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ウィーンと音楽 - 大阪市立大学文学研究科・文学部

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ウィーンと音楽 - 大阪市立大学文学研究科・文学部
ウィーンと音楽
-シューベルトの「さすらい」-
田島 昭洋
大阪市立大学大学院文学研究科COE研究員
はじめに
ウィーンの作曲家フランツ・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797-1828)の音楽を例に
とり、都市が作った音楽、都市生活者の姿を浮かび上がらせた音楽がいかなるかを考えたい。取
り上げる作品は歌曲「さすらい」Das Wandern である。シューベルトはウィーン市民のサロン
生活と密接に結びつき、彼の音楽は市民的性格を帯びて都市的な姿を連想させるものがある。そ
してそれは都市の現代性とも通底している。なかでも歌曲「さすらい」は、その典型とも呼べる
音楽構造をもっているのである。そこで本稿では、19 世紀前半における都市ウィーンの社会とシ
ューベルトとのかかわりを確認した上で、具体的に歌曲「さすらい」を分析し、音楽に現れた都
市性および現代性を考察する。
1 シューベルトと市民のサロン
まず、歌曲「さすらい」が成立する都市ウィーンの社会的状況を把握しておく。
シューベルトは、さまざまな音楽ジャンルを手がけているが、周知のとおりとりわけ歌曲の分
野で名をはせている。それはとりもなおさず、シューベルトをして歌曲創造へ向かわせた土壌が
豊かであったことを意味している。その土壌とは、市民という新しい階層の人たちが楽しむサロ
ン音楽のジャンルとして、歌曲が求められるようになってきた都市の音楽的環境である。
この時代に市民階級と市民のサロン音楽が成立し、展開してゆく背景として、貴族階級の後退
が挙げられる。18 世紀末まで、貴族は屋敷の大広間で夜毎お抱えのオーケストラを使って大掛か
りなコンサートを開き、ウィーンの音楽生活を活気づけていた。ところが、18 世紀末から 19 世
紀序盤にかけてのいわゆる一連のナポレオン戦争は、社会の転換をもたらすことになった。貴族
は度重なる軍資金拠出のために財政難に陥り、みずからのオーケストラを手放さざるを得ない状
況が相次いだ。その結果、音楽文化の担い手という立場から退いていくのである。
一方、市民は、政府に資金を調達したり、教育活動などの「働きぶり」をアピールしたりする
ことにより、次第に存在感を増し、力をつけつつあった。貴族に代わって社会の中心的役割を担
うようになるのである。音楽活動の面でも主導的立場をとりはじめ、貴族と交代するかのように
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音楽会を催すようになる。もっとも貴族のように大規模な音楽会を個人で開催することはありえ
ず、市民は快適な自宅のサロンで、比較的小さな身の丈に合った音楽会を楽しむのである。その
ような空間では、室内楽やピアノ曲、歌曲など小さな形式のジャンルの音楽が好まれ、それらの
音楽に対する需要が伸びてくるわけである。
また、内輪のプライベートな音楽会が好まれた背景として、ナポレオン失脚後、革命防止に努
めるウィーン体制の時代にあっては、反体制の動きを警戒する政府によって政治活動の取締りや
書籍の検閲が厳しくなっていたことも挙げられよう。ありとあらゆる文字は検閲の対象になり、
音楽についても、オペラや声楽曲などテクスト(歌詞)のある作品は当局による許可が必要とさ
れ、公のコンサートでは、無難な歌詞による作品だけが演奏された。そのような堅苦しさ、わず
らわしさを市民は敬遠したのである。
市民生活の中でサロン音楽が開花した一般的な背景は、以上の通りである。
シューベルト個人についてであるが、彼がとりわけ歌曲の分野に取り組むことになったのは、
彼が市民のサロンを芸術の発表の舞台としていたからである。そしてシューベルトの歌曲の芸術
的価値にとってなお重要であるのは、その市民たちとシューベルトが強い友情で結ばれていたと
いう事実である。シューベルトが付き合っていた市民は、主として少年時代に在籍していた寄宿
制の神学校の同窓生たち、つまり友人である。彼らは当然ながら同世代が多く、詩人や画家や劇
作家などさまざまな教養人であった。なかには、裕福な家庭に育った者や地方から上京して立身
出世した者もおり、彼らが快適な自宅のサロンに仲間を招き、シューベルトを囲み、音楽の夕べ
を開いたのである。音楽だけではなく、詩の朗読やシェイクスピア劇のロールプレイも行われて
いたのであるが、とりわけ詩の朗読を通じて、シューベルトは、詩を的確に解釈して歌曲に仕立
て上げるための文学的素養に磨きをかけた。シューベルトは、このようにして、市民のサロンの
音楽を歌曲を中心につむぎ出していたのである。
したがって、彼の歌曲は、自分と、自分と心が通じ合う友人のために存在したといえる。その
ようなプライベートな状況から湧き出るようにしてできた歌曲は、友人のサロン(市民のサロン)
という定まった空間から出て行くことはなかった。一般のコンサートで取り上げられることはな
かった。街頭で歌われることもなく、民謡として愛唱されることもなかった。しかしながら、限
られた空間の中であったにもかかわらず、シューベルトの歌曲がもたらすイメージは友人たちの
眼前に大きく広がった。詩の出来事にふさわしい音楽、詩に込められた情景があたかも目の前に
現れ出るかのようなメロディーとリズムとハーモニーをもつシューベルトの歌曲は、しかしなが
らそこだけのものではなく、普遍的な価値をもっていた。普遍的な価値があるからこそ、時代を
超え、現代の我々の心を捉えるのである。それゆえに、シューベルトの歌曲は高い芸術的価値を
もっているといえる。このような芸術性豊かな音楽がプライベートな空間だけで楽しまれたのは、
後にも先にもシューベルトの時代のシューベルトの歌曲だけである。彼以前の歌曲は、単純素朴
な民謡として、芸術とみなされていなかった。シューベルトより後の歌曲は、シューベルトによ
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って歌曲が芸術になりうることに人々が気づいた後のことであり、また、市民社会の展開にとも
なう音楽産業の発達と聴衆の好みの多様化に応じて、コンサートのナンバーとしても客を呼び込
めるものとして、最初から不特定多数の聴衆を対象とした(公の)コンサート用の作品として作
られることになる。1
そうしたシューベルトの歌曲、都市のサークルの中で息づいた芸術の世界を、歌曲「さすらい」
を取り上げて考察することによって、音楽に現れた都市性を探求してみたいわけである。
2 民謡としての「さすらい」
歌曲「さすらい」は、そもそもドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラー(Wilhelm Müller,
1794-1827)が 1820 年に出版した連作詩集『美しき水車小屋の娘』Die schöne Müllerin の第 1
篇である。その詩集に 1824 年にシューベルトは作曲し、歌曲集とした。2 ミュラーの詩「さすら
い」は次の通りである。3
Das Wandern
Das Wandern ist des Müllers Lust,
Das Wandern !
さすらい
さすらいは水車職人の楽しみ、
さすらいは!
Das muß ein schlechter Müller sein,
粉をひくのも下手に違いない、
Dem niemals fiel das Wandern ein,
さすらいを好まない水車職人は、
Das Wandern.
Vom Wasser haben wir’s gelernt,
Vom Wasser !
さすらいを。
川の水から僕たちは教わった、
川の水から!
Das hat nicht Rast bei Tag und Nacht,
川の水は昼も夜もたえまなく
Ist stets auf Wanderschaft bedacht,
いつもさすらうことを忘れない、
Das Wasser.
Das sehn wir auch den Rädern ab,
Den Rädern !
川の水は。
水車からも僕たちは学び取る、
水車から!
Die gar nicht gerne stille stehn,
水車はじっとしているのが嫌いで、
Die sich mein Tag nicht müde gehn,
毎日疲れを知らずに回りつづける、
Die Räder.
Die Steine selbst, so schwer sie sind,
Die Steine !
水車は。
石臼でさえそうだ、あんなに重いのに、
石臼は!
Sie tanzen mit dem muntern Reihn
石臼は元気よく輪舞を踊り、
Und wollen gar noch schneller sein,
もっと速く動こうとする、
Die Steine.
石臼は。
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O Wandern, Wandern, meine Lust,
O Wandern !
おおさすらい、さすらい、僕の楽しみ、
おおさすらい!
Herr Meister und Frau Meisterin,
親方とおかみさん、
Lasst mich in Frieden weiter ziehn
心安らかに旅を続けさせてください
Und Wandern.
そしてさすらいを。
詩は、一人前の水車職人を目指す若者の、遍歴の旅に出るにあたっての溌剌とした気分を描い
ている。詩は 5 節から成り、1 節は 5 行で構成される。第 1 節は「水車職人のさすらう喜び」
、第
2 節は「よどみない川水の流れ」
、第 3 節は「水車の休みない回転」
、第 4 節は「石臼の重量感あ
る動き」
、そして第 5 節は「若者自身のさすらう喜び」が活写される。
ところで、ドイツの作曲家フリードリヒ・ツェルナー(Carl Friedrich Zöllner, 1800-1860)が
1844 年に「さすらいは水車職人の楽しみ」Das Wandern ist des Müllers Lust という曲を作っ
ている。これはシューベルトの「さすらい」と同じ詩によっているのであるが、シューベルトの
ものとはかなり異なる性質の音楽である。そこでシューベルトの音楽を考察するのに先立ち、ツ
ェルナーの作曲を紹介しておく。ツェルナーの作曲を前もって知っておくことにより、より鮮や
かにシューベルトの音楽の構造が浮かび上がるものと考える。曲は次の通りである。4
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ツェルナーの曲は、無伴奏で歌えることを前提としているため、歌は中断することなく進む。
メロディーラインは滑らかで、跳躍が少なく、歌いやすさが配慮されています。リズムは、歩行
をイメージさせる基本のリズム二拍子で統一されている。
この歌は、ドイツ語圏では「民謡」として確立しており、広く愛唱されている。愛唱されると
いう点では、シューベルトの「さすらい」をはるかにしのぐ。家の外で、たとえば野山への徒歩
旅行などで歌われる機会も多い曲である。本稿に引用したツェルナーの楽譜が「民謡集」からの
ものであることを考えても、この曲が民謡として知られているのは明らかであろう。
それに対して、シューベルトの歌曲「さすらい」が「民謡」として紹介されることは、まずあ
りえない。その理由の一つは、現代にも通用する都市性を内包していることにある。
3 都市型「さすらい」の構造
シューベルトの作曲(次頁)5 であるが、シューベルトの「さすらい」もまた、作曲形式とリ
ズムはツェルナーと共通しており、素朴で民謡風の印象を与えるものとなっている。作曲形式は、
最も基本的な歌曲形式の有節形式に従っている。6 この有節形式に従うことによって、素朴な民謡
調をかもし出すとともに、くり返し続く〈さすらい〉の永続性を意識した。
シューベルトの「さすらい」は、演奏に際し、詩節の内容に応じて、歌い方とピアノ奏法に工
夫を凝らしたものが多い。それは、5 回もの反復による単調さを避けるための工夫の一つである。
たとえば、第 1 節で歌、伴奏ピアノとも基本的な演奏を示した後、第 2 節でピアノがレガートで
滔滔たる水の流れを、第 3 節では強調して水車の軽やかさを模し、第 4 節では、歌も伴奏も力強
く石臼の重量感を表現し、そして第 5 節で、あらためて〈さすらい〉のすばらしさを認識して「お
おさすらい」と、感激にひたる気分を描写する。そのように、あるときは強く、あるときは軽快
に、あるときは伸びやかに、意図的にそうするにせよ自然にそうなるにせよ、内容の変化に対応
しているのである。
ツェルナーの作曲と対比して顕著に認められる相違は、ピアノのパートの充実である。シュー
ベルトのほうは、この伴奏によって、ともすれば有節形式の歌に起こりがちな単調さを免れると
ともに、より強く描写的な世界を形成している。その例をいくつか列挙してみる。
まず、上声部(ピアノの右手のパート)は、旋回する動きを見せる分散和音が小川のせせらぎ
を表す絶え間ない川の流れと水車の回転を描き、ときおり重音がきらめいて、水車が撥ねる水の
しぶきをイメージさせる。第 13-14 小節において旋律がやや単調さを帯びて停滞感を出している
が、この部分に対応する詩の第 3 行と第 4 行は、若者の抒情的な「喜び」
「叫び」から離れて、落
ち着いた説明的な場面である。若者が足を止めて冷静になっている場面に、旋律の停滞感が対応
しているのである。次に、下声部(ピアノの左手のパート)が担当する低音は、主として B(
「シ・
フラット」
)と F と(
「ファ」
)の規則的なオクターヴ跳躍(8 分音符)で若者の足取りを描いてい
る。このように、より描写的な世界が築かれ、絵画的なイメージが形づくられている。
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絵画的なイメージは形ある具象的なものの存在を連想させるが、実際には、この「さすらい」
は抽象的な次元で起こっている。そのことを示すものとして、2 つの「非現実な要素」がある。
それは〈終わらない〉構造と〈歩けない〉構造である。
〈終わらない〉構造が示しているのは、ピアノだけの部分、4 小節のまとまり(曲を開始する
とともに節と節をつなぎ、かつ全曲を閉じる前奏兼間奏兼後奏の 4 小節のまとまり)における曲
の終わらせ方と、歌の歌い終わらせ方である。
曲が終わる形というのはある程度決まっているが、その代表的なものは、小節の 1 拍目、アク
セントをもつ 1 拍目に主音(この曲の場合は B=シ・フラット)を置く形である。それによって、
曲の終止感が得られるのである。ところがシューベルトは、歌の終わりに際しても、曲を閉じる
ピアノの部分においても、アクセントのあるはずの 1 拍目に主音を置かずに、アクセントのない
2 拍目に主音を置いている。終わり方として弱いわけである。終わっているのか終わっていない
のかよく分からない。終わりつつも、まださらに続く印象を作っている。また、このピアノの低
音部分は|BB|FB|BB|FB|の形であるが、はじめの|BB|の直後に期待される和声進行は
|BB|の反復である。しかしその期待に反し、突如 F が現れ、|FB|となる。この意表をつく
F と、既述した 2 拍目で終わる唐突さが、驚きと新鮮さを作り出し、再び一から歩みだそうとす
るエネルギーのもとになっている。さすらい続けようとする音楽である。これが〈終わらない〉
構造である。
ツェルナーの作曲では、第 1 拍目に主音を置いて曲を閉じる。節が終わるたびに曲がいったん
終了する。
「さすらい」は 5 節あるので、5 回曲が終わるのと同じである。
〈さすらい〉という行為においては、具体的な目標に向かって進み、そこに到達すると歩みが
止まる、終了するのであるが、これは現実的である。くり返し、くり返し、果てしなく進み、止
まろうとしないのは、歩みの印象を強めてはいるのだが、もはや形而下ではありえない抽象的な
出来事である。
さて、次にもう一つの非現実の要素〈歩けない〉構造についてであるが、
「さすらい」というか
ぎりにおいて、シューベルトの場合もまた、ツェルナーの作曲のように、郊外で、歩きながら歌
う歌のように思われるかもしれない。しかし、シューベルトの音楽で歌いながら歩くということ
は現実的にほとんど不可能である。
まず、素朴な民謡調の印象とは裏腹に、歌うこと自体が困難である。歌手は、稲妻型の高低差
の大きい旋律線をこなさなければならないため、息が抜けない。歩いている場合ではない。歩き
ながら歌うには、要求される歌の技術と精神の集中力があまりにも高すぎるのである。
次に、歩いて歌うためにはピアノを随伴できないわけであるが、すでに考察したとおり、歌曲
「さすらい」はピアノが大きな役割を担っている。ピアノを外して歌えば、水車のイメージを喪
失し、小川のイメージと歩行のリズムが減殺されてしまう。また、歌手は本来あるはずの間奏と
休符の間、時間を計ってじっと待たねばならず、それは重苦しい時間の経過となる。
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さらに決定的であるのは、シューベルトの作曲した「さすらい」と実際の歩みのテンポには、
ずれがあるということである。歌のテンポに歩みを合わせるならば、“wandern”という(walking
に相当する速さの)言葉から程遠く、遅すぎる歩み、または駆け足になるであろう。逆に、実際
の歩行のテンポに歌を合わせても、同様に歌が速すぎる、または遅すぎる印象を受けるはずであ
る。ツェルナーの「さすらい」は、
「実際に歩く」ことのできる、または愛唱することを前提とし
たものであったが、シューベルトの「さすらい」は、都会の一室にたたずんで歌われるものであ
り、耳を傾けて、広がる絵画的イメージを連想し、
「あたかも歩くかのような」世界を心で体験す
るものである。現実のさすらいという行為にいざないはしない。これが、
〈歩けない〉構造のもつ
意味である。
〈終わらない〉構造と〈歩けない〉構造、これらが「さすらい」の抽象化をもたらしている。
そして、まさにそのことによって、都市の姿が描かれているといえるのである。
語源的にも、
「さすらう wandern」は、元来、たとえば狩猟において獲物を求めて歩き回るこ
とであったわけであるが、近代都市においては本来の目的を失い、動き回ることそれ自体を意味
するようになった。なるほど近代都市においても、公園や郊外の散策といった “wandern” に近
い歩行が見られる。しかしかつての狩猟において “wandern” が生存を賭けた切実な行為であっ
たのに対し、公園や郊外の散策は、ある意味での余剰から生み出されたものであり、明らかに異
質なものである。このように、生存のために必要不可欠であった行為の実質が抜け落ちて、仮象
化してゆくことは、近代都市のさまざまな局面において認めることができる。
シューベルトのさすらいは、こうした近代都市的な性格を先取りしている点があると考えられ
る。たしかに、シューベルト自身、しばしばさすらい人にたとえられる。それは実際に旅をした
からではない。シューベルトはどこかの楽団の楽長職に就いたわけではなく、パトロンの庇護を
受けていたわけでもなく、自由に作曲活動を行いながら、生涯定職に就くことがなかった。住む
場所も、友人や兄の家を転々として定住することがなかった。彼がさすらい人といわれるのは、
そうした理由からなのである。
しかしながら、もしシューベルトを「さすらい人」と呼ぶのが妥当であるとすれば、表面的な
伝記的事実からというよりも、これまで述べてきたように、「さすらい」の近代都市的なありかた
を表現したことによると考えるべきであろう。もちろん、シューベルトの音楽はこうしたあり方
を表面的に表したにとどまるのではなく、さらに、深く普遍的な表現に到達したのであり、それ
が彼の芸術の真価となっているのである。しかしこれまで見てきたような近代都市の抽象性を示
しているのは、紛れもない事実であると思われる。
〈終わらない〉構造と〈歩けない〉構造がもた
らす「さすらい」の抽象化は、それを端的に示しているのである。
注
1
不特定多数の聴衆に切符を販売する今日的なスタイルの音楽会が確立するのは 1870 年ごろであると言
われる。渡辺裕『聴衆の誕生』 春秋社 2004(初版 1989)年、14~20 ページ参照。
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なお、シューベルトの最晩年の 1828 年、最初で最後のシューベルトの作品だけによるコンサートが開
催されたが、聴衆は友人だけであった。
2
ミュラーの詩集は 25 篇の詩から構成されていたが、シューベルトは、このうち、プロローグとエピロ
ーグを含む 5 篇を外し、20 曲からなる連作歌曲集とした。
3
Thrasybulos G. Georgiades: Schubert. Musik und Lyrik. Göttingen 21979, S. 220.
4
Walter Hansen (hrsg.): Das große Hausbuch der Volkslieder. München 1991, S. 150.
5
Dietrich Fischer-Dieskau (hrsg.): Schubert. Lieder. Neue Ausgabe. Bd.1. Edition Peters. Frankfurt
6
有節形式は、詩の第 1 節につけられたメロディーを後続する詩節にもそのまま適用し、2 節、3 節……
am Main 1985, S. 4f.
と同旋律をくり返す作曲形式である。
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