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道具的理性と人間支配

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道具的理性と人間支配
14D
道具 的理性 と人 間支配
山
崎
純
一
一
は じめ に
フ ラ ン ク フ ル ト学 派 と は,マ
ド ル ノ,ヴ
ァ ル タ ー
ッ ク ス ・ホ ル ク ハ イ マ ー,テ
・ベ ン ヤ ミ ン,ヘ
ル ベ ル
オ ドー ル ・W.ア
ト ・ マ ル ク ー ゼ,エ
ー リ ッ ヒ
・フ
ロ ム とい っ た 特 異 な マ ル ク ス主 義 者 の集 団 で あ っ た 。 こ の 学 派 が広 く世 界 の 注
目 を浴 び た の は,1960年
代 後 半 の学 生 運 動 の 時 代 で あ っ た 。70年 代 に入 っ て,
か つ て の熱 狂 は沈 滞 と失 望 に変 わ っ た が,こ
の学 派 へ の 関心 は衰 え る ど こ ろ か,
か え っ て高 ま り を見 せ て い る。r社 会 研 究 誌 』 を始 め か つ て の メ ンバ ー の 著 作
の 再 刊1),多
くの研 究 書 の 出版2)が そ れ を示 し て いo
しか し,フ
ラ ン ク フ ル ト学 派 に対 す る評 価 は様 々 に わ か れ て い る。 な か に は,
「『批 判 理 論 』 は ドイ ッ ・ブ ル ジ ョ ワ の精 神 形 態 の 典 型 的 産 物 で あ っ た3)」,「r批
判 理 論 』 は マ ー ジ ナ ル な ユ ダ ヤ 人 的 ブ ル ジ ョア イ ン テ リ とい う社 会 集 団 に特 有
1)Z諺5`ん
ゼ彦
μ ノ
ー802㍑
〃b飢 ∫
読 観9,Munchen,1970.(以
TheodorW.Adorno,Gesammel'te&加
下ZfSと
略 記)
乖 θη,Frankfurt,1970-.
WalterBenjamin,GesammelteSchriften,Frankfurt,1972-.
ErichFromm,TheCrisisofPsychoanalysis:EssaysonFrezcd,lt/larxand
SocialPsycholoby,Conn,1971.岡
部 慶 三 訳r精
神 分 析 の 危 機 』 東 京 創 元 社,1977年
。
MaxHorkheimer,Kl伽5読8TheorieFineDokumentation,2Bde.,Frankfurt,
196.
HerbertMarcuse,Negations:EssaysinC7伽6α1Theory,Boston,1968.
2)今
日,フ
ラ ン ク フ ル
ト 学 派 に つ い て の 研 究 は 非 常 に 多 い が,本
格 的 な も の と し て は
ジ ェ イ の も の が 噛 矢 で あ る 。
MartinJay,TlieDialecticalImagination:AHistoryoftheF'ra3zlzfurtSchool
andtheInstituteofSocialResearch1923-1950,Boston,1973・
証 法 的 想 像 力 』 み す ず 書 房,1975年
げ ら れ る 。 徳 永 悔rユ
ー
荒 川 幾 男 訳r弁
。 日本 に お け る 先 駆 的 業 績 と し て は 次 の も の が 挙
ト ピ ア の 論 理 』 河 出 書 房 新 社,Ig74年
年 代 の 光 と 影 』 河 出 書 房 新 社,1977年
。 清 水 多 吉P__._.'九 三 〇
。
3)D∫8,,Frankfurter,.S'chule``imLiGhtedesMarxismusZzcrKritikderPhilosophie
uudSoziologievonHorkheimer,Adorno,Marcuse,Haberman,Frankfurt,1970,S.
9・ 城 塚 登 監 訳rマ
ル
ク ス 主 義 と フ ラ ン ク フ ル
ト 学 派 』 青 木 書 店,1974年,6ペ
ー ジ 。
道具 的理性 と人 間支 配141
な社 会 ・歴 吏 的 状 況 の 表 現 で あ っ た4)」 と して,こ
の学 派 を全 面 的 に否 定 す る
立 場 も あ る。 こ の よ うな 立 場 を とる の は正 統 的 な マ ル ク ス主 義 者 に多 い 。 彼 ら
に共 通 す る の は,フ
ラ ン ク フ ル ト学 派 の批 判 理 論 を 「観 念 論 的 な マ ル ク ス解
釈5)」 と き め つ け,こ
的 土 壌,そ
の 学 派 が 取 り組 ん だ フ ァ シ ズ ム と そ れ を可 能 に した 思 想
して そ れ ら に有 効 に対 処 しえ な か っ た 正 統 的 マ ル ク ス主 義 とい う 自
身 の 立 場 に対 す る深 刻 な反 省 の 欠 如 で あ る 。 な ぜ,数
十 年 を経 た 現 在,フ
ラン
ク フ ル ト学 派 が注 目 され て い る の か 。 こ の 問 い は観 念 論 とい う レ ッテ ル 貼 りで
は す ま され な い重 み を持 っ て い る。 今,必
る外 在 的 批 判 で は な く,フ
要 と され る の は,党
派 的 観 点 か らす
ラ ン ク フ ル ト学 派 が 提 起 した 問 題 に対 す る 内 在 的 検
討 で あ る。
1940年 代 初 頭,亡
命 先 の ア メ リカ で,ホ
「フ ァ シ ズ ム の新 しい秩 序 は,非
る。 理 性 と非 理 性,あ
ル クハ イ マ ー は フ ァ シ ズ ム を評 し て
理 性 と して 現 わ れ る理 性 で あ る6)」 と述 べ て い
る い は合 理 主 義 と非 合 理 主 義 が フ ラ ン ク フ ル ト学 派 の批
判 理 論 の 基 本 的 枠 組 で あ る。 これ は ゲ オ ル グ ・ル カ ー チ が ナ チ ズ ム を フ ラ ン ス
革 命 に対 す る封 建 的=反
動 的 イ デ ォ ロギ ー の反 撃 に始 ま る非 合 理 主 義 の発 展 の
中 に位 置 づ け た の と は対 照 的 で あ る7)。 ル カ ー チ に と っ て は,合
理 主 義 とは対 立 概 念 で あ り,ナ
理 主 義 と非 合
チ ズ ム が非 合 理 主 義 の表 現 で あ る な ら,ナ
チズ
ム の廃 絶 は合 理 主 義 の 復 権 を意 味 す る。 こ う した 二 元 論 は西 欧 思 想 の伝 統 で あ
ランク
灘
の意 味 で ル カ ー チ は そ の 正 統 に属 す る とい っ て よ い 。 しか し,フ
灘 り,そ
フ ル ト学 派 の成 員 は こ う した 二 元 論 を と ら な い 。 彼 ら に とっ て合 理 主 義 は 当 初
よ りそ の 内 に非 合 理 主 義 を内 包 して お り,こ
の 両 者 の対 立,浸
透 によ って人類
驚韓
の歴 史 は形 成 され て き た 。 彼 らの フ ァ シ ズ ム観 を こ の脈 絡 で い うな ら,フ
ァシ
灘 飯臨
9,水
♂・白
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5
議 ㏄酌
4 ム
,
142
ズ ム とは合 理 主 義 に 内 在 す る非 合 理 主 義 に よ っ て誕 生 し,非
合 理 主義 に は らま
れ て い る合 理 主 義 に よ っ て維 持 され て い た とい え る。
そ して,フ
ラ ン ク フ ル ト学 派 が 批 判 理 論 に よ っ て批 判 し た相 手 とは,こ
う な合 理 主 義 と非 合 理 主 義 の 関 係 を理 解 せ ず,そ
とそ の 担 い手 た ち で あ った 。 そ の た め に,彼
のよ
れ らの 一 方 に偏 して い た 思 想
らの 批 判 は常 に二 っ の思 潮 に 向 け
られ る こ と に な っ た 。 実 証 主 義 と形 而 上 学 が そ れ で あ る。 両 者 の うち で も,実
証 主 義 は よ り強 力 な相 手 で あ っ た 。 なぜ な ら,そ
した 西 欧 近 代 の 強 力 な思 潮 で あ り,そ
れ は 自然 科 学 の 成 果 を背 景 に
の影 響 は批 判 理 論 の 源 で あ る マ ル ク ス 主
義 に ま で及 ん で い た か らで あ る。 社 会 主 義 の到 来 を経 済 的 法 則 に よ る必 然 と し
て,人
間 の主 体 性 を軽 視 し た カ ウ ッ キ ー に代 表 され る第 ニ イ ン タ ー 的 マ ル ク ス
主 義 が そ れ で あ る。1920年 代,こ の よ うな傾 向 に反 対 し,マ ル ク ス主 義 を哲 学 化
し よ う とい う運 動 が起 こ っ た 。 「西 欧 マ ル ク ス主 義8)」 が そ れ で あ る。 そ の 代 表
者 が ル カ ー チ で あ っ た 。 彼 は,マ
ル ク ス主 義 の 実 証 主 義 化 に反 対 し,世
界 の脱
魔 術 化 に よ る人 間性 喪 失 とい うマ ッ ク ス ・ウ ェ ー バ ー の 問 題 意 識 を マ ル ク ス の
『資 本 論 』 の 論 理 に よ っ て解 決 す べ く,物 象 化 論 を展 開 した9)。 フ ラ ン ク フ ル ト
学 派 は,こ
の ル カ._._チを知 的 先 駆 者 と して誕 生 した10)。 い わ ば,実
証 主義 的 ・
マ
ル ク ス主 義 へ の 批 判 意 識 が フ ラ ン ク フ ル ト学 派 を生 み 出 した と もい え る。 そ れ
だ け に こ の 学 派 の 実 証 主 義 へ の批 判 は徹 底 的 で あ り執 拗 で あ っ た11)。 他 方,形
而 上 学 的 思 潮 も無 視 で き な い存 在 と し て あ った 。 そ の代 表 と し て は,ホ
8)こ
の運 動 を
「西 欧 マ ル ク ス 主 義 」 と 命 名 し た の は メ ル ロ=ポ
ル クハ
ンテ ィ で あ る。
MauriceMerleau-Ponty,LesAventuresdelaDialectique,Paris,1955.滝
静 雄 他 訳r弁
証 法 の 冒 険 』 み す ず 書 房,1972年
浦
。
「西 欧 マ ル ク ス 主 義 」 を 体 系 的 に 論 じ た も の と し て は 次 の 書 物 が あ る 。
PerryAnderson,ConsiderationsonWesternMarxism,London,1976・
訳
『西 欧 マ ル ク ス 主 義 』 新 評 論,1979年
9)GeorgLukacs,Geschichte繊4KZ磯
。
θηろ6初 πβ'5θ
ガπ,Darmstadt,1977・
古 田 光 訳r歴
史 と 階 級 意 識 』 白 水 社,1968年
。
10)ル
カ ー チ と フ ラ ン ク フ ル ト学 派(特
に ア ドル ノ)と
照 。 山崎 純 一
第1集,1979年
11)実
「ア ドル ノ と ル カ ー チ
中野 実
城塚登
・
の 関 係 に つ い て は 以 下 の拙 稿 参
物 象 化 論 を 中 心 に 」,r創
価大学 大学院紀 要 』
。
証 主 義 批 判 は こ の 学 派 の 主 要 な 特 徴 で あ る が,特
的 合 理 主 義 との 論 争 は
「実 証 主 義 論 争 」 と し て,西
に1960年
代,ポ
ッパ ー 等 の 批 判
ドイ ツ の 全 社 会 学 界 を巻 き 込 ん だ
大 論 争 に 発 展 し た 。Adornoetal.,DerPositivismusstreitinderdeutschenSoziologie,NeuwiedundBerlin,1969.城
塚 登 ・浜 井 修 ・遠 藤 克 彦 訳r社
ド イ ツ 社 会 学 に お け る 実 証 主 義 論 争 』 河 出 書 房 薪 社,1979年
。
会科 学 の 論 理
道具 的理性 と人 間支配
イ マ ー がr社
ヱ43
会 研 究 誌 』 で批 判 した ベ ル グ ソ ン の 生 の哲 学12)と マ ッ ク ス ・シ ェ
ー ラ ー の哲 学 的 人 間 学13)が あ っ た 。
こ の よ うな 二 っ の 思 想 へ の 批 判 を通 し て フ ラ ン ク フ ル ト学 派 が 提 起 した 問 題
と は,近
代 にお け る合 理 性 の 貫 徹 に よ っ て惹 起 され た人 間 の 自律 性 の喪 失 と,
社 会 にお け る盲 目的 人 間 支 配 で あ る 。 彼 ら の批 判 理 論 は こ の 問 題 を合 理 主 義 と
非 合 理 主 義 の 弁 証 法 的 関連 に よ っ て把 握 し,解
言 す れ ば,批
判 理 論 は,実
決 し よ う とす る もの で あ る。 換
証 主 義 の現 実 重 視 と形 而 上 学 の 理 想 堅 持 の危 い 緊 張
の上 に成 り立 っ て い た。 そ の 緊 張 の破 綻 は,悪
し き現 実 主 義 か,現
而 上 学 の い ず れ か で あ ろ う。 本 稿 の 目的 はsフ
ラ ン ク フ ル ト学 派 が先 に述 べ た
問 題 に い か に と り組 ん だ か を,そ
の批 判 理 論 の背 後 に あ る積 極 的 立 場 に さ か の
ぼ っ て 検 討 す る こ と で あ る。 そ れ は,現
変 革 し よ う とす る者 に,何
な お,フ
代 にお い て,理
想 を保 持 しつ つ 現 状 を
程 か 資 す る と こ ろ が あ る で あ ろ う。
ラ ン ク フ ル ト学 派 は1923年
歴 史 を も ち,そ
実 逃 避 の形
のr社
会 研 究 所 』 の 創 設 以 来,数
の成 員 も実 に 多 彩 で あ る。 そ こ で,本
の リー ダ ー で あ る ホ ル クハ イ マ ー の1930年
十年 の
稿 は そ の対 象 を こ の 学 派
代 か ら40年 代 の 論 稿 と,そ
の現 代 的
展 開 で あ る ユ ル ゲ ン ・ハ ー バ ー マ ス の理 論 に限 定 した い と思 う。
1.ホ
ル クハ イ マ ー の社 会 哲 学
フ ラ ン ク フ ル ト学 派 の批 判 理 論 は,1937年
の ホ ル クハ イ マ.__.の論 文
論 と批 判 理 論14)」 に よ っ て始 め て 定 式 化 され た 。 こ こ で は,そ
る前 に,こ
「伝 統 理
の 内 容 を検 討 す
の 学 派 の基 本 的 考 え 方 を概 観 し て お き た い 。 そ の た め た は ホ ル クハ
イ マ ー一が1931年
に行 っ た社 会 研 究 所 所 長 就 任 演 説15)が 格 好 の素 材 で あ る。
12)Horkheimer,``ZuBergsonsMetaphysikderZeit,"穿
--342
.
∫,J9.III(1934),321
13)Horkheimer,"BemerkungenzurphilosophischenAnthropologie,"ZfS,Jg.
IV(1935},1-25.
14)Horkheimer,"TraditionelleandkritischeTheorie,"ZfS,Jg.VIC1937),245
-294
.久
野 収 訳 「伝 統 的 理 論 と 批 判 的 理 論 」r哲
学 の 社 会 的 機 能 』 晶 文 社,1974年
15)Horkheimer,"DiegegenwartigeLagederSozialphilosophieanddieAufgaben
einesInstitutsfurSozialforschung,"inWernerBredehrsg.,SozialphilosophischeStudien:AufsktzeRedenandUortrizge1930-一
一
一
一1972,Frankfurt,1972.
。
X44
1930年,ホ
ル クハ イ マ ー は カ ー ル ・グ リュ ンベ ル ク の後 任 と し て社 会 研 究 所
の 所 長 に就 任 した 。M.ジ
ェ イ に よ れ ば16),初 代 所 長 の グ リ ュ ンベ ル ク は ドイ
ツ語 圏 で最 初 の講 壇 マ ル ク ス主 義 者 で あ っ た が,彼
ス=カ
の マ ル ク ス理 解 は エ ン ゲ ル
ウ ッ キー 的 伝 統 に従 っ た非 弁 証 法 的 で機 械 論 的 な もの で あ っ た 。 研 究 所
の 雰 囲 気 も,所
長 の こ う した マ ル ク ス理 解 を反 映 して 実 証 主 義 的 研 究 に偏 して
い た 。 ホ ル クハ イ マ ー は,新
任 の所 長 と して,こ
の よ う な研 究 所 の傾 向 を排 し,
新 しい方 向 を打 ち 出 す 必 要 に迫 られ た 。 彼 は そ の こ と を 「社 会 哲 学 の現 況 と社
会 研 究 所 の課 題 」 と題 した 就 任 演 説 で 行 っ た の で あ る。
ホ ル クハ イ マ ー に よれ ば,社
会 哲 学 の最 終 的 目的 は 「単 な る個 人 で は な く,
共 同体 の成 員 と して の人 間 の 運 命 の 哲 学 的 意 義 」 を解 明 す る こ と で あ り,そ
の
対 象 は 「人 間 の社 会 的 生 活 との 関 連 で の み 理 解 し う る現 象 で あ る国 家,法,経
済,宗
教,っ
ま り人 類 の物 質 的 精 神 的 文 化 一 般17)」 で あ る。 こ の よ うな社 会 哲
学 は ドイ ツ観 念 論 の 内 で決 定 的 な飛 躍 を とげ た 。 カ ン トは,科
宗 教 を哲 学 理 論 の 対 象 と し,そ
術,
れ ら を 自律 的 理 性 と経 験 的 な個 別 存 在 との相 互
関 係 とい う視 点 か ら論 じた 。 しか し,彼
づ くた め に,個
学,法,芸
の社 会 哲 学 は個 別 的 人 格 性 の 原 理 に基
人 を超 え る社 会 や 文 化 を適 確 に把 握 で き な い 。 こ う した カ ン ト
の 限 界 を超 え た の がヘ ー ゲ ル で あ っ た 。 「個 人 の本 質 的 内 容 は,個
行 為 に よ っ て で は な く,個
へ,_ゲ ル の立 場 は,個
人 の人 格 的
人 が所 属 す る全 体 の 生 活 の 内 で 明 確 に な る」 とい う
人 を社 会 的 歴 史 的 存 在 と して と らえ る もの で あ る。 ホ ル
ク ハ イ マ ー は こ の 点 を高 く評 価 して 「へ 一 ゲ ル に お い て 観 念 論 は本 質 的 に社 会
哲 学 に な っ た18)」 と述 べ て い る。 しか し,同
時 に,へ
一 ゲ ル は社 会 や 歴 史 を精
神 の 実 現 と して 考 え た 為 に,不 正 と思 われ る現 実 を 「聖 化 」 して し ま っ た 。こ こ
で へ 一 ゲル 哲 学 は悪 し き観 念 論 に逆 行 した の で あ る。 そ の後,19世
ら,実
証 主 義 が 台 頭 し,社
会 哲 学 は衰 退 し,実
術 や 産 業 が信 奉 さ れ た 。 しか し,そ
証 的 科 学 に よ る直 線 的 進 歩 や 技
れ らが 標 榜 した個 別 的 利 害 の 予 定 調 和 とい
う神 話 が 崩 壊 す る と と も に,新 た な社 会 哲 学 が興 隆 した 。H.コ
16)Jay,op.cit.,P.10.前
掲 訳,9-10ペ
ー ジ 。
17)Horkheimer,"DiegegenwartigeLagederSozialphilosophieanddieAufgaben
einesInstitutsfurSozialforschung,"S.33.
18)Ebenda,S.34.
紀 の中頃 か
ー エ ン か ら0.
道具的理性 と入問支配145
シュ パ ンに到 る社 会 哲 学 がそれ で あ る。 これ らは,実 証 主義 と対 立 す るが,分
析 的科 学 に よっ て確 定 され た事実 は尊重 し,そ れ に民 族精 神 や理 念 とい った も
の を対 置 す る。彼 らの正統 性 の根 拠 は,実 証 主 義 の内 に確 証不 能 な前提 が あ る
とい うこ とだ け で あ り,彼 らが唱 え る民 族精 神 等 の存 在 にっ い て は事実 に基 づ
い た根 拠 がな い。 そ れ ゆ え に,ホ ル クハ イ マ ー は これ らの社 会 哲 学 を 「も う一一
つ の世 界観
形 而上 学 で あ る19)」と し,不 正 な現 実 を聖化 す る社 会 的機 能 を も
つ として批 判 す る。
ホ ル クハ イ マー は,以 上 の よ うに社 会哲 学 の歴史 と現 況 を踏 まえ た上 で,社
会 研 究所 が 目指 す べ き社 会哲 学 の あ り方 を示 そ う とす る。 そ こで問題 とな るの
は,哲 学 的理 論探 究 と経 験 科 学 的個 別 研 究 の関連 で あ る。彼 は,従 来 行 わ れ て
きた学 問 内 の分業,つ
ま り社 会 哲 学 は全 体 的理 論体 系 を構 築 し,個 別 研 究 はそ
れ とは無 関係 に事 実調 査 に没 頭 す る とい う,科 学 内 分業 を否定 す る。彼 に とっ
て重 要 な の は,「 哲 学 的理 論 と 個 別 科 学 的探 究 との不 断 の弁証 法 的相 互貫 徹 と
展 開20)」で あ る。 そ のた めの具体 案 と して,彼 が提 唱 した の が,「 焦眉 の哲 学
的 問題 設 定 に基 づ い て調 査 を組 織 す る」 こ と で あ り,「哲 学者,社
経 済 学 者,歴 史 学者,心
会科 学 者,
理学 者 が この調 査 の た め に 持 続 的研 究 団体 に集 合 す
る21)」こ と で あ った。 っ ま り,「 社 会研 究所 の課 題 とは共 同的研 究 作 業 で あ
る22)」 とい うこ とが で きるの で あ る。
さて,こ の よ うな ホ ル クハ イ マー の就任 演 説 には,こ れ以降 形 成 され て い く
フ ラ ン クフル ト学 派 の基本 的 考 え方 が現 われ て い る と思 われ る。 その第 一 は,
徹 底 した社 会 的歴 史 的 思考 で あ る。 人 問個 々人 と社 会 ・歴 史 とい う文 脈 で いえ
ば個 人 を社 会 的 ・歴 史 的存 在 として把 握 す る とい うこ とで あ る。 その こ とは,
社 会 ・歴 史認 識 の レベ ルで は,社 会 や 歴史 は 「そ の製 作者 とは疎遠 な盲 目的 な
自然現 象 として の特徴 を もっ とい う洞 察23)」 を意 味 す る。科 学 理 論 につ い てい
え ば,経 験 的調 査 のみ を用 い る とい う意 味 で の実証 主 義 の排 斥 で あ り,全 体 的
視 野 に立 つ哲 学 的 理 論 の要 請 で あ る。 第二 に は,前 述 の歴 史 や社 会 を形 而上 学
19)Ebenda,S.39.
20}Ebenda,S.40.
21)Ebenda,S.41.
22)Ebenda,S.45.
146
的 に絶 対 化 しな い こ とで あ る。 こ の よ うな 形 而 上 学 的 絶 対 化 は,ヘ
られ る よ う に,現
ー ゲ ル にみ
実 の 不 正 の 隠 蔽 に っ な が る。 そ の 防 止 策 と して,経
験 的調 査
に よ る哲 学 的 理 論 の検 証 が 考 え られ て い る 。 こ れ ま で見 て き た よ うに ホ ル クハ
イ マ.___は哲 学 的 理 論 と経 験 的 研 究 との 相 互 貫 徹 とい う要 請 を,共
具 体 案 で充 足 させ よ う と した 。 しか し,こ
の 就 任 演 説 で は,そ
同研 究 とい う
の 社 会 哲 学 の理
論 とそ の 担 い 手 の 具 体 的 あ り方 に つ い て は触 れ られ て は い な い 。 この 点 にっ い
て述 べ られ て い る の が,1937年
2.‡
の論 文
「伝 統 理 論 と批 判 理 論 」 で あ る。
比半り理 論
ホ ル クハ イ マ ー は従 来 の支 配的 理 論観 を伝 統理 論 と呼び,こ
れ と対 比 させ る
形 で彼 の批判 理 論 を展 開 してい る。彼 に よれ ば24),伝 統 理 論 とは,啓 蒙 主 義 と
自然科 学 の発 展 を背景 に,近 代 哲 学 の祖 デ カル トに端 を発 し,大 陸 の合 理 論 や
イ ギ リスの経 験 論,ま
た デ ュル ケ ー ムの社 会学 や フ ッサ ー ル の現 象学 まで も含
ん だ近 代 ヨー ロ ッパ に広 く定 着 した理論観 で あ る。 この理 論観 に よれ ば,理 論
とは専 門領 域 に関 す る諸 命題 が演 繹 によ って相 互 に結合 され た もの で あ り,そ
の現 実 的妥 当性 は演 繹 され た諸 命題 と現 実 の出来 事 との0致
が一 致 しな けれ ば理 論 は変 更 され ね ば な らず,そ
にあ る。 も し両 者
の意 味 で,理 論 は仮 設 にす ぎ
な い。 ま た この理 論 体 系 が み た さね ば な らぬ根本 的要 請 は,部 分 の全 て が徹 底
的 か つ無矛 盾 的 に相 互 結 合 を とげ てい るこ とで あ る。 これ らか ら推測 し うる よ
うに,こ の理 論 の模 範 は 自然 科 学 で あ り,そ の 目指 す ところ は純 粋数 学 的記 号
体 系 で あ る。 シ ュ ミ ッ トによれ ば,伝 統理 論 の特徴 は 「そ の操 作 的有 用 性 とい
うこ とにつ きて い る25)」
。
ホル クハ イ マ ー によ って以上 の よ うに示 され た理 論観 は 自然 科 学 的 実証 主 義
23)AlfredSchmidt,ZurIdeederKritischen7ゐ807♂6,lt/liinchen,1974,S・22・
論 文 は 注1)で
この
あ げ た ホ ル ク ハ イ マ ー の 論 文 集KritischeTheorieの
編 集 者 の あ とが き
で あ る 。 シ ュ ミ ッ トは 後 出 の ヴ ェ ル マ ー や ハ ー バ ー マ ス と 同 じ く,フ
派 の 第 二 世 代 に 属 す が,ハ
ー バ ー マ ス と は 異 な っ て,批
ラ ン ク フ ル ト学
判 理 論 を マ ル クス主 義 の枠 内
で 再 生 しよ う と して い る。
24)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"245-249・
42ペ
ー ジ。
25)Schmidt,a.a.0.,S.28.
前 掲 訳,36-
道 具的理性 と人 間支配147
と言 う こ とが 出 来 る。 そ れ は近 代 市 民 社 会 形 成 の エ ー トス で あ る 自律 的 理 性 へ
の信 頼 を基 礎 に して成 立 した も の で あ る。 科 学 は,そ
有 す る と信 じ る が ゆ え に,他
う した理 性 の 自律 性 を分
の 社 会 過 程 の影 響 を受 け る こ と な く 自足 的 で あ り,
そ の成 果 も党 派 に偏 す る こ とな く客 観 的 中 立 的 で あ る とい う こ とが で き た 。 し
か し,伝
統 理 論 が そ の 基 礎 とす る 自律 的 理 性 は あ くま で歴 史 的 存 在 で あ っ て普
遍 的 な もの で は な い 。 む しろ,そ
の 自律 的 理 性 の喪 失 こ そ が 現 代 社 会 の 問 題 な
の で あ る。 伝 統 理 論 は こ う した 事 態 に 目 を 向 け ず,「 科 学 自身 に とっ て,各
題 り社 会 的 起 源,科
こ の よ う に,伝
学 が 使 わ れ る状 況 や 目的 は,科
問
学 以 外 で あ る26)」 と見 な す 。
統 理 論 は 自身 の 前 提 や そ の社 会 的 位 置 等 に無 自覚 で あ り,所
与
の 目的 に対 す る手 段 の 適 合 性 に の み か か わ ろ う とす る。 ホ ル クハ イ マ ー は,こ
う した伝 統 理 論 の 立 場 を 「科 学 主 義 」Szientivismusと
「市 民 社 会 の 物 質 的 基 礎 を前 進 的 に変 革 し,発
つ つ も,操
呼 ぶ27)。彼 は伝 統 理 論 を
展 させ る一 契 機 」 と し て 評 価 し
作 的 有 用 性 に の み 関 心 を寄 せ る科 学 主 義 とい う立 場 に つ い て は厳 し
く批 判 す る。 科 学 主 義 に安 住 し よ う とす る理 論 は,必
然 的 に既 存 社 会 の 支 配 の
道 具 と な り,「 物 化 さ れ た イ デ オ ロ ギ ー 的 カ テ ゴ リー に転 化 して しま う28)」 の
で あ る。 ス レー タ ー が い う よ う に,伝
統 理 論 の よ う な 「純 粋 に知 的 な労 働 に よ
っ て 調 和 を達 成 し よ う とい う試 み は,そ
の母 体 で あ る物 質 的 生 産 過 程 に対 す る
無 批 判 な 姿 勢 の反 映 で あ る29)」。
批 判 理 論 が 伝 統 理 論 と一 線 を画 す る の は,「 科 学 とい う職 業 部 門 は,労
い う人 間 の歴 史 的 活 動 に お け る非 独 立 的 契 機 で あ る30)」 とい う こ と,っ
働 と
ま り科
学 を歴 史 的 社 会 的 分 業 の一 環 と し て と らえ る認 識 で あ る。 こ の 認 識 か ら,批
判
26)MaxHorkheimer,HerbertMarcuse,``PhilosophieundkritischeTheorie,"
那,J9・VI(1937),625.久
野収 訳
ジ 。 こ の 論 文 は ホ ル クハ イ マ ー の
基 づ い て 書 か れ た も の で,前
「哲 学 と 批 判 的 理 論 」r哲
学 の 社 会 的 機 能 』103ペ
ー
「伝 統 理 論 と 批 判 理 論 」 を め ぐ っ て 交 さ れ た 討 議 に
半 を ホ ル ク ハ イ マ ー が,後
半 を マ ル クー ゼ が執 筆 して い
る 。 本 稿 で の 引 用 部 分 は す べ て ホ ル クハ イ マ ー が 執 筆 した 部 分 で あ る 。
27)Horkheimer,``DerneuesteAngriffaufdieMetaphysik
11.こ
,"ZfS,J9.VI(1937),
の 論 文 は ホル クハ イ マ ー が 論 理 実 証 主 義 を本 格 的 に批 判 した 最 初 の も の で あ る
28)Ho「kheime「,``T「aditionelleundk「itischeTheorie
,"251.前
掲 訳,43ペ
。
ー
ジ。
29)PhilSlater,Originand5匁
η乏ガαzηc80アtheFrankfurtSchool:A、Mzr劣
げ5'
∫》
θr宴》ective,London,1977,P.27.
30)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"254.前
掲 訳,48ペ
ー ジ。
.Z48
理 論 の あ り方 に つ い て二 つ の帰 結 が生 じ る。 第 一 は科 学 の 真 の社 会 的 機 能 つ ま
り人 間 的 存 在 の 中 で理 論 が果 た す 意 味 を把 握 す る た め に は,科
とす る社 会 的 分 業 体 系 全 体
学 を そ の一 部 門
「全 社 会 的 生 活 過 程 を解 明 す る31)」 こ とが 必 要 だ と
され る とい う こ と。 批 判 理 論 は社 会 全 体 を視 野 に入 れ る とい う意 味 で,全
体性
の 立 場 を と る とい う こ と で あ る。 第 二 は社 会 的 実 践 との 関 連 で あ る。 科 学 は社
会 的 分 業 体 系 の一 環 で あ る か ら,「 政 治 的 利 害 をふ くん で こ な い よ うな い か な
る社 会 の理 論 も な い32)」 の で あ り,伝
統 理 論 が い う科 学 の 中 立 性 ・客 観 性 は幻
想 に す ぎ な い 。 そ れ で は批 判 理 論 は社 会 的 実 践 と どの よ うな 関 係 を もつ の か 。
こ の点 につ い て,ホ
ル クハ イ マ ー は判 断 形 態 の相 違 を例 に と っ て 説 明 して い る。
伝 統 理 論 に特 有 な仮 言 的 お よ び 選 言 的 判 断 は 「い くつ か の 事 情 が は た ら け ば,
これ こ れ の結 果 が 生 じ る,は
た して そ うで あ る か,そ
い う形 態 を と る。 そ れ に対 し て,批
れ ともそ うでな いか」 と
判 理 論 の 説 明 は 「そ うで あ っ て は な らな い 。
人 間 は存 在 を変 革 で き る。 そ の た め の 状 勢 は 今 や 目の 前 に存 在 し て い る33)」 と
い う形 を と る。 っ ま り,批
判 理 論 は社 会 変 革 とい う観 点 か ら積 極 的 に社 会 的 実
践 に関 与 す る。 シ ュ ミ ッ トに よれ ぼ 「そ の理 論 は現 代 の 歴 史 的 経 過 を外 面 的 に
記 述 す る だ け で な く,そ
れ を現 実 的 に把 握 す る こ とで改 革 力 と し,時
代 の現 実
的 闘 争 に影 響 を与 え る34)」 もの な の で あ る。 こ れ は批 判 理 論 の もっ 哲 学 的 契 機
とい え る。 ホ ル クハ イ マ ー に よ れ ば,哲
学 の 真 の 目的 は 「人 間 存 在 の理 性 的 組
織 化35)」 で あ り,、そ の社 会 的 機 能 は 「ほ とん ど盲 目的 に つ く り だ さ れ,創
され,維
出
持 され る 日常 生 活 の あ れ こ れ の 関 係 に人 間 ら しい 目的 を浸 み こ ま せ
る36)」 た め に 「i現
実 を支 配 して い る もの を批 判37)」 す る こ とで あ る。 こ う し て
31)Horkheimer,"13emerkungenfiberWissenschaftandKrise,"ZfS,Jg.1{Y9
32),6.清
水 多 吉他訳
房,1976年,125ぺ,一
「文 化 の 危 機 と 科 学 の 危 機 」r30年
ジ 。 こ の 論 文 はr社
ホ ル ク ハ イ マ ー は こ の 時,病
と っ て い る が,そ
代 の 危 機 と哲 学 』 イ ザ ラ 書
会 研 究 誌 』 創 刊 号 の 冒 頭 に 掲 載 され て い る 。
気 の た め に 充 分 な 執 筆 活 動 が で き ず,箇
れ だ け に,既
条書 のか たち を
出 の 就 任 演 説 と と も に フ ラ ン ク フ ル ト学 派 の 思 考 の 基
本 的 枠 組 が 明確 に あ らわ れ て い る 。
32)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"275.前
33)Ebenda,279.前
掲 訳,102ペ
掲 訳,77ペ
ー ジ。
ー ジ。
34)Schmidt,a.a.0.,S.13-14.
35)Horkheimer,c`TheSocialFunctionofPhilosophyノ'StztdiesinPhilosophyand
SocialScience,Vol.VIII(1940),333.久
36)Ibid,328.前
掲 訳,18ペ
ー ジ。
37)Ibis',331.前
掲 訳,24ペ
ー ジ。
野収 訳
『哲 学 の 社 会 的 機 能 』27ペ
ー ジ。
道具的理性 と人間支配149
批 判 理論 は哲 学 的理 念 によ る理 論 と実 践 の統 一 とい う立 場 を とる。伝 統理 論 が
デ カル トのr方 法叙 説 』 をそ の原 型 にす る とい うな らば,全 体 性 の立 場 そ して
理 論 と実 践 の統 一 を基礎 とす る批 判 理 論 はマ ル クスのr経 済学 批判 』 の系譜 の
内 に位 置 づ け られ る38)。
批 判理 論 が対 決 した伝 統 理 論 の立 場 とは,自
らの専 門領 域 に閉塞 す る こ とで
既 存 社会 のあ り方 を肯 定 し,人 間支 配 の道 具 と化 して い る実証 主 義 であ る。 こ
れ に対 して,批 判理 論 は,伝 統 理論 が肯 定 す る既 存社 会 を 「
人 間存在 の理性 的
組 織 化 」 とい う観 点 か ら徹 底 的 に批 判 す る。両 者 の対 立 は,肯 定 と否 定 あ るい
は肯 定 と批 判 とのそ れ とい うこ とが でき る。 ところ で,批 判 理 論 によ る批 判 は
哲 学 的理 念 を基礎 に してお り,そ の理 念 は伝 統 理 論 の経験 的分 析 的研 究 に超越
して い る。 そ こで,そ の理 念 の た め に批判 理 論 が形 而上 学 に転 落 す るの で は な
い か・ とい う疑 問 が 当然生 じて くる。社 会 の全 体理 論 で あ る批 判 理論 は実 証主
義 に対 決 す る と同 時 に,形 而 上 学 と も区別 され ね ば な らな い。 形 而上 学 との関
連 を知 るに は,批 判 理 論 にお け る,現 実性 と論 理 的厳 密 性 にっ い て検 討 す る こ
とが必 要 であ る。 この両者 こそ は,そ の理論 が形 而上 学 に堕 す るか否 か の試金
石 であ るか らで あ る。
ホ ル クハ イ マ,__.によれ ば39),批 判理 論 が もつ既 存社 会 へ の批 判 意識 は ,人 間
の思 考 が 自分 自身 の中 か ら恣 意 的 にっ む ぎ出 す もの で はな い。本 来 ,人 間 の思
考 には そ の よ うな こ とは不 可能 で あ る。 なぜ な ら,思 考 は歴 史 的 社会 的 に規定
され て お り・ 人 間 の生 活体 制 が そ の内 に刻 印 され てい るか らで あ る。人 間 は歴
史 や社 会 とい う現 実 の経験 を通 して は じめ て,自 分 の行 動 の認 識 に到 達 し,そ
う して 自分 の存 在 の 中 にあ る矛 盾 を把 握 す るの で あ る。 批判 理 論 が既 存社 会 に
対 して もっ批 判 的意 識 は,資 本 主義 的 経 済 に よ って生 み 出 され た不毛 と阻 害 に
っ い て の現 実 的経 験 に根拠 を有 してい る の で あ る。 また ,批 判理 論 が掲 げ る
「
理 性 的 で・一 般 公衆 の意志 と判 断 にふ さわ しい社 会組 織 とい う理 念 」は,単 な
るユー トピア で はな く,人 間 の成 長 した生 産 諸 力 に立 脚 した現 実 的可 能性 の証
38)Horkheimer・Marcuse,``PhilosophieundkritischeTheorie
103ペ
39)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"265--272.前
73ペ
,"625.前
掲 訳,
ー ジ 。
ー ジ 。
掲 訳
,63_
150
明 を経 て提 出 され た もので あ る。 さ らに,批
判 理論 内 で の理 論 構 成 は,「 専 門
科 学 の理 論 の内側 にお け る演 繹作 業 と同 じ厳 密 さを もっ てい る40)」
。 この よ う
に,批 判 理 論 は,そ の批 判 的 意識 と理念 そ して理 論 構 成 にお い て,現 実 的根 拠
と論 理 的 厳 密性 を有 してい るゆ え に形 而上 学 で はな い の で あ る。批 判理 論 が形
而 上学 と分 ち持 つ の は,そ の理 念 が思想 と行動 を規 定 す る とい うこ と,そ して
そ の理 念 の もっ 「頑 固 さ」 で あ る。
批 判 理 論 は以 上 の よ うに,実 証 主 義 に対 して は全体 性 の立 場 と社 会 的実 践 へ
の積 極 的 か か わ りを対 置 し,形 而 上 学 へ はそ の理 念 の現実 的 根拠 と論理 的厳 密
性 を もって あた る こ とで,両 者 と一線 を画 してい る。 要 す る に,批 判理 論 とは,
社 会 的 歴 史 的現 実性 に基 づ い た哲 学 的理 念 を もって,実 証 主 義 と形 而上 学 の長
所 を包 摂 しよ う とす る もの とい え る。 これ が批 判理 論 の形 式 的 あ り方 で あ る。
次 に,こ の理 論 の具体 的 内容 に触 れ てみ た い。
批 判 理論 に よ る現 状 認 識 の 中核 にあ るの は 「個 人 と社 会 の分裂 」 で あ る。 批
判理 論 によれ ば,現 在 の経 済様 式 と,こ の様式 を土 台 とす る全体 的 文化 とは人
間 的労 働 の産 物 で あ り,そ の意 味 で は,こ の社 会 全 体 は 「主 体 自身 の世 界 」 で
あ る。 しか し同時 に この世界 は人 間以外 の 自然 諸 過 程 の よ うに,単 なる メ カニ
ズ ム と して働 き,元 々 これ を生 み 出 した人 間 を支 配 し,貧 困化 し,無 力化 して
い る。 そ れ ゆえ 「この世 界 は主 体 の世 界 で は な く,か え って資本 の世界 で あ る」
とい うこ とに な る41)。ホ ル クハ イ マー によれ ば,こ の よ うに個 人 と社 会 を分 裂
させ た の は,交 換 に基礎 づ け られ た商 品経 済 で あ る。彼 は言 う 「
近 代史 がそ れ
に依 拠 す る歴 史 的 に与 え られ た商 品経 済 とい う根 本 形式 は,自 分 の うち に時 代
の 内外 両面 の諸 対 立 をふ くみ,よ
り尖鋭 化 され た形 式 にお い て新 しい諸 対 立 を
た えず成 熟 させ,人 間 的諸 力 の上 昇 と展 開,個 人 の解 放 の時 代 をす ぎ・人 間 の
自然 支 配 の力 を大 き く拡 張 させ た あ とで,最 終 的 に はそれ以 上 の発 展 をお し と
どめ,人 類 を して新 しい野蛮 の時代 へ追 いや る42)」
。 こ の よ うな判断 に立 って・
批 判理 論 は事物 の必 然 性 に支 配 され た社 会 か ら人 間 の理性 が支 配 す る社 会 へ の
40)Ebenda,279・
41)Ebenda,261--262.前
前 掲 訳,82ペ
ー ジ。
掲 訳,58-59ペ
して い る 。
42)Ebenda,279・
前 掲 訳,82ペ
ー ジ。
ー ジ 。 こ の部 分 は ル カー チ の 物 象 化 論 に対 応
道具的理 性と人間支配151
転 換 を目指 す。 そ の手 が か りとな るの は,「 労働 の新 しい組 織 がえ43)」で あ り,
そ の方 向性 は 「個 人 や世 論 に正 しい形式 で現 前 して い な くとも,人 間的 労働 に
内在 してい る44)」の で あ る。
この よ うにみ て くる と,ホ ル クハ イマ ー の批判 理 論 はい わ ゆ る正統 的 マル ク
ス主 義 に きわ め て近 い よ うに思 われ る。 もち ろ ん,彼 に よ る精 神 と現 実 をっ な
ぐ心 的 中間項 の役 割 の強調45),文 化 的 要素 の現 実 に対 す る反 作 用 の重 視46),歴
史 の変化 に対応 す る批 判理 論 の構造 変 化 の必 用性 の認 識47)は,批 判理 論 と教 条
的 で経 済 主義 的 マル ク ス主 義 との同一 視 を許 さない 。 しか し,批 判理 論 と正統
的 マ ル クス主 義 との相 違 が最 も際 立 つ の は,そ の理論 の担 い手 につい ての考 え
方 で あ る。
正 統 的 マル ク ス主義 は,認 識 論 と して は反 映 論,模
写説 を とる。 それ に よれ
ば,理 論 主体 の役割 は,資 本 主 義体 制 を必 然 的 に崩 壊 に導 く客観 的 な経 済法 則
を自身 の認識 の 内 に模 写,反 映 す る こ とで あ り,そ のた め に変革 主体 で あ るプ
ロ レタ リアー ト階 級 の立 場 に立 つ こ とで あ る。 っ ま り正統 的 マル クス主義 の理
論 主体 は,客 観 的 経 済法 則 とプ ロ レタ リア ー ト階級 とい うきわ めて堅 固 な基 盤
を もっ の で あ る。 しか し,こ の こ とが,理 論 主体 の 自発性 を抑制 し,革 命路 線
として は資本 主義 体 制 の 自壊 作用 に全 面的 に依 存 した革命 待 機 主義 ともい うべ
き もの を生 ん だの で あ る。 これ に対 して,批 判理 論 の理論 主 体 はそ の よ うな基
盤 に安住 す る こ とは許 され な い。 な るほ ど,彼 は個 別 科学 の成 果 を利 用 して,
現 状 を認 識 し,変 革 へ の客観 的条 件 を論 証 す る。 そ の意味 で,一 応,彼
の立場
は現 実 的根 拠 を有 して い る。 しか し,そ の認 識 と論 証 の過 程 は論 理 的 必 然性 に
よ る 自動 的 過程 で はな く,理 論 主 体 に よる変 革 の関心 を媒 介 と した過 程 で あ る。
この 関心 は論理 的現 実 的検 証 に耐 え得 る もの で な けれ ば な らな い が,最 終 的 に
は人 間の 自由 と自発 性 実現 へ め意 志 に基 づ くもの で ある。 こ う した意 志 を喪 失
43)Ebenda264.前
44)Ebenda267・
掲 訳,61ペ
ー ジ 。
前 掲 訳,65ペ
ー ジ 。
45)Horkhemer,``DiegegenwartigeLagederSozialphilosophieunddieAufgaben
einesInstitutsfiirSozialforschung,"S.44.
46)Horkhemer,``AutoritatundFamilie,"inStudien劾
Paris,1936.清
水 多 吉 訳
「権 威
εノ'AutoritktZcndFamilie,
と 家 族 」r道
47)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"286・
具 的 理 性 批 判1【 』 イ ザ ラ 書 房,1970年
前 掲 訳,92ペ
。
ー ジ 。
152
した 理 論 は,た
とえ 革 命 を標 榜 して い よ う と も抑 圧 の体 系 に堕 して い る の で あ
る。 そ して,革
命 運 動 の現 実 へ の対 応 にお い て,こ
自覚 的 に起 こ る と こ ろ に,問
の意 志 の喪 失 が無 意 識 的 無
題 の深 刻 さが あ る。 そ れ ゆ え に こ そ,ホ
ル クハ イ
マ ー は理 論 主 体 の 変 革 へ の 関 心 の堅 持 を強 調 した と もい え る。 これ と同様 に ,
批 判 理 論 の 理 論 主 体 と プ ロ レタ リア ー トとの 関 係 も,正
統 的 マ ル ク ス主 義 で い
わ れ る よ うな両 者 の 一 致 で は な い 。 ホ ル クハ イ マ ー に よ れ ば48),プ
ー トは既 存 社 会 の 内 で ど れ だ け不 正 と抑 圧 を経 験 し よ う と も
,自
ロ レ タ リア
分 自身 で階 級
と して の 真 の利 害 を 自覚 す る こ とは 困 難 で あ る。 そ れ に も か か わ らず,正
統的
マ ル ク ス主 義 は 「プ ロ レタ リア ー トの創 造 力 を た だ感 嘆 的 に ほ め た た え ,彼
に身 を あ わ せ,彼
ら
ら を聖 化 す る こ と に 自分 の満 足 をみ つ け だ し」,そ の こ とで,
「大 衆 が 実 際 あ らね ば な らぬ状 態 よ り もず っ と大 衆 を し て盲 目化 さ せ,弱
せ 」 て い る。 そ れ に対 して,批
化 さ
判 理 論 の理 論 主 体 が な さね ば な らぬ こ と は,プ
ロ レタ リァ ー トの真 の 利 害 と役 割 を彼 らに 自覚 させ る こ と で あ る 。 こ の 作 業 は
困 窮 しつ っ も現 状 の 粋 組 に と ら わ れ て い る プ ロ レ タ リア ー トの 反 発 を招 き,理
論 主 体 を孤 立 化 させ る こ と に な る。 しか し,こ
の理 論 主 体 は こ の孤 立 に耐 え,
プ ロ レタ リア ー トとの 緊 張 関 係 を保 た ね ば な らな い 。 ホ ル クハ イ マ ー は こ の こ
と を 「革 命 と独 立 との 相 互 関 係 」 と呼 ん で い る。
ホ ル クハ イ マ ー が 「批 判 理 論 は,一
歩 一 歩 の あ らゆ る洞 察 性 に もか か わ らず,
こ の理 論 そ の もの と結 び つ い た階 級 的 支 配 の 止 揚 へ の 関 心 以 外 の,い
殊 な 自分 用 の法 廷 を も も っ て は い な い49)」 と言 う時,彼
か な る特
が 思 い浮 か べ て い た の
は,歴
史 や 社 会 を貫 く客 観 的 法 則 や プ ロ レタ リァ ー トの立 場 に一 義 的 に依 存 せ
ず,変
革 へ の 関 心 か ら始 め る 自律 した 理 論 主 体 で あ っ た で あ ろ う。 伝 統 理 論 や
形 而 上 学 に対 す る批 判 理 論 の 関 係 は,正
に そ の理 論 主 体 に お け る理 念 と現 実 の
緊 張 関 係 に よ っ て 支 え られ て い た とい え る。 そ し て こ の 自律 的 主 体 の 存 在 こ そ
が,批
判 理 論 の 批 判 を可 能 に した の で あ る。 しか し,こ
の批 判 主体 は少数 勢 力
で しか な い 。 プ ロ レタ リア ー トの フ ァ シ ズ ム へ の あ ま りに も安 易 な 従 属50),マ
ル ク ス主 義 の 教 条 化 とそ れ に伴 う革 新 性 の喪 失,亡
48)Ebenda,267-268.前
49)Ebenda,292.前
掲 訳,66-67ペ
掲 訳,100ペ
ー ジ 。
ー ジ 。
命 者 と して の 自 らの 境 遇,
道具的 理性 と人 間支 配153
こ れ らは ホ ル クハ イ マ ー を して そ の 感 を一 層 深 く させ た で あ ろ う。 「今 日 の よ
うな 歴 史 的 時 代 にお い て は,真
る51)」 とい う発 言 は,少
の理 論 は,肯
定 的 で は な く し て,批
数 勢 力 と して の理 論 主 体 に可 能 な の は批 判 しか な い と
い うよ う に理 解 す る こ と も で き る。 し か し,批
判 』 を模 範 にす る以 上,そ
契rrを
判 的 で あ
判 理 論 が マ ル ク ス のr経
の 批 判 は単 な る否 定 で は な く,社
は らん だ批 判 で あ る。 そ の契 機 とは,前
済 学批
会 変 革 へ の具体 的
述 し た人 間 的 労 働 に内 在 す る原
理 に沿 っ た形 で の 労 働 組 織 の再 編 成 で あ る。
3.道
具 的 理性 批 判
40年 代 に入 る と,ホ
にい え ば,彼
ル クハ イ マ ー の理 論 は微 妙 な 変 化 を見 せ 始 め る。 暗 示 的
が 「理 論 的 方 向 性 を マ ル ク ス か ら ウ ェ ー バ ー に変 え た52)」 とい う
こ と で あ る。 そ れ は社 会 理 論 か ら歴 史 哲 学 へ の 変 化 で あ り,従
来 か ら彼 の理 論
の 基 底 に あ っ た ペ ッシ ミズ ム の 表 面 化 とい う こ とで も あ る。 そ して,こ
は,後
の変化
の フ ラ ン ク フ ル ト学 派 評 価 に と っ て 決 定 的 で あ っ た 。 な ぜ な ら,60年
か ら70年 代 に か け て の こ の学 派 へ の 再 評 価 は,ま
さ に40年 代 の彼 らの理 論 に 向
け られ た も の だ っ た か らで あ る 。 そ れ は,40年
批 判 理 論 の集 大 成 と も い うべ きr権
ホ ル クハ イ マ ー のr理
代
代 の ア メ リ カ に お い て,30年
代
威 主 義 的 パ ー ソ ナ リテ ィ53)』 が絶 賛 され,
性 の腐 蝕54)』 が 黙 殺 に等 しい扱 い を受 け た の と は対 照 的
で あ る。 も し40年 代 の 変 化 が な か っ た な らば,フ
ラ ン ク フ ル ト学 派 は ル カ ー チ
や コル シ ュ の亜 流 と して 歴 史 の 中 で 忘 れ 去 られ て い た か も しれ な い の で あ る。
こ の変 化 の原 因 は,ホ
ル クハ イ マ ー に お け る フ ァ シ ズ ム体 験 の深 化 とア メ リ
50)Horkheimer,``DieOhnmachtderdeutschenArbeiterklasse,,,inD諺
Zurich,1934。rデ
ン メ ル ン ク 』 はHeinrichRegiusの
命 前 の ホ ル ク ハ イ マ ー が ア フ ォ リ ズ ム と 短 評 で も っ て,大
規 駕8プz耀9,
仮 名 で 出 版 され た 。 こ れ は 亡
戦 直 前 の
ドイ ツ の 状 況 を 具
体 的 に 分 析 し た も の で あ る 。
51)Horkheimer,``TraditionelleundkritischeTheorie,"292・
前 掲 訳,100ペ
52)DavidHeld,Intrc)ductionto(riticalTheoyHoykheimertoH望
ー ジ 。
ろ6ノ
撹 α5,
London,1980.p.65.
53}'Th.W.Adorno,etal.,TlceAzcthoritarianPersonality,NewYork,1950.
54)Horkheimer,EclipseofReason,NewYork,1947.山
せ
り か 書 房,1970年
。
口 祐 弘 訳
『理 性 の 腐 触 』
ヱ54
力社 会 の体 験 で あ っ た 。 ホ ル クハ イ マ ー に と っ て,フ
目的 に もか か わ らず,目
ァシ ズム は その非 合理 な
的 追 求 の た め の手 段 にお い て は き わ め て合 理 的 で あ り,
こ の合 理 性 と非 合 理 性 の た くみ な 使 い わ け に よ っ て 大 衆 支 配 に成 功 して い る体
制 で あ る。 ア メ リカ社 会 は,「 文 化 産 業55)」 に よ っ て大 衆 を画 一 化 す る こ と で,
非 合 理 な存 在 に転 落 させ な が ら も,外
見 は合 理 性 を誇 っ て い る。 理 性 に よ る社
会 の再 編 成 を 目指 す ホ ル クハ イ マ ー に と っ て,二
つ の社 会 に お け る理 性 と狂 気
の 交 錯 は,自
身 が よ っ て立 つ 理 性 そ の もの へ の強 烈 な ア ン チ ・テ ー ゼ で あ っ た 。
こ う して,彼
は理 性 そ れ 自体 に対 す る反 省 の 必 要 を感 じ,そ
の こ と を理 性 の母
胎 で あ る歴 史 の 中 で 果 た そ う と した の で あ る。 こ こで はr理
性 の腐 蝕56)』 を参
照 し な が ら,ア
ドル ノ との 共 著r啓
蒙 の弁 証 法 』 を 中 心 に して,40年
ハ イ マ ー の 思 想 を検 討 して み た い 。 も ち ろ ん,こ
代ホル ク
こ で い う30年 代 か ら40年 代 へ
の 変 化 と は断 絶 で は な く,問 題 意 識 の 深 化 とい うべ き も の で あ る。 しか し,そ
の 深 化 の有 り様 は両 者 の 相 違 を見 据 え て こそ 明 確 に な る も の で あ る57)。
ホ ル クハ イ マ ー一は,フ
ァ シ ズ ム とア メ リカ社 会 に代 表 さ れ る西 欧 近 代 の問 題
を次 の よ う に記 して い る。 「技 術 的 知 識 が人 間 の 思 惟 や 活 動 の地 平 を拡 大 す る
に っ れ,個
力,想
人 と し て の 人 間 の 自律 性,巨
像九
大 化 す る大 衆 操 作 の装 置 に反 抗 す る能
独 立 的 判 断 とい っ た も の は衰 微 して 行 く よ うに思 わ れ る。 啓 蒙 の
為 の 技 術 的 手 段 の 進 歩 は非 人 間 化 の 過 程 を伴 っ て い る58)」,「何 故,人
類 は,真
実 の人 間 的 状 態 に入 っ て い く代 り に,新 しい 種 類 の 野 蛮 に転 落 して い くの か59)」。
55)Vgl.,Horkheirner,Adorno,Kulturindustrie,AufklarungalsMassenbetrug,
inD∫
56)ホ
α躁 姫derAufhlarung,Frankfurt,1969.
ル ク ハ イ マ ー はr理
性 の腐蝕 』 の
「序 」 の 中 で,こ
の 著 作 の 目 的 は ア ドル ノ と 共
同 で 発 展 させ た 哲 学 理 論 の 若 干 の 側 面 を 示 す こ と で あ る と 述 べ て い る 。 ホ ル ク ハ イ マ
ー と ア ドル ノ がr啓
蒙 の 弁 証 法 』 の構 想 を 固 め た の が
,r理 性 の 腐 蝕 』 の 基 礎 に な っ
た コ ロ ン ビ ア 大 学 で の 公 開 講 座 の 二,三
年前 で あ る か
ら,r理
性 の 腐 蝕 』 はr啓
蒙の
弁 証 法 』 の 問 題 別 サ マ リー と い う こ と が で き る 。
57)30年
代 の ホ ル ク ノ・イ マ ー と40年
代 の 彼 と の 連 続 性 と断 絶 を 視 野 に 入 れ た も の と して
は 次 の論 稿 が あ る。
AlbrechtWellmer,"KritikderinstrumentellenVernunftandkritischen
TheoriederGesellschaft,,,inKritischeGesellscliaftstlieorieZcndPo∫
露勿 ガ5ηzπ3,
Frankfurt,1969.
WernerPost,KritischeTheorieandMetaphysischer麗
∬ 伽 ∫5ノ
π 〃3'Z∼`〃3勘
初 θ漉flaxHorkheimers,Munchen,1971.
58)Horkheimer,EclipseofReason,V-一
59)Horkheimer,Adorno,DialelztikderArcfkldrung,S.1.
一
一Vl,前
掲 訳,2ペ
ー ジ 。
ゴか
道具的理性 と人間支配
ヱ55
西 欧文 明 は自由 と理性 を掲 げ て進 ん で きた に もか か わ らず,抑 圧 と狂 気 に転 落
してい る。 この逆 説 的事 態 は単 な る逸 脱 で は な く,西 欧文 明 の旗 頭 で あ った理
性 それ 自体 の必 然 的帰 結 で は ない のか。 ホ ル クハ イ マー は この よ うな認 識 か ら,
西 欧文 明 の歴 史 哲 学 的考 察 を始 め る。 そ して,彼
は この作 業 を啓 蒙 と神 話 との
弁 証 法 を追 求 す る とい う形 です す め てい る。 まず,こ
の二 つ の概 念 が明確 に さ
れ ね ば な らな い。
啓 蒙 とは,西 欧18世 紀 の い わ ゆ る啓 蒙主 義 で は な く,「 世 界 の呪術 か らの解
放 」 とい う最 も広 い意 味 で の人 類 の文 明化 を推 進 した普遍 的 原理 をい う。 そ れ
は,呪 術 や神 話 を迷 信 と して追 放 し,思 考 を数 学化 し,計 算可 能性 や有 用性 と
い う規 準 によ って 自然 を支 配 しよ う とす る。 そ の理 想 は,そ
こか らす べ て個 々
の もの が導 き出 され る体 系 であ る。 この よ うな啓 蒙 にお け る理 性 とは 「目的 の
純粋 な道 具 で あろ う とす る古 くか らの野 心60)」 を もつ。 それ は 「本 質 的 に手段
と 目的 に,多 か れ少 なかれ 自明 の もの と考 え られ て い る 目的 に対 す る手続 の妥
当性 に関心 を もち,目 的 自体 が合 理 的 であ る か否 か とい う問題 に は殆 ん ど重 き
を置 か な い61)」
。 啓 蒙 の理性 は,価
値 判 断 に実質 的 に関与 しえ ない た め に形 式
的 で あ り,理 性 を人 間精 神 の活 動 として限定 す るゆ え に主 観 的 で あ る。 それ は
所 与 の 目的達 成 の道 具 に過 ぎない とい う意 味 で道 具的理 性 と呼 ぶ こ とが で き る。
そ して,そ の究極 の産 物 こそ実 証主 義 で あ る62)。ところ で,啓 蒙 は,そ れ 以前
に は0体 であ った人 間 と自然 を主体 と客体 に分離 す る。啓 蒙 に よっ て 人 間 は
「
意 味 を与 え る主 体」 と して 自然 支 配 に向 かい,自 然 は 「無意 味 な 対 象63)」 と
して支配 の素材 とな る。啓 蒙 の過 程 とは,道 具 的理 性 によ る主 客 の分 裂 の過 程
で あ り,そ れ に伴 う自然支 配 の過程 であ る。
他 方,神 話 とは,啓 蒙 に よ る文 明化 以 前 の時 期 を支 配 す る原 理 をい う。 具体
的 には,呪 術 や ギ リシ ヤ神 話 が それ であ る。 こ こで は,人 間 と自然 は どの よ う
な関係 にあ るの か。 「呪術 は科 学 と同 様 に 目的 を 目指 す が,呪
距 離 を広 げ る こ とで はな く,ミ メー シ ス(模 倣)に
62)Horkheimer,Adorno,DialektikdarAufklkrung,S.32.
63)Ebenda,S.17.
掲 訳,12ペ
体 との
よ ってそ の 目的 を 追 求 す
60)Ebenda,S.37.
61)Horkheimer,EclipseofReason,P.3.前
術 は,客
ー ジ 。
156
る64)」。 「神 話 は精 神 を 自然 の 中 に埋 没 した も の と して,自
め な い65)」。 神 話 で は,人
間 は 自然 の 一 部 で あ り,そ
然 の力 と して しか 認
の 内 に埋 没 し て い る。 そ
して,「 自然 の諸 力 は相 互 行 為 が可 能 な相 手 と見 な さ れ て い る66)」。 こ の人 間 を
含 ん だ 自然 は,精
霊 や 神 々 とい っ た も の で み た さ れ て お り,そ
れ 独 自 の意 味 や
質 を も っ て い る 。っ ま り 「神 話 は生 命 あ る もの と生 命 な き もの を和 解 させ る67)」
主 客 融 合 の段 階 を い うの で あ る。
こ う し て神 話 と啓 蒙 を定 義 して み る と,人
と して 考 え る こ と が で き る。 そ して,こ
う し た理 解 は実 証 主 義 を代 表 とす る近
代 の 合 理 主 義 に一 般 的 で あ る。 そ こ で は,歴
と さ れ るた め に,な
類 の 歴 史 は神 話 か ら啓 蒙 へ の 移 行
史 は野 蛮 か ら啓 蒙 へ の 一 方 的 進 歩
ぜ 啓 蒙 が新 しい 野 蛮 状 態 に入 っ て い くの か,と
い う前 述 の
問 題 提 起 に答 え る こ とが で き な い 。 神 話 と啓 蒙 の 区 別 を の み 見 る か ぎ り回 答 は
不 可 能 で あ る。 両 者 の 共 通 性 を も視 野 に入 れ な けれ ね ば な ら な い 。 そ こ で,ホ
ル クハ イ マ ー は 次 の二 っ の テ,___に
よ っ て人 類 の 歴 史 を再 解 釈 し よ う とす る。
「神 話 は す で に啓 蒙 で あ る。 啓 蒙 は神 話 に退 化 す る68)」。
第一
一の テ ー ゼ で い う神 話 とは,呪
あ る。 こ の神 話 に は,諸
序,詳
術 以 降 の ギ リシ ヤ神 話 に代 表 され る も の で
現 象 の 象 徴 と して の 神 々,そ
細 に格 式 づ け られ た犠 牲 の方 式 が あ る。 これ ら は主 体 の覚 醒 を抜 き に し
て は存 在 しえ な い 。 こ の段 階 で は,人
に,自
れ ら神 々 の 明確 な 階 層 秩
間 は未 だ神 々 に服 従 し て い るが,明
然 を対 象 化 し意 味 を与 え て い る。 この よ う に,神
と して い る た め に,す
で に啓 蒙 な の で あ る69)。 な お,こ
らか
話 は 主 客 の 分 離 を前 提
れ は神 話 の形 式 的 側 面
に つ い て の 説 明 で あ る。 次 に神 話 の具 体 的 内 容 に則 して こ の テ ー ゼ が 証 明 され
ね ば な らな い 。
『啓 蒙 の弁 証 法 』 で は,ホ
こ の 物 語 は,イ
メ ロ ス の 『オ デ ッセ イ ア』 が 取 りあ げ られ て い る。
タ ケ ー の 王 オ デ ュ ッ セ ウ ス が トロイ ア戦 争 か らの 帰 路 に体 験 す
64}Ebenda.
65)Ebenda,S.96.
66)PaulConnerton,The'7一
α964iソ
Scliool,Cambridge,1980,p.66.
67)Held,op.cit.,p.155.
68)Horkheimer,Adorno,Dlalehtikder・gufhlarung,S.6.
69)Ebenda,S.14.
げ6η1喀
勉 θηηz6漉
」 ノ1ηessayontheF1・
αηたプ諺7プ
道具 的理性 と人 間支配
ヱ57
る様 々 な 冒 険 か らな っ て い る。 「オ デ ュ ッ セ ウ ス の 冒 険 は 自 己 を論 理 的 道 筋 か
ら は ず させ 破 壊 す る危 険 な誘 惑 にみ ち て い る70)」。 神 々 は,人
うち で ま ど ろ ん で い る状 態 へ とオ デ ュ ッセ ウ ス を誘 い,彼
彼 は これ に対 して,文
に様 々 な試 練 を課 す 。
明 人 の旅 行 者 が未 開 の 土 人 をペ テ ン に か け る よ う に,論
計 を用 い て 自然 神 達 を うま く出 し抜 い て,窮
れ ば,こ
間 が 未 だ 自然 の
地 を脱 す る 。 ホ ル クハ イ マ ー に よ
の よ うな オ デ ュ ッ セ ウ ス の 旅 路 は,「 自 己 意 識 に基 づ い て は じ め て 自
分 自身 を形 成 す る 自己 が,種
々 の 神 話 を通 っ て い く道 程 で あ り」,そ の 旅 に は
「神 話 と対 立 す る啓 蒙 が 刻 印 され て い る71)」。 こ の神 話 と対 決 す る啓 蒙 の在 り方
を決 定 す る の が,オ
計 にっ い て は,解
デ ュ ッ セ ウ ス の 用 い る誰 計 で あ る。 「オ デ ュ ッセ ウ ス の論
放 され,道
具 と して 役 だ っ精 神 が あ き ら め て 自然 に取 り入 り,
自然 に は 自然 的 な も の を与 え,そ
うす る こ とで ま さ に 自然 を欺 く とい う風 に定
式 化 で き る72)」。 オ デ ュ ッ セ ウ ス の論 計 の本 質 は道 具 的 理 性 で あ り,彼
を道 具 的 理 性 と同 一一化 す る。 そ し て,表
面 的 に は,道
入 らな い もの を 自然 と して 措 定 す る。 しか し,道
は,自
は 自身
具 的 理 性 の カ テ ゴ リー に
具 的 理 性 を本 質 とす る主 体 に
然 は単 な る支 配 の対 象 で しか な い 。 こ の よ うに,道
具 的 理 性 は,一
度 は
自身 の カ テ ゴ リー に入 ら な い も の に つ い て禁 欲 を守 る よ うに み せ な が ら,実
そ の 実 質 的 支 配 を企 ん で い る の で あ る。 これ が,ホ
欺 く こ と で あ る。 オ デ ュ ッセ ウ ス こ そ は,道
者 で あ り,そ
の意 味 で,彼
は
ル クハ イ マ,_....の
い う 自然 を
具 的 理 性 に よ る 自然 支 配 を 目指 す
は 「ま さ し く市 民 的 個 人 の原 型73)」 な の で あ る。 以
上 の よ う に神 話 は そ の形 式 にお い て も内 容 に お い て も,す
で に啓 蒙 だ っ た の で
あ る。
次 に,第
二 の テ ー ゼ 「啓 蒙 は神 話 に退 化 す る」 を検 討 し て み た い。 こ の テ ー
ゼ は,フ
ァ シ ズ ム に代 表 さ れ る新 しい 野 蛮 状 態 へ の 文 明 の退 行 を指 して い る 。
な ぜ,こ
の よ うな 事 態 が 起 こ っ た の か 。 そ れ は,人
を道 具 的 理 性 に狭 隆 化 した こ と に起 因 す る。 本 来,人
想 とい う理 性 的 な も の を も っ て お り,そ
間 が 自然 支 配 の た め に理 性
間 は 自身 の 内 に理 念 や 思
れ が人 間 に とっ て の 内 な る 自然 で あ る。
70)Connerton,op,cit.,p.68.
71}Horkheimer,Adorno,DialektikderAufklrrung,S.53.
72)Ebenda,S.65.
73)Ebenda,S.50.
ヱ58
しか し,人 間 は道 具 的理 性 のみ を理性 的 な もの とす るこ とで,そ れ らを切 りす
て て きた。 フ ラ ン クフル ト学 派 の第二 世 代 に属 す るヴ ェル マー に よれ ば 「人 間
以外 の 自然 と他 の人 間 に対 す る支 配 は,人 間内 にお け る自然 の否定 に よっ て あ
が な われ る74)」の で あ る。 この こ とは,人 間 が 自由や正義 とい う自身 の生 の 目
的 た るべ き もの を喪 失 し,一 個 の機 械 とな る こ とを意 味 す る。 「その巧 み さ と
知 識 とを分 業 によ って分化 させ て きた人類 は,同 時 に,人 間学 的 には よ り原 始
的段 階 へ と退 行 させ られ る75)」
。 この よ うに第二 の テー ゼ は,一
応,道
具 的理
性 に よる人 間精 神 の物化 とい う人 間学 的洞 察 として理解 す る こ とが で き る。 そ
して,物 化 され た人 間 に残 され た もの は 自己保 存 の原 理 のみ であ る。彼 は生物
と して生 存 す るた め に既 存社 会 に従属 しな けれ ば な らな い。 しか し,こ の社 会
自体 が道 具的 理性 を原 理 と した抑圧 の体 系 とな って い る。 「自然 の暴 力 か ら人
間 を連 れ 出 す ご とに,人 間 に対 す る体 制 の暴 力 が増加 す る とい う状 況 の不 条理
性76)」が現 出 す る の で あ る。第 二 の テー ゼ は啓 蒙 を推進 して きた人 間 が抑圧
の体 系 と し て の 社 会 に従 属 してい く とい う 社 会 学 的洞 察 も示 してい るの で あ
る。
ホ ル クハ イ マー は,啓 蒙 と考話 の弁 証 法 の追 求 に よ って,人 類 の新 しい野 蛮
状 態 は理 性そ の もの に原 因 が あ る こ とを示 した。 理性 の道 具化 が そ の元 凶 で あ
る。 現 代社 会 告 発 の書 ともい うべ きr啓 蒙 の弁 証 法 』 を貫 くの は,正 に この道
具 的 理性 批判 で あ る。 そ れ で は,彼 は新 しい野 蛮 状 態 を現 出 して い る現 代 社 会
を どの よ うに克 服 しよ う とす るの か。
ホ ル クハ イ マー はr理 性 の腐蝕 』 で,道 具 的理 性 に対 す る もの を客観 的 理性
と呼 ん で い る77)。客観 的 理性 とい う考 え方 は 「
力 として の理 性 が,個 人 の精神
のみ な らず 客観 的世 界 の 内 に も,即 ち人 間 相 互 の関係 や社 会諸 階層 の関係,社
会 制 度,自 然 とそ の内 に も存在 す る78)」とい うもの で あ る。換 言 すれ ば 「客観
的 理 性 とい う言 葉 は一 方 にお い て そ の本 質 と して,実 践 的 姿勢
理論 的 姿 勢 の
74)Wellmer,a.a.0.,S.139.
75)Horkheimer,Adorno,Dialektikdeg-AufkZdrung,S.42.
76}Ebenda,5.45.
77)r理
性 の 腐 触 』 で は,客
観 的 理 性 に対 す る も の は 主 観 的 理 性 と呼 ば れ て い る。 啓 蒙
の 定 義 で 述 べ た よ う に,理
78)Horkheimer,EclipseofReason,P・4・
性 の 主 観 化 と道 具 化 は 同 一 の 現 象 で あ る 。
前 掲 訳,12ペ
ー ジ。
道具 的理性 と人 間支配159
別 を問 わ ず,各
々 の 場 合 に 特 定 の行 動 様 式 を要 求 す る,実
指 し示 す 。(中 略)他
方,そ
れ は ま た,そ
在 に 内 在 す る構 造 を
の よ うな 客 観 的 秩 序 を反 省 す る,ま
に こ の努 力 及 び 能 力 を指 す こ と も あ ろ う79)」。 プ ラ トン,ア
コ ラ主 義,ド
イ ツ観 念 論 の 哲 学 体 系 は,こ
体 に関 心 を向 け,価
い え ば,前
ー は ,現
リス トテ レ ス,ス
の 客 観 的 理 性 の 概 念 に基 づ い て い た 。
道 具 的 理 性 と客 観 的 理 性 を対 比 させ る と,前
段 の 整 合 性 に の み か か わ る こ とで,価
さ
者 は 目的 と手 段 の連 関 の う ち で手
値 の 相 対 化 を招 来 し,後
者 は 目的 そ れ 自
値 の客 観 性 を基 礎 づ け よ う と した 。 自然 と人 間 との 関 連 で
者 は分 裂 を,後
者 は融 合 を そ の 原 理 とす る。 そ して,ホ
ル クハ イ マ
代 の新 た な 野 蛮 状 態 が道 具 的 理 性 に よ っ て 惹 起 さ れ た も の で あ る 限 り,
そ の 克 服 の試 み は 「主 観 主 義 的 哲 学 の 残 津 を強 調 す る よ りも,客
調 す る形 で 遂 行 さ れ ね ば な らぬ80)」 とす る。 しか し,現
の み を主 張 す る こ とは,か
な ら,ネ
え っ て,新
観 的 理 性 を強
代 にお い て客 観 的 理 性
た な野 蛮 を引 き起 こ す こ と に な る。 な ぜ
オ トミ ズ ム にお け る よ う に 「客 観 的 理 性 の 提 唱 者 は,産
業 的科 学 的 発
展 に遅 れ を取 り幻 想 で あ る こ とが 明 らか で あ る意 味 を主 張 し,反
動的イデオ ロ
ギ ー を創 り出 す とい う危 険 性 を持 っ て い る。(中 略)客
へ の傾 向 を持 っ て い る」か ら で あ る 。そ こ で,彼
る こ とで は な く,相 互 批 判 を促 し,そ
観 的 理 性 は ロマ ン 主 義
の試 み は 「頑 に両 者 を反 目 させ
う し て,可 能 な らば,現 実 にお け る両 者 の
和 解 を精 神 的 領 域 にお い て 準 備 す る こ とで あ る」。こ の点 に つ い て,ホ ル クハ イ
マ ー は,こ
れ 以 上 明 確 に し て い な い が,こ
れ ま で の彼 の議 論 か ら次 の よ う に考
え る こ と が で き る。 道 具 的 理 性 は 人 間 を 自然 か ら脱 出 させ,人
間 と して の 自律
性 を獲i得 させ た 。 こ の こ と は高 く評 価 され ね ば な ら な い 。 しか し,こ
自然 支 配 とい う観 点 か ら生 ま れ た た め に,そ
を現 出 させ た 。 そ れ ゆ え に,人
の理 性 は
の 自律 性 を再 び 喪 失 し,人
間 の 自律 性 を 回 復 す る た め に は,客
間支配
観 的 理性 に
よ る 自然 と人 間 との 宥 和 とい う観 点 に よ らね ば な らな い 。 っ ま り,「精 神 が,自
らの本 質 を支 配 で あ る と認 め,自 然 の 中 で 支 配 を破 棄 す る謙 虚 さ81)」を持 ち,し
か も,そ
の在 り方 の基 礎 に客 観 的 理 性 の観 念 性 ・非 合 理 性 で は な く道 具 的 理 性
79)Ibid.,P.11.前
掲 訳,19-20ペ
80)Ibid.,P.174.前
掲 訳,204ペ
ー ジ 。
ー ジ 。
81)Horkheimer,Adorno,ヱ)ialektih漉rAuflzlarung,S.46.
lso
の現 実 性 ・合 理 性 を据 え る こ とで,今
る の で あ る 。 い わ ば,自
日 に お け る真 の人 間 的 自律 性 が確 保 され
然 と人 間 との融 合 に動 機 づ け られ た 人 間 の 自律 性 こ そ,
ホ ル クハ イ マ ー が現 代 社 会 克 服 の 理 念 と した もの で あ る。 そ れ で は,こ
人 間 の 自律 性 を生 み だ す,あ
う した
る い は そ れ を実 現 す る組 織 や 政 治 的 行 為 は どの よ
う に あ るべ き な の か 。 ス レー タ ー が い う よ うに ホ ル クハ イ マ ー の理 論 に は こ れ
が 欠 如 して い る82)。現 実 的 契 機 を欠 い た 理 念 は ユ ー トピァ に過 ぎ な い 。 しか し,
ユ ー ト ヒ.アに安 住 す る に は,彼
は余 りに現 代 の病 の 深 さ を知 悉 し て い た。40年
代 以 降 の彼 の理 論 を被 うペ ッ シ ミズ ム は ま さ に こ の こ と に起 因 す る の で あ る。
30年 代 批 判 理 論 は理 論 主 体 の 自律 性 重 視 とい う留 保 っ き で は あ る が,制
度的
変 革 へ の原 理 的 展 望 を もつ とい う意 味 で マ ル ク ス の 経 済 学 批 判 の流 れ の 中 に あ
っ た 。 しか し,40年
代 に入 る と,rr啓
蒙 の 弁 証 法 』 の筆 者 た ち は,経
にお け る労 働 価 値 説 的 基 礎 づ け か ら交 換 合 理 性 批 判 を引 き離 し,そ
済学 批 判
れ を道 具 的
理 性 批 判 に か え た 。 っ ま り,道 具 的 理 性 批 判 が経 済 学 批 判 に と っ て か わ っ た83)」
の で あ る。 こ の経 済 学 批 判 か ら道 具 的 理 性 批 判 へ の移 行 と は つ ぎ の よ うに い え
る。 っ ま り,30年
代 批 判 理 論 は社 会 変 革 の 原 理 を労 働 に内 在 す る もの と考 え る
こ とが 出 来 た 。 そ れ は 基 本 的 に マ ル ク ス の 考 え 方 に従 う も の で あ っ た 。 マ ル ク
ス に よ れ ば,本
来,労
あ る。 しか し,現
働 と は人 間 に主 体 性 を獲 得 さ せ 自己 を実 現 させ る も の で
代 で は 労 働 が 資 本 の 論 理 に よ っ て歪 め られ て お り,そ
の機 能 を失 っ て い る。 そ こ で,理
性 的 な社 会 を建 設 す る た め に は,労
の姿 に戻 さな くて は な らな い 。 そ の た め に,資
の本 来
働 を本 来
本 に よ る労 働 の支 配 を俳 絶 し,
労 働 組 織 とそ れ に基 づ く社 会 体 制 の再 編 成 が要 請 され る。 ホ ル クハ イ マ ー も以
上 の よ うな マ ル ク ス の 労 働 観 に よ っ て,労
前 述 の よ うに,30年
働 組 織 と社 会 体 制 の再 編 成 を考 え た 。
代 の ホ ル クハ イ マ ー は社 会 革 命 の担 い 手 で あ る プ ロ レ タ リ
ァ ー トを信 じ る こ と は 出 来 な か っ た 。 しか し,彼
に は ま だ 理 念 を現 実 化 す る契
機 と して の労 働 が残 さ れ て い た の で あ る。40年 代 に入 る と,こ
信 頼 も失 わ れ る。 そ の原 因 は,彼
82)Slater,op.碗.,P.28.ス
が,労
働 とい う人 間 的 活 動 を 自然 支 配 に よ っ
レ ー タ ー は,フ
ラ ン ク フ ル ト学 派 の 理 論 に は,一 一貫 し て
こ れ に つ い て の 観 点 が 欠 如 し て い る と 批 判 し て い る が,前
に つ い て は こ の批 判 は正 確 とは い い が た い 。
83)Wellmer,a.a.0.,S.138.
の労 働 に対 す る
述 の よ う に30年
代 批判理 論
道 具的理性 と人 間支配161
て動11づ
け られ て お り,そ
れ ゆ え に道 具 的 理 性 を本 質 とす る と考 え た こ と に あ
る。 道 具 的 理 性 を本 質 とす る労 働 は,社
て,彼
会 変 革 の 拠 点 とは な りえ な い 。 こ う し
は理 性 的 社 会 組 織 とい う理 念 を実 現 す る た め の現 実 的 契 機 も喪 失 した の
で あ る。 こ れ と機 を一 に して,彼
は マ ル ク ス主 義 か ら離 れ84),大
戦 後 は 「特 定
の 形 而 上 学 的 神 学 的 伝 統 を再 評 価 す る85)」 ま で に な っ た の で あ る。 ホ ル クハ イ
マ ー が こ の よ う な 出 口 な しの 状 況 に陥 っ た の は,コ
ナ ー トン が い う よ う に,
「自然 支 配 と社 会 関係 にお け る支 配 との 区 別 が で き な か っ た86)」 か らで あ る。
も ち ろ ん,両
者 は 思 想 的 に は 関連 性 を もつ が,そ
れ を無 媒 介 的 に社 会 過 程 の原
理 と し て実 体 化 す る の は誤 り とい わ ざ る をえ な い 。
4.ハ
ー バ ー マ ス の社 会 理 論
30年 代 か ら40年 代 にか け ての ホ ル クノ・イ マ ー の理論 的 営 為 は 「経 済 学批 判 を
歴 史 哲 学的 に普 遍化 す るこ と87)」で あ った。彼 は道 具的 理 性 の弁 証 法 を追 求 す
る こ とで,実 証 主 義的 な没 価 値性 や形 而 上 学 的 な実体 性 を批 判 し,理 性的 な社
会 組 織確 立へ の道 を模 索 した。 批 判理 論 は現 実的 契機 を得 られ ない た め に袋 小
路 に陥 ったが,現 状変 革 の た め に貴重 な貢 献 をな した とい え る。理 性 の機 能 変
化 を主 眼 とす る歴 史 哲 学 に基 礎 づ け られ た科 学 理 論 の あ り方 の変 革 が それ で あ
る。 この理 論 変革 は社 会成 員 で あ る個 々人 の意 識 変革,社
が ってい くべ き もので あ る。 この よ うな,い
要 請,そ
会体 制 の変 革 につ な
わば 「
知 」 の パ ラ ダイ ム の変 換 の
れ を道 具的 理 性批 判 とい う視 点 か ら行 った ところ に,ホ ル クハ イ マ ー
の批判 理 論 の現 代 的意 義 が あ る といえ よ う。我 々 の課 題 は,こ れ をい か に現 代
的 に展 開 す るか とい うとこ ろ にあ る。 そ の意 味 で,現 代 ドイ ツ にお け る最 もア
クテ ィブな社 会学 者 で あ るユ ル ゲ ン ・ハ ー バ ー マ スの理 論 は一 つ の方 向性 を示
唆 してい る と思 われ る。 こ こで は,フ
ラ ン クフル ト学 派 の現 代的 展 開 の一 例 と
84)"Waswir,Sinn'nennen,wirdverschwinden,"DerSpiegel,Jan.5,1970.こ
れ は ホ ル ク ハ イ マ ー へ の イ ン タ ヴ ュ ー 記 事 で あ る 。 彼 は こ の 中 で,第
ル ク ス 主 義
と訣 別
85)Held,off,cit.,p.198.
86)Connerton,off,cit.,p.64.
87)Wellmer,a.a.0.,S.144.
し た と述 べ て い る 。
二 次 大 戦 中 に マ
ヱ62
して ハ ー バ ー マ ス の 理 論 を検 討 し て み た い 。
1961年
に開 催 さ れ た ドイ ツ社 会 学 会 の研 究 集 会 は,フ
ラ ン ク フル ト学 派 に と
っ て 一 つ の 大 き な 結 節 点 とな っ た 。 こ の集 会 を契 機 に,ア
ス等 の フ ラ ン ク フ ル ト学 派 とポ ッパ ー,ア
ドル ノ,ハ
ーバーマ
ル パ ー トに代 表 さ れ る批 判 的 合 理 主
義 とが実 証 主 義 を め ぐ っ て大 論 争 を繰 り広 げ た の で あ る88)。批 判 的 合 理 主 義 は,
理 論 をす べ て仮 説 と し て と らえ,経
験 に よ る合 理 的 批 判 に よ っ て真 理 に近 づ こ
う とす る。 彼 らは人 間 の認 識 は限 られ た もの で しか な い とい う 自覚 に立 ち,困
果 分 析 的 方 法 を唯 一一の 方 法 と して,漸
る。 こ うい う意 味 で,批
進 的 な社 会 工 学 に よ る社 会 変 革 を志 向 す
判 的 合 理 主 義 の 立 場 は つ つ ま しや か な実 証 主 義 とい う
こ とが で き る。 ア ドル ノ等 は,こ
う した ポ ッパ ー 等 の見 解 に対 して,弁
証法的
全 体 性 の概 念 を対 置 した 。 ア ドル ノ に よ れ ば個 々 の理 論 は全 体 の先 取 りな し に
は そ の 価 値 を決 定 す る こ と は 出 来 な い 。 ポ ッパ ー の よ うな 全 体 性 を断 念 した 理
論 は,結
局,支
に対 し て,ア
配 の 手 段 ・イ デ オ ロ ギ ー に な っ て し ま う。 ポ ッパ ー 等 は,こ
れ
ドル ノ等 が い う弁 証 法 的 全 体 性 こ そ独 断 論 で あ る と反 論 した 。 こ
の論 争 は後 に様 々 な 論 点 に わ た っ て展 開 さ れ た が,フ
は き わ め て悪 か っ た 。 なぜ な ら,こ
ラ ン ク フ ル ト学 派 の旗 色
の 学 派 は批 判 に終 始 し,独
自 な社 会 理 論 を
展 開 し て い な か っ た か ら で あ る。 代 案 を提 示 しえ な い 批 判 は不 毛 で あ る。 同 学
派 の 若 き代 表 者 と して 論 争 に参 加 した ハ ー バ ー マ ス は,こ
い な い 。 これ 以 降,彼
の感 を強 く した に違
は積 極 的 な社 会 理 論 を構築 す べ く,精
力 的 に研 究 活 動 を
開 始 した の で あ る。
ハ ー バ ー マ ス は人 間 の行 為 類 型 を 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 に分 類 す る89)。 こ
の 分 類 が 彼 の理 論 の端 緒 で あ り,後
「労 働 」 とは,人
の理 論 展 開 に と っ て の 基 本 的 枠 組 で あ る。
間 を と りま く 自然 の支 配 と コ ン トロー ル を 目的 と す る 「道 具
を用 い た行 為 」 な い し 「合 理 的 選 択 」 あ る い は両 者 の 結 合 を い う。 そ れ は,経
験 的 知 識 に よ る技 術 的 規 則 や 分 析 的 知 識 に基 づ く とい う意 味 で,「 目的 合 理 的
行 為 」 の体 系 とい うこ とが 出 来 る。 他 方,「 相 互 行 為 」 と は,人
問 ど う しの 言
88)Adornoetal.,DerPositivismusstreitinderdeutschen,Soziologie.
89)JurgenHabermas,Technikand1腕
長 谷 川 宏 訳rイ
∬ θπ5腕 諺als>ldeologie〈,Frankfurt,1968.
デ オ ロ ギ ー と し て の 技 術 と 科 学 』 紀 伊 国 屋 書 店,1970年
。
道具的理 性 と人間支配
語,記
号,シ
ヱ63
ン ボ ル に媒 介 され た 行 為 を い う。 そ れ は社 会 的 規 範 に基 礎 づ け ら
れ た 「コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン行 為 」 とい え る。 こ の定 義 か ら判 る よ う に 「労 働 」
と 「相 互 行 為 」 と は,ハ
ー バ ー マ ス に よ る 「啓 蒙 」 と 「神 話 」 の 読 み か え とい
う こ とが で き る。 そ して,彼
は社 会 の 性 格 づ け に際 して こ の両 概 念 を も っ て す
る。 っ ま り,社 会 の 制 度 的 枠 組 の正 当化 が,目
的 合 理 的 行 為 で あ る 「労 働 」 と
コ ミュ ニ ケ ー シ ョ ン行 為 で あ る 「相 互 行 為 」 の ど ち ら に よ り多 く依 存 して い る
か に よ っ て,社
会 の性 格 が 特 徴 づ け られ る とい うの で あ る 。 伝 統 的 社 会 は 家 族
や 血 縁 とい っ た道 徳 的 規 則 が そ の制 度 的 枠 組 を正 当 化 す る た め に,「 相 互 行 為 」
が優 勢 な社 会 で あ る。 他 方,資
本 主 義 社 会,特
に後 期 資 本 主 義 社 会 は,技
術 至
上 主 義 と も い うべ き意 識 が そ の制 度 的 枠 組 を正 当化 して い る ゆ え に,「 目的 合
理 的 行 為 」 で あ る 「労 働 」 が 支 配 的 な社 会 で あ る 。
と こ ろ で,ハ
ー バ ー マ ス が 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 を峻 別 した 意 図 は,マ
ク ス に対 す る批 判 に あ った と思 わ れ る。 ま ず,彼
は 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 を
マ ル ク ス の 生 産 力 と生 産 関 係 に対 応 させ る。 そ し て,マ
ズ ム と し て生 産 力 と生 産 関 係 の 矛 盾 を考 え,社
の も と に,生
ル
ル ク ス は変 革 の メ カ ニ
会 的 実 践 とい う あ い ま い な名 称
産 関 係 を生 産 力 に還 元 し た とす る。 ハ ー バ ー マ ス に よ れ ば,マ
ル
ク ス は基 本 的 に生 産 力 主 義 で あ り,「 労 働 」 の 側 か ら変 革 を考 え た の で あ る。
ハ ー バ ー マ ス は こ の マ ル ク ス の考 え を今 日 で は有 効 で な い とす る。 な ぜ な ら,
科 学 技 術 の発 展 に よ る生 産 力 の 上 昇 は,現
代 で は人 間 解 放 の条 件 で は な く,か
え っ て 人 間 抑 圧 の手 段 とな っ て い る か らで あ る。 後 期 資 本 主 義 社 会 は そ の す み
ず み に い た る ま で,官
僚 制 が 貫 徹 し,目
本 来 は 「相 互 行 為 」 に基 づ い て,目
的 合 理 的 に組 織 され て い る社 会 で あ る。
的 合 理 性 を統 御 す べ き政 治 の領 域 ま で が,
行 政 官 僚 に よ っ て機 能 化 され て い る。 こ う し た社 会 で は,生
産 力 の上 昇 は,人
間 支 配 の実 態 を隠 蔽 す る イ デ オ ロ ギ ー と し て機 能 す る の で あ る。 ハ ー バ ー マ ス
の問 題 意 識 を要 約 す れ ば,現
蝕 に あ る。 そ れ ゆ え に,社
代 社 会 の 病 根 は 「労 働 」 に よ る 「相 互 行 為 」 の侵
会 変 革 の 契 機 は 「労 働 」 で は な く 「相 互 行 為 」 の 復
権 に求 め られ ね ば な ら な い 。 そ の具 体 的 な も の と して,彼
や 規 範 の 妥 当 性 を議 論 す る,支
は,行
為 を導 く原 則
配 権 力 か ら 自 由 な 公 開 の 討 論 を提 案 す る の で あ
る。 以 上 が・ ハ ー バ ー マ ス の 理 論 の基 本 的 構 造 で あ る。 次 に,彼
の社 会 理 論 に
164
つ い て見 て み た い 。
ハ ー バ ー マ ス は社 会 全 体 を把 握 す る た め に社 会 シ ステ ム論 を批 判 的 に摂 取 す
るgo)。社 会 シ ス テ ム論 と は,社
会 を様 々 な 諸 要 素 間 の 相 互 作 用 と相 互 依 存 か ら
な る シ ス テ ム と して捉 え る考 え方 で,タ
ル コ ッ ト ・パ ー ソ ン ズ に よ っ て理 論 的
に 発 展 させ られ た も の で あ る。 ハ ー バ ー マ ス に よ れ ば,社
シ ス テムー
経 済 シ ス テ ム,政
る。 そ して,彼
治 行 政 シ ス テ ム,社
会 シ ステ ムは三 つ の
会 文化 シ ステ ム
か らな
は これ ら の 中 で も社 会 文 化 シ ス テ ム を重 視 す る。 社 会 文 化 シ ス
テ ム は政 治 行 政 シ ス テ ム に対 し て正 当 化 とい う動 機 づ け を行 い,経
済 シ ステ ム
に対 して は業 積 主 義 の動 機 づ け を与 え る。 こ の こ と を具 体 的 に い え ば,政
治や
行 政 は社 会 文 化 的 価 値 に 基 礎iづ け られ た 大 衆 の 合 意 と支 持 に よ っ て そ の 正 当性
を得 る の で あ り,経
済 は そ れ を動 か す 個 人 や 集 団 が業 積 次 第 で社 会 的 に上 昇 し
う る とい う価 値 規 範(業
積 主 義)に
よ っ て動 機 づ け られ る こ と で可 能 に な る と
い う こ と で あ る。 っ ま り,ハ
ー バ ー マ ス に あ っ て は,社
づ け とい う作 用 に よ っ て,政
治 行 政 シ ス テ ム と経 済 シ ス テ ム の 基 礎 を な す の で
あ る 。 そ れ ゆ え に,も
会 文 化 シ ス テ ム は動 機
し社 会 文 化 シ ス テ ム が そ の動 機 づ け を で き な い な らば,
社 会 シ ス テ ム全 体 が そ の 同 一 性 を失 い 統 合 を喪 失 す る と い う危 機 に陥 る の で あ
る。
と こ ろ で,ハ
ー バ ー マ ス は こ の社 会 シ ス テ ム の統 合 を
integratioh)と
「シ ス テ ム統 合 」(System-integration)に
る。r社 会 統 合 」 と は,各
「社 会 統 合 」(Sozia1・
区 別 して 考 え て い
主 体 が コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン行 為 を通 じて 一 定 の価 値
規 範 とそ の現 象 形 態 で あ る制 度 に統 合 され る こ と を い う。 こ こ で は,社
テ ム は価 値 規 範 を媒 介 に して構 造 化 され る生 活 世 界Lebensweltと
会 シス
して あ ら わ
れ る。 こ の 意 味 で 「社 会 統 合 」 は人 間 の 内 面 あ るい は人 間 相 互 の レベ ル で の統
合 とい え る。 他 方
「シ ス テ ム統 合 」 とは,経
済 や 政 治 行 政 とい っ た シ ス テ ム が,
不 安 定 な環 境 の複 雑 性 を 自己 制 御 力 で克 服 す る こ とで,シ
を保 つ こ と を い う。 こ れ は シ ス テ ム(あ
ステ ム としての統合
るい は そ れ を形 成 す る個 人)と
外的 自
然 との レベ ル で の 統 合 で あ る。 「社 会 統 合 」 は規 範 構 造 に し た が う コ ミ ュ ニ ケ
90)且abermas,L¢9ゴ'伽
雄 訳
α♂加
鋤06♂8η3ε 〃η 勘 微
砂 ∫∫α♂醜zz3,Frankfurt,1973・
『晩 期 資 本 主 義 に お け る 正 統 化 の 諸 問 題 』 岩 波 書 店,1979年
。
細谷 貞
道具 的理 性 と人 間支配165
一 シ ョ ン行 為 に よ っ て
,「 シ ス テ ム統 合 」 は技 術 的 規 則 に した が う道 具 を も ち
い た 行 為 に よ っ て 果 た さ れ る の で あ る。 これ ら二 つ の 統 合 は,そ
の 対 象 と方 法
か らみ て 「相 互 行 為 」 と 「労 働 」 とに対 応 させ る こ とが で き る 。 しか し,ハ
バ ー マ ス に よ れ ば,既
ー
存 の シ ス テ ム 論 は 「社 会 統 合 」 と 「シ ス テ ム 統 合 」 との
区別 を 自覚 して い な い 。 既 製 の シ ス テ ム論 は政 治 シ ステ ム を制 御 中 枢 と し て そ
の 下 位 に社 会 文 化 シ ス テ ム と経 済 シ ス テ ム を位 置 づ け る 。 シ ス テ ム論 も規 範 構
造 の 問 題 を扱 うが,そ
れ は 「シ ス テ ム 統 合 」 を主 眼 とす る制 御 の観 点 か らで あ
る。 つ ま り,既 製 の シ ス テ ム論 にお い て,規
範 構 造 は単 に制 御 の 対 象 で しか な
い の で あ る。 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 の文 脈 で い え ば,シ
ス テ ム論 は 「相 互 行
為 」 の 問 題 を 「労 働 」 の 問 題 に,「 社 会 統 合 」 を 「シ ステ ム 統 合 」 に 還 元 し て
い る の で あ る。 「意 味 」 の概 念 を 中心 にす え て既 製 の シ ス テ ム論 の 限 界 を 打 破
し よ う とす る ル ー マ ン も,結
バ ー マ ス にお い て は,規
局,こ
の弊 害 か ら免 れ て い な い の で あ る91)。ハ ー
範 構 造 こ そ他 の シ ス テ ム を可 能 に して い る最 大 の要 因
で あ り,現 状 変 革 の ポ イ ン トで あ る。 こ の よ うな規 範 構 造 に つ い て の 考 え方 の
相 違 が,ハ
は,社
ー バ ー マ ス を して 社 会 シ ス テ ム論 か ら離 反 させ た の で あ る。 そ れ で
会 シ ス テ ム論 が 正 当 に扱 え な い 規 範 構 造 は い か な る論 理 に よ るべ き な の
か 。 彼 は そ れ を解 釈 学 に求 め る の で あ る92)。
解 釈 学 は聖 書 解 釈 に始 ま り,デ
ィ ル タ イ が 哲 学 体 系 と し,現
に よ っ て展 開 され て い る。 そ れ は,芸
術 作 品,風
習,法
律,経
切 の 歴 史 的 社 会 的 産 物 を人 間 の 体 験 の産 物 と して 捉 え,そ
る意 味 を理 解 的 方 法VerstehendeMethodeに
て い る 。そ して,こ
91)ハ
代 で はガ ダ マー
済,科
学 な ど0
の体 験 の共 通 項 で あ
よ っ て解 釈 す る こ とを 目的 と し
の 意 味 が 価 値 規 範 を形 成 して い る 。そ れ ゆ え に,解 釈 学 に よ
ー バ ー マ ス とル ー マ ン の 論 争 は 次 の 書 物 に 収 め られ て い る 。
JurgenHabermas,NiklasLuhman,Theorie漉
プGθ5ε 〃5`1ぬ 渉o漉r80之
ガ
α漉6肋o。
logie‐WasleistetdieSystemforschung2,{Theorie-Diskussion),Frankfurt,1971
な お,こ
.
の 論 争 は 後 に 多 く の 参 加 者 に よ っ て 継 続 さ れ た 。 そ の 成 果 は 次 の 書 物 に 収 め
られ て い る 。
FranzMaciejewskihrsg.,Theorie漉rGesellschaftα
伽80漁
」ごθc加o♂qgゴ8
,
(Theorie--13iskussionSupplementY),Frankfurt,1973.
FranzMaciejewskihrsg.,TheoriederGesellschaftoderSozialtechnologie
(Theorie-DiskussionSupplementII),Frankfurt,1974.
92)Habermas,Z?,lrLogikderSo之
認 厩 膨 η5漁 α渉6η,Frankfurt,1970.
,
166
れ ば,人
間 に よ る一 切 の 産 物 は,意
識 的 で あ れ 無 意 識 で あ れ,こ
う した 価 値 規
範 に拘 束 され て い る 。 解 釈 学 は人 間 的 産 物 と価 値 規 範 の 対 応,そ
して後 者 が ど
の よ う に形 成 され て い くの か を問 う科 学 で あ る。 解 釈 学 か らす れ ば,社
会 シス
テ ム論 を始 め とす る経 験 科 学 も決 して 普 遍 的 無 前 提 的 な も の で は な い 。 そ れ は,
本 来 的 に は人 間 の 価 値 に拘 束 され て い る経 済 や 政 治 とい っ た 対 象 を技 術 的 に処
理 し うる とい う暗 黙 の 前 提 の 上 に立 っ た相 対 的 な もの で あ る。 こ の こ と は,道
具 的 理 性 を原 理 とす る現 代 社 会 そ の も の に っ い て もい え る。 しか し,経
や そ れ を原 理 とす る現 代 社 会 は,自
ら が よ っ て立 っ こ の前 提 の歴 史 性 相 対 性 に
つ い て無 自覚 で あ る。 こ の 無 自覚 こ そ が,か
呼 ん だ も の で あ り,現
験科学
つ て ホ ル クハ イ マ ー が 科 学 主 義 と
代 社 会 に人 間 疎 外 と もい うべ き新 しい 野 蛮 状 態 を招 来 し
て い る元 凶 な の で あ る。 経 験 科 学 が こ う し た状 態 を招 い た の は 困 果 分 析 的 手 法
とい うそ の方 法 に原 因 が あ る。 こ の方 法 は,対
「労 働 」 の レベ ル で は 有 効 で あ る が,価
象 を技 術 的 に処 理 す る と い う
値 規 範 に よ る 「相 互 行 為 」 の レベ ル を
扱 う に は不 適 当 で あ る。 「相 互 行 為 」 とい う人 間 の 内 面 に か か わ る も の を扱 う
に は,対
象 に表 現 され て い る 内 的 な連 関 を追 体 験 し把 握 す る とい う理 解 的 方 法
に よ らね ば な らな い 。 この 理 解 的 方 法 を と る の が解 釈 学 で あ る。 ハ ー バ ー マ ス
が 解 釈 学 を導 入 す る の は,自
身 が暗 黙 の 内 に前 提 して い る価 値 規 範 を対 自化 す
る とい う 自己 反 省Selbstreflexionの
しか し,ハ
ー バ ー マ ス は解 釈 学 を全 面 的 に支 持 す る こ とは しな い93)。 ハ ー バ
ー マ ス に よれ ば解 釈 学 者,特
当化 し,自
は,伝
作 用 を解 釈 学 が も っ て い る か ら で あ る。
に ガ ダ マ ー は対 自化 した価 値 規 範 を伝 統 と して 正
身 の現 実 をそ れ に適 合 させ る とい う傾 向 が あ る。 そ の正 当化 の根 拠
統 が人 々 の合 意 に よ っ て形 成 され て い る とい う点 に求 め られ て い る。 し
か し,ハ
ー バ ー マ ス は,現
代 社 会 の 問 題 を入 々 の 合 意 そ れ 自体 が 体 系 的 に歪 め
られ て い る点 にみ て い る。 そ れ ゆ え に,彼
は,歪
曲 され た合 意 に基 づ く伝 統 を
正 当化 す る解 釈 学 をそ の ま ま受 容 す る こ と は 出 来 な い 。 そ こ で,彼
「解 放 的 な認 識 利 害 関 心 」EmanzipatorischeErkenntnisinteresseと
93)バ
ー一バ ー マ ス の 解 釈 学 批 判 は,ガ
は解 釈 学 を
結 びつけ
ダ マ._._と の 論 争 の 中 で 行 わ れ た 。 ハ ー バ ー マ ス ・
ガ ダ マ ー 論 争 に も 多 くの 人 が 参 加 し た 。
HermeneutikandIdeologiekritik,{Theorie-Diskussion),Frankfurt,1971.
道 具的理性 と人 間支配
る こ とで,既
ヱ67
存 の伝 統 や 支 配 を批 判 す る イ デ オ ロギ ー 批 判 の機 能 を果 た させ よ
う とす る の で あ る。
ハ ー バ ー マ ス の 問 題 設 定 は,生
ず,か
産 力 の上 昇 に もか か わ らず 人 間 の 解 放 が 進 ま
え っ て新 た な 人 間 支 配 が発 生 して い る の は なぜ か とい う こ とで あ る。 そ
れ ゆ え に,解
こ ろ で,既
放 の 契 機 は生 産 力 で は な く生 産 関 係 に求 め られ ね ば な らな い 。 と
存 の革 命 理 論 は こ の両 者 を あ い ま い な形 で融 合 させ るか,後
者 に還 元 して い る。 そ こ で,ま
者 を前
ず 両 者 の相 違 が 明 確 に され ね ば な らな い 。 そ の
た め に,彼
は両 者 に対 応 す る も の と して 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 を区 別 し た。
そ し て,社
会 全 体 を把 握 す る も の と して社 会 シ ス テ ム 論 を批 判 的 に導 入 しつ つ,
こ の理 論 が 「労 働 」 の領 域 だ け しか 扱 え な い こ と,「 シ ス テ ム 統 合 」 の 側 面 に
の み か か わ る こ と を明 らか に した。 そ れ を補 完 す る た め に,彼
は,解
釈学 を
「相 互 行 為 」 の領 域 と 「社 会 統 合 」 を視 野 に入 れ て い る科 学 と し て取 り 入 れ,
そ の保 守 性 を打 破 して,イ
デ オ ロ ギ ー 批 判 を行 お う と した 。 彼 の 理 論 的 戦 略 は,
「解 放 的 な認 識 利 害 関 心 」 に導 か れ た解 釈 学 に よ っ て,既
批 判 す る こ とで理 性 的 社 会 の あ り方 を探 究 し,そ
存 の 支 配 体 制 を反 省,
れ に基 づ い て 社 会 シ ス テ ム理
論 を援 用 しつ つ 社 会 を再 編 成 す る とい う こ と で あ る。 そ の 具 体 的 方 策 と して は
前 述 し た 支 配 か ら 自 由 な 討 論 が 考 え られ て い る 。 最 近 の著 作 で,彼
世 界 の 植 民 地 化 」KolonialisierungderLebensweltと
る94)。 本 来,生
い う こ とを言 っ て い
活 世 界 とは 自 由 な 討 論 の場 で あ り,政
テ ム に動 機 づ け を与 え る母 体 で あ っ た 。 しか し,今
テ ム が 道 具 的 理 性 に よ っ て独 立化 し,逆
は,「 生 活
治 と経 済 とい う下 位 シ ス
日で は,こ
れ らの 下 位 シ ス
に生 活 世 界 の動 機 づ け を規 制 して い る。
生 活 世 界 は政 治 と経 済 が 要 求 す る道 具 的 理 性 に適 合 的 な動 機 づ け の み を供 給 す
る もの に な っ て い る。 現 代 は,こ
の よ うな政 治 ・経 済 シ ス テ ム に よ る生 活 世 界
の植 民 地 化 が 頂 点 に達 した時 代 で あ る。 ハ._._バー マ ス は,こ
た め に,生
活 世 界 の活 性 化,そ
の状 況 を打 破 す る
の た め の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン行 為 の 遂 行 を提 唱
し て い る。
ハ ー バ ー マ ス は 以 上 の よ う に き わ め て意 欲 的 に現 代 科 学 の成 果 を摂 取 しつ つ
94)Habermas,Theoriederんo初
プ物 ηんあoη α1ゴ
∫あ∫6hθηVernunノ
那 襯 猛 α距℃3ηHandelnsBd.2.Zz`プKritikder
診,Frankfurt,1981.S.552.
168
自身 の 理 論 を展 開 して い る 。 そ の 理 論 は現 在 進 行 中 で あ る が,輪
う で あ る。 彼 の理 論 の うち 評 価 す べ き点 は,ホ
に力 点 を置 い た の に対 して,社
郭 は以 上 の よ
ル クハ イ マ ー や ア ドル ノ が 批 判
会 変 革 の た め の 積 極 的 代 案 を原 理 的 な部 分 か ら
導 き出 し て い る こ とで あ る 。 ホ ル クハ イ マ ー 等 は,変
革 の た め の 基 礎 を道 具 的
理 性 と区 別 され る い わ ば真 の 理 性 に求 め て い る。 しか し,彼
い て 積 極 的 に述 べ よ う とは しな か っ た。 そ れ に対 して,ハ
ー バ ー マ ス は こ の理
性 を人 間 の 「相 互 行 為 」 に お い て展 開 され る も の と して,ま
っ て 接 近 し う る も の と して と らえ る。 そ うす る こ とで,彼
ら は こ の理 性 に っ
た理 解 的方 法 によ
は社 会 変 革 の 基 礎 で
あ るべ き理1生 を理 論 的 対 象 と しえ た 。 こ の点 は高 く評 価 され る べ き で あ ろ う。
そ し て,彼
の 理 論 は 「相 互 行 為 」 を扱 う コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン論 が 中心 とな る の
で あ る。 と こ ろ で,ハ
ー バ ー マ ス に対 す る批 判 は こ の 点 を め ぐ っ て な され る べ
き で あ ろ う。 っ ま り,彼
は 「労 働 」 と 「相 互 行 為 」 の 相 違 を強 調 す る あ ま り,
「労 働 」の概 念 を狭 隆 化 し,本 来 的 な両 者 の相 互 連 関 を看 過 して い る の で は な い
か とい う こ とで あ る 。ハ ー バ ー マ ス に よ れ ば,「 相 互 行 為 」に お い て練 り上 げ ら
れ た 理 念 に よ っ て 「労 働 」 が 再 編 成 され る とい うこ と に な る。 っ ま り 「相 互 行
為 」 か ら 「労 働 」 へ 向 か うベ ク トル が 強 調 さ れ て い る。 しか し,実
は な い だ ろ う。 「労 働 」 とは社 会 的 労 働 で あ り,人
「相 互 行 為 」 を行 う過 程 で あ る。 そ れ は,単
際 はそ うで
々 が そ こで共 同 す る こ とで
に対 自然 的 行 為 で あ る だ け で な く,
人 間 相 互 の 関 係 で あ る 「相 互 行 為 」 形 成 の 過 程 で も あ る の で あ る。 こ の観 点 に
立 て ば,社
会 変 革 の構 想 は,ま
ず 「相 互 行 為 」 発 生 の 基 盤 と し て の 「労 働 」
次 元 で考 え られ ね ば な らな い 。 そ うす る こ とで,変
革 の た めの具体 的 契機 が得
られ る 。 社 会 変 革 が 具 体 的 制 度 変 革 で あ らね ば な らぬ 以 上 そ の こ と は不 可 欠 で
あ る。 こ の よ う に 「相 互 行 為 」 の み を重 視 す るハ ー バ ー マ ス の 理 論 は,当
為 だ
け を主 張 す る形 而 上 学 に堕 す る危 険 性 を は らん で い る とい え る の で あ る。
む
す
び
ホ ル クハ イ マ ー や ハ ー バ ー マ ス が 取 り組 ん だ の は近 代 化 の問 題 で あ っ た 。 道
具 的 理 性 を原 理 とす る近 代 化 の 中 で,人
間 は い か に 失 わ れ た 自律 性 を回 復 し,
道具的理性 と人間支配169
理 性 に基 づ いた社 会 を再 建 す べ きか,こ れ が近 代 化 に内包 され てい る問題 で あ
る。彼 らは この問 題 の解 答 を既 存 の選択 肢 で あ る実 証 主義 と形 而上 学 の うち に
求 め るこ とは で きな か った。 なぜ な ら,実 証 主 義 は近 代化 を進 歩 として全 面 的
に是認 す る こ とで,原 理 的 に近 代化 に伴 う問題 に盲 目で あるか らで あ り,形 而
上 学 は近 代化 の弊 害 を意 識 しな が らも,そ の解 答 を現 実 の中 で見 出 そ う とは し
な いか らで あ る。 いず れ に よって も,近 代 化 の危 機 は解 決 されず,か
幅 され るこ とにな る。 そ こで,彼
え って増
らは第 三 の選 択肢 に よ らね ば な らなか った。
しか も,そ れ は実証 主 義 の現 実性 と形 而 上学 の理 想性 を媒 介 す る もの で な けれ
ば な らな い。30年 代 のホ ル クハ イ マー は,労 働 に内在 す る理 性 的社 会 の原 理 を
自覚 す る理論 家 にそ の解 答 を求 めた。 自覚 的 理論 家 の存 在 とい う留保 をつ けな
が らも,彼 は労働 とい う現 実 の内 に理 性 的社 会 へ の契 機 を見 出 して いた の で あ
る。 しか し,40年 代 にお け る理性 概 念 の検 討 はホ ル クハ イ マー の方 向性 を変 え
た。労 働 は 自然 支 配 を 目的 と して お り,そ の た め に労働 にお い て生 れ る理 性 は
道 具 的 で あ る。 そ れ ゆ え に労働 は理 性 を生 み 出す 基盤 で は な く,人 間支 配 を強
化 す る元 凶 であ る。 この よ うに考 えた ホ ル クハ イ マー は,理 性 の 目的 を 自然 と
の宥 和 に向 け る こ とで,理 性 の機 能転 化 を企 てた。 しか し,現 実 との連 関 を欠
い た理 性 の機 能 転 化 とは所 詮観 念 論 で あ る。 こ うして,ホ ル クハ イ マ ー の理 論
は現 実性 と理想 性 との媒 介 とい う企 て を放 棄 す る こ とにな った。 ホ ル クハ イ マ
ー の後 を受 けたハ ーバ ー マ スは ,理 性 を反 省 しそ の機 能 転化 を促 す過程 として
「
相 互行 為 」 を,具 体 的 には支配 か ら自由な公 開討 論 を重 視 し,そ の母体 と し
て生 活 世 界 を考 え てい る。彼 の理 論 的枠 組 は,「 解 放 的 な認 識 利 害 関心 」 に 導
かれ た理 論 家 が,解 釈 学 によ って,生 活 世 界 に支 配 的 な価 値 規 範 を批 判検 討 す
る こ とで解 放的 な価 値 規 範 を と り出 し,そ れ に よって下位 シ ステ ム で ある経 済
と国家 を再 編成 しよ うとす る もの で あ る。
以 上 の よ うなホ ル クハ イ マー とハ ーバ ー マ スの理 論 的 営 為 は,道 具的 理性 に
よ って侵 蝕 され続 け る理性 の領 域 を回復 し活 性 化 させ る試 み とい え る。 しか し,
彼 らは理 性 の領 域 に固執 す る あ ま り,現 実 との連 関 を軽 視 す る傾 向 が あ る。 ハ
ー バ ー マ スは生 活 世界 とい う形 で理性 と現 実 とを媒 介 させ よ うと して い るが ,
生活世界 を 「
相 互行 為 」 レベ ル で のみ捉 え るか ぎ り,そ の媒 介 の試 み は失 敗 に
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終 らざる をえ ない。 社 会変 革 が制度 変革 に収 敏 され ね ば な らぬ以 上,理 性 回復
の要求 は現 実 の内 に具体 的 基礎 を もた な けれ ば な らない か らで あ る。 そ の意 味
で,ハ ー バ ー マ ス の 「労働 」概 念 は 「
相 互 行 為」 を もそ の視 野 に入 れ る社 会 的
労 働 と して再建 され ね ば な らな い。 この再定 義 に よって こそ 「
相 互 行 為」 を対
象 とす る彼 の コ ミュ ニケ ー シ ョン論 や 「シ ステ ム統 合 」 と 「社 会 統合 」 との区
別 が ・人 間解 放 の理 論 として正 し く機 能 し うるの で あ る。 そ して,こ
う した科
学 研 究 は学 際 的 に行 わ れ るべ きで あ ろ う。今 日の科 学研 究 こそ は道 具 的理 性 に
支 配 され細 分化 の中 で人 間解放 とい う本 来 の 目的 を失 い,人 間支 配 の手 段 と化
してい る もの で あ る。 こ うした現 状 を打 破 す るに は,各 々 の専 門 家 が真 の理 性
的社 会 確 立 とい う共 通 の問題 意 識 に立 って共 同研 究 を進 め る こ とが必 要 で あ る。
個 々 の研 究者 内 で の理 性 と現 実 の媒 介,ま
た共 同研 究 の 中 で の両 者 の媒 介,こ
の重 層 的媒 介 作用 に よっ て こそ,現 代科 学 は人 間解 放 の た めの理論 的 拠 点 とな
り うるの であ る。
(平 和 問題 研 究所 助 手 ・理 論社 会 学)
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