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6月号(No.348) - 京都大学生活協同組合

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6月号(No.348) - 京都大学生活協同組合
ていよう
綴葉
'16
6
No.348
あなたが創る生協の書評誌
▶
話題の本棚
多和田葉子著
『聖女伝説』
永井 均著
『存在と時間 哲学探究1』
特集/身体
新刊コーナー/新書コーナー/私の本棚(新しい中国古代史・
「幸福論」)
〒606-8317 京都市左京区吉田本町
Tel:771-6211 / E-mail:[email protected]
綴葉HP: http://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/
京大生協綴葉編集委員会
話題の本棚
文字と声 の 増 殖
聖女伝説
ろう。〈アメーバっていう言葉を聞いた時、アーメンっていう言葉、
思い出さなかった?〉、〈カクテルのカクは字を書くのカク、テルは
電話のこと、つまり、手紙書いたり電話したりってこと〉。ストー
リーが進むというより、言葉ひとつひとつの語感と連想が結びつい
て、それこそアメーバのように増殖していく。
覚とか何かが抑圧されるとか、外界の、私のいわゆる敵と言っては
多和田葉子著
ちくま文庫
ページ番号の振られていない紙面に、よどみなく、一人の少女の
戦いが記されている――長らく絶版だった本書が、ページ番号つき
おかしいですけれども、私をおさえつけてくるものも言葉という形
多和田は出版当時、雑誌のインタビューにて次のように答えてい
る。「私は一方で言葉がすごく嫌いで、言葉があるために自分の感
の文庫版で蘇った。
たいという願望はあるんですけれども、その願望があるからこそ、
しく聖書を思わせる。意味の分からない文章を作り上げて、相手を
話の筋書きはきわめてシンプルながら、その構成や登場人物はまさ
ないという言葉は頭の中から消えていました。高さの感覚がなくな
界から逃げ続けた果てに、「わたし」は窓から転落してしまう。「危
た言葉」によって身を翻えられるのも時間の問題だ。追し寄せる世
やはり言葉でやるしかないというふうになるんですね。(『文藝 一
九九七年春号』)」。愛憎半ばの執着というべきか。しかし、「おどけ
をとって攻めてくるので、できることなら言葉じゃない世界に逃げ
登場人物は、「わたし」と両親、家にやってくる「鶯谷」という
不気味な男性、日曜学校で聖書を教える「孔雀先生」、聖者になろ
惑わし、「イエスもこんな風に答えたんだと思って、わたしは満足
うとした女性「イザベル」の名前を付けられた図書館の司書など。
感を覚えました」。
っていたのです」。校舎の窓から地面まで、まばたきを許さない、
ページ分の圧巻のラストが待ち受ける。
不器用ながらも、機転と言葉を用いて世界に対峙する姿は、野溝
七生子の『山梔子』を彷彿とさせるし、聖人を生むのではなく、自
ら聖女となることを望み、言葉を失った状態=「美しい死体」とな
二人の女性の掛け合いのうちに、あざやかに描き出される。声が世
後半の書き下ろし「声のおとずれ」は、一転して、盲人の女性と
「わたし」をめぐる物語だ。見えることと聞こえることの対照が、
る。時間を越えて一貫した世界観に浸ってほしい。
(二八二頁 税込九二九円 (貝殻)
月刊)
界をつくり、変化を与える。言葉を武器とし、さらに言葉に制され
ることを拒み続ける姿は、フェミニズム文学にさえつうじるかもし
画すのが、徹底した言葉へのこだわりによって構築された文章であ
3
真希著『少女のための秘密の聖書』など、一連の著作に引き継がれ
ているように思える。しかし、本書が時代を前後する作品と一線を
れない。また、少年少女を主人公とした聖書の再演は、後の鹿島田
20
2
話題の本棚
語りえないものを示すために
存在と時間
哲学探究1
永井 均著
文藝春秋
本書の前半部では、こうした例外的な〈私〉の存在のあり方が、
様々な思考実験を通して検討される。例えば、私が二人に分裂した
としたら、どちらが、あるいはどちらも私といえるのか。永井均の
意識を安倍晋三に移動させられるとしたら、永井は安倍になること
はできるのか。SF的にだけ楽しまないように、と著者は注意する
が、本書で検討されているのが現実の世界のあり様である以上、あ
著者にとっても未開拓の領域らしく、著者も釈明するように、執拗
本書の後半部では、前半部を踏まえつつ、時間の問題へと歩が進
められる。そして、〈私〉と〈今〉の同型性と異型性が検討される。
る意味SF以上に興味深く、また奇想天外である。
のだ。評者は哲学徒ではないので、本書がタイトルに見合う学術的
なまでの思考実験と類型化の連続で、正直、評者は迷路に迷い込ん
まず、タイトルがものすごい。哲学の伝統を一新したハイデガー
の主著とウィトゲンシュタインの主著のタイトルが並べられている
価値をもつかは正直よくわからない。しかし、タイトルに見合う期
でしまった。しかし、おそらく焦点になっているのは、「動く現在」
待を裏切らない大著であることは自信をもって言える。
く、脳があれば意識が生まれるのに、なぜ実際に意識できるのはい
のような一般的な関係にあるかを問いたいのではない。そうではな
永井が問おうとしているのはそういう問題ではない。脳と意識がど
レム」に取り組んできた哲学者ならそれに反論するだろう。しかし、
私の意識はどのように存在するのか。意識は脳がつくっている、
と常識的見解なら答えるだろう。そして、「意識のハード・プロブ
永 井 均 は 長 年、 哲 学 の 難 問 の 一 つ で あ る 意 識 の 問 題、 と り わ け
〈私〉の不思議な存在のあり方について探求してきた。
を目指す「生きた哲学」。いや、どこまでも自らの疑問に正面から
反復ではなく、彼らと同じ土俵で生の問いを発し、新たな知の創造
内 容 の 他 に も、 随 所 で 示 さ れ る 永 井 の 哲 学 観・ 学 問 観 や、 教 え
子・風間くんとの対話は、ぐっとくるものがある。巨匠たちの知の
それを「示す」ことはできることを本書は実演しようとする。
えない」。しかし、この「語りえないもの」と苦闘する中で(のみ)、
著者も強調するように、〈私〉も〈今〉も、同じ形で存在する他
のものなどどこにもない以上、「実在」しないし、言語では「語り
きないのに〈今〉は移動しうるのはなぜか、という点だろう。
と「動かない現在」の矛盾をどう捉えるか、〈私〉は他者に移動で
つも一つの意識だけなのか。誰でも殴られれば脳のある部位が反応
挑む誠実さと執拗さ。学問の原像を見た気がする。
ゲスの極み乙女風に言えば、﹁私以外私じゃないの﹂はなぜか?
して痛みを感じるのに、現実に殴られて痛いのはなぜ「この私」一
(れくた)
月刊)
(三三二頁 税込一九四四円 3
人だけなのか。これである。著者によれば、この根本的に重要な問
題は哲学の歴史の中で決定的に見逃されてきた。
3
(ミント)
しむ契機にしませんか。
2016. 6. 10
綴 葉
特集
身 体
大きい、小さい、重い、軽い。人それぞれ違
う身体ですが、偶然的/必然的に与えられ、生
まれてから死ぬまでを共にするかけがえのない
ものです。今月は身体について知見を広め、リ
ラクゼーションを体験し、身体のこれからを慈
会にコミットしながら、自分自身を構成して
に晒される身体。私たちは、身体を用いて社
とでも言おうか。自分を構成しながらも外界
「 体 」 と 違 い「 身 体 」 と い う 言 葉 に は、 微
妙なニュアンスがある。世界を経験する媒体
究の意義を活かしつつ、学術的な方法論と接
価との相性は良くない。本書では、当事者研
り"を解き明かす姿勢は、一方で科学的な評
析の俎上に上げる。客観的に名付け難い"困
など――とうまく付き合うために、自身を分
原 孝 二 編『 当事 者 研 究 の 研 究 』( 医 学 書 院 )
だ。様々な障害や病――発達障害、脳性まひ
コミットする身体
いるのかもしれない。
社会と自己との橋渡しは、スムーズにいく
ことばかりではない。うまくいかない身体と
その手法さえバリアフリーだ。
の症状に言葉を与え、自身の症状を知る――
ない者に語り出す」ことを目的とする。自身
合 し、「 理 論 化 ま で も 志 向 」、「 体 験 を 共 有 し
うまくいかない身体
いってまっさきに想像されるのが、障害を持
は、障害の重さと生活での困難が比例してい
つ身体ではないだろうか。
るように考えがちだ。しかし、必ずしもそう
一方、秋風千惠著『軽度障害の社会学 異
化&統合を目指して』(ハーベスト社)では、
合っていくもので必ずしも排除されるべきで
であるとは限らない。他の人々に障害を明ら
身体と社会の食い違いを回避し、障害を持
つ人もなるべく困難を感じないように社会を
はない。当事者研究とは、このような背景か
かにするかどうか、障害者手帳を取得するか
健常者ではないが相対的に程度の軽い障害を
ら、精神障害者の共同体「べてるの家」で生
どうかなど、軽度障害の人々は、自身が完全
整備する方法、いわゆる「バリアフリー」の
ま れ た。「 べ て る 」
な健常者でも、障害者でもない「どっちつか
人々の生きづらさについて検討する。私たち
のスタイルを引き継
ず」の苦しみを経験する。思うままにいかな
「軽度障害」と名付け、こうした障害を持つ
ぎ な が ら も、「 当 事
構築が目指されてきた。ただ、症状そのもの
者研究」を学問的に
い身体を抱え、健常者と同じ生活をしなけれ
を無化することはできないし、症状とは付き
発展させたのが、石
4
模索する。
ループ」と表現し、そこから降りる可能性を
が加速度的に求められる様を、秋風は「無限
ばならないこと。排除から逃れるための努力
類似していると思うのは考えすぎだろうか。
でいる。この円環、前述の「無限ループ」と
自身の主観と客観を統合する冷静な目が潜ん
んな自分を笑いものにしながらも、そこには
そうな美女へと変身を遂げる。七転八倒、そ
葉の領域から逃れられない。
ていく。この自分自身の身体さえ、知識や言
いつのまにか既知の事実として身体を規定し
語られる性差が、自分自身の身体とクロスし、
一時期世間をにぎわせた。科学的知識として
は自分自身の目が、身体をがんじがらめにし
とはいえ、身体と社会を隔てているのは社
会の構造や、人々の目だけではない。ときに
クを「性」というキーワードから切り込んで
版)では、割礼から恋愛まで、幅広いトピッ
一方、藤田尚志・宮野真生子著『性 自分
の 身 体 っ て な ん だ ろ う?』( ナ カ ニ シ ヤ 出
より良い社会について、考える意義もあるの
的なのかもしれない。だからこそ、少しでも
体が存在する分だけ、経験される社会も多元
齬を増幅させる装置ともなりうる。様々な身
身体はただの「肉体」ではなく、私たちの
世界や言葉と不可分だ。世界と自身の間の齟
隣の人と違う身体
てしまう ことさえある。「同じ」であるがゆ
い る。 例 え ば、「 男 脳・ 女 脳 」 に つ い て。 男
(貝殻
)
えに、所属集団のなかでわずかばかりの差異
だろう。
至上主義者にも、読書・映画・音楽等に耽る
文 化 至 上 主 義 者 に も 推 薦 で き る「 ス ポ ー ツ
スポーツを語るために
は言語伝達能力に長けているといった言説が、
を見出して、一喜一憂するのが人間のサガだ。 性は空間把握能力が発達しており、一方女性
自意識をめぐる悪循環、つまり「美人」像が
とは何か? 美意識過
中村うさぎ著『美人
剰スパイラル 』(集英社文庫)では、容貌と
曖昧としているがゆえに理想としての出口が
論」を扱った本を駆け足に四冊紹介したい。
いつまでも見つからないという問題だ。本書
スポーツを理論的
に「思考」すること
れた入門書だ。ジェントルマン階級の優雅な
は愚かなことかもし
ってきた中村。彼女の悩みは、自分の丸顔が、 した「実践」であるからだ。しかし、新聞の
余暇活動であったイギリスの近代スポーツと、
で は、 特 に「 美 人 と は 」「 モ テ と は 」 と い う
スポーツ欄・スポーツ雑誌・スポーツ番組等
メディアを媒介に熱狂的スペクタクルとして
核心的な 問いに着目し、「美意識過剰」の苦
で、スポーツを巡る言葉が日々過剰なまでに
大衆化されたアメリカの現代スポーツを対比
スポーツと社会
どうも他人にとっては「優しそう」、「かわい
再生産されているメディア環境に生きている
的に論じることを皮切りに、身体に於いて横
れない。スポーツと
い」と見られていた
以上、スポーツの歴史や本質について無頓着
しみを解きほぐす。かつてから美容整形手術
こと。自分の内面と
でいるわけにはいかないだろう。本稿では、
多木浩二著『 スポーツを考える 』(ちくま
新書)は、スポーツ論全体の見通しを持つ優
外面の不一致を「顔
溢 す る 力 を 特 定 の 規 則 体 系 の 下 で 抑 制・ 馴
は肉体の力を総動員
面同一性障害」と名
筋力の鍛錬と激しい運動に快楽を見出す肉体
を繰り返し、そのさまを数々のエッセイに綴
付け、あえて意地悪
5
綴 葉
No.348
2016. 6. 10
綴 葉
致・統治し、身体を競争用装置となすものと
リズム批評をアカデ
ーツと歴史
スポ
なる事柄を広く扱っている。
と社会・国家との関係を考える上でベースに
器の導入とドーピング問題等、特にスポーツ
クと愛国観念/脱国家性、競技記録測定用機
は少年期からサッカーが苦手で、本の世界へ
埋める信仰手段としてサッカーを捉える。彼
て距離を取りつつ、ファンの存在論的空虚を
るサッカー至上主義と動物的行動様式に対し
分析を解説している。エーコは、ファンによ
ベルト・エーコによる、サッカーの記号論的
ァンの盲目性に対する嫌悪感を公言するウン
ト リ フ ォ ナ ス 著『 エー コ と サ ッ カ ー』( 岩 波
書店)では、サッカーの無為性とサッカーフ
論・五回論・六人論・七対八論・九論、ある
随想である「一点論・二塁論・三振論・四番
道化的存在とした論考と、野球を巡る哲学的
まる」という反スポーツ的姿勢でプレイする
り、ファウルラインの外部の位置で「うずく
ン的性質をもつキャッチャー・マスクをかぶ
手を、パノプティコ
倒される。特に、捕
ら展開する様には圧
ミズムの遥か高みか
スポーツ概論を把握した後は、レイモン・
逃げ込んだ、というエピソードも興味深い。
に批評する方法を考えてみたい。ピーター・
ト マ 著『 スポ ー ツ の 歴 史 』( 文 庫 ク セ ジ ュ)
を読んでほしい。フランスの辞書に於けるス
してのスポーツという視点から、オリンピッ
ポーツという語の定義の比較を鏑矢に、聖書
代スポーツという区分について考察がなされ
は な く、 選 手 の「 運 動 そ の も の 」 を 見 よ! 雛形となろう。数字によるスポーツの記録で
には、蓮實重彦著『スポーツ批評宣言あるい
は運動の擁護』(青土社)がスポーツ批評の
る場合でも、スポーツ愛と情熱を迸らせ、身
心を動かされかけた。理知的にスポーツを語
ーツへの直球すぎる熱意が伝わり、不覚にも
説いていた。話自体は平凡であったが、スポ
喫茶店で本稿を執筆中、隣の席で偶然、若
い体育教師が教え子二人にスポーツの持論を
いは零論」が知的刺激に満ちている。
や啓蒙主義哲学等に於けるスポーツの捉え方
スポーツ・ジャーナリズムの低俗な言説を
避けて現代スポーツを語りたい! という方
る。更に、徒競走・ラグビー・テニス・射撃
という審美的原理を元に、選手批評・コーチ
を紹介した上で、宗教的儀礼としての古代ス
等ポピュラーなスポーツの起源と歴史につい
ポーツと、世俗化・規則化・数値化された近
ての詳しい調査がなされる。また、寒川恒夫
体を火照らせていたいものだ。
(ミント)
批評・スタジアム批評・スポーツ・ジャーナ
ヨーガを語る上でどうしても外せないのが
『ヨーガ・スートラ』(佐保田鶴治著・平川出
版)。もし思想的な部分から理解したいとい
ヨーガ思想
特集の最後に、まさに身体を通して哲学をす
う人は、是非本書を手に入れて欲しい。ヨー
て哲学を深めてきたように思う。身体を語る
るヨーガを紹介したい。
西洋哲学がその主体や意識を中心に哲学す
るのに対し、東洋哲学は身体性や行為を通じ
快適なヨーガライフをあなたに
による本書の付論「日本のスポーツ」では、
相撲・蹴鞠・鷹狩・剣道等、特に日本で愛好
されてきたスポーツを、それが行われてきた
政治空間やそれが目的とする精神修養などの
観点から論じてい
て、大変面白い。
スポーツと批評
最後に、現代スポ
ーツをアクチュアル
6
が、ヨーガという道を歩むためのパスポート
う が、 そ れ で も こ の 一 冊 を も っ て い る こ と
ている。初学の人はちんぷんかんぷんだと思
するべきなのかという概念的なことが描かれ
く、ヨーガという思想が何を目指しどう修行
い。 ま た よ く あ る 身 体 を 動 か す 技 法 で は な
きるものではな
尚、容易に理解で
本語訳を介しても
言える本書は、日
ガ哲学の聖書とも
にヨーガがどう語られているかに耳を傾けて
意味で現代にヨーガに触れる人達は、科学的
ブームを起こす一要因となった。そういった
学的に効果があるという宣伝が世界的なヨガ
特にアメリカのセレブ達がヨーガをやり、医
トネス的な部分が強調された影響は大きい。
でに普及したのは海外を通じて、そのフィッ
しているのだとしても、ヨーガがこれほどま
う。実践の奥底に本格的なヨーガ思想が根ざ
先に思想的部分から説明したが、根本的な
ヨーガ思想を学びたいという人は少数派だろ
医学から見たヨーガ
西洋
ただそれ以上に初心者にお勧めするのは
ってみたくなるはずだ。
のインタビューは、思わず明日からヨガをや
ランス良く描かれている。美しい身体と彼女
れ、食事や瞑想法、ヨーガとの出会いなどバ
る。本書はヨーガの思想的な部分にも軽く振
の SHIHO
がヨーガの
ポ ー ズ を 行 い、 一 時 間 の D V D も つ い て い
るヨガ本だ。モデル
トした、お家で出来
万部ヒッ
Dの図解を通し
ーズを通じて筋肉や骨格のどこが伸び、どこ
)がある。本書
Under The Light Yoga School
はアメリカで医学博士の著者が、ヨーガのポ
る。その中心は瞑想法であり、睡眠と覚醒の
ズ」を中心として、寝ながらするヨーガであ
し て み て 欲 し い。 最 も 簡 単 な「 死 体 の ポ ー
ント)は
ン・エンタテインメ
になるはずだ。さらにインド古代哲学からヨ
岩波文庫)もお勧めして
ーガを理解したい人には『バガバット・ギー
タ』(上村勝彦訳
もいいだろう。そんな医学的側面から分析し 「ディープリラクゼーション ヨガニードラ」
た 本 と し て『 YOGA
(ロハスインターナショナル)だ。別名「寝
・ ア ナ ト ミ ー 筋 骨 格
たまんまヨガ」というこのCDは、アプリで
編・ ア ー サ ナ 編 』( レ イ・ ロ ン グ 医 学 博 士
もあり、お試しの無料版もあるので是非実践
おきたい。
の が、『 ヨー ガ の 思 想 』( 山 下 博 司 著 講 談
社)。この本はインダス文明やサンスクリッ
に緊張が掛かっているかを
また概要的に知りたいという人にお勧めな
ト語の記述まで遡り、そこからヨーガの変遷
20
ではなく、実践を通しながら学ぶ方が容易な
う読者は多いだろう。ヨーガは頭から入るの
難解な表現や馴染みのない思考に疲れてしま
易ではない。ヨーガ哲学は入門書でも、その
想・歴史・現代性など全てを理解するのは容
の 歴 史 を 描 い て い る。 や や 情 報 が 雑 多 で 思
いくつか言及しておこう。
ヨーガの思想、西洋医学から見たヨーガと
紹介してきて、最後に巷のヨーガ本について
巷のヨーガ
く身体の伸縮を勉強できる。
使いで筋肉の変化に区別がつき、わかりやす
て説明している。特にアーサナ編は図解の色
なお最後に宣伝であるが、評者は毎朝無料
のヨガ教室を開いている。簡単なヨガである
たい。
不眠で悩む人や、深く寝付けない人にも勧め
実践はあまりにも容易に人を寝かせるので、
間の状態に入るヨガ瞑想が体験できる。この
[email protected]
(きも
の)
が、もし参加されたい方はご連絡頂きたい。
のであまりここで躓かず、分からない部分は
』( SHIHO
著 エ ム オ
SHIHO loves YOGA
『
3
読み飛ばしていこう。
7
綴 葉
No.348
知るファンにも、ひとしく薦められる。
という黒人奴隷を愛人としていたという説か
ク」のラスト、瓜子姫を止めるべく彼女を追
例 え ば 右 に 紹 介 し た「 瓜 子 姫 と ア マ ン ジ ャ
モアとペーソスを漂わせていて、癖になる。
約するような表情が、なんともいえないユー
等々に直面した人物の、話の筋を一コマで集
うにもならない状況、ナンセンスなこと……
のベルリンに逗留するアメリカ人作家エリク
かと思うと、作品の後半で物語の関心は現代
中盤では刑事たちとサリーの関係が描かれる。
名を持つ未来世界の中で死体とともに現れ、
も面白い。しかし、やがてサリーは奇妙な地
かどうかを迫られる。この最初の設定だけで
入れるかトマスとともにアメリカへ帰還する
トマスとともに革命期のフランスを訪れた
サリーは奴隷のない社会を知り、自由を手に
らエリクソンは奇想を展開する。
いかけるものの、雷神に撃たれ、瓜子姫にも
新刊コーナー
成長して神通力を
失った巫女の瓜子
「さようなら、ありがとう」と告げられたと
評 者 と し て は、 作 者 の 描 く 人 物 の「 顔 つ
き」が好きである。とくに、法外なもの、ど
姫。夜な夜な幽体離
ソン、更には彼を殺害する人間へと焦点が移
瓜子姫の夜・シンデレラの朝
脱 し て は 山 に 入 り、
きのアマンジャクの顔つきを、ぜひ一度見て
天外な展開が待ち受ける。そこで、魂を失う
諸星大二郎作
朝日コミック文庫
アマンジャクの助け
いただきたい。
(二三二頁 税込六四八円 Xのアーチ
のは何かと作中人物は問う。「良心を裏切るこ
とだろうか、心を裏切ることだろうか?」目
眩がするような光景の中、その問いはアメリ
カ独立の偉人の生きざまと結びつく。常に起
源を希求するアメリカ文学の中でも衝撃的だ。
れたと聞き、瓜子姫は……。
争乱を憂えて凶と上奏した清丸が島流しにさ
前のことを再確認させてくれる。自由を謳っ
本書はそんな当たり
むことは辛いと同時
様々な要素が複雑
に絡み合う小説を読
愛か、自由か、無だ」そんな気障な言葉もこ
「人間は三つのもののためにしか死なない。
スティーヴ・エリクソン著
柴田元幸訳 集英社文庫
る。そして、中盤の描写とリンクしつつ奇想
を借りて、モノノケやスダマたちから予言の
(犬)
月刊)
ネタを集めている。力を失ったことがばれて
しまえば、次の巫女と入替えに殺されてしま
うからだ。ところが或る日、皇太子廃嫡の吉
凶を求めて都から遣わされて来た貴族の清丸
に、彼女は恋心を抱く。人間界に一騒乱起こ
そうと面白がる河童の大将に吉と聞かされて
諸星大二郎は、古今東西の神話や民話に着
想を得た、独特の幻想譚を得意とする漫画家
たアメリカ独立宣言の起草者であるトマス・
結局、この物語は何なのか? 歴史改変小
説であり、寓意譚であり、作者も登場するメ
だ。グリムから聊斎志異までに題材をとった
の異様な物語に相応しく響く。
(投稿
・眼鏡)
(五〇九頁 税込一一八八円 月刊)
意 欲 に 駆 ら れ る 熱 気 を 孕 ん だ 現 代 小 説 だ。
タフィクションでもある。再読したいという
本短編集は、そんな彼のお家芸であって、彼
ジェファソンはその裏でサリー・ヘミングズ
2
に、スリリングだ。
の作品を読んだことのない人にも、彼をよく
も、託宣を伸ばし伸ばしにする瓜子姫。結局、
1
2016. 6. 10
綴 葉
8
ある作曲家の生涯
しかし、ボヘミアン的退廃と「芸術的苦悩」
惹かれてしまうのだろう。
たら全く根拠もないだろうけれど、なぜ人は
に行くか? しかし同業だぞ? こうして著
者 は 占 い 師 の 許 に 行 く。 占 い 師 と の 面 談 や
の果てに彼が「創造」したオペラは、盗作・
自分の芸術的才能を過信し、日々の技術的
修練を疎かにしたフォルティーンは、結局、
種々の随想、回想を語りながら、占いを考察
内 容 は、「 鬱 屈 」 し て い る。 精 神 科 医 を 勤
め、出版点数も多く著名で、世間的には地位
天才芸術家の夢に取り憑かれていたに過ぎな
し、救済について私論を展開し、生の意味を
剽窃なんでもありのキマイラ的駄作であり、
《 芸 術 家 は い か な
る規範からも解放さ
か っ た。 嘘 と 自 己 欺 瞞 で 堕 落 し た 彼 は「 真
語っていく。――そう、ただのエッセイと看
を得ている。しかし、いきぐるしい。だから
れていると、そう思
実」の世界を見る力を失い、破滅した。本書
上演後、観客からの嘲笑混じりの評価を受け
わないか?》
を読んで身を引き締めるともに、自己陶酔・
做すと著者が専門家であるため、深読みして
た彼は、発狂して死んでしまう。
本書は、架空の芸
術家ベダ・フォルティーンの生涯の各時期を、
過信等に陥っている友人に勧めてみてはいか
章と映る。本書は占いや救済について、人類
カレル・チャペック著
田才益夫訳 青土社
友人・元恋人・後援者・妻・大学教授等、彼
がだろうか。
(二一〇頁 税込一七二八円 鬱屈精神科医、
占いにすがる
自分を持て余し、ただ懊悩しているだけの文
学者や宗教学者が文献や実地調査に基づいて
執筆した論文ではなく、精神科医による私的
経験に基づいた、文学形式のノートなのだ。
の名の下に自己の全てを高尚なものとして無
的気質」によるものと公言するなど、「芸術」
ットや雑誌の「今日
らった。インターネ
とした機縁で見ても
友人の友人に手相
見がいて、先日、ふ
……それは内緒です。
え、 占 い の 結 果 は ど ん な だ っ た の か っ て?
の納得感が結果を当たりとさせるのだ。――
著者によれば占いとは、相談者の個別的な
物語を占い師がそれぞれの方法論に従って
理矢理に認識していく。その上、ドラマチッ
の運勢」欄をついつい見てしまう評者にとっ
春日武彦著
太田出版
といって老人性鬱ではない。カウンセリング
を知る人々が回想する形式で物語が進行する、
(ミント)
月刊)
小説家カレル・チャペックの遺作である。
フォルティーンはなかなかの曲者だ。青年
時代から自身の音楽的・詩的才能を過信し、
高身長・長髪等比較的美しい容姿も相俟って
伊達男であった。周囲が彼の才能に疑問を抱
「非芸術的」人間を一顧だにせずに振る舞う、
クな駆け落ちを試みたり、裕福な女性との結
て 気 に な る 結 果 だ っ た。 そ れ に し て も、「 占
、、、
(二二四頁 税込一七二八円 (明)
月刊)
要なのだろう。託宣されることで生じる当人
おそらく占い師=他者の語りであることが重
ことという。つまりは状況の再構成であるが、
《運命のパターン》のうちに位置づけなおす
婚に成功したり、音楽家を招いて頻繁に社交
き始めてもなお、単なる心身の不調を「芸術
界を開いたり、若い音楽学生の後援者になっ
い」とはどのような営みであり、ものによっ
9
1
たりするなど、享楽的・貴族的生活に浸る。
12
綴 葉
No.348
内村鑑三
小林孝吉著
御茶の水書房
私は一基督者である
戦前の日本社会で
一基督教者として生
きた内村鑑三。この
本はその生涯や思想
以降の日本社会にとって必要な学びに
とその区分の正しさに敬服している。
である。しかるに書評を書く段になってみる
論」や「無教会」へと到ったのか。そしてこ
本書は前近代中国を規定した二大思想であ
として確信を抱く内村が、いかにして「非戦
の本がお堅い学術本で終わらないのは、所々
出土文字資料への着目や訓読と訳を併記し
た丁寧な史料引用なども長所といえようが、
る「礼」と「法」の交錯という主題を基調と
に東日本大震災への言及があるからだ。震災
する。きれいな三部構成で、一部では礼書と
後に描かれた詩や文学を多く引用するところ
礼制の形成過程を、二部では出土資料を駆使
に、内村鑑三と現代社会との近接性が描写さ
した中国古代法の考察を、三部では法の適用
れている。
や正義と法の関係といった観点からの中国法
日清・日露・世界大戦を迎え、愛娘の死な
の特色を論じている。
ど尋常ではない絶望を経験してきた内村鑑三。
そんな人生を歩んできても、この世界は幸福
やはり本書の特色は四書五経のような著名な
・
に 言 及 す る こ と が、
であると語る彼の信仰の強さに、読者も是非
法文から中国法の性格に分け入る叙述の説得
(三九三頁 税込四七五二円 中華帝国のジレンマ
性と意外性である。詳細すぎてあまり適切に
運用されない唐律の性格や、法的には禁止さ
れるが礼的には肯定される復讐などの論述は、
春秋~唐代を守備範囲とするにもかかわらず、
き方であった。そして本書はまさにその生き
にとっての後世に残す最大遺物は、自身の生
れを実行 してこの世を去ることです。」内村
悲しみの世ではなく喜びの世であること、そ
国法制史の大家である冨谷の著作がその棚に
購入し一読してその見識のなさを嘲った。中
店では不思議に思い、
コーナーにあった。
きそれは現代中国の
ある書肆で何気な
く本書を見つけたと
ある方にもお勧めの一冊。 (ヒス
トリア)
(二二二頁 税込一六二〇円 月刊)
比較的な観点も多く「日本法制史」に関心が
明な文体と相俟って大変わかりやすい。日中
現状分析的な書物よりはるかに中国社会を明
様を描いている。
あったのはやはりナンセンスだと思ったから
2
る本書は、多数の一般書を上梓した冨谷の簡
中国における遵法精神の欠如や西洋型の契
約の難しさという一般的な疑問から展開され
快に切り取っている。
札幌農学校でまるで強制のように受けた洗
礼、渡米の中で得た霊的回心。徐々に基督者
礼的思想と法的秩序
冨谷 至著 筑摩選書
史料の引用や誰でも手に取れる律令の排列や
なることを伝えている。混迷を極める時代状
触れてみて欲しい。
の支配する世ではなく神の世の中であると信
「勇ましく高尚な生涯にして、この世は悪魔
内村は『後世への最大遺物』という講演で
こう語っている。
会に変えられない生き様であった。
そこにあるのは社会を変える力ではなく、社
況の中で、自分自身の生き方を貫いた内村。
11
(きも
の)
月刊)
3
じること、失望の世ではなく希望の世であり、
1
2016. 6. 10
綴 葉
10
政策力の基礎
意思決定と行動選択
永松俊雄著 成文堂
「 政 策 力 」 と は、
政策をつくり、実行
する能力である。で
は、政策とは何だろ
うか。著者によれば、
目標を達成し、問題解決をするための手法だ
とされている。
このような定義のもとで書かれた本書の前
半は、政策マネジメントを扱っており、その
で丁寧な解説がなされている点もよい。
しかし朗報。「遅読家のための速読術」を
説く本書が刊行されたのだ。一ページに五分
葉』の準備も半べそかきそうな時がある。
その心理的メカニズムを明らかにしている点
速読本はたくさんあるが、本書が素晴らし
いのは、なぜ人が遅読に陥ってしまうのか、
伝授してくれるというのだ。
評家へと変貌できたのか。その秘伝読書術を
にして、年間七〇〇冊(一日二冊)を読む書
かかっていた極度の遅読家から、著者はいか
もとより、政策研究は政治学や行政学、経
済学など、様々な分野が関係する、学際的な
ものである。本書の視点は、政策を考える上
では野心的に多彩な分野の成果を取り入れる
必要があることを再確認させるとともに、政
策研究の面白さと奥深さをも示している。
とはいえ、本書は政策や政治に興味が無く
とも面白く読める一冊に仕上がっている。な
果、逆説的にも、読書から遠のいてしまう。
ところなく拾おうと身構えてしまう。その結
る人ほど、最初から最後まで目を通し、余す
ぜなら、本書が扱っている問題解決とは、つ
だ。著者曰く、遅読家は「熟読の呪縛」に囚
ねに=すでに、普遍的なテーマだからである。 われている。読書に真面目に取り組もうとす
(投稿
・藪池)
(二七〇頁 税込二八〇八円 月刊)
しかし、著者によれば、時間をかけて一文
字一文字読むよりも、短い時間で全体を読ん
だ方がはるかに深く内容を理解できる。本書
とえば、意思決定論のような、お馴染みのテ
ないといけない本が
「ゼミや授業で読ま
時間がとれない」
「 読 み た い 本 が た
くさんあるのに全然
すべての同志に薦めたい。
まないほうがいいんだ、と気が楽になった。
本って全部読まなくてもいいんだ、いや、読
はそのための「フローリーディング」=正し
ーマを脳科学や心理学を用いて分析する、と
あ る の に、 読 む の が 遅 す ぎ て 間 に 合 わ な い
(二〇八頁 税込一五一二円 (れくた)
月刊)
なヒントにはなるだろう。少なくとも私は、
ノウハウものには合う合わないがあるので、
過度な期待はしない方がいい。しかし、重要
い読み飛ばしの技術を教えてくれる。
いった具合なのである。
……」。 意 外 と こ ん な 人、 多 い の で は な い だ
印南敦史著
ダイヤモンド社
遅読家のための読書術
内容は一般的な教科書と大差はない。面白い
のが後半部分である。
後半では、ヒューマン・マネジメントが扱
われている。ここでは、従来の政策学のテキ
ストでは参照されないような、学問分野の先
それら、一見するとまとまりのない乱雑な
話になりがちな議論が、政策という観点から
端的成果がふんだんに盛り込まれている。た
丁寧にまとめ上げられている点に、本書の醍
ろうか。かくゆう私もその一人。だから『綴
11
3
醐味があると言えるだろう。可能な限り平易
2
綴 葉
No.348
すなわち生殖活動の
態学において、交尾
生物の進化から自
然を観測する行動生
的な行動を通じ、一つの生き物としての私た
際をまとめあげた本書で、交尾という種普遍
ページという短さに現代の生態学の理論と実
リとする言葉が散りばめられている。二〇〇
本書の主な対象は生物学に関心をもつ読者
であるが、文中にはヒトに置き換えてもドキ
されてきたことを実感させられる。
たちの行動の背景にあるロジックが解き明か
での綿密な観察という二足に支えられ、生物
いることがある。実験的な操作と自然環境下
代飼育の生み出す魅力的な結果が述べられて
るのだ。また、本書の主な題材の一つに反応
表面張力の影響で六角形を作り出す傾向があ
にしているわけではない。溶けた蜜蝋自体に、
蜂の巣が六角形なのはハチが頑張ってその形
通じて実感させてくれるのが本書だ。例えば、
実はそうではない。生物は物理法則の中に
含まれるパターン形成の仕組みを巧みに利用
うか。
いての指示が一から十まで書いてあるのだろ
としない。遺伝子には、生物の行動や形につ
交尾行動の新しい理解
理解は不可欠だ。一
拡散系という機構があり、生物の形や模様を
理論と実証
粕谷英一・工藤慎一共編
海游舎
方で繁殖にかかわる要素は複雑に絡み合って
ちを振り返ってみるのも面白い。
(投稿・トロ)
(二○○頁 税込三二四〇円 月刊)
生み出す原理として頻繁に登場する。これは
大雑把に言って、何種類かの物質が相互に反
応するとき、それぞれの拡散する度合いが違
うとパターンが生じることがあるという現象
である。例えば、シマウマやヒョウの模様は
これを用いて再現できる。それだけでなく、
動の多角的な検討の面白さが生き生きと表現
二種の生物に関する研究が紹介され、交尾行
理論について統一的に述べられる。その後、
してそのような形態になったというものであ
生き物が環境に適応
説明は、それぞれの
理由としてよくある
生き物の形は非常
に多様である。その
読めること請け合いだ。
ある。説明もわかりやすく、誰でも楽しんで
本書は図版が豊富で、生物におけるパター
ンの多様さと美しさを堪能できるのも特色で
貝殻の模様や植物の葉のつき方、果ては卵か
される。補遺として収録された数学的な解説
る。そして、その形は遺伝子により決まる。
かたち 自然
‌ が創り出す ‌
美しいパターン
フィリップ・ボール著
林大訳 ハヤカワ文庫
しているのだ。そのことを、豊富な具体例を
おり、体の大小や見た目の派手さにより一時
には解決され得ない。本書では、華やかな尾
びれを持ち、サカナ界の孔雀ともいえるグッ
ピーと、交接時に雄が雌を棘で傷つけるサデ
ィスティックな交尾形態を持つゾウムシを対
象にした実際の研究にふれつつ、新たな交尾
行動の捉え方を浮き彫りにしていく。
は、理論のより深い理解に役立つはずだ。
この説明は確かにそうなのだが、どこか釈然
4
(四六七頁 税込一〇五八円 (蕨餅)
月刊)
噛んでいるというから、驚きである。
も可能である。さらには、心臓発作にも一枚
ら動物が発生するときの形態形成などの説明
もう一つの特徴として、花形であるフィー
ルドワークのみならず、実験室での地道な累
構成は大まかに二部に分かれている。はじ
めにこれまで積み重ねられてきた交尾行動の
3
1
2016. 6. 10
綴 葉
12
天使とは何か
岡田温司著
中公新書
「反戦・脱原発リベラル」
は
なぜ敗北するのか
浅羽通明著 ちくま新書
自然に潜む数学の真理
曲線の秘密
松下泰雄著 講談社ブルーバックス
天体の運行を記述する古代的なモデルから、
例えば、円を巧みに組み合わせることにより
曲線について興味を持つ人がどれほどいる
かは疑問であるが、宇宙観の変遷や数学の未
また現実に対峙して効果測定を行うというリ
楕円を基本に説明する近代的な宇宙観が出現
解決問題について知りたいという方は多いの
アルな実務思考を欠き、「バーチャルな脳内観
するまでの経緯や、「楕円」とフェルマーの
官邸前デモがメディアを賑わしたのは去年
の今頃か。思い出すたびに知人のボヤキが耳
火や風などの自然現象として現れる天使、
キリスト=天使説、天上の音楽の演奏者とし
念世界」に閉じているからだ。そのため繰り
最終定理との関係が説明される。また、初期
雲が凝縮して生成するといわれる、半物質
的存在――天使。軽やかに境界上を飛翔しな
ての天使、宇宙の操縦者としての天使、悪魔
返し「××によって民主主義は終わった」と
ではないだろうか。ところで、そのような話題
へと堕落していく天使等、なかなか知る機会
の言説をなしてしまい、それによって周囲の
に甦る。「秘密法案には僕も反対なんだけど、
の少ない天使のイメージや理論を取り上げ、
の時計製作に曲線の形が果たした役割は、人
がら、ラッパを吹き、愛の矢を放ち、神の使
聖書、ダンテやミルトンの文学、ロートレア
れは不健全だ。――思弁的形而上学に陥らず、 によってはあまり聞いたことのない話だろう。
人々を不感症に陥らせ、敬遠させている。そ
本書を読むと単純に見える曲線の奥深さを
感じる。とはいえ、紹介される内容はあくまで
と曲線とは切っても切れない関連があるのだ。
モンやリルケの詩、カラヴァッジョやクレー
検証を怠らず、他者を巻き込む。市民運動が
例えば天体の運動も、三つ以上の惑星が絡む
新聞読んでたら引いちゃうんだよね」。――
の絵画、ヴェンダースの映画等、私たちにも
結実するための手立てを対話篇形式で説く。
と大抵の場合グチャグチャになってしまうし、
どのくらいの人が彼に共感するだろう。
比較的馴染み深い作品と共に優しい語り口で
基本的にリベラル派への批判であり、読み
方は二通りはある――アンチリベラルに立っ
複雑怪奇な曲線も世の中に多数あることは窓
者として活躍する姿が一般的であろうが、古
説明が施されていく。
てそれを痛罵するものとして、あるいは叱咤
の外を眺めれば分かる。現代の課題は、そうい
代から現代までを通して、私たちにとってま
天使の図像や古い文書の上を縦横無尽に辿
り、天使にまつわる知の全体へ接近していく
激励するプロリベラルとして。鵺のような立
官邸前デモに一〇万人以上集まっても政治
本書は確かに「曲線」と銘打ってはいるが、
は変わらない。主張を通させる切り札がなく、 内容はむしろその応用の紹介に重きを置く。
本書は、天使のイメージをありありと描き出
場なれど、しかし冷徹な視点と鮮やかな手並
13
だまだ未知なる天使の姿がある。
し、それらが空想上の存在であることを忘れ
2
近代の匂いのする「美しい」部分だけである。
させるほ どである。「天使博士」への第一歩
(二四八頁 税込九七二円 5
として最善の一冊。
った複雑さを説明することなのだ。 (蕨餅)
月刊)
(二七二頁 税込九二八円 みが光る、政治実践のためのテキスト。
(明)
月刊)
(ミント)
月刊)
(二一二頁 税込八四二円 3
綴 葉
No.348
私の本棚
説を展開する。「酒池肉林」など頽廃したイメージが先行する殷だ
まずは落合淳思著『殷 中国史最古の王朝』(中公新書)では確定
的に言いうる中国最古の王朝殷(商)について概説的だが大胆な所
さて、後段では二冊の一般書を紹介しつつ、出土文字資料の増大
が中国史を如何に変革したかを見ていきたい。
二 歴史研究でそれはどのように活用されるのか
新しきを温ねて故きを知らん――新しい中国古代史
漫画や時代小説・テレビゲーム等で古代中国マニアになった(こ
とがある)という人は現代日本人にも多いことだろう。膨大な読者
市場を持つこの分野は、近年ことに革新が目覚しい分野でもある。
は後述する出土文字資料「簡牘」の増加により史資料自体が急増し
が、それは『史記』などの文献史料に拘束されすぎた意見であり、
出土文字資料とは木簡・竹簡をはじめとする文字の書かれた考古
資料のことで、日本でも平城京の木簡などを実見した方もおられよ
の枕に用いた酒池肉林が実は前漢代の造作であると瞬時にわかると
のかなり辛辣な批判や複雑怪奇な王統譜の復元研究も魅力だが、話
集権化を企図したばかりに滅んでしまった殷王朝。中国人研究者へ
かんとく
たからである。今回は敢えて平易な書物を選び、一般読書界への影
考古学や出土文字資料を駆使すると、そこには異なる世界が広がる。
古色蒼然たるイメージから意外に思われる方もおられようが、それ
響も重視しつつ、古代中国(殷~後漢)の世界に遊びたい。
う。しかしながら日本と中国のそれでは年代の古さや量的な膨大さ
いう第
奴隷がいても奴隷制ではなく、複数の王統が交代を繰り返し、中央
一 簡牘とは何か
など桁違いの部分も多く、単純に類推はできない。
章の記述が実は一番印象的かもしれない。
初版の二〇〇三年からやや時日を経たが、二〇一四年刊行された
こと、『平家物語』にもその名が登場する奸臣趙高が実は宦官では
さて時代はやや下るが、秦による戦国七雄の統一戦争を主導し、
文字通りの「中国」を最初に築いた秦の始皇帝の評伝である鶴間和
ないことなどが記される。道半ばではあるが、秦の始皇帝陵のリモ
冨谷至著『木簡・竹簡の語る中国古代 増補新版』(岩波書店)は
この方面の学習に資する。かなり根源的な部分から「紙ではない」
簡牘と紙とのファイル的な機能の比較など文書行政の実態に係わる
ートセンシングによる調査にも言及され、今後にも期待できる。
書記媒体について考究しており、それは第一章が「紙の発明とは?」
興味深い論考が多く、補論で新しく加わった簡牘のサイズや芸術と
とも有名な刺客・荊軻が実は始皇帝の命を狙っていたわけではない
しての書の誕生などのテーマも素材としての出土資料の根本に係わ
著者は二人共多作な研究者で他の著作と読み比べると学問の進化
を体感できよう。古代学でのこれほど急激な革新は国土全域で開発
幸著『人間・始皇帝』(岩波新書)も目から鱗が幾枚も落ちる。ま
いみな
ず始皇帝の諱が政ではなく正であることから始まり、中国史上もっ
ろう。文書行政の帝国としての中華帝国を追究するためのみならず、
と 銘 打 つ こ と に も あ ら わ れ る。 日 本 史 に も 造 詣 の 深 い 著 者 に よ る
例えば未だ「後漢の蔡倫が紙を発明した」と覚えている人(評者も
が進む現代中国ならではで羨ましくもある。
(ヒス
トリア)
そうだった)には、知識の更新のためにも必読と言える。
「なぜ日本では木簡しか出土しないのか」など比較史的なテーマや
6
14
私の本棚(
「幸福論」)
えてくる》と説いている。個人的にツボなのは卿の人間理解かな。
シアワセになりたい、でもどうやって?
五月が終わった……憂鬱だ。五月病が続いているのかな……しん
どい。注文した本がまだ入荷していない。修繕した箸置きが三日で
このようにアランとラッセルは、ぼくたちに幸福を求めるよう勧
める。それを《幸福でありたい症候群》と撥ねつけ、真実から目を
HP文庫)だ。強烈だぞ、《自分が死ぬかぎり、いかなるかたちで
背けていると批判したのがカント研究者の中島義道『不幸論』(P
割れた。論文が書けない。雨が降っている。……サイテーだ。ああ、
どうしたら晴れやかな、幸せな気分になれるだろう。
題は承服しかねるが、しかし、自分の(不幸な)ありさまを直視し、
は。とは言えなあ、死は不幸なのか? 死んだらつらいことも苦し
いことも、何も感じないで済むだろうと思うのだが……正直この命
も幸福はない……それは、唯一の「絶対的不幸」である》との主張
﹁幸 福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだ﹂
……どこの心理学者かと思ったら、フランスの思想家、アランだ
ね。著書『幸福論』
(角川ソフィア文庫、ほか)には、自らの意志
に よって 幸 福 を 目 指 す こ と を 説 く、 九 三の 断 章 が 収 め ら れ て い る。
固有の(不幸な)生を生きる、という強靭な姿勢は見習いたい。
なんでヒルティがないんだよ? 三大幸福論っていうだろ?
見るよう律するべし。つまり、あくまで理性的に物事に当たれるよ
うに自分自身を躾けよ、ということだ。これは重要な訓辞だと思う、
だから未入荷なんだって。こうなったらヒルティ探しの旅にでも
出ようかな……旅といえば、幸福を求めて旅に出る物語がある。フ
マイナスの感情に流されず、事物に当たるに際してプラスの側面を
なぜなら《何の努力もせずにひとりでにあるものを考えてみるとき
は、悲観主義が真理である。……人事の流れは、放任しておけばた
幸を感じたりするのか》、旅をし見聞を広めるなかで考えていくも
ラ ン ソ ワ・ ル ロ ー ル『 幸福 は ど こ に あ る 精 神 科 医 ヘ ク ト ー ル の
旅』(NHK出版)だ。映画「幸せはどこにある」の原作で、主人
ちまち悪くなるものだから》
。ただ、そうであるなら、なぜ人は悲
観主義に傾いてしまうのか、そこも分析してほしいものだ。
の だ。 そ う し て 作 ら れ た「 幸 福 と は ――」 の リ ス ト は 微 笑 ま し い。
幸とは《心理的な不適応》の結果であり、関心が自己の内向きに膠
したのち、
「幸福をもたらすもの」を考察している。それによれば不
『幸福
「不幸の原因」を分析
論』(岩波文庫)は二部構成になっていて、
っかり取り組むのが大事……何に取り組もう? 綴葉の原稿も書き
上 げ た し …… あ、 メ ー ル だ。 な に、「 ご 注 文 の 品 が 入 荷 し ま し た 」
とまれ幸福とは、それじたい目的ではないってことだ。何かにし
や他大学には蔵書があるから、遠出して読んでみたらどうだろう。
すでに絶版で京大には所蔵されていないけれども、京都市立図書館
公ヘクトールが《さまざまな人が……どうして幸福を感じたり、不
している人はいないのかい?
分析
いるとも――正確には悲観主義というより不幸の原因についてだ
着してしまったから、とのこと。だから幸福になるには、関心を外
15
が ね。 誰 か と い う と イ ギ リ ス の 哲 学 者、 ラッセ ル 卿 だ。 彼 の 著 書
に向けよ、そうするよう自分自身を説得せよ、そうして《自己に没
だって
……遅いんだよ今更、いいや、論文書こう……。 (明)
頭することをやめたならば、たちまち、本物の客観的な興味が芽生
?!
綴 葉
2016. 6. 10
編集後記
当てよう!図書カード
行楽シーズンの 5 月も終わり、そろそろ梅
梅雨ですね。雨が続いて憂鬱だ……という
雨入りでしょうか。蒸し暑く雨続きになる前
日にこそ、敢えて雨が降っている映画を観ま
に、行きたいところに行っておいたほうがい
せんか。状況がシンクロすることで晴れる心
いかもしれませんね。
もあるかもしれませんよ。さて、次の映画の
かくいう私は先日、大阪大学まで足を延ば
うち上映時間が最も長いものはどれでしょう。
しました。なんでも阪大生協が面白い企画を
1.『雨の訪問者』
しているとのことで。その名も「ブックコレ
2.『シェルブールの雨傘』
クション」。毎月、教員と学生団体が 5 冊ず
3.『雨に唄えば』
つ本を紹介し、生協での売り上げを競うとい
4.『われらの恋に雨が降る』
う、なかなかシビアな企画です。生協の店舗
《応募方法》読者カードに答えを書いて生協
のひとことポストに入れてください(または
e-mail:[email protected])。正解者の中から抽
選で 5 名の方に図書カードを進呈いたします。
締切りは 7 月 15 日です。
では、入り口直ぐの場所に専用の棚が設置さ
れ、それぞれ 5 冊ずつの本が購入できるよう
になっていました。その上には、モニターが
置いてあり、先生と学生のアツい対決映像が
流されていました。
他大学の生協店舗を覗くのは、発見があっ
3 月号の解答
て楽しいですね。個人的には、学内サークル
の同人誌が棚に並べられ、購入可能なところ
3 月号「世界遺産に指定されていないのは
に心をくすぐられました。
どれ?」の解答は、3.東本願寺でした。応
そういえば、京大生協でも吉田南の店舗が
募者 7 名中 7 名の方が正解でした。図書カー
リニューアルオープンされましたね。実は、
ドの当選者は、ユキヤナギさん、ぽりぷてる
このたび新しく『綴葉』のコーナーも作って
すさん、はゆかさん、沙映さん、愚人八衰さ
いただきました。ご来店の際はぜひ、さがし
ん(順不同)です。おめでとうございます。
(貝殻)
(蕨餅)
読者からひとこと
○本読んでたら課題の山ができてた。
(農・たまごかけごはん)
○忙しすぎると読書する余裕もなくなり、次
の段取りをやり続ける頭をうまく休めること
ができなくて消耗してしまうのですが、綴葉
を読むようになり「時間ができたらこれを読
もう!」と心の支えにしてのりきりやすくな
っています。
(防災研・ユキヤナギ)
――仕事や研究に集中するほどまともに読書
できないというのはたいへん悩ましいジレン
マですね。専門バカにならないよう読書の機
会も無理くりでも作ろうかというようなこと
で編集委員をやっていますが、最近では専門
が阿呆になってきて洒落になりません。
○読書記録をつけようと思っても続かない
……。コツなどありませんか?
――たとえば誰かにその本の話をするとすれ
ばなんて話をするかと考えながら読むように
されてはいかがでしょうか。この部分は詳し
くという箇所は引用をメモしたり、この表現
で要点をまとめたら面白いという言い回しを
見つけたりという習慣をつけると、そんな読
(犬)
み方をしないと気がすまないというようなこ
とになるかもしれません。
てみてください。
(ミント)
16
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