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近代建築における建設会社設計部技術者の研究

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近代建築における建設会社設計部技術者の研究
研究No.0331
近代建築における建設会社設計部技術者の研究
一大友弘の業績を通じて一
思親
男子
育秀
山波
平松
査員
主委
近代における建設会社設計部技術者という観点から大友弘の業績を考察した。大友による建築は24件確認され,
図面等を確認すると設計はチームとして行われ,デザインは幅広く時々の流行を取り入れながら巧みに行われた。
大友の仕事は関東大震災前では煉瓦造が多く,用途は銀行,倉庫等が多かった。しかし,震災以後は多くが木造で,用
途は住宅に限られた。つまり,組織として設計を行った大友が晩年はその技量の故,木造住宅建築に当たったと概観
でき,近代における建設会社設計部技術者の一典型をここに見い出すことができる。
キーワード1)清水組,2)銀行建築,3)住宅建築,4)煉瓦造,5)木造
RESEARCHOFTHETECHNeANBELONGEDTOTHECONSTRUCTgVECOMPANY
DESIGMNGDIV.INMODERNTIMES
-ViaHiroshiOHTOMO'sachievement一
Ch.IkuoHirayama
Mem.HidekoMathunami
TheconstructionbyOhtomowasverified24cases.Thedesignwasdonefromconsiderationintheplanastheteamasfor
designitbecamecleartobecomepopularwidelyoccasionallygatheringskillfully.AsforOhtomo冒sworkbeforetheKanto
largeearthquakedisasterbrickconstructionwasmany,asforusethebankandthewarehouseetc.weremany.But,after
earthquakedisastermanywiththewoodwork,asforusewerelimitedtotheresidence.Inotherwords,lateyear,asfor
Ootomoitbecamecleartodesignmainlyinwoodenresidentialconstruction.
閣」の移築保存に伴い,同建物を国の登録文化財に申請したい
1はじめに
「大友弘」という名前に出会ったのは平成14(2002)年5月
旨の話があり,主査の平山が建物の調査にあたった。建物は応
のことであった。その年の3月,新潟県三島郡越路町に所在す
接室,洋風寝室内装が清水組(当時)による設計であり(図1-
る朝日酒造株式会社から,旧社長宅である旧平澤家住宅「松籟
1),現存する図面の判読により設計者を明かとし(図1-2),
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図1-2図1-1の印章
図1-1松籟閣平面図
*2清水建設(株)技術研究所主任研究員
*1長岡造形大学造形学部環境デザイン学科助教授
一335一
住宅総合研究財卜li研究1論文集NQ.31,2004年版
その中の一人に「大友」の名を見つけることができた(第2章)。
応接棟(写真2-1)を中心とする部分が清水組(現在の清水建
それが大友との出会いであった。
設)の設計によるもので図面が現存し,清水建設提供の各図面
一方,ちょうどその前後から品川区池田山に所在した旧正田
には,製図者等と考えられる人々の印及びサイン(以下,これら
邸解体の話題が巷間を賑わせた。昭和戦前期,清水組(当時)
を一括して印章と記す)を確認することができた。本章では,
による設計との指摘はあったが,設計者まで触れる報道が当初
先ずこの印章の分析等を通して,増築部分の設計者を考察し,こ
はなかった。それが調査をすすめると,同邸も大友の設計によ
れらから大友の役割と,近代の建設会社設計部における設計の
るものであることが明かとなった。本研究では大友の作品の全
在り方の一端を示したい。
容を明らかにし,現存する建物を挙げるとともに(第3章),作
品相互の関連を指摘する(第4章)。
さて,松籟閣の各図面に見られた印章は,図面に押されたスタ
ンプ表右下に押されるもので,欄左側中央に一名の印があり,
なお,本研究は旧平澤家住宅「松籟閣」における大友につい
「設」「構」と上下に記された「設」の文字向かって右横にそ
ての作品研究を端緒として,単に作品研究と言う観点に留まら
れ以外の印章があった。工事名番号順に印章を挙げれば表2-1
ず,大友の生涯に渡る業績を見渡し,最終的には広い視点から,
のようになる。同表より,清水組によって描かれた松籟閣の図
近代において設計会社設計部に所属した設計技術者としての大
面は「海野」「大友」「鈴木」「小熊」「立石」の5名によって作
友の在り方を明らかにすることを目的とするものである(第5
成されたことが分かる(写真2-2)。それでは各人はどのような
章)。
役割を図面の作成に際して担ったのであろうか。次に各人の経
歴などから,この点を考えてみたい。
2旧平澤家住宅「松籟閣」とその設計者
海野浩太郎
既に述べたように朝日酒造所有の旧平澤邸松籟閣については,
印章にある海野は海野浩太郎と考えられる。『清水建設株式
表2-1松籟閣の清水組図面に見られる印章
工事番号左側中央「設」右
1海野大友鈴木小熊一
2海野大友鈴木一立石
轟
3海野大友◎鈴木小熊一
4海野大友◎鈴木小熊一
難蟻
5海野大友◎鈴木小熊一
6海野大友鈴木一立石
一大友鈴木小熊一
凡例◎:サイン
!,}鞭・畷't"
:無記名
写真2-1松籟閣応接室外観
ー、∴擬璽
\、し齢鷲
禽撫
∼、、^,、燃緊僧
∵撫
㌃・¥印
等!噸。
べ灘鞭轟
/騰締調
撫、
鰹1!1
蕩鉱∴〃
額ノ
左・海野浩太郎『清水建設百五十年』pp,174
中:大友弘『清水建設百五十年』
右:小熊謙三『早稲田大学付属早稲田工手学校建築
高等科記念写真集第三十三回卒業』
ぎ勢ノ
写真2-2松籟閣の設計関係者
一336一
イゴ.宅総合研究財団研究論文集No.31,2004イ1'版
会社社史資料』巻1,『清水建設社報』昭和21(1946)年10
清水建設を退職した。
月号注1)などによれば,海野は明治26(1893)年6月30目,東
立石誠一
立石は『人事台帳2』注8)によれば,明治41(1908)年6月生。
京の生まれで,大正6(1917)年,東京帝大卒業後直ちに清水組
(現清水建設)に入社し,昭和2(1927)年に設計部長,昭和8
大正14(1925)年3月,東京高等商工学校(通称は東京商工。
(1933)年には理事,技師長に任命されている。昭和12(1937)
現在の埼玉工業大学の前身にあたる)の夜間建築部本科二期を
年に外遊し,昭和14(1939)年には常務取締役に就いた。戦後
卒業し注9),同年11月,清水組に入店した。昭和9(1934)年当
は同社の研究室設置に奔走して初代室長などを勤めたが,直後
時は満26才であった。
なお,東京高等商工学校は明治36(1904)年2月東京浅草区
の昭和21(1946)年10月16日,53才で没した。
これより海野は昭和9(1934)年当時満41才で,7代技師長
を勤めていたことが分かる。なお,海野の父親と弟は著名な彫
森下町に東京商工学校として創立された学校で,明治43
(1911)年4月,東京高等商工学校と改称し,大正11(1922)
金家であったという。
年4月,東京市神田駿河台3丁目2番地に移転し,戦後埼玉工業
大友弘
大学に改組されたものである注1°)。
印章の大友は大友弘と考えることができる。清水建設の人事
上に挙げた経歴を見ると,海野浩太郎だけが昭和9(1934)
台帳等をもとに編まれた社史編纂室による記録や合資会社清水
組『任命簿』等の資料注2)によれば,大友は明治21(1888)年
年9月以前の段階で管理職にあったことが判るが,それこそ図
4月10日,東京の生まれで,明治37(1904)年に清水満之助店
面に押されたスタンプの表でも,海野の印章のみ欄左側にあっ
(清水建設)へ15才で入店し,その後に工手学校へ通い,明治
た理由であろう。清水組は大手の建設会社でも設計部に大学卒
40(1907)年2月に同校を卒業した注3)。昭和9(1934)年10
業の上級技術者を早い段階から迎えているが,海野はそのよう
Hには住宅設計係長,昭和18(1943)年には設計部設計課長に
な1人と見なすことができる。
就き,戦後の昭和23(1948)年に60歳で退社しているが,この
一方,小熊謙三,立石誠一は昭和9(1934)年当時各々当時22
間一貫して設計職にあったという。なお,昭和38(1963)年,75
才,26才という年令を考慮すると,いわゆる製図を仕上げるド
才で没した。
ラフトマンであったとすべきだろう。このように見て来ると,
大友は松籟閣を設計した昭和9(1934)年5月当時,満46才
であり,昭和7(1932)年6月の合資会社清水組設計部「設計
旧平澤邸増築の実質的な設計を担ったのは少なくとも大友弘,
鈴木栄太郎の2人と考えることができるのである。
ところで昭和7(1932)年の資料ではあるが,前出の『設計
工事一覧表」によれば,職名は技師であった。
工事一覧表』注11)によると,当時の清水組設計部では技師など
鈴木栄太郎
鈴木姓は多く在籍したが,社史編纂室によれば印章にある鈴
を長とするチームが複数組まれ,この各々により設計の実務が
木は鈴木栄太郎であろうとのことであった。鈴木は関東大震災
行われていたと判断することができる。この資料には大友技師
後に再編集された合資会社清水組の『人事台帳2』注4)によれ
を長に,鈴木技師,広江,中村竹,梅澤,浅輪,林,名塚,立石,金,小
ば,明治28(1895)年5月生で工手学校を大正3(1914)年に
熊,一條,森丘,の順に名前が記されたチームが4番目に挙げら
卒業後,清水組へ入店した。
れている。なお海野は構造係に部長職として登場し,独自のチ
鈴木は昭和9(1934)年当時満39才で,前出の『設計工事一
ームを有している。さて,大友のチーム構成員を見ると,ここに
覧表』注5)によると,職名は技師であった。
は大友以下前出の鈴木,立石,小熊のいずれもが在籍しており,
小熊謙三
このような組織構成の下で具体的な設計業務が遂行されていた
図面にある小熊は同じく『人事台帳2』注6)によれば,大正元
ことが理解できるのである。つまり,同一設計者・同一期間に
(1912)年11月生に生まれた小熊謙三である。小熊は大正15
おいて複数物件の工事が可能であった背景にはこのような組織
(1926)年8月に店童として入店し,早稲田工手学校建築高等
構成を持ったことによると言える。平澤邸増築の場合も前川太
科を昭和4(1929)年2月に卒業した。卒業後は一時期,内Lk
郎兵衛邸別荘の工事がほぼ同時期に平行して行われていたと考
熊八郎の下落合にあった自宅に寄宿注7)したようで,昭和9
えることができるが,それを可能にしたのはこのような組織の
力であったわけで,他の建築の場合も組織として設計に当たっ
(1934)年当時は満22才であった。
なお,小熊はその後,新潟に勤務をして,終戦まで台湾勤務が
たことが確認される注12)。
続き,応召を受けたが終戦直後に解除となった。戦後に引揚,本
以上の考察より,平澤邸増築の実質的な設計に対して責任を
店勤務を経た後は長岡における勤務が長かった。特に昭和32
持つ立場にいたのは大友であり,以下の構成員がそれを補佐し
(1957)年には長岡出張所長となったが,この時期は奇しくも
たと考えるのが妥当であろう。
なお,図面に押される印章の順序は原則的に清水組内におけ
戦後に清水建設が担った朝日酒造のおける新工場の建設時期に
重なり,小熊は朝日酒造にも度々仕事で訪れている。この後,小
る職域の序列順という。
熊は北陸支店次長,新潟営業所長なども勤めたが,昭和47
(1972)に60歳の定年を迎え,以後3年間嘱託として勤務後に
3大友弘の作品
一337一
住宅総合研究財団研究【論文集No.31,2004年版
旧平澤邸増築の実質的な設計者は大友弘と考えるに至ったが,
それでは清水在職中に大友はどのような仕事をして,現在,作品
3)大倉書店注15)
にはどのようなものが残るのであろうか。先ず,この点を明ら
かにしたい。
大倉書店は大倉孫兵衛が絵草紙屋から興し,親類の保五郎が
継いだ出版社で,夏目漱石の『我が輩は猫である』の初版を出
さて,大友の仕事は,清水建設に残る記録などから24件が確
版するなど,明治から大正時代にかけては出版会をリードした
認された。以下,松籟閣を除く大友の作品を年代順に,その概要
存在である。当時の社屋は日本橋通1丁目19番地,現在の中央
と写真などを挙げる(写真3-1∼16,図3-1,2)なお,建物前の
区日本橋1-2-6に建ち,当初は土蔵造であったものを,明治
数字は後掲の表3-1に対応する竣工年代順のものである。
43(1911)年6月に大友の設計で建築面積150坪の社屋が建築さ
れた。但し,大倉書店は関東大震災により,社屋,倉庫,印刷工場
1)株式会社四十一銀行東京支店注13)
の一切を失っている。なお,大倉書店は戦後の昭和27(1952)年
この建物は明治42(1909)年6月の竣工で,大友弘は21才
に廃業に至っている注16)。
の作となり,確認されるものでは最も古いものである。
四十一銀行の前身である第四十一国立銀行は明治11(1878)
4)合資会社左右田銀行東京支店注17)
年9H,本店を現在の栃木市に構えて開業した。明治20(1887)
左右田銀行は群馬出身の左右田金作が明治元(1868)年,横
年に東京支店を開設し,大正7(1918)年6月,群馬県館林の四
浜開港とともに横浜に出て両替商を始めたことが起源で,明治
十銀行と合併して八十一銀行となり,更に大正10(1921)年7
28(1895)年8月に銀行を創業した。明治44(1911)年,日本
月に東海銀行,昭和2(1927)年4Hには第一銀行に合併され,
橋区堀留町3丁目,現在の中央区日本橋堀留町に設けた東京支
以後は第一勧業銀行,そして現在のみずほ銀行に至る。
店が大友の設計によるものである。左右田銀行は関東大震災ま
さて,四十一銀行東京支店は日本橋区富沢町5番地(現在の
でに4支店を東京に設けたものの,青山支店を除きいずれも大
中央区日本橋富沢町)に位置したもので,第一銀行への合併時
震災で罹災した。なお,同行は昭和2(1927)年の取付けを受
までは支店として存立したが,昭和5(1930)年3月,同支店は
け破綻した注18)ため,同年12月,横浜銀行と合併した。このた
廃止され,その業務は近隣の堀留支店が継承した注14)。なお,建
め旧左右田銀行東京支店は翌昭和3(1928)年11月から横浜
物は現存しない。
銀行東京支店とされたが,昭和18(1943)年12月,同支店は移
転した注19)。
2)村松合資会社
村松合資会社は京橋区中橋広小路1番地,現在の中央区京橋
5)東京瓦斯本所出張所
1丁目付近に位置した。なお,着工は明治41(1908)年7月で
東京瓦斯会社は明治18(1885)年に創立された。明治39
前述の四十一銀行東京支店よりも早い。現存しない。
(1906)年からは無料でのガス取付工事が開始されたため需要
表3-1大友弘の仕事
網掛は現存
No.、生噺、戸土・工ヒ
£の葵雪
1株式会社四十一銀行東京支店銀行東京明治421909.6×
2村松合資会社煉瓦商店東京明治421909.10×
3大倉轡店商店東京明治431911.6岡本墾太郎×
4合資会社左右田銀行東京支店銀行東京明治441911×
5東京瓦斯本所出張所木造事務所東京明治441911,4×
6杉村倉庫部煉瓦倉庫東京明治441911×
7東京堂書店商業東京大正21913×
8川崎銀行石岡支店煉瓦銀行茨城大正31914.2小笹徳蔵×
9京都商工銀行西陣支店煉瓦銀行京都大正31914.9×
10川崎銀行佐原支店及附属家煉瓦ほか銀行千葉大正31914.2千葉県指定
11中越銀行石動支店煉瓦銀行富山大正31914.12×
12住友家住吉別邸木造住宅兵庫大正61917.2×
13田辺貞吉邸木造住宅大阪大正61917.2×
14・旧増田邸女子栄養大学出版部)木造住宅東京大正131924頃田辺淳吉×
15浅見又蔵邸木造住宅東京大正141925.7×
16上木堂洋服店新築木造商店京都大正141925.7×
17大里一太郎邸木造住宅東京大正151926.12×
18鍋、、屋RC造、木造商店新潟昭和61931国登録
19根津別邸ガーデンハウス及浴塵木造住宅静岡昭和41929、3熱海市指定
20根津別邸(1館)木造住窄静岡昭湘71932.12熱海市指定
21正田邸木造住宅東京昭和81933.10×
22平爆邸増築木造住宅漸潟昭和91934.9国登録
23前川太郎兵衛邸別荘木造住宅神奈川昭和91934.10鈴木、守永×
24ξ漁、RC臨嵐出3富"131938霧
一338一
住宅総合研究財'団研ヲ巳論文集No.31,2GO4年版
が増加し,本社の他,各所に営業所が設置されることとなった。
た。なお,同行は大正5(1916)年12月,第一銀行と合併し,第
本所出張所が本所区相生町に設置されたのは同年12月で,翌年
一銀行西陣支店とされたが,同支店は昭和10(1935)年5月,
2月に営業を開始した。明治44(1911)年4月,本所区緑町(現
仮営業所に移転し翌昭和11(1936)年11月,270番地に新築店
在の江東区緑町付近)に大友による新建物が竣工し,同年6月
鋪を設け移転した注3°)。建物は現存しない。
に移転,翌明治45(1912)年3月に本所営業所と改称された。
10)川崎銀行佐原支店及附属家注31)
以後,改廃を経て,昭和21(1946)年に廃止された注20)。
川崎銀行石岡支店の項目で述べたように,川崎銀行は明治13
6)杉村倉庫部競売所注21)
(1880)年3月の創立で,佐原支店は営業所として当初から本
明治44(1911)年竣工で,平面図と立面が清水建設のホーム
ページに掲載される注22)。
店(東京日本橋),水戸,千葉とともに設置され,明治31(1898)
年11月,支店に昇格した。川崎銀行は昭和2(1927)年9月に
第百銀行と合併し川崎第百銀行,昭和11(1936)年9Hには合併
7)東京堂書店注23)
で川崎貯蓄銀行となり,更に昭和18(1943)年4月に三菱銀行と
東京堂書店は新潟県湯沢出身の高橋新一郎が明治23(1890)
合併し,同支店は三菱銀行佐原支店となった注32)。現在は観光
年,神田神保町に開いた書籍雑誌の小売店で,図書雑誌の専門取
案内所とされ「三菱館」と称される。建物はイギリスの輸入煉
次店として発展した。東京堂では明治44(1911)年に店鋪を
瓦を用いたが,平成元(1989)年の改修で外周はすべて取り替
新築したが,間もない大正2(1913)年2月,神田の大火で社屋
えられ煉瓦タイルとされた。但し,内部を中心に当初の煉瓦を
を失った。このために建てられた社屋が大友の設計によるもの
はじめとする部材が多数残る。正面向かって右角隅のドームは
で,同年4月には設計はでき上がり,建物は12Hに竣工した。
木骨銅板葺で,支店店舗部分のみが現存する。千葉県指定文化
社屋の間口は13間半に奥行11間半の3階建,木骨コンクリV-一・一
財。
ト造であった。向かって左側3問半が小売部,10問が卸部で,
卸部1階には事務室,荷造発送場があった。事務室は畳敷で,会
11)中越銀行石動支店
計室は金網で囲い,以下,仕入係,地方係,計算係,府下係は座式
であった。2階は書庫倉庫が大きな面積を占め,他に2室の予
中越銀行は明治28(1895)年1月,砺波に設立された銀行で,
戦時体制のため昭和18(1943)年7且十二銀行,富山銀行,高
備室,雑i誌整理室(9坪),返品整理室(6坪),病室(畳敷)が
岡銀行と合併して北陸銀行となった。石動には昭和18(1943)
あった。3階は社員の寝室12室で,155畳の規模があったとい
年の合併により旧高岡銀行と旧中越銀行の支店が併存すること
う。なお,この新社屋は大正12(1923)年9月の関東大震災で
となったため,この時点で前者が石動馬場支店,後者が石動支店
焼失した注24)。
とされたが,同年12月,旧中越銀行系の石動支店が廃止されて
石動馬場支店に統合されたため,石動馬場支店が石動支店と改
称されて現在に至る注33)。建物は現存しない。
8)川崎銀行石岡支店注25)
水戸藩おいて為替御用達をしていた川崎家が,明治7(1874)
年,東京で川崎組を組織したのが同行のはじまりで,明治13
(1880)年3月,川崎銀行として出発した。大友による石岡支
12)住友家住吉別邸
13)田辺貞吉邸
店の建物は大正3(1914)年の竣工で,川崎銀行石岡支店とし
田辺は住友銀行初代支配人として著名で,その住宅は明治40
て設けられた。昭和2(1927)年,同行は第百銀行と合併して
(1907)年,住友本店臨時建築部技師長の野口孫市の設計によ
川崎第百銀行(昭和11・1936年,第百銀行と改称),更に昭和
るものとされる注34)。
ところが上把2件は,清水建設の内部資料である工事収支予
18(1943)年4月には三菱銀行と合併し,三菱銀行石岡支店と
なったが,同年11月,同支店は旧川崎銀行翼下であった常陽銀
算表注35)に残るもので,そこに関係店員として大友の名前が記
行へ譲渡された注26)。但し,常陽銀行では既に石岡支店があり注
される。工事費は住友別邸が52,116円,田辺邸が18,861円と
27),この前後に建物は銀行としての使命を終えたと考えられる。
あるが,工事の詳細は明らかではない。
建物は後に住宅とされたが,現存はしない。
14)旧増田邸
女子栄養大学出版部として使われていたものであるが注36),
9)京都商工銀行西陣支店注28)
京都商工銀行は明治19(1886)年10E,京都市に開業した
詳細は明らかではない。現存しない。
銀行である。本店は京都市下京区東洞院通六角に所在し,明治
41(1908)年12月に第四十九銀行を買収し上京区大宮通笹屋
15)浅見又蔵邸温37)
初代の浅見又蔵は長浜出身の豪商で,長浜町長も務めた。当
町下町の支店を西陣支店とし,大正3(1914)年10月,今出川通
大宮東入町注29)(上京区今出川通大宮東入下伊佐町272番地)
地に慶雲閣という名の住宅を残したが,明治33(1900)年没し
に新店舗を新築移転させ,これが大友の設計による建物であっ
た注38)。明治9(1876)年生まれの2代目が名を継承しており,
一339一
住宅総合研究財LII捌ヲ旨論文集No.31,2004年版
ズぢ 瞭轍.碧靱凝極磁轟灘蝋
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図3-1大倉書店
写ea3-1四十一銀行東京支店
田銀行東京支店
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図3-2杉村倉庫部
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騰 麟雛懸総蘇灘鱗葦
嚢
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難醗勲譲i灘騒
謬
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粛掃A疑
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縷、 欝
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灘鑓1
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填3-16上木堂洋服店
初代没後に家督を継ぎ,大湖汽船会社社長,宇治川電気株式会社
智子の実家として余りに有名である。当初の図面と比較すると,
取締役などを歴任注39)しており,その住宅と考えられる。現存
道路に面して左右両側に増築がなされているが,中心部分は当
しない。
初の面影を残す注54)。現存しない。
16)上木堂洋服店新築注4°)
22)前川太郎兵衛別荘注55)
前川太郎兵衛は嘉永4(1851)年4月,滋賀県の生まれで綿布
京都市上京区丸太町通中町通に位置したとされる。丸太町
金巾問屋商であった注56)。別荘は神奈川県鎌倉市材木座に位置
通河原町の繁華街そばとなる。現存しない。
し,大友が鈴木などと設計を担当した。
17)大里邸注41)
24)新津恒吉邸注57)
大里一太郎は昭和時代初期,埼玉県粕壁で農業を営む多額納
明治3(1870)年生まれ注58)で,石油王といわれた新津恒吉が,
税者注42)である一方,丸の内周辺に1,000坪を越える土地を所
新潟市旭通町の私邸内に建てた迎賓館。昭和10(1935)年から
有した注43)地主注44)で,絵画の収集家でもあった注45)。
構想し,清水組の施工で昭和13(1938)年5月に完成した。RC造
大里邸は麹町区中六番地10-7,現在の千代田区四番町に大
正15(1926)年12Hに建てられたもので,敷地には木造平家建
3階建で,1階をイギリスのジャコビニアン様式の広間「イギリ
78.9坪の主屋と鉄筋コンクリート造3階建22.5坪の倉が建て
スの問」,2階をフランスのルイ16世様式の広間「フランスの
られた。設計は技師長田中実の下,主任は大友と宇佐美善太郎
間」と和室の「日本間」,3階にドイツ風民家である「ドイツ
が当たり,家具装飾は高島屋装飾部が関わった。なお,主屋の外
の間」を配し,世界中から石油の買い付けにやってくる外国人
観は真壁塗で羽目板張の日本家であったが,客室は楢床板張と
のための迎賓館として建てられた注59)。現在,冬期を除き一般
する洋間で,暖炉等が設備された注46)。
公開がなされており,新潟県における国登録文化財1号の物件
でもある。
18)鍋茶屋注47)
4大友作品の傾向
鍋茶屋は新潟中心部の東堀通に位置する料亭で,創業は江戸
大友の作品では以上の24件を確認することができたが,そ
時代の末,弘化3(1846)年とされ,店名は初代谷三郎が,すっ
ぽん料理を始めたことに因んでいる。火災により一時,近隣へ
れらの傾向等を見ておきたい。
作品の内訳は銀行6件,倉庫2件,住宅11件,商店5件となる。
移転したが,再度の火事で創業地に近い今の場所へ明治
43(1910)年に移っている。敷地には明治時代末から昭和
この内,17)大里邸をはじめとする住宅や店舗である7)東京堂
12(1937)年頃の建築が建つが,この内,昭和6(1931)年建造の
の一部には和風の部屋も見られるが,基本的にいずれも洋風の
応接室棟が大友の設計によるものである。建物はRC造の1階
建築に終始する点が先ず特色として挙げられよう。
デザインの傾向を見てみたい。先ず,銀行,書店,倉庫等の建
に,木造和風の2,3階をのせた形式である注48)。現役の建物で,
築では初期の1)四十一銀行東京支店は左右対称で1階中央に
平成12(2000)年4月,国の登録文化財とされた注49)。
は半柱を持つペディユメントを備える入口を設ける。2階はフ
19)根津別邸ガーデンハウス及浴室注5°)
ラットアー一一一一チ,2階上部にパラペットを建ち上げ,中央には要石
20)根津別邸洋館注51)
を持つアーチを有し内部に社章であろうか,円形の彫刻を刻す
鉄道王の根津嘉一郎の熱海別邸である。元々は海運王と名を
る。この建築は後の作品に比べると古典的な要素を多く見るこ
馳せ,後に鉄道大臣を勤めた政友会の内田信也が,実母の静養の
とができるだろう。3)大倉書店は基段階に楕円ア・一・一・一チを配し,2
地として大正7(1918)年から建築した別荘であった。それが
階以上は大オーダーで方柱の付柱で壁面を画し,下から順に切
関東大震災後の大正14(1925)年,根津に売却され,大友の設
妻形,方形,櫛形の窓とする。また,パラペット向かって左隅の
計によるガーデンハウス及浴室(昭和4・1929年),洋館(昭
柱上には半円形の飾りが見られるが,なお大オーダーによる構
和7・193年)が建設された。根津家は昭和19(1944)年に同
成は7)東京堂書店にも共通するデザインである。一方,4)左右
邸を手放し,戦後の昭和22(1947)年,桜井兵五郎が購i入して
田銀行東京支店では左右をやや突出し,上部にドームを配する
旅館『起雲閣』を開き,太宰をはじめ文人が多く訪れた。平成
点は後の作品の先駆けと見なすこともできる。6)杉村倉庫部,8)
11(1999)年に旅館は廃業したが,熱海市がこれを取得し,現在
川崎銀行石岡支店,10)川崎銀行佐原支店はいずれも煉瓦造で屋
は旅館時代の『起雲閣』の名を冠し,文化施設として一般公開
根をマンサード形,向かって右側に突出した入口を持つ点で共
がなされている。なお,同施設は平成14(2002)年,熱海市有形
通する。特に川崎銀行2支店は建築年代も近く,基段階を荒石
文化財の指定を受けた注52)。
積として,2階窓台を石積で連続させ,入口上にドームを配する
点の類似することが注目される。マンサード屋根と隅に建つド
ーム等の構成は,明治時代からの煉瓦造銀行建築に広く見られ
21)正田英三郎邸注53)
品川区池田山に位置し,故日清製粉社長正田英三郎宅,皇后美
る形式であるが,2階窓台を石積で連続させる形式は辰野金吾
一342一
住宅総合研究財団研究論文集No.31,2004年版
が得意とした,いわゆるクイーン・アンの様式である。更に穿
に木造が中心となる。煉瓦造が設計されなくなるという社会的
った見方をすれば,これらの要素の大半は規模こそ異なるが,大
な影響もあったが,以後,大友が手掛けた工事から建築構造の欄
正3(1914)年に竣工した辰野の東京駅と共通するものであり,
では煉瓦造がなくなり,ほとんどが木造となる。これと同時に
興味深い。ここでは,大友の持つ古典的な素養と,時代の趣向に
建築用途欄から「銀行」という名称が一切消え,大友の仕事は
敏感な側面を見ることができよう。
商業施設,住宅に限られることとなるのである。
住宅系では15)浅見又蔵邸がペディユメントを有する窓,21)
中でも昭和時代以後における大友の仕事はすべて住宅となっ
正田邸がハーフティンバー,23)前川邸がアーチ窓と細部は様々
ている。これは松籟閣旧平澤邸竣工直後における大友の経歴に
なものの,正面中央部に2階の切妻屋根を大きく見せる構戒は
見える,昭和9(1934)年10月の住宅設計係長就任と表裏をな
共通するもので,22)平澤邸の応接室で正面出窓に大きく切妻屋
すものであろう。そして施主を見ると住友銀行初代頭取田辺貞
根を見せる点もこれに準ずると言えよう。一方,内部では重厚
吉,鉄道王根津嘉一郎,日清製粉正田英三郎,石油王新津恒吉な
な造形を見ることができ,応接室では18)鍋茶屋と24)新津邸天
ど,いわゆる国内を代表する有産者の住宅が目白押しであり,そ
井に類似したデザインを見ることができる。また,細部では22)
の点で松籟閣の平澤與之助も同列に考えてよいだろう。見方を
旧平澤邸松籟閣と24)新津邸では扉金具が同じ堀商店の製品を
かえれば,大手建築会社に対して時代の要求する建築が,鉄筋コ
使う。なお,22)旧平澤邸松籟閣洋風寝室ではアールデコの影響
ンクリート造へと移る中,大友は木造住宅という領域において
も見ることができる。
自分の持つ技術を発揮し,珠玉のような作品に持ち味を出した
これらより,大友作品の傾向をまとめると,大友の技量は古典
と言える。
的オーダーからアールデコまでと比較的幅広く,時々の流行を
敏感に取り入れながら巧みに造形が行われたと考えることがで
6まとめ
本稿では近代における建設会社設計部技術者という観点から
きよう。
大友弘の人と作品を見て来たが,それらは以下のようにまとめ
ることができよう。
5設計部技術者としての大友弘
さて,大友が設計した作品の概要は第3章,傾向は第4章に
1)
示した通りであるが,大友は生涯でどのような種類の建築設計
を中心に活躍をしたと言えるのであろうか。大友の作品群から
はチームとして行われた。
2)
作品からみる大友の技量は幅広く,また時々の流行を取
り入れながら巧みに行われた。
その傾向を探り,戦前期における組織設計部における技術者と
3)
しての大友に焦点を当ててみたい。
大友による建築は24件確認され,図面を確認すると設計
大友の仕事は関東大震災前では煉瓦造が多く,その用途
としては銀行,倉庫等が多かった。しかし,震災後の仕事
ところで大友の作品動向を見る前に,大友の受けた建築教育
の多くは木造で,その用途は住宅に限られた。
について概観しておきたい。
以上の結語を,更にまとめれば,組織として時節の流行に応え
前述したように大友は明治40(1907)年2月,工手学校を卒
業している。同校は明治21(1888)年2月に創立された学校
ながら設計を行った一設計技術者大友が,晩年はその技量の故,
であるが,設立の趣意書によると,同校は"各専門技師の補助た
木造住宅建築に当たったと概観することができるわけで,ここ
るべき工手を養成する"ことを目的とした教育機関であった。
に近代における建設会社設計部技術者の一典型を見い出すこと
当初は土木・機械・電工・造家(後の建築)・造船・採鉱・冶
ができよう。
金・応用化学の8学科が開講され,学生には"世間有志の子弟
又は昼間各工場に使雇せらるy工手職工等に就学を許し"注6°)
謝辞本研究をまとめるに当たり,朝日酒造株式会社,起雲閣,
た。既に清水満之助店に入店をしていた大友はまさに"昼間
新津記念館,鍋茶屋,大阪市立大学工学研究科講師中谷礼仁,清
各工場に使雇せらる墨工手職工等"に該当するわけである。つ
水建設資料情報センター香川富生,同社史編纂室石川幸恵,石川
まり大友は工手学校において典型的な中間技術者としての養成
敏之の協力を得た。記して調憶を表したい。
を受けたと見なすことができるのである。
さて,大友作品を年代順に挙げたものが表2である。この表
からはいくつかのことを読み取ることができる。先ず,大正7
(1918)年から大正13(1924)年にかけての記録が多く欠落
する点である。大友個人の事清よる可能性もあるが,これは関
東大震災により,当時の清水組本社屋が焼失し,併せて記録の多
くを失ったためとすべきであろう。
一方,大友の手掛けた工事の名称,構造,用途も,同時期を境に
大きく変化していることに気付くであろう。特に構造は大正時
代初期から上述の関東大震災以前は煉瓦造が多いが,震災を境
<注>
1)清水建設提洪
2)清水建設提供
3)工学院大学:二十五年記念工手学校一覧「卒業生jpp.85,大正
2(1913).11,に大友の名前を石鶴忍することができる。
4)清水建設提供
5)清水建設提供
6)7青オく建設捌共
7)早稲田大学付属早稲田工手学校建築高等科記念写真集第三十三
回卒業,昭和3(1928).12,巻末の卒業生名簿による。
8)マ青7Jく建設捌共
9)埼玉工業大学教学課の回答による。
10)埼玉工業大学ホームページ「沿革」
一343一
住宅総合棚究財団イiJf究論文集No.31,2004イ「版
45)東京国立近代美術館蔵中村郵「エロシェンコ氏の像」(重要文化
財)は同氏が寄贈したものであ。以下のホームページ参照。
http://www.momat.go.jp/josetsu.htm1
46)大谷荒太郎監修:最新建築設計叢書第一期第八輯大里邸,建築資
料研究会,大里邸新築仕様書1∼19頁,前掲
47)田村収撮影
48)参考文献3)合資会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五,pp.223,
11)清水建設提供
12)研究に際しては根津別邸,川崎銀行佐原支店等の図面を実見した。
13)参考文献1)清水建設株式会社:清水建設百五十年,「明治年間の
主な施工竣工写真集成・1」pp.8,前掲。なお,以下,図5に示す
大友作品の出典を建物タイトルに注記として付す。
14)第一銀行八十年史編纂室:第一銀行史下巻,pp.46∼70,125,支店
pp.16,昭和33(1958).7
15)参考文献1)清水建設株式会社:清水建設百五十年,「明治年間の
主な施工竣工写真集成・1」pp.14,前掲。
その他,清水建設のホームページの以下の箇所に図面の記載がある。
前掲
49)新潟市編集発行:新潟市歴史双書6新潟市の文化財pp.138∼139,
平成14(2002).2
50)参考文献3)合資会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五,pp.87,
前掲
51)参考文献3)株式会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五,pp.159,
http://www.shimz,co.jp/trend/08.html
16)砂川幸雄:製陶王国をきずいた父と子大倉孫兵衛と大倉和親,晶
文社,pp.67∼108,平成12(2000).12,に詳しい。
17)参考文献1)清水建設株式会社:清水建設百五十年,「明治年間の
主な施工竣工写真集成・1」pp.8,前掲
18)日本銀行調査局:日本金融史資料昭和篇第二十四巻,金融恐慌関
前掲
52)「起雲閣」パンフレットより。
53)田村収撮影
54)参考文献3)合資会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五,pp.176,
前掲
55)参考文献4)株式会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九九,pp.1∼2,
係資料(一),pp.15,326∼348,昭和44(1969)年7月
19)横浜銀行行史編纂委員会:横浜銀行四十年史,pp.31∼33,東京支店
の項目,横浜銀行年表pp.3,昭和36(1961).4
20)東京瓦斯株式会社:東京瓦斯七十年史,pp.48∼49,328∼329,336,
昭和31(1956).3。他に写真頁に大友設計前の本所営業所の写真
前掲
が掲載される。
21)http://www,shimz.co.jp/trend/07.html
22)参考文献1)清水建設株式会社:清水建設百五十年,「明治年間の
主な施工竣工写真集成・1」pp.13,前掲
23)東京堂:東京堂百年の歩み,巻頭写真,平成2(1990).5
24)東京堂:東京堂の人十五年,pp.2,13∼14,149∼151,230∼234,昭和
51(1976)3
東京堂:東京堂百年の歩み,pp.2,13∼14,124∼128,197∼201,前掲。
25)日本建築学会:総覧日本の建築2,PP.39,平成元(1989).1
26)三菱銀行史編纂委員会:三菱銀行史,pp.302∼343,373,昭和29
(1954).8
27)常陽銀行:常陽銀行二十年史,石岡支店の項目,年表pp.38,昭和30
56)五十嵐栄吉:大正人名辞典,pp.788,東洋新報社,大正7(1918).12(日
本図書センタL-一・:大正人名辞典上巻昭和62・1987.10による)
帝国秘密探偵社:大衆人事録東京篇14版,pp.897,前掲
57)田村収撮影
58)新潟日報事業社出版部:新潟県第百科辞典,pp,1490,昭和52
(1977).9
59)新津石油株式会社:新津恒吉翁伝,pp.194∼196,昭和16(1941).12。
財団法人新津記念館:登録有形文化財新津記念館昭和浪漫の西
洋館,pp.3,平成13(2001).4
60)社団法人工学会:明治工業史建築篇,pp.291,昭和2(1927).4
<参考文献>
1)清水建設株式会社:清水建設百五十年、昭和28(1953).1
(1955).11
2)清水建設株式会社:清水建設二百年、平成15(2003),11
3)合資会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五、土木建築資料新聞
28)京都商工銀行:沿革史,巻頭写真,大正6(1917).8
29)京都商工銀行:沿革史,pp.74∼75,前掲
30)第一銀行八十年史編纂室:第一銀行史,pp.848∼858,862,昭和32
社、昭和10(1935).3
4)株式会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九九、昭和14(1939),5
5)合資会社清水組:住宅建築図集(初版)内容索引、昭和10(1935).61
6)住宅建築図集(第二輯)、昭和16(1941).7
(1957).12
第一銀行八十年史編纂室:第一銀行史下巻,前掲,支店pp,64
31)田村収撮影
32)三菱銀行史編纂委員会:三菱銀行史,前掲,pp.664
三菱銀行調査部銀行史編纂室:続三菱銀行史,pp,728,昭和
155(1980).9
7)西村好時:銀行建i築、昭和8(1933).12、丸善
33)北陸銀行:北陸銀行20年史,pp.6∼7,328∼329,支店pp.55,昭和39
(1964).7
北陸銀行:創業百年史,pp.485∼487,1133,昭和53(1978).3
34)日本建築学会:日本近伏建築総覧pp.324,35030住友修史館,昭和
〈研究協力者〉
田村収絵写工房
西澤哉子長岡造形大学デザイン研究開発センター嘱任研究員
55(1980).3
35)いずれも清水建設提供
36)日本建築学会:日本近代建築総覧pp.116,16162女子栄養大学出
版部,前掲
建築世界辻:建築世界18-10,口絵,大正13(1924).10
37)参考文献3)合資会社清水組:住宅建築図集皇紀二五九五,pp.35,
前掲
38)長浜市史編さん委員会:長浜市史4,pp.94∼97,平成12(2000).3
39)五十嵐栄吉:大正人名辞典,pp.1357,東洋新報社,大正7(1918).12
(日本図書センター:大正人名辞典下巻,昭和62・1987.10によ
る)
40)清水建設提供
41)大谷荒太郎監修:最新建築設計叢書第一期第八輯大里邸,建築資
料研究会,巻頭写真,昭和2(1927)年7月
42)人事興信所:人事興信録では,昭和3(1928).7刊の第八版以後,
戦前の版にはほぼ連続的に大里の記述を見ることができるが,戦後
はその記載が見られない。
43)平成13(2001)年度度筑波大学社会工学類都市計画専攻卒業論文
「東京駅周辺の都市形成について一土地所有者の相違に注目して
一」阿部秀一。
44)帝国秘密探偵社:大衆人事録東京篇第14版,pp.203,昭和17
(1942).10
一344一
住宅総合研究財団棚究論文集No.31,2004年版
付言
朝日酒造の松籟閣は平成15(2003)年7月、国の登録文化財
地は松籟閣の所在する三島郡越路町に隣接するため、大友の設
計による松籟閣も甚大な被害を受けた。以下、参考までに被災
状況の概要と平成16(2004)年10月26日撮影の写真4-1∼8
ー翼凋i
付近を齎原とする震度6強の新潟中越大地震が発生した。麗原
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ところで平成16(2004)年IOE23日夕刻、新潟県小千谷市
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として登録された。また、2003年度日本建築学会北陸建築文
化賞を移築保存、綿密な調査という観点から受賞した。
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を掲げる。
写真4-5応接棟外観南西より
松籟閣の建物は、内部土壁内法以下の大半が落下し、軸組が
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つなぐ廊下の軸部が歪み破損した。他日の復旧を期待したい。
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の天板石板南側が10cm程前方に押し出され、天井廻りの漆喰
彫刻の4割程度が落下した。屋根瓦では棟両端のファイニアル
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に歪んだ。応接室は壁紙、ステンドグラスが一部損傷し、暖炉
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が落下し、軸組は南東方向に外から目視しても判別できる程度
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一部変形した。洋風寝室で丸窓は無事であったが、壁紙は8割
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写糞4-6応接棟内部南東より
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写真4-1松籟閣全景東より
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写真4-7応接棟天井南面
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写真4-2寝室棟外観南東より
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写真4-3洋風寝室内部北西より
写真4-8応接棟外部南東隅
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