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遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察

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遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
生命保険論集第 193 号
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
-米国及びドイツの法制を踏まえて-
弁護士 吉田
和央
(森・濱田松本法律事務所)
1. はじめに
2. 遺伝子検査の基礎知識と現状
(1) 遺伝子と疾病の関係
(2) 遺伝子検査の類型
(3) 遺伝子検査の現状
(4) パーソナルゲノム医療
3. 危険選択と遺伝子検査の関係
(1) 危険選択の意義
(2) 危険選択の方法
(3) 危険選択と遺伝子検査との関係(問題の所在)
4. 米国及びドイツの法制
(1) 米国(遺伝情報差別禁止法)
ア.遺伝情報及び遺伝子検査の定義
イ.禁止行為とその例外
ウ.州法との比較
(2) ドイツ(遺伝子診断法)
ア.遺伝子検査の定義
―257―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
イ.禁止行為とその例外
(3) 米国法とドイツ法の比較
ア.禁止の論拠
イ.遺伝情報の範囲
ウ.禁止行為
エ.禁止の例外
5. 政策的な観点からの検討
(1) 遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止する論拠は、医療検
査・情報に係る現行の取扱いとの比較において正当化できるか
ア.遺伝子差別の防止
イ.遺伝情報の利用の促進
ウ.自己情報コントロール権の保護
エ.基礎的保険論
(2) 遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止することは逆選択等
の弊害を招かないか
ア.①既に取得された遺伝情報の要求及び③遺伝情報の利用の禁
止について
イ.②遺伝子検査の受検の要求の禁止について
(3) 実務上遺伝情報と医療情報を区別することができるか
(4) 小括
6. 我が国の法制度に照らした検討
(1) 機微情報の取扱い
(2) 不当な差別的取扱いの禁止
(3) 合理的な危険選択
(4) 告知義務
(5) 受検の要求
7. 結語
―258―
生命保険論集第 193 号
1.はじめに1)
近時、血液や唾液等の資料の中の遺伝子を解析し、その結果から疾
病(がん、生活習慣病等)の罹患リスクなどを判定する遺伝子検査サ
ービスが急速に発展している。米国の人気女優が乳がんのリスクを高
める遺伝子が見つかったため、予防措置として両乳房を切除する手術
を受けたことは記憶に新しい2)。このような遺伝子検査は、消費者の
健康維持増進に寄与する側面があり、近い将来には、パーソナルゲノ
ムと医療データ及び生活習慣を記録するライフログ等のデータベース
をビックデータ分析技術等により解析することで、オーダーメイドの
薬や予防医療サービスを提供するビジネスモデル(パーソナルゲノム
医療)の出現も予想されている3)。
その一方で、このような遺伝子検査と保険は緊張関係にある。
例えば、Aさんが遺伝子検査を受けて、将来がんになるリスクが高
いことが判明したとする。この場合、Aさんは将来に備えて民間の医
療保険や生命保険に加入することができるであろうか。Aさんは保険
加入の際に保険会社に対して当該遺伝子検査の結果を伝える必要はあ
るであろうか。あるいは、Aさんが未だ遺伝子検査を受けていない段
階において、保険会社はAさんに対して遺伝子検査を受けることを求
めることができるであろうか。
1)本稿の執筆に当たっては、米国コロンビア大学ロースクールのPaul S.
Appelbaum教授及びRichard Liskov講師に数多くのご指導をいただいた。この
場を借りてお礼申し上げる。
2)「アンジェリーナ・ジョリーさん乳房切除 がん予防」日本経済新聞2013
年年5月14日(http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1402Y_U3A510C100
0000/)
。
3)経済産業省「遺伝子検査ビジネスに関する調査報告書」
(委託先 株式会社
ドリームインキュベータ)39頁(平成26年2月)
(http://www.meti.go.jp/p
olicy/mono_info_service/mono/bio/pdf/140428idenshikensa-houkokusyo2.
pdf)
。
―259―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
保険会社の立場からすれば、Aさんは将来病気になる可能性が高い
ことが判明したのであれば、保険の引受けの謝絶や保険料の引上げを
検討するかもしれない。また、そのような遺伝情報を得るために、積
極的にAさんに対して遺伝子検査を受けるよう求めたいと考えるかも
しれない。
他方、Aさんの立場からすれば、自己の力で変えることのできない
遺伝情報や病気になることを確実に示すものではない遺伝情報に基づ
いて保険の引受けが謝絶されたり、保険料が引き上げられたりするこ
とは不当であると感じるかもしれない。また、遺伝情報という究極の
プライバシー情報を保険会社に伝えたくないと思うかもしれない。そ
もそも自己の遺伝情報は知りたくないとして、保険会社から遺伝子検
査の受検を求められることに抵抗を感じるかもしれない。
このような問題について、我が国では2000年代前半に活発に議論が
行われたが4)、具体的な法制化や指針等の実現には至っていない5)。ま
た、保険実務では、現在のところ、保険加入審査の際に、被保険者の
4)文献として、
「保険の危険選択と遺伝情報―保険理論・法政策―」賠償科学
25号22頁(2000年)
、小林三世治=武部啓=村田富生=佐々木光信=岡田豊基
「遺伝子診断と保険業(日本保険学会平成12年度大会シンポジウム)
」保険学
雑誌574号1頁(2001年)
、石原全「生命保険契約と遺伝子検査」法セ573号28
頁(2002年)
、佐々木光信「生命倫理と保険事業-遺伝子情報と保険に関する
研究会の活動報告を中心に」日本保険医学会会誌101巻3号(2003)
、宮地朋
果「遺伝子情報と保険」FSAリサーチ・レビュー2005(第2号)などがある。
5)科学技術会議生命倫理委員会は、平成12年6月14日に「ヒトゲノム研究に
関する基本原則」
(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kagaku/rinri/ge
nso614.htm#10)を制定しており、第十六(差別の禁止)の解説においては、
「保険に関する差別の可能性に対しては、現行の法令や制度の枠内で差別的
取り扱いを禁止、排除するよう努めるべきであるとともに、将来においても
新しい法令の制定の可能性も含めて、適切な制度的措置をとる必要がある」
とされている。また、2002年10月には、日本人類遺伝学会、日本マススクリ
ーニング学会、日本先天代謝異常学会及び日本小児内分泌学会が「保険契約
における遺伝情報の使用を人権保護の観点から一時留保すること」を含む提
言を行っている。
―260―
生命保険論集第 193 号
遺伝子検査は行われていないとされている6)。
しかし、上記の通り、遺伝子検査が急速に普及し、パーソナルゲノ
ム医療が現実性を帯びてくるなど、遺伝子検査をとりまく環境は大き
く変化している。現に、本年1月には首相官邸の主導の下「ゲノム医
療実現推進協議会」が立ち上げられ、遺伝要因や環境要因による個人
ごとの違いを考慮した医療の実現に向けて、人材育成や医療従事者へ
の教育強化のほか、倫理的、法的、社会的課題への対応及びルールの
整備が提言されている7)。特に、遺伝子検査に関するルールの整備に
向けては、厚生労働省が本年6月17に同協議会に提出した「遺伝学的
検査をめぐる課題の抽出について」8)では、①正確な遺伝学的検査が
行われ正しい結果が得られるための精度管理の仕組みの構築や、②被
検者が納得し自己決定ができる支援体制の整備等に加え、③検査結果
が差別に繋がり得ることから、就職や保険加入等において検査結果が
どのように取り扱われるべきかという課題に対応するために、厚生科
学審議会科学技術部会の下に新たな検討会を設置し、年度内に対応を
取りまとめるとされている。
この点、海外に目を移すと、米国では2008年に連邦法レベルで
Genetic Information Nondiscrimination Act(遺伝情報差別禁止法)
が 成 立 し 、 ド イ ツ で は 2009 年 に Gesetz über genetische
Untersuchungen bei Menschen (Gendiagnostikgesetz - GenDG)(遺伝
子診断法)が成立するなど、保険者が遺伝子検査・情報を要求したり
6)清水耕一『遺伝子検査と保険-ドイツの法制度とその解釈-』18頁(千倉
書房、2014)
。
7)ゲノム医療実現推進協議会「ゲノム医療実現推進協議会中間とりまとめ」
(平成27年7月)
(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/genome
/pdf/h2707_torimatome.pdf)
。
8)首相官邸ウェブサイト(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou
/genome/dai3/siryou03.pdf)
。
―261―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
利用することを一定の範囲で禁止する立法が相次いでいる9)。
本稿は、このような状況を受けて、遺伝子検査と保険の関係につい
て、近時の遺伝子検査の状況や米国及びドイツの法制を参考に議論の
再整理を行うものである10)。
以下2.及び3.では、議論の前提として、遺伝子検査の基礎知識
及び現状と、保険者による危険選択の意義及び方法について簡単に触
れた上で、問題の所在を明らかにする。4.では、米国及びドイツに
おける遺伝子検査と保険に関する法制度を概観する。5.では、米国
やドイツの法制のように遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止す
ることが妥当か否かについて、禁止の論拠の正当性、禁止による弊害
及び実務運用上の問題といった各観点から検証を行う。6.では、我
が国の現行法上の枠内において、遺伝子検査・情報に基づく危険選択
がどのように取り扱われるかを検討することとしたい。
なお、遺伝子検査については、上記の通り、保険との関係のほか、
雇用差別の問題、分析の質の担保、情報提供の方法といった様々な論
9)その他の欧米の多くの国でも、遺伝子検査と保険との関係について何らか
のルールが設けられている。例えば、英国では、議会による立法は行われて
いないが、政府と英国保険協会(Association of British Insurers)との間
でConcordat and Moratorium on Genetics and Insurance(遺伝子検査と保
険に関する協定及びモラトリアム)が結ばれており、当該モラトリアムの期
間は保険者による遺伝子検査の要求や遺伝情報の取得・利用等が制限されて
いる。また、オーストリア、ベルギー、デンマーク、フランス、ノルウェー、
オランダなどでも保険者による遺伝子検査結果の利用等を制限する立法が制
定されている。R.G. Thomas, Genetics and insurance in the United Kingdom
1995–2010: the rise and fall of “scientific” discrimination, New
Genetics and Society iFirst, 2012, 1-2.
10)山下友信『保険法』303頁(有斐閣、2005)では、
「遺伝子診断技術がどの
程度のものであるかを離れて法規制を論じることは意味がないし有害でもあ
るが、いずれわが国でも遺伝子診断の利用に関する法的ルールを国民のコン
センサスに基づいて形成することの必要な時代が到来するであろう」とされ
ている。
―262―
生命保険論集第 193 号
点があるが、本稿ではこれらの論点には基本的に立ち入らない。
2.遺伝子検査の基礎知識と現状
(1) 遺伝子と疾病の関係
遺伝子検査について述べる前に、以下ではまず、遺伝子と疾病との
関係について、簡潔に説明したい11)。
遺伝子とは、親から子へと受け渡される遺伝物質の基本単位のこと
をいう。ヒトの場合、父と母からそれぞれ1セットずつ受け継いだ23
の染色体があり、
1本の染色体はひとつながりの長いDNA分子を含んで
いる。また、そのDNA分子の一部領域が1遺伝子に対応しており、ヒト
にはおよそ2万個のタンパク質コード遺伝子が存在する。遺伝子を含
むDNAは二重らせんの「はしご」のような形状をしており、
「はしご」
の縦棒は糖とリン酸による一本鎖、
「はしご」の横棒はA、C、T、G
という四種類の塩基が対になってできており、この組み合わせが遺伝
情報を構成する。
このような遺伝子によって引き起こされる疾病は、大きく以下の二
つの類型に分けることができる12)。
一つ目は、単一遺伝子疾患(メンデル遺伝病)と呼ばれるもので、
特定の遺伝子に変異があれば予知できる疾患をいう。例として、ハン
ティントン病、嚢胞性線維症、鎌状赤血球貧血などが挙げられる。
もう一つは、多因子疾患と呼ばれるもので、遺伝子のリスク因子の
11)フランシス・コリンズ(矢野真千子訳)
『遺伝子医療革命 ゲノム科学がわ
たしたちを変える』
(NHK出版、2011)33頁、53-57頁及び付録A参照。
12)このほか、遺伝子やDNA分子を含む染色体そのものの構造や数の異常として、
染色体異常症候群(例えばダウン症)が挙げられる(巌佐庸ほか編『岩波生
物学辞典(第5版)
』
(岩波書店、2013)807頁)
。
―263―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
一つ一つの力はそれほど強くなく、そのいくつかが組み合わさって、
さらに環境からの刺激を受けてはじめて疾患を引き起こすものをいう。
例えば、糖尿病や心臓病、がんなど、よくある病気のほとんどは遺伝
的要素を持っているが、これらの病気は単一の遺伝子ではなく、複数
の遺伝子や環境要因が関与しているとされる。
図1 遺伝子と疾患の関係13)
100%
環境要因
遺伝要因
0%
単一遺伝子疾患
多因子疾患
例:ハンティントン病
嚢胞性線維症
例:糖尿病
心臓病
がん
鎌状赤血球貧血
(2) 遺伝子検査の類型
遺伝子検査は、大きく以下の3つに分類される14)。
13)宮地・前掲注4)図1(111頁)を参考に筆者作成。
―264―
生命保険論集第 193 号
①
病原体遺伝子検査
ヒトに感染症を引き起こす外来性の病原体(ウイルス、細菌等微
生物)の核酸(DNAあるいはRNA)を検出・解析する検査
②
ヒト体細胞遺伝子検査
癌細胞特有の遺伝子の構造異常等を検出する遺伝子検査および
遺伝子発現解析等、疾患病変部・組織に限局し、病状とともに変
化し得る一時的な遺伝子情報を明らかにする検査
③
ヒト遺伝学的検査
単一遺伝子疾患、多因子疾患、薬物等の効果・副作用・代謝、個
人識別に関わる遺伝学的検査等、ゲノムおよびミトコンドリア内
の原則的に生涯変化しない、その個体が生来的に保有する遺伝学
的情報(生殖細胞系列の遺伝子解析より明らかにされる情報)を
明らかにする検査
このうち、
上記(1)で述べた遺伝子と疾病の関係を明らかにするのは、
③ヒト遺伝学的検査である15)。その中でも、単一遺伝子疾患に関する
ヒト遺伝学的検査は、単一遺伝子の変異でほぼ完全に発症を予測する
ことができるため「発症前検査」と、多因子疾患に関するヒト遺伝学
的検査は、罹患性の程度(リスク)を予測する点で「易罹患性検査」
とも呼ばれている16)。
14)日本医学会「医療における遺伝学的検査・診断に関するガイドライン(20
11年2月)
」[注1](http://jams.med.or.jp/guideline/genetics-diagnosi
s.pdf)
。
15)このような検査の対象は必ずしも成人に限られない。例えば、米国の多く
の州では、単一性遺伝子疾患である嚢胞性線維症について、新生児の遺伝子
スクリーニング(検査)が実施されている(フランシス(矢野訳)
・前掲注11)
76頁)
。
16)遺伝医学関連学会「遺伝学的検査に関するガイドライン(平成15年8月)
」
V.3(http://www.congre.co.jp/gene/11guideline.pdf)
。
―265―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
(3) 遺伝子検査の現状
近時、遺伝子検査、特に多因子疾患に係る易罹患性検査がインター
ネット等を通じて消費者に直接提供されるケースが社会的注目を集め
ている。このような検査のプロセスの概要は、以下の通りである17)。
1) 受付:検査サービス提供事業者(取次・代理店18))
、医療機関は、
利用者から遺伝子検査の申込みを受け付ける。
2) 資料採取:検査サービス提供事業者(取次・代理店)は、説明書・
同意書と試料採取キットを利用者に送付又は直接手渡し、利用者は
自らが試料を採取する。医療機関の場合、医師等が試料を採取する。
3) 解析:検査サービス提供事業者、医療機関は解析を行う。ただし、
解析は衛生検査所等に委託される場合がある。
4) 結果報告:検査サービス提供事業者(取次・代理店)
、医療機関は、
解析結果を基に、書面やWEB等で検査結果を利用者に報告する。
5) 処置:解析結果は、健康増進や医療目的で利用される。検査提供サ
ービス事業者(取次・代理店)は検査結果に基づき栄養・運動指導
や商品・サービスの販売等を行う場合がある。
17)経済産業省・前掲注3)8-14頁。
18)取次・代理店として、薬局、整体、スポーツクラブ、エステ、コンビニ、
インターネットポータルサイト運営会社等が挙げられる。
―266―
生命保険論集第 193 号
図2 遺伝子検査の流れ19)
1)受付
2)資料採取
3)解析
4)結果報告
事業者
5)処置
事業者
利用者
事業者
取次・代
理店
取次・代理店
医療機関
※ 解析は衛生検査所等に委
託される場合がある。
このような遺伝子検査(多因子疾患に係る易罹患性検査)は、特定
の遺伝子配列の違いと疾病罹患リスクとの関連性は仮説段階のものか
ら医学上の定説になりつつあるものまで様々であり、複数の遺伝要因
が想定されていることや環境要因が大きく影響することから、一部の
遺伝子配列の違いに基づき疾病罹患リスクを判定するには限界がある
といわれている20)。
また、医療機関により診療のために行われる遺伝学的検査では、分
析的妥当性(分析方法が確立しており精度管理が適切にできること)
、
臨床的妥当性(検査結果の意味づけ・解釈が十分であること)及び臨
床的有用性(検査結果を受けて適切な予防・治療方針をたてられるこ
となどの臨床上のメリットがあること)に基づいて行われるのが通常
であるが、一部の事業者による遺伝子検査ビジネスでは、専門家から
見てその意義や臨床的価値が十分とは言いがたい遺伝子検査が提供さ
19)経済産業省・前掲注3)図3(11頁)を参考に筆者作成。
20)経済産業省・前掲注3)9頁。
―267―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
れているとの懸念も示されている21)。
(4) パーソナルゲノム医療
(3)で述べたの通り、
遺伝子検査の精度や信頼性は未だ発展途上にあ
るが、遺伝リスクと環境リスクの相互作用の研究は、健康を左右する
環境条件を解き明かしつつあり、そうしたことが判明してくれば、環
境との接し方にもっと目を配ることによって、健康を保ったり病気か
ら回復したりするチャンスを高めることができるようになるといわれ
ている22)。
現に、個人ごとの遺伝要因違いを考慮した医療(パーソナルゲノム
医療)の実現に向けた取組みが、世界中で急速に進みつつある23)。将
来的には、
ヒトのDNA配列は適切に暗号化されたうえで電子カルテの一
部となり、医師が薬の処方や診断、予防計画などを判断するときの重
要な情報として用いられることとなり、もし病気になったときには、
ヒトゲノムの知見に基づいた治療選択肢が用意され、そこからより効
果的で副作用のより少ない治療を選べるようになる時代が来るとも予
想されている24)。
我が国でも、ヒトゲノム(全遺伝情報)など個人ごとに異なる分子
情報と診療情報を蓄積する電子カルテを統合したデータベースを活用
して、患者個人に合わせた病気の治療法や予防法を見つけるシステム
の構築の検討が、既に開始されているとの報道もある25)。
21)経済産業省・前掲注3)10頁。
22)フランシス(矢野訳)
・前掲注11)25頁。
23)経済産業省・前掲注3)9頁。
24)フランシス(矢野訳)
・前掲注11)25頁。
25)
「富士通、ビッグデータで最適治療 患者ごとに療法分析」日本経済新聞2
014年2月19日(http://www.nikkei.com/article/DGXNZO67036040Z10C14A2T
J0000/)
。なお、本年9月4日に成立した改正個人情報保護法では、誰の情報
―268―
生命保険論集第 193 号
3.危険選択と遺伝子検査の関係
(1) 危険選択の意義
危険選択と遺伝子検査の関係を検討する前提として、
以下ではまず、
危険選択の意義について確認しておきたい26)。
危険選択とは、保険会社等の保険者が個々の保険契約の危険に応じ
た保険料負担を求め、一定の危険度を超える場合には、保険を引き受
けないことをいう。
このような危険選択は、
個々の保険契約者から拠出される保険料は、
当該保険契約者のリスクの程度に応じて決定されるという「給付反対
給付均等原則」
に基づいている。
この給付反対給付均等原則の根拠は、
①顧客の公平感に加え、②仮にリスクの程度によらずに保険料が決定
されるシステムでは、リスクの高い者は保険に加入する強いインセン
ティブが働く(これを「逆選択」という)一方、リスクの低い者は保
険への加入を控えるようになり、いわば質の悪いリスクのみが保険プ
ールに集積され、ひいては保険そのものの成立基盤を破壊するおそれ
があることに求められている。
なお、
「給付反対給付均等原則」は、私保険制度に適用されるもので
あり、典型的な公的保険制度には適用されない。言い換えれば、公的
保険制度では、保険加入者の拠出する保険料はリスクに応じて決定さ
れるのではなく、所得などリスクの大小とは無関係な要素により決定
されることになる。例えば、国民健康保険においては、過去の病歴が
あるからといって加入が制限されることはなく、加入者の収入等に応
か分からないように加工された「匿名加工情報」について、その利活用方法
が明確化されており、今後このようなビッグデータを利用したパーソナルゲ
ノム医療の発展が一段と加速する可能性がある。
26)山下・前掲注10)59-60頁参照。
―269―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
じて保険料が決定されている。公的保険では、私保険制度とは異なり
リスクの低い者も含めて加入を強制することができるため、危険選択
を行わなくとも、上記の質の悪いリスク集積といった問題が生じない
ためである。
(2) 危険選択の方法
危険選択の具体的方法は、以下の通りである27)。
まず、危険選択の対象となる危険の因子としては様々なものが挙げ
られるが、医療保険や生命保険では、現在又は過去に罹患した疾病や
障害が将来に及ぼす影響を数理的に評価する医学的選択が特に重要で
ある。この医学的選択のプロセスは、
(A)被保険者の健康情報を収集
する「診査」と、
(B)当該診査に基づき契約の引受けの可否や契約条
件を決定する「査定」から構成されている。
このうち(A)診査の方法として典型的な医師による診査は、(i)告
知聴取と(ii)検診から成り立っている。(i)告知聴取では、診査医が性
別・職業・現症・既往症・身体の障害状態などについて被保険者等か
ら告知を受け、問診を行う。(ii)検診は、身体検査を行い、医学的所
見を求めることをいい、視診・体格の計測・体況一般の診察・血圧測
定・脈拍測定・検尿等に加え、必要に応じて心電図検査・血液検査な
どが実施される場合もある。
(B)査定においては、上記(i)告知聴取や(ii)検診などの(A)診
査で得られた健康情報をもとに、
過去の統計データなどを参考として、
保険事故(疾病や死亡等)の発生確率を推定の上、契約の引受けの可
否や契約条件(保険料等)が決定されることになる。
27)日本生命保険生命保険研究会編『生命保険の法務と実務』109-123頁(金融
財政事情研究会、2011)参照。
―270―
生命保険論集第 193 号
(3) 危険選択と遺伝子検査との関係(問題の所在)
遺伝子検査が普及してくると、保険者が危険選択において遺伝情報
や遺伝子検査を求めたり、用いたりすることができるかという点が問
題となる。
具体的に問題となる保険者の行為は、以下の通り、①既に取得され
た遺伝情報の要求、②遺伝子検査の受検の要求及び③遺伝情報の利用
に分類できる。
①
既に取得された遺伝情報の要求
保険者が(A)診査のうち(i) 告知聴取の一事項として、被保険
者等に対して遺伝情報(遺伝子検査の結果)の開示(告知)を求
めることができるか。
②
遺伝子検査の受検の要求
保険者が被保険者等に対して、(A)診査のうち(ii) 検診の一方
法として、遺伝子検査を受けることを求めることができるか。
③
遺伝情報の利用
保険者が上記①既に取得された遺伝情報の要求や②遺伝子検査
の受検の要求により得られた遺伝情報に基づいて(B) 査定を行
い、保険の引受けを謝絶したり保険料を引き上げたりすることが
できるか。
―271―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
図3 遺伝子検査・情報に基づく危険選択のプロセス
加入申込み
②遺伝子検査の受検の要求
遺伝情報
取得・受領
保険料の引上げ等
③遺伝情報の利用
引受け謝絶
自ら受検
危険選択
客
保険者
顧
遺伝子検査
①既に取得された遺伝情報の要求
このように危険選択において遺伝子検査・情報の要求や利用を認め
るべきであるか否かについては、肯定的な意見と、否定的な意見が先
鋭に対立している。詳細は5.において検討するが、ここでは双方の
議論の概要を示しておくこととしたい。
まず、否定的な立場からは、ア.自己の力で変えることのできない遺
伝子に基づいて保険の引受けの可否や保険料が決定されるのは、遺伝
子差別である、イ.遺伝情報に基づく危険選択を認めれば、保険に加入
できないことや保険料の引上げをおそれて、遺伝子検査を受けること
ができなくなる、ウ.遺伝情報は究極の個人情報であるから、保険者に
よる要求・取得や利用は認めるべきでない、エ.医療保険のような基礎
的な保険については遺伝子検査・情報に基づく危険選択は制限される
べきであるといった主張がなされている。
これに対して、肯定的な立場からは、まず、(1)で述べた通り、危険
―272―
生命保険論集第 193 号
選択には顧客の公平感を確保したり、逆選択を抑止したりする機能が
あるところ、仮に遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止すれば、
顧客の不公平感や逆選択を招くおそれがあると主張されている。
また、現行実務上危険選択が許される医療検査・情報と、危険選択
が禁止される遺伝子検査・情報を果たして合理的に区別することがで
きるかという点も肯定的な立場から指摘されている。すなわち、(1)
で述べた通り、現行の実務では、通常の医療検査・情報については、
①既に取得された医療情報の要求、②医療検査の受検の要求及び③医
療情報の利用といった危険選択のいずれも実施・許容されている。そ
うすると、仮に遺伝子検査・情報について危険選択を禁止するのであ
れば、危険選択が禁止される遺伝子検査・情報と、危険選択が許容さ
れる医療検査・情報の差異について、理論上又は実務上合理的に区別
して取り扱うことができるかという問題が生じる。
この問題は、米国では、1990年代後半から「遺伝子例外主義(genetic
exceptionalism)
」を巡る問題として論争が繰り広げられてきた28)。遺
伝子検査や遺伝情報は特別であり、通常の医療検査や医療情報とは合
理的に区別可能であるという立場(遺伝子例外主義)に立てば、保険
者による遺伝子検査・情報に基づく危険選択は禁止されるべきとの考
え方に至りやすく、他方、区別できないという考え方に立てば、禁止
すべきでないとの考え方に至りやすい。私見は、近時の遺伝子検査の
状況なども踏まえ、基本的に後者に近い立場(遺伝子例外主義に批判
的な立場)に拠っている。もっとも、本稿では、遺伝子例外主義が妥
当か否かという二者択一的な議論を行うのではなく、そのような議論
の背景は踏まえつつも、遺伝子差別の防止や自己情報コントロール権
28)
「遺伝子例外主義」について論じた文献は多数存在するが、邦語文献として、
山本龍彦「遺伝子例外主義に関する一考察」甲斐克則編『遺伝情報と法政策』
41頁以下(成文堂、2007)
、瀬戸山晃一「遺伝子情報例外主義論争が提起する
問題」同書74頁以下などがある。
―273―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
などの危険選択の禁止の論拠等に照らした具体的な検討を行うことと
したい。
4.米国及びドイツの法制
(1) 米国(遺伝情報差別禁止法)
米国では、遺伝子差別の問題が1990年代から連邦レベルで論じられ
ており、最初の法案29)は1995年に提出された。その後も度々議会に法
案が提出されるも成立に至らず、最初の法案提出から10年以上を経て
ようやく成立したのがGenetic Information Nondiscrimination Act of
200830)(以下「遺伝情報差別禁止法」という)である。
この法律の制定趣旨として、医療保険及び雇用の場面における遺伝
情報に基づく差別を防止し、もって個人が遺伝子検査や新たな治療等
の利益を享受できるようにすることが挙げられている31)。
同法は、医療保険における遺伝子差別を禁止するTitle1と、雇用の
場面における差別を禁止するTitle2から構成されるが、以下では医療
保険に関するTitle1を中心に取り上げる。
ア.遺伝情報及び遺伝子検査の定義
「遺伝情報」は、①個人の遺伝子検査、②個人の家族に関する遺伝
子検査、又は③個人の家族32)における病気若しくは障害の徴候に関す
29)H.R. 2690 (104th): Genetic Privacy and Nondiscrimination Act of 1995.
30)Pub.L. 110-233, available at http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/PLAW-110
publ233/pdf/PLAW-110publ233.pdf.
31)Id, Section 2.
32)
「家族」は、被扶養者及びその一親等、二親等、三親等及び四親等内の親族
―274―
生命保険論集第 193 号
る情報と定義される33)。この「遺伝情報」には、遺伝カウンセリング
(遺伝情報の取得、解釈又は評価を含む)又は遺伝教育といった遺伝
サービスの要請又は利用、臨床研究への参加に関する情報が含まれる
が34)、性別や年齢に関する情報は含まれない35)。イ.に掲げる禁止行
為との関係では、妊娠した女性の胎児や生殖補助医療により合法的に
保有される胚の遺伝情報も含まれる36)。
また、
「遺伝子検査」は、遺伝子型、突然変異又は染色体変化を検出
するヒトのDNA、RNA、染色体、タンパク質又は代謝物質の分析と定義
される37)。ただし、当該分野における適切な訓練や専門性を有する医
療専門家によって合理的に発見可能な徴候が現れた病気、障害又は病
的状態と直接関連するタンパク質又は代謝物質の分析は含まれない38)。
イ.禁止行為とその例外
医療保険の保険者は、以下の行為が禁止される39)。
①
遺伝情報に基づき保険加入を制限すること
②
遺伝情報に基づき保険料又は拠出金の額を設定すること
③
遺伝情報に基づき契約成立前の事情に基づく発病を不担保とす
ること
④
個人又はその家族に遺伝子検査を受けるよう要請又は要求する
こと
をいう。
33)42 U.S.C.
34)42 U.S.C.
35)42 U.S.C.
36)42 U.S.C.
37)42 U.S.C.
38)42 U.S.C.
39)42 U.S.C.
§
§
§
§
§
§
§
300gg-91(d)(16)(A).
300gg-91(d)(16)(B).
300gg-91(d)(16)(C).
300gg-53(f).
300gg-91(d)(17)(A).
300gg-91(d)(17)(B)(ii).
300gg-53(a)(1), (b)(1), (c)(1), (d)(1), (e)(1), (2).
―275―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
⑤
危険選択を目的として(保険加入に先立って)遺伝情報を要請、
要求又は取得すること
ただし、これらの禁止行為には、以下の三つの例外が設けられてい
る。
第一に、①加入資格の設定、②保険料又は拠出金の額の設定、③契
約成立前の事情に基づく発病の不担保及び⑤遺伝情報の要請、要求又
は取得の禁止は、保険証券の対象となる個人又はその家族の病気又は
障害の徴候に基づく場合には、適用されない40)。
第二に、④遺伝子検査の要請又は要求の禁止の適用が除外される場
合として、(i) 当該個人に医療サービスを提供する医療専門家が遺伝
子検査を要請する場合(医療専門家の例外)
、(ii) 保険金の支払いに
関する決定のために必要最小限の範囲で遺伝子検査の結果を取得・利
用する場合(保険金支払いの例外)、(iii) 研究目的で一定の要件41)
を満たす場合(研究目的の例外)が挙げられる42)。
第三に、⑤遺伝情報の要請、要求又は取得の制限は、他の情報の要
請、要求又は取得に伴って付随的に遺伝情報を取得する場合には、適
用されない(付随的取得の例外)43)。
ウ.州法との比較
州法レベルでは、遺伝情報差別禁止法が成立する以前から多くの州
が様々な法律を制定しており、現在でも、ミシシッピ州、ペンシルベ
ニア州及びワシントン州を除き、各州が遺伝子検査と保険に関する独
40)42 U.S.C. § 300gg-53(a)(2), (b)(2), (c)(2).
41)要請が任意に基づくものであること、要請に応じなかったとしても保険加
入の資格や保険料又は拠出金の額に影響を及ぼさないこと、遺伝子検査の情
報は危険選択に用いることができないこと等が要件として挙げられている。
42)42 U.S.C. § 300gg-53(d)(2), (3), (4).
43)42 U.S.C. § 300gg-53(e)(3).
―276―
生命保険論集第 193 号
自の規律を設けている。ただし、これらの州法は必ずしも遺伝情報差
別禁止法と一致するものではない。
例えば、規制の対象について、比較的多くの州は、遺伝情報差別禁
止法と同様に医療保険を規制の対象としているが、他の保険(生命保
険や就業不能保険等)まで規制の対象に含める州もある44)。
また、禁止行為についても、全ての州が遺伝情報差別禁止法に列挙
された5類型の行為を禁止するものではない一方で、遺伝情報差別禁
止法にはない規律を別途設ける州もある。例えば、遺伝情報を危険選
択に用いる場合には、遺伝情報が予想される保険金請求と合理的に関
連していることや健全な保険数理に基づいていることを要件として求
める州がある45)。
これらの州法と遺伝情報差別禁止法の関係は、連邦法(遺伝情報差
別禁止法)が国レベルでの最低限の基準を定める一方、州法がそれを
上回る規律を設けることは妨げられないと解されている46)。
(2) ドイツ(遺伝子診断法)
ドイツでは、1980年代後半から遺伝子分析と保険との関係に関する
議論が開始され、2002年にドイツ連邦議会に設置された「現代医療の
法と倫理」審議会での議論等を経て、2009年にGesetz über genetische
Untersuchungen bei Menschen (Gendiagnostikgesetz - GenDG)(以下
44)アリゾナ州、カリフォルニア州、コロラド州、ケンタッキー州、メイン州、
マサチューセッツ州、ミネソタ州、ニュージャージー州、オレゴン州、バー
モント州など。
45)アリゾナ州、メイン州、メリーランド州、マサチューセッツ州、ニュージ
ャージー州、ニューメキシコ州。
46)Louise Slaughter, Genetic Information Non-Discrimination Act, 50 Harv.
J. on Legis. 41, 58 (2013).
―277―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
「遺伝子診断法」という)が成立した47)。
この法律の目的としては、遺伝子検査とその枠内で実施される遺伝
子分析の要件及び遺伝子資料と情報の利用に関して規定し、特に人間
の尊厳と自己情報コントロール権の尊重と保護を国に義務づけ、遺伝
的特性に基づく不利益取扱いを防止することが挙げられている48)。
同法は、第1章(総則)
、第2章(医療目的の遺伝子検査)
、第3章
(血縁関係の確定のための遺伝子検査)
、第4章(保険の領域における
遺伝子検査)
、第5章(労働関係における遺伝子検査)
、第6章(一般
的に認められた科学技術の基準)
、第7章(罰則)及び第8章(附則)
から構成される。以下では、このうち、第1章(総則)及び第4章(保
険の領域における遺伝子検査)を中心に紹介する。
ア.遺伝子検査の定義
「遺伝子検査」とは、遺伝的特性49)の解明のための(i)遺伝子分析又
は(ii) 出生前のリスク評価に向けた検査をいい、
それぞれの結果の評
価を含む50)。
(i) 遺伝子分析とは、①染色体の数及び構造の分析(細胞遺伝学的
分析)
、②デオキシリボ核酸(DNA)又はリボ核酸(RNA)の分子構造の
分析(分子遺伝学的分析)又は③核酸の生成物分析(遺伝子産物分析)
47)清水・前掲注6)では、遺伝子診断法の立法経緯、条文の日本語訳及び論
点等が詳細にまとめられている。また、遺伝子診断法の英文訳については、
The European Society of Human GeneticsのWEBサイト(https://www.eshg.
org/fileadmin/www.eshg.org/documents/Europe/LegalWS/Germany_GenDG_La
w_German_English.pdf)を参照。以下で引用する遺伝子診断法の条文は、こ
れらの日本語訳及び英文訳に基づいている。
48)遺伝子診断法1条。
49)
「遺伝的特性」とは、受精により遺伝されるヒトの遺伝情報その他出生前に
取得されるヒトの遺伝情報をいう(遺伝子診断法3条4項)
。
50)遺伝子診断法3条1項。
―278―
生命保険論集第 193 号
などの遺伝的特性の解明に向けた分析をいう51)。
(ii) 出生前のリスク評価とは、
胚又は胎児の病気や健康障害を特定
するために意味を持つ一定の遺伝的特性の存在の可能性を解明する目
的で行われる胚又は胎児の検査をいう52)。
イ.禁止行為とその例外
保険者は、保険契約の締結の前後にかかわらず、被保険者との関係
で、以下の行為が禁止される53)。
① 遺伝子検査又は遺伝子分析の実施の要求
② 既に行われた遺伝子検査又は遺伝子分析で得られた結果や情報
の要求、受領又は利用
ただし、②の行為の禁止は、生命保険、就業不能保険及び年金保険
については、給付額が30万ユーロを超えるか、又は年金額が年額3万
ユーロを超える場合には、適用されない。
また、このような禁止にかかわらず、保険契約法に規定される告知
義務が適用される限りにおいては、保険者は顧客に対して現在又は過
去の病気の告知を求めることができる54)。
(3) 米国法とドイツ法の比較
米国の遺伝情報差別禁止法及びドイツの遺伝子診断法は、いずれも
一定の範囲において①既に取得された遺伝情報の要求、要請、取得又
は受領(以下総称して「既に取得された遺伝情報の要求」という)
、②
51)遺伝子診断法3条2項。
52)遺伝子診断法3条3項。
53)遺伝子診断法18条1項。
54)遺伝子診断法18条2項。
―279―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
遺伝子検査の受検の要求又は要請(以下総称して「遺伝子検査の受検
の要求」という)及び③遺伝情報の利用(遺伝情報に基づく保険加入
の制限や保険料等の設定)を禁止する点で概ね共通している。その一
方で、以下のような相違点も認められる。
ア.禁止の論拠
米国の遺伝情報差別禁止法は、その制定趣旨として、遺伝情報に基
づく差別防止と、その結果として個人が遺伝子検査や新たな治療等の
利益を享受できるようにすることを掲げている。
これに対して、ドイツの遺伝子診断法では、その目的として、遺伝
的特性に基づく不利益取扱いの防止に加え、人間の尊厳と自己情報コ
ントロール権の尊重・保護が掲げられている。
イ.遺伝情報の範囲
米国の遺伝情報差別禁止法では、要求及び利用が禁止される「遺伝
情報」の範囲には、家族における病気又は障害の徴候に関する情報が
含まれている。従って、例えば遺伝子検査とは無関係に得られた家族
の病歴(家族歴)についても、その要求が禁止されることになる。
これに対して、ドイツの遺伝子診断法では、要求及び利用の禁止の
対象は、
「既に行われた遺伝子検査又は遺伝子分析で得られた結果や情
報」に限定されている。そのため、家族歴はそれ自体で(遺伝子検査
とは無関係に)要求又は利用が禁止される情報には該当しない。
この点は政策判断の違いによるものと考えられるが、前述の通り、
米国の遺伝情報差別禁止法においては、遺伝子差別の防止が法律上前
面に打ち出されており、その観点からは、遺伝子検査を通じて判明し
た遺伝情報に限らず、家族から受け継いだ遺伝的要因そのものに基づ
―280―
生命保険論集第 193 号
く差別も禁止するという方向に至りやすかったのではないかと思われ
る。
ウ.禁止行為
両制度の間には、禁止行為が及ぶ保険の種別に差異が認められる。
まず、米国の遺伝情報差別禁止法では、①既に取得された遺伝情報
の要求、②遺伝子検査の受検の要求、③遺伝情報の利用の禁止の対象
は、いずれも医療保険に限られている。従って医療保険以外の保険(例
えば、生命保険や就業不能保険等)については、これらの行為は一切
禁止されないことになる。
これに対して、ドイツの遺伝子診断法では、②遺伝子検査の受検の
要求と、①既に取得された遺伝情報の要求及び③遺伝情報の利用との
間で、その禁止の対象となる保険の範囲が異なっている。すなわち、
②遺伝子検査の受検の要求は、全ての保険に関して例外なく禁止され
ているのに対して、①既に取得された遺伝情報の要求及び③遺伝情報
の利用については、給付額が30万ユーロを超えるか又は年金額が年額
3万ユーロを超える生命保険、就業不能保険及び年金保険について、
その禁止が解除されている。
なお、米国の州法レベルでは、遺伝情報差別禁止法と同様に保険の
種別に応じて規制に差異を設けない州が多いが、ドイツの遺伝子診断
法のように保険の種別に応じて規制に差異を設ける州もある55)。
55)例えば、コロラド州では、①遺伝子検査の要求は、全ての保険に関して禁
止されているのに対して、②遺伝情報の要求や利用等は、医療保険及びメデ
ィケア補足保険に限って禁止されている。COLO. REV. STAT. ANN §10-2-11
04.6(3)(c)(I).
―281―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
図4 禁止の対象となる保険の種別
禁止行為
米国:
遺伝情報差別禁止法
ドイツ:
遺伝子診断法
②遺伝子検査
の受検の要求
医療保険
①既に取得された遺伝情報の要求
③遺伝情報の利用
全ての保険
z
z
生命保険、就業不能保険、年金
保険以外の保険(医療保険等)
生命保険、就業不能保険、年金
保険のうち、給付額が30万ユー
ロを超えず、かつ、年金額が年
額3万ユーロを超えないもの
エ.禁止の例外
①既に取得された遺伝情報の要求や③遺伝情報の利用が禁止される
場合であっても、現在又は過去に既に発病した疾病に関する情報につ
いては、その要求・利用は禁止されない点(米国の遺伝情報差別禁止
法)
、
顧客において保険者に対する現在又は過去の病気の告知義務が認
められる点(ドイツの遺伝子診断法)では、両制度は類似している。
この点は、現在又は過去の疾病(病気)に関する情報(医療情報)の
要求・利用は、現行の危険選択の実務において既に行われていること
であり、そのような現行実務を変更しないのであれば、当然の帰結で
あるともいえる。
もっとも、このような禁止の例外に加えて、米国の遺伝情報差別禁
止法では、前述の通り、医療専門家・保険金支払い・研究目的の例外
や付随的取得の例外も設けられている。
―282―
生命保険論集第 193 号
5.政策的な観点からの検討
本項では、米国の遺伝情報差別禁止法やドイツの遺伝子診断法のよ
うに、遺伝子検査・情報に基づく保険者の危険選択(①既に取得され
た遺伝情報の要求、②遺伝子検査の受検の要求、③遺伝情報の利用)
を禁止すべきか否かについて、主として政策的な観点から検討を行う
(我が国の現行法上の枠組みについては、6.参照)
。
具体的には、(1) 遺伝子検査・情報に基づく危険選択の禁止の論拠
は現行の医療検査・情報に係る取扱いとの比較において正当化される
か、(2) 仮に正当な禁止の論拠が認められるとしても、保険者の危険
選択を禁止することは逆選択等の弊害を招かないか、(3) 仮に遺伝子
検査・情報に基づく危険選択が禁止される場合、危険選択が許容され
る医療情報と危険選択が禁止される遺伝情報を実務上区別して取り扱
うことができるかという問題について、順に検討することとしたい。
(1) 遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止する論拠は、医療検
査・情報に係る現行の取扱いとの比較において正当化できるか
保険者による遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止する論拠に
ついては様々な考え方があるが56)、本稿では、ア.遺伝子差別の防止、
イ.遺伝情報の利用の促進、ウ.自己情報コントロール権の保護、及び
エ.基礎的保険論の4点に分類する。以下では、各論拠の概要を明らか
にした上で、それらが現行の医療検査・情報に係る取扱いとの比較に
56)例えば、Mark A. Rothstein, Is GINA Worth The Wait?, 36 J.L. Med. & Ethics
174-176 (2008)では、遺伝情報の利用に係る4つの懸念として、①遺伝情報
についてのプライバシーが侵害されること、②遺伝子検査が求められれば本
人が知りたくない健康リスクに直面してしまうこと、③遺伝情報の重要性が
誤解されて保険等の加入資格を奪われてしまうこと、④その他重要と考えら
れる権利へのアクセスが遮断されてしまうことが挙げられている。
―283―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
おいて正当化できるかどうかの検証を行う。
ア.遺伝子差別の防止
遺伝子差別の防止は、米国の遺伝情報差別禁止法の目的において明
示的に掲げられているものである。また、ドイツの遺伝子診断法の目
的でも、遺伝的特性に基づく不利益取扱いの防止が挙げられている。
遺伝子差別が許されないとする論拠として、①本人に責任のない遺
伝子に基づき保険の引受けが謝絶されたり保険料が引き上げられたり
することは不当である、②(特に糖尿病や心臓病、がんといった多因
子疾患について)遺伝子が将来の疾病を確実に引き起こすものでない
にもかかわらず、そのような遺伝子に基づく異なる取扱いが許される
べきではないといった主張がなされている57)。
しかし、このような①本人に責任のない事由や②疾病を確実には引
き起こさない事由に基づく危険選択は、現行の医療検査・情報に基づ
く危険選択の実務において既に実施されていることであり、遺伝子検
査・情報に限って特別に問題となるものではない。
まず、現行の実務において、被保険者の病歴に基づく危険選択が行
われているが、それらの病歴の全てが①本人に責任のある事由とはい
えない。例えば、アスベストといった環境が主たる原因でがんに罹患
する場合もあるが、その原因の全てを本人に帰責することは困難であ
る58)。しかし、そのように過去にがんに罹患したことのある顧客が保
57)清水・前掲注6)4-6頁参照。
58)もちろん、例えば、たばこのような生活習慣が招いたがんについては、本
人の責任に帰すべき事由も含まれ得るが、その場合であっても、がんの全て
の原因が本人の責任であることは稀であろうし、そもそもある疾病について
それが本人の責任であるか、本人に責任のない環境や遺伝子によるものかの
厳密な区別を行うことは困難である。 See Thomas H. Murray, Genetic
Exceptionalism and “Future Diaries”: Is Genetic Information Different
―284―
生命保険論集第 193 号
険加入を申し込んだ際、当該病歴に基づき保険料が通常より引き上げ
られたからといって、本人の責任のない事由に基づく不当な差別であ
るとは、少なくとも現行実務では考えられていない。これと同様に、
遺伝情報に基づく危険選択についても、たとえ遺伝情報が本人に責任
のない事由であったとしても、そのことを以って直ちに危険選択が不
当な差別であると評価することは困難であると思われる59)。
また、過去にがんに罹患したという病歴は、将来のがんの再発リス
クを高めるものであったとしても、②将来の発病を確実に引き起こす
ものではない。しかし、そうであるからといって、そのような病歴を
危険選択に用いるべきではないとの主張もやはり存在しない。これと
同様に、
遺伝情報が将来の疾病を確実に引き起こさないからといって、
危険選択に用いるべきではないとの主張も成り立たない。むしろ、保
険の本質は将来の偶然の事故に対する備えである以上、その危険選択
の前提となる事由が将来の保険事故(疾病)の発生を確実に引き起こ
さないことは当然であり60)、そのことを以って直ちに危険選択が否定
されるものではない。
このような現行の実務における医療検査・情報に係る取扱いとの比
較の観点からは、遺伝子差別の防止を遺伝子検査・情報に基づく危険
from Other Medical Information?, in Genetic Secrets: Protecting Privacy
and Confidentiality in the Genetic Era 69 (Mark A. Rothstein ed., 1997).
59)なお、現行の実務においても、例えば人種や民族に基づく危険選択は不当
な差別として許容されないと解される。これは、本人に責任のない事項に基
づく危険選択だからではなく、そもそも人種や民族を定義する生物学的根拠
が希薄であり(フランシス(矢野訳)
・前掲注11)190-191頁)
、そのような事
由に基づく危険選択はそもそも保険数理上合理的な危険選択とは評価できな
いからであると説明することも可能である。
60)この観点からは、将来の保険事故(疾病等)を確実に予測する遺伝情報が
既に判明している場合には、そもそも保険は成立しないことになる。将来的
に確実に疾病引き起こす単一遺伝子病(ハンチントン病等)の遺伝的要素が
既に判明している場合には、保険成立の要件とされる偶然性がなく、民間保
険は成立し得ないとするものとして、宮地・前掲注4)111-112頁参照。
―285―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
選択の禁止の論拠とすることは容易でないと思われる。
イ.遺伝情報の利用の促進
米国の遺伝情報差別禁止法では、個人が遺伝子検査や新たな治療等
の利益を享受できるようにすること(遺伝情報の利用の促進)も、そ
の目的として掲げられている。具体的には、例えば、医療保険におい
て遺伝情報に基づく異なる取扱い(保険の加入制限や保険料の引上げ
等)がなされれば、人々はそのような取扱いを受ける不安から遺伝子
検査を受け控えるようになり、ひいては遺伝子検査による疾病リスク
の早期発見といった恩恵を受けられなくなるおそれが指摘されてい
る61)。
しかし、このような懸念も、現行の医療検査・情報に基づく危険選
択でも同様に生じ得るものであり、遺伝子検査・情報に限って特別に
問題となるものではない。
例えば、現行実務上、がんの罹患歴は危険選択において当然考慮さ
れている。このような結果を懸念してがん検査を受け控える者がいか
ほど存在するかは不明であるが、仮に存在したとしても、
「がん検査を
促進するために、保険者ががん検査の結果を危険選択に利用すること
は禁止すべきである」と主張する者は皆無であろう。これと同様に、
仮に保険加入の制限をおそれて遺伝子検査を受け控える者が生じ得る
としても、そのことを以て直ちに保険者による遺伝子検査・情報に基
づく危険選択が禁止されるべきという主張は成り立たないと思われる。
61)See Amanda K. Sarata & James V. DeBergh, Congressional Research Service
Report for Congress,
No. RL34584, The Genetic Information
Nondiscrimination. Act of 2008 (GINA) 3 (Dec 19, 2011),available at
http://www.law.umaryland.edu/marshall/crsreports/crsdocuments/RL3458
4_12192011.pdf.
―286―
生命保険論集第 193 号
ウ.自己情報コントロール権の保護
自己情報コントロール権の保護については、ドイツの遺伝子診断法
の目的で掲げられているものであり、その立法解説によれば、ア.検
査等で得られた遺伝情報に関する自己決定権と、イ.自己の遺伝情報
を知らないでいる権利の両者を包摂するものとされている62)。
前述の保険者の危険選択との関係では、ア.遺伝情報に関する決定
権は、保険者が①顧客が既に取得した遺伝情報を要求し、又は③遺伝
情報を利用することを禁止する論拠に、イ.自己の遺伝情報を知らな
いでいる権利は、保険者が顧客に対して②遺伝子検査の受検を求める
ことを禁止する論拠になると分析的に考えることができる。後者につ
いては、保険者が顧客に対して遺伝子検査の受検を求めた場合、顧客
は、その意に反して、自己の遺伝情報を知ってしまう可能性があるた
めである。
以下、両者を分けて検討する。
(ア)遺伝情報に関する決定権
遺伝情報は、究極の個人情報として、その尊重及び保護に値すべき
ことは当然である。しかし、これまで繰り返し述べてきた通り、現行
の実務においても、保険者はその危険選択のために、同じく個人情報
として高度の保護に値する被保険者の現在の健康状態や過去の病歴に
関する情報(医療情報)を要求し、利用することが認められている。
そのため、仮に保険者による遺伝情報の要求や利用を禁止するのであ
れば、医療情報の要保護性と遺伝情報の要保護性との間に質的な差異
62)清水・前掲注6)47頁-48頁。
―287―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
(後者の方が要保護性が高いこと)が認められなければならない。
確かに、遺伝情報は、①特定の遺伝子を保有しているという者に負
の烙印(スティグマ)を与え、社会的に不利に取り扱われるといった
事態を生じさせる点や、②その情報が本人のみならずその家族に関す
る情報をも明らかにし得る(その結果家族もスティグマの対象となる
おそれがある)点において63)、高度にセンシティブな情報であること
に疑いはない。
しかし、この点は、同じく高度にセンシティブな医療情報との比較
においては、両者に質的な差異があるというよりは、むしろ程度問題
としての側面の方が大きいように思われる。例えば、HIVに感染してい
るという医療情報は、仮に公表等された場合には①本人に社会的なス
ティグマを生じさせるおそれがある上に、②その配偶者等の家族にも
大きな影響を与え得るものであり、遺伝情報と比較しても、そのセン
シティブ性に劣ると評価することは困難である64)。
そのため、遺伝情報に関する決定権は、遺伝情報の厳格な情報管理
を求める理由にはなるものの、保険者による遺伝情報に基づく危険選
択を禁止する直接的な論拠とすることは難しいと思われる。
(イ)自己の遺伝情報を知らないでいる権利
ドイツの遺伝子診断法の立法解説では、自己の遺伝情報を知らない
でいる権利の根拠として、自己の遺伝子の疾病素因について知ること
は「被検査者の精神状態と生きるうえでの判断に相当な影響を与えう
る」と述べられている65)。米国でも、遺伝情報差別禁止法の立法趣旨
には挙げられていないものの、遺伝情報が本人に開示されれば、個人
63)山本・前掲注28)54-56頁以下参照。
64)See Murray, supra note 58 at 65.
65)清水・前掲注6)48頁。
―288―
生命保険論集第 193 号
の自己認識に影響を及ぼし、人格危機を引き起こすおそれがあるとの
指摘がある66)。
例えば、保険加入をしようとしたところ、保険会社から遺伝子検査
を求められて受検した結果、アルツハイマー病のリスクを高める遺伝
子が発見され、精神的ショックを受けて自己の将来を悲観するように
なるといった事態は容易に想像することができよう。
しかし、この点も、やはり医療検査との線引きが問題となる。現行
の実務においても、保険者の求めに応じて尿検査・心電図検査・血液
検査等の医療検査が実施されており、遺伝子検査とこのような医療検
査を区別することが合理的に可能かという問題である。
そもそも、疾病又は疾病リスクを明らかにする医療情報や遺伝情報
が個人の人格にどの程度の影響を与えるか否かは、主観的な問題であ
ることから、客観的な基準を定めることは容易ではない。しかし、敢
えて求めるとすれば、①当該情報が疾病につながる確実性、②当該疾
病の深刻性、及び③予防措置の介入法の有無といった考慮要素を挙げ
ることができる67)。例えば、①当該情報が疾病の発症につながる確度
が高いほど、②当該疾病が深刻であるほど、③当該疾病を予防する措
置が少ないほど、当該情報を知った個人の精神状態や人格にショック
を与えやすいと一応いうことができる。
このような考え方に拠った場合、遺伝子検査の結果であることを以
て直ちに、医療検査とは異なる質の(比較にならないほど大きな)精
神的ショックを生じさせるとは必ずしもいえないことが明らかとなる。
むしろ、がんや糖尿病、アルツハイマー病のような多因子性疾患に係
る遺伝子検査については、特定の遺伝子が確実に疾病を引き起こすも
のではない、すなわち①当該情報が疾病の発症につながる確度が必ず
66)Sonia M. Suter, Whose Genes Are These Anyway?: Familial Conflicts over
Access to Genetic Information, 91 MICH. L. REV. 1854, 1893 (1993).
67)フランシス(矢野訳)
・前掲注11)110-119頁参照。
―289―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
しも高くないという点は、精神的ショックの軽減要素として働き得る
ものである。
また、米国では、保険者が医療検査としてHIVの抗体検査を加入者に
求めることを認める州があるが68)、当該検査によりHIVの感染が判明す
ることによる精神的ショックは、遺伝子検査によって、例えば単一遺
伝子疾患であるハンティントン病を引き起こす遺伝子変異が判明する
ことによる精神的ショックに勝るとも劣らないとの指摘がある69)。ハ
ンティントン病は完治が困難な重大な遺伝病と評価されるものである
が、一般的にはより深刻度が低いと考えられる、例えば、遺伝子検査
によりがんや糖尿病(多因子疾患)の易罹患性が判明した場合と比較
した場合にはなおさらであろう。
従って、自己の遺伝情報を知らないでいる権利を遺伝子検査の受検
要求の禁止の論拠とすることも、医療検査の受検要求が認められてい
る現行実務との比較の観点からは、容易でないと思われる。
エ.基礎的保険論
(ア)基礎的保険とは何か
基礎的保険(basic insurance)とは、ヨーロッパ人類遺伝学会が2000
年に発表した勧告で提唱されている考え方であり、基礎的と評価され
る保険においては、保険者による遺伝情報の利用が制限され、顧客は
68)See Health Ins. Ass'n of Am. v. Corcoran, 154 A.D.2d 61 (1990) aff'd,
76 N.Y.2d 995 (1990), Life Insurance Association of Massachusetts v.
Commissioner of Insurance, 403 Mass. 410 (1988).
69)ハンティントン病の検査とHIVの検査は、検査が極めて正確である点や診断
当時は具体的症状を示さない点等において類似している旨論ずるものとして、
See Brian R. Gin, Genetic Discrimination: Huntington's Disease and the
Americans with Disabilities Act, 97 COLUM. L. REV. 1406, 1423 (1997).
―290―
生命保険論集第 193 号
同一の保険料を支払うことで遺伝的不利を互いに補い合うことができ
るとするものである70)。何が基礎的保険に該当するかは、各国におけ
る社会的政治的な議論を経るものとされているが、公的保険のみなら
ず民間保険も含み得るとされている71)。
このような基礎的保険の定義は抽象的で難解であるが、
その要点は、
公的保険と私保険との中間に位置づけられる保険を作り出すものと理
解することができる。
すなわち、3.(1)で述べた通り、典型的な私保険と公的保険(例え
ば健康保険)の違いとして、私保険においては、①保険者に危険選択
が許される一方、②加入は任意であるのに対して、公的保険において
は、①危険選択は行われない一方、②強制加入であるという点を挙げ
ることができる。基礎的保険論は、このような私保険と公的保険の関
係を修正し、私保険であっても、基礎的保険と認定されるものについ
ては、公的保険と同様に保険者による危険選択を制限し、遺伝的不利
にかかわらず平等に保険に加入する機会を提供するものと一応理解す
ることができる。
図5 基礎的保険論の位置づけ
公的保険
私保険
基礎的保険論により修
正された私保険
危険選択
強制加入
×
○
○
×
(※)遺伝情報に基づく危険
選択が禁止される。
×
×
70)Genetic information and testing in insurance and employment: techn
ical, social and ethical issues, Recommendations of the European Soc
iety of Human Genetics, European Journal of Human Genetics (2003) 11,
Suppl 2, S11–S12, available at http://www.nature.com/ejhg/journal/v
11/n2s/full/5201116a.html.
71)Id.
―291―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
(イ)米国の遺伝情報差別禁止法及びドイツの遺伝子診断法の隠
れた立法趣旨
米国の遺伝情報差別禁止法やドイツの遺伝子診断法のいずれの立法
趣旨においても、上記のような基礎的保険の考え方は明示されていな
い。しかし、以下の理由から、両者は実質的には基礎的保険に近い考
え方をその背景に持っていると評価する余地がある。
すなわち、前記4.(3)ウで述べた通り、米国の遺伝情報差別禁止法
では、①顧客が既に取得した遺伝情報の要求、②遺伝子検査の受検の
要求及び③遺伝情報の利用の禁止の対象は、いずれも医療保険に限定
されている。また、ドイツの遺伝子診断法でも、②遺伝子検査の受検
の要求は全ての保険に関して例外なく禁止されているものの、①顧客
が既に取得した遺伝情報の要求及び、③遺伝情報の利用の禁止は、一
定の保険(医療保険や給付額が一定額以下の生命保険等)に限定され
ている。
このような禁止対象となる保険の種別の制限は、米国の遺伝情報差
別禁止法やドイツの遺伝子診断法の目的で明示されている、
ア.遺伝子
差別の防止、イ.遺伝情報の利用の促進、又はウ.人格の尊厳と自己情
報コントロール権の保護といった論拠だけでは、合理的に説明するこ
とは困難である。これらの論拠は、保険の種別や金額にかかわらず(た
とえ高額の生命保険等であっても)妥当するためである72)。
72)現に、ドイツ国内においては、遺伝子診断法の立法過程において、なぜ高
額の生命保険や就業不能保険等に対して禁止が及ばないのかといった批判が
なされていた(清水・前掲注6)174-175頁)
。また、米国の遺伝情報差別禁
止法の立法過程においても、何故その禁止が医療保険に限定されるのかにつ
いての明確な理由は明らかにされていない。この点については、生命保険業
界等の強力なロビー活動によるものであるという説明もあるが、いずれにし
ても合理的な理由とは評価できない。 See Brianna Kostecka, GINA Will
―292―
生命保険論集第 193 号
そこで、このような禁止対象の制限を合理的に説明するために、保
険の種別や金額に応じた社会的な役割の違いが指摘されている。
例えば、米国では、医療保険は、医師の訪問や病院などの日常的な
医療に伴って直ちに生じる費用を補償するのに対して、生命保険は、
将来の被保険者の死亡に伴って受益者に金銭を交付する点では将来の
ファイナンシャルプランニングの手段と評価することができ、医療保
険の方が生命保険より遺伝子差別を禁ずる必要性が高いとの指摘があ
る73)。また、米国ではかつて国民皆保険が存在しなかったところ74)、
民間の医療保険に加入できないということは、事実上医療を受けられ
ないことにつながるので、私保険であっても医療保険については遺伝
情報に基づく加入制限が回避されなければならなかったとの指摘もあ
る75)。
一方、ドイツでは、米国と異なり(医療保険のみならず)一定金額
以下の生命保険も危険選択の禁止の対象に含められている点について、
ヨーロッパでは生命保険も医療保険と同様に一定の限度で(保険金額
が一定金額以下のものであれば)基本的な社会経済的な権利と考えら
れているためであるとの説明がなされている76)。
これらの説明は各国における私保険制度の位置づけや政策に関わる
Protect You, Just Not from Death: The Genetic Information
Nondiscrimination Act and Its Failure to Include Life Insurance within
Its Protections, 34 Seton Hall Legis. J. 93, 107 (2009).
73)Christopher M. Keefer, Bridging the Gap Between Life Insurer and
Consumer in the Genetic Testing Era: TheRF Proposal, 74 Ind.L.J. 1375,
1383-1384, 1392.
74)この点は、2010年に成立した患者保護並びに医療費負担適正化法(Patient
Protection and Affordable Care Act)
(通称オバマケア)によって一部変更
されたと評価する余地がある。
75)清水・前掲注6)139-140頁。
76 ) Mahati Guttikonda, Addressing the Emergent Dilemma of Genetic
Discrimination in Underwriting Life Insurance, 8 N.Y.U. J. Legis. & Pub.
Pol'y 457, 468 (2005).
―293―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
問題であり、本稿ではその当否の詳細には立ち入らない77)。しかし、
いずれの説明にも共通するのは、私保険のうち一部の保険に特別な社
会的役割を認め、当該保険に限っては、保険者による遺伝情報に基づ
く危険選択を制限する点である。このような説明は、私保険制度の中
に公的保険に類似した役割を持つ保険(基礎的保険)を認め、そのよ
うな保険について危険選択の制限を正当化する基礎的保険論に近いも
のと評価することができよう。
(ウ)医療検査・情報に関する取扱いとの公平性の問題
それでは、このような基礎的保険論により、遺伝子検査・情報に基
づく危険選択の禁止を正当化することができるか。
この点については、基礎的保険が公的保険のように社会で連帯して
リスクを相互に負担し合う保険であることを論拠とするのであれば、
なぜ遺伝子検査・情報のみが特別扱いされるのか、医療検査・情報に
関する取扱いとの間で不公平が生じるのではないかという問題が提起
されている78)。
例えば、米国の遺伝情報差別禁止法のように、医療保険を基礎的保
険ととらえ、医療保険に限っては保険者による遺伝子検査・情報に基
づく危険選択を禁止したとする。この場合、たとえAさんが遺伝子検
査を受けて将来がんになるリスクが高いことが判明したとしても、少
なくとも医療保険に関しては、保険会社は当該遺伝子検査の結果を以
て保険の引受けを謝絶したり保険料を引き上げたりすることはできな
いことになる。一方、過去にがんに罹患しているBさんについてはど
77)遺伝子検査に関して公的保険と民間保険の役割分担を論じるものとして、
宮地・前掲注4)120頁以下参照。
78)Murray, supra note 58 at 69. この問題は、瀬戸山・前掲脚注28)におい
て、道徳的公平性の問題として分析されている。
―294―
生命保険論集第 193 号
うか。Bさんについては、遺伝情報に基づく危険選択ではなく、現行
の医療上に基づく危険選択のルールに従うから、保険会社はがんの罹
患という過去の病歴に基づき医療保険の引受けの謝絶や保険料の引き
上げを行い得ることになる。
この点、未だがんに発症していなければ保護され、既にがんを罹患
していると保護されないとするのは、均衡を失するのではないかとい
う批判がなされている。基礎的保険を社会全体でリスクを負担する保
険と整理し、がん発病リスクの高い遺伝子の保因者であるAさんを保
護するのであれば、過去のがんの罹患歴によって将来の再発リスクが
高まっているBさんも同様に保護するのが論理的であるとも思われる
が、それは現行の危険選択の実務の否定であるし、基礎的保険論の考
え方が現行の危険選択実務の変更まで求めているとも思えない。
このようなことから、米国では、遺伝情報に基づく危険選択の制限
は、遺伝子差別を禁止するどころか、かえって遺伝子検査を受ける経
済的余裕を有する者を不当に優遇して取り扱うことにつながり、その
ような検査を受ける余裕のない低所得者との格差を拡大するとの指摘
さえある79)。
このような点を踏まえると、基礎的保険論についても、遺伝情報に
基づく危険選択を禁止する直接的な論拠として位置づけることは容易
でないと思われる。
(2) 遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止することは逆選択等
の弊害を招かないか
(1)で述べた通り、遺伝子検査・情報に基づく禁止について正当な論
79)Sonia M. Suter, The Allure and Peril of Genetics Exceptionalism: Do
We Need Special Genetics Legislation?, 79 Wash. U. L. Q. 669, 719-721
(2001).
―295―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
拠を見出すのは容易でないが、
仮に正当な論拠が認められたとしても、
遺伝子検査・情報に基づく危険選択を禁止することは、逆選択等の弊
害を招かないかが問題となる。
以下では、①既に取得された遺伝情報の要求及び③遺伝情報の利用
の禁止と、②遺伝子検査の受検の要求の禁止に分けて検討する。後述
する通り、逆選択等の弊害を招くおそれについて、両者の間には質的
な差異が認められるためである。
ア.①既に取得された遺伝情報の要求及び③遺伝情報の利用の禁
止について
(ア)顧客が既に取得した遺伝情報の要求及び利用を禁止すれば、
逆選択等弊害を招くおそれがある
3.(1)で述べた通り、危険選択は、私保険制度の一つの原則である
「給付反対給付均等原則」
(個々の保険契約者から拠出される保険料は、
当該保険契約者のリスクの程度に応じて決定されるという原則)に基
づいており、これを行わなかった場合には、保険契約者等の公平感が
害されたり、逆選択が生じたりするおそれがある。そして、この原則
は、現行の医療情報に基づく危険選択のみならず、遺伝情報に基づく
危険選択についても同様に妥当する。この点は、以下のような例を考
えれば、容易に理解することができる80)。
例えば、Xさんは、自ら遺伝子検査を受けたところ、将来アルツハ
イマー病になるリスクを高める遺伝子の保因者であることが判明し、
将来に備えて介護保険の加入を保険会社に申し込んだとする。また、
同じ保険には遺伝子検査を受けずに加入しようとするYさんがいたと
80)佐々木・前掲注4)278-279頁参照。
―296―
生命保険論集第 193 号
する。
仮に顧客が既に取得した遺伝情報の要求や利用が禁止されるとす
ると、保険会社は、Xさんに対して当該遺伝子検査の結果の開示を求
めることができず、Xさんがアルツハイマー病に罹患するリスクが高
いことを考慮してXさんの保険の引受けを謝絶したり、保険料を引き
上げたりすることもできなくなる。しかし、遺伝子検査により自己が
がんになるリスクが高いことを知っているXさんと、遺伝子検査を受
けておらずそのようなリスクの有無を知らないYさんを同じ条件で取
り扱うことは、YさんがXさんのリスクを実質的に負担することにつ
ながるから、Yさんの公平感を害するおそれがある。
加えて、Xさんのような顧客は、自己のリスクが高いことを知って
いるため、より多くの(多額の)保険に加入するインセンティブが働
く一方、逆に、遺伝子検査を受けていないYさんのような顧客はXさ
んのような顧客のリスクを負担することをおそれて、逆に保険加入を
控えるインセンティブが働く。そうすると、Xさんのようなリスクの
高い顧客ばかりが保険プールに残ってしまうことになるが、保険会社
はそのようなリスクに応じて保険料を設定できないから、想定を超え
る保険金請求の増加を招き、ひいては保険制度の破綻につながるおそ
れもある。
なお、このような逆選択等の弊害のおそれは、(1)で述べた遺伝情
報に基づく危険選択を禁止するいずれの論拠を以ってしても解消され
ない。逆選択等の弊害は、遺伝情報に基づく危険選択を禁止すること
自体から生じる問題であり、当該禁止の論拠(目的)に左右されない
ためである。
(イ)現実的にどの程度の逆選択等のおそれが発生するかについ
ては、さらなる実証分析が求められる
―297―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
(ア)で述べた通り、少なくとも理論上は、顧客が既に取得した遺
伝情報の要求や利用を禁止すれば、逆選択等の弊害を招くおそれが否
定できない。ただし、この点は、顧客の行動(自らの遺伝情報を知る
ことが保険加入行動にどの程度影響を与えるか)や保険者の財務(保
険プールにおけるリスクの集積が保険者の財務にどの程度の悪影響を
与えるか)等に関するさらなる実証分析が不可欠である。
現に、米国やドイツでは、遺伝情報に基づく危険選択(既取得情報
の要求や利用)が一定の範囲で既に禁止されているが、この規制によ
って顧客の逆選択が生じたり、保険会社が破綻したりしたという情報
は今のところ聞かない。
この理由として様々な説明が考えられるが、例えば、(i)まだ法施
行から数年しか経っておらず、逆選択等の問題が顕在化していない、
(ii)自己の遺伝情報を知ることが顧客の行動(逆選択)に与える影響
の程度は疾病や保険の種別により様々である81)、(iii)危険選択の禁止
の対象が一部の保険に限定されているため、仮にその部分で逆選択等
が生じたとしても、それ以外の保険がカバーすることで、保険会社の
財務に致命的な影響を及ぼすには至っていないといった様々な仮説を
立てることができよう。
81)例えば、アルツハイマー病にかかりやすい遺伝子(Apolipoprotein E)の
保因者であることが判明した者は、そうでない者に比べて5.76倍、介護保険
を購入する傾向にあるとの調査結果がある。Cathleen D. Zick et al.,
Genetic Testing for Alzheimer’s Disease and Its Impact on Insurance
Purchasing Behavior, 24 Health Aff. 483, 487 (2005). その一方で、乳が
んや子宮がんにかかりやすい遺伝子(BRCA1)の保因者であることが判明した
女性は、そうでない女性と比べて、生命保険を多く購入する傾向には必ずし
もないとする調査結果もある。Cathleen D. Zick et al., Genetic Testing,
Adverse Selection, and the Demand for Life Insurance, 93 Am. J. Med.
Genetics 29, 29-32, 35-38 (2000).
―298―
生命保険論集第 193 号
イ.②遺伝子検査の受検の要求の禁止について
(ア)顧客に対する遺伝子検査の受検の要求を禁止したとしても、
逆選択等を招くおそれは比較的小さい
ア.で検討した①顧客が既に取得した遺伝情報の要求及び③遺伝情
報の利用の禁止と、本項で検討する②顧客に対する遺伝子検査の受検
の要求の禁止を分けて検討することには理由がある。両者の間には、
顧客の逆選択等に与える影響において、質的な差異が認められるため
である。
すなわち、ア.では、①顧客が既に取得した遺伝情報の要求や③遺
伝情報の利用を禁止すれば、顧客の逆選択等のおそれが生じることを
明らかにしたが、このようなおそれが生じる原因は、顧客と保険者の
間における情報非対称性にあった。顧客自ら遺伝子検査を行い、自己
の疾病リスクが高いことを知りながら保険加入を申し込むにもかかわ
らず、保険者において当該遺伝情報を入手して保険加入の制限や保険
料の引上げをすることができないため、逆選択等のおそれが生じるの
である。
これに対して、②保険者が顧客に対して遺伝子検査の受検を求める
ことを禁止する場合はどうか。ここでは、保険者が顧客に対して新規
の遺伝子検査の受検を求めることが想定されており、顧客が自らの遺
伝情報を既に知っていること(顧客と保険者との間の情報格差)は前
提とはならない。そのため、仮に保険者が顧客に対して遺伝子検査の
受検を要求することを禁止したとしても、顧客が既に知った遺伝情報
の開示が求められる限りにおいては、逆選択等の懸念は生じないと、
...
少なくとも理論上はいうことができる。
...
もっとも、これは理論上、すなわち顧客が保険者の求めに応じて、
既に取得した(知っている)遺伝情報を正直に提供(告知)すること
―299―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
が前提となっている。確かに、顧客がそのような告知を意図的に怠っ
た場合には、事後的に保険契約の解除などの制裁が課され得る。しか
し、そのような告知義務違反が事後的に判明する可能性が必ずしも大
きくないことを踏まえれば、顧客がその情報を意図的に秘匿する(保
険者に告知しない)
インセンティブを完全に排除することはできない。
...
このような現実的な情報格差を是正するために、
(顧客が既に取得した
遺伝情報の開示を求めるにとどまらず)保険者が積極的に顧客に対し
て遺伝子検査の受検を求める必要性が全くないとは言い切れないとこ
ろが悩ましいところであろう。
(イ)ドイツの遺伝子診断法との整合性
上記のように、①顧客が既に取得した遺伝情報の要求及び③遺伝情
報の利用の禁止と、②顧客に対する遺伝子検査の受検の要求の禁止を
区別する考え方は、ドイツの遺伝子診断法に見ることができる。
すなわち、ドイツの遺伝子診断法では、②遺伝子検査の受検の要求
は、全ての保険に関して例外なく禁止されているのに対して、①顧客
が既に取得した遺伝情報の要求及び③遺伝情報の利用については、一
定の保険(医療保険や給付額が一定額以下の生命保険等)についての
み禁止されている。言い換えれば、②遺伝子検査の受検の要求の禁止
対象は、①顧客が既に取得した遺伝情報の要求や③遺伝情報の利用の
禁止対象と比較して、広く設定されている。
この一つの理由として、②遺伝子検査の受検の要求については、仮
に全ての保険について禁止したとしても、①顧客が既に取得した遺伝
情報の要求や③遺伝情報の利用の禁止と比較すれば、逆選択等の弊害
を招くおそれが比較的小さいからであると説明する余地がある。
(3) 実務上遺伝情報と医療情報を区別することができるか
―300―
生命保険論集第 193 号
(1)及び(2)で検討してきた通り、遺伝子検査・情報に基づく危険選
択を禁止することについては、その禁止の論拠や逆選択等の弊害のお
それなどの点において様々な問題があるが、それらの問題に加えて、
危険選択に用いることのできる医療情報と、危険選択に用いることが
禁止される遺伝情報を実務上区別して取扱うことができるかという問
題も生じる。
この点、理論的には、
「医療情報」とは既に発病した現在又は過去の
疾病に関する情報と、
「遺伝情報」とは未だ発病していないものの将来
の疾病のリスクを高める情報と、一応区別することができるが、実務
的にはその線引きが容易でない場合も想定される。
例えば、ある遺伝子が将来特定の疾病を引き起こす高度の蓋然性が
ある場合(特にハンティントン病のような単一遺伝子疾患の場合)
、当
該遺伝子を保有していること自体で既に疾病を発症しているとの評価
も生じ得ると思われる82)。
また、医療機関において医療検査と遺伝子検査の双方が実施された
場合において、当該医療機関が現実的に医療情報と遺伝情報を区別し
て取り扱うことができるかという問題もある。前記2.(4)で述べた通
り、
ヒトのDNA配列が電子カルテの一部となり、
医師が薬の処方や診断、
予防計画などを判断するときの重要な情報として用いられるといった
パーソナルゲノム医療の時代が到来すれば、例えば、カルテにおいて
医療情報と遺伝情報を区別して記載することが果たして可能か(医療
情報用のカルテと遺伝情報用のカルテを別々に作る必要があるのか)
82)米国では、家族歴から乳がんや子宮がんのリスクを高める遺伝的素因を有
していること自体が、保険金の支払対象である疾病(Illness)に該当すると
判断した裁判例がある。Katskee v. Blue Cross/Blue Shield, 515 N.W.2d 645
(Neb. 1994).
―301―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
といった疑問も生じる83)。
(4) 小括
以上の通り、遺伝子検査・情報に基づく保険者の危険選択を禁止す
ることについては、禁止の論拠の正当性、逆選択等の弊害のおそれ、
医療検査・情報との区別の可否といった様々な観点からの課題が存在
する。
図6 論点整理
医療検査・情報
(1)禁止の論拠
遺伝子差別の
防止
遺伝情報の利
用の促進
遺伝情報
自己の遺伝情
に関する
報を知らない
決定権
でいる権利
との取扱いの
基礎的保険論
差異を合理的
に正当化する
ことが可能
か?
(2)禁止行為
顧客が既に取得し
た遺伝情報の要求
遺伝子検査の受検
の要求
逆選択等の弊
遺伝情報の利用
害を招かない
か?
実務上、遺伝子
(3)実務的な運用
同種の行為は、医療検査・情報については、
現行実務上禁止されていない
検査・情報を医
療検査・情報と
区別して取り
扱えるか?
83)米国の遺伝子診断法の下において、遺伝情報と医療情報を区別することの
実務的な困難性を示唆するものとして、See Anya Prince, Esq., Genetic
Information and Medical Records –. A Cautionary Tale for Patients,
Healthcare. Professionals, and Insurance Companies, 24 No.5 Health Law.
29, 30 (2012).
―302―
生命保険論集第 193 号
6. 我が国の法制度に照らした検討
5.では、米国やドイツにおける立法のように保険者による遺伝子
検査・情報に基づく危険選択を禁止すべきか否かについて、主として
政策的な観点から検討を試みた。
一方、我が国では、これまでのところ、米国やドイツのように遺伝
子検査・情報に基づく危険選択を明示的に禁止する立法はなされてい
ない。従って、今後仮に我が国において保険者が遺伝子検査・情報に
基づく危険選択を試みることとなれば、医療検査・情報に基づく現行
の危険選択と基本的に同じ枠組みに従うと考えるのが自然であるが、
以下では保険業法等の法令における具体的な規定を挙げつつこの点を
検証することとしたい。
(1) 機微情報の取扱い
我が国の金融分野における個人情報保護に関するガイドライン6条
によれば、保険者は、顧客の「保健医療」に関する情報(機微情報)
について、原則として取得、利用又は第三者提供を行わないこととさ
れているが、
「保険業その他金融分野の事業の適切な業務運営を確保す
る必要性から、本人の同意に基づき業務遂行上必要な範囲」での取得
や利用は許容されている。これに基づき、現行実務上、保険者は顧客
の病歴などの医療情報について、危険選択目的での取得や利用が許容
されているものと解される。
このような機微情報に対する規律は、遺伝子検査・情報に基づく危
険選択に対しても同様に適用されると考えられる84)。この場合、危険
84)ガイドライン上、遺伝情報が「保険医療」に関する情報に含まれることを
明確にすることも考えられる。
―303―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
選択目的での遺伝情報の取得や利用が直接的に禁じられるものではな
いが、同ガイドラインに沿った厳格な情報管理は求められることにな
る。
(2) 不当な差別的取扱いの禁止
保険業法5条1項3号ロ及び4号ロは、保険契約の内容及び保険料
に関して、特定の者に対して「不当な差別的取扱い」を行うことを禁
止している。
この点、現行実務においては、病歴などの医療情報に基づく危険選
択(保険引受けの謝絶や保険料の引上げなど)は、それが保険数理上
合理性を有する限りにおいては、
「不当な差別的取扱い」には該当しな
いと解されている。
これと同様に、遺伝子検査・情報に基づく危険選択(保険引受けの
謝絶や保険料の引上げなど)についても、それが保険数理上合理的な
危険選択の範囲と評価し得るものであれば
(この点は次の(3)において
述べる)
、
「不当な差別的取扱い」には該当せず、許容されるものと考
えられる。
(3) 合理的な危険選択
保険業法5条1項4号イは、保険料について、その算出方法が保険
数理に基づき合理的かつ妥当なものであることを求めているが、この
点は遺伝情報に基づく危険選択についても当然に妥当する。
そのため、
仮に遺伝情報に基づく危険選択(保険引受けの謝絶や保険料の引上げ
など)が許容されるとしても、当該危険選択が保険数理上合理的であ
ることは求められる。
この点、特定の遺伝子が疾病リスクを高めるにすぎない多因子疾患
―304―
生命保険論集第 193 号
(例えばがんや糖尿病)については、特に慎重な対応が求められるこ
とになる。前記2.(3)で述べた通り、多因子疾患に関しては、特定の
遺伝子配列の違いと疾病罹患リスクとの関連性は仮説段階のものから
医学上の定説になりつつあるものまで様々であり、複数の遺伝要因が
想定されているほか環境要因が大きく影響することから、ごく一部の
遺伝子配列の違いに基づき疾病罹患リスクを判定するには限界がある
ためである。
従って、このような多因子疾患に係る危険選択が客観的に合理的で
あるためには、遺伝子と疾患との関係について、客観的な医学的根拠
を十分に有しなければならない。仮に遺伝子検査が専門家から見てそ
の意義や臨床的価値が十分とは言いがたい場合には、そのような遺伝
子検査の結果に基づいて行われる危険選択は、合理的な危険選択とは
評価できないことになろう85)。
なお、4.(1)ウ.で述べた通り、米国の一部の州では、遺伝情報を
危険選択に用いる際には、遺伝情報が予想される保険金請求と合理的
に関連していることや健全な保険数理に基づいていること等が法令上
明示的に要件として定められている。
上記の考えに沿うものであるが、
我が国では、保険料や保険の引受基準について認可・届出制が採用さ
れ、当局の審査を経ることとされているから(保険業法123~125条)
、
そのような当局の審査が適切に行われる限りにおいては、法令上の明
確化が必須とまではいえないであろう86)。
85)遺伝情報は疾病罹患リスクの判定という危険選択の目的においてのみ取得
が許されるものである。従って、疾病罹患リスクとは無関係な一般的な遺伝
子配列(A、C、T、Gの塩基配列)や性格分析に関する情報等の取得が許
されないことはいうまでもない。なお、遺伝情報について、①DNAそのものに
関する情報(A、C、T、Gの塩基配列)と②その分析によって獲得された
情報を区別し、前者については例外なく取得等を禁ずるべき旨論ずるものと
して、山本・前掲注28)64頁以下参照。
86)保険会社向けの総合的な監督指針等において、認可審査の着眼点として明
―305―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
(4) 告知義務
保険者が危険選択の過程で顧客が既に取得した遺伝情報を取得しよ
うとする場合、通常は保険契約者等からの告知を通じて行われること
になる。
保険法37条及び66条は、保険契約者又は被保険者になる者に対して
そのような告知を行う義務を課しており、その告知の対象は、①保険
事故(被保険者の死亡や疾病など)の発生の可能性に関する重要な事
項87)のうち、②保険者になる者が告知を求めたものと定めている。
このような告示義務に関する規定は、遺伝情報に基づく危険選択に
も当然適用されると考えられる。
まず、遺伝情報(遺伝子)と疾患との関係について客観的な医学的
根拠が十分に存在する場合には、当該遺伝情報は、①保険事故(被保
険者の死亡や疾病など)の発生に関する重要な事項と評価できる場合
があると考えられる(もちろん、この判断は、特定の遺伝子やそれに
関連する疾病ごとに慎重に行う必要がある)88)。
また、告知義務の対象は、②保険者になる者が告知を求めたものに
限定されるから、遺伝情報に係る告知義務を顧客に課すためには、保
険者はその質問表(告知書)などにおいて、遺伝子検査の結果等の開
示を求める必要がある。
確化することも考えられる。
87)
「重要な事項」とは、危険に関する事項であって、保険者が当該事項を知っ
たならば、保険契約の引受けを拒絶したか、又は少なくとも同一条件(保険
料)では引き受けなかったであろうと客観的に考えられる事実をいう(東京
高判昭和61年11月12日判時1220号131頁)
。
88)告知情報を現在情報や過去情報などに分類の上分析するものとして、岡田
豊基「遺伝子診断と保険業の法的交錯」保険学雑誌574号82頁参照。
―306―
生命保険論集第 193 号
(5) 受検の要求
保険業法又は保険法上、保険者が危険選択の過程で顧客に検査の受
検を要求することを直接的に禁止する規定は存在せず、通常は当局の
審査を経た保険会社の事業方法書等に記載の上で実施されている89)。
従って、保険者が遺伝子検査の受検を顧客に要求することも、事業
方法上等に記載の上実施する限りにおいては、現行保険業法又は保険
法上直ちに禁じられるものではないと考えられる。
この点、石原・前掲注4)30頁は、憲法13条に基づく人格権を根拠
として、個人は「自身の遺伝子上の構造を知らないでいる権利を有す
る」とした上で、そのような人格権を民法1条の2を通じて私法関係
に読み込むことにより、現行法下でも保険者による遺伝子検査の受検
の要求は禁止されているとする。傾聴に値する考え方ではあるが、人
格権が直ちに私人(保険者)の行為の禁止根拠となるか否かについて
は議論のあり得るところであり90)、その権利の範囲も明確でないこと
から、具体的な立法なしに禁止規範を導くことは些か無理があるよう
に思われる。
7.結語
遺伝子検査と保険との関係を考える場合、遺伝子検査がいかなる性
格のものかに加えて、遺伝子検査が保険業にどのような影響を与える
89)保険業法施行規則8条1項3号は、
「被保険者又は保険の目的の選択及び保
険契約の手続に関する事項」を事業方法書の記載事項として定めている。
90)なお、保険者と顧客との間の私人関係においては、たとえ保険者が顧客に
遺伝子検査の要求・要請を行ったとしても、顧客には保険に加入するか否か
の自由があるため、直ちに人格権等の侵害にはつながらないとの議論も一応
成り立つが、このような議論は保険契約者等(消費者)の保護の観点から一
定の慎重さが求められるであろう。
―307―
遺伝子検査と保険の緊張関係に係る一考察
か(逆選択や保険者の健全性への影響等)の分析が不可欠である。こ
うした影響分析は、保険は将来の事故への備えであるという性格上時
間がかかるものであるし、諸外国では既に一定のルールが策定されて
いるが、これらのルールの実質的な効果が判明するにも一定の時間を
要するであろう。
こうした点を踏まえると、本論点の検討は継続的に行う必要がある
としても、拙速な議論は避けるべきであると考えられる。
以上
―308―
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