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ここをクリック - 伊奈いきがいネットクラブ

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ここをクリック - 伊奈いきがいネットクラブ
表紙絵は会員の遠藤平雄
さんの作品です
目
次
戦後70年平和祈念集発刊にあたって 港区職員退職者会会長
(以下投稿順に掲載しています)
P
3
1、オールドブラックジョー=寺口成美
2、日本の平和に対する思い=宮川 修
P
P
5
6
3、空襲及び戦後の生活=岡三和子
4、戦後の戦争=竹川美江子
P
P
7
8
5、祖母や母の戦争体験=佐藤すみ江
6、コタツと戦争=菅原三弥
P 9
P10
7、東京大空襲に遭う=柳澤範光
8、一粒ちょうだい=峯尾 勇
P11
P12
9、歴史と向き合い戦争のない未来へ=故
10、戦中戦後の生活の思い出=高橋秀子
本郷真一
嘉藤長二郎
11、東京大空襲と学童疎開展、早乙女勝元氏の講演会に参加して
=岡村昭則
12、夏くれば敗戦忌を詠まずにいられない=稲垣 愛
13、我が小学校時代の太平洋戦争に纏わる悲惨な体験記=宮尾好俱
14、戦中戦後の思い出=中島芳春
15、終戦の秘録=中島芳春
16、病んだ星=米倉和美
17、戦後70年に思う=井口良夫
18、『戦争を知らない子供たち』世代の戦争体験―東京とともに ―
=福井清隆
19、黒い雨=加藤與志雄
20、終戦の日を思う=宮崎武雄
21、私の戦争体験談=石井宏明
22、二つの戸籍の戦後=柏 輝男
23、山手大空襲=西村年弘
24、当たり前のことを声に出して主張できる社会でなくては駄目だ!
=恩田英雄
25、平和を願う=竹山敏夫
26、父の背中から見た富山大空襲のまっかな空=本郷真一
27、8月9日に考えた事=長谷幸子
28、父の戦争体験=吉野博之
29、思い出すこと=山口郁夫
30、残された一枚の出征の写真=岡村昭則
31、私の戦争体験は、三歳の時でした!=並木文雄
32、兄の戦場での体験談=松田美英子
P13
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P40
P42
P44
P45
33、私の聞いた戦争に関しての話(父・母の経験談)=渋川峰夫
34、いつまでも平和を求めて=一條弘司
P46
P48
35、平和祈念集に寄せて=大槻
巌
P50
36、父親から聞いた戦争=宮田勝江
37、主人の体験談「学徒動員」=宮田勝江
P51
P52
38、『東京大空襲と学童疎開展』と早乙女勝元さんの講演会に参加して
=関口千代
P53
39、父、母の気持ちを思うと=辻
40、あの頃、その時=舟田公男
P54
P55
裕之
41、日本が太平洋戦争した本当の理由は何なのか?=岡村昭則
42、私の宝=山本伸八郎
P56
P58
43、花火=宮田憲吾
44、戦後70年、この国は今=榎本庸夫
P59
P60
45、戦後七十年に思う=横山直正
46、闇米・傷痍軍人=村田久子
P62
P63
47、平和の世を享受して=武藤金一
参考資料
あとがき
P64
P65
P67
戦後70年平和祈念集の作成にあたって
港区職員退職者会会長
本
郷
真
一
港区職員退職者会は、今年が戦後 70 年という大きな節目にあたり、戦争
体験についての寄稿を会員のみなさんにお願いしてきました。
体験記は、本人自身のみならず、祖父母や父母・兄弟姉妹はじめ関係者か
らの話などを含め幅広く投稿していただき、
「戦後70年平和祈念集」とし
て発行させていただきました。
時を同じくして、新聞・雑誌・ラジオ・テレビなど、マスコミも大々的にキャンペーン
をはり、連日戦争体験についての報道を展開してきました。
私たちの取り組みやマスコミの取り組みについても同様に言えたことですが、70 年とい
う長い期間は、重く風化が進んでいるということでした。
と同時にそれよりも大きな問題としては、あまりにも苛酷で、悲しく、辛かった時のこ
とを思い出したくないという現実でした。
しかし一方で、当時 14~5 歳という人生で最も感受性の強かった世代が今年は 84~5 歳、
戦争実践世代が 90 歳台となり、証言するとしては、年齢的に限界に近づいているというこ
とも反映し、多くの証言が明らかにされました。そのすべての証言者は戦争には絶対反対
し、平和の重要性を訴えています。
また、安倍政権が戦前回帰とも言える、再び戦争が出来る国にしようと「安全保障…」
関連法を強行していることに対する不安や警鐘を、殆どの証言者が表明しています。
こうした状況の下での、退職者会の細やかな取り組みでしたが、多くのみなさんのご理
解に感謝いたします。
引き続き戦後 80 年、91 年…と戦争に反対し、平和を要求し、取り組みを進めましょう。
オールドブラックジョー
寺 口 成 美
「若き日はや夢と過ぎわが友みな世を去りて、あの世に楽しく眠りかすかに我を呼ぶ
オールドブラックジョー」退職者会だより第108号を見てふっとフォスターの歌曲が浮
かんだ。戦後、母・弟・妹と月を頼りに貰い風呂の夜道でよく歌った。あれから70年み
んな死んでしまった。
さて私は中学一年で白金三光町に住んでいたので「四の橋」のパピリオの坂を登って麻
布中に進学、帰途何度か機銃掃射を浴びた。道路の際に50センチ程の穴が掘ってあった
ので飛び込みながら帰った。当時、死は軽いと教えていたので怖いとも思わなかった。天
皇の忍び難きを忍びというラジオ放送は逗子開成中の熱砂の校庭で正座して聞いた。
20年9月からの理科、数学には海軍将校が来ていたが、間もなくアメリカのMPに連
れて行かれた。戦後の田舎暮らしは厳しいもので糧を探す日々が続いた。200円で米一
升という時もあった。貨幣価値は暴落しインフレの怖さを実感した。
先日、テレビで戦争は国民を守るためと与党のことばに野党の人たちも反論しなかっ
た。民が楯にされた歴史を誰も知らない。平和憲法と日米の協力があったからこそ、日本
は70年戦をしない今日がある。今思うとアメリカの軍備増強の圧力に抵抗した吉田首相
は偉かった。これからの道は分からないが戦争論者は退陣させいつまでも平和であること
を望むものです。
①、若き日はや夢と過ぎ わが友みな世を去り
て
あの世に楽しく眠り かすかに我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われもゆかん はや老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われもゆかん はや老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
②、何てか(などてか)涙ぞ出ずる(いずる)
わが友はるかに去りて かすかに我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われもゆかん はや老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
われもゆかん はや老いたれば
かすかに 我を呼ぶ
オールド ブラック ジョー
何てか心は痛む
日本の平和に対する思い
宮 川
修
私は昭和 40 年に東京都職員として採用され、港区に配属された。高校を出たばかりの
18 歳だった。当時男性職員は、夜間、休日を主事と主事補(雇員という身分)の二人で
宿直勤務が割り当てられていた。役所には実際、戦争を経験して生き残った方が珍しくは
なかったようだ。ある先輩に宿直室で出前の夕食をご馳走されながら、生々しい体験を聞
く機会があった。「南方の海上で夜間、乗船していた輸送船が敵の魚雷を受けてあっとい
う間に沈没し、破片につかまり浮いているところを翌朝運よく助けられた」と。また私の
上司であった横岡係長は終戦後長くシベリアに抑留され、極寒の中での重労働に耐え、運
よく帰国できたとのことだった。三田図書館で一緒だった長谷川係長もシベリアに抑留さ
れ、あるとき出張に同行した帰りの新幹線で、軍隊での訓練、収容所の生活、日本人同士
の反目など小説を読むように話して頂いた。あまりに長い話なので私は途中で眠ってしま
い叱られた。岸尾係長は、中国大陸で従軍した際には中国人にひどいことをした、といっ
ておられたのを思い出す。今は皆さん鬼籍に入られた。
40代で文化国際交流担当に配属された。当時は日中友好交流が盛んで互いに行き来
し、双方熱烈歓迎の絶頂期だった。過去の歴史の出来事をいうよりも、未来志向の相互理
解を大事にしていたように思う。韓国からも議員団、学生、公務員の方々が港区を訪問さ
れ、日本から学び一時も早く国の遅れた部分を補おうという意欲が感じられた。両国とも
近い国であるだけに、過去のようなことを二度と起こさないための相互理解が大切だとい
う思いで仕事に取り組んでいた。今のように両国の政治指導者が、繰り返し自国民に反日
を扇動するようになるとは考えられもしなかった。
今国会では、安全保障関連法案が審議されている。憲法違反、戦争法案、戦死者がでる
などと反対する側は主張する。政府与党は、法整備することで今まで曖昧にされていた事
態に自衛隊が即応し日本の安全が確保
されるのだという。戦後の日本を取り
巻く環境は、その時々で大きく変化し
ているのは事実として受け止めなけれ
ばならないと思う。憲法の解釈を従来
と同じにしていて、現実の事態に対応
できないのでは、信頼できない隣国の
思う通りになってしまい、国民生活は
脅かされついには国が滅んでしまわないかと考えてしまう。
私はかつて返還前の沖縄を総評主催の交流団のメンバーとして訪問した。二十歳の頃だ
った。戦災の面影を残す各地を訪ね、現実の米軍基地を見たとき、二度と戦争が起こって
はならない、多くの人々が犠牲になるのを絶対避けなければならないという思いに駆られ
た。しかし今の世界は、弱い国、武力を持たない国、戦おうとしない国、平和を願う国を
そっとしておいてくれるのだろうかと。多くの国民が流民となり、国を失う事態に誰が責
任を負うのだろうかとも考えてしまう。いずれにしても、人々の生命が大切にされ、平和
が維持される知恵と工夫を最大限発揮してほしいと願わずにいられない。
空襲及び戦後の生活
岡
三和子
父の作ったバラックまの家に担任先生が尋ねて見え、昭和20年4月より長い間勤めさ
せていただきました。その8月15日は敗戦を迎えたのです。東京大空襲で住む家もな
く、その上、空腹を満たすものもありませんでした。当時20歳の夏を迎え、港区西麻布
で40キロに満たない身を身体検査もせずに当時の会計係へ就職させていただき、学歴も
ない私はソロバンだけを頼りに勤めさせていただきました。高等小学校生徒の頃14歳か
15歳でした。商工会議所の三級と二級の証書があり、それに助けられました。今でも家
計簿を記入しパチパチとはじいております。ソロバンが私を助けてくれました。
無言で還る人
(2005年7月1日退職者会だよりNO.62号より)
眠れない夜は明け方までうとうとと寝そびれて、これは軽い老人病の一つかも知れない
と割り切ることにしています。仕事は一日三度の食事の支度に清掃、洗濯で頭を使うこと
もなく夜を迎えます。眠れぬままにラジオを聴いておりましたら旧麻布三連隊の跡地に新
国立美術展示施設(ナショナルギャラリー)の出来る由、有名な設計者のお方が説明して
いました。
昨年の立春の頃に壊さ
れた四階建ての旧兵舎が
モダンな美術館に変わ
り、あの大戦で名も無い
多くの戦死者が、無言で
還られるところになるの
でしょう。雪の降る晩に
起きた東京での大きな事
件は、三連隊の将兵が、
お偉い方々を殺してしま
ったと、子供心に悲しい
記憶があり、あの大戦の
時、激戦地へ派遣され多くの兵士の戦死を記憶しています。
敗戦の夏は丁度二十歳でしたから、もし、死んで終わりでなければ、素晴らしいギャラ
リーで戦死者の方が憩うことが出来るでしよう。母校である港区立笄小学校の卒業生の名
簿には同級生の男児の欄は戦死の文字が記入されて胸が痛みます。生きておりましたら傘
寿を迎え、お孫さんも居て、やさしいお爺さんになられた筈です。
町名が今の西麻布に変更されても、昔の霞町や笄町の風に変わりなく、地下鉄乃木坂駅
から青山墓地の出口へ降り、桜散る並木道を独り歩きして楽しんでおります。歩兵第三連
隊は明治22年より麻布龍土町にあり、西南の役や遼東、旅順、奉天各地に転戦。その
後、青年将校たちによって昭和11年の二・二六事件を引き起こし、やがて日本は大東亜
戦争へ突入し六十年前に終戦を迎えた。
戦後の戦争
竹 川 美江子
私にとって、戦争中よりも戦後の方が大変だった。戦時中は、それは、それは物凄く、
死体を死体とも思わず、只の物体にしか見えなかった事も大体の人が体験した事と思う。
でも同じ逃げたり、疎開したり、食物が無かったりしても、戦時中は私には家族があっ
た。戦争はこんなものだと思っていたが、母が戦前、私が6歳の時に、終戦後まもなく父
も亡くなった。そして一家離散の憂き目にあう。弟と私は孤児となり一家離散の憂き目に
あった。
行政も戦後は今の福祉とは大分違っていたようだった。キリスト教の牧師さんが孤児を
引き取り、子供の家なるものを作ってくれていた。戦後まもなくは寄付も集まった様で、
すいとんとか、雑炊位は食べられたが、世の中が復興していくのと同じに、私達孤児は忘
れられて行った。大人に取り入るのが上手な子、そうじゃない子、ゴミ集めの人を見つけ
ると頭をつっこみあさる子、進駐軍にペット代わりに育てられた子、日本語が全く話せな
くてオーノーとか云っていた。引き揚げてきた子の凄まじい話、出産間近な母親が子に穴
を掘る様に云って、布につつんだ物を穴に埋める様に、まだ生暖かい物を埋めた子、その
母親も間もなく死んだそうだ。書き切れないがいろいろあった。まもなく子供の家は行政
にわたって行った。
祖母や母の戦争体験
佐 藤 すみ江
祖母佐藤昌子は来る大空襲の時、本家が全滅。本家の耳鼻科医院の跡やインターン生だ
った医師の卵の甥・兄弟を捜して浅草の病院に入ると、真っ白い包帯の顔をこっちに向け
る。すごく恐ろしかったと書いている。
母や叔父達は永坂をB29が爆撃しながら向かってきた時、母は狸穴方面に、下の叔父
は明治神宮に逃げ込んだと聞く。空襲がはじまって疎開させたものは、みんな取られてし
まった。佐藤昌子は焼けて失った訳ではないからと言って、残ったゆかた5枚と5人の子
供だけで生きてきた。夫は死亡時、祖母は30代。母は麻布に町会事務所を開き、そこで
ゾルゲを見た。そして祖母は麻布区役所でずっと戸籍を書く仕事をした。母はものすごい
混乱期でも父親に大変かわいがられた思い出と、その弟の成長を心の支えに現実を生きて
いない夫とは別れて私と妹を育てた。私達は父なし子、貧乏人、母子家庭と言われてきて
も先祖のきちんとした業績に支えられどんなバッシングにも耐えてきて、今、祖母の長女
佐藤信子は93歳。私は父方の父祖や母方の叔父たちの資料を読んでいる。
麻布永坂B29爆撃跡
麻布区役所
コタツと戦争
菅 原 三 弥
私は三人兄弟の一番下ですが、食いぶちを減らすため家を出されました。父は貧乏農家
の長男で一人っ子でした。そのため召集令状検査で海軍と言うことだったが、陸軍の方に
強く希望したそうです。面接官がいい人で農家の長男なら(海軍3年)陸軍(1.5年)
で務めは終わるそうです。
それで盛岡騎兵隊第三中隊
で雨の日、吹雪の日、毎日馬
と一緒に暮らしていたそうで
す。補充員召集で弘前野砲隊
に入隊させられ二馬曳き輸送
隊に配属となり、只、忠君愛
国の思いで北支に着いた。揚
子江、九江に上陸して漢口攻
略戦に参戦。揚子江沿いの小
さな町は、皆な爆破され粉々
となって目も当てられない無
残な状態だった。一銭五厘の
葉書でお前より優秀な兵隊が
どんどん来るよ。
昭和15年秋、漢口北西の
安陸で内地に帰還になったそうだ。それ以降に私が生まれているのでしょう。
如何なる理由があっても子々孫々に至るまで戦争はあってはならないと、コタツの中で
何回も
父が云って
いた。
東京大空襲に遭う
柳 澤 範 光
昭和20年3月9日の夜のから10日未明にかけて、私達家族8名は東京下町大空襲に
遭った。3月9日の夜は早春の風が強く吹いていた。これまで昼間眺めていたB29は二
機編隊で、超高度で雲の糸を引きながら飛行していた。銀色に輝やかした機影はとても小
さく見えていた。
風は一向に収まらず、あちらこちらの火災で、空気が乾燥したためか、なお強く火の粉
を混えて吹き付ける。夜でも空は明るか
った。私は外を眺めていたが、家にも火
の粉が無数飛んできたので近所の人々と
私の家族は、自宅から余り離れていない
場所に避難した。そこは省線(現JR)
増設のためか、土手が築かれていた。こ
の土手下に私の家族8名は避難した。
此の場所から飛んでくる火の粉で、私
の家屋が外側から焼け崩れる無残な光景
を、今でも鮮明に目に焼き付いている。
近所の人々のその後の消息は分からな
い。翌朝、焼け跡に行ってみた。まだ私の家の中の物が燻っていた。焼け残っていた父の
兄の家に、二、三日身を寄せた後、父、長姉以外6人は母の実家に引っ越した。場所は長
野県小県泉田村である。現在の上田市郊外である。
此での暮らしは苦しかった。食べる物、着る物も無いのも同然で、日々の暮らしは難儀
した。母が実家に畑作業に手伝いに行って子供等が外で待っていたら、大きめの馬鈴薯一
個ポイと投げて呉れた事が今でも懐かしい想い出となって強く心に残る。母の愛をひしひ
しとこの時に感じた。此処での暮らしは一年程であった。学校に行くと、苛めや、嫌がら
せを受ける事も時々あった。母が学校に苦情を話に行った事もあった。いまでも苦い思い
出として記憶する。
次に姉の仕事の都合上千葉県木更津市に転居した。此処での生活も長野県の暮らしと、
さほど変わらない。焼け出された者が知らない土地で暮らす事は実に惨めである。親戚も
いない土地で食べ物と言えば学校給食と猫の額より小さな畑からの収穫は、甘藷、馬鈴
薯、とうもろこしぐらいであった。とても足りなかった。米も無く、食糧事情はとても悪
かった。
焼け出される前の幼年期を過ごした東京下町の遊びと云えば、野外では石蹴り、ビー
玉、メンコ、ベー駒などが思い出す。一緒に遊んでくれた人々は、元気で居るだろうか。
3月10日は私が8歳で国民学校2年生の時である。担任の「なかむら とし」先生で
あった。お元気でおられるでしょうか。江戸川区旧平井町1丁目で幼年期を過ごした時の
悲しい東京下町大空襲体験を記す。戦禍の廃墟から立ち上がり、先人達の犠牲と先輩たち
の汗と努力で今日の日本、東京の繁栄を築き、物資あふれる現代の平和な日本国が長く続
くことを子供や孫たちのためにも心から願う。
一粒ちょうだい
峯 尾
勇
「大豆一粒ちょうだい」…衝撃的なこの言葉は81歳になるある女性の証言である。(新
聞投稿)
この女性は小学4年生のとき、2年生の妹と一緒に東京から群馬県に集団疎開した。毎
日お腹がすいて辛かったという。ある日の食事、朝は麦飯、たくわん、みそ汁、昼は麦飯
とうどん、そして夜はじゃが芋入りの麦飯、たくわん、梅干しという粗末な物で、毎日空
腹に耐えられず、お手玉の中の小豆や野山で捕まえた蛇や蛙まで食べたという。
ある日のこと友達のお母さんから煎り大豆が送られてきた。先生が子供たちに分けてそ
の残りを送り主の子に渡したところ、他の子どもたちがその子の部屋に押しかけてきて
「一粒ちょうだい」の大合唱になったという。これを読んだとき、私は涙がとまらなかっ
た。この女性に比べ私は千葉県の祖母の元へ縁故疎開をしたので、食糧には不自由しなか
ったが、連日軍事訓練に明け暮れ、勉強どころではなかった。
このような純粋な子供の心を踏みにじるような「戦争」という悪事は、これからは決し
て有ってはならないことだと思う。今国会で戦われている「安保法制法案」に悲しい気持
ちで対している。
歴史と向き合い戦争のない未来へ
(2005年7月1日退職者会だよりNO.62号より)
故 嘉 藤 長二郎
今年は東京大空襲被災、広島・長崎原爆被災、大東亜戦争敗戦60年を迎えます。全国
疎開学童連絡協議会主催「第6回語り継ぐ学童疎開展―家族と引き裂かれた子どもたち
―」が3月8日~13日の6日間、両国・江戸博物館で開かれました。体験者の高齢化が
進んでいますので、その継承活動も今年が最後と言われています。それだけにマスコミも
熱心に取り上げてくれました。
東京大空襲から60年目の3月10日を挟んで会期を設けたことや、会場が被災地中心
の両国で隣に戦争犠牲者を祀った「東京慰霊堂」があり、参拝者が立ち寄ったことから開
催期間中の入場者は約5400人、特に催事のあった9日と10日の一日の入場者は、約
1500人に達した。
しかし、学年末と重なり児童・生徒とその父兄・先生と思われる人の入場は、少なく笛
吹けど踊らずを痛感しました。子どもの戦争体験「学童疎開」、庶民の戦争体験「アメリ
カ軍による被災・被爆」等悲惨な事態を、二度と引き起こさないためにも、体験者の痛切
な声に真剣に耳を傾け、歴史の事実正面から向き合ってほしいのです。
戦後60年、戦争の体験、戦争の悲惨さを後世に語り継ぐ活動は多彩に行われていま
す。そこには戦争への警戒感が反映しています。
一般市民への無差別攻撃が繰り返されているイラク戦争、日本のイラク派兵は憲法違反
です。その憲法9条を改変して、日本を「戦争する国」に逆戻りさせる動きもあります。
戦争のない未来に向けて、逆流を阻止して行く行動を出来る範囲で起こして行きましょ
う。
戦中戦後の生活の思い出
高 橋 秀 子
私は、終戦時は10歳の5年生でした。学校に行く時は必ずカバンの外に防空頭巾とも
しもの時の食糧としてお米や大豆の炒った物を持っていました。私の生まれ育ったところ
は新潟県上越市(旧高田市)です。
高田には軍隊が2連隊あり司令部もあったので爆撃が何時か必ずあるのではないかと親
が話していた事も思い出します。そんな折り、長岡の爆撃があり夜空に真っ赤になって燃
えているのが遠く離れた高田でも見えました。
学校では空襲警報の発令が出ると近くの神社の境内にゆき目
と鼻を押さえて避難訓練等をしていました。夜、家にいる時に
は灯火管制で警報が発令されると電気の周りに黒い布を被せ外
に灯りが漏れないようにし、皆家族が一ヶ所に集り、すぐ逃げ
られるように靴を履いて避難解除の知らせを聞く迄緊張して母
の側に居りました。そんな時、母は子どもの緊張を和らげるた
め、いろいろな歌を小さな声で歌ってくれました。
爆撃に備え避難道路として今ある道幅を広くすることにな
り、私の家もそれに該当し、私の家の2/3が壊される事になりました。親戚の人や知り
合いの人が大勢来て荷物を運び出したりして午後よりいよいよ家を壊すという時にラジオ
から天皇陛下より大切なお話があるとの事で手伝いの方々と共に聞きました。その途端に
皆気が抜けた様に力を落としていた姿は今でも目に浮かびます。お陰で家は壊さずにすみ
運んだ荷物も戻って来ました。
遺影が伝える 70 年前の悲劇
●罹災時の人口(1945 年 7 月) 74,508 人●死者数 1,476 人●罹災戸数 11,986 戸
東京大空襲と学童疎開展と早乙女勝元氏の講演会に参加して
(H27.8.5)
岡 村 昭 則
定年退職後、退職者会役員として活躍している並木さんは地元の流山市で地域活動を行
っている。2年前は戦没画学生「祈りの絵」展を開催したので鑑賞させてもらった。今回
も彼の所属するグループの平和活動への取組には目を見張るものがある。今年も8月1日
~17日までと長期にわたって「明日も平和であるためにを考える」企画展を開催した。
港区職員退職者会でも戦中・戦後を生き抜いてきた退職者会の先輩会員の多くがすでに
亡くなっており、現会員においても70年前の記憶や思い出も風化しつつあり、戦争や戦
災を体験した人たちは少なくなっている。「今が最後の機会」という危機感もあり、退職
者会としては今やっておかねばないことの一つとして、会員の方々に当時の記憶を蘇らせ
ていただき、戦争の悲惨さを知らない子や孫の世代そして後世の人々に平和・反戦の尊さ
を引き継いでいくことや、戦後生まれの世代の平和への思いを伝えて行くことを私たちの
責務と考え、「戦後70年平和祈念集」の作成に取組むことを決めた。その取り組みの中心に
なっている私としては、お誘いを受けたので何が何でも鑑賞しなければと最初から決めて
いた。
まずは東京大空襲のビデオを見てか
ら学童疎開展から見学させていただい
た。学童疎開は皆さんもご存知のよう
に、第二次世界大戦末期には日本の戦
局は不利においこまれ、米軍による本
土爆撃に備え、大都市の国民学校初等
科学童をより安全な地域に一時移住さ
せたことである。学童疎開は、防空の
足手まといをなくして都市の防空態勢
を強化することと、空襲の惨禍から若い生命を守り、次代の戦力を温存することを目的と
した学童の戦闘配置を示すものとされ、縁故疎開・集団疎開とも強力な勧奨のもとにあわ
ただしく実施された。今回の会場も集団疎開を中心
に様々な写真や絵が展示されていた。
その中には、私の手元に届いた退職者会会員から
寄せられた戦後70年平和祈念集の原稿を読みなが
ら、その文書に相応しい写真をと思ってインターネ
ットで公開している戦争被害の写真を調査した。そ
の時の見覚えのある写真が沢山展示されていた。
その中に麻布区笄国民学校の疎開先への荷物運び
の写真を発見したので紹介しよう。
★説明文 荷物は一人20キロまで
学校でまとめ駅まで運ぶのだが、
車などなくて苦労した。そこで
8月13日から都電が荷運びに
協力した。
学童疎開といえば、故人になってしまったが、退職者会会員の嘉藤長二郎さんを忘れては
ならない。全国疎開学童連絡協議会(疎開協)は 1986(昭和 61)年に、阪上順夫会長、嘉
藤長二郎事務局長が中心になって設立し、以来多くの人の協力により 29 年間「学童疎開」
についての調査研究と戦争体験の語り継ぎ活動を続けている。
嘉藤長二郎さん|証言|NHK 戦争証言アーカ
イブス - NHK オンライン
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001110480_00000
次に早乙女勝元さんの講演会場に移動した。会場は満員であるが、
後輩の配慮で指定席を確保していただき入口に近く写真の撮りや
すい場所だった。まず「明日も平和であるためにを推進する会」の
会長から挨拶の中で、若い高校生が参加されていることの報告があ
り、我々世代は伝え役であるが、それを受け止めてくれる高校生の
参加には私も心強く思った。講演者の早乙女勝元さんが紹介され講
演が始まった。
まず、広島原爆投下日(8/6)を知っている人は30%、長崎
原爆投下日(8/9)を知っている人は26%と、70年前の記憶
や思い出も風化しつつあり、戦争や戦災を体験した人たちは少なくなっていることが紹介
された。早乙女さんは向島で13歳の時に終戦を迎えている。この戦争は昭和6年の満州
事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争へとエスカレートして、やっと昭和20年8月15
日に終戦になったが、それまで平和という観念が無かったので戸惑いがあったという。平
和を実感するようになったのは①灯火管制が解除されたこと、②昭和21年11月3日に
新憲法が公布され、9条戦争放棄・交戦権の否認、11条基本的人権の享有、97条日本
国民に保障する基本的人権は現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利
として信託等、この2つで平和を受け止めるようになった。
しかし、ご自身も体験している、昭和20年3月10日未明の約300機の米軍爆撃機
B29による東京下町地区を目標とした無差別爆撃で100万人の被災者、推定10万人
の死者を出した。この戦争を何故阻止できなかったのか、疑問を持ち始めたことが、早乙
女さんの活動の原点となり、ならば平和活動にどうかかわっていくか、考えた時に何もで
きないが、自分にできるのはペンを執り訴えることだと確信し、1970年に「東京空襲
を記録する会」の結成につながったという。戦後70年を経て戦争の惨禍を再び繰り返す
まじの決意で戦禍を風化させないためにも未来に継承し、平和を守っていくことの必要性
を訴えて講演は終わった。特に個人的に「東京大空襲」のアニメと実際の焼け跡の写真を
交えた映像は迫力があり、この無差別攻撃や原爆投下を見ても戦争には如何なる正義も存
在しないことを痛感する。ましてやアメリカは正義の名の下にどれだけの世界の国々の人
を苦しめて来たか考えると腹立たしくもなる。
今日参加された退職者会の皆さんを紹介します。
夏くれば敗戦忌を詠まずにいられない
一、水無 月 へ利休鼠 の雨が降 る
二、ふんば って蝉 の声負う大樹 かな
かば ね
三、 七月 の風 は水色だと思う
づ
四、夏木立光 の滴 こぼ れく る
み
五、水漬 く 屍 草 むす屍敗戦忌
稲
垣
愛
のぶとききよし
五の句は、万葉集から和歌で戦時中「信時 潔 」とおっしゃら
れる作曲家が曲をつけ、私達は何かにつけ歌わされました。
戦後、信時潔さんは戦意高揚に手を貸して大勢の人に迷惑を掛
けたと責任を感じられ、以後、音楽から一切手を引いたと聞い
ております。信時さんだって自分から進んで曲作りをしたわけ
でもないのに、当局から命じられて作ったのに本当にお気の毒
です。
「海ゆかば 水漬く屍 山ゆかば 草生す屍 大君の 辺にこ
そ死なめ かえりみはせじ」大伴家持=奈良時代の万葉歌人
http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/63151086.html
今年は戦後70年 70年経ったのかと痛恨の思いです。当時24歳だった私も94
歳、無念にも亡くなられた多くの人々、戦死、戦災死の方々、その命を頂いて今日ある事
を思い大切に命を全うしようと思います。年に一回しか行きませんが、千鳥ヶ淵墓苑には
歩ける限りお参りしようと思っております。
※ 和歌の意味
海で(戦いに)ゆくなら、水に漬かる屍ともなろう。
山野を(戦いに)ゆくなら、草の生える屍ともなろう。
天皇のおそばにこの命を投げ出してもけして後悔はしない。
※大友家持が時の天皇に献上した和歌です。大友家持は死後、次の天皇によって墓を暴か
れています。理由は先の天皇に忠誠を誓うということは俺には忠誠は誓わないってことだ
な!戦前、信時繁さんが万葉集に西洋楽曲をつけるということを試みます。その内の一つが
海行かばです。それが時のマスコミに受け、戦争賛美の歌にすりかえられ、戦意高揚歌とし
て用いられたのです。海行かばはあくまでも民間による民間楽曲ですのでお間違えなく。
※千鳥ケ淵戦没者墓苑は、昭和34年(1959年)国によって建設され、戦没者のご遺骨を埋葬し
てある墓苑です。今から70年前、大東亜戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開されました。こ
の戦争に際し、海外の戦場において、多くの方々が戦没されました。戦後、戦友等によりご遺骨が日
本に持ち帰られ、又昭和 28 年より海外の遺骨収集が
開始されました。この墓苑は日本に持ち帰られたご遺
骨において、お名前のわからかない戦没者のご遺骨が
納骨室に納めてある「無名戦士の墓」であるととも
に、この墓苑は先の大戦で亡くなられた全戦没者の慰
霊追悼のための聖苑であります。現在、36万2、5
70柱(平成27年5月25日現在)のご遺骨がこの
墓苑に奉安されております。
我が小学校時代の太平洋戦争に纏わる悲惨な体験記
宮 尾 好 俱
私は、昭和15年(1940 年)故郷の「長野県埴科郡西条村立尋常小学校」に入学し
た。翌2年生から「国民小学校」に校名が改正になった。そして昭和16年10月(1941
年)新たに「東条英機内閣」が発足。直ぐさま12月8日、我が日本軍が「ハワイの真珠
湾攻撃」をして第二次世界大戦が勃発した。ラジオから流れたニュースに父は興奮し、こ
れからの日本は異例な軍国主義に向かうのではと涙を流しながら私に話してくれた。
新たに年が明け、昭和17年2月18日(1942 年)日本軍は、シンガポールを陥落した
ことで、その戦勝祝賀行事を国が上げて行うよう下命された。我が西条村でも村民挙げて
盛大な提灯行列を敢行しました。しかし、同年6月5日~7日にかけ戦った、ミッドウエ
ー島の攻略戦争に失敗してか!軍部からの皺寄せが一気に強まり、国民生活に支障をきた
し我慢を強要する様になった。
※私は戦闘した島の場所が解らないので世界地図の教本で父から教えてもらった。
例えば ①米穀類、食料品、衣類等の配給制度化
②生徒が使う画用紙類の不足
③「神社仏閣等」建造物の金属装飾品の特別回収の徹底化
我が小学校においても校門横に設置してある「教育勅語奉安殿」と「二宮尊徳像」が強
制的に撤収されて、子供たちの純粋な心を踏みにじる戦争の怖さを実感させられた。然る
戦時中の我が家族の実態は、「父母、長男、次男,三男、長女、次女、私」の大家族です
が、兄貴達3人は徴兵検査後、次々と赤紙の召集令状が届き余儀なく国のため出征した。
特に長男は、支那に引き続き2度に亘って戦争に駆り出された。また、姉たちは、旧女学
校から学徒動員により軍事工場で働いていた。従って我が家は、両親と私の3人暮らしで
「養蚕と農業」で細々と生活していました。
その後、昭和18年(1943年)四年生の新学期を迎えた頃、役場から各家庭に郵便
物が届いたので、父が急いで開封し読んだところ、我が家から東南(約650メートル)
に聳えたつ「白州山」を掘削して地下防空壕を造り、国家の重要機密施設に当てるとの
事。それには、工事等に関わる軍隊(約80
人)と朝鮮半島人の徴用工(約100人)が
仮宿泊する場所として、西条小学校の「講堂
と教室の一部の提供」を村長と校長が認めた
通知でした。
その後、ようやく準備が整い6月から学校
の授業を二部制に分けて開始した。その方法
は「1~3年生は午前中の2時間」・「4~
6年生は午後の2時間」と限定された。体育の授業は、校庭に軍隊のトラックが駐車して
あり、使用が不可能でつまらなかった。この様な状態がいつまで続くかと思うと、人間は
不幸ばかりで明るい未来も欲望もなく自暴自棄になるだけだ!
※私の一言☞戦争はおろか。勝っても負けても血が流れる。戦争を風化させてはいけな
戦中戦後の思い出
中 島 芳 春
昭和20年8月、私は中国河北省 内モンゴル自治区の首都張家口にあった日本中学の
3年生だった。20年6月、沖縄戦が終わり、戦況が悪くなってきている感じが、なんと
なく学生の中で話題になっていた。ある日校庭に全員集合の号令がかかり、校長から長い
訓示があった。内容は在校生全員に「私に君たちの命を預けてくれ、そして皆で最後の一
兵になるまで戦おう」とのことだった。
この日を境に、軍事教練は一層厳しくなっていった。当時から駐蒙軍の上級幹部の間で
は必ずソ連は戦車で内モンゴルに攻め込んでくると読んでいたが、私たちに対抗できる武
器はなく、肉弾戦しか残されていなかった。そのためにタコ壺を掘り爆薬を身に着け敵戦
車のキャタピラ目掛けて飛び込んでいく訓練へと変わっていった。後で知ったことだが、
沖縄戦の軍司令官 牛島大将は校長の実弟だった。
敗戦後、天蓋の無い貨物列車に乗ってモンゴルを脱出した。八路軍のゲリラ攻撃を避け
ながら張家口から北京を経由し、天津へ向かった。天津から収容所までは現地人の迫害を
受けながらの逃避行だった。引き揚げ船には、現在の天津港から乗船し、出港して3日目
の朝に「対馬が見えるぞー」の声に甲板に出て緑の野山を見たときは、これで祖国に帰れ
たと皆が安堵の涙を流していた。
沖縄が日本に返還され博覧会が終わった後に、私は沖縄の激戦地の跡を見て回った。司
令部のあった首里城は復旧され、洞窟の司令部で割腹自害した牛島大将の摩文仁の丘にも
沖縄平和記念塔が建ち、平和公園に変わっていた。太田中将が自決したと言われる海軍壕
では、中将が自決する前に海軍次官に打電したという電文を目にした。当時の将兵は天皇
陛下万歳と言って自決したのだと思っていたが、中将は「沖縄戦に多くの県民が軍に協力
してくれたことに対して感謝し、戦争が終わった後には沖縄県民に対して後世にわたりご
高配を賜らん事を」と打電して自決したとあった。この電文を当時の指導者はどう思った
だろうか。太田中将こそ武人の中の武人であると私は思った。
今でも田端義男の「かえり船」を聞くと引上げ当時のことを思い出し、胸がつまること
がある。
終戦の秘録
中 島 芳 春
昭和20年8月15日敗戦の日から70年目の8月がまためぐってきました。私は当時
中国河北省 内モンゴル自治区の首都張家口市に住んでいました。日本の敗戦のとき、
「無敵皇軍」を信じていた私達在留邦人も混乱状態となった。敗戦で一番惨めなのは外地
にいた在留邦人で、銃剣に支えられていた平和が崩壊したとき、国家の庇護を失った邦人
たちは、流浪の民とならざるを得なかった。
満州では多くの残留孤児や犠牲者を出した。当時無敵を誇っていた関東軍が在留邦人を
置き去りにしたとして、戦後しばらくの間多くの非難を浴びた。しかし、私達のいた内モ
ンゴルの在留邦人は、終戦後も攻め込んでくるソ連軍・外蒙軍の前に駐蒙軍(日本軍)が
立ちはだかり戦火を交え、邦人達が中国に脱出するまで戦い、ほとんどの邦人が犠牲者な
しに、北京、天津への脱出に成功させた。その陰には邦人保護のため、同胞愛のため、部
下を死地に投ずる決断をした駐蒙軍根本司令官と、敗戦後にかかわらす投降せずに報われ
ない戦いに身を挺した、多くの将兵の血と涙があった。
(戦後辻田元参謀が備忘録に書いたものを参考にした。部隊独立混成第二旅団(響兵団)
の将兵の方々)
(注)
同胞愛という言葉が死語になってから久しい。
この出来事は昭和20年8月15日から昭和20年8月21日の間の事件で在留邦人約4
万人を運ぶ引き揚げ列車の鉄道関係者、自分自身の安全を考えず警護にあたった兵士や、
とっさの判断を下した軍司令官、前線で迫りくるソ連軍・外蒙軍の機甲部隊の進撃を遅ら
せた将兵などの同胞愛に支えられての「奇跡の脱出」でした。
(平和慣れした日本人に忘れられない昭和の一頁である)
川柳句「病んだ星」
米 倉 和 美
川柳を始めたのは最近のことなので戦争や疎開の体験の句はほとんどありませんが、今
回の「戦後70年平和祈念集」の主旨に賛同してハンセン平和の思いを込めて川柳を提出
させていただきます
★戦争 も平和も担う基地 の街
★停電 の避難所灯す 子 の笑顔
★戦友 も悪友 も減 る年賀状
★鎮魂 の凍土を覆う春 の雪
★太陽 に顔向け出来ぬ病 んだ星
★白蟻が分け前 あさ る復興費
★原発 の建屋 にほし いガ ラ ス張 り
★島 国 の小島 をめぐ る導火線
★ 目を閉 じ て遺影と語 る手酌酒
★戦友 の面影浮 かぶ稲光
★魂 胆が透 け て見え ます秘密保護
★ 元号 で生涯とおす老 いの意 地
★月射 して肺腑 を抉 る瓦礫 山
★武器商 人 ほくそ笑 ん で いる復古調
★疑問 から育 つ子供 の科学 の目
★汚染水垂れ流 し つつ再稼働
★震災 の深き傷痕内裏雛
★骨抜き の九条喰えと押 し付け る
★禍と福 をな いまぜ に聞く除夜 の鐘
★ 人間 に生まれ て悔 いは無 いです か
戦後 70 年に想う
井 口 良 夫
昭和 19 年 8 月生まれの私は、終戦の 8 月は満 1 歳でした。 新潟の田舎農家で育った私
は、おかずなどは質素でしたが「ひもじい」ということは記憶にありません。身近で戦争
に関しての記憶は、酒の席でおじさんがビルマで戦った話をしていたここと、母 8 人兄弟
姉妹の中ただ一人の跡取りの長男が戦死され、おばあさんがいつも「念仏」を唱えている
姿をみましたが、当時は子供で知るよしもなかったことですが今思えば悔しく思い弔って
いたのだと思います。このように自身の思い出は非常に乏しいのが実態です。
歴史といえば「戦国時代」や「幕末」の小説などは読みましたが、近現代史はあまり勉
強しませんでした。(学校でも深く学習した記憶もありません)
今年「安保法案」が国会での審議に伴いマスコミなどでいろいろ報道され、また、今年
は終戦 70 年という節目ということもあり、テレビや新聞なども特集や特番しています。私
も改めて興味を持つようにしています。
8 月 8 日 NHKテレビ 22 時からの「特攻
なぜ拡大したか」では、「指導者」の責任を取
り上げていました。事実を見ない(見ようとしない)結果ありきの分析のもとの計画による
「本土決戦」作戦を進める。特攻作戦でいえば最後は練習機まで使って出撃する、これを
無謀としてだれも止められない。「命令だから」と。などなど。
当時のいろいろな史実が新たに判明する中で、
「なぜもっと早く終戦の決断ができなかった
か」という思いを感じます。結果論では誰も言えると言うかも知れませんが、原爆投下や
ロシア侵攻・シベリア抑留など回避できたかも。です。
良く言われていることですが、この番組からも、
「いかに戦争を終結することは難しい」と
いうことがはっきり分かりました。「戦争をしてはならない」ことを痛感しました。
また、先日別のテレビ番組で、先の大戦から内戦も含め戦争をしていない国として「日
本」と「ドイツ」を紹介していました。
「平和憲法」のもと、こうした時代に生きてこられ
た私は「幸福」です。しかし、今日「平和は大丈夫か」かという動きがみられます。安保法
案が成立するとこれからは「幸運」がキーワードとなるのでは。即ち、今年も戦争に巻き
込まれずに「幸運」だった と。
これでは困ります。指導者はいろいろ理屈をつけて「正義の
戦争」と言いますがそれは違うと。政府は「戦争」とならな
い国際環境の構築を、特に近隣諸国とは それが国民への重
大な使命では。
最後に新聞から(2015 年 8 月 7 日読売新聞 造園家 涌井
史郎氏の記事から)
「人間の欲望はとどまらないが、地球は成長しない。この
ギャップは『奪い合い』につながります。と警告する。戦争
も、資源や領土の奪い合いから始まった。
「人間は身の程をわきまえ、大木の姿を忘れては
なりません」
※世界中の為政者がこうした理念を持って政治をしたら・・・
『戦争を知らない子供たち』世代の戦争体験―東京とともに―
福 井 清 隆(1951 年生)
私が小学校 5 年生の時、祖父を残して祖母が 68 歳でなくなった。その時、町会長が読
んだ弔辞が手元に残っている。 「奥さんいよいよお別れのときが参りました……。」に
はじまり「貴方は戦火に逢わんとすること両三回しかも(二人の息子を)軍籍におくり(娘
を)学童疎開に手放し…(中略)焼かれても焼かれても土地を寸尺も離れず営業を守り続け
まわ
るという意気込みは全身ににじみでており、(中略)囲りの殆んど人びとが競うように疎開
する中に福井夫妻(祖父母)の頑張る姿を朝夕に見るにつけ私どもも――頑張り通し得たの
であります。(後略)」
その祖母に私は、靖国神社と震災記念堂(墨田区横
網にある現在の東京都慰霊堂)へ何回か連れて行かれ
た。靖国神社の化け物のような鉄製の鳥居が出来た
のは、1971 以降のことで、祖母に連れていかれたこ
ろは、ふつうの木の鳥居でしたし、おまつりのとき
はろくろっくび、などの見世物小屋がでていました
が、都心の祭りとしては珍しくもありました。でも
白い服で義手義足の傷痍軍人の募金の姿はどこのお
祭りでも、縁日でも常連でした。
東京都慰霊堂は嘗ては「震災記念堂」といってい
ました。暗い回廊の欄間のにあたる部分に震災の
油絵が飾ってあります。小さいとき祖母に連れら
れてきたわたしはどこかの寺で地獄草子を見たの
と同じ経験をしたのです。齢をとってもその恐ろ
しかった思いはわすれていませんでした。たまた
ま昨年の 3 月に行った時も、旋風にまきあげられ
る避難者と荷車の図がずっと記憶に残っていたことがわかりました。ここは、1923 年の
関東大震災のとき東京市全体の犠牲者 6 万人のうち半数以上の 3 万 8 千人以上の犠牲者を
出した陸軍被服廠跡だったですが、1945 年には東京の街はもう一度アメリカ軍の空襲で
灰塵に帰してしまうのです。その時の犠牲者の数は東京市内で 7 万 7 千人。その 2 度の犠
牲者の仮埋葬者のうち身元不明者の遺骨が納められているのです。叔父が結核で亡くなっ
て、4 年後のこと祖母が亡くなったのですが。その叔父にはまだ戦災で焼失し本堂のなか
った浅草寺によく連れていかれました。浅草が好
きでした。また明治座の正面にある明治座観音に
初めておまいりをしたのも覚えています。調べて
みれば、ここも 1923 年(大正 12 年)9 月 1 日の関
東大震災でも被災し多くの人がなくなっていま
す。そして 1945 年(昭和 20 年)の東京大空襲で
も、爆弾の直撃をうけ避難していた多くの人たち
が亡くなったと聞きました。慰霊のために明治座
観音が建立されたのですね。 生家から明治座がある浜町に行く道すがら、今では埋め立
てられた楓川にかかる海運橋にあった焼夷弾が貫通した跡も通るたびに聞かされました。
焼夷弾がいかなるものかは
もちろん知りませんでし
た。
祖母は、また叔父は、幼
い私になにを伝えたのか。
④明治座
「この街でともに生きて、
心ならずも死んでいった人
たちへの祈りと鎮魂」では
なかったのか。と思えるの
です。二人が亡くなって 10
年以上たったころ、東京オ
リンピック以来続いた土木
工事の際江戸時代の人骨が
多数出てきました。当時わたしは、肋膜炎で高校を 1 年休学して、門前仲町にあった、亡
くなった叔父の家で暮らしていました。その近くの工事現場でも東京大空襲の犠牲者が発
見されました。今調べてみると『1967 年 6 月 11 日、同駅の工事現場にて防空壕の跡が発
見され、そこには抱き合った親子の遺骨があった。遺骨は東京大空襲の犠牲者のもので、
付近からは最終的に大人 4 人と子供 2 人の計 6 人の遺骨が発見された。手にしていた位牌
の文字から身元が判明し、遺骨は後に遺族に引き取られた。(ウイッキペディアより)』とありま
す。
そういえば叔父のいきているころその家の庭を掘ると、焼けた瓶や釘などが出てきまし
た。それを叔父に言うと、「ここは焼け跡に建てたから。」と言われました。私が幼いころ
体験した、初めて記憶に残りの 2 人の死者。当時せいいっぱい私に伝えてくれた町の記
憶。それに引き替え私は何を次世代に残したでしょう。忸怩たる思いです。
私の戦争観「歴史観」のはじまりは、ドイツ軍をかっこよく殺害する、テレビ映画の
「コンバット」か、ハリウッド映画であることを白状しなければなりません。それを長い
時間をかけて修正してきました。地域に残る戦争の記憶を思う時、歴史はかっこいい俳優
ぶ
ば
が、カッコのいい軍服を着て「武張」った言葉をつかう映画の中にはないものですね。歴
史は地域に残された悲しい記憶に真摯に向き合う姿勢だと思います。
私の母と祖母の出身は静岡県で、二人ともごく近い村の出です。何回かお盆に村の墓地
を訪ねましたが。そこで先のとがったのは、みんな軍人として亡くなった人の墓であるこ
とを教えられました。立派な墓は当時隆盛にあった家の墓。そしてその家は、その村では
途絶えていました。
ま
も
ま
も
私たちが、最後に「防衛」ろうとするものは一体何なのでしょう、「防衛」らなければ
ぶ ば
ならない原因を作ったのはきっと、かっこのいい服を着て、「武張」ったせりふで俳優に
演じられる、名を遺した人たちなのでしょうね。多くの人に好まれる戦国の合戦絵巻もの
がたりと、発掘される、矢じりが刺さったり、刀傷がのこる頭蓋骨と類比的とも私には感
じられるのです。だから現在は歴史が軽んじられている。そんな時代に私は生きていると
感じています。
昭和20年 3 月 10 日の空襲以来、祖父母たちが逃げ込んで終戦後まで住んでいた、当
時の大和証券江戸橋支店の金庫前の写真。そのなか、少女が現在ただ一人生きている叔母
です。
黒い雨
加 藤 與志雄
私は、昭和31年4月に港区立白金小学校に入学し、昭和37年3月に同校を卒業いた
しました。6年生のときに、クラス担任だった久
保田昌子先生からクラス全員に黒い雨の体験を語
ってくれたことを今でも覚えております。
先生は、昭和20年8月6日の原爆投下時には
広島にいて、当時女子学生で原爆が投下された
後、辺りが次第に暗くなり、ポツリ、ポツリと黒
い雨が降ってきたと語っていました。「黒い雨」
という言葉をその時初めて聞きましたが、その言
葉が6年生の私にとって何を意味しているのかわ
かりませんでした。
先生がご健在なら、今85歳前後になられており、今は黒い雨の実体験を語ってくれま
したことに感謝申し上げたい気持ちです。(教育委員会指導室で調査していただきました
が、手掛かりは得られませんでした。)
※黒い雨とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時の泥やほこり、すすなどを含んだ
重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
原子爆弾が投下された広島市で、黒い雨の記録が残っている。また、フランスの核実験場
であったムルロア環礁や、ソ連の核実験場であったセミパラチンスク周辺でも、原子爆弾
投下後の降雨の記録が残っている。広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨と
なって激しく降り注いだ。この黒い雨は強い放射能を帯びているため、この雨に直接打た
れた者は、二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性
白血病による大量の吐血などの急性放射線障害をきたした。大火傷・大怪我をおった被爆
者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという。原爆
被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であ
ったにもかかわらず、突然死亡する者が多かった。水は汚染され、川の魚はことごとく死
んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、下痢をすることが非常に多か
ったという。長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っている。黒い雨は爆風や熱線の被害を受
けなかった地域にも降り注ぎ、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらした。
終戦の日を思う
宮 崎 武 雄
地元の大樹会(老人会)で昨年に続いて 8 月 1 日、飲み物持参の暑気払い交流会を行っ
た。集まったのは、65 歳から 86 歳までの 11 人、話題の一つに、8 月 15 日の日それぞれど
うしていたかを語り合った。私は、当時 5 歳で札幌市内にいた。玉音放送についての記憶
はない。終戦日前後の経験といえば、灯火管制、函館が空襲にあったと大人たちが話して
いたことや庭に防空壕を掘っていた等のかすかな記憶しか残っていない。多くの経験談を
聞きながら、何はともあれ、現在の戦争のない平和をありがたく思う
戦争によって大きな変動があったのは、妻の方で妻の父は軍人で、クエゼリンで戦死し
ている。昭和 19 年 2 月 6 日、クエゼリンの守備隊が玉砕した。クエゼリンは、日本から南
へ 4000 キロ、赤道に近いサンゴ礁の島である、日本の国連委任統治領であった。現在はマ
ーシャル諸島共和国に属する。今もアメリカがミサイル防衛試験場としてマーシャル諸島
共和国から租借しており、一般観光客は上陸できない。
日本
マーシャル諸島
現在はマーシャ
ル諸島共和国、
首都マジュロ
職業軍人(海軍)であった義父は、昭和 18 年 9 月にこの島の守備に派遣され、わずか 5 か
月足らずで戦死した。わざわざ死に行ったようなものである。(兵学校卒でない)ノンキ
ャリの将校であった義父は、戦線で戦うには既に高齢であり体調も万全ではなかったため
戦地赴任は命令されていなかったが、周囲の者が皆赴くのを見て志願したようである。ク
エゼリンは周囲の小島を合わせても 6.33 平方キロしかない島である。標高は精々1.5 メー
ター、椰子の木がある程度で、攻撃に対しては殆ど丸裸の島である。こういう島で圧倒的
な火力をもつ米軍を相手に、日本軍がまともに戦えたとは思えない。妻は、何年か前に日
本遺族会の慰霊団に参加して現地へ行った。今は何事もない静かな青い海原を見てどんな
思いであったのだろう。
佐世保にいた妻(1歳 6 か月)は母に背おられて佐世保空襲(昭和20.6.28)の
体験をしたらしいがそれでもあまり覚えておらず。むしろ戦後、戦争未亡人として母の手
一つで一家 5 人の生活を支え、大変な苦労した時代の中で育てられたようである。
先日、早乙女勝元氏の講演会「東京大空襲の悲劇」を聞いた。その中の問いかけで戦争
を肯定する人はおそらく少ないだろう。軍備を必要かは意見が割れるだろうと話された。
確かに戦争は、誰しも否定するだろう。しかし、世界中あちらこちらで紛争が起こり止む
ことがない。戦争で最も恐れるのは、平和なときには、想像できない異常な精神状態、異
常なことが当たり前のごとく行われる状況になるということである。そういう状況を作り
出す戦争は何とか起こさないようにしなければならない。
私の戦争体験談
石 井 宏 明
私の父は千住で質屋を営んでいた。「咲や」と「君や」という女中さん(お手伝いさ
ん)も二人いて、今でも名前を覚えている。私は「坊ちゃん」と呼ばれていた。嘘のよう
な本当の話である。戦況が緊迫するにつれて灯火管制もあり、防空頭巾を被って防空壕に
逃げ込んだこともある。
そして遂に昭和19年、強制疎開で父の郷里「埼玉県」に住むことになり、生活は一変
した。粗末な仮住居で、父は村役場の臨時雇いの職を得たが薄給で3人の子どもを育てる
のに精一杯であった。母は持っていた着物を一枚一枚農家と物々交換しながら当座の食糧
を得ていた。正に竹の子生活であった。私は地元の小
学校に通い、毎日もち芋で蝉やとんぼを捕ったり、川
でえび蟹捕りをしたり、それなりに田舎の生活を楽し
んでいた。
父は自分の故郷で貧しいながらも気楽に過ごしてい
たので、戦後の新生活にも立ち遅れ、敗戦後東京に戻
った時には、家も土地もなく知人の紹介で、当時マー
ケットと呼ばれていた高円寺の棟割り長屋に居を定め
た。父はアイスキャンデーの行商をしたり、古物商や
古本屋を次々と開業したが、元々商才のない父はいず
れも失敗した。 浅草生まれの母はもっと早く東京に
出てくれば、と事あるごとに父に不平不満をぶつけ、
夫婦喧嘩の絶えない毎日で子ども心に切ない思いをし
た。
その後、父は杉並区役所の公益質屋に職を得たが、
依然生活は楽ではなく、おからやサツマイモが頻繁に食卓にのぼった。その後遺症か?
その二つは今でもあまり好きではない。小学校の給食も必ず出るのが脱脂粉乳で泡が浮
き、かすの粒が沈殿していて、どうし
ても飲めなかった。私の身長の低いの
も、そんな食生活が影響しているのか
も知れない。
私の戦争体験は食にまつわるものが多
く、貧乏で大学にも行けなかったが、
浮浪児にもならず、成長できただけで
も運が良かったと思っている。戦争は
人の生活ばかりでなく、性格まで変え
てしまう。高校野球を見ながら一喜一
憂できる、こんな平和な生活をけして
失いたくない。
二つの戸籍の戦後
柏
輝 男
私は昭和 16 年 7 月、日米戦争が始まる年に生まれ、敗戦時は 4 歳、当時実母の実家江戸
川区北小岩に戻っていたので防空壕からB29 が「焼夷弾」を落し西の空が真っ赤になった
のを見たような気がする。今考えるにこれが 3 月 10 日の東京大空襲だったと思うが、私に
とっては物心付いてから経験した戦後の食糧難、二部授業などを中心に貧しい生活ぶりを
生々しく思い出すことが戦争体験と言えるものだろうか。
さて 10 数年前に相続登記をする必要から取り寄せた私に関する最も古い戸籍(除籍)は、
東京市小石川区林町 26 番地戸主石原隆一・長男隆春・婦與志・孫輝男とあるものだ。もう
一つは同じく小石川区原町 21 番地戸主柏福太郎長男米吉・婦よしゑ となっているもので
ある。
実父石原隆春の記載欄には出生事項、婚姻事項に次いで、昭和 19 年 7 月 18 日午後 3 時
マリワナ島方面二於テ戦死東京連隊区司令官村井俊雄報告昭和 20 年 5 月 14 日受付とある。
実父は明治 42 年生まれだから赤紙は昭和 18 年
34 歳の時で翌年の 7 月に戦死である。現在多磨霊
園に誠忠院義岳隆春居士として墓碑はあるが遺
骨はない。
石原家の 2 男嘉徳(明治 44 年生れ)は東京帝大
の銀時計組であったにも拘らず、満州國安東省安
東市から 32 歳で現地応召し、昭和 20 年に中国戦
線で戦死し誠心院智岳嘉徳居士として同じく石
原の墓にいるが同じく遺骨はない。石原家では男
子 2 人が戦死し、女子 3 人が生き残った。
実父隆春とよ志(実母)の間に 1 男 2 女があり長男が私輝男であった。祖父隆一は嫁のよ
志の再婚を願い、離縁すると同時に 3 人の孫を養子縁組に出した。以後現在まで 3 人はそ
れぞれ生きているが音信不通である。
私は隆一の妻はるの末弟である柏米吉に子どもがいない事から柏夫妻と養子縁組を昭和
26 年 10 歳の時に行われた。柏家は 1 男 3 女であったが、米吉は中国の居留民団に勤務し
ていた事から、応召を免れ昭和 22 年に帰国した。長女次女は結婚して東京市外に居住して
いたが、末の妹の鈴子(大正 6 年生れ)は、結婚して谷中姓を名のり本所区本所 1 丁目で
所帯をもち 2 人の子持ちであった。昭和 20 年 3 月 10 日東京大空襲で一家全滅、詳細は不
明だが、亡父米吉から「鈴子たちは東京都慰霊堂に祭られているよ」と聞かされていた。
石原家は未婚だった松枝が平成 14 年に死去し、石原姓を名乗る者はいなくなり、戸籍は
廃絶した。私は養子に出たとしても石原家の直系の男子としてはただ1人しかいない為、
祭祀承継者として現在は石原と柏の墓を守っている。いずれ墓を統合する予定だが、詳細
を息子に話すことの必要性について悩んでいる今日この頃です。
※太平洋戦争中の 1944 年 6 月 19 日,マリアナ諸島西方沖での日本艦隊 (第 1 機動艦隊)
とアメリカ第 5 艦隊との間で戦われた海戦。アメリカ軍のサイパン島上陸作戦 (→サイパ
ン島の戦い ) に付随して行われ,太平洋戦争中の最大の航空母艦 合戦といわれる。
山
手
大
空
襲
西 村 年 弘
戦時中、目黒区駒場に住んでいた。1944 年の秋から学徒勤労動員令により当時の中等学
校、高等女学校以上の学生は軍需工場などで働くことになり、私は旧制中 2 のとき狛江の
工場に通い艦船などの通信機組立の仕事をしていた。3 歳下の弟は国民学校(5 年)から福
島県に学童集団疎開をさせられていた(ちなみに現在の妻も、当時、麻布区笄小から集団
疎開していた。平成 19 年度に新卒業生とともに校長から疎開中で貰えなかった卒業証書を
昭和 19 年度卒業生として授与された。)。
同年春に井の頭線の両側の建物が強制疎開させられたので、その空地に防空壕を造るこ
とができたが、素人の急造では翌年の空襲の際は全く役に立たなかった。
同年11月頃から白昼、高射砲も届かない高高度で敵B29重爆撃機が頻繁に来襲する
ようになり、動員先工場の隣のM工場に爆弾を落とし、そのたびに防空壕に退避するよう
になった。
1945 年 1 月に入り日本の木造家屋を目的に開発された油脂焼夷弾をB29数百機の編隊
で低空から、夜間波状攻撃により爆撃する作戦をとり、遂に 3 月 10 日未曾有の東京大空襲
となった。駒場から臨む下町方面の空は真っ赤である。その時点では本所・深川など下町
が灰燼に帰し、10 万人の死者が出たなどは知る由もなかった。
4 月頃から夜間、山手地区にB29が頻繁に来襲するようになり、寝る時も制服(国防
色)を着たまま、防空頭巾とゲートル(巻き脚絆)を枕元に置いて寝ることが多かった。
同年 5 月 24 日夜から 25 日にかけて、B29が250数機で来襲、山手方面を焼夷弾に
よる絨毯爆撃があり広範囲にわたり家屋焼失・罹災者が出たが、さらに 25 日夜にも残存し
ていた東京市街の大部分を焼き尽くすため、2百数十機のB29が来襲した。 その夜、
遂に我が家も焼夷弾の直撃を
受けた。夜空の頭上に数10
機の編隊が次から次と油脂焼
夷弾を低空で落として行く。
大型弾が落下の途中、分解し、
長6角形の小型焼夷弾が雨あ
られのごとく木造家屋に落ち
火災を起こす。屋根の上をか
らカラコロ落ちるものもある
が、大多数は屋根を突き抜け
ると発火した。体に直撃を受
けた近所の人もいた。防空壕
から出て、必死で消火、1発くらいは消火できるが、火の回りが早く、火が火を呼び風が
風を呼ぶような状態で周りは火の海、防空壕にもいられなくなり、祖母を連れて、逃げる
のがやっと、何も見えない燃え盛る中を命からがら第一高等学校の広い校内に逃げた。夜
明けを待って家の方に戻ると我が家は勿論、町一帯が跡形もなく焼失していた。昼前に父
が戻り勤務先においてある私物の日用品を取りに一緒に行くことになり、徒歩で渋谷・青
山・麻布と廃墟を歩き、麻布霞町の親戚の無事を確かめ、芝公園に到着、とんぼ返りで駒
場に帰った。渋谷から青山、麻布方面は一望千里の焼野原で、途中は死屍累々であまりの
悲惨さに声も出なかった。
生活するため焼跡を整理しバラック壕舎を急造した。落ち着く間もなく3日後には、電車
の走らない線路を歩き、工場に行き作業に従事した。無線機の工場で情報解析が早いのか
終戦の3日前に会社側から動員解除の通告があった。15日の終戦の玉音放送を焼跡で大
人10数人と一緒に聞いていたが、日本は敗けてしまったのだと虚脱状況になると同時に
自然に涙が流れた。
その後、日本は平和国家として復興した。戦時中
の中学校であった陸軍からの配属将校にスパルタ式
軍事教練を受ける、また日常的にサーベル等でなど
不当な教育はなくなった。
声を大にして叫ぼう!平和憲法を守ろう!
当たり前のことを声に出して主張できる社会でなくては駄目だ!
恩
田
英
雄
8月15日を中心に、平和について数多くの報道がされている。
今まで無かった高校生たちが安保法案反対の声を上げるようになって来た。
高校生たちは、自分が実際に銃を手にするのは「イヤだ!」と声を上げるのは、
「あたりま
え」のことだ。
これからも、
「あたりまえのこと」を声に出して大きく主張できる社会で無くては駄目だ。
銃を手にする前に、
「話し合い」で物
事を解決して行く
仕組みを作ること
が戦争をストップ
させる道だ・・・
戦後100年、
200年と云える
年が迎えられるよ
うに、今生きてい
る者として最低限
の行動をしよう…
平和のために!
※私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます。SEALDs(シールズ:Students Emergency Action
for Liberal Democracy - s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担
い手は 10 代から 20 代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。私たちは、戦後 70 年で
つくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法
のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジ
ェクトです。現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の
3 分野で、明確なヴィジョンを表明します。
日本の政治状況は悪化し続けています。2014 年には特定秘密保護法や集団的自衛権の行使容認などが強
行され、憲法の理念が空洞化しつつあります。貧困や少子高齢化の問題も深刻で、新たな生活保障の枠組み
が求められています。緊張を強める東アジアの安定化も大きな課題です。今年7月には集団的自衛権等の安
保法整備がされ、来年の参議院選挙以降自民党は改憲を現実のものとしようとしています。私たちは、この
1 年がこの国の行方を左右する非常に重要な期間であると認識しています。いまこそ、若い世代こそが政治
の問題を真剣に考え、現実的なヴィジョンを打ち出さなければなりません。私たちは、日本の自由民主主義
の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます。そして何より、この社
会に生きるすべての人が、この問題提起を真剣に受け止め、思考し、行動することを願います。私たち一人
ひとりの行動こそが、日本の自由と民主主義を守る盾となるはずです。THIS IS WHAT DEMOCRACY LOOKS
LIKE.WE ARE SEALDs.
平和を願う
竹 山 敏 夫
先日、千葉県クラブからの誘いで、流山市で開催された「東京大空襲と学童疎開展・早
乙女勝元氏講演会」に参加し、改めて戦争の悲惨なありさまを見聞しました。
浅草で生まれ育った私は、終戦時は2才で父親の田舎である熊本県の三角半島に母・姉
の3人で疎開していました。父は、蒲田にあった軍需工場で働いていたそうです。母は長
崎の原爆投下の日、有明海を隔てて長崎の空が赤く燃えているのが見えたそうです。
長崎原爆と香焼にあった川南造船
東京大空襲の写真集を見ると住んでいた浅草・仲見世付近は完全な焼け野原で、もし疎開
していなかったら自分達家族も
多分生きてはいなかったと思い
ます。終戦後、すぐに父は浅草寺
境内で地下足袋の露天商を営み
小学生前の私はテント裏の伝法
院の庭にもぐりこんで遊んでい
たのを覚えています。
今日の自分達が安心して生活
できてきたのも日本が平和であ
ったからこそだと思っています。
この思いを8月 30 日の国会周辺
の「安保法案デモ」に参加して表
したいと思います。
父の背中から見た富山大空襲のまっかな空
本 郷 真 一
私は戦後 70 年に対する寄稿を東京高退連ニュースに紹介していただきましたが、高退連
ニュースは役員クラスを購読対象とした機関誌です。
一般の会員の目に入ることはあまりありません。
そこで寄稿した内容を簡単に紹介しますと、
① 私の生まれた富山市は昭和 20 年(1945 年)8 月 1 日深夜から 2 日未明にかけ、米空軍
のB29 爆撃機 174 機の焼夷弾の絨毯爆撃により壊滅・灰塵と化した。死者 2700 人、負
傷者約 8000 人と言われています。
この空襲で私の家族、両親と子供 6 人(上 3 人は母の前夫の子、下 3 人は私の父の子)
の内、長兄は脳性マヒで寝たきりだったため、寝ていた場所で焼死(焼死と言っても首
も手も足もなく、胴体のみがくすぶっていたそうだ)。
また、私の 1 歳年上の兄(当時 5 歳)は、家を飛び出して逃げたのですが、灼熱地獄の
中、5 歳の子供がとても逃げ切れたとは思えません。
いまだ行方不明のままです。
② 命からがら逃げ切った母は、空襲の翌月 9 月 16 日に弟を出産。
母乳が出ない体質になっていた母は、随分苦労したようだ。
そして、10 月 6 日には父が栄養失調で死亡(45 歳)。
③ 3 歳だった私は、父に背負われ逃げたため助かりました。母の言うところによれば、父
は、「非国民」だった。すなわち軍人にもならず、当然戦争にも行っていない。日本の
国民として許されない人物ということを、周辺の人々から言われていたのだろうと思わ
れます。たしかに父は和歌山県那賀郡出身で、20 歳の徴兵検査を前に故郷を飛び出し、
土木作業員として飯場を転々とし、全国を逃げ回っていたということで、日本の各地の
ことを良く知っていたそうです。反戦の活動家というようなことは全くなかったそうで
す。その「非国民」の父が、どうやって母との間に私たち 4 人の子供を作ったのかは、
全く判りません。いずれにしても昭和 20 年の富山空襲の戦争犠牲者であると同時に、
厭戦から 20 歳前に故郷を捨てざるを得なかった戦争犠牲者であることには間違いあり
ません。
以上、①~③は富山の空襲における私の家族をめぐる状況です。空襲=戦争をめぐっ
ては、その時の悲惨な事態だけで終わらず、精神的にも肉体的にも多くの後遺的な状態
が何十年にもわたり影響を与えてきました。
事象的な事の一つとして、私が 30 歳の時、たまたま帰郷した際、母は、半年前の新
聞の切り抜きを持っていました。そこには麻薬の売人、全国指名手配という記事が載っ
ていました。問題は指名手配犯のプロフイールである。年齢は私より 1 歳年上の 31 歳、
名前は「義勝」と「義一」の一文字違い。顔は亡くなった父にそっくりだった(私は父
の写真が一枚も残っていないので父の顔は全く知らない)。母は行方不明の兄に間違い
ないと言う。間違いないと思うなら、どうして警察に行かないで半年もほっておいたん
だと、問い質したところ、母は、麻薬の売人という犯罪者なので、どうしたものか悩ん
でいたと言う。母を説得し、富山警察署の担当刑事に会い、手配人の素性を詳しく聞き
ました。すると刑事は「こいつは犯罪人だし、何と話せば良いのか複雑な気持ちだが、
こいつはお母さんの子ではない。こいつの両親はピンピンとして生きている。」という
ことで母には警察が言っているのだから間違い無いだろうと諦めさせました。しかし、
その 15 年後、私が 45 歳の時母は亡くなりましたが、「必ずどこかで生きている。捜し
てくれ。」と死ぬ間際まで言い続けていました。戦争というものが生み出したひとりの
母親の悲劇の一端です。
また、私自身ですが、あの空襲で父の背から見た真っ赤な空は、未だ脳裏に焼き付い
ています。また、生まれて間も無い弟の顔に、無数のハエがたかり真っ黒だったことも
脳裏に残っています。さらに、何年もの間、焼け跡の多くが放置されていたので、その
焼け跡の匂いは私が 50 歳を超えるまで脳裏に焼き付いていました。
空襲=戦争にまつわる話はいくらでもありますが、人間の恣意によって起こされる戦
争である以上、人間によってのみ、これを防ぐことができるということでしょう。
安倍総理は、今、大きな過ちを起こそうとしています。
*参考 東京高退連とは東京高齢・退職者団体連合のこと
※富山大空襲
1945 年(昭和 20 年)8 月 1 日から 8 月 2 日にかけてアメリカ軍が富山県富山市に対して
行った空襲。当時の市街地の 99.5%を焼失し、広島、長崎への原子爆弾投下を除く地方都
市への空襲としては最も被害が大きかった。
●死者 2,737 人(人口 1,000 人当たりの死者は 17 人で
地
方空襲の中で最多)
●負傷者 7,900 人(人口 1,000 人当たりの負傷者は 47
人で地方空襲の中で最多)
●被災人口 109,592 人
●焼失家屋 24,914 戸(市街地の 99.5%にあたる。焼失
率 99.5%は地方空襲の中で最大)
八月九日に考えたこと
長 谷 幸 子
私が生まれたのは1947年なので、日本が行った日中戦争や太平洋戦争を自分の眼で
見て体験したことはありません。また、父は戦時中に軍需工場に勤めていたため、兵隊に
とられることは無かったとだけ聞いています。それでも私は高校を卒業した頃から、戦争
は人を殺すこと、絶対にいけないことだと強く思うようになりました。港区役所に就職し
て以降は、先輩・同僚からいろいろなことを教わり、平和運動を労働組合として進めてい
く大切さを学びました。
今日は8月9日、70年前に長崎にアメリカが
原爆を投下し、約7万人4千人の市民の命が奪わ
れた日です。朝から長崎市平和公園の記念式典を
テレビ中継で見ました。黙祷のあと、田上市長が
「集団的自衛権行使の安保法制に不安と懸念が
広がっている」と指摘すると、会場から大きな拍
手が湧きました。
被爆者代表の谷口さん(86
歳)は「戦時中に逆戻りする安保法制は、被爆者の願いを踏みにじる
もので反対します」ときっぱり言い切り、私も思わず拍手しました。
谷口さんは一命をとりとめたものの、被爆で背中の皮膚がすべて剥げ、
2年半うつ伏せで病床にあったため胸の骨が
深々と抉られているそうです。その身体をおし
て被爆者援護運動の先頭で闘ってこられたのです。
安倍総理は固い表情のまま、広島の記念式典では触れなかった「非
核三原則を堅持し」の文言を、いかにも事務的に読み上げました。唯
一の被爆国日本の首相にとって非核三原則とは、批判されて後から
付け足すものなのでしょうか!
先日自民党の若手議員が「戦争に行きたくないからという若者は
利己主義だ」と言い、「僕らは国家のために生きているわけじゃない」と反論されました。
この暴言も、「法的安定性は関係ない」発言も、自民党勉強会の「マスコミを懲らしめる」
論もすべて、失言というより安倍総理の本音を語っているのではないか?祖父岸信介に感
化され、先の日本の戦争は間違いばかりではないと本心は思っているように感じられます。
何とごまかそうと憲法9条違反の集団的自衛権行使を法制化し、自衛隊に海外で米軍と
タッグを組ませることは、基地の集中する沖縄をはじめ日本とアジアの人々を危険さらす
暴挙です。衆議院では強行採決されてしまいましたが、この動きをあぶない、何とか食い
止めたいと考える人はどんどん増えています。
人ひとりの力は小さくても、つながれば大きくなる。私は国会前等の集会に参加して、
港区職労の方達をはじめ知った顔に出会うとうれしくなり、勇気づけられます。健康を大
切にしながら、一歩ずつ平和への想いをかたちにし、行動にしていこうと思います。
★広島も長崎もそして福島も忘れ呆けて議りごとすな
父の戦争体験
吉
野
博
之
父が話してくれた戦争体験を記したい。
地図を広げて山口県岩国市、瀬戸内海の広島県境近くに小さな島、柱島ある。この柱島
近海には小島が多く海も穏やかなことから、戦争中は軍艦の停泊地となっていたそうであ
る。戦艦「武蔵」はここから出撃して昭和19年10月24日、フィリピンのシブヤン沖
に沈んだ。その後、戦艦「大和」もこの停泊地から出撃し昭和20年4月、九州南西沖東
シナ海で猛襲を受け沈んだ。
これより前、昭和18年6月8日柱島沖に停泊していた戦艦「陸奥」が突然謎の艦内爆
発を起こし沈没した。「陸奥」は「大和」「武
蔵」以前は「長門」とともに世界最強と言われ
ていた戦艦である。
艦長三好輝彦大佐はじめ乗組員1474名、
生存者はわずか353名(負傷者を含む)。
「陸
奥」の爆沈は軍事機密とされたため、その後、
生存者は南洋諸島などに転属され多くの人が
亡くなっている。
私の父は「陸奥」爆沈時の乗組員であり、終
戦時は50名といわれる生き残りの一人であ
る。爆沈後、父も水雷学校で人間魚雷の特攻隊員として厳しい訓練を受けたが、艇の不足
のため出撃が遅れ生き残ったのであった。父は通信兵で、爆沈時は何かの用事でたまたま
艦首にいた。大爆発音のあと海に投げ出され、二つに折れた艦が高くもち上がってから沈
んでいくのをみたという。重油の海で浮く
うちに近くにいた「扶桑」に救助されたと
いう。一瞬のうちに千名以上の人の命が失
われた。
私は父からこの文章よりも、もっとリア
ルな表現でこの話を何百回も聞かされた。
父は最後に必ず「戦争は絶対にしてはいけ
ない。多くの死んでいった人たちの家族が
一番悲しむのだから」と付け加える。私も
戦争してはいけない理由はこれで十分だと
思っている。
柱島には2メートルを超える「戦艦陸奥
英霊之墓」と刻まれた碑が建てられている。
父の揮毫と聞いている。父は現在97歳で
耳が遠く、からだも弱ってきたが爆沈の時
の光景を思い出し、夢もみるという。今では生き残りの最後の一人ではないかと思う。
思い出すこと
山 口 郁 夫
[西麻布福祉会館誌『私の戦争体験記』]より、「人間の生命力と運命とは違うものなの
だ、別物なのだ、生命力がいくら強くても運がなければ生きられなかった。この戦争で私
は自分の身体で体験したのです」―この書き出しではじまる『私の戦争体験記』は『王将
の独り言』と題され、昭和61年、今から30年程前に西麻布福祉会館(初代大平浅男館
長、次代故江口貢館長)利用者向けの会館誌に掲載されたものです。
語り手は将棋を指したら近隣ではこの人の右に出るものはいない浜西正雄さん、フィリ
ピン戦線で九死に一生
得た体験を話していた
だきました。当時は既
に30歳を超えていた
浜西さんは材木町で染
物をしていた職人さん。
松本連隊でにわか特訓
(もっぱら穴掘りと
ビンタ)をうけ佐世保
から出た輸送船団はほ
ぼ壊滅、無事マニラに
到着するや米軍上陸の
ため山中に逃げ込み退
却。「一緒に死のう」と
いう戦友の自決を見届け、自らはマラリヤの高熱と飢餓に苦しみながら部隊本部があるバ
ギオに到着するや降伏。やっとのことで帰国したが、冬に唯一たよりにしていた母親が新
橋のフリーマーケットで米軍ジープにはねられて死
亡。「この時は日本に帰らなければよかったと思っ
た」と締めくくった浜西さんの沈痛な面持ちと、し
ばし俯いた沈黙は忘れられない。
そのほ
かの男性
利用者も
その重い
口を開い
てくれた
のは、こ
の証言の後でした。霞ケ浦の航空隊に「特攻」隊
員として配属されたものの燃料も戦闘機もない
状況で「毎日ビンタばかりもらっていた」という
Sさん(若い日の飛行服姿の写真をいただいた)、
満鉄で甘粕「大尉」(※1)の下で、彼の最後を見届けたYさん「甘粕
のことをは色々言われるが、彼はそんな人ではないと思う、人格者でし
たよ」と。私は混乱しました。この謎はいまだに解けません。
横須賀の海軍特攻「震洋」部隊に配属され、本土決戦に備えて訓練
に明け暮れたXさん、インパール作
戦のデタラメさを、顔を真っ赤にして
「あの牟田口(中将、作戦指導者※2)
の野郎」と弾劾したOさん、彼はマラ
リヤに苦しめられながら戦友の白骨の
中を退却したという。ここに紹介しき
れぬほどの証言があるが、皆さん生きていれば100歳
近くになる。この様な話を聞けたのも、西麻布福祉会館
行事として8月15日に開催した「スイトンの会」がき
っかけでした。今さらながらもっと聞いて記録に残して
おけばよかったと反省しきりです。
[父と私の対話]
私は高校に進学してまもなく、父の病気を見舞い、戦争について質問したことがありま
す。私は当時読んで衝撃をうけた小説『海軍』(※3 岩田富雄著)『俘虜記』(※4 大岡昇
平著)の感想を述べ、「死んだ人は皆、無駄死ではなかったのか、馬鹿だ」という様なこ
とを言うと、父は「無駄死にとは何だ」と怒り、同時に悲しい、悔しそうな表情をしまし
た。はじめて見たこの表情に秘められた謎はまだ解けていません。それにしても何て馬鹿
な発言をしたのか、もう謝ることもできません。
※1 陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺
害)。※2 インパール作戦とは、1944 年 3 月に日本陸軍により開始され 7 月初旬まで継続された、援
蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことである。
補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫
し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用される。牟田口廉也中
将はインパール作戦において部隊を指揮した。インパール作戦失敗の責任を
問われると戦時中と同様、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせい
で失敗した」と頑なに自説を主張していた。兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬ
まで無かった。
※3「海軍」ふと彼の眼は、彼の中に黒い幻を
見た。2、3 間ほどもありそうな巨大な鱶は一
列になり、真珠湾の方に進んでいった―。昭
和 16 年 12 月 8 日、特別攻撃隊の一員とし
て、運命の真珠湾に特殊潜航艇を駆って突入
した軍神横山少佐をモデルに、海軍に青春を
賭した青年群像を文豪が描いた戦争文学の快作。
※4「俘虜記」著者の太平洋戦争従軍体験に基づく連作小説。冒頭の「捉
まるまで」の、なぜ自分は米兵を殺さなかったかという感情の、異常
に平静かつ精密な分析と、続編の俘虜収容所を戦後における日本社会
の縮図とみた文明批評からなる。乾いた明晰さをもつ文体を用い、孤独という真空状態に
おける人間のエゴティスムを凝視した点で、いわゆる戦争小説とは根本的に異なる作品で
ある
残された一枚の出征の写真
岡 村 昭 則
今年は戦後70年という節目の年である。そこで専科一期校友会HPの「みんなの広場」
で戦後70年平和祈念集作成を発案し、作成一切を引き受けた私として、自分は何を書く
かと思いめぐらし、10年前の節目の時のエッセイと5月に訪れた広島原爆記念公園の紀
行を添えて掲載すること一件落着となった。ところが皆さんから投稿されるのは文書のみ
が多く写真がないことから、読む側にすれば流し読みになってしまう。写真があるとそれ
に引きつられてじっくりと読んでくれる。だから写真一枚で読む側の脳裏に焼き付く度合
いが違うのである。そこで私は投稿文を読んで、それに相応しいインターネットで無料公
開されている写真の中から探し出して文書に添えていく。
人が写っているものはプライバシーの問題から使わないことにしているが、今回、投稿
文の中に、親や妻が子供や夫を戦場に送り出す思いはいかばかりというくだりがある。イ
ンターネットで公開されている出征の写真には必ず個人名の幟が立っているものが多く、
どうしょうかと思い巡らしていた時に、閃いたのは私の母が亡くなった時に引き継いだア
ルバムの中にある、父の弟である巌おじさんの出征の写真だった。アルバムを探し出して
その写真を見つけスキャンして利用させてもらい投稿文に貼り付けた。
★私自身、巌おじさんの写真と向き合うのは初めてである。それに母が亡くなった時に父
方の改制原戸籍の交付を受けていたことを思いだしたので、今回初めて巌おじさんの写真
と戸籍を読み合せることにした。巌おじさんとは身延に疎開する前に住んでいた淀橋区=
今の新宿区=の家で何回か会っただけだが、これまで巌おじさんのことは父より聞いてい
たのは、「新宿の淀橋消防署に勤め消防自動車を運転していたこと。飛行機以外はすべて
運転できる技術者であったことから満州に出兵し、自動車、戦車も動かし、最後は南方へ
の輸送船の機関士と徴用され、米軍の飛行機に撃沈されて海の藻屑と消えたこと。届いた
遺骨箱には一片の紙切れだけが入っていたこと」等である。父の兄からは「南方の海で助
けてと叫ぶ巌ちゃんが夢の中に現れた」と私に話してくれたことも蘇ってきた。
★今から10年前に、父の親・兄弟・姉妹は120年ですべて死に絶えたことからプラバ
シーを抜きにして、70年ぶりに叔父さんの写真と向き合いながら改制原戸籍を読み解い
ていく。「巌おじさんは大正7年12月生まれで、昭和20年8月30日ミンドロ島に於
いて戦死している。」、巌おじさんが出征したのは昭和18年の春であるから25歳で出征
し2年後に戦死したことになる。戸籍を見て気になったのは、
終戦は昭和天皇による玉音放送により、日本の降伏が国民に公
表された日は、昭和 20 年 8 月 15 日であるから、巌おじさんは
終戦後の昭和 20 年 8 月 30 日に戦死したと戸籍には記録されて
いる。このずれは何かとインターネットで調べてみると、沖縄
戦終結の日は 9 月 7 日としているように、1945 年 8 月 15 日、
大本営は陸海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続
行すべし」と命令し、8 月 16 日に自衛の為の戦闘行動以外の戦
闘行動を停止するように命令した。さらに 8 月 18 日には、全
面的な戦闘行動の停止は、別に指定する日時以降に行うように
命令、8 月 19 日に、第一総軍・第二総軍・航空総軍に対して、
8 月 22 日零時以降、全面的に戦闘行動を停止するように命令。支那派遣軍を除く南方軍
等の外地軍に対しては、8 月 22 日に、8 月 25 日零時以降に全面的な戦闘行動停止を命
令。また戦闘停止命令の届かなかった部隊等による連合国軍との小規模な戦闘は続いたと
いう。これらの戦闘は 8 月下旬になると概ね終結したという。本部から戦闘地域までは敗
戦命令が届くまでの間に戦死いう悲劇が生まれていたのであろうと推測する。不運だった
と言わざるを得ないが、戸籍にかかれていることが本当かどうか疑わしいと思った。ミン
ドロ島の海底のどこかに巌おじさんの乗っていた輸送船が時空を超えて横たわっているに
違いない。戦争とは残酷なものよ。時がすべてを消し去っ
て、船に乗っていた人の存在さえ忘却の彼方へと押し流して
しまった。現在は風光明媚なリゾート観光地で70年前の戦
争のことなど気に掛ける人もいないに違いない。
★ミンドロ島の戦いは、太平洋戦争中の 1944 年 12 月 13 日か
ら 2 月下旬にかけて、日本軍とアメリカ軍により、フィリピ
ン北部のミンドロ島で行われた戦闘である。太平洋戦争中は日本軍が占領していたが、
1944 年 12 月 15 日にアメリカ軍はルソン島奪回の足がかりにミンドロ島へ上陸を敢行、
島は戦場と化した。アメリカ軍の作戦目的は、ルソン島の戦いの準備として作戦拠点を確
保すること及び全フィリピン諸島を日本軍から解放する一環としてのミンドロ島自体の奪
還にあった。圧倒的に優勢なアメリカ軍の攻撃により、日本軍守備隊は全滅している。
★父方の従兄の中で巌おじさんのことを知っている人は、今は誰もいない。私が僅かでも
巌おじさんの存在を戦後70年ぶりに、叔父さんの写真を通して日の目を見るに至ったこ
とは巌おじさんの供養にもなり、嬉しい限りだ。(H27.7.11 記)
私の戦争体験は、三歳の時でした!
並 木 文 雄
昭和21年7月生れですからポツダム宣言受託後(終戦)の正真正銘の戦後生まれです。
したがって戦争には関係ないじゃないかと思われるかも知れません。しかし、先の太平洋
戦争では三百何十万人の犠牲者の他に戦争の惨禍に見舞われた女性や子供たちなど多くの
国民が犠牲となりました。戦後に陽が当てられたのは犠牲となった軍人だけと言われてい
ます。軍人には軍人恩給と言う手厚い補償があり、今日までその額は57兆円とも59兆
円といわれています。一方、沖縄、原爆投下がされた広島・長崎、そして東京大空襲をは
じめ全国各地で、空襲などで犠牲となった多くの国民には何の補償もされておりません。
さらに配偶者を戦争等で失った未亡人やその子どもたちは片親扱いとなり就職や結婚差
別などを受け、戦災孤児となったと子供たちは筆舌に尽くせない辛苦を受けたのです。私
の戦争体験は物心の付いた3歳に遡ります。父は、朝鮮龍山歩
兵第78連隊に昭和8年に入営したと残されたアルバムから
知ることが出来ます。入隊中のことは父と暮らした期間が幼少
期であったため殆んど知りません。昭和十五年頃に帰隊中、入
隊中にねずみや蛇も食べたというほどの食料事情からか当時
不治の病とされていた肺結核を患い、何度となく入退院を繰り
返すことを余儀なくされました。
父の入院中、今のように看護体制が整
っておらず、夕方になると母は8kmも
離れた病院に自転車で通い父の看護に
付き、翌朝自宅に戻り少ない農地を耕し
ました。トラクターも除草剤も無い時代でした。当時父30代前半・
母20代後半のとき、8歳の兄を筆頭に子ども4人抱えていました。
母の苦労は今になってもその話を聞くたびに涙します。
表題に戦争体験は3歳のときでしたと書きましたが、父が最初に
入院した際、私は7kmも離れた母の弟夫妻に、兄と姉は父の兄夫
婦に預けられ生活しました。病院の帰りに様子を見に来た母が自宅
に帰る際、自転車の後を泣きながら必死で追いかけたことを今でも
思い出します。私の戦争の原点、3歳とする理由です。
父が入院、自宅療養を約10年間繰り返す中、母も私たち兄弟4人も悔しいこと苦しい
ことは数え切れません。電気料1ヶ月240円?の支払いにも窮し、母が居留守を使って
いたことを思い出します。最近になって、あの時なぜ生活保護の申請をしなかったのか母
に確認したところ、300坪以上の農地所有者は対象外とのことだったとか、農地を手放
したらと泣く泣く断念するしかなかったと悔しそうに語っていました。
父は母が38歳、兄が15歳、私が10歳の時、他界しました。私たちの家族一同、と
りわけ私は戦争が引き起こした二次、三次の被害者であったと思っている。厳しい環境と
貧困のなかで培った私たち家族一同、母をはじめ仲睦まじく生活しております。母は今年
11月、97歳を迎える。
兄の戦場での体験談
松
田 美英子
私が子供のころ、兄から聞いた話です・・・
私の兄、現在98歳です。七人兄弟の長男です。今は寝たきりで、たまに起き上がる状態
です。兄が18歳の頃だと思います・・・
群馬県高崎市の駐屯地で厳しい訓練を何年か行い、体を鍛え戦場へ。戦地は、ビルマ、
パパニューギニアだったと思います。それから又、厳しい訓練、戦い、地獄の戦争だった
と。堪えられない暑さに加え、食べ物そして水も無く、皆やせ細るばかりだったと。それ
でも食べなければ闘えなかったから、ジャングルの中を四つん這いに這って食べ物を探す
毎日・・・見つかれば射殺されるジャングルの中は何も無い。蛇、ネズミ、虫、何でも食べ
た。と
〈多分、捕虜になったのだと思います。〉
ある日何十人いたか分からなかったが、飛行機に乗せられジャングルをぐるぐる回り、
目の前で一人づつ目隠しをされ落とされて行った。もう一人。その次は自分の番だ・・家
族に「サヨナラ」と目を瞑った。なぜか解らなかったが二人とも落とされずに収容所へ・・・
二人とも一番若かったから。奴隷のように。終戦後も何年かはジャングルにいたそうです。
本当に戦争は終わったのだと・・・。
故郷に帰還して駅では大勢の地元の皆さん、親戚、家族が出迎えてくれました。村中聞
こえるぐらいの大きな声でみんな泣きました。
戦争は地獄だと。ただただ死に行くだけだと。
世代を担っていく者がみんな死んでしまった。
私はもっと兄から聞いたと思うのですが、泣けて思い出せません。
※ニューギニア島は、日本から真南に 5,000 キロ、オーストラリアの北側に位置する熱帯
の島である。面積は 77 万平方キロと日本の約 2 倍の広さであり、島としてはグリーンラン
ドに次いで世界で 2 番目に大きい。脊梁山脈には 4,000 メートルから 5,000 メートル級の
高山が連なり、熱帯にありながら万年雪を頂いている。ニューギニアにおける戦いは過酷
な自然環境との戦いでもあった。日本兵の死因の多くは直接の戦闘によるものでなく、マ
ラリア、アメーバ赤痢、デング熱、腸チフスなどの熱帯性の感染症と飢餓による栄養失調
と餓死であった。
私の聞いた戦争に関しての話(父・母の経験談)
渋 川 峰 夫
皮肉なことに太平洋戦争による巡りあわせが、両親の結婚と私達兄弟の誕生につながり
ました。
父は大正の終わりごろに、大学で学んだ採鉱冶金の技術を生かすべく、鉱物資源の豊富
な南米ペル-に行き鉱山技師として働いていた。生活は満足だったと言っていましたが、
日本が米国との戦争に突入すると、一転して敵性国の国民として財産一切を没収されて国
外追放となり、途中に米国テキサス州で厳しい収容所生活を強いられて、日本に昭和 17 年
末ごろに身一つで帰り着いた。
米国の日系人)強制収容所
※●テキサス州クリスタルシティ収容所には、日系アメリカ人コミュニティのリーダーだけでなくペル
ーなど南米から連れてこられた日系人らが収容されていました。
その後知人の紹介で母と知り合い東京で結婚し、仕事も祖父の関係で神岡鉱山に関係す
る戦時下の国策会社に入職し、両親は岐阜市に住居
を構えた。戦時下でも当初は幸いな事に、太平洋戦争
による直接的な人的・物的被害は余り受けなかった
そうだが、終戦が近かったころには戦局が悪化して
岐阜の街に対する空襲が始まり、
(岐阜市の隣に各務
原飛行場と飛行機の製造工場が有った)母はお腹に
長兄がいた為に、父のいない時には一人大きな腹を
抱え、爆弾の降る中を怖い思いで鉄橋の線路を伝っ
て逃げたと言っていた。
母はこの時の経験を、消防車のサイレンを聞く度に「今でも空襲から逃げた時を思いだ
し、本当に戦争は怖かったと」常々言い、このような事になる戦争は二度としてはいけな
いと言っていました。
父は約 20 年に及ぶペル-での生活に関しては、充実した生活を過ごしていた話はしまし
たが、国外追放とテキサスの収容所の生活については、厳しかったというだけでほとんど
話しませんでした。また、戦争下での鉱山会社で仕事のこともほとんど話しませんでした。
私は、母が兄をお腹に宿して大きなお腹で、空襲から逃げた話を聞く度に、長兄の誕生
日との関係で何か変だと思っていましたが、ある時叔母から「長兄の誕生日は戦後の混乱
によって、届け出が出来ずに実は 8 月 18 日が 1 月 18 日となってしまったのだ」と聞かさ
れ、本当に生きるために皆が必至だった戦時下・戦後の混乱期、両親の苦労が分ったよう
な気がしました。母は、自分たち国民ほとんどが戦争は負けると思っている中、強引に戦
争継続を進めていた人たちの事を、
「事情があったにしてもひどかった」と控えめに批判し
ていました。
戦後は国民みんなが苦難の連続であったと同様に、両親もゼロからの出発となり、
「小さ
な男の子 3 人を抱えての生活は、死をも考えるほどの筆舌に尽くせない厳しい生活の連続
であった」と、泣き言を決して言わなかった母は、私たちが社会人になった時になってか
ら言っていました。
この様に直接戦争に関わらなくとも、戦争は戦中・戦後を通して本人の意思にかかわら
ず、生命・財産等あらゆるものを一方的に奪い・狂わし・壊してしまうものです。当然で
すが「戦争は決してしてもさせてもいけない!」ましてや、憲法を自ら勝手に解釈して戦
争参加・海外派兵になる「安保法制には断固反対!」である。
いつまでも平和を求めて
一
條
弘
司
一、厳かな式典の異様
辺りは無性に静まり返っている。その時、校庭の演台に立つ校長先生は厳かにうなり始
めた。昭和十八年、国民学校三年生の私は、全校生徒の居並ぶ前方、前から四、五番目に
位置していた。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ……」教育勅語の始まりで
ある。全校生徒静かに頭を垂れて物音一つしない。先生方も一様に横一列に並び畏ってい
る。先生の朗読もやがて終わりに近づいた頃、異様な物音がしたと思った瞬間、クスクス
と言う笑いが発生した。会場の厳粛な空気はそこで一変。透かさず司会役の先生が青くな
って駆けつけ、有無を言わさず私は中央最前列にひきずり出されて土下座させられた。無
論私に罪の意識など全くない。その内全校生徒が土下座。校長先生のお説教が延々と続い
て漸く解放されるも、三年一組の生徒だけは尚、教室に入ることを許されず、今度は直立
不動のお仕置きが続いた。
今でも不思議に思うのだが、こんなことが起きても、誰からも文句の一つ言われること
はなかったのである。この頃は既にミッドウエー海戦に大敗、その後アッツ島での敗戦
と、何か不吉な予感の漂う時代に入りつつあった不穏な時の始まりでもあったのだ。
二、悪餓鬼隊員奮戦記
昭和十六年、六歳で国民学校に入った私は、当時栃木県宇都宮市内に住んでいたが、二
年の途中で日光市今市に移った。この頃から無いないづくしの生活が始まった。甘いもの
の最後は、六歳での森永キャラメル。その後は毎日の食べ物にも事欠く始末で、ジャガイ
モ、甘藷の代用食、これを食べるべく畑の掘り起しに毎日を費やした。幸い、田舎の町と
言うこともあって、戦火に曝されることはなかったが、家の庭に防空壕を掘って備えたり
はせざるを得なかった。
さて、子供は遊びの天才である。この頃の遊びと言えば、川遊び、戦争ごっこ、そして
腹を空かした餓鬼共はとんでもない事を考えるものである。「盗」である。我が家も一様
に困窮はしたもののそこまで困ることはなかったのであるが、そこは子供同志の連帯感か
ら、一人抜けることはできない。五六人の仲間の悪年長者から命ぜられるまま盗みを働く
のである。田舎のこと故、藷でも柿でも思うがまま。が、盗みが嵩じて店で売り物のみか
んを盗むのである。これには閉口した。仕方なしに選んだ私の役目は、仲間が盗んだ物を
受け取って味方の陣地まで届ける役目。足の速さは抜群。当時五十米走六秒二。走ればい
つも一番だった。が、やがてこれも一蓮托生、立派な盗であることに気付くと共に、親父
から大目玉、当時の田舎では、村長、局長、駅長は名士である。名士の顔に泥を塗った罪
の報いは一週間の自宅謹慎。友達はそおっと様子を見にきていたが、やがてこの遊びは終
わったのである。
三、港区平和都市宣言
昭和六十年、この頃俄かに
平和都市を標榜する市町村が
増え、港区議会に於いても前
年、平和都市宣言を求める決
議を議決していた。これを受
け、急遽宣言文を作ろうとの
機運が盛り上がってきて、そ
れを誰が作るのか、他に属さ
ない事項は総務課の仕事。い
きなり総務係長の私のところ
に大きなお鉢が廻って来た。
元より時間的余裕がない。偶
たま同和対策の研修のために
出張中の九州の宿で徹夜。一
晩で書き上げたのが今に残る
宣言文である。
今、作文過程を思い返してみ
ると、最初はひもじさ一汐。
理不尽な戦争中の出来事。最
後はやはり広島、長崎に辿り
着くのである。「かけがえの
ない美しい地球を守り、世界
の恒久平和を願う人びとの心
は一つであり、いつまでも変
わることはありません。……」とあれから三十年。平和
を求める心は不動だにせず。いつまでも変わることはな
いのである。
※平成 17 年 8 月 15 日、「港区平和都市宣言」を行ってから 20 年が経ちました。これを記念し、「平和
の灯」を区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福
岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
「平和祈念集」に寄せて
大
槻
巌
先の大戦が終わったとき、奉安殿が閉じられ、教科書の各所に墨で消す作業が指示され
授業が行われた。もとより、小学二年
生では確たる理由を解していない。大
戦末期には、爆撃機 B-29 の通り道であ
ったようで、ずいぶんと目にした。仙
台は昼夜を分かたず爆撃され、真っ赤
な炎を目にした
★終戦直後の農家は作った米の強制買い上げがなさ
れ、自家米は限られていたが、麦飯でも何とか食べられた。大根の混ぜご飯は味気なかっ
た。都会と違い闇米という食生活はなかっ
た。思えば、今日、飽食の時代と言われ、
大量の食べ残しがあり、米作りが規制され
る中でパン食が流行り、バラエテイに富ん
だ食生活に変わった。そんな中で、大量の
コメの輸入をせざるを得ない世界経済の時
代になった。
★また、着るものも自分の好みに合わせ、
安く沢山手にする時代になった。さらに、
住宅も借金しながらでも手にする時代にな
った。もっとも、借金人生を強いられるよ
うな時代の是非は問われるところである。
電気も量不足で停電することも無くなっ
た。衣食住の充足も然ることながら、戦
後、言
論・出版・集会の自由が保障されたことは、最も称賛さ
れてよい。現在でも世界を見回して、この自由のない国
がなんと多いでしょう。この自由が無ければ暗い閉塞社
会である。
★また、文化的最低限度の生活保障も、五・六十年前に
はプログラム規定であると解釈されていた。俗にいう”
無い袖は振れない“のである。経済が豊かになって初めて達成される制度政策である。生
活環境の充足や言動の自由も、内外共に平和・安全であることがなによりも大切である。
日本が、人的・経済的交流がグローバルな時代に突入して、今後、国際関係において、ど
んな位置づけで生きて行くのか、強く問われている。
★冷戦終了後の悩ましい時代である。悩みながら決断しなければならない。
父親から聞いた戦争
宮 田 勝 江
私の父は昭和19年12月(戦争真只中)に除隊となり、故郷の烏山(JR烏山駅)に
帰って来ました。私は小学校(国民学校)3年生でした。当日、烏山駅には町や村の人が
大勢出迎えた。「お帰りなさい」、「除隊おめでとう」の歓声の
中に三人の兵士が降り立ちました。にぎやかな光景だったと記憶
に残っています。その出迎えの家まで行列行進、道中は日の丸の
小旗を振り軍歌をひびかせながらだった。家に到着するも三日三
晩は村人の祝い酒だったこと子どもながら居場所が定まらず、い
やだったことたけが残っています。
父は、ずっと内地で登戸連隊にいたと語ってくれた事、隊の休
日には烏山の家に帰って来たことや、私が入学する春にランドセ
ルを買ってきてくれた事が一番の思い出です。
父は翌20年中頃「東京へ勤労奉仕に行くことになった」と出
かけて行った。それは東京電力の要請で都内の電線を撤去、撤収することだった。一日も
取り外さないと東京は空襲で電線が全部焼けてしまう急を要していたらしい。また、電気
のない町や村に持って行き電灯をつける大事な仕事だったと云っていた。明けは烏山に帰
る。その夜3月10日は東京大空
襲に見舞われた。父は兵役中一度
も空襲の体験がないまま除隊にな
ったので、あの夜の恐怖は想像以
上だったと回顧。
父の除隊については、登戸研究
所の秘密を守ることや食糧難を想
定してか。電線の撤去作業は、東
京が焼け野原になることを想定
(予想)した人が居たに違いな
い。いづれにしても敗戦色が濃
い。敗戦覚悟の上で指示されてい
た事であろうと私は思うのです。
※登戸研究所は、現在の神奈川県川崎市多摩区生田にかつて所在した、大日本帝国陸軍の
研究所。生物兵器、 化学兵器、 特攻兵器、 謀略兵器、 風船爆弾、 缶詰爆弾、 怪力光
線、電気投擲砲、怪力
光線など研究をしてい
た。中華民国の経済を
乱すため、当時として
45 億円もの中華民国向
けの偽札がこの研究所
で作られ、30 億円もの
偽札が中華民国で使用
されたという。
主人の体験談「学徒動員」
宮 田 勝 江
私の主人は志願兵でした。「叔父さんから海軍を志願しなさい」と強くすすめられた。
理由は「いづれ召集が来るぞ」陸軍、海軍、空軍の内で海軍が一番いいんだぞ」と云わ
れ、それに従った。
学校を中退し入隊したが、特別な思いなど何もなかった。入隊後の訓練は厳しかった。
水泳から厨房での食事作り、何でもやらねばならなかった。食糧は豊富で良いことも沢山
あったよ。「水兵は優遇されていたかな」とも回顧しながら話してくれたが、輸送船団で
戦地へ出陣した時の話には、本当?と耳を疑うこともありました。
初めて出陣した時は、10艘の内、目的地に到着でき
たのは1艘だけで他は撃沈され、帰還できたのも1艘の
みで、その中に自分も居たんだ。次の戦地へ出陣の日程
と乗船者名簿が決められた時は覚悟も出来ていた。なぜ
かその前日、突然高熱を出した為、乗船名簿から外され
た。その自分が乗るべきだった船団は目的地到着を目前
に撃沈され全滅したんだ。あの時、熱が出たため乗船し
なかったことで自分の今があるんだよ。九死一生だと思
っている。間もなく終戦になった。生前、私や子どもた
ちに聞かせてくれたものです。
戦後は引揚船として多くの人の帰国を手伝ったようで
す。これもまた悲惨な状況であったという。その一端、労苦の末やっと帰国船に乗り、故
国の土を踏めるその夢半ばで命を落とす光景は珍しいことではなかった。その方の無念さ
を思いつつも、最後は船上から水葬を行った事は残酷な行為だが、仕方のないことだった
と一度だけ話してくれたのです。
私は引揚げ船の実情を知って、戦場以外で多くの人々が辛い思いで戦争の犠牲者だった
ことを改めて考え、空襲の体験もなかった私は無知であったこと恥じています。今こそ戦
争のない平和な国を守り抜きたいと強い思いを持っています。
『東京大空襲と学童疎開展』と早乙女勝元さんの講演会に参加して
関 口 千 代
8月5日退職者会千葉県クラブの呼びかけで,『東京大空襲と学童疎開展』を見てきま
した。テレビでも、戦争の悲惨な状況がなぜ避けられなかったのかを特集で検証している
番組を多く見ることが出来ました。私が展示や講演会、テレビから今年知った幾つかの点
を書きます。
1、学童疎開は足手まといの子供を東京か
ら減らしたい国の方針だった。
2、アメリカは3月10日の風の強い日を
選んで非戦闘員を無差別攻撃した。
3、隣組などで避難より消火活動が義務づ
けられていたのも被害を大きくした。
4、中学生以上の子供や女性も勤労動員し
ているので、非戦闘員ではないと、アメリ
カは主張している。
5、原爆の爆心地付近で犠牲になったのは
勤労動員の中学生以上の子供が多い。
6、沖縄では17歳以下の少年を兵士とし
て戦闘に組み入れた。
7、戦争の最後の1年間に多くの命が失わ
れた。早く終らせれば救えたはずの命。人
命が軽いものとして扱われ、更に弱い立場
の子供を国は守りませんでした。戦後70
年が経過して戦争を体験した世代が声を上
げることは少なくなります。是非、若い方
に戦争の事を見て聞いて考えていただきた
い、書き残すことも大切な事と早乙女さん
は講演で話されていました。都内には常設の施設も幾つかあります。機会を作って見学す
るのも良いと思います。
①東京大空襲戦災資料センター 江東区北砂1-5-4
東京大
空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、
4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センターです。
2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館。さらに
2007年3月には、いのちと平和のバトンを未来にきちんと受け渡すために、
増築を実現しました。
②平和祈念展示資料館新宿住友ビル
平和祈念展示資料館は、戦争が終わってからも労苦(苦しくつらい)体験をさ
れた、兵士、戦後強制抑留者、海外からの引揚者の三つの労苦を扱う施設で
す。
③昭和館千代田区九段南 東京都千代田区九段南にある日本の国立博物
館(厚生労働省社会・援護局所管)である。いわゆる戦中、戦後の国民生活を
中心とした資料を展示している。
父、母の気持ち思うと
辻
裕 之
第二次世界大戦が終結した1945年8月。あれから70年。かって日本はアジア太平洋
で無数の命を奪い、そして310万人の日本国民が犠牲になった。私は1943年(昭和
18年)、武蔵野市吉祥寺で男三人兄弟の次男として生まれた。父親が身近にいた記憶は
ないが、隣の家からピアノの音が聞こえた事は鮮明に覚えている。あの有名な歌手 故
岡本敦郎氏の家だった。
父は海軍に召集されたが、戦場にはいかなかった。戦争が終わり食糧難になり、家族を
養うため毎週、自分の生まれた埼玉県日高市の実家に食料を貰いに行った。今と違って道
路は砂利道、雨風の中、往復50
キロ余りの道を自転車で通った。
その結果、栄養不足と体を酷使し
結核となってしまった。入院し昭
和25年4月、36歳の若さで亡
くなった。
その後、母も苦労を重ね、父と
同じ結核になり長い闘病生活を送
った。母のいない家に子供たちだ
けでは生活出来ず、父の実家と伯
母の家に兄弟別々に引き取られ
た。母は父の死後五年、35歳で
病死した。当時結核はうつると云
われ、病院へは一度も行けなかっ
た。母の死後私たち三人の生活は
紆余曲折だった。
戦争は一般市民が被災者になる。
戦争のために幸せな家庭が壊され
る。私たち三人は親戚の助けがなければ、どんな人生を送っていたかも知れない。
いま私は父母の倍の人
生を生き近所に住んでい
る子供、孫との平凡な生
活を送っている。この状
況を父母にも味わっても
らいたかった。父母は病
床の時、死にきれない気
持ちだったと思うと涙が
出てくる。
安倍政権が進めている
政治は、軍靴の響きが聞
こえてくるような状況を
作っている。憲法9条を
守り、戦争をしない国に
するために、これからも
力を尽くしていきたい。
あの頃、その時
舟 田 公 男
終戦の年、私は旧制中学2年(14歳)でした。生まれて以来、本郷台地の端に位置する
本郷元町に住み、育ってきました。穏やかな住宅地でしたが、この頃は戦局も緊迫を増し、
警戒警報や空襲警報を告げるサイレンの音も頻繁に響くようになって来ていました。その
ような時、昭和20年3月10日に夜半いわゆる東京大空襲に見舞われました。この時は
200m程離れた通りから先は広範囲にわたり焦土と化しましたが、我が家は無事でした。
ところがそれから1ヶ月位後の4月23日か、24日だっだか、やはり夜半に空襲を受
け、この時も空襲警報のサイレンも鳴らず、突然名状し難い轟音と辺り一面炎に包まれ衝
撃的な状況となっていました。私は、母と兄に促されて隣接する興安寺さん本堂の地下に
退避しましたが、すぐにお寺の人から「ここは危ない。早く出るように」と急かされ地下室
から転げるように飛び出し、先の3月10日空襲の焼け跡の中の道を駆けて逃げました。
やっとの思いで、焼け跡を横切る本郷通りにあったロータリーにたどりついて、振りか
えると我が家の辺りは凄まじい炎が立ち上っていました。ようやく空が白み炎もおさまっ
たので家のあったところへ戻りました。見渡す限り、まさに灰燼に帰し何一つ残っていま
せんでした。その後、親戚、知人等を頼り、転々としましたが、8月15日までの間一日
として気の休まる日はありませんでした。こうした体験は二度としたくないし誰にもさせ
たくありません。
東大農学部
日本が太平洋戦争した本当の理由は何なのか
岡 村 昭 則
戦後 50 年(1995 年)の節目に村山内閣総理大臣は世界に向けて談話を発表しています。
先の大戦が終わりを告げてから、50 年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によっ
て犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまい
りました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様 1 人 1 人の英知とた
ゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、
世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、ア
ジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至っ
たことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちにな
ります。私たちは過去のあやまちを 2 度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に
語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひい
ては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と
信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に
近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍
的な拡大をはかるために、この 2 つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現
在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するた
め、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後 50 周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓
に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、
植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を
与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚
に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたしま
す。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から 50 周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排
し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを
押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、
核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくこ
とが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮め
るゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とするこ
とを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
平成7年8月15日
この談話は日本政府として先の大戦への責任を認め反省を諸外国に対するアッピールし
たのである。これで政府としての謝罪は完結しているので、以後の10年の節目ごとの談
話などいらないと私は思っている。小泉、安倍首相も談話を発表しているが、その度に謝
罪を蒸し返して諸外国を刺激している。いつまで謝罪を続けるつもりか?
★満州事変に始まり太平洋戦争までの敗戦国としての責任は、日本の戦後謝罪は国際法的
には決着している。というのは、日本は終戦直後に設けられた極東国際軍事裁判において
戦争責任を裁かれ、それを受け入れた。それによって戦争への罪を認め、反省を表明した
のである。1951 年 9 月には、連合国諸国との間で締結されたサンフランシスコ平和条約
によって戦争犯罪を認め謝罪し、占領軍アメリカの「指導」によって制定された平和憲法
を順守して、それ以降、二度と戦争を起こしていないし、日本は賠償金を支払い、莫大な
ODA資金でそれぞれの国に援助を積み重ねてきている。
★特に日中韓においては、
「中華民国」とは日華平和条約によって戦後処理を行い、中華人
民共和国」が国連に加盟したあとで、日中国交正常化共同声明および日中平和友好条約に
よって、
「中華人民共和国」との戦後処理も法的に終わらせたのである。韓国との間でも 1965
年 6 月に、日本(佐藤栄作政権)と韓国(朴正煕政権)との間で調印された日韓基本条約。こ
れにより日本は韓国を朝鮮半島の唯一の合法政府と認め、韓国との間に国交を樹立した。
韓国併合条約など、戦前の諸条約の無効も確認した。両国間交渉の問題点は賠償金であっ
たが、交渉の末、総額 8 億ドルの援助資金と引き換えに、韓国側は請求権を放棄した。
★内閣総理大臣談話で不思議なのは、当時の政府の行った先の大戦で日本国民に絶大なる
打撃を与えたことに対し、国民への謝罪もなく、なぜ戦争をせざるを得なかったのかの説
明責任がなされていないことや、二度と日本国民をこのような戦争の巻き込むことなく平
和を追求することを政府としてお約束するということが宣言されていないのだ。また、当
時のマスコミも二度とうそをつきませんと宣言すべきだ。今のマスコミを見ていると政府
の危ういところには蓋をして政府の都合のよいところばかりを強調するという戦前とまっ
たく同じ道を突き進んでいることに危機感を覚える。
★いつまで敗戦国日本は謝罪を続けるのか、もう断ち切る必要がある。ベトナム戦争で負
けた米国は第二次大戦で使った爆弾の総量よりも多く使ったにもかかわらず謝罪もしてい
ない。欧米諸国は植民地政策でアフリカ、中近東、アジアの諸国から何百年にわたって収
奪・残酷なことをやり続けてきたにもかかわらず何の謝罪もしていない。韓国が常に慰安
婦問題で日本を攻撃しているが、韓国はベトナムでもっと残酷に売春狩を行っているのに
一度も謝罪していない。日本が戦争に負けたからこそ韓国が取り上げているのだ。
★太平洋戦争の発端は日米による市場を争った資本主義の衝突と捉えることができる。白
人支配、欧米人優位を打ち破ることから、中国や東南アジア諸国を欧米帝国主義国の支配
から解放し、日本を盟主に共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想から始まった
にせよ、戦争で大日本帝国が犯した犯罪行為は、中国をはじめあらゆる作戦地域、占領地
域で犯した民間人の殺戮、傷害、強姦、捕虜への拷問と即決処刑等や、無責任な作戦立
案・実施による無数の日本兵の斃死、その他の無数の罪となるべき行為を、日本は 1931
年から 1945 年までの戦争で犯してしまったのである。しかしながら、特に植民地化され
ていたアジア諸国の人々に「独立」という希望を与えたことも確かだ。だからこそ犠牲者
や被害者の痛みを思い、なぜ戦争を起こし、各国国民に犠牲を強いたのか突き詰めて反省
し、歴史認識を改め中国・朝鮮や東南アジア諸国に対して未来志向でお付き合いするしかな
いのである。それ故に戦後50年の節目に村山談話を世界へ表明した意義はここにある。
私
の
宝
山 本 伸八郎
1955年(昭和30年)12月1日一冊の本が刊行された。本のタイトルは「地方自
治7周年記念誌」。発行者は沖縄市町村長会長吉本栄真となっている。
本の体裁は各頁の標準が一行38字 一段38行 4段組で2,736字全体が千頁で
合計273万6千字 400字詰原稿用紙6,840枚に当たる膨大なものである。表紙
はビニールクロス張り 表紙の見返にオールカラーで沖縄全図が入っている。年鑑さいず
の分厚い本となっている。
私はこの記念誌の作成業務に従事した。簡単に言えば、割り振りと校正の一員として約
半年間夜のアルバイトをしたということである。当時沖縄の印刷事情は厳しく、印刷を内
地の共同印刷(文京区)で行うことになり、男性6人女性3人のチームで作業に当たっ
た。皆昼間は正業があり、夕方6時から深夜11時まで薄暗い校正室初校、二校、三校と
ゲラとの格闘が続いた。沖縄県の地名や人名の読み方が判らないので何倍もの時間を要し
た。女性メンバーは皆美人だったが、二人は沖縄からの参加で会話の中に沖縄の外国扱い
の苦労や内地に来る喜びが伺え、沖縄の戦後を実感した。女性達を交えて登山やスキー、
ロードショーをみたことなど遠い昔の思い出である。
ところで記念誌は沖縄全市町村の戦後10年間の歩みを記録に留めようと沖縄の地方自
治体の集まりから生まれた特筆すべき一冊と私は思っている。刊行のことばの冒頭『沖縄
は太平洋戦争における最後の決戦場として全島焼土と化して地上のすべては壊滅した。わ
れわれは無から有を生まねばならぬ一大転換の時代に立たされて、もがき続けてきた。戦
後10年!!苦難の道を歩んだ沖縄………』と云う吉本栄真氏の悲痛の言葉が述べられて
いる。
記念誌の内容を見れば、市町村のことだけでなく、戦後10年間の沖縄の全てがわかる
位の驚くべき構成になっているのであ。
花
火
宮 田 憲 吾
私は太平洋戦争が始まる一か月前の昭和 16 年 11 月 10 に生まれました。
もちろんこの年代の人は皆同じ体験をしている訳ですが、今思うと当時の大人たちが体
験した本当の苦労を生々しく記憶している訳ではありません。
私の生家は東京の大森駅から近く、そこから一家 4 人(父は兵役で不在)が疎開したの
は、私が三才の時でした。上野駅から汽車で 3 日間かけて父の実家がある秋田県角館へ避
難しました。その逃避中のこと、大森の街の上空は夜遅い星が輝いているはずなのに敵機
を照射する探照灯の帯が何本も駈けまわり、米軍爆撃機B29の機影がいくつも近くに見
え、落とされる焼夷弾で一瞬昼間のようになり爆発音が大型の花火のようでした。さらに
途中の路地を駈け抜ける時には、あちこちの家々から炎が上がっているのです。ようやく
大通りに出ると、消防車のサイレンが、けたたましく走り廻り騒然としていた覚えがあり
ます。
ところで空襲警報は「ウ~~」と
いうサイレンが何回も長く繰り返し
鳴ります。私の家の庭にも防空壕が
掘ってあるのですが両隣の庭にもあ
って、3m程の下に広い空間があり
合流避難出来るように継っているの
です。サイレンがなると急いで壕の
中に入り、解除になると家に戻ると
いう繰り返しでした。
これだけ書くだけでも体験のほん
の一部なのに肩が重くなります。今
でも夏の夜空に祭りの花火で無く爆弾の花火だったらと思うと身体中に緊張感が走り、
「やばい!」と思うのです。
戦後70年、この国は今
榎 本 庸 夫
先日新聞に、戦後とは「建国」を指す言葉、日本国
は大日本帝国が滅亡したあと平和主義と国民主権を
基本理念とする新憲法を骨格として「戦後」に建国さ
れた国であると。なるほどそんな捉え方はいいなあ
と思いました。国家のために国民があるのではなく、
国民のために国家はあるのだと価値観を根底から大
転換した戦後の歩みは、建国というにふさわしいの
ではと。憲法と幅広い国民の共感。「建国」から 70 年、
おかげでこの国は一切の戦争に巻き込まれず、ただ
一人も死なず、殺さずに来ることができた。改めて平
和憲法のありがたみが実感されます。
翻って戦後 50 年の年、時の村山政権は平和と不戦
の誓いと共に、
政府補償を避け
た不充分性はあ
るがアジア女性
基金など戦後責
任を自覚した努力が払われました。労働組合の私たち
は平和フォーラムのもとに、平和、戦後補償、環境、
人権問題などに取り組む多様な市民団体・グループと
互いの違いをのりこえ共同で戦後五十年集会に取り
組みました。集会では村山総理と土井衆議院議長という行政府と立法府の長に、戦前、戦
後にわたる沢山のアジアの国々の被害者が直接同席して訴える意義深いものに。こうした
アジアとの共生、和解をめざす国民の総意が「村山談話」として結実したのです。
あれから僅か 20 年後の今年、一変した政治情勢に愕然としています。安倍政権となって
俄かに硝煙臭が政治の舞台に色濃く漂い始めました。今
では殆どむせ返るほどに。国民の命と生活に直結する重
要情報を隠匿する特定秘密保護法の強行。明らかな憲法
違反の集団的自衛権を容認する閣議決定。憲法解釈は時
の政府の勝手次第とする立憲制の破壊、国会と司法の関
与を一切排除し
た三権分立の否
定。意識して定
義を曖昧にして制約なくアメリカへの戦争協力を
進める安保(戦争)法案に血道をあげる首相とその
周辺。このままでは「アメリカのアメリカによるア
メリカのための戦争」に狩り出されることになる
のは必至です。アメリカとの軍事同盟関係を強化
してアジアに向き合う。それは和解と共生をめざした 20 年前のこの国の姿とはおよそかけ
離れた、冷戦時に逆戻りした思考と発想としかいえません。問題は政府だけではなく、選
択肢がないとはいえこの事態でなお 3 割を超える人たちが政権を支持している民意の側に
も存在しています。
立憲主義の礎であるマグナ・カルタ(大憲章)から 800 年の節目の年にこの国では立憲
制が危機にさらされている。国民総意の
国是であったはずの不戦、国民主権と基
本的人権、立憲主義などの戦後民主社会
の基礎がバリバリと音たてて剥ぎとられ
ようとしている。いったいなぜこんなに
脆く、こんな事態になってしまったので
しょうか。私たちの戦後の歩みにどこか
問題があったのでしょうか。
最近度々メデイアに登場し、私たちに
警鐘乱打してくれている百歳の老ジャー
ナリスト「むのたけじ」さんの言葉が思い
浮かびます。私は長く彼が発刊していた
新聞「たいまつ」の愛読者でした。むのさんは敗戦時に真っ先にやるべきだったのは「国
民が国家のいけにえにされ、他民族を殺戮した外征侵略をうみだした一切の原因と展開の
過程とその結果を究明し、訴追する」ことだったといいます。<戦争>を自分の手で裁かず、
過去を清算しないままに戦後という時間を刻んできてしまったことに、戦後史の問題の根
幹があるという言葉は私たちの世代の胸に重くのしかかりますね。
状況は深刻で危機的ですが期待を込めて言えば、新しい希望の芽も育っています。連日
国会前で展開されている若者たちの抗議の渦。日に日に拡がりを見せる闘いの輪を支えて
いるのは自分で考えて、自分で決断した、自分の行動。それを繋ぐのは組織ではなく、目
標を共有して互いを共感しあう
新鮮な連帯感のようなもの。明ら
かにそれは私たちの経験した運
動とは発想もスタイルも違う、違
うからこそ期待が大きくなりま
す。女性誌やマンガ誌でも平和の
危機を訴える声の広がりが。こう
した自立した市民の自由な結び
あいが新しい時代を担い、切り拓
く主体を形作って行ってくれる
のでは、自分もそれに何か力を添
えられればと願っています。
※SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)
http://usa-biz-news.info/usabiznews/?p=2257
戦後七十年に思う
横 山 直 正
田舎育ちで身に迫る戦争の記憶はない。しかし毎年8月15日を中心に戦争関連につい
て見たり聞いたりした。特に今年は安保法案の動きなどから知る機会を多く得た。
その第一は、「原爆投下―活かされなかった極秘情報―」なる映画である。大本営の下
部組織である陸軍特殊情報部がアメリカ軍機の交信を傍受
し上部に報告していた。日本各地を爆撃したB29以外の
飛行機を原爆搭載機と認識できていなかったが、その情報
が活かされず関係者の無念の証言などが詳細に伝えられて
いた。その中で痛恨と思ったのは広島・長崎とともに来襲
時に空襲警報が発せられず両市民とも平常時の被爆であり
被害が倍増された。
その二は、NHKスペッシャル「終戦―知らざる一週
間」である。8月15日の玉
音放送を聞き一般の人々は戦
争がおわったと安堵したが、
当時、国内外の軍関係者は8
00万人ともいわれ、それら
の中で大本営が有効な手段を
とらず戦争状態継続死者も出たとのこと。当時総理大臣が
変わったなどの事情があったにせよ軍の統制のあり方が悔
やまれる一週間であった。
その三は、「この子を残
して」の映画。永井隆の「長崎の鐘」を基に構成されて
いるが、浦上天主堂を中心に原爆被害の様子が生々しく
迫り戦争の残虐さを改めて感じさせられたことであっ
た。
この他、「東京大空襲に関する写真展」と「講演会」
参加。またバリアフリー映画として披露された「飛べダ
コタ」(戦後5ヶ月後に佐渡
海岸に不時着した英国軍用機を島民が協力して無事返した)の鑑賞などがある。
以上これらに接した人は多いと思うが改めて戦争の実態・無惨さを強く感じた。また善
い戦争などある筈がないと痛切に思った戦後七十年の8月であった。
闇米と傷痍軍人
村 田 久 子
農村地帯の茨城県猿島郡幸島村で、8 人兄弟の 6 番目に生まれた私は戦争の記憶という
と、庭の竹林に防空壕があったこと、母に連れられてバスで出かける途中で、検察の人か
ら闇米を取り上げられている姿、人通りの多い東北本線の古河駅や上野駅、上野公園の入
口などで、義手・義足の傷痍軍人の方たちが茣蓙の上でアコーデオンやハーモニカを吹き
寄付を求めている姿を思い出します。
姉の話ですと、隣村(岡郷村)に
飛行場があったため、ひっきりな
しに飛行機が来て、そのたびに空
襲警報のサイレンが鳴り、あわて
て防空壕に逃げ込みロウソクの火
を消し飛行機の音が消えるまで母
にしがみついていたことや、学校
に行くときは葉っぱのついた木の
枝で頭を隠しながら行くんだけ
ど、途中でサイレンが鳴ったらど
こでもいいから突っ伏しているよ
う先生から言われたこと、学校に
行っても 1000 人以上の兵隊さん
がいて寝泊りで暮らしていたので校舎は狭く勉強はするどころではなかったそうです。
配給米が少なく米に不自由している古河や東京から、農家にある米と交換するため着物
や帯などいろんな物を持って列車やバスで来るんだけれど配給米でなく闇米なんで、見つ
かると警察に取り上げられ挙句に罰金がとられるため、せっかく取り替えた虎の子のお米
を死に物狂いで投げ捨てて
自分のものではないって言
いはったそうです。姉は、
その当時交換した帯を最近
まで持っていたそうです。
姉は、今の世の中、英語・
カタカナが氾濫してわから
ないことばかり。もう戦争
はごめんだ。平和な世の中
でいられるよう祈るばかり
だって心から話しておりま
した。
買い出し列車
平和の世を享受して
武 藤 金 一
戦後70年は、今年八十路を迎えた私にとっては人生そのものである。恵まれて戦争の
ない時代を社会人として歩むことができたことに感謝しているが……。
戦時下の記憶
私が終戦を迎えたのは、10歳の時である。田舎の山間に育った私には、空襲という無
差別の殺戮や住まいを焼き払われる怖さを知らないが……。しかし、村の人々の張りつめ
た空気、ラジオから流れる「大本営発表」の音声は今でも私の脳裏に刷り込まれている。
しかも夜になると電灯の笠に黒い布を巻いて明かりが漏れないようにした。あの暗うつな
夜は二度とあってはならない。
戸数わずか30余軒の組から、ほとんどの働き手は応召され、白木の箱となって還って
こられた。私の叔父もその一人で
あった。残っていた男性は、油を
採るために松の根っこ掘りや農地
開拓に駆り出された。
戦争の末期になると、あらゆる
金属が供出され村の裕福な家から
真鍮の立派な火鉢が出されたこと
も記憶している。そして玉音放送
で我が国が降伏したことを知り、
子ども心にもほっとした。青い夏
空が広がっていたことも、まざま
ざと思いおこす。4歳だった妻は、川の向こうに、焼夷弾が落ちて燃え広がったことや、
防空壕に逃げ込んだことを覚えていると時折話をする。
70年の歩みの中で
私が社会人として働き始めた頃には、ようやく衣食は足り、専ら住居への需要が高まっ
ていた。そのような中で日本済は高度成長期に入っていて、社会保障制度が実施される。
まず国民健康保険制度ができて、その手伝いを赤坂支所で夢中になってやった。係長を始
め良き職員の方たちに恵まれて一緒に旅行したり、飲み会をやり親交が深められ新人の私
には、楽しい思い出として残っている。その後、国民年金法の実施など社会保障制度が確
立され、福祉の諸制度の充実が図られてきた。
今日、少子高齢社会を迎え介護保険制度が実施されて15年になろうとしている。一方
少子化対策も待ったなしである。次から次へと福祉問題一つとっても社会問題となってい
る。これまでも福祉の充実が図られて、生活が少しでも豊かになってきたのは、あの大戦
の教訓から憲法9条があり、25条があったからではないかと思っている。戦後70年を
期に今一度思いを新たにしたい。
多くの犠牲者による平和
私たちが今日享受している平和で豊かな生活は、日本人で唯一地上戦を戦った沖縄の方
たち、応召して戦地に赴き戦没者となられた人たちの多くの犠牲によって成り立っている
ことを忘れてはならない。
8月に私の住んでいる地域で戦没者慰霊祭があった。地域の役員として私も参加しお手
伝いをした。実際に応召され復員された方は1名だった。後は子、孫の方たちで中には家
の誰が戦没されたのか分からない方もおられた。
若い人たちの中には、8月15日が何の日であるか分からない者もいるという。戦争は
絶対してはならない。戦争の悲惨さを語り継ぐのも私たちの役目であると思う。
参考資料
1
「戦後70年平和祈念集」の発刊にご協力を!
=お寄せ下さい、戦後70年を生きる私達の平和への思い=
政府・与党は「集団的自衛権の行使」容認など戦争のできる国へと舵を切り、その動きを加速化させ
ていますが、
「退職者会だより」4 月号で「戦後70年平和祈念集」発行についてお知らせしましたよう
に、2015年は戦後70年の節目の年です。会員の多くの方は自分の人生の流れとほぼ一緒であり、
感慨をもって今年を迎えられたことと思います。
しかしながら、戦中・戦後を生き抜いてきた退職者会の先輩会員の多くがすでに亡くなっており、現
会員においても70年前(当時12才の子どもが、今は82歳)の記憶や思い出も風化しつつあり、戦
争や戦災を体験した人たちは少なくなっています。「今が最後の機会」という危機感と「私たちの世代
の責務」という思いから、退職者会としては今やっておかねばないことの一つとして、当時の記憶を蘇
らせていただき、戦争の悲惨さを知らない子や孫の世代そして後世の人々に平和・反戦の尊さを引き継
いでいくことや、戦後生まれの世代の平和への思いを伝えて行くことを私たちの責務と考え、「戦後7
0年平和祈念集」の作成に取組むことを決めました。
皆様のご協力なくしては実現できませんので、是非、戦争・戦災体験や平和への思いをお寄せ下さい。
更に写真を掲載したい方は写真にコメントをつけて送って下さい。
《募集要領》
●題名は自由(戦中戦後の体験等・見たり聞いたりしたこと)
★題名はご自由です。下記に例題名を記しましたので参考にして下さい。
1、戦場・軍隊での体験
2、外地・引上げでの体験
3、空襲・被災の体験
4、学童疎開・学校生活の体験
5、勤労・学徒動員の体験
6、原爆の体験
7、戦中・戦後の生活の思い出
8、両親や祖父母、兄弟や親類などから聞いた戦争・戦災の体験談
9、日本の平和に対する思い
●字数=何字でも結構ですが、紙面の割振りもありますので最大1200字でお願いします。
●締切=8月15日
●「受取人払い封筒」に入れて投函して下さい。
●メールで送る場合のアドレス➡[email protected] 岡村まで
港区職員退職者会
参考資料
2
●太平洋戦争へ至る経過(1931年~1940年)
東アジアの国際環境は、19世紀にヨーロッパの列強が本格的に進出してきたことによって激変した。
開国から間もない日本は、植民地化を免れようとする中で、自らも列強にならってアジアへの侵略や植
民地支配への道を歩み始めた。満州事変から日中戦争と、勢力圏を拡大し続けた日本は、1940年に
は日独伊三国同盟を結び、翌41年には、ついに米英などを相手に太平洋戦争に突入する
●満州事変(1931年)
1931(昭和6)年9月18日、奉天(現瀋陽)駅郊外の柳条湖付近の線路で起きた爆発をきっか
けとする日本の侵略戦争。爆弾を仕掛けたのは関東軍の中堅参謀らだったが、中国側の仕業と主張し、
攻撃を開始。45年の敗戦にいたるまでの足かけ15年にも及ぶ戦争の発端となった。日本政府は当初、
不拡大方針を決めたが、力を強めた関東軍はこれを無視し、32年3月に「満州国」建国が宣言された。
●日中戦争(1937年)
1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件を契機として始まった中国との戦争。北京郊外の盧溝
橋付近で、日本軍が夜間演習を終えたころ、数発の射撃音が聞こえた。たまたま兵士1人が不在(実は
用便中)だったため、部隊が出動。兵士はすぐに発見されたが、翌日、中国軍を攻撃し、制圧した。そ
の後も攻撃を重ね、北京と天津を占領。8月には上海でも戦闘が始まり、全面戦争に突入した。国民党
と共産党が再び手を結んで抗戦し、各地で激しい戦争が繰り広げられた。
●太平洋戦争へ突入(1941年12月8日)
1941(昭和16)年12月8日、日本海軍の機動部隊がハワイ真珠湾基地の米太平洋艦隊に奇襲
攻撃をしかけた。日本陸軍は英国の植民地マレー半島に上陸、太平洋戦争が始まった。日本側は真珠湾
攻撃で航空機29機などを失った。一方、米側は戦艦4隻が沈没、約2400人の死者を出し、大きな
打撃を受けた。制海権を握った日本軍は当初、戦争を有利に進めた。
●ミッドウェー海戦(1942年6月5~7日)
太平洋戦争で戦況が悪化する転機となった戦い。1942(昭和17)年6月5~7日、日本海軍の
機動部隊は中部太平洋のミッドウェー島周辺で米空母機の攻撃を受け、空母4隻を失い、戦争の主導権
が米国側に移った。
●沖縄戦(1945年6月23日)
4月1日、米軍は沖縄本島中部に上陸し、猛攻撃を展開した。沖縄本島の中部・南部のほとんどが焦土
と化し、日本軍を南部に追い詰めた。6月23日に日本軍の組織的な戦闘が終わるまで沖縄県民約14
万人、日本軍約11万人が死亡、米兵も約1万3千人が戦死したとされる。
●原爆投下(1945年8月6・9日)
日本の敗戦が濃厚となっていた1945(昭和20)年、米軍の戦闘機が8月6日に広島、9日に長崎
に原子爆弾を投下した。公益財団法人放射線影響研究所によると、死者は広島で9万~16万6千人、
長崎は6万~8万人とされる。8月8日には、ソ連が日本に宣戦を布告し、満州・朝鮮に侵攻した。
●敗戦(1945年8月15日)
日本はポツダム宣言の受諾を決定した。1931年の満州事変以降続いた戦争状態が終結し、敗戦が
決まった。15日正午から昭和天皇が降伏を告げるラジオ放送「玉音放送」が流され、国民は敗戦を知
った。ポツダム宣言は米英中の3カ国が発表したもので、日本に無条件降伏を要求。軍国主義の駆逐や
戦争犯罪人の処罰などが盛り込まれていた。ソ連は対日宣戦と共にポツダム宣言に参加した。
あとがき
戦後 50 年の 1995 年は村山首相、戦後 60 年の 2005 年は小泉首相が閣議決定して談話を
発表してきました。二人の談話で共通するのは、日本は国策を誤り、アジア諸国の人々に
対して多大な損害と苦痛を与えたことを反省しお詫びの気持ちを表明し、先の大戦におけ
る国内外のすべての犠牲者に哀悼の意を表しており、二度と戦火を交えることなく世界平
和を追求していく決意を述べており、それ故に集団自衛権は憲法違反の立場をとって踏み
止まっていました。
しかしながら、今日の政府・与党は、憲法解釈をないがしろにして、戦後70年の節目
に「集団的自衛権の行使」容認など戦争のできる国へと舵を切り、その動きを加速化させ
ています。反対する人、賛成する人それぞれ様々な意見があることは当然なことです。様々
な意見が飛び交う中で誰しも認めているのは「戦後70年間、戦争せずに日本は平和を守
ってきたこと」です。私達の多くの先輩が今日の平和を守りたい思いから、自分たちが体
験した戦争の悲惨さ、広島や長崎の原爆投下による悲惨さ、大都市への無差別爆撃による
焦土化などの「戦争の恐ろしさ」の語り部として各地で講演活動を続けています。しかし
ながら高齢化に伴い語り部の減少からその活動も先細るばかりです。
現在の人口 1 億 2769 万 2 千人の4分の3は戦後生まれで、何らかの形で先の大戦の影
響を受けた戦前生まれの方は4分の1です。私達の周りには、戦中・戦後を生き抜いてき
た多くの方がすでに亡くなっており、戦争体験等の記憶や思い出も風化しつつあり、戦争
や戦災を体験した人たちは少なくなっています。
港区職員退職者会としても、戦争・戦災体験者から聞いた話などを残すということも、
戦後70年の節目が最後の機会ではないかという危機感や、戦争の悲惨さを知らない子や
孫の世代そして後世の人々に平和の尊さを引き継いでいくことが私たちの責務ではないか
と考え、戦後の長い月日の経過とともに、戦争・戦災の記憶は薄れつつある中で、退職者
会の皆様の記憶の中にあるものを思い出していただき、戦後70年平和祈念集作成の協力
を会員の皆様に呼びかけたところ、43名の方にご投稿をいただき、ここに戦後70年平
和祈念集を発刊することができました。厚く御礼申し上げます
平和祈念集をまとめていく中で見えて来たことは、先の大戦は日米による市場を争った
資本主義の衝突と捉えることができます。連合国側が勝利したとはいえ、原爆投下や無差
別爆撃で悲惨な大量殺戮を繰り返えすなど、そこには正義などという言葉は見当たらず。
連合国側も戦争犯罪者としての責任の一端を担っていることは間違いないことや、歴史は
勝者によって作り変えられると言われているように、今の日本にしてもここまで至る過程
でその裏側には勝者側の意とするところが流れており、国民に真実など見えてこないこと
を実感しました。
この戦争での体験や被災に触れることにより、平和について考え、そして今日の平和を
守っていかなければいけないと痛感します。この戦後70年平和祈念集がみなさまの手を
通して多くの人に読まれ、そして語り継がれることを願って止みません。
平成27年10月17日
港区職員退職者会
戦後70年平和祈念集
平成27年10月17日発行
編集・発行
港区職員退職者会
発 行 人
本郷真一
編 集 人
岡村昭則
印
刷
所
(株)コンポーズ・ユニ
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