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『純粋理性批判』における自由の可能性について

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『純粋理性批判』における自由の可能性について
岡山大学大学院社 会文化 科学研 究科紀 要第 2
6号 (
2
00811
)
『
純粋理性批判』 における自由の可能性 について
新
垣
知
成
本稿 は、お もに 『
純粋理性批判』 の第二部、「
超越論 的方法論」 における実践的 自由 とその原 因性
について、それが思弁理性 の限界内で どの ように理解 され うるかを考察す る ものである。
『
純粋理性批判』 において論 じられているのは実践的 自由であって超越論的 自由ではない、 とい う
意見がある。「
超越論 的方法論」の第二章、「
純粋理性 のカ ノン」 において論 じられているのは 「
理性
の指示す る動 因 によってのみ規定 され る J (
HR3
(
り自由意志 の原 田性、す なわち実践 的 自由である。
しか し、「
超越論的弁証論」 の第二章 「
純粋理性 のア ンチ ノ ミー」 において、超越論的 自由が論究 さ
れているO もちろんそれは 『
純粋理性批判』 の射程内、つ ま り理論理性 の射程 内で論 じられているに
す ぎない。そのため消極 的な規定 にとどまってはいるが、実践的 自由が 自然法則 とは異なる原因性 を
前提 としていることを言明 している。
「さて、 ここで何 に もま して注意 しな くてはならない ことがある。それは、 自由 とい う実践的概念
は、自由 とい う超越論 的理念 に もとづ くものであるとい うこと、 また、意志の 自由はいかに して可能
であるか とい う問題 について以前 か ら多 くの困難 を生 んで きた原 因は、 まさに自由 とい う超越論的理
念であった、 とい うことである」 (
B56l
f
.
)
0
しか し、『
純粋理性批判』 においては超越論 的 自由に客観的実在性 は与 え られてはい ない。あ くま
で もそれが理論理性 によっては否定 され えない とい うことを示すのみであった。 これは超越論 的 自由
が理論理性の領域 を超 出 しているためである。経験 に頼 ることな く、この 自由の実在性 を証明す る仕
事は 『
実践理性批判』 に受 け継がれるO このため 『
純粋理性批判』 においては消極 的に規定 されるに
とどまっている。
カ ン トは感性 の射程 内の領域 とそれ を超越 した領域 との区別 を行 った。 ピヒ トも言 うように、「
感
t
l
k)JL
なのである
性界 と悟性界 とを区別す る営み こそ、積極的 に理解すれば、純粋理性 の批判 (kr.
,
感性の射程内の領域で我 々に現れて くる ものは現象 にす ぎず、この内にある ものの認識 は、
経験 によっ
てのみ我々に与 え られる。 これ らは、我 々の直観の純粋形式である時間 と空間の制約 に服 したかたち
で我 々に表象 される。時間 と空間は、「それだけで存在す るような何 かある もの」 (B49) ではない し、
(
C・
P・
c
ht
.
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l
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Z
S
Phl
L
o
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hl
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.
SL
ut
L
gar
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.
1985,
S540) 「区別 す る とはギ リシ ャ語 で N
/
'
L
U
亡`
レといわれ るが、感性界 と悟性
界 とを区別 す る営 み こそ,積極 的 に理解 す れ ば、純粋理性 の批判 (
Knt
L
k
)であ る。 区別 す る こ とが純粋 理性 の 自己認識 と し
ての純粋理性 の批判 であ る。 その よ うに して理性 は、超 えてはな らぬ柵 を悟性 に指示す る こ とで、悟性概 念 に したが った原
田性 を可能的現象 の領域 内 に限定す るo原 因性 を現 象 に制限す る ことに よ り自由の事 実 が思惟 可能 となるO それゆ え同 じひ
とつの思惟 が消極 的 には人間認 識 の限界 を示 す と同時 に、積極 的 には 自由の可能性 を示 す のであ るO これ を示 す こ とが理性
の もっと も高音 を営みであ る 」。
(
61
)
1
82
T
純粋理性批判一 における自由の可能性 について
新垣
知成
r
客観的規定 と して物 に付着 している ような何かある もの」(
ビbd,
)で もない。 もし前者 な ら、孜 々
は 「
二つの永遠 に して無限な、 しか もそれだけで存立す るとい う不可解 な ものを想定せ ざるを得 な く
B5
6)が、その ようなことが可能だろ うか。時間や空間の なか に何 もない状態 を思惟す ること
なる」 (
は可能だが、時間や空間が まった くない状態 を思惟す ることはで きないはずである。 また後者の説 を
とる と、空間や時間は、「
経験 を除 き去 って もあ とに残 りはす るが、経験 か ら引 き剥が されたため に
あい まいに しか表象 されない現象的関係 (
空間の場合 には並有的 な、時間の場合 には継起的な関係 )
B56r
.
)。そ うなる と、 もの についてのあ らゆる数学 的学説が崩壊 して しまう
と見 なされて しまう」 (
だろう。それは数学や物理学 における必然性 の崩壊 を意味す るか らである。時間 と空間は、我 々の 「
感
B34)であ るO だか ら直観 される対象 に対 しては く
いつ) くどこで) とい
性的直観一般 の純粋形式 J (
う問いがたて られることになるOつ まり、我 々に知 られ うる対象 は、時間的 .空間的広が りを持 たざ
るを得 ない。 この対象 は時間 ・空間 とい う制約 に服 したかたちであ らわれて くる像 にす ぎず、これは
物 自体 とは区別 されな くてはな らない。すなわち、現象 は物 自体 とは異なってい るのであ り、「
物自
体 は我 々の理論的認識能力 を通 じては認識で きない lとい う現象 の超越論 的概念が生 じる2。感性の
領域 に属 しない ものは、時間 と空間の制約下 に服す る ものではない。 したが って経験 によって認識 さ
れる ものではない。形而上学の対象 となる 「
神 j「
魂の不死」 「自由 Jは感性界 を超 えた ところに属す
るものであ り、理論 的認識の場か らは 「
知 Iの対象 としては排除 された ものである。
とはい うものの、現象 としての (もの) と、物 自体 としての くもの) とが別 々の存在者であるわけ
ではない。現象 とは、感性 的直観 を有す る我 々に対 してのあ り方である。現象 は時間 と空間 とい うフ ィ
ル ターを通 して我々にあ らわれて くる相であ り、
物 自体 は現象の根拠である客体 ではあるが、この フィ
ル ターを通 ってはこない相である。 だか ら両者 を区別す るのは感性的 な方法で しか外 的事物 を直観で
きない我 々だけであ り、そ うでない直観 にとっては、両者 を区別す る必要 は全 くない。 この区別 によ
り、人間理性 に とって 自由の思惟可能性が扱われることになる。現象 と物 自体 とをl
x
_
別することが、
同時 に経験 に与 えられない対象の実在性 についての希望 を与 えて くれるのである。 この区別がなけれ
ば、経験 を超 出 した対象の実在性 は即座 に否定 されることになる。それは形而上学の全否定である。
一方で、 自由に関 して、「
超越論的方法論Jの第.
二幸、r
純粋理性 のカノン」 において以下の ような
言表がある。
「自由意志 に結 びつ く一切の ものは、それが理 由であると帰結 である とを問わず、すべて実践的 と
1
空 間における現象 とい う超越論的概念 は、かか る見方 に対す る批判的注意であ るo それは、空間 において直観 され る もの
は事柄 その ものではない し、空間 も、もの にそれ自体 において固有であ る事物 の形式 で もない。対象 その ものは我 々には まっ
た く知 られないのであ り、孜 々が外 的な対象 とよんでいるものは我 々の感性 の単 なる表象 にす ぎず、 この表象の形式が空間
B4
5
)。 ここ
なのである。 しか し表象の真の相 関者であ る物 自体 その ものは、 この形式 によってはまった く認識 されない」 (
から 「
物 自体」 とい う概念が必然的 に導 出 される。 この導出 について、「
物 自体 の概念が、原 田 ・結果の カテゴリー を用い
て導出 されている」 とい う批判があるが、物 自体の概念 は、悟性のはた らきに よって尊 出 された 「
結果」 としての概念では
ない。「
感性の制約 に服 してい る ものは現象 にす ぎない」 とい う概念か ら分析 的 に導 出 され る概念 である。 それは 「コイ ン
の表 」 とい う概念か ら 「コインの裏」 とい う概 念が、因果的にではな く分析 的 に導出 されるの と同 じであ り、前者の概念が
成立す ると同時に後者の概念 も成立す る。
1
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(
62)
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第2
6号 (
2
0
0
8,
l
l
)
よばれるO この実践的 自由は、経験 によって証明 され うる l(
BR30)
さらにその直後 に も、「したが って我 々は、実践的 自由 を自然原 因か らの 自由 として、つ ま り意志規
定 における理性 の原 因性 として、経験 を通 して認識す る」 (
B831)と、同 じようなこ とが述べ られて
いる。 これは奇妙 なことである。 自由は経験 の対象 にはな りえない、いいかえるな ら感性 を超 出 した
領域 にあ るにも関わ らず、「
経験 によって証明せ られる」 とは、 どうい うことなのかO また、 この実
践的 自由は、形而上学の対象 と しての 自由 とどの ような関わ りを持 ってい るのか。それには まず、感
性の届 く範囲について考察す る必要がある。
本稿ではこのことについて論究 してい く。 まず現象 と物 自体 との混 同 を避 け、両者 を区別す ること
により自由の論理的可能性 を確保す る。その上で、引用文 にある 「
実践 的 自由」 を見つめなおす とい
う手続 きを踏む。 したが って、
1.現象 と物 自体 との区別
2. 自由の思惟可能性
と分節 し、 この順 に考察 を進めてい くことにす る。
1.現象 と物 自体 との区別
『
純粋理性批判』 において現象 (
我 々に とっての 「もの J
) と物 自体 との区別が なされ、現象 とし
て時間 ・空間の制約下 に属 さない ものは経験 の領野か ら超 えた ところにおかれることになった。 しか
し、それによって、これ ら形而上学の対象が否定 されたわけでは決 してない。む しろ、形而上学の対
象 を時間 と空間の制約下か ら除外す ることによって、す なわち、理論理性 の射程外 に措定す ることに
よって、理論的認識が不可能であるこれ らの理念の実在性の論理的可能性 を確保 したのである。理論
理性 の領域 を超 出 した対象である、 とい う規定 には、理論理性 にこれ らの論理的可能性 を肯定す るこ
とも否定す ることはで きない、 とい う規定 も暗 に示 されている。それは、次 の 目的に向か うための規
定で もある。
「
読者 は、純粋理性 の領域 にまず一歩 を踏み入れる前 に、この超越論 的演梓が どう して も必要であ
る とい うことを心得 ておかねばな らない。 さもない とやた らに歩 き回 り、 さんざんあちこちを迷 った
あげ くに、 また もとの無知 に逆戻 りせ ざるを得 ないか らである。 しか しまた、不可避 な困難があるこ
とも、前 もってはっきりと知 ってお く必要がある。そ うすれば事柄 その ものが奥深 く隠 されている場
合 に も、わか りに くいか らといって不平 をもらした り、あるいは障害 の除去 にもう飽 きて しまった、
とい うこともな くなるだろう。要す るにここの ところが、あ らゆる可能的経験 の限界 を超 えて、諸人
が もっとも好 む領域、つ ま り純粋理性 に よる知見 (
El
nS
l
ぐ
ht
) に達 しようとい う要求 をいっさい放 り
投 げるか、それ ともこの批判的研 究 を完成 す るか とい う、二つ に一 つの大事 な藤戸 際 なのであ る」
(
63)
1
80
7
純粋理性批判J における自由の可能性 について
新垣
知成
(
B121
)
ここに我 々は、 カ ン トの強固な意志 を見 て とることがで きる。「この超越論 的演緯」 とは、時 間 ・
空間 とい う純粋直観の形式 に 「
経験 的実在性 を認めなが らも、絶対 的 ・超越論的実在性 を拒 む」(
B53)
とい う立場 をとった超越論的感性論 の考察の ことである3。
引用文か らもわか るように、 カ ン トの 「
批判的研究」の まなざ しの先 には、可能的経験 を超 えた も
の、すなわち超感性 的な ものがあるL
,つ まり形而上学o
)
対象であ る理念 にその視線 は向け られているO
そのなかで も神 の理念 は無制約的な理念であ り、他 のあ らゆる理念の制約 となる(
,したが って、カン
トの批判的研究の完成 とは、 この神 の理念 に至 ることであろ う。
カン トはた しかに、時間 ・空間の経験的実在性 を認める。孜 々は実際 に時間や空間 とい う表象や、
経験 の対象が時間 ・空間の中に規定 されているとい う表象 を持 っている。したが って時間や空間は「
現
実的である」(
B54)。ただ しそれは、経験の対象 を表象す る仕方 と して現実的なのである。つ ま り 「
感
官 に与 えられ うるあ らゆる対象 に関す る客観 的妥当性」 (
B52)か認め られてい るにす ぎない。経験 の
対象 にのみ関わるこれ らの形式の実在性 を認めているのであ る。時間 ・空間に絶対的実在性 を認める
ことはで きない。それ を認め ることは、時間や空間か 「
我 々の感性的直観の形式 を無視 して、 ものの
制約 あ るいは性 質 としてその まま物 に付属す るこ とになる」 く
どbJ.
)と想定 しな くてはな らないか ら
である0時間 と空間の概 念の解恥 こ_
,
いて、カン トは 「
超越論的解 町 Iと表現 し、以下の ように説明
す るO
「そこか ら別のア ・プ リオ リな総合的認識の可能が理解 され うる ところの原理である概念の説明 を
B40)0 「
別 の ア ・プ リオ リな総合的認識」 とは、 ここで は数学 ・物理学 的認
超越論 的解 明 とい う」 (
識 な どであろう。時 間 ・空間 とい う形式 に したが って、感性的直観 を受容す るとい う原理がア ・プリ
オ リな原理 として立 て られ、演樺 による解明が試み られた。 これが、 さきに述べ た時間 ・空間の超越
論 的横 棒 4である。数学 的 ・物理学 的認識が可能であるためには、時間 ・空間についての原理が、こ
B41)。そ して さらに、経験 的で
れ らの認識 よ りも前 に 「
我 々の心 に具わっていな くてはな らない」 (
はな く純粋直観でな くてはならない。そ うでない と、これ らの認識が経験的 ・偶然的な認識 とい うこ
とになって しまい、その必然性が失 われて しまうか らである.
I
,
この清祥 によって得 られる恩恵 は、たんに感性 を通 して経験が可能である現象界の内包物 を確定す
ることだけではないO これは形而上学の対象が、感性の射程 を超 出 した ところに措定 されるべ きであ
る、 とい うことも示唆 している。 「
神」 「
魂 の不死」 「自由」 とい った ものの 「
消極的 な意味」 (
B307)
が、 ここで明 らかになる。それは、 これ らの理念が感性的直観 の対象 ではない とい う規定である(
.理
この一文 は、「
超越論 的分析論」の第二章、「
純粋悟性概念の演掛 こついて」 において述べ られている。 しか し、ここで述
べ られている 「
超越論的演梓」 は純粋悟性概念 についての演梓のことを指 しているのではない。 この直前に 「
空間について
B1
21
)とい う言表があ り、また直後 には時間 ,空間が純粋直観であることを説明 し
の超越論的演梓 を必要 としたのである」 (
ているo Lたがって、引用文の 「
超越論的演緒」 とは、時間 .空間についての横棒 を指 しているとみるべ きであろう0
4 「
さきに我々は、超越論的浦樺 を用いて、時間 ・空間の概念 をその源泉 まで追求 し、それ らの客観的妥当性 をア ・プ リオ リ
に解明 し規定 した」 (
Bl1
9t
.
)
3
1
7
9
(
6
4)
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第26号 (
2008.
ll)
論野性 とい う光 を照射す ることによって、その対象が像 として浮かび上が って くるの と同時に、理論
理性 を超 出 した側面が影の ように浮 き彫 りになって くるのである。
この超越論 的解明か ら、カ ン トの意図が読み取れるであろ う。それ は、「
純粋理性 による知見 に達
判断力批判J が、 ひ とつの まとま りとして カン トの宗教哲学である と解釈 されねばな
践理性批判』『
らないことになろう」 5と述べている。
b
J
純粋理性批判』 における 「
純粋理性 に とって避 けることので きない課題 は、神 、 自由、お よび魂 の
不死 である。 これ らの課題 の解決 を究極 目的 とし、一切の準備 を挙 げて、 もっぱ らこの意図の達成 を
期する本来の学 を形而上学 とい うのである」 (
B7) とい う一文か らもわかるように、『
純粋理性批判』
は形而上学成立の可能性 を探求す る基盤 としての批判である。形而上学 の これ らの対象の解決 に際 L
て、「むやみやた らと歩 き回 らない ように」、その歩みが徒労 に終わ らない ようにと、 自由を含 むこれ
らの対象が理論理性 の領域か ら超出 していることが批判6によって明 らか になった。
現象 と物 自体 との区別 を行い、感性的直観の及ぶ射程 を限界づけた ことによ り、 自由の実在性 はそ
の否定 をひ とまずは免 れた。 カン トがそ うしたのは、「もし現象が物 自体 だ とした ら自由はまった く
救 われ ようが ないか らで ある」 (
B564)とい う見解 を持 っていたか らである。現象 と物 自体 との混同
は自由の完全 な否定 につ なが り、 自由の概念 と端的 に相容れない ものである。が、理論理性 の対象が
物 自体 だ とすれば、 どうだ とい うのか。現象 と物 自体 との区別がな されない とすれば、 どの ようなこ
とが生 じるだろうか。
まず一つは、実在性 を有す る ものは、すべ て現象界にのみ属する とい うことになる。す なわち時間 ・
空間の制約の もとに服す ることになる。 したが って我 々の感性的直観 の実質であ り、経験 の対象であ
るもののみが実在性 を持つ、 とい うことになろう。机上のペ ンは私 にとって現象 して くる限 りの存在
であ り、私 にとっての私 自身 も私が思惟する限 りの私が、すなわち時 間 と空 間のなかに存在 している
もの としての 「
私 Jがそのすべ てであ る。「そ うなると自然 は、すべ ての事象 を規定する ような完全
でかつそれ 自体で十分な原 因 とい うことになる。そ して事象の制約 はつねに諸現象の系列 に含 まれて
お り、諸現象のその結果 をも含めて 自然法則 の もとで必然 的なのであ る」 (
B564)。 これは 自然 の全
t
r
ansz
endent
al
ePhysi
okr
at
l
e)」 (
B476)の思想であるO
能 を打 ちたて ようとする 「
超越論 的 自然専制論 (
そ うなる と、理性 もまたその働 きとともに、必然的に自然法則の もとで生み出 された 自然の産物 とい
うことになる。 この理性 によって規定 された意志 も、 さらにその意志 によって為 された行 い も、すべ
ては自然法則 に したが った必然的行為 であ り、理性 はたんなる道具であ って我 々が何 をなそ うとも、
それは自然 の摂理 に したが っただけの行 いで しかない、 とい うことである。
5C.
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C
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KanE
ske
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1
985,
S1.
6
さきに述べ た ように、 T
純粋 理性批判J における 「
批判」 とは 「区別する」 とい う意味 であるo われわれの直観の射程内 と
射程外 を区別す ることが批判 とい う語で示 されている。
(
65)
1
78
I
純粋理性批判
におけるF
l由の可能性 について
新病
. 知成
そ して もう 一つの結果 として、現象 を物 自体 と混同 して しまうと、我 々は避 け られない二律背反に
おちいることになる。『
純粋理性批判Jの「
超越論的弁証論」に記 されてい る「
純粋理性のアンチノ ミー」
である。 自由に関 しては第三 アンチノ ミー として挙げ られている。
「
定立 ・目 白然法則 に従 う原 因性 は、世界の現象がすべ てそ こか ら導かれ うる唯一の原因性 ではな
い。現象 を説明す るためには、その他 になお 自由による原因性 を も想定す る必要がある。
反定立 ・・・お よそ 自由 とい うものは存在 しない.世界における一切の ものは自然法則 によってのみ
B473)0
生起する」 (
自然専制論 は、 もちろん下の反定立をとることになる。 しか しこの立場 だ と、因果の系列 について
説明で きな くなって しまう。それは定立の証明に論述 されている とお りである。
自然専制論 においては、 自然法則に したが う原 因性 、すなわち現象界 に浸透する原 因 と結果の法則
に したが った事象 のみが生起す ることになる。「それゆえ、原 因の原 因性 によってなに ものかが生起
す るが、その原 因性その ものが何 か生起 した ものであ り、 これは 自然の法則 に したが って、やは りそ
れ以前の状態、お よび法則 の原 因性 を、そ してこの前の状態 もやは りさらにそれ以前の状態 を前提 と
す る」 (
ebd.
)のであ る。 そ して また、 この 「
直前 の状態」 も、や は りあ る原 因性 か ら生起 した もの
でな くてはならない。 さらにこの原 因性 も、 自然法則 に従 うと、 これ よ りも前 の状態 を原 因 として想
定 しな くてはならない。こうして 自然法則 に したが う限 り、無限 にさかのぼってい くことになる。よっ
てこの系列の完全性 は まった くない ことになる。が、 自然法則 の本質 は、「ア ・プ リオ リに十分 に規
定 された原則が なければ何 もの も生起 しない 」 (
B474)とい う点 にある。「
それだか ら一切 の原 因性 は
自然法則 に したが ってのみ可能である とい う命題 は、 この命題 の無制限な普遍性 を主張す ると、 自己
矛盾 におちいることになる 」(
ebd.
)。 さ りとてまた定立の立場 にたつ こともで きない。 自然専制論が、
絶対 的 自発性 の能力である自由7とい う原 田性 を認め ることは、因果律 に反す るために絶対 に不可能
である。 こうして、 自然専制論 は どちらにも答 えることがで きな くな り、 ここで考察が停止 して しま
う。
しか し、形而上学 とい う 「
批判的研究の完成」のためには、 ここを突破 して先 に進 んでいかな くて
はな らない。現象 と物 自体の区別 こそが、それ を可能 にす る突破 口 となる。『
純粋理性批判』によって、
理論認識 の限界づ けが なされ、現象 と物 自体 を区別す ることに よ り、 自由は 「
問題的」 (
B831
)であ
る として、ひ とまずその実在性 の否定 を免れた。そ うして、論理的可能性 を確保 された とはいえ、 ま
だ無規定な ままの 自由に、『
莫践理性批判』 において積極的規定 を与 えることになる。
「従 って、ある原 因性が想定 されな くてはならない。それは、その原 因が さらに他の先行す る原 因によって必然的法則 に従 っ
て規定 されることな く、何 かが生起する ような原因性である。す なわち、諸原 関の絶対的 自発性である。自然法則 に したが っ
て進 んでい く諸現象の系列 をみずか ら始め る自発性である。 これが なければ、 自然の経緑 において さえも、諸現象の系列の
継起 は原因の側では決 して完全ではない」 (
R474)
o
これは、 自然法則か らは独 立 した、絶対 的な開始点 を軽み出す能力であ り、 自然法則 、つ ま り原 因 と結果の系列の法則 のみ
が世界の唯一・
の法則 であるとい う自然専制論 にとっては、 とうていせけ 入れ られ うる ものではない.
1
77
(
66)
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第2
6号 (
2
0
0
8.
l
l
)
2.自由の思惟可能性
つづいて、実践的 自由 とそれ を発動す る主体のあ り方 について考察す る。
『
純粋理性批判』 でお こなわれた区別 は、感覚的 に触発 され うる理性的存在者である我 々にもあて
は まる区別である。現象 としての く
私ン は、私 自身に表象 された く
私) である。それは、時間 とい う
形式の制約下で表象 された く
私) とい うことになる。我々は、「
内的 に触発 され る仕方で しか 自分 自
身を直観す ることがで きない 」 (
B1
53)か らである。 く
表象 された私) は時間の制約下 にあ らわれて き
たく
私)である。これ らの制約下 に服す る もののみが現象界 にあ らわれて くるのであるか ら、この (
私)
は、現象 としての (
私) の相 である。逆 に、 これ らの制約 に服 さない (
私) の相 は私 にはあ らわれな
い。 しか し、 (
現象 としての私) が現実 に表象 され うる ものであ り、 さらに 『
純粋理性批判』 におけ
る理論認識の限界づけの妥当性が示 されたな ら、表の相である (
現象 としての私)には必然的に 「
裏」
の相が な くてはな らない ことになる。 この表象 としてあ らわれて くる私 の裏 にある、物 自体 としての
く
私 その もの) (
B1
58)は、私 に意識 す ることはで きないO また、私 が私 自身 を表象す る とき、同時
に意識す るのは、認識 の主体 としての (
私)ではな く、ただ 「
私がある、とい うことを意識す る」(
B157)
にす ぎない。
純粋理性批判』 においては、
この (
私その もの) は理論埋惟 の射程外 の ものであるo Lたが って F
いまだその思惟可能性 を確保 されたにす ぎないOその実在性 は、主体 である (
私) が、絶対的 自発性
である自由 とい う能力 を有す ることが示 されることでは じめて証明 される。
『
純粋理性批判』 では、 自由は 自然法則 とは異なる原 因性 として規定 されている。 カン トは以下の
ように述べ る。
「これに反 して私が宇宙論的意味 において自由 とい うのは、ある状態 をみずか ら始める能力の こと
である。 したが って 自由の原 因性 は、 自然法則 に したが ってこの原 因性 を時間的 に規定するような別
の原因に もはや支配 されることはない。 この意味 において 自由は超越論的理念である」 (
B561
)。
自由は自然法則 とはまった く異質 な自発性 の能力であ り、 これは現象界 に見出 される ものではない。
すなわち、この 自由の実在性が証 明 されれば、 自由の主体 である 「
私」 もそれが何 であるかが確定す
るだろ う。 とい うの も、 この能力 を、現象界 に現 れてい るか ぎ りの 「
私」、 自然法則 の もとにあるか
ぎりの私が発動す ることは不可能 だか らである。そ うなると、これは理論理性 の射程 の限界づ けによっ
て影の如 くあ らわれて きた、「
物 自体」 としての私の能力 とい うことになる。
理論認識 に対 しては、 (
私) は く
現象 と しての私) の相 を見せ るだけであ る。 しか しそれは、太陽
に照 らされない月の裏側 の ように、理論認識の光 に照 らされない側面である (
物 自体 としての私)が
あることも暗 に示 している。理論理性で証明す ることがで きない この相 の実在性 を積極 的に規定す る
には、 自然法則か ら独立 している絶対的 自発性の能力の客観的実在性 を証明す る必要がある。
とはいえ、 この 自発性 の能力 について、次 の ことに注意 しな くてはな らない。 それは、「自由 とい
(
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「
純粋理性批判. における自由の可能性 について
新垣
知成
う実践 的概 念は、 自由 とい う超越論 的理念 に もとづ くものであ る とい うこ と」(
B5
61)であるOでは
超越論的理念 における自由にもとづ く実践的 自由 とは、いかなる能力であるのか。
「
実践的意味 における自由 とは、意志が感性の衝動 か ら独立 している、 とい うことである。意志 は、
受動的に (
感性 にもとづ く動 因によって)触発 されるか ぎりでは感性的意志であ り、 またこの意志が
受動 的に強制 される場 合には動物 的意志 (
ar
bi
t
r
i
um br
ut
um) とよばれる。 ときに、人間の意志 は、
た しか に感性 的意志 (
ar
bl
t
rl
um S
enSl
t
i
vum) で あ るが 、 しか し動 物 的意志 で はな くて 自由な意志
(
ar
bi
t
r
l
um l
i
bel
um) である。 とい うの も、人間の意志作用 は感性 によって必然的 に規定 されるので
はないか らである」 (
B5
62)0
こ こにあ らわ れ て い るの は、 「
動 物 的 意志 (
ar
bl
t
r
i
um br
ut
ur
n)Jと人 間 の 意 志、 「
自由 な意志
(
ar
bl
t
r
l
um l
l
hel
・
um)」 との ちがいであ る。 た とえば、犬 を例 にあげてみ ようo空腹 の状態 にあ る犬
がエサ を見つけた とする。彼 はす ぐに飛 びかか って捕 らえようとす るだろ う。動物の意志決定 に際 し
てかかわるのは 自然法則のみであ る。「
空腹 を捕食 によってみたす」とい うような.自然法則 に したが っ
て産出 される感性的欲求 によってのみ動物 の意志 は決定 される。それは、ゼ ンマ イを巻 けば回転す る
時計 の歯車 と同 じであって、 自由の介在す る余地はない。意志規定、お よびその意志 によってな され
る行動 は、すべ て現象界内の システム、 自然 の法則の うちに終始 している。 これは自然法則 による強
制であ って、動物的意志 は、それに抗 うすべ を持 っていない。
それに対 して人間の意志 は 「自由な意志」である。た しか に、人間は硯象 界の住 人とい う側面 を持
つ存在者である以上、彼 の意志 は 「
感性的 に触発 される」ことは避 け られない。その限 りにおいて 「
感
性 的意志 (
ar
bl
hlum S
enSl
t
i
vum)」 であ る。 しか し人間における意志決定の際 に効力 を有 してい るの
は感性的衝動 だけではない∪感性 的衝動 に反 した意志決定 をす ることも可能である。「
眠いので まだ
眠 っていたいが、 もう寝床 か ら出ない と約束の時間に遅刻 して しまう」 とい う場合、あるいは 「目の
前 でおぼれている者がいるが、助 けようとすれば自分の生命 も危険 な状態 に陥るか も知れない」 とい
う場合、我々は、欲 求や 自己愛 とい った感性 的衝動 (
自然 による強制)に反 した意志決定 をもな しうる
のである。つ ま り人間の意志 は 「
感性 的衝動 にかかわ りな く、理性 の指示する動 因によって」 (
B830)
規定 され うるのである。 この ような人間の意志が 「自由意志 とよばれ る」 (
ebd.
)0
この 「
動物的意志 J と 「自由意志」の差異 は どこにあるのか。感性 的な理性的存在者が感性 的衝動
か ら離れた意志決定 をなす とき、そ うす るように強制す るのは理性 である。理性 の発す る準則 によっ
て我 々の意志 は感覚論的欲 求か ら引 き離 され うる。 この理性 の法則 は、l
ー
何 が生起すべ きであるか を
B830)のである。「
実際 に生起す る ところの ものだけに関係 す る」 (
e
bd.
)ような自然
我 々に命 じる」 (
法則 に徹頭徹尾従属す る 「
動物的意志」 においては、 この理性の法則 は与 えられない。理性す ら存在
しないのなら、なお不可能である。したが って、「この実践的 自由は経験 によって証明 され うる」(
B830)
とい う一文 も理解で きるであろ う。 さきにあげた例 の ように、それは誰 しもが思い浮かべ ることがで
きるに違いない。「タバ コを吸いたいが、今 日はこれ以上吸 うと健康 に善がでるだろ うか ら控 えよう」
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8)
岡山大学大学院社会文化科学研 究科紀要第2
6号 (
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0
0
8.日)
とい う場合、そ こに働いているのは意志 の準則 (
Vor
s
chr
l
r
t
)である。 この準 則 を理性が生み出 し、そ
れによって意志が規定 されるOそれは誰 もが経験 によって知 ることがで きる。我 々が、自然法則 とは
反す るような準則 に したが って意志 を決定で きるとい うことは経験可能である
。
つ ま り、
実践的 自由は絶対 的 自発性 とは異なっているのである。だか らこそ実践的 自由は経験 によっ
てそa)
客観的実在性が証明 され うる。 そのため、 この 自由がそ もそ も自然法則の システムの-・
部では
ないのか、 とい う問いに答 えることはで きない。経験 によって証明 され うるのな ら、その原因性が 自
然法則 だった として も差支 えが ないわけである。言い換 えるな ら、理性す らも自然 によ り産出 された、
自然の所産である とい うように考 えることは依然 として可能なのである。実践的 自由は、たんに 「
感
性 的欲求か ら独立 して意志 を規定で きる」 とい う能力 にす ぎない。 この能力 の実在性 は証明 され うる
として も、それが絶対的 自発性 による ものなのか、 自然法則の体 系の一部であるのか、ほ理論理性 に
よっては解明 されない。
また、理性 の法則が意志 に与 え られるため には、 く
私)が く
私) に対 して隙 間 を持 っていな くては
ならない。 さきに述へ た ように、我 々が 自らを表象する とき、そこに (
表象 された私) と表象する主
体 としての私 とは異 なっている。この とき、我 々は(
表象する主体 としての (
私)は)(
表象 された私)
と向 き合 う∪ 自己自身 と向 き合 うのである。 これは、 自己 自身 との関係 を持つ、 とい うことであろう。
つまり 「
知性者であ り思惟す る主体である ところの私 」 (
B1
55)と 「
私 にあ らわれるままの私」 (
e
bd.
)
とが向 き合 うわけである。両者のあいだには- だた りが生 じている。 ここが、 自由が発動す る点であ
る。 自然法則 にのみ従 う意志 (
動物的意志)においては、この隔た りは生 じない。 自由は発動 しえない。
これは、主体である く
私) が、現象 と物 自体の両面か ら見 られ うる存在者でな くては起 こ りえない こ
とであるO
実践的 自由の実在性 は経験 によ り証明 され うる として も、 ここに一つの懸念が生 じる。すなわち、
この実践的 自由 も、 自然の体系の領野 を出ないのではないか、 とい う懸念である。実践的 自由は理性
によって町能である。そ して経験 によって証明 され もす る。 ところが、 この理性 も自然が生物 として
の我 々に与 えた資質である とした ら、やは り実践的 自由 も自然 の産物 、 とい うことになろう。 これに
対 しては、『
純粋理性批判』 の段 階では、つ ま り理論理性 の領野では、反論 す るす べがないO とい う
の も、先 に述べ たように、実践的 自由は超越論的理念 としての 自由にもとづ くものであるが、理論理
性 によってはその射程 の外 にある超越論的 自由の証明は不可能だか らである。『
純粋理性批判』によっ
て確保 されたのは、あ くまで超越論 的 自由の思惟可能性 だけであって、積極的な証明は されえない。
したがって、意志 を規定す るさいに理性が原 因性 とな りうることは経験 によって証明 された として も、
この理性 その ものが、そ して実践的 自由が 自然の産物 なのか否かは未決定の ままである。
この決定がなされるのは 『
実践理性批判』 においてであ り、そこでは じめて、実践的 自由が 自然の
法則体系の山部 ではな く、理性 の有す る超越論的な能力 であることが証 明 される。 『
純粋理性批判』
で 円由の思惟 可能性 を確保 したのは、 まさにその目的のための土台 と してなのであった.超越論 的 自
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'
純粋理性批判口 における自由の可能性 について
新垣
知成
由を証明す るためには、 この手続 きが必要不可欠だったのである。
結
び
現象 と物 自体 との区別 によって、私の、感性の制約下 にあ らわれている限 りでの (
私) とい う相 だ
けで な く、物 自体 としての く
私) の相 も影のごと く浮 き 上が って くる。それはまた、 自然法則 か ら独
立 した、絶対的 自発性 とい う能力の主体 としての (
私)の一側面である と推測 され うる。
しか し、 この区別 はい まの ところ蓋然的であるにす ぎない.つ ま り、 F
純粋理性批判J における理
論認識 にとっては問題的 に立て られているにす ぎず、理論 認識ではこの区別 に実在性 を与 えることは
で きない。現象 としての (もの) の側面の実在性 は経験 によってすで に与 え られている とはいえ、 こ
の区別 によ りあ らわれて くる もう一つの くもの) の相、物 自体 の実在性 は理論認識 によって与 え られ
るな どとい うことはお よそ不可能だか らである。 したが って、物 自体 としての (
私)の実在性 を証明
す るには、その能力である自発性、つ まり自然法則か ら端的に独立 している能力である超越論的 自由
の実在性 を証明す ることが求め られる。 これは時 間や空間の外側 か ら、時空世界 にある ものの原 田 と
な りうる能力であ り、その ような能力の主体 としての (
私) は現象界 の制約の外側 にある存在者であ
る。現象 としてわれわれにあ らわれて くる ものは、 自然法則 に したが ってその原 因 をもつが、それは
必ず しも経験的 な原 因であ る必要 はないO「
現象 における結 果は、経験的原 因性 の法則 に したが った
原因 と結合 しな くてほな らないに して も、この経験的原因性 その ものは、 自然原 因 との関連 を中断す
ることな く、非経験 的な原因性 、つ ま り叡知的原 因性の結果である とい うことが可能ではないだろ う
か」 (
B572)とカン トは問 う。 これが問いかけの形 をとってい るの は、理論 認識 の領野では叡知 的原
因性 とい う概念 その ものが問題的で しかないか らである。
経験的世界の外側 か ら原 因 として働 きかける能力が 自由である と して も、物 自体 としての (
私) に
ついての考察 において求め られてい るのは、たんに 「自然法則 か ら独立 して意志 を規定 しうる」 とい
う実践的 自由ではないOみずか ら法則 を発する、超越論的意味 における自由でな くてはならない。実
践的 自由 もやは り自然の法則の もとに服 しているのではないか、 とい う疑問 については、理論理性 は
答 えることがで きないか らである。
これに対 して、超越論 的 自由は、あ らゆる経験的要因か ら独立 した純粋理性 の原 因性である。 この
能力があることによ り、理性 は純粋 な理性 として理性本来のはた らき、つ ま り感性的な一切 を全 く度
外視 して 自ら意志 を規定する原理 を産出することがで きる. この 自由の実在性 を証明す る一点 となる
原理 は、F
道徳形而上学原論』 『
実践理性批判J において論究 され、 これに よって超越論的 自由はい よ
い よその姿 を積極的 に顕現す ることになる。 よって今後の研 究は、理論理性 の批判 によってあ らわれ
て くる純粋理性の原 因性 を探求 してい くことになろ う。
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