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桜木町仮設団地 自治会より
ここまでは、こないよって… 私も思っていた。 気がついたら2階に駆け上がり、ただシャッターを押し続けていた。 傾いて流される2階の窓から見えた光景は忘れることはできないだろう。 この大惨事は 3 日以内に記録に残さねばと、 その日から歩き始めた。 何ども手を合わせながら瓦礫の中を歩き続けた。 1 2011.3.11 PM3:40 撮影 ▲2階に駆け上がった。窓の外は坂を登ってくる黒い塊水…信じられなかった。松原町 1 丁目。この日、津波に襲われて初めてシャッターを切った1カット。 2 ▲うねる黒波、中央右側道路から押し寄せる波 3 ▲家や車が木っ端(こっぱ)のように押し流されてくる。山のような津波の上に、塊水が重なり壁のように押し迫ってきた。 4 ▲遠く海側には土煙がたちあがってみえる。その時は気がつかなかったが、50メートル先の家が流れてきた。駅の渋滞に巻き込まれていた知人が、遠くに見える土煙をみて大津波がきていると判断。 後続のパトロールカーに知らせ、自らもUターンして助かったそうだ。 5 ▲2階建の家が目の前で崩れていく。家の壁に瓦礫があたる。 6 ▲家が浮いて傾いた。階段の下をみると水が上がってくる。観念しなければと感じた。1カットから 6 カットまで数十秒だったと思う。衝撃と同時に凄ましい音をたて流された。 7 ▲ PM4:40 瓦礫の上に、助かった。後から聞いた…50メートル先から瓦礫につかまり流されてきたと。 8 ▲第二・三波の水が、どんどん引いていく。わが家は瓦礫の上に乗っていた。助かった。 再会した妻に、まず叱責を受ける。妻の避難勧告を無視して残ったので弁解できない。 ▲松原町の人々 ▲津波の先端は我が家から80メートルもさかのぼっていた。 9 ▲どうすることもできず、たたずむ避難住民たち 10 ▲この大津波での大惨事は、記録しなければ…と残ったカメラを持って歩き始めた。津波の恐ろしさにたたずむ松原町内の人々 11 2011.3.12 被災翌日 ▲松原神社から釜石湾を見渡す。黄色の建物前が国道 283 号線…瓦礫の山で道路は遮断されている。 12 ▲松原神社から釜石湾を見渡す。右前方奥に釜石警察署が見える。 13 14 ▲松原神社から三陸鉄道を写す。道路が寸断され平田~釜石市街への人々の道路となる。 ▲右側のオレンジ色の建家は警察署付近から流れてきたようだ。 15 2011.3.13 撮影 ▲三陸鉄道架橋から町内を見渡す。松原町 3 丁目と港町付近…すべてが廃墟・瓦礫と化す。 16 ▲松原町 3 丁目と矢ノ浦橋(海から 1 番目の橋) 17 ▲三陸鉄道架橋から町内を見渡す。松原町 3 丁目 18 ▲国道 283 号線と国道 45 号線の交差点 19 ▲避難所で町内会の会長たちが安否確認。松原コミュニティー対策本部 20 ▲残された食料などの調達。 21 ▲大地震時道路へ落石(大きい石で驚く。近くの家は無事。) 22 ▲松原町1丁目 わが家の壁に傾く電柱をのり越え脱出した。 ▲松原町2丁目から松原神社を望む。 ▲松原町 1 丁目 ▲車が重なり合う凄まじさに驚く… 松原町2丁目 23 ▲自衛隊による捜索。私も手を合わせることが多かった。とても写真には残せなかった。松原町 2 丁目 24 ▲松原町 2 丁目 25 ▲松原町 2 丁目 26 ▲家から脱出したとき。 松原町 1 丁目 ▲松原町 2 丁目 ▲松原町 1 丁目 ▲自衛隊・消防団員・地区住民で必要な事、安否確認などを話し合う。 27 ▲大渡町 片側に押し寄せられた泥だらけの道路 28 ▲大渡町 泥濘の道路 29 ▲大渡町…自衛隊が道路整備を始める(午前中) 30 ▲大渡町 藤勇醸造(株)付近…人々はあぜん… 31 ▲大渡町のぞみ病院前 32 ▲大渡町福祉センター前 ▲観音寺(お薬師さん)前…三方向からの波が押し寄せた。 ▲藤勇醸造(株)の横…醤油樽も被害を受けたが店はいち早く営業を再開した。 33 ▲観音寺前…。大町 34 ▲大町観音寺前…お薬師さん 35 ▲消防署員は無事だったと聞いた。大町 36 ▲ここは、川と海と製鐵所中番庫の 3 カ所から津波が襲った。瓦礫が重なっている。大渡町 37 ▲東北電力前、後に店内に残された方が見つかったと聞いた。大町 38 ▲津波の大きさを…まざまざと。大町 39 ▲アーケードの上まで津波が押し寄せ、電柱が折れ曲がっていた… 大町商店街 40 ▲大町商店街 両端に瓦礫の山、津波の威力をまざまざと。中央道路には瓦礫がひとつも残っていなかった。 41 ▲只越町…道路中央は片付けられたものではない… 42 大町交差点 街路の電気時計は、なぜか 10:08 で止まっている 道路中央は片付はしていない、 波の強さで生じた現象か。 只越町国道 45 号線…宮古への道路 43 44 ▲只越町…たたずむ人 ▲浜町(海側) ▲釜石市役所前(白い建物) ▲国道 45 号線高架橋下、重なり合うトラック ▼駅前広場 一方に向く自動車(引き波か?) ▲導く自衛隊 45 46 ▲飼料運送コンベアは波打っている。 ▲矢ノ浦橋、奥に見えるのが嬉石町環境整備モデル住宅(アパート) ▲三陸鉄道は、安否を訪ねたり、食料調達などの道路代わりになった。松原町堤防破壊 ▲矢ノ浦橋 三の橋 三の橋 大渡橋 47 2011.3.13 AM10:54 ▲市営ビル前 波が寄せた手前は何も残っていない。浜町に至る 48 AM10:55 ▲市営ビル前…中道路は…不思議に 49 ▲魚市場 50 ▲自衛隊と松原町内会の対策本部 51 ▲自衛隊の傍で子どもが…あどけなく 52 ▲少しでも食料を調達しなければ。 53 2011.3.15 撮影 ▲国道 283 号線…松原町道路整備 54 ▲国道 283 号線 松原町2丁目に流れ着いた船 55 56 ▲松原町 1 丁目 整骨院前 ▲松原町 1 丁目 ▲松原町 1 丁目 ▲松原町 1 丁目 ▲三陸鉄道から撮影 ガスタンクに登って助かった人もいたと聞いた。 57 2011.3.17 撮影 ▲新日鉄構内の橋。流れ着いた木材。雪が残っている。河口から2.5km の地点。 58 あの真っ黒になって襲ってきた海は、 何ごともなかったように 7 日後には青さと静けさを取り戻していた。 ただ世界に誇る湾口防波堤が、その凄さを物語っている。 この湾口防波堤がなかったら私の命は亡かったかもしれない。 復元と更なる補強を望みたい。 そこから釜石の再生が始まると思っている。 59 2011.3.18 撮影 ▲大平から釜石湾を撮影。 60 61 ▲手前は釜石警察署。矢の浦橋。三鉄と三の橋が遠くに見える。 62 ▲釜石湾口防波堤は津波の大きさを伝えている。津波の到来を5分以上遅らせ、波の高さも押さえてくれた。この防波堤で多くの命も助かった。私も! 後に尾崎白浜に在住する人に聞くと、大津波1波は完全に押さえこんだ湾口防波堤。すかさず2波が襲い、崩壊したそうだ。 63 ▲大平中学校に避難する車。 64 ▲嬉石町、山際で渦を巻く津波に恐怖を感じた人が多かったと聞く。 65 ▲嬉石町 66 ▲嬉石町 ▲嬉石町国道 45 号線交差点 ▲国道 45 号線、屋根の上に車が… ▲嬉石町 67 ▲嬉石町 68 ▲傾き流されたわが家。瓦礫に乗った2階の窓から脱出。戸惑いながらも不思議に歩けた。 69 2011.6.27 撮影 ▲貨物船アジア シンフォニー(4724t)は釜石湾を右左と流され防波堤を乗り越えた。 70 71 72 73 2011.10.1 撮影 ▲ 10 月ようやく海に戻る日がきた。 74 75 ▼ 2011.10.20 貨物船が海に帰る ▲飛び交う取材機か? 76 ▲見守る人々 ▲ 11 月1日…広島県呉港へ 77 78 ▲貨物船を見守る人々 79 桜咲く 桜が咲いた、今年(2012年)は心から綺麗だと思えた、全国から鯉のぼりも贈られてきた。 桜と鯉のぼりは、近辺でしか同時に見ることはできないらしい。 大畑の一本桜、青木の石割桜も紹介しておきたい。 ▲桜木町仮設団地から 80 ▲桜木町仮設団地にて ▲大畑の一本桜 ▲八分咲きの一本桜 81 ▲親和橋 ▲小川町 82 ▲小川 川面に漂う花弁 ▲福祉の森にて 83 ◀▲石を力強く割る桜の根。通い続けても満開に出会うことが難しい。 今年は思いが通じたのか満開の石割桜が迎えたくれた。嬉しかった。 妻と目が合う。自然に笑みがこぼれた。 84 ▲ 7 月 蛍も群舞した。夢中で妻と二人で写真を撮った。光の舞に心を癒された。 85 ▼満開 波打つ桜 ▲大畑一本桜 86 ▲桜の生命力 87 ▲ 2012.4.21 撮影。1年後の松原町瓦礫撤去 88 ▲復興 再開した松原神社まつり 89 我がまち、岩手県釜石市 釜石市は今から 1200 年ほど前までは「むつの国」の小さな漁村でした。 釜石と言う村名は、遠野通、大槌通に1カ村ずつあったのです。釜石の 地名は、アイヌ語のクマ、ウシ平岩のあるところというのがその語源で あるといわれ、水辺や川の中に平たい岩があり、魚が沢山あつまる所に 名付けた地名であると伝承されています。 漁業とわずかな田畑で農耕を営んでいましたが、この地で鉄が作られ るようになってからは「鉄と魚の町」として栄えてきました。 これはこの地方に良質な鉄鉱石があったことと、三陸漁場の中心地で あるという恵まれた条件によるものだったのです。 江戸時代以降の大小の津波の襲来度数をみると6、7年に1度の割合 で、また、古くからの記録によると40年~50年に1度の割合で津波 昭和40年代の釜石市 が来ています。また、政府の地震調査委員会によるとこの30年以内に 宮城沖で地震が発生する確率は99パーセント、三陸沖では90パーセ ントと大変高くなっており、それにともなう津波が発生する確率も当然 高いものと考えられます。 釜石市郷土資料館ホームページより ▲ 10 月釜石祭り(尾崎神社) 90 ▲松原神社から釜石湾を望む ▲千島町旧国道 釜石駅周辺 ▲お祭り ▲お祭り 岩手県釜石市 歴史 霊亀 元年(715) 奈良時代/蝦夷須賀君古麻比留ら「先祖来昆布をたてまつって居りますが 国府まで遠いから閉村に郡家を建ててもらいたい」と請うて許される。 天平 1 年(749) 奈良時代/陸奥の国から始めて金が産出された。 延暦21 年(802) 平安時代/坂上田村麻呂が遠く閉伊まで来る。 正平10 年(1355) 室町時代/閉伊氏が滅ぶ。 享和 元年(1801) 江戸時代/伊能忠敬の第二次測量。 唐丹村本郷にて天測を行い、39 度 12 分の数値を得る。 安政 4 年(1857) 江戸時代/大島高任が大橋に高炉を建設。 日本ではじめての近代製鉄法、鉱石精錬に成功。 平成 元年(1989) 新日鉄釜石製鉄所の高炉が休止される。 平成 4 年(1992) 三陸海の博覧会開催。総入場者 200 万 5281 人。 平成 6 年(1994) 仏・ディーニュ市と姉妹都市になる。 平成13 年(2001) 釜石シーウェイブス RFC 発足。 平成15 年(2003) 三陸南地震で震度 5 強を観測。 平成20 年(2008) 岩手県沿岸北部地震で 5 強観測。 平成23 年(2011) 3 月 11 日、東日本大震災による津波で 壊滅的な被害を受ける。 明治 5 年(1872) 岩手県になる。 昭和40年代 明治22 年(1889) 釜石村と平田村が合併、釜石町となる。 明治29 年(1896) 明治三陸地震津波来襲。死者 6,687 名。 昭和 8 年(1933) 三陸地震津波来襲。死者 164 名、行方不明 245 名。 昭和12 年(1937) 市制施行、釜石市となる(人口 4 万 388 人) 。 昭和20 年(1945) 2 度の艦砲射撃をうける。 ▲釜石湾 公共埠頭(埋立地) ▲釜石只越町山頂から新日鉄 ▲矢の橋から甲子川 奥、新日鉄煙 ▲釜石小佐野球場 ▲大平から嬉石町周辺 ▲大町丸光デパート ▲只越町山頂から釜石湾 ▲矢の浦橋から新日鉄を望む 昭和25 年(1950) 釜石線全通。 昭和30 年(1955) 甲子村・鵜住居村・栗橋村・唐丹村の 1 市、4 村合併、新体制。 昭和35 年(1960) チリ津波来襲。 昭和50 年(1975) 釜石市民憲章制定。 市のシンボル決まる (市の花・はまゆり、市の木・たぶのき、市の鳥・オオミズナギドリ) 昭和53 年(1978) 湾口防波堤の建設事業に着手。 昭和60 年(1985) ラグビー日本選手権大会で新日鉄釜石が 7 連覇達成。 91 桜木町仮設団地 自治会より 2011 年 6 月頃から入居が始まり、 10 月末に自治会が発足になりました。 メラマンの横山さんを通じて元 NHK キャスターの上田さんが快く受け 113 世帯、釜石市の 15 町村から 280 人ほどが、集まった仮設住宅団地 てくれました。そして日本消費経済新聞社の吉田社長・村上さんが、今 となりました。 回の震災記録集への協力とスポンサーを探してくれました。また上田さ んの声がけでデザイナーの伊達さんが記録写真集のデザインを考えてく れるなど、多くの方のご厚意に本当に感謝しております。 この記録写真集は、今後イベント会場などで CD 朗読と合わせて多く の方の記憶に残るように活用させて頂きたいと考えています。 ▲絆 夢あかり写真 2012.3.11 2012 年 9 月現在は 109 世帯が住んでいます。皆さんが今の立場と環境 でできることを率先して行ってくれています。ボランティアさんもたく さん訪問してくれて本当に感謝にたえません。本当にありがたいことで す。 自治会発足当初は誰が住んでいるのかもわかりませんでした。また、 この震災で体験したことを、生きた私たちが後世に残したい、心の奥に しまい込んだ痛みを少しでも吐き出して貰いたい、訪ねてお話をするこ とで住人と近づきたい、そんな考えで文集『 “3 月 11 日”のあなた』を 綴ることにしました。それを CD にして、どこでも、例えば車の中でも 聞けるようにして後々に伝え残したいと考えていた時に NHK の報道カ 92 写真集に寄せて 2012 年3月に仙台を訪れ、東北大震災の被害の凄さを実感した私だったが、そ 出没」を告げていた。 の後、元 NHK キャスターの上田千華さんから、岩手を訪問しないか…という話 また、漁の網でミサンガを作り、少しでも復興の足しになれば…と女性たちの をいただいた時に「行きます」と即答していた。 仲間で「浜のミサンガ」を作っておられる齊藤祐子さんのご主人、秀喜さんは 岩手を訪問して、色々な話を聞き、目にして、こんな私でも少しでも役に立ち 「ニュースを見ていると、みんな、ガレキ、ガレキって邪魔者扱いにしているが、 たいと思い、この写真集の寄付金担当をかってでました。 あれは私たちの財産であり思い出なんです」と力強く言われた。まさしくそうな 4月といえども、岩手は底冷えがしていた。花巻空港に着陸して車を釜石方面 んだ。大切にしていたものなのだ。 に走らせていると、あちこちに「ありがとう」の文字があった。本当に突然に、 被災者は僕たち人間だけでは無いと言われた佐々木さんや、ガレキは僕たちの 被災地が現れ驚かされた。最初に訪問した釜石市の桜木町仮設団地で事務局をさ 財産・思い出、と言われた齊藤さんの言葉が忘れられず、少しでもお役に立ちた れている松田新悦さんから、地震や津波の話とともに放映されていない DVD な いと名乗り出て写真集の寄付金集めをさせていただきました。 どを見せていただき、言葉に表せない凄さを感じ取ることができた。「震災以来こ この写真の説明は、野舘さんご夫妻が振り返りながら考えてくださいました。 の町から出たことがない。もし良ければ大槌町まで乗せて行っていただけません でも、矢ノ浦橋や三ノ橋、大渡橋での説明が無かったので再度お願いしましたが、 か?」と言われる松田さんと一緒に出かけたものの、以前にあった建物が無くなっ 瓦礫や車の下などカメラに収めることができない光景が脳裏に浮かんできて言葉 ていて、松田さんの感は鈍っていて、戸惑っている姿に震災の凄さを感じた。 に表せなくて、すみませんとの返事がありました。 松田さんは、釜石警察署の前にある家に一人で留守番をしていた父を迎えにい 岩手訪問中には、「若い漁師さんが、父親と船を見に行き波に流されたが、引き き、避難途中で車ごと流されながらも助かった。「後ろの車は、どうなったのか」と、 波の時に橋桁に結んであったロープに必死につかまって助かった」とか、「海近く うつむかれる。 の事務所の屋上に避難した人は、押し寄せてくる波に恐怖を感じながらも、川を 同仮設団地の大和田泰佑自治会長は、仮設住宅をくまなく見せてくださり、居 流されていく家の2階から手を振っていく姿に、どうすることもできず泣き叫ん 住されている方からの声も聞かせていただけた。「夫と家は津波で…」と涙を浮か でいた」などの話も聞いた。 べながら、ボランティアとして手伝っておられる主婦にも会った。言葉は返せな 現在、桜木町仮設団地は釜石のほとんどの町から集まってきていて、グランド かった。 ゴルフや手芸など、皆と一緒に居る時間を大切にしているとのこと。 寒風吹きすさぶ浜辺で「1年ぶりです」と明るい顔で、塩蔵若布を作っておら 言葉に十分言い表せないことが多々ありますが、野舘さんの大切な写真を後々 れた若い阿部力さん。「これが終われば、昆布です」と。仕事がある幸せを感じ 伝えて行くために、同じことを二度と繰り返さないためにも、少し時間がかかり 取ることができたが、もちろん彼らにも家は無い。 過ぎましたが、このような立派な写真集を作ることができました。ありがとうご 2日目に訪れた大槌町教育委員会事務局におられた佐々木健さん。「被災者は ざいました。 僕たち人間だけでは無いのです。ツバメや動物も被災者なんですよ。今年は例年 一人でも多くの方にこの写真集を見ていただきたいので、口伝えにでも広めて より早くツバメを見かけましたが、彼らには巣をつくる場所が無いのです」と告 いただければ幸いです。 げられた。そう巣を作る「軒(のき)」が無い。家が無い。その時、町内放送で「熊 村上裕子 93 刊行にあたって 絶対にここまでは、津波はこないと信じていました。あの大きな地震 でさえも、妻に早く逃げようと促されても意地をはって逃げませんでし た。目の前に真っ黒な波が家や車を押し流しながら迫ってくるまでは。 …わが家が傾きながらも壊れずに流された。運が良かっただけだったと 思っている。2 階の窓からの写真は大事にしていたカメラが手元に残っ ていたからだった。この大惨事の記録は絶対に 3 日以内に残さなければ ならないと思い歩き始めました。必ず後世の役にたつことがあるだろう と歩き続けました。松原町でボランティア活動をされている方、記録を 欲しいという方には、役立ててほしいとの願いから皆さんに差し上げま した。それから桜木町仮設に移り住んで、自治会が発足して、大和田会 ▲平成9年 10 月 31 日 NHK 退職記念でいただいた時計 長や書記の松田さんと知り合うことになりました。防犯部で団地内のパ トロールなど協力するうちに、声がけも多くなり、趣味としていた写真 のことも知れることになり、震災の写真も見せる機会も多くなっていき ました。その時に日本消費経済新聞社の吉田社長さん・村上さん、元 NHK キャスターの上田さんと桜木町仮設団地自治会の出会いがあり、松 田さんが記録写真集のお話をされたようです。そして思いもしなかった 記録集ができました。本当に感謝の気持ちで一杯です。ありがとうござ いました。少しでも皆さんの記憶にとどまって忘れることのないように 未来に役立って欲しいと願っております。 94 2年目の春を迎えて、今年は妻と二人で桜を追いかけました、宮古の 一本桜・笛吹の幻の滝・大畑の一本桜・青ノ木の石割桜、今まで何ども 見た桜木でしたが、今年は心に穏やかな桜風が吹いてくれたように感じ ています。6 月には SL(蒸気機関車)が釜石線を走りました。もちろん 二人で追いかけました。7 月には団地前の川でのホタルの光舞に心を踊 らされました。傷んだ心が癒しを求めていたのでしょうね。 皆さんからの声、励ましで元気をもらって前に進む気持ちが強くなり ました。 この震災は絶対に忘れてはいけない、二度と同じ過ちは犯してはいけ ないと思っています。この記録が少しでも役に立ってくれることをあら ためて願って綴っております。瓦礫の中に平成 9 年 10 月に NHK を退職 した時に記念に戴いた時計を見つけ 3 時 26 分で針が止まっているのを見 ▲ 2012 年 5 月 7 日青ノ木にて撮影。野舘義勝・一子 た時に、その思いはより強くなりました。 後世に一言…津波は又来る。 大きな、何時もと違う地震が来たら高台へ避難する。 避難したら絶対に戻るな。 先ず自分が生きろ「とりあえず、にげっぺし」 野舘義勝 95 ◎作者略歴 野舘義勝(のだてよしかつ) 昭和 12 年 10 月 3 日釜石市松原町で生誕。魚業・建設会社・運送会社に務める 中で大型特殊・大型 2 種の免許を取得。昭和 42 年 10 月NHKへ入局。釜石放送 局、盛岡放送局に従事する。平成 9 年 10 月 31 日退職に至る。 昭和 43 年頃、家族旅行での記念写真の失敗が、カメラ(写真)にのめり込むきっ かけだった。モノクロ時代…自分で現像も写真の引き伸ばしにもハマるほど夢中 になった。一方、海釣りの魅力につられて、中古船を買い、休日は釣りを楽しむ ことも多くなっていった。盛岡放送局への転勤を機に、船を売却し、再びカメラ 熱が燃え上がる。職場の文化祭に作品を展示するなど活動が始まった。 平成 13 年 6 月釜石夏祭りフォトコンテストにて東海新聞社賞を受賞。 国土交通省「道」への応募。釜石八景では「月と観音」で入賞。 孫たちの写真、風景などを中心に撮り歩く。春は一本桜、山あいにひっそりと咲 く桜を探し求めて歩く。秋は紅葉風景、納得する写真が撮れるまで通い続ける。 SL運行などイベントがあれば駆け参じ、気の向くまま撮り続けています。 後世に継ぐ 2011.3.11~ 岩手県釜石市 記録写真集 発 行 2012 年 12 月吉日 著 者 野舘義勝・野舘一子 協 力 桜木町仮設団地 発行者 吉田英広 企 画 村上裕子 編 集 松田新悦 上田千華 装丁・ レイアウト 伊達謙治 発行所 野舘義勝記録写真集制作委員会 〒 530-0054 大阪市北区南森町 1-1-26 株式会社 日本消費経済新聞社内 (c) Yoshikatsu Nodate 2012, Printed in Japan 96