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蠅帽子嶺
067 蠅帽子嶺 元治元年(1864)旧暦12月4日。武田耕雲斎に率いられた水戸天狗党8百人余の一行は、 揖斐川に沿った最奥の集落、大河原に入った。本来なら大垣~関ヶ原~彦根の中山道を 行きたいのだが、幕府側の岐阜加納藩や彦根藩兵が待ち構えている。そこで彼らは奥美濃の蠅 帽子峠を越えて越前へ抜けるコースに転じた。これが彼らの運命を悲劇へ変えることになっ た。 一行は金の葵紋の箱、長柄の傘、御紋付の長持、長棒の駕籠まで持ち、 「従二位大納言」の水戸烈公の大旗をなびかせ、威風堂々と行進してきた。 突然の大部隊の出現に大河原の人々は驚いた。集落はワラ葺き家で村人たちは、 『村が潰れてしまう!』 と慌てふためいた。季節はすでに厳冬をむかえ、越前から峠を越えて吹き下ろす雪まじりの寒 風は、たちまち枯草原や山肌を白い世界に変えていく。天狗党一行は集落に分散して宿をとる。 前の河原の焚き火は暗い冬空を焦がした。彼らは村人に使役奉仕はさせたが、乱暴なことは一 切しなかったという。 天狗党は大河原で合議の結果、 『このまま蠅帽子越えを登って越前へ抜ける』 と再確認する。蠅帽子峠は能郷白山の温見峠から峰続きである。彼らは夜明けと共に吹雪の中 を出発した。馬や大砲、荷物の多くは投棄され、女や病人は水戸へ返すことにした。 道はすぐジグザグの急になる。氷点下の猛吹雪の中を重い装備を背負って登る。やっとの思 いで峠を越えて、急峻で危険な越前側を下る。目標としていた秋生など五ケ村に、ようやく辿 りついてみると、驚いたことに家は焼き払われ無人と化していた。金沢藩の戦略だった。 一行はやむなく焼け跡に野陣を張り一夜を明かした。耐え難い寒気と飢えで多数の人足 が命を落としたと伝える。そして笹又峠を越え宝慶寺、池田へと出て敦賀に着く。 ここへたどりつけたのは820人余、だが謀略にかかり破れたニシン小屋に幽閉され、多く の人が死亡した。さらに松原村の刑場で350人が斬殺されてしまった。 この悲劇は島崎藤村「夜明け前」にも描写されている。「この蠅帽子峠に立ちたい」その思 いがつのり、ふわくの仲間5人はやってきた。むかしは這法師峠、這帽子峠、道越峠、灰ホウ ジ峠など。また近くに蠅帽子嶺 1037.3mがある。これは道越山と呼ばれていたが、登山者が 蠅帽子嶺を定着させた。大河原の古老の話では 『この辺りは蠅(アブ)が多く、峠を越える旅人を真っ黒 に襲い、帽子を被ったように見えるので名前がある』 という。たしかの大型のアブに襲われた人が多い。越前側では 『西行法師が這って越えたのでハエボウシという』 私たちは揖斐川源流の根尾村大河原に 車を置き、コワタビ谷を渡渉して亘る。 すぐ尾根にとりつき登りになるが、昔の 峠道は歩きやすい。ところどころはっ きりしない所もあるが、間違えること はない。風に汗を冷まし蠅帽子峠につく。 そこには古い地蔵様があった。私たちは 天狗党の悲劇を思い、地蔵様に頭を垂れ 成仏と無事を祈った。道はすぐむこうの 【蠅帽子嶺】 福井県側へくだっているが、岐阜県側に 【峠の地蔵】 比べて荒れているようだった。 折から雨も降ってきた。私たちは峰伝いの蠅帽子嶺から大急ぎで下山した。