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現代の「教育の分析哲学」の方向性と 見通しについて
1 現代の「教育の分析哲学」の方向性と 見通しについて 佐 藤 邦 政 1. 教育の分析哲学についての問題設定 本稿の目的は,現代の教育の分析哲学(contemporary analytic philosophy of education) の可能性について考察することである 1)。現代の教育の哲学者であるシーゲル(Siegel, 2009, p. 5)によれば,1950 年代から 70 年代にかけて,科学哲学者としても知られるシェフラー (Scheffler, I) ,あるいは,ピーターズ(Peters, R. S.)などによって教育の哲学に関する重要 な作品が生み出され,活発な議論が行われていたが,20 世紀後半の数十年の間に,教育の 哲学は再び下火になっていた。だが近年,英米圏では,教育の哲学におけるクリティカル・ シンキング研究などにより,教育の哲学は少しずつ哲学分野として認知されるようになって きている(cf. Siegel, 2009)。 このような状況の中で, 教育の哲学がどのような種類の問題を扱うのかを主題的に分析し, 現代の教育の分析哲学の展望を得るような研究は,これまでのところ行われていない。そこ で本稿では,これまでの教育の哲学の特徴を明確にし,現代の教育の分析哲学がどのような ものとなりうるのかを考察する。 本稿の構成は以下の通りである。第 2 節では,これまでの教育の哲学の主要な特徴を,次 の二つの区別を導入しながら明確にする。それは, (a) 「実践的(practical) 」と「理論的 (theoretical) 」という区別, および, (b) 「理論構築(theory construction)に関する考察」と「概 念(concept)に関する考察」との区別である。第 3 節では,現代における教育の分析哲学 は以下の三つの特徴を持つものであることを提案する。すなわち, (1)言われていることが 明晰であり,かつ,必要に応じて十分な論証がある, (2)主題が教育に関係する個々の事象 ないしは現象である, (3)教育思想史(history of educational thought)との関係について言 及する,あるいは,それとの関係を論証の中で示す,というものである。さらに,このよう に特徴づけられる教育の哲学が「分析哲学」である理由を説明し,うえで特徴付けられる教 育の分析哲学が,日本の教育学の中で批判されている「分析的教育哲学」とどのように異な るのかを明らかにする。第 4 節では, 教育の分析哲学に関する, 今後の課題について言及する。 2 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 2. これまでの教育の哲学の特徴 教育という事象ないし現象についての哲学とはどのようなものなのだろうか。あるいは, その問題を扱うとされる,これまでの教育の哲学とはどのようなものなのだろうか。このよ うな疑問に答えるために,本節では,これまでの教育の哲学で扱う問題がどのようなもので あったのかを,次の二つの区別を導入しながら概観する。それは, (a) 「実践的」と「理論的」 という区別,および, (b) 「理論構築に関する考察」と「概念に関する考察」との区別である。 (a) 「実践的」と「理論的」という区別 日本の小笠原編(1991)や高橋・新井編(1994),そして海外での Black et al.(eds.) (2003) や Siegel(2009)などのアンソロジーを見ると 2),教育の哲学で扱われる主題は多様である ことがわかる 3)。まず,学校教育の目的や,カリキュラムなど学習方法などに関する研究が ある。このような一連の研究は臨床哲学や応用倫理学の内容に近い。ここでは,このような 研究を,教育実践についての研究であるという意味で「実践的」研究と呼ぼう。次に,教育 実践そのものについての研究ではなく, 「探求」や「教授」,「習慣形成」など,教育に関わ る事象や現象を研究するものがある。これらを「理論的」研究と呼ぼう。これらの研究が理 論的である理由は,これらの主題を探求するためには,扱われる概念が理解されている必要 があるが,その研究のために,実際の学校教育や,人間の成長の記録などの教育実践につい ての研究が参照される必要があるわけではない,ということにある。 (b) 「理論構築に関する考察」と「概念に関する考察」との区別 理論的研究に関しては,さらに「理論構築に関する考察」と「概念に関する考察」という 分類ができる。理論構築に関する考察とは,何らかの思想を基にして,教育理論や子どもに ついての新しい見方を探求する研究であり, 概念に関する考察とは, 「経験」や「探求」など, 教育という事象や現象に関わる概念がどのようなものなのかを考察する研究である。 例えば, 教育学研究の中には,オートポイエーシス理論を援用することで,子どもを自己創出する者 と見なす研究がある 4)。これは,オートポイエーシス論という理論に依拠した,子どもの見 方に関する理論構築に関する研究である。それに対して,同じ主題に関して,そもそも「自 己創出する」という概念は何を表すのだろうか,あるいは,その概念を子どもに対してのみ 適用でき,大人に適用できない理由は何だろうかなどを考察するのが概念に関する考察であ る。 現在の教育の哲学の研究は, この 「実践的」 「理論的」 , 「理論構築に関する考察」 , ,および, 「概 念に関する考察」に分類される内容を包括するものと見なされている。これに対して,現代 では,より実践的な主題を研究する「応用哲学」や「応用倫理学」という分類などがあるよ うに,教育の哲学の研究も,主題や手法に応じた分類が導入されると,教育の哲学の研究が 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 3 どのような内容を扱うのかについての見通しが良くなると思われる。 以下では,うえの区別の中で,概念に関する考察を扱う理論的研究に焦点をあてる。こ の理論的研究として,どのような内容が考えられるだろうか。田代(2003, p. 95)は,これ までの日本の教育哲学研究の多くは欧米の代表的な教育思想に関する解釈研究であり,そ れは明治以来の特徴の一つであると述べている。 「思想を丹念に『読み抜き』 ,十分に消化し て,そのうえで規範的に発話するような姿勢や方法」 (ibid.)に基づく解釈研究という仕事は, 教育に関係する概念を明らかにするという意味で,概念に関する理論的研究に入ると考えら れる。 しかし,概念に関する理論的研究の中には,解釈研究だけではなく,次のような内容を扱 う研究も考えられる。例えば, 「経験を通じて習慣を身につける」と言われるが,それはど のようなことなのだろうか 5)。時間や場所,あるいは,行為がなされる脈絡も異なる個々の 行為が,どうしたら何らかの一つの規則に従うものとなるのだろうか。「言われてみると確 かに不思議だけど,その不思議さに気が付かなかった問い。そのような問いを,われわれの 日常経験から拾い出してきて,それをきちんとした問いに仕上げていくことが,哲学の重要 でしかも魅力的な仕事の一つだ」 (戸田山,2002, p. 2)ということが正しいなら,うえのよ うな問いをきちんとした問いに仕上げることも,教育の哲学における概念に関する理論的研 究の一部となるだろう。 では,うえの種類の教育の哲学に関する研究は,正確にはどのように特徴づけられるだろ うか。少なくとも次の三つの特徴を挙げることができる。それは, (1)言われていることが明晰であり,かつ,必要に応じて十分な論証がある, (2)主題が教育に関係する個々の事象ないしは現象である, (3)教育思想史との関係について言及する,あるいは,それとの関係を論証の中で示す, というものである。次節では,この各特徴について詳しく説明する。 3. 現代の教育の分析哲学 本節では,うえで挙げた特徴を詳しく説明する。3.1. 節では, (1)の特徴,すなわち, 「言 われていることが明晰であり,かつ,必要に応じて十分な論証がある」という特徴を説明し, このように特徴づけられる哲学が「分析哲学」である理由,および,それが「現代の」とい う限定が付く理由を説明する。3.2. 節では, (2)の特徴, すなわち, 「主題が教育に関係する個々 の事象ないしは現象である」とはどのようなことなのかを説明する。3.3. 節では, (3)の特徴, すなわち,「教育思想史との関係について言及する,あるいは,それとの関係を論証の中で 示す」という特徴がどのようなことなのかを説明する。 4 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 3.1. 明晰さと十分な論証 本節では,(1)の特徴である「言われていることが明晰であり,かつ,必要に応じて十分 な論証がある」に関して,次の二つの問題を取り上げる。第一に,うえの特徴を有する哲学 が分析哲学である理由は何だろうか。第二に,それは,これまでの教育学の中で論じられる 「分析的教育哲学」と呼ばれる分析哲学とどのような点で異なるのだろうか。 第一の問題を取り上げよう。まず, 「言われていることが明晰であり,十分な論証がある」 哲学を「分析哲学」とする規定は, Glock(1997)の中の諸論文の中の考察, および, 飯田(2004) における考察を参照している 6)。分析哲学とは何かを厳密に考察すると難しい問題となるが, その哲学の特徴の中に,明晰さと十分な論証が含まれるということは認められるだろう 7)。 では,論証について,なぜ,必要に応じた論証であって,すべての言明に対する論証では ないのだろうか,あるいは,論証を必要とする場合に,それが十分な論証となっているとは どのようなことなのだろうか。必要に応じた論証である理由は,論じられる主題に応じて, その脈絡の中で論証がぜひとも必要な言明と,その必要のない言明に区別されると考えられ ることにある。さらに,論証が必要な場合,提示される論証が十分なものかどうかという程 度の違いがあると考えられる。例えば,先ほど挙げた特徴(1) ,すなわち,明晰であり,か つ,十分な論証がある哲学を「分析哲学」とする規定は,Glock(1997)の中の諸論文や飯 田(2004) における考察内容を踏まえたものである。主題が 「分析哲学とは何か」 ではなく, 「現 代における教育の分析哲学とは何か」である本論文の論証において,分析哲学の概念の規定 に関して,過去の代表的研究の中の規定に依拠するということは,その規定を用いる十分な 理由であると思われる。しかし,過去の研究の中で提示された規定に従って,論文の中で用 いる概念を規定するだけでは不十分な場合もある。このように,十分な論証がどの程度のも のであるのかは文脈に依存するが,教育の哲学が分析哲学であるためには,主題との関連性 に応じた,十分な吟味や論証が必要となる 8)。 二つ目の問題に移ろう。これまでの教育学研究の中で,シェフラーやピーターズらによる 研究など, 「分析的教育哲学」 と呼ばれているものがあるが 9), (1) の特徴を有する分析哲学は, 分析的教育哲学とどのように異なるのだろうか。 分析的教育哲学は,少なくとも日本では概念分析を行う哲学と特徴づけられており,主に, 教育という事象の中で用いられる概念の分析をする哲学のことである。そうすると,そのよ うな意味での「分析哲学」と,本稿で述べている(1)の条件を満たすという意味での「分 析哲学」,すなわち,明晰であり,かつ,必要に応じて十分な論証のある哲学としての「分 析哲学」とは異なることが確認される。以下では,概念分析としての分析的教育哲学と区別 するために,「現代の教育の分析哲学」を「現代の」という限定を付けて呼ぶ。 概念分析を行うという意味での分析哲学は, 日本の教育学の中で宮寺 (1997; 1999)らによっ て批判されている。ここでは,その哲学に対する批判がどのようなものなのかを確認し,そ の批判を再批判することで,概念分析という手法は,思想史研究とともに行いうるものであ 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 5 ること,さらに,概念分析は,明晰かつ十分な論証があるという意味での分析哲学において も重要な研究手法であることを指摘する 10)。 宮寺による分析的教育哲学に対する批判は次の通りである。 教育哲学者たちの方は, 「教育の概念」を 構成する とはいわない。かれらはそれを 分 析する という。分析するということは,構成のように,無から有を生じさせる形而上 学的な手法とはちがい,科学の定量分析がそうであるように,所与のもののなかから組 成物をえり分けていくことを意味している。したがって,それは手続き的に客観的・公 共的であること,つまり〈だれがやっても同じ結果がでる〉ことを旨としている。問題は, そうした個人の恣意や思想を超えた〈科学的〉手法を,教育哲学者が― 「分析的教育哲学」 という名のもとで―誇称してきたことである。 (宮寺,1999, p. 9) 宮寺(1994; 1997; 1999)の内容を考慮すると,ここで批判されている「分析的教育哲学」 とは概念分析を行う哲学のことである。次に,ここでの概念分析は,どのような時代に,誰 が行っても同じ内容が得られるという意味で「客観的・公共的」な結果が得られるものであ ると想定されている。このような特徴を有する概念分析としての分析的教育哲学に対して, 宮寺は,例えば, 「教育」や「学習」など,教育に関わる概念の分析によって得られる内容は, その時代におけるわれわれの営みに応じて変わりうるという意味で歴史的なものであると批 判している。 まず,確認できるのは,ここで想定される概念分析としての分析的教育哲学が,特徴(1) を有する分析哲学,すなわち,明晰であり,かつ,必要に応じて十分な論証のあるという意 味での分析哲学とは異なることである。次に,概念分析としての分析的教育哲学に対する宮 寺の批判を見てみよう。宮寺は,1999 年の論文副題「分析は思想を超えられるのか」に見 られるように,概念分析による研究は,われわれの営みに応じて,概念の内容が変化しうる という意味で歴史的な教育に関する概念にはなじまないと考えている。しかし,教育に関わ る概念内容が歴史的なものであるという宮寺の述べることが正しいとしても, そのことから, 概念を分析することは教育の哲学にとって不要である,という強い主張は帰結しない。むし ろ,哲学の中では,分析は哲学史や思想史とともにありうる。例えば,哲学の中では「可能 世界」というアイディアなど,哲学史の中から得られる概念を明晰にすることで,現代哲学 に多くの貢献がなされている事例がある。教育の哲学においても同様に,現代の優れた分析 道具を利用し, 「教育可能性」という概念など,教育思想史の中で扱われてきた概念を精緻 に分析することで,重要な概念やアイディアを現代において捉え直すという研究がありうる と考えられる。 次節では,特徴(2)について考察しよう。 6 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 3.2. 教育に関係する事象ないしは現象 本節では, (2)の特徴,すなわち, 「主題が教育に関係する個々の事象ないしは現象である」 を取り上げ,それがどのようなことなのかを考察する。ここでは次の二つの問題を考察する。 第一に,現代における教育の分析哲学の主題について,それは教育に含まれる個々の事象な いし現象であると述べる必要がある理由は何だろうか。第二に,教育という事象ないし現象 に関する個々の主題の考察と, 「教育とは何か」という主題の考察との関係は何だろうか。 第一の問題から考察しよう。まず,教育の哲学の主題には, 「経験」 , 「探求」 ,あるいは, 「理 由」,倫理学と関係する主題としては, 「他者」や「善」などが含まれる。例えば,その中で, 「経験」, 「知識の探求」 ,あるいは「理由」に関する具体的なテーマには次のようなものがあ る 11)。 a. 個々の体験が一つの習慣となるための条件とは何だろうか, b. 概念を習得するとはどのようなことだろうか, c. 「教育可能性」という概念はどのように分析されるだろうか, d. 知識を探求するとはどのようなことなのだろうか, e. 直観によって得られる知識よりも,理由や論証のある知識が重要だろうか。そうだと すると,なぜなのだろうか 12)。 教育の哲学や倫理学の具体的なテーマとなるものは, Curren(1998a; 1998b),加藤(2006), 宮澤(1993) ,村井(1993) ,あるいは,Rorty(ed.)(1998)など,教育思想史や現代の教 育哲学の中で扱われているものなど,他にも多くありうる。 ところで,教育の哲学がうえの諸問題を含めた,教育という事象ないし現象を主題とする ことはすでに了解されていることであり,ここであえて強調する必要はないのではないかと 思われるかもしれない。たしかに,うえのような問題が教育という事象ないし現象の主題で あることは了解されている。例えば,うえの主題 d に関連する問題の中に,プラトンの『メ ノン』において提示される探求のパラドックスがあり,それは村井(1972)の中で説明され ている。ところで,メノンのパラドックスという主題は,そのような思想史研究としてだけ ではなく,Day(ed.) (1994)における各論文で見られるように,知識の探求についての哲 学の主題としても論じられている。運動に関するゼノンのパラドックスが現代哲学の中でも 論じられるように,この主題も哲学研究の主題となりえ,かつ,それは現代における教育の 哲学の主題となりうるだろう。だが,これまでの教育の哲学においては,そのような研究は あまり見られない 13)。この状況を考えると,これからの教育の分析哲学で扱われる主題の 中には,うえで挙げた教育についての個々の事象ないし現象についての研究が含まれること を確認することに意義がある。 二つ目の問題に移ろう。 「教育とは何か」という主題に限られず,哲学者が最終的に「∼ 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 7 とは何か」という疑問の形をした問いの答えを知りたいと思っていることは,他の哲学分野 にも当てはまると思われる。だが, 「∼とは何か」という形をした問題を考察することから, その主題についての深い洞察を得ることができる者は,ほんの一握りの哲学者であると思わ れる 14)。この場合,その問題に関連する,より個別的な問題に取り組むことで,問題を考 察する糸口を得ることができると考えられる。例えば,ウィトゲンシュタインは時間に関し て,「時間を測るとはどのようなことなのか」という問題を立てた。これは時間の本性を考 える糸口になるだろう。このことは「教育とは何か」という問題を探究する場合も同様であ り,その場合,教育という事象や現象に関連するより個別的な問題に取り組むことで, 「教 育とは何か」という問題に取り組む糸口を見出すことができる。 3.3. 教育思想史との関係 本節では,(3)の特徴,すなわち, 「教育思想史との関係について言及する,あるいは, それとの関係を論証の中で示す」という特徴を取り上げ,それがどのようなことなのかを説 明する。 まず,(3)の特徴に関しては, (1)の特徴である明晰で十分な論証であり,かつ, (2)の 特徴である教育の事象や現象を扱う研究であるとしても,そのことから,その研究がこれ までの教育思想史と関係することは出てこない。例えば,シェフラー(Scheffler, 1973, pp. 9 - 17)の中での教育の分析哲学についての規定は, (1)の特徴の中の概念分析を重視した うえで,教育実践の中で用いられる概念について分析する,というものである。ここでは教 育の哲学の中の教育思想に関する歴史的な研究と哲学との関係はほとんど考慮されていない が,Curren(ed.) (2007)のアンソロジーを見て分かるように,教育の哲学には十分な歴史 がある。一般に,哲学に対して哲学史が重要であり続けており,両者を簡単に切り離して考 えることができないように,教育の哲学もまた,その教育思想史との関係を切り離すことは できないか,あるいは,切り離してできると主張することには十分な理由が必要であると思 われる。 このようなことから, 現代の教育の分析哲学の特徴の一つに, (1)と(2)の特徴とは独立に, (3)の特徴も挙げることができる,すなわち,研究される主題の関係から,必要に応じて, 教育思想史を参照することができる。それでも,その関係は論文の中で必ずしも言及される 必要はなく,それは論証の中で示されるという形で関係することでもよいだろう。というの も,これまでの論争や考え,あるいは,見方は一つ一つ明示的に言及されなくても,論文の 中でそれらに関する深い理解が示されていることがあるからである。教育の哲学の理論的研 究は,このような形で必要に応じて,教育思想史を参照することができると考えられる。 4. 今後の課題 うえのように特徴づけられた現代の教育の分析哲学に関して,今後,少なくとも次の三つ 8 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて の問題がある。第一に,教育の哲学と他の分野の哲学との関係という問題である。具体的に は,教育の分析哲学が,さまざまな他の分野の哲学の中でどのように位置づけられるのかと いう問題である。第二に,教育の哲学と教育思想史との関係という問題であり,具体的には, 教育の分析哲学と,その哲学が扱う主題を提供すると考えられる教育思想史研究との関係は どのようなものなのかという問題である。教育の哲学の現状は,過去の思想家の思想解釈が 多いとしても,教育の分析哲学を本稿で規定したものとするなら,思想史研究とは異なる哲 学研究がありうる。そのとき, 両者の関係が改めて問題となると考えられる。そして最後に, 教育の哲学と既存の教育学との関係という問題である。教育学の中では「教育学的意義」と いう言葉があるが,そのような意義を求める教育学研究と,教育の哲学研究とはどのように 異なるのだろうか。これは,教育学と教育についての哲学との二つの学問領域の区別につい て考察するという意味で,教育の哲学についてのメタ的な問題となる。現代の教育の分析哲 学に対して,さらに以上のような考察が必要となると考えられる。 註 1) 本稿の主題が,現代における教育の分析哲学の「可能性」である理由は,ここで提示される現 代における教育の分析哲学は,より理想的なものとなる可能性があると考えていることにあ る。また,本論文の題目は,シェフラー(Scheffler, 1973)の第一章において,教育の分析哲 学について論じられている「教育の分析哲学に向けて」という論文の題目名を踏まえている。 2) 例えば,小笠原道雄の編集している『教育哲学』(1991)では,アメリカやイギリスで論じら れている「分析的教育哲学」の紹介(第 2 章)から,教育内容の問題(第 5 章),教師の教育愛 の問題(第 8 章)など実践的な主題,あるいは,ポスト・モダンの議論と教育学との関係とい う主題(第 13 章)などが論じられている。 3) Phillips(2008)の第 1 節において,教育の哲学が海外でも同じような状況にあることが指摘さ れている。また,これまでの「教育の哲学」の研究についての分類は土戸(1999)第 1 章を参照。 4) 今井(1999)。 5) 教育思想史の中での習慣形成については,ジョン・ロックが言及される(ロック,1967) 。ロッ クの習慣形成に関する考え方の解説は,寺崎(1993)を参照できる。 6) 飯田(2004,p. 53)は,明晰さという概念もまた明晰にされる必要があると指摘している。 7) 飯田(2004)の主張は「哲学が分析哲学である」ということにある。私は,少なくとも教育の 分野に限り,現象学研究など,うえで規定される分析哲学とは異なる種類の哲学研究がある と考えている。それゆえ,教育の哲学に関しては,飯田の主張に反対したいと思っている。 註 8 も参照のこと。 8) 教育の哲学研究の中には,現象学に基づく哲学研究など,他の種類もある。例えば,中田 (1996)の研究は,現象学的手法を用いて,教育という事象について考察する研究である。こ のような研究方法と比較することで,ここで述べる明晰であり,十分な論証に基づく分析哲 学との相違が明確になるだろう。 9) Cf. Peters( 1966)。その概要を知るためには,小笠原編(1991)の第 2 章,および,杉浦編(1995) の第 4 章を参照できる。 現代の「教育の分析哲学」の方向性と見通しについて 9 10) 本稿が,シェフラーやピーターズらの研究を直接に批判するのではない理由は,彼らの教育 の哲学の仕事は,概念分析だけではないということにある。例えば,シェフラー(1965)は 知識の条件を教育という観点から考察する研究を残しているし,ピーターズ(1966b; 1973) は,理由と習慣との関係という観点から道徳教育について考察する研究を行っている。 11) 以下の主題は,本稿の先行研究に挙げた教育思想史研究の中で取り上げられている主題と関連 するものの中で,哲学的な問題となりうると現在の私に確信できているものに限られている。 12) 日本におけるクリティカル・シンキング哲学研究では,現在までのところ,伊勢田(2005)な ど,主に実践的研究がなされているが,海外では Siegel(1988)などにおいて, 「なぜわれわ れは他者の意見に対して批判的でなければならないのか」という問題の考察など,その理論 的研究も盛んに行われている。これらは,Black et al.( 2003)や Siegel( 2009)などで論じられ, 教育の哲学の問題と見なされている。 13) このことは,日本に限らず,海外においても当てはまる。Cf. Black et al.(eds.) (2003),Siegel( 2009) 。 14) 金杉(2007)の「序章」を参照。 参考文献 Black, N., Smeyers, P., Smith, R., & Standish, P.(eds.) (2003),The Blackwell Guide to Philosophy of Education, Blackwell Publishers. Curren, R.(1998a), Education, History of Philosophy of, In Craig, E. J., Routledge Encyclopedia of Philosophy, pp. 222 - 31. (1998b), Education, Philosophy of, In Craig, E. 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