして富樫先輩の友達ですか? いい加減あの人にもムカつ いてるんですよ。好きな人を傷つけて満足なんすかねぇ?﹂ 加藤という子と藤吉という子が立て続けに言った。 ﹁お引き取り戴けますか? 明日学校で顔合わせますよね? マユ 先輩には、さっきの2年の人がまた来たと伝えておくんで﹂ 何も言い返せなかった。 言い方は辛辣だし身に覚えのないことも多少出てきた気はしたけ ど、彼らの態度は決して礼儀を欠いてはいないと思う。彼らなりに、 2年に対して我慢ならないことを言っただけだと思う。 尻尾を巻いて逃げたと言われればそれまでだけど、実際にたいし た用があるわけでもなく彼女の貴重な稽古時間を奪うわけにもいか ず、僕は納得して退散した。 裏門に向かう途中、道場の扉が開いた所から屋内の光の中に一心 不乱に素振りをする平岡さんが見えた。 剣道なんて殆ど分からない僕が見ても、1年生たちの素振りとは 111 明らかに違う速さと美しさがあった。真剣な表情で、汗で髪を首に 纏わりつける彼女の真っ直ぐな姿勢に甘苦しく胸が抉られる。 好きだ。 僕、平岡さんが好きだ。 もうお手上げだ。観念するしかない。 彼女を思う自分の気持ちの名前なんて知りたくなかった。本当は とっくに知っていた。だけど踏み込むのが怖かった。 リアリティ 彼女には恋人がいる。二人が別れればいいなんて思ったこともな いし、自分が恋人になりたいなどという現実味のない願望もない。 だからこの感情は恋じゃないと否定してきた。テレビの中の世界 の可愛らし女の子に抱くような気持ちなんだと自分に言い聞かせて きた。彼女を見るたび話すたびに、そうやって感情にブレーキをか けている自分がいた。 ブレーキをかけてる自分に気づいてしまった今、もう認めないわ けにいかない。 何がどうだとか、保険かけるみたいな臆病な屁理屈抜きにして│ │僕は彼女のことが好きだ。 もうあんな風に避けたりしない。好きな女の子を傷つけたりしな い。 心に誓って薄暗くなった帰路を走った。 112 拓巳です。約三週間の短い間ですか、お世話になります﹂ たくみ 15 実習生 とくやま ﹁徳山 頭を下げたその人に女子たちが一斉に色めき立つ。溜め息と一緒 に無数のハートが乱舞する。 そうち ﹁徳山先生は蒼智学院大学の3年生で地理の担当です。こちらの日 程の調整が付かなくて修学旅行間近だけど実習に入ってもらいまし うさみ た。皆さんよろしくお願いしますね﹂ 副担で地理の宇佐美先生が壇上で紹介をする。 ﹁蒼智ってところもポイント高いよね﹂ ﹁なんか育ちが良さそう﹂ ﹁修学旅行に引率してくれたりして﹂ ﹁地理を選んで良かったぁぁ!﹂ 東高に入って一年半、同級生男子はもちろん男性教師にも興味を 示さない女子たちがイケメン俳優を生で見たような騒ぎっぷりを初 めて目の当たりにする。 ⋮というか、本当にイケメン俳優に引け劣らないほどの爽やかイ ケメンだ。 ガクちゃんも爽やかイケメンだけどタイプが違う。ガクちゃんは 筋肉質な男らしい体育会系の爽やかイケメンで、徳山先生は知的で やや中性的な王子様系の爽やかイケメンだ。 ﹁よりにもよって、すげーイケメン来たな。永田姐さんや斉藤さん まで目がキラキラしてたよ﹂ これで永田さんの機嫌が良くなれば、浜島への態度も軟化するか も⋮⋮。すると良いのにな。 朝のホームルーム後は、女子たちが徳山先生の話しで持ちきりだ 113 った。 ﹁かっちりとスーツ、みたいなオヤジ臭いやつじゃなくてジャケッ くりはら トでスマートカジュアル寄りのセンスがツボ。マジで惚れそう﹂ 岩崎さんグループの栗原さんがガクちゃんと話している。 ﹁あれ? 栗原さん、彼氏いなかったっけ?﹂ ﹁もう東堂くん、それいつの話し? 七月に言ってた彼氏なら九月 前に別れたわ。その次の彼氏と最近終わったところ﹂ ﹁サイクル早っ! まぁ徳山先生、確かに格好良いよな。好きなタ イプとかさり気なくお訊きしておきましょうか? お嬢様﹂ ﹁遠慮しとく。自分で訊くわ。他人に訊いてもらうなんて話すチャ ンス一回分無駄にしてるようなものだもん﹂ ﹁栗原さんの爪の垢を東高男子に売ったらボロ儲けできそうだな﹂ 楽しそうに会話して栗原さんが岩崎さんたちのところへ戻って行 くと、ガクちゃんが僕に話し掛けた。 ﹁徳山先生って少し畠中ちゃんと似てない?﹂ ﹁ちょっ、ちょっと、何言ってるの!? 全然違うって﹂ 唐突なガクちゃんの言葉にびっくりした。 似てるわけないよ、徳山先生は髪もサラサラで背も高くて笑顔も 爽やかで│││ ﹁そうかなぁ? 線が細くて知性派っぽい感じとか、綺麗な顔して るのにチャラくなくて落ち着いてる感じとか﹂ いやいやいやいや、女子に聞かれたら大ブーイングだよ。お願い だからもう二度とそんなこと口に出さないで欲しい。僕が勘違いし てると思われて不当な口撃されるに決まってる。 聞かれていたら恥ずかしいな。さり気なく窓際前方に固まる女子 たちを確認する。 久保さんや斉藤さんと一緒に永田さんの長い髪を結いながら楽し そうに笑っている彼女。どう見てもこちらで話していることなど聞 こえていなそうだ。完全に取り越し苦労、というより無駄に気にし すぎ。僕はいつからこんなに自意識過剰になったんだ? 114 自分の感情に名前をつけてしまった瞬間から、穏やかだった僕の 世界は一変した。 正確に言えば本当は何一つ変わってなどいない。 相変わらず太陽は東から西へと沈むし、恐らく時計も同じ速度で 時間を刻んでいるはずだ。空気に色や味がついたわけでもなく、匂 いも変わらない。 僕の中にあった彼女に対する気持ちも、名前がついたことで昨日 までと別種類のものになったわけではない。 ただ名前がついたことで、輪郭ができてしまった。気持ちに形は ないなんて言うけれど、名前がついた時点で形が備わったのと同じ ことだ。 その形が目に見えないだけ。触って確かめることができないだけ。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い なんて言葉があるけど、逆もしか それでもちゃんと形はあるのだ。 り。 嫌いな相手に対しては着ている物まで憎たらしく見えるというが、 好きな相手のことは髪の毛先も歩き方も、友人の髪を結っている指 先さえも見惚れてしまう。 恋は盲目。 自覚症状が出てしまったら、それまでの世界とは別世界。 僕はきっと元の世界にはもう戻れない。 ◇ 徳山先生が他のクラスの地理の授業から帰ってくる度にそのクラ スの女子たちがハートを飛ばす。一時限目、二時限目と行く先々で 雪だるま式に女性ファンを増やし、社会科準備室も職員室も落ち着 かなくて徳山先生が休まらないからと、空き時間を2年2組で過ご 115 すように宇佐美先生から提案されたらしい。 ﹁ゼミの助教授がここの出身で紹介されて実習が叶ったんだけど、 まさかこんなに女子が多いとは﹂ 大学でもモテそうなのに、実習先で初日からモテにモテまくって いる状況に圧倒されているらしい。昼休み時間に僕たちの近くに座 り朝よりもだいぶ疲弊した顔で徳山先生が苦笑いした。 廊下には徳山先生を見に来ている女子たちが黒山の人だかりを作 っている。気づかないわけはないけれど、努めて意識しないよう振 舞って男子の輪の中に紛れていた。 ﹁先生、何かスポーツやってるの?﹂ サッカーに自信のある尾崎が訊く。 ﹁高校まで剣道とフットサルやってた。大学に入ってからは塾講師 とファミレスとボウリング場のバイトを掛け持ちして、本格的なス ポーツからはだいぶ遠ざかってるよ﹂ ﹁こいつ、先生がイケメンで女子たちが騒いでるから、対抗意識持 って自分が勝ってそうなこと訊いてやんの﹂ 小池がニヤニヤと尾崎を指差して冷やかし、尾崎が不貞腐れる。 ﹁体力じゃ君たちに比べたらすっかりオッサンだよ。別にに張り合 わなくても尾崎くん充分に格好良いじゃん。モテるんじゃないの?﹂ にえ ﹁中学時代まではまぁ、それなりに。告ってくれた子とかいたけど 高校になったらサッパリ﹂ 尾崎もまた東高の黒魔術の贄になってしまった一人だろうな。 すらりと引き締まった体躯や健康的にやや日焼けした顔はすっき り整っているし、真っ黒な髪がクールな印象を一層引き立てている。 尾崎は東高じゃなかったら間違いなくモテ部類に属していると思う。 ﹁女子って高校生くらいが年上に一番憧れる時期だと思うよ? 俺、 高校の時、まさか自分が大学生になって教育実習で女子高生にこん なに気に掛けてもらえるなんて思わなかったから﹂ ﹁先生、それ謙遜でしょ。まず俺らと先生じゃルックス偏差値が違 116 いすぎるよ﹂ 小池の言葉に徳山先生が吹き出す。 ﹁それは俺が大学生だからだよ。高校の時は全然イケてなかった。 ずいぶんマシになったんだよ﹂ ﹁大学生になったら垢抜けるもん?﹂ ﹁十代が終わったら変わってくるよ。高校の卒アルの自分を封印し たくなくなるくらい雰囲気変わると思うよ﹂ ﹁そんなもんかなぁ﹂ 先生の女子人気に斜に構えていた男子たちも、なんだかんだで手 玉に取られている。大学生から見たら僕たちはまだまだ子供なんだ ろうな。 放課後になり、女子たちの包囲網かと思えば男子たちが大学生活 や恋愛観を聞きたがり徳山先生はなかなか解放してもらえないよう だった。 僕はその輪から適当に抜け出して、帰り支度で進路資料室へ向か った。 隣りの相談室から聞こえてくる声。なんとなく今日は来ている気 がした。彼女、昨日二者面談だったみたいだから。 中野先生の話し声が聞こえ、僕はもう一人の声の主が資料室の方 の扉を通ってくれることを期待して待った。 ﹁そうそう、実習生の徳山くん、平岡さんたちのクラスだったわよ ねぇ? 大変だったでしょ?﹂ 今日は内扉が少し開いていて中の声がよく聞こえる。盗み聞きし てるみたいで後ろめたいから閉めに行った方が良いのかなと思った けど、それも微妙に気が咎めて結局そのままにした。 ﹁大変⋮⋮ですか?﹂ ﹁徳山くんハンサムだから女の子たちが大騒ぎしたんじゃない?﹂ ﹁あはは、そうですね。大騒ぎでした﹂ 117 平岡さんの笑い声が弾んだ。 ﹁あれだけハンサムな大学生が実習に来るなんて、女子高生にとっ たらテレビドラマの世界よねぇ。いいわねぇ、徳山くんみたいな甘 いマスクの大学生が実習に来るなら私も女子高生に戻りたいわ﹂ ﹁そんなこと言ったらご主人とお子さんが悲しみますよ﹂ ﹁いいのよ、言ってるだけなんだから。それにね、ときめきがない と女は錆びちゃうのよ﹂ ﹁じゃあご主人にときめいて下さい﹂ ﹁平岡さんはお堅いのね。徳山くんの話題にも反応薄いし。周りの 皆が騒ぐようなハンサムには興味ないの?﹂ ﹁うーん⋮、よく分かりません。確かに格好良いと思いますし、優 しそうで素敵だとも思いますけど﹂ ﹁けど?﹂ ﹁私、恋愛に向いてないみたいです﹂ ﹁あはは、何言ってるの! まだ十七になったばかりでしょ。その 若さで枯れたこと言ってちゃダメ。人生長いんだから﹂ ﹁です、ね﹂ ﹁ほら、笑ってごまかさないの。まあ、今は受験に専念する時期で 正解だけど。受験の相談に来た生徒に恋愛勧めてる進路指導担当な んてPTAから苦情来ちゃうわ﹂ ﹁まったくですよ﹂ ﹁でもね、私なんかとか恋愛向いてないとか、自分を決めつけて後 ろ向きなこと言っちゃダメ。これからどんどん色んな自分を発見し ていくわよ。あなたの進みたい道は、後ろ向きになってたら振り落 とされちゃう世界だと思うけど?﹂ ﹁そうですよね⋮⋮﹂ ﹁ほら、すぐそうやって自信を失くす。あなたは努力家なんだし、 もっと自分に胸を張って良いのよ﹂ ﹁胸を張ったら凹凸がないのがバレちゃいます﹂ ﹁おや、そう来ましたか。もう少し大人になったらいい男に大きく 118 してもらいなさい。うふふ﹂ ﹁せっ、先生?!﹂ ﹁はい、今日は終わり。頑張ってご家族を説得しなさいよ﹂ 内扉が開く音がして平岡さんが出て来た。 会うことを期待していたとは言え、彼女に対する自分の気持ちを 認識してしまうと、やっぱり面と向かうのはこれまで以上に恥ずか しいし緊張する。 しかも、聞こえてきたのが胸の話しとか。この展開は拷問すぎる。 ﹁⋮⋮ねぇ、畠中くん、聞いてたでしょ。顔が赤いよ?﹂ ﹁えっ? あ⋮⋮、うん、ごめんなさい﹂ ﹁嫌だもう、恥ずかしい﹂ 平岡さんは今にも顔が青ざめそうなほど大きく落胆して、手のひ らで顔を覆った。 ﹁ごめん、不可抗力です。ホント、ごめん。ごめんなさい!﹂ ﹁⋮⋮どのへんから?﹂ ﹁へっ?﹂ ﹁どのへんから、聞こえてた?﹂ ﹁な、中野先生が、と、徳山先生を格好良いって⋮⋮言った辺りか ら⋮⋮かな﹂ ﹁嘘ぉ、そんな前からぁ?!﹂ 彼女はヘナヘナと崩れるように、扉の横の本棚に寄り掛かった。 ﹁ちょっとどうしたの? 虫でもいたの? ⋮⋮って、あら﹂ 嘆く平岡さんの声に中野先生が顔を出した。 ﹁2組の子だったわよね? 確か夏休みの直前にも二人でここにい たわね。あなたたち、付き合ってるの?﹂ ﹁ちっ、違いますっ! 違います、違います、違います!!﹂ 彼女の言う通りなんだけど、ムキになって否定されてちょっと傷 違います が一回一回槍のようにグサグサ つく。しかも違いますって四回も⋮。 平岡さんの放つ 119 と僕を貫く。更に富樫の顔が頭の中をチラついて傷口に塩が塗られ た気分。釣り合うだなんて微塵も思ってなくても、全力で否定され るとダメージ喰らうもんなんだな。 ﹁冗談よ。平岡さんホント、何でも真に受けるから面白いわ。彼、 徳山くんにちょっと雰囲気似てるじゃない。いいじゃない、付き合 っちゃえば?﹂ ﹁もう、先生。冗談キツすぎます。ホントやめて下さい﹂ ホントやめて下さい は傷つきます。 ムキになりすぎて紅潮した頬を手で扇ぎ抗議する彼女を中野先生 で が笑う。完全にからかわれてる。 でも、目の前 120 16 口実 中野先生がひとしきり平岡さんをからかって相談室の方へ引っ込 む。傍から見ていると感情豊かにリアクションする平岡さんは、一 つ一つ面白くて一つ一つ可愛い。中野先生がからかいたくなる気持 ちも分かる。その光景はあまりにも微笑ましくて、好きな女の子を 目の前にして緊張しかけていたこともうっかり忘れそうになるくら い。 彼女自身は至って真面目な性分だから、自分の反応がからかいた くなる気持ちを刺激してる自覚ないんだろうな。そういう僕も、ま いちゃんやガクちゃんや⋮⋮、1年の時は富樫にもからかわれては 完璧女子 と敬遠気味に形容した 笑われて││第三者から見たらこんな感じなのかな。いやいや違う、 平岡さんは特別だ。 前に阪井が平岡さんのことを 時に柳瀬が、知らない人から見たら面白味のない優等生に見えても 面白い所もあると言っていたこと、今ならよく分かる。 こんなに表情が素直でこんなに感情が豊かなのに、いざ言葉で自 分の内側にあるものを表に出そうとすると途端に詰まってしまう一 面もあるのが不思議だ。 ﹁ごめんね、勝手に騒いだりして。畠中くんは悪くないから。でも 聞こえたことは出来る限り忘れる方向でお願いします﹂ 彼女はまた頬がぼうっと赤くなる。 ﹁調べ物の最中だった? 邪魔してごめんね﹂ 短く挨拶して立ち去ろうとする彼女の目に、中野先生と話してい た時とは違う隔意の色が浮かんでいた。 ﹁あのさ﹂ ﹁ん?﹂ 121 ﹁少しだけ時間大丈夫?﹂ ﹁⋮⋮大丈夫だ、けど﹂ 少し驚いた顔で固まってから、ちらりと壁の時計を見た平岡さん が不思議そうに僕を見返す。その表情はまだ硬い。 ﹁進路、少しずつ決まってきたというか⋮⋮﹂ ﹁そうなの?﹂ 優しい響きの澄んだ声。緊張の解けた笑みで柔らかそうな丸い頬。 座ったまま見上げた先で彼女の視線とぶつかる。普段の僕なら女子 と一瞬目が合っただけでも逸らしてしまうのに、何故か彼女には時 々釘付けになってしまう。どの女の子よりも目が合ったら緊張する しドキドキしてしまう相手なのに、時々すうっと心の波立ちが止ま ったように目が逸らせなくなる時がある。 教科棟の屋上での口約束、彼女は覚えてくれているだろうか。 ﹁でも、いいの?﹂ ﹁何が?﹂ ﹁私なんかに話してもアドバイスも出来ないし、奥の部屋に中野先 生がいるんだから中野先生に聞いてもらった方が良くない?﹂ 戸惑いと鈍感が入り混じる、何とも彼女らしくて││可愛くもあ り、歯痒く、残酷だ。中野先生に聞いてもらった方が良くない? なんて言われたら返す言葉がない。進路指導担当の先生だし、壁を 隔てたすぐ向こうにいるのは明らかだし。﹁平岡さんに聞いてもら いたいんだっ!﹂と言えないウジウジ男の自分が情けなくて仕方な い。 ﹁あ、そういえば⋮⋮。1年生の男の子たちから聞いたんだけど、 この間浜島くんに頼まれて日報を届けてくれた日、もう一度寄って 山本 と刺繍で書かれた男子を思い出した。 くれたんだって?﹂ 道着に ﹁ごめんなさい﹂ ﹁どうしたの? 唐突に﹂ 122 彼女は少し驚いたように微かに眉毛を上げて瞬きした。 彼女にあんな態度を取ってしまった以上、謝ることは避けられな い。謝ることで彼女を余計に傷つけるとガクちゃんは言ったけど、 傷つけたまま知らん顔をしているわけにはいかない。僕はそれだけ あからさまな態度を取った。 ﹁この間、僕、感じ悪かったと思って﹂ ﹁えぇ? ちっともそんなことないよ﹂ 彼女は戸惑ったように不器用な作り笑いをする。﹁蒸し返すのは やめて﹂と釘を刺しているのかもしれない。わざわざ言葉にするこ とは、やはり余計に彼女を傷つけてしまうことなのだろうか。 あの時、彼女に問いかけられたのに僕は彼女を遮るように踵を返 した。それで今更こんなことを言い出されたって、気分悪いだろう。 ﹁そんな困った顔しないで。皆から避けられる理由に心当たりない わけじゃないから。なのに声かけてくれて、ありがとう。本当に嬉 しい。私、畠中くんのこと感じ悪いなんて思ってないよ。一度も思 ったことないからね﹂ 心当たりないわけじゃないという言葉が意味するのは、富樫との ことだろう。胸がズキズキした。だけど、ここで何も言えずに彼女 を見送ったら同じことの繰り返しだ。 ﹁サンドイッチ、美味しかった﹂ 何言ってんだ、僕。彼女だってキョトンとしてるじゃないか。 ﹁い、意外と焙じ茶と合うんだね﹂ ﹁そう?﹂ 彼女がクスッと笑う。僕はそれがなんだかとても嬉しくて、バカ みたいに首を縦に振る。何度も何度も。 ﹁進路のこと、聞いてもらえる? 実を言うと話せる相手ってそん なにいないんだ。聞いてもらうだけで、決意表明│││って言った ら大袈裟だけど、公言になるから﹂ 話せる相手なんて、そんなにどころか全然いないけど。本当は。 123 ﹁本当に私でいいの? ⋮⋮って、こういうこと何度も訊くのって くどいね。ごめんなさい。私で良ければ喜んで﹂ 近づいて来て隣の椅子に腰掛けた彼女は、僕の手元に置いた資料 集を覗き込むために椅子ごと距離を詰めて少し体を寄せた。 それだけで僕の左肩は緊張して固まる。チラリと横目を向けると 資料集に視線を落とした彼女の顔の長いまつ毛が目の前にあった。 │││今までで一番の最短距離!! 口から心臓が飛び出そうと最初に例えた人はすごいと思った。喉 に力を込めて息を止めないと彼女の顔は僕の心臓を被ることになっ たかもしれない。 異様な緊張感に不穏な雰囲気を感じたのか、彼女が不思議そうに ゆっくりと顔を上げる。顔と顔の距離、たぶん10cm。すぐそば には見上げる大きな澄んだ瞳の破壊力。卒倒しそう、大袈裟でもな んでもなく本当に。 口から心臓が飛び出ないかばかり気にしてノーマークだったけど、 鼻血が噴き出そう。興奮して鼻血なんて少年マンガにありがちなベ タな設定だと思ってたけど、ごめんなさい、今日を最後に撤回しま す。 ﹁ごっ、ごめんなさい!﹂ 最初に謝ったのは彼女だった。椅子を離して距離を取った彼女の 瞳が震えている。 どうして? どうしちゃったんだろう? 僕らが彼女を避けてしまったことで彼女は自分のことを汚れたと 思ってしまったのかもしれない。こんなにも彼女を傷つけてしまっ たなんて││自分たちの幼稚さと浅慮さが悔やまれて仕方なかった。 ﹁あんまり大きな声では言えない話しだから、もう少しだけ戻って きてくれるとありがたいんだけど﹂ 不思議なもんだと思う。僕は今まで自分から女子に近寄れる人間 124 じゃなかった。だけど。 人間って相手が明らかに躊躇していたり強張っていると、自分の 中にないはずの余裕を感じられる。悲しい時に自分の隣で号泣して いる人がいると泣けなくなるのと同じなんだろうか。 彼女は椅子は離した距離のまま恐々と表情を強張らせて、少しだ け身を僕の方へ傾けた。なんだかやっぱり遠いなと思いつつも、こ れ以上近づかれたら僕の緊張が爆発しそうな気もした。 コホンと勿体つけて咳払いをしてみる。 ﹁機械とか電気とかそっち方面を目指してみようかなぁって思って﹂ ﹁具体的にどんなこと勉強するのか、難しくて私にはよく分からな いけど、イメージ的になんとなく畠中くんに似合ってる気がする。 技術系のお仕事。格好良いね﹂ 平岡さんに格好良いなんて言葉を使われて顔が熱くなる。言われ たことないんだよ、今まで誰にも。親や兄弟にさえも。 ﹁かっ、格好良くなんてない⋮⋮よ﹂ ﹁そう? 理系分野の技術職って格好良いと思うけどなぁ﹂ あ、なんだ。そういう意味ね。なんだ、じゃないか。当然だよな。 ﹁うちのクラスの子たちは理系に進む人が多そうだよね。東堂くん も建築系を考えてるって言ってたもんね﹂ そう。ガクちゃんだって平岡さんと進路の話をしているのだ。偶 然そこを通りがかった時にがくちゃんに声をかけられて話しに加わ ったこともあったけど、平岡さんと進路の話をしている頻度に関し て言えばがくちゃんや柳瀬の方が圧倒的に多い。親密度で比較して も、僕なんて彼らの足下にも及ばない。 ﹁じゃあ畠中くんも志望校を考えていく段階になるんだね﹂ まるで自分のことのように喜んでくれる彼女。でも夏休み前日の 教科棟の屋上で彼女がまた進路の話をしてほしいと言ってくれたこ とは、話題もなく内向的で退屈で非モテ男の僕にとって、彼女との 唯一の接点だと思っている。 ﹁さっきも言ったけど、進路のこと話せる人、他にそんなにいない 125 から、また良かったら聞いてもらえる?﹂ ごめんね、口実にさせてもらいます。 ﹁ありがとう。身近な友達にもなかなか話せないような大切な話し を聞かせてくれて﹂ 神妙に感謝の意を述べる彼女に少し後ろめたい気持ちになった。 身近な友達にもなかなか話せないって部分も、そもそも身近な友達 も殆どいないと訂正したくなった。 ﹁平岡さんも目指してるもの、あるんだよね?﹂ ﹁私? ⋮⋮うん、一応﹂ 言い淀む彼女に、何度か相談室から漏れ聞こえてしまった断片的 な部分から家族を説得しなければならないことだけは分かっていた。 言い難いことなら、無理に聞くつもりはないけど。 ﹁いつか、固まったら⋮⋮僕で良かったら聞かせて﹂ 進路の話しなら僕じゃなくても彼女には、永田さんも柳瀬もガク ちゃんも、富樫だっているだろう。でも他人に話すことで平岡さん が頑張れる後押しになるのなら、僕は平岡さんの言霊が天に届くよ うに祈る。 ﹁今はまだ、現実的じゃない⋮⋮というか、絵空事みたいで聞かせ られるような段階じゃないんだけどね。もう少し具体的になったら 私も話すね﹂ ﹁でも、その代わり﹂ 不意に思い出したように平岡さんが言う。 ﹁その代わり?﹂ ﹁忘れて欲しいの、さっきの話し﹂ これだけ話しをして、さっきのって言われてもどの話しだか分か らないよ。 ﹁何の?﹂ 126 ﹁何の? って⋮⋮。えっと、その、胸の話し!﹂ 彼女は真っ赤になってドアまで走って行くとそのまま勢いよく引 き戸を開け閉めして出て行ってしまった。思い出して僕も伝染した ように顔が熱くなった。金縛りにあったみたいに彼女の去った扉を ただ見つめて廊下をバタバタ走る音を聞いていた。 隣の部屋から中野先生がクスクス笑う声が聞こえたけど、その時 は平岡さんの赤面ダッシュで頭がいっぱいだった。 127 17 修学旅行 ︵前編︶ いくら県立でも今どき京都はないなとは思うけど、インドア派の 僕は内心国内でホッとしている。 ﹁やっぱり納得いかない。今どき中学生だって飛行機で沖縄とかだ ぞ? 新幹線で京都ってアリか?!﹂ この類のブーイングがあちこちから聞こえる。 遡ること一年前、今の3年は学校初の海外修学旅行で行き先はな んとグアムだった。翌年の僕たちは、当然一年後の自分たちの修学 旅行もグアムになるだろうと歓喜していた。しかし、現3年が修学 旅行から帰ってくるなり状況は一変した。 修学旅行の規則として自由行動の時間にビーチで遊ぶのはOKと しても水着は学校指定のものかフィットネス用に限るとのことだっ た。けれど、いくら修学旅行とは言え外国のビーチリゾート地でス クール水着を着たいと思う勇者なティーンエイジャーなんかいるは ずないことくらい、女子に免疫のない僕にも容易に想像がつく。 結果、規則を破り大胆なブラジリアン・ビキニでビーチ遊びをす るわで、帰国後は職員会議とPTA懇談、更にはOG会で 謹粛元 学生ら る女子まで出るわ、メディアからの読モのスカウトや撮影まで請け ということになり、僕たちの年は改めて というとばっちりを受ける羽目になった。ちなみに言うと、ブ しい品位の欠如 年 ラジリアン・ビキニとは如何なる物なのか僕にはさっぱり分からな い。 僕たちの学年が悪いことをしたわけてもないのに、つまり﹁寺院 仏閣でも回って浮ついた心を清め戒めて喝を入れなさい﹂と言われ ているような分かりやすさ。寺院仏閣を巡ったくらいで中高生が改 128 心出来るほどの御利益があれば日本は今頃、心優しい大金持ちだら けだと思う。 しかし哀しいかな、僕を含め日本の中高生のほとんどはどこにど の神仏が祀られているのかもまともに知らない。ちなみに知ってい るのは法隆寺を聖徳太子が建立しただとか、太宰府天満宮に菅原道 真公が祀られているだとか、それくらい。 さすがにこの処遇は可哀想だと僕たちの学年の先生たちが頑張っ てくれたおかげで、旅程の中で半分以上が自由行動にあてられてい る。とは言え、事前にプランを申請して許可を取らなければならな いのだけど。 ﹁グアムに行けないのは悔しかったけど、徳山先生が来てくれたし 結果的に京都で良かったかも﹂ 修学旅行の学生用の貸切車両は、一両が二クラス分で同じ車両に なった1組の女子が群れになって徳山先生に貼りついている。 1組と合同のせいで、普段の男子だらけの教室内と比べ女子密度 がアップして居心地が悪い。尾崎や小池たちは最初は少し嬉しそう にしていたけど、どんなに女子がたくさんいても男子たちが相手に されない当たり前の東高の状況に戻っただけだと気づくのに十分も かからなかった。 男子は各々マンガを読んだり音楽を聴いていたり、グループにな ってトランプをしたりして過ごした。 通路を挟んだ反対側の座席の辺りに目をやると平岡さんと久保さ んが京都の地図を広げていた。平岡さんの手元には教科棟の屋上で 焙じ茶を飲ませてもらった時のステンレスボトルがあり、平岡さん があのボトルを手に取ってカップに口を付けるところを思い浮かべ て顔が熱くなった。 毎日洗って使うのは明らかだし、しかも一緒に使わせてもらった のは数ヶ月前で、それから今まで彼女の周りの友人たちが何度とな 129 くあのボトルからお茶を口にしている。 なのに、たった一度シェアしてもらった数ヶ月前の出来事を思い 出してそわそわしている僕はどうかしているのだろう。こんなこと 思っているなんて知れたら、それこそど変態だと気持ち悪がられる かもしれない。 そんなことを頭に巡らせていると、平岡さんのがマグボトルを手 に取った。 そして、にこやかに受け取った久保さんが湯気の立つお茶を啜る。 あはは、現実とはかくなるものだ。 くずみ ﹁明日の自由行動、繭子さんと久保ちゃんは久住くんや谷口くんた ちと三千院に行くんだってさ。永田姐さんと斉藤さんは太秦に時代 劇の撮影見学だって。あの二人らしいでしょ﹂ 柳瀬が斜めに刀を振り下ろすゼスチャーをしてニヤリと笑った。 久住くんや谷口くんは僕たちのクラスで一番大人しいグループの 男子で、久住くんは時刻表マニアらしいと浜島が言っていた。久住 くんたちが羨ましい。 ﹁畠中ちゃんの明後日の予定は?﹂ 明日の自由行動は、浜島や柳瀬やガクちゃんたちと観光スポット を巡回するバスで二条城や金閣寺や八坂神社などを回ることになっ ていた。 ﹁明後日はガクちゃんたちとレンタサイクルで嵐山に行こうって予 定になってるけど﹂ 新京極エリアから嵐山まで自転車は結構キツそうだと思う。誘っ てもらったのは嬉しいけど、同行メンバーを聞いてガクちゃんたち ラグビー部のクォーターバック陣だと聞いて尻込みしている次第。 ﹁畠中ちゃん大丈夫? そんななまっちょろくてガクちゃんたちに ついていけるの?﹂ 柳瀬にまでからかわれて益々気が遠くなる。 ﹁明後日は僕たち、2組の剣道部メンバーで清水寺に行く予定なん 130 だ。良かったら来ない?﹂ これまで永田さんのマークが厳しくて平岡さんに近寄らせてもら えなかった浜島も一緒だという。せっかく選択科目を揃えて同じク ラスになったあの仲の良い2組剣道部の皆の高校生活の思い出作り に部外者が混ざるのは気が引けた。 ﹁遠慮しておくよ。ありがとう、そっちはそっちで楽しんできて﹂ ◇ ﹁ここ浜島くんがいた所だよね? 今空いてる? ちょっと座らせ て﹂ 1組女子たちの包囲網から抜け出して来た徳山先生が僕たちの座 っていたボックス掛けの空いた所に腰掛けて、汗を拭う。 ﹁先生、何て言ったら良いか⋮⋮、お疲れ様﹂ 同情したガクちゃんが未開封のミネラルウォーターのペットボト ルを差し出した。 ﹁ありがとう。後で何か奢るな﹂ ﹁モテないのって淋しいと思ってたけど、先生を見てるとモテるの も楽じゃないなって思うよ﹂ 後ろの席から尾崎が顔を出して先生を労わるように呟いた。 ﹁こういうのはモテてるのと違うよ。本当に好きな相手には、何を するにも言うにも躊躇するもんだろ﹂ 何人かが見に覚えのある表情で肯きかけて、徳山先生がクスッと 笑う。 ﹁あれ? 平岡さん﹂ 僕たちと話していたかと思った矢先に徳山先生が唐突に平岡さん を呼び止めた。 平岡さんとしばらく口を聞いていない尾崎たちがバツが悪いのか 慌てて自分の席の方に引っ込んだ。 彼女は車両を出ていて戻ってきたところのようで、通路を通って いるのを呼び止められたのだ。 131 ﹁すごいの持ってるね。ちょっと見せてもらっても大丈夫?﹂ ライカのM3じゃないの? レンジ ﹁あ、はい。骨董品なのでお恥ずかしいですけど﹂ ﹁恥ずかしくなんてないよ! ファインダーだよね?﹂ ﹁そうです、ご存知なんですか﹂ ﹁ご存知もなにも⋮! フィルム式だろ、この年代のライカがこの 状態で現存してるってすごいな。しかも持ってるのがモバイル撮影 世代の女子高生って!﹂ ﹁はあ⋮⋮、そうなんですね。私のというより父のお下がりなんで す。たぶん私にはこのカメラの真価は理解出来ていません。ただケ ータイもデジカメも持っていないので、ちゃんと使えるようにはな りたいなぁと思っているんですけど機械が苦手なので扱いが難しく て﹂ ﹁ちょっとだけ触らせてもらってもいいかな﹂ ﹁はい、どうぞ﹂ いつになく興奮気味の徳山先生と、それに気圧されている平岡さ ん。徳山先生は恐る恐る平岡さんの手のひらから、そのレトロなカ やの メラを手に取ると瞳孔だだ開きで感嘆の溜め息を漏らす。 ﹁すごい、レプリカじゃない本物のM3だ。矢野さんのと同じだ﹂ 少年のように目を輝かせる徳山先生を平岡さんは熱っぽく見つめ ていた。 進路相談室で中野先生に徳山先生のことを訊かれた時に素敵だと 思うって答えてたし、やっぱり平岡さんもこういう格好良い年上の 人に惹かれているんだろうな。付き合っている人がいるから他の女 子みたいにあからさまに言わないだけで。 愛でるように撫で回し、色々な角度からあちこち見ては溜め息を つき、礼を述べ満足したように平岡さんの手に戻す。 ﹁いや、まさか矢野さんの愛機と同機種に会えると思わなかった﹂ ﹁先生、矢野さんって先生の恩師か何か?﹂ 132 ガクちゃんが質問する。 ﹁いや、恩師でも知り合いでもない﹂ って聞いたことあっただろ? 景色や人物を綺麗 昌孝さんっていうフォトジャーナリスト。ちょっと前に まさたか ﹁なんだよ﹂ やの ﹁矢野 戦場カメラマン に撮るとかじゃなくて、何処かの一瞬を写した一枚を見た人が状況 を理解出来るようなメッセージ性のある作風なんだ。フランスの有 名な写真家に傾倒していて⋮⋮そのフランスの写真家もライカM3 を愛用していたんだけどね﹂ ﹁先生、詳しいね﹂ ﹁ははっ、ちょっと囓った程度の知識だよ。そもそも俺が大学を一 年休学して世界一周しようと思ったきっかけが矢野さんの写真集だ ったんだ﹂ ﹁先生、バックパッカーだったの?﹂ ﹁え? そうだけど、最初に言わなかったっけか?﹂ 聞いてねぇし、とガクちゃんが笑った。蒼智なんか通ってて、品 があって育ちが良さそうな風貌からバックパッカーなんて想像もつ かない。 ﹁だからバイトを三つも掛け持ちしたんだ。女子釣り用のチャラい 外車とか買うためじゃなくて?﹂ ガクちゃんが冷やかすと徳山先生は笑う。 ﹁おいおい、勘弁してくれよ。チャラい外車もチャラい外車で釣れ るような女の子なんて維持費だけで破産するよ﹂ そう言って鞄の中からタブレットを出して写真のフォルダを開い て見せてくれた。 ﹁先生、手渡しちゃって良いの? ラブラブ写真とかマズいの出て 来ても知らないからな﹂ ﹁そんな写真ないから大丈夫。ホント、東堂くんたちが思ってるほ ど俺モテてないから﹂ 写っていたのは、くすんだTシャツを着て同じような格好の人た 133 ちと破顔する日焼けした徳山先生だった。 ﹁一年じゃ全然足りなかったな。長い人だと三年とか五年とか旅し てる﹂ めくっていく度に違う人たちが写っている。民族衣装のようなも のを着た現地の人だったり、船の上でキメ顔を作るガタイの良い漁 師さんだったり、一期一会の旅仲間だったり。今の時代はネットが 普及していて途上国の山奥でも繋がる所なんかもあったりして、近 況や地点を報告し合いながら落ち合ったりすることも出来て、本当 の一期一会というわけではないのだそうだ。 ﹁ただ、その時に偶然一緒になったメンバーがもう一度揃って会え ることは難しいんだ。君たちもそう、京都なら大人になってからも いつでも来られるけど、この面子で来ることはきっと最初で最後な んだから、しっかり良い思い出作ろうな﹂ 徳山先生はそう言うと一号車の方から現れた宇佐美先生に呼ばれ て行ってしまった。 徳山先生が席を立つまで、ぼうっと熱い視線で先生を見つめてい た平岡さんも我に返り、少し動揺した様子で斉藤さんや永田さんの いる席まで戻って行った。 大人が垣間見せる少年の顔に女子は弱いなんて聞いたことがある。 彼女も徳山先生のそんな一面にやられてしまったに違いない。 134 17 修学旅行 ︵後編︶ 京都駅に到着するとクラスごとにバスに乗り、三十三間堂と知恩 院の見学をして宿泊するホテルに着いた。 これで二条城と清水寺が付いていたらまるで中学の修学旅行だな と小池たちが笑っていたけれど、たった二年半前のことなのに中学 の時に観た京都の寺院と高2になって観たのとでは、感じる何かが 違っている気がした。侘び寂びが分かるようになった、なんて一人 前なことは思わないけど、中学の頃は古い建物全体像に圧倒され、 今観ると古い木材独特の味わいや釘を使われていない宮大工の技術 など細部に唸らされた。 旅程は当たり障りなく過ぎて、以前のように平岡さんと打ち解け た浜島は上機嫌で平岡さんたちと撮った平等院での楽しそうな写真 を自慢げに見せてくれた。 久保さんも柳瀬も教室では見せないような破顔で写っていて、剣 道部の仲の良さとそんな彼らが作った思い出が羨ましくもあった。 ﹁中でもこれがお気に入りの一枚なんだ﹂と浜島が見せてくれた写 真には、斉藤さんが平岡さんの口元にみたらし団子を運び、平岡さ んが口を開けて││頬にみたらしのタレをたくさん付けている様子 が写っていた。 ﹁これ何度見てもウケるなぁ。本人に見せた? 見たら怒るぞ﹂ ガクちゃんは腹を抱えて面白がった。 二日目の夕食の時には久住くんが平岡さんと交換したと三千院の 袋に入った学業成就のお守りを大切そうに眺めていた。 四日目のクラス行動は、僕たちのクラスは事前にネットで見学申 し込みをしていた京都御所だった。見学が終わった後の休憩時間に、 永田さんと斉藤さんが蛤御門の弾痕を大袈裟に撫で回し、久保さん 135 と柳瀬の笑いを誘っていた。 連日の夕食後の夜間自由行動の時間には多くの人が新京極や木屋 町などに散策だったり土産物を買いに出掛けた。この夜間自由行動 の時間こそが数少ない校内カップルの醍醐味と言われていたけど、 富樫たちは連日6組の男女グループで出掛けていたようだと浜島が 言っていた。 最後の晩、多くの人が夜間自由行動で出払った後のホテル内の非 常階段の手前の踊り場で話しをしている富樫と平岡さんを見かけた。 そして最終日の今日の朝、ロビーで平岡さんが6組女子グループ の集中砲火を浴びていた。 ﹁昨日、富樫くん外出先から早抜けしたんだけど平岡さんが呼び出 したの?﹂ ﹁そのカメラ、徳山先生の気を引いていたってやつ? いるよねぇ、 今どきのミラーレスの一眼なんか使ってお洒落カメラ女子気取りな 勘違い女﹂ ﹁富樫くんにフラれて徳山先生に乗り換えたの? かなり色目使っ てたらしいものね﹂ 酷い言われように永田さんが抗議をしようと身を乗り出したが平 岡さんに制されていた。自軍優勢と判断したのか6組女子たちが﹁ 黙ってないで何か答えなさいよ﹂と畳み掛けた。 ﹁えっと、私はお願いされてるのかな? 命令されてるのかな? 神経を逆撫でするようで申し訳ないけど、答えなさいなんて命令さ れる言われはない気がするの。お願いしてほしいとは思わないけど、 命令される間柄でもないと思うんだよね﹂ 彼女は困ったように微笑して一礼すると、ぽかんとしている永田 さんの背中を押して、何事もなかったような顔で毅然とバスに乗り 込んだ。バスの中では待ち構えていた松野さんに﹁申し訳ないなん て言わなくて良いの!﹂と横抱きに抱き締められて苦しがっていた。 136 ﹁悪くないのに謝ったのはこの口か∼!﹂ 栗原さんに唇の両端を摘まれ、次いで永田さんや松野さんが手荒 くねぎらう。仕上げに永田さんからは髪がクシャクシャになるまで 頭を撫でられてバスの中全体の空気が弛んだ。 あっけらかんとした平岡さんの空気が彼女の周りの友達を動かす。 あわや一触即発の空気をあっという間に消し去ってしまう彼女たち は大人だ。 結局平岡さんとは学校の中と変わらぬ程度にしか関わりがないま ま、彼女と一緒に修学旅行の思い出を作った浜島や柳瀬や久住くん たちを羨んで僕の修学旅行が終わろうとしていた。 帰りの新幹線の中は前の晩に遅くまで話し込んでいた人たちが眠 りこけ、まだまだ旅の高揚を継続中な人たちがあちこちで写真を撮 り合っていた。 ﹁浜ちゃんたち、写真撮ってあげるよ!﹂ 永田さんがやって来て僕の隣の座席で爆睡していた浜島が飛び起 きる。 ﹁ガチな寝起きは勘弁してよ﹂ 情けない声を出して頭から上着を被って逃げて行く浜島を永田さ んが笑う。永田さん、絶対にわざとやってるよ。 ﹁あ、繭子も撮ってあげるから、そこ入れてもらって。もう、浜ち ゃーん! 戻ってきなよー﹂ 岩崎さんたちを写してあげていた平岡さんが席に戻ろうと通り掛 かり、呼び止められた。浜島は逃げて車両を出て行ってしまった。 ﹁いい?﹂ 平岡さんが僕の隣、浜島が座っていた窓際の席を指差した。僕が 頷くと平岡さんが隣に座った。 ﹁もうっ、浜ちゃん、しょうがないなぁ。またお仕置きが必要かな。 ちょっと捕まえてくるわ﹂ 137 撮るからと平岡さんを呼び止めた永田さんが浜島を追って行って しまった。 ﹁理恵ちゃんって浜島君のお姉さんみたいだよね﹂ 置き去りにされて困ったのは平岡さんも同じだった。 ﹁永田さんて、浜ちゃんに煮え湯を飲ますことに命かけてるよなぁ。 代わりに俺が撮ってやるよ﹂ 戻ってきたガクちゃんがデジカメを構えて撮ってくれた。シャッ ターの音がするまでの僅かな数秒の居心地悪さったらなかった。ど んな顔をして良いか分からなかったし、隣に平岡さんがいるのだと 思うと緊張して仕方なかった。 ﹁ねぇ、私も一枚いい?﹂ 平岡さんが例の年代物のカメラを持った手をそのまま垂直に持ち 上げた。 ﹁コンデジと違って綺麗に撮れないかもしれないけど﹂ 独り言みたいに呟いて、少し僕の方に体を寄せた。瞬間にカシャ ンという渇いた音がして平岡さんが素早く体を離して立ち上がった。 やっぱり触れ合う距離まで近づくのは抵抗あるみたいだ。体を寄 せた時も座席に付いた左手に力を入れて、僕の肩と触れないギリギ 私なん と卑下して遠慮しているのか、僕には皆目見当もつかなかった。 リで支えていた。僕が嫌われているのか、彼女がいまだに か ﹁そんなに切ない顔しなくても大丈夫だよ。嫌われてたら、自分の カメラにまでツーショットを収めないよ﹂ 入れ替わりに僕の隣の座席にやってきた徳山先生が小さな声で僕 に耳打ちした。 えっ? バレてる?! ドキリとした。 視線の先では、ガクちゃんと平岡さんが通路に立って二人で写真 を撮っていた。平岡さんは僕の時と同じように自分たちに向けて素 早くシャッターを切って体を離している。 138 違っていたのは、ガクちゃんと撮る時にはカメラを持っていない 方の手でピースをして、にっこりと笑っていたこと。 ﹁みんな平岡さんのこと好きなんだな。畠中くんもなんだろ?﹂ 戻ってきた浜島と永田さんを撮影している平岡さんの横顔を見た まま徳山先生が言う。 先生、彼女には1年の時から付き合ってる彼氏がいます。そして それは、僕にとって友人です。 もし彼女の気持ちが、富樫から離れているとしたら│││ 彼女が惹かれているのは、徳山先生、それはきっとあなたです。 139 18 ガールズトーク ﹁わあっ、良く出来てるじゃん﹂ 壁から天井をぐるりと見回して、栗原さんが感嘆の声をあげた。 男子一同、曖昧な笑みでなんとかその場をやり過ごす。 作業は完璧。特に落ち度はないだろう。 それは教室内の様子を見て関心している女子たちの表情からも窺え る。 ﹁とりあえず作動させてみない?﹂ 屈託なく促す栗原さんに男子一同ギクリとたじろぐ。 そうだよな、気づいてないだろうな。 隣の教室で彼女たちが話していたあれこれを聴いていただなんて│ ││ ﹁いっ、一回電気を消させて頂いて投影させて頂きましょう。同時 に映写機のスイッチを入れて頂けません?﹂ ベニヤ板班リーダーにして絶賛動揺中の小池が変な日本語で指示し て、久保さんが映写機のスイッチに指を添える。 パチン 音と同時に暗闇が広がり、天井から壁一面に宝石の銀河が広がった。 ﹁わあ﹂ 声にならない溜め息のような感嘆が各々の口から漏れる。 それは素人高校生の手作り映写機だということを忘れてしまいそう なくらい見事な星空。 女子たちが最終段階で、カラフルに光るようにと手を加えたと言っ ていた通り、プラネタリウム館で見た白や黄色が散らばる星の世界 ではなく、ピンク色や青や紫などの光が星の花火のようだった。 140 ﹁いいね、うん。これ、すごくいい﹂ ﹁早く他の班の人たちにも見せたいよね﹂ ほんの僅かなひと時だったけど、達成感と充足感を見上げた皆で共 有出来た気がした。 ﹁じゃあ畠中ちゃん、こっちの片付けは頼んだ﹂ 無事に仕上げ作業を終えると、ある者は部活の催し物の準備に向か い、ある者は壁板の設置のために借りて来た工具を返しに行く。気 のせいでなければ、逃げるように。 久保さんは浜島と共に剣道部の催し物の支度に戻って行き、岩崎さ んたち三人組は荷物を置いてある隣の教室に戻って前夜祭が終わる まで時間潰しをするという。 教室内の片付けは部活に入っていない僕が引き受けて散り散りにな るクラスメイトたちを見送って、急にがらんとして室内を見渡す。 まずは簡単に掃き掃除をして、それから全体をざっとモップがけす れば良さそうだ。 窓を開けるとすっかり暗くなった空の下、中庭では吹奏楽部と軽音 部が照明の位置を調整したりパイプ椅子を並べたりしていた。その 中には、ほんの少し前までこの教室内にいた小池の姿もあった。張 り切って動いている。 そのもっと向こうの講堂の方角からは音楽の重低音のような響きと 一緒に時々歓声が湧く。Mr.&Miss東高出場者たちのステー ジ上でのピーアールタイムになったのだろう。 隣の教室からは戻って行った岩崎さんたち三人組の笑い声が廊下の 方に響く。 彼女たちの雑談を興味津々で盗み聴きしていた面々は散り散りにな って、ここには僕一人。もちろん盗み聴きなんてするつもりはない。 知らぬが仏ってことが世の中にはたくさんある。そうでなくても盗 み聴きなんて悪趣味だ。 141 だけど、一旦﹁聴こえる﹂と神経が認識してしまうと、条件反射的 に聴覚がアンテナ化してしまいそうだった。 いけない、いけない。頭を振って彼女たちの笑い声から聴覚を引き 剥がす。 さて、前夜祭参加組が引き上げて来る前に僕も片付けてしまおう。 隣の話し声なんて気にしてる場合じゃない。気にしてる場合じゃ│ │なかったんだけどね。 ◇◆◇ 徳山先生ロス に陥っていたけど、項垂れてい 十月末、実習を終えた徳山先生は大学へ戻って行った。 女子たちの多くは る暇もなく文化祭の準備に追われる日々になった。 ガソリンスタンドのある街道沿いの欅や、裏門から駐輪場までにあ る銀杏も黄色く色づいている。 京都が寒かったこともあり、修学旅行から帰って来て少し風邪を引 いたけど、僕はまだマシな方だった。修学旅行の翌週の月曜日から 三∼四日間はクラスの三分の一くらいが風邪で欠席し、普段元気な 浜島や小池も休みだった。 ただでさえ中間テストからの鬼日程。それに加えての多数欠席とな れば文化祭の準備が付け焼きになることは否めなかった。 文化祭後は息つく間もなく期末テストになるのだから、この日程自 体どうなんだろうと思う。第一、期末テストの範囲なんてあるのか とツッコミたくなる。 前夜祭の二日前からクラスや部活単位での本格的な準備作業が始ま り、文化祭実行委員の永田さんや剣道部の部長・副部長の平岡さん と柳瀬、ラグビー部の主将のガクちゃんなんかはクラスと部活の方 を行ったり来たりで忙しそうだった。 142 剣道部はワッフルの模擬店を出すと浜島が言っていた。 3年生は引退していて2年が中心なのだそうだけど、剣道部の2年 女子は久保さん以外お菓子作りに自信がないとかで、久保さんと1 年女子が調理を担当するとのこと。 ﹁畠中ちゃん、甘い物好きだったよな? 試作を食べさせてもらっ たんだけど結構イケるんだよ。一般公開日はたぶん混むから土曜日 にでも食べに来なよ﹂ 平岡さんと仲直りが叶った浜島は機嫌が良い。病み上がりで鼻を啜 りながらも楽しそうに剣道部のことを話すその姿に、こちらまで気 持ちが明るくなる。 修学旅行以来、クラス男子の半分以上が平岡さんとまた普通に話す ようになった。旅行最終日の朝のホテルのロビーで6組女子たちと の一件を聞き囓った人たちが、富樫と平岡さんが別れたようだとま ことしやかに噂した。それもあってか、他のクラスの男子たちが表 立って平岡さんにアプローチをかけるようになった。 本人はいつも通りで、授業中は熱心にノートを取ったり時々睡魔と 戦ったり、休み時間は女子たちの中で談笑し、クラス内の男子に話 し掛けられれば誰にでも同じ態度で笑顔で応じていた。僕と話して くれる時と変わらぬ態度、変わらぬ笑顔。 修学旅行後は進路室で平岡さんと遭遇していない。浜島が言うには、 中間テスト期間と修学旅行ですっかり間があいてしまったと、通常 の五割増しでストイックに稽古に打ち込んでいるとのことだった。 春に痛めた手首は大丈夫なのだろうか? 相変わらず富樫は部活に顔を出していないとか。 2年2組はプラネタリウムをやることになっていて、壁面はベニヤ 板を真っ黒に塗装した後に乾いてから無作為に発光塗料を吹き付け 143 たり散らす工程になる。窓はスモークフィルムを貼り、更に遮光カ ーテンを施す。そしてネットの自由研究サイトなどで調べた作り方 で映写機を作る。 作業はベニヤ板を塗装するチーム、窓にスモークフィルムを貼るチ ーム、遮光カーテンを作るチーム、映写機を作るチーム、星や星座 の名前が書かれたパンフレットの原稿を作成するチームに分かれて 進んだ。各々手が空いたら別のチームを手伝いに行くという流れだ。 僕たちベニヤ板班は、晴天が続いたこともあって下塗りも早く乾き 黒塗り工程に入っていた。 順調に進むと思った作業も気がつけば前夜祭の当日まで押した。壁 板は完成したものの設置に手間取り、ベニヤ板班と映写機班が教室 棟での居残り作業。あとは壁板を設置して映写機の作動確認をする だけだったので、他のチームは講堂での前夜祭に参加していた。 僕たちの壁板の設置が終わるまでは危ないので、映写機班の女子は 空いていた3組の教室で待機してもらうことにした。 僕たちの他にも、残った作業をしていたり前夜祭をサボって宴会を している他クラスの生徒の声も違う教室からちらほら漏れ聞こえて いた。 壁一つ向こうの3組の教室から、壁板設置待ちで待機している2組 女子たちの笑い声が響く。 ﹁しーっ! みんな静かにしろよ。女子チームが平岡さんの話して る﹂ 誰からともなく好奇心に火がついて、ガールズトークに耳を傾け出 す。 剣道部の久保さんと斉藤さんに、岩崎さんと栗原さんと松野さんだ ったかな。一見意外な組み合わせではあるが、修学旅行のホテルで 同室だったらしく五人は随分うち解けているようだった。おとなし くて真面目な久保さんと斉藤さんに、巻き髪や茶髪に化粧にネイル に香水に⋮と大人っぽい岩崎さんたち。異色の組み合わせの会話に 144 一同興味津々だった。 ﹁マユはねぇ⋮⋮。あれはズルいわよね、反則だわ。制服も校則通 り、スッピンで座敷童みたいな髪型して、あのアイドル感。リアル 朝ドラヒロインだもん﹂ ﹁座敷童子は可哀想よ。ミディアムボブって言ってあげてよ﹂ やはり共通の話題なんだろう。岩崎さんたちがクラス内で話してい るのは平岡さんかガクちゃんくらいだったし、久保さんたちも話し をしているのは主に平岡さんや永田さんだから。 ﹁そうそう、オマケに微妙に天然で感情一つ一つにご丁寧に可愛い 顔芸つけてくれちゃって﹂ 松野さんに続く栗原さんの言葉に久保さんと斉藤さんが遠慮がちに、 けれど楽しそうに笑っている声が聞こえてきた。 ﹁クラスの男子はみーんなマユのファンでしょ。尾崎くんも小池く んも東堂くんも、剣道部のお二人さんもね﹂ 聞き耳を立てていた小池が耳まで真っ赤にして、バツが悪そうにニ の中に加算され の名前なんか覚えてるわけが クラスの男子のみんな その他大勢 ヤニヤと照れ笑いした。名前が出されたら恥ずかしいなと少し身構 えたけど、岩崎さんが ないのだ。自動的に僕は たようだ。 ﹁あれだけモテたら同性から反感買うのも無理ないけど、本人が望 んでないだけに気の毒よね﹂ ﹁あのぉ、私よく分からないんだけど﹂ 躊躇うように斉藤さんが声を上擦らせた。 ﹁どうして反感買うのかな? 東高の女子は東高男子に興味ない人 多いよね? 興味ない人たちが誰を好きになろうとどうでも良くな い?﹂ ﹁斉藤さんの言ってること、よーく分かる。私も同感。でもそうい うのが面白くない人って世の中に結構いるわけ。自分と他人を勝ち 145 負けだとか上か下かだとかいう優劣でしか見られない人種﹂ 松野さんの声だ。 ﹁興味ない相手でも、好感持たれたら悪い気しないでしょ? 好意 の矢印があからさまに別の子に向いてるのを見ると自分は誰からも 見向きもされないって解釈してしまう人もいるのよ。モテる子がこ の世の全てを手に入れてる気がするのかしらねぇ﹂ 突き刺すような迷いのない声の松野さんとは対照的な岩崎さんの柔 和な声は、まるで猫の鈴だ。そして彼女の甘い声と口調が、諭すよ うな言葉を一層和らげる。 ﹁そんなのお門違いだよ⋮⋮﹂ ﹁そうね、斉藤さんの言う通りよ。下らないことで他人を妬むよう な心根だから見向きもされないって気付けたら良いのにね。まあ、 私は自分が好きでもない男なんて興味ないし、まして他の女の子を 好きな男なんか論外よ﹂ 彼氏付きの女の子にご執心の僕たちとしては、他の女子を好きな男 など論外と言い切ってしまう岩崎さんは天晴れの極みです。 高2にしてコケティッシュでアンニュイな雰囲気を存分に醸し出し てる彼女なら手玉に取れる男なんか星の数なのだろう。 ﹁剣道部の先輩たちが⋮⋮まゆちゃんに冷たいのは、先輩たちより 上手なのと、富樫くんのことでヤキモチだと思うの。先輩たちのお 気に入りだったし。でも6組の人たちって富樫くんのこと好きなわ けじゃないよね?﹂ ﹁加納さんって子以外は、あの男なんて眼中ないでしょ。だから6 組の女子たちが鼻息荒げて加納さんって子に肩入れしてるのも、友 情を口実にしてマユを叩きたいだけよ﹂ 松野さんの言葉に、斉藤さんや久保さんの溜め息が聞こえて来そう な気がした。実際に聞こえたのはその話しに聞き耳を立てていた僕 たちの側からだった。 ﹁ややこしいな﹂ 146 小池が小声で口を挟むと、肩を落とした皆が重く頷いた。 ﹁ていうかさぁ、6組女子もムカつくけど、マユもマユよ。あの暑 苦しい顔の残念な男はいくら何でも趣味悪過ぎ。あんな男を巡って 妬まれるとかマジで意味分からないんだけど﹂ ﹁富樫くん、入部当初からまゆちゃんに夢中で何度も告って⋮まゆ ちゃん困ってたし、オッケーしたのは根負けだとは思うけど、それ でも二人はすごく仲良くて﹂ ﹁そんなに好きで落としたくせに、どうしてあんなにだらしないの ?﹂ ﹁今の富樫くんはいい加減な感じだけど、1年の頃は先輩ウケも良 くて部のムードメーカー的な存在だったの。他の男子は煮え切らな いんだけど、富樫くんの一声でミーティングもスパッと終わったし、 帰りが遅くなった時も富樫くんが女子を送るように方面ごとに男子 たちを割り振ってくれて﹂ 僕の知っている富樫も快活で頼りがいのある人だった。 ﹁ふうん、ああ見えて意外としっかりしてたのね﹂ ﹁うん。むしろ最近の富樫くんが別人みたい﹂ ﹁まあ、うちのクラスの男子も腹立つけどね。彼氏の家にお泊りし た噂が流れただけで、マユのこと避けて﹂ ﹁ハッキリ言って、どこの高校に行っても彼女なんか出来そうもな い奴らのくせにね。女子と話しが出来るだけ奇跡な立場で、唯一話 し掛けてるマユなんて神でしょ。それなのに無視とかあり得なくな って感じで呆れるわ。神の恩を仇にして、あい い? あいつら本当にタマついてるの? リアクションがいかにも モテない童貞男 つら絶対に天罰くだるし﹂ 松野さんと栗原さんの正論に僕たちは耳が痛かった。それ以前に盗 み聴きに対して胸を痛めるべきなのだけど。 ﹁マユのお人好し加減も良くないわ。調子に乗らせてるのよ。富樫 147 って男も、6組女子たちも、2組男子たちも。甘い態度でいるから 付け上がって来るの。だけど、下らない噂に踊らされて仲良かった 子を避ける奴らとか的はずれの妬みで集団で嫌がらせする奴らは許 せない。マユが許してても私は絶対許さない﹂ 声を聴いてるだけで松野さんがどんな表情で喋っているのか想像が つく。松野さん、あの三人組の中で一番目が怖いんだよな。 ﹁もし6組になってたら、松野さんたちも今の6組の人たちみたい に理恵ちゃんやまゆちゃんのこと嫌ってた?﹂ ﹁それはないわ﹂ 斉藤さんの問いに松野さんが即答した。 ﹁そもそも東高の中のことに興味ないの。それに言った通り、勝手 に優劣を競って攻撃的になるマウンティング女が大嫌いなの﹂ ﹁そうね、6組になってたらマユと仲良くなるきっかけがなかった だけ。よく知りもしない子を周りの流れで嫌うとか、ないわ。まし てやあの子たち、仏のレイナさんの嫌いなキーワードを見事に言っ ちゃったもんねー﹂ あざとい だとか 計算高い なんて言葉を他人に対し 栗原さんが意味深に笑い、岩崎さんの甘い声が続く。 ﹁私ね、 て平気で使う子とはあまり友達になりたくないの。言葉自体も良い 響きじゃないし、その手のことを指摘する子に限って自分の中にそ ういう部分を持ってるじゃない。ない人には、どんな行動や仕草が あざといとか計算だなんて分からないものでしょう? 自分の中に 持ってる汚い部分に蓋して他人をディスるなんて気持ち悪いわ﹂ ﹁まあ、物理を選んだのも、シオリが高校生活で一回くらいは共学 クラスに入りたいって駄々こねたからなんだけど。ね、レイナ?﹂ ﹁そうよ。一回くらいは良いかなぁって私もユオも、シオリに付き 合ったけど、別にどうってことないわね。悪いけどたいした男もい ないし。ふふ﹂ 148 ﹁ごめんって。しょうがないじゃない。ここまで絶望的とは思わな かったんだもん﹂ 壁を挟んだ2組の教室内の僕たちは、さてどうしたものかと思案し 始める。 仏のレイナさん なる異名 栗原さんからは、タマがついてるのかとバカにされ、松野さんから は、絶対に許さないと厳しく批難され を持つ岩崎さんからは、たいした男もいないと一蹴されて│││。 これを聞いたあとで、設置が完了たと誰が彼女たちを呼びに行ける? 皆が固唾を呑んで見つめたその先は、リーダーの小池だった。 149 くりはら しおり 18 ガールズトーク︵後書き︶ 補足 いわさき れいな ﹁シオリ﹂=栗原 詩織 まつの ゆお ﹁レイナ﹂=岩崎 麗奈 ﹁ユオ﹂=松野 由緒 150 19 百万カラット プラネタリウム映写機の作動確認を終えて各々が別の場所へ散っ て行ったが、手が空いた女子チームが教室の片付けを手伝ってくれ るかといったら、そんなことはない。東高なので。 むしろその方がありがたい。女子複数に男子一人は居心地が悪す ぎる。 まして映写機の作動確認というワンクッションを置いたとしても、 その寸前まで壁一枚向こうから言われ放題だったわけで、素知らぬ 顔で彼女たちと掃除をするなど拷問以外の何物でもない。知ってい ると明かせば拷問にならないかといったら、もちろんそういう問題 ではない。 隣の教室から再燃し始めた笑い声が響く。向いてしまいそうな意 識を慌てて散らす。意識を散らすことに集中力を使うなんて初めて の経験だ。 しかしやっぱりうまくいかない。聴こえてくるものをいくら聴か ないように努力しても聴こえてしまうのだ。 この際、何か少し音を立ててみようか。隣に聴こえそうな物音を。 例えば咳払いとか。いやそれはちょっとわざとらし過ぎて、今まで 全部聴こえていたと白状しているようなものだ。 そうだ、ここは純粋に物に頼ろう。壁を隔てた所から物音が聴こ えれば、自分たちの声も筒抜けだと気づくに違いない。そうすれば 彼女たちだって、周りに聴かれないようにと注意を払うだろう。 ガタン。 思い切って机と机を当ててみた。よし、充分に響いてる! これは確実に効果あったはず│││ 151 ﹁あはは、ユオ、それ言えてる∼﹂ ⋮⋮ダメだ、まるで聴いちゃいない。 星空を作り上げた達成感に高揚したのか、栗原さんの笑い声が一 層甲高く一層ボリュームアップしていた。 もうね、極力聴かないように頑張りますけど、もし聴こえてしま っても断じて盗み聴きじゃありませんからね。言っておきますけど 不可抗力ですから。⋮⋮なんて心の中で言っても、なぁ。一体誰に 言っておきますのやら。 こんな時に他に行き場がないのがツライ。部活に入っておくんだ ったかな。今から講堂の前夜祭に行くのも、悪目立ちしそうで嫌だ し。 などと半ば途方に暮れていると、パタパタと軽めの足音が慌ただ しく階段を駆け上がってきた。 ﹁あ、いたいた。由緒ちゃんたちが3組の教室で待機してるって聞 いたから﹂ 2組の教室の手前、3組の教室で止まった足音の主は平岡さんだ った。マズイ、集中力が乱れる。というか、集中力がすべて壁の向 こうの│││彼女の声に持って行かれる。あまりの事態に心の中は 騒々しく散らかり放題。 ああ、結局聴いちゃってます⋮。 彼女の名前や彼女本人の声から意識を散らすのは、やっぱり難易 度マックスだ。聴こうとするべきではないという頭と、自然に彼女 の声を追い掛けてしまう耳がせめぎ合う。 ﹁お疲れ様。プラネタリウム、バッチリだったみたいね﹂ ﹁うん、かなり上出来。綺麗だったよー﹂ ﹁私も観たかったなぁ﹂ ﹁明日観られるから、マユは徳山先生を誘って来てよ﹂ 152 ﹁誘って来てもなにも。 私、先生の連絡先なんて知らないよ﹂ ﹁やだなぁ、もう。実習最後の日に、文化祭来るって言ってたじゃ ん?﹂ ﹁そうなの? いつ? 何時頃?﹂ 平岡さんの食い付きっぷりに、胸がズキンとした。 胸が痛むのは何故だろう。彼女が誰をどう思おうと僕には関係な いのに。正確に言えば、僕は関係できる立場ではない。というか、 もし仮にほんの少しでも関係できる立場だとして│││関係できる 立場というのがどんなものか分からないけど│││彼女が誰をどう 思おうと僕の現状は何一つ変わらない。良くも悪くも。 ﹁徳山先生ほどのイイ男なんて贅沢言わないけど、男子のレベルが マジで酷い。無理して物理なんか取らないで無難に生物取って女ク ラのままで良かったー﹂ ﹁もうシオリってば、そればっかり。シオリはね、2年になったら 修学旅行用の彼氏作ってカップル旅行気分を味わうんだって浮れて たのよ﹂ ﹁始業式初日に諦めたけどね。あー、もう。どっかにイイ男落ちて ないかな﹂ ﹁シオリが気に入る男なんて校内どこを見渡しても落ちてないわよ。 2組なんて真面目な子が多いだけ、まだマシな方じゃない? 理系 のオタクっぽい男子ばっかりで恋愛対象って意味ではあり得ないけ どね。モテないくせにチャラ男だとか進学校のくせにイキがってる 勘違い野郎とかマジで引くし﹂ ﹁まー、小池とかちょっとチャラいけどねー﹂ ちょうどその話してたの、マユのこと。斉藤さ ﹁ユオもシオリも、東高内に彼氏いる人を目の前に遠慮なしね﹂ ﹁あ、そうそう! んたちから聞いてない?﹂ ﹁え? ううん。ユオちゃんたちが待機してるってことしか⋮。私 のこと? なあに?﹂ 153 ﹁マユが趣味悪いって話﹂ また三人が笑う。 ﹁そっ、そんなこと話してたの?﹂ ﹁もう、相変わらず良い反応するんだから。マユのこういう所を可 愛いって思ってる男子も多いんだよ。自覚ないでしょ﹂ ﹁自覚って⋮⋮﹂ そういう顔 が見た ﹁やだー、またそういう顔して! 男じゃなくても押し倒したくな るわ﹂ 盛り上がる壁の向こう。⋮⋮⋮平岡さんの い。身悶えしそうなくらい見たい。 ﹁マユならもっとイイ男いるでしょ、あんな五流以下のボリウッド 系じゃなくて﹂ ﹁例えば⋮⋮、そうね。2組の中なら誰があり? 2組から選べっ てのも無理があるけど、私たち他のクラスの男子は名前言われても 分からないから﹂ ﹁あ、それ聞きたい。そもそもマユってどんな感じが好きなの? ドラマとかの話題にも入って来ないから、芸能人のタイプとかも分 からないし﹂ ﹁あ、私あんまりテレビ見ないから。部活終わって家に帰ると遅い から眠くなっちゃって﹂ ﹁音楽もJPOPとか聴かないでしょー? マユのタイプって何気 に謎なのよねー﹂ ﹁タイプって言われても⋮⋮。今までそういう風に男の子を意識し たことなかったから﹂ ﹁じゃあ中学の時とか彼氏いなかったわけ? マユが?﹂ ﹁うん﹂ ﹁残念男が初カレなの?﹂ ﹁うん、⋮っていうか、残念男って⋮⋮﹂ 154 ﹁ちょっと嘘でしょ? あれが初カレで、しかも今まで自分から誰 も好きになったことないって。なのにあんな男に﹂ ﹁シオリ言い過ぎ﹂ ﹁あ、うん、ごめん﹂ ・・・・ ﹁ねえ、マユ。私もマユがどんな子に好印象を持つのか興味あるな。 彼氏のいるマユにわざわざ選ばせるんだし、私たちも無理して2組 の中から選んでみるわ。こういうの小中学生の修学旅行トークみた いで面白いじゃない﹂ 岩崎さんの無茶苦茶な提案に松野さんは大いなる不満の声をあげ なのにあんな男に たが、言動を窘められた栗原さんは幾分トーンダウンしていた。 途切れたその言葉の意味するものは、僕たちが平岡さんを避けて しまう原因となった例の一件のことなんだろう。 岩崎さんが遮ってくれて良かった。 もしも栗原さんが最後まで言い切っていたら│││平岡さんが何 か答えていたら│││ それがどんな言葉でも聴きたくなかった。 ﹁畠中くん、かな﹂ 悶々と考えごとをしていた頭の中に、突然注がれた自分の名前。 彼女の声。 モップ掛けの手が止まる。いや、心臓まで止まりそうなくらいの 驚きだった。 何故突然、自分の名前が聴こえたのか全く理解できなかった。聴 いているのがバレていて壁越しに呼ばれたのかとドキリとしたくら いだ。 155 ﹁えーっと、言わせておいてごめん。マユがいいって言ってるの、 どの子? 剣道部の背の高い方の子?﹂ ﹁それは柳瀬くん﹂ 平岡さんが笑いながら答えた。 岩崎さん、さっき会ったよね。この教室で。映写機の投影の時に 会ったよね。 マユがいいって言ってるの │││っていうか⋮。 えええええええええっっっっっっ?! 嘘だろ? そんなの嘘だ。 嘘じゃなきゃ夢だ。 これは、たちの悪い夢だ。 ﹁ああ、分かった! さっきベニヤ板班にいたかも。東堂くんの隣 の席の子じゃない? 天パっぽくて、根暗な感じの頼りなさそうな 子。地味過ぎて顔が浮かばないよ。残念彼氏といい、やっぱりマユ の趣味は理解できない﹂ その後のガールズトークはちっとも耳に入って来なかった。聴こ えたのかもしれないけど、覚えていない。 心臓がバカみたいに暴れて、頭の中が酸欠を起こしまくって、息 苦しくて、息苦しくて⋮⋮。僕はモップを握り締めたまま、しばら く床にへたり込んでいた。 その後も栗原さんの笑い声は響いていたし、彼女たちも2組男子 の中から仕方なく誰かの名前を挙げていたのかもしれない。 だけど何も分からなかった。 156 畠中くん、かな 忌まわしき非モテ男の単純さ。 彼女の言葉を頭の中で思う存分リピート再生する単純さに我なが ら呆れてしまう。 小学生の頃からどの女の子からも圏外だという自覚はあった。圏 外どころか、名前さえ記憶されていない自覚もあった。 実際、岩崎さんたちも僕の顔は思い浮かばなかったようだし。 平岡さんは富樫の彼女で、2組で誰か一人と無理難題を押し付け られた結果だとは分かってる。しかもこれはガールズトークの余興 だ。2組の中でという条件がなかったら徳山先生の名を挙げていた に違いない。 誰からも記憶してもらえない砂の一粒みたいな僕が、百万カラッ トダイヤみたいな平岡さんに顔と名前を覚えてもらえてるだけでも 人生の大金星だ。 いつか彼女が記憶の中で高校時代をリプレイする時に、その物語 東高で出会った皆さん なんて一まとめじゃなく、名前が のエンドロールに僕の名前がクレジットされていたらそれだけで本 望だ。 あったら。 富樫や徳山先生みたな主役級の人たちみたいに大きくなくてもい い。たとえどんなに小さくても│││ 翌日には風邪を引き、三日間熱に冒されて文化祭には出られなか った。修学旅行明けに皆と一緒に引いておけば良かったなぁとベッ ドの中で無機質な天井を仰いだ。 157 徳山先生の訪問に平岡さんもさぞ喜んだのだろう。 そんなことをウジウジ考えては、一学期の終わりの日に平岡さん と屋上で過ごした時の気持ちを思い返し、また滅入ってはクラスの 中でガクちゃんや柳瀬ではなく僕と言ってくれたことを思い出す。 そんな風に布団の中で一喜一憂を繰り返し、思春期してる自分が滑 稽だった。 クラスの大半の人に覚えてもらえないような││覚えてる人の殆 どが卒業したら忘れてしまうようなこんな僕に、クラスの大半の男 子の憧れの女の子が笑顔で話し掛けてくれるだけでも奇跡なのに。 それだけでも一生の思い出にするべきなのに。 これ以上、何を望むことがある? 何を望むことが許される? 恋ってもっと爽やかで瑞々しくてまばゆいものだと思ってた。恋 をしたら綺麗になるとかキラキラ輝くとか言うけど、そんなのは僕 とは別世界の話しだ。僕は恋をすればするほど、自分の気づかない うちに心の奥底に沈殿していた何かが、波立って感情の上澄みを濁 らせる。 さざ波さえも立たないと思っていた学校生活。 病み上がりの学校で、僕にとって受難の日々が始まるとはこの時 は思いもしなかった。 158 20 弱り目に祟り目 文化祭の代休が明けた火曜日に登校すると、いつもは僕など気に も留めず通過していくクラス中の目が、見えない糸に引っ掛かった みたいに僕の顔で止まるのを感じた。 廊下からも時折視線を感じる。名前も知らない、同じクラスにな ったこともないような人から。 ﹁よっ、おはよーさん。時の人だな﹂ 普段は僕なんかにあまり声を掛けることもない尾崎が僕の肩をポ ンと叩いて席の方へ行ってしまった。 数分後には小池が登校してきて﹁東高の週末検索キーワード急上 昇だな、色男﹂と皮肉を込めた言葉を浴びせてきた。 柳瀬とガクちゃんは開口一番﹁風邪の具合、大丈夫?﹂と労わり の言葉を掛けてくれた。 登校早々にして滅入ってしまい、項垂れかけていたところに、い つもと変わらない柳瀬とガクちゃん。顔を見るなり心配して声を掛 けてくれる二人の優しさがいつも以上に沁みる。 新しい彼氏 と ガクちゃんは席に着くと椅子を寄せて﹁文化祭の時に他のクラス の男子が畠中ちゃんを見に来てたよ。平岡さんの か何とか言って﹂と声を殺して教えてくれた。 そういうことか。 案の定、岩崎さんたちのガールズトークを聴いていた人が他にも いたわけだ。そして尾鰭が付いてるわけか。 ﹁ラグビー部の中に前夜祭をサボってた奴がいてさ、そいつらから 事情は訊いた。岩崎さんたちと2組の中で気に入ってる男子を一人 159 あげる的な遊びやってたみたいだな﹂ そうなんだよ。クラス内からという条件付きで、彼氏のいる平岡 さんや松野さんも誰か一人名前を挙げなきゃいけないという、ある 種の罰ゲームみたいな時間潰しだったんだ。 ガクちゃんの友達みたいに、彼女たちが遊びとしてやっていたこ とだって状況を理解している傍聴者もいるのに、どうして話が大袈 裟になってるんだよ。普通に考えれば理解できるだろう。むしろ誤 解する方が難しいレベルで彼女と僕は釣り合ってない。 平岡さんは、誰か名前を挙げなきゃいけないのなら⋮と、当たり 障りない僕を選んだだけだ。柳瀬や浜島の名前を挙げるのは、彼ら に一番近い富樫への義理だと思う。 ガクちゃんを選ばなかったのも、いつも栗原さんとガクちゃんが 仲がいいから、栗原さんに遠慮したのだろう。 僕の名前を挙げておけば│││クラスの男子とはガクちゃんくら いしか話さない岩崎さんたちでも、分かりやすいと思ったからに違 いない。僕とガクちゃんが隣の席だから。 これが僕なりの結論。病床に伏せて頭を支配することはそればか りの三日間で、辿り着いた僕なりの結論。 せっかく平岡さんが諸々配慮して僕を挙げておいたにも関わらず、 岩崎さんたちに認識されていなかったというオチがついたわけだけ ど。 そりゃ、できることなら勘違いして浮かれてどっぷりと有頂天に なりたかった。彼女の顔をまともに見られないくらい意識しまくり たかった。 だけど、いくら騙されやすくても恋愛経験がなくても己の身の程 くらいわきまえている。 ましてや相手は平岡さんだ。 160 全校男子の間で校内屈指のモテ女子だと評判の、あの平岡さんだ。 剣道部の後輩たちを根こそぎ夢中にさせてしまう、あの平岡さんだ。 運動不足を口実にしてるけど、片道十五kmの距離を時々自転車に 乗ってくるのは電車で通学中に他校の男子から告られるのが困ると いうのが本当の理由だと噂されている、あの平岡さんだ。 クラスメイトにも覚えてもらえないような男が、そんな女の子に 相手にされるはずがないんだよ。そんなこと、誰だって容易に分か りそうなもんじゃないか。 ﹁冷静に考えれば、騒ぎ立てるような次元の内容ではないはずだよ な。男子だって、彼女いる奴も女子を品定めする類の雑談に加わる ことなんて、よくある話だし﹂ まったくその通りだ。その状況だった。 騒ぎ立てるような次元ではない、よくある話だ。 ﹁だけど良くない偶然と誤解が重なったっぽいんだよな。修学旅行 の最後の晩に平岡さんと富樫くんが重い空気で話してたから、それ を見た奴らが別れ話じゃないかと噂してたらしい。そこに来て今回 の件だろ﹂ ﹁どういうこと?﹂ ﹁まぁ、まともに取り合うのもバカバカしい話なんだけどさ。三角 関係のもつれってやつ。畠中ちゃんが間男なのか、って邪推に行き 着いたみたいな。それで富樫くんとモメ別れしたのかって話になっ てるみたいなんだ﹂ 何だよ、それ。まままま間男って何ですか? 誰ですか? 僕、女の子の手にもまともに触れたことないんだけど⋮。 もはや絶句するよりほかなかった。 ﹁バカバカしいだろ? 俺も浜ちゃんもヤナちゃんも全力で否定し たよ。だけど意外と真に受けてる奴もいるみたいで⋮⋮。大した火 161 消しにはならなかった。すまない﹂ 肩を落として溜め息をつくガクちゃんに返す言葉がなかった。 ﹁なんていうか⋮⋮、暢気に休んでたりして。迷惑掛けてごめん﹂ ﹁何言ってんだよ、畠中ちゃんのせいじゃないだろ? むしろ被害 者じゃないか。⋮⋮かと言って、平岡さんたちが加害者かって言っ たらそれもちょっと違うしなぁ﹂ 彼女は││平岡さんは、またこんな噂が立ってしまって嫌な思い をしているのではないだろうか。冷ややかな好奇の目に晒される気 分は、まさに針の筵。 僕の反応から察知したガクちゃんは大丈夫だ、と言った。 ﹁女子には殆ど噂が回ってないみたいなんだ。そもそも、夏休み明 けに広まった平岡さんの噂もそうだったけど、特に女クラの子なん か興味ない話だろ。ゴシップ好きなのは一部の男子たちだけみたい だ。そういう奴らは女子と距離あるからな。⋮⋮あ、それから剣道 部の後輩たちが少し厄介だったみたいだけどな﹂ 武道体育館の前で排他的なプレッシャーを掛けてきた1年生たち の姿が浮かぶ。あの時の三人以外も平岡さんのファンなんだよな。 ﹁剣道部の方はヤナちゃんが文化祭中に鎮火したみたいだ﹂ 柳瀬だってこんな話しはガセだって重々分かっているだろうけど、 平岡さんのことを好きなのにこんな不愉快な噂の後始末をさせられ て嫌な思いをしたことだろう。 ううっ、柳瀬ごめん。本当にごめん。 チャイムが鳴り、日直の永田さんと平岡さんが日誌を持って席に 滑り込んだ。すぐに授業が始まったので目は合わなかったけど、い つも通りに笑っている姿を見て少し救われた。 二時限目の体育の時間は悲惨だった。 女子は陸上トラック種目で校庭に出ていて、男子は体育館でバス 162 ケだった。 始業のチャイムが鳴る前から1組男子たちの聞こえよがしの中傷 が始まり、試合形式になると背中にボールをぶつけられたり体当た りされたり、足を引っ掛けられたり散々だった。ひょっとしてイジ メに遭ってる? と思ったけど、ガクちゃんや浜島が﹁ぶつかった ら謝れよ﹂と擁護してくれたし、朝の段階では辛辣だった尾崎や他 の運動部系の男子たちも、僕が転んだ際に手を伸ばしてくれた。 ﹁それにしても、ひでぇな。6組の次は1組かよ。このクラス、ど んだけ目の仇にされるんだよ﹂ 僕の肘を掴んで立たせた尾崎がでプレイ中の1組男子に向かって 舌打ちしながら、コートの外へ促す。 ﹁ごめん、たぶん僕が誤解されたせいだ﹂ ﹁違う、畠中ちゃんは悪くねぇよ。朝は変に突っ掛かったりしてご めんな。考えてたら畠中ちゃんが間男なわけないよな。そんな関係 顔芸 とか 百面相 と言 だったら、あの平岡さんが表情に出さずに過ごせるはずないもんな﹂ クラスメイトたちに密かに われるくらい彼女が表情豊かであることは、2組内では周知の事実。 けれど同じ空間を共有しないと分からないことなのかもしれない。 分かる人には分かる││でもそれをクラスの男子たちに伝えてく れたのは、恐らくガクちゃんだろうと思った。 敵意の視線や聞こえよがしの中傷、さらには体育中の物理攻撃が 病み上がりの体にはキツかったから、中立の立場の人が一人でも増 えてくれることはこの上なくありがたかった。 チャイムが鳴ってヨロヨロと教室に戻る道中も﹁あんな吹けば飛 びそうな奴﹂なんて手厳しいエールを頂戴した。花道だな。 病み上がりじゃなければ、体当たりの後じゃなければ、精神的に も少しはマシなんだけどな。そう思える余裕があるだけでも良しと しようか、なんて思っていた矢先にまた違う組の男子グループに足 を引っ掛けられて転ぶ。 163 油断していてちょっと派手に転んでしまったせいで、体育の授業 中にあくまで紳士的な応酬に徹していたガクちゃんと尾崎、ついで に小池までもがついに発火した。 三人が怒鳴りながら、僕に足を引っ掛けた男子たちに一斉に殴り かかる。体育館での鬱憤を知らない彼らにしてみれば、僕以外から 突然殴りかかられるなんて思ってもいなかっただろう。僕が殴りか かるとも考えなかっただろうけど。 もう泥沼だった。 ﹁ダメだって! 僕は大丈夫だから!﹂ だからやめて│││ あまり大きな声なんか出したこともないし、声を裏返しながら泣 きたい気持ちで必死にガクちゃんたちを止めてはみたが、届かない。 ガクちゃんが誰かを殴るのなんて見たくない。しかも、僕なんか のためになんて絶対にダメだ。 富樫もこんな嫌がらせを受けたのだろうか。それとも僕が地味で 貧弱で冴えない見た目だから、心おきなくケンカ売られたり嫌がら せをされるのだろうか。 ﹁ちょっと、あなたたち何してるの?!﹂ 通りかかった中野先生が走り寄り、僕に足を掛けた方の男子たち が走り去った。 ﹁あらやだ、2年2組の子たちじゃない﹂ ガクちゃんたちのジャージのゼッケンを見て中野先生が目を丸く する。 ﹁すみません。先に手を出したのは僕です。尾崎くんたちは止めに 入っただけです﹂ 反論しようとする尾崎たちを手で制して、ガクちゃんは一歩前に 歩み出た。 チャイムが鳴り野次馬たちが渋々引き上げてゆく。中野先生は少 しの間、腕組みして何か思案していたが﹁昼休みに進路相談室に来 164 て﹂と言って教室に帰るよう命じた。 教室に戻ると当然ながら僕たちは次の授業をジャージのままで受 けることになった。 先に教室に戻っていた女子たちも2組の男子が渡り廊下で乱闘騒 ぎを起こしていたらしいということくらいは聞いていたようで、訝 しそうに僕たちをチラ見した。事の発端が自分にあるなんて、本当 に居た堪れなかった。 ガクちゃんは昼休みに進路相談室の中野先生の所へ事情説明に行 った。その間も他クラスの男子たちが入れ替わり立ち替わり2組の 扉の前に訪れ、時には敵意の、時には好奇の視線を浴びせて行った。 自分の存在がこんなにも他人に認識されたことも初めてだったし、 意識されたのも初めてだった。 残念ながら良い意味ではないのだけれど。 尾崎たちが進路相談室から戻って来たガクちゃんに駆け寄った。 中野先生からペナルティとして、今日から一週間、放課後に進路 資料室の資料整理とパソコンの再設定の手伝いを命じられたという。 資料室にはもう何年も前からのデータ本や、学校側から送られてき たパンフレットなどが未整理状態であちこちに積み重ねられていた り、一台あるパソコンも春に修理から戻ってきたまま設定されてな いままになっている。どうやら喧嘩のペナルティは資料室の雑用に なったようだ。 僕も手伝うと言ってみたが、埃っぽいし力仕事だから病み上がり の人に向いてる作業じゃないと断られた。 ﹁その代わり体調が良くなったら1組とのバスケで一泡吹かせてや ろうな﹂ そう言って握りこぶしで僕の左肩を軽く叩いて笑うガクちゃんの 気遣いに言葉も出なかった。 165 21 一方向にしか流れない 他の先生から何か咎められることもなく、中野先生裁量でのガク ちゃんの進路資料室通いが始まり、手伝いを申し出ても﹁半病人は 足手まといだ﹂とからかわれて一蹴された。 資料整理という名目の部屋掃除が楽しいらしく、昨日は段ボール 七箱分も要らない物が出たよと笑っている。 翌日には進路相談室に寄った平岡さんも一緒に資料室の片付けを 手伝ったと聞いた。 ガクちゃんからの朗報としては、平岡さんは前夜祭の日のガール ズトークが他者に聴かれていたと思っていない様子だったらしい。 そして僕が他クラスの男子からバッシングの標的になっていること も、もちろんそれが引き金でガクちゃんたちの乱闘騒ぎになったこ とも知らないという。 ﹁どうして東堂くんが資料室掃除してるの?﹂と訊かれたそうだけ ど、事情を知っている中野先生が﹁私がやろうとして腰を痛めた時 にたまたま東堂くんが進路相談に来てたのよ。それで代わりを買っ て出てくれたの﹂と、いかにもガクちゃんならそうしそうなことを 言って誤魔化してくれたとか。 体調も回復してきたし手伝いに行こうと思った矢先だったけど、 やめておくことにした。 中野先生の話を聞いて、平岡さんも手伝うと申し出たらしいから。 ガクちゃんのペナルティも元はと言えば僕のせいだし、もちろん 手伝いたい。だけど、純粋にガクちゃんを手伝いたい気持ちでも、 そこに平岡さんがいるとなれば結局は彼女目当てみたいな不純な動 機に摩り替えかねない自分が嫌だ。そして、放課後楽しそうに段ボ ール箱を運ぶ二人の姿を見たら、ますます僕が入って行くべき空間 ではない気がした。 166 結局その後も、乱闘騒ぎの原因もそれに付随する諸々も、女子た ちに知られることはなかった。 最初のうちは、永田さんが浜島に、栗原さんがガクちゃんに﹁乱 闘騒動の原因って何だったの?﹂と訊いていたが、それぞれが曖昧 に茶化していたせいもあって女子たちの興味からは早々に外れたら しい。そして誰一人その話題に触れる者はいなかった。男子も女子 も。特に男子側の結束の固さには痛み入るばかりだった。 おとこぎ 女子には情けなく映っているようだけど、このクラスの男子たち って漢気あると思う。 ◇ 隣の席ではガクちゃんと平岡さんが楽しそうに資料室の模様替え を企んでいる。紙に簡単な見取り図を書いて、指差しながら二人で あれこれ思案しているようだ。 ﹁ねぇ、畠中くんはどう思う? 思い切って動線を悪くしてる机の 位置を変えちゃおうかと考えてるんだけど﹂ 不意に話し掛けられる。 ﹁畠中くんも進路資料室でよく会うし、カスタマー目線の意見が欲 しいな﹂ 屈託なく彼女は微笑む。 彼女の言葉の中には特別な響きが一切含まれていないのがありあ も 、だよね。やっぱり。 りとうかがえる。 畠中くん 僕にとっての心密かな特別な時間は、彼女にとって所を選ばすサ ラッと言葉に出せるほど、なんてことのない普通のこと。そんなこ とは分かっていることだし、そんなことで落胆したりはしない。 そもそも最初から期待する要素なんて何処にもないのだから落胆 しようがない。 167 彼女はあの部屋で誰かに遭遇するのは特別なことでもなんでもな いのだ。 彼女は人一倍の努力家であり、進路についても具体的に考えてい よ るようだし、進路に関して呑気な僕とは心構えから違う。頻繁に利 なのだ。 用している彼女にとって、あの場所で遭遇する僕は、まさしく く遭遇するうちの一人 ガクちゃんも話しに交ぜてくれようと簡単な説明を加えてくれる のだけど、その優しささえも今の僕には分不相応な気がして曖昧に 笑って、会話から逃れた。 前夜祭の日に壁越しに聞いた僕の名に特別な意味合いは含まれて いなかったと改めて再確認する。 容姿も社交性も存在感も人並み以下な僕のような非モテ男に話し 掛けてくる物好きな女子なんてまずいないから、彼女は唯一絶対的 な存在だ。 けれど彼女のように誰からも好かれる華やかな人にとって、僕は クラスメイトの一人に過ぎないのだ。つまり、人気アイドルのコン サート会場で一人の男が特別に何度か目が合ったとか自分に向かっ て手を振ってくれたと思い込んでいるのと同じ次元なんだ。 実際、あの時彼女が僕の名前を挙げてくれたのも暇を持て余した 女子たちのゲームみたいなもので、それぞれがクラスの中から誰か 一人と条件付きの遊びだった。栗原さんあたりから当然ガクちゃん の名前は出ていただろう。 前に小池がこんなことを言っていた。 男同士で気に入った女子を挙げて行く時、まるで人気投票みたい に票が偏ることがあるのに対して、女子は本能的に友達と被らない 人気投票 安パイ が僕だったというだけ という前提を用意しない限りあまり同意見を被せて ように気を使う傾向があるらしい、と。 来ないらしい。 被りそうもない中から選ばれた 168 のこと。 だって、そもそも彼女は富樫以外の誰かを思い浮かべる選択はな かっただろうから。もし、あったとしてもそれは2組の中ではなく 徳山先生だったはずだから。 それでも嬉しかった。 同級生の中の一体どれくらいの人が、卒業までに僕を認識するこ とか。一体どれくらいの人が、僕の名前を口にすることか。 女子に至っては、ほとんどいないだろう。 平岡さんはそんな僕のことを個人として扱ってくれたのだ。 僕の視野なんて本当に狭い。僕の世界なんて本当に小さい。 もしまいちゃんか兄さんか⋮、他の誰かに僕視点で僕の好きな女 の子││彼女のことを話すとする。 たとえばそう、教科棟の屋上で彼女の作ったサンドイッチを頂い たこと。それからこの間の前夜祭の出来事。それだけ聞いたら、き っとその人は、彼女も僕に対して満更でもないという印象を抱くか もしれない。 けれど、ここで重要なのは僕の視野が狭く、僕の世界がちっぽけ だということ。 僕は殆どの場合、僕に対してこんな風に優しい彼女しか見えてい ないのだ。実際は部活の帰りが遅くなったら柳瀬や1年の男子が送 っているようだし、進路資料室で2組の他の男子と遭遇したら彼ら の話しを親身に聞いていることもあるらしい。 平岡さんと同じ中学だった杉野は桜ノ宮の市立図書館で偶然出会 って一緒に勉強したと言っていた。そして夕方に近くの商店街で二 人でコロッケを買って食べたと嬉しそうに補足した。 小池は小池で、体育終わりの彼女に廊下の水道で、濡れた手を振 り回す子供っぽいイタズラで彼女を笑わせている。ひとしきり笑っ た彼女はハンドタオルを小池に貸していた。 169 そんな風にして、彼女に好意を抱いている男子たちの一人一人に 彼女との特別な一コマがある。ステージの上のアイドルが手を振る 瞬間に自分の方を向いていたような、握手会で順番が回ってきた時 に声を掛けたら応じてくれた時のような│││ 思春期の僕たちにとって、手の届かないたった一人の女の子が、 それぞれの中で唯一絶対の存在であるくらい、僕たち男子は単純で 純粋で痛々しくも愚かしくもある。 そして悲しいことに僕たちは、頭の隅でちゃんと理解していた。 まるで集合写真を切り抜いて勝手に彼女のツーショット写真に仕立 ててしまうみたいに、どんなに都合良く、幸せな瞬間を切り抜いて も、自分以外の男子も同様にそんな切り抜きを持ち合わせているこ とを。些細なことでウジウジと嫉妬をしたりいじけたり、なかなか 成長できない生き物だということを。 ガクちゃんが平岡さんのことを特別な感情で想っているかどうか は分からない。仲は良いし、嫌いではないのは確かだろう。 ガクちゃんは僕のように女子と接点のない非モテ男でもないし、 そういう意味でガクちゃんにとって平岡さんは唯一絶対的な存在と いうわけではないと思う。 栗原さんと二人で話していることも多々あるし、1年で同じクラ スだったという女子にCDを貸していたり相談事に応じていたり、 女子側から請われる形での女子との接点が多い。 そんな人に、非モテ男の分際で気を利かせるような真似なんて勘 違いもいいことだろう。 ◇ ガクちゃんのペナルティが終わり、期末テスト期間に入った。 2年になって平岡さんと同じクラスになり、あっという間に八ヶ 月が過ぎたことになる。同じ教室で過ごせる時間も残り少ない。 そう思ってはいても登下校時に挨拶を交わすくらいで、なかなか 170 話し掛ける機会も用件も見つからなかった。 足を掛けられたりボールをぶつけられるような物理的な攻撃はな くなったものの、依然として体育や芸術の授業の時には他クラス男 子の風当たりはキツかったし、その度に抗議しようとするガクちゃ んたちにも申し訳なかった。 女子たちには何も飛び火していなかったとはいっても、この状態 が続けばどうなるかは分からない。つまらない噂だとか僕が受けて いる仕打ちで平岡さんに嫌な思いをさせてしまうかもしれない。 彼女を避けたりするのはやめようと決めたはずなのに、やっぱり 僕は弱かった。彼女に嫌な思いをさせたくないと自分の心の中にも っともらしい口実を植えつつ、彼女から逃げているのだろう。彼女 が嫌な思いをしたり傷ついても無力な僕じゃ守れそうもないから│ ││ ﹁畠中ちゃん、ちょっといい?﹂ 珍しく尾崎が僕に声をかけてきた。神妙な面持ちで。 尾崎について窓際の後ろのガラス戸からバルコニーに出る。寒が りとはいえ、閉め切った教室の暖房で気怠くなった頭にひんやりし た外気は気持ち良い。一定の間隔で植えられた中庭の細い落葉樹た ちは、着込む僕たちとは対照的にすっかり衣装を落としてしまって いた。 横に伸びた円柱の手すりに肘をついて中庭を見やる尾崎の隣に並 んで、彼が口火を切るのを待った。 なかなか切り出さない尾崎の目線を追うと、中庭の奥手の渡り廊 下の隅にあるベンチで開いた教科書を顔の上に乗せて寝そべる富樫 と、その富樫に何か小言を言っている風な加納さんの姿があった。 ﹁あいつら付き合っちゃったのかな﹂ 加納さんが剥がそうとした教科書を押さえて寝そべり続ける富樫。 171 教科書の下はどんな表情をしているのかも、加納さんに向かって何 を言っているのかも分からない。少なくとも、遠目にも仲良さそう な雰囲気は充分に伝わってくる。 永田さんや松野さん辺りが見たらすぐさま富樫に抗議しそうだ。 ふと思う。永田さんや松野さんに正面切って批難されたのに、富 樫の態度が何も変わらないのは何故なんだろう。もしかして、僕の 噂のせいで富樫と平岡さんが拗れてしまっているのだろうか。自意 識過剰も甚だしいようだけど、もしそうならば富樫にも平岡さんに も申し訳ない。彼女が僕の名前を挙げてくれたことを一瞬でも喜ん でしまった浅はかさを深く後悔した。 ﹁畠中ちゃんさぁ、平岡さんが別れたのって実は知ってたりした?﹂ 中庭を見ていた尾崎が体を半回転させて手すりに凭れる。試すよ うな眼差しで僕の目を覗き込む。耳から入った尾崎の言葉の言葉の 意味を頭が捉えるまでに少し時間がかかった。 172 22 彼女のためなら ほんの数秒だったとは思う。 だけど、その数秒間は時間が止まっていたようにさえ感じられた。 息を詰めたまま、呼吸することすら忘れていて、息苦しさで自分が 返事をしていないことに気づいた。 急いで首を横に振ったが、尾崎はその必要がなかったような返答 をした。 ﹁⋮だよなぁ。ごめんな、疑ったわけじゃないんだけど、一応な﹂ 尾崎が顔の前で両手を合わせた。 まさに青天の霹靂。 訊きたいことは後から後から押し寄せる。 いつ? どうして? 本当の話し? 僕のことが誤解を生んでし まった? 何か訊こうにも、我先にと押し寄せ疑問たちが縺れ合って言葉が 何も出て来ない。 って感じだな。意外だったのは平岡さんがこれまで平 ﹁畠中ちゃんは相当信じられないって反応だけど、俺からしたら やっぱりか 然としてることなんだけどさ﹂ 尾崎は知っていることを順序立てて話してくれた。出元は夏休み 明けの噂と同じ、富樫と同じ中学出身の6組のサッカー部男子。そ の話では、修学旅行の最後の晩に二人が宿の階段の所で揉めている ようだと噂になったあの時に別れ話になったのだとか。そんなわけ で、僕がらみの根も葉もないバカげたゴシップが再浮上したらしい。 当の富樫は笑って否定したという。 173 ﹁こういう話しってさ、前のものそうだったけど拡まるのも時間の 問題だと思うんだよな。また誤解された形で拡まれば、畠中ちゃん がとばっちり受けるよな﹂ 僕がとばっちりを受ける分には構わない。もちろん気分の良いも のではないけど、やり過ごせる範疇だ。自慢じゃないが少しは耐性 も免疫もついたつもりだ。 しかし。しかし、だ。 平岡さんのことが好きで、推定間男である僕のことが気に食わな いという発想は分からなくもない。だけど自分が好きな女の子のこ とを、そんな不誠実で不埒な子だと決めつけられる心情が理解でき ない。 平岡さん像 もし平岡さんが本当に彼氏を裏切れる人だとして、彼らの好きな 平岡さんって一体どんな人なのだろうと、彼らの描く を疑問に思う。 ﹁僕はいいよ。大丈夫﹂ ﹁⋮⋮強いな﹂ ﹁え?﹂ ﹁気を悪くしたらごめん。畠中ちゃんて華奢だしおとなしいし、ど ちらかっていうとガリ勉強寄りなイメージだったから。意外と肝が 据わってるんだなぁって思って。バスケの時だって転ばされてもボ ールぶつけられても平然としてたじゃん﹂ いや、あれは実際かなり痛かったしかなり参ってたんだけどなぁ。 強いなんて思ったことはない。平然としているように見えるとし たら、それは多分自分の置かれている状況を理解していない能天気 な性分と、見下されることに慣れてしまっているからだ。 彼らのルールや価値観で勝手に優劣をつけられても、所詮それは 彼ら以外には通用しない勝利でしかないと思っている。元々争いご とは好きではないし、争う必要のないことを争う気なんて毛頭ない。 174 上から勝利を押し付けられても、僕には屈辱感も敗北感もない。 決して僕は強くなんかない。確固たる自己主張もなく、保守的で 自分の殻の中から出られない弱くて臆病な人間なんだ。 ﹁富樫の今までの行動とか見てたら、いつダメになってもおかしく なかったとは思うけどな。だけど、今にして思えば富樫の気持ちも 分からなくはない、っていうか﹂ 尾崎は言葉を切った。 6組側から見て平岡さんがヒール的な立場であるのと同様に、2 組側では富樫が完全悪の位置にあった。 僕の知る限りでは、小池や浜島と並んで尾崎もまた富樫を批難し ていたはずだった。 ﹁平岡さんって可愛いし優しいし、非の打ち所がないじゃん? ワ ワガママ言っ ガママ言いそうもないから、そうそうケンカなんかならないだろう けど、それって男からしたらちょっと淋しいよな。 て欲しいだろ、特に普段ワガママ言わない子には尚更な﹂ 今までずっと、良い子にしなさいって言われて来たから、良い ふと彼女の言葉とその時のどこか淋しそうな表情が脳裏をよぎる。 子過ぎて面白味がないとか、良い子ぶってるってダメ出しされても、 直せなくて おそらく彼女はワガママの言い方を知らない。それだけでなく、 ワガママの大半は、本人が自覚する前に潜在意識が摘み取ってしま っている気がする。 もしかしたら尾崎が言ったようなことを彼女自身も自認していた のかもしれない。あるいは富樫とそんな話になったことがあったの かもしれない。 175 ﹁どっちが別れようって言い出したのか知らないけど、俺は何とな く富樫だと思うんだよな。普通フるかなぁ、あんな可愛い子を。東 高で彼女が出来ること自体、奇跡みたいなもんなのに。⋮まあ、ち ゃっかり後釜はいるみたいだけどな﹂ 尾崎は気怠そうにネクタイを緩めながらもう一度中庭で戯れる富 樫と加納さんをチラッと見降ろした。 ﹁平岡さんがフリーになった話しが知れ渡ったら⋮﹂ いや、なんでもない。尾崎は伏し目がちに少し笑った。 ﹁畠中ちゃんはどうする? このクラスの中のお気に入り男子に名 指しされてるんだし、いっとくか?﹂ ﹁いっとく、って⋮⋮どこに?﹂ 尾崎の含みのある言い方の意味が分からず、訊き返すと尾崎が吹 き出す。 つか ﹁ごめん、ごめん。やっぱ畠中ちゃんは畠中ちゃんだな﹂ 何か痞えが取れたように晴れやかに笑った尾崎が僕の肩をポンポ ンと軽く二回叩いた。 ﹁寒いな。こんな時期に外なんか長居するもんじゃねーな﹂ ふざけて内からガラス戸を締めようとしていた小池の手より一瞬 早く尾崎が扉を開き、僕にも教室内に戻るように促した。 イタズラに失敗した小池は悔しそうに舌打ちして﹁何話してたん だよ﹂と、尾崎に絡んでいた。 授業が始まると、いつもと変わらない様子で、頷いたり顔を顰め たりしながら先生の話を聞いている平岡さんがいた。 それは僕の目に映るいつもと変わらない彼女だった。 強いのは僕なんかじゃなくて、この人じゃないだろうか。 6組の女子たちに言いたい放題言われても、遣り込められる風で もなく好戦的になるでもなく飄々としていられるのは彼女の強さだ。 176 恋人と別れても、顔にも態度にも出さず、友達と笑い合ったり凛 とした姿勢で授業を受けている。 恋の経験がない僕には彼女の気持ちは分からない。 彼女が平然として見えるのは辛さに耐えているのか、それとも彼 女の心の中で一区切りがついたことを意味しているのか。 ただきっと、無傷のはずはないと思う。 僕は1年の時からずっと、近くで見てきたから。 富樫と並んだ時の笑顔を。照れたように手を振って去ってく姿を。 富樫を見つけた時に声をかけようかと一瞬躊躇っているような呼吸 を呑んだ表情を。 そして修学旅行のあの晩、富樫が去った後その場に残り、首を反 らせるように天井を仰いで唇を噛み締めていたのを。 尾崎は、富樫と平岡さんが別れた話が拡まるのは時間の問題だと 言っていた。 そしてそれが周知になる頃には、きっと彼女に告る男子が後を絶 たないことだろう。 そうなった時に、彼女は誰かと新しい恋をするかもしれない。僕 の知らない誰かかもしれないし、このクラスの誰かかもしれない。 僕と変な噂が立ったままでは彼女の迷惑にしかならないはずだ。こ のクラスの男子は事実無根だと分かってくれているけど、間に受け ている人もいるってことだし。 彼女が幸せな顔で笑う日々が戻るなら、せめて僕はその足を引っ 張るような誤解だけは避けよう。 たぶん、これまでも特に何かあったわけじゃないけどさ。彼女の で構わない。 ためなら、彼女の高校生活の物語のエンドロールに単体で名前が刻 その他の東高の皆さん まれるのを諦める。 177 その他の東高の皆さん のくせに。 彼女のためなら、なんて僕はどれだけ思い上がってるんだ? そもそも、ただの 我ながら可笑しくなってシャープペンを回しながら心の中で自分 に向かって毒づいてみた。 178 23 置き土産︵前編︶︵前書き︶ 注釈をつけるほどではないのかもしれませんが、少し暴力的な描写 が入ります。 179 23 置き土産︵前編︶ 昼休み、売店から戻る途中に富樫とばったり出くわした。いつも なら6組の男子か加納さんあたりと一緒だけど、今日の富樫は一人 だった。 ﹁よぅ。そんなに持って。相変わらずよく食うな﹂ 先に声をかけて来たのは富樫だった。 ﹁飲み物まだだろ? 下の自販で奢るからさ、付き合えよ。いいだ ろ? 一緒に飯食うの1年の時以来じゃん﹂ なかば強引に富樫に促され、中庭の見える渡り廊下まで階段を降 りてきた。 ﹁好きなの押せよ。俺が損得なしで誰かに奢るなんて、一生で片手 くらいだぞ﹂ 硬貨投入口に百円玉を入れた富樫が悪びれなくニヤリと笑う。 何だか富樫のテンションが変で、1年の時の富樫じゃないみたい で、そのノリについていけず返却レバーを押した。 歪んだ音と一緒に百円玉が返金口の中で踊る。 僕はその百円玉を取り出して富樫に渡した。 ﹁奢ってくれなくても付き合うし、一生のうち片手なら他の機会に 使って﹂ ズボンのポケットに入れていたパンを買った時の釣銭から百円を 取り出して投入口に入れコーヒー牛乳のボタンを押した。ゴトンと 鈍い音がして取り出し口に四角い紙パックが斜めに滑り落ちる。釣 銭をポケットにねじ込んで、コーヒー牛乳の紙容器にストローをさ した。 ﹁ごめん、気分の良いジョークじゃねぇな。悪かった﹂ 富樫はくしゃくしゃと音を立てて髪を掻き乱して溜め息をつく。 180 確かに少しだけ気に障りはしたけど、怒ってはいない。そんなこと は気分屋で皮肉屋の富樫の冗談の範疇だと分かってる。 ﹁怒ってないよ。中庭で食べるならコートくらい着て来たかったけ どさ﹂ 教室に戻るつもりだったのでブレザー姿のままだった。晴れてい るとはいえ十二月に綿シャツと薄手のセーターにブレザーだけじゃ 中庭は寒い。パンはギリギリ常温でも、飲み物は冷たいの買っちゃ たし。 富樫は一番日当たりの良いベンチを選んで先に座った。それはま さしく尾崎と僕が教室のバルコニーから見下ろしたベンチだった。 富樫と加納さんが仲良く戯れていた現場の。⋮⋮なんていう表現は ちょっと下世話か。 ﹁うはー。あったけえー。しみるぅぅぅ!﹂ 富樫の手には、僕の後に買った温かい缶コーヒーが握られている。 ⋮⋮なんてヤツだ。さすがにこれは恨めしかった。 ﹁まあ、巷でワタクシめの評判が悪いのは重々承知でございますが﹂ 勿体つけた咳払いから始まる富樫のわざとらしい独演口調が懐か しい。 ﹁えー、一部の噂により、善良なる畠中氏にまであらぬ嫌疑が飛び 火したと聞き及んだ次第にございます﹂ はあ、と僕は溜め息をついた。 こんな内容じゃなかったら、富樫の独演会も楽しめたのだろうけ ど、内容が内容だけに笑う気が起きない。この口調で続けるつもり だろうか。いっそ話題を変えて独演会だけ続けてくれないだろうか。 ﹁いいね、畠中ちゃん。相変わらず思ってることダダ漏れ。いつま で茶化してんだよ? って考えてるっしょ﹂ ﹁うん、まあ﹂ そりゃあ顔にだって出る。言葉に出すのが遅れただけ。と、いう 181 より、富樫がそう焚き付けたんじゃないか? ﹁で、サッカー部のガングロイケメンから聞いたんじゃない? 俺 ら終わってたって﹂ サッカー部のガングロイケメンとは尾崎のことだろう。イケメン は確かだと思うが、ガングロは言い過ぎだ。尾崎はガングロという ほど黒くはない。それを言うなら、そういう富樫だってイン│││ いや、よそう。 僕は言うべき言葉が見当たらず、コーンパンを頬張ったまま頷い た。 ﹁言っとくけど祐美⋮、加納祐美とはマジで何もないから﹂ あれだけあからさまに振る舞えば隠すような間柄ではないのかも しれないと、ベタな推理小説仕込みの見解を持っていたわけなのだ が。 ﹁あれはガチな幼馴染み﹂ 富樫が茶化す風もなく語り始めた。 ﹁児童館って分かる? 学校が終わった後に家が留守の子供が待機 する、託児所っつーか福祉施設みたいな場所。俺も祐美も小1から 児童館にお世話になってて、迎えが一番最後の常習だったんだ﹂ 児童館はなんとなく分かる。 小学校に入学した頃から同じ児童館に通い、暗くなり児童がまば らになった時間まで残っている同士が親しくなるのは自然なことだ と思う。 特に女の子の加納さんは、他の子たちが次々に帰り淋しくなった 館内で、暗い窓の外を見ながらどんなに心細い気持ちだっただろう。 ﹁よその親は夕飯前くらいには迎えに来るんだけど俺らの場合、星 が出る頃とかザラだったわけ。祐美の家は両親とも看護師だから迎 えが遅かったんだったけど、俺ん家はリストラ親父がアル中とDV やらかして家がどーしょもなくて、役所の福祉課が乗り出してな。 182 しまいにはお迎えどころじゃなくなってさ。平日は児童館の別棟に ある児童養護施設で寝泊まりするようになったんだよ﹂ 荷物も貧乏丸出しでさぁ、と富樫は苦笑いした。 ﹁俺らが小3になる頃、祐美の所は弟が生まれたのを機にお袋さん が仕事やめて、小学校卒業まで週末は俺も祐美のお袋さんに連れら れて祐美の家で、お袋さんの飯喰って、親父さんや弟と風呂入って 過ごしてた。親同士が知り合いでもないのに、まるで甥っ子みたい に面倒みてさ、親子揃って世話焼きなんだよ。だから加納家は俺に とって家族みたいなもんなんだ﹂ 黙って聞いている僕に構わず富樫は続けた。 ﹁中学からは家に戻った。親父も親戚にうるさく言われて渋々だけ ど仕事始めたしな。ただDVっつーのは治らないみたいだな。ある 日、親父が放り投げた爪切りが母親の額に当たってパックリいっち ゃってさ、四針縫う傷になったんだよ。そしたら次の日知らない男 が来て、この家にマサエさんを置いておけませんって。あ、マサエ っつーのは俺の母親の名前﹂ 凄惨な話だとは思いつつも、平岡さんと別れたこととどんな関係 があるのか、富樫が僕なんかを相手に何を言おうとしているのかが 分からず、ただ聞いていることしかできなかった。 啓太くんも出よう っ ﹁それが去年くらい。昼ドラみたいな話だけど、パート先の上司と デキて家を出ちまった。その上司とやらに て言われた。でもどう考えても無理があるだろう﹂ ﹁何故?﹂ ﹁母親が居心地悪いだろ? 上司とやらは独身でも、母親は不貞に なるわけじゃん? そこに俺がついて行ったら全然ハッピーじゃな いだろ。俺たちが成人するまでは我慢するつもりだったらしいけど、 とっくに限界だったはずだしな。あの怪我がなかったら、親父と離 婚した後に頃合い見て紹介したと思うんだよ。離婚してからのお付 き合いです∼、なんて顔してシレッとね。結果として順番は狂った 183 かもだけど、あのDV野郎から引き離してもらえたんだから、息子 の顔色を気にせず幸せを満喫して欲しかったんだよ﹂ 富樫はカラカラと笑った。 ﹁その一件で不貞腐れた親父は、慰謝料取ってやるって言って仕事 も辞めた。慰謝料なんか取れるわけもねーのに。そうなるとDVの 矛先は姉貴か俺なんだけど、姉貴は就職して寮に入ってたから俺に なるわけ﹂ その先の言葉を想像すると背筋が凍りついた。しかし富樫の答え は僕の予想とは違っていたた。 ﹁でもな、ニート根性の染み付いたアル中のオッサンと、剣道で鍛 えてる成長期の若者がやりあったって勝負は決まってるだろ。親父 なんて秒殺でのしてやったよ﹂ ﹁所詮親父は自分より力の弱い者に威張り散らしてただけの社会の 負け犬だったんだよ。先に掴みかかったのに一発も入れられず俺に 返り討ちにされて、以降俺に怒鳴らなくなった。背中に向かってボ ソボソ文句は言ってくるけどな。それで俺すげえ後悔しちゃったわ け。もっと早くそうしなきゃいけなかったって。母親が限界になる 前に。姉貴や母親を守れるのは俺しかいなかったのに、何でもっと 早く親父を戦意喪失させなかったのかって﹂ もっと早い時期には富樫も小さかっただろうし、それに││力負 けしないと思っても、親に手を上げるというのはとても勇気の要る ことだったに違いない。 ﹁あんなショボくれ野郎、どうにでもなっちまえとは思うんだけど、 見捨たら夢見が悪いからな。だからバイト始めて、金は俺が全部管 理してる。高校やめて働こうかとも考えたけど、高校中退じゃ不況 になったら真っ先に切られるしな。母親も姉貴も生活費を入れるか ら大学行けって言うけど、親父の酒代になるのはご免だから。家の 中も汚いし飯も出来あいだし、暮らしはカツカツだけどな。とりあ えずなんとかなってる﹂ 富樫は寒さに手を擦り合わせる僕の手に、握っていた温かい缶コ 184 ーヒーを差し入れた。 ⋮⋮すっかり冷めてるじゃないか。 僕の様子に満足した富樫は愉快そうにニヤニヤと笑う。 ﹁こういう底辺な暮らししてると、育ちの良さへの執着が強くなる わけ。飢え、だよな。どんなに頑張っても自分のバックグラウンド を塗り替えることって出来ないじゃん? あの親の血が流れてる事 実も変えられない。だから貧しさも卑しさも穢れた心も知らないよ うなアイツが眩しかった。ついでに言うと柳瀬や浜島や、畠中ちゃ んもな。おまえら、いかにも愛情を注がれて育った感じでさ。自分 のバックグラウンドを平凡だと思える奴って、穏やかな家庭で育っ てるって証拠じゃね?﹂ アイツ│││平岡さんのことだろう。 それにしても富樫は、平岡さんや柳瀬や浜島だけじゃなく僕まで そんな風に。 ﹁なんで自分の名前まで出てくるんだ? って思ってんだろ。畠中 ちゃんは紛れもなく恵まれた家庭で育ってるさ。裕福とか親の肩書 きが立派とかじゃなく、穏やかな日常が当たり前の家庭﹂ 僕は言葉に窮した。 ﹁ははっ、いいね、その顔。俺、他人の不幸話を聞いた時に自分が 恵まれてると気づいて二の句を失くしてる奴の顔を見るのって大好 き。悪趣味だろ?﹂ 意地悪い笑みを浮かべて富樫が僕の顔を覗き込む。 自虐にも程がある。 ﹁じゃあどうして話さないの? 他の人に﹂ 人の不幸話に二の句を失くしてる奴の顔を見るのが好きだなんて、 嘘ついて。好きなら、とっくに誰かに話して聞かせてる。知ってた ら、部活に出ないで帰って行く富樫を浜島が詰ったりしない。 ﹁キミ、可愛い顔してイヤなところを突いてくるねぇ﹂ 185 笑って誤魔化しているけど、本当は話したくも知られたくもない はずだ。人一倍強がりで弱いところを見せたがらない富樫なら、き っと。 でもそう考えると何故そんな話を僕にするのか尚更分からない。 ﹁俺、こう見えてかなり格好マンでね。自分と肩を並べる立ち位置 にいる奴には憐れまれたくないの﹂ 富樫と肩を並べる立ち位置とは、柳瀬や浜島や永田さん、そして 平岡さんのことだろう。 男のメンツ 柳瀬たちとは部活も一緒で競い合う仲でもある。平岡さんはそこ に加えて恋人でもあり、対等というより富樫としては みたいなものも感じでいたのだろう。 富樫が、特に彼らに対して弱い自分を見られたくないという気持 ちが、なんとなく理解できた。 ﹁なんか、アイツらに可哀想な人を見る目で見られたら生きて行け なさそうなんだよね。こうやってふざけていられるチープなプライ ドが粉砕されて、親父みたいに堕落が快楽になり果てそうで﹂ でも、誰かに聞いて欲しかった│││ 身近すぎる友人じゃなく、無責任な友人や赤の他人じゃなく、近 からず遠からずで利害のない僕に。 富樫のガス抜きになるなら、そして僕が富樫を可哀想な人を見る 目をしてしまっても許容範囲だと思えるのなら、そう思った。 ﹁成り金が品性を手に入れたがってガツガツ空回りしてるのと同じ なんだよ。アイツが持ってる穏やかで柔らかい雰囲気に嫉妬するほ ど憧れた。手に入れて自分のものにしたら自分も同じステイタスに 立てるんじゃないかって錯覚したんだよ。バックグラウンドは塗り 替えられないことを忘れて夢中で追いかけた。手に入れたつもりで 自分のものにならなくて苛立った。俺、アイツのそばにいればいる ほど、劣等感が増していくんだよ﹂ 186 富樫の告白に鼓動が早くなった。 釣り合わない という心ない妬みの声を浴び続け、憧れ 憧れの女の子と付き合うことになって、どれ程嬉しかっただろう。 そして は日ごとに屈折して、一層自分を蔑むようになったに違いない。 間男嫌疑がかけられた僕も、さんざんその手の中傷を浴びてどれ だけ劣等感を植え付けられたことか。本当に彼女と付き合っていた 富樫が受けた仕打ちは僕の比ではないだろう。 もちろん平岡さんのせいじゃない。 だけどそれで消化できるほど、僕たちはそんなに大人でない。 ﹁どうしようもない俺に反論もしないでただじっと寄り添おうとす るアイツが、俺に憐れみと蔑みを上から注いでいるように見えた。 本当に劣等感の塊なんだよ。だからアイツの眩しさが辛くなって、 憧れが歪んで最後には僻みになってた。もうそんな自分にウンザリ してさ﹂ 啓太 って呼ぶのをやめてた。 浅く腰掛けた姿勢のままベンチの背凭れに背中を反らせて富樫は 大きく息を吐いた。 ﹁祐美は俺に彼女ができたと知って って呼ぶように頼んだ。アイツが妬いてくれるん なんて慣れない呼び方して、祐美なりに気を使ってた。 啓太 富樫くん けど俺が じゃないかって、幼稚な期待して。妬かれたら少しでも優越感を感 じられそうな気がしたんだ。情けない小細工だけどな﹂ ﹁効果はあったんじゃない?﹂ 理科室でのことを思い出した。 二人を見て走り去った平岡さんを。 富樫の言い分を聞いていて気持ちは理解できなくもなかったが、 あの日の平岡さんを思い出すと富樫のしたことを肯定する気持ちに はなれなかった。 ﹁いや、全然﹂ 187 あれを見て全然って⋮⋮。 188 23 置き土産 ︵後編︶ ﹁おっかねぇ顔したモデルみたいな女と永田姐さんに怒らて、アイ ツと話しに行った。授業サボって屋上で謝って⋮⋮。アイツは、謝 らないでの一点張り。そのあとアイツの口から出た言葉がさ﹂ 富樫は言葉を切った。 個人的なやり取りを第三者に話して良いものか逡巡しているよう だった。 それについて話す必要はないと言おうとしたのと同時に富樫が肩 を竦めた。 ﹁ああいう場面で傷つかなかった自分に動揺して気がついたら逃げ 出してた、ってアイツそう言ったんだ。謝らなければならないのは 私の方だって﹂ ああ、思い出した。 富樫が去った屋上に、ガクちゃんと上がって行った時。屋上で物 何でき⋮かなかったのかな 想いに暮れていた彼女の呟いた独り言。 傷 だった とも 傷つかなかった 気づかなかった とも聞こえたあの言葉は 部分的によく聞き取れなかったが、 つかなかった のだ。 ﹁決定的にフられた瞬間だよな。自爆したなって後悔したよ。なの にアイツ、ひたすら謝りながらこう言ったんだよ。ちゃんと好きに なるように努力するから、って﹂ 努力って何なんだよ、と富樫は苦笑いした。 僕にも平岡さんの意図するものが分からなかった。 189 ﹁俺はアイツの彼氏にはなれたけど好きな男にはなれなかったんだ よ。厄介なことにアイツ自身は恋愛してると思ってる。たぶん恋愛 経験ないんだろうな。どんだけオクテなんだっつーの。一歩間違え ば時代錯誤のカマトトだろ。到底釣り合わない高嶺の花だって分か ってたけど、好きなつもりになられてたって、すげぇショックだぜ ? マジでガン萎え。孤独な気分になった。そっからは劣等感と八 つ当たりのスパイラル。暴力振るってないだけで、親父が母親にし てた事と変わらないって気がついた﹂ それは違う、そう喉元まで出掛かって、夏休みの登校日の噂が脳 暴力振るってないだけで、親父が母親にしてたのと変わらない 裏に突き刺さった。 こと。 ⋮⋮⋮。 ﹁まぁとにかく、今思えば勝手に寄って来られて勝手に孤独を感じ て去られる側は俺以上に孤独だったと思う。表に出さないだけで、 おそらくアイツはアイツで色んなものを抱えてる。本当は俺に言い たいことだってあったと思う。あんなに笑ったり驚いたり忙しいく せに、一度も感情的にならないなんて、そんなの変だろ。先輩から も俺からも6組の女たちからも理不尽なことばっかり言われて涼し い顔してるなんてさ。味気ないくらいに出来すぎだろ﹂ そう言って笑った富樫の顔は、まるで憑き物が落ちたかのような 1年の頃に見た愛嬌のある笑顔だった。 どちらも嫌いになって別れたわけでもないのに、あんなに仲が良 かった二人が、別れた後に自然な顔で笑っていることに不思議な気 持ちになる。 富樫の家庭が決定的に崩壊したのは一年前。それ以前からお父さ んの問題はあったにしても、富樫自身は少なくとも学校の中でだけ はバックグラウンドに左右されない学校生活│││富樫の青春を謳 190 歌したかったのだろう。 けれど、お母さんが家を出たことで富樫の抱える事態は変わった。 そのことが富樫に及ぼした影響は大きかった。 家での生活を維持し、放課後の時間を削って生活費を捻出し、並 行して学校生活を送らなければならない。 現状や将来のことを考えて精神的にも体力的にも追い込まれてい ただろう。 そんな状態で学校生活を謳歌できる気持ちのゆとりが残っていた とは思えない。 富樫は平岡さんにそのことを言わなかった。言っていたら何かが 違っていたかもしれない。 憐れまれたくない だけど富樫はそうしなかった。 そのプライドだけが壊れかけた富樫を支えているのかもしれない。 ﹁悪かったな。愚痴聞かせて嫌な気分にさせたよな﹂ そんなことはない。僕は膝の上で手のひらを握り締めて首を横に 振った。 ﹁嫌な気分ではないよ。ただちょっと僕には難しい内容だったけど﹂ 素直な気持ちを告げると、富樫は一瞬目を丸くしてそれから思い 切り笑った。 少し離れた所で野球をして遊んでいた1年たちが振り返るくらい。 ﹁ま、そりゃそうだよな。畠中ちゃんには色んな意味でハードだよ な。色んな意味で﹂ ああ、この言い方には厳しい家庭環境のことだけでなく、恋愛項 目も含まれてるよな。 富樫から見たら僕なんて恋愛のレの字も掠らないヒヨッコだろう から。否定できないけどね。でも、恋愛に無縁とはいえ、冷やかさ れるほどヒヨッコではない。しつこいようだけど僕だって兄さんの 191 パソコンでエロくらい│││ ﹁本当は柳瀬あたりにアイツのフォローを頼みたかったけど⋮⋮。 関係ない奴らが干渉してアイツも大変だろうし。でも俺自身が既に 関係ないから頼めた義理じゃないんだよ。だからさ、畠中ちゃんと って言われたん 東堂がアイツのこと気にかけてくれてたら助かる。おまえら仲良い だろ、アイツと﹂ 2組の畠中くんが好きですぅ∼ ﹁僕はそんなでもないよ﹂ ﹁よく言うよ。 だろ? アイツに。すげー噂だったもんな﹂ ﹁そっそれはっっ! ち、ちが⋮すすすすす好きとか﹂ ﹁ジョークだってば。2組の中なら、だろ? まあ、どっちにしろ 名前出されたんだから、アイツにとって信頼できる一人っつーこと だろ。謙遜だか何だか知らないけど、そんなに全力で否定してやる なよ﹂ 好き なんて一言も言ってない ジョークと言うわりには、からかいに棘を感じるのは何故でしょ う。しかも平岡さんは僕のことを から。 ﹁浜島や永田姐さんはフォロー向きじゃないんだよ。良い奴らだけ どさ。ま、あと柳瀬あたりを巻き込んで適当にフォロー頼むわ。柳 瀬なら頼む必要もないだろうけどな﹂ なんだかんだ言っても、ガクちゃんや僕なんかより、彼女の一番 身近なポジションにいるのは柳瀬だと思う。 柳瀬の距離感の保ち方は絶妙だ。 平岡さんが富樫と付き合っていた頃から、共通の友人でありなが ら彼氏側寄りの友人である立ち位置に徹し、用事がない限り柳瀬の 方から彼女に声を掛けたり二人きりで行動することはなかった。富 樫が平岡さんと出会う十年も前からの知り合いなのに。 図書室で永田さんや平岡さんと三人で勉強してしていた時も、三 人の時は談笑し、永田さんが席を外すとごく自然な振る舞いでノー 192 トにペンを走らせる。 向かい合った席で特に言葉を交わすわけでもなく勉強する二人の 姿は、絵になるくらい心が寄り添っているように見えた。 富樫と平岡さんが別れただろう修学旅行の後の柳瀬も態度はほぼ 変わらない。 おそらく柳瀬は二人が別れたことに勘付いていたと思う。 前と少し変わったところがあるとしたら、平岡さんに部活の用事 を頼むことが多くなったくらいだ。 代替わりして、平岡さんが部長、柳瀬が副部長になり、しかも文 化祭のこともあって連絡事項が多くなっていたのもあると思う。 だけど、いつもののんびりとした感じとは違い少しきびきび伝達 する様子は平岡さんに檄を入れているようにも見えた。 ﹁とにかく任せた。アイツ、人に頼るの下手で何でも一人で抱え込 むトコあるから、頼って来たりはしないだろうけど、頼れる存在が あるってことだけで気持ちが救われる時もあると思うからさ﹂ ﹁富樫じゃダメなの? 色々気づいた上でもう一度やり直せないの ?﹂ 高校生の力では変えることができない難しい現状を背負っていて も、そばにいてくれるだけで気持ちが救われるような存在が、富樫 には⋮。 ﹁ホントいい奴だな、畠中ちゃんは﹂ ﹁僕のことはどうでもいい、富樫の話しをしてるんだ﹂ まだ彼女のこと好きなようにしか見えないんだよ。なのにどうし て無理して笑うんだよ。一人で抱え込んで、一人で決着つけて。 ﹁残念ながら、常に状況が俺のキャパを上回ってますんで。俺だっ てこう見えて、フツーの十七歳のヒヨッコなんだよ﹂ ﹁⋮⋮ごめん﹂ ﹁謝んなよ。畠中ちゃんが言うみたいに、そうだったら良かったの 193 にな﹂ 逆に慰められた形になって凹む。 ﹁アイツと付き合えるなら、絶対大事にしようって思ってたのに。 俺、自分ばっかり好きなの格好悪いとか、なに贅沢言ってたんだろ うな。きっと、浜島も柳瀬もあいつのこと好きだったと思う。もし かしたら俺なんかより﹂ 体を起こし、今度は背中を丸め真っ黒い硬質な髪をクシャクシャ と掻き乱して、富樫は大きな溜め息をついた。 直後に立ち上がると体を回転させて僕の正面に立った。 ﹁さあて、すっかり体も冷えたことだし教室に戻りますか﹂ 僕もベンチから腰を上げ、膝裏を軽く伸ばす。 ﹁俺が頼んでたとか他の奴に言わなくていいから、言うとか波風立 つしな。それに俺﹂ 言葉を切った富樫が不意に僕の手から飲み終わったジュースの紙 パックを取り上げて網状の白いゴミ箱に放り投げた。 綺麗にシュートが決まったそれをぼんやり見ていると、ゆっくり 歩き出した富樫はこう言った。 ﹁アイツの大事なもん奪っちゃったから﹂ 僕だってエロくらい、 それ以上のことは言わなかったけど、できることなら聞きたくな い言葉だった。 普通、言います? そういうこと、言っちゃいます? ダメでしょう、やっぱり。 僕が天使だとか相変わらず思ってるの? エロくらい⋮⋮⋮。 ああもう、こんな時にエロとかタイムリー過ぎて胸が痛い。 194 富樫は僕の方を振り返ることもなく﹁じゃあな﹂とだけ言い残し て後半クラス方面の階段へと歩いて行ってしまった。 僕はというと、五個買ったうちのパンの三個を未開封の状態で手 の中に抱えて茫然と立ち尽くしていた。 富樫が寄越した、すっかり冷えた缶コーヒーを左手に握ったまま。 やれやれ学校の自販の缶コーヒー、不味いんだよ。 僕はコーヒーの不味さへの不満で頭の中を無理難題満たした。 そうでもしないと缶コーヒー以外の富樫の置き土産があまりにも 苦くて不味すぎた。 195 24 救世主 冬休みを目前にした期末テストが終わる頃には、富樫と平岡さん が別れていたという話が学校中に拡がっていた。 相変わらず女子たちは校内のゴシップネタには無関心で、クリス マスの過ごし方について盛り上がっていたけれど、休み時間の度に 見ない顔の男子に呼び出されては退室する平岡さんを同情の目で見 送っていた。 かたや男子たちは次々に現れる恋敵に品定めの視線を注ぎ、固唾 を呑んで平岡さんが教室に戻ってくるのを待っているという構図が できあがっていた。 関心なさそうなのはガクちゃんと柳瀬で、反対にソワソワしてい るのが小池と浜島だった。 ﹁ほっといてやれよ﹂ ガクちゃんが小池を窘める。 ﹁そんなこと言ったってさぁ、強引に迫られてないか心配になるだ ろ?﹂ ﹁強引に迫れるメンタルの持ち主が東高男子にいると思うか? そ んなに心配なら付いていってやれよ﹂ ﹁⋮⋮やだよ。第一、平岡さんにウザがられる﹂ ﹁当たり前だ。だからほっといてやれって﹂ 再三同じやり取りをしているが、小池は納得できない顔をする。 呆れたガクちゃんに最後は﹁じゃあコイちゃんが告ればいいだろう﹂ とトドメを刺されて収束するのだけど、この一連のやり取りを何度 聞いたことか分からない。 もうこういう古典演目があるんじゃないかと思えてくるくらい。 196 富樫と話したことについて、ガクちゃんは訊いて来なかったし僕 からも特に話してはいない。 あの日、中庭のベンチに座り昼休みの時間いっぱい話していたわ けで、当然僕たちの姿は教室の窓からも確認できた。 五時限目の終わりには尾崎や浜島から、富樫と何を話していたの かと質問攻めにあった。 ただでさえ会話や説明が苦手な僕としては何をどう話して良いの か難しかった。まして、平岡さんがいる教室の中で﹁富樫と平岡さ んが別れたって聞いた﹂なんて口に出して、本人に聞こえてしまっ たら良い気分はしないだろう。 もし彼女たちの耳に届かないとしても、別れたと富樫の口から聞 いたと言えば、尾崎や浜島は細かい原因についても聞きたがるに違 いない。でも第三者の口から軽々しく語られるべきではないと思っ た。そこには当事者にしか理解できない、それぞれの心情というも のがある。とてもデリケートな類なのだ。それを当事者でもない僕 が語って良いものであるはずがない。 さてと困った。富樫の家庭環境などは口外するつもりもなかった し、なにか適当に誤魔化そうにも僕は機転の利く方ではないので嘘 も思い付かない。 しどろもどろしているうちに尾崎が﹁2組内での平岡さんの様子 をあれこれ訊かれたんだろ? どうせ気になってるだろうし﹂と言 い出したので﹁そんなところかな﹂と曖昧に便乗してしまった。 席に戻るとガクちゃんがこう言った。 ﹁気にならないはずがないよな。でも実際、自分で確かめられる立 場じゃないし、ってトコかな。心配ないように俺たちでフォローし ていかないとな﹂ なんでこの人には分かっちゃうんだろう。天晴れな機転の利きっ ぷりに同性ながら惚れそうになる。 この人は東高一のお買い得物件なのに、本当に女子たちは見る目 197 ない。いや、ガクちゃんに告ってる女子もいるみたいだし、ちゃん と見る目あるか。 ◇ 二学期最後の日を迎え、帰りの挨拶とともにそれぞれが散って行 く。 テスト明けには3年次の選択科目の調査表と進路調査表が配られ、 個別面談の際の提出となった。 僕は理数系クラスに進むことを希望し、進路希望も第一希望と第 二希望のみではあるが、東京の工業系の国立大学の名前と県内の国 立大学とを一校ずつ書いた。ようやく具体的な学校名や学部名を志 望校欄に書けるまでに至ったのに、調べに調べた末に苦し紛れに見 つけたせいもあってか、果たして本当に自分の希望なのか釈然とし ない気持ちだった。 まるで誰か別の人の進路希望を代筆した紙を手にしているような 不思議な感覚だった。 理数系が苦手だと言っていた平岡さんとは来年は別のクラスにな るのだろう。 淋しいような、それでいて本来ならそれが当たり前だったと納得 している自分がいた。 夏のせいだった。 ふとそんなことを思う。 気持ちが昂ったのも、フワフワと揺れ動いたのも夏の暑さのせい で、僕自身が軟化していたんだ。 経験したことのない感情に翻弄された目まぐるしい季節は過ぎ、 寒さとともに掻き乱れた心の中が徐々に沈静化されてきた。 198 さすがに文化祭の時のあれは熱を出してしまうくらい動揺しまく ったけど、なんとか平常を持ち直した。 暑さで溶けて軟化したものは、寒さで沈静化するようだ。 冬将軍サマサマ、寒さ最高。 寒いのは嫌いだったけど、今の僕にとっては救世主以外の何物で もない。 この時期に救世主と呼ばれるキリストが誕生したというのも頷け る。いや、僕が頷いていることには一切関連性はないだろう。 すっかり葉が落ちてしまった銀杏並木の枝の間に灰色の空が塗り 込められ、その下をたくさんの明るい足取りが弾けるミスマッチ。 緩やかにすべてを呑み込んでしまいそうな気怠い空をもう一度見上 げ、僕は寒さに身を縮めた。 ﹁良いお年を!﹂ おどけた口調でそう言って、後ろから僕の肩を叩いたガクちゃん が走り抜けていく。ジャージ姿で、ガタイのいい男子たちとグラウ ンドに向かって。 ﹁また来年﹂ ガクちゃんの後ろ姿に慌てて声をかけると、ガクちゃんは少し振 り向いて笑顔で手を上げた。 武道場へ続く通路に視線を送る。いつの間にか自転車で来ない日 も、この分岐で反射的に武道場の方向を見てしまう癖がついてしま った。わざわざ武道場の前を通ってまで彼女の姿を探そうとするの は恥ずかしいし、柳瀬や浜島や1年男子たちに怪しまれそうで気が 引けた。 それにここのところ、平岡さんは辟易するほど告られまくりで、 当分の間は男子からのラブラブ光線そのものに胸焼けするだろう。 彼女の周りの女友達たちのいたわりの目を見ていれば伺える。どれ ほど彼女が困惑しているかということが。 199 ラブラブ光線に胸焼けするなんて、僕には一生縁のないことだ。 彼女に対する自分の気持ちが恋という種類のものであると自覚し て以来、土日を迎えるのが淋しくなった。月曜日の朝が億劫ではな くなった。 そして今、冬休みが長すぎるとさえ僕は感じている。 これから二週間、彼女の顔を見られない。校門に辿り着く前に一 目だけでも姿を見ることができないかなぁ、なんて運命を信じる乙 女よろしく偶然が降って湧くのを受け身で願う相変わらずのヘタレ っぷり。 これが恋愛ドラマか何かなら、あと数秒で校門を出て角を曲がる というタイミングで後ろから息を切らして僕の名前を呼ぶ彼女が現 れるんだけど。世の中そんなに都合良くはない。 しかも、ここが重要。 僕はどの物語でも主役になり得ない。脇役どころか、その他の皆 さんという一括りであり、個人名さえ載らない。 などと、一人あれこれとくだらないことを考えながら歩いている と本当に校門の前まで来ていた。 そして、あろうことか僕の名前を呼びながら走ってくる足音が近 づいてくるではないか。なんてドラマチックなんだ。 ﹁おう、やっと追いついた﹂ ⋮⋮ガクちゃんである。 ついさっき別れの挨拶を交わしたばかりだというのに一体何事だ ろう? ﹁さっき畠中ちゃんと別れた後に思い出して﹂ ガクちゃんは前屈みに両膝に手を添えて肩で息をする。その手に は白い封筒が緩い弧を描いていた。 ﹁これ、修学旅行の時の写真。畠中ちゃんメルアド持ってないだろ 200 ? だからプリントアウトして渡そうと思いながら忘れっぱなしに なってて。終業式には渡そうと思って持って来たのに、持ってきた ことを忘れてたという大失態﹂ クシャッと笑い封筒を僕に手渡すと、急いで抜けて来たからと言 って、僕が何か言う前に部活へと戻って行ってしまった。 ﹁新学期に会ったらお礼を言わなくちゃ﹂ プリント代も払わなくちゃ。そんなことを思いながら、特に封印 がされていない封筒を開く。 紙の淵を少し摘んでずらすと全部で三枚あることが分かった。 プリント面に返して見ると、一番上にあったのはクラス行動の日 に三十三間堂でガクちゃんと一緒に撮ったものだった。確か浜島に シャッター押してもらったんだっけ。 二枚目は新幹線の中で、僕は三人掛け席を相向かいにしてある所 の一番奥に写っていた。柳瀬や浜島の姿もあり、座席の向こう側か ら小池が顔を出して一緒に写り込んでいる。撮ったのはガクちゃん のようだ。 徳山先生も写ってる。やっぱりイケメンだ。この人に弱点はない のかと思うくらい爽やかで上品な雰囲気でかっこいい。女子だらけ の学校に教育実習に来る男子大学生の大半はモテるとか言うけど、 東高の女子みたいに引く手数多で目の肥えた人たちでは、男子大学 生なら誰でもというわけにはいかない。事実、徳山先生以外の実習 生なんてエア扱いだったから。 三枚目をめくって不覚にも﹁あっ﹂と声を上げてしまった。短く ても大きな声で恥ずかしすぎる独り言。 車の往来が激しい国道の道中で良かった。 そうだ、新幹線の中で撮ってもらったっけ。 平岡さんと二人で写る写真の僕は、滑稽なくらい硬い表情だった。 201 滑稽だと思いつつ、笑えない。 だって、彼女と二人で写ってる写真を見ただけで、撮ってもらっ たこの時のように緊張してしまうのだから。 はにかんだような彼女の笑顔の可愛さといったら│││十秒直視 したら卒倒しそう。 心臓の音が煩いくらいに騒ぐ。 冬だぞ、寒いんだぞ。融解するなってば。 フワフワと舞い降り始めた微かな雪のように、空気の中に彷徨い そうなほど覚束ない気持ちで、ただ足が記憶するまま家までの道を 歩いた。 冬休みに入る前に彼女の姿を一目見て帰ることはできなかったけ ど、会えない時間も彼女の笑顔を眺めることができるなんて。 新学期に会ったらお礼を言わなくちゃ。 いや新学期に会うまでの間、心の中で毎日ガクちゃんにお礼を言 うよ。 202 25 Dear.ライバル 手元に写真があるというのはこんなに素晴らしいものなのか。 見るたびに平岡さんが笑い掛けてくれているようで、幸せな気分 に浸れた。 最初のうちは、写真の中の平岡さんと目を合わせるのも心臓が高 鳴る思いだったけど、次第に脳が実際に目が合っているわけではな い当たり前の事実を受け入れ始めた。そこを超えると、相手に意識 されずに好きなだけ顔を見つめられる幸せに心が充足されるように なった。 かつて写真というものをこんなに真剣に、こんなに長い時間、見 ていることがあっただろうか。 可愛い。すごく可愛い。何度見ても可愛い。 まさに眼福だ。 机の引き出しを半開きにして彼女の写る写真を眺める。 学習机の椅子に座ったまま、身悶えしている僕はきっと薄気味悪 い変質者なんだろうな。 こんなことが平岡さんに知れたらドン引き確定だ。 見られるはずがないのだから、言わなければ知られまい。 それにしても、こんなに可愛い人の写真が手元にあるなんて。 ガクちゃん、ありがとう。 こうして毎日ガクちゃんにお礼を言うのが日課になりつつあった。 こうなってくると、もはや礼拝に近い。 これで心置きなく生涯片想いが続けられる。 冬眠に入る前の動物のように、僕は心の中にたっぷりと充足感を 蓄えた。 3年になってクラスが分かれてしまえば、彼女の周りにはまた新 203 しいクラスメイトがいて、人気者の彼女はその中心で楽しそうに笑 っているだろう。 優しい彼女のことだ、廊下ですれ違ったら挨拶くらいしてくれる だろう。それで十分じゃないか。 クラス という間柄ができたことは、五年経っても十年経っても僕 同じクラスになれて良かった。三年間のうちで一度でも メイト の高校生活の中の一番の思い出として残るだろう。 青春 をくれた。 本来なら無味無臭で終わるはずの僕の高校生活に、彼女は色鮮や かな ◇ 三学期が過ぎるのはとにかく早い。 間に高校入試が入ったり、学年末テストまでの期間が短いせいも あって駆け足で過ぎていく。 僕は年度末の模試で少し成績を上げて、第二希望である県内の国 立大学になんとかB判定が出るくらいまで漕ぎ着けた。 元々理系に進むつもりのなかった柳瀬や浜島とは3年では別のク ラスになりそうだけど、ガクちゃんや尾崎や小池とは来年も同じク ラスになりそうだった。 女子のことはよく分からないが、浜島や柳瀬が言うには剣道部の 中で言えば薬学系へ進学希望している久保さん以外は理系クラスに は進まないらしい。 結局、平岡さんの進む方向について訊くことはできないままだっ た。 進路のことで家族の了承は得られたのだろうか。 家族の了承を取り付けなければならない進学先と聞いて思いつく のは留学だけど、彼女はどこか遠くに行ってしまうのだろうか。 卒業したら、僕と彼女の儚い間柄なんて完全なる過去形になって 204 しまい、こんな人間がいたことさえ思い出すこともないのだろうと 分かっている。 元々住んでいる地区が近いわけでもなく使う駅も違う。卒業した らどこかでバッタリという確率も低いだろうけど、そう分かってい ても遠い外国に彼女が行ってしまうのかと思うだけで淋しい。 手元に一枚の写真さえあれば一生片想いを続けていけると思う気 持ちとの、この矛盾は何なのだろう。 ガクちゃんに訊けばこの矛盾が何であるかなんて一発で弾き出し てくれそうだけど、こんな非モテで地味な絶食系男が一丁前に恋な どしてると他人に知られるなんて恥ずかしすぎる。 しかも相手が平岡さんだなんて口が裂けても言えない。 せいぜい前夜祭の一件で自意識過剰になってしまった非モテ男子 の哀れな末路の典型として気遣いの眼差しを向けられるだろう。 その前から好きなんだけどな、なんて。言い訳にもならない。 とにかく平岡さんを好きだなんて、そんな身の程知らずなことは 口に出すべきじゃないんだ。 世の中には言って良いことと悪いことがある。⋮⋮そういう問題 でもないが、とにかく分不相応なのだ。 ビーチサンダルを履いている人が三つ星レストランに入りたいと 言っているようなものだ。 ﹁俺、告ろうと思う﹂ 僕はシャープペンを落としそうになった。 もちろん言ったのは僕ではない。 ガクちゃんだ。 いつになく神妙な面持ちで、ガクちゃんはそう宣言した。 205 僕にだけ届く小さな声で、だけど迷いのない力強い口調で。 ﹁本当は黙って行動したかったけど、どのみちどこかからバレるこ どだしさ。一年間隣の席で仲良くしてきた畠中ちゃんには、後で他 人ヅテにバレるような水くさい形になりたくないなって思って﹂ フラれる気しかしないけどね、ガクちゃんはそう言う。 フラれわけないよ。だってガクちゃんだよ? 背が高くてイケメンで優しくて誠実で頼りがいもあって、スポー ツ万能で頭も良くて、そんな欠点のない男がフラれるわけがあるも んか。 だけどやっぱり相手は平岡さんなんだね。ガクちゃんも平岡さん のことが好きだったんだね。 ガクちゃんをフる女子なんかいないよと思うのと同種の気持ちで、 平岡さんを好きにならない男なんていないと思ってきたから、当然 の展開といえば当然の展開なんだけどさ。 そして、そんな二人が付き合えば周囲も納得のベストカップルだ ろう。 だけど⋮⋮。 根拠はないけど心のどこかでガクちゃんは平岡さんに対して特別 な感情を抱いていないのではないかと思っていたりもした。 いや、もちろんガクちゃんも好きなのかなぁと思ったこともあっ た。だけどそれはどちらかというと、ほとんど習慣的な僕の被害妄 想の一種みたいなものだ。東高の男子のほとんどが平岡さんを好き なのだろう、みたいなやつで、それこそ根拠がない。 ガクちゃんは僕なんかと違って女子と接する機会も多く、意識す ることなく女子たちとも会話している部類だ。 平岡さんと同等の親しさの女子はたくさんいる。 半分の妄想の上に、ガクちゃんだけは平岡さんを恋愛感情で見て いないという推測│││という仮の名の、ただの願望が半分積み重 206 なっていたにすぎない。 このかけがえのない友にエールを送るべきなのだろう。 この頼もしい男なら平岡さんを困らせたり傷つけたりしないだろ う。 なのに、僕は言いようもなく泣きたい気持ちになった。 写真の彼女に生涯片想いすると意気込んでいたのに。 それなのに大切な友達にエールを送りきれない自分。 うまくいった二人を思い描いて、友達も好きな女の子も遥か遠く に消えてしまった気分になる。 ドロドロにぬかるんだ心の中で本心が彷徨う。手探りすればする ほどより深くに沈んでしまって見えない。 このドロドロの正体こそが今の僕なのかと思うと、どうしようも なくやりきれない気持ちになった。 ﹁勝算はないけど、このまま終わったら後悔しそうだから﹂ ガクちゃんは淀みなく爽やかに笑う。 後悔とはアクションを起こす葛藤がある人にのみ与えられる、あ 後悔 など無 る種の称号だ。僕みたいに自分の現状を変えるつもりもなければ、 彼女との間柄を発展させたいとも思ってない者には 縁だ。 血迷って何かアクションを起こしてしまおうものなら、それこそ が後悔になるだろう。 ﹁結果は⋮⋮、報告しない方がいいよな。相手があることをペラペ ラ喋るのも迷惑だもんな﹂ うん、いいよ。もしも聞くのがツライ顔をしてしまったら申し訳 ないから。付き合い始めたら、聞かなくても二人を見れば分かるか ら。 207 きっとうまくいくよ。 だって理想のカップルだと思うもん。 富樫だって平岡さんの次の彼氏がガクちゃんなら安心するよ。 これですべてうまくいくよ。誰も傷つかない。 双方のファンたちは少しの間がっかりするだろうけど、納得する よ。太刀打ちできないくらいお似合いの二人だって。 ﹁うん、その方がいいよ﹂ ごめん、あんまり長い言葉が出せない。極力口を閉じていないと 声が揺れてしまいそうで。 泣いてるみたいで情けないじゃん? ﹁畠中ちゃんとはおそらく来年も同じクラスだよな。学年末の成績 では抜き返されたし、ライバルとして、またよろしくな﹂ ﹁⋮ライバル?﹂ ﹁そうだよ。ライバルっていっても敵対関係の意味じゃないぞ。切 磋琢磨の関係としてな﹂ ﹁僕なんか⋮⋮﹂ ﹁過小評価は畠中ちゃんの悪い癖だ。俺はこの一年で畠中ちゃんの 良いトコたくさん見てきたよ。もっと自信持てってば。な?﹂ ライバルになんかなれないよ。 ライバルになる資格なんかない。 スペックだけじゃない。人間性だって雲泥の差だ。 心の何処かで、ガクちゃんが平岡さんに告らなければいいのにと 思ってる、こんな僕なんか。 マジマジと僕の顔を見たガクちゃんは、大きく息を一つ吐いた。 ﹁明日、終了式が終わった放課後に告ってくる﹂ ちらっと平岡さんが座る席の方を見て、決意を呟いた。 208 いいじゃないか、ガクちゃんと平岡さんが付き合ったらまた新た な彼女との接点ができるじゃないか。 彼氏の友達 として笑顔をお裾分けして 友達の彼女。富樫と平岡さんが付き合っている時もそうだった。 クラスが変わっても、 もらえるじゃないか。 そう言い聞かせても、泣き出しそうな気持ちは晴れてはくれない。 自分も好きだと名乗りを上げるという選択肢がない僕には、心を 曇らすものの正体も理由も見当がつかなかった。 209 26 ステイルメイト 肌寒い空気に青い匂いが混じり始める季節が回ってきた。 三度目の桜を仰ぎながら、僕は高校生活の最高学年の年を迎える。 一昨日の雨ですっかり葉桜になっていたものの、春休み中で生徒 が少なかったせいもあり校内のあちこちに踏まれていないままの薄 桃色の絨毯が残っていた。 冬休み中は写真の中で微笑む彼女を幾度となく眺めたのに、この 春休み中にはほとんど見なかった。 時々うっかり心構えなしに机の引き出しを開けてしまい、写真の 中の彼女と目が合っては胸が締め付けられた。 それで結局、読まなくなった数独の本に挟んで本ごと本棚の隅に 追いやってしまった。それで大丈夫なはずだった。 見えない所に写真を追いやって心の安息は保たれるはずなのに、 今度は頭の中に彼女の笑顔が貼り付いてくる。 気がつけば溜め息ばかり。 恋だなんて自認するんじゃなかった。無理矢理にでも自分の気持 ちから目を逸らし続ければ良かった。 次に会ったらどんな顔しよう。 もうクラスメイトじゃないんだ。 いきなりガクちゃんとどうなったか訊くのも不躾だ。 もし彼女が報告してきたら? それこそ幸せそうにはにかみながら。 その時僕は何と言う? そこはやっぱり﹁おめでとう﹂なのかな。 いや、結婚じゃないんだから﹁おめでとう﹂は仰々しいだろう。 210 いやいや、﹁おめでとう﹂でいいんじゃないか。 言うのはともかく、どんな顔するんだ? もう避けるような態度を取って彼女と向き合うことから逃げない と決めたのは僕自身じゃないか。 そうだ、笑って祝福しないと。笑って、⋮⋮笑って。 愚にもつかないことばかりが悶々と頭を巡る。 他に考えることはないのかと自問したくなるくらい、思春期の男 はバカだ。 考えるべきことなら山ほどあることくらい分かっている。受験生 なのだから。だから情けないのだ。 晴れない気分のまま、増え始めた人の流れに沿ってクラス替え表 を確認に向かう。 3年の教室は一階のため、最後の一年は登下校に階段の上り下り が要らなくなる。 昇降口からの渡り廊下を曲がってすぐの2組の教室の壁に貼られ たクラス名簿をチラ見したが、赤い文字で書かれた女子の名前が多 かったので、そのまま1組の教室の前まで歩いた。 黒い字で書かれた名前が圧倒的に多い。理数クラスだろう。探す と僕の名前があり、尾崎やガクちゃんやまいちゃんの名前もあった。 平岡さんと同じ中学出身の杉野や、修学旅行で彼女たちと班行動し ていた久住くんや谷口くんの名前もあった。 2年の時に物理を選択していた2組と6組の男子が多いようだ。 3月に年にもなって、履修の必要がない人や苦手な人がわざわざ入 るクラスではないのだろう。 女子の名前は、サラッと見流しただけだけど知っている名前はな さそうだった。 第一、知っている女子の存在自体が少ない。 211 最初のクラスで自分の名前が見つかった以上、ウロウロと他のク ラスの名簿を見て歩く必要もない。 僕は廊下の喧騒を背にして1組の教室の中に入った。 教室の中は廊下とは対照的に静かだった。 とりあえず窓際の一番後ろの席を仮住まいにさせてもらうことに して腰を下ろす。少し経てば、ガクちゃんやまいちゃんも登校して きてこの教室に入ってくるだろう。彼らは予鈴ギリギリに登校して くるタイプではない。 ガクちゃんに│││久しぶりに会ってどんな顔しよう。 平岡さんにどんな顔しようかと考えるばかりで、ガクちゃんと会 う時のことを考えていなかった。同じクラスになることは、ほぼ予 想できていたのに。 あんなに時間はあったのに、まさに無意味な使い方をしただけだ った。 思春期が僕をバカにさせてるのか、それとも僕がデフォルトでこ んなもんなのか。いずれにしても、心の準備ができているのとそう でないのとでは状況がだいぶ変わってくる。そんなに器用ではない のだから。 今から間に合うか分からないけど、自然に、ごく自然に、おはよ うと言う準備だ。 ⋮⋮やっぱり付け焼きなんて都合のいいことを考えると、裏目に 出るもんだ。 まいちゃんが教室に入ってきた。入るなり僕を見つけて近付いて くる。 ああもう、どうにでもなれ。 ヤケクソの気持ちのまま、まいちゃんに挨拶を返すと﹁どうした の? 変な顔して﹂と怪しまれる始末。 ははは、いい調子。このままガクちゃんにも同じことを言われれ ばいい。 今日の僕が変なんだとオチを付けてよ。 212 チラホラと入ってくる男子の何人かとまいちゃんが会話を始めた。 2年6組で一緒だったのだろう。 僕は、彼らの横で会話を耳に流しながら窓の外に目をやった。 永田さんと歩く平岡さんを見つけて息を詰める。 こちらに気づきそうもなくてホッとするも束の間、後ろからガク ちゃんが近付き平岡さんの肩を叩いた。 健在の見事な表情だった。 いきなり後ろから肩を叩かれて驚く平岡さんの顔は、相変わらず 顔芸 そのリアクションを見て、ガクちゃんと永田さんがどっと笑う。 顔を赤らめながら、恨めしそうにふくれっ面をする彼女に二人が 一層笑う。彼女はそれを見て諦めたかのように照れ臭そうな表情を ガクちゃんに向ける⋮。 気持ちは切ないのに、状況の全てを表情の一つ一つで物語る彼女 に頬が緩む。 ホント、なんて可愛い人なんだろう。 最後の照れた微笑み。あんな顔で見つめられるガクちゃんは幸せ 者だ。 あんな顔にさせられてる彼女もきっと幸せなんだ。 ごちそうさま、ってこういう時に使う言葉なんだなぁ。そう体現 させられる瞬間だった。 それでようやく春休みの間、悶々と頭の中を回り続けた愚問が喉 を通ってストンと落ちた。諦めがつくというのはこういうことなん だ、と。 程なくしてガクちゃんが教室に入ってきた。 尾崎や杉野も入ってきて﹁メンツに変わり映えしないな﹂と笑い 合った。 まいちゃんやその近くにいた人たちとも話してみると、やはり彼 らは2年6組の面々だった。 213 女子同士は確執があったけど、男子同士はまったくと言っていい くらい、そんなものはなかった。 少し接してみれば、僕やまいちゃんと変わりない理数系にいがち な内向的気味でインドアな雰囲気の男子たちだった。6組の女性陣 の印象が恐烈、もとい強烈だっただけに、ちょっと気遅れしていた が、取り越し苦労だったようだ。 このクラスなら仲良くやっていけそうだ。仲良くっていうのは語 弊があるな。僕の方から社交的に行かない限り、たぶん友達と呼べ 絵菜がいるな。名簿見たか?﹂ えな るのはガクちゃんとまいちゃんだけのまま終わりそうだから。 かんざき ﹁そうそう、神崎 尾崎の言葉に杉野が何度も頷く。 僕だって名前くらいは聞いたことがある。1年の頃、クラスの男 子たちの間で話題になっていた名前だ。女クラにとんでもなく可愛 い子がいて、その人の名前が神崎絵菜ということ。 文化祭のMiss東高で二位以下に大差をつけて二年連続優勝し ているこの学校では知らない人がいないくらいの有名人だ。東京の モデル事務所にスカウトされてレッスンに通っているとか誰か言っ てたっけ。 阪井たちが騒ぐのですれ違った時に何度か見たことがあるけど、 女子の可愛さが県下一と噂される東高にあって芸能人じゃないかと 思うくらいの可憐さと輝きを放っていた。 噂をすれば何とやらで、神崎さんが教室に入ってきた。 毛先が綺麗にカールされた胸の位置くらいまである艶やかな髪、 丈を短くしたスカートから惜しげもなく晒け出された細い脚、濡れ るような長い睫毛に潤んだ唇。 女子とは正反対で垢抜けないと評判の東高男子の中でも選りすぐ りな理数系男子たちの巣窟の中に、場違いな異彩を放ちまくる。こ んな子が本当に実在するとは。掃き溜めに鶴とはまさにこのこと。 214 ﹁小池あたりが好きそうだよな﹂ 尾崎は皮肉っぽく笑い、それきり神崎さんの話しは終わった。 実際、2年2組にいた男子の大半は神崎さんにあまり興味がなか った。彼らのアイドルは平岡さんだったせいかもしれないが、神崎 さんの完璧すぎる美貌に近寄り難さを感じるという意見もあった。 田舎者が東京のど真ん中では萎縮するけど地方都市なら大丈夫と いうのと似ている感覚かもしれない。 もちろん平岡ならハードルが低いという意味ではない。平岡さん の丸い輪郭や丸い目、化粧もネイルもしていなくて制服も規定通り の飾らない素のままなところ、くるくる変わる表情に癒されたり親 しみを感じる男子は多い。 僕たちはモテないだけであって、ちゃっかり選り好みしているの だ。 そんなわけで、壁のクラス名簿を見流した時には神崎さんの存在 を気にも留めなかった。 そしてもう一つ、気がつかなかったのだけど、座席の大半が埋ま る頃には剣道部の久保さんの姿もあった。 たった五人しかいない女子の名前の中から知っているはずの久保 さんの名前を見落とすって、僕はどれだけ注意力が足りないんだ。 知っていると言っても話したこともないし、話す予定もないわけ なんだけど。岩崎さんたちみたいに僕のことは認識してないだろう し。 担任は1年の時の紺野先生だった。 新入生に声をかけるように弾んだ調子で名簿通りの席順に座り変 えるよう指示する。入学したての頃のデジャブのような光景。でも そこに富樫や浜島や柳瀬の姿はない。 ﹁そうそう、畠中ちゃん、平岡さん7組だってよ﹂ 椅子から立ち上がり際に僕の方を振り向いたガクちゃんが言う。 ﹁7組っていったら端と端じゃん。っていうか7組って何系クラス 215 ?﹂ ガクちゃんの隣りにいた尾崎が話しに食いつく。 ﹁さあ﹂ ガクちゃんは肩を竦めて、分からないというポーズを取って笑っ た。 そのまま彼らは、小池が何組になっただとか栗原さんが隣りのク ラスだとか話しながら各々の席について行った。 平岡さん7組なのか。離れちゃったな。 売店は二階の渡り廊下だし昇降口は2組の前だし、7組の前って あんまり行く機会ないよな。 進路資料室や図書室に行けば会えるかもしれないけど、そんな風 に友達の彼女に対して下心を抱くのはいけない。 また間男と言われかねないし、ガクちゃんにとっても気分のいい ものではないはず。 彼女の顔が見たいだなんて思うことさえ、ガクちゃんに対する裏 切りに等しい。彼氏の友達として笑顔のお裾分けをもらっても、心 の中でそれ以上の感情を抱いていたら、それは立派な裏切りだよな。 応援してる顔して、祝福してる顔して、僕はとんだ偽善者だ。 僕はずっと、いてもいなくても同じ空気のような存在だったはず だ。なのに、ここへ来て非常に中途半端な存在になってしまってい る。 いてもいなくても良かったが、今はいないほうが良い存在なのか もしれない。 きっといないほうがいい。 だけど、学校という箱庭からまだ今は去ることができない。 平岡さんがガクちゃんの彼女になったのなら、そうそう片想いを 続けるのも難しくなった。 たとえ心の中でひっそりと想っていることに変わりなくても、ガ 216 クちゃんを応援し平岡さんの幸せを願う立場としては本音と建て前 が違うことになる。 片想いは廃業しなきゃ。どのみち、向かうあてのない想いだった のだから。 だからこれまでよりももっと、ずっとずっと深くに彼女への想い を押し込めよう。本に挟んで追いやった写真のように。 しばらくは押し込めていることが、彼女の存在と結びついて彼女 への想いと錯覚するかもしれない。だけど習慣になれば、そこから 風化へと向かうはずだ。 そうしていつか、あったことすら忘れてしまおう。 好都合なことに、僕は受験生なのだ。 本来なら、不毛な想いに心を囚われている場合ではないのだ。 217 27 顔見知り以上、友達未満 五月が過ぎて中間テストが終わる頃には、クラスの中は受験ムー ドに染まっていた。 誰が貼ったのか、教室の後ろの掲示板には色々な大学のオープン キャンパスの告知や有名予備校の公開模試の日程表などで埋め尽く されている。 女子が五人しかいない1組は、2年の時のクラスとさほど変わら ない様相ではあるものの、更に偏った男女比でむさ苦しさは倍増し ていた。 おとなしい男子ばかりでも、やはりむさ苦しいものはむさ苦しい ようだ。これから梅雨を迎えたら、むさむさ蒸し蒸し暑苦しいこと 間違いない。 このクラスは女子もまた控えめな人ばかりで、神崎さんの存在が 唯一にして異質だった。 そんな神崎さんは、もう既にクラスの半数の男子を信者として取 り込んでいた。 予習復習もしっかりやって来るようで、授業の合間には近くの席 の男子に分からない箇所を質問している。ノートに向かって寄り添 った時に感じる彼女の甘い髪の匂いに昇天しそうだ、と体育の前後 の着替えの折に近くの男子が恍惚の表情を見せる。 谷口くんは言う。 ﹁あんなに可愛いのに誰にでも優しくて、平岡さんみたいだよなぁ﹂ 実際、似たようなことを言う男子も少なくない。 いやいや、それどころではない。 どちらも畏れ多いほど可愛いけど、神崎さんの可愛いさの方が洗 218 練されていると言う人が徐々に増えている。 そんな風に色めき立つクラスの過半数を尾崎や杉野が遠巻きに揶 揄する。 ﹁俺はああいうの好きじゃない。こんな可愛い私に話し掛けられて 非モテ男子諸君どうよ? って匂いが神崎絵菜からはプンプンする﹂ 尾崎がそう言えば ﹁平岡さんみたいだって? 一緒にする奴らの気が知れないよ。平 岡さんはあんな目のやり場に困るような短いスカート丈になんかし ない﹂ 杉野が続く。 平岡さん派の尾崎や杉野にしてみれば、可愛いという容姿で平岡 さんと神崎さんが一括りにされていることや、まして神崎さんと比 べて平岡さんが劣っているみたいに言われていることが面白くない らしい。 ﹁だからって神崎さんを悪く言うことないだろ。神崎さん本人には 全然罪はないんだから﹂ 今や平岡さん派の頂点とも言える彼氏のガクちゃんに諌められる ああいうの って言い方は、ちとヒドイな。神 と、尾崎も杉野も謹まないわけにはいかない。 ﹁女の子に対して 崎さん、尾崎の好きな女子アナ系じゃん﹂ ムキになって反論しようとした尾崎を意にも介さず、ガクちゃん は笑う。 ﹁こんなむさ苦しいクラスに神崎さんの存在が華を添えてくれてる のは間違いないんだし﹂ 確かにガクちゃんの言う通り、神崎さんがいなかったら留置所の ような雰囲気だったかもしれないと思う。もちろん留置所にお世話 になったことはないので、あくまでイメージだけど。もう少し近い 表現をするならば、映画に出てくる刑務所内の自習室や図書室のよ うな無機質な雰囲気だ。 219 彼らが平岡さんだ神崎さんだと話していると、噂をすればなんと やら。教室の後ろの扉越しに上体を傾けるようにして半分くらい姿 を覗かせる平岡さんがこちらに向かって遠慮がちに手を振っている。 同じタイミングで気付いた杉野が、ガクちゃんの肘を小突く。 彼女は僕にも目を合わせてくれて、丸い大きな瞳を細めて微笑む。 僕はなんとか口角だけを上げて軽く会釈をして応えた。3年になっ てからの定番のやり取り。笑顔のお裾分けにあやかる僕。これが僕 と彼女の正しい間柄なのだ。間柄なんて言葉を使うのもおこがまし いくらい。 急ぎ席を立って彼女のもとに走り寄ったガクちゃんに、彼女が笑 顔で何か話している。そこで僕は二人から目を離す。これも定番。 というか習慣。ジロジロ見るものでもないし、見ないくらいが丁度 いいに決まってる。 彼女への恋心も着々と封印が進んできて、並ぶ二人を見て胸がズ キズキすることもなくなっていた。 それでも反射的に二人から目を逸らすことだけは、習慣として残 ってしまっている。習慣というのは厄介なもので、吹っ切れたはず なのに、並ぶ二人を視界から遮断したいと一瞬だけ思うことさえ残 っているからタチが悪い。 あとはここを乗り越えれば僕の初恋はひっそりと終焉を迎えられ る。 ﹁お似合いだよなぁ。相手がガクちゃんじゃ嘆く気も失せるな﹂ 尾崎が杉野と顔を見合わせて溜め息をつく。 ﹁でもやっぱ、俺は神崎さんより断然平岡さんだな﹂ まあな、と合意して二人は笑った。 近くの席で聞こえていたと思われる久住くんも﹁俺も﹂という顔 220 で頷いてから、恥ずかしそうに俯いた。きっと修学旅行で平岡さん と交換したお守りを今も大切にしているのだろう。 昨年までは平岡さんのファンだった男子たちが、次々に神崎さん 旋風に呑み込まれていっている中、今でも平岡さん派を貫く僕たち の想いはまるで地縛霊だ。 身の置き場のない想いに深入りなんてするもんじゃない。ただた だ苦しいだけ。ここから動けない。少なくとも卒業するまでの間は。 だがしかし、悪いが僕は一足お先に成仏させて頂きます。 ヒーロー 平岡さんを見守るという、富樫に託された任務も何の役にも立た ないまま終わったし、何より彼女のそばには最高の主役が寄り添っ 友達 という同じカテゴリーに ている。僕の出る幕など、どこにもない。 2年の頃は、僕もガクちゃんも 入っていた。もちろん親しさの天秤の上で水平だったわけじゃない。 平岡さんにとって、ガクちゃんは友達の中でも彼氏になりうる友 達だったが、僕は元クラスメイトという位置に収まる以外の何者で もない。 無理もない。だいたい3年になってから彼女とは一度も言葉を交 わしていない。 彼女が富樫と付き合っていた頃のように、僕が間男だなんて噂が 立ってしまっては二人に申し訳ない。 それになにより、もう今の僕には彼女と話す口実も理由もない。 そして、3年になってからガクちゃんとの間で平岡さんを話題に することもめっきりなくなった。 それはきっと、ガクちゃんは彼氏だから。僕とは同等ではないの だ。 彼氏というのはやっぱり特別だ。たとえ二人の間で交わされる会 話が他愛もないものだとしても、それは絶対的に他とは違うのだろ う。 どんなに他愛もないものだとしても、二人の間で交わさた会話は 221 のろけ 二人だけのもの。友達とシェアする必要などない、ガクちゃんだけ のものなんだ。 ガクちゃんは惚気たり自慢したりする人じゃないから、彼女のこ とを話題にしなくなったのかもしれない。 いずれにしても、きっとそれは二人が幸せだという証拠なのだ。 彼女にとってガクちゃんは彼氏で、僕は顔見知り以上、友達未満 と、すっかりカテゴリー格差が開いてしまったが、僕たちが友達で あることは変わりなかった。 相変わらずガクちゃんは僕をライバルだといってからかう。英語 や現国では毎回ガクちゃんに点数負けてるんだけどな。 ﹁あの、東堂くん? ちょっといいかな﹂ 胸の前に問題集を抱えて躊躇いがちに声を掛けてきたのは神崎さ んだった。 昼休み、花札に興じていた尾崎、杉野、まいちゃん、ガクちゃん、 ビジターの小池が一斉に顔を上げた。 ﹁あ、ごめんね。お邪魔⋮、だったよね。積分計算でちょっと分か らない問題があって﹂ 薄紅梅色をした形の良い唇から、その唇のイメージ通りの甘やか な声が発せられる。 小池が分かりやすく見惚れていたのは言うまでもないが、杉野や まいちゃんまでもが一瞬放心していた。 いや、ガクちゃん以外のその場の皆が一瞬同じように神崎さんに 目を奪われた。もちろん僕も。 中でも尾崎の反応は、本人には悪いけど面白かった。 一瞬目を奪われ、すぐに我に返って眉を顰めるという心の中がダ ダ漏れの表情変化は、平岡さんに勝るとも劣らなかった。 222 ﹁俺で分かるかなぁ。ちょっと見せて﹂ 快く引き受けたガクちゃんに、神崎さんの表情がパアッと明るく なる。そりゃあもう神々しいくらいに。 小走りに外側を回ってガクちゃんの座っている席の前まで来ると、 その横で中腰になって問題集を広げた。 ﹁どうぞどうぞ﹂ 小池が椅子を差し出して彼女を促す。 ありがとう、と微笑まれて小池はギャグ漫画のように鼻の下を伸 ばす。のぼせた男が鼻の下を伸ばすのって漫画だけの世界じゃなか ったんだと、小池を見て初めて知った。 ﹁いつも訊いてる大塚や竹村でも解けなかった?﹂ 問題に目を通しながらガクちゃんが訊く。 ﹁うん。竹くんたちが、東堂くんなら学年トップクラスだから解け るんじゃないかなぁって﹂ た、竹くんですか。 ガクちゃんは普通に聞き流してるけど、そこ流すところじゃない よ。 クラスの中でも久住くんや谷口くんと一二を争うくらい、⋮いや ひと 三、四か。ええい、そんなことどうでもいい。とにかくクラス内で おとなしい順に数えた方が早い物静かな二人だ。他人のこと言えな いけど。 女子と話しているのはもちろん見たことないし、特定の仲間とし かほとんど喋らない。 そんな二人のうちの一人、竹村くんのことを﹁竹くん﹂って呼ん だんですよ、この女の子は。 ﹁そっかぁ。竹村たちも結構デキるんだけどなぁ。彼らが解けなか ったのが俺に解けるかなぁ﹂ 視線を問題集にロックしたまま、そんなことを呟いてシャープペ ンを走らせる。 223 よし、と言い、シャーペンの先でカツンと短く紙の上を打ってガ クちゃんが顔を上げた。 神崎さんは息を呑んで言葉を待っている。 そして丁寧に説明し始めたガクちゃんの顔と紙の上の回答を忙し なく見つめる。進行について行くのに必死な様子だ。 それを見て取ったガクちゃんが、ゆっくりと確認しながら続ける。 ﹁ありがとう。すごく分かりやすかった﹂ 一通り説明を聞いた後、神崎さんは緊張を解いたようににっこり と笑った。 ﹁また分からなくなったら訊いていい?﹂ じっとガクちゃんの目の中を覗き込むようにして彼女は小首を傾 げる。 ﹁いいよ。でも理数なら俺なんかより畠中ちゃんの方がデキるよ﹂ ガクちゃんは視線で僕を指す。 ﹁畠中、くん?﹂ まるで今まで見えなかった物が急に見えたようなキョトンとした 顔。仕方ないよ、存在感薄いから。 こういう反応、慣れてる。中学時代、なにかの係や委員になって いて呼ばれた時に、その口で僕の名前を呼んだ人が同じように僕を 見た。 こんな人いたかしら? 名前と顔が一致しないんですけど。 と、いうその顔で。 そして必要ない情報を消去するように忘れられた。 覚えてもらえてない分には一向に構わないんだけど、その顔で見 られた時にどんな顔すれば良いのかと毎回困るんだ。 気にしないでもらえると助かる。 しかし女子アナ級の美女に見つめられるというのは、非常に緊張 する。 224 平岡さんと目が合うのも緊張したのに、キョトンとしたまま僕を 見ているのは、二年連続ぶっちぎりでMiss東高に輝いてる神崎 さんだ。 だいたい注目されること自体が苦手なのだ。そろそろ我に返って 戴けないものでしょうか。このままでは窒息します。 ﹁あ、ごめんね。そっか、東堂くんよりデキるってことは数学は畠 中くんが学年一デキるってことだよね。それってどういうレベルな んだろうって考えたらびっくりしちゃって﹂ 神崎さんは明らかに即興な口実で一生懸命に取り繕った。 無理しないで。気にしないで。心置きなく僕のことは忘れちゃっ て。 二度寝みたいに意識の下に沈めちゃっていいから。 それにしても、高校生活の中で、僕の名前を口にする女子がもう 一人現れるとは。 しかも両者が東高屈指の美少女だなんて、これからの人生が搾り カスでしかなさそうに思えた。 225 28 強く美しい人 小雨がぱらつく土曜日の放課後、風で吹き込まれた雨に濡れたサ ドルを見て、僕は自転車で登校してきたことに後悔していた。 朝の天気予報でも午後からの降水確率は80%だと言っていたし、 少し考えれば充分に避けられる事態だった。だけど、午後からと言 ったからってお昼過ぎてすぐに降り出すわけじゃないだろうと甘く 見ていたのがいけなかった。 雨足が弱いうちに家に帰ろうと、サドルに散らばった小さな水玉 たちを拭いハンドルに手を掛けた。 ﹁おうおう、ちょい待ち﹂ いつの間に背後にいたのか知らないが、富樫が慌てて駐輪場の屋 根下に駆け込んで来て、僕の自転車の前籠に自分の鞄を放り込んだ。 東高は最寄りの駅からかなり歩く。駅まで送ってということなの だろうか。 ﹁あ、俺が前に乗るわ。畠中ちゃん後ろな﹂ 二人乗りは交通違反だ。ここ大事だから。 しかし何がなんだか分からないまま富樫の勢いに圧倒され、気付 けば富樫が運転する自転車の後ろに乗っていた。 ﹁ねえ、どこに向かってるの?﹂ 向かい風で流されて、声を張らないと富樫に聞こえない。 ﹁あ? 東雲総合体育館だよ﹂ 東雲総合体育館? ﹁今からなら第三試合くらいには間に合うからな。まぁ、おそらく 残ってるだろ﹂ 富樫が告げた行き先は、東高から自転車で北西に十五分ほどの総 226 合体育館。 今日は高校剣道女子の部の県大会で、会場が東雲総合体育館なの だろう。 ということは、富樫は平岡さんや永田さんたちの試合を観に行こ うとしているということだ。あんなに平岡さんと他人同士のような 振る舞いをしていたのに、急にどうしたのだろう。 三年になって、友達として再スタートしたのだろうか。とにかく 状況が呑み込めない。分かるのは、僕が平岡さんたちのいる場に連 れて行かれようとしているということだ。 何故こうも巻き込まれるんだ。一人で行けばいいじゃないか。剣 道部員なんだから。 小雨にじっとりと濡れて重くなった制服が肌に貼り付いて気持ち が悪い。 自転車で十五分の距離を富樫は十分かからず疾走した。途中、先 生や警察の人に見つからなくて本当に良かった。 帰りはこんな危険は冒したくない。 建物の外にも歓声や打ち合う音が聞こえてきた。 屋内に入ると、富樫は目についた違う高校の生徒に何試合目かな どと簡単に状況を訊いていた。 富樫に促されて、ひんやりする通路の突き当たりにある階段を上 り二階のバルコニー席の端から会場内を一望した。 ぐるりと見回すと僕たちの位置からは遠い、一番奥の左側に白袴 の女子たちの姿があった。 ﹁あれ東高だ﹂ 富樫が指差し、バルコニー席の下段へ降りずに東高女子チームが 見やすい位置まで移動して他校の生徒たちの後ろに座った。 ﹁男子の部は明日だから、柳瀬も浜島も今日は多分は稽古してる。 ついでに言うとアイツのファンクラブどももな﹂ 227 アイツのファンクラブども とは、剣道部の後輩男子たちのこ とだろう。彼らは今日ここに足を運ぶ可能性が低いと富樫は言って いるのだ。 大会の開催は毎回違う体育館や武道場で、今回会場になったのが 東高からほど近い東雲総合体育館なのだ。そして女子の部の日程が 土曜日に当たり、引退の年である3年の最後の大会を観ることがで きるということらしい。 ﹁畠中ちゃん、目悪かったっけ?﹂ どうやら、富樫は観に来たことを気づかれたくはないようだ。そ れなら僕も少し都合が良い。 ﹁両目1.5だけど﹂ 距離はあるけど、平岡さんの顔までバッチリ見えている。 白袴姿の彼女は、やっぱり美しい。 富樫が横目で僕の顔を見てニヤニヤ笑う。 ﹁今どき小学生でも両目1.5は稀少だろ﹂ 富樫が笑った理由が僕の視力のことじゃないような気がしたけど、 思い過ごしだったようだ。 入り口付近で知らない学校の生徒から訊いた話しによれば、これ から準決勝が始まるところで、白袴の高校││つまり東高は勝ち残 っているという。 騒めきと静寂が交互にやってきて、審判の人が動き出すと再び静 寂が訪れる。 前に座っている女の子たちの防具入れにオレンジ色の刺繍糸で須 賀浜高と書かれてあり、その横にそれぞれの姓が入っていた。 ﹁東雲東は副将の人が部長なんでしょ?﹂ ﹁私、名前覚えたよ。平岡さん﹂ ﹁先輩なのに失礼だけど、可愛いよね﹂ ﹁東雲東は大将の人もかっこいい﹂ 228 ﹁永田さんだっけ?﹂ ﹁いいなぁ、東雲東。私もあの人たちの後輩になりたかったなぁ﹂ ﹁学区、遠いもんね。こっちに友達もいないし﹂ ﹁あー、せめて一度くらい対戦当たったりして話せる間柄になりた かったなぁ﹂ 彼女たちの会話を聞きながら富樫は僕に耳打ちした。 ﹁なんなら紹介してあげましょうか? なんて言ってやりたいもん だよな﹂ タチの悪さは健在だ。少し窘めたい気分にもなったけど、富樫は 富樫らしくて、なんとなくホッとした。 会場内の空気が変わり、いよいよ試合が始まることが雰囲気で分 かる。 ﹁畠中ちゃん、剣道の経験は?﹂ ﹁中3の体育でほんのちょっとだけ﹂ ﹁じゃあ見たことは? 柳瀬とか。あ、永田姐さんと同じ中学だっ け。姐さん強かったろ。一度くらい見た?﹂ ﹁ううん、観るのは初めて﹂ ﹁そっか﹂ 富樫はまたニヤニヤと含み笑いをする。 それが気になって富樫を見ると、彼は白々しくも慌てて口元を引 き締める。目が泳いでることを指摘した方が良いのだろうか。 ﹁おっ、始まった始まった﹂ 誤魔化すように顔をニヤつかせながら、富樫は前方に視線を移し た。 面で顔が見えないけど、垂れには﹁斉藤﹂と書かれている。昨年 のクラスメイトの斉藤さんだ。俄然、頑張れという気持ちに力がこ もる。 準決勝ともなると相手チームも強敵のようで、先鋒の斉藤さんは 229 相手の先鋒の人に弾き飛ばされるように胴を決められてあっという 間に敗退した。 ﹁斉藤さん普段はもっと自分のペースに持ち込めるんだけどな。完 全に呑まれてたな﹂ 富樫が真面目な寸評を入れた。 次鋒も中堅も食い下がったものの惜しいところで敗退し、相手チ ームの先鋒を倒せないまま東高は副将の平岡さんの登場となった。 手拭いの中にきっちりと髪をしまい込み、面を被り、小手を留め る。その一つ一つの動作がとても綺麗に見える。息を呑むほどに。 ひいき目でなくても。 ﹁アイツの所作って綺麗だろ﹂ まるで僕の考えていることを見透かしたかのように富樫が小声で 言う。 驚いた僕に表情で﹁前の女の子たちの話を聞いてみろ﹂と語りか ける。 ﹁東雲東の平岡さん、やっぱ綺麗ねー﹂ ﹁絵になるわぁ﹂ 彼女たちも溜め息を漏らす。 平岡さんの試合は、とても美しくとても格好良かった。 僕は剣道のことはよく分からないが、女子の剣道の発声って﹁ギ ャー!﹂という奇声に近い雄叫びのイメージがあり、実際会場内の 他の試合で聞こえてきた声もイメージ通りだった。 けれど平岡さんの発声は、声割れも濁りもない澄んだものだった のにも驚いた。 彼女の動きは素早くて、相手の力量を推し測るように軽く鍔迫り 合いを交わしたと思ったら、瞬く間に胴と小手を奪った。 審判の判定旗が上がるのと同時にドッと歓声が起こる。 僕たちの前に座っている須賀浜高校の女の子たちだけでなく、会 場内のあちこちで平岡さんの試合は観戦されていたのだ。 230 ﹁ああ∼、格好良い!﹂ ﹁前の顧問が東雲東の副将は鶴の舞いのようだって言ってたよね﹂ 当然、須賀浜高校の女の子たちも興奮していた。 ﹁どう? アイツ格好良いだろ。俺みたいに卑怯な手を使わないし な。アイツの剣道の格好良さは、まだまだ序の口だけどな﹂ 富樫の言った通りだった。 先鋒で苦戦していたのが嘘みたいに、電光石火の如く平岡さんが 相手チームの大将まで倒してしまった。 相手チームの大将は大柄で、試合開始すぐは体格差で優勢したが、 平岡さんの軽い身のこなしに翻弄されて呆気なく一本負けをした。 綺麗に一本が決まった瞬間、会場内が割れんばかりの拍手と歓声 に包まれ、前の女の子たちも立ち上がった。 僕も身体中が痺れそうなくらい鳥肌が立ち、彼女の神々しいほど の美しさに動くことも出来なかった。 浜島や柳瀬から彼女が上手くて綺麗だとは聞いていたが、こんな に強く美しいとは思いもしなかった。 ﹁剣道部の後輩たちはアイツのルックスだけじゃなくて、ああいう 剣道に対する姿勢とか格好良さに心酔してるんだよ﹂ あの丸顔ベビーフェイスの彼女が。あの感情が顔にダダ漏れで、 ちょっとうっかり者の彼女が。こんなにも強く凛々しく格好良いな んて。 蹲踞をして一礼を済ませた平岡さんが面を外す。 以前、柳瀬が好きだと言っていた仕草だ。 湯気が上がりそうなくらい上気した肌、こめかみに貼りつく濡れ 髪、伏せられた瞳、少し笑んだ口元⋮。 彼女の全てが美しかった。 彼女のことを忘れようと誓った理性なんか、大気圏を超えて吹き 飛んで行ってしまいそうなくらい⋮、吹き飛んで粉々に砕け散って しまいそうなくらい、身体中の血が﹁彼女が好きだ﹂と暴れ出す。 231 会場内の歓声のように大きく騒がしく、彼女が好きだと僕の本能が 沸騰した。 ﹁じゃあ俺、帰るわ﹂ 立ち上がって膝を伸ばした富樫があくびをして背中を向ける。 ﹁え? だって、富樫﹂ 片手をズボンのポケットに入れてもう一方の手を振り、富樫は僕 の制止も聞かず歩き出す。僕も席を立って富樫を追いかける。 富樫は大袈裟にガッカリした顔を作ると﹁観ていけばいいのに﹂ とおどけた。 ﹁富樫が観ないなら僕もいいよ﹂ 実際、僕は部外者だし。 二人で階段を降り、雑踏の中を掻き分けて出口へと進む。富樫は その間、一言も喋らない。 平岡さんのこと、まだ好きなのかな。それともまた、彼女の光に 自分の影を感じてしまったのだろうか。 ﹁心配しなくていいから﹂ 出口で立ち止まった富樫が唐突に口を開いた。 空はすっかり明るくなっていて、雨は上がっていた。 足元のアスファルトはたっぷりと濡れていて、会場内にいる間に 雨足が強くなっていたようだった。 ﹁別にアイツに未練があって観に来たわけでもねぇし、格好良いア イツ観て自虐に浸りたかったわけでもねぇから﹂ ならば、どうしてわざわざ駅と逆方向の体育館に来たのだろう。 強引に僕を捕まえてまで。 本当は観たかったに違いない。彼女の高校最後の試合を。 一人じゃ見つかった時にバツが悪かっただろうし、たまたま自転 車という便利アイテム付きの友を見つけて、渡りに船だったのだろ 232 う。まったく素直じゃない男だ。 東雲総合体育館前のバス停に停まっていた東雲駅行きのバスが発 車の音を鳴らす。 富樫は簡単な挨拶だけを押し付けて、バスに乗り込んでしまった。 走り出すバスの窓から、体育館の中で見せたようなニヤニヤとし た笑みで富樫は残された僕に手を振っていた。 233 29 木に縁りて魚を求む 富樫に無理矢理付き合わされて平岡さんの試合を観た日、会場の 歓声と試合の興奮でなかなか寝付けなかった。 次の日が日曜で良かったと思うくらい。 あの後、東高女子は決勝も勝って県大会で優勝したらしい。関東 大会は勝ち抜き戦ではなく勝者数方式で、準々決勝で優勝候補の栃 木の強豪校と当たり、平岡さんと永田さんは勝ったものの、東高と しては惜敗に終わったと浜島が言っていた。 こうして彼らの高校での部活は終わった。 ちょうど引き継ぎのミーティングが行なわれたという日、自転車 で来ていたこともあり剣道部の部室の近くを通りかかった。 永田さんと共に防具の一式を肩に提げた平岡さんが下級生たちに 囲まれていた。 その中に富樫の姿はなかった。 一年の頃は彼らの輪の中にいつも富樫がいて、それこそ男女で和 気藹々と過ごす高校生活を夢見ていた男子たちの憧れの光景だった のに。 近くでは久保さんや柳瀬が色紙に寄せ書きをせがまれていたり、 下級生の竹刀の持ち手の部分にまで何かを書かされているようだっ た。心の中で皆に﹁お疲れ様﹂と言って、僕は帰途についた。 儀式のようなその日、きっと平岡さんに想いを伝える下級生もい たのではないかと思う。なんとなく。 平岡さんのことを好きであろう2年生の男子たちが何かのタイミ ングを伺っている様子が遠巻きに感じ取れたから。 234 ◇ 期末テストが終わり、面談が回ってきた。 一学期から解放されて夏休みを迎えるというのに、昨年までとは 空気が違う。 周囲の話題はどこの予備校の夏期講習に行くかとか、公開模試や オープンキャンパスのことばかり。 ﹁畠中ちゃんはどこの夏期講習を受けるの?﹂ まいちゃんや杉野たちからそんなことも訊かれたけど、正直なと ころ何も考えていなかった。 見えない何かにせっつかれて、押し出されるところてんのように 仕方なく進路だけは定めてはみたけど、希望や意思というには希薄 すぎて羅針盤が働かない。 目指しているのは国立大だしA判定が出ているわけでもないのだ から、モチベーションを持って受験に備えなければいけないとは思 いつつ、日々の予習復習で完結してしまっている。 本当にこんなんで受験するのだろうか。 周囲の雰囲気を見れば時期は刻々と迫ってきている実感はあるの だけど、僕自身が頭の奥でピンと来ないのだ。 面談は教室ではなく、教科棟の数学準備室だった。 教室棟から昇降口に抜ける渡り廊下は部活支度の下級生たちで賑 やかだったが、夏でも少し冷んやりとする教科棟の階段には数メー トル前までの雑踏はない。表面が摩耗して鈍い光沢を帯びたコンク リートの階段を上り、二階まで上りきったところで足を止めて、手 すりの隙間から無意識に上階を見上げた。 3年になってからは全然足を運んでいないけど、平岡さんは今も 進路資料室によく行っているのかな。ガクちゃんと資料室の模様替 えするって言ってたっけ。どんな風になってるんだろう。まだ二人 で模様替えが続いてるのかな。 そんなことを考えてしまった自分の女々しさを追い出そうと頭を 235 振った。 元々男らしくはないけど、いつまでもウジウジと情けない。 彼女のことを思い出す時、好きだという気持ちが剥がせないラベ ルのように付いて回る。五月くらいには順調に気持ちが風化に向か っていると思っていたのに、全然ダメだ。そもそも、何かにつけて 平岡さんを思い出すのは、風化できてないからなんだ。好きじゃな きゃ思い出したりしない。思い出に変わるには時間が短過ぎる。 観念してこのままウジウジと高校生活を過ごし切れば、望む望ま ぬに関係なくいつか思い出に変わる日がやってくるだろう。 面談の内容は当たり障りなく、模試のクラス順位は変わらぬもの の点数や偏差値は上がったことが告げられた。 また指定校推薦についての話も出てきて、理系は国公立の理工学 部が二枠と薬学部が一枠、国立二部の工学部が二枠、私大の建築系 と農学系がそれぞれ二枠ずつだということだった。 2年の時の江坂先生は、理系の指定校推薦枠は少ないと言ってい たけど、思っていたより多い気がした。 ﹁畠中の成績なら指定校推薦の校内選考にも充分クリアできると思 うけどな﹂ 僕の成績がプリントされたデータを見ながら紺野先生が独りごち る。 学校も学部も自分が志望校に定めている所ではなく、やりたいこ とも行きたい学校も特になくて無理矢理に志望校や志望学部を定め たこと自体が無意味だったように感じた。別に何でも良かったのな ら、無理して考えずに良い成績をキープして、指定校推薦枠の中か ら選べば良かったじゃないか。 なんだか今日は色々と虚しい。 236 ﹁やっぱり東都工業大か京浜国立大にこだわるか?﹂ 僕は頷けずに曖昧な苦笑を返すのが精一杯だった。 それこそまさに、仕方なく定めた進路だから。 ならば﹁特に都工や浜国にこだわっているわけじゃありません﹂ と言い切って、指定校枠の国公立の工学部のどちらかを狙えばいい じゃないか。そんな風に自分の心に訴えかけてはみても、何故か反 響がない。 どうして? 都工か浜国の機械工学にしようと決めてからも、そこに自分の願 望はなくフワフワしていたじゃないか。 いつか平岡さんに、機械工学が格好良いって言われたから? それとも彼女に機械工学を目指すと公言しておいて、今更﹁指定 校で行けそうな所があったから適当な所で手を打ちました﹂なんて 恥ずかしいから? 僕はバカだ。どうしようもないバカだ。 何故こんな時にこんなことで融通がきかなくなっているか自分で もさっぱり分からなかった。 サッコー ﹁都工や浜国希望ならセンター試験になるし、桜ノ宮高の上位でも 落ちるくらいの難関校だから安心はできないが、畠中の意思がそこ まで固まってるなら最後まで頑張れるだろう。指定校推薦の選考は 九月以降だから、またその頃受けてみようと思ったら申し出ればい い﹂ 紺野先生の力強い励ましと裏腹に、僕は終始虚しい気持ちのまま 数学準備室を退室した。 支離滅裂だ。 僕は何かにつけ考えが甘いと思い知らされた。 237 大切な友達の恋人になる彼女のことを好きでいることをやめよう と決めて、そうなると思ったのにこのザマだ。 進路にしてもそうだ。明確に決めないと、まるで高校を卒業させ 希望 扱いに据えたばかりに身動きが取りづらくなっている。 てもらえないかのように気持ちばかり切迫させて、希望でもないの に 下手な考え休むに似たりというが、休んでいた方がよっぽどマシだ ったと思えるくらいだ。 自分の浅はかさに嫌気がさして、唐突に屋上に上りたい気分にな った。腐った気分もろとも、浅はかさも情けない溜め息も屋上の風 に流してしまいたくなった。 階段まで辿り着くと階下には下りず、そのまま上へと足を向ける。 こんな些細なことでも、決まり切った行動しかしない僕にとっては ちょっとした冒険気分なのだ。 躊躇いの中に濃密な高揚感が媚薬のように流れ込んで軽いめまい を感じる。 ノブを廻すとギシッという硬質な音がして重い扉が動く。 風圧で本来の重さ以上の重量を感じるのも悪くなかった。 風圧に抗ってドアを押す手に力を込めると、小さなご褒美のよう に心地良い風が出迎えてくれて、僕はそれを享受する。 ﹁怒ってますよね﹂ 貯水タンクの網越しに女子の声が聞こえた。 先客がいたとは思いもしなかったのでその声に驚き、誰かが来た と気づかれないうちに退散しようと静かに踵を返しかけた。 ﹁別に怒ってねぇし﹂ 男子の声に聞き覚えがあり、反射的に足を止めてしまった。 ﹁マユ先輩を使って呼び出したこと、ごめんなさい。そうでもしな いと、先輩は来てくれないでしょう?﹂ ﹁こんな所に呼び出さなくても、用があるなら道場にいる時に言っ 238 てくれればよかったのに﹂ ﹁⋮道場で、他の人もいる所で、言っても良かったんですか? 薄 々感づいてるくせに意地悪言うんですね。そうされて困るのは浜島 先輩の方じゃないですか? だって浜島先輩、ずっとマユ先輩のこ と好きですよね?﹂ 泣きそうな感情を封じ込めるように強い口調で女の子が詰る。 ﹁そんなんじゃねぇから﹂ 浜島、そりゃあないって。 顔を見なくても声だけで渾身の勇気を振り絞ってるのが分かるく らいなんだ。真摯に向き合ってあげるのが先輩というものじゃない のか? 女の子は剣道部の後輩なのだろう。浜島のことが好きで想いを伝 えようとして、平岡さんに頼んでここに浜島を呼び出したという状 況のようだ。 彼女にとっては、これ以上ない大事な局面のはず。傍聴者がいて 良いはずがない。できるだけそっと足を進め、音を立てないように ドアノブに手をかけた。 ﹁それでも好きって、おかしなことですか?﹂ 退室しかけた時に彼女の放った言葉の衝撃に息が止まった。 ﹁好きな人がいるのに私の想いを汲んで下さいとは言いません。で も意識して欲しかったんです。私が浜島先輩を好きだと思ってるこ と。浜島先輩をそういう風に見てるって、浜島先輩に知っていて欲 しかったんです﹂ 潔ささえ感じるくらい、彼女の告白は清々しかった。 その後、二人の間でどんな会話がなされたのか、浜島がどんな反 応を示したのかは分からない。ただ、僕が一階の渡り廊下に差し掛 かった時に、後ろからパタパタと疾走する足音が聞こえて、2年生 の校章をつけた女の子が長めの髪を振り乱しながら中庭を突っ切っ て行くのを見た。 239 その女の子は手の甲で頬のあたりを拭っていたので泣いていたの かもしれないが、その横顔は不思議と悲しそうにも嬉しそうにも見 えなかった。 想いを伝えること自体が彼女の望みだったのかな。自分の好きな 人が別の人を好きだと分かっていても、想いを伝えたいものなんだ ろうか? 彼女は言っていた。自分が浜島のことを好きだと思っていること を知って欲しかった、と。それはどういう意味なんだろうか。 例えば浜島が彼女の想いを知って、その想いに応えられないこと を申し訳なく思ってよそよそしい態度になってしまっても後悔はな いと言えるのだろうか。 僕なら無理だ。僕が平岡さんのことを好きだと平岡さんが知れば、 きっと困惑するに違いない。 私なんかを好きになってくれてありがと なんて社交辞令を言うだろう。だけど頭の中にはガクちゃんが 優しい彼女のことだ、 う よぎるだろうし、僕との接し方も悩むに違いない。それならばいっ そ、僕の気持ちも僕のことも全部忘れて欲しい。 彼女を困惑させるくらいなら、彼女の記憶に残らなくていい。 それでも好きって、おかしなことですか? なのに何故、あの女の子の言葉が頭の中をグルグル回るんだ? 僕は一体どうしたいっていうんだ? 240 30 誘惑の甘い花 二学期が始まって少し経った頃、僕の身の回りにもわずかな変化 が起きていた。 夏休みが終わり、僕たちは呪われたように急速に臨戦体勢へとシ フトしていた。 そんな中での変化、これは一体どうしたものなのかと我ながらい まだに状況が呑み込めない。 1組のマドンナ神崎さんは、以前ガクちゃんに教えてもらった数 学が余程分かりやすかったようで、それからも時々問題集を抱えて はやってきてガクちゃんに教わるようになっていた。 元々彼女に数学を教えていた大塚くんや竹村くんは、鞍替えされ た形になり、恨めしそうな視線をこちらに向けていて、なんだか気 の毒だった。 もちろん、そんな空気を察しないガクちゃんではない。彼は神崎 さんを慕う他の男子たちに気兼ねして、神崎さんが問題集を机の中 から取り出そうとするタイミングで教室を出て行くことが多くなっ た。 スポーツ万能で周囲に気が利く人なんだけど、どういうわけか割 とそういう面は鈍くて逃げ遅れることが多かった。そんなガクちゃ んもだいぶ感覚を掴んだようで、最近は間一髪で逃げおおせている が、その時の逼迫した顔ったらない。思わず見ているこっちが笑っ てしまいそうなくらい堅い表情をしているのだ。 神崎さんをうまくかわして教室を脱出したのを見届けた時は、心 の中で﹁セーフ!﹂と言いたくなる。 241 しかし、神崎さん目当てで小池がわざわざ1組まで昼食を食べに 来る。小池はガクちゃんがいれば近くに神崎さんが来て話し掛ける 口実ができるからと、ガクちゃんが逃げるのを阻止するのだ。 これにより小池は徐々に神崎さんとの距離を縮め、ガクちゃんも ガクちゃんで小池が神崎さんと談笑し始めた隙に逃げるようになっ ていた。 今日もガクちゃんはラグビー部の仲間たちと学食に行くと言って 教室を抜けていった。 ガクちゃんが出て行ってしまったところに、タイミング悪く神崎 さんが現れた。彼女はお目当てのガクちゃんがいないことに、ひど くガッカリしていた。小池も来ていなかったので、誰に声を掛けよ うか思案している様子だ。 その様子を見たまいちゃんが、さすがに何か言ってあげなきゃと 思ったらしい。 ﹁畠中ちゃんでも代わりになると思うよ﹂ 唐突に口添えして、僕に丸投げした。そして旧6組男子たちと売 店に行くと言ってそそくさと席を離れてしまった。 まいちゃんだってガクちゃんと一学期の期末テストの点数競って たくらいなんだから、まいちゃんこそ教えてあげれば良いのに。 まいちゃんも女子と話すのが苦手だ。うまい具合に僕に押し付け て逃げて行く。そんなまいちゃんを恨めしく睨んで、後日絶対に文 句言ってやると心に誓った。 ﹁じゃあお言葉に甘えて⋮、畠中くん、教えてもらってもいい?﹂ 初めてガクちゃんにそうした時のように彼女は遠慮がちに僕に尋 ねた。 僕はこういう時に断る言葉を知らない。というより、こういう状 況自体が初めてだ。 242 神崎さんも悪い子ではないし│││悪い子どころか学校一の美少 女にして勉強熱心なわけで│││そんなクラスメイトが分からない 箇所があると困っているなら力になるのは人として当然のことだ。 僕が女子と話すことが苦手だという事情など言い訳にならない。 ﹁えっと⋮⋮、どれ?﹂ 僕が言い終わらないうちに神崎さんは花が咲いたように顔を綻ば せた。花びらが舞い踊る背景まで付きそうなくらい。こんな顔され たら、女子と話すのが苦手だという理由で断りたかったことが後ろ めたい気分になる。 ﹁右のページの二番目のやつ﹂ 神崎さんは僕の座っている席を向かい合って挟む感じで机の前に 立ち、問題集を僕の方に向けるとそこに屈んで机の縁に両手を組ん だ。花のような甘い香りが鼻腔に溢れかえる。 ﹁これ最初どう解こうとしたの? 因数分解できるところまでやっ てみた?﹂ 問題集ばかり見ていたので、神崎さんに質問しようと顔をあげて、 僕は椅子から転げ落ちそうになった。 一緒に問題集に集中しているはずだと思っていた神崎さんが、机 に添えた手に顎を乗せた姿勢でじっと僕の顔を覗き込んでいたのだ。 僕たちは見つめ合った形になっていた。 学校一の美少女と言われた神崎さんの顔が目の前にあって、しか も見上げるような上目遣いでまったく目を逸らそうともしないから、 僕はどうしようもなくパニクった。 ﹁あ、あのさ、聞い⋮てた?﹂ 恐る恐る声を掛けてみる。一瞬で身体の中が沸騰してしまったみ たいな緊張で口の中はカサカサだった。 ﹁あ、ごめん。ちょっと違うこと考えてた﹂ 悪びれもなく神崎さんは答えたが、真っ直ぐに僕を見続けている。 眉一つ、頬一つ動かさない彼女の表情からは何も読み取れない。 243 僕は慌てて目を逸らし、咳払いを一つして気持ちを落ち着けた。 ﹁それじゃ、最初からね。神崎さんが始めに解こうとし⋮⋮﹂ ﹁畠中くんて綺麗な顔してるなぁって﹂ 何か考えるより先に顔が火照った。 僕自身が炭酸泉の温泉になってしまったみたいに身体中が暴発に 近い沸騰を感じた。もはや咳払いなんかで冷静になれる域ではない。 咳払いしようものなら、身体の中で沸騰しているものがすべて噴出 してしまうかもしれない。 ﹁ぼ、僕はそ、そんな全然。ガガガガクちゃんや、おっ尾崎に比べ たらっ⋮﹂ ﹁ねぇ、どうしてそんな風に言うの? 誰かと比べる必要ってある ? そういうのって、なんだか話題を他人に逸らそうとしてるよう に感じる﹂ 他人に逸らすもなにも、数学の問題から話しを逸らしてるのは神 崎さんじゃないか。そう思っているのに身体中が沸騰して痺れて言 葉にならない。 故意的に小首を傾げて、綺麗な顔で僕の目を覗き込んでくる。 ひいっっっ、美しさに瞬殺される! 助けを請うようにまいちゃんを目で探す。まだ戻ってきてくれな いのか。杉野は? 尾崎は? 窓の外、少し遠くにボールを蹴って遊んでいる小池、尾崎、杉野 たちの姿が見えた。 ﹁ごめんなさい。生意気な言い方して。でも、打ち解ける日が来る のをただ待ってたって、何もしなければそんな日は絶対に来ないで しょ。だから私はせっかく縁あって同じクラスになった人と、仲良 くなれる日をあてもなく待つだけで終わらせたくない。東堂くんや 畠中くんや米原くんたちとも仲良くなりたいの﹂ 女子に理詰めで出られて勝てる男なんてそうそういない。喋って 244 いることを情報処理するのでいっぱいいっぱいだよ。まして理系男 子ともなれば尚更だ。 こんな分が悪い状況で、問題集の説明に話しを戻そうとしたって、 そんなことに何の意味もない。 言葉は出なくても、それくらいの判断能力はある。 ﹁私って思ってることをすぐ口に出しちゃうの。クラスの皆と仲良 くなりたいのも本当。勉強について行けるように頑張りたいのも本 当。間近で見た畠中くんの顔が綺麗だと思ったのも本当﹂ この人は⋮⋮、神崎さんは、綺麗だと言われ慣れていて、そうい う言葉に麻痺しているに違いない。そうでなければ、いくら彼女が 思ったことを何でも口に出してしまうからといって、簡単に他人に 言える言葉ではない。 神崎さんにとっては、息をするのと同じくらいどうってことない 言葉かもしれないけど、言われるほうは息ができないのと同じくら いどうってことあり過ぎるのだ。 ましてや非モテ男子の東高の中の更に非モテ層なんですけど。 ﹁きっと、こんなだから警戒されちゃうのよね。皆と仲良くなりた いだけなんだけど。後先考えずに思ったことを言っちゃうの直せな くて﹂ ︱良い子ぶってるってダメ出しされても、直せなくて。 不意に降りてくる。違う声、違う口調。 ﹁どうしたの? 具合でも悪くなったの?﹂ 声を目を開くと、神崎さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。 おろしていた腰を上げて、さっきまでよりも近い目線で。 ﹁いや、あ、ううん。大丈夫。ちょっとクラッとしただけ﹂ 目の前にこんな美人がいるのに、ジッと見つめられたらパニクっ 245 てしまうくらい超絶美少女なのに。何か考える余裕なんかないくら い緊張してたはずなのに。 どうかしてる。まるで悪い冗談だ。 ﹁そう⋮? 大丈夫なら、いいんだけど﹂ なおも心配そうに、眉毛を下げて見つめる彼女。 あ、そうだ。こんな時こそ彼女が分からなかったと言って持って きた問題の説明に戻れば、この流れも変えられる。 ﹁えっと、問二だったよね﹂ ﹁いいの﹂ ﹁えっ?﹂ 気分を悪くさせてしまったのだろうか。具合が悪いのかと心配さ れているのに、平然と問題の説明に戻りましょうなんて、やっぱり 失礼だったのかな。 ﹁いいの、今度で。今日は畠中くんと話せたから、それだけで﹂ 神崎さんは右眼の少し上で分かれている前髪を流すように細い指 先で払って微笑んだ。 彼女の言っていることがさっぱり分からない。日本語だってこと は分かるけど、言っている意味が全然理解できない。 ﹁じゃあね﹂ 神崎さんは僕の机の上に置かれた彼女の問題集を手の中に収め、 どことなく満足そうな含みのある笑みを残したまま自分の席へと戻 って行った。 残された僕が呆気にとられたのは言うまでもない。 彼女が背を向けた瞬間、緩くカールされた毛先が舞い、甘い残り 香が彼女が残した甘い笑みと重なってメロウな気分にさせられた。 お酒なんて飲んだことないけど、ほろ酔いってきっとこんな感じな んだろう。 だけど、こんな時でさえ僕は平岡さんの髪の香りを思い出す。一 246 年も前の、ほんのわずかな記憶なのに。 この先どこに行っても誰と出会っても、思い出してしまうのだろ うか。 あんな些細な一言から平岡さんとの記憶を引っ張り上げてしまう なんて、ここまで来たらまったく関係ないものを見聞きしても強引 に平岡さんを連想するんじゃないかと怖くなる。 好きでいてもツライ。忘れることも苦しい。 この なんて簡単に言うんだよ。 なんなんだよ。どうして皆、恋なんてこんな││好き好んでこん 恋がしたい な苦行の道に飛び込むんだよ。 どうしてみんな 恋なんて苦行でしかないじゃないか。 この苦行の道は、いつドロップアウトできるんだ。 時が経てば解決するの? あとどれくらい? いつから痛みを感 じなくなり、いつから思い出さなくなるの? 出口なんか見つからない。 247 31 自滅的ツークツワンク ﹁はい?﹂ ﹁だから、ガッくん﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ダメ? なんて呼んでも構わないって言ってくれたよね?﹂ ﹁まぁ⋮、言ったけどさ。普通で良くない?﹂ ﹁ガッくんね!﹂ ﹁⋮はあ﹂ 付けは失礼﹂だとのこ 背中で両手を結んだ神崎さんが楽しそうにくるっと回る。 ちゃん ガッくんとは、ガクちゃんのことだ。 神崎さん曰く﹁同じ年の男子に と。女子の方が精神年齢が高いという青少年期の女子の自負から、 男子を子ども扱いしている表れのようで抵抗があるという神崎さん の持論による理由だった。 ﹁いや、俺は気にしてないんだけどね。ちゃん付けだから子ども扱 いされてるとか思ったこともないし﹂ ﹁はい、ぶつくさ言うの終わり! なんでもいいって言ったのガッ くんだよね﹂ そう言われるとガクちゃんも返す言葉がないみたいだ。神崎さん の気が変わってくれないものかと、本人を目の前にボヤいてみたも のの、あっけなく却下されて終わった。 ﹁米原くんは、カオルくん。畠中くんは秀悟くんね﹂ は、はいぃぃぃ!? しゅっ、シューゴくんですとぉぉぉ!? 昼休みじゃなくて良かった。昼食中じゃなくて本当に良かった。 もし昼食中だったら、食べ物であろうが飲み物であろうがもれな く喉に詰めていたに違いない。 248 ﹁あのさ、なんでわざわざそんな風に呼ばなきゃいけないの?﹂ くん 呼び さん 呼びは、心の距離 やっぱり腑に落ちないガクちゃんがダメ元でもう一押し食いさが る。 ﹁ニックネームです。姓の を縮めません。私の呼び方は強要しないので姓で呼んでくれて構わ ないけど、私は皆さんをニックネームで呼びます﹂ 少し得意気に胸を張っておどける神崎さんに、僕たちは圧倒され つつ言葉を失っていた。 秀悟くんなんて呼ばれたことない。 美帆はどうだったかな。今は﹁あんた﹂だけど、小さい頃は﹁秀 ちゃん﹂だったような⋮。 同年代の女子に名前で呼ばれる日が来るなんて思いもしなかった。 天変地異だ。 けど、やっぱり馴染まないし、自分が呼ばれているような気が全 然しない。 ﹁尾崎くんはヒロくんて⋮﹂ ﹁名前で呼んでいいなんて許可してねぇし﹂ 上機嫌のまま次々に話しを進めていく神崎さんを尾崎が遮った。 拒絶と見て取れるほどの態度で。 ﹁悪りぃけど、俺、彼女いるんで。他の女子に名前呼びされるとか マジで無理。彼女が他の男に名前呼びされてたら嫌だし﹂ ﹁そっか、そうだよね。ごめんね。じゃあ尾崎くんのことはザッキ ーって呼ぶね﹂ ﹁⋮勝手にどうぞ﹂ 呼ぶ機会があればね、と尾崎の伏せた瞳が語っていた。 これだけ邪険にされたら、神崎さんだって尾崎には声を掛けにく いだろう。 しかし神崎さんて可憐な見た目に似合わずたくましい。 249 目の前であんな言い方をされても怯まずに、更には別のニックネ ームを提示してくるのだから。打ち解ける日が来るのを受け身で待 つのは嫌だと言っていた気持ちの現れなのか、彼女は本当にクラス の男子の誰に対しても積極的だ。 何か をうまく こういう所が平岡さんとの共通点だと思われるのかもしれない。 だけどうまく言えないけど、何かが違う。その 説明できないけど。 ﹁尾崎、彼女いたっけ?﹂ 神崎さんが竹村くんたちの方へ行ってしまうのを見計らってガク ちゃんが訊いた。 ﹁いねぇよ。見りゃ分かるだろ﹂ ﹁いや、出来たのかなぁって思って。さっき彼女いるって言ってた し﹂ ﹁あの女、ああでも言わなきゃしつこいだろ。自分がこの上ない提 案をしてるつもりなんだぜ? いい迷惑だよ﹂ ﹁慣れない呼び方される違和感はあるけど、別に迷惑とまではいか ないだろう。差別的なニックネーム付けられてるわけでもないし﹂ ﹁ガクちゃんて、なんでそんなにお人好しなんだよ? 嫌なものは 嫌。俺はそれだけだから。まいちゃんも畠中ちゃんも嫌ならハッキ リ言ってやった方がいいよ﹂ 尾崎はガクちゃんを促して憤然と教室を出て行き、残された僕と まいちゃんは顔を見合わせた。 どちらのいうことも一理ある。 ガクちゃんが言うように、悪意あるニックネームを付けられてる わけでもないし、拒否する理由も特にない。 尾崎のように嫌なものは嫌だとハッキリ断ることも大切だと思う。 だが、果たして嫌なのかと考えると分からない。 250 ガクちゃんが言った通り、慣れない呼び方への違和感くらいなも のじゃないかとも思う。 もし嫌だとして、一体どんな理由が付けられだろう。 尾崎みたいに彼女がいるという口実を作る? バレバレの嘘で、それこそ笑い者だ。誰もが﹁おまえの分際で﹂ と思うに違いない。 好きな子がいるという口実を作る? 思いも通じてない相手に義理立てして名前で呼ばれたくないとか、 自意識過剰もいいトコだと引かれるのが目に見えてる。さすがにそ んな嘘は恥ずかしい。 やはりイタズラ天使のような神崎さんの起こしたつむじ風におと なしく巻き込まれておくのが一番自然な形なんだろう。 尾崎とガクちゃんが出て行ったあとを追うように、僕とまいちゃ んと杉野は化学の授業のため教科棟の化学実習室へと渡り廊下を歩 いた。 ﹁いきなりカオルくんとか言われてもさぁ、そんな風に呼ばれたこ とないし﹂ 歩きながらまいちゃんまで愚痴る。嬉しかったのか恥ずかしかっ たのか分からないけど、顔が赤い。耳まで真っ赤。 僕だって愚痴りたい気持ちはある。だけど特別に困るわけでもな いし、支障がないから言うに言えない。 ふと楽しそうな笑い声に目を向けると、反対側、後半クラス側の 渡り廊下に男子三人、女子二人のグループが僕たちと逆の方向に│ ││教科棟から教室棟に向かって│││歩いている。二人の女子の うち一人は平岡さん、もう一人は⋮いつだったか見たことがあるよ あんざい うな人だった。 ﹁安斉だ。アイツ、まだ平岡さんのこと好きなのかな﹂ 杉野が言う。男子のうちの一人は安斉という人で、平岡さんじゃ 251 はやさか ない方の女子は早坂 りん 凛さん、二人は平岡さんと同じ新桜ノ宮中の おのはら 出身らしい。あとは1年の時に同じクラスだった阪井と、もう一人 は昨年のMr.東高で準優勝したという小野原というバスケ部の男 子だ。 こちらに気づいた阪井が片手を上げて挨拶してきたので、僕も軽 く手を上げて阪井に応じた。 気づいた平岡さんと目が合い心臓が痛いくらいに音を立てる。や っぱりこの痛みは、神崎さんのどアップにドキドキしたのとは種類 が別物だと思い知らされる。 彼女はいつもしていたみたいに少し驚いた顔をしてから、ほんの 一瞬、まばたきするほどの短い瞬間、すっと感情の扉を閉ざした。 そしてすぐに笑顔を作って僕たちに軽く会釈をして過ぎて行った。 あれ? 僕、彼女にあんな顔させるようなこと、何かしただろうか。 確かに心密かに彼女に想いを寄せ、心密かにその想いに終止符を 打とうと格闘した。 けれどそれは、すべて僕の内側でのこと。彼女には無味無臭無傷 無害無影響で、僕の中のみで行なわれていたことだ。 なるべく会わないようにしているとはいえ、昇降口や廊下でばっ たり会ってしまえば、極力平静を装って会釈や挨拶を交わしている つもりだ。 ほんの一瞬の、あの彼女の表情は何だったのだろう。進路のこと で何か行き詰まっているのだろうか。 でも今は彼女のそばにはあんなに楽しそうに笑い合うクラスメイ トがいて、その上恋人は優しくて頼りがいのあるガクちゃんなのだ。 ⋮⋮だから僕が何かを気にしても仕方がないことだ。 252 喚び起された胸の甘苦しさに翻弄されて、彼女の表情の変化を気 にするなんて、どうかしてる。 たとえ彼女が一瞬表情の扉を閉ざした理由の一端が自分にあった としても、それを気にする資格なんてない。 彼女のことは何とも思わないと決めたのだから。 ﹁秀悟くん!﹂ 聞き覚えのある声に振り向く。声の主に覚えがなければ、追いつ かれるまで気づかなかっただろう。呼ばれ慣れない呼び方に、自分 が呼ばれているなんて思いもしないから。﹁教室にペンケース忘れ てた!﹂ 息を切らして神崎さんが走って来た。 ﹁あ、ありがとう。走らなくても良かったのに﹂ 行き先は皆、化学実習室なのだから。 だけど、僕なんかのために息を切らすくらい走って来てくれたこ とが申し訳なくて、そして嬉しかった。 ﹁ごめん、先行くね。私、ガッくんに化学のノート借りっぱなしだ ったの。それ返さなきゃ﹂ 僕にペンケースを渡し、ホッとした顔をしたのも束の間、神崎さ んはまた慌てた顔をして忙しく走り去って行った。 尾崎は悪く言うけど、些細なことにも一生懸命で慌てん坊で、真 っ直ぐな子なんじゃないだろうか。 ﹁やっぱりスカート短すぎるよ。香水もつけ過ぎ﹂ 杉野が眉を顰めた。 ﹁なぁ畠中ちゃん、神崎さんと平岡さんのキャラが比較されたり被 ってるって言われたりしてるけど、あの二人の決定的な違いって何 だと思う?﹂ 僕は首を傾げた。隣を見れば当然まいちゃんに分かるはずもなく、 俺の方を見ても⋮という顔をされた。 253 ﹁配慮だと思うんだよ、俺は。平岡さんは誰とでも仲良く話すけど、 強引に相手の領域に踏み込んだりしない﹂ 杉野の言葉にハッとする。 彼女││平岡さんは、いつも考え過ぎるくらいに他人の都合や状 況に気を配っていた。 駐輪場で僕に初めて話し掛けてくれた時も、声を掛けて良いもの かという戸惑いが見て取れた。彼女は人懐っこそうに見えて、いつ でも誰に対してもそうだった。 の殻なのかもしれない。 それが良いのか悪いのかは分からない。彼女自身が気にしていた 優等生 また神崎さんがクラスメイトと打ち解けようとする積極的な姿勢 が悪いというわけでもないと思う。神崎さんは神崎さんなりに一生 懸命だ。 ﹁畠中ちゃんも神崎さんに傾いた?﹂ 杉野が吐き捨てるように呟く。 チャイムが鳴り、僕たちは小走りに化学実習室へと急いだ。 平岡さんにとって僕は昨年のクラスメイトなんだ。今は3年7組 のクラスメイトたちとあんなには仲良くやってる。 そして僕にとっても彼女は昨年のクラスメイト。それ以外の何者 でもない。なりようがないのだから。 神崎さんもそうだ。3年1組のクラスメイト。それだけ。 傾くも傾かないもない。 ただちょっと、今はまだ、想い続けた習慣が残ってしまって、忘 れるまでに時間が掛かってしまっているだけ。 ⋮⋮⋮なんて。 いつまで自分に苦しい言い訳を続けるつもりなんだろう。 ことあるごとにウジウジと感傷に浸ってるくせに。 254 どう抗っても平岡さんのことが好きなんだと、とっくに気づいて るくせに。 今だって、一瞬だけど彼女が感情の扉を閉ざしたことが気になっ て仕方ないくせに。 神崎さんに傾いたかって? 傾くわけないだろ。 そりゃあ女子に免疫ないのにあんな綺麗な子に話し掛けられたら ドキドキしてしまうけど、ただそれだけ。それ以上でもそれ以下で もない。 他の子に傾くことができるくらいなら、こんなに苦しくなんかな い。 実習室に滑り込むと、先生はまだ来ていなかった。 邦成大の赤本の問題をノートに解いているガクちゃんの前まで近 付いて声を掛ける。 ﹁この授業終わったら││昼休み││、平岡さんと話して来てもい い?﹂ ﹁? いいも悪いも⋮。いいに決まってるだろ、あんなに仲良かっ たんだから﹂ ﹁ありがとう﹂ ﹁いや、ありがとうって。あのさ、﹂ ガラガラとドアの音がして先生が入って来た。 急いで席に着き、勇み足な気分でソワソワしながら授業を受けた。 ガクちゃんにああは言ったけど、僕は彼女と何を話すつもりなの か自分でもよく分からなかった。 ただどうしようもなく、堰を切ったように彼女と話しがしたいと いう気持ちが溢れ出た。 もちろん、どのツラ下げて彼女の前に出られるものかと不安がな いと言えば嘘になる。 だけど僕にしては珍しく、そんなことは後で考えれば良いとしか 255 思えなかった。残念ながらやっぱり浅慮だ。 チャイムが鳴ると同時に教科書や筆記用具を掻き集めて立ち上が る。 後ろでガクちゃんや神崎さんが呼ぶ声がしたけれど、急ぐ気持ち に戸惑う体のアンバランスから何度も足を縺れさせながら7組の教 室に向かった。 256 32 青春ごっこ 前にもこんなことあったな。 平岡さんを避けてしまったことを悔いて武道場に引き返したっけ。 浮かんで来た記憶に今この瞬間の自分の愚行が重なって、皮肉めい た笑いが込み上げてくる。 まったく、何やってんだろう。 気付いていることに目を逸らして、後悔して│││まるで一人青 春ごっこだな。恥かしいし、腹立たしい。こんな茶番劇に付き合わ される相手が気の毒だ。 そう思いながらも、平岡さんがほんの一瞬見せた表情を確かめた かった。確かに彼女はあの時、感情を意識の奥に押し込めるような 表情をした。本人は気付いていないかもしれないけど、昨年何度も あんな顔を見てきてずっと気になっていたことだから間違いはない。 教科棟の階段を降りて渡り廊下に差し掛かると、昼休みのいつも の喧騒が僕を平常心に戻す。たくさんの色の氾濫が満ち潮みたいに 視界に押し寄せて、暴走しかけたアドレナリンを覆い鎮めた。 軽く呼吸を整えてから、中庭を抜けて7組の教室を目指す。 よそのクラスに女子を訪ねて行くなんて初めてだ。 誰に呼んでもらおう? やっぱり阪井かなぁ。 そんなことを逡巡していると後半クラス側の渡り廊下から平岡さ んが出て来た。四時間目の前に一緒に歩いていた早坂さんという女 の子と一緒だ。 二人はジュースの自販機に向かっているようだった。 ﹁あ⋮﹂ 257 目が合った瞬間、平岡さんは小さく声を上げた。 僕はそのタイミングを逃さないように、すかさず軽く片手をあげ た。 慣れないことをするもんじゃない、抱えていた教科書やらノート やらペンケースが一気に足元に散らかった。 恥ずかしくてアワアワしながら、しゃがみ込んで掻き集め出すと、 すうっと懐かしい香りがして俯いた目の前に制服のスカートが映る。 ﹁慌てないで。そんなに慌てて集めたら土や芝生まで入っちゃう﹂ 泣きたくなるくらい懐かしい香り、懐かしい声。懐かしいという ほどの期間じゃないことなんて分かってる。だけど痛いくらい胸を 満たすこの甘苦しさは、自分がどれほど彼女に恋い焦がれていたの か嫌というほど思い知らされる。 恐々と顔をあげると、地面に散らばったペンケースの中身を拾い 集める平岡さんの俯いた顔があった。 肩までの長さの髪が、少し丸い輪郭の両側にハラハラとおりて動 く。伏せられた目を覆う長い睫毛が頬の上に小さな影を作っている。 ﹁あ、ありがとう﹂ 何か言わないと心臓が止まってしまいそうだった。 ﹁ううん、どういたしまして﹂ ペンケースを僕に手渡してくれた彼女の笑顔は││やっぱりどこ かぎこちなかった。 ﹁あのっ⋮、友達⋮⋮いいの?﹂ ﹁凛ちゃんのこと? 大丈夫。先に教室に戻ってもらったから﹂ なんか申し訳ない。というか、平岡さんはジュースを買いに出て 来たんじゃなかった? いつも持参してる水筒じゃないのか。 ﹁色々、ごめん﹂ ﹁ううん﹂ え⋮⋮、あ。なんか違う。 258 やっぱり迷惑なんだろう。平岡さんはガクちゃんの彼女なんだ。 友達 にも相当しないような男と一対一にな いくら昨年のクラスメイトとはいえ、ガクちゃんの友達とはいえ、 平岡さんにとっては るなんて。 杉野も言っていたように、彼女は配慮の人だ。 ごめんなさい、 なんて⋮思っていても言えないのだろう。 ガクちゃんに対しても嫌だろうし、僕に対しても こういうの困るの やっぱり四時間目の前に一瞬感じたことは僕の勘違いで、彼女が 今ここで少し困った様子なのは、ひとえに僕という場違いなミスキ ャストのせいなのだろう。 この場から消えて失くなってしまいたいくらい絶望的な気持ちに なった。 ﹁あの、一応、ガクちゃんにも断ってから来たんだけど﹂ ああああ! 一体何を言ってるんだ!? 見苦しいし格好悪いぞ! ﹁⋮東堂くんに? どうして?﹂ │││││え? ﹁えっ⋮、だって、付き合って⋮⋮﹂ ﹁付き合って、ないよ? 東堂くんがそんなこと言ったの?﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮言ってない。 一度も言ってない!!!! ガクちゃんが平岡さんのことを好きだというのは聞いた。 告るつもりだというのも聞いた。 結果は伝えなくていいと言ったのは僕だ。 二人が付き合っている 的な話題が出る そして、ガクちゃんは今まで何回か平岡さんのことを話そうとし た。僕がそれを避けた。 尾崎や杉野たちから、 こともあったが、その場にガクちゃんがいたことはなかったし、皆 が一様に本人たちには触れずに思い込んでいたということなのか? 259 ﹁言って、ません﹂ 僕がそう言うと、平岡さんは少し目を細めて責めるような表情を わざと作って笑んだ。 ﹁それより﹂ 彼女は僕から視線を外し、僕の肩の向こうを見た。 ﹁畠中くんの方こそ、私とこんなふうに話していていいの?﹂ 平岡さんの言っている言葉の意味が分からず、彼女が何か言い足 すのを期待したが、彼女はイタズラっ子のような含み笑いを口元に 蓄えて、相変わらず僕の肩の向こうを見ていた。 気になって振り向くと、前半クラス側の渡り廊下の真ん中あたり から神崎さんがこちらを見ている。 ﹁すごーく気になってるみたいだから、誤解させたらいけないでし ょ﹂ ちょっと、何を言ってるんですか? 平岡さんだって、神崎さんの存在くらい知ってるだろ。学校一の 美少女だって入学当初から話題になってたんだから。二年連続で文 化祭のMiss東高だし、知らないはずがないだろう。 1年の頃から僕のことを知っていて、2年で同じクラスになって 僕の地味っぷりはお釣りがくるほど分かったはずなのに、どうして そんな男と神崎さんを同じ相関図上に置いて線を引けるのか? 平岡さんの頭の中を見てみたい気分だ。 ﹁違うと思う、絶対﹂ ﹁そう? そんなことないと思うけどなぁ﹂ ﹁そんなことない! ⋮あれ?﹂ ﹁ちょっと言葉がややこしくなっちゃったね﹂ 彼女が可笑しそうに笑う。 その笑顔を見てムキになってしまったことが恥ずかしくなった。 まるで真に受けてるのは僕の方みたいじゃないか。 260 ﹁あ、うん、そうだね﹂ ﹁私は、なんか嬉しいけどな﹂ ﹁⋮⋮えっ?﹂ ﹁畠中くんの良さを分かってる人がいること。畠中くんはいつも周 りのこと考えて一歩引いちゃうから。私たちの年頃だとアピール上 手が勝ちみたいなところ、あるじゃない?﹂ 完全に勘違いしたまま話しが進行しちゃってる。 これ、どの部分を訂正したら軌道修正してくれるんだろう。全部 と言えば全部修正したいんだけど。アピール上手が云々という最後 の一般論的な部分を除き、僕について彼女が言ってくれたことは全 部勘違いなんですけど。 どうしたもんだろう。溜め息をつこうとして、不意に苛立ちに似 た落胆が胃の底を重くしているのを感じた。 なんなんだろう、この感じ。 平岡さんに神崎さんとのことを勘違いされたことだけじゃない。 僕の中で軽い苛立ちと淋しさが入り混じる。その原因は平岡さんが 他意もなさげに僕と神崎さんを祝福していることだ。 じゃあ、どんな反応をして欲しいっていうんだ? 何を期待しているんだ? 平岡さんがガクちゃんと付き合っていなかったからといって、彼 女にとって特別な存在になれるわけないじゃないか。しかも少し前 まで自分の心の中から彼女を消そうとしていたくせにムシが良すぎ るだろう。 とんだ厨二病だ。 ヤケ 自分のムシの良さと厨二病のこじらせっぷりに、だんだんと自棄 がさして来た。 いつからだろう、最近の僕はおかしい。壊れてしまったんだろう 261 か。 僕のワガママを押し付けたらきっと彼女を困らせてしまうけど、 ちょっとだけ自己主張させて、お願い。 ﹁僕は平岡さんと話したいんだけど、ダメ?﹂ たぶんきっと、以前の僕なら女の子にこんなこと言わなかった。 言いたいような相手もいなかったけど、たとえいたとしても言えな かった。 少し驚いたように目を丸くして平岡さんが息を呑む。捕食寸前の 獲物みたいだ。草食系どころか離乳食系だとか絶食系とまで言われ てしまった自分が捕食側に立つ日が来るなんて夢にも思わなかった。 ﹁ううん、ダメじゃない﹂ 少し困ったように気圧される彼女の瞳は泳いでいて、時折オロオ ロと申し訳なさそうな表情で、視線を神崎さんのいる方へと向けて いる。ごめんね、困らせて。 それにしても神崎さん、まだ渡り廊下に立っているのか。彼女も 彼女で、一体どうしたんだろう。 ﹁あっ﹂ 視線を泳がせていた平岡さんの表情が急に変わり、僕の肩の向こ うを見たまま安堵の笑みで手を振った。 振り向くと、ガクちゃんが神崎さんの背中を押して教室の方へと 誘導している。僕と平岡さんに手を振り、そのまま消えていった。 ガクちゃん、いい奴過ぎるよ。 平岡さんは﹁付き合ってない﹂としか言わないけど、ガクちゃん が平岡さんに告ったことは間違いないんだ。そして今でもガクちゃ んが平岡さんのことを好きなのも事実。 それなのに、僕のために気を利かせるなんて。 僕はと言えば、ガクちゃんが平岡さんと付き合っていると思い込 262 んでいながら平岡さんへの想いを消すこともできなかったのに。仲 の良い二人の姿を見るたびに、卑屈な気持ちに囚われていたのに。 僕はとてつもなく泣きたい気持ちになった。 なんて感情の忙しい日なんだ。 また知恵熱が出そうだ。 複雑に縺れる感情の糸に翻弄されている僕を見かねたのか、平岡 さんがわざと深呼吸をしてみせる。 ﹁私、お昼ごはんまだなんだけど﹂ そうだ。すっかり忘れてた。 結局空回りして彼女に迷惑をかけている。 ﹁あ、それでね、一つ提案なんだけど﹂ 謝ろうとした言葉を遮るように彼女が明るい声で続ける。 ﹁今日の放課後ってすぐに帰らなきゃダメ? 久しぶりに進路資料 室に寄って行かない?﹂ 思いもよらない展開に、ただ茫然とすることしかできなかった。 心の中では﹁おい、返事!﹂と思いながらも。 ﹁進路のこと話そうって言いながらも、あれから全然だったもんね﹂ 覚えていてくれたんだ⋮! ﹁塾とか予備校とか行ってたり、予定があるなら仕方ないけど﹂ ﹁ない。塾にも予備校にも行ってないから﹂ ﹁じゃあ⋮﹂ ﹁行く。放課後﹂ 辿々しい日本語を押し出してやっとそれだけ伝えると、彼女はゆ っくり頷いて笑った。 263 33 肝胆相照らす ﹁なんだよ、もう戻って来たのかよ﹂ 平岡さんと別れて教室に戻ると、ガクちゃんがつまらなそうに舌 打ちをした。 その横では、まいちゃんがニヤニヤと意味ありげに笑っている。 教室の中はいつもと変わらない昼休みの風景。 尾崎や杉野は学食に行ってしまっているようだ。 見渡せば神崎さんの姿もない。あれだけ分かりやすく僕たちを見 ていた神崎さんがここにいないのが少し不思議な気がした。何か僕 に話しがあるように見えなくもなかったから。 ガクちゃんに出くわして用事は済んだのかな。 の件で生徒会に呼ばれて とは、Mr.&Miss東高の本選出 アレ 化学の授業で分からない所でもあったのかもしれない。 アレ ﹁神崎さんなら、文化祭の余興の 行ったよ﹂ ガクちゃんの言う 場者の写真撮影のことだろう。 神崎さんは僕が化学実習室を出る時にも、呼んでいた。余裕がな くて彼女の呼びかけに応えることができなかったけど、渡り廊下か らジッと僕たちを見ていたのは気のせいではなかったと思う。何か 用事があったのだろうか。 あの時の神崎さんの表情は、あまり愉快な気分には見えなかった。 あんな風に立ち止まって凝視されるほど、僕は神崎さんに対して気 に障ることをしてしまったのだろうか。 ペンケースを持ってきてくれた時、ちゃんとお礼言ったっけ? 言ったよなぁ。 じゃあ、分からない所を教える約束して忘れてるとか? ダメだ、 264 記憶にない。 一人で悶々と考えていると、ガクちゃんとまいちゃんが﹁草食天 使もついにモテ期到来か?﹂なんてワケの分からないこと言ってク スクス笑っている。 そうだ、そんなことより│││ ﹁あのさ、ガクちゃん⋮﹂ ﹁俺と平岡さんが付き合ってないって話しだろ?﹂ 小さい子のイタズラでも咎めるようにガクちゃんが一語一語噛み 砕く。 ﹁もうさ、本当は気になって仕方なかったんだろ? 逆の立場だっ たら分からなくもないけど、悩み続けるくらいなら聞きたくない態 度取るなよ﹂ 呆れたような溜め息には彼の優しさも滲む。 とりあえず座るように促され、ガクちゃんの前の席に腰を下ろし て椅子をガクちゃんの方に向ける。 ﹁畠中ちゃんに宣言した通り、俺は2年の修了式の日に平岡さんに 告った。平岡さんは、俺のことをそういう対象として見たことない って言って戸惑ってた﹂ やはり信じられない話だった。本人の口から聞いても疑いたくな るくらいだが、ガクちゃんが嘘をつくとは到底思えない。 ガクちゃんが告ったら絶対にうまくいくと思ったのに⋮。 って頼んだんだよ﹂ まだ答え出さないで、 ﹁覚悟してたつもりでも、実際にフラれると想像以上にこたえるも んだよな⋮。俺、潔く引きさがれなくて、 今まで通りにしてゆっくり考えていって欲しい 始業式の朝の風景も、その後のガクちゃんの行動もすべて平岡さ んへのアプローチだったわけだ。 想像以上にこたえると笑っているが、笑える気持ちじゃなかった 265 だろう。 僕が彼女への想いを消そうと一人で感傷的になっている間も、ガ クちゃんは失恋に傷つきながらもなお自分の気持ちに目をそむけな やっぱりごめんなさい かったんだ。そう考えると自分の情けなさが恥ずかしい。 ﹁俺、案外チキンで、平岡さんの口から って言葉を聞くのが怖くて、言い出せない状況を常に作ってた。失 恋してるのは分かってたけど、保留の状況に甘んじていたかった﹂ まいちゃんが労わるような視線をガクちゃんに向ける。ガクちゃ んはまいちゃんの視線を受けて少し恥ずかしそうに苦笑いの笑みを 返した。 東高の男子ならきっと誰でも分かる。 好きな女の子に行動を起こすのがどれだけ勇気の要ることなのか。 好きな女の子に告白することがどれだけ大変なことなのか。ただ見 ているだけがどれだけ心地よいことなのか。 返事を引き延ばしてでも、悪い知らせから逃げ続けたいって気持 ちを。僕たちの誰もが分かるだろう。 僕は忘れていた。ガクちゃんがあまりにも僕たちとは違うから。 ガクちゃんは東高の男子の大多数とは違って、地味男でもなければ 女子と話せない人でもない。快活で聡明で男らしいから。 ガクちゃんだって東高に入って今まで、誰とも付き合って来なか ったことを││忘れていた。 ﹁彼女、ケータイ持ってないだろ。だから放課後になってしまえば メールや電話でお断りの言葉を告げられることもないって⋮⋮考え れば卑怯なんだけど、そういう逃げ方もしてた。彼女と話しても空 気が変わりそうなタイミングで無理に別の話題を振ったり、用事を 思い出したふりして教室に戻ったり。そうしているうちに、平岡さ 266 んからどんどん本来の明るさを奪ってたんだよな﹂ 僕は非モテ男だけど、言い出そうとして言い出せない平岡さんの 気持ちも、その気配を察知しながらも気づかないふりをし続けるガ クちゃんの気持ちも両方分かる気がした。 ガクちゃんは自分のせいで平岡さんが本来の明るさを失っていっ たように思っているようだけど、きっと違う。平岡さんはガクちゃ ご を遮っていることを分かっていながら自分もズルズル んの気持ちに応えられないことや、ガクちゃんがわざと彼女の めんなさい とそんな状況を続けていることがやるせなかったんじゃないだろう か。 ﹁ガクちゃんのせいじゃないと思う、平岡さんはきっと自分自身に ジレンマがあったんじゃないかな﹂ ﹁俺も、そうだと思う。⋮平岡さんのことよく知らないけど、きっ とそうじゃないかな﹂ 2年の時には加納さんと富樫のことで、平岡さんを悪女みたいに 思ったこともあるまいちゃんが恐々と口を挟む。 まいちゃんも修学旅行の最終日に平岡さんが6組女子たちに難癖 つけられていた様子を見たようで、﹁どう見ても僕たちのクラスの 女子たちが最悪だった﹂と後で言っていた。それから平岡さんに対 する見方が変わったようで、そのことを詫びられたこともあった。 いや、僕に謝られても⋮という感じだけど。 ﹁ありがとうな、畠中ちゃんもまいちゃんも。でもそうさせたのは 俺のせいだから。俺は自分のことばかり考えて平岡さんの気持ちを 無視し続けてた﹂ ﹁せっかく畠中ちゃんのこと冷やかしてやろうと思ったのに、暗い 267 話しになってゴメンな。一学期の終業の日にキッパリとフラれて、 その罪悪感で卒業まで友達を続けてくれ って脅迫し 今度はちゃんとそれを受け入れた。平岡さんは罪悪感を感じまくっ てたから、 てやったけどな﹂ 俺もタダではフラれないよ、ガクちゃんはカラカラと笑った。 相変わらずの気遣いに、返す言葉もなく沈黙していると、また空 気を変えようと話題を僕に戻してきた。 ﹁で⋮、俺がせっかく神崎さんを退去させてやったのに、ノコノコ と帰って来たわけか﹂ ﹁だから、そんなんじゃないって﹂ ﹁そんなん、ってどんなんだよ?﹂ まいちゃんまでニヤニヤと横槍を入れてくる。 ﹁だ、だから、えっ⋮と、進路。進路の話、してて﹂ ﹁進路?! それがどうしたんだよ﹂ ﹁にっ⋮2年の時から、進路の相談というか、話しを聞いてもらっ てて﹂ ﹁ほう、そう言えば俺には話してくれたことないなぁ。昨年ほぼず っと隣同士だったのになぁ﹂ ﹁俺も聞いてないや。それこそ小学校から一緒で、登下校もほぼ一 緒なのになぁ。へぇぇぇ﹂ わざとらしい二人のからかいに心が折れそうになる。 ここに尾崎と杉野がいなくて良かった。あの二人は現役バリバリ の平岡さん派だから、心どころか身体中の骨をへし折られかねない。 いや、別に僕と平岡さんがどうだという話しでもないし、聞き流 されるだけだろう。 ﹁で、こんな俺たちより平岡さんには話せちゃうわけね﹂ なんか淋しいよな、男の友情って。そんなことを白々しく言い合 っているガクちゃんとまいちゃん。 268 君たち、昼食というものを食べる気はないのか。 十七、八の男子が昼食を食べずに五時間目を迎えるってどんなこ とだか、彼らは理解していないのだろうか。 ﹁おー、あと十分もないな。今ならガラ空きだろう、滑り込みます か﹂ ﹁いいねぇ。男の友情より女子を取る薄情者は放置して、行きます か﹂ 二人は僕に向かって意地悪な笑みを浴びせると、そのまま回れ右 して走り出した。 まさかの残り十分を切って学食とは酔狂な。 ﹁カレーは飲み物です﹂ 大きな声で笑いながら去ってしまった二人の余韻に溜め息をつく。 ちょっとからかわれてムキになってしまったけど、あの二人には きちんと自分の気持ちを打ち明けた方がいいよな。 そもそも、まいちゃんにはいつか打ち明けようって思ってたし。 ガクちゃんにも││言うまでもないとはいえ、きちんと話そう。 考えただけでも立ち眩みがしそうなほど緊張してくる。 またからかわれるのかな。そう思った途端に打ち明けようと思っ た決意が揺らぐ。 こういうところが僕の悪いところだ。 269 34 零れ落ちる 五時限目の終わりのチャイムが鳴ると同時に、神崎さんが走って くる。 胸の前に抱えている数三の問題集は、これまでの基礎編ではなく 中級編だ。すごい、ちゃんと勉強を頑張ってるじゃないか。きっと そのことを報告したくて、化学実習室で呼び止めようとしたり、昼 休みにじっと僕たちを見ていたのだろう。 昼休みの時はちょっと視線が怖い感じがしたから、何か気を悪く していることがあるのかと内心ビクビクしていたけど、僕の取り越 し苦労だったようだ。今は笑っているし。次に話す時が怖いな、な んて思ったりして神崎さんに申し訳ない。 ちゃんと頑張っているんだ、力になってあげなくちゃ。 ﹁畠中ちゃん、お客さん﹂ まるで僕と神崎さんの間にシャッターをおろすような尾崎の声。 その声の先を見ると、阪井が手招きして僕を呼んでいる。 ちらりと神崎さんの方を見ると、唇を尖らせてプイと顔をそむけ る。僕は溜め息をついて、竹村くんたちが神崎さんの先生になって くれることを願った。 ﹁ミス東高って畠中ちゃんのクラスだったんだな。やっぱスゲェ美 人だな﹂ 阪井は声をひそめながらも少し興奮した様子だ。 阪井に着いて、そのまま突き当たりの非常口から外に出るとコン クリートのポーチの部分に座った。 ﹁畠中ちゃん、昼休み、平岡さんと話してたろ?﹂ ああ、阪井も見てたのか。中庭だったもんな。 ﹁俺さ、畠中ちゃんに言っておかなければならないことがある﹂ 270 阪井の話はこうだった。 昨年、僕が1組の男子たちから体育の時間にボールをぶつけられ たり足を引っ掛けられたり肘打ちされたりしたこと。他のクラスの 男子たちからも似たような嫌がらせを受けて、その場でガクちゃん たちが殴り掛かった一件や、その後もしばらく続いた嫌がらせ。そ れについて平岡さんには知られずに済んでいた。2年の時は。 だけど、学年中の男子たちで知らない者はいなかった。そして彼 らは渦中の平岡さんがその事情を知らないとは夢にも思っていなか ったのだ。阪井も然り。 阪井は今の7組で、2年のクラスから仲が良かった友達が平岡さ んと親しかったため、その流れで平岡さんとも友達になったという。 その友達というのが、今日渡り廊下で見掛けた安斉という人と小野 原という人だ。早坂さんという女の子も2年で同じクラスで、彼女 と安斉という人は平岡さんと同じ中学だったらしい。ちなみに小野 原という人は1年の時に平岡さんと同じクラスだったとのこと。 アイツ、まだ平岡 と言ってその相手だ。 ことの始まりは安斉という人の一言。杉野が さんのこと好きなのかな ﹁平岡、おまえ高校に入ってから良い噂ないな﹂ 富樫とのことを言われたと思ったのだろう、平岡さんは黙ってし まったという。 すると早坂さんが﹁知らない間柄じゃないのに噂を鵜呑みにする って安斉、あんたバカなの?! 見損なったわ。どうせあんたも、 噂の男の子にエゲツない嫌がらせしたんでしょ?﹂と援護射撃を飛 ばした。 それ何のこと? 噂の男の子って誰? 嫌 ってなったわけだ﹂ ﹁そこから平岡さんが がらせって何? 271 1年で僕と同じクラスだった阪井は、噂になった と知っていた。 間男 が僕だ ﹁それは多分、畠中ちゃんのことだよ。平岡さん、心当たりない? 前夜祭の時に空いてる教室で女子会して恋バナついでに、畠中ち ゃんのこと好きだとか言わなかった?﹂ 阪井の言葉に平岡さんはひどく驚いて、そう取られてもおかしく ないかもしれないけど、だいぶニュアンスは違うと否定したという。 ﹁男にとったら当然の勘違いだよ。男に女のニュアンスなんて通用 しない。男なんて曖昧なこと言われても勝手に両極端に振り分ける もんなんだよ﹂ 安斉という人が言うと、小野原いう人も﹁畠中ってヤツが聴いて なかったのが不幸中の幸いだな。きっと平岡さんが軽い気持ちで言 った言葉を真に受けただろうし、違うと知ったら相当傷ついたと思 うよ﹂と続けたらしい。 ははは、聴いてましたけどね。真に受けなかったから傷つかなか ったけどさ。真に受けられる身分じゃないから。⋮でも動揺はした し、本当はちょっと真に受けたかった。そのことで傷つきはしなか ったけど、片想いの苦しさはだいぶ煽られたかな。 平岡さんは、自分の不用意な言動のせいで僕に不当なとばっちり を受けさせてしまったと取り乱し、謝らなきゃと言い出したという。 そんなこと謝られたら、 私が軽はずみなこと言ったから ⋮な って。彼女が自分のせいだと思う気持ちは ﹁けど、安斉と小野原が止めたんだよ。 男は惨めになるだけだ 分からないでもないけど、 んて言われてみろ、傷つかない男なんかいないぞ、ってね﹂ 確かに謝られたらキツかったと思う。平岡さんには申し訳ないけ ど。傷口に塩を塗られるようなものだから。 272 ﹁安斉も平岡さんに、誤解を生むような行動はするなって言ったし、 俺も⋮⋮その、﹂ 阪井は少し言いづらそうに作り笑いをする。 ﹁畠中ちゃんを傷つけないでって言ったんだよな。畠中ちゃんは富 樫とも友達だし、友達を裏切るようなことするヤツじゃないのに、 ひどい言われ方して辛かったと思う。嫌がらせを受けたことも辛か っただろうけど、富樫と付き合ってるの知ってて平岡さんを寝取っ たみたいな言われ方も辛かったと思う。昨年の噂のぶり返しで、ま た畠中ちゃんが変な邪推されるくらいなら、畠中ちゃんと距離を置 いてあげて⋮って﹂ 余計なことしたな、と言って阪井は頭を下げた。 彼女がガクちゃんと付き合っていて、恋人に気兼ねして他の男子 と仲良くするのを避けていたのかと、ずっと思っていた。しかし、 僕が彼女にとって知り合い以上友達未満になったと感じたのは、阪 井の言った経緯があったからだったのかもしれない。 ﹁畠中ちゃんも知っての通り、平岡さんって恐ろしくモテるだろ。 俺らが把握してる限りでもガンガン告られてるわけ。俺らからした ら、眼中にないヤツなんか容赦なく切り捨てたらいいじゃんって思 うけどさ、平岡さんマジメだからフってる側なのにいちいち傷つい ちゃって、もう見てる方が痛々しくなるくらいなんだよ﹂ ﹁どういうこと?﹂ ﹁本人はそういう類の話は絶対に口にしないから真意は分からない。 だけどすごく辛そうなんだよ。呼び出されても、教室に戻ってきて 知ってるのに声を掛け合えない人 に も。早坂さんが言うには、告られてその気持ちに応えられなかった 瞬間から友達だった相手が 変わるのが辛くて悲しいんだろう、って。そんなこと聞いたら安斉 も立ち往生だよ﹂ 杉野が言っていたけど、安斉って人もやっぱり平岡さんのことが 273 好きなのか。 ﹁同じクラスになるまでは、出来すぎてて二次元っぽいって思って たけど、知れば知るほど良い子でさ、リアクションとか可愛くてか なり面白いし。畠中ちゃんも去年同じクラスだったからよく知って るだろうけど。告ってくるヤツの大半は、フラれたらすぐにまた別 の好きな子ができるようなヤツらだろうに、罪悪感で思いつめやし ないかと心配になるくらいに相手の気持ちを背負うから、なるべく そんな思いして欲しくないんだよ﹂ 阪井だけじゃなく、小野原という人も、中学の頃から平岡さんの ガクちゃんの気持ちを汲んでやれよ なんて、 なんでガクちゃんじゃダ ことを好きな安斉という人も同じ気持ちなのだろう。 とか、 ﹁ラグビー部のヤツらにも東堂の件で、 メなんだ よく責められてたからな。平岡さんだって、東堂の気持ちに応えら れない自分を責めただろうよ﹂ 彼女とあまり接点のない人からの好意に心を傷めるのだから、ガ クちゃんの気持ちに応えられないと答えを出した時の彼女の苦悶は どれほどだったことか。 ﹁たぶん平岡さんは高校にいる間に誰かを好きになることはない気 がするんだよな。なんとなくだけど﹂ 彼女がモテることは周知の事実だが、富樫と別れたという噂が拡 まった後の告られ方は尋常じゃなかった。彼女は告白を受けるたび モテる ということは に受け入れることができないジレンマと罪悪感に苦しんでいたのだ ろう。 誰かに好かれた経験のない僕にとって、 幸せ過ぎて困る 羨ましい以外の何物でもなく、一度でいいから味わってみたいとさ え思ったこともある。モテる人の悩みなんて、 274 レベルの第三者が耳を傾けること自体論外の幸せ自慢に等しいと思 っていた。 相手の気持ちに応えられないことに苛まれる彼女にとって好意を 告げられることは、何かを得ることではなく何かを失うことだった のだ。 手のひらの隙間から零れ落ちるそれらを、抗いようもなく見送る ことしかできなかったのだろう。 ﹁俺としては平岡さんに傷ついて欲しくないけど、畠中ちゃんにも 傷ついて欲しくないんだよ。余計なお世話なんだろうけど、畠中ち ゃんには妬みとか嫌がらせとかそういう汚れた傷を受けて欲しくな いんだ﹂ そういえば1年の時に、僕のこと天使だとかふざけたこと言って たっけ。 何度も繰り返すが、僕たち年頃の男に天使なんているわけがない。 僕だってエロくらい見る。最近は兄さんのパソコンじゃないぞ。進 悟の持ってるグラビアだってこっそり│││ ﹁富樫も畠中ちゃんには、くだらない嫌がらせするヤツらに毒され て欲しくないって言ってる。畠中ちゃんには純粋で優しいままでい て欲しいって﹂ 富樫が? 富樫も阪井と一緒になって僕を天使呼ばわりしてたな。富樫ほど のリアリストが買い被りするとは由々しき事態だ。 僕だってエロの一つや二つや三つや四つ⋮ ﹁なあ、聞いてる?﹂ ﹁あ、あ、うん﹂ ﹁まったく、勉強できるくせにぼんやりしてるよな。そういう抜け てるところが可愛いんだけどさ。あ、俺、そっちの気はないよ?﹂ ﹁分かってるよ﹂ 275 分かってるますとも。阪井が女の子大好きなことくらい。 僕の知ってる限りでは小池と阪井のツートップだからね。 ﹁色々と気遣い、ありがとう。でも大丈夫だから﹂ ・・・・ 傷つかないわけじゃない。だけど傷ついたって大丈夫だよ。 平岡さんに、前夜祭の件を謝られても。私の不用意な言動のせい だった、と傷口に塩を塗られても。 平岡さんを前にして友達の仮面を被り続けることも。 あらぬ邪推が再燃してバッシングの矢おもてに立たされても。 彼女と関われないまま学校生活を終えるくらいなら、そんなこと いくらだって耐えられる。 ﹁畠中ちゃんが大丈夫っていうなら、これ以上俺からは言うことな いよ。きっと畠中ちゃんは俺が思ってるよりずっと強いヤツだから な﹂ 強くなんかない。臆病だし弱虫だし優柔不断だ。 痛ければうずくまるし、立ち直りだって遅い。 だけど我慢ならできる。人より痛がりでも、人より臆病でも、我 慢ならできるつもりだ。 あまのじゃく 阪井と、そしていつも天邪鬼な富樫の優しさに胸打たれる。 二年前に同じクラスだったというだけの地味男のことをこんなに も考えていてくれたことに。 276 35 弱虫の意地 六時限目が終わり、掃除の時間もソワソワと落ち着かない心地で 過ごした。 待ち合わせの気分だ。 どうしよう、何を話そう。 阪井が話してくれた件は、あくまでも知らないように振る舞おう。 あ、そうだ。進路のことだったよな。そもそも平岡さんと話した くて7組まで乗り込もうとしていたくせに、一呼吸置いたら浮き足 立つなんてどうかしてる。そうは言っても、同じ緊張を一日のうち に二度も繰り返さなきゃならないのは、精神的な疲弊がキツ過ぎる。 でも、わざわざ時間を取り直してくれた平岡さんの気持ちを無碍 できるはずなんてない。 なにより、僕のために放課後の時間を割いてくれるなんて、少な くとも嫌われてはいなかったと自惚れても良いんだよね。 神崎さんは僕に用事があった雰囲気だったけど、昼休みの写真撮 影の時間が押したとかで生徒会室に行ったようだった。 ﹁どうせ気に入るのが撮れるまで撮り直せとか駄々コネてるんだろ。 自分大好きちゃんだからな﹂ 尾崎は悪態をついたけど、本選に出場する人の多くは同じような 要望を出すんじゃないかな。 わざわざ人前にポートレイトを晒さなきゃいけないんだ、見栄え の悪いのを貼り出されたい人がいるわけがない。まるで指名手配写 真でも指差されるように﹁これで本選に残ったとかあり得なくない ?﹂なんて笑われたら、まさに公開処刑だ。 277 ﹁待ってようか?﹂ からかうまいちゃんに先に帰っていてと念押しして教室を出る。 昇降口に続く渡り廊下から、ちらりと後半クラス側の渡り廊下の方 に目をやる。教科棟へ向かう平岡さんに遭遇するかな、なんて思っ たりして。隣でまいちゃんが笑いを噛み殺している。見透かされて るみたいで、ちょっと悔しい。 ﹁じゃあな、頑張れよ﹂ 渡り廊下を真っ直ぐに教科棟へ向かう僕に、まいちゃんはニヤニ ヤしながら別れの挨拶をして昇降口へと曲がった。 頑張れよ、って⋮告白でもするみたいじゃないか。 もちろんそんな気さらさらないけど、意識してしまう。 階段を上がるたびに心臓が暴れ、顔が熱くなる。情けないが、こ の歳にして運動不足のようだ。受験生だからなんて理由にもならな い。やっぱり尾崎やガクちゃんたちの昼休みフットサルに混ぜても らおうかな。 進路資料室の扉の前に立った瞬間、扉を開けるのが怖くなるくら いの緊張で手が震えた。 目を瞑り、深呼吸を一度してノブを回す。 見違えるほど整頓された資料室の手前の机に平岡さんと中野先生 が向かい合って座り、湯呑みでお茶を啜っていた。 少し気が抜けた。 緊張マックスだったから、正直に言うと中野先生がいてくれたこ とはありがたかった。 ﹁お連れさんの登場ね。私は隣に戻ってるから用があったら声掛け て﹂ 中野先生はそう言って進路指導室に引っ込んで行った。 続いて立ち上がった平岡さんが﹁焙じ茶なんだけど、いい?﹂と 壁際に設えてある合板製のシェルフの上の茶筒を手にして湯沸かし 278 ポットのボタンを押した。 ﹁お茶まで飲めるようにしたの?﹂ ﹁英語科準備室の湯沸かしポットが古くなったっていうから、譲っ てもらったの﹂ 7組の担任の先生は英語の先生だという。 見渡すと部屋の中は以前のような雑然とした感じはなく、整然と してすっかり機能的になっている。 読み終わったら元の場所へ戻しましょう と パンフレットや本などもジャンルや大きさによって見やすく整頓 されていて、壁には 書いて貼ってある。おそらく平岡さんの字だ。 合板製のシェルフなんて前はなかった。しかも表面にはマスキン グテープが貼られていて、湯呑みや急須や茶筒まである。壁側の大 半を占めていたスチール製のグレーのシェルフは、一部がドアの横 の死角になる位置に移動して圧迫感を軽減している。残りは英語科 準備室へ湯沸かしポットや合板製のシェルフとの交換トレードだと いう。 こざっぱりとしていながら、随所にアクセントが加えられて、落 ち着きのある雰囲気になっていた。 ﹁殆どは元々あった物ともらい物で、あとは中野先生から予算が出 て百均なの﹂ ガクちゃんと平岡さんが頑張ったのだろう。 今ここで平岡さんと二人で会っていることが、ガクちゃんに申し 訳なく思えた。 ﹁前に進路のこと具体的になったら話すって言ったの覚えてる?﹂ 淹れてくれたお茶の湯呑みを対の茶托に乗せて僕の前に置いてく れた。 立ち昇る湯気と一緒に覚えのある香ばしさが鼻腔をくすぐる。一 口啜ると一気に高2の夏の日に引き戻されるような恋焦がれた懐か 279 しさに脳がグラグラ揺れた。 覚えてますとも。彼女が言ったことも、焙じ茶の味も。 平岡さんと話したことなら、どんな些細なことでも記憶に残って る。平岡さんが覚えてなくても。ストーカーみたいで引かれるだろ うけど。 ﹁笑わないでね﹂ 彼女は言いながら綺麗な所作で椅子に座る。 ﹁私、写真を撮る道に進みたいの﹂ え│││、あ││││││そうなんだ。 ﹁笑わない、よ。ちょっと意外だったけど﹂ ﹁ビックリするよね? 凡人なのにって思うよね﹂ ﹁いや、ううん、違う。違うんだ﹂ どう言ったら分かってくれるだろう。まったく想定外だったから。 それはひとえに僕の視野が狭いせいで、思い浮かべられる職種が片 手ほどしかないからなんだ。 それに彼女は凡人なんかじゃない。 彼女の剣道がどんなに美しかったことか。素人の僕だけじゃない、 会場中が魅了されていた。しかし、その時の非凡さと彼女が目指す 世界の非凡さとが結びつかなかっただけだ。 ﹁世の中の職業が片手くらいしか思いつかないから﹂ なりたい って言い出す職業く ﹁私もね、あんまり知らないの。看護士さんとか警察官とか学校の 先生とか。小さい子が一番初めに らいしか知らないの﹂ ﹁どうして写真なの?﹂ ﹁それは追々ね。話すと長くなるかもしれないから﹂ 彼女はお茶を啜って照れ笑いした。 追々。また話していいってこと? 些細な言葉や反応を拾い上げて、小さな可能性をたぐり寄せよう とする自分が旧式の少女趣味に思えてくる。 280 ﹁旭ヶ丘大か小西工芸大を受験しようと思ってるんだけど、色々調 べたら旭大に教わりたい先生がいるから、第一希望って感じかな。 小西の神奈川校舎だったら家から通えるけど写真学科は都内なんだ よね﹂ す、すごい。教わりたい先生がいるとか、そんなことまで調べて るんだ。僕なんて、名前見ても専門見てもきっと全然分からないし、 調べようと考えたことすらない。 ﹁もし大学に入れたら、空き時間に頑張って外国語を勉強して卒業 したら外国に学びに行きたいって思ってる﹂ ﹁ちゃんと先のことまで考えてるんだね﹂ ﹁無知な子供の頭で考えた青写真だから、この通りに進めるとは限 らないよ。まずは目の前の受験だし﹂ 僕とは比べ物にならないくらい明確な人生設計だ。 ﹁それより畠中くんは?﹂ ﹁あ、うん。なんていうか⋮﹂ 平岡さんは明確に決めているのに、それを聞いた後で言うのは尚 更恥ずかしい。 機械工学の方面で受験するつもりだなんて言っておきながら、機 械工学と関係ないのに指定校推薦で行ける条件にフラフラ揺れてい るなんて。あ、機械工学も希望してたわけじゃないと言えばそうな んだけど。 ﹁迷ってる、⋮かな﹂ ﹁前に話してくれた機械工学以外にも進みたい道が見つかったの?﹂ ﹁いや、そうじゃなくて、別に機械工学じゃなくても指定校推薦で 行ける国立の理系でいいかなぁ⋮⋮って﹂ 呆れられるかな。進路の話をしたいなんて言っておいて、人に相 談する必要もない結論。僕の言ってることは、目標も目的もなくて、 ただ行ける所ならどこでもいいって言ってるようなもんだ。 281 ﹁そっか。畠中くんなら指定校きっと取れるよ。勉強もできるし、 きちんとしてるもん﹂ 彼女は目を輝かせて嬉しそうに微笑んだ。 ﹁呆れないの?﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁だって、指定校が取れそうだからって理由で大学を決めて⋮﹂ ﹁呆れるわけないじゃない。なりたい職業があって、そのためにど うしても学ばなきゃいけないことがあるなら必然的に学校も学部も 定まるけど、私たちの年で将来のことを具体的に考えられてる人の 方が少ないんじゃない?﹂ ﹁⋮そうかなぁ﹂ ﹁うん、そうだよ。他の人たちだって、世の中の職業の一握りも知 らないよ。今、何かなりたいと思ってるものがあっても、これから 変わることもあるし。だから、今の時点で決められないのは全然恥 ずかしいことじゃないよ。ここに行けたらいいかなって思う学校に 行って、そこから得意や適性を考えてもいいんじゃない?﹂ 優しく諭すように彼女は言う。自分は目指す道がしっかり決まっ ているのに、決められていない僕なんかを尊重してくれて。 彼女は同級生なのに、僕よりずっと大人で、考え方も将来に対す る指針も僕の遥か前方を見据えてる。明確なビジョンで見据えてる。 ﹁受験のプレッシャーと色んな不安とを混同しちゃうけど、先々の ことは今から気負いしなくていいんじゃないかな。焦って決めたら、 結果的に行き止まりになっちゃうかもしれないし﹂ うっ⋮、図星。 ﹁理恵ちゃんなんてね、大企業に就職したいって言うんだよ。一応、 理系で考えてるらしいけど職種は二の次で、とにかく大企業、って﹂ 楽しそうに笑う彼女の顔は久々だ。小さく肩を揺らし、丸い大き な目を細めて笑う。 この笑った時の目と、一層丸くなる頬が大好きだ。 282 大好きだと叫びたくなるくらい、大好きだ。 火照る頬を自覚しながら、慌てて彼女に合わせて笑っておく。 ﹁だから畠中くんも、具体的に決まってないことを引け目に感じな いで。だから、なんて理恵ちゃんを事例に使ったら失礼だよね。ふ ふっ﹂ 永田さん、絶対クシャミしてるだろうな。 ﹁あー、なんか話せて良かった!﹂ 平岡さんは椅子の背もたれに背中を押しつけて、机の下でいっぱ いに足を伸ばした。 ﹁私ね、昼休みに畠中くんが深刻な顔して現れた時、なにか怒られ るんじゃないかと思ったの﹂ 怒られる? ガクちゃんの、こと? ああ、そうか。阪井が言ってたな。 ガクちゃんをフった件でラグビー部連中が平岡さんを問い詰めに 来てたって。 困惑したような身構えた感じは、そのこともあったのか。 とにかく、僕と距離を置きたい理由はこの数ヶ月の間に山ほどあ ったわけだ。 ﹁私はいつも周りの変化について行けなくて、余裕がなくて⋮⋮、 私だけ何も分かってなくて。だから周りに迷惑掛けっぱなしで⋮﹂ 机の上に置いた湯呑みを両手で包んだ彼女は、その指先に視線を 落とす。 ﹁畠中くんはいつも変わらなくて⋮、あ、変わらないっていうか、 本当はたくさん成長してると思うけど、変われないし余裕がない私 に目線を合わせてくれて。いつもその優しさに救われた。畠中くん が変わらず友達でいてくれて、本当に良かった﹂ 283 ズキンと胸が痛んだ。 彼女の屈託のない笑顔に。彼女の心からの言葉に。 それは彼女の言葉の持つ意味に対してでもあり、彼女の笑顔を裏 切って恋愛感情を抱いていることへの罪悪感に対してでもあった。 永田さんや富樫でさえ、平岡さんの弱音は聞いたことがないと言 っていた。 気 僕は、偶然にしろ彼女が胸の内を吐露する場に何度か居合わせて なのであれば│││、僕は喜んで甘んじよう。 いる。もし僕が、彼女にとってそれ以上でもそれ以下でもない を許せる相手 僕は彼女の友達でい続けよう。 それが彼女の心を欺いているとしても、友達の顔をしてい続けよ う。 好意を露わにして、知っているのに不可視な存在になってしまう くらいなら、僕は迷いなく今のままを選ぶ。 彼女にとって僕だけはずっと友達のままだと安心してもらえるの なら、僕は│││喜んでこのまま。 ﹁でもわざわざこんな風に会うのは、ほどほどにしなくちゃね。き っと誤解して気にしてる子がいるもの﹂ 意味深な言い方をして彼女は茶目っ気たっぷりに笑う。 何のことを言っているのかさっぱり分からない。 ﹁昼休みも可愛い子に睨みつけられちゃったもんね﹂ 可愛らしく笑って冷やかされて茫然とすることしかできない。 どうしようもなく苦しい。 284 意味のない言葉を叫びたいくらい、胸の奥が痛くて狭くてたまら ない。 285 36 獰猛な彼女 十月に入るとすぐに球技大会が行なわれた。 今年は凶暴な夏の爪跡が深く、まだ残暑が続いている。 東高の球技大会は縦割りで、つまり僕たちは1年から3年までの 1組で一チームになり、総合ポイントを競う。 競技種目は幾つもあり、スポーツに秀でている者が試合時間が重 ならない限りいくつもの種目に出ることもできる。逆にバレなけれ ば一つも参加しないで大会の間を過ごすこともできる。 ただし、参加登録名簿などで一つも参加しなかったことが後でバ レたら、体育の補習を受けなければならない。 ちなみに、内向的でチーム競技に入れない人でも卓球やテニスの シングルなどにエントリーしているので、チームを組む仲間がいな くても最低一種目参加のノルマはクリアできる。草食系男子の巣窟 と言われる東高ならではのシステムである。 あれから平岡さんとはよく話すようになった。 そんな風に言うと、さも親しいような言い方だけど実際は違う。 僕が一方的に彼女に話し掛けているだけだ。 平岡さんが1組の近くを通り掛かればすかさず話し掛けに出向き、 中庭に出てくる可能性がある曜日や時間帯にはわざと自販機に買い に出たふりをして偶然を装って話し掛けた。 二時限目休みや昼休みなど少し長めの休み時間や、7組が体育で グラウンドに出るために1組の前を通るタイミングは逃したくない のだけど、問題集を手にした神崎さんに阻まれることも少なくない。 僕じゃなくても解けそうな問題も多いけど、そんなこと言えない。 自分は放棄して他に丸投げしてるみたいで気が引ける。 286 それでも一度だけ﹁竹村くんたちでも解けるよ﹂と、やんわり言 ってみたことはあるが﹁どれなら竹くんに解けるとか私には分から ない﹂と言い返されてしまった。 しまいには﹁私は秀悟くんの教え方が好きなの!﹂と半ギレされ てしまい、絶賛逃げ道失い中である。 障害は神崎さんばかりではない。7組の男子たちからも冷たい視 線を向けられている。中には2年の時に体育の授業中に足を引っ掛 けたりボールをぶつけてきた奴なんかもいる。当然ながら僕はまっ たく歓迎されていない。 ただの友達 の立ち位置を だがそんなことで途方に暮れてばかりもいられない。 僕は平岡さんにとって、一番身近な じゃなくてもいい。友達の中でも ただの 死守しなければならないのだ。ガクちゃんや柳瀬のような、彼女に 大切な友達 、目指すはキングオブ・ジャストフレンドだ。 とっての 友達 ◇ ﹁尾崎、ナイスシュート!﹂ ﹁おう、ガクちゃんたち、バレー終わったの? 一応登録名簿に名 前書いといたから点差が詰まったら後半から出てくれよな﹂ 手の甲で額の汗を拭った尾崎はコートの中央に戻って行く。どう やらボランチのようだ。 キーパーをしている杉野が僕たちに気づき、軽く手を上げて挨拶 をした。 ハンドボールの試合を終えた僕たちは、埃っぽいグラウンドの端 で1組チーム対4組チームのサッカーの試合を観戦していた。前半 スコアは3−0で我が1組チームがリードしている。 近くにいた1年の女子にガクちゃんが経過を尋ねると、一点目は 1年生のサッカー部員の子が尾崎のパスからゴールを決め、二点目 287 と三点目は尾崎だった。 ﹁後半からとか容赦ないよなぁ。まあ、この分なら出る必要なさそ うだけど﹂ 球技大会の種目にラグビーがないことをボヤくガクちゃん。 仕方ない。ただでさえ男子の少ない学校だ、縦割りにしたところ で十五人集めるのは難しい。なんとかかき集めたとしても、ちゃん とルールを知っているかどうかも怪しいもんだ。 ﹁あ、ここにいたんだ﹂ 後ろから聞いたことのある声がした。 振り向くと栗原さんが同じクラスの友達らしき女子と三人で歩い ているところだった。 栗原さんは一緒にいた二人と別れてこちらに近づいてくる。 ﹁東堂くん、今から出番?﹂ はい、僕たちは見えていないようです。ガッツリと。 ガクちゃんの隣りに腰を下ろした栗原さんは、足元に落ちていた 棒切れで地面に弧を描き始めた。 ﹁まあ、出番ていや出番だけどさ。後半からだからまだ待機中﹂ 相変わらず地面に弧を描いては靴底で消して、栗原さんはあまり 興味なさそうに﹁ふうん﹂と低く応えた。 ﹁栗原さんは?﹂ ﹁さっきバスケやってきたところ。負けたけどね、7組チームに。 マユいたよ﹂ ﹁あんまり悔しくなさそうだな。終わってめでたし、ってトコ?﹂ ﹁まあそんな感じ。マユたちのチーム、すごかったわ。東高かと疑 うくらい男女仲が良さそうだった﹂ 彼女は手の動きを止めて、チラリとガクちゃんの反応を伺う。 ﹁それよりさぁ、ちょっと話したかったことがあるの﹂ 288 ﹁ん? なに?﹂ ﹁エナ⋮⋮、神崎絵菜には気をつけて﹂ 思いもよらない話の展開に、僕たちは栗原さんの顔を見ないわけ にはいかなかった。 ﹁⋮⋮神崎さん?﹂ ﹁そう。エナって馴れ馴れしくない? 他の女子と違ってキモヲタ にもフツーに話し掛けるでしょ﹂ ﹁キモヲタは言葉が悪いよ﹂ ﹁じゃあ、ダサヲタ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ガクちゃんは諌めたけど、栗原さんはそんなことはどうでも良さ そうで、少し険しい表情になってガクちゃんの言葉を遮った。 ﹁私だってこんなこと言いたくないのよ。陰口を垂れ流して巻き込 むの好きじゃないし。でも東堂くんたちには忠告しておいた方が良 さそうだから﹂ 栗原さんは見た目こそ奔放な感じの人だけど、悪い印象を植え付 けるために誰かを悪く言ったりする人じゃないのは昨年一年同じク ラスにいて、なんとなく分かった。 文化祭の前夜祭の日に岩崎さんたちと話していた内容からも、そ ういうことが好きじゃないことは明らかだった。 だから彼女の言おうとしていることは、仲の良いガクちゃんへの 心からの忠告なのだろう。 ﹁エナの馴れ馴れしさには、好意とか一切ないから。エナに馴れ馴 れしくされて鼻の下伸ばしてる男子、結構いるんじゃない? 東堂 くんも懐かれてるんじゃないの?﹂ ﹁でも俺、⋮好きな子いるし﹂ ﹁分かってるわよ。だから気をつけてって言ってるんじゃない﹂ ﹁もう少し分かりやすく説明してくれないかなぁ﹂ ガクちゃんの暢気な問いかけに栗原さんは片足を地面に叩きつけ 289 た。 ﹁エナは皆が自分に惹かれてないと気が済まないだけなの。だから 目の前にエナがいるのに、エナ以外の女に夢中なってる男が許せな いの。目が合ったくらいで堕とせる男なんかどうでも良くて、あの 規格外の可愛さにも簡単に靡かない男には異常な執念を燃やすから﹂ 栗原さんの言っていることが確かなら、神崎さんは異常な執念さ えも好意と結びつかない感情だということになる。なんという執念 の無駄遣い。美しすぎる女の子の余興とは計り知れないものだ。 ﹁もちろん、それでもエナに靡いてないんでしょ? そういう男に はホントにあの手この手なの。心当たりあるんじゃない?﹂ ガクちゃんはチラリと僕に横目を流して押し黙った。 ﹁⋮⋮やっぱりね。心当たりアリアリなわけね﹂ 栗原さんは大きく溜め息をついた。 ﹁いや、でも、皆が神崎さんに惹かれてないと気が済まないって、 神崎さん本人が言ったわけじゃないだろ?﹂ ﹁まあね、本人がそんなこと言うわけないわ﹂ ﹁だったら、そう見えるだけかもしれないよ。神崎さん、皆と仲良 くなりたいみたいだし。それが誤解されるってことも⋮﹂ ﹁ねえ、東堂くん﹂ ﹁神崎さんを擁護してるわけじゃない。栗原さんにそんな顔させた くないんだよ。同性の陰口言うなんて栗原さんに似合わないよ﹂ ﹁東堂マナブ!!﹂ ﹁お、おう。どうした、いきなり﹂ 栗原さんが突然大きな声を出したから、ガクちゃんの横に座って イイヒト に徹してれば何でも丸く収まるとか思ってる いた僕やまいちゃんの体もビクリと跳ね上がる。 ﹁自分が わけ?!﹂ ﹁別にそんなつもりじゃないけどさ﹂ 290 ﹁あんたの イイヒト ぶりっ子のおかげで傷つく人間だっている の顔させたくない。ねえ、東堂 、誰に見せたいの? 皆に? まさか自分 イイヒト のよ! さっきのあんたの言葉をそっくりお返ししたい。私はあん イイヒト たにそんなつまらない くん、その に対してそうでありたいとか気持ち悪いこと言わないわよね?!﹂ 畳み掛けるようにキレる栗原さんに僕たちまで圧倒される。が、 そんなことお構いなしに栗原さんのキレっぷりはなおもヒートアッ プする。 ﹁いくらスペックが良くても、キモヲタじゃなくても、そういう所 があんたをつまらない男にしてるの! そういう中途半端さが所詮 は東高男子なのよっ!!﹂ 神様、この恐ろしい怒りはどのようにすれば収まるのでしょうか。 僕が謝っても無駄でしょうか。謝罪というより祈りになりそうだ。 栗原さんには見えていない存在だから何の効果もないかもしれない けど⋮。 ﹁もっと発奮してみなさいよ! キン☆マついてるんでしょ?!﹂ ひえええええ、原語です! しかも嫁入り前の娘さんがこんな大 きな声で。 栗原さんは直角に体勢を変えてガクちゃんの方を向くと、しばら く土の上で弄んでいた棒切れを逆手に持ち替えて、グサグサとガク ちゃんの肩を滅多突きにし始めた。 ﹁いてっ! やめろって。マジで痛いから!﹂ ﹁あんたたちもシャキッとしなさいよ! ついてる意味がないキン ☆マなら、七つ集めて回ってるヤツにくれてやりなさいよ!﹂ 栗原さんは膝をついて素早く立ち上がると、ガクちゃんへの攻撃 を止めようとした僕たちの腕をそれぞれ一回ずつ刺さして行った。 なんて恐ろしいんだ。だいたい、こんなもの欲しがるヤツなんか いない。七つ集めたって龍は出てこないのだから。 僕たちのことは見えてないと思っていたのに見えていたとは。し かも完全に流れ弾だ。 291 突然の痛さに腕を抑えて呻きながらうずくまる僕とまいちゃん。 なた 松野さん最強⋮もとい最恐だと思っていたけど、栗原さんは怖す ぎる。トラウマになりそうだ。今宵のナイトメアは鉈を振り上げて 追い掛けてくる栗原さんの主演で決まりだ。 ﹁私はいいの。可愛い子を妬んで貶めるようなこと言ってる嫌な女 でも。エナが本当に興味があって近づいてるならいい。でも違うか ・・ ら、⋮うまく説明できないけど分かるから、暇つぶし感覚で振り回 されて傷ついて欲しくないの、あなたたちに!﹂ ふたたびガクちゃんの横に座った栗原さんが言う。一瞬、僕の方 にも目が向けられた。 ﹁ごめん。⋮そうだな、バカバカしいよな。誰に見せたいのって、 ホントそれ。栗原さんの言う通りだよ﹂ そうやってすぐ納得しちゃうところもダメ、と栗原さんは綻ばせ た口元をわざと尖らせてダメ出しする。 なまぐさ ﹁栗原さんの言う通り、俺のせいでラグビー部の連中や尾崎にヒー ルを被らせてしまってた。人間ってもっと腥くて当たり前だよな。 すぐには直らないかもしれないけど、もっと自分に正直になってみ るよ﹂ ﹁まあ、いくら頑張ってみても東堂くんのお人好しは変わらないと 思うけどね﹂ 満足そうに鼻先を持ち上げて笑い、栗原さんはもう一度立ち上が った。ジャージの埃を叩き、校舎に戻ろうとする。 ﹁対策はある? 神崎さんに負けない対策﹂ ﹁そうね、靡かない態度だけじゃ足りない。エナが燃えるだけだか ノー! という顔をするの﹂ ら。はっきりと拒絶の意思を示して。無視しなくていい、一度でい いから 尾崎がそうしたように、神崎さんに意思表示をするということだ ろう。 292 確かに神崎さんは尾崎の近くには殆ど行かない。そして神崎さん をあからさまにチヤホヤする小池に対して、良い顔はするが執着は まったく感じられない。 逆に僕やまいちゃんやガクちゃんに対しては、グイグイ来る。 神崎さんが僕のような地味男までターゲットにしているとは考え にくいが、平岡さんに話し掛けたいタイミングで頻繁に阻まれるよ うなら、はっきりと態度に表さないといけない。 こんな地味で非モテな僕の分際で、学校一の美人に不快な思いを 与えてしまうのは気が引けるが仕方がない。 歓声が上がる。 尾崎が四点目のシュートを決めていた。 ﹁ハットトリックなのに見てなかったのかよ!﹂ と僕たちに向かって怒ってる。 293 37 本音の置き場所 ﹁なんか畠中ちゃん、変わったよね﹂ 登校途中、まいちゃんが唐突に言いだした。 イチョウ並木が黄色く色づき、歩道にも積もり始めている。 変わったとは、この万全な防寒対策に衣替えしたことを指してい るのだろうか。こういう的外れな考え、また天然だとバカにされか ねないので言わないでおこう。 いつだったか、まいちゃんが加納さんのことを好きだと打ち明け てくれた日、僕のことを﹁変わらない﹂って言ったじゃないか。そ れから変わってしまったってことか? なんだか良い意味には聞こえないんですが。 ﹁あはっ、ディスったと思ってる? 成長したなぁって意味だよ﹂ 同じ年の幼なじみの成長を身近で感じられるなんてねえ、なんて わざと年寄りみたいな言い方して何度も頷いている。 ﹁そんなに嫌そうな顔しないでよ。ホントにさ、女子となんか話せ なかったじゃん。ましてや自分から話し掛けに行くとか、すごい成 長したよなぁって、父さん感心してるんだよ﹂ 誰が父さんなんだよ。自分だっていまだに女子と殆ど話せないく せに。 僕はまいちゃんが好きな人の話をした時にまいちゃんの成長を感 じたよ。まいちゃんが遠い人になったみたいで少しだけ淋しかった けどね。だけどもちろん嬉しくもあった。相手が相手だけに切なく もなったけど。 富樫は加納さんとはただの幼なじみだと言い切っていたけど、加 納さんの方はそう思ってるようには見えない。彼女は今でも富樫の 近くで甲斐甲斐しく世話を焼いている。 294 余計なお世話だけど、気付いてあげればいいのにって思う。富樫 のことだから本当は気付いててとぼけているのかもしれない。自分 の環境に加納さんを巻き込まないように、鈍感を貫いているという ことも考えられる。 平岡さんと進路資料室で待ち合わせた日の翌朝、登校中に思い切 ってまいちゃんに僕の気持ちを打ち明けた。平岡さんのことが好き なんだ、と。 まいちゃんは﹁そっか。頑張れ、っていうのも変だよな﹂と言っ たきり、前日のようにからかうこともなく、かわりに優しい沈黙を くれた。 ガクちゃんには話せてないままになっていた。何度も話そうとは したのだが、近くに尾崎がいたり神崎さんがやってきたりで、良い タイミングがないのだ。 ﹁俺は畠中ちゃんの健気さがいじらしくて応援したくなるけど、こ ればっかりは叶うとか叶わないの次元じゃないんだよな﹂ 片想いなんて苦しいばっかりなのに、どうして不毛と知りながら そこから動けないんだろう。しなきゃいけない法律もなければ、道 徳的に強制されてるわけでもないのに。 それなのに、﹁ツライ﹂﹁ツライ﹂と心の中で泣き言を言いなが らも、どうしてこの道から逸れることができないのだろう。 そんなことを思って溜め息をつくと、まいちゃんは慌てて話題を 変えた。 ﹁畠中ちゃん、指定校枠に申し込む? そろそろ校内選考だったよ ね。畠中ちゃんならどこに希望出しても通るだろうけど﹂ ﹁筑海大の理工学に申し込もうかと思ってはいるけど﹂ ﹁あー、やっぱそう来たかぁ。畠中ちゃんも筑海大希望かぁ﹂ 295 希望って言われると、どうしてもピンと来ないんだけど│││っ て、ええ!? もしかして ﹂ ﹁もしかしてまいちゃん、筑海大希望?﹂ ﹁うん、その 肩を竦めて笑う。 ﹁畠中ちゃんが相手じゃ勝てないよ。私立だけど邦成大の理工に申 し込もうかなぁ。邦成大ならどうにか自宅通学できそうだし﹂ 独り言のようにあれこれ思案し始めるまいちゃんを横目に思う。 勝てないなんて、そんなことない。理科や数学はいつも僅差だし、 英語や国語はまいちゃんの方が点数が良かったりするのだから。 ﹁まいちゃんは、将来やりたいこととかあるの?﹂ ﹁俺、ヒューマン・ロボットとか人工知能の研究とか、そっちの道 に進みたいんだ。筑海大ってロボット研究が盛んだから、ロボット 関係だけでもたくさん研究室あって、資料見てるだけでもワクワク するんだよね﹂ 思わぬ熱意に、僕は言葉を失ってしまった。 まいちゃんも平岡さんと同じく明確な目標を持っている。僕なん か筑海大がロボット研究が盛んだなど知りもしなかった。 特別に裕福なわけでもないごく普通の家の三人兄弟で、兄は私立 大で下には弟もいるから、学費の負担が少ない国公立大に入れてた らいいと思っていた。僕にとってはそれだけだった。理数系は勉強 しただけ飲み込めるけど、文系科目はなかなか頭に入れられない。 理系を選んだのだってそんな理由だ。 ちょっと成績が指定校の条件を満たしているからって、僕なんか が推薦をもらうべきではない。まいちゃんのように、成績も申し分 なくて熱意のある志望動機を持った人が推薦を受けるべきだ。 安易に目先の船に乗り込もうとしただけの自分が恥ずかしい。 296 ﹁まいちゃん、筑海大申し込みなよ。きっと推薦取れるから﹂ ﹁なんで? 畠中ちゃんは?﹂ ﹁うん、まぁ、僕も申し込むけど、決めるのは先生たちだから。僕 は2年の時に何日か欠席したけど、まいちゃんは皆勤だから選ばれ るかもしれないよ﹂ ﹁俺は筑海大の選考に落ちたら邦成大の指定校に申し込むけど、畠 中ちゃんはどうするの?﹂ ﹁僕は、その時はセンター入試かな﹂ ﹁どこか行きたい大学あるの?﹂ ﹁んー、幾つか﹂ 行きたいと言われると、やっぱりそうじゃない気がして曖昧に誤 魔化して笑った。 ﹁小学校も中学校も一緒だったのに、ついに畠中ちゃんとも別々に なるんだな﹂ 東高名物 が始まっている。こ 学校前の横断歩道を渡る僕たちをバスが追い抜いて行く。 バス停付近の側道には、早めの の光景は僕たちが卒業した後も変わらずに続くんだろうな。 発車するバスにクラクションを鳴らされて、すぐ前に止まってい た黒のカブリオレが移動して行く。 ◇ ﹁畠中ちゃん、ちょっといい?﹂ 指定校の話をしながら登校した日の三日後。朝のホームルームの 後、担任の紺野先生から進路指導室に来るようにと言われたまいち ゃんは、戻ってくるなり僕に詰め寄った。 僕の机の前にいた神崎さんが膝立ちの姿勢のまま、まいちゃんの 297 剣幕に驚いていた。 ﹁なんで申し込まなかったの?﹂ ﹁あ、それは⋮﹂ ﹁畠中ちゃん、申し込むって言ってたよね。紺野先生が筑海大の指 定校に申し込んだのは俺だけだって言ってたけど、どういうこと? まさか評定平均が基準に満たなかったなんてバレバレの嘘言わな いよね﹂ 筑海大の指定校推薦の条件は、主要科目の評定平均が4.2以上 で理数科目4.5以上と、かなりのハードルの高さだった。こんな 厳し条件をクリアできる生徒なんて限られてる。 久保さんは薬学部志望で、既に京葉大の薬学部の指定校推薦の試 験に合格している。彼女が一番乗りで四大合格を決めていた。 ガクちゃんは港芝工業大の一般推薦を受けるつもりだと言ってい た。 ﹁俺に分かるようにちゃんと説明してよ。なんで申し込まなかった んだよ﹂ 僕とまいちゃんの顔を交互に見ながらオロオロしていた神崎さん が、まいちゃんの昂りに合わせて僕を庇うように間に割って入った。 僕は神崎さんに﹁大丈夫。ちゃんと話すつもりだから﹂と、なるべ く不安を与えないように笑い、彼女に退いてもらった。 ﹁筑海大は指定校だから決まれば受験が終わるし楽だなぁって思っ てただけで、本当は他に行きたい所が前からあったんだ﹂ 半分は本当で半分は嘘。いや、全部本当かもしれないし、全部嘘 かもしれない。ただ、筑海大じゃなきゃダメな理由は一つもなかっ た。 ﹁遠慮したんじゃなくて、本来の志望校の方に後ろ髪引かれただけ 298 だよ﹂ 我ながら、よくまぁこれだけのことを言ってのけたもんだ。僕よ りまいちゃんの志望動機の方が正当だから、なんて偉そうなことを 言えるはずもなかった。第一、決めるのは先生たちだ。たとえ僕の 方がまいちゃんより成績が良かったとしても、エントリーシートに 記入する志望動機で圧倒的にまいちゃんに劣っただろう。変な気遣 いなんかしなくても。 半信半疑で聞いていたまいちゃんも少しは納得したように見える。 それでも一度湧いた怒りは収まりきらないようで、不服な色を残し ながら﹁それならそうと言ってくれれば良かったのに﹂とボヤいた。 ﹁いつもの薫くんらしくなくてビックリしたわ。薫くんと秀悟くん は仲良しなんだから、冷静に話せば分かり合えるでしょ﹂ 神崎さんが小さい女の子が大人ぶっているような言い方をして、 まいちゃんはいきなり僕に詰め寄ったことを照れ臭そうに詫びる。 揉め事にならなくてよかったとは思うものの、後味は悪い。 横でまいちゃんに懇々と説教を続ける神崎さんの声を遠くに感じ ながら、果たして自分の取った行動は正しかったのか悶々と考え続 けていた。 一つ確かなのは、自分自身のために筑海大の指定校を選ばなかっ たことへの後悔はないということだった。 そうなってくると年明けのセンター入試に持ち越しということに なる。結局まだまだ受験勉強からは解放されない。いずれにしても 他にすることがあるわけでもないから、もうしばらく受験勉強を頑 張るのみだ。 ﹁それで秀悟くんはどこ受けるの?﹂ 299 ﹁この人はねぇ、俺たちにもハッキリ明かさないんだよ﹂ 攻め所とばかりに、まいちゃんが皮肉めいた笑い方で僕を指差し た。 ﹁どうして? 行きたい大学があるから筑海の指定校に申し込まな かったのよね? なら薫くんには聞く権利があると思わない?﹂ ﹁いちいち小姑みてぇにうるせーな、おまえ﹂ 斜め前の席で漫画を読んでいた尾崎が振り向いた。 ﹁まいちゃんの権利とやらを口実に、自分が畠中ちゃんの受験校を 知りたいだけなんじゃねーの?﹂ 凪沙って知ってるよなぁ?﹂ なぎさ ﹁私はそんな、ただ⋮⋮﹂ いがらし ﹁おまえさぁ、五十嵐 唐突に尾崎の口から出た知らない名前に、僕たちが入っていける 話題ではないことが窺える。 尾崎を睨み返す神崎さんの瞳が一層見開かれたところを見ると、 五十嵐という人物を知っているようだった。 ﹁おまえ、五十嵐凪沙と中学の時同じ塾だったんだよなぁ? アイ ツ中学時代の元カノなんだけど﹂ 目を細めて意味深に笑う尾崎。みるみる表情を硬くする神崎さん。 ただならぬ雰囲気だった。 ﹁⋮⋮脅してるの?﹂ ﹁別に。静かに読書させてくれねーかな、って思っただけ。これか らも﹂ 神崎さんは今まで見たこともないほどひどく怒った顔をして自分 の席の方へと走り去って行った。残された形になった僕とまいちゃ んは呆気に取られるよりほかなかった。 ﹁畠中ちゃんもまいちゃんも、あの女にはマジで気を付けろよ。俺 が釘刺したから、もう近づいて来ないとは思うけど﹂ 300 五十嵐さんという人物と神崎さんの間で何かあるのだろう。特別 数少な に興味はないが、名前を出しただけであの神崎さんの動揺ぶりは、 ただごととは思えない。 女友達だって最近知っただけ﹂ ﹁気にするほどのことでもないけどな。元カノがあの女の い 尾崎はそれだけ言うと前に向き直り、再びマンガを開いた。 僕とまいちゃんはますます分からなくなり首を捻ったお互いを向 き合わせることしかできなかった。 301 38 国語力不足 昼休み、平岡さんが外に出てくるわずかな可能性に賭けて中庭へ 向かう。彼女は昼食も飲み物も家から持参しているから、昼休みに 中庭に出てくることは滅多にない。 平岡さんが中庭に出てくれば僕が望む偶然も起こるが、僕がそこ にいるのは偶然でもなんでもない。偶然を装った待ち伏せ行為で、 まさにストーカーの常套手段だ。 待ち伏せる気満々で、飲み物を買いに出るだけなら不要であろう ダッフルコート着用装備。 自分のことに関しては無頓着で少し鈍感な彼女なら、偶然だと思 ってくれているに違いない。バレてないと信じたい。 ◇ 平岡さんと一昨日話した時に、筑海大の指定校に申し込まないこ とは告げていた。彼女は少し驚いて﹁どうして?﹂と訊いたが、東 都工業大や京浜国立大を目指して勉強していたと話すと、暗闇でフ ラッシュを当てられた小動物のような目をして一層驚いていた。 ﹁都工か浜国って⋮⋮、すごい﹂ 東高から都工や浜国に進学する人が出るなんて、と彼女は恍惚の 溜め息を漏らす。いや、受けたいって言っただけで、合格したわけ じゃないんだけど。むしろ合格できない可能性の方が圧倒的なんだ けどね。 その辺を説明しても彼女は﹁畠中くんならきっと大丈夫。充分に 勉強できるのにすごく努力家で、テスト明けだって弛んだことなか ったもの﹂と、その気にさせるようなことを言ってくる。 302 筑海大の指定校に申し込まないことを、もったいないと非難する こともなく、東都工業大や京浜国立大なんて東高生の僕たちには記 念受験レベルの学校名を出してもバカにすることもなく、温かく支 持してくれた。 だけど、分かってるのかな。僕の成績で都工大とか浜国とか言っ てることが既に無謀だってこと。 超難関大学を受験しようとしたり学校でも屈指のモテ女子を好き になったり、欲がないと言いつつ僕は案外身の程知らずなんだな⋮ ⋮、と皮肉にも十八歳にして改めて知らなかった自分を発見する。 中庭にある幾つかのベンチのうちの一つに彼女の姿はあった。い つか富樫と話した時に座った場所だ。 彼女の隣にはもう一人誰か女子がいて、その人と話しをしている ようだった。今日は先約があるみたいだし話し掛けない方がいいな。 そう思って、彼女たちが座るベンチから少し離れて自販機へと歩い た。 自販機に着いてチラリと彼女の方を見てみたが気づいていない様 子だった。⋮⋮と、彼女と話している隣の女子になんとなく見覚え があった。そうだ、教科棟の屋上で浜島に告ってた子だ。 あれから浜島とはどうなったのかな。 登下校で時々見掛ける浜島は、いつも通り柳瀬と一緒にいること が多かったし、あの女の子の想いが叶った様子はない。 彼女の話しに平岡さんが頷いてる。気づかれるといけないから目 を逸らしたいとは思うのだけど、親身に話を聞いている平岡さんの 真摯な表情についつい目を奪われる。この瞬間、どこかの教室の窓 越しに僕と同じように彼女に目を奪われている男はたくさんいるん だろうな。 そんなことが頭をよぎると冷水を被ったように我に返る。 彼女から視線を剥がして、再び自分の教室へと歩く。 303 7組って五時限目は何だろう、なんて考えながら。 ﹁わっ!﹂ 突然目の前に平岡さんが現れて僕を驚かす。 驚くなんてもんじゃない。だって、さっきまで後ろのベンチで後 輩の子と話していたんだから。それなのに、なんで前から現れるん だ? ひょっとしてこれが受験ノイローゼってやつなのか? ﹁びっくりした?﹂ ベンチで見たシリアスな表情とは打って変わって平岡さんは弾け るような無邪気な笑顔を見せる。 ﹁え、え、え、え、だって、さっき、ベンチに﹂ あまりに驚きすぎて口をパクパクさせて、ようやく出た言葉がこ れだ。 ﹁畠中くんゆっくり歩いてたから、廊下を走って廻り込んじゃった﹂ えへへといたずらっ子の笑みで笑う彼女の可愛らしさに、たちま ち頬が熱くなる。 ﹁筑海大、米原くんに決まったんだね﹂ ﹁あ、うん。なんで申し込まなかったんだって怒られた﹂ ﹁あー、他を受けるって言いそびれたんだ。それは怒られるよ。遠 慮されたと思ったら悲しいもん﹂ ﹁そう⋮だよね﹂ ﹁うん。だから畠中くんは頑張って志望校に合格しないとね﹂ 最後にはいつも彼女の明るさと優しさに励まされる。僕は一度だ って彼女に何も返せてないのに。 ﹁十二月の始めに旭大の一般推薦があるから受けてみようかと思っ 304 てるんだけど、受けたらクラスの子とか皆に写真学科を希望してる ってバレちゃうから、ちょっと恥ずかしいんだよね﹂ バレるのが恥ずかしくて一般推薦を受けるのを迷うとか、平岡さ んてつくづく分からない。親を説得してでも行きたくて、ずっと心 に決めてたくせに。だいたい二月に一般受験を受けてもバレるじゃ ないか。 ﹁どうしてそんなこと気にするの?﹂ ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁誰かに知れたら諦められるものなの?﹂ 僕が言える立場か? ﹁平岡さんの希望を知って誰がどう思うかは人それぞれだよ。でも 言えるのは、平岡さんの人生はその人たちの人生じゃないよ﹂ 誰がどう思うかなんて関係ない。彼女の人生は彼女のものだ。ち ゃんと希望を持つ彼女には、与えられるチャンスを無駄にしないで 欲しい。強く美しい彼女には、迷惑掛けてもいないのに誰がどう思 うか気にする生き方なんて似合わない。全然、らしくないよ。どう しちゃったの? ﹁ごめん、分かったようなこと言って﹂ ﹁ううん、そんなことない。ありがとう。畠中くんの言う通りだと 思う﹂ ボキャ貧な僕の言いたいことは伝わったのだろうか。どう頑張っ ても、思っていることの一つまみも伝えられていないもどかしさで、 モヤモヤした気持ちを掻きむしりたくなる。もっと国語を勉強して おけば良かった。ポップなミステリー小説ばかりじゃなくて、純文 学とか読んでおけば良かった。今更悔やんでも仕方ないけど、伝え たい気持ちに限ってしっくり来る言葉が探せないのが悔しい。 ﹁ねえ、彼女また畠中くんのこと見てるよ。用があるんじゃない? 私と話しているのが嫌なのかも﹂ 305 平岡さんの視線の先にはジト目の神崎さん。まるでいつかのデジ ャヴだ。 平岡さん、あなたは配慮が出来る人で、今もまた僕や神崎さんに 配慮してる。でもね⋮⋮ ﹁僕の方が小さいこと気にする方だと思ってたけど、平岡さんて意 外と他人を気にするんだね。もっと堂々と構えてるかと思った﹂ 自分でもすごいことを言ってると思う。こんな言い方されて気分 の良い人なんていないだろう。しかも、目が合った神崎さんまで無 視した形にしてしまった。 時が止まったように目を見開いたまま動かない平岡さん。こんな 地味でも気弱で優柔不断な非モテ男子に上から発言をされて傷つい てしまったかもしれない。 ﹁畠中くんも意外だよ﹂ ゆっくり口を開いた彼女は、そう言い切って晴れやかに笑った。 何が意外なのか、それは良い意味なのか悪い意味なのか。何に対 してそんなにも笑顔になったのか僕には皆目検討がつかない。自分 で話しを振っておいて自分で理解不能に陥っている。なんという有 様。やっぱり国語は大切だよ。ちっとも行間が読めてない。 ﹁理恵ちゃんや凛ちゃんに知られた時に何を言われるかと思うと恥 ずかしいけど、そんなこと気にして一般推薦受けるの迷うなんてバ カだよね。いつかは知られることなんだし、堂々と願書を出すね﹂ そうだよ、それでこそ平岡さんだ。 永田さんや早坂さんだって、平岡さんの希望を知って冷やかした りダメ出ししたりなんかしないよ。きっと応援してくれるはずだか ら。 306 ⋮⋮⋮って。ん??? 永田さんや早坂さんにも言ってない?! 待て、待て、待て、待て。ちょっと待てい。今なんと言いました? ﹁永田さんたちにも言ってなかったの?﹂ ﹁? そうだよ、畠中くんにしか言ってないよ? あ、2年の時の 担任の江坂先生と今の担任の林先生と進路の中野先生は知ってるー﹂ なんでもないことを言ってるように、平岡さんはにこやかに走り 去った。 ﹁マジですか⋮⋮﹂ 軽やかに跳ねるように走り去る彼女の後ろ姿を見ながら、恨めし く呟いてみた。 平岡さんめ、僕が言葉を理解するのが鈍くて救われたな。 いくら友達に徹すると決めたからって、あなたのことを本気で友 畠中くんにしか言ってないよ とか軽々しく言ったりして、僕 達として見ているわけじゃないんだ。 がますますあなたに惚れるように焚き付けてるって分からないのか。 今後は、夜道を歩く時は⋮⋮じゃなかった、僕と話す時は気を付 けろよ。友達以外にはなり得ない男が思い余って﹁好きだ﹂とか言 い出しても知らないからな。 ⋮⋮なんて、言いませんけどね。ええ。言うことにも言った先に も一つもメリットありませんから。 しかしまぁ、どうしてそんなに無邪気に愛くるしく煽ってくれま すかね。そうでなくても思春期の男なんてただでさえ爆発物なんで すよ? やれやれ、無自覚に敵うものなし。神崎さんのウルウル上目遣い なんかより、よっぽどタチが悪い純正の小悪魔だ。 307 39 歪んだ執念 教室に戻るとガクちゃんの姿もまいちゃんの姿もなく、尾崎も杉 野もいなかった。 学食に行ってそのままフットサルのコースだろう。 寒さに指先を擦り合わせて席に座り、三時限目の休みにガクちゃ んが買い出ししてきてくれたパンを机の中から取り出して封を切る。 頼んだパンはカスタードのコロネとアンバターのコッペパンだっ たのに、ガクちゃんが買って来たのはシナモンロールと揚げあんぱ んだ。間違えたんだよ、なんて笑っていたが、あれはどう見ても意 図的だった。 だがしかし、なかなかどうして。一口嚙ったシナモンロールのイ ケること。3年も残すところ僅かになって売店のシナモンロールが こんなに美味しかったことを知るなんて。 やっぱりわざとだ。 ﹁メシに甘いパンとか酔狂すぎるだろ﹂ いつもガクちゃんに言われるセリフだけど、売店の惣菜パンは手 作りが売りなのは結構なのだが、アツアツを袋詰めしているため水 蒸気が篭ってしまいパンが蒸れて柔らかくなっていることもあり当 たりハズレが大きい。大ハズレを引いた日は金魚や亀の餌を食べて いる気分になるから、リスクを考えるとなかなか手が出せない。 ﹁あの人といると、あからさまに無視するのね﹂ 刺々しい声と一緒に目の前に神崎さんが現れた。 自分の存在感を示すような彼女の甘い香水の匂いにすぐに気付け なかったのは、香りが強いシナモンロールのせいかもしれない。 308 あの人とは平岡さんのことを言ってるのだろう。 ﹁ザッキーから聞いた?﹂ きっと尾崎が言っていた元カノと神崎さんが友達だとかいう件だ。 何について の部分を明確にしてくれれば答えやす 聞いた? なんて漠然とした訊き方をされても何を指しているのか 分からない。 いのだが、願わくば聞かれたくない案件を抱えている人は一様にこ ういう訊き方をするから困ったものだ。 それにしてもどうしたというのだろう。この吐き捨てるような喋 り方は。喋り方だけじゃない、僕を見る目も違う。今までの親しみ を込めた視線はなく、まるで価値のないものを忌むような視線だ。 そんなに無視したことが気に障ったのだろうか。なら何故、尾崎 の話なんかを切り口にするんだろう。 ﹁そう、聞いたのね﹂ え? 今、舌打ちした?? ﹁私、謝んないわよ﹂ ほえ? 言ってる意味が分からない。﹁何を?﹂と訊いてみたい けど、やや興奮気味の神崎さんは僕が口を開く間も与えないくらい に自分の言いたいことを畳み掛けた。 ﹁だってあの子、ムカつくんだもん。ダサいし可愛くもないのに男 ウケだけは良くて。おまけにミスコン辞退するとか偉そうなマネし てくれちゃって﹂ ああ、平岡さんのことか。それにしても相変わらずの酷い言われ ようだ。そう思うと、怒りや悲しみではなく笑いが込み上げてきた。 ﹁何がおかしいの?﹂ ﹁いや、﹂ 説明しても分かってもらえないよ。思うところはなくもないけど、 今の神崎さんに平岡さんの誤解を解こうとしても聞き入れてもらえ るとも思えない。国語力ないし。 309 ﹁笑わないでよ。なに笑ってるのか知らないけど、気持ち悪い﹂ ﹁あ、ごめ⋮⋮﹂ ﹁あんたみたいなキモヲタに笑われるとかあり得ないって言ってる の﹂ 低く低く、呪文を唱えるように、冷めた目の神崎さんは形の良い 唇をそっと動かした。 ﹁そうよ、あの子と噂になってなかったら、あんたなんか相手にし てないわ。だいたい同じ教室にいても存在すら気づかなかったもの﹂ 神崎さんがガクちゃんに数学を教わりに来だした頃のことを思い 出す。ガクちゃんが僕を名指しした時に、神崎さんは見たことない ものを見た時のような目で僕を見ていた。 平岡さんのことは、以前から気になって知っていたのだろう。完 成度の高い洗練された美少女である神崎さんにとって、素朴な平岡 さんが評価されることは気に入らなかったのかもしれない。とにか 推定彼氏 のガクちゃんに近づき、ガクちゃんが く神崎さんにとって平岡さんは目障りな存在だったんだ。 だからまずは 名指しして初めて僕の存在を認識し、2年の時に噂になっていた名 前だと気づいたのだろう。 神崎さんは僕にクラスの皆と仲良くなりたいと言った。もし彼女 見たことなかった 奴がいるって、どう考えても変 のその気持ちが本心だったなら、学年がスタートして一ヶ月以上も、 クラスの中に だろう。 僕が平岡さんを好きだから│││神崎さんじゃないから、僕を好 きにさせることに執念を燃やしていたのか。 それとも一年前の噂を間に受けて、平岡さんが僕を気に入ってる と思い込んで、平岡さんから奪ってやるなんて思ってしまったのだ ろうか。 もし後者なら、神崎さんの執念はまったくの徒労ということにな 310 る。だって、向こうは向こうで勘違いして、僕の良さを分かってく お気に入り を奪ってやったら、どんな顔するだろ れる人がいて嬉しいとか言っちゃってるんだから。 ﹁あの子から うって思ってた。泣けばいいって、ね。どう見てもモテそうもない こんな男、チョロいって思った﹂ あ、後者ね。 ﹁なのに、ちっともあの子から目移りしないんだもん。すごい腹立 つ。あんな田舎臭い子のどこがいいのよ。私を無視してまであの子 に良く思われたいの? そんなことしても、あんたみたいな冴えな い男、振り向いてもらえるわけでもないのに。付き合ってるわけじ ゃないんでしょう?﹂ ﹁付き合ってないよ、そんなんじゃないから﹂ 無駄なんだよ、神崎さん。平岡さんが僕なんかを恋愛対象として 相手にするわけないんだ。難しいことではない、普通に考えたら分 かるはずだ。 ﹁じゃあなんであの子なの? あんな純情そうなフリして元彼に股 開いちゃっ⋮﹂ ﹁神崎さん、ストップ﹂ 神崎さんの目の前に手のひらを出して彼女が皆まで言わないでく れることを願った。僕の指図を受ける気など毛頭ないだろうと思っ ていたが、彼女は催眠術に掛かったようにピタリと言葉をとめた。 ﹁ごめんね、分からないんだ。自分でも﹂ そう、こればっかりは本当にお手上げなんだ。数学の問題集が基 礎編から応用編に、応用編から難問編にレベルアップしても、これ ばっかりは分からないんだ。なんで平岡さんを好きになったのかも、 どうやったら好きじゃなくなれるのかも。好きになって自分が何を 311 望んでいるのかも。さっぱり分からないんだ。 ﹁神崎さんを好きになる人には理由があると思う﹂ 神崎さんはすごく綺麗だから。 それに│││ ﹁どうせ見た目だけだって言いたいんでしょ?﹂ ﹁違うよ、それだけじゃない﹂ 怒りに潤んだ彼女の瞳が問い掛けの色に変わる。 ﹁神崎さんはすごく努力家だ。問題集、もう三冊目だよね?﹂ 彼女の唇が微かに震えた。 僕には分かる。何度も彼女に教えているから。 本当は彼女が数学が得意ではないこと。 不本意にも二年間女子クラスで過ごし、男子の多い数学クラスで 自分が男子たちの注目を浴びていることを日々実感したかったのか もしれない。けれど、3年は進路が関わる大切な学年で、チヤホヤ されたいだけの理由で不得意教科を選択するのはあまりにも無謀な ことだ。そんな目的だけで、あそこまで頑張れるはずがない。 そして教わることを口実に近づくにしても、適当に分かったフリ だけすればいいはずだ。 だが、彼女の問題集やノートは線を引いた箇所やメモ書きや計算 式がびっしりある。問題集の折り目には消しゴムの消しカスが残っ ていたりして、彼女自身の努力の跡が存分に窺えるのだ。何より、 一つレベルが高い新たな問題集を手にした時の彼女の嬉しそうな顔 が作り物なわけがなかった。 ﹁あんたに何が分かるの?﹂ くるりと背を向けてしまった神崎さんの肩は震えていた。まずい、 余計に怒らせてしまったかな。 そのまま去ろうとする彼女に、一つ言いたいことを思い出して呼 312 び止める。彼女は背を向けたまま黙って足を止めたので、一応耳は 貸してくれそうだ。 ﹁尾崎は何も言ってないよ﹂ それだけ聞くと短いスカートをはためかせて教室の外に出ていっ てしまった。 神崎さんにとって都合の悪い何かを、尾崎は元カノを通じて知っ ているのだろう。そして、尾崎は神崎さんにほのめかした。その流 れで僕やまいちゃんが尾崎に詮索し、尾崎が喋ったと思ったようだ。 神崎さん、墓穴を掘ってしまったんだな。 だけど今までの演技力なら﹁ザッキーが何を言ったか知らないけ ど、たぶん事実無根なの﹂と目を潤ませればそれで充分だったはず。 墓穴を掘った挙句に、自分の本音を曝け出してしまうのだから彼 女も案外不器用で、根は実直なのかもしれない。 チャイムが鳴り始め、慌てて残りのシナモンロールを口に押し込 みコーヒー牛乳で流し込んだ。 五時限目の英語の授業に神崎さんの姿はなかった。 席が近い大塚くんや竹村くんは心配をしているようだったが、尾 崎が彼らに﹁髪型が気に入らないとか言って保健室に行ってたぞ﹂ と伝えていた。 尾崎が席に着く時に、まいちゃんが﹁本当?﹂と訊くと﹁すれ違 った時に本人が言ってたからマジ。本人が嘘ついてたら知らんけど な﹂と涼しい顔をした。 313 40 僕の脳が写す景色 ねえ、畠中くん。 目で直に見た景色と写真で見た景色が同じじゃないって知ってた? 彼女は言った。 目で見ているようで、実際は脳で見てるんだって。 だからね、正確に写しているようで実は無意識に見たいものを選 んで見てるんだって。 ある写真家さんが昔、﹁写真には風や匂いや奥行きはないが肉眼 よりも真実を写す﹂って本の中で言ってたのを読んだの。私には難 しくて、その言葉の意味をずっと考えた。ううん、今も考えてる。 もし写真が肉眼より真実を写していたとしても、また人の目を通 してその写真を見たら、脳が見たいものを選んでしまうんじゃない かって疑問が残ったの。 変かな? 私は、写真だって正確な真実じゃなく、見たいものだけ選んだ自 分の脳に素直なものが写し出せると思うの。 たとえば公園の風景があって、散歩している犬に着目する人やお 母さんに抱っこされてる赤ちゃん、それから光が反射してる池、そ れぞれ見るものは違うと思うの。 それら全部をひっくるめた一つの景色を正確に写しても、見る人 によって主題は変わるし、フォーカスを当てなくても撮る人の意識 でも変わってくると思うの。 314 綺麗な写真も好きだけど、私は私の見たものが伝わる写真を撮っ てみたい。ありのままの景色じゃなくても、私の脳が見たいものを 選んだ、っていう写真を作って表現してみたいって、ずっとそんな こと考えてた。 二学期の最後の日、中庭で彼女が話してくれたことだ。 写真を撮る道に進みたいと話してくれた時、理由は追々と彼女は 言った。それを話してくれたのだ。 その日、彼女には旭大の推薦入試の不合格が通知されていた。 彼女の成績からすれば旭大は間違いなく合格安全圏内のはずだ。 不合格だったことを平岡さん本人から聞いて、信じられない気持ち と何と言葉を掛けて良いのかという戸惑いが入り混じったが、意外 にも彼女自身はケロッとした顔をしていた。 ﹁そもそも写真部に所属してもないし、写真コンクールへの応募実 績もないのに、推薦入試を受けても取ってもらえるわけないよね。 推薦入試で欲しいのはそういう子たちだよ。私が大学側でもそうだ もの﹂ 彼女は一般入試で頑張ると言って曇りない笑顔を見せた。 お互いに頑張って絶対に合格しようね、彼女がそう言って晴れや かに手を振る姿が脳裏に焼きついた。 それが冬休み直前に僕の脳が選んで写した景色なんだ。 冬休みに入ると、朝から図書館で勉強して、閉館の合図で帰宅す る生活が始まった。帰宅後は早めの夕食を食べて部屋で勉強して、 風呂に入って寝る生活。ルーティーン化しているため苦痛はない。 315 別に勉強が好きなわけではないけど、もともと非リア充なので勉強 くらいしか時間を潰す手段がない。受験まで一ヶ月を切っているか ら、勉強しかすることがないくらいが丁度良い。 年末には、ギリギリまでバイトに明け暮れていた兄さんが帰省し て、家族揃って粛々と地味な年末年始を過ごした。我が家らしいと 言えば我が家らしい。 年末年始の図書館の休館明けはいつもより混んでいて、暖房が効 きずぎているのか人が多すぎて二酸化炭素が充満しているのか、蒸 し暑さにのぼせるくらい息苦しくて頭がぼうっとしてきた。 曇り切った窓ガラスに幾筋もの結露の跡が連なり、それを見てい るだけで集中力が途切れたので、荷物を片付けて自習室を出ること にした。 閲覧室は床からの冷気がひんやりと心地良かった。 目に留まった本棚がジオグラフィック系の写真集だったため、適 当に背表紙を触って手に取ってはパラパラとめくり棚に戻しては他 のものを手に取って⋮⋮を繰り返す。 壮大な水飛沫を上げて海原に顔を覗かせるクジラや、黄褐色の大 地の果てに群れを成すシマウマたちや、高僧たちの赤い袈裟に染ま ったチベット仏教の法要の儀式など迫力を感じるものや、花の写真、 外国の有名な観光地の写真など、普段テレビや雑誌などで目にして 矢野 昌孝 と書 いるようなものでも、関心を持って見るとこんなにも違うのかと新 鮮な気持ちになった。 ﹁撮った人が見たもの﹂ 僕の脳が選んで写したもの│││ ふと、閉じた本の背表紙を眺めると下の方に かれてある。 矢野昌孝? 聞いたことがある。唇の先だけで呪文のようにその名を復唱しな 316 ⋮⋮ ⋮⋮。 がら記憶の糸を辿る。 ⋮⋮ そうだ、徳山先生だ。徳山先生が言っていた人だ。 もう一度、本に開いてページをめくってゆく。 外国の湖でレガッタを漕ぐ選手たちの力んだ表情が鮮明に写し出 されている写真や、日本の建設現場で大きな資材を組み立てる作業 員の写真など、見る側に被写体の熱量が伝わってくるほどヴィヴィ ッドで臨場感の溢れる写真ばかりだった。 ﹁なんかすごい⋮⋮﹂ 思わず呟いてしまう。 綺麗な景色の写真はいくらでも見たことはあったけど、非日常で はない中に生命力や力強さを感じる写真は初めてだった。と、いう より、写真にそういうエネルギーを感じたのが初めてだった。 終わりの方までめくって行くと、白いページの真ん中辺りに小さ な正方形で本人の写真があり、その下に簡単な経歴と撮影機材の名 前らしきものが書かれている。 日に焼けた肌に白い歯が印象的で、この写真の矢野さんは僕たち 東京都生まれ よりも少し年上くらいに見えた。 矢野昌孝 19××年 享年32歳 国立上野芸大卒 20××年没 え⋮⋮、この人、亡くなってるの? 写真の持つ活力や健康的な笑顔を見て、たった数分前に知った人 だけどこの人が死んでしまっているなんて、にわかに受け入れ難か った。僕たちが生まれずっと前の著名人ならともかく、僕たちが生 まれてから同じ時間を生きていた人なのに。しかもすごく若いのに。 317 ページは殆ど残ってなかったが、もしかしたら解説や後書きみた いなので、生前に親交のあった人の寄稿がないだろうか縋る思いで ページをめくった。 まず目に飛び込んできたのは文字ではなく写真だった。 白黒で少し粒子は粗いけど、見ただけで心臓が止まりそうなほど 驚いた。 平岡さんによく似た女の人と、その隣に矢野さん、そして二人に 挟まれるような形で三∼四歳くらいの丸顔の女の子が写っているの と書かれてあった。 だ。その子はポンチョのような服を着て、子供らしいリンゴ頰っぺ ご家族最後の写真 で二パッと笑っている。 その下には 生前の矢野くんがよく言っていた﹁写真には風や匂いや奥行きは ないが肉眼よりも真実を写す﹂という言葉を思い出す度に、私は矢 野くんがいないこの現実の世界よりも、写真の中に矢野くんが生き ているというのが真実なのではないかと思う。 あのような事故であなたたちが亡くなってしまったことは今でも 信じられない。⋮⋮⋮娘さんはまだ小さく⋮⋮⋮これから成長が楽 しみだっただろうに⋮⋮⋮ 連々と綴られてた哀悼の後書きの文字を目で追っているのにショ ックすぎて脳が拾ってくれない。 平岡さんにそっくりな│││彼女より少し面長で髪の長い女性は │││きっと平岡さんのお母さんだよね。 矢野さんの没年と写真に写っている女の子の年頃をざっくり計算 してみても、現在のこの女の子はきっと僕たちくらいの年齢だろう。 318 だけど、平岡さんにはちゃんと家族がいて⋮⋮、そうだよ、進路 についても家族に承諾してもらわなきゃって言ってたじゃないか。 五歳から剣道やってる柳瀬が、ずっと平岡さんと同じ道場だって 言ってたじゃないか。それ以上のことは何も言ってなかったじゃな いか。 だとしたら、この写真の女の子は誰なんだ。 少なくとも、平岡さんと関係はあるはずだ。 矢野さんが写真家で、平岡さんが写真家を目指しているというの も偶然ではないだろう。 けれど、僕の知っている平岡さんは平岡さんで、写真の女の子は 矢野さんだ。 しかも事故で亡くなっていると書いてある。 なんだか頭が混乱していた。 平岡さん、あなたは一体誰なんだ?! あなたは本当に実在するの? 本当に二次元の人なの? なんだかオカルト風味になってきたじゃないか。 いくらミステリー小説しか読まないからって、想像力が貧困すぎ るだろう。もはやボキャ貧どころの騒ぎじゃない。 酸欠か。自習室の暑さに完全にのぼせたのか。 ぬかる 蒸れ切ってしまった売店の惣菜パンの大ハズレみたいに、僕の頭 の中はデロデロに泥濘んでいた。 出直しだ。今日はダメだ。 頭の中はダークファンタジー。 二学期の最後に見た平岡さんが、笑顔で手を振っている。 安いドラマなら幻影か、もしくは何かの予兆といったところか。 319 そういう発想にしか結びつかなくなってる僕の頭の中が何よりも 安っぽい。 320 41 霧の中の輪郭︵前編︶ あなたは誰なんだ⋮⋮ あなたは誰なんだ⋮⋮ 家に帰るなり部屋に入り、しばらく仕舞い込んでいた写真を引っ 張り出した。返事なんて返ってくるはずないと分かりながらも、僕 は写真の中の彼女に問い掛けていた。 矢野夫妻の真ん中で無邪気な笑みを見せる小さな女の子は平岡さ んではないのだろうか。矢野さんたちは十三年前に事故で亡くなっ ている。恐らくはあの少女も。 成長して小さい頃の面影が残っていない人なんてたくさんいる。 だけど、あんなに似ている女の子の写真を見て、その子が写真家の 娘で、平岡さんが目指しているのも写真の道だなんて、全てが偶然 には思えなかった。 あなたは誰なんだ⋮⋮ ﹁平岡繭子じゃん﹂ いきなり背後からの声に体が跳ね上がった。 机の上からひょいと写真を取り上げてしげしげと見つめているの は、あろうことかイトコの美帆だった。 ﹁てっきり根暗なコミュ障かと思ってたけど、あんたも意外と隅に 置けないわね。しかも相手が平岡繭子って、ダサい地味男のくせに やるじゃない﹂ ﹁あああ、あのさ、なんでここにいるの?﹂ ﹁なんでって。入るって言ったけど?﹂ ﹁いや、そうじゃなくて。なんで家にいるの?﹂ ﹁はぁぁぁ!? あんたが帰宅する前からフツーにいましたけど? 321 亡霊みたいに帰宅してきて、伯母さんが話し掛けてるのにあんた が生返事してたんじゃない!﹂ 美帆たちは、叔母さんの実家への正月の挨拶帰りに、たくさんも らってきた野菜をお裾分けするために家に寄っていたらしい。 午後三時半という中途半端な時間に帰ってきて、母さんの呼び掛 けにきちんと応じることもないまま客人への挨拶もせずに部屋に引 っ込んでしまった僕を、叔母が心配して美帆に様子見を命じたよう だった。美帆はそんなこと引き受けたくなかったと、あからさまに 迷惑そうな顔をした。 ﹁平岡繭子が東高に行ってたとは意外だったわ。あの子なら桜ノ宮 西高くらいには行けると思ってたのに。西高じゃなかったら、私立 サクジョ のお嬢様学校にでも行ってるかと思ってたけど。しっかし、全然変 わってないねぇー﹂ 自分が通っている桜ノ宮女子とは言わないあたりが選民意識の強 い美帆らしい。あくまで平岡さんを同レベルに置くつもりはないの だろう。 ﹁知り合い?﹂ ﹁小学校が同じだったからね﹂ 叔父さんが東雲市に土地を購入して家を建てるまで、美帆たち一 家は叔父さんの勤め先の社宅がある桜ノ宮市に住んでいた。 こう言っては失礼なのだが、駅から近いという以外に利点は殆ど ない築三十年超えの狭く簡素な灰色のメゾネット様式だった。美帆 たちの住んでいた棟以外に数棟あったが他の棟には入居者がいるの かさえ分からないくらい閑散としていて、枯れきった草が伸びてい たり錆びた三輪車が放置してあったり、日焼けして色が褪せたカー テンが半開きで掛かっている窓など、まるで小さなゴーストタウン のようだった。 子供の頃に母に連れられて行ったことはあるが、人の気配のない 団地特有の薄気味悪さは、何度訪れても慣れることが出来なかった。 322 ﹁私まではいかないけど、勉強もできたわ。運動もできたし作文と かも上手だった記憶があるけど。⋮⋮っていうか、あのオンボロ社 宅に遊びに来たことがあるのは平岡繭子くらいよ﹂ 話しの内容から察するに同じクラスだったこともありそうだけど、 繭子ちゃん と呼ぶだろう。 平岡 それにしてはあまり仲が良かった風には聞こえない。いくら美帆が とか 平岡繭子 と呼んでいる。 傲慢だからといって、今は交流がなくても昔仲が良かったら さん けれど美帆はさっきからずっと プライドが高い美帆が、ずっと憎み嫌っていたあの社宅に遊びに 呼んだ唯一の友達なら、もっと親しみを持って呼んでもいいはずだ。 ﹁仲良かったの?﹂ 敢えて訊いてみる。 美帆は苦々しげに顔を歪めて首を横に振った。 ﹁小学校で仲良かった子なんて、私にはいないわ。小学校なんて嫌 いなヤツらばっかりだったから。男子は下品で低俗だし、女子もつ まらないことですぐに泣いたり騒いだりする情緒不安定なヤツばっ かだったし﹂ ⋮⋮美帆さん、それが正しい小学生というものです。 ﹁平岡繭子のことは別に好きでも嫌いでもなかったけどね。だけど、 友達かっていうとかなり微妙だわ。あの子自体、他人と一線を引い てるバリアみたいなものがあったし﹂ と、いうことは美帆基準では好きだったうちに入るのかもしれな い。ただ仲良くなれなかっただけで。 勉強も運動も って言ったら、活発でクラスのヒエラルキーの最上層に ﹁ちょっと変わった子だったから。普通、小学校で できる子 こわ いるもんじゃない? だけど、平岡繭子は逆。おとなしかったの。 いつも緊張してるみたいに硬ばった顔してさ、何考えてるか読めな い変わった子だった﹂ 美帆の語る平岡さんは、僕の知る高校生の平岡さんとは別人に思 323 えた。たしかに平岡さんはクラスの輪の中心にいてもおかしくない ような人でありながら、派手に笑ったり騒いだりせず、さり気なく 輪の中心から外れている所はある。だけど、特別におとなしいと指 摘されるほどではない。目立つ女子たちみたいに前には出てこない けれど、いつも笑っていて、誰とでも打ち解けて、友達に囲まれて いる。 ﹁二年生くらいだったかしら。まあ、あれは間違いなく平岡繭子の ことが好きで意地悪したかったんだと思うけど、男子たちがひどい こと言って平岡繭子のことをからかったのよ﹂ ﹁なんて?﹂ 拾 ﹁⋮⋮彼氏相手にちょっと言いにくいわ。子供の口から出る残酷さ って言ったの﹂ だから、この年で気にしないでよ? あのね、平岡繭子のこと われっ子 拾われっ子? ﹁正確に言うと拾われっ子じゃなくて養女なんだけどね。しかも平 岡家とはちゃんと血が繋がってるのだから、拾われたなんてタチの 悪い戯言。親たちの低俗な噂話を聞き齧った子供の出来心なのよ。 自分の家の子がどう頑張ってもよその子に勝てないとか、旦那が劣 大手に勤めてるくせに住み手が ってるとか、そんな理由でその家庭の粗をほじくり出して悪く言う 暇な主婦っているわけ。私の所も って散々言われてたから﹂ いないようなボロ社宅暮らしなんて、会社で窓際社員か相当なドケ チ一家なんだ 大人が言わなければ知らないような下世話な話。それを聞き齧っ た子供たちが悪意なく子供翻訳して不用意に友達に直球でぶつける。 話しのネタにしてる大人たちに悪意があったのかなかったのかは 知らない。だけど、テレビのニュースでイジメの話しを聞いて批判 している人たちが、そうとは知らずに我が子たちを加害者へと育て ているのかと思うと背筋が寒い。 324 ﹁あの子は小さい頃に事故でご両親をいっぺんに亡くしてるみたい。 今のお宅は母方の実家で、あの子のお母さんの妹さんが母親代わり なの。すごく若い妹さんで私たちが十歳当時で二十代前半くらいだ ったかしら﹂ 留学中に無計画に子供 ある日突然、留学してた妹さんが幼い平岡さんを連れて桜ノ宮に 戻ってきたらしい。近所の噂では、最初は という憶測が飛び交っていたそうだ。姉妹二人とも 産んだ挙句、相手の男性には認知もしてもらえずに捨てられて実家 に泣きついた 優秀だったのに、姉は駆け落ちで妹は未婚の母か⋮⋮と、想像から 邪推を掻き立て面白半分に揶揄したという。 しかし実際は、平岡さんのお母さんの妹さん││つまり叔母さん が、姉夫婦の訃報を聞いて留学先から駆けつけて平岡さんを連れて と噂され、それが亡く 父親方の親戚中をたらい回 若い未婚の母から生まれた子供 桜ノ宮に戻ったというのが真相のようだ。 最初は なった姉夫婦の娘だと分かると今度は という噂に変わったという。噂というのは本当に無責任だ しにされた末に、母親方の、しかも若い未婚の妹に養育が押し付け られた なんかよりも 無責任 なんてどうでもいいのだろう。まして相手が妬ま とは思うが、軽々しく井戸端のネタにするような人たちにとって 込み入った真実 込み入った真実 の方が彼らのコミュニティにおいては何倍も何十倍も価値 しい対象であるならば、 な醜聞 があり、都合が良いに違いない。 ﹁どういう続柄になってるのかは知らないけど、お祖父さんが世帯 娘を奪われた上に って平岡繭子の実の父親の家に怒鳴り込んだっ 主なのよね。めちゃくちゃ厳格な人らしくて、 孫まで渡させるか て噂もあるわ。剣道の有名な師範代らしいんだけど、大豪邸よ。行 ったことある?﹂ 僕はただただ首を横に振った。 ﹁まあ、そうよね。娘の結婚にも大反対だったっていうし、反対を 325 押し切らなければ死ぬことはなかったって思ってるでしょうから、 一粒種の平岡繭子がどんな男を連れて来たって許すはずがないわよ ね﹂ なんだか勘違いされたまま話しが進んでいるが、話しの流れを変 えるわけにはいかず、訂正のタイミングはその時を待つことにした。 326 41 霧の中の輪郭︵後編︶ ﹁小学生くらいの頃って、女子は お誕生会 ってやるのよ。誕生 日に近い週末に、仲の良い友達を家に招待してケーキやご馳走を振 る舞うくだらないイベント﹂ 拾われっ子 だとか言って 美帆に掛かれば小学生の趣向や行動の全てがくだらなく低俗にな ってしまう。 ﹁男子はガキだから平岡繭子のことを からかったけど、女子は平岡繭子と仲良くなりたい子は多かったの。 小学生くらいの頃って自分より可愛い子への嫉妬とかそんなにない から、ステイタスの高い子と仲良くしたいのよ。トレーディングカ ードみたいな感覚。すごい上級なレアカード持ってます、的な﹂ たとえ話にすら美帆節の炸裂で、もはや笑うしかなかった。 ﹁だから平岡繭子は色んな子からお誕生会に誘われてたわ。中には わざわざ可愛らしい招待状を作って持ってくる子もいたわ。でもあ の子は全部断ってた。何故だか分かる?﹂ ﹁他人と一線を引いていたから?﹂ ﹁まあ、それもあるわね。でもそれだけじゃないの。あの子は自分 仲良く って定 の家に招待したくなかったからだと思う。ステイタスの高い子と仲 良くしたいって、さっき言ったけど、彼女たちの 義は、同等の見返り込みなのよ。だから平岡繭子を自分のお誕生会 に招待したら、当然平岡繭子も自分を招待するって思考なの。招待 する・しない以前にお誕生会を開かないっていう理屈は通らないの。 お誕生会に招待されてお誕生会に来るなら、たとえ毎年やってなく ても、たとえ出席したお誕生会が一件だけでも、そのたった一人の ためにお誕生会を開くべきだというのが彼女たちの理屈なの﹂ ﹁でも女子は意地悪しなかったんだろ?﹂ 327 男子は意地悪して嫌だったかもしれない。美帆の話しのように、 お祖父さんは小学生といえど男子を連れて来ることにいい顔をしな かったかもしれない。でも女子ならそんなことはなかったのではな いだろうか。両親を失って環境が変わった孫娘が友達を連れて来た ら嬉しいものではないのだろうか。 ・・・ ﹁あの子自身の気持ちの問題よ。自分はあの家の本当の娘じゃない し、母親も勘当同然だったって、いくら聞きたくなくてもあの子の 耳にも入ってくるでしょう? ただでさえ自分はあの家の厄介者だ と思ってるのに、更には娘でもない居候のお誕生会を開いてもらう なんて、あの子には考えられなかったのよ﹂ 小学生の子供が実の祖父や叔母にそこまで気兼ねするなんて⋮⋮。 ﹁私は友達だと思える子がいなかったし、あのオンボロ社宅に人を 招きたいなんて思ったこともなかったから、お誕生会なんてしなか ったけどね。ただ一度だけ言ったことがあるの、あんな社宅になん て怖がって誰も近寄りたがらない、って。そしたらあの子が言った のよ、二人だけで秘密のお誕生会をしようって﹂ 美帆は眉間を寄せて溜め息をついた。 ﹁くだらないと思ったわ。でも薄気味悪い社宅に近寄るのが怖くな いっていうなら試してみようと思ったの。そしたらあの子、本当に 来たのよ。私は窓から一部始終を見ていたけど、怯える様子もなく、 バカみたいに端から一棟ずつ表札を確認して、うちが見つかったら 学校では見せないような明るい顔しちゃって﹂ 平岡さんが美帆の髪を結ってリボンをつけてお誕生日仕様にして 今度は私の家にも来てね って言われたわ。今でこそ、 から、彼女が持ってきたプリンを食べて祝ったという。 ﹁別れ際に あの子が家の人に気兼ねしてたって分かるけど、当時は私も子供だ ったからそこまでは考えてなかった。あんたが言うみたいに、皆と 一線引いてたから招待したりされたりしたくないんだと思ってた。 328 だから深いこと考えないであの子の家に行ったの﹂ 美帆は手に持っていた写真を僕の机の上にそっと戻して、話しを 続けた。 ﹁あの子の家は桜ノ宮の高級住宅街にあって、目の前に立ったら通 り過ぎてた時よりずっと大きく感じたのを覚えてる。門から玄関ま でがまた結構長くて、身近にこんなお屋敷に住んでる人がいるなん て⋮って思ったわ。叔母さんがいて││私も当時はあの子のお母さ んだと思っていたんだけど││似ているから。あの子が気兼ねする 理由が分からないくらい感じの良い人でね、また遊びに来てねって 何度も言ってくれた。でもあの子自身は何故か居心地が悪そうだっ たから、行ったのはその時の一度きり。私の家にはその後も何回か 遊びに来たけど﹂ それだけ交流がありながら、小学5年でクラスが別れると彼女が 美帆の家を訪れることはなくなり、小学校を卒業するとすぐ美帆も 今の家に移り住んだという経緯になる。 美帆が言うには、彼女が美帆の家を訪れなくなったのは、クラス が変わり話す機会が減ったことや美帆が進学塾に通い始めたことな どから﹁美帆ちゃんのお家に遊びに行ってもいい?﹂と言い出せな くなったのだろうとのこと。しかし小学生だった美帆は、彼女にと って美帆はクラスが変われば声を掛ける必要も遊びに訪れる価値も ない存在だったのだと思っていたと言った。美帆の性格を考えても ﹁もう遊びに来てくれないの?﹂と自分から言えると思えない。そ して日頃から同年代を小バカにしていたため、そんな自分と本気で 物好きな女の子の 友達になりたい同級生なんていないと思っていたという。平岡さん と解釈したようだ。 もまた然りであり、美帆の家に訪れていたのも 好奇心 いっそ喧嘩別れなら、もっとお互いの心に決定的な理由が刻めた のだろうに、お互いが他人に一歩踏み込めない性格で、お互いが遠 慮したまま友達になりきれないまま、ひっそりと自然消滅してしま ったんだろう。 329 ﹁で、どっちから告ったの? こんなキショい地味男が平岡繭子の 好みとは考えにくいけど、覇気がないあんたに告るほどの勇気があ るとも思えないのよね﹂ せっかく良い話をしてくれたと思ったのに、容赦なく辛辣だ。や っぱり美帆は美帆だということか。 ﹁付き合ってないよ﹂ ﹁じゃあなんでこんなイイ感じのツーショット写真があるのよ﹂ ﹁それは⋮⋮、去年同じクラスだったから﹂ ﹁ふうん、まあ、それなら納得いくわ。私は女子校だら共学のこと はよく分からないけど、カップルじゃなくても一緒にカラオケ行っ たりプリクラ撮ったりするのフツーなんでしょ?﹂ 東高は、そういうこと全然フツーじゃないですけどね。むしろ友 達同士の男女でそういうことしてる人たちはいないし│││という か、男女の友達同士というのも少ない。 どっちみち美帆には興味ない内情だろうけど。 ﹁どう見ても、その写真の中のあんたも、今ここにいるあんたも、 平岡繭子のこと好き好きオーラがダダ漏れだけどね。告ってないわ けね。まあ、そんなトコよね。あんたらしいわ﹂ どうせ って思ったでしょ。あんたのそういうトコよ。私 はいはい、どうせ⋮ ﹁今、 があんたをダサいって思ってるのは、それ﹂ 思っている途中で指摘される。 サッコー ﹁あんた、余裕で桜ノ宮高行けたのに受験しなかったでしょ。足を 骨折したから、混んだバスとか電車で受けに行くのが不安だとか甘 ったれた理由つけて、徒歩で通える東高にしたんでしょ﹂ ﹁⋮⋮﹂ 330 東高でいいや って入ったあんたは、他の生徒 ﹁東高にどれだけ安パイ気分で受験した人がいるのかは知らない。 でも、少なくとも たちにすごく失礼だと思う。私にもね﹂ なんで美帆が出てくるんだと思いはしたが、言い返すこともでき ず黙って聞いていた。 これくらいでいいや って気持ちで臨みたくないだけ。応援 ﹁あんたは私のこと出世欲の塊くらいに思ってるかもしれないけど、 私は してくれる家族がいて、許してくれたり叶えられる環境があるのに、 中途半端な所で見切りをつけて自分を甘やかす言い訳なんか恥じる べきだと思うの。だから私は、私の努力で届く一番上を目指すの。 そうでないと、それだけの可能性を持って生まれてきた自分にも申 し訳ないから﹂ 耳が痛かった。 美帆の言うことはきっと正しい。ゆったりと生きて行きたいなら、 限界まで頑張る必要はないかもしれない。だけど、一度も限界まで 頑張らずに﹁これくらいでいい﹂と決めるのは、頑張ればサポート してくれる人たちや環境に失礼なのかもしれない。別に僕が限界ま で頑張ることを望んでいるわけじゃないだろうけど、努力を支持し てくれるというのは、きっと美帆の言う通りだと思う。 ﹁私があんたをバカにするのはサッコーに行けなかったからじゃな いわ。受かる成績なのに、松葉杖で受験に行くことに怖じ気づいて 手身近な高校に妥協した、その甘っちょろさよ。そんなダサい男が 平岡繭子なんかに告る勇気があるとは思えないわ。あったとしたら、 相当の身の程知らずよ﹂ 蔑むような冷たい目で罵られても、やっぱり美帆の言うことに一 理あると思ってしまう。 ﹁あんたが平岡繭子のことを青春の一ページとして自分だけの思い 331 出にするっていうなら結構なことだけど、あと二年で二十歳なのよ。 成人よ。頑張ったって胸張って言えることが一つもないまま大人に なっていいの? あの子はいつも頑張ってたわよ。好きな女と肩を 並べられる男になりたいって思うのが男じゃない? 一度でいいか ら本気出しなさいよ﹂ そうじゃないと青春の一ページを思い出すたびに自分のことを嫌 いになるわよ、なんて一人前の説教を垂れて美帆は部屋を出て行っ た。 332 42 二月のネコヤナギ 三学期が始まり、重い足取りの制服たちが灰色の空の下に散らば っている。 始業式からあっという間にセンター試験なので、授業らしい授業 はないが久々に平岡さんに会えると思うと、それだけで僕の足取り は軽くなる。 冬休み中に図書館で見た写真集のことや、美帆から聞いた平岡さ んの境遇をあれから随分考えていた。 彼女が辛い幼少期を過ごしてきたことを、きっと富樫や永田さん は知らない。いや、柳瀬でさえ知らないかもしれない。 富樫は彼女のことを家族の愛情に充ちた家庭で育ってきていると 思っている。彼女は笑顔が似合う。その笑顔からは、同じように笑 い合う優しい家族の存在さえも想像できるほどに。 けれど幼い頃に両親をいっぺんに亡くした彼女は、お祖父さんや 叔母さんに気を使いながら生きてきた。彼女は今でも他人との間に 一線を引き、自分を晒け出すことをしないのかもしれない。 時々、自分のことを言葉で伝えられずに、自動的に心が表情を閉 ざしているように感じる。あれはご両親を亡くされた頃から、感情 を押し殺すために彼女が無意識に培ってきた処世術なんだろう。そ うでもしないと彼女は現実に耐えられなかったのかもしれない。 許してくれたり叶えてくれる環境。美帆の言葉だ。 間違いなく僕には充分ある。 どんなに大きな家に住んでいても、平岡さんにとっては決してそ うではなかった。許されるもの、叶えられるものも殆どなかった。 それは彼女の家族が厳しく制限しているのかもしれないし、彼女自 333 身の遠慮がそうさせたのかもしれない。 彼女が写真の道に進みたいと願い、それを打ち明ける時、どんな に勇気が要っただろう。娘さんと写真家の矢野さんが結婚すること に反対だった上に、幼い平岡さんを遺して亡くなる形になってしま ったのだ、きっと猛反対を受けたに違いない。 それでも叶えたい情熱が彼女にはあるんだ。ずっと気兼ねしてき た家族を説き伏せてでも叶えたい思いが。 美帆の厳しいダメ出しと平岡さんの強い決意は、何事においても 受動的で無気力だった僕に少なからず影響を与えてくれた。 そして受験間際になってやっと、志望校を持った気分になった。 学ぶ目的や将来の希望なんて、一朝一夕には見えて来ない。だけ ど、手に届きそうなもので満足するのではなく精一杯やり切ったと 胸を張れるように、自分の成績で届くかどうか微妙だけど都工大を 受けると心を決めた。 都工大生という肩書きが欲しいわけではない。 確実な傍道に甘んじるのではなく、目の前の壁に挑みたいんだ。 挑む勇気こそ、これまでの僕に一番欠けているものだったから。 僕なんか という劣等 最大限の努力で立ち向かうことができたならば、どんな結果でも 受け入れられるだろう。 そしてきっと、少なくとも今までよりも 感から解放される。 これは自分との闘いだ。 誰のためでもなく自分のために。目を覚まさせてくれたのは、好 きな女の子と、皮肉にも苦手なイトコだった。 学校では彼女の姿を見つけ、話し掛ける日々。 334 安斉という人は露骨に顰め面をしたし、早坂さんという人はニヤ ニヤと含み笑いをして平岡さんを冷やかした。阪井はちょっと苦笑 気味だ。 仲の良いクラスメイトたちにそんなリアクションばかりされて、 平岡さんは僕が話し掛けることに迷惑しているのかもしれない。そ れでも目が合えば遠くからでも笑顔で手を振ってくれる彼女の優し さに付け込んで、僕は遠慮なく走り寄る。いつの間にこんなに厚か ましい男になったのだろうと自分でも呆れるけれど、キングオブ・ や にカテゴライズされる人たち なんて卒業したら会う理由もなければ、 大切な友達 ただの友達 仲の良い友達 ジャストフレンドの立場としてはなりふり構っていられないのだ。 とは違う。 彼女にとって思い出す理由さえもないのだから。 できれば思い出して欲しい。2年のクラスを思い出した時のつい ででもいい。3年の後半によく中庭で呼び止められたな、なんて程 度でもいい。彼女の記憶の一片に残りたい。柳瀬や浜島と同じくら いなんて贅沢は言わない。彼女の高校絵巻のエンドロールの片隅に 僕の名前が載せてもらえたら、それで充分だ。 残された時間は短い。 二月になれば自由登校になるから3年は殆ど学校に来ない。3月 に入ればあっと言う間に卒業式。 彼女に会える必然は、学校というこの箱庭の中だけ。しかもタイ ムリミットはあとわずか。 時間は急に少なくなったわけでもないのに、二学期まではタイム リミットが迫っていることを意識すらしなかったのだから不思議だ。 学校の中での同じ生活の繰り返しは、まるで同じ日々が永遠に続く かのような錯覚を起こさせる。頭では受験までの期間や卒業までの タイムリミットが数字で把握できていても、それはあくまでも数字 であって実感を伴うものではなかった。 335 高3の三学期という変則的な学校生活が始まってみて、改めて高 校生活が終わりを迎える気配を実感する。 学校に来ることが当たり前で、学校に来れば彼女に会えることが 当たり前だった日々がもうすぐ終わる。 全てが当たり前ではなくなり、僕は彼女に会えなくなる。 当たり前だったものがどんなに大切だったかを痛感するのは、い つも失くすと分かった時。 せめてあともう少し、彼女の声を鼓膜に刻み、彼女の笑顔を網膜 に焼き付けたかった。 ◇ 苦手な文系科目が心配ではあったものの、無事にセンター試験を 終えた。 自己採点ではまずまずの結果だったが、都工大はセンター試験の 点数は試験を受ける水準││つまり足切りに使うくらいで││事実 上、センター試験の成績は合否に加味されないという。 だからセンター試験で高得点を取ったからといって二次試験が有 利になるというわけではない。この段階では都工大を受験する権力 を獲得したというだけのことだ。 担任の紺野先生は、都工大よりもやや二次試験のウェイトが軽い 京浜国立大を勧めて、センター試験の成績を活かしてはどうかと提 案してくれたけど、志望校は都工大のままで行く意思を伝えた。 ﹁畠中なら余裕で学年一位の成績を取れるはずなのにとずっと思っ てたけど、やっと取ったな﹂ 紺野先生は、自己採点したセンター試験の点数のことを言ってい るのだろう。 336 学年一位をキープしていた久保さんは指定校で大学を決めていた し、柳瀬やまいちゃんも決定している。僕の一位なんて、彼ら上位 組がいなかったから不戦勝のようなものだ。 ﹁言っとくけど、久保や米原にも後日真剣にやってもらっての畠中 の一位だぞ。しかし何でだったんだろうな、真面目だし決して手を 抜いてるわけでもないのに畠中が今まで一位じゃなかったのは﹂ きっと向上心の差なんだろう。今ならなんとなく分かる気がする。 僕には目標がなかったから。成績だって良いに越したことはないけ ど、誰かに負けたくないだとか学年のトップに立ちたいなんて思っ たこともなかったから。 最後の面談を終えて教科棟の階段に差し掛かると、三階から降り てきた平岡さんに出合った。きっと進路資料室か指導室の中野先生 のところへ行っていたのだろう。彼女も試験が迫っているはずだ。 ﹁畠中くん、センター試験の点数すごく良かったんだってね! 柳 瀬くんから聞いたよ﹂ 彼女は踊り場までの数段を跳ねるように降りてきて、僕の横に立 って丸い目を柔らかく細める。彼女が並んだ形になり、自然と僕た ちはゆっくり階段を降り始めた。 ﹁平岡さんも、もうすぐ入試だよね﹂ ﹁うん、2月に入ってすぐ﹂ 緊張を感じているように彼女は胸の真ん中に手のひらをあてて軽 く目を閉じてから深い呼吸をした。 ﹁緊張する?﹂ ﹁するよー。推薦で落ちてることを引きずってるから悪い流れを呼 び込みそう﹂ ﹁その割には笑ってるように見えるけど﹂ ﹁だって、矛盾してるから。ついこの前まで推薦に落ちて吹っ切れ たと思ってたのに、結局引きずってて。私って口ばっかりだなぁっ 337 て思って﹂ 開き直りの笑いとは。そんな風にして笑わなければやってられな いほど、彼女には旭ヶ丘以外の選択肢は考えられないということな のだろう。 ﹁あのさ、都工大ってね、センター試験の点数は殆ど加点されない んだ。だから事実上、二次試験が一発勝負みたいなもんなんだ﹂ 僕の状況も似たようなものだと、彼女の緊張を和らげたくて言っ たつもりが彼女の表情は驚愕に固まってしまった。 ﹁そうなの? じゃあ、センターですごく良い点数取っても意味な いってことなの?!﹂ ﹁あ、いやっ⋮⋮、意味ないっていうか、足切り程度には意味があ るけど﹂ ﹁そんなぁ⋮⋮﹂ 自分のことのように落胆する彼女が可愛い。 ﹁畠中くん、頑張ってね。⋮⋮もちろん頑張ってるとは思うけど、 私も頑張るから。畠中くんも頑張ってるって思って、精一杯頑張る から﹂ ありがとう。そんな風に言ってもらえるだけで、どこまでも頑張 れそうな気がするよ。 ねえ平岡さん、知ってる? 男ってそれくらい単純な生き物なんだよ。 3年が自由登校に入り、僕は自分が受験する前期日程の少し前に 学校に顔を出した。自由登校とは名ばかりの休校状態で、進路が決 まった人たちもバイトや自動車教習所通いで、登校する者は成績証 明書を取りに来る人くらいしかいない。 職員室の前には合格者の名前と学校名が誇らしげに貼られている。 その数もだいぶ増えていた。 その中に平岡さんの名前もあった。もちろん旭ヶ丘大の写真学科 338 だ。 胸の中で潮が満ちているみたいに嬉しさが込み上げた。 直接彼女にお祝いを言いたかったけど、それは次に会う時になり そうだ。次に会うのは形式だけの学年末テストの時か卒業式だけど。 進路指導室に寄り、中野先生に挨拶をする。 ﹁畠中くん、二次試験頑張ってね。東高から都工大合格者が出るな んて快挙よ!﹂ なんて。合格するかも分からないのに。⋮⋮というか、まだ試験 さえ受けてないんだけどね。 資料室では2年の校章をつけた女子が三人、専門学校のデータブ ックを閲覧していた。きっと将来やりたい職業が具体的に決まって いるのだろう。たった一歳の差と言われればそれまでだけど、一心 不乱に資料を読み耽る彼女たちが僕よりもずっとしっかりして見え た。 校舎から外に出ると冷たい風が頬を擦る。 すっかり丸裸になってしまった落葉樹たちに混じって、銀色の小 さなネコヤナギが真っ青な空を背にキラキラと揺れている。 重いダッフルコートに体を包むと家までの路を急いだ。 339 43 さよならの練習 冬が終わりを告げる三月。 まだ暖かさは感じられないものの、あまり雪が降らない僕たちの 地域に何度か降った雪も雨に変わり桜の木の枝咲きも徐々に赤みを 帯びてきた。春の気配は確実にこの街にも近づいている。 久々の学校は同窓会のような雰囲気で、今までそれぞれの席に収 まっていた人たちも既に新しい環境に足を踏み入れていて、まるで 違う居場所から集まってきたみたいに見えた。 本当にここでの三年間が終わるのだと実感する。 結論から言えば、僕は都工大に受からなかった。 まいちゃんやガクちゃんは、浜国なら受かっただろうとか私大も 視野に入れれば良かったのにと言ったけど、僕に後悔はなかった。 全然なかったと言えば嘘になるが、やれることは精一杯やり切って、 本当にあと一歩、都工大に指先が掠るくらいまでは行けたんじゃな いかと思う。 できたという手ごたえはあった。だけど、できたと思った時は他 の人もまた同じ手ごたえを感じているのが受験というもの。受験ま でに学力だけは着実に伸ばせたが、一つの大学に標準を絞って受験 するには僕の心構えは準備不足だった。 結果は結果で真摯に受けとめて、とにかく自分の努力を初めて自 分で認められるくらい清々しい充実感があった。 両親も、お金のことは心配しなくていいから私大の二次募集を受 験したらどうかと提案してくれた。 340 けれど僕は、一年頑張ってもう一度都工大に挑戦したいと申し出 た。一年間も穀潰しをさせてもらうのは心苦しかったが、意外にも 二人ともあっさりと承諾してくれた。 ﹁秀悟がそうしたいなら、そうしなさい﹂ 二人の顔もどことなく朗らかだった。 僕が自分から意欲や向上心を見せるのは珍しい、そう言われて改 めて、見守ってくれる家族の偉大さや支持してくれる心強さを感じ た。 悔しいけど、全て美帆の言う通りだ。 きっと、先に進むにあたって僕自身が意識を変えないといけない 時期に来ていたんだ。 約一ヶ月ぶりに顔を合わせた平岡さんも、また既にこの学校の人 ではないように感じた。いつもと同じ制服姿で、いつもと同じ髪型 のままなのに、違うステージに身をおいている人のようで、これま でとは別種類の手の届かなさを感じた。 廊下で彼女の姿を見つけた時、彼女はいつものクラスメイトたち に﹁写真に進むなんて意外だった﹂と驚かれていた。僕から言わせ てもらえば、合格者名簿が貼り出されるまで身近な友達に打ち明け ていなかったことが意外だ。 まあ得てして身近なほど言いづらいものなのかもしれない。僕の ただの友達 になれたことが嬉しかっ ように毒にも薬にもならないような利害関係のない立場には差し支 えなかったに違いない。 彼女にとって、そういう た。 平岡さんに﹁おめでとう﹂と言い、都工大を受けたけど受からな かったことを告げた。そして精一杯やるだけのことはやったという 気持ちや、来年もう一度都工大に挑戦するという決意を話した。 341 話す前は気遣わしげだった彼女の表情も、僕が落ち込んでいない ことを分かってくれたようで安心したように和らいだ。 ﹁私、応援してるから﹂ そう言って、友達に呼ばれて教室へと戻って行った。進路の話を 口実に繋ぎとめていた彼女との友達関係もおしまいだ。もう卒業ま でに挨拶くらいしか交わすことはないのかもしれないけど、最後に 自分の口から進路のことを平岡さんに話せて良かった。 去って行く後ろ姿がいつも以上に遠くに見えた。 教室ではしばらく話していなかった神崎さんに声を掛けられた。 もう彼女が声を掛けてくることはないと思っていたので少し驚いた。 ﹁浪人するんだって?﹂ 憚られることを訊くみたいに切り出してきたから、作り笑いなん て苦手だけど出来るだけ明るく笑って神崎さんの問いに応じた。 ﹁うん、まあ、落ちたから。もう一年頑張ってみるけど﹂ 作り笑いになるかと思ったけど、正直な気持ちを話すと自然に表 情も伴うものだ。 ﹁うん﹂ 神崎さんは短く言うと、一瞬口を開き掛けてから言葉を呑み込む ようにして穏やかに笑んだ。それから何も言わずその場を離れた。 彼女が何を言い掛けたのかは分からない。ダメ出しだったのかエ ールだったのか、それとも別のことだったのか。だけど、去り際に 見せた微笑みは今まで見せていた彼女の笑顔とは全くの別物だった。 今まですごく大人びて見えたり幼く見えたりしていた美しい表情は 意図的に作られたものではないかと思えるほどにさっきの笑みは年 相応で、これまで彼女のどんな仕草や表情よりも綺麗に見えた。 まさか自分の高校生活の年表の中に学校一の美人と会話するなん て記述が加わるとは思いもしなかった。 342 ◇ 形式上の学年末テストを終えて、卒業式の予定表が配られた。 中学校までの卒業式とは違い、予行演習しなければならないよう な項目もなく、予定表に書かれていたのは卒業生や在校生の大まか な席割りと進行の時間くらいだった。 卒業生代表の答辞は2年の時に生徒会長をやっていた女子で、一 度も同じクラスになっていないため名前を見ても顔が浮かばなかっ た。 ﹁もう住む所は決まったの?﹂ 十年以上当たり前に近くにいたまいちゃんも、これからは顔を合 わせることが当たり前ではなくなるだろう。 ﹁学生寮に入るから、荷造りは本とか衣類くらい﹂ まいちゃんの進学する筑海大の辺りは学園都市で、周辺環境は研 究所を除けばショッピングモールがあるくらいであとは閑散として いるという。 都市部は苦手だから丁度いいよ、まいちゃんは笑う。 次に会う時は夏休みか年末年始の頃か。約束して会うような間柄 じゃないから、もしかしたらもっとずっと先かもしれない。 ﹁入試でここに来た頃が懐かしいよね﹂ 後ろから聞こえる女子たちの声。 ﹁そういえば、二日目の面接の日、松葉杖の男の子いたよね?﹂ ﹁ああ、たぶんいた。入試の時期に災難だなぁって思った記憶ある わ﹂ 彼女たちが話しているのが自分のことだと分かり、居心地の悪い 気恥ずかしさが最近のことのように蘇る。 343 ﹁そうそう。しかも一日目から雨で私たちでさえ滑りそうだったじ ゃない? 縁起悪いねー、って笑ったよね﹂ ﹁あの時、マユがここを拭いて行ったんだよね。あの辺から乾いた モップを持って来て。拭いた後に自分がコケて、大笑いしたよね﹂ ﹁あー、そうだった。後の人が転ばないようにって、やたら丁寧に 拭いてたっけ。拭き終わってすぐに濡れてもないフツーの所でコケ てるんだもん、マユやってくれるわー﹂ ﹁あれは笑ったよね﹂ ﹁コケた私が合格できたら、きっとあの男の子には良い高校生活が 良い高校生活 があるとは、あん 待ってるはず、なんて意味不明の確信を感じてたよね﹂ ﹁そうそう。この高校で男子に まり思えないけどね﹂ 在りし日の思い出を語る彼女たちが過ぎて行く。 ﹁松葉杖って、畠中ちゃんのことじゃない?﹂ まいちゃんが小さく呟いた。 やっぱり彼女だったんだ。あの時の女の子は平岡さんだったんだ。 骨折して、交通機関を使って桜ノ宮高校を受験しに行く気が失せ て、近いから東高でいいやという投げやりな気持ちで受験して、そ んな安易な気持ちにバチが当たったみたいに雨が降った。 そんなどうしようもない僕を振り向いてくれたのは彼女だった。 あの時、少し先を歩いていた彼女は、僕が転ばないようにと雨で 濡れた昇降口を拭いて行ってくれた。 彼女はいつも僕の前を歩いていて、無気力で生気がなくどうしよ うもなかった僕に温かい優しさをくれた。最初から最後まで、いつ も。 344 平岡さんがいることが当たり前だった景色が輪郭を滲ませて行く。 僕たちは剥がれ掛けたタンポポの綿毛のように、次の風に乗って ここを巣立つ。それぞれの場所へ。 彼女は僕の知らないずっとずっと遠くへと。 そしてきっと、どんどん僕の知らない人になってゆくのだろう。 元々僕のような無味無臭の人生を歩んでいた人間が彼女と接点を 持てたこと自体が奇跡だった。淋しいけど、これからも目指す道を 頑張る彼女の幸せを祈りながら、彼女と出会えたことを誇りに、そ して僕自身も頑張っていると誇れるように生きていこう。 彼女に出会って僕は確実に成長した。 今は先は見えないけど、それでも自分は前を向いて生きていると 言い切れる。 最後に晴れやかにさよならが言えるように、僕は頭の中ですり切 れるほどレクチャーを繰り返す。 頭の中の笑顔の自分とは裏腹に状況を思い浮かべる度に胸の痛み が強くなる。 本番はたった一瞬だ。 たった一瞬、胸の痛みに耐えれば終わる。 自分に繰り返し言い聞かせ、さよならの練習を頭の中で続けた。 345 44 散る花の向こう側︵前編︶ 卒業式なんて本当にあっけないものだった。 中学校の時は巣立ちの歌の斉唱から嗚咽を始める女子もいたけど、 高校生にもなるとサッパリしたものでハンカチを出している人さえ 見かけない。 中学から高校に進む時よりも散り散りになるのに、多感な年頃も ピークを過ぎたからなのか、それとも別れに慣れたためなのか。 講堂での式典が終わり教室へと戻る人の波の中で、男子たちがネ クタイを緩めて伸びをする。この光景も見納めなんだ。 ﹁畠中ちゃん、アドレス教えてよ﹂ 教室に戻ると早速ガクちゃんにスマホを奪われた。情報源はまい ちゃんだろう。 高校受験を終えた弟がスマホを買ってもらうことになり、家族割 りという店員の甘言にまんまと乗せられた母さんが、自分もスマホ に機種変してついでに僕にもスマホを持たせると言い出した。 進悟みたいに志望校に合格したわけでもないし、ましてや連絡を 取り合う相手もいない僕には買ってもらう理由なんてないんだけど な。必要ないと断っても、秀悟が同じ機種を持っていれば母さんが 使い方を覚えなくて済むのよと強引に押し切られてしまった。その スマホで、朝まいちゃんと連絡先の交換をしたところだった。 ﹁特別に連絡取り合うようなことはないだろうけど、繋がってるっ て思うだけでなんか嬉しいじゃん?﹂ まいちゃんはそう言って長い指で素早く画面をタップしていた。 ガクちゃんに続いて尾崎や杉野も連絡先を交換しようとやって来 た。二人は﹁畠中ちゃんもついにスマホ持ったか﹂と待ち侘びてい 346 たかのようなことを言ってくれた。 ﹁俺も浪人だから、来年はお互いに良い報告ができるようにしよう な﹂ 杉野が僕の肩を叩いた。 尾崎は桜ノ宮工科大学に進学を決めていて、杉野は私大の理工学 部を三校落ちて一年浪人するという。 どこか予備校に通うのかと訊かれたので、もしかしたら夏期講習 くらいは行くかもしれないけど基本は自習だと言うと、余裕だなと 冷やかされた。 紺野先生の挨拶が済んで卒業証書の紙筒と卒業アルバムが配られ る頃には、早めに解散したクラスが廊下や中庭に出始めて賑やかに なってきた。 せっかくだからと教室を出る前にそれぞれのスマホで写真を撮り 始めたが、何故か僕のスマホは電源が入らなかった。ケータイさえ 持ったことがなかったせいで、買ったばかりのスマホが充分に充電 されていないことも知らずそのまま持って来てしまったことが仇に なった。その上、まいちゃんやガクちゃんに勝手に色々とアプリを 入れられて、あっと言う間に充電切れになってしまったのだ。 尾崎が充電器を貸そうかと言ってくれたけど、帰る寸前になって 充電を始めるのも無意味な気がして、そのままスマホをダッフルコ ートのポケットに仕舞った。 高校最後の一年を過ごした教室を見回して、誰が言い出すともな く僕たちは自然に廊下へと足を進めた。 ﹁畠中ちゃん、頼まれ物﹂ 浜島に呼び止められて茶色い封筒を手渡された。 ﹁これ、なに? 僕に?﹂ 中には小さな箱状の物が入っている手触りで、封筒の口が何重か 347 に折られて閉じてある。 ﹁式が終わった時に富樫が走ってきて、これ畠中ちゃんに渡してく れって﹂ 自分で渡せばいいものを。なんで富樫はわざわざ浜島に頼んだの だろう。 ﹁あいつ、変だろ。ヤナちゃんが言うには、最後くらい俺と話す口 実が欲しかったんだろうってさ﹂ 富樫が部活に出なくなってから浜島との間に溝ができていたのは、 同じクラスで浜島を見ていてなんとなく分かっていた。平岡さんが 外泊した噂や、修学旅行中に別れ話になったという噂が立った後は 尚更だった。 けれど、照れくささを誤魔化すように笑う今の浜島の顔は、色々 あったけど水に流していると物語っている。 ﹁帰ってから開けて、だってさ﹂ 結局中身の見当がつかないまま、仕方なしに了承した。 ﹁俺さ、東高に入って楽しかったよ。ヤナちゃんとか畠中ちゃんと か良い友達もできたしさ。好きな子には、別の人の橋渡しをされち ゃって落ち込んだけどね﹂ 平岡さんが後輩の女の子に頼まれて屋上に浜島を呼び出した時の ことだろう。見てしまったと言うべきだろうか。考えていると浜島 が話しを続けた。 俺なんか って思ってきたけど、 ﹁でもそれが答えなんだって納得できた。納得するには少し時間掛 かったけどね。それに、ずっと 俺も案外捨てたもんじゃないんだなぁって、思ったりして﹂ ﹁橋渡しの件?﹂ ﹁あ、うん。その子同級生の男子のこと好きなんだろうって思って たんだ、剣道部の後輩に何人か格好良い奴いるからさ。⋮⋮っつっ ても皆、繭子さんの親衛隊なんだけど。その子のこと、好きだとか 嫌いだとか考えたことなかったから断ったんだけどさ、負けないん 348 だよ﹂ 確かに屋上での告白を聞いたら、ちょっとやそっとフラれたくら いでは諦めるように思えなかった。 ﹁俺、自分が好きだった子にあそこまで頑張れたかなぁって考えた んだけど、頑張れなかった気がするんだよな。告る勇気もなかった し。告ってフラれたら、確実に翌日から顔合わせられなくなった自 信あるし﹂ 最後に教室に入った7組もホームルームが終了したようでバラバ ラと廊下に人だかりが出来始めた。 ﹁好きになるか分からないけど、逃げないでその子と向き合ってみ ようと思う﹂ 浜島はそう言うと、渡り廊下で待つ斉藤さんや永田さんに呼ばれ て僕に別れを告げた。 ﹁これから剣道部で送別会なんだ﹂ 手を振りながら待っている人たちの元へと走って行く浜島を、僕 は立ち止まって見送った。 ﹁さてと、俺たちも外に出ますか﹂ さっきまで別のクラスの友達とアドレス交換をしていたまいちゃ んが僕を促し、僕たちもゆっくりと昇降口に向かった。 教室棟のホールから短い渡り廊下に踏み出すと、中庭と反対側の グラウンド側の両方に有名人でも現れたのではないかと思うほどの 人だかりが出来ていた。 ﹁なに、あれ﹂ まいちゃんも驚いて、その場に立ち止まる。爪先立ちをしたり首 の角度を変えたりしながら、遠巻きに人だかりの様子を窺った。 中庭の方はスマホやケータイで撮影している男子たちの中心に神 崎さんがいた。さすが学校一のアイドルは伊達じゃない。キメポー 349 ズもなかなかのものだ。 きっと校門を出た所にもカメラ小僧が待ち伏せしているだろう。 ﹁さっきまで、同じクラス⋮⋮だったんだよ、な﹂ 強烈な光景に圧倒された僕たちは虚しく笑った。 一方のグラウンド側の人だかりは、下級生らしき男女が手に花束 を携えて、輪を作っていた。人だかりが蠢く隙間から見えたのは、 平岡さんや永田さんや斉藤さんや久保さんといった剣道部女子の面 々で、永田さんや斉藤さんたちとの間に壁が作られてしまっている みたいに平岡さんだけ一際大きな人だかりに囲まれていた。彼女は 手に持ちきれないほど花束を抱えて困惑気味な顔をしている。 輪から少し離れた所で柳瀬や浜島が苦笑いしていた。 さよなら を言う練習を頭の中で頑張 最後に挨拶していきたいと思ってたけど、あの様子では無理そう だ。 付焼きだけど、さらりと ったのに、披露する機会もなさそうだ。 ﹁⋮⋮いいの?﹂ まいちゃんが僕の顔を覗き込む。 ﹁うん、行こう﹂ 大きく息を整えて彼女を取り囲む輪に背を向けた。 ﹁何やってんだよ。黙って帰るとか許さないからな﹂ 昇降口のガラス戸の前に尾崎が立っていた。怒気の黒いオーラを 背負った彼は目を細めて睨みつける。 ﹁え⋮⋮?﹂ ﹁え、じゃねーよ。最後くらいビシッとキメて来いよ﹂ 腕組みをしたまま、人だかりの方を顎でしゃくる。尾崎は僕が平 岡さんを好きだって知ってるの? まいちゃんが言ったわけじゃないよね。 350 ﹁まいちゃんは言わねぇよ。だいたい畠中ちゃん見てれば2年の時 点で丸分かりだっての﹂ ひた隠してきたつもりだったのに、バレていたとは思いもよらな かった。 しかし、どう考えたってあの輪の中に入って行けるとは思えない。 そもそも場違いだ。 ﹁もうフラれるとかフラれないの次元じゃないんだろう? こんな イイ男が真剣に高校生活を捧げてたこと、ちゃんと本人にも教えて やれよ﹂ ﹁イイ男なんかじゃないよ﹂ 尾崎やガクちゃんの方がずっとずっとイイ男じゃないか。それな とか言うなよ? 俺もガクちゃんも のに僕みたいな暗キモい非モテの地味男があの輪の中に入って行っ 僕なんか たら彼女もいい迷惑だ。 ﹁この期に及んで 杉野も浜ちゃんも、畠中ちゃんのストレートな想いを格好良いって リスペクトしてたんだからな﹂ 僕が平岡さんを好きだと周囲が知っていたと初めて聞かされた上 に、今まで知らなかった皆の思いを聞かされて、頭が混乱する。 背中を押してくれるのはありがたいけど、なんて言えばいいんだ よ。好きだと告げることにどんな意味があるんだよ。告白なんて、 付き合いたい人がすることじゃないのか? そこまで考えてない人 間は告る必要なんてないんじゃないか? 付き合うなんて高度な芸当、考えたこともない。だいたい付き合 うって、どうするんだ? デートすること? 行きたい場所も、女 子がどんな所に行きたいかも思い浮かばないぞ。 いかん、パニクり過ぎだ。冷静にならないと。冷静に考えれば、 告白の先まで危惧する必要がないことくらい分かるはずだ。心配な い、必要ない。告っても﹁ありがとう、ごめんね﹂で終わるのだか 351 ら。 けれど、告られる度に心を痛めてきた平岡さんに、最後だからと 言ってこんな仕打ちをして良いものだろうか。ただの友達だと信じ させてきた男が実はずっと彼女のことを友達だなんて見てなくて、 最後の最後に裏切りを暴露するなんて、それこそ彼女を人間不信に さよなら で締めるしかないだろう。 させてしまうのではないだろうか。 ここはやっぱり けれど頭の中で繰り返したさよならの練習も一旦無駄になって、 今からもう一度なんて心の準備ができないよ。 寄せては引く波みたいに、僕の心の中で交感神経と副交感神経が 激しく交互に乱れ合う。 352 44 散る花の向こう側 ︵後編︶ 挙動不審に動揺していると汗ばんだ手のひらが震えて、浜島に渡 された富樫からの封筒が滑り落ちた。 慌てて拾い上げると何重にも折り返してあったはずの折り口が広 畑中秀吾殿 アイツの大事な物です。返してやらないとア がってネガフィルムの紙箱と一緒に小さい紙切れが顔を出した。 イツは心に傷をかかえたまま一生過ごすことになるでしょう。くれ ぐれも謝っておいて下さい。ヨロシク! 富樫のヤツ、滅茶苦茶だ。畠が違うし、悟も違う。 帰ってから開けろって、帰ったら平岡さんとはもう会えないのに。 という置き土産は、これ しかもいつか富樫と中庭で話した時に、思わせぶりに言い残した アイツの大事なもん奪っちゃったから のことだったのか!! 僕はてっきり、あの、その⋮⋮、女の子が一生に一度、好きな相 手に捧げるアレかと⋮⋮くそう、やられた。 いや、やられたのは僕じゃない。こんな下品な言い方は不適切だ。 だが、全ては否定できない。なにしろ、あの捻くれ者の富樫のこと だから。あの件は、当時学校中の噂になっていたし、彼女本人も噂 の内容を把握しながらも明言を避けたのだから。 ⋮⋮と、危うく富樫に躍らされるところだった。 彼女がどうであろうと僕は彼女のことが好きで、別件で彼女への 想いを断ち切ろうとしても断ち切ることができなかったのに、今さ ら富樫のトラップに引っ掛かって昔のことを蒸し返すなんて、まさ に富樫の思う壺だ。 353 返してやらないと彼女が心に傷をかかえたまま一生過ごすなんて 書かれたら渡しに行かざるを得ない。 きっと富樫は今頃、何も知らずに封筒ごと家に持ち帰ってしまう であろう僕がこのメモからあんなことやこんなことを邪推して一人 部屋の中で悶々と一喜一憂する姿を思い浮かべて笑っているだろう。 悪趣味だ。本当に富樫は悪趣味だ。悪趣味にも程がある。 ﹁お、いたか﹂ この寒い中、季節外れの汗をかきながら走ってきたガクちゃんが 僕たちの前で足を止めた。 ﹁ごめん、ラグビー部の連中に足留め喰らった。で、どんな状況?﹂ ﹁どうもこうも、見ての通りっスよ。この離乳食系男子くんは、な かなか一歩が踏み出せないみたいですわ﹂ 尾崎は大袈裟に溜め息をついて肩を竦める。 今度は杉野が走ってきて、僕たちに向かってにんまりと笑いVサ インを示す。 ﹁浜ちゃんたちに粗方片付けてもらった。下級生の殆どは浜ちゃん や永田さんたちが武道体育館の方へ連れて行くってさ。ヤナちゃん には平岡さんが移動しないように時間稼ぎしてもらってる﹂ ﹁よっしゃ、杉野ナイス!﹂ ガクちゃんと尾崎が杉野とハイタッチを交わす乾いた音が響く。 ﹁平岡さんを一人にするのはさすがに無理だけど、もうだいぶ人減 ったから、周りに遠慮しないで声掛けておいでよ﹂ 杉野が僕の肩に手をおいてにっこりと笑った。 ﹁す、杉野は?﹂ ﹁ん? 俺はいい。割と家も近いし中学の友達も共通の友達多いか ら、会おうと思えばいつでも会える。それに今は俺のターンじゃな いからね。俺のターンが回ってきたら手加減しないよ﹂ おまえ、余裕だな。なんて尾崎やガクちゃんに冷やかされて笑う 354 杉野につられてまいちゃんも笑っている。 ﹁さ、できるお膳立てはこれで全部だ。胸張って行って来い﹂ ﹁なんでそこまで⋮⋮﹂ 尾崎もガクちゃんも杉野も、なんで僕なんかのためにそこまでし てくれるんだ? ﹁スマホのアドレスを教えてくれだろ﹂ そんなことで⋮⋮。連絡先を教えてもらったのは僕の方だ。皆が ケータイやスマホで連絡取り合っていたその仲間に│││学校とい う繋がりがなくなるのに│││加えてくれたのはガクちゃんたちの 方だ。 ﹁そんなシケた顔するなよ。これまで成長してきた集大成だろ? 逃げるなよ。どんなに格好悪くても、前に踏み出せよ。卒業の日が 来たから押し出されるんじゃなくて、自分からゴールのテープを切 ってみろよ﹂ ガクちゃんに思い切り背中を押された。 。 これじゃ押し出される気がするけど、平岡さんがいる所までの距 離はだいたい30m 彼女の前に立って何をどう言えばいいか分からないけど、最初の 一歩を皆がくれたから、僕はもう進むしかない。 数人の後輩に囲まれて、その人は木の下に立っていた。両手に抱 えきれないほどの花束を抱えて。 彼女よりも先に、山本という後輩が気づいて敵意丸出しの視線を 浴びせてきた。目だけで射殺されそうな鋭さで気圧されたけど、高 355 校生活の半分くらいからそんな目で見られことは慣れっこだ。 なるべく気にしないようにして、勇気を出して彼女に近づく。 楽しそうに女子の後輩││浜島に告白していた子││と話してい た平岡さんが、こちらに気づき一瞬目を丸くしてから明るく微笑ん だ。 このまま時間と一緒に全てが止まってしまえばいいと本気で思え るくらい、僕の心臓の鼓動は騒ぎ出していた。 ﹁畠中くん、一緒に写真を撮ろうよ﹂ 彼女の笑顔を鮮明に焼き付けたい。 僕の目がカメラのシャッターだったら、どんなに良いか。 彼女が好きだ。目の前のこの人のことが、どうしようもなく好き だ。 何十回と頭の中で繰り返したさよならの練習なんて吹き飛んでし まうくらい。﹁さ﹂の文字を唇が作ろうとすると裂けそうに心臓が 痛んでそのまま止まってしまいそうになる。 ﹁アヅサちゃん、シャッター押してくれる? 大丈夫だよね?﹂ 平岡さんが浜島に告白していた女の子に指示を出す。 ﹁はいはい、なんとかイケます。先輩のこのカメラ、叩き込まれま したからね﹂ 投げやりだけど愛情のある返答をしたアヅサさんは、平岡さんの 旧式のフィルムカメラの装置を手の中で確認しながら撮影の間合い を取った。 ﹁あ、これ。今日、富樫から渡すように頼まれてたんだ﹂ 彼女のカメラを見て、預かったネガフィルムの存在を思い出した。 ﹁富樫くんから? ⋮⋮でも、ごめん、今持てそうもない﹂ 腕いっぱいの花束を持て余した彼女が可愛らしく困った声を出す。 ﹁そうだ、畠中くん、半分持って。一緒に撮るのに私だけこんなに 持ってたら変でしょう?﹂ 356 ﹁僕のじゃないのに持つ方が変だよ﹂ ﹁細かいこと気にしないの。貸し衣裳屋さんのアイテムだと思えば いいじゃない﹂ 僕の意見を完全スルーして平岡さんは強引に花束の半分を僕に押 し付けた。 お、重い。長年続いたお昼の番組の人気ゲスト以外でこんな量の 花をもらう人がいるのか。半分でこの重さなのに、笑顔で全部持っ ていたって、どれだけタフなんだ。 ﹁そんな能天気な。平岡さんに贈った人の気持ちに失礼だよ﹂ ﹁私が能天気くらいじゃないと、その世界が終わりそうな形相をな んとかしてくれないでしょ。普段の畠中くんが台無しだよ﹂ ﹁そんなに酷い顔してる?﹂ ﹁うん。高校最後くらい自然な顔して﹂ 最後くらい⋮⋮、そうだよ、最後くらい笑わなきゃ。笑ってさよ ならしなきゃ。 ﹁ちょっとー、先輩、撮りますよー? 深刻な顔で見つめ合ってな いで、ちゃんとカメラの方を向いてくれますー?﹂ ﹁あ、うん。アヅサちゃん、ごめん﹂ 平岡さんはアヅサさんに返事をしてから素早く僕を見て﹁いい?﹂ と小さく、優しい声で確認した。 高校最後 は 僕は頷いて、カメラの方を向く。笑顔でもないし、いつも通りの 顔してる自信は全然ないけど。 ﹁じゃあ撮りまーす﹂ アヅサさんの声の後に微かな音が続き、僕たちの 完了した。 平岡さんは僕の手から花束を回収して、アヅサさんの所に走り寄 りドサッと彼女に託して戻って来た。 手元から花束がなくなった平岡さんは、制服のリボンもブレザー 357 のボタンも完売した状態で、片手でブレザーの前を合わせて恥ずか しそうに笑った。 ﹁これ。富樫から預かったやつ﹂ 彼女の手のひらの中にそっとネガフィルムを落とした。 ﹁⋮⋮﹂ 彼女は十秒くらい無言でそれを見つめていた。 ﹁ちょっと、先輩、あり得ないくらい重い!﹂ ﹁すぐ済むから少し持ってて﹂ そう言った後、平岡さんは身体ごと僕の方を向いて口を噤んだ。 そのまま黙って、瞳をあちこちに彷徨わせて何かを逡巡している。 表情の扉を閉ざすわけでもなく、眉根を寄せたり口の中で何かを呟 いたりしながら目まぐるしく表情を変える。まるで頭の中で難しい 計算でもしているようで、下手に声を掛けるのは邪魔をするように 思えた。 彼女が何かを考えているのか分からず、自分が彼女に最後の挨拶 をしに来たことも忘れて、ただ彼女の逡巡にピリオドが打たれるの をじっと待った。 ﹁先輩、重いよ。もういい?﹂ 痺れを切らしたアヅサさんが平岡さんに声を掛ける。 ﹁ちょっと待って﹂ 相変わらず僕の方を向いたまま、手だけでアヅサさんを制して逡 巡を続ける。 ﹁もぉぉぉ、先輩っっ!﹂ アヅサさんの声と同時に平岡さんが僕に向かってこう言った。 ﹁畠中くん、明日って何か予定ある?﹂ 358 言ってる意味が分からない。さっきまで彼女が一人で考えごとを 巡らせていた時より、出た結論の方がよっぽど分からない。 平岡さんを急かしていたアヅサさんから声にならない歓声が上が る。後輩の男子たちが息を呑むのもピリピリと雰囲気で伝わってく る。 けれど平岡さんはそんな周囲を一切気にも留めずに、マジマジと した顔で僕を見つめて返答を待っている様子だった。 ﹁あ、明日⋮⋮。と、特にない、け、ど﹂ ﹁じゃあ、もし迷惑じゃなかったら付き合って欲しい所があるんだ けどいいかな?﹂ ﹁え⋮⋮﹂ ﹁心配しないで。変な所には連れて行かないから。私の好きな場所 だから﹂ 彼女は踵を上げて、僕の耳元に﹁桜ノ宮駅の三番ホームに十時ね﹂ と囁いた。耳に彼女の息が掛かるほどの秘密の囁きで、一瞬のうち に蒸発しそうなくらい身体中が沸騰した。 ﹁約束だよ、待ってるから﹂ もう一度ハッキリと笑い掛けてから、アヅサさんの元に走り寄っ て全ての花束を受け取った。 それから最後に僕の方を振り返って﹁またね、バイバイ﹂と言っ て後輩たちと去って行った。 見届けていた柳瀬が、いつものクールな彼らしくもなく興奮気味 に﹁良かったな﹂と、僕の肩口に軽く拳を当てて行った。心なしか 少し痛い。 何が起こったのか分からないまま放心していた僕の周りに尾崎や ガクちゃん、杉野やまいちゃんがバタバタと走って来て、口々に何 かを言ってたちまち揉みクチャにされた。 359 僕が用意してきた てしまった。 さよなら は、彼女の もしここでエンドロールが流れるならば、 バイバイ という に消され その他大勢 一括りではなく僕の名前も載ったかもしれない。 別れの季節の花は桜じゃなくて、梅だったんだ。 高校最後の瞬間にそんなことを思いながら、ハラハラと舞い泳ぐ 東高名物 は地元テレビの取材が来るくらい校舎前を 花びらを目で追い、学び舎を後にした。 卒業式の 賑わしていた。 360 45 夢の続き 卒業式から一夜明けて、僕の肩書きは﹁十八歳︵無職︶﹂になっ た。 昨夜充電したままだったスマホを朝になって起動させると、アド レスを交換した四人からのメッセージの見出しがずらずらと画面に 表示されていた。 ﹁ううっ⋮⋮﹂ 全文に目を通すまでもなく、彼らの勘違いが見て取れる。 何年後か分からないけど結婚式の招待を楽しみにしてる︵笑︶ ︱尾崎博文 ハッピーエンドに感動しました。いつでも相談のるからな ︱東堂学 平岡さんを射止めるのは畠中ちゃんしかいないと思ってたよ。 ︱杉野遼平 お幸せに! 親友の告白シーンを生で見るとは思わなかった。おめでとう。 ︱米原薫 格好良かったよ ⋮⋮勘違いです。完全に勘違いされてます。 361 結局告白なんてできなかったし、ハッピーエンドでも何でもない。 近くにいたアヅサさんも見切り発進で騒ぎ始めたし、彼らの位置 からではこちらの話しが聞こえてなかっただろうから、あの状況で そんな風に解釈されても仕方ないけど。 彼らが称賛してくれたのは、彼女に挨拶をすることを諦めていた 僕が挨拶しに行った勇気にだと思っていた。なのに何故か、告って、 しかもうまく行ったと思っているようだ。 困った。非常に困った。 勘違いだと気付いてもらうには、どう弁解したら良いのだろう。 平岡さんにどこかに誘われたと言って、通じるだろうか。 ﹁どこへ?﹂﹁なんで?﹂と返信が返ってきても、答えられない。 本当に何も知らないのだから。 なのに漠然としたことだけ伝えたら﹁それデートだろ﹂と言われ るに決まってる。ますます弁解がややこしい。恋愛キャリアが皆無 なんだ、こういう状況は何というのか僕のスキルでは説明しようが 剣道部の送別会の前で急いでいたみたいです。用件も言わずに ない。 モタモタしていた僕を見かねて、改めて時間を取ってくれたんだと 思います。ちなみに告ってません それだけ一斉送信すると、矢継ぎ早に返信が返ってきた。 なんなんだ、早過ぎるぞ。ケータイやスマホを使う人たちって、 これが普通なのか? 教室でガクちゃんが勝手に入れていたアプリと思われるメッセー ジが表示されて﹁ガクさんからグループチャットに招待されていま 362 す﹂と書いてある。 指示通りにタップしていくと尾崎と杉野とまいちゃんの名前もあ り、会話の吹き出し風の画面から次々に文字が飛んできた。 つ、ついて行けない!! 口頭以外で込み入ったことを説明するなんて文系が不得意な僕に は無理だ。しかも証明問題や数式の説明ではなく、昨日の経緯とな あの場は立て込んでたから仕切り直しってことか。卒業後にま ればこれ以上の難問はない。 で会いたくない相手にそんな提案しないよ。とりあえず縁を繋げて こい 僕が言葉が苦手なことを知っているガクちゃんが、前文から状況 を察して要約と一緒に助言をくれた。 頑張れ お礼を打とうとすると、僕が一文字目を入力するより早く、他の 三人が次々に ありがとう と打って、やり取りが終わった。 とメッセージを入れてきた。 最後に僕が 科学の道に進もうとしている人間が言うのもナンだけど、文明の 利器について行くのはハードだ。 皆、なんであんなに入力が早いんだ? 頭で考えた瞬間にスマホ が文字に起こしてくれてるんじゃないかと疑いたくなる。実はそん なアプリがあったりして。⋮⋮ないか。僕が置いて行かれているだ けだ。頭が痛くなりそうだ。 いつの間か天気予報が終わり、九時になりましたと男性アナウン サーの声が告げる。ハッと我に返り、部屋の壁に掛けたコートを慌 てて羽織って財布とスマホをポケットに突っ込んだ。 363 電車に乗るのは久しぶりだ。 通学ラッシュの時間を過ぎて乗客が疎らな車内には、明らかに遅 刻している学生が惰性でスマホをいじっているくらいで、自分が制 服も着ずにこんな時間に外にいることが悪いことでもしてるような 気分だ。 幾つかの駅を過ぎて電車が減速を始め、車内アナウンスが桜ノ宮 駅に着くことを告げると落ち着かない心地になった。 生真面目な平岡さんが来ないはずなんてない。分かっていても、 もしかしたら約束自体が僕の夢か妄想だったのではないかと思えて くる。自慢じゃないが、僕は一度だって休みの日に待ち合わせなん てしたことがない。女子はもちろんのこと、男子ともだ。そして休 日を誰かと過ごすなんて考えたこともなかった。待ち合わせた後、 一体どうしたら良いのか過ごし方が分からない。だから自分から誰 かを誘うことなんてなかったし、誘ってもらえる日が来るとは思い もしなかった。その相手が平岡さんだなんて、いくらなんでもでき 過ぎだ。 今だってやっぱりこれは何かの間違いではないかと思えて仕方な い。 会えなかったらそのまま帰るだけだ。 電車を降りるとホームの階段の傍に平岡さんが立っていた。車内 はガラガラだと思っていたけど下車すると階段に向かって歩いてい る人は多く、その中に紛れてもすぐに彼女の姿を見つけることがで きた。 そしてそれと同じように、彼女もまた人波に呑まれているはずの 僕をしっかりと見据えて笑いかける。 裾と袖口にベージュ色のラインが入ったチョコレート色のコート を着てグレーのバッグを持っている。優しいフォルムの踵の低いス ウェードのショートブーツも彼女によく似合っている。清楚で可愛 らしい初めて見る彼女の私服姿にドギマギと目が泳いでしまう。 364 何を話せばいいのか分からない。でも何か喋らないと変だ。相変 わらず言葉を探すことしかできない僕に彼女は笑顔で駆け寄る。 ﹁おはよう。少し寒いね﹂ 昨日までと違う格好で、昨日までと同じ笑み。彼女が僕のために ここに立っているのかと思うだけで、気が変になりそうなくらい頭 の中がグラグラ揺れた。 ﹁畠中くん、切符ちょうだい﹂ ﹁これ?﹂ ﹁うん、こっちあげる﹂ 彼女は僕の手の中から東雲発の切符を抜き取り、代わりに桜ノ宮 からの切符を差し込んだ。 萌え とか キュン死 の気分なの もうなんというか、一つ一つの仕草が可愛くて、悶え死にしそう だ。これが俗にいうところの かもしれない。そういう言葉が存在する意味が今ハッキリ分かった。 次に来た電車は急行だったせいか、混雑とまではいかないものの 座れるほどの余裕はなかった。このくらいの時間になると僕たちの ように卒業式が終わった人たちが多いのかもしれない。 車内では扉の脇に立ち、昨日の剣道部の送別会の話になった。 後輩たちの涙につられて永田さんと斉藤さんが号泣し、三年生一 同が驚いたという。 ﹁浜島くんが笑ったらね、理恵ちゃんピタッと泣き止んで猛烈に怒 り出したの。それ見て今度は柳瀬くんの笑いが止まらなくなっちゃ って﹂ おかしそうに目尻を拭う平岡さんを見て僕も笑う。永田さんはど うにか想像がついたけど、斉藤さんの号泣と柳瀬の笑いの虫はどう 頑張っても想像がつかなかった。 それから二回乗り換えて、﹁朱雀公園前駅﹂という小さな駅で彼 365 女に続いて降りた。 駅前には噴水を囲んで小さなロータリーがあり、コンビニとベー カリーが一軒ずつとバス停と交番があるくらいだった。 ﹁ちょっとここで待っててね﹂ そう言って彼女はベーカリーの中に入って行った。少しノスタル ジックな佇まいのベーカリーのガラス戸が揺れてドアベルかカラカ ラと鳴った。 彼女はまっすぐにレジカウンターに向かい、そこにいた三十代く らいの女性が最初に驚いた顔をしてからすぐに破顔して出迎えてい た。どう見ても顔見知りの反応だ。 ベーカリーの女性はカウンター横のショーケースの奥から手さげ の紙袋を持ってきて彼女に手渡した。お金を払った彼女がベーカリ ーの女性に挨拶をしながら外に出てくる。 ﹁ごめんね、待ってもらっちゃって﹂ 言うなりテンポよく歩き始めたので僕もそれに従った。 彼女の両手が荷物に占められてしまったので、手さげの紙袋を持 とうかと申し出たのだが、目的地はすぐだからと遠慮された。 二分と歩かないうちに、なだらかな丘陵のような広々とした緑地 が広がり、彼女が歩調を緩めた。 パノラマの緑地側の奥の方に目隠しのように並んだ金木犀の隙間 から重厚な建物が見える。彼女はその近くの一番陽当たりのいいベ ンチを指差して﹁あそこに座ろう﹂と言った。 建物に近づくにつれ、大きな足音やパチパチと豆を煎るような音 が無数に聴こえてきた。 ﹁あれは武道館。今もどこかの団体が稽古してるみたいね﹂ 先にベンチに彼女が腰掛け、僕も後に続く。 ﹁剣道の昇段審査や中学生以下の県大会はここが会場に使われるか ら、よく来てたの﹂ 僕の知らない彼女の話。僕は、その懐かしむような遠い笑顔の横 顔を盗み見る。昨日までの彼女は高校生で今日からの彼女は大学生 366 なのではないかと思うほど、何かを懐かしむ彼女の表情は大人びて 見えた。表情一つでガラリと雰囲気が変わるから女の子って不思議 だ。 電車の中で話している時は高2の頃に戻ったような身近さで舞い 上がっていた。 けれど違う。もうすでに大学生の雰囲気を纏いつつある平岡さん と、その隣にいるのは何者にもなれない男。 彼女はベーカリーの紙袋を座った真ん中に置いて、僕にパンを勧 めた。 ﹁ここのパン、結構美味しいんだよ﹂ あらかじめ店の人に取り置きしておいてもらったらしい。 ﹁いつかのお返しになってるといいけど﹂ 手渡してくれた楕円形の揚げパンをかじるとトマトの爽やかな酸 味とオリーブオイルの風味が口の中に広がった。 ﹁美味しいでしょう。一見カレーパンだけど中身はラタトゥイユな の。私のお気に入りなんだけど、売り切れちゃうことが多いの﹂ 具がしっかりグリルされているのかやや大きめにカットされてい る野菜の一つ一つが甘い。同じものを食べている彼女が僕と目を合 わせて微笑んだ。 彼女の言った通り、次に手に取ったドライトマトとキノコのソテ ーを挟んだカスクードもその次に食べたクイニーアマンも東高の売 店のパンとは比べ物にならないくらい美味しかった。東高の売店に こんな洒落たパンはなかったけど。それにしても、東高の売店のパ ンだって工場生産品ではなくきちんとしたパン屋でその日のうちに 作られた物で評判は良かったんだけどな。 ﹁今日は大きめのを持って来たので遠慮なく飲んでね﹂ いつも学校に持ってきていた物より大きめのステンレスボトルを 367 バッグ取り出した。 ﹁重かったんじゃない?﹂ 1リットルサイズのボトルに液体を入れて重くないわけがない。 どうして今まで気づかなかったんだろう。もっと早く荷物持ちを 名乗り出るべきだった。 やっぱり僕は全然なってない。 ﹁大丈夫。剣道部なんて防具一式持って移動するから、これくらい ならお箸を持つのと同じこと﹂ 得意げに笑って片方を押し付けた。 中身は焙じ茶かと思ったが、玄米茶だった。 ﹁またパンにミスマッチなお茶持って来ちゃったね﹂ 彼女は申し訳なさそうに笑ったけど、全粒粉の香ばしいパンに玄 米茶の香ばしさが意外と馴染んだ。 なにより三月中旬の屋外で湯気の立つ飲み物はありがたかった。 カップ一杯分のお茶を飲み干すと、彼女はコートの膝の辺りを簡 単に払い、立ち上がる支度を始めた。 どうやらこのベンチが最終目的地ではないようだ。 368 46 アディショナルタイム 彼女が僕を連れて来たのは朱雀公園の敷地に隣接する神社だった。 星座や六曜に興味があるわけではないけど、朝たまたまカレンダ ーを見たら今日は赤口だったからと彼女は言う。赤口とは午前十一 時くらいから午後の一時くらいまでの、一日のうちの真ん中辺りに あたるわずかな時間のみが吉となる日で、祝い事や願掛けなどはそ の時間が良いのだとか。 ﹁普段は興味ないのに、たまたま今日に限って六曜に目が止まった のだから、せっかくなら効果が高い時間帯にお参りしておこうかな って思って﹂ サラサラと肩で揺れる彼女の髪に目を奪われつつ、言われるがま まに彼女の後を歩いた。 並んで参拝する彼女の小声が耳に入る。 この人は、やっぱり純粋培養なのかもしれない。きっと本人は心 の中で唱えていると思っているのだろう。 ダダ漏れです。声に出してますよ。聴こえてますから。 畠中くんが来年絶対に志望校に合格しますように でも、どうしようもなく嬉しい。 だって彼女、 こんな言い方じゃ失 なんて言うんだ。こんなの反則だよ。これ、わざとだったら相当 タチ悪いぞ。神崎さん以上だ。 だけど、わざとじゃなさそう。さっきから 礼なのかな。合格させてくださいの方がいいのかな。でも畠中くん には自力で合格できる実力があるのに、神様の力で合格させて下さ いなんてお願いしたら畠中くんに失礼だし⋮⋮こんな時は何てお願 いしたら良いんですか? 神様、どうか教えてください。あ、これ 369 が願いごとじゃありませんから なんてブツブツ言ってるし。もう 途中から笑いを堪えるのが苦しくなった。 彼女が溜め息をついたタイミングで気が緩んでしまったのか、つ いに吹き出してしまった。 ﹁え、えぇぇぇ!?﹂ 横の彼女は盛大に吃驚して、手を合わせたままの状態で目を見開 いた。 その反応がまた可愛くてたまらなくて、僕はついにしゃがみこん で笑ってしまった。 結局僕たちは最後の後の一拝もグダグダに朱雀公園へ戻った。道 中、平岡さんは﹁こんな中途半端なお参りして神様の機嫌を損ねち ゃったら畠中くんのせいだからね﹂と恨めしそうにプリプリと拗ね た。一度ツボにハマってしまうと、拗ねた姿さえも可愛くて笑って しまう。 ﹁その時は僕の自己責任ってことで﹂ 僕がそう言うと、彼女は少し考えてから急に飛び跳ねそうな勢い で驚いて慌てて口に手を当てた。なんだよ、この可愛すぎるリアク ションは。今になって手を当てても遅いっての。もう可笑しくてた まらない。 こんなに声を出して笑ったのはどれくらいぶりだろう。腹筋が痛 くて、目尻に涙が滲みそうなくらい笑った。 ﹁ありがとう﹂ 自分のことを祈ればいいのに、神様への頼み方まであれこれ考え ながら、僕のことを祈ってくれるなんて。そのために今日ここへ誘 ってくれたなんて。 彼女に会えるのは卒業式で最後だと思っていたのに、彼女は僕に 素敵なアディショナルタイムをくれた。これ以上の贈り物はない。 本当に今度こそ、この思い出を胸に生涯片想いを続けていけそうな くらいだ。 370 帰りの電車が新桜ノ宮に着く頃には、今までの感謝と一緒に﹁好 きでした﹂くらい言ってもいいよね。 言うのは恥ずかしいし勇気が要るけど、夢みたいなアディショナ ルタイムをもらったんだ、今日ならどんな勇気も出せそうな気がす る。 元いたベンチに戻り、彼女から再びマグカップを手渡され、温か いお茶が注がれた。散々笑った後の渇いた喉にはありがたい。湯気 の立つお茶を啜る僕を横目に、彼女は蓋を閉じたステンレスボトル を両方で挟んで弄び始めた。 ﹁昨日、帰ってから考えてました﹂ 突然姿勢を正しての、改まった言い方。何故かモジモジしている 様子の彼女の視線は綺麗に手入れされた芝生の向こうの池の方に注 がれていた。 ﹁畠中くんが昨日なんであんな顔をして私の前に立っていたのか。 私はその理由をもう少し前から、たぶん分かっていたんだと思う。 違う、違う、そんなわけない、って頭の奥の方で否定しながら﹂ 彼女の言っていることがよく分からなかった。すごく言いにくそ うで、核心を遠回しにしているような話し方だったから。 ﹁でも昨日、あんな顔で私の前にいる畠中くんを見て、私もちゃん と畠中くんの目を見ないといけないって思ったの﹂ 彼女がまっすぐな視線をぶつけてくる。いつもの柔らかい表情と は違い、とても深刻な表情で。 ﹁勘違いだったらごめんなさい。⋮⋮あのっ、﹂ ﹁は、はい﹂ ﹁畠中くんは、その、もしかして、私に好意を持ってくれてた?﹂ 371 卒倒するかと思った。口の中にお茶を含んでなくて良かった。そ んなこと言われるなんて思ってなかったし、図星すぎて言葉が出な い。しかも訊いてきたのは本人だ。ホント、今日の出来事は最初か ら全部夢じゃないか? ﹁ごっ、ごめんね。やっぱり勘違いだったね。今の忘れて﹂ ﹁かっ⋮⋮勘違いじゃ⋮⋮ないよ﹂ ﹁⋮⋮えっ?﹂ ﹁そう、全然、うん。勘違いじゃなく、当たり、です。⋮⋮ごめん﹂ まさかこんなタイミングで、こんな形で自白させられてしまうと は。非モテな地味男だけど、もう少し格好良い幕引きをしたかった。 現実とはなんて無情なんだ。今すぐ消えたい。消えてなくなりたい! ﹁なんで、謝るの? 私は嬉しいよ?﹂ ﹁え、だって⋮⋮。騙してたのと同じ⋮⋮友達のふりして﹂ 心の中ではいつだって好きだと連呼していたのに、彼女との関係 を崩すのが怖くて、友達の仮面を被っていた。僕を友達だと思って 信頼してくれていた彼女のそばで、信頼を裏切って恋愛感情を抱い ていた。そんな狡くて気持ち悪い男なんだよ? 友達だと思っていた男子たちに告られて、心を痛めてきたことだ って知っている。嬉しいはずないじゃないか。 ﹁友達のふり、してくれていたんだよね? 私のために﹂ ﹁違う、自分のため。友達でいられなくなることが怖かったから﹂ 情けなくて格好悪くて仕方なかった。 ﹁あんなに思いつめた顔になるまで友達でいてくれた。それがどん なことか、考えてみたの。考えれば考えるほど畠中くんの気持ちが 372 嬉しかった﹂ 思いつめた顔ならストーカーにだってできる。本人に直接好意を 伝えず思いつめた顔でガン見なんて、ストーカー確定だろう。 ﹁畠中くんはいつも私のそばにいて、ダメな私に痺れを切らすこと もなく歩調を合わせて根気強く寄り添ってくれた﹂ ﹁ダメな要素なんてないよ﹂ どこがダメっていうんだ? 僕なんかには高嶺の花すぎるくらい なのに。いつだって人気者で、男子たちの憧れで、剣道をしてる姿 だってあんなにも格好良くて。ダメな要素なんて微塵もないのに。 なのに彼女は首を横に振り続けた。 ﹁優等生ぶっていて、そのくせ自分の意見さえろくに言えなくて、 他人に迷惑を掛けて傷つけてばっかり。周りの人の流れにも全然つ いて行けないし。だから私は、きっと畠中くんのことも傷つけてた。 それでも畠中くんは変わらずそばにいてくれた。変わらずに⋮⋮﹂ いつまでもあのままそばにいられるのなら、高校生活が永遠に続 いてほしかったくらいだ。あの日々が当たり前に享受できるなら、 僕は何年だって本当の気持ちを押し殺して友達を演じ続けただろう。 とは違う道を歩き始める。 ﹁でもこれからは別々の道に進んでしまうから、今までとは同じっ ただの友達 てわけにいかないんだよね﹂ 昨日まで同じ学校にいた それがゲームセットを意味していることくらい僕にも分かる。 ﹁でも私は、卒業を区切りに畠中くんと会えなくなるのは淋しいっ て思った。昨日一晩考えて、畠中くんの思いつめた顔を思い出して、 本当に会えなっちゃうんだってようやく実感したの。その淋しさが 自分にとってどんな種類のものなのか、じっくり考えてみたの﹂ 彼女は肩が上がるほど大きく深呼吸した。そして自分に何かを確 認するように頷いて、突然頭を下げた。 373 ﹁畠中くん、時々でいいからこれからも私に畠中くんの時間を分け てください﹂ 信じられない言葉に僕は絶句した。 ﹁今はまだ、曖昧なことしか言えなくてごめんなさい。でも聞いて。 畠中くんに会えなくなる淋しさは、他の人たちに感じるのとは全然 違う種類のものだったの。この人を失いたくないと思う淋しさで⋮ ⋮、だから私はこれから新しい間柄を築いていきたいと思ってる。 歩みが遅いから今度こそ本当に愛想をつかされてしまうかもしれな いけど、畠中くんの受験が終わるまで待っててほしい。私も畠中く んの受験が終わるのを待つから、畠中くんも私が前に踏み出せるの を待っていてほしい﹂ 慎重に一つ一つ言葉を選びながら、彼女は言葉を紡いだ。 これは一体どういうことなんだ。目の前で起きていることが夢な のか現実なのか、ますます区別が付かなくなっていた。夢でもこん な都合の良い展開なんかあり得ない。だからと言って現実として受 け入れるには無理がありすぎる。 僕のスペックでは理解できないようなすごいことを言われてる、 ⋮⋮いや僕のスペックで理解して良い内容ではない。僕みたいな非 モテな地味男が彼女からもらえる言葉であるはずがないんだ。 もう会うのをやめよう って言ったら、その ﹁進路が決まらないと、気持ちが不安定になる時もあると思うの。 だから、どちらかが 374 一言が終わりに直結してしまう可能性だって充分にあると思う。そ んな悲しい別れ方したくないの。今の私たちには、別れるとか別れ ないっていう思いつめた間柄は時期尚早のような気がするの。少し 会えなくても都合がつけばまた普通に会えるような、友達の延長線 上の段階でいたい。いいかなぁ?﹂ 自分の気持ちの核を口に出すことが苦手な彼女が、僕なんかのた めに一生懸命に言葉を紡いでくれている。夢にも出てきたことがな いくらいの嬉しすぎる言葉を。 もう充分すぎるほど充分だ。これが夢オチだったら、さすがにシ ョックだけど、それでもいい。目が覚めたら真っ先に平岡さんに会 いに行く。家がどこかなんて杉野にでも訊く。たとえこれが夢でも、 彼女と会えなくなる淋しさを増幅させてしまった以上、何もしない で終わることなんてできない。 現実の彼女は僕の本当の気持ちを聞いて、困惑したり傷ついてし まうかもしれない。 だけど、もう無理だ。このままフェードアウトなんてできない。 ﹁今は⋮⋮、今の私にはこれが精一杯なんだけど、ああ、どうして さっきこのことも願掛けしなかったんだろう﹂ 僕に向かって話しているはずが途中から独り言になってる平岡さ んに、少しだけ緊張の糸が緩む。 またいつか彼女に会えますように ﹁その願掛けは必要ない⋮⋮です、たぶん﹂ あの時、僕がお願いしたのは だったから。彼女は僕の合格祈願をしてくれたというのに、当の 本人は合格祈願よりも縁結びなんて不謹慎だけど。 平岡さんにまた会えるなら、今から神社に戻ってお礼を言ってく るよ。お賽銭だって追加する。あんなグダグダな参拝だったのに、 375 バチが当たるどころか想像すらしなかった展開になっているのだか ら。 ﹁僕でいいの? って、こっちが訊きたいくらい﹂ 一気に頭部に熱が集まって、強烈に顔が熱くなった。 彼女はオリンピックの表彰台で国歌を聴く選手のように右手を胸 に当てて目を閉じた。それから深い息を一つしてゆっくり目を開け ると最高の微笑みでこう答えた。 ﹁私は、畠中くんがいいの﹂ 376 47 偉大なる一歩 まったく人生何が起こるか分からないものだ。 だとか 男子生徒の 高校生になるまで女子と目を合わせたことも話しをしたことも殆 草食系男子の巣窟 だとか言われるほどのアマゾネス社会。女子たちから どなくて、入った高校は 青春の墓場 は存在すら認識されず、同朋であるはずの草食系男子たちからは﹁ 離乳食系﹂などとバカにされてしまうくらい恋愛スキルがお子ちゃ デート というやつなの ま並みに皆無な男が、憧れの女の子に個人的な時間を分けてもらっ たのだ。 もしかして、これは世に言うところの だろうか。 いやいや、違う違う。ウィッキーペディアには﹁恋愛関係にある、 もしくは恋愛関係に進みつつある二人が、連れだって外出し、一定 の時間を遊行目的で行動を共にすること﹂と書いてあったぞ。恋愛 恋愛関係に進みつつある二人 という部分は如 関係││つまり恋人同士││ではない以上、デートであるはずがな い。 ⋮⋮とはいえ、 何なるものか。文字を見ているだけでソワソワと落ち着かない気分 だ。 恋愛関係に進みつつある二人⋮⋮ 良いのだろうか、本当に。そう解釈しても良いのだろうか。 この﹁二人﹂という単語が、僕と平岡さんとを一つとして指すも のだなんて、本当にそんなこと畏れ多いことが現実であって良いの だろうか。 377 僕たちは三時過ぎに朱雀公園を後にして電車に乗った。行きは、 目的地を知らされていないままとりあえず新桜ノ宮までの切符を買 い、その僕の切符を彼女が自分の物と替えて朱雀公園駅の改札で精 算していたので、帰りは僕に払わせてもらった。短い区間の乗り換 えの後、桜ノ宮までの区間は行きとは違い座席がガラ空きで、僕た ちは隣同士に並んで座った。すぐ横に平岡さんがいるのはやっぱり 緊張してしまう。会う機会を重ねていけば少しは慣れるのだろうか。 男子たるもの余裕が欲しいと思う反面、この窮屈な甘苦しさが徐々 に麻痺してしまうのは惜しい気分でもある。 東京で一人暮らしを始めるにあたって所持を強いられたと、彼女 は真新しいスマホをバッグの中から取り出した。 ﹁持ち歩く物だからマナーモードにしてるけど、マナーモードだと 外にいない時でも着信に気づかないんだよね。慣れてる人はどうし てるんだろう。外に出る時と家にいる時でコマメに設定を変更して るのかな﹂ 彼女の言い分としては、マナーモードの解除し忘れで家族からの 着信に気付かなかったら、リアルタイムに安否の確認を取る手段と しては意味がないという。 ﹁マナーモードにしない人とか、常にスマホを触ってる人も多いの かも﹂ 僕の答えに彼女は、私はそのどちらにもなれそうもないと言って 肩を落とす。 小さな画面を凝視するのも、小さな画面をタップするのも彼女に とって慣れない作業らしく、永田さんや早坂さんから来たメールに 短い返信するのもかなり時間が掛かってしまうと言う。 ﹁私がすごく時間掛かってやっと送ったメールに一瞬で返信して来 るの。本当に読んでくれたの? って思っちゃうくらい﹂ ﹁それ、よく分かる。まいちゃんたちも早いから﹂ 378 こんなにも他愛ない話しが楽しいなんて、今まで生きてきて初め て知った。 彼女とは受験を口実に進路の話題で繋がっていた。 美帆にも指摘されたことがあるが、無趣味だし話題の引き出しも ない退屈な人間だという自覚はある。だから話しをしていても、僕 と同じように彼女が楽しいと感じてくれているかは自信がない。僕 は彼女の隣にいられるだけで身体中の穴という穴から幸福感が噴出 しそうなくらい嬉しいわけで、楽しくないわけがない。正確に言う と楽しいと感じる余裕もないくらい、幸福感で破裂しそうだ。 彼女はバッグから手帳タイプのノートを取り出してスマホの画面 を見ながら懸命に何かを書き写す。時々スマホの画面が暗くなって しまって、慌ててスマホにタッチしたりと手こずりながらボールペ ンのノックを押して、ミシン目に沿って丁寧に紙を切り取った。 ﹁これ、私の連絡先﹂ 手書きで渡さなくても、目の前でスマホを持った同士が簡単に連 絡先を登録し合える方法もあるのだろう。けれど、スマホを持って 一週間と経たないアナログな僕たちには一番確実な交換方法に間違 いない。そして彼女が手渡してくれたこの紙は僕にとって一生の宝 物になるだろう。これは秘密だけど。 ﹁登録したら一報してね。文面は名前だけで構わないから﹂ 僕は渡された紙を見ながらその場で登録をやってみた。それから 綴りに間違いがないことを願いながら文面に﹁畠中秀悟です﹂とだ け打ってメールを送信した。同時に彼女の手の中のスマホの画面が 明るくなってメールの着信を知らせていたのでホッとした。 ﹁ありがとう。私もちゃんと登録しておくね﹂ 彼女の嬉しそうな微笑みにやられそうになる。ノーガードのとこ ろにそんな無邪気な笑顔を撃ち込まれたら、底なし沼に沈んで行き 379 ついに好きの上 と思いながらも次の瞬間に呆気なく更新 そうだ。どんなに忘れようとしても好きで、毎日 限に到達してしまったか されてしまうことを繰り返して来た。今日こうして自分に憚かるこ となく彼女を好きでいられると思った途端にリミッターが外れたみ たいに、抑えていた感情を振り切って彼女のことを好きな気持ちが 暴発しそうな自分に焦る。 桜ノ宮駅に近づき、彼女がスマホやノートを手帳にしまい降車支 度を始める。 ﹁今日はありがとう。このまま電車の中でバイバイでいい? ホー ムまで降りてもらっちゃうと、そのまま話し込んでしまいそうだか ら﹂ 見透かされていたのかと恥ずかしくもあり、彼女も同じ気持ちで いてくれたようで嬉しくもあった。 やっぱりこの人はしっかりしている。リミッターが外れかけて抑 制が難しく感じている僕なんかとは違う。悔しいけど、同じ年なの に現段階では僕の方がずっと幼稚だ。 車内アナウンスが桜ノ宮を告げると彼女は﹁またね﹂と手を振っ て電車を降りて行った。ホームで手を振る彼女の姿が見えなくなっ た頃には、さっきまで彼女が座っていた場所にぼんやり視線を落と し、ここにいない現実がここにいた現実を支配し始めた。 やっぱり夢だったんじゃないか? 手の中のスマホが振動して、さっき別れたばかりの彼女からのメ コートの中に御守りを入れました。最近まで私が持っていたも ールの着信を告げた。 のです。来年、一緒にお礼参りと奉納に行こうね。今日はありがと 380 う スマホを落としそうになりながら、慌ててコートのポケットをま さぐった。彼女が座っていた方の左側のポケットの中から白く長細 いそれが出てきた。 彼女からのメールを読み、彼女が受験中に身につけていたという 御守りを手にして、じわじわと現実感が確信に変わっていく。 彼女は僕の隣にいた。今日の出来事も全部、夢なんかじゃない。 次にいつ会えるのかは分からない。 だけど、然るべき理由がなくても会おうと言っても良い資格を得 られたんだと思うと、たまらなく嬉しかった。高校卒業と同時に接 点を失うはずだった。もし次にまた彼女と会えるとしたら偶然しか ないと思っていた。あの微妙な男女仲を考えても高2の同窓会が開 かれることはなさそうだし、開かれたとしても出席するとは限らな い。いつか高校時代を思い出した時に顔と名前が一致する程度に記 憶してもらえたらそれで充分だと思っていた。その彼女からたった 今メールが届き、僕たちがこれからも繋がりを持てることを告げて いた。 込み上げてくる嬉しさに、頭の中は彼女で埋め尽くされる。 どうしてこんなにフライング気味な気持ちになってしまうのだろ う。どうして男ってこんなに直情型なんだ。単に僕が恋愛経験がな くてコントロールが出来ていないだけなのかもしれないけど。彼女 は待ってほしいと言っていたのに、これじゃ先が思いやられる。 僕と彼女との新しい関係はスタートラインに立ったようで、実際 はスタートラインに立つ前のウォーミングアップ段階なのだ。僕の 見切り発進は彼女にとってプレッシャー以外の何物でもないだろう。 スタートラインという意味では、まずは僕の受験生活の方だ。彼 女との新しい関係よりも、まずそのスタートラインに立っている自 覚を持たなければいけない。受験生として一年間頑張って行く覚悟 381 の前に雑念だらけでは、夢に向かって着実に歩みを進めている彼女 の隣に並ぶ資格なんか得られるはずがない。そういう負け方は彼女 にとって一番望まないことだろう。 きっと受験なんて長い人生の中の小さなハンデの一つに過ぎない。 自分を制御できないで、小さなハンデさえまともにクリアできずに 雑念に溺れてしまう男なんて、謹んでお断りだろう。 恋愛の達人 とでもお呼 お互いに高め合えるお付き合い、なんて時々聞くけど、今の僕に とっては、そんな関係が築ける人たちは びしたい。そりゃあ僕だって、出来ることなら彼女の存在が励みに なったなんて堂々と言いたい。だけど、実際は彼女の愛くるしい笑 顔という強大な誘惑を身近に感じて、果たして僕は感情に翻弄され ることなく冷静にコントロールしていけるのか不安にもなる。 もう会うのをやめよう というジョーカーのカードを切り この均衡が崩壊した時に、彼女が朱雀公園で言っていたようにど ちらが 出す瞬間が訪れるのだろう。 そして僕と彼女はそれきり会えなくなってしまうんだ。彼女は僕 なんかよりもずっと冷静にそこを危惧している。だからスタートラ インを現段階に設定しないでいてくれているんだ。都合の良い解釈 かもしれないが、それだけ彼女がこれからのことを慎重に大切に考 えてくれているということなのかもしれない。それならば、僕にで きることは溺れるくらいに頭の中を彼女で埋め尽くすことではなく、 きちんとした結果を掲げて彼女が見据えてくれているスタートライ ンに到達することなんだろう。 ⋮⋮と、頭で考えるのは簡単なことなんだけど、彼女のことを考 えれば考えるほどズブズブの恋愛沼にのめり込んで行きそうで、好 きという気持ちの強さをモチベーションに昇華させる難しさに行き 詰まる。 皆、どうやってモチベーションに変えているんだろう。 訊ける相手がいるなら訊いてみたいけど、こんなこと悩んでるな 382 んて﹁贅沢だ﹂と一蹴されそうで訊けない。 それに、彼女との詳細はあまり口外しないつもりだから。僕も自 分のことを話すのは得意ではないが、彼女も自分のことを話すのは 苦手なようなので、知らないところで詳細をあれこれ話されて気分 が良いとは思えない。しかも詳細を共有している相手が彼女もよく 知っている人たちだとしたら、きっと居心地の悪い気持ちになるだ ろう。逆の立場なら僕でも、僕のことを知っている人に彼女と僕の 間のやり取りを細かく知られていたとしたら、顔から火が出そうな くらい恥ずかしい気持ちになると思うから。 経過を心配してくれているガクちゃんたちには、また会ってもら えることになりそうだと概要だけは報告しないといけない。だけど、 彼女のプライバシーに関わることは避けよう。したがって、残念な がら内情がバレる可能性があるわけで、恋愛と勉強の両立方法につ いては尋ねることが出来ない。 やっぱり一人で解決して行くしかなさそうだ。 とはいえ、今日くらいは喜びを噛み締めていたい。 ずっと好きだったたった一人が、僕だけのために微笑んでくれた のだから。 383 48 アドレナリンかエンドルフィンか 桜が終わる頃になれば、真新しい制服に身を包んだ東高生たちと すれ違う。図書館と東高は逆方向なので、東高名物を目の当たりに する機会はなくなったけど、もうこの街にまいちゃんがいないこと を意識すると、同時に通学途中に二人で目にしたあの光景を思い出 す。 まいちゃん、元気にやってるかな。 メールすればいいのだろうけど、取り立ててメールしてまで訊く 内容には思えず、今に至る。彼もまた同じように思っているのだろ う。お互いさまだ。 夏休みあたりに帰省することがあれば顔を合わす機会もあるだろ う。 卒業式の翌日に平岡さんと朱雀公園に行った後、ガクちゃんたち に﹁これからも時々会える時間をもらえそうです。僕は受験生継続 中だし向こうは東京住まいなので、なかなか時間は合いませんが、 一応そんな感じです。背中を押してくれた皆のおかげです。本当に ありがとう。ご報告まで﹂とメールを打った。 四人とも突っ込んだことは訊かず、﹁究極に困ったことがある時 だけ頼ってくれればいい﹂とか﹁うまく行ってるなら報告は不要だ。 逐一報告されてたら女子は引くからな﹂と彼女の立場を汲んでくれ ているようだった。 尾崎は﹁どうしてもノロケを聞いて欲しかったら聞いてやるよ﹂ と相変わらずの尾崎節を付け加えてきた。 それから彼らとも連絡らしい連絡は殆ど取り合っていない。 384 平岡さんとも週に一、二度メールのやり取りをするくらいで、最 後に会った卒業式の翌日から既に一ヶ月が過ぎていた。 彼女の近況はといえば、クラス内にはプロ志向の強い子たちがた くさんいて自分が遅れを取っていると痛感する一方で良い刺激にも なっているとメールに書かれていた。 学内の掲示板から出版社のバイトを見つけて早々に開始したとい うことがつい最近のメールの内容だった。 慣れない学校生活と並行してバイトを始めて大丈夫なのかと返信 すると、今まで剣道の稽古に充てていた部分がバイトになっただけ だから体力的には全然問題ないとのこと。しかし、身の回りのこと を全て自分でしなければならない生活で家族のありがたみを思い知 ったという。 なんだかんだで美帆や僕が想像するより家族仲は良好だったのか もしれない。 ◇ 五月になり、大手予備校が主催する公開模試を受けた。結果は変 わらずB判定。偏差値自体も高校在学中より少し上がってきたし一 応合格圏内ではあるものの、同じところで足踏みしているようで成 果に手ごたえが感じられない。B判定に到達するまでは、勉強量に 比例して成果が伸びたので、行き詰まりを感じ出すとここが自分の 都工大じゃなきゃダメ 都工大しゃないなら浪人した 限界値のように思えて来てしまう。そして という息切れと という叱咤が頭の中で葛藤を繰り返すようにもなった。 な理由なんてない 意味がない それからまだ一ヶ月が過ぎた頃には、こんな雑念だらけで気持ち がグラつくのも、浪人するまで考えてもみなかった受験への重圧な んだろうと改めて元凶を知ることになる。 385 足踏み状態のまま三ヶ月も過ぎてしまったことに焦りを感じ始め ていた。 高校在学中に進路を見繕うことより、もう一年かけて都工大に再 チャレンジすることを選んだのは僕自身だ。目標が定まった上で一 年間という期間があれば、今度こそしっかりと余裕を持って準備が できると思っていた。 同じ場所で学んでいた周りの人たちは次のステージに進み、専門 学校生や大学生としての新しい生活を始めている。けれどここに残 った僕は何者にもなれないまま、いまだ納得のいく成果も感じられ ずに三ヶ月が経過している。このことが焦りや隔絶感を煽り、その 流れの中に自分が呑まれるなんて高校時代には考えてもみなかった。 覚悟が足りないといえばそれまでだけど、実際に経験してみて初 めて分かったことだった。 受験まで一年と分かっていながら、終わりが見えない錯覚に呑ま れかけている。 きっとこれは受験との闘いではなく自分との闘いだ。 終わりが見えない霞の中で、足を止めてしまったり進んでいる先 に躊躇いを感じたら負けなんだ。どんなに迷っても疲弊しても、足 を止めた時点で僕は終着点を失うことになるだろう。 先が見えないのなら足元を見ればいい。 歩き続けていれば、その先に終着点はきっとある。終着点に到達 する前に霞のない場所に出られるかもしれない。 何者 かになれたとしても自分との闘いに勝った とにかく先の見えない現状を自分の心の弱さの言い訳にしては、 たとえ最終的に ことにはならないのだ。 平岡さんはどうしているだろう。 まるで自力で自分に打ち勝たなければならないこの状況を見透か されているように彼女からの連絡はない。 386 もしかしたら彼女も今、新しいステージで自分自身と闘っている のかもしれない。 もしそうだとしたら尚更この次に会える時に情けない姿は見せら れない。きっと共倒れになってしまう。お互いを高め合える関係な んて高尚な域には爪先すら掠りそうもないけど、なんとか前進して る姿を感じ取ってもらいたい。そのことが微力でも彼女の支えにな ったら⋮⋮、僕にとっても彼女の存在が支えになっていると思って 好きな女と肩を並べられる男になりたいって思うのが男じゃな もらえたら良いのだけど。 い? 美帆が言った言葉の意味が次第に分かってきた。 僕は今、自分との闘いの真っ只中で、弱気になっている情けない 姿や余裕がない姿を彼女に見せたくないと思っている。どんなに会 いたくても、そんな姿で彼女の前に立つことなんてできないと思っ ている。 本音を言えば、平岡さんに会いたくて仕方ない。 少し前にグループメッセージの方で杉野が尾崎に﹁大学生活どう ?﹂と訊いたのに対し﹁マジ女子少ねえええ! 理系進むならやっ ぱ総合大学がいいぞ﹂と返事をしていた。 平岡さんの可愛さからいえば、高校の時と同じくらい、いやそれ 以上に彼女は大学内で注目を集めているだろう。高校三年間の代わ り映えのないメンツの中では、富樫の後に好きになるような人はい なかったかもしれないけど、新しい出会いの中では彼女の心を惹き つける人が現れるかもしれない。 大学が始まる前の時点で、僕にあんなことを言ってしまったと後 悔していないだろうか。 もし好きになれる人に出会ったのなら、友達のままでいい。まだ 何も始まってないのだから気にすることはないよ。 物事がうまく運んでいない時は、全てにおいてネガティブになる 387 悪い癖だ。そうでなくても、自信がない分いつもネガティブなんだ けど。 悪いことを考えるループから抜け出すのは、そういうことを考え る隙間を作らないに限る。 今こそ勉強だ。コツなんて分からないけど、とにかくやる。頭の 中がショートする寸前までやって、疲れきったら寝る。後は悪い夢 を見ないように運に任せるだけだ。 それからはしばらく猛勉強の日々が続いた。 平岡さんからのメールが来れば、その時だけは喜びに浸る時間を 設け、それ以外は一日も早く劣等感なく彼女の前に立てることを目 標にひたすら勉強に励んだ。一日も早くって言っても、頑張れば頑 張るだけ受験までの期間が短くなるわけでもないのだが。 猛勉強の毎日が習慣化してくると、頭の中がショート寸前になる ことが快感になってくる。そのうち唐突に、刮目したまま涎を垂れ 流して行き倒れてしまうんじゃないかと不安にもなるけれど、それ さえもなんだか愉快に思えるようになってきていた。 そんな暴走にブレーキが掛かったのは七月の公開模試だった。 ついに安全圏とも言えるA判定が出たのだ。 目指しておきながらこんなことを言うのも可笑しいけど、ついに 都工大に触れることが出来た気がした。今までは、どんなに頑張っ てもやっと指先が掠る程度だと思っていたけど、自分のやってきた ことが成果になって追いつき始めたと実感ができた。そのことで憑 き物が落ちたように本来のペースを取り戻せた。 A判定が出たことを平岡さんに報告したくなったけど、上がった 成績を報告するなんてまるで母親と息子みたいで恥ずかしく思えた のでやめておいた。 そのかわりに﹁まあまあ頑張ってます﹂なんて格好つけてみた。 本当はかなりナチュラルハイになってたくせに。 388 八月にたぶん三回くらい桜ノ宮に帰ります。一回は第二週に友 達と花火大会で、もう一回はお盆です。畠中くんの都合が付きそう なら一日時間を取ってもらえませんか? 七月の終わりに来た彼女からのメールだ。 三回くらいって、休みの間中帰省しているわけじゃないのか。都 合が付きそうなら、なんて僕のことを配慮してくれてるけど、間違 いなく彼女の方が忙しそうだ。 それにしても、三回くらいしか戻れないうちの一回を僕に割いて くれちゃって良いんだろうか。もちろん嬉しい。嬉しいのだけど、 女の子に楽しいと思ってもらえる過ごし方なんか知らない。前回会 ったのは、平岡さんのナビゲートだったわけで、それが僕にとって の人生初のデートもどきだった。もし次に会う時には、どこへ行く とかどう過ごすなんてことをあらかじめ考えて臨まなければいけな い。ノープランで、ただあてもなく新桜ノ宮駅のホームで突っ立っ ていても彼女は退屈してしまうだろう。いや、退屈どころか熱中症 になってしまうかもしれない。 なんて浅慮なんだろう。 会いたい会いたいと思いながら、具体的なハウツーを一つも描け なかったなんて。 ダメ過ぎるだろ。スペック低過ぎにも程があるだろ。 僕は机に両肘をついて頭を抱えた。 世の中の男子ってすごいよ。 どんな所で会って、どんな風に遊んで、どんな会話をして、どん な店でご飯を食べて⋮⋮なんて、好きな女の子が喜ぶために毎回考 えてるんだろ? 389 行く場所を予定して、雨になってしまって支障が出ても臨機応変 に変更するスペックもあったり⋮⋮。 そんな高度なことが僕にできる?! 今こそガクちゃんたちに泣きつきたい。 いや、平岡さんを好きだったガクちゃんたちにそんなことで泣き つくことはできない。たとえ彼らが水くさいと言おうが何と言おう そんなこと とも言えないのが本音でもあるの が、それは僕にとっての最低限のマナーであり僕の意地でもある。 ⋮⋮とはいえ、 だが。 390 49 浴衣姿がまぶしすぎて ﹁電車混むから早めに出た方がいいんじゃない?﹂ 言われているのは弟の進悟。 桜ノ宮西高の1年になった進悟は、クラスの友達と桜ノ宮市の花 火大会に行くと言っていた。居間のソファでスマホをいじりながら テレビを観て笑っていた進悟に母さんが声を掛ける。 ﹁バスで行くから大丈夫﹂ 相変わらず暢気な弟である。 ﹁大丈夫だよ、こっちから行くバスは今年はそんなに混まないって﹂ 八月の第一週目の土曜日に予定されていた東雲市の花火大会が雨 天で順延になって桜ノ宮市の花火大会と日程が重なったのだ。 桜ノ宮市の花火大会は京浜ほどの規模ではないにしても、この辺 りでは一番規模が大きくて東雲から観賞に出かける人も多い。けれ ど、猛暑と例年の混雑を考えると開催日が被るなら地元で観賞しよ うと客足割れすると進悟は言う。 確かに電車やバスを使わなければ行けない人たちにとって、徒歩 や自転車で事足りる場所で観られればその方が良いのかもしれない。 ﹁じゃあ何で進悟は桜ノ宮なんだよ﹂ 兄さんが訊くと、進悟はスマホに目を向けたまま﹁だって友達が 全員桜ノ宮なんだもん﹂と答えた。 ﹁大悟は行かないの?﹂ キッキンのカウンター越しに今度は母さんが兄さんに訊く。 ﹁俺? どうしよっかなぁ⋮⋮﹂ 中等部から京浜籐陽に通っていた兄さんは地元にあまり友達がい ない。 ﹁用がないなら行って来てくれると助かるんだけど。そうすればご 391 飯の支度しなくていいし﹂ ありが ⋮⋮ということは、自動的に僕もか。 ﹁有賀の家の屋上で花火観ながらバーベキューするのよ。お父さん が帰ってきたら出掛けるけど、あなたたちも来る?﹂ 有賀家ということは、即ち美帆の家だ。友達付き合いもなく、浮 かれた場所を忌み嫌う美帆が花火大会に出掛けるはずがない。 同じことを推測したのか兄さんと目が合った。 ﹁いや、遠慮しとく。適当にふらっと出掛けるよ﹂ 兄さんが即答し、僕も慌てて同意の返事をした。 ﹁そうしてくれると助かるわ。戸締まりだけはお願いね﹂ 進悟が重い腰を上げて出掛ける支度始めたのを合図に、僕も兄さ んも居間を離れた。 ﹁あのさ、ちょっと相談なんだけど⋮⋮﹂ こういう時に年上の男兄弟の存在はありがたい。僕は、女子と会 う約束をしたらどんな所に連れて行けばいいのか尋ねた。 ﹁へぇ、ついに秀にも春が来たか﹂ ニヤニヤと身を乗り出されて、途端に訊いたことを後悔する。 ﹁そんなんじゃないってば﹂ ﹁からかって悪かったよ。で、相手の子とは趣味が同じとか? そ れともスポーツ好きとか?﹂ ﹁んー、趣味は分からない。僕に趣味があるわけじゃないし。スポ ーツは、ずっと剣道をやってた人﹂ ﹁そっかぁ。じゃあ、テニスするとかサッカー観戦とかちょっと違 うかもなぁ。⋮⋮で、秀はどんなデートがしたいの?﹂ ﹁デデデデデデート!? ちがっ⋮⋮﹂ ﹁そんなにキョドるなって。こっちが焦るじゃん。じゃあデート訂 正な。どんな時間にしたい?﹂ ﹁どんなって⋮⋮、相手が楽しければ⋮⋮﹂ ﹁それだけ?﹂ 392 ﹁それだけ、って。⋮⋮それだけだけど﹂ はあ、と兄さんが溜め息をついて笑う。 ﹁主体性がないなぁ。それじゃ女の子に逃げられるぞ。相手が楽し いって大事なことだけど、秀自身はどうなんだよ。そんな受動的で いいと思う? 相手の子が、秀が楽しければ自分はどうでもいいっ て思ってたらどう? ちょっと淋しくない?﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁自分ばかり楽しいような独りよがりは論外だけど、秀ならその子 とどんな風に過ごしたいか、まずは秀自身のことを考えてみろよ。 それをどう共有したら相手も楽しめそうか、できる限りの想像力を 働かせてみろよ﹂ 想像力と言われても、女の子と付き合うことも想像したことがな いんだ、当然脳内デートを描いたこともない。宝くじを買うつもり のない人間が大金が当たることを想像しないように、発展的な恋愛 には生涯無縁だと思っていた僕は小説やドラマの中でデートするシ ーンがあっても感情移入することなく情報処理していたんだ。どう やら根底から願望概念の構築を始めないとならないようだ。 ﹁分かった、分かった、もういい。絶望的な顔するなって。欲の薄 い秀には難しすぎたな。とりあえず、色んな所に行って少しずつ気 づいていきなよ。一人で観るより誰かと一緒に観る方が感動する景 色とか、そういう経験値を積み重ねていけば、どこかの場所や店を 思い浮かべた時に、誰かと共有したいってフィルターを通すように なるんじゃないかな﹂ だからその経験値を得るためにはまず何処へ行くのが適切なんだ ろうか知りたいのだが? ﹁あくまで一般論だけど、最初のデートの定番は映画じゃないかな。 会話が苦手でも、どうにかカバーできるしな。ただしチョイスを間 違えると結構気まずいぞ﹂ ﹁だからデートじゃないって﹂ 厳しく訂正しながらも、アドバイスにお礼を言った。 393 浪人生の分際でと呆れられるかと思ったけど、快く相談に乗って くれてホッとした。兄さん自身の恋愛の話は一度も聞いたことがな いけど、彼女とかいるんだろうか。弟の僕が言うのもナンだけど、 頭も良いし他人をバカにしたりしないし綺麗な顔してるから、なか なかの優良物件だと思うんだけどな。 まだ空が薄暗くなる前に花火大会の決行を告げる号砲が轟いた。 そろそろ道が混みそうだと滑り込むように帰宅した父さんが、慌 ただしく着替えると母さんと連れ立って家を出て行った。 残された僕たちは、どちらからともなく外に出て家の前で別れた。 出て来てはみたものの、さてどうしたものか。 西陽が沈みかけた土曜日の六時半、いつもより混んだ道路のあち こちでナーバスなクラクションが鳴り響く。 歩いているのは中高生のカップルばかりで、こんな時に一人で出 て来るもんじゃないと軽く後悔させられる。 暑さを和らげる適度な風に向かって花火大会の開催場所の方へト ボトボと南下した。 進悟は桜ノ宮に着いただろうか。そう言えば平岡さんも友達と花 火大会に行くって言ってたな。 そんなことを考えてながら線路を跨ぐ立体交差の下りに差し掛か った時、線路沿いの金網フェンス越しに彼女の姿を見つけた。僕は 思わず、目を擦った。ドラマやアニメでありがちだとは思いつつも、 目を疑う状況では本当にこんなことをするんだと頭の隅で感心した。 目に留まったのは、彼女の着ていた白地の浴衣が白袴姿の彼女と 重なったからだ。そしてもう一点、青紫色の紫陽花のような古典柄 の楚々とした浴衣姿には、およそ似つかわしくない大きな黒い荷物 を右肩に掛けていたから。むしろそのギャップだけでも充分に目立 つくらいだ。 394 近づきたいという刹那な衝動が脳裏に走ったけど、動くことがで きなかった。浴衣姿の彼女があまりにもまぶしすぎて。彼女にだけ 別の光が当たっているように、彼女はとてもまぶしくて可憐だった。 身体中に微弱電流が流れたみたいにジワジワとした小さな刺激が充 満して、恍惚の溜め息が脳裏に走った刹那をたっぷりと呑み込んだ。 久しぶりに見る彼女の姿に僕は、痺れた。 現実が夢の世界を凌駕する。 どんな想像よりも美しい彼女。今そこにいる彼女は僕が想像した 何よりも美しい。 相変わらず化粧なんかしてなくて、結い上げるには短過ぎる髪を 髪と同系色のゴムで後ろに束ねるように括っただけで、浴衣姿にミ スマッチなゴツい荷物を掛けてるけど。そんな彼女が誰よりも何よ りも美しい。 彼女のすぐ後ろを歩いているのは、よく見ると松野さんのようだ った。制服を着ていないからすぐには分からなかったが、濃い臙脂 色地の渋めの浴衣はしっとりと大人っぽくて近代美人画のような独 特な雰囲気は見間違いようがない。 あんな綺麗な女子が二人で歩いていたら、夏の昂揚感に飢えた肉 食動物たちの恰好の餌食じゃないか。東高内とはワケが違うんだぞ ? キミたち分かってるの? ほら、心配したそばからチャラい服着た二人連れが⋮⋮⋮って、 松野さんの一睨みで思いっ切り怯んで遠ざかっ行ってる。平岡さん も、近寄らないでオーラのなんちゃらフィールド全開で綺麗に距離 を取ってるし、やっぱりモテる人は防御スキルの経験値も違うのか も。もっとも、空気読まずにグイグイと相手の間合いに飛び込む輩 もいるだろうけど。⋮⋮⋮僕か。 もともと出て来るつもりはなかったから、人混みに入っていく気 395 にもならず、露天商の灯りが囲む無数の黒山を遠目に流した。見上 げればすっかり紺色に染まった翳りのない空の上に疎らな星が点在 している。 ドン、という地鳴りのような音から数秒遅れて一発目の花火が打 ち上ると辺りに拍手喝采が巻き起こった。 やっぱりこんな喧噪に一人で来るもんじゃない。 誰かが誰かと楽しさを共有し合った空気が溶け流れる雰囲気は、 蚊帳の外に一人でいる人間をほんの少し孤独にさせる。一人で観て も誰かと観ても広がる景色の面積は変わらないし、他人の助力がな いと観られないものでもないのに、観た時に感じる楽しさの質が全 一人で観るより誰かと一緒に観る方が 然違うのだ。 次々に打ち上がる花火が彩る夏の夜空を見て、兄さんが言ったこ とが少し分かる気がした。 すぐ近くの何処かで同じ花火を見ている平岡さんが横にいて﹁綺 麗だね﹂と言ったら、同じ景色が今とは比べものにならないくらい 美しく感じられるだろう。 家に帰って、次に彼女と会える日を思い描こう。きっと僕が彼女 とどう過ごしたいか 謎が解りかけた満足感を土産に、僕は花火に背を向けた。 それにしてもお腹空いた。 帰る道中にコンビニに寄ろうかな。それとも家の冷蔵庫を漁ろう かな。 396 50 R恋人未満 電車の車内アナウンスが桜ノ宮を告げる時にはやっぱり緊張する。 減速した電車が三番ホームに滑り込むんで停車するとホームに立 つ彼女の姿が見える。膝頭が隠れる丈の紺色のワンピースを着て薄 手の白いカーディガンを羽織っている。髪型も高校の頃と変わって なくて、化粧しているわけでもないのに、風で乱れた髪を指先で顔 の前から払う仕草が高校の頃より少し大人っぽくなったように感じ た。 車内の僕を見つけると、にこやかに手を振ったその表情は数秒前 に大人っぽく見えたことが錯覚だったかのように、高校時代そのま まの人懐こくてあどけない笑顔だった。 ﹁暑いね。昨晩よく眠れた?﹂ ﹁うん、まあまあ﹂ なんて笑ってはみたけど、正直言うとあんまり眠れてない。その 原因はもちろん暑さなんかではない。久しぶりに平岡さんに会える からドキドキして寝付けなかったんだけどね。久しぶりって言って も、東雲の花火大会に来てた姿をチラッと見掛けはしたんだけど。 そのことについては彼女からメールで報告があった。僕が見た時 は一緒にいたのは松野さんだけだったけど、あの後栗原さんとも合 流したみたいで、二人に協力してもらって学校の課題の写真を撮影 したとのことだった。やり取りがメールで良かった。もし面と向か って話している時だったら﹁ああ、それで黒い荷物下げてたんだ﹂ なんて、うっかり言ってしまったかもしれないから。 花火大会に一人でいたことを知られるのもなんとなく恥ずかしい。 真夏の午前中の車内は空いている。僕たちはドア付近の少人数掛 397 けに並んで座った。シートに腰を下ろす瞬間、シート端のポールに 掴まった彼女の手首が前よりもほっそりしているように見えた。 少し痩せた? なんて女性に訊くのはセクハラだよな。痩せたと 言われたら女性は喜ぶなんてテレビでは言ってるけど、そんなこと は不躾に訊くものではない。 ﹁一人暮らしは慣れた?﹂ かわりに彼女の近況を訊く。 ﹁一人暮らしって言っても、隣が大家さん家で果物やお惣菜なんか も分けてくれたりして、下宿みたいな感覚なの﹂ 以前のメールにも、食べきれないほど炊き込みご飯を頂いたと書 いてあったし、痩せたと感じたのはやっぱり僕の気のせいなのかな。 丸く可愛らしい笑顔も今まで通りだし。 ﹁畠中くんはどう? お盆に中学の時の友達の集まりに少し顔出し たんだけど、帰りに杉野くんが一緒に夏期講習に行きたかったって 言ってた﹂ 杉野め。平岡さんと会ったなんて一言も聞いてないぞ。僕も言っ てないから責める筋合いないけどさ。それにしても、﹁帰りに﹂っ て言ったよね、﹁帰りに﹂って。何時だか知らないけど、杉野が平 岡さんを送ったってことなのか。健全な青少年の健全な発想では、 暗くなった時間に二人きりを想像してしまう。 悔しいけどそれを咎められる立場じゃない。親でも兄弟でも彼氏 でもないんだから。 それに杉野のターンが回ってきているのだとしたら、紳士的に僕 のターンを待たなければならない。 ﹁高校卒業してからも杉野くんたちと仲良いんだね﹂ ﹁仲良いっていうか、ガクちゃんや尾崎たちと卒業式の日にアドレ ス交換したから﹂ ﹁そうなんだ﹂ 気まずい表情。ガクちゃんの名前は地雷だったかな。彼女の笑顔 が少しぎこちなくなった。きっと今でも彼女はガクちゃんの気持ち 398 に応えられなかったこと負い目に感じているんだ。その上で、今で も僕とガクちゃんが繋がってるなんて、彼女にとっては気まずさ以 外の何物でもないよな。 ﹁ガクちゃんなんだ﹂ ﹁⋮⋮えっ?﹂ ﹁卒業式の日、平岡さんの周りすごい人だかりだったから、帰ろう と思ったんだ﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ ﹁行ってこいって背中を押してくれたのガクちゃんなんだ。尾崎や 杉野やまいちゃんもだけど﹂ ﹁そうだったの﹂ ﹁うん﹂ 僕たちはしばらく黙った。けれどその沈黙に張り詰めたものはな く、それはガクちゃんとの間に気まずさを感じるようになっていた 彼女が色々な物を消化するのに必要な時間なのだと僕は思った。 ﹁東堂くん、本当に良い人だよね﹂ ﹁うん﹂ ガクちゃんは本当に良い奴だ。本人は良い人脱却したいみたいだ けどね。栗原さんにもダメ出しされてたし。あれは思い出しただけ でも戦慄が走る。 ﹁いつかまた高2の時みたいに話せるかな﹂ 立ち入り禁止の教室棟の屋上で、三人で地べたに座ってパンを齧 った青空が懐かしい。 ﹁ガクちゃんも同じこと考えてると思う﹂ ﹁うん﹂ 彼女は過ぎた日を見やるように窓越しに流れる景色を目で追って いた。 一回乗り換えのち京浜に到着し、僕たちは混んだ改札を出て駅を 399 降りた。 ﹁風があると思ったより涼しいね﹂ 強い風の中に微かな潮の香りが漂い高い空が視界を広げる独特な この街は、兄さんのアドバイスにもあった映画も良いし、ただ歩く にも恰好の散策場所だ。 映画館なら桜ノ宮でも充分だけど、知り合いに会う確率を考える となんとなく落ち着かない。彼女ほどの人気者がこんな冴えない地 味男と並んで地元を歩いていたら、また彼女が好奇の目に晒されか ねない。変な男と街を歩いていたなんてご家族の耳に入って、咎め らたりギクシャクするようなことになってしまったら謝っても謝り きれない。 そんなわけで、今回は京浜に出ようと彼女に提案してみた。彼女 の快諾あって今に至るのだけど﹁楽しみにしてるね﹂という彼女か らの返信で、もしかして僕はハードルを上げるという墓穴を掘って しまったのかと項垂れるはめになったことは言うまでもない。もう なんだか、恋愛って高尚過ぎて僕などには百年早い。平安時代なん かに和歌に恋心を詠んで⋮⋮、なんてやっぱり高貴な身分限定の趣 好なんだ。僕のような何処の馬の骨とも分からない身分の低い者が 立ち入る領域ではないんだ。⋮⋮って、解釈が激しく違うような気 がするけど、パニクってしまうとこんなもんだ。 まあ、とにかく料金を払って電車に乗れば僕にでも京浜にまでは 辿り着くことはできる。 できる。それだけだ。問題は着いてから。とりあえず、僕のよう に話題がない人間でも、他人に楽しんでもらえる場所を知らない人 間にも、この街の雰囲気がある程度のカバーを担ってくれる。京浜 という街の無限の可能性を借りて、僕は今日一日を乗り切ってみせ る。あ、京浜が無限でも僕がゼロなら掛け算したら値はゼロなんだ 400 けど。 シネコンに入りコメディタッチのサクセスストーリーの洋画を観 ることにした。受け付けで学生証の提示を求められて、改めて自分 が何者でもないことを露呈させてしまいちょっと肩身が狭い気分に もなった。やっぱり浪人生は映画なんか観てるご身分じゃないよな。 上映中は、確かに会話を意識しなくて良いという面では助かった けれど、洋画の確定要素であるお約束の下ネタで笑いを取るシーン やラブシーンで居心地が悪い気まずさを感じた。気まずく感じるシ ーンは約二時間の中のほんの一部なのに、そういうシーンの最中は やたらと長く感じたし、笑いどころにしてしまって良いのかも躊躇 われた。気まずさと緊張からゴクリと唾を呑み込むことになってし まうのだけど、そんなリアクションがラブシーンを見て興奮してい るという印象を女子に与えてしまわないだろうか気になってしまっ たり、下ネタのスラングが笑いのツボだと思われてしまわないだろ うかなんて気が気じゃないのだ。 場内では結構あちこちで笑いが起きているけど、僕だけが気にし 過ぎなんだろうか。異性と映画やドラマを観ていてラブシーンやハ ードな下ネタは気まずくならないのだろうか。慣れるもんなんだろ うか。僕は手のひらがじんわり汗ばむくらいドギマギしたんだけど。 最終的には、挫折しかけた主人公が彼を信じていた仲間の元へ戻 って起死回生の逆転劇で幕を閉じた。映画自体は分かりやすく無理 のないストーリー展開に起死回生の逆転劇という爽快な物で申し分 ない作品だったけど、ラブシーンとか下ネタとか必要なんだろうか R恋人未満 とか設けて欲しいもんだ。滅多に足を運 ? R指定は年齢制限だけど、過剰なラブシーンや下ネタなどを盛 り込まない ばないくせに、そんなワガママ言うなら手堅くディズミーでも観て ろと言われそうだけど、最近のディズミーを侮ってはいけない。気 401 まずくなるレベルのお熱いラブ要素も盛り込まれていたりするから。 日本だけでなく世界の恋愛モラルの水準が変わったということな のか。小中学生でもカップルが簡単にくっついたり離れたりしてる 離乳食系 ということなのか。 っていうのに、十九にもなって気まずいだとか恥ずかしいだとか言 ってる僕はやはり 映画のエンドロールをぼんやり見ながら悶々と考えているといつ の間にか辺りが明るくなっていた。 ﹁面白かったね﹂ 隣を見ると平岡さんがぎこちない笑顔で笑っていた。カーディガ ンの袖口を手首まで延ばしたり、髪を耳に掛けたり仕草が微妙にせ わしない。やっぱり彼女も少し気まずかったのかもしれない。完全 に選択ミスだ。 ﹁ディズミーにすれば良かったかな﹂ ﹁ううん、楽しかった﹂ 女の子を楽しませるのも自分が楽しむのも、まだまだ僕には修行 が必要そうだ。 映画館を出ると、窓のない空間から外に出た開放感が幾分空気を くつろがせた。僕たちは少し遅めの昼食を食べながら、映画館内で の微妙な気まずさが嘘のように、映画の感想を語り合った。もちろ あのシーンで主人公の顔や表情じ ん下ネタやラブシーンは暗黙のスルーで。 彼女の口から語られる感想は とか というものが多くて驚いた。僕の感想はストーリ 乗り物に乗ってるみたいな低くてスピーディーな映像 ゃなくて主人公の目線になって景色が写ったことに感情移入させら れた にドキドキした ーに関することのみだったから。 彼女と話すのはとても楽しかった。 402 よくよく考えると僕自身は全然大したことを喋っていないのに、 女の子とスムーズに有意義な会話をしているような気分にさせられ る。 そしてその時間はあっという間に過ぎてしまう。 三時半くらいになった頃、彼女のスマホが光った。 画面を確認した彼女がそのまま目を見開いてフリーズした。それ から動揺したように二、三回辺りを見回してスマホをバッグにしま った。 ﹁そろそろ駅に向かおう﹂ いまだ動揺の色が残る表情で笑顔を作った彼女が立ち上がる。た またまスマホで見た時間が丁度良い時間だったからなのか、入って きたメッセージが気になったからなのか分からない。けれどタイミ ング的に水を差された気分で、誰だか分からぬメッセージの主が少 し恨めしかった。 確かに電車の待ち時間や乗り継ぎ時間など諸々の所要時間を引っ 括めたら、桜ノ宮や東雲に五時くらいまでに戻れる時間だ。とはい えまだ充分に明るい。滅多に会えないんだし、あと一時間、いやせ めて三十分いても問題ないだろうという、名残惜しさがモヤモヤと 胸の奥に立ち込めた。こんな陽の高い時間にスパッと撤収を言い渡 す彼女の潔さが淋しくもある。 僕にとっては楽しくてあっという間の時間でも、彼女にとっては 延々と続く退屈な時間だったのかもしれない。ほとほと自分のつま らなさが嫌になる。同じ時間を共有していても感じる時間の長さが 違うなんてと、アインシュタインに愚痴垂れても一蹴されるだけだ。 帰りの電車の中でも、彼女はメッセージが届く前とは明らかに様 子が違っていた。明るく振る舞っていても表情が少し固かったし、 403 口数も減っていた。 何があったのか、誰からのどんなメッセージだったのか訊きたか ったけど、彼氏でもない男が干渉まがいの質問をするのも如何なも のかと思ってやめた。 ただ時折、落ち着かない様子で何か言おうとしては、ぎこちなく 話題を変えることが気になった。気まずそうに、とても言い難い何 かを抱えているのは鈍い僕の目にも確実だった。 そんな様子が桜ノ宮駅に着くまで続いた。 ﹁受験が終わったら⋮⋮、ううん。またメールするね﹂ なんとかなるさ 浮かない笑顔で電車を降りて行った彼女は、やはり﹁楽しかった﹂ とは言わなかった。 申し訳ないことをした。 女の子と過ごす経験もないのに、京浜に行けば で連れ回して退屈な時間にしてしまって。 好きな人と過ごす時間なら、ただ一緒にいるだけで楽しい時間に なるのかもしれない。だけど彼女にとって、僕は好きな相手ではな い。そうなり得る要素はあったかもしれないが、改めて僕がどれだ けつまらない男なのかを実感するだけの期間になってしまったんだ ろう。まさか、ここまでつまらない男だとは彼女も想像していなか ったに違いない。そして彼女には大学での学校生活があり、新たな 出会いに溢れている。 お試し期間は終わったんだ。 彼女は一年待ってと言った手前や、受験を控えた僕のダメージに ならないように﹁やっぱりごめんなさい﹂とは言い難いのだろう。 今日の帰りの何か言いたそうな雰囲気も、今ならまだ傷は浅いか、 それとも受験が終わった後に切り出すべきか悩んでいたに違いない。 404 一年経ってなくても答えを出していいよ。 そう言ってあげるべきだろうか。 彼女は悪くない。僕を好きになれそうもないことで彼女が自分を 責めるなら、言ってあげるべきなんだと思う。 だけどもう少しだけ、夢を見させて。彼女と僕の時間が続いてい るって。 あんな申し訳なさそうな表情を見るのはツライから、会いたいな んて願わずに都合の良い思い出だけ切り貼りして過ごすから。ズル ズル引き延ばしたらどんどんツラくなるのは目に見えてるけど、今 はまだ夢を見させて。 405 51 同じ穴の狢 十月になった。 七月に初めてA判定が出て以来、それからまたB判定続きだ。一 度、指先が触れたと思った都工大だが、地道に勉強を続けていても A判定を維持できず、掴めそうで掴めない手ごたえのなさが頭の中 を巣食っていた。 正直言って、かなり凹んでいる。 中堅進学校から超難関クラスに挑む難しさを今更ながら思い知ら されている。やっぱり初期値の限界なのだろうか。高3の頃の暢気 な自分に苦言の一つも呈したくなるくらい心から余裕が消えていた。 それに加えて眠りが浅い。 何かを切り出しにくそうな彼女に気付きながら、その暗雲から目 から逃げられず、 を突き付けられる夢を見る。ここのとこ ごめんなさい を逸らしたのは自分だ。もう少しの間、自分に都合の良い夢をみた ごめんなさい いと引き延ばしたつもりが彼女の 彼女から ろ見慣れたいつもの夢だと頭の隅は覚醒しつつも、生々しい焦燥感 と喪失感に取り乱して目を覚ます。 状況は電車の中だったり、卒業式だったり高校の図書館だったり その都度違う。 昨夜の夢は卒業式のシーンだった。 たくさんの人たちに囲まれた彼女が二、三回辺りを見回して誰か に手を振る。見知らぬ男性が彼女に近づいてきて、彼女の肩を抱い た。やがて不意に振り向いた彼女が遠巻きに見ている僕に気付き、 さよな を告げ、彼女の肩を抱いた男性に寄り添いながら人波に消えて 困ったように微笑した。そして唇の動きだけでゆっくりと ら いった。 406 ﹁待って﹂が声にならない。 どんなに叫ぼうとしても喉の手前で止まってしまう。 僕はまださよならを言ってない。自分の意思に反して足も動いて うわごと くれない。無情にも視界の中で人波がどんどん小さくなっていく。 ﹁待って!﹂ もう一度叫ぼうとした瞬間に自分の譫言と動悸で目が覚めた。 呼吸が整うと、今度は掛け時計の秒針の音がやけに耳の中に纏わ りつく。無意識に浅い笑いが漏れて泣きたい気持ちに襲われる。 こんな風に真綿で首を絞めるように悩み続けるなら、いっそ引導 を渡してもらって開き直る方が精神衛生上良いのかもしれない。 できることなら、どんな人間になれば彼女の心を惹きつけられる のかしっかり自分を見つめ直して努力したい。だけど今の僕には悔 しいくらい時間的余裕がない。 彼女のことを考える時、同時に成果の上がらない受験勉強に対す る焦りが付いて回る。 今考えるべき優先順位くらい分かっているだろう、何者にもなれ ない分際で。頭の中のもう一人の自分が恋愛沼に足を取られた僕を 侮蔑する。 ﹁更に顔色悪いわね。生きてるの?﹂ 図書館の帰りにエントランスで遭遇した美帆に声を掛けられた。 本郷大の法学部を目指す美帆もまた今年は浪人生だった。法学部 自分の努力で届く一番上を目指す という美帆独自の なら大隈でも中王でもいいじゃないかと先生たちは進学を説得した らしいが、 ポリシーに従って頑として本郷にこだわっていると聞いた。美帆ほ ど頑固なつもりはないしポリシーもないけど、同じ穴の狢という気 がしないでもない。 407 ﹁予備校じゃなかったの?﹂ ﹁春期講習と夏期講習は行ったけど、今ひとつ物足りなかったわ。 ま、それなりに収穫はあったわよ﹂ サ 相変わらず強気だ。現在の身分的には僕と同じ浪人生なのに、ど うしてこうも強気でいられるのか理解に苦しむ。 クジョ ﹁文科一類なんてハナから現役で受かると思ってなかったわ。桜ノ サッコー 宮女子って言ったって、この辺じゃ優秀でも所詮は地方の公立高校 よ。全国レベルの私立には及ばないわ﹂ まあ確かに、僕が都工大か浜国を受けると言った時、桜ノ宮高の 上位でも落ちるって紺野先生も言ってたもんな。本郷の法学部とも なれば尚のことだろう。 ﹁で、あんたは? 成果上がってんの?﹂ 非常に痛い質問である。 ﹁あのね、私が集中講座だけ予備校に行ったのは、利用できる物を 利用しない手はないって思ったからよ。勉強なんて予備校に頼らな くてもできるわ。だけど、モチベーションの維持とかスランプの克 服の仕方とかは、毎年そこに陥る受験生を何百人何千人って相手に して商売してるプロが熟知してるのよ﹂ こんな強気な美帆でもモチベーションの維持やスランプに悩むこ とがあるのか? 心を読まれたのか、不機嫌な顔をして大袈裟に咳払いをされる。 ﹁ちょっと、私のこと何だと思ってんの? 頑張ったって足りない ものがあるから落ちたのよ。でもいつまでも生産性のない悩みに足 を取られてるほどバカじゃないつもり。そういう無意味なことは、 とっとと片付けるのが鉄則でしょ﹂ ﹁鉄則、かぁ﹂ ﹁そうよ、当然でしょ。学生の本分が勉強っていうのと同じくらい 鉄則中の鉄則。何のために浪人してるか考えたら、考えることもや ることも一つだけでしょ﹂ 408 そんなこと僕にだって分かってる。ただ、努力してるつもりなの に成果が上がらないから凹んでるんじゃないか。 ﹁一人で勉強してると時々自分の勉強法が正しいのか自信なくなる じゃない? 親は息抜きが必要だとか言うけど、そんな悠長なこと してる間に遅れを取るんじゃないかって不安になるし。結局予備校 に行ったって、言われることはひな型通りよ。それでもブレずに頑 張ったもん勝ちだとか、先だけ見てなさいとか﹂ ﹁分かりきったことを言われるだけなら、そのために予備校に行か なくても良いんじゃない?﹂ ﹁分かりきったことでいいのよ。新発見みたいな必勝法が今更出て くるわけないんだから。ただ、その言葉を受験プロが言うってこと に価値があるわけ﹂ ﹁そういうもんなのかなぁ﹂ ﹁そういうもんなの。さっきも言ったでしょ、浪人生が考えること もやることも一つだけ、って。私たちは言われるまでもなく分かっ てるの。分かってるくせに迷走したら、言われる言葉も分かってる ことしかないじゃない﹂ ﹁理解できたようなできないような⋮⋮﹂ ﹁理解できないのは、あんたの頭の中にある迷いが勉強だけじゃな い証拠よ﹂ ズバッと言われてしまうと露骨に言葉が詰まってしまう。 美帆は呆れ顔で大きな溜め息をついて冷たい視線を送ってくる。 ﹁今は誰にうつつを抜かしてるのか知らないけど、あんたの分際で 百年早いっつーの﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁そもそもあんた、自分がそんなに器用な人間じゃないことくらい 分かってるんでしょ? バカじゃないんだから﹂ いや、改めてそう言われるとバカの部類かもしれない。 409 ﹁私、前に言ったわよね? 好きな女と肩を並べられる男になりな さいって。今のあんたじゃ、どうやったって一つも自分に自信持て ないでしょ。そんな風に地盤が緩んだ状態で何度立ち上がっても、 結局同じことの繰り返しなのよ﹂ 正論だ。さっきの美帆の予備校の話しじゃないけど、自分の頭の 中でとっくに分かっていたことを突き付けられているだけなんだ。 自分で悶々と考えているのと他人からハッキリ言われるのでは、こ うも違うものなのか。 ﹁一つずつ片付けていきなさいよ。何から先に片付けるかくらい分 かるでしょ? 一見、回り道に見えることも実は正しい道順だった りするから、あんたみたいな不器用な人間がそれを見失ったら取り 返しがつかないことになるわよ﹂ ﹁そうだね、ありがとう﹂ ﹁まったくガキのお守りはゴメンだわ﹂ 素直に礼を言った時くらい素直に受け取ってくれればいいものを、 この女史ときたらますます厭味を言う始末だ。 ﹁あ、ところで﹂ 唐突に僕が切り出すと、美帆が訝しげに片眉を上げる。 ﹁どんなことでモチベーションが下がってたの?﹂ こんなこと訊いても教えてくれるわけないか。まさか本当はサッ コーに憧れの人がいて、その人が本郷の法学部だとかそんなこと│ ││ ﹁来年のセンターまで待たないで、もう本郷を見切ってアイビー・ リーグにでも挑戦しようかと迷ったのよ﹂ ⋮⋮⋮⋮はい? ﹁アイビー・リーグって? アメリカのプロバスケ?﹂ ﹁はぁぁぁ!? 地味男のくせにつまんないボケかまさないでくれ る? それはエヌビーエー・リーグでしょ!﹂ 410 ﹁あ、ああ。そうだった﹂ ﹁ハーバード受けようか迷ったのよ。高校の時にSATも受けてる から、そこそこのスコア提出できるし。それに人生設計的には本郷 を卒業したらハーバードのロースクールに行ってLLMを取得する 計画だから、経過が少し変わっても問題ないかなぁって﹂ 次元がエグ過ぎる!! アイビーだとかエスエーティーだとかエルエルエムだとかエヌビ ーエーだとか。エヌビーエーは言ってないけどさ。 美帆が本郷大受験に迷いが生じた理由って、いっそのことハーバ ードを目指してしまえ、ってことだったのか。 なんというか、ははは⋮⋮。 本郷大に行ってからハーバードのロースクール って順 ﹁でもアイビー・リーグはお金かかるから、一見回り道に見えても、 やっぱり 序が私にとっては正しい道順だと思い直したわけよ﹂ ああ、そうですか、そうですか。 やっぱりこの恐ろしいイトコは、とんでもない人だった。 一瞬でも、同じ穴の狢だとか思ってしまったことが悔やまれる。 ﹁じゃあ私、帰るわ﹂ 駐輪場へ向かい掛けた美帆が断りを入れてきた。 ﹁あ、うん﹂ ポカンとして、手を上げた僕に美帆の目が鋭く光る。 ﹁くだらない話しに時間を費やしたわ。こんな僅かな時間で遅れを 取ったりはしないけど、僅かな時間に覚えられることは山ほどある もの﹂ そう言うとギシギシ音を立る自転車に乗って去って行った。 勉強も大切だけど、もう少し自転車の手入れをした方がいいよ。 411 52 会わない方がいい 考えるべきこともやるべきことも一つ、僕はそのために一年間と いう猶予をもらった。 私大の受験も間に合う所がないわけでもなかった。それでも来年 もう一度都工大を受験すると言って、浪人生活をさせてもらった。 自分自身でドロップアウトできない状況を作って、僕は来年の受験 への道を選んだ。 もっと器用なら良かった。もっと器用だったら、都工大にこだわ らずに今頃どこかの大学で講義を受けていただろう。僕には都工大 じゃなきゃダメな理由なんて何一つなかったのに、今こうしてもう 一年受験生をやっているのは、僕の不器用さが原因と言ってもいい。 自分が器用になれないことは嫌という程思い知らされた。だから きっちりとしなくてはいけない。 しばらく平岡さんのことを考えるのをやめて、受験に専念するん だ。 会うのを と言うことがあっても、また都合が良くなった時に会え 彼女は一年待つと言ってくれたし、たとえどちらかが やめよう る間柄でいたいとも言ってくれた。 だけど、現実はどうだろうか。 彼女にとって、あの段階で思い描いていた男よりも僕という人間 がつまらない人間だったとして、今は自分の見込み違いを悔いてい るかもしれない。だとしたら、区切りを付けた時点でもう会う理由 なんかない。 仮に百歩譲って、彼女がこの先ずっと会わなくなることまでは考 412 会うのをやめよう と言ってしまったら、会いたいとは言い出 えていないとしても、⋮⋮だ。 せない。この僕が、そんなムシの良いこと言える身分なわけがない。 それこそ﹁何サマだよ?﹂って話だ。 ジョーカーのカードを切り出せば、それで終わりになってしまう かもしれない。 だけどダメなんだ。今のままでは全てが中途半端なんだ。 彼女と映画館に行っても学生証を提示することもできない。彼女 の大学での友達との日常が気になる気持ちの中に卑屈な感情が入り 混じる。ただでさえ、地味で根暗で口下手で無趣味で貧弱で⋮⋮自 信を持てない要素なんて数え上げたらキリがない。その上、何者に もなれない宙ぶらりんの状態で、見る夢といったら彼女に去られる 夢ばかり。 自信が持てないから不安になって、不安に囚われるから本分が手 につかない。典型的な負のスパイラルだ。美帆が囚われた葛藤とは 種類も次元もまるで違う。 もう少し僕が器用だったら、もう少し賢い人間だったら、彼女を 原動力に出来ただろう。でも今の僕では│││今のままでは│││ 地盤が緩んだ状態で何度立ち上がっても、結局同じことの繰り とても無理だ。 返し ホント、そう。このまま彼女から優しい言葉をもらい続けても、 それは僕にとって一過性の安心に過ぎないだろう。僕自身がきちん としなければ、どんなに彼女から優しい言葉をもらっても、僕はそ れを原動力にすることもできず、ただひと時劣等感を紛らわせるだ 413 けだ。 もし今年も受からなかったら、彼女は呆れるだろう。いや、それ 以前に彼女の性格から言って、自分の存在が悪影響を及ぼしたと自 分を責めるだろう。 僕の弱さのせいで、遅かれ早かれ全てがぶち壊しになる。 突然なんだけど、今週末は忙しいですか? 少しでも時間が取 そんなことになるくらいなら。 れそうなら近くまで出ます 本当は会って切り出すなんて色んな意味で恐怖だけど、メールで 済ませるなんてどう考えても不誠実だし、メールでそれっきりにな ってしまうなんて嫌だった。どうせ最後になるならもう一度、会い 近くって東京? 日曜日は朝からバイトだけど、土曜日は午前 たかった。 中に授業でバイトは夕方からなので空き時間はあります。だけど畠 中くんは大丈夫なの? 大丈夫って、大丈夫に決まってるじゃないか。浪人生なんだから。 っていうか、子供じゃないんだから、東雲から電車に乗ってれば乗 り換えなしで都内に着きますって。乗り換えなければ子供だって着 バイト先、四ツ谷だっけ? じゃあ二時くらいに新宿でいいか くよ。 オッケー。大丈夫です。じゃあ土曜日にね な? 一連のやり取りを終えて、安堵と疲労の溜め息が漏れた。 414 ◇ 私鉄を降りて、改札を出た所に彼女は立っていた。ダークグレー の薄手のニットの上に白いシャツの襟を出して、ベージュ色のパン ツスタイルで、髪を後ろで一つに括っていた。 高校を出て知ったことだが、彼女はいつも寒色系の落ち着いた色 目の服を着る。今日もまた落ち着いた色目の服装なのだけど、パン ツスタイルのせいか一層大人っぽく見えて、それが何故か少し淋し かった。 ﹁どうしよう? ご飯食べて来た? どこかお店に入る?﹂ 彼女から矢継ぎ早に質問が飛んだので、まず昼食を済ませてきた ことを告げた。 ﹁じゃあ少し歩く?﹂ ﹁そうだね﹂ ﹁お天気もいいし、新宿中央公園まで行こう﹂ 歩き出す彼女に並んで、人で溢れかえる駅の構内を抜けた。 途中、彼女とのいつもの他愛もない会話にもところどころが上の 空になってしまい、その度に彼女が車道側にならないように立ち位 置を保って誤魔化した。この退屈を彼女が耐えていると思うと、ど うにも心苦しい。 中央公園まで来ると、本格的なカメラや三脚などを用意して撮影 している人たちの姿が目に入った。 ﹁ここね、昔は小西の工場があった所なんだって。プロアマ問わず 撮影する人がたくさん集まるのも、なにか縁があるのかもね﹂ ﹁じゃあ旭大の学生も来てたりするの?﹂ ﹁うーん、どうだろう。旭大の話しはあんまり聞かないかも。それ に私の知ってる人たちはハコ撮の方に興味がある人ばっかりだから﹂ 415 ﹁ハコ撮って?﹂ ﹁スタジオみたいなところでモデルさんとか物とか撮ることなんだ けど、私は用意された被写体をいかに綺麗に撮るかっていうのには あんまり興味が沸かないの﹂ 苦手なことを告白するように彼女は眉尻を下げて小さく笑んだ。 こんな風に自分のことについても話してくれる彼女に対し、僕の 憧憬は疎外感と表裏一体になってしまっている。 彼女が何も話さなければ隔たりを感じ、彼女が話してくれること に対しては取り残された気持ちになるのだから、本当に面倒くさい ウジウジ野郎だ。 だからこそ、このままじゃダメだと意を決してここまで来たのに、 実際に彼女を目の前にしてしまうと、この愛しい人との別れになっ てしまうかもしれないことが怖くて、ズルズルと告げあぐねている。 ﹁ねえ、なにか特別な用件があって来たんでしょう?﹂ 突然歩みを止めた彼女がキュッと踵を返して身体ごと僕の方に向 いた。 ﹁いいよ。なに言われても大丈夫だから﹂ 頬を上げ、口角を上げて笑っているように見える彼女の瞳は││ │感情のシャッターを閉じていた。 ﹁しばらく⋮⋮、他のことは考えずに勉強に集中しようと思って⋮ ⋮﹂ ﹁うん﹂ ﹁だからもう⋮⋮⋮﹂ 喉の奥の、ずっとずっと奥の胸の底まで苦しくて、一呼吸置かな 416 ければならないくらい、ここまで言うのが精一杯だった。 ﹁うん、分かった﹂ 彼女はゆっくりと深く頷き、言葉の続きが分かっていることをそ の目で告げた。 ﹁メールもしないようにするね。勉強、頑張って﹂ ﹁どうする? もう少し歩く?﹂ こんな状況でも僕を気遣って、いつも通りの口調で話し掛けてく れる彼女の優しさに僕は戸惑った。 もう少し歩く? 彼女が繋ぎ止めてくれた新しい間柄を自分から無碍にしてあんな ことを言って、それなのにそんな優しい言い方で なんて訊かれて、僕に決める権利があるわけないじゃないか。 ﹁じゃあ、駅に向かうね。⋮⋮少しゆっくり歩くけど、時間大丈夫 ?﹂ ﹁あ、うん﹂ ﹁ありがとう﹂ 礼を言われる筋合いなんかないのに。礼を言わなきゃいけないの は僕の方なのに。 何かを避ける空気を間に挟んで僕たちは駅に向かった。 確かに中央公園に来る時よりもゆっくり歩いたはずだった。なの に無情にも帰り道の方が短く感じられた。 券売機で切符を買って改札前の電光掲示板を見上げる。残念だけ ど、快速や急行を含め本線の本数は多い。改札に入ればほぼ十五分 単位で帰る電車に乗れるのだ。 本当は適当な口実をつけて別れの時間を引き延ばしたかったけど、 勉強に集中することを理由に会わないことを告げた人間がズルズル 留まるのは矛盾にも程があるというものだ。本来なら、一分一秒惜 417 しい立場でなければならないくらいだ。 ﹁今日はありがとう﹂ ﹁ううん、私の方こそ﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁ふふ。今日の私たち、こんなやり取りばっかりだよね﹂ ﹁ごめん﹂ ﹁ううん﹂ 沈黙を断ち切るためだけの短いやり取りだということは分かって いた。 急行に向かう人波が慌ただしくなり、込み上げてくる名残惜しさ で喉元を詰まらせながら、やっとの思いで﹁それじゃあ﹂と終止符 を打った。 ﹁⋮⋮ていい?﹂ 改札を入ってすぐに人波の喧噪の中に彼女の声が紛れて来た。 ﹁え? なに?﹂ 聞き返そうとして立ち止まって振り返るけど、改札を抜けて直進 する人たちに邪魔そうに顔を顰めらる。彼女を見失わないように視 線で繫ぎとめながら一番端の改札まで移動した。 ﹁待っててもいい?﹂ 彼女が叫んだ。その目はしっかりと僕を見つめたまま。 自動改札が並んだその隅にある腰下までの高さの衝立を挟んで僕 と彼女は向かい合った。 ﹁待ってたら迷惑? 愛想が尽きてしまった?﹂ ﹁違う、そんなんじゃない!﹂ もどかしかった。自分の現状を伝えるのも、彼女に会いたくなく なったわけじゃないと説明するのも。それらを正確に伝えるために は、僕の国語力は絶望的に欠如していた。 ﹁言葉が足りなくてごめん、そういうことじゃないんだ﹂ 418 押し出される言葉の次がない。それでも伝えたい。伝えなければ 彼女に勘違いをさせ、傷つけたままになってしまう。 勉強ができるとか思われてるけど、僕は全然器用じゃないんだ。 勉強なんて、所詮は答えの用意されたものを答えられるようになる だけの修錬。人とのコミュニケーションみたいに自分で作らなけれ ばいけない答えなんてない。 もう会えません そんな恋愛という未知の世界と本命一校受験を同時進行なんて、 今の僕のスペックでは無理なんだ。僕の分際で なんて言い出して、合格したら会ってくれなんて調子の良いこと言 えないよ。どう言ったら分かってもらえるんだろう。 陽の高いうちに改札を挟んで男女が深刻な顔をしていれば、興味 本位の目を向けていく通行人も少なくはない。だけど誰一人足を止 めることなく通り過ぎる。人の流れとは違う時間の狭間にいるよう に。 ﹁私、嫌われたんじゃないの?﹂ 前のめりの気持ちが空回りして、動かし過ぎたマリオネットみた いにブンブンと首を横に振り続けた。 ﹁本当に?﹂ ﹁本当っ⋮﹂ 好き過ぎて自制心を見失うくらいなのに。嫌いになれるわけがな い。嫌いになる方法なんてこの世界のどこにもないのに。 ﹁畠中くん、ホント不器用すぎるよ﹂ 待ってて ってお願いしたんだよ。畠中くんもそう 私もあんまり他人のこと言えないけどね、と付け足して彼女は苦 笑した。 ﹁私だって、 言ってくれたらいいのに﹂ 419 そんな都合に良いこと、言えるわけないよ。 来年必ず受かる保証もない奴が、新しい出会いの中にいる平岡さ んの大切な一年を差し押さえする権利なんてあるはずがない。 誰からも好かれるこんな可愛い女の子が、面白味もない退屈なだ 待ってて って言ってほしかっ けのただの地味男のために一年を徒労に終わらせるなんてあっては ならない。 ﹁もし嫌われてないのなら、私は た。ううん、言ってほしい﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁もう、頑固なんだから﹂ 淋しそうに笑って彼女は向き合ったままの姿勢で、一歩ずつゆっ くりと後ろへ足をずらし衝立から距離を取った。 声が届くギリギリの位置に立って、こちらを見ながら﹁頑張って ね!﹂と叫んで大きく手を振ってくれた。 僕なんかより素敵な人は、たくさんいる。いや、僕より魅力のな い人を探すことの方が難しいだろう。 もっといい人と、もっといい日々を送って。 僕なら充分すぎるくらい贅沢な夢を見せてもらったから。 420 今の私たちには、別れるとか別れないっていう思いつめた間柄 53 猛者襲来 は時期尚早のような気がするの 卒業式の翌日に平岡さんが朱雀公園で言ってくれた言葉の意味を 理解するには、僕は思い詰め過ぎていた。 そうなんだ、答えは至極簡単なことだったんだ。 彼女が﹁テストが近いので少し連絡遅れます﹂とメールを結んで くれていたのと同じ温度で、僕も﹁ちょっと勉強に専念しときます﹂ とメールに書き添えればそれで良かったのかもしれない。 だけど、解いたことのない問題の正解が導き出せるのはいつも頭 の渾沌がリセットされてから。僕は昔から何をやらせても不器用で 愚図だ。 あんな風に間柄を断ち切るような言い方をして、今後どのツラ下 げて再会をお願いできるというんだ。そんなことができるくらいな ら、どうしても行きたいというわけでもない大学に固執して浪人な んかしてないけどね。 もう、こうなったら開き直るしか残された道はないのだ。 意地でも都工大に合格してやる。いつかは杉野か誰かの口から平 岡さんにも伝わるだろう。 その時彼女が﹁無事に受かって良かった﹂と思って肩の荷を降ろ してくれれば、それが僕のタイミング外れの不毛な恋への最高の手 向けになるさ。 421 新宿駅で彼女がゆっくりと離れて行ったあの時に、僕の初恋は終 わったんだ。根暗な非リア充の地味男の初めての恋にしては、贅沢 過ぎるほど幸せな夢の時間を与えてもらった。はっきり言って東高 生が都工大に合格するより、僕が彼女に届く方がレベル的に難易度 が高いだろう。それくらい高嶺の花だった。 ビジュアル的にも勿論だけど、中身も優しくてマジメでしっかり した素晴らしい女の子だった。 十月が終わり、暦は十一月になった。勿論防寒対策は万全だ。こ の頃になると図書館で自習する学生の数も増えてきて、僕は勉強場 所を自宅に変えていた。 変わりばえのない景色、変わりばえのない日常。一日一日がオー トマチックに進んで行った。 十一月の公開模試では、ギリギリのA判定。今は兄さんが大学の 後輩からもらってきてくれた問題集と、都工大の赤本を反復してい る。 傾向 であって、 都工大の赤本なんか、よれよれになった紙が扇型に広がるくらい やり倒している。それでも過去問はあくまでも やり込んだからと言って同じ問題が出題されるわけではない。本当 に頭の良い人なら、二、三年分の過去問をそこそこやり込めば、そ の大学の出題傾向というのが分かってくるのだろうけど、僕のよう に不器用で要領の悪い人間はいくらやり込んでも傾向というものが 分からない。だから僕の場合は、とにかく数をこなすこと、問題集 で一度間違えた問題を二度間違わないこと、演習でもケアレスミス をしないこと。この辺りを徹底的に鍛えて行くしかない。 彼女に最後に会ってからスマホの電源は落としたままだ。電源が 422 入っていないと思えばスマホが気になることもない。もしかして彼 女から何かまたメールが来るだろうか、なんて格好悪いことを考え ずに済むし、自分がメールを打ちたくなる衝動も起きることはない。 彼女から優しい言葉をかけてもらえるのではないかという調子のい い期待も抱かずに済む。 そしてなにより、未練がましく今までに彼女からもらったメール を見ようとするなどという最悪に格好悪くて女々しい事態に陥らな くて済む。やっぱり僕にとってスマホはただの毒である。 十二月も半分を折り返し、今年も残すところ僅かとなった。いよ いよラストスパートかという頃になったある日のこと。 僕はいつものように二階の自室で勉強をしていた。手元のマグカ ップには、平岡さんの影響ですっかりお気に入りになってしまった 焙じ茶が僕の勉強のお供だ。さり気なく未練がましいぞ、自分。な んて自虐の突っ込みを入れながらお茶を啜れるくらい、僕のモチベ ーションは安定してきていた。もう今からどう足掻いたて、今まで やって来た分の積み重ねが成果になるだけなんだ。だからといって 怠慢をするつもりはないが、今からは成績向上という段階ではなく、 総復習・総点検の段階だ。 優雅にティータイムに興じる午前中のひと時を打ち破る雑音が階 段にドカドカと轟く。 一体なんの騒ぎなんだと頭の中で言い終わる前にノックもなしに 乱暴に部屋の扉が開かれる。 いない と伝えろというんだ? 唐突に現 ﹁図書館にいないなら、いないって言いなさいよ!﹂ いないものを、どう れた怖いイトコに、そんなことを言い返せるわけもないが。 423 ﹁どうやって入ったの?﹂ 玄関の鍵だって閉まってるだろう。親戚ではあるが、家族ではな い。そんな美帆が我が家の鍵を持っているとは考えにくい。不法侵 入だ。この家のセキュリティはどうなってるんだ。 ﹁桜ノ宮で大ちゃんに会ったのよ﹂ へ? 兄さんに? しかも東雲じゃなくて桜ノ宮で? ﹁大ちゃんが車で送って来てくれたの。今からうちに行ってもらう の﹂ 兄さんは今年の春に自動車の免許を取っていた。でもまだ大学は 休みになってないし、東京にいるはずだ。しかも免許はあるけど車 は持ってない。 ﹁あんた、本ッ当にぼーっとしてるのね。伯父さんの知り合いが桜 ノ宮で中古車屋さんやってるから、試乗も兼ねて今日、大ちゃん帰 って来るってあんたに連絡したって言ってたわよ?﹂ あ、スマホの電源落としっぱなしだった。 そういえば昨日の夕食の時に母さんがそんな感じのこと言ってた っけ。来週兄さんの誕生日で、本人がバイトで貯めたお金で中古車 を買うとか行って明日帰ってくるとかなんとか。それでなんで桜ノ 宮で美帆を拾って、これから美帆の家に送るんだ? そもそも美帆 ありが が桜ノ宮にいるという所から状況が呑み込めていない。 ﹁それで、なんで有賀の家に行くの?﹂ ﹁私が予備校の申し込みに行ったんだけど手持ちがなくて、そこに 偶然大ちゃんと出合ったら、試乗も兼ねて送るって言ってくれたの﹂ それでそんなに急いでるのか⋮⋮ ﹁あんたも行くの﹂ ﹁へ?!﹂ ﹁へ、じゃないわよ。しょーもない声出してる暇があったら、とっ とと支度してよ。大ちゃん待ってるんだから﹂ ﹁いや、だって。行く理由⋮⋮﹂ 恐ろしい目で睨みつけられて、ヒイッと息が詰まった。 424 ﹁前に言ったでしょ。相手は 受験のプロ だって。あんたみたい に学力あっても豆腐メンタルな奴は、そこんトコをキッチリとネジ 巻いてもらってくるの。それくらいの利用価値はあるから素直に従 いなさいよ﹂ ﹁あ、その点ならお陰さまで﹂ ﹁行くわよ!!!﹂ 渾身の力で机を叩かれて、湯気の立つマグが傾いて僕の手の甲は 熱々の焙じ茶の頼りない受け皿となった。 ﹁あッッッち!﹂ ﹁なにやってるのよ、早く!!﹂ なにやってるも何も、美帆のせいだろう。溢れた机の上を拭いて 転げ落ちる もいないのに、腕を掴まれて拉致された。なんとかコートだけは手 に取ることができたけど、強引に引っ張られて階段を という表現がギリギリ当て嵌らない状態で、無事に一階の地を踏 めた。こんな時期に転げるとか落ちるとか縁起悪いから勘弁してほ しいもんだ。しかもまた骨折なんかしようもんなら、豆腐メンタル どころか、一部豆乳化した崩し豆腐じゃないか。 栗原さんといい永田さんといい美帆といい、なんでこうも東雲の 女子は猛者なんだ。せめて熱々の焙じ茶が溢れた手の甲くらい冷や させてくれよ。 誘拐と訴えても棄却されない勢いで、玄関前に停まった車の後部 座席に押し込まれた。 ﹁よう、秀。久しぶり﹂ 運転席から降りた兄さんが家の戸締りを済ませて戻って来て、飄 々と僕に声をかける。車を発進させる兄さんの隣の助手席では美帆 が﹁大ちゃん、カァっこいい∼!﹂とウットリとした顔をしている。 イトコだぞ、イ・ト・コ! 四親等ですよ! 分かってますかー? 425 ⋮⋮って、さぁ。今気が付いたけど美帆もこういう顔することあ るんだね。いつも怪訝な顔で僕を見るから、美帆にこんな女子の顔 ができるなどとは夢にも思わなかった。 それから美帆の家に寄り、車は桜ノ宮方面へと走り出した。 ﹁大ちゃん、この車買うの?﹂ ﹁そのつもり。俺はニューモデルより前の型のフォレストが好きな んだけど、父さんの知り合いのところに状態の良いのがあったのは ラッキーだった﹂ ﹁最初の助手席が私だなんて、光栄ィィィ﹂ ﹁ははは、まだ俺の車じゃないよ﹂ ﹁いいの、そんなこと。大ちゃんの助手席の最初ってことに価値が あるんだから﹂ ﹁言うねぇ、美帆ちゃん。都合さえ合えば、いつでもお迎えにあが りますよ?﹂ ﹁ホントぉぉ!? でも大ちゃんきっとモテるから、ほどほどにし とく﹂ はいはいはいはい、ご勝手にどうぞ。僕と話す時より声のトーン がだいぶ高い。邪魔者なのに拉致られるってどういうことなんだ。 っていうか、どうしちゃったんだよ、兄さん。今まであんなに美帆 のこと苦手にしてたじゃないか。今年の花火大会の時だって、父さ んたちが有賀家でバーベキューするって誘われた時も光の速さで断 ってたじゃないか。欲しかった車をゲットするからって、そこまで 上機嫌になることか? ﹁美帆ちゃん、ありがとな。秀を連れ出してくれて﹂ ﹁いいの。私もちょっと気になってたから﹂ 426 え? どういうこと? ﹁母さんから、九月くらいから秀の様子がおかしいとは聞いてたん だ。十月になってますますヤバそうだっていうからさ、秀にメール しても返事ないし﹂ あ⋮⋮。 ﹁しまいには図書館も行かなくなって、このまま引き篭もりになる んじゃないかって⋮。まあ、メシはフツーに居間で喰ってたみたい だけどな﹂ 前の席の二人が面白がって笑う。 ﹁秀、美帆ちゃんに感謝しろよ? 秀の実力なら絶対に受かる、だ からとりあえずその破滅的な自信のなさだけ受験までにどうにかし なきゃって、美帆ちゃんが父さんに電話してきたんだぞ﹂ ﹁あ、ありがとう﹂ ﹁お礼は出世払いでいいわ。私より出世できたら受け取ってあげる﹂ このイトコに一生頭が上がらないと宣言されたようなものだ。 予備校の前で車を降ろされて、美帆に強引に手を引かれる。 兄さんは運転席の窓を開けて暢気に手を振りながら﹁父さんと戻 って来るから適当に待っててー﹂と言い残して去って行った。 いいですか、軽症とはいえ火傷の責任は取ってもらいますよ? 主犯は美帆だけど、兄さんも共犯だから覚えといてね。 427 54 雪を溶かすギリギリの温度︵前編︶ 怒濤の一年が終わった。 十二月後半は、美帆に引っ張られて桜ノ宮の予備校で冬期講習を 受けた。 まだ正月を挟んで後半に数日あるが、今のところ美帆が言うだけ の収穫はあった。講義そのものよりも受験に対する心構えだとか、 年を明けてどのようなスケジュールで自分を調整していくかなど、 分かりきったことだと思っていても他人から言われなければ意識で きないというのは意外な発見でもあった。もう一つ言えば、受験間 近の受講生の空気はピリピリした緊張感があって、最初は圧倒され たけど日ごとに慣れた。これは受験会場で気を呑まれないための恰 好の予行になった気がする。 予備校が休講の大晦日には、台所の換気扇の掃除を手伝ったり、 年明けに出す古新聞やダンボールなどをまとめる作業をして、それ はそれで気分転換にもなった。 ﹁秀はどうする?﹂ 父さんと母さんは有賀の家に年始の挨拶に行くという。飲んで帰 るつもりなので兄さんが車を出すらしい。 中古とはいえ、念願のフォレストを申し分ない状態で手に入れた 兄さんは車を出したいらしい。普段なら﹁遠慮しとく﹂と言うだろ う有賀の家にも二つ返事でお供するのだから。 ﹁僕は遠慮するよ。寒いの嫌いだし﹂ そう、あろう事か今日は朝から雪が散らついているのだ。こんな 日に予備校へ出掛けなくて済んだというのに、わざわざ外に出よう 428 という気にもならない。 ﹁そんな年寄り臭いこと言うなよ。進悟は友達と初詣に出掛けたぞ ?﹂ 彼は彼、僕は僕だ。 弟の進悟は一丁前にめかし込んで鼻唄なんか歌いながら﹁夕飯い らないよ﹂なんて言って出掛けて行った。 家族が出て行ってしまうと、急に家の中が静まり返り、観るもの もないのにテレビをつけてみた。 ﹁⋮⋮﹂ 普段からテレビなんて殆ど観ないけど、正月番組ってどうしてこ うもつまらないんだ。しかもどのチャンネルも大差がない。テレビ の中で出演者がわざとらしく楽しそうに盛り上がった内輪感ばかり が際立って興醒めする。そもそも、誰もいなくなった居間で観るも のではないのだろう。こんな状況で観たら温度差を感じるのも当た り前だ。 淡々と進行するスポーツ中継を観る気にもならず、結局一分と経 たずにテレビを消した。 はあ、と溜め息をついてコタツに寝転んだまま仰向けなって天井 を見た。 とりあえず、尾崎やガクちゃんたちに新年の挨拶くらいメッセー ジしとこう。そう思ってコタツに寝転んだまま横着に、ソファのス マホに手を伸ばしてたぐり寄せた。 メールのアイコンのところに一通のメールが届いている表示があ った。十二月の中旬にまいちゃんから、年末に帰るとメールがあっ たのできっとまいちゃんだろうとアイコンをタップした。 あけましておめでとうございます。今年は畠中くんにとって良 メールの送信者は平岡さんだった。 429 い年になりますよ なりますよ? 変な言い方だ。普通は とかじゃないか? 良い年になりますように 東雲神宮 と書かれ そう思いながらスクロールしていくと余白の終わりに画像があっ た。 大吉のおみくじだ。 願望 思いがけぬ人の助にて叶うことあり 待人 来る 便りあり 失物 近くにある 学問 安心して勉学せよ そのおみくじの下の方には、見切ていたが ていて間違いないと思う。 僕はコタツから飛び起きた。コタツやホットカーペットやファン ヒーターや諸々の電源を切って、階段を駆け上がりコートを掴んで また階段を降りた。時計を見ると一時を少し過ぎたところだった。 彼女からのメールの着信は十分ほど前。もしかしたら│││今か ら走れば│││間に合うかもしれない。 僕は掴んだコートを体に引っ掛けて、寒さなんて忘れて走った。 人も車も少ない国道を、薄っすら積もった雪が微かな雑音までも吸 収している。僕の跳ねる息と足音だけが、耳の中に⋮⋮いや身体中 に響く。 夢中で走った。 会いたい。 彼女に今更どんな顔して会えばいいのかなんて躊躇いも、全部全 部吹っ飛んでいた。頭の中は真っ白で、足が、身体が、東雲神宮だ けを目指していた。 430 石畳みに足を滑らせそうになりながら境内まで辿り着いた。 例年、大晦日から三が日にかけてそれなりに賑わっているという 東雲神宮も雪のせいか参道に露店もなく、静かなものだった。 辺りを見回しても、それらしい人の姿はない。 仕方ない。この雪の中、メールが届いてから二十分は経っている のだから。 諦めかけたその時、社務所の脇の桃の木の下にある絵馬所に紺色 のピーコートを着て水色のマフラーをぐるぐる巻きにしている彼女 の姿を見つけた。 近寄って行っても一向に気がつく気配はない。彼女は爪先立ちに なって一心不乱に絵馬所の一番上の段に絵馬を括り付けようとして いるところだった。 玉砂利の擦れる音と弾んだ呼吸で、ようやく彼女がこちらに顔を 向ける。いつか教室棟の屋上で見たように、彼女は路地を横切る時 に人間と目が合った猫のような表情をして驚いたままフリーズして いた。 境内まで走ってきた熱と彼女を目の前にした興奮から身体中がカ ッと熱くなった。身体に熱が入ると、自分から会わないことを決め ておきながらここに立っている矛盾と恥ずかしさで、曖昧な誤魔化 し笑いを顔に貼り付けた。 ﹁どう、して? ここに﹂ ﹁こっちが聞きたい。どうして東雲に?﹂ 彼女がもしどこか初詣に行くとすれば、朱雀公園にある檜川神社 だと思っていた。雪も降っているから檜川神社まで行かなかったと しても、桜ノ宮市内の神社へ行くのではないだろうか。なのに何故、 431 こんな雪の舞う日に一人で東雲に。 ﹁アヅサちゃ⋮後輩がここで巫女さんのアルバイトしてて、東雲神 宮は自分のことより他人のことをお願いするとご利益あるって聞い たから﹂ 彼女は両手の指先を合わせて絵馬の表書き面を隠した。 ﹁どこに掛けたらいい?﹂ 僕の手を差し出すと、彼女は慌てて﹁あ、ダメ。本人が願ったこ とになっちゃう﹂と言った。 やっぱり僕の受験のことを祈ってくれたんだ。 ﹁大丈夫。絵馬を書いたのは平岡さんだから﹂ そう言って彼女から絵馬を受け取り、彼女が掛けようとしていた 一番高いところに括り付けた。 ﹁ありがとう﹂ 彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。白い頬に小さな陰を作る長い 睫毛の先に、雪の細かい滴ができている。じっと見ているのも気ま ずくて視線を彷徨わせれば、彼女が恥ずかしがるから見ないように 合格祈願 とだけ書かれてあった。 して括り付けた絵馬に目が留まってしまった。 とてもシンプルに ﹁知ってる人も来るかもしれないし、個人名とか学校名とか書いた 桜ノ宮高校合格 草間和哉 などといった見る 裕くんと両想いになれますよ ら畠中くんに迷惑かかっちゃうから﹂ とか なるほど。周りの絵馬を見渡せば うに 亜美 人が見れば分かってしまうような名前や願い事が明記されている。 個人情報にナーバスな昨今でこの矛盾は一体なんなんだろう。 ﹁ね?﹂ ﹁そうだね﹂ 自然に顔を見合わせて笑っていた。 432 ﹁最初の質問に戻っていい? 畠中くん、どうしてここに来たの?﹂ ﹁まだいるかと思って﹂ 理由になってないかな、これ。会わないとか言っておいて、どう して来たのかってことだよな。 ﹁どうして東雲神宮にいるって分かったの? メールに位置情報っ て出ちゃうの?﹂ あ、えーっと、そういうんじゃないんだけどな。とりあえず言葉 で説明するより、彼女が送ってくれた画像を見せた方が早そうだ。 コートにポケットからスマホを出して、彼女が送ってくれたメー ルの添付画像を見せた。 ﹁このおみくじの紙の下の方に東雲神宮って書いてあるのが分かっ たから﹂ ほとんど見切れていて、それこそ見る人が見れば分かるかも⋮く らいのレベル。 ﹁こんなちょっとで分かっちゃうの?﹂ ﹁まあ、一応、地元なんで﹂ ﹁そっか、﹂ 彼女は言葉を止めて、もう別のことでも考えてるみたいな深刻な 顔して僕のスマホの画面を凝視していた。と、言っても画面なんて とっくに真っ黒になっちゃってるけど、納得のいかない部分でもあ ったんだろうか。もう一度、おみくじの画面を表示した方が良いん だろうか。 動かしてはいけないくらい凝視されるものだから、なんとなく手 を引っ込めあぐねる。普通に考えたら、全く意味が分からない格好。 スマホを持ったままの左手が、突然彼女の温かい両手に包まれた。 えっ!? ちょ、ちょっと待って。待って。待って。待って。待 って。ちょっと、これは、いくらなんでも⋮⋮。 初めて感じる大好きな子の手の感触に、心臓がフル稼働して一気 433 に身体中の血がめぐる。おかげで頭はクラクラするし、意識が飛ん でしまうかと思った。 ﹁これ、どうしたの?﹂ 包んだ両手を静かに開いて、僕の左手の親指の付け根に赤く残っ ている低温火傷の痕を彼女が見つめている。 ﹁こっ、これは⋮、ちょっと前に、お⋮お茶を零して﹂ ﹁痛いの?﹂ ﹁もう全然⋮⋮⋮﹂ ﹁良かった。早く消えるといいね﹂ これが怪我の功名ってやつだろうか? それで合ってたっけ? ああ、この際そんなことはどうでもいいや。 殆ど擦り傷レベルの軽傷なのに、むしろ消えてなかったのはラッ キーとしか言い様がない。沸騰してしまう。沸騰してしまう。沸騰 してしまう。光速で身体中を駆けめぐる血が、歓喜に変換されて暴 発しそうなくらい騒いでる。 スマホが邪魔だ。でも今スマホをどけようとしたら、手を離され てしまう気がする。 そんな資格ないのは分かっているけど、この手を離したくない。 って、僕はどこの乙女なんだ?! ﹁ちょっと先輩、なにやってるんですか?﹂ 背後からの声で彼女の体はビクッと震えて、慌てて手を離されて る。 ﹁ひと気のない神社仏閣でイチャイチャとか中学生みたいなこと、 やめてくださいよ? 神聖な場所なんですからね!﹂ 434 巫女の格好の上にダウンジャケットを羽織ったアヅサさんだった。 平岡さんは隠し事が下手な人の典型のように、さっきまで握って いた手を離し、その両手を自分の背中に回すというあからさまなリ アクションをする。目を泳がせてアタフタしたかと思えば、目撃さ れた事実を受け止めてショボンと肩を落として真っ赤になった。 ﹁イチャイチャなんて、してないよ。だって、畠中くんには彼女が いるんだから﹂ えええええええええええ!? そんなの聞いてない。僕が。 どういうことなんだ!? 正直者の真人間に見えて、こんな誤魔化し方するなんて、キミ一 体どうなってるんだ、平岡さん。 435 54 雪を溶かすギリギリの温度︵後編︶ ﹁ホントですか? えーっと、なに先輩でしたっけ。卒業式の日、 マユ先輩とイイ感じだったじゃないですか。彼女いるのにアプロー チしたってことですか?﹂ ﹁あ、あのっ、畠中です﹂ いや、今僕が答えるべきはそこじゃないだろ。彼女いるのにアプ ローチって所? 違う違う、彼女なんていないってビシッと言う場 面だろ。 唐突に根も葉もないこと言われて僕自身が驚いているのに、その 根も葉もない部分を質問されてもパニクるばかりなんですが。 ﹁ああ、畠中先輩ね。マユ先輩がフリーだったら乗り換えたくなる 気持ちは分かります。男子なんてそんなもんでしょうから﹂ ﹁あ、いや、あの⋮⋮﹂ ﹁だけど、二股はダメです。倫理的にアウトです。いいですか、こ こ神様のお社ですよ? バチ当たりますからね?﹂ ﹁いや、だから⋮⋮﹂ ﹁違うの、アヅサちゃん﹂ そうだ、平岡さん。平岡さんからアヅサさんに説明してやってく れ。 会えない って意思表示されてるの﹂ ﹁誓って二股なんかじゃないから。私と畠中くんはお友達だし、畠 中くんにはもうとっくに 最悪だ。何のフォローにもなってない。やっぱり彼女自身が勘違 いをしているようだ。なんだか分からないけど、話しが進むにつれ 本線を逸脱して一層ややこしいことになってる。 436 ﹁ごめんなさい。今私、すっごく複雑です。二股は絶対ダメですけ ど、マユ先輩をフるって正気ですか? マユ先輩ですよ。一兆円を ドブに捨てるようなもんですよ? 一兆円って、小さな国なら国家 予算規模に近いですよ? 私の好きな人、マユ先輩に片想いなんで こんなこと知ったら発狂しますよ﹂ ﹁何言ってるの、アヅサちゃんの勘違いでしょ。私、浜島くんから そんなこと一言も言われたことなかったよ﹂ ﹁浜島先輩、可哀想。言えるわけないじゃないですか。あの気が小 さくてプライドの高い人が、フラれるの分かってて告ると思います ?﹂ そうだ、この ⋮⋮あのぉ、お嬢さん方、一旦話しを戻しませんか? ﹁ちょっといいかな﹂ と言っている。ははは⋮⋮。 努めて控えめに話しに割って入れば、四つの瞳が 人いたわ ﹁僕には彼女なんていません﹂ そんなに喰い気味で驚かないでよ。 ﹁⋮⋮ホントです。事実無根です﹂ どうしてそんな話しになったのか、こっちが訊きたい。 だいたい、いるように見えないだろ。普通に考えれば可能性から 簡単に答えは導き出せるはずだけど。 ﹁じゃあ桜ノ宮の駅前で腕を組んでた女の子は⋮⋮﹂ 腕を組んでた? 僕が? 女の子と? いや、男の子とも組みま せんけどね。中学の時のフォークダンス以外で女の子の手を触った のも今日が初めてなのに。皮肉にもその記念すべき初めての日に、 こんな嫌疑をかけられてしまうとは。 437 ﹁僕が?﹂ ﹁うん﹂ ﹁誰と?﹂ ﹁女の子と⋮⋮﹂ ﹁どんな子だった?﹂ ﹁短い髪の、活発そうな女の子﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮美帆か。あれ、 ﹁たぶん、それイトコ﹂ 女の子 だったか。 予備校に行くのに腕を引っ張られていた時か。あれが仲良さそう に見えるものなのか。 ﹁マユ先輩の勘違いってオチですか。気を揉んで損しました﹂ ﹁ごめんなさい⋮⋮﹂ ﹁まあ、でも誤解が解けて良かったです。きっと誤解が解けたのも ご利益なんでしょう。あとはお二人できちんと仲直りしてください。 どう見てもイイ雰囲気でしたから﹂ 終始呆れ顔で淡々と言い放ったアヅサさんが去り際にニヤリと笑 った。 ﹁あの、ごめんなさい﹂ ﹁いや、たぶん僕が悪い﹂ 大きな目をパチクリさせてポカンとしている彼女。 やっぱりちゃんと言わなきゃな。 ﹁僕の言葉が足りなかったせいだと思う﹂ 他に好きな人ができたとか平岡さんに愛想を尽かしたなんて類じ ゃない。むしろ、僕から言わせれば平岡さんの方にその可能性があ ると思っていた。 438 ﹁余裕がなかった。器用じゃないから受験と他のことが両立できな くて﹂ 彼女の存在が負担になったと思われたくなかった。 ﹁そうなのかなぁ、とは思ったの。切り出された時は。だけど、目 処がついた頃には会えるって言ってくれそうもなかったし、待たれ るのも迷惑そうだったから、てっきり私に愛想が尽きたのかと思っ たの。そしたら桜ノ宮で女の子と腕を組んで歩いてて、好きな人が 出来たんだなぁって納得したの﹂ お願いだから納得しないで。美帆はイトコなんだ。生まれてこの 方、恐怖しか感じたことがない。平岡さんだって、小学校の同級生 なんだから、美帆の怖さを知ってるだろう。 あれ⋮⋮? そうだ。知ってるはずじゃないか。 ﹁話の腰を折って悪いんだけど、有賀美帆って覚えてる?﹂ ﹁有賀美帆? ⋮⋮美帆ちゃん? 小学校に時に⋮﹂ 不思議そうに逡巡した彼女が、思い当たったように目を瞬いた。 ﹁うん、あれ有賀美帆。イトコです﹂ ﹁美帆ちゃんだったの!? 髪が短くなってて全然分からなかった !﹂ 興奮気味に嬉しそうな顔をする彼女にひとまずホッとする。 ﹁美帆ちゃんと畠中くんがイトコだったなんて。美帆ちゃん元気に してる? って、元気そうだったね。小学校の途中で転校してしま ってもう会えないかと思ってた﹂ ご覧になった通り無駄に元気ですし、フツーにこの街に生息して ますんでいくらでも会えます。僕は好んで会いたいと思いませんけ ど。 たぶん平岡さんが見た時は、予備校に引っ張られて行くところだ ったと思う。疚しい場面ではなかったけど、お世辞にも格好良いと は言い難い場面だった。 439 少し と僕 ﹁私と美帆ちゃんが知り合いだって知ってるってことは、私の家の こと少しは聞いてるのかな﹂ ﹁あ、えーっと、少し﹂ 知られたくないことだったのだろうか。彼女の言う が美帆から聞いた部分がどれくらい合致するのかは分からない。 ﹁そっか。それなら細かい説明は省けるのかな。家に遊びに来たこ とがあるのは美帆ちゃんだけだから﹂ にっこりと笑った彼女の表情に曇りは感じられなかった。 ﹁私の両親は私が四つの時に事故で同時に亡くなってしまったの。 今の家は母の実家で、祖父と叔母が家族なの﹂ 美帆から聞いた話の通りだった。 ﹁叔母の養女になったから、叔母が続柄上の母親になるんだけど、 叔母は、私にとって叔母のままでいいって言ってくれてる﹂ ﹁優しい人?﹂ ﹁うん、とても。続柄は母親で、実際は叔母なんだけど、子供の頃 からずっとお姉さんみたいな人なの。母親にしては若過ぎるから、 学校の行事に来ると周りから好奇の目で見られてたけどね﹂ 少し肩を竦めて彼女は笑んだ。 ﹁祖父は厳しい人で、孫の私でさえ笑った顔はあまり見たことない。 剣道と居合道の範士なの。私を産んだお母さんが反対を押し切って 結婚して、仕事中に夫婦揃って事故死してしまったからって、お母 サクニシ さんみたいにならないようにと祖父の言うことは絶対だった。東高 を選んだのも祖父なの。先生に勧められた桜ノ宮西には剣道部がな いからダメだ、って﹂ サクジョには弓道部、薙刀部、合気道部はあるが剣道部はないと 聞いたことがある。サクニシにも剣道部はなかったのか。 440 ﹁でも結局は祖父の心に背く形になっちゃった。私は両親と同じ道 に進もうとしてるのだから﹂ ﹁矢野⋮⋮昌孝、さん?﹂ ﹁どうして知ってるの? 父のことは美帆ちゃんも知らないはず⋮﹂ ﹁偶然なんだ。図書館にあった写真集の末尾に家族写真があって﹂ そこに幼い平岡さんも写っていた│││ ﹁そうなのね。父を⋮⋮私を、見つけてくれてありがとう﹂ 今思い返せば、矢野さんに憧れていると言った徳山先生に対して 心の中でお父さんを生かしていてくれてありがとう 、と。 も、彼女はあの眼差しでこう言っていたのかもしれない。 ﹁両親が亡くなった時は、私もまだ小さかったし、今の家で生活す るようになってからも両親の仕事のことや遺した作品のことも殆ど 知らなかったの。知りたいと思ってはいけないと感じていたから、 調べたりしなかった。父方の祖父母だって健在なのに、両親が亡く なって以来一度も顔を見せにもお仏壇に参りにも行かなかった不義 理な孫なの﹂ ﹁それはお祖父さんを悲しませたくなかったからなんでしょう?﹂ ﹁そうだとしても、血が繋がってるのは一方だけじゃないのだから 不義理には違いないよ﹂ 難しかった。だってお父さんの方の実家に顔を出しに行ったら行 ったで、彼女は母方の祖父に対しても不義理をしたと自分を責める だけじゃないか。 ﹁小学校を卒業する時に叔母が内緒で父のお墓参りに連れて行って くれたの。そこで両親が亡くなって以来初めて父方の祖父母に会っ た。父のせいで私や平岡家の皆さんに申し訳ないことをした、愛し 441 合っていたのに一緒の墓に入れなかった、私の母にもすまなかった って泣いてた﹂ ﹁⋮⋮﹂ ﹁その日、叔母から父の形見のカメラと母が編んでくれた手袋と、 現像していないカメラのフィルムを渡されたの。父はフリーのカメ ラマンで、仕事の依頼中の事故だったから、最後にカメラに入って いた撮りかけのフィルムも依頼元に渡さなきゃいけなかったらしい の。でも叔母は誰かの手に渡る前に抜いて持って来たんだって。繭 子のお守りにしなさい、って渡されたの﹂ そう言って彼女はピーコートのポケットの中からストラップ付き のクリアケースに収められたフィルムを出して見せた。 ﹁一時は富樫くんに取られてしまったけどね。畠中くんが持って来 てくれるとは思いもしなかったから、本当にビックリした﹂ ﹁富樫は、知ってたの? 平岡さんの、大事な、お父さんの形見だ ってこと﹂ ﹁知らなかったと思う。知ってて奪う人じゃないもの。あの時は│ │あの修学旅行の時は││、私が2組の皆と仲が良いから、2組の 人たちと撮った写真のフィルムだと思われたと思う﹂ 同じクラスになるつもりで選択科目を揃えて、自分だけ別のクラ スになってしまった富樫。彼の目には自分とクラスが離れても2組 で楽しそうに過ごす人気者の平岡さんに苛立って、同時に自分が欲 しても手に入らなかった時間を享受している2組の男子が妬ましか ったのだろう。 今の僕なら少しだけ分かる気がする。大学で彼女の笑顔を毎日見 ている男が羨ましく、そんな想像を掻き立てる度に自分だけが取り 残された人間のように感じていたから。 ﹁僕も富樫はそういうことをする人じゃないと思う﹂ ちょっと捻くれ者で、だいぶ意地悪だけどね。 442 ﹁中学生になってからも両親の作品は殆ど見ていない。でも写真っ ていうものを意識するようにはなった。そのことを叔母に話すと 繭子は言葉も喋れないうちから女の子が喜びそうなどんな玩具より って笑われたの﹂ もカメラを弄るのが好きで、玩具を買い与えたかった私を失望させ たのよ 僕が図書館の写真集の末尾で見た幼い彼女と、話す彼女の顔との 二つの面影が重なるのを感じた。 ﹁祖父を説得するのは大変だった。覚悟はしてたけど、想像以上に 手強かった。もうね、生涯座敷牢で暮らすことになるかと思ったく らい﹂ ﹁座敷牢なんてあるの?﹂ ﹁ないけど、それくらい怖かった。高校在学中に三段まで取ること と、最後の県大会で絶対に負けないことを条件にどうにか許しても らえたの。許してもらえたけど、制約は多くて、フォトジャーナリ ストの道には絶対に進まないことも条件になってる﹂ 要は、自ら望んで危険に飛び込むなということだろう。 ﹁ちなみに今住んでいる所の大家さんは矢野の祖父母なの。自分の 息子みたいに写真を志す若い人の支援になればって、旭大の近くで アパート経営してるの。フィルム派のために共同で使える暗室もあ るの。機材置き場にもなってて、三脚やレフ板なんかも住人なら無 料で使えるようになってる﹂ ﹁桜ノ宮のお祖父さんは反対しなかったの?﹂ ﹁祖父が矢野の祖父母に一年前から掛け合ってくれてたらしいの。 卒業したら旭大に進学すると思うので一部屋空けておいてもらえな いか、って﹂ ﹁そうなんだ⋮⋮﹂ ﹁矢野の祖父母から教えてもらった。祖父はいまだに写真の道を完 443 全に許したわけじゃないって顔してるけど﹂ ﹁話してくれてありがとう﹂ こんな大事なことを⋮⋮。 ﹁ううん、聞いてくれてありがとう。今まで誰にも言えなかったか ら、上手く話せたか自信ないけど、話せて良かった﹂ 心ならずも彼女は幼くしてご両親を亡くされわけだが、ご両親の 死後、愛情を注がれていなかったわけではなかった。彼女がこれま 両親を失 という印象だけを持ってほしくなかったのかもしれな で誰にも語ることができなかったのは、聞く側にとって くした遺児 い。彼女は自分の胸中を言葉にするのが得意ではない人だから。 ﹁傘持って来なかったから雪が止んで良かった﹂ 彼女の言葉で僕も空を見上げる。相変わらずの曇天ではあったけ れど、家を出た時よりも明るい空色になっていた。 不意に首元がふわりと温かい感触に覆われて、驚いて視線を正面 に戻す。 ﹁受験目前の人が風邪を引いたらいけないでしょ。畠中くん、寒が りやさんなんだから﹂ 彼女がぐるぐる巻きに巻いていた水色のマフラーだった。鼻を掠 めるくらい幾重にも巻かれてると、彼女が移した体温と一緒にほん のりと甘い彼女の残り香に包また。 ﹁受験が終わったらでいいから、返してね。必ずだよ﹂ 彼女はそう言って僕の髪の上で溶けかかっている雪の雫を払うと 境内の方へと走り去ってしまった。 444 55 ハッピーエンドロール 電車の車内アナウンスが告げる駅名に、僕はコートのポケットか らスマホを取り出して時刻を確認する。 減速した電車がやがて止まり、冷えびえした外気の中にふくよか な春の香りを感じた。 ホームの中央にある階段を上り改札へと向かう。歩く度に左手の 紙袋がガサガサと音を立てる。これを置き忘れることだけはように、 電車の中ではずっと立っていた。 ﹁合格おめでとう。メールもらった時、すごく嬉しかった﹂ ﹁ありがとう﹂ ◇ 合否については、郵送されて来た合格通知で知った。 真っ先に彼女に報告しないと、そう思ってスマホを手に取ったの だけど、メールで知らせるべきかマフラーを返す時に直接顔を見て 伝えるべきかでスマホを握ったまま小一時間ほど悩んでいた。そう こうしているうちに、まいちゃんからメッセージが来たり兄さんか ら電話がかかってきたりで、結局彼女への報告が一番最初ではなく なってしまったという安定の要領の悪さであった。 そんなわけで、会うより前にメールに合格したことを書いた。悩 445 おめでとう。おめでとう。おめでとう。あと百回くらい言いた んだ小一時間は無駄だったというわけだ。 い。だけど過ぎるとかえって変になるので、残りは心の中で言いま す 彼女からの返事は可愛らしく温かいものだった。 ・・・ 一年前に彼女と約束した通り、合格祈願のお守りの奉納とお礼参 りを済ませる。神様に手を合わせてお礼の意を述べる彼女の心の声 は今日もダダ漏れ絶好調だった。 だけど今日は笑えなかった。 神様にも彼女にもバチ当たりかもしれないけど、目を閉じて手を 合わせる彼女の横顔を盗み見した。何度見ても、溜め息が漏れそう なくらい美しく愛らしい。 できるものなら、ずっと見ていたかった。いや、独り占めしたか った。だけど僕には高嶺の花だった。彼女の横に並ぶには、僕は全 てが劣り過ぎた。受験のプレッシャーと自信のなさに負けて、彼女 待っていてほしい なんて頼むこともできなかった僕は、ここ が築こうとしてくれた新しい間柄を築き上げることができなかった。 にいる。僕と彼女とを繋ぐ残り一つの口実は、元日に借りたマフラ ー。神社での予定を済ませ、最後の口実を失うことになる。彼女か らもらったお守りも奉納してしまった今、このまま彼女のマフラー を所有していたい未練もある。彼女が貸してくれたマフラーは僕と 彼女を繋ぐ最後の絆だから。これを持っている限り、返す理由で彼 女に連絡をすることができる。こんな考え自体が浅ましいけど。 これからも会いたいなんて、都合の良いことを言っていいのだろ うか。彼女と最後になりたくない本音とは裏腹に、そんな都合の良 446 いことを言う資格があると思ってるのかと、頭の中のもう一人の自 分が叱責してくる。 檜川神社から朱雀公園への僅かな距離を歩く僕と彼女の間に重い 沈黙が漂う。 ﹁昨夜は眠れた?﹂ 沈黙を破ったのは彼女だった。 ﹁うん、まあまあかな﹂ 嘘だ。本当はあまり眠れなかった。マフラーを返せば彼女に会え る理由がなくなるということと、最後にしたくないと思う自分勝手 な気持ちが、僕の中にある常識とせめぎ合いを繰り返していたから。 ﹁私はなかなか寝付けなかった。何よりも畠中くんが希望を叶えた ことが嬉しくて﹂ 彼女の言葉に胸がいっぱいになる。いつだって彼女の笑顔や言葉 には他のどこにもない力があって、それが向けられる度に胸の中が 甘苦しい気持ちで満たされていた。 ﹁今までも畠中くんと会えるんだと思うと、前の晩はドキドキして なかなか寝付けなかったけどね﹂ 照れ臭そうに、ヘヘッと笑って彼女は視線をはぐらかす。 一緒にいるの彼氏? 紹介し ﹁夏休みにね、京浜で⋮⋮。一緒にいるところを大学の友達に目撃 って﹂ されてしまって、メールが来たの。 てよ ああ、あの時か。どの状況かが呑み込めた。 高校の って言い切るには無理があったから。どんな紹介の仕方し ﹁でもどう紹介して良いか分からなかったの。私にとって 同級生 ても友達に突っ込まれそうな気がして、そんなフライング気味な感 情を押し付けらたら畠中くんが困るだけだって思ったの﹂ 447 高校の同級生 って言い切るには無理があった? ﹁畠中くん優しいから、そんな風に外濠を埋めるようなマネされた ら、やっぱり友達以上に見られなかったと思っても言い出せなくな っちゃうでしょう?﹂ ⋮⋮ますます言ってる意味が分からない。 ﹁だって私、自分でもイヤになるくらい面白味のない人間だもの。 一緒に過ごす時間ができたことで、畠中くんもそのことに気付くだ ろうなぁって薄々感じてた。私はただ一緒に同じものを見てるだけ でも楽しくて、畠中くんを退屈させない努力をできていなかった﹂ ちょっと待って。それは平岡さんのセリフじゃないだろ。それを 会えない って言われて、やっぱりなぁって﹂ 言うのは僕の方だろう? ﹁それから ﹁違う。それ全然違う﹂ ﹁畠中くん?﹂ 殆どの場合、彼女は正しい。だけど自分のことになると、どうし てこうも的外れな見解が弾き出されるのか頭の中を見てみたいくら いだ。 ﹁まず平岡さんは退屈なんかじゃない。面白味がなくなくなくな⋮ ⋮﹂ あれ? ﹁とっ、とにかく面白い﹂ 彼女が僕の言葉にプッと笑った。 ﹁面白いって言葉は変かもだけど、全然つまらなくない﹂ ﹁ありがとう﹂ ﹁会えなかったのも元日に言った通り余裕がなかったからで、もと もと自分に自信はないけど、せめて無職で平岡さんと並びたくなか った﹂ 決して口に出せないと思っていた負い目だったが、口に出してみ 448 待っててもいいよ ると不思議と肩の力が抜けた。 ﹁どうして って、言ってくれなかったの?﹂ ﹁平岡さんは大学で新しい出会いもたくさんあるし、東京で良い人 いるだろうって思った﹂ 地元の冴えない浪人生なんかより、ずっと。 彼女の出会いを足止めする権利なんて僕にあるはずがない。 ﹁自分の都合で会えないって言い出して、自分の都合で会いたいな んて身勝手だし﹂ 付き合って下さい! とお願いしなけれ 選り取り見取りで主導権も決定権も手中にある立場ならともかく、 地べたに額を擦り付けて ば、⋮⋮しても女の子とは一生付き合えないような身分なのに。ど のツラ下げて東高屈指のモテ女子だった彼女にそんなこと言えると いうんだ。 面白味がないのも退屈なのも僕の方だ。ついでに言うと、ただ一 緒にいられるだけで幸せだったのも僕の方だ。 彼女との繋がりを手離したくないと思っていた。だけど、それは 彼女の優しさに甘んじて、彼女の大切な時間を割いてもらっている だけだった。僕は彼女に幸せをもらうばかりで何一つ返せてはいな かった。挙句に自信のなさと受験のプレッシャーで満載になり自分 の首を絞めた。そんなどうしようもない非モテな地味男の身勝手に、 彼女のような素敵な人が振り回されて良いはずがない。 ﹁畠中くんらしいね﹂ ﹁⋮⋮えっ?﹂ ﹁学校でも上位の成績だったのに、志望理由がないからって指定校 をもらうことを恥じたり、米原くんと競合するのがイヤで指定校に 応募しなかったり﹂ 449 ﹁あれは、まいちゃんには筑海大に行きたい理由があったからで⋮ ⋮﹂ ﹁都工大がダメでも、それ以外の大学にいくらでも行けたのに有言 実行に拘っちゃったり、本当に不器用﹂ お説ごもっともでございます。 ﹁でも、そうやっていつも自分自身に誠実であろうとするマジメで 不器用な畠中くんが私は好きです﹂ ﹁いや、誠実なんて、そんないいもんじゃ、僕は、⋮⋮って、⋮⋮ ⋮⋮⋮⋮⋮えっ?? あの⋮⋮﹂ ﹁好きです。私は畠中くんが好きです﹂ 本気で腰が抜けた。腰が抜けるって、慣用句とかじゃなく本当に あることなのか。 ﹁大丈夫!?﹂ たゆ 慌てた彼女が僕に寄り添うように膝を折り、綺麗なコートの裾を 湿る路面に弛ませた。 ﹁だ、大丈夫。汚れるから、立って﹂ ヨロヨロと立ち上がる。たったこれだけのことで息が上がるのは 運動不足で軟弱さに磨きがかかってしまったのだろうか。 ﹁畠中くんは大学で新しい出会いがたくさんあるだろうって言った よね。友達はたくさんできたよ。でも好きとかそんなんじゃない。 畠中くん以外の男の子をそんな風に見たりなんてできないよ﹂ 神様、この白昼夢は酷すぎませんか? 確かにお礼参り中に、お礼もそこそこに彼女の横顔に見惚れてい ましたが、こんな天罰って⋮⋮ ﹁いつも煮え切らない自分の気持ちを、一年かけてちゃんと煮詰め 450 ようと思ってた。でも一年前にここで畠中くんに自分の気持ちを打 ち明けた時から、答えは出ていたみたい﹂ 言葉の威力ってすごいね、と彼女は目を丸くして他人事のように 笑んだ。 ﹁あっと言う間に大好きになってたの。本当に好きになる人のこと は、好きかどうか考える時間なんて必要ないんだね。いつも畠中く んのことばかり考えてしまうくらい、私は畠中くんのことが大好き です﹂ 彼女の澄んだ瞳に射抜かれて、僕は目を閉じた。向き合うことか ら逃れたんじゃない。騒ぐ鼓動と一緒に今の全てが零れてなくなっ てしまうと思ったから。 ﹁もう会えないなんて辛くて、おみくじの画像を送ってしまったり、 畠中くんの優しさに付け込んで強引にマフラーを押しつけるなんて 卑怯なことして。そんなことして嫌われても仕方ないとは思うけど ⋮⋮﹂ 神妙な声で切々と語る彼女に、僕はひたすら首を横に振り続けた。 彼女は卑怯でもなければ嫌われてもいない。卑怯なのは僕だ。会わ ないと言ったのに会いに走ったのも、マフラーを口実に彼女に会い たかったのも僕だ。 ﹁迷惑だったら諦めるしかないけど、迷惑じゃないのならもう会え ないなんて⋮⋮言わないで﹂ ゆっくりと目を開けて、彼女が消えていないことを確認する。そ れから彼女の目を見つめて右手を伸ばす。 いくら僕が非モテの離乳食系でも、彼女にこれ以上言わせたら僕 は本当に男失格だ。 ﹁僕と、付き合ってください﹂ 451 こんな僕だけど。こんな意気地なしでつまらない男だけど│││ なんで手なんか差し出してしまったのか自分でも分からない。今 どき手を差し出して告白するヤツなんているの? なんて冷静に考 えると、どうしようもなく恥ずかしくなる。 付き合うってどうすればいいのか、いまだによく分からない。離 乳食系かもしれないし草食系かもしれないけど、胸を張って隣に並 べるよう頑張るから、長い目で僕の成長に付き合ってほしい。 ﹁はい﹂ 目を細めて笑んだ彼女が右手を伸ばして僕の手を取ると、まるで 何者かが図ったみたいにゴオッと春一番が吹いて彼女は顔を髪の毛 に覆い尽くされた。 繋いだ手はいとも呆気なく離され、彼女が顔の前の髪を払い照れ 笑いが現れる。そしてもう一度、今度は左手で僕の右手を取って、 はにかんだ顔で横に並ぶ。 女の子と手を繋ぐなんて、あり得ないくらい恥ずかしくて緊張し たけど、顔面を髪の毛に覆われた彼女の姿とその後のチャーミング な笑顔が、僕の恥ずかしさと緊張を春一番に乗せて吹き飛ばしてく れた。 彼女の少し骨ばった薄い手のひらは滑らかで温かかった。 まだまだ沸騰しそうだし緊張しまくる日々は続きそうだ。 遠慮がちに添えられるように重なる手のひらをしっかりと握り返 して、彼女の笑みに微笑み返す。 そしてどちらともなく歩き始めた。 幸せの青いマフラー を彼女の首に巻こう。 もう一度強い風が吹いたら、その時は彼女が僕を繋ぎ止めてくれ た 452 ︱完︱ 453 55 ハッピーエンドロール︵後書き︶ ﹃片想いのエンドロール﹄完結いたしました。 拙作に最後までお付き合い頂き本当にありがとうございました! 結末にご満足頂けると良いのですが⋮⋮。 これにて本編は完結ですが、余談のもう一話があります。 454 extra 朱雀公園前駅に着くと繋いでいた手を唐突に離される。 ﹁ちょっとごめんね﹂ もしかして知り合いでもいたのだろうか。朱雀公園には彼女の思 い出が詰まった武道館もあるし、駅前でばったり知り合いに会って もおかしくはない。そんなことを考え始めた矢先に、彼女が走り出 した前方に幼い男の子の手を引きながらもう片方の手でベビーカー を押している女性の姿があった。 ようやく状況を呑み込んで僕も後を追う。 近付いてみるとベビーカーは空っぽで、女性の胸元からケープの ような物で乳児が包まれていた。 彼女が小さな男の子の手を取り、僕がベビーカーを畳んで運んだ。 ﹁ありがとうございます。この子、抱き癖がついてしまったのか、 おとなしくベビーカーに乗ってくれないんです。今日は特にひどく て﹂ きっと道中もたくさんの視線を浴びて恐縮し続けたのだろう。女 性は少し疲弊した様子だった。 ﹁風が強かったから怖かったのかもしれませんね﹂ 彼女が女性にそう言って、﹁ね?﹂と男の子に微笑み掛ける。男 の子はモジモジしながらもコクっと頷いた。 ﹁お名前なんていうの?﹂ ﹁リョウ。三歳だよ﹂ ﹁リョウくんていうんだ。さすがお兄ちゃん、しっかりしてるね﹂ リョウくんは、はにかんで笑う。 この年頃の男の子って可愛いな。 ﹁リョウ、お姉ちゃんにお礼言って﹂ 455 改札の前で女性がリョウくんに手を伸ばすと、男の子は平岡さん と手を繋いだまま女性にイヤイヤ言って平岡さんの手を離さない。 微笑ましいやり取りに割って入っていいのか躊躇ったけど彼女に進 み寄った。 ﹁ほら、リョウ。お姉ちゃん、デートなのよ。リョウが邪魔したら ダメでしょう﹂ リョウくんと呼ばれたその男の子は、名残惜しそうに平岡さんを 見上げて、それからチラリと僕を睨みつけた。 おお、⋮っと。そういうことか。ははは、お見それしました。 それからリョウくんは僕と平岡さんを交互に見上げる。向ける表 情が全然違うんですけど。 ﹁こら、リョウったら! ごめんなさいね﹂ リョウくんのお母さんは申し訳なさそうに僕に頭を下げる。 ﹁あ、いいんです﹂ 同性からの敵視は高校時代に嫌という程経験したが、まさかこん な小さな男の子にまで敵視されるとは予想外だった。男の子はこの 歳から既に男なんだな。 ﹁ホームは手前ですか? 向こう側ですか? お荷物大変ですし、 ホームまでご一緒します﹂ 彼女がそう言うと、リョウくんが花が咲いたように明るい表情に なった。 ﹁いい?﹂ 彼女が僕に確認を取ってくる。 ﹁もちろん﹂ 短く答えると、﹁ありがとう﹂と彼女が笑む。 その笑顔だけで瞬殺される。立ち眩みしそうなくらい。 ﹁すみません、ありがとうございます。向こう側なんで助かります﹂ 揃って改札を抜けて階段を上る。 ﹁リョウはとても人見知りなんです。私の姉夫婦にも懐いてくれな いのに、すっかりお姉ちゃんのこと好きになっちゃったのね﹂ 456 お母さんにからかわれるとリョウくんは真っ赤になって平岡さん の後ろに隠れてしまった。 お姉さん夫婦にも懐かないのに、初めて会う女の人と手を繋ぐこ とを拒まなかったんだから、一目惚れってやつじゃないか? きっ とリョウくんは、目の前に平岡さんが現れた時からハートを射抜か れていたに違いない。 リョウくんたちが電車に乗り込んで手を振ると、僕たちはホーム に残された。 ﹁ずっと訊いてみたかったことがあるんだけど﹂ 首を傾げる彼女に、昔話を切り出した。高校入試二日目の終わり、 松葉杖をついた僕の前方を歩いていた彼女が、滑らないようにと昇 そんなことあったんだ というものだった。 降口をモップ掛けして行ってくれたということを。 彼女からの返答は 誰に対しても常に優しい彼女には特別なことではなかったのだろう。 彼女らしいといえば彼女らしい。そして今の僕にとって、彼女があ の日の出来事を覚えていたかどうかはどうでも良いことだったとい うことが、彼女の答えを聞いて気付かされた。 運命の伏線 としてかけがえのない一縷だ 高校時代の僕にとって、初めて好きになった女の子との出会いの 場面は、少女趣味的な った。もしその頃、彼女の記憶にないと分かっていたら、その事実 のみが僕にとっての諦観的な口実として残り、無気力で退屈な自分 を容認し続けたかもしれない。 運命という言葉の響きは、思春期の僕たちの恋愛を後押しするに は極上のスパイスだ。 やって来る毎日を受動的に過ごして来ただけの僕は、抗いようの ない劇的な何かが降って来ない限り、変化なんて訪れないと思って 457 いた。だから彼女の存在こそが僕にとっての抗いようのない劇的な 何か││運命のような何か││だと思いたかった。そうでも思わな い限り、僕は自分から変化や刺激の中に身を置くことはできなかっ た。 少女趣味的な運命ではないにしろ、彼女に出会ったことは間違い なく運命だった。運命なんて大袈裟なものではないのは百も承知だ。 彼女に出会ったことで、自分の運命を動かす転機が訪れたと言っ た方が適切かもしれない。彼女に出会い、彼女のことを知って惹か れていった。それは受動的に過ごす平坦な日々の終わりの幕開けだ った。変化を好まない僕そのものがいつの間にか変化していたのだ。 同時に僕を変えたのは、ガクちゃんや富樫といった友人たちであ り、美帆の叱咤であり、東高での時間だった。 人はドラマチックな運命なんかなくても恋をする。 運命の序章なんかなくても叶う想いがある。 彼女は僕なんかよりずっと大人で、いつも僕の前を歩いていた。 進路についての考え方も然り、いっぱいいっぱいになって前が見え なくなっていた僕のことも根気よく待っていてくれた。 彼女は、僕が彼女に歩調を合わせていたと言う。違う。本当は背 中が見えなくなりそうなくらい遠い人なのに、いつだって僕を見守 ってくれた。 あの高校入試の日のように、僕を振り返って優しく微笑む位置関 係がこれからも続いて行くのかもしれない。 半歩でいい。いつか彼女の歩く道を見守りながら支えられる男に なりたい。 とりあえず今は胸を張って横に並べる男になることが一番の目標。 電車が見えなくなる頃、彼女が言った。 ﹁リョウくん可愛かったね﹂ 458 彼女がモテることは高校時代にイヤという程この目で見てきた。 美人多しと県下に名高い東高内で、群を抜いてモテていたのは、紛 れもなく僕の目の前のこの人だから。 しかし身内にも人見知りするような三歳児まで虜にしてしまうと 高嶺の花 の隣に並べる日が来るのかと、気 は。目の前でそんなものを実証されて、なんというか前途多難な船 出となったもんだ。 胸を張ってこんな が遠くなる。 僕は大人げなくも、三歳の男の子に少しだけヤキモチ妬きました。 ⋮⋮なんてさ、内緒けどね。 ﹁私もずっと言いたかったことがあるの﹂ 今度は僕が首を傾げる番になった。 ﹁高2の時に⋮⋮、前夜祭の日のこと。私のせいで畠中くんにイヤ な思いをさせてしまったんだよね?﹂ ﹁ああ、そのこと﹂ ガールズトークの中で富樫を除いてクラスの中でのお気に入りの 男子を訊かれ、苦し紛れに彼女が僕の名前を挙げたあの件だ。 前夜祭で殆どの生徒が講堂に行っていたと思いきや、サボって教 室棟に居残りしていた男子もいて聞いていたもんだから、後日僕は 散々な目に遭うことになった。 彼女がそのことを知ってひどく責任を感じていたことも、更に後 になって阪井から聞いた。そして、そんなことを謝られては男とし て立場がないと、彼らが彼女を諌めたことも。 ﹁本当はもっと早く切り出すべきだった﹂ ﹁止められたんでしょ?﹂ ﹁どうしてそのことを?!﹂ ﹁3年の時に、阪井から聞いた﹂ 459 あの時も今も謝る必要なんかないんだ。そういうことを捨て置け ない人だということはよく分かってる。それなのに僕の男としての 立場を重んじて、ずっと今まで胸にとどめ続けていてくれたその気 持ちが何より嬉しい。 ﹁他に聞こえているとも考えないで、軽率なことをしたと思ってる﹂ ごめんなさいと言って彼女はバサリと頭を下げた。 ﹁いいんだ。⋮、ありがとう﹂ ﹁ありがとう、って。随分ひどいバッシングを受けたって聞いたよ﹂ ﹁ホント、数日だけのことだから﹂ ﹁でもっ﹂ ﹁いいんだ、本当に﹂ 制する僕に不満と戸惑いが入り混じった表情を見せる彼女。本当 に全て表情が物語るから、可愛くて仕方ない。 ﹁私ね、軽はずみな気持ちで適当なことを言ったつもりもないの。 だからと言って、あの頃から今みたいに意識してたかと言えば、そ ういうわけでもないんだけど⋮⋮﹂ 彼女は富樫と付き合っていたし、二心を抱く人ではない。 あの当時、彼女が僕を特別に思ってなどいなかったことは分かっ ている。 ﹁だけど、気に入ってる男の子の名前を挙げるなら畠中くんしかい ないって、思ったのは事実なの﹂ ﹁柳瀬や徳山先生だっていたのに﹂ 徳山先生はクラスの男子とは言わないけど。 ﹁柳瀬くん? 徳山先生? どうして??﹂ ﹁どうして、って⋮⋮﹂ ﹁そういうこと、他の子にも訊かれたことあったけど、なんでその 人たちの名前が出て来るのか全然分からない。意識したことない人 のことを、どうして意識しないのか訊かれても、分からないとしか 言い様がなかったよ﹂ 460 彼女曰く、柳瀬は気心知れた幼馴染みのような存在で、徳山先生 は先生としか思ったことがないとのこと。 彼女が徳山先生に熱い視線を送っていたと思ったのは、やはり亡 きお父さんの話が出たからだったのだろう。 実はあの頃 なんて見え透いた後付けの理由なんか作らず どこまでも正直で嘘がつけない人。そんな彼女が、 から意識してました に、あの時彼女が真っ先に僕を思い浮かべて僕の名前を口にしてく れたことだけで充分だ。たとえこうして彼女と一緒にいられる今が なかったとしても。 東高の女子の中で、僕を思い浮かべてくれるのも僕の名前を口に してくれるのも彼女くらいだから。ましてやそれが自分の恋い焦が れる女の子なら僕にとってこれ以上幸せなことなどあるはずがない。 反対ホームに電車がやってくるアナウンスが流れ、僕たちは来た 階段を引き返す。 さり気なく寄り添って来た彼女の左手をもう一度握る。しつこい と思われるかな。だけど、決死の覚悟で彼女と繋いだ手を十分と経 たずに離す形になってしまって、挙げ句の果てにはリョウくんにま で軽くヤキモチを妬いてしまう始末。やっぱりもう一度、彼女と手 を繋ぎ直したかった。 彼女は少し俯いて恥ずかしそうに頬を赤らめた。 ﹁今さらだけど、私、東高に入って良かった﹂ 彼女が眩しいものでも見るように目を細めて呟いた。 ﹁桜ノ宮西に入っていたら畠中くんと出会えなかった﹂ それは僕も同じだ。もし桜ノ宮高を受験していたら、彼女には出 会えなかった。 東高にいても地味なばかりの僕に気づいてくれてありがとう。 461 僕を見つけて、そして僕を選んでくれて、本当にありがとう。出 会ってくれて、本当に│││ ﹁ありがとう﹂ ﹁いつか大学の友達に紹介してもいい?﹂ ﹁友達?﹂ 男友達だったりして。さすがにそれはちょっと御免だ。敵意を向 けられる気しかしないから。偶然に出合ってしまう分には仕方ない けど、わざわざ紹介されてまで会いたいとは思わない。それは相手 も同じだろう。 ﹁京浜で目撃された友達ともう一人。大学で仲良くしてる女の子た ち﹂ 紹介 じ ああ、紹介してよとか言われたって話に出てきた友達か。女子だ ったのか。 ﹁会ってくれる?﹂ 彼氏いない子に彼女いない子を紹介するとかの、あの ゃないよね? ﹁会うのはいいけど⋮﹂ ﹁彼氏、って紹介しても⋮⋮いい?﹂ 怖々と覗き込んで来る顔が反則的に可愛くて、一瞬意識が飛びそ うになった。 お願いだから、他の男にそんな顔を簡単に見せないで。簡単じゃ なければ見せてもいいとか、そういう問題でもないけどさ。そんな 顔されたら草食系だろうが離乳食系だろうが絶食系だろうが、条件 反射で捕食したくなるから。 ああ、今すぐ抱き締めたい。腕の中にギュギュッと押し込めて、 どこにも行かせたくない。 ⋮⋮そんな勇気があればの話ですが。 ﹁なんだか恥ずかしいね﹂ 頬を丸くして幸せそうに笑んだ彼女の横顔に、僕はやっぱり敵わ 462 ないなと心の中で白旗をあげる。 きっと彼女は、自分の友達の前に立ったらたちまち動揺し出すの だろう。アヅサさんに突っ込まれた時のように。 その時は、僕が堂々としていよう。 少しでも彼女の友達のおメガネに適うように。隣でアタフタと百 面相を始めるであろう、僕にとってただ一人の愛しい女の子を支え るために。 463 extra︵後書き︶ 終わりの後のオマケの一話です。 最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました! 464 PDF小説ネット発足にあたって http://ncode.syosetu.com/n5904dd/ 片想いのエンドロール 2016年9月6日01時13分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 465