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扉・目次・はじめに v605 石.indd

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はじめに
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はじめに
一九五六年、北ローデシア(現在のザンビア共和国)のとある村で、ひとりの女が部族の長老たちで構
成される地元裁判機関に出向いて、結婚生活をまともな状態に戻してほしいと訴えた。夫婦関係はぼろぼ
ろ、この数カ月のうちに、夫婦ともども性病と診断されていた。夫のほうは妻にうつされたと言うし、妻
のほうは自分は悪さをしていないから夫のせいだと責める。夫が刺してやると口走ったこともあれば、さ
らにたちの悪いことに、呪いをかけてやると脅したこともあった。それでも、その程度でとどまっていれ
ば裁判を求めるまではいかなかっただろうが、ある日、妻が裁判機関に駆け込まずにいられないほど破廉
恥で耐えがたいことが起きた。夜明けに目を覚ましてみると、夫が乳房を口に含んでいたのだ。妻は夫か
ら呪ってやると脅されたことを思い出して、震えあがった。
聴聞会が開かれ、長老のひとりが夫に尋ねた。「妻の乳を吸っているあいだ、何を考えていた? 幼子
に帰っていたのかね、あの子[室内の赤ん坊を指さして]のような?……なぜそんなことをした?」
亭主の返事のせいで、さらに事態は悪化した。「愛情です」と、答えたのだ。
長老はいぶかしんだ。「愛情とな! おまえは変わり者とみえる。妻が眠っているあいだに、そんなか
たちで愛情を示すとは」長老と夫のあいだでしばし押し問答が続いた。わが妻にやさしい気持ちを表現し
ただけだと言い張る夫に対して、長老のほうは、男が妖術を使ったのではないかという疑いを深め、最後
にはこう言い渡した。「いやはや……このままおまえを奥さんのそばに置いておいたら、いつか殺そうと
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するかもしれない」。その夜、妻の身柄を警察に保護させたうえで、引きつづき審理が行われることになっ
た。
二〇世紀半ばの北ローデシアで、裁判機関の介入を必要とする諍いは、その一件にとどまらなかった。
やはり妻の乳房を吸った別の男は、そのせいで不妊症になったと妻から責められていたし、夫にクンニリ
ングスや睡眠中の性行為をやめさせたいと裁判所を頼る妻は引きも切らなかった。また、賭け事のお守り
として生理用のナプキンを盗み出したとして訴えられた夫たちもいた。部族の長老たちはこうした訴えを
大まじめに取りあげた。彼らにしてみると、眠っている女性を抱くのは死体とセックスするのと同じだし、
いついかなるときであろうと女の乳房を吸うのは子どもと大人の役割をあやふやにする行為であった。ま
た彼らの社会では、月経血を吸収したナプキンは、ただの布きれではなかった。恐るべき繁殖力を秘めた
布として、善悪どちらの用途にも用いることができた。そうした布を賭け事のお守りにするとは、宇宙の
生殖力を粗末に扱うことだ。こうした背景がわかれば、乳房を吸う夫を妻に近づけないよう見張りを立て
るという部族の裁定が、最悪の事態を避けるための合理的な反応であることが理解できる。
しかし部族の裁定を再検討した英国植民地政府の役人たちは、こうした彼らの考えをまったく理解して
おらず、婚姻関係にある男女のセックスは当事者夫婦にのみかかわりのあることなので裁判所の介入には
なじまないとして、そうした訴えをはねつけることが多かった。性的な快楽を求めて睡眠中の妻の体を楽
しむのは、夫たるものの当然の権利であり、夫が暴力を用いないかぎりは、法の立ち入る余地はないとし
たし、魔力や呪いや運といったものについても、どれも古臭い迷信として、重要な意味を認めなかった。
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北ローデシアの地元裁判機関は、ヨーロッパ人はこうしたケースをもっと深刻に受け止めるべきだと申し
立てたが、そうした抗議が聞き入れられることはなかった。
はじめに
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性的な事柄に対して法律がどうかかわるべきか、見解の対立によって火種となりうるのがこうした事件
である。北ローデシアの住民にしてみたら、これはたしなみとか平等とか、あるいは道徳の問題ですらな
い。セックスとは天と地を動かす内在的な力のひとつであり、実施方法をあやまれば災難を招き、その害
は万人におよぶ。そうしたセックスを禁ずることは、社会全体を破滅から守ることだった。
―
この哀れな夫婦を冷笑する人がいるといけないので、ここである事実を確認しておきたい。それはセッ
少なく
クスと法律に関しては、〝現代的〟見解と〝原始的〟の見解のあいだにそう違いがないことだ
とも、彼らのことを見下せるほどの違いはない。どんな時代、どんな場所でも、セックスと訴訟は切って
も切れない関係にあり、どんなにささやかな性的逸脱でも、だいたいはなんらかの法的介入を受けてきた。
北ローデシアで夫を訴えた妻は、植民地時代末期の司法の網の目からこぼれ落ちた。一九五六年の段階
で西欧社会が性的な事案に対してもっていた規範では、彼女の訴えをすくい取れなかったのだ。これがも
し何世紀か前のヨーロッパであれば、当時はまだ裁判所が房事に口を差しはさんでいたので、彼女ももっ
と親身に話を聞いてもらえただろう。ヨーロッパには、性に関して魔術を用いたとして婚姻中の男女が訴
えたり訴えられたりする記録がたくさん残されている。そうした逸脱者を罰した判事は、神の怒りから社
会を守るために必要な措置だったと自分たちの決定を正当化することが多かった。現にルネサンス時代の
ヨーロッパでは、婚姻内外を問わず何十という性行為が神の天罰を招くと信じられていた。性的な言動は
社会全体の問題だった。たとえ一個人の過失であっても、過失の程度によっては、戦争や飢餓や、人々を
地獄に突き落とす天罰を招くとされたからだ。
もうひとつ言うと、前述した北ローデシアの男女が、既婚にしろ未婚にしろ学生同士として今の合衆国
の大学に通っていたとしたら、妻の訴えは真剣に聞き入れられた可能性がある。中等後教育を受け持つ教
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育機関には、学生たちの性行為を管理するために細かな規則を導入しているところが多く、献身的な異端
審問官さながらの熱心さで学生たちにそうした規則を守らせようとしている。ゲティスバーグ・カレッジ
が二〇〇六年に発行した学生便覧では、セックスは例外なく〝合意のもと〟であることを求めるとし、合
意の定義として、「自発性をもって、特定の性行為に対して言葉で同意を表明する(たとえば、『いいわ』
と言うなど)
」と明記している。また、睡眠中の相手に性的な興味をもって触れることもあわせて禁じて
いる。したがって、眠っている女性に「性行為をしかけたい」男性は、まず相手の女性を起こし、適切な
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判断力が戻っているのを確認したうえで、(たとえば)「胸を吸ってもいいかい?」と尋ねなければならな
い。そうした手続きを踏まなければ、彼は学校から追い出され、警察に通報される憂き目に遭う。
アンティオク・カレッジの二〇〇六年版・性犯罪防止方針にも、同様の規則が記されているが、こちら
はさらに具体性がある。「誘いにのってダンスフロアに出たからといって、それ以上の性的な行為に同意
したわけではない」とし、体の動きや「うめき声といった非言語的な反応」も、やはり同意を意味しない
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と注意をうながしたうえで、眠っている人、酒や薬に酔っている人、「精神的な健康」に支障をきたして
いる人とのセックスを禁じている。
アメリカの大学がセックスに関して掲げている行動規範はあまりに杓子定規で冷笑の的になっているし、
や ゆ
大学の懲罰委員会は安易につるしあげをしすぎると揶揄されているが、そうしたものがなくなるきざしは
その
なく、むしろ性的不品行の訴えをより柔軟に取りあげる場になってきている。アメリカ政府が二〇一一年、
―
立証した場合は、その言い分を認めるべしという通達を出した
セクハラ訴訟を起こされている公立大学に対して、被害者がセクハラの事実を〝証拠の優越〟で
―
優越がわずか一パーセントであろうと
が、セクハラが実際にあったかどうかを見きわめる(合衆国の刑事法廷での立証基準は〝合理的な疑問を
はじめに
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残さない程度〟とされる)には、関係者間の力関係を見きわめるという困難な作業が不可欠なことが多い。
デューク大学の規則は、「強要の空気が生まれかねない関係が現実にある、あるいはあると感じられる」
場合は、性的な不品行がありうるとして、線引きをさらにむずかしくしている。こうしたことが前提となっ
た場で、どうしたら正当な判定などできるのだろう。
どんな場にしろ、性的な対立を解消する主たる手段が法律であることに異論を唱える人はいないだろう。
現代西欧社会では、性的行為に関して移り変わってゆく規則を破っても魔術を行ったとして責められるこ
とはないが、それでいて実態は似たり寄ったりのことも多く、どれほど地位の高い人物だろうと、一般に
通用していない性行為に走れば、法によって公衆の面前で悪魔として断罪される危険と隣りあわせにある。
思い浮かべてもらいたい。ある行為を自分の地位に見合った既得権だと思い込み、それを行使しているの
がばれた横柄な男たちを。フランスの著名な経済学者にして政治家のドミニク・ストロス=カーンが、ニュー
ヨークのホテルのスイートでアフリカ移民の客室係に性的暴行をはたらいたとされる事件は、あれよあれ
よという間に国際的な事件となり、とりわけフランスにおいてはどこまでが階級特権となりうるかがさか
んに論じられた。ビル・クリントン大統領は、別件のセクハラ裁判の過程でホワイトハウスの実習生との
あいだに情事があったことが暴露され、一九九八年に合衆国下院議会から訴追された(ただし、上院の弾
劾裁判では無罪判決を受けた)。ポーランド系フランス人監督のロマン・ポランスキーは、よく知られて
いるとおりカリフォルニアで一三歳の少女と性交して有罪判決を受けた一九七八年以来、逃亡生活を続け
ていたが、二〇〇九年に合衆国当局の求めに応じたスイス当局によって逮捕されると(のちに釈放された)、
ふたたび犯罪的な性的逸脱行為のシンボルとして脚光を浴びた。たとえ有力企業だろうと、偶発的に起き
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た違反行為で目をつけられることがある。二〇〇四年のスーパーボウルで、テレビ放映中に歌手のジャネッ
ト・ジャクソンの胸が一瞬あらわになったときは、結果として試合を放映していたCBSに五〇万ドル以
上の罰金が科せられ、アメリカの放送電波における性的な〝品性〟をめぐるすさまじい法廷闘争がその後
数年にわたってくり広げられた。
セックスに関する法律は、すべてがそのときの状況しだいであり、一貫性を求めることはできない。ほ
んの少し状況が違えば、これまで挙げてきた事例はどれも議論の的にならなかっただろう。今も、ホテル
の客室係にセックスを強要したとしてストロス=カーンが収監されたことに納得できない人がおおぜいい
る。彼の弁護士のひとりは、たんにトゥサージュ・ドゥ・ドメスティック(〝召使いのスカートをまくった〟
といった意味)だけのことであり、大騒ぎするほどの事件ではないとした。不快なコメントではあるけれ
ど、歴史的な観点で見れば、そう言えなくもない。女性の家事使用人が主人の性欲を癒やすスナックとみ
なされていた時代が現にあったからだ。そうした女性たちは自分の肉体といえど自分の思いどおりにはで
きず、有力者から犯されたと訴え出ても、警察や裁判所から取りあってもらえなかった。後日談を述べて
おくと、ストロス=カーンに対する訴えは取り下げられた。これは告発者の過去に疑問が生じたからだが、
―
そしておそらくこれをお読みのあなた方も
彼女の主張どおりストロス=カーンが強姦したかどうかという点は明らかになっていない。もし彼がこの
そんな男は化け物だと思うだろう。だが歴史に照らしてみるとそうした見解のほうが例外であること
女性に暴力をふるったのなら、これを書いているわたしは
―
は、覚えておいたほうがいい。
ジャネット・ジャクソンの胸が一瞬、露出された件についても、これが主要テレビ局の放映でなく、ケー
ブルテレビのみ、もしくは劇場公開用の映画であれば、罰金が科せられることはなかっただろう。ジャク
はじめに
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ソンの〝衣装の不具合〟が起きたとき、権力の座にあったのは超保守的な政府だった(スーパーボウルの
スピリット・オブ・ジャスティス
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少し前に、ジョン・アシュクロフト司法長官は、何十年も前からこれといった騒ぎもなく司法省の大ホー
ルに飾られてきた 正 義 の 精 神 と呼ばれるアルミニウム製の彫像の胸をおおうドレープを注文した)。ビ
ル・クリントンは不倫に走ったはじめての大統領ではないが、セクハラで訴えられたのは今のところ彼ひ
とりだし、不貞行為に関する偽証のせいで弾劾を求められるという災難に遭ったのも彼だけだ。
ポランスキーの場合は、彼が法律上、最悪のタイミングで訴えられたことは、ほぼまちがいない。彼が
少女とセックスしたとき、カリフォルニア州では承諾年齢未満の少女との性交は重罪、しかも深刻な罪だっ
た。これが一世紀かそこら前なら、カリフォルニアにおける性行為の承諾年齢は一二歳だったし、イング
ランドが一三歳、デラウェア州にいたってはなんと七歳だったから、彼も法律違反に問われずにすんだ。
承諾年齢が引きあげられてからも、有罪となった男に懲役を科す判事はめったにおらず、被害者の少女の
ほうが妖婦の烙印を押されることが多かった(とはいえ、ポランスキーは承諾年齢未満の少女とセックス
した罪だけで告発されたのではない。少女がポランスキーに薬物を使われて脅されたと証言しているから
だ[彼はこの申し立てを否認している]が、過去三〇年にわたって彼が追われつづけたのは、承諾年齢の
問題だった)
。
通常は、文化的に別の価値観があったとしても、性犯罪を犯したときに罰されるリスクが減ることはな
い。たとえば最近もカリフォルニアのある男が一二歳の少年ふたりとセックスしたとして、懲役一五二年
5
の判決を受けた。このケースの場合、パプアニューギニアの特定の部族では少年は同性愛経験を経ること
で立派な成人男子になれると考えられているという証拠が提出されたとしても、被告の有利になるとは考
えにくい。それにどの裁判文書、どの法律、ゲイの結婚に関するどの新聞の社説を見ても、スーダンのア
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ザンデ族には少年が兵士と結婚するのを奨励する伝統があったことを指摘した箇所はやっぱり見つからな
いはずだ。性に関する西洋の法律では、非キリスト教圏の習慣は不適切とみなされている。厳格すぎるか
らではなく、厳格さに欠けると考えられているからだ。それでいて、西洋の識者たちはイスラムの既婚女
性が不倫の罪で投石による死刑に処せられるとおおいに憤慨するが、なんと旧約聖書(申命記二二章二二
節)のなかにも不義を犯した女性とその愛人の双方が死刑に処せられたという記述はある。本書が印刷に
まわされた二〇一二年初頭時点で、アメリカで同性婚が認められているのは八州とコロンビア特別区のみ
であり、テネシー州の州議会では州内の小中学校で同性愛について言及することが合法かどうかが議論さ
れている。
有史以来、その最初期の段階から、立法者たちは性による快楽の範囲を定めようとし、その手段として
制限や刑罰を駆使してきた。メソポタミアでは浮気をした妻たちが串刺しにされたまま時間をかけて殺さ
れ、合衆国ではオナニーを理由に断種が行われた。どの時点をとっても、あるかたちのセックスと性的関
心が奨励されるいっぽうで、ほかのかたちは容赦なく処罰されていた。一、二世紀ずれるか国境をまたげ
ば、罪のない楽しみでしかない行為が、ほかの社会では重大な犯罪となりうる。この本ではそうした事例
を取りあげる。
わたしは最初、もっと範囲を広くとって調査に取りかかった。人目を惹く特異な事件を例として挙げ、
西洋の法律一般の歴史をたどるつもりだった。それで古代近東でつくられた最古の法令集を検討しはじめ
たところ、最初の立法者たちがセックスの問題にとらわれていることがわかった。法令集のいたるところ
に、豚や雄牛や売春婦や家族のほかのメンバーと性的にどういう関係を結ぶべきかを定めた規則が記して
はじめに
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あったからだ。けれど明らかに性に関する管理は今より細かいのに、意外にも同性とのセックスについて
は規定がなかった。同性愛は、のちにヘブライ人によって恐ろしい罪というレッテルが貼られるまで、法
律上、まったくといいほど無視されていた。また、ときにはセックスそのものが処罰として使われていた
のもわかった。強姦の罪に問われたアッシリアの男の妻は、夫の犯した罪を償うために強姦されたし、エ
ジプトで土地の境界標識をいじった男は、妻子を差し出してロバの荒々しい愛情を受けさせなければなら
なかった。
こうして、調べはじめるとすぐに、性に関する法律は性衝動そのものと同じように激烈かつ一貫性に欠
けることがわかった。それだけでも、興味深い本が一冊書ける。埃をかぶった書物を読んでいると、そこ
から血の通った、それこそ生身の人間を感じさせる事例が、人に伝えてくれと身を乗り出してくるようだっ
た。 そ こ で わ た し は、 エ ヴ ァ・ カ ン タ レ ッ ラ(『 古 代 社 会 に お け る バ イ セ ク シ ャ ル( Bisexuality in the
)』) や、 サ ラ・ B・ ポ メ ロ イ(『 女 神 と 娼 婦 と 妻 と 奴 隷( Goddesses, Whores, Wives, and
Ancient World
)
』
、ジェームズ・A・ブランデージ(『中世西欧における法とセックスとキリスト教社会( Law, Sex,
Slaves
)』)といった現代の歴史学者の研究成果と原典の翻訳を土台とし、
and Christian Society in Medieval Europe
リ ビ ド ー
法律と性衝動を軸として、西洋文明の物語を組み立ててみることにした。
章立ては時代ごとにおのずと決まった。問題はどこで終わりにするかだった。歴史のどの時代をとっ
て も、 ひ と つ の 時 代 の 終 わ り と つ ぎ の 時 代 の 始 ま り を 宣 言 す る よ う な、 は っ き り と し た 儀 式 な ど 存 在
グ ロ ス ・ イ ン デ ィ ー セ ン シ ー
し な い。 そ こ で か な り 恣 意 的 に、 一 九 世 紀 末、 オ ス カ ー・ ワ イ ル ド が 若 い 恋 人 の ひ と り と
「はなはだしくみだらな行為」をはたらいたとして投獄された事件をもって、本稿の考察を終えることに
した。これ以上時代を下ったら、騒々しい最近の事例で先祖たちの声がかき消されてしまいそうだったか
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こんにち
らだ。論点を明らかにするため今日的な問題についても随所で触れるものの、怒濤の二〇世紀と二一世紀
について詳しく考察するには、べつにもう一冊いるだろう。
いずれにせよ、遠い過去の経験が、現在の論点をいやおうなくあぶり出してくれる。とりわけ性と法律
に関してはその傾向が強い。たとえば、合衆国をはじめとする各国の裁判所や立法機関で取り沙汰されて
には、キリスト教でも世俗の法でも同性同士の結婚が認められていたことがわ
誰ひとりとして同性愛のことをミシェル・フーコーの言うところの〝魂の半陰陽〟とはみ
いる同性愛者の結婚についても、論争に参加するすべての人が歴史的にもみずからが正しいと訴えている
―
が、遠い昔
―
なしていなかったころ
かれば参考になるはずだ。同じように〝わいせつな〟映像を放映する件についても、テレビ局に罰金を科
す前に、いかにして統治者がわいせつ物を管理するようになったのか理解しておいて損はないだろう。露
骨な性表現も、印刷術の登場によって大衆の手に渡るようになるまでは、規制を受けていなかった。立法
者や法の執行者たちはつねにすべてのわいせつ物に触れられる立場にいた。そして、ストロス=カーンや
ポランスキーのようなやからを時代遅れのクズと切って捨てる前に、彼らのような性犯罪者がなぜ生まれ
たのか、その法律的、宗教的な背景を知っておくことには意義がある。
レイプや不倫、近親相姦などなど、性にまつわる法律に引っかかってくる事柄はどれも、人類の誕生と
ともに始まっている。変化しているのは、人々が自分や他人の身体を律するために用いる方法なり、そう
した方法を選んだ理由のほうなのである。
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