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アシックス

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アシックス
改革の軌跡
アシックス
「オニツカ」復活に秘めた企業革新
競技用の勝ちパターン採用せず
30年近く前に消えた「オニツカタイガー」がファッションシューズとして蘇った。
1990年代のプロジェクト失敗を反面教師に、マーケットインの事業展開へ。
「競技用」で培ったメーカー主導展開とはあえて一線を画す。
これを機に、
「変わらずに済んだ」社内の抜本改革を進める。
(文中敬称略)
プロジェクトの概要
1970年代後半までスポーツシューズとして人気のあった「オニツカタイガー」が、ファッショ
ンシューズとして復活した。欧州のブティックでブームの火がつき、日本市場でも2002年から
本格展開。2005年度の国内外合わせた売り上げは100億円近くに上る。アシックスは中期
経営計画で「asics」
と並ぶ2大基幹ブランドの1つとして明確に位置づけた。
オニツカの復刻は当初、全社を挙げて仕掛けたプロジェクトではなかった。ポスト競技用
としてファッション強化を意識した若手たちが、市場の動きを見ながら徐々に進めていった。
マラソンをはじめ「競技用」では絶大な力を持つ同社は、従来はメーカー発想、つまりプロダ
クトアウトで商品を展開してきた。このオニツカタイガープロジェクトを軌道に乗せるには、競
技用で培った長年続く業務サイクルまでも見直す必要があった。
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東京五輪やメキシコ五輪、ミュンヘン五輪の日本選手団のトレーニング用として開発されてい
ったかつてのオニツカタイガー。今はファッションシューズとして受け入れられている
40歳以上は「懐かしい」と言って手に取り、若
思ってませんでした」
者は「かわいい」と言って手に取る。細身のシン
2005年5月に米寿(数えで88歳)を迎えた鬼塚
プルなデザインに薄い靴底。どことなくレトロ感
は、現場に口を出すことはほとんど無くなったが、
が漂うところが受けたのか、中心価格帯が1万円
これに関しては別。色遣いや店頭でのディスプレ
∼1万4000円と結構な値段にもかかわらず、国内
ーなど、気になればすぐに担当者に電話する。オ
外や男女を問わずに売れている。
ニツカタイガーの復活は、鬼塚のバイタリティー
オニツカタイガーは1977年のアシックス社の誕
をさらに増進させている。
生で消えたブランドだった。現在のアシックスは
靴のオニツカと主にウエアを扱う2社が合併して
失敗を繰り返した90年代
誕生した。当時、オニツカが2社を吸収してもお
かしくなかったが、創業者で現在会長の鬼塚喜八
アシックスがオニツカタイガーに本腰を入れた
郎は対等合併にこだわった。
「それぞれの良さを
のは2002年のこと。わずか3年で基幹ブランドに
生かし、総合スポーツ用品として世界に打って出
なるまで成長できた舞台裏には、同社が築き上げ
る。過去にはこだわらない」
。その潔さが、既に世
てきた強さをあえて踏襲しない改革があった。
界で通用していたブランドさえも捨てさせた。
アシックスのシューズがアスリートたちに信頼
それが蘇ったのだ。
されている例を挙げれば切りがない。アテネ五輪
「まさか生きているうちに復活するとは夢にも
の野口みずきも、シドニー五輪の高橋尚子も履い
写真撮影:的野 弘路
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ていた。イチローも履いている。
問題は営業だった。売れるものならどこにでも売
トップアスリートに競技で履いてもらってブラ
る。新機能を開発して一気に売り込んでいくとい
ンド力を高める―。鬼塚が「頂上作戦」と名づ
う、競技用シューズのプロダクトアウトの展開を
けたマーケティングを同社は続けてきた。この作
ファッション分野でも押し通した。流通チャネル
戦は軌道に乗った。マラソンやバスケットボール
は従来通りのスポーツ店。だが、スポーツシュー
など各分野でブランド力が高まり、その後はメー
ズをファッションととらえる消費者はスポーツ店
カー主導の展開が可能になった。スポーツ工学を
には行かなかった。
研究して新機能を次々に開発する。競技者や消
費者はそれを待っていてくれた。
90年代半ばから2000年にかけて何度も赤字に
陥り、2002年度まで8年間無配が続いた。株価は
しかし、それは競技用のシューズでこそ通じた
一時60円にまで落ちた。アシックスにとって90年
事業展開だった。スポーツシューズの世界では、
代はまさに冬の時代だった。この悪夢を救ったの
1990年代に入って新しい波が起きていた。街履き
が、オニツカタイガーの復活だ。90年代の失敗を
化、ファッション化だ。世界的なライバルである
反面教師に、マーケットを基点にブランドを大事
アディダスやナイキ、プーマは、デザイン面だけ
に育てる展開を進めた。
でなく、流通チャネルの開拓など売り方までも時
代変化に対応した。
「まずプロジェクトありき」だったら失敗
一方のアシックスは失敗を繰り返した。
「LAギア」という輸入スニーカーが一時ヒッ
始まりは欧州市場だった。2000年初め、アシッ
トしたこともあったが、最後は在庫の山。最大の
クスの現地法人がレトロファッションの流行をと
●「オニツカタイガー」の軌跡
1977年
アシックス社誕生。
「オニツカタイガー」ブランド消える
1990年代
輸入スニーカーなど出すものの単発的、
中途半端に終わる
2000年初め
欧州のブティックなどで「オニツカタイガー」人気に
2000年7月
日本のセレクトショップで限定的に発売
2001年秋
米国で企画開発したものを日米欧で発売
2002年4月
東京に「オニツカタイガー」の企画・開発チーム発足
2002年5月
オニツカタイガーのレセプションパーティー開催
2003年4月
直営第1号店を東京・代官山に開設
2005年
asicsブランドと並ぶ基幹ブランドに位置づける。
オニツカタイガーの売り上げが国内外合わせて
約100億円に(2005年度)
写真撮影(右下)
:竹内 由美子
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(写真上)
レセプションパーティーに
は往年のアスリートたちが集まった(左
から、
スキージャンプの笠谷幸生、
マラソン
の君原健二、寺沢徹、長距離のラッセ・ビレン、
マラソンの瀬古利彦、
野球の村田兆治、鬼塚喜八郎)。
(写真下)
かつての「コルセア」
オニツカタイガー・チー
ムでリーダーを務めた末
広彰久(左)
と、マーケ
ティング部の現在のマ
ネジャー鎌田昌男
改革の軌跡
あのプロジェクトの舞台裏
らえ、独自にブティックなどでオニツカタイガー
を売り出した。既存商品を少しアレンジしただけ
のものだったが評判になった。
この欧州の動きを日本の流通バイヤーも見てい
た。東京・代官山の有名セレクトショップ「ハリ
ウッドランチマーケット」から扱いたいという提
案が、非競技用シューズの営業を担当してきた山
田裕也に来た。
「若者への影響度など願ってもな
い」
。山田は本社に掛け合い、3カラー500足ずつ
を納めた。結果は成功だった。
そのころ米国の商品開発部隊は、好調なランニ
ングシューズに次ぐカテゴリーを模索していた。
その有力候補がファッション分野の開拓だった。
その部隊に山田と同期がいた。
「何かやっている
らしいな」
。社内に導入したばかりの電子メール
が来た。日本ではオニツカタイガー専門の開発部
隊がいなかった。
「次に売るものが無くて困ってい
た」
(山田)だけに、話は一気に進んだ。2001年
「シニア向けにもっとアレンジが欲しい」
とアドバイスする会長の鬼塚喜八
郎。若手社員に伝えたいことは「ハングリー精神を持て」
秋、米国でデザイン・開発したオニツカタイガー
が日米欧の市場に投入された。
「だから良かった」と山田は言う。
「もし初めか
このころになるとファッション雑誌などで取り
らプロジェクトありきだったら、おそらくうまく
上げられるようになり、オニツカタイガーの名が
いかなかった」
。90年代のように、売らんがための
若者たちに知られるようになっていた。
営業に陥っていたと見ているのだ。
だが、アシックスは全社を挙げて動いていたわ
けではない。一連の動きを指揮する人がいたわけ
従来の社内常識との闘い
でもなかった。自然発生的なプロジェクト。同じ
方向性を持った若手同士が可能な範囲で展開し
だが、さすがに本社も動いた。2002年4月、オ
ているにすぎなかった。現在、オニツカタイガー
ニツカタイガーの企画・開発チームを東京支社内
のマーケティングを担当する鎌田昌男は当時、高
に設置した。メンバーはマーケティング担当の山
松や大阪で営業をしていた。
「また何かやってる
田を含め、デザイン、開発、営業、プレス対応な
なぐらいでしたね。90年代の失敗があるから、ど
ど合わせて6人だった。
うせまた・・・と」
。それは全社的にほぼ共通したオ
ニツカタイガー観だった。
実はここからが苦労の始まりだった。全社的に
動くことは、アシックスが競技用で築いてきた企
写真撮影:北山 宏一
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業カルチャーや業務常識との闘い(調整)が本格
ンド力で売り切ることはできたかもしれないが、
的に始まることを意味していたからだ。
新参のファッション分野ではそうはいかない。規
アシックスには競技用で蓄積した独自の品質基
定の4分の1ぐらいしかない生産量、場合によって
準が存在する。ものづくりの憲法だ。ソール(靴
は限定品を認めてもらうため、圓尾をはじめとし
底部分)やアッパー(甲の部分)の耐久性など物
たチームメンバーは意義を説得して回った。
性基準である。ファッション品であるオニツカタ
そして流通対策だ。売れると分かれば、スポー
イガーではアパレル用の素材を使ったほうがいい
ツ店向けの営業担当者も商品を欲しがってきた。
場合もあるが、競技用からすればとんでもない話
しかし、それを認めてしまえば、過去の失敗を繰
だった。これまでのものづくりにこだわるベテラ
り返すことになりかねない。目先の売り上げを増
まるお
ンも少なくない。開発担当の圓尾哲也は難しい交
やしたい気持ちを抑え、販売チャネルの中心を売
渉に挑み、その見直しを認めてもらっていった。
る力のある店に設定していった。商圏はもちろん、
生産部門との調整も必要だった。競技用では最
店員に接客力があるかどうかも問う。当初は話題
低の生産ロットが決められていた。シューズの生
性で売れたとしても、次第にその効力は無くなる。
産工程は複雑だ。ソールのモールドや木型づくり、
商品に秘められた思いや薀蓄を語れるかどうかが
アッパーの量産テスト、数回にわたるサンプルづ
大事になると見た。
うんちく
くりなど、受注してから市場に出すまでに半年以
ニューステップ(東京・中央)はその1社。全
上かかる。それだけ手間やコストがかかるから採
国のショッピングモールに50店出店しており、そ
算上ロットには厳しい。それでも競技用ならブラ
のうち35店舗でオニツカタイガーを取り扱ってい
る。同社では3カ月に1度、店舗
ごとにオニツカタイガーの販売
状況をチェックし、計画を下回
っている店には、見せ方や接客
の工夫など「是正勧告」を行う
という。
一方のアシックスも、一定の
年間販売額を維持できるかどう
かを店舗ごとに数値で把握して
いる。少し前までは取扱店は全
国で1000店近くあったが、現在
は約600店まで絞ったほどだ。
オニツカタイガーの勢いは今
オニツカタイガーの忠実な復元を目指した開発担当の圓尾哲也(中央)
。仕様書などのデータ集めはもちろ
ん、生産面での支援を求めて海外、全国の協力工場を回った
写真撮影:竹内 由美子
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も続いている。アシックスは2005
年度の国内外での同ブランドの
改革の軌跡
あのプロジェクトの舞台裏
売り上げを約100億円と見込む
(全社の2005年度の連結売上高
見込みは1600億円強)
。ただし、
業績貢献以上の期待をこのプロ
ジェクトに込める人物がいる。
社長の和田清美だ。
「オニツカ
タイガーの取り組みを全社改革
のツールにする」
和田には2001年の社長就任
以前から危機感があった。競技
用で培った強いブランド力を背
景とした業務サイクルだけで、
今後も通用するのか―。
「問
われるのは鮮度維持や短納期。
東京・代官山の直営店店長を兼ねるマーケティング担当の山田裕也。セレクトショップなど、90年代に開
拓した新しい流通チャネルとの関係づくりをさらに進める
スポーツスタイル(ファッショ
ン)分野で仕組みを構築できれば、競技用の分野
でも生かせる」
オニツカタイガーでは直営店展開を進めている。
国内では既に4店舗ある。直接の狙いは、消費者
への情報発信と、理想的な売り方の事例を小売
社内の常識は、世間の非常識?
り事業者に示すことにある。その一方で、市場の
動きをとらえて商品開発し、短期に生産・流通さ
同社の生産、開発、営業といった主要業務は
基本的に半期サイクルで回ってきた。年に2回、
せる実験の場としての狙いもある。SCM(サプラ
イチェーン・マネジメント)の強化だ。
新商品を出して展示会を開いて受注を取った。技
オニツカタイガーでは生産リードタイムの短縮
術力やブランド力があるからプロダクトアウトは
を目指している。色など最新の流行を商品企画に
通用した。POS(販売時点情報管理)データなど
反映するには、従来のように展示会での受注方式
で売れ行きは分かるが、その情報を生産とリンク
だけでは難しい。展示会に出す商品をつくるだけ
させる仕組みは無い。そんなことをしなくても展
で半年以上かかる。商品企画ともなればずっと前
示会があればやってこれた。
から準備しなければならない。最新のトレンドど
しかし、少子化に伴い、競技人口は減ってい
る。流通チャネルも、アシックスが得意としてき
ころではないのだ。
当面必要なのは生産部門での対応。開発担当
たスポーツ店ではないルートが拡大しつつある。
の圓尾は中国やベトナムの協力工場を頻繁に訪
競技用でも業務サイクルの見直しが必要と和田は
れ、多品種少量で機動的に生産できる仕組みを練
感じていた。
りつつある。ただし、オニツカタイガーが目指す
写真撮影:的野 弘路
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テムで大変不便になる。しかし、将来にとっては
大変良いことなんだ」
挑戦する社風を取り戻せ
「改革の方向は決して難しくない。要は、変え
ていこうという気持ちの問題」と和田は言う。だ
が、それこそが実は難しい。
会長の鬼塚にはこのごろのアシックスについて
気にかけていることがある。
「失敗を恐れるという
か無難に済まそうというか、もっとチャレンジャ
ーにならないと」
。いわば大企業病だ。
和田もそれを認識し、その原因の1つを組織の
硬直化にあると考える。
アシックスは中堅中小企業の合併の成功例とい
われ続けてきた。3社それぞれが得意としてきた
「強さがあったから変わらずに済んだ」アシックスで、改革の旗を振る社長の
和田清美
持ち場の力を発揮させるため、人事異動も少なか
った。和田自身、社長就任以前は営業一筋で本
社勤務は一度も経験していない。いつの間にか部
マーケットインの仕組みをつくるには、工場改革
だけでは不十分。
「生産、営業、開発など各部門
の連携こそが問われる」と圓尾は言う。
和田は既に仕掛けた。2006年夏の稼働を目指
そこで社長就任後、アパレルのトップにはアパ
レルの未経験者を就かせるなど、過去のしがらみ
を絶つような人事を始めた。
「悪いから変わるの
し、営業や生産の情報システムを刷新させようと
ではなく、できるから変えるという流れを作る」
。
している。目的は従来の業務常識をひっくり返す
オニツカタイガーのプロジェクトのように挑戦的
ことだ。従来のシステムはとても使いやすかった。
な社風を取り戻す。和田が「全社改革のツール」
例えば営業は、担当者ごとに自らの裁量で安全在
と言う背景はそこにもある。
庫を持つことができた。その結果、在庫は膨れ上
アシックスの誕生から間もなく30年になる。企
がった。今回の刷新のポイントは、できるだけパ
業の活力が失われるという意味で「会社の寿命は
ッケージソフトに合わせること。つまり、世の中
30年」ともいわれる。アシックスがオニツカタイ
の常識を取り入れて、社内の都合のいいようにな
ガーを機に始めた全社改革は、第2の創業へ向け
っていた業務の流れにメスを入れていく。
ての準備でもある。
和田は社内にこう発信している。
「新しいシス
写真撮影:竹内 由美子
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門間の壁ができやすくなっていた。
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長谷川 直樹 [email protected]
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