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『アマルティア・センの世界』晃洋書房

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『アマルティア・センの世界』晃洋書房
書評:絵所秀紀・山崎幸治編著『アマルティア・センの世界―
経済学と開発研究の架橋―』晃洋書房,2004 年∗
佐藤隆広 (大阪市立大学)
2005 年 9 月 9 日
1
本書の編者たちによる「はしがき」によれば,アマルティア・センの社会的選択論と厚生経済学を解説した
先行文献である鈴村興太郎・後藤玲子『アマルティア・セン―経済学と倫理学―』(実務教育出版,2001 年) に
対して,本書の目的はつぎの通りである.すなわち,
「本書は,もう少し守備範囲を広げ,むしろセンの開発思
想に焦点を当て,その議論の広がりと実践的な意義を念頭に置きながら,センの「経済学と開発研究」を紹介
し評価することを目的にしたものであり」
,
「厚生経済学・社会的選択論分野での理論的研究と発展途上国の貧
困・開発問題の分析・政策提言という,2 つの異なった分野を成功裏に結びつけた…センの世界へと読者を誘
う試みである」(本書,ii ページ.以下,引用の際にはページ数のみ明記することにする).編者たちが「あと
がき」で書いているとおり,センの議論は「目もくらむほど多方面に及び,かつ常に厳密かつ批判的であり,
そして何よりも天才的である.この燃え立つような才気の前に立つと,われら凡人は,いささか消え入ってし
まいたい気分になる.何人がかりでも,とても彼の仕事の全貌に立ち向かうことができないように思われる」
(209 ページ).しかしながら,評者は,この困難な仕事に挑戦した本書が編者たちによって設定された目標を
十分に達成しているように思う.
評者は,本書の出版によって,不勉強でこれまで知らなかったセンの思想のいくつかの側面を,今回はじめ
て知ることができたことをまず告白しておきたい.さらに,センに関心のある全てのひとに,評者は,本書を
まず第 1 に読むべき参考文献として推薦するのにいささかの躊躇もない.本書は,センを学びたいと思ってい
るすべてのひとにとって待ち望まれていたものではないだろうか (少なくとも,評者はそうだ).
本書は,下に書いてある通り,大きく第 I 部「センコノミクスの視座」と第 II 部「セン開発研究の射程」の 2
部編成となっており,序章を含む全 9 章と 3 つのコラムから構成されている.執筆者たちは,センの仕事と関
連する各領域で優れた業績を挙げている研究者たちである.以下で,まず各章を順次紹介することにしよう.
はしがき (絵所秀紀・山崎幸治)
序章 アマルティア・センへの招待 (野上裕生)
第 I 部 センコノミクスの視座
第 1 章 センの市場経済論 (山崎幸治),第 2 章 アマルティア・センと社会選択論 (吉原直毅),第 3 章 貧困・不平等研究におけるセンの貢献 (黒崎卓)
∗
予定報告論題「ケイパビリティ・アプローチと自立」にかえて.
1
第 II 部 セン開発研究の射程
第 4 章 センのインド経済論と開発思想 (絵所秀紀),第 5 章 インド社会・政治研究とセン (佐藤宏),第 6
章 現代アフリカ研究とセン (峯陽一),第 7 章 センとジェンダー:構築的普遍主義へ (山森亮),第 8 章 人間開発指標とセンの経済思想 (中村尚司)
あとがき (絵所秀紀・山崎幸治)
Column(野上裕生,臼田雅之)
2
序章は,
「アマルティア・センの思想の基本概念を解説し,センの思想を学びたい人へのガイドを与える」(1
ページ) ことを目的としている.とくに,本章は,センの文献を多数引用しながら,セン思想の基本概念につ
いて (1) 日本語と原語,その定義・意味の説明,(2) 思想的背景,(3) セン自身の研究における位置づけなどを
丁寧にかつ分かりやすく解説しており,本書の導入部に相応しい章となっている.本章ではまず,評者をふく
めて多くのひとがセンの基本概念のなかでも最重視しているケイパビリティ (潜在能力) が,ファンクショニ
ング (機能) の丁寧な解説とあわせて巧みに解説されている.当該箇所を引用しよう.「個人が実際に何ができ
るかは,その人の利用できる財・サービス (住宅や衣服,交通機関などで,ベクトルの形で表現できる) と,そ
れを利用するパターン (利用関数) の両方によって決まる.たとえばパンという財は栄養素を与えるという特
性を持っている.しかしパンを買って友達と会食するとか,社交的な会合をするなどの特性も持っている.パ
ンがもつ様々な特性を引き出してひとの活動に実現できるかは,その人のパンの利用パターンに依存する」(3
ページ).センによれば,ファンクショニングは,うえで解説したような意味で「ひとがなしえること,ある
いはなりうるもの」(2 ページ) であり,「ひとが選択できるファンクションニング (機能) ベクトルの全体 (集
合) が,その人のケイパビリティである」(5 ページ).また,本章で引用されているセンのことばを再引用すれ
ば,「潜在能力 (capability) とは,第 1 に価値ある機能を達成する自由を反映したものである.それは,自由
を達成するための手段ではなく,自由そのものに直接注目する.われわれが持っている真の選択肢を明かにす
る.この意味において,潜在能力は実質的な自由を反映したものである」(15 ページ).本章は,他にも,「コ
ミットメント」「エージェンシー」「エンタイトルメント」「公共活動」をはじめとするセンの重要なキーワー
ドが的確に解説されている.
第 1 章は,「新古典派経済学の根幹に位置する制度である市場経済について,人々の経済合理性と市場経済
の効率性に関するセンの見解を新古典派経済学の議論の中に位置づけながら解説し,展望することで,彼の批
判と分析がいかに従来の経済学に根ざした建設的なものであったことを示すこと」(33 ページ) を狙いとして
いる.本章の性格は,編者が「はしがき」で批判的に言及しているように「セン・ブームはセンに対する誤解
や身勝手な解釈を生み,昨今の反グローバリズムのセンティメントと重ね合わせながら,日本社会のなかで受
容されている印象がある」(i-ii ページ) とのいらだちを昇華させたものとみなすことができるように思われる.
本章は,「人間の経済行動の動機に関しては,利己主義的な配慮だけに囚われているわけではなく,共感やコ
ミットメントなどが入り込む余地がある」(50 ページ),「市場の効率性に関しても,社会全体にとってより良
い生活を実現するための必要条件としての効率性を評価しつつも,帰結としての不平等や貧困などの窮状にも
配慮する必要」(50 ページ) がある,などのセンによる主流派経済学への異議申立てなどにも適切に言及しな
がら,センが市場経済にも適切な評価を与えていることにも目配りを忘れていない.バランスのとれた叙述の
なか,センが人間や社会に対して多元的な見方を提示していることが本章を通じて強調されている.
2
第 2 章は,センの社会的選択論と厚生経済学での主要な理論的貢献を解説している.まず,アローの不可能
性定理が議論され,センによる不可能性定理の再検討が解説される.ここでアローの不可能性定理とは,
「バー
グソン=サムエルソンが所与としてきた整合的な社会的評価付けの方法であるバーグソン=サムエルソン社会
厚生関数を,民主主義的手続きを経て構成することが不可能であることを意味する」(57 ページ).センがノー
ベル経済賞を受賞した主要な理由は,まさに,このアローの不可能性定理の詳細な検討とその後のセン自身に
よる定理の拡張にこそ存在している.そのつぎに,セン自身による社会的決定関数の提示と不可能性定理の解
消策に関するセンの貢献が紹介される.センの社会的決定関数とは,アローの社会的厚生関数をその「特殊
ケース」(61 ページ) として含むより一般的な関数であり,「センの議論は民主主義的な集計ルールの可能性
を,アローより広範なルールのクラスにおいて探る事を意味する」(61 ページ).センは,アローが課した民主
主義的な集計ルールを満たす社会的決定関数が存在することを証明した.これがセンの可能性定理である.本
章ではその後,センのパレート・リベラル・パラドックスと本章執筆者自身も含む後続研究者による社会的選
択論の拡張の仕事が議論される.センのリベラル・パラドックスとは,「チャタレイの事例」と呼ばれるつぎ
のような状況で「最小限のリベラリズム」と「パレート原理」を同時に満たす民主主義的集計ルールを構成す
ることができないことを言う.すなわち,
「今,小説本『チャタレイ夫人の恋人』一冊を 2 人の個人 1,2 のい
ずれかに配分する問題を考える.個人 1 は享楽的人間であって,この「人生の不条理さを興味深く語る」小説
を誰にも読ませずに廃棄するくらいならば自分に読ませて欲しいと考えている.と同時に,どうせ廃棄せずい
ずれかに配分するならばむしろ自分よりも糞真面目な個人 2 にこそ配分して読ませるべきであるとも考えてい
る.他方,謹厳的人間の個人 2 はこの「破廉恥な」小説は誰にも読ませずに廃棄するのことふさわしいと考え
ている.しかしもしいずれにかに配分しなければならないとしたら,不道徳極まりない個人 1 に読ませて悪影
響を与える事を防ぐ意味でも自分が読む方がまだよいと考えている」(65 ページ) という状況である.この物
議を醸したリベラル・パラドックスを,センは「リベラルな個人の存在」に基づいて解消した.本章は,その
後,自由主義的権利の定式化をめぐる論争を解説し,最後には,センのケイパビリティ・アプローチを批判的
に考察している.本章は,厳密であるが極めて高度な内容を含み,評者にとっても難解であった.おそらく,
本章それだけでセンの社会的選択論の概要を理解するのは困難かもしれない.評者が,社会的的選択論の領域
におけるセンによる理論的貢献がどのようなものであるのかをおおよそ理解できたのは,本書の膨大な参考文
献にもあがっている佐伯胖『「きめ方」の論理』(東京大学出版会,1980 年) であった.この小論を書くにあ
たって読みなおしてみたが,依然,有益であるように思う.社会的選択論に全く馴染みのないひとには,本章
を読む前に,是非,参照してもらいたい文献である.加えて,執筆者自身による最先端の研究内容が本章後半
部分において展開されており,社会的選択論の分野における研究の深化を垣間見ることができ,大変,刺激的
であった.
第 3 章は,センの貧困・不平等問題研究への貢献を,公理的方法とケイパビリティの 2 つのキーワードに着
目して整理している.まず,センが貧困指標が満たすべき公理として取り上げている「焦点性公理」「単調性
公理」「移転公理」を解説しながら,さまざまな貧困指標が丁寧に解説されている.つぎに,他章でも言及さ
れているように,センは,飢饉に対する FAD アプローチ (食料供給量の減少を飢饉の原因とみなす考え方) を
徹底的に批判し,飢饉の真の原因を「ある社会において正当な方法で「ある財の集まりを手に入れ,もしくは
自由に用いることのできる能力・資格」
,あるいは,そのような能力・資格によって「ある人が手に入れ,もし
くは自由に用いることができる財の組み合わせの集合」として定義される「エンタイトルメント」の崩壊にあ
る」(88 ページ) ことを主張し,エンタイトルメント・アプローチを提起していた.しかし,やがて,そのエン
タイトルメント・アプローチが,センによって,ケイパビリティ・アプローチへと理論的に練り上げてあげら
3
れていった経緯がわかりやすく解説されている.さらに,不平等問題についても,不平等の指標がもつべき公
理としての「対称性」
「複製・規模に関する普遍性」
「平均からの独立性」
「移転感応性」
「分解可能性」などが
取り上げられ,センが公理的分析を行っていることが解説されている.また,センが不平等の規範的基準とし
て,基本的ケイパビリティの平等を提起したことなどが紹介されている.
第 4 章は,「開発に関するセンの思想は,明示的あるいは暗示的に,常に母国インドを想定しながら展開さ
れてきた」(107 ページ) ことを念頭において,センのインド経済論を紹介する中から,その開発思想の変遷と
特徴を検討している.まず,センの処女作『技術の選択』や土地生産性と経営規模の間に逆相関が存在してい
ることを分析した「インド農業の一側面」などの初期の仕事が解説されている.つぎに,「後期センのはじま
りを告げる研究である」(118 ページ) ベンガル飢饉を分析した論文「飢餓と交換エンタイトルメント」の解説
を皮切りに,センのエンタイトルメント・アプローチとその深化としてのケイパビリティ・アプローチが紹
介されている.さらに,『飢えと公共政策』『飢えの政治経済学』を「開発の世界を塗り替えた革命的な書物」
(124 ページ) と評価し,貧困問題解決にあたってセンが公共活動の役割に注目していることが明らかにされて
いる.本章執筆者は,
『開発経済学とインド』(日本評論社,2002 年) を公刊しており,そのなかでより詳細に
センのインド経済論を検討しており,本章に関心をもった読者は是非,同書を一読してもらいたい.
第 5 章は,民主主義と多元主義の擁護がセンの社会政治論のモチーフであるとの認識をもちつつ,「センに
よるインド社会政治についての分析や論評を,経済自由化への視角,民主主義,多元主義の擁護といった論点
に焦点をあてて,紹介・検討」している (131 ページ).センの方法が「(1) インドと外の世界 (中国や他の東
アジア諸国) との比較,(2) インド国内の多様性というふたつの側面にむけて,論理的な一貫性を保ちながら
適用されている」(134 ページ) ことが指摘され,センの経済自由化論の特徴が解説されている.さらに,「民
主主義のもとでは飢饉は発生しない」(138 ページ) というセンの長年の主張や「公共活動」概念そのものに内
在する諸問題が批判的に議論されている.最後に,「多元主義の擁護は,経済自由化論批判とならんで,かれ
の 90 年代インド論の核心となる」(141 ページ) との前提のもと,センがアインデンティティよりも理性を重
視していることを踏まえたうえで,そのヒンドゥー民族主義批判が丁寧に解説されている.本章は,センの思
想の祖述に留まらず,執筆者自身によるセンの議論に対する批判的吟味が多数盛り込まれている.この小論で
は,残念ながら,それら興味深い論点を十分紹介できなかった.関心のある方は,本章を熟読されたい.
第 6 章は,「センがアフリカについて述べたこと,そしてセンの理論的枠組みに対するアフリカ研究者の反
応を手がかりに,センの開発論の可能性のフロンティアを探っていく」(154 ページ) ことを目的としている.
センの『貧困と飢饉』が取り上げられ,それが「一国の経済が困難に直面する場合,それが地域,所得階層,
職業集団,性別,年齢などの違いに応じて人々に不均等に打撃を与えていくプロセスを,丁寧に検証していこ
うとする」(156 ページ) 性格をもっていることが指摘されている.『貧困と飢饉』は南アジアとアフリカの飢
饉の経験を分析したものであるが,本章では,英国の経済史家ジョン・アイリスと人類学者アレクサンダー・
デワールによるセンのアフリカ飢饉論に対する批判が紹介されている.また,「センはアフロペシミズムと一
線を画し,自立への道を歩むアフリカを奨励し,それどころか自らの祖国インドはアフリカから学ぶべきだと
さえ主張する」(165 ページ) が,これは,「アフリカの女性は性的バイアスから相対的に自由」(167 ページ)
だからである.センによるこうしたアフリカと南アジアとの巧みな比較が丁寧に解説されている.本章執筆者
は,本書執筆者たちの多くが南アジア地域を研究対象にしているのに対して,唯一のアフリカ地域研究者であ
る.すでに,本章執筆者はセンのアフリカ飢饉論について『現代アフリカと開発経済学』(日本評論社,1999
年) で詳しく検討しており,本章に関心をもった読者は是非,同書を読み進んでもらいたい.
第 7 章は,フェミニスト経済学と呼ばれる潮流の興隆を背景にして,「アマルティア・センの仕事をジェン
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ダーの視点から紹介すること」(176 ページ) を課題としている.まず,フェミニスト経済学が解説され,リベ
ラル・パラドックスの仕事にみられる相互依存性の把握,「共感」「コミットメント」「行為主体 (エージェン
シー)」「ケイパビリティ」などの概念提起,家計内の分配問題の検討などの点で,センの仕事との共通点が指
摘されている.つぎに,フェミニスト経済学をはじめとするジェンダー研究によるセンのアプローチへの批判
が議論されている.ケイパビリティ・アプローチが「規範的な評価にあたって,ケイパビリティ集合に焦点を
あてることを提唱しているが,それ以上の手続き,あるいは実質的な必要リストなどについては,包括的な説
明をする訳ではない」(185 ページ) ことが指摘されている.最後に,センのアプローチにとってのジェンダー
研究の含意が検討されている.そこでは,(1) センの枠組みでは「規範的目標を自由に単一化してしまってお
り,ケアを巡って女性が置かれている状況を適切に扱えない」(188 ページ) という問題,(2) センの行為主体
(エージェンシー) と適応的選好形成 (置かれている状況に選好を適応させてしまう事態を意味する) の強調の
両立,(3) センが集合的行為に多くを言及していないこと,(4) センの構築的普遍主義の立場,などが議論さ
れている.ここで,本章の執筆者がいう構築的普遍主義とは,文化相対主義への批判と普遍主義への志向を背
景とし,アイデンティティよりも理性が先行していると考え,社会的規範を決して所与のものとしては考えな
い,というセンの思想的スタンスのことである.評者は,本章を読むまで,フェミニスト経済学という学問領
域が存在していることを知らなかった.センの議論が,フェミニスト経済学の分野でも問題点を指摘されなが
らも,高く評価されていることを知り,センの理論の射程の長さを痛感した.評者にとっては,極めて新鮮な
章であった.
第 8 章は,学術研究の作法にしたがったそれまでの章とは若干趣きをかえ,やわらかいエッセイ風のものと
なっている.ケンブリッジ資本論争をとりあつかったセンの論文をたくみに引用し,「新古典派による経済学
の限界に気付きその相対化の必要を強調しながらも,同時に一定の吟味された範囲内であれば,経済理論が有
効であると信じるセンの思考の特質」(197-198 ページ) を浮き彫りにしている.また,センの影響のもとで作
成されている国連の人間開発指数に対する新しい社会経済指標として,(1) 次世代の単純再生産からの乖離率,
(2) 精神病院に長期間隔離される患者数の比率,(3) 経済苦による行方不明 (蒸発) 者や自殺者の比率,(4) 地
域内における物質循環比率,(5) 女性による経済活動参加の比率,(6) 人口に占めるボランティア活動家の比
率,の諸点を取り上げている.
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評者は,学部学生時代に,当時出版されたばかりの絵所秀紀『開発経済学』(法政大学出版局,1991 年) で
センの仕事をはじめて知りそれ以来センの愛読者になったが,振り返ってみると,開発経済学とインド経済を
勉強しはじめて以来の長い付き合いになる.とくに,勉強し始めの時には,『福祉の経済学:財と潜在能力』
(鈴村興太郎訳,岩波書店,1988 年) を,受験勉強の名残であろうか,文章を暗記するほど何度も繰り返し読
んだことを記憶している.大学院に進学してからもセンの愛読者ではあったものの,「センに対する誤解や身
勝手な解釈」が横行しているなか,評者自身もそのなかに入ってしまうことを恐れて,論文ではセンを全く引
用してこなかった.とくに,評者にとって,
『合理的な愚か者』(大庭健・川本隆史訳,勁草書房,1989 年) の
訳者解説がセンに対する酷い侮辱だと感じたせいもあろう.また,大学に職を得て,現在の職場に移ってから
も,外書購読やゼミナールで『貧困と飢饉』(黒崎卓・山崎幸治訳,岩波書店,2000 年),J. ドレーズとの共
著 India: Economic Development and Social Opportunity(Oxford University Press, 1995) とその第 2 版
India: Development and Participation(Oxford University Press, 2002) などのテキストを毎年とりあげる
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ものの,自分自身の研究のなかではセンを引用する機会はほとんどなかった.
評者にとって大きな転機は,黒崎卓『開発のミクロ経済学』(岩波書店,2001 年) の出版とインド政府による
大規模個票データの有償提供の開始だった.応用ミクロ経済学とミクロ計量経済分析を駆使した前者は,決し
てその技術的な洗練さに溺れることなく,センのスピリッツを見事に体現したものだった.大学院生や研究者
仲間との精読を通じて,その確信を深めた.後者は,インドの州を単位とする分析に大きな限界を感じていた
こともあり,センのスピリッツのひとつである「脱集計化」を行ううえで,評者にはどうしても必要であった.
そうして,まだ大変稚拙な内容であるが,その線に沿ったいくつかの論文を書くことがようやくできるように
なった (幸運なことに,そのうちの 1 つを,センを座長とする国際会議で報告する機会を得て,センから多数
のコメントをもらうことができた).評者は,最近年になってようやく「センが切り開いた地平を引き継ぎ,地
域の固有性と普遍性が交錯する地点において,開発研究のフロンティアを共同で探究していくことが,私たち
に課された責任である」(172 ページ) という本書のなかの言葉を内在的に受けとめられるようになった.
以上のような個人的な事情を書いたのは他でもない,セン思想を学ぶということはこういうことを言うので
はないかと評者が感じているからである.そして,評者は,本書執筆者の多くが,セン思想の祖述を超えてセ
ンの議論に真摯に向き合って,各自の学問領域において研究をより一層深めているように感じている.本書
は,そうした執筆者たちの熱意がひしひしと伝わってくる.
最後に,本書の読者は,現代経済学のもっとも良質の議論を学ぶことになるはずだ.センは,その母校ケン
ブリッジ大学の教授であり新古典派経済学の創始者のひとりであるアルフレッド・マーシャルが述べた経済学
者の心得「冷めた頭脳と温かい心」(cool heads but warm hearts) を真摯に実践してきた稀有な経済学者のひ
とりである.評者は,本書を多くの人たちが読み,そのことが契機になってセンの思想に直に触れることを願
い,そして本小論がそのささやかなサポートになれば幸いである.
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