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中国古代国家の祭祀制度から見た皇帝の宗教的性格

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中国古代国家の祭祀制度から見た皇帝の宗教的性格
東京大学東洋文化研究所定例研究会報告、2000年7月
中国古代国家の祭祀制度から見た皇帝の宗教的性格
甘懷真
東京大学東洋文化研究所
1.宗教としての儒教
儒教が宗教であるか否かは、常に議論の対象とされてきた。この問題の争点の一つは、
学者による「宗教」の定義の仕方にある。現代の宗教観念は、主に欧米諸国の歴史経験に
よるもので、この西洋の観念で中国の歴史的現象を分析することが果たして妥当であるか
どうかは、検討し直してみる価値のあることである。加えて、十九世紀後半以降、中国が
西洋文化の挑戦に直面するに及んで、学者の中には、中国文化が西洋文化より優れている
のは、中国の歴史上に「人文主義」――この思想の代表が儒家思想である――があるから
だと考える一派も出現した。そのため、二十世紀の中国の学術界においては、多くの学者
が儒家思想中の宗教的要素を否定し、「儒教」という概念にも反対してきた。
儒教を宗教の一つと規定しようがしまいが、儒家思想の中に信仰の要素が存在し、かつ
その信仰の来源が、儒者が超越的存在として具体的に認識していたもの――例えば天や天
命――であったことを直視しなければならない。その上、儒家思想の影響力が及んだ結果、
それが一種の学術思想として学者の間に広まっただけでなく、国家体制を通して「制度化」
されたので、我々はこれを「国家宗教」あるいは国家の意識形態と呼ぶことができる。ゆ
えに、「儒教」は「儒学」に比較して言えば、一つの思想体系であるのみならず、一つの
制度でもあり、この制度の中に、儒教を推進する組織や公認の経典、確立した儀式などが
含まれるのである。また、儒教と西欧のキリスト教とを比較しようとするなら、中国では
前漢時代からのことだが、儒家が儒教思想を推進するというやり方が漢の国家を改革し、
彼らはその国家を媒介としてその組織、経典、および儀式を確立していったのであって、
キリスト教が自ら教会組織を有していたのとは異なっている。前漢の儒教運動において、
一番の鍵となる活動は、漢王朝の皇帝を儒教の指導者に作り替えたことである。皇帝は天
子となり、その任務は、上には天命を受け、世の中には教化の責務を負うことであった。
この儒家の「天子観」が確立する過程で最も重要な動きは、前漢中後期の郊祀、宗廟に関
する礼制の改革運動である。儒教の成立と国家制度の改革は密接に関係しているが、これ
も儒教の大きな特色の一つである。
この改革の中核にある観念は「礼」であり、改革の原因は、漢代の制度が礼にかなって
いないと儒家が判断したことにある。儒家の礼が何であるかというのは、難しい問題では
あるが、私は、宗廟と郊祀礼の研究に拠ってこの課題を検討し、宗教的観点から儒家の礼
制が何であるかを分析したいと考えている。おおまかに言えば、先秦の宗教は、巫術や魔
法の色彩が濃厚で、「巫教」と称することができる。この巫教が中国の宗教的基層を形成
したのであり、その後の中国の宗教は多かれ少なかれその巫教批判を基礎としている。戦
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国中期に次第に成熟してきた「術数」思想は、巫教に対する批判である。この思想は、陰
陽五行、暦法学、気論宇宙観などを組み合わせて、秩序法則のある宇宙を主張したもので、
その法則は「聖数」の運行作用として表現される。前漢に作り上げられた儒家の礼学も先
秦の儒家思想を継承しており、一方では巫教を批判し、他方ではこの術数思想の影響を深
く受けている。
秦の始皇帝がうち立てた「統一天下」は、儒者が思いもよらなかったことであった。こ
の一皇帝制度という新たな局面に直面して、儒者は国家の主導権を獲得するために、積極
的に儒家の経典を編纂し、それに礼経が組み込まれていった。その当時に深く影響を与え
た「后蒼(なる人物)の礼学」を例にとると、この派の礼学は、戦国以来の心論、気論宇宙
観の影響を深く受けている。この理論の下で、儒家の政治社会の理想が形成され、それは、
例えば『礼記』の「祭義」「祭統」「楽記」「礼運」「大学」「中庸」などの諸篇のよう
な、諸々の経典上に反映されたのである。そしてこれらの経典はまさしく前漢の郊祀改革
の理論のよりどころであり、「后蒼学派」も当時の改革の推進者であった。
2.秦、前漢の神祠制度
宗教史の視点から郊祀礼の成立を考察するには、秦と前漢の宗教制度及び観念を把握し
ておかねばならない。すなわち、郊祀礼は当時の宗教と対立するものであり、また改革者
でもあったのである。『史記』の作者である司馬遷自身は、前漢武帝のとき、実際に国家
祭祀の活動に参与する官吏であったから、『史記』の「封禅書」には重要な史料が記録さ
れている。主としてこの史料に拠り、我々はこの時期の国家祭祀の制度(いわゆる「祠官
制度」)の性格について、以下のことがわかるのである。
一、当時の宗教制度と観念には、先秦の「巫教」から生じたものが多く含まれている。
この巫教信仰では主に、神と人との間の関係は礼物とそれへの返答であると信じられてい
た。人が神に犠牲などの礼物を献上すれば、神の方でもその供物に対して何らかのお返し
をするというものである。つまり、人は具体的な「供物」がかもしだす魔法を通じて、神
と意志疎通を図ることができたわけである。
二、人が神と通じあうには特定の「神祠」を通さなければならなかった。神祠は特定
の「方」に基づいて建立されたもので、方の主な内容には祭祀に関係する物(例えば祭器
や犠牲など)や数や儀式が含まれる。さらに当時の人は、神は特定の地、いわゆる「聖地」
に住んでいるので、特定の神を祭る祭祀所(神祠)は、特定の場所に建立しなければなら
ないと信じていた。
三、秦と前漢前期の「祠官」制度は、各地の神祠を国家の管理下に組み込んだもので
あった。神祠は主に各地の名高い大きな山や川であったが、山川祭祀が農業と関係がある
のは疑いもないことで、従って神祠の祭祀は地方の人民の生活の一部分であったと思われ
る。秦から前漢にかけて、国家が地方の神祠を国家祭祀の中に組み込もうと努めたのも、
地方の神祠が人民の生活と密接に関連しているため、神祠を媒介とすることで、支配力を
基層の農民にまで及ぼすことができたからであった。
四、現在目にすることのできる史料によれば、漢代の祠官体系には多くの巫者が組み
込まれていた。祠官は「秘祝」などの儀式や法力によって、皇帝に福をもたらしたり、皇
帝の災禍を臣民の身に転移させたりした。この「秘祝」という法術は、国家宗教が巫教的
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性格を有していたことを如実に示している。また、この時、国家宗教が祭った上帝は「国
家」(例えば漢家)の上帝であり、人民(百姓)の上帝ではなかった。言い方を替えれば、
「普遍的上帝」ではなかったということである。
五、中国の国家祭祀の神は、唐令が成立するころには、すでに天神、地祇、人鬼、先
聖、先師などの分類や等級の別が明確にされていたが、秦代及び前漢の成帝以前には、天
地人の分類観念はすでに成立していたものの、天神と地祇との区別は依然漠然としており、
神祠ごとに異なっていた。
3.前漢中後期の改禮運動における祭祀觀念
前漢元帝の時に儒家官僚によって始められた宗廟・郊祀禮の改革を、「改禮運動」と略
称する。この改禮運動の発端は、前漢元帝の時、「郡國廟」の「古禮に應ぜざる」ところ
に対して、儒家の宗廟理論に依據して新しい宗廟制度を制定したことであった。韋玄成を
リーダーとする儒家官僚は成帝へ上書し、宗廟制度の改革を提議した。この史料はこの前
漢における改禮運動の宣言とみることができる。その一部には以下のようにある。
臣聞く、「祭は外より至る者にあらざるなり。中より出で、心に生ず」と。故に唯だ
聖人のみ能く帝を饗するを為し、孝子、能く親を饗するを為す。(『漢書』韋玄成伝)
この史料から韋玄成らの祭祀觀念を知るためには、この史料が典據としている儒家の經典
を理解しなければならない。
このうち、「(祭)外より至る者にあらざるなり。中より出で、心に生ず」という部分
がもっとも重要である。この語は『禮記』祭統の「夫れ祭なる者は、物として外より至る
にあらざるなり。中より出で、心に生ず。」によっている。漢朝の統治者は旧来の神祠觀
念に基づき、人と神の間の交流には確かに感じ見ることのできる「神物」が絶対に必要で
あり、もし外在的な神物がなければ、人は天と交流しようがない、と信じていた。引用さ
れている經典が祭統であり、一連の著作がまた祭義・樂記・禮運などを含んでいることか
らみて、これらの經典により改革者の祭祀觀念を追究すべきである。
樂記は、『禮記』諸篇の中でも明らかに戦國以来の氣論・心論の影響を受けた著作であ
る。戰國中期以来、氣論宇宙觀の理論の主たる創作者は道家であった。道家の学者は宇宙
の原始状態を肯定することによって、例えば政治社会的な権力構造といった当時の人間社
会の状況を否定した。それに対して、樂記の作者は儒家式の氣論宇宙觀を提示しており、
宇宙の原始状態を肯定しつつも、宇宙の絶えざる分化の結果を承認することによって目の
前の秩序を尊重している。禮運もまた氣論の影響を明らかに受けた著作であり、その中に
は「是の故に夫れ禮は、必ず大一に本づき、分れて天地たり、轉じて陰陽たり、變じて四
時たり、列して鬼神たり。」とみえる。禮が定める秩序は、この「大一」が分化して生ま
れる宇宙に配されるのであって、その根本は「一」であり、天地・陰陽・四時・鬼神はみ
なこの「大一」から分化して生まれたのである。同様に、君臣・父子・夫婦・上下・尊卑
の差異などといった人間社会の秩序もまた宇宙の原始である「大一」から分化して生まれ
たものであり、そのためその正当なるところがあるのである。だから、樂記が直面してい
る問題は、宇宙が分化する前の状態と分化した後の秩序の間の矛盾をいかにして解決する
か、ということである。祭祀はこの矛盾を解決する方法である。『禮記』祭義・郊特牲な
どの篇によれば、祭祀の目的は宇宙の原始の状態へと戻ることであり、また祭祀における
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(數や物の原理を含んだ)儀式によって現在と宇宙の原始状態を結びつけることである。
氣論宇宙觀では、宇宙の原始状態の「一」が分化して天・地・人となり、天・地・人が
また分化して萬物を生んだとされる。しかし、ここで天地と並列される人は、一般的な意
味での人ではなく、聖人のような特別な人のことである。このときの儒教運動では、儒者
は皇帝を、天下の萬民を代表し、天地の祭祀という仕事を執行するこのたぐいの「聖人」
の役割にしたてあげようとした。天子だけが天地と交流できるので、この仕事は天子が執
行しなければならなかった。もし天子が十分に心をつくして祭祀を執り行えば、宇宙の秩
序はそれによって安定し、人間社会の諸秩序もそれによって安定し得た。このときの宗廟・
郊祀改革運動の重点は、儒者が皇帝に天と人とを仲介し宇宙の秩序を安定させる職責を賦
与することにあった。これらの觀点に基づき、儒者はおのずと「祭祀して以て福を祈る」
という觀念を否定し、天子がおこなう祭祀は、みずからのためではなく、また「國家」の
ために福を祈るものではないとされた。天子は天と人との仲介者であるので、天子と基層
人民の關係も地方の神祠を通す必要はなかった。
『禮記』祭義などの諸篇は氣論によって鬼神を解釈し、鬼神を宇宙における一種の特別
な氣と見なしている。かりに鬼神が一種の氣であり人もまた一種の氣であるとするなら、
人は鬼神と交流することができ、その媒介は「氣」であって「禮物」「神物」ではない、
ということになる。儒家の祭祀では氣が強調される。氣は内在的な氣と外在的な氣に分け
ることができる。外在的な氣はまた天地の氣とよばれ、例えば儒教の祭祀は一年の最初の
日や冬至などのような特定の「節氣」におこなわれる。「月令」の思想と祭祀の結合もま
た、「數」の觀念のほか、この種の氣の觀念によっている。内在的な氣は例えば人の精神
のようなものであって、人は忠・敬・孝・誠・順などといった特定の精神によって祭祀を
おこなわなければならない。したがって、祭祀の核心的要素は魔術的性質を備えた外的事
物から祭を執り行う者の心の状態へと変化した。韋玄成らは上書の中で「中より出づ」と
述べているが、「中より出づ」とは心から「中より出づ」るのであって、この言葉はしば
しば樂記に見える。ここから、儒家の祭祀觀念は戰國中期以来の心論の影響を受けていて、
祭祀者が自らの身心の状態を変えなければならず、それによっておのれの氣を外在的な氣
と交流させる、ということを強調していたことがわかる。またこの祭祀理論に基づき、儒
者は天子がみずから祭祀を執り行う、いわゆる「親祭」の重要性を強調している。
韋玄成が述べている「故に唯だ聖人のみ能く帝を饗するを為し、孝子能く親を饗するを
為す」という言葉もまた祭義に典據がある。王者(あるいは天子)だけが天を祭ることが
できる、という觀念と制度は周代にまで遡ることができるが、ただし先秦と漢代の觀念が
同じであるとすべきではない。祭義について言うと、これは氣論宇宙觀の「同類」觀念を
源としている。天・地・人はひとつの類であるが、ただしこの人は一般の人ではなく聖人
の類を指している。聖人は特殊な氣を備えており、天地と通ずることができる。従って一
類をなすのである。天子を聖人とすれば、天地と同類ということになる。従って天地を祭
ることができる。先に述べたように、このときの儒教運動は儒者が皇帝にこの聖人の職責
を担うように要求するものであった。
元帝の後の成帝の時、匡衡・張譚をリーダーとする儒家官僚が郊祀禮の改革を主張した。
郊祀とは、皇帝が都城およびその附近で執り行う、天地を祭る國家祭祀を指す。改革の基
本的な理念は、上書の中で述べられているように、「帝王の事は天の序を承くるより大な
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るはなし、天の序を承くるは郊祀より重きはなし。」(『漢書』郊祀志)というものであ
る。天子の最も重要な職責は、天の定めた秩序を承けることであり、この仕事の中で最も
重要なのは郊祀である。郊祀について言うと、奏上した文書の中に続けて以下のように述
べられている。
天の天子におけるや、其の都する所に因りて各々焉を饗す。…昔者、周の文・武は豐
鄗に郊し、成王は雒邑に郊す。此に由りて之を觀れば、天は王者の居る所に隨ひて之を饗
すること、見るべし。甘泉の泰畤、河東の后土の祠は宜しく長安に徙置して、古の帝王に
合すべし。(『漢書』郊祀志下)
この史料で重要な点は二つある。ひとつは天子は必ず首都において天を祭らなければなら
ないということ、もうひとつはこの改革は周の文王・武王の行った制度に合わせたもので
あるということである。なにゆえ漢朝は周制を典範としたか、ということは、正統の伝承
の問題と關係があり、論ずるに値する問題であるが、ここでは首都における祭天の問題を
論ずるにとどめたい。
天子が首都で天を祭るということについて言えば、匡衡らの意見の鍵は「天は王者の居
る所に隨ひて之を饗す」であって、王者が諸神のいる特別な場所へ出向くのではない、と
いうところにある。改革者が引用している経典の典拠は『禮記』祭法であるが、しかし祭
法の中にはこのような明確な南郊に關する理論はみえない。また、改革者の意見では、南
郊の祭祀の目的は「天位を定む」るにあるとされる。これは、『禮記』禮運の「故に帝郊
に祭るは、天位を定むる所以なり」というのを典拠としている。この「天位」は「天の位」、
具体的には上帝の神祇の場所を指していると考えられる。先に述べたように、漢代の一般
人の宗教觀念においては、神祇は聖地において出現すると信じられていた。しかし儒家は
この觀念にはっきりと反対し、王者が都を選ぶとき、また都に南北の郊を設けるときに、
聖地の問題を考慮する必要はない、としていた。王商らは上書の中で、「天地は王者を以
て主と為す」と述べている。この「王者」は天子を指している。これもまた郊祀改革にお
ける鍵となる觀念である。氣論宇宙觀で形作られる天地人の分化においては、宇宙の本源
は一つの氣であり、聖人は天地と交流することができた。また儒家は天子にこの聖人の職
責を担うことを要求し、天地の動きに參与することから、さらに天地・天人の間の秩序を
主導できる、としていた。天子が天地の動きに參与する方法が郊祀の禮を行うことであり、
郊祀の禮とは、天子が一方では外在の氣(暦法上の節氣のような)によりつつ、他方では
内在の氣によって祭られる者と祭る者との媒介となることであった。従って天子は神の宿
るところや特定の祭祀場に出向く必要はなかった。在らざる所なき上帝はおのずから首都
にあって天子を觀察することができたからである。
この改革を導き出せる奏上の文書中の意見を総括すると、「天地は王者を以て主と為し、
故に聖王は天地を祭るの禮を制して必ず國郊に於いてせり」を核心的觀念としている。こ
の觀念のもとで、これらの儒者たちは旧来の神祠信仰を否定し、天子が天地の間の秩序原
理によって天下を治めるということを強調した。従って宇宙において諸々のものがそれぞ
れあるべき場所をもつことを強調したのである。王者はただその都とするところにあって
天地の位置をさだめ、そこに祭祀場を設ければそれでよかったのである。
4.皇帝の宗教的性格
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私の今回の報告は、前漢の元帝・成帝時代の郊廟の改革者が提出した公文書を利用して、
儒教の祭祀観念を分析することが主要なテーマである。成帝の時の郊祀礼改革は失敗に終
わったのだけれども、失敗したとはいえ後代の儒教改革と比較すればこの時の改革は儒生
が主導したものといえるので、典型的な儒教思想をより見いだし易いのである。
我々は、前漢中期から神祠制度の打倒が郊廟制度改革運動の主要目的であることを確認
した。この時の郊祀礼をうち立てる動きは、戦国時代以来の儒者が引き継いできた一連の
気論的宇宙観と連関したものであり、この観念のもと宇宙の諸秩序の在り方と原因、特に
天子の負うべき役目を、儒者は改めて定義し理解した。
中国古代の郊祀・宗廟制度の研究についていえば、現在の歴史学のこの課題への関心は
西嶋定生教授の「皇帝制度」研究に溯ることができる。西嶋氏の重要な学説の一つでは、
秦と漢初の「皇帝」は、「煌煌上帝」として解釈し、皇帝は神であり或いは神格者であるとす
る。しかしこのような神格的な皇帝観が、前漢の儒教の改革運動を経ると、儒者は「天子
観」をもって皇帝の性格を解釈し、皇帝は上帝に対する人間の代表者で、人であって神で
はなくなる。西嶋氏は、中国の皇帝は上帝に対する人間の代理人とし、これがいわゆる「天
子」であり、人であって神ではないとする。それに較べ、日本の天皇制における天皇は神格
的存在とされる。金子修一教授の唐代皇帝即位礼の研究もまた、唐代の場合について、中
国皇帝の備える神秘性ではない「即物的性格」は前代よりもさらに徹底していることを明ら
かにしている。言い換えれば、日本の天皇の宗教的性格と比較すると、漢から唐の間に中
国の皇帝は次第に世俗性を増したのである。これらの学説は我々を大いに啓発してくれる。
皇帝の「神格」や「人格」といった問題については、上述したような議論によると漢代の皇
帝は「人格」というべきで、ただしこの「人」は、天地人の関係のなかでその性質が定めら
れなければならない。儒家が期待するところの天子とは、天と人とを仲介できる聖人であ
り、この聖人は天地の神々とは違うが、しかし郊祀等の職責をうけもつのでやはり普通の
人ではないのである。儒者もまた天子はあるの種宇宙秩序を主導する神力を備えていると
信じている。以上の諸点はみな気論のもとでの人に関する新たな認識へと連関している。
中国の神人二分はキリスト教理論の中の神と人との関係とは、あるいは同じでないのかも
しれない。この点は改めて考える価値があろう。
気論の基礎の上に儒者の国家祭祀観念は天の秩序と祭祀者の意志を強調し、ゆえに過去
の巫教的な性格に満ちた神祠祭祀を否定した。しかしながら、前漢以来儒家の学説には大
量に陰陽五行・術数等の観念が流入したのでますます「神秘化」したのだ、と言う学者もい
る。だがこの説には二つの問題がある。一つは、前漢より前の儒家の礼の説には、実際は
国家祭祀の理論や設計が乏しいことである。二つめは、前漢の儒家の礼が説く敵とは神祠
信仰であり、儒家は当時の国家宗教の改革者とされ、国家宗教の中の巫教的性質の要素を
取り除きむしろ国家宗教を「神聖化」しようとしたことである。しかし、郊祀改革が国家宗
教の中の「呪術性」を「道徳性」に転換しようとするものだとするならば、儒教の「道徳性」
が内包する宗教信仰の部分をなおざりにするわけにはいかない。かつ中国古代の儒教の中
で「心」・「気」・「天」に関する理解に宋以後の「新儒学」とどのような異同があるのかも、
探求するに値する。当面する問題の鍵はすべて、今日の西洋式の宗教の定義のもとで、気
論の中にあるような宗教性を如何に規定するかという点にある。私の今回の報告は未完成
でおそらく誤りも甚だ多いものであろうが、私が強調したいのは、現在の段階では、儒教
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礼学中の宇宙観の国家祭祀制度、特に皇帝制度に対する影響を重視すべきだということで
ある。 (2000/7/13)
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