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異文化理解と外国語教育 — 大学における教養主義教育はどこに行く?—

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異文化理解と外国語教育 — 大学における教養主義教育はどこに行く?—
Rencontres Pédagogiques du Kansaï 2011
Table Ronde (使用言語:日本語、en
)
(使用言語:日本語、 japonais)
異文化理解と外国語教育
— 大学における教養主義教育はどこに行く?—
L’enseignement des langues étrangères et l’interculturel
内田樹 UCHIDA Tatsuru
Gaifukan
uchida?tatsuru.com
芦田宏直 ASHIDA Hironao
Université Tokai
hironao?ashida.info
西山教行 NISHIYAMA Noriyuki
Université de Kyoto
jnn?lapin.ic.h.kyoto-u.ac.jp
(司会)
司会)野崎次郎 NOZAKI Jiro
Université Kansai
jiro?ma1.seikyou.ne.jp
本稿は2011年3月25日16時00分から18時00分まで、RPK2011の一環として開かれ
たシンポジウムの報告である。予稿集の原稿にいくつかの修正と付け加えを行って
報告とした。
趣旨説明と総括
司会 野崎次郎(関西大学、思想史、フランス社会論)
地球規模で人々の移動が激しくなり、多文化社会の深化が進んでいる今日の状況
下にあって、まさに異文化理解の基礎となるべき教養主義教育の主要な一端をにな
っていた外国語教育が、皮肉にも、大学において壊滅の危機に瀕している。
「役に立つ語学」「コミュニケーション力の育成」「キャリア教育」という「美し
い言葉」、さらには「人間基礎力の育成」などというきわめて曖昧模糊とした言葉
が、昨今、大学教育の主要な教育目標に掲げられるにいたって、「大学はどこに行
く?」という問いが、現在、「大学は出たけれど…」という台詞以上に切実な事柄
となっているといえるだろう。
文科省の大綱化(1991)以降、徐々に進んでいた大学教育の自滅は、まず大綱化
を各大学が独自に特色を出すべきであるというメーセージとして理解せずに、科目
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の選択を「学生の自主性」にゆだね、卒業時を見据えたカリキュラム作成、シラバ
ス作成を大学みずからの責任において行うことを放棄した結果、起きたと考えられ
る。言語政策を持たないことによる優柔不断さは、肯定されるべきなのだろうか?
言語観の問題として考えてみよう。言語を「コミュニケーションツール」として
とらえることは、言語の一面を語っているにすぎない。言語の「表現性」を見ずに、
言語をそのように狭隘化することは、言語の多面性に敏感であるべき語学教師がま
ず第一に避けるべき事柄であろう。
「異文化の理解」は「アングロ・サクソンの多文化主義」的な考え方によれば、
今や「世界共通語」となっている英語(国際英語)で十分であるということになる。
他方「フランスの普遍主義」的な考え方によれば、あるいはヨーロッパの「複文化・
複言語主義」的な考え方によれば、「目標文化」の理解には「目標言語」の習得が
不可欠ということになる。「言語と文化は一体か?」という古くて新しい問題がこ
こでも再提起されているといえる。
大学における(さらには高校における)語学教師は、どのような言語観、言語教
育政策論などをもって(あるいはむしろ特定のものを持たない方がいいのか)、壊
滅の危機に瀕している外国語教育の再興を目指していけばよいのか。
言語政策・フランス語教育専門の西山教行先生(京都大学)、FD・哲学専門の芦
田宏直先生(東海大学)、現代思想・武道専門の内田樹先生(神戸女学院大学(当
時))のご意見を聞きながら、論議を深めていきたい。
興味深いと思われた論点を司会者なりにまとめていくつか列挙しておきたい。
1. 「文明化の使命」としてフランス語教育がなされてきた歴史的経緯がある。
2. 言語教育と文化とは一体と考えることも、切り離して考えることもできる。
3. 文化の正統性は「政治的判断」にすぎず、文化の「複数性」を考える必要性が
ある。
4. 異なるまなざしの交差する「間文化」interculturel という視点から、文化の複数
性をとらえ、文化本質主義から脱却することが大切だ。
5. 1991 年の大綱化が大学の教養教育(外国語教育)を解体に導いたと一般には考
えられているが、それ以前の中曽根の臨教審答申における、「個性」「自主性」「意
欲主義」といった概念が、「コミュニケーション能力」「人間力」といった概念と結
びついて大学教育は解体していった。
6. 学校教育の課題は社会階層の流動化にある。しかし、偏差値による進路指導の
廃止と生徒の「自主性の尊重」が、インセンティブ・デバイド(意欲格差による格
差の再生産)を生み、社会階層の固定化を進めた。
7. 「関西調査」が統計的に示しているように、ゆとり教育以後、学力格差はむし
ろ増大し、文化的に高い層と低い層との溝が深まり、「学ぶ主体」論はむしろ階層
差を広げていった。
8. 「異文化理解」という言葉に違和感を感じる。そもそも「異文化」は理解しな
ければならないものなのか?
9. 文化を理解するとはその言語を使ってその言語をイノベーションすることだ。
そこに外国語学習の狙いがある。ブレークスルー体験。
10. 優秀な教師というような「属人性」で論じることが間違い。教育装置を整える
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ことが大切。教場の「こっち側」と「あっち側」、つまり、教育の非対称性に注目
することが大切である。「先生はえらい」。
11. 非対称性を保ちながら誰でもできる教育が階層の流動化を担保する。
12. 仕掛けを作る上で、親と教師が違うことをいう方がむしろよい状況。
13. 家庭間格差を補うものとして、社会教育、NPO などあり、大学教育に入ってき
ている、それはいい傾向なのでは?
14. 学校は社会と断絶すべき。そこに「非対称性」の論点がある。
15. 「キャリア教育」論には高等教育のグランドデザインが欠けている。「頭のい
い子」が大学に行き、「頭の悪い子」が専門学校(下位偏差値の大学)に行きとい
う、職業教育の差別視がある。
16. 学校教育には「共和主義的な」意味で「社会化」(多文化・多言語に対応し得
る市民の育成)という使命がある。
17. 学校教育は、成熟した市民の育成を狙いとしており、社会全体が受益者である。
子どもたちの狭隘な世界観を壊すことが学校教育の大切な面である。
1) フランス語教育は「文化」をどのように語るか
(西山教行、京都大学、言語政策、フランス語教育)
フランス語教師は、なぜ文化を語るのだろうか、そしてどのように語るのだろう
か。言語教育の実践に当たって文化を語ることは必須条件ではなく、文化を語らな
い言語教育も存在してきたし、またそのような教育は現在でも存続する。
では、なぜ外国語教育が文化に関する言説を伴うのだろうか。フランス語の場合、
それはとりわけフランス語教育の歴史と不可分の関係にある。フランスでは19世紀
以降、「文明」civilisationの名称により一国の生活様式や社会制度に関する知識が語
られており、「フランス文明」は植民地主義の文脈において非西洋世界の到達すべき
目標として提示され、「文明化」とはフランス人が植民地人に対して行うべき使命と
して語られてきた。
言語と文化の関係を整理すると、およそ次のような3種類に分類できる。第一に
目標言語を学ぶことなく、あくまでも母語により目標文化を学ぶこと。第二に目標
言語を学びながらも、目標言語ではなく母語を通じてその目標文化を学ぶこと。第
三に目標言語を学びながら、母語ではなく、目標言語により文化を学ぶことが挙げ
られる。
この類型化を日本に即して考えると、第一のパターンの場合、日本語を通じて外
国文化に接することとなり、日本人の見た外国文化、あるいは日本語によって置換
され、理解された限りでの外国文化が対象となる。このように理解された文化は、
その文化の中で生まれ育ったネイティブ話者が抱く文化とはかならずしも同一で
はない。
第二のパターンは、言語学習という変数を伴っていることから、目標言語による
コミュニケーションを行うに際しての社会文化能力の一部ともなる。とはいえ、そ
の文化はあくまでも母語で語られたものである以上、母語や出身文化のバイアス、
場合によっては先入観や偏見を逃れるものではない。
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第三のパターンは、目標言語によって目標文化を語ることであり、言語学習に引
き寄せて考えるならば、目標言語文化の国で目標言語を学ぶケースがそれに当たる。
「文化」を語るとは、この三つのパターンのいずれかに正統性があるのかを判断
し、優劣を下すことではない。「われわれが社会的現実と見なしているものは、か
なりの程度まで、この語のあらゆる意味におけるreprésentationであるか、さもなけ
ればreprésentationの産物です。」(『構造と実践』)とブルデューの語るように、
文化とは優れた意味で「表象」である。「表象」であるならば、どのような立場から
見るのか、どのような思考の枠組みで考えるのか、そもそもどのような言語により
語るのか、さまざまな条件により「表象」の語り方は変わりうるし、一つの「文化」
をめぐっては複数の「表象」が存在する。日本人が日本社会の内部で日本語を媒介と
して語る「フランス文化」も一つの表象であるのならば、フランス人がフランス社会
の内部でフランス語を媒介として語る「フランス文化」も一つの表象に他ならない。
このいずれがより「本当の」フランス文化をあらわしているのだろうか。この議論は、
文化を一つの固定的な実体と捉え、文化本質主義に陥るものに他ならない。
ネイティブ話者の語り、実践する「文化」が最も威信が高く、外国人学習者にとっ
ての習得すべき対象であるならば、言語教育・学習はつまるところ同化主義の陥穽
を免れ得ない。しかし、ネイティブ話者が自らの文化に傾けるまなざしを持つこと
は必ずしも言語学習の目的ではない。そもそも目標となる言語文化への完全な同化
など実現されるべくもない。非母語話者がネイティブ話者に近い程度に至るまで習
得し、同化したと見なされる文化でさえも、ネイティブ話者の内在化した言語文化
と同じ価値があるわけではないし、同じような象徴的機能を持ちうるものではない。
とはいえ、ネイティブ話者の所有する「文化」を共有することへと学習者を導くこ
とは教師にとってわかりやすく、また教師を魅了する教育ともなる。教師の所有す
る、より多くの知識は学習者に対する優越性の保証となり、「知識の教えこみ」とし
ての教育は成立する。しかし言語教育・学習は知識の教えこみをめざすものではな
く、この文脈での「文化」とは目標文化に関わる、より正しい表象を収集したもので
もない。学習者自身が目標文化をどのように見ているのかに目覚め、自分自身の文
化に対するまなざしや、他者の文化に対するまなざしを経験し、自分自身の内部と
外部を自由に往来する。ここに、「文化」を語ることをめぐる、文化本質主義の誘惑
から逃れる方略がある。
2) ここ 20 年の教養教育の変遷について―ハイパーメリトクラシー教育とキャリ
ア教育の諸問題
ア教育の諸問題
(芦田宏直、東海大学、FD、哲学)
(芦田宏直、東海大学、 、哲学)
フィッシュキンは、
「メリット」(メリトクラシーの merit)と「生活機会の均等」
と「家族の自律性」とは三つ同時には実現できないと言っている。厳密に言うと、
これらの内の二つを実現すると残りの一つは実現できない「トリレンマ」に陥る。
「実力」と言っても、最初から恵まれた立場に置かれてしまえば、その本人の「実
力」とは言い難い。実力主義は、家族主義的な階級制と反するように見えるが、結
果的には家族主義的,地域主義的な“格差”を温存する場合も多い。純粋な「機会
均等」は、存在しない。機会を与える前に決着が付いてることの方がはるかに多い
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のかも知れない。
「メリット」と「生活機会の均等」とは「子供は社会の子供」という立場にほぼ
立っている。後者の「家族の自律性」は子育ての権利は(社会ではなくて)親に属
しているというものだ。学歴社会における〈学校教育〉の意義は、子供を教育する
ことを、親の影響や地域の影響、あるいは世代の影響から隔離することにある。1
+1=2を教えることに、あるいは学ぶことに親も地域も世代も(場合によっては
社会も)必要ないからだ。つまり〈身分〉や〈格差〉と関係なく、1+1=2とい
うことを教えるという場所が〈学校〉。その分、〈学校教育〉にはその〈教員〉資格
が国家的に条件付けられている。どんな僻地の学校にも大学を卒業して教員国家資
格を持った〈教員〉が「先生」と言われながら存在してる。
この意味は、〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前には認めないということだ。学ぶ
主体を〈生涯学習〉的な視点から認めてしまうと、結局のところ、自動詞的な〈学
び〉が前面化する。学ぶ「意欲」や学びの「個性」が前面化する。言い換えれば、
何か〈を〉学ぶという対象への集中(漱石的な〈則天去私〉)よりは、それ以前に
存在する抽象的な〈私〉の〈学び〉が存在することになる。世界は、客観ではなく
て、〈私〉の自己表現の手段と見なされる。
1980 年代後半の中曽根臨教審答申以来、個性教育と生涯学習はパッケージで前
面化してきた。〈個性〉ばかりではなく「関心・意欲・態度」が各科目評価に加わ
ったのも中曽根臨教審答申を受けた 92 年の新学習指導要領以来のことである。ペ
ーパー試験で 100 点とっても「関心・意欲・態度」の“悪い”者は、80 点扱いに
なる。評価全体の内、2割が「関心・意欲・態度」評価に当てられている。つまり
〈知識〉や〈技術〉の累積と「関心・意欲・態度」とは別のものだという判断がこ
の評価には働いている。外面的な(=外からの)注入型の教育と「関心・意欲・態
度」が切り離されてしまえば、この「関心・意欲・態度」を担う主体は、学校教育
以前の〈パーソナリティ〉でしかない。いわゆる〈人間論〉が前面化する。
人間はそもそもが内発的に学習する主体(=学びの主体)だという生涯学習論の
思想的基盤もそこにある。教員は(上から権力的に)教える者ではなくて、サポー
ター役、あるいはファシリテーター役に留まる。〈学校教育〉以前の〈学びの主体〉
とは、結局のところ、親や地域の影響を色濃く受けた〈主体〉に過ぎない。〈学校
教育〉に、「上から」の「権力」が存在するとすれば、この親や地域の影響という
地上性を払拭する為のものであるからに違いない。
実際、苅谷剛彦たちが明らかにした「関西調査」では、学びの個性論教育、ある
いは意欲主義教育は、むしろ、学力格差を拡大することになったことをデータから
示している。「関西調査」の結論は三つある。一つには、中曽根臨調以来の個性主
義教育+意欲主義教育は学力格差をむしろ拡大するということ。二つ目には、意欲
を育てるのはむしろ学力であって、学力のない者は意欲もないということ。三つ目
には、「学び合い」などの児童・生徒たちの意欲的な「学び」を前提とした「新学
力観」型授業は、学力格差を拡大するということ。この三つである。このことを一
言で言えば、苅谷の言う「インセンティブ・ディバイド」となる。
結局のところ、中曽根臨教審以後の個性主義教育+意欲主義教育は、〈学校教育〉
に《家族》と《地域》を持ち込んだだけのことである。それは〈キャリア教育〉の
名の下に、《社会》が〈学校教育〉に入り込みつつあるのと同じ事態だ。現在、〈学
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校教育〉は、入口と出口において、その境界を無くしつつある。この事態は〈学校
教育〉が〈生涯学習〉と等置された臨教審路線の反映に過ぎない。80 年代とバブ
ル期以降、IT 革命以降のグローバリゼーションによる労働市場の大変化(高卒市
場の 10 分の 1 の縮小)=キャリア教育の登場とは一見、別物のように見えるが、
しかし臨教審の〈学校教育〉=〈生涯学習〉論は〈キャリア教育〉に親和的である。
臨教審当時、書記係役的に関わっていた寺脇研は、新学力観型の「ゆとり教育」
批判にさらされた後にも次のように振り返っていた。「『ゆとり教育』へと進む方
向は、明らかに時代の要請であり流れです。そもそも、こうした流れは、1984 年
に中曽根首相の主導のもとにできた臨時教育審議会(臨教審)で確立されました。
いまの『錦の御旗』は臨教審なのです。そこで『生涯学習』という理念が決まりま
した。学校中心主義からの転換、教師による『教育』から生徒中心の『学習』への
転換です。この理念の延長にいまの教育改革がある。ですから『ゆとり教育』の枝
葉については否定できても、その根本理念を否定できる人はいないはずです」
(2004 年 2 月号 中央公論)。結局、「学校中心主義からの転換」としての生涯学
習論は、〈学校教育〉否定論であり、〈学校教育〉以前に〈学びの主体〉を想定する
家族=地域論=社会的ニーズ論(キャリア教育)なのである。
高等教育が学生顧客論(学生消費者論)に立つのは、90 年代に始まる少子化現
象がマーケット主義を増長させるからではない。生涯学習はもともとが顧客=消費
者主義。〈学ぶ〉ことは、学ぶ者の〈手段〉にすぎない。通常、生涯学習的な講座
の受講者傾向は、学ぶ目的は受講者の側にあり、カリキュラムや科目は手段に過ぎ
ないということにある。何のために役立てるかは、受講者の受講目的次第というこ
とになる。生涯学習マーケットの大半を構成する社会人がいまさら何の役に立つか
もわからないものを自費で受講したりはしないからだ。従って生涯学習講座評価の
根拠は受講者の側にある。この種の講座評価が受講生アンケートでなされるのはそ
の意味でのことだ。
しかし、〈学校教育〉が対象とする児童・生徒・学生は、まだ社会人のようには
〈目的〉を自律的に持てない。この「持てない」というのは、何らかの限界や無能
力を意味しているわけではない。何にでもなれるし、何を目的にすることもできる
ということが、若者(児童・生徒・学生)の、つまり次世代を形成する人材の特質
だということだ。〈学校教育〉の対象である若者(児童・生徒・学生)は、〈学校教
育〉を通じて目標を見出すのであって、そこに〈学びの主体〉は存在しない。〈学
びの主体〉を形成するところが〈学校〉であって、〈学校教育〉は〈学校学習〉で
はない。この〈教育〉の「上から」目線、「権力」目線は、〈学校教育〉の対象であ
る若者を家族・地域・社会から引きはがすためのものであって、社会的な階層流動
性の原理をなしている。
一条校の〈学校〉(学校教育法の第一条「学校とは…」に分類された学校)に、
立派な校門と塀が存在しているのは、家族・地域・社会から〈学校〉が相対的に自
立しているからである。この自立性こそ、「ジェネラル」エデュケーションや「リ
ベラル」アーツのパワーを形成している。
フィッシュキンの言う「家族の自律性」は子供の教育権を家族(親)が有してい
るというものだが、これは通常東京の名門私立学校の〈面接〉主義選抜(名門の再
生産)を意味している。この点では、「家族の自律性」は階層再生産の原理(メリ
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トクラシー・生活機会の均等と対立する)でしかないが、一方でこの自律性は、ど
んなに社会から(反社会的な犯罪者として)阻害されても、「この子は私にとって
はかけがえのない子供」と言える自律性でもある。つまり「家族の自律性」の反社
会性(反メリトクラシー+反機会均等主義)は、それ自体階層の流動化の原理でも
ある。家族の反社会的な閉鎖性はそれ自体、社会的な革命の原理でもある。この閉
鎖性の意味が〈学校〉の校門と塀だと言ってもよい。学校の〈校門〉と〈塀〉は、
したがって閉鎖的なものではない。「ジェネラル」と「リベラル」の砦なのである。
〈学校教育〉の〈教員〉とは、その意味で社会的な〈親〉である。〈親〉が“子
供満足”のために子供を〈育てる〉のではないようにして、〈教員〉や〈学校〉に
とって、子供(児童・生徒・学生)は〈顧客〉なのではない。子供は他動詞として
の学ぶことの中で、つまり〈対象〉に没入することの中で、学ぶことの目的を見出
し、〈主体〉を形成していくのである。〈学ぶ主体〉の〈学び〉が先にあるのではな
いのだ。
「ジェネラル」エデュケーションや「リベラル」アーツにおける〈教養〉主義と
は、〈学ぶ主体〉の自主性に収まりきらない或る過剰を意味している。この過剰こ
そが家族や学校の〈自律性〉を形成している。〈学校教育〉は、臨教審の生涯学習
論、受講者を〈学ぶ主体〉と見なす生涯学習論、つまり顧客学習論とは異質の自律
的な〈教育〉を有している。〈学校教育〉は、校門と塀によってこそ、「ジェネラル」
で「リベラル」なのである。
3)ブレークスルー体験と外国語習得
ブレークスルー体験と外国語習得
(内田樹、凱風館、現代思想、武道論)
予稿には次のようなことを書きました。まずはそれを採録しておきます。
外国語を学ぶことは母語を習得するときのブレークスルーをもう少し小さな規
模で追体験することだと僕は思っています。母語を習得するとき、僕たちはその言
語について何も知らず(というか「言語」という概念さえ持たないまま)、空気の
波動を記号的に分節し、光の波動を文字として把握します。ゼロからの世界像形成。
それが言語習得ということのほとんど奇跡的な意味だと思います。
しかし、今、日本では、外国語習得はもっぱらすでに母語的に分節された世界を
単に富裕化するために、水平方向に拡大するために「有用」であるという言葉づか
いでしか動機づけられません。TOEIC のスコアが何点になると、どれだけ「いい
こと」があるかというような功利的な動機づけで外国語を習得することは、僕が考
えている「ブレークスルー」体験とはほど遠いものです。もちろん「いいこと」は
たくさんあるでしょう。でも、それは外国語を習得することのもたらす最大の喜び
とは違うような気がします。
20 代の僕にとって、フランス語を学習することの目的は端的に、「日本語話者の
うちには、そのようなロジックで、そのような概念を用いて思考している人がいな
い」書き物を理解するためでした。それはいわば自分自身の思考枠組みそのものを
「かっこに入れる」ことを必要とします。やり方がわからないので(嬰児のときに
日本語を習得したやり方をちゃんとマニュアル化しておけばよかったのです
が・・・)、ずいぶん苦労しました。けれども、その苦労の甲斐はあったと思いま
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Rencontres Pédagogiques du Kansaï 2011
す。今でも僕は実用フランス語においてはまるで素人の域を出ませんが、フランス
語のテクストを熟読することで「自分の思考枠組みを変えた」ということについて
は深い確信があります。でも、その成果は数値的に「これだけ変わりました」と証
示することはできません。そもそもそんな変化に用事があるのは僕ひとりですし。
だから実は僕は「異文化理解」という言い方にはいささか抵抗があるのです。外
国語の習得のもたらす最良の知的達成は「自国の文化を異文化として理解する」こ
とではないかと思っているからです。(ここまで)
実際にシンポジウムに参加して、他の方の発言のうちに、たいへん興味深い論点
がありました。それは「目標文化」というあまりなじみのない術語です。「目標文
化」というのは、私たちがある外国語を学ぶとき、その学習を通じてめざす文化の
ことです。フランス語を学ぶ場合、フランス語は「目標言語」、フランス文化は「目
標文化」と呼ばれます。
実はこの説明を聴いて、違和感を覚えました。発表者は「目標文化に到達するた
めには、目標言語による教育が必須である」というネイティヴの教師が強く主張し
がちな教育観に対する疑念を語っておられました。私も同意見です。
二十年ほど前、ある語学学校で、フランスのテレビの「お笑い番組」のビデオを
見せられて、早口のギャグの聴き取りを命じられたことがありました。私がその課
題を拒否して、「私はこのような聴き取り能力の習得には関心がない」と告げたと
ころ、教師は激怒して、「市井のフランス人が現に話しているコロキアルな言葉が
理解できない人間はフランス文化をついに理解できないであろう」と述べました。
どうやら私とこのフランス人教師は「フランス文化とは何か」についての理解が違
っていたようです。
私がフランス語の習得を志したのは、1960 年代の知的なイノベーションの過半
がフランス語話者によってなされているように見えたからでした。サルトル、カミ
ュ、レヴィ=ストロース、フーコー、ラカン、バルト、デリダ、レヴィナスたちの
仕事はこの時期に集中しており、彼らの最新の知見にアクセスするためにフランス
語運用能力は必須と思われました。私はこの「知的饗宴」を欲望してフランス語を
学び始めたのであって、市井のフランス人に特段の興味があったわけではありませ
ん(今もありません)。そして、私があこがれたその「知的饗宴」もまたすでに過
去のものとなりました。
目標文化という語は必ずしもある国語を母語とする人たちの「国民文化」を意味
しません。例えば、聖書の原典はヘブライ語やアラム語やコイネーで書かれていま
すが、それらを母語とする話者たちはもう存在しません。だからといって、聖書を
生み出した人々の霊性の本質を理解できるものはもう誰もいないと主張する人は
いないでしょう。
「誰もそれを母語としない言語に固有の文化」というものがありうる。この刺激
的な命題について考えるきっかけを与えてくれたことについて、このシンポジウム
に参加できたことを感謝致します。
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