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駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係

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駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
Journal of Asian and African Studies, No., 
論 文
駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
村 上 信 明
(創価大学)
A Study of the “Zhanli (瞻礼)” by the Ambans in Lhasa
and the Relationship between the Qing Dynasty and Tibet
in the Latter Half of the 18th Century
Murakami, Nobuaki
Soka University
Zhanli (瞻礼) was a ritual in which the Ambans (the minister dispatched to
Tibet by the Qing court) worshipped by performing ceremonial kowtows
before the Dalai Lama and Panchen Lama, and expressing religious veneration and sincerity through presenting scarves (katag). Until the end of the 18th
century, when the Ambans in Tibet had an audience with the Dalai Lama or
Panchen Lama, he was required to perform zhanli in accordance with Tibetan
Buddhism practices. However, the Qianlong emperor required that, in principle, formal administrative documents retain no record of Qing officials
kowtowing to Tibetan Buddhist prelates. Even if such records were kept, the
homage had to be described as a private action. Due to this rule concerning
administrative documents, almost no recorded reports of kowtowing before
the Dalai Lama were submitted to the emperor by the Ambans in Tibet. is
policy was designed to keep Han Chinese officials, the Han elites, who were
imbued with Sinocentrism, from discovering the true nature of the Qing-Tibet
relations based on the values of Tibetan Buddhism.
For the five-year period from 1783 in which the Qing court was extremely
optimistic about conditions in Tibet, there are several records of kowtowing
by the Ambans in Tibet before the Dalai Lama and Panchen Lama. Following the Gurkha War of 1788 such references again disappear. In 1794 to show
that the political status of the Ambans in Tibet vis-à-vis the Dalai Lama was
one of equality, the rite of the zhanli by Ambans in Tibet was terminated. is
Keywords:
Qing Dynasty, Ambans (Minister of the Qing Dynasty) in Lhasa,
Kowtow, Tibet, Dalai-Lama
キーワード :
清朝,駐蔵大臣,叩頭,チベット,ダライラマ
* 本稿は,第 46 回野尻湖クリルタイ[日本アルタイ学会]での研究報告「駐蔵大臣の『上山瞻礼』に
みる 18 世紀後半の清・チベット関係」
(2009 年 7 月 18 日に報告)の内容に修正を加えて執筆した
ものである。席上,有益なご意見を下さった諸氏に謝意を表したい。なお本稿は,平成 21∼23 年度
科学研究費補助金・若手研究(B)「18 世紀後半の清朝藩部統治体制における旗人官僚の人事システ
ムと統治政策の展開」(研究代表者・村上信明)による研究成果の一部である。
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アジア・アフリカ言語文化研究 81
policy move was not intended to change the essence of the traditional relationship between the Qing Dynasty and Tibet, which was rooted in the value of
Tibetan Buddhism, but rather the move was to establish order in Tibet by the
Qing, as the protector of Tibetan Buddhism.
For that reason, even aer the Ambans in Tibet stopped performing the
zhanli, he still had to respect the religious authority of the Dalai Lama and
Panchen Lama.
記録の出現
はじめに
第 1 章 駐蔵大臣の「瞻礼」とはどのような
第 4 章 第一次グルカ戦争の勃発と駐蔵大臣
の奏摺における「叩頭」記録の消滅
行為か
第 2 章 大転世僧への「瞻礼」に関する清朝
第 5 章 乾隆末年における駐蔵大臣の「瞻
礼」の停止
の檔案記録の規範
第 3 章 駐蔵大臣の奏摺中における「叩頭」
おわりに
清朝皇帝とダライラマは「施主」と「応供僧」
はじめに
という仏教的な対等の関係にあったと述べて
いる。また石濱(2001: 353-355)は,17∼
本稿は,清朝(大清国)がチベットに派遣
18 世紀には清朝がチベット・モンゴルとチ
した大臣(駐蔵大臣)がラサで行なっていた
ベット仏教の世界観・王権思想を共有し,チ
「瞻礼」の具体的内容と,1780-90 年代におけ
ベット仏教の秩序・価値観に基づく「チベッ
る「瞻礼」をめぐる施策の展開を検討し,18
ト仏教世界」を形成していたと論じている。
世紀後半の清朝がチベットとどのような関
このような見解の相違は,駐蔵大臣とダラ
係を結んでいたのかを究明するものである。
イラマ・チベット政府の関係についても見ら
従来,清朝・チベット関係については,主
れる。前者は,駐蔵大臣はチベットの一切事
に二つの見方が提示されてきた。一つは,両
務(軍事・財政・人事・渉外・商務貿易な
者が「支配・被支配」関係にあり,清朝がダ
ど)を管理・統制する権限を有しており,
「理
ライラマ・パンチェンラマへの冊封,各種章
論上ではダライラマ・パンチェンエルデニと
程の制定,駐蔵大臣の派遣等によりチベット
対等な地位にあるが,実際には(ダライラマ
政府を管理・統制下に置き,チベット側も清
らより地位が)上であった」(蕭 1996: 233)
朝の支配を受け入れたとみるもので,中国・
と見なすのが一般的である。一方,後者の見
台湾の研究者の多くはこの見方をとる1)。も
方をとる鈴木(1962: 44)は,駐蔵大臣はチ
う一つは,清朝皇帝とダライラマはチベット
ベット仏教の大施主(清朝皇帝)が派遣する
仏教の論理・価値観に基づき「法」と「財」
代表使節としてダライラマに敬意を表し,清
を分けあう対等の関係にあったとみるもので
朝皇帝のチベット政府に対する支援や保護の
ある。鈴木(1962: 30-35)は,清朝皇帝が
措置を取りつぐ立場にあったと述べている2)。
チベットでは「文殊菩薩の化身」と見なされ,
こうした違いがはっきりと見られるのが,
1) (趙 2000: 4-5)・(蕭 1996: 233-234)等,参照。中国における駐蔵大臣に関する研究概況をまとめ
た論考に(祁・趙 2009)がある。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
駐蔵大臣がポタラ宮等で行なっていた「瞻
47
威者として崇敬する行為であり,皇帝の意向
礼」に関する見解である。この問題に関して
を受けて行なわれていたと見なす点で,劉
劉(1997: 72-73)は,乾隆 16 年(1751)の
(1997)や廖・李・李(2006: 65)とは根本
「酌定西蔵善後章程十三条」により駐蔵大臣
的に異なっている。両者の間には,前述した
とダライラマの地位を対等と定めたにも関わ
清朝・チベット関係についての見方の違いが
らず,その後の駐蔵大臣の多くがダライラマ
見事にあらわれていよう。そこで筆者は,駐
に対して叩頭するなど謙遜・崇敬の態度を示
蔵大臣の「瞻礼」の具体的内容を検討するこ
しすぎたことでチベットにおける実質的地位
とにより,このような見方の違いが生じる背
の低下を招いた。そこで乾隆帝は,乾隆 58
景を明らかにできるのではないかと考える。
年に「瞻礼」を行なわず,ダライラマに会う
さらに劉(1997)は,駐蔵大臣の「瞻礼」
際も叩頭してはならないと命じた,と述べて
は 18 世紀後半にしばしば行なわれていたが,
いる。劉は,乾隆帝はモンゴル人・チベット
乾隆 58∼59 年(1793∼94)に至り,駐蔵大
人の懐柔策として,チベット仏教に対して少
臣の地位・権限を高めるために停止されたと
しばかり礼を厚くして優遇するよう命じてい
する4)。これに対して鈴木(1962: 51-52)は,
たが,その内容が曖昧だったため駐蔵大臣が
清朝のチベット政務に対する干渉・監督・統
理解できず,しばしば謙遜・崇敬の態度を示
制は 1792 年にピークに達したが,清朝には
しすぎていたと見ている。
ダライラマの宗教的尊厳性までも冒そうとい
また廖・李・李(2006: 65)は,駐蔵大臣
の「瞻礼」とはポタラ宮の紅宮の殊勝三界殿
(サスムナムギェル)にある乾隆帝の肖像画
3)
う考えはなく,これ以降も駐蔵大臣は「瞻礼」
を行なうべきとされた,と述べている。この
ように両者は 1790 年代における「瞻礼」に
を仰ぎ見た後,ダライラマに面会して相互に
関する清朝の施策についても異なる見解を示
挨拶するという行為で,ダライラマに対する
しており,当該時期の駐蔵大臣とダライラ
「礼儀としての訪問」であったと説明する。
マ・チベット政府の関係を理解する上では,
廖らの見解は,駐蔵大臣の「瞻礼」がダライ
この施策がいったいどのようなものであった
ラマに崇敬の姿勢を表すものではなかったと
のかを改めて詳細に検討する必要があると筆
いう点で,劉(1997)と異なっている。た
者は考える。
だ両者とも乾隆帝によるチベット仏教優遇が
以上のような問題関心に基づき,本稿では,
モンゴル人・チベット人の懐柔策であったと
まず第 1 章・第 2 章において,駐蔵大臣の「瞻
する点,駐蔵大臣がチベットの一切事務を管
礼」の具体的内容と,この行為に関して前述
理・統制する立場にあったとする点では,共
のような見解の相違が生じる要因について検
通の認識をもっている。
討する。続いて第 3 章∼第 5 章では,1780
これに対して鈴木(1962: 44)は,駐蔵大
年代から 90 年代にかけて駐蔵大臣の「瞻礼」
臣の「瞻礼」を,チベット仏教の大施主(清
問題が提起され,これに関して新たな施策が
朝皇帝)が派遣した代表使節としてダライラ
とられていく過程を検討し,当該時期の乾隆
マに敬意を表すものであったと理解する。こ
帝が,駐蔵大臣とダライラマ・チベット政府
の見解は,「瞻礼」がダライラマを宗教的権
の関係のあり方についてどのように考えてい
2) ただし鈴木は,駐蔵大臣がチベット政府を監視・統制していたことを否定しているわけではなく,
この役割と同時に「大施主」の使節としての機能をはたしていたとする。
3) ポタラ宮・紅宮の殊勝三界殿に置かれた,袈裟を着た乾隆帝の肖像画のこと。これは乾隆帝がダラ
イラマ 8 世の即位式(1762 年)の際に贈ったものだとされる(田中 1996: 82)・(Rawski 1998: 262)。
4) 蕭(1996: 142-143)も,記述は簡略であるが,劉と同様の見解を示している。
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アジア・アフリカ言語文化研究 81
上諭に次のような記載がある。
たのかを究明する。
なお本稿では,主な史料として清朝の満
文・漢文檔案史料を用いる。満文・漢文史料
を引用する際には原文(満文はローマ字転
5)
【史料 1】『欽定廓爾喀紀略』巻 30,乾隆
57 年閏 4 月 24 日条11)
写 )を注に記す。引用史料中の〔 〕は筆者
また聞くに,
(新任の駐蔵大臣)和 琳は平
が補った語句,( )は筆者による注記であ
素から仏を敬っている。この度チベットに
る。また下線はすべて筆者が書き入れたもの,
到着してダライラマ・パンチェンエルデニ
ゴシック斜体字 部分は乾隆帝の硃批である。
と会見する時には,自ずと必ずや常に照ら
第 1 章 駐蔵大臣の「瞻礼」とは
どのような行為か
漢語の「瞻礼」は,
「仰ぎ尊んで礼拝する
6)
して瞻礼して敬意を表すだろう。仏法では
もとよりこのようにすべきである。
ここでの「瞻礼」は,前述の『清高宗実録』
こと」を意味する語である 。『清高宗実録』
での語義・用例を踏まえれば,チベット仏教
では,「上(乾隆帝)は皇太后をお連れして
における崇拝の対象であるダライラマ・パン
万寿寺に詣でて瞻礼した7)」,
「上は岱(泰山)
チェンラマに礼拝し,敬意を表すことを意味
に登り,碧霞宮(道教寺院)を詣でて瞻礼し
していると考えてよい。
た8)」とあるように,「瞻礼」は仏教・道教
では,駐蔵大臣がダライラマ・パンチェン
寺院に詣でて礼拝することを意味する語とし
ラマに対して敬意を表す「瞻礼」とは,具
て使用されている。また『清高宗実録』巻
体的にどのような行為であったのだろうか。
1275, 乾 隆 52 年(1787)2 月 丙 辰[18 日]
乾 隆 52 年 6 月, 新 任 の 駐 蔵 大 臣 で あ っ た
条には「ハラチンの親王品級の多羅郡王喇特
雅満泰は,ダライラマとの会見の様子につい
納錫第は,……今五台山に赴いて瞻礼した後
て次のような奏摺を上奏している。
9)
に病死した 」とあり,チベット仏教を信奉
するモンゴル王公が当時チベット仏教の聖地
12)
【史料 2】
「満文録副」3166-3(140-1141)
,
の一つとなっていた五台山10) に礼拝にいく
乾隆 52 年 6 月初 7 日,雅満泰奏13)
ことを「瞻礼」と表現している。
今,奴才雅満泰は今年五月二十五日に蔵
駐蔵大臣の「瞻礼」に関しては,乾隆帝の
(中央チベット)に到着し,同日,奴才雅
5) 本稿では,メレンドルフ式(Möllendorff 1892)により満洲語をローマ字転写する。
6) 『漢語大詞典』上海辞書出版社,1986 年,第 7 巻,p. 1266,参照。
7) 上奉皇太后詣万寿寺瞻礼。『清高宗実録』巻 403,乾隆 16 年 11 月壬午[19 日]条。
8) 上登岱,詣碧霞宮瞻礼。『清高宗実録』巻 1005,乾隆 41 年 3 月丁亥[16 日]条。
9) 喀喇沁親王品級多羅郡王喇特納錫第……今赴五台瞻礼後病故。
10) 清朝時代の五台山におけるチベット仏教の興隆とモンゴル人の五台山信仰については(日比野・小
野 1995: 163-165),参照。
11) 再聞,和琳平素敬佛。此次到蔵時,見達頼喇嘛・班禅額爾徳尼,自必照常瞻礼致敬。於佛法固当如此。
12)「満文録副」の( )内の数字はマイクロフィルム番号と最初のコマの番号である。
13) te aha yamantai ere aniya sunja biyai orin sunja de dzang de isinjifi. ineku inenggi aha
yamantai. aliha amban liobooju. gung kinglin i sasa ① butala de enduringgei nirugan de
gingguleme dorolofi. sirame dalai lama be acaha manggi. aha yamantai dalai lama de bi jusei
kara šar ci enduringge ejen i hese be alime gaifi. ebsi jihe gemun hecen ci šangnara jaka be
unggime jabduhakū. ② amba ejen dalai lama de saimbe fonjire doroi amba šufa be giyamun
deri afabume gajiha seme ulhibufi. šufa be tukiyeme dalai lama de alibuha de. dalai lama teku
ci aljafi ilihai giogin arame šufa be alime gaifi alarangge. manjusiri dergi amba ejen. buya toin
be jilame gosime. isibuha ten i kesi. yargiyan i toloho seme ujirakū … seme alahabi. ② sirame
aha dalai lama de acara doroi hengkilefi šufa alibuha. [硃批] saha.
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
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満泰は〔理藩院〕尚書留保住・公慶麟とと
いる。これを踏まえれば,乾隆帝とダライラ
もに①ポタラ宮で「聖なる画」につつしみ
マ 8 世(ジャンペルギャツォ)も「対等の礼」
拝礼し,つづいてダライラマに会ったので,
を行なう関係にあったといえる。この奏摺に
奴才雅満泰はダライラマに「私は辺外のカ
ダライラマ 8 世が乾隆帝からの贈り物(カ
ラシャールから聖主の旨を受け取ってここ
ターなど)を叩頭せず立ったまま受け取った
に来ました。京城から賞賜する品を送る時
と記されているのは,両者が「対等」の関係
間がなく,②大いなる主(乾隆帝)はダラ
にあることを表していると考えられる。
イラマにご機嫌を問う礼により,大きなカ
次に,雅満泰は「ダライラマに会う礼」に
ターを,駅站を通して持ってきました」と
より「叩頭16)」し,カターを献じたと記して
理解させ,カターを捧げてダライラマに
いる(下線③)。この言葉は,叩頭してカター
献じたとき,ダライラマは座より離れて,
を献じることが,駐蔵大臣がダライラマに会
立ったまま合掌してカターを受け取り,
「マ
見する際の当然の礼儀であったことを示して
ンジュシリ上方大君主(乾隆帝)は,小僧
いる。
(ダライラマ八世)を慈しみ,及ぼした極
清朝官僚による叩頭は,パンチェンラマに
みの恩はまことに数えたとて尽きません。
対しても行なわれていたことが檔案の記録に
……」といいました。③続いて奴才(雅満
ある。乾隆 50 年 3 月,パンチェンラマが座
泰)はダライラマに会う礼により,叩頭し
主をつとめるタシルンポ寺に赴いた駐蔵大臣
てカターを献じました。
の慶麟が上奏した奏摺には,次のような記述
わかった。
がある。
雅満泰は,まずポタラ宮に赴いて「聖なる画
14)
【史 料 3】「満 文 録 副」3065-16(134-58),
enduringge nirugan」(乾 隆 帝 の 肖 像 画)
乾隆 50 年 3 月初 5 日,慶麟奏17)
に拝礼し(下線①),続いて「ダライラマに
①奴才(慶麟)はただちに旨・カターを献
ご機嫌を問う礼」により大きなカター15) を
げてタシルンポ寺に行き,転世(パンチェ
献じ,これをダライラマが立ったまま受け
ンラマ四世)に会い,カターを賞賜しにい
取った(下線②)と記している。石濱(2001:
くと,転世は立ったまま笑顔で受け取りま
337-341, 347-350)は,乾隆帝が自身の七旬
した。旨をジュンバホトクト・スイブンカ
万寿節に熱河を訪れたパンチェンラマ 3 世
ンブらにさとらせるよう下したとき,転世
(ペルテンイェーシェー)との間で,チベッ
は注意深く聞いているようで,頷いて喜ぶ
ト仏教の論理に基づき,同じ「仏」として
ように振舞います。②奴才は叩頭してカ
「対等の礼」を行なっていたことを指摘して
ターを献じ,③転世は応えて〔奴才に〕福
14) 本稿注 3),参照。
15) カターはチベット仏教において高貴な人に挨拶する際に献じられる白い絹の布のこと。
16)「叩頭する」は,満洲語で hengkilembi という。本稿で引用する満文史料の訳文中の「叩頭」は,
原文ではすべて hengkilembi(活用形含む)となっている。清朝の満文檔案では,チベット仏教を
信奉するオイラトのジューンガル人がパンチェンラマに礼拝することも hengkilembi と表現して
おり(
「満文録副」1250-1(30-113),乾隆 8 年 12 月初 5 日,玉保奏,参照),これがチベット仏教
徒がダライラマ等の大転世僧に礼拝することを意味する語であったことがわかる。
17) ① aha uthai hese. šufa be tukiyeme jasi lumbu juktehen de genefi. hūbilgan be acafi. šufa
šangnaha de genefi hūbilgan ilihai injemeliyan i alime gaiha. hese be jūngba kūtuktu. suibung
k‛ambu sede ulhibume wasimbuha de. hūbilgan gūnin werešeme donjire adali. uju gehešeme
urgunjeme arbušambi. ② aha hengkileme šufa alibufi. ③ hūbilgan amcame adistit sindaha. [硃
批] saha.
50
アジア・アフリカ言語文化研究 81
を授けました。
を交換していた。古くから長きにわたって
わかった。
このように行なわれていたのである。
この奏摺で慶麟は,まず乾隆帝から贈られて
ここでポズドネエフは,1878 年まで,庫倫
きた諭旨・カターを対等の立場でパンチェン
辦事大臣(満洲大臣19))をつとめる清朝官僚
ラマ 4 世(テンペーニマ)に渡し(下線①),
がジェブツンダンバホトクトに会う際には古
その後自らが叩頭してカターを献じたこと
くからの慣習として 3 回の叩頭を行ない,カ
(下線②)を報告している。そのおおよその
ターを交換していたと述べている。
手順は,【史料 2】にある雅満泰とダライラ
上述の史料から,清朝官僚がチベット仏教
マの会見の場合とほぼ同様であることがわか
の大転世僧と会見する際には,チベット仏教
る。下線③は,ダライラマ等の高僧が礼拝者
の礼儀・慣習にしたがい,叩頭して崇敬の念
の頭に手をのせ,福を授ける「摩頂」のこと
を表し,カターを献じる必要があったことが
であろう。このほかにも清朝檔案には,乾隆
見て取れよう。
帝の七旬万寿節の際に応接を担当した清朝官
そもそも大転世僧への「叩頭」は,乾隆帝
僚(永貴・伍彌泰)がパンチェンラマ 3 世に
自身も行なっていたことで知られる。乾隆帝
叩頭していたという記録がある(村上 2006:
の七旬万寿節に居合わせた朝鮮の朴趾源は,
133-134)。また石濱(2001: 338-339)によ
軍機大臣から,乾隆帝がパンチェンラマ 3 世
れば,チベット側史料にも,熱河において清
に会う際に「師礼」
(師に対して行なわれる
朝官僚がパンチェンラマ 3 世に 3 回叩頭して
礼儀)により叩頭を行ない,臣下や外国使節
カターを献じ,灌頂を願ったことが記されて
にも同じように叩頭を行なうよう命じてい
いる。
たことを聞いている(村上 2006: 130-131)。
さらに清朝官僚は,ハルハの大転世僧ジェ
皇帝自身が大転世僧を「師」と仰ぎ,「弟子」
ブツンダンバホトクトにも叩頭を行なってい
の立場から叩頭を行なうのであるから,
「弟
た。ポズドネエフ『モンゴルとモンゴル人』
子」の臣下である清朝官僚が大転世僧に叩頭
には次のような記載がある。
しないわけにはいかなかったはずである。
以上にあげた史料を総合すると,駐蔵大臣
【史料 4】ポズドネエフ『モンゴルとモン
ゴル人』1,p. 562.18)
の「瞻礼」とはチベット仏教の礼儀・慣習に
したがい,ダライラマ等の大転世僧に対して
1878 年,志 剛が(庫倫辦事大臣の)満洲
(おそらく 3 回の)叩頭して礼拝し,カター
大臣の職に任命され,初めて大臣がジェブ
を献じて,崇敬の念を表すという行為であっ
ツンダンバホトクトを拝する慣習を一変し
たことが見えてくる。
ようと決めてウルガ(庫倫,フレー)にやっ
実は,この一連の流れとほぼ同様の描写
てきた。古くからの慣習に従えば,大臣は
ホトクトとの会見の際に,ホトクトの前で
が,1811 年 12 月にダライラマ 9 世(ルント
クギャツォ)に会ったイギリス人トマス=マ
常に 3 回叩頭し,その後ハダク(カター)
ニングの記録や,1944 年から中華民国の蒙
18) Позднеев А. М. Монголiя и монголы. Результаты поѣздки въ Монголiю, исполненной въ 1892‒1893
гг. A. Позднѣевымъ. Томъ I. Дневникъ и маршрутъ 1892 года. Изданiе Императорскаго Русскаго
Географическаго общества. СПб., 1896. Стр.562. なお本史料の入手には木村暁氏(日本学術振興会特
別研究員 PD・東洋文庫)のご助力をいただいた。また本史料の翻訳の際には中堀正洋氏(創価大
学文学部助教,2010 年 3 月時点)より全面的なご支援をいただいた。ここに記して謝意を表したい。
19) 庫倫辦事大臣には,旗人官僚がつとめる満洲大臣と,モンゴル王公がつとめる蒙古大臣がいた。フ
レーに満洲大臣・蒙古大臣が置かれた経緯については(岡 1992)参照。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
蔵委員会駐蔵辦事処の処長をつとめた沈宗濂
51
の頭にのせる。
らの著作の中に見られる。
トマス=マニングの記録には,「私は当然行
ここでは,チベット官員がダライラマに謁見
うべき挨拶として,大ラマ(ダライラマ 9 世)
する際に 3 回の叩頭を行ない,ダライラマ
には額を地面に 3 回つけて,ティムフ(ディ
モ=ホトクト)には 1 回つけてお辞儀し,運
と摂政にカターを献げ,これに対してダライ
んできた贈り物のコインを上等の絹のスカー
なった様子が描かれている。これらは 19 世
フとともに自身の手から大ラマ・ティムフの
紀前半・20 世紀中葉におけるダライラマへ
手に渡した。……スカーフを大ラマに手渡し
の謁見儀礼の様子であるが,18 世紀後半に
たとき,私は帽子を脱いで,大ラマの手を置
駐蔵大臣がダライラマに対して行なっていた
いてもらうよう謹んできれいに剃った頭をさ
「瞻礼」の形式も,これとほぼ同様のもので
し出した20)」とあり,ダライラマに 3 回の叩
頭を行い,カター(絹のスカーフ)を献じ,
摩頂を受けるために頭をさし出したことが記
されている。
ラマと摂政がチベット官員に対して摩頂を行
あったと考えてよかろう22)。
第 2 章 大転世僧への「瞻礼」に関する
清朝の檔案記録の規範
また沈宗濂らは,ポタラ宮においてチベッ
前章で論じたように,駐蔵大臣は,ダライ
ト政府官員がダライラマに謁見する際の儀礼
ラマ等の大転世僧に会見する際には,チベッ
について,次のように記している。
ト仏教の礼儀・慣習にしたがい,叩頭して礼
拝し,カターを献じる「瞻礼」を行なってい
【史料 5】沈宗濂・柳陞祺『チベットとチ
た。しかし興味深いことに,駐蔵大臣が乾隆
21)
ベット人』
pp. 123-124.
帝に上奏した奏摺の中には,この「瞻礼」に
チベット官員は,摂政から下級官員まで無
関する記録がほとんど残っていない。筆者は
秩序に〔ダライラマの〕高座の前に立ち,
中国第一歴史檔案館において,駐蔵大臣がダ
頭の上で手を合わせ,膝を屈めて 3 回叩頭
ライラマとの会見模様を乾隆帝に報告した満
する。見たところ動きを合わせようとはし
文奏摺を網羅的に閲覧した23)が,「瞻礼」に
ないようである。長い一つの列がつくられ,
ついて記した奏摺は後述のように 10 件程度
大臣と上級官員により宝座へと導かれる。
しか見出せていない。
各々はカターをダライに贈り,左を向いて,
このことを説明するうえで重要な史料が,
摂政に別のカターを渡す。お返しにダライ
乾隆 44 年(1779)11 月に乾隆帝が下した上
と摂政はラマの祝福として自らの手を各々
諭【史料 6】である。この上諭については(村
20) Markham, Clements R. ed. Narratives of the Mission of George Bogle to Tibet: and of the Journey
of omas Manning to Lhasa, reprinted by Manjusri Publishing House, New Delhi, 1971 (first
published in 1876), 265.
21) Tsung-Lien Shen (沈宗濂), Shen-Chi Liu (柳陞祺), Tibet and the Tibetans. California: Stanford
University Press, 1953.
22) チベット側の史料であるダライラマ 8 世の伝記にも,ダライラマが清朝官僚に摩頂を行なったとい
う記載が散見される(『八世達頼喇嘛伝』p. 29, 47, 49, 64, 69, 97, 99, 139)。ダライラマ 8 世の伝
記に関しては,原文のチベット文テクストを参照すべきところであるが,筆者は十分なチベット語
読解能力を有さないので,本稿では中国語訳の『八世達頼喇嘛伝』を参照する。
23) 筆者は中国第一歴史檔案館・中国蔵学研究中心合編『中国第一歴史檔案館所存西蔵和蔵事檔案目録
〈満・蔵文部分〉
』(中国蔵学出版社,1999 年)と中国第一歴史檔案館・中国人民大学清史研究所等
編『清代辺疆満文檔案目録』
(広西師範大学出版社,1999 年)を用いて,該当する満文奏摺を検索
した。
52
アジア・アフリカ言語文化研究 81
上 2006)でも検討を加えたが,その内容の
撫に伝えて一緒に従うようにさせた。下し
正確な理解は本稿の立論にとって不可欠のも
た諭旨の内容は非常にはっきりしている。
のなので,一部を引用して再検討を行ないた
勒爾謹はどうしていまだはっきりわかって
い。この上諭は,熱河に向かうパンチェンラ
いないのか。⑥どうして再び「叩見」の語
マ 3 世の応接を担当した陝甘総督勒爾謹らが
があるのか。これを章奏にあらわすことは,
東科爾寺という寺院でパンチェンラマ 3 世に
じつに愚かなことである。昨年,勒爾謹は
「叩見」(叩頭して会見)したことを漢文奏摺
奏摺内に挟ん文書片で,パンチェンエルデ
で報告してきたことに対し,乾隆帝が下した
ニに向かって叩頭して礼を行ないたいと述
ものである。
べていたので,朕はその意見がまったく
体(体統,国家の体)にあわず,また挟ん
【史料 6】『乾隆朝上諭檔』第 9 冊,p. 859,
だ文書片が残って人に笑われることになっ
乾隆 44 年 11 月初 3 日,陝甘総督勒爾謹・
ては良くないと思い,その文書片を燃やし
陝西巡撫畢沅・山西巡撫巴延三・直隷総督
た。また,軍機大臣に「章奏に叩頭などの
24)
楊景素への寄信上諭
言葉を入れてはならない」と書信を出させ
①〔勒爾謹が〕述べることによれば「甘
た。……臣下がラマを敬い奉ずる場合には,
粛交界の東科爾寺で叩見しました」とあ
もとよりそれを禁止せず,またそのことに
る。この語は甚だ誤りである。今年かつて
関与することもよくない。⑦総じて私的に
二度②勒爾謹を入覲させて軍機大臣等と一
跪拝することは,もとより不可ではない。
切を相談させ,また直接面会して詳細に該
⑧もし衆目の前で堂々とこのような行為を
当(パンチェンの応接担当の)総督に諭し
なし,且つこのことを奏牘にあらわすなら
た。③パンチェンエルデニが境界を通過す
ば,断じて許さない。……⑨明年,パンチェ
るとき,ただ督撫および道府の大員は叩頭
ンエルデニが境界を過ぎるときには,該省
して礼拝すべきでないだけでなく,下は文
の大小文武各員は,ただ立って迎えて待つ
武の雑多な下級役人もまた跪いて迎えるべ
ように。下級の員弁も,また叩頭させ拝謁
きではない。④もし彼らの中にラマを敬い
させる必要はない。⑩ただ,このことを紙
奉ずる人がいて,その寓所にて会い,私的
筆にあらわすのは都合が悪い。逐一口頭に
に跪き叩頭することはもとより禁止してお
よって伝えるだけにして,札によって伝え
らず,朕もまたこれを不問とする。⑤召見
てはならない。その原摺とこの諭旨は,と
の時,丁寧にこのことを諭し,それを各督
もに檔案中に保存しない25)。
24) この上諭に関して平野(2004: 124-126)は「この乾隆帝の上諭が意味するところは,清帝国とい
う存在が築き上げた調和と,内在化させた矛盾の間に生じた極限のジレンマであると言ってよいだ
ろう」,「アジア各地の仏教的王権が本質的に孕む自己矛盾としての『脱世俗的な仏教に最も深く帰
依する世俗権力という矛盾』が極めて鮮明な姿をとって現れ,乾隆帝を悩みの底に追い詰めた」と
述べている。しかし,この上諭が中華世界とチベット仏教世界を同時に支配することの難しさを表
していることは確かだが,その文面から自らの指示とその意図を理解していない勒爾謹に対する乾
隆帝の苛立ちは見て取れても,乾隆帝の「極限のジレンマ」や「自己矛盾」に対する「悩み」の表
現までを読み取ることはできない。
25) ①據称,在甘粛交界之東科爾寺叩見,等語。此語甚属非是。今年曾両次②令勒爾謹入覲与軍機大臣
等商辦一切,並当面詳晰諭知該督。③以班禅額爾徳尼過境時,不但督撫及道府大員不宜叩拝,即下
至文武雑佐微員亦不可跪迎。④若伊等有敬奉喇嘛之人,至其寓所相見,私向跪叩,原所不禁,朕亦
并置不問。⑤並于召見時諄諭及之,令其転伝各督撫,一体遵照。所降諭旨甚明,勒爾謹豈尚未明悉,
⑥何得復有叩見之語,形之章奏,実属糊涂。昨因勒爾謹摺内夾片声称欲向班禅額爾徳尼叩頭行礼,
朕以其所見殊為非体,并夾片亦不便存留,為人所笑,即将其奏片銷毀。并令軍機大臣寄与書信,不
応以叩頭等語入于章奏。……至臣工之敬奉喇嘛,原不禁止,亦不便預聞。⑦総之,私向跪拝, ↗
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
53
この上諭は一見すると,勒爾謹らがパンチェ
は,チベット仏教世界の大施主であると同時
ンラマ 3 世に「叩見」したことを叱責し,勒
に,儒教的価値観を根幹とする中華世界の皇
爾謹及びパンチェンラマ一行の応接にあたる
帝(中華皇帝)でもあった。中華世界におけ
大小官員に対して「叩頭」を行なってはなら
る華夷思想・儒教的礼節の観点からすれば,
ないと命じた文書のように見える(下線③・
「華」の皇帝・官僚が「夷」の一介の僧侶に
⑨)。しかし,その内容を仔細に検討すると,
叩頭することは許されない。そこで乾隆帝
乾隆帝の真意が別のところにあったことが見
は,パンチェンラマへの叩頭に関する情報を
えてくる。
檔案に記録しないことで,これをできるだけ
乾隆帝は,下線④・⑦では私的に叩頭・跪
非関係者に知られないよう努めるとともに,
拝することは禁じないと述べている。官僚の
華夷思想の持ち主から批判されても,檔案に
叩頭を本当に禁じるのであれば,この記述は
記されていない行為はあくまで非公式なもの
不要かつ余計な混乱を招くだけのものであろ
に過ぎないと説明し,批判をかわせるように
う。しかし前章で論じたように,清朝官僚が
したのだと考えられる。下線③・⑨は,勒爾
パンチェンラマとの会見時に叩頭することは
謹がパンチェンラマに「叩見」したことを奏
チベット仏教の「大施主」である清朝皇帝の
摺で報告してきてしまったので,「中華皇帝」
臣下として必須の行為であり,乾隆帝がこれ
としてこのような見解を示さざるを得なかっ
を禁じるはずはない。
ただけである。乾隆帝は「大施主」として官
乾隆帝が勒爾謹らを叱責したのは,パン
僚がパンチェンラマに叩頭することを禁じる
チェンラマに「叩見」したからではなく,
「叩
どころか,むしろそのことを命じる立場に
見」の「語」を奏摺に明記したからであった
あったが,「中華皇帝」を兼ねる身としては
(下線①・⑥)。また乾隆帝は,パンチェンラ
この立場を堂々と表すわけにはいかない。そ
マへの叩頭を大勢の人の前で堂々と行なって
こで乾隆帝は,下線③・⑨の見解を示す一方
はならない(下線⑧),叩頭に関することを
で,私的に叩頭することは不可ではない(下
奏摺等に書き記してはならない(下線⑥),
線④・⑦)という指示をわざわざ書き記した
パンチェンラマへの叩頭に関する指示が文書
のである。乾隆帝が下線④・⑦・⑧で伝えた
記録として残るのは都合が悪いので,勒爾謹
かったのは,パンチェンラマへの叩頭は衆目
らの奏摺及びこの上諭を保存してはならな
の前では行なわず,ラマの「寓所」
(寺院な
い(下線⑩)と述べている26)。パンチェンラ
どの滞在場所)において,私的な行為という
マへの叩頭に関する指示も,直接口頭で伝え
体裁で行なうようにということであったとい
るようにしていた(下線②・⑤)。清朝皇帝
うのが筆者の見解である27)。
↗
固無不可。⑧若明目張胆為之,且以形之奏牘,則断不可。……⑨至明年班禅額爾徳尼過境時,該省
大小文武各員,只可排立迎俟。即微末員弁,亦不得令其望塵叩謁。⑩但其事不便形之紙筆,止可逐
一口伝,不得転為札諭。其原摺及此諭,倶不存檔案也。
26) しかし実際には,勒爾謹らの奏摺は宮中で,乾隆帝の上諭は軍機処で保存する写し(「軍機処上諭
檔」)の中に保存された。
27)(村上 2006)における【史料 6】の解釈に関しては,大野(2007: 223)より,①旗人官僚のパンチェ
ンラマへの叩頭が乾隆帝の詔勅を受けての行動であったと考えられると筆者は述べているが,敷衍
できる根拠が何であるかわからない,②乾隆帝が応接担当の官僚に口頭で伝えていた指示がパン
チェンラマに「叩頭せよ」という内容であった証拠が挙げられていない,という指摘を受けた。確
かに(村上 2006)では①・②の根拠・証拠となる史料を十分に提示できなかったが,これは本稿
で論じるように,清朝がパンチェンラマへの「叩頭」に関する記録を檔案中に残さないという方針
をもっていたことが背景にある。
①については,本稿第一章で論じたように,清朝官僚による大転世僧への叩頭はチベット仏 ↗
54
アジア・アフリカ言語文化研究 81
以上のように乾隆帝は,清朝官僚による大
もにダライラマのもとに行き,②ダライラ
転世僧への叩頭に関する記録を檔案中に残さ
マは座から下りて立ったまま,〔奴才らは〕
ない,という方針を持っていた。このような
主の諭旨をみなの前で下すよう読みまし
檔案記録の規範があったため,駐蔵大臣の奏
た。金の曼荼羅・茶入れ・緞子等の賞賜品
摺にはダライラマへの叩頭の記録がほとんど
を賞賜して,ダライラマは立ったままで合
残っていないのである。また乾隆帝は,大転
掌して受け取りました。
世僧への叩頭に関する内容を檔案に記す際に
は,これを私的な行為という体裁で書くよう
この奏摺では,
「聖なる画」に叩頭した後(下
にしていた。このことは,【史料 1】の上諭
線①),ダライラマが座から下りて賞賜品を
において駐蔵大臣の「瞻礼」を和琳の個人的
立ったまま受け取る(下線②)という,
【史
な行為であるかのように記していることから
料 2】下線①・②と類似したやり取りの様子
も看取されよう。これも当時の檔案記録の規
が記されているが29),【史料 2】下線③に該
範の一つであったといえる。
当する記述は存在しない。ただし,このこと
このような規範の存在を理解しておくと,
は博清額らが「叩頭」を行なわなかったこと
冒頭で示した先行研究の「瞻礼」に関する見
を意味するものではなく,前述の檔案記録の
解の問題点が見えてくる。廖・李・李(2006:
規範に則り,ダライラマへの「叩頭」に関す
65)の見解は,典拠は明記されていないが,
る記録を檔案に残さなかったと見るべきであ
次の【史料 7】のような駐蔵大臣の奏摺を文
る。
面どおりに解釈した結果導き出されたもので
ま た 劉(1997) は, 駐 蔵 大 臣 の「瞻 礼」
あると思われる。駐蔵大臣がダライラマとの
がダライラマ等に叩頭することであったこと
会見模様を乾隆帝に報告した奏摺の中には,
を適切に指摘しているが,これがチベット仏
次のような記述が多く存在する。
教の価値観に基づいた清朝・チベット関係に
おける必須の儀礼であったことへの理解はな
【史料 7】「満文録副」2890-41(122-2596)
28)
く,駐蔵大臣の個人的な行為と認識するのみ
乾隆 46 年 9 月 12 日,博清額奏
である30)。これも,清朝の檔案記録の規範を
奴才博清額・伊嚕勒図は,九月初七日に前
理解せず,私的な行為という体裁で書かれた
蔵に到着し,ポタラ宮にのぼり,①主の聖
駐蔵大臣の叩頭・「瞻礼」の記録を文面どお
なる画に叩頭し,奴才恒瑞・奴才保泰とと
りに解釈したことによるものである。確かに
↗
教の礼儀・慣習に基づく必須の行為であり,これが乾隆帝の指示・意向を受けて行なわれていたこ
とは疑いない。②に関しては,筆者は【史料 6】の内容に基づいて乾隆帝が「叩頭に関する指示は
旗人官僚に直接対面した際に口頭で伝えた」と論じただけで,
「叩頭せよ」と命じたとは述べてい
ない(おそらくはそのような指示があったであろうが,証拠となる史料がないので断定は避けた)。
筆者がここで強調したかったのは,清朝がパンチェンラマへの「叩頭」に関する記録を檔案中に残
さないことにより,これを非公式な行為と説明できるようにしていたという点である。
28) aha becingge. irultu uyun biyai ice nadan de julergi dzang de isinjifi. budala de fitafafi. ① ejen
i enduringge nirugan de hengkilefi. aha hengšui. aha bootai i sasa dalai lama i jakade genefi.
② dalai lama teku ci wasifi. ilihai ejen i hesei bithe be geren i juleri wasibume hūlafi. šangnara
aisin i manda. dongmo. suje jergi jaka be šangnafi. dalai lama ilihai giogin arame alarangge.
29) このほか筆者が確認した限りでは,「満文録副」2263-29(82-1137),乾隆 33 年 2 月 16 日,莾古賚奏;
同 2583-9(102-3310),乾隆 39 年 4 月 12 日,伍彌泰奏;同3073-3(134-1596)
,
乾隆50年5月初6日,
留保住奏に,「聖なる画」への叩頭とダライラマとの対等関係によるやり取りの様子が記述されて
いる。
30) 駐蔵大臣の「瞻礼」を私的な行為と捉えるのは,蕭(1996: 142-143)も同様である。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
55
駐蔵大臣の中には,後述の留保住のように個
している(漢文檔案は,前述の勒爾謹らの奏
人的に大転世僧に叩頭したいと願う人物もい
摺と乾隆帝の上諭が確認されるだけである)
たが(後述【史料 9】下線①),新任の挨拶
が,その数とて決して多いとはいえない。原
や政務などによりダライラマ・パンチェンラ
則としては,前章で述べた檔案記録の規範は
マのもとに赴いた際に叩頭することは必須の
満文檔案にも適用されていたと考えてよい33)。
行為であり,決して個人的判断に委ねられた
実は,筆者が確認した限りでは,駐蔵大臣
ものではなかった。
がダライラマ・パンチェンラマへの叩頭につ
以上のことから,乾隆朝後半の清朝は,チ
いて報告もしくは要望した奏摺は,乾隆 48
ベット仏教の価値観に基づいた自らの言動に
年∼53 年の間にしか見られない。筆者は,
ついて,檔案中にできるだけ記録を残さず,
この背景にはパンチェンラマ 3 世死後にお
残す場合も私的な言動という体裁をとること
ける清朝の対チベット認識の変化があると考
により,チベットとの関係の本質を「非可視
える。
31)
化」 する,あるいは非公式なものと説明で
パンチェンラマ 3 世は,乾隆 45 年(1780)
きるようにしていたことがわかる。このこと
7 月に熱河を訪れ,乾隆帝の七旬万寿節の後
を理解せず,あるいは意図的に無視し,清朝
に北京に赴くが,そこで天然痘に罹り,同年
史料の記述を字面どおりに解釈すると,清朝
11 月 2 日に死去した。乾隆帝は理藩院尚書
がチベット政府を管理・統制したという側面
博清額を駐蔵大臣に任命し,パンチェンラマ
のみが強調される研究が生み出されることに
3 世の遺体をチベットのタシルンポ寺まで運
なってしまうのである。
ばせ,そのままチベットに駐留させた。その
第 3 章 駐蔵大臣の奏摺中における
「叩頭」記録の出現
後,乾隆 47 年末にパンチェンラマの転世(4
世)が発見された(牙 2000: 147)。そこで博
清額はタシルンポ寺に赴いてパンチェンラマ
ここで次なる疑問として浮かび上がってく
るのは,なぜ【史料 2】・【史料 3】等の奏摺
4 世に会い,その様子を乾隆帝に報告するが,
その中に注目すべき記載がある。
が残っているのか,ということであろう。満
文檔案には儒教的価値観に縛られない側面が
あり,筆者はこれまでに清朝官僚の大転世僧
32)
に対する「叩頭」の記録を 10 件程度
確認
【史料 8】「満文録副」2959-36(126-3115)
乾隆 48 年 3 月初 4 日博清額奏34)
奴才博清額は,官らをつれて旨・賞賜品を
31) 柳澤(2009: 194-196)は,清朝が華夷思想に反する両国対等の関係を結んでいたロシアとの交渉
での行政用語として主に満洲語を使用していたこと,漢語を表立って使用しないようにすることで,
両国の対等な関係を華夷思想が盤踞する「漢語世界」
(中華世界)からほとんど見えないように「非
可視化」していたことを指摘している。本稿で論じた檔案記述の規範も,華夷思想に反する言動を
「非可視化」する手法の一つであったといえる。
32)【史料 2】及び後述する博清額(【史料 8】)・慶麟の奏摺と(一)∼(五)の奏摺のほか,(村上 2006:
133-134)で引用した福隆安の奏摺 3 件を確認している。
33) 前章で述べたように,乾隆帝の七旬万寿節の際にはパンチェンラマの応接担当の永貴・伍彌泰が
「叩頭」を行なったという記録が残っている。しかし,このことは軍機大臣福隆安がパンチェンラ
マのもとに果物を届けた庫使の話を乾隆帝に報告した奏摺に記されているだけで(村上 2006: 133134),永貴・伍彌泰の奏摺にはパンチェンラマに「叩頭」したことは記されていない。「満文録副」
2836-39(119-5043),乾隆 45 年 7 月初 5 日,永貴等奏;同 2837-16(119-641),乾隆 45 年 7 月 12 日,
永貴等奏;同 2837-28(119-1700),乾隆 45 年 7 月 16 日,伍彌泰等奏,参照。
34) aha becingge hafasa be gajifi hese šangnara jaka be gingguleme tukiyeme hūbilgan i tuhe boode
genefi hese be hūlame wasimbuha de hūbilgan i ama eme imbe wahiyame ilihai donjiha … jai
ineggi aha jasi lumbu de genefi bancen erdeni i subargan de hengkilefi (後略) [硃批]urgunjeme tuwaha
56
アジア・アフリカ言語文化研究 81
つつしみ捧げて〔パンチェンエルデニの〕
料 3】
転世が滞在する家に行き,旨を読んで下し
(二)乾隆 51 年 11 月初 4 日,留保住奏……
たとき,転世の父母は彼(転世)を支え,
〔転
【史料 9】
世は〕立ったまま聞きました。……次の日,
(三)乾隆 52 年正月 26 日,留保住等奏(満文)
奴才はタシルンポに行き,パンチェンエル
……「満文録副」3151-11(139-143)
デニ(三世)の仏塔に叩頭し,(後略)
※乾隆 52 年 6 月初 7 日,雅満泰がダライラ
喜んで見た。
マ 8 世に叩頭【史料 2】
(四) 乾 隆 53 年 2 月 初 6 日, 雅 満 泰 奏(満
この奏摺の下線部には,博清額がパンチェン
文)……「満文録副」3180-3(141-648)。雅
ラマ 3 世を祀った「仏塔 subargan」に対し
満泰がタシルンポ寺に行きパンチェンラマ 4
て叩頭したことが記されている。管見の限
世に叩頭したいと願い出たのに対し,乾隆帝
り,この奏摺は駐蔵大臣がチベット仏教の尊
は「よい,わかった 」と硃批を入れた。
崇対象に「叩頭」したことを明記した最初の
ものである。この奏摺を受け取った乾隆帝は
(五) 乾 隆 53 年 3 月 初 2 日, 雅 満 泰 奏(満
文)36)……「満文録副」3183-13(141-1424)。
「喜んで見た」と硃批を入れており,
「仏塔」
に叩頭したという記述を問題視した様子はな
【史料 9】「満文録副」3142-23(138-2859),
い。また乾隆 48 年 9 月の慶麟の奏摺にも,
乾隆 51 年 11 月初 4 日,留保住奏37)
慶麟がパンチェンラマ 3 世の「仏塔」に叩頭
前回,奴才留保住が蔵に駐した折,ダライ
したことが記されている35)。
ラマ・先代パンチェンエルデニからともに
そして乾隆 50 年代に入ると,駐蔵大臣か
ら,パンチェンラマ 4 世への叩頭の要望・報
告を記した奏摺が相次いで上奏されるように
なる。具体的には次のとおりである。
(一)乾隆 50 年 3 月初 5 日,慶麟奏……【史
経を聞きました。続いてパンチェンエルデ
ニが主(皇帝)の金顔を仰ぎに行くとき,
〔主は〕旨で奴才留保住を派遣して,〔奴才
はパンチェンエルデニを〕護衛したことが
ありました。この度,主は再び恩を及ぼ
35)「満文録副」2980-3(128-1021),乾隆 48 年 9 月 26 日,慶麟奏,参照。
36) この奏摺は(村上 2005: 77-78)において引用・訳出している。同論文では「hengkilefi」の箇所を
「跪拝」と訳している。
37) onggolo mudan aha liobooju dzang de tehe fonde. dalai lama. nenehe jalan i bancen erdeni ci
gemu nomun donjiha. sirame bancen erdeni ejen i aisin cira be hargašame genere de. hesei. aha
liobooju be tucibufi tuwašatame yabuha bihe. ere mudan. ejen geli kesi isibufi. aha be si ning ci
dasame wargi dzang de baita icihiyabume unggihe. ① isinjiha amala icihiyaci acara siden i baita
bimbime. ere sidende umai hesei takūrara ildun akū ofi. aha liobooju bancen erdeni i subargan.
hūbilgan de hengkileme geneki sere cisu babe gelhun akū hese be baime wesimbuhekū. te alime
gaiha hesei dorgi. kara šar de tehe yamantai be tucibufi. aha liobooju be halakini sehe. yamantai
i kara šar ci dzang de isinjire be. aha murušeme bodoci. kemuni sunja ninggun biya baibumbi.
aha. bahaci yamantai i isinjire ebusihe. ere sidende amargi dzang de genefi. ② bancen erdeni
i subargan de takin alibume. hūbilgan de hengkileme acafi. tubai arbun muru be kimcime
tuwafi. aha kemuni enduringge ejen i hūbilgan be jilame gosire babe. jai dorgi ba i kooli. fafun
šajin be jūngba kūtuktu. suibung k‛anbu〔硃批 ne ese inu musei niyalma adali oho〕de dere
tokome jai emu jergi akūmbume getukeleme neileme ulhibuki. aha ere genere de amasi julesi
manggai orin funcere inenggi baibumbi. ejen kesi isibume. aika aha i baiha songkoi yabubuci.
aniya arame aha liobooju. doron be kinglin de guribume afabufi. gabsihiyalame bancen erdeni
i subargan. hūbilgan de hengkileme geneki sembi. ojoro ojorakū babe. hese wasinjiha manggi.
aha gingguleme dahame yabumbi. erei jalin gingguleme wesimbuhe. hese be baimbi. [硃批]
saha. giyan ningge.
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
57
し,奴才を西寧から重ねて西蔵に事務を処
3 世に対し,乾隆帝や清朝官僚が特別な親し
理するよう送りました。①〔西蔵に〕到着
みと崇敬の念を抱いていたことは想像に難く
した後,処理すべき公務があり,しかもこ
ない。こうした感情が,パンチェンラマ 4 世
の間,まったく旨で派遣する機会がなかっ
の発見という慶事に触れて【史料 8】の奏摺
たので,奴才留保住はパンチェンエルデニ
中に表出し,その後(一)∼(五)の奏摺が
の仏塔・転世に叩頭しに行きたいという私
相次いで上奏されることにつながったのだと
心を,
敢えて旨を請い上奏しませんでした。
考えられる。
いま受け取った旨の中に「カラシャールに
ま た,(一) ∼(五) 及 び【史 料 2】 の 奏
駐した雅満泰を派遣して,奴才留保住と交
摺が書かれた時期には,駐蔵大臣 2 員(辦事
代するように」とありました。雅満泰がカ
大臣・幫辦大臣39))の任官者がすべて蒙古旗
ラシャールから蔵に到着するのを奴才がお
人(八旗蒙古に所属する旗人)であったこと
およそ計算すれば,なお五,六ヶ月を要し
も注目される。この間,辦事大臣は正白旗蒙
ます。奴才は,できれば,雅満泰が到着す
古の留保住と鑲黄旗蒙古の慶麟,幫辦大臣は
るまでの間に後蔵に赴き,②パンチェンエ
慶麟(同前)と正黄旗蒙古の雅満泰がつとめ
ルデニの仏塔に供物を捧げ,転世に叩頭し
ている(末尾の【表】参照)。当時の蒙古旗
て会見し,そこで様子を詳しく見て,さら
人は,外見上は満洲旗人とほぼ違いがなかっ
に奴才は聖主が転世を慈愛していること
たが,モンゴル語習得が奨励された点と40),
を,また内地の例・禁令をジュンバホトク
「モンゴル人」としての意識からチベット仏
ト・スイブンカンブ〔今かれらは我々の人
教を信奉していた点(村上 2005)で,満洲
のようになった 〕に面と向かってもう一度
旗人と明確な違いがあった。筆者はかつて
心を尽くして明白にし,啓発し悟らせたい。
乾隆帝が乾隆 40 年代後半からモンゴル・チ
わかった。道理である。
ベットを管轄する駐防官への蒙古旗人の任用
を増やしたことを指摘したが(村上 2003),
このように乾隆 48 年から同 53 年 3 月にか
彼らがチベット仏教を信奉していたこともそ
けて,駐蔵大臣は相次いでパンチェンラマの
の理由の一つであった(村上 2009: 71-76)。
仏塔・転世への叩頭の要望・報告を奏摺に記
乾隆帝が駐蔵大臣に蒙古旗人を積極的に任用
して上奏しているのである。そして※印で示
した背景にも,蒙古旗人であれば自らのチ
したように,駐蔵大臣がダライラマに叩頭し
ベット仏教(特にパンチェンラマ)に対する
たことを明記した【史料 2】も,この期間に
崇敬の念を適切に表すことができるだろうと
上奏されたものであった。
の期待があったと考えられる。
以上のように,駐蔵大臣による叩頭の記録
この時期の乾隆帝は,チベットとの関係が
は,ダライラマよりもパンチェンラマに対す
良好で,チベット情勢も安定しているとの
るものの方が圧倒的に多いのである38)。遙々
認識をもっていた。乾隆 51 年 4 月,北京チ
チベットから熱河・北京を訪れて仏教を説
ベット仏教界の最高責任者・国師チャンキャ
き,そのまま北京で死去したパンチェンラマ
ホトクト 3 世が死去41)したことにともない,
38) ダライラマに対して「叩頭」したことが記されている奏摺は,管見の限り【史料 2】が唯一のもの
である。
39) 駐蔵大臣は通常 2 名置かれ,乾隆 45 年以降は正官・副官が区別されるようになり,前者は辦事大臣,
後者は幫辦大臣と称された(曽 1999: 4, 65-66)。本稿では,両者を区別する必要がある場合にの
み「駐蔵辦事大臣」・「駐蔵幫辦大臣」の呼称を用いる。
40)(村上 2002: 65)・( 村上 2003: 37, 39-40),参照。
58
アジア・アフリカ言語文化研究 81
乾隆帝はダライラマ 8 世の摂政をつとめて
といえる。しかし乾隆 51 年 8 月,乾隆帝は
いたガワンツルティムを北京に招聘し,チャ
留保住の後任に幫辦大臣の慶麟を昇格させ,
ンキャホトクト 3 世の葬儀を取り仕切らせ
幫辦大臣には喀喇沙爾辦事大臣の雅満泰を任
た(小松原 2006: 3)。ガワンツルティムは乾
用した。慶麟は駐蔵大臣・軍機大臣・兵部尚
隆 27 年から 15 年近く北京の雍和宮にいた
書等を歴任した班第の孫,綏遠城将軍をつと
チベット仏教の高僧で,乾隆帝も信頼を寄せ
めた巴禄の子で,対モンゴル・チベット政策
ていた(蘇 1999: 95-101)。しかしガワンツ
において功績をあげた蒙古旗人功臣の子弟と
ルティムの招聘後は彼に代わる人物を派遣せ
して期待され,抜擢されたが,博清額・留保
ず,チベットではダライラマ 8 世の叔父ロ
住に比べると経験不足は明らかであった。ま
サンプンツォクが摂政の代わりをつとめるよ
た雅満泰も慶麟と同様に功臣の子弟として新
うになった(小松原 2002: 45-46)。このこ
疆の駐防官に抜擢された人物であり,モンゴ
とは当時の乾隆帝がチベットとの関係を良好
ル・チベットの駐防官としての経験は浅かっ
なものと認識し,ダライラマの親族やチベッ
た45)。このように経験の浅い慶麟・雅満泰で
ト側有力者を信頼し,チベット情勢を楽観視
も駐蔵大臣の任がつとまると判断したことか
していたことを示している。当時のチベット
らも,乾隆 51 年当時の乾隆帝がチベットと
側有力者への信頼は,乾隆帝が【史料 9】の
の関係を良好・安定的なものと認識していた
奏摺に,ジュンバホトクト・スイブンカンブ
ことが看取されよう。
らパンチェンラマの側近について「今かれら
以上のように,前述(一)∼(五)及び
は我々の人のようになった」と硃批を入れた
【史料 2】の奏摺が書かれたのは,乾隆帝が
(硃批の日付は乾隆 51 年 12 月 10 日)こと
チベットとの関係を極めて良好なものと認識
からも窺えよう。
し,チベット側有力者を信頼し,チベット情
このような乾隆帝の認識は,駐蔵大臣の人
勢を非常に楽観視していた時期であった。ま
事からも見て取れる(以下,【表】参照)。乾
た乾隆帝はチベット仏教の熱心な信奉者でも
隆帝は,乾隆 45 年 11 月∼49 年 11 月には対
あり(Rawski 1998: 258)・(石濱 2001: 342-
ロシア交渉の経験をもつ理藩院尚書博清額
42)
354),パンチェンラマ 3 世との会見以来,そ
を駐蔵辦事大臣に任用し,その後任には理藩
の信仰心は大いに高まっていたと考えられ
院官員出身で駐蔵大臣・西寧辦事大臣等を歴
る。駐蔵大臣に任用された蒙古旗人も,こ
任していた留保住43) を就けた。両者は対外
のような乾隆帝の心情を十分に理解した上
交渉やモンゴル・チベット事務の経験豊かな
で(一)∼(五)および【史料 2】の奏摺を
44)
人物であり ,パンチェンラマ 3 世の死によ
上奏したに違いない。しかし,清朝官僚によ
りチベットへの慎重な対応が求められた時期
る大転世僧への「叩頭」の報告・要望を檔案
の駐蔵辦事大臣の人選としては妥当であった
に記さず,これを非関係者に知られないよう
41)『清高宗実録』巻 1252,乾隆 51 年 4 月戊寅[5 日]条,参照。
42) 博清額の履歴については『国朝耆献類徴初編』巻 91,博清額伝,参照。
43) 留保住は理藩院の実務官としてモンゴル・チベット事務の処理経験を豊富に持っていた人物で,乾
隆帝の七旬万寿節の際にパンチェンラマ 3 世の随行役をつとめている(村上 2006: 127)。
44) また両名は高級官僚の養成機関の機能を有していた軍機処において実務官(軍機章京)をつとめた
経験も有していた。軍機処では,満文檔案により処理されるモンゴル・チベット関連の案件は旗人
の軍機章京(満洲軍機章京)が処理しており(村上 2004: 6),乾隆帝が駐蔵大臣を任用する際には
この実務経験を重視した(村上 2003: 35)。そのことは本稿【史料 13】における舒濂に対する乾隆
帝の評価からも看取されよう。
45) 慶麟・雅満泰の特徴に関しては(村上 2004: 11-12),参照。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
59
に,また非公式な行為と説明できるようにし
足の両者では事態に対処できないと判断し,
ておくことは,清朝の支配秩序の根本に関わ
乾隆 53 年 9 月,チベット事務に習熟した蒙
る方針であったはずである。その重要な方針
古旗人の巴忠の派遣を決定する(佐藤 1986:
を(漢文檔案にこそ記録を残さなかったとは
548-550)。次いで同年 10 月 11 日,乾隆帝
いえ)完全に逸脱した駐蔵大臣の奏摺,また
は敵と積極的に戦おうとしない慶麟の姿勢に
その奏摺を容認(ときに賞賛)する乾隆帝の
怒り,公爵の位と駐蔵辦事大臣の職を奪った
態度には,緊張感がまったく見られない。乾
(佐藤 1986: 548)。ラサに到着した巴忠は,
隆帝・清朝官僚がチベット情勢を楽観視する
チベットにおける慶麟らの振る舞いについて
姿勢は,同時に対チベット政策における緊張
次のように報告している。
感の弛緩にもつながったといえる。そしてこ
うした清朝の対チベット政策の問題点は,乾
【史 料 10】「満 文 録 副」3271-6(147-504),
隆 53 年 6 月,第一次グルカ戦争46)の勃発に
乾隆 54 年(月日不明),巴忠奏47)
より表面化することになるのである。
また調べたところ,留保住が蔵に駐留した
第 4 章 第一次グルカ戦争の勃発と
駐蔵大臣の奏摺における「叩頭」記録の消滅
時には,属下のチベット衆人の心をよく理
解し,また商人を苦しめるようなことはあ
りませんでした。かれが北京に戻った後,
グルカ戦争の発端は,パンチェンラマ 3 世
慶林48)ら(慶麟と雅満泰)はともに歳が若
の兄弟であるシャマルパがパンチェンラマ 3
く,事務をわかっておらず,ただ安逸をむ
世の遺産を受け取れなかったことを恨み,ネ
さぼることを知るだけで,身勝手・尊大で,
パールに入ってグルカ族にチベット攻撃を
しだいにチベット衆人の心を失いました。
煽ったことにあるとされる。またグルカ側が
銀銭交換率に関する交渉を要求したのに対し
巴忠によれば,留保住はチベットの人々の心
てチベット側が回答を行わなかったことも,
をつかんでいたが,慶麟・雅満泰は年齢が若
グルカ侵入を招いた大きな原因であった(鈴
く,事務にも通じず,安逸を求め,傲慢に振
木 1962: 104-106)。
る舞ったので,しだいに人々の心を失って
乾隆 53 年(1788)6 月,グルカ軍はチベッ
いった。留保住と慶麟・雅満泰の経験・能力
ト内に侵入し,シガツェを目指した。慶麟ら
の差は,チベット側の眼からも明らかであっ
はすぐにこのことを北京に上奏し,これを 7
た。乾隆帝がチベット情勢を楽観視して行
月末に受け取った乾隆帝は慶麟にシガツェに
なった人事が完全に裏目に出た格好といえ
行きタシルンポ寺を守るよう指示した(佐藤
よう。
1986: 539, 546)。慶麟がシガツェに向かった
そして乾隆 53 年 10 月,乾隆帝は伊犁参
後,雅満泰はラサに留まりチベット兵の招集
賛大臣舒濂に寄信上諭を下し,事態が解決し
にあたった(佐藤 1986: 544)。しかし慶麟・
て巴忠がチベットを離れた後に駐蔵辦事大臣
雅満泰はグルカ軍の動向に関する情報を迅速
としてチベット事務を管理するよう命じた。
に収集できないなど緊急の事態に全く対処で
注目すべきは,舒濂が満洲旗人(正白旗満洲)
きず,失態を重ねた。結局,乾隆帝は経験不
であったことである49)。このとき乾隆帝が敢
46) 本稿では,乾隆 53 年(1788),56 年に起こったネパールのグルカと清朝・チベットとの戦争を,
佐藤(1986)に倣い,「第一次グルカ戦争」・「第二次グルカ戦争」と称する。
47) 再査,留保住駐蔵時,甚得属下番衆之心,亦未有苦累商賈之処。自伊回京後,慶林等倶属年少,不
諳事務,惟知貪図安逸,妄自尊大,漸失番衆之心。
48)「林」と「麟」は同音異字で,慶林と慶麟は同一人物である。
60
アジア・アフリカ言語文化研究 81
えて満洲旗人を駐蔵辦事大臣に任命した理由
ン51) らによる擅断を許した要因として,慶
は,以下に示す舒濂への寄信上諭の内容から
麟・雅満泰の無能さに加え,過去の大臣がダ
見て取れる。
ライラマ・パンチェンラマに叩頭し,崇敬の
念を表してばかりいたことを指摘している
【史料 11】「宮中満文廷寄」63 包,乾隆 53
(下線①)52)。前述のように,駐蔵大臣がダラ
50)
年 10 月 14 日,舒濂への寄信上諭。
イラマ・パンチェンラマに叩頭することは必
これ以前,蔵のカロン・ダイブン・ディバ
須の行為であり,このこと自体に問題があっ
を任命すること,すべての土地の事務はみ
たわけではない。乾隆帝が問題視したのは,
なダライラマ・カロンらが勝手に処理して
駐蔵大臣がダライラマ等に崇敬の念を表すこ
きた。我らの大臣らは,ほとんど事務を掌
とばかりに力を入れ,チベットの政務を顧み
らず,①ただダライラマ・パンチェンエル
ず,その結果チベット側有力者の勝手な行動
デニに叩頭する,崇敬する,三年たって家
を許していたことであった。第一次グルカ戦
に帰るためだけに努力することを自身の公
争の直前,乾隆帝はチベット仏教徒である蒙
務としている。……今,雅満泰・慶麟は全
古旗人を駐蔵大臣に任用するなどチベット仏
く能力がなく,この事務を四分五裂となる
教を崇敬する姿勢を前面に出してチベットと
よう処理した。しかも巴忠が戻り帰った後,
関わっていたが,この施策が却って自身及び
その地で事務を掌握し処理する人がいなく
駐蔵大臣の緊張感の弛緩につながった。そこ
なるのは不都合である。今,舒濂は伊犂参
で乾隆帝は,慶麟の後任の駐蔵辦事大臣には,
賛大臣で,立派に将軍を輔佐して事務を処
蒙古旗人に比べればチベット仏教とやや距離
理している。またイリには重要な事務はな
のある満洲旗人を任用することにしたのだと
い。②舒濂は満洲旗人であり,モンゴル語
考えられる。乾隆帝は,駐蔵大臣にはモンゴ
はできないといえども,軍機章京として長
ル語ができる人物を任用したいという考えを
く働き,蔵 の事務を少しはわかっている。
持っていたが,満洲旗人の舒濂はモンゴル語
舒濂を〔慶麟らに〕替えて事務を処理させ
には通暁していなかった(下線②)。ただ,
るなら,ようやく事務に益がある。
軍機章京としてチベット事務の処理に携わっ
た経験があり,また新疆のイリでも参賛大臣
ここで乾隆帝は,駐蔵大臣がチベットの内
の職務を立派にこなしていた。乾隆帝はこの
政をほとんど掌握できず,ダライラマ・カロ
経験・実績を評価し,舒濂を駐蔵辦事大臣に
49)『国朝耆献類徴初編』巻 292,舒濂伝,参照。
50) erei onggolo dzang ni g‛ablun. daibung. diba sindara. eiten ba na i baita gemu dalai lama.
g‛ablun sei cihai icihiyabumbi. musei ambasa asuru baita darakū ① damu dalai lama. bancen
erdeni de hengkilere. kundulere. ilan aniya jalufi boode warire jalin teile kicere be uthai ceni
alban obuhabi. ... te yamantai. kinglin fuhali muten akū. ere baita be uthai šašun akū de
isibume icihiyaha bime. bajung amasi mariha manggi. tubade uthai baita jafašame icihiyara
niyalma akū de inu banjinarakū. ne šuliyan ili i hebei amban. manggai jiyanggiyūn de aisilame
baita icihiyambi. ili de geli oyonggo baita akū. ② šuliyan udu manju gūsai niyalma. monggo
gisun bahanarakū bicibe. coohai nashūn i janggin de goidame yabuha. dzang ni baita be hono
ulhimbi. šuliyan be dzang de forgošome baita icihiyabuci. teni baita de tusa.
51) カロン(噶布倫)は,当時チベット政府において政務を取り仕切っていた 4 人(俗官 3 人,僧官 1
人)の大臣のこと。
52) この上諭は『欽定巴勒布紀略』巻 11 にも収録されているが,下線①の箇所は「惟だダライラマ・
パンチェンエルデニを崇奉するを知るだけである(惟知崇奉達頼喇嘛・班禅額爾徳尼)」となって
おり,「叩頭 hengkilere」の語は訳されていない。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
任用したのである53)。
61
大臣(舒濂・普福)の不和をきっかけにジル
この上諭が下されて以降,駐蔵大臣の奏摺
ンホトクトとダライラマ 8 世の兄弟との対
中にはダライラマ・パンチェンラマへの叩頭
立が表面化すると,乾隆帝はこの機をとらえ
の要望・報告の記述が見られなくなる。しか
てダライラマの兄弟を北京に呼び寄せ,彼ら
し,このことは駐蔵大臣が叩頭を行なわなく
に代わって駐蔵大臣とカロンを中心に政務を
なったことを意味するものではない。
【史料 1】
処理させることにした(小松原 2006: 3-11)。
の上諭には,駐蔵大臣の和琳が必ずや「瞻礼」
乾隆帝はダライラマ 8 世の兄弟をチベットか
を行なうであろうこと,これが「仏法」にお
ら遠ざけることで,駐蔵大臣のチベット政府
いて当然行なうべき行為であることが記され
に対する統制を強めることができると考えた
ており,ここから乾隆 57 年閏 4 月までは,
のである。
駐蔵大臣がダライラマ等に会う際,従来どお
しかし乾隆 56 年 4 月,グルカはチベット
り「瞻礼」すべき,すなわち叩頭して礼拝し,
側が講和条件を履行しないことを理由に再び
カターを献じて,崇敬の念を表すべきとされ
チベットに侵攻した55)。第二次グルカ戦争の
ていたことが見て取れる。
勃発である。この戦争への対応にあたる中
第 5 章 乾隆末年における駐蔵大臣の
「瞻礼」の停止
で,乾隆帝はカロンが秘密裏にグルカと交渉
し,駐蔵大臣がこれにまったく関与していな
かったのを知り,カロンへの不信感を強めた。
第一次グルカ戦争を機に,駐蔵大臣がチ
またチベットでは駐蔵大臣が以前と同様に実
ベットの政務に関して実質的な権限・統制力
質的な権限をほとんど持たず,グルカ侵入時
を有していない
54)
ことを痛感した乾隆帝は,
にもカロンらを指揮・統制するどころではな
駐蔵大臣とダライラマとの関係のあり方につ
かったことも明らかになった。そこで乾隆帝
いて模索するようになる。乾隆 54 年(1789)
は,駐蔵大臣がカロンよりも高い地位にあり,
1 月,乾隆帝は前述の舒濂に対し,駐蔵大臣
カロンは駐蔵大臣の命令を聞くべき立場であ
はダライラマを少しも軽んじてはならない
ることを改めて明確にする必要があると考え
が,一心に尊崇して大臣の職権が侵害される
るようになる(鈴木 1962: 42-53)。
ことになってもいけないと述べ,ダライラマ
このような中で,乾隆 57 年閏 4 月,乾隆
との間にバランスのとれた関係を築くよう指
帝はグルカ戦争への対応のためチベットに派
示している(小松原 2006: 12)。
遣した官僚らに次のような上諭を下す。これ
第一次グルカ戦争後,乾隆帝はダライラマ
は【史料 1】の続きにあたる。
8 世が自らの叔父・兄弟に政務を委ね,彼ら
の勢力が増長したことがグルカ侵入を招いた
一因であると考えた。チベットで 2 人の駐蔵
【史料 12】『欽定廓爾喀紀略』巻 30,乾隆
57 年閏 4 月 24 日条56)
53) こののち乾隆帝は,モンゴル語に通暁していない舒濂の補佐役として,乾隆 53 年 12 月に理藩院
出身官員の蒙古旗人でモンゴル語に通暁していた普福を駐蔵幫辦大臣に任用している。理藩院官員
出身の蒙古旗人の特徴および普福の経歴については(村上 2004: 3-5),参照。
54) チベットにおける駐蔵大臣の政務上の権限については,乾隆 16 年制定の欽定十三条章程において,
重大事件の処理や駅站・官職の補任については駐蔵大臣とダライラマが協議して決定することが定
められた。しかし,その後駐蔵大臣がこの章程どおりにチベットの政務に関与していたかは疑問で
ある。特に第一次グルカ戦争の直前は,本稿で論じるように乾隆帝がチベット情勢を非常に楽観視
していた時期であり,駐蔵大臣も従来以上にチベット側有力者に政務を任せきりで,自らは関与し
ないようにしていたと考えられる。
55) 第二次グルカ戦争が勃発した背景については(佐藤 1986: 597-622),参照。
62
アジア・アフリカ言語文化研究 81
ただし聞くところでは,①これまで駐蔵大
位・権限をもつことを明確にし,彼らを強力
臣は大いなる体をわかっておらず,いつも
に監督・統制できるようにしなければならな
〔ダライラマらに〕接見して瞻礼するので,
謙遜のしすぎにより〔ダライラマらの〕属
いと考えたのである57)。
このように乾隆 57 年閏 4 月の時点では,
下の人と異なるところがなくなってしまっ
乾隆帝は駐蔵大臣による「瞻礼」を継続する
た。一切の政務ではカロン等と同等の立場
方針であった。しかしこの後,この方針はし
とみられ,つけいる隙を与えてしまい,彼
だいに変化していく。乾隆 57 年 12 月,清
らに軽んぜられ,諸事を思いのままにされ
朝は第二次グルカ戦争後の善後策として,次
てしまった。……鄂輝・和琳はひとしく欽
のような方針を決定した。
差大臣であり,②仏に拝礼し瞻礼すること
を除き,③政務を処理する場合にはもとよ
【史 料 13】『廓 爾 喀 檔』 第 4 冊,p. 2090,
りダライラマ・パンチェンラマと対等の立
乾隆 57 年 12 月 27 日,阿桂等議覆58)
場にあり,カロンらは属員である。諸事は
まさに福康安らの奏するように,今後駐蔵
すべからく欽差の命にしたがって処理しな
大臣は,山にのぼり瞻礼することについて
ければならない。
は自ら酌量して行なうようにするべきで,
無理に行なう必要はないとするほか,チ
ここで乾隆帝は,駐蔵大臣がダライラマらに
ベット内の政務処理を監督することについ
謙遜した態度を示しすぎることが,カロンら
てはダライラマ・パンチェンエルデニと対
による駐蔵大臣の軽視と政務の擅断につな
等でなければならない。
がっていると考えた(下線①)。そこで新た
に派遣した鄂輝・和琳に対し,ダライラマ
これはグルカ征討軍の総司令官であった福康
への「瞻礼」は継続しつつも(下線②),政
安が提案したもので,軍機大臣の議覆をへて
務処理の場ではダライラマと対等の立場にた
正式に裁可された。ここで福康安は,駐蔵大
ち,カロンらを属員として扱うことを徹底す
臣の「瞻礼」については「無理に行なう必要
るよう指示したのである(下線③)。この時
はないとする」と述べている。この言葉は,
点でも,乾隆帝はチベット仏教の価値観に基
【史料 6】下線④の「私的に跪き叩頭」するこ
づくダライラマとの関係を変えるつもりは
とは禁止しない(許す)という表現とは正反
まったくなかった。むしろダライラマを守護
対に,従来は必須の行為であった「瞻礼」に
する「大施主」の立場から,ダライラマを補
ついて,これを行なわないことを許すことに
佐するチベット政府に不正・歪みや政務・軍
する,という内容になっている。福康安のこ
務上の問題があれば積極的に介入して解決を
の提案に直接的に影響を与えたかは分からな
図るべきであり,そのためには駐蔵大臣がカ
いが,ダライラマ 8 世の伝記には,乾隆 57
ロンらチベット政府の有力者よりも高い地
年 2 月に福康安とダライラマ 8 世との間で交
56) 但聞,①向来駐蔵大臣不諳大体,往往因接見時瞻礼,因而過於謙遜,即与所属無異,一切辦事与噶
布倫等視若平行,授人以柄,致為伊等所軽,諸事擅専。……鄂輝・和琳均係欽差大臣,②除拝仏瞻
礼之外,③其辦事原応与達頼喇嘛・班禅額爾徳尼平等,噶布倫等即係属員,諸事自須稟命欽差辦理。
57) 平野聡は,清・チベット間の施主と応供僧の関係(檀越関係)には,清が施主の正当な権利として
チベット教団を統制するという側面があったこと(平野 1997: 134-141),乾隆帝がチベット仏教
に関して重大な問題が起こった場合,仏教的な「転輪聖王」として権力を発動し,問題の処理にあ
たっていたことを指摘する(平野 2004: 52-56)
。
58) 応如福康安等所奏,嗣後駐蔵大臣上山瞻礼一節,応聴其自行酌量不必勉強外,其督辦蔵内事務,応
与達頼喇嘛・班禅額爾徳尼平等。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
わされた興味深いやり取りの記録がある。そ
れは,おおよそ次のようなものであった。
63
上述したダライラマ 8 世の伝記の記述内容
にもとづけば,このとき福康安は,乾隆帝の
グルカとの戦いのため軍を率いてきた清朝
命令によってではなく,ダライラマの意思を
の将軍・福康安を迎えるため,チベット政府
尊重して「瞻礼」を行なわなかったことにな
はダライラマの座の左側に少しだけ低い座を
る。この一連のやり取りが,清朝官僚による
設け,ダライラマ・パンチェンラマ・福康安
ダライラマへの「瞻礼」は必ずしも行なわな
はともに南面して坐した。他の清朝の大臣や
くてよいという事例となり,【史料 13】の上
官員には常規どおりの座を準備した。ダライ
奏に結びついた可能性も十分に考えられる。
ラマ・パンチェンラマは立ちながら皇帝への
ただし,これが善後章程の条項として書き
請安を行なった。福康安はカターや宝石など
直された際には,次のような文面になった。
を献じ,ダライラマ・パンチェンラマは宝座
の前でカターを交換した。その後,福康安が
【史料 14】『欽定廓爾喀紀略』巻 48,乾隆
ダライラマに叩頭し拝礼したいと要望したの
57 年 12 月 27 日条60)
に対し,ダライラマは,これまでチベットに
今後駐蔵大臣は,山にのぼり瞻礼すること
はあなた(福康安)のような大人が跪拝する
を除き,チベット内の政務処理を監督する
という例規はないので,このようにしないで
ことについてはダライラマ・パンチェンエ
くださいと述べた。これを聞いた福康安は,
ルデニと対等でなければならない。
ダライラマは朝廷の礼儀を深く理解している
ので,本日はひとまず拝礼しません。今後は
この条項では,駐蔵大臣は「瞻礼することを
叩頭し拝礼することをお許し下さいと述べ
除き」ダライラマらと対等でなければならな
た59)。
いとされており,この条項を定めた時点でも,
このやり取りからは,軍を率いてラサに到
駐蔵大臣の「瞻礼」は続けるべきであるとい
着した福康安を,チベット側が異例の厚遇で
うのが乾隆帝の意向であったことが窺われ
迎えた様子が窺える。福康安のために用意さ
る61)。
れた座は,通常の駐蔵大臣の座とは異なって
しかし乾隆 58 年の間には,この状況に変
いた。またダライラマは,福康安が叩頭し拝
化が生じたようである。後年の史料であるが,
礼しようとしたのを丁重に断っている。福康
嘉慶 19 年(1814)閏 2 月,乾隆 58 年 11 月
安も,このときダライラマは自らポタラ宮よ
から嘉慶 5 年正月まで駐蔵大臣をつとめた鑲
り下山して福康安を出迎え,請安を行ないた
黄旗蒙古の和寧が次のような奏摺を提出して
いと願ったが,過去にそのような例はないの
いる。
で,再三にわたり人を遣わしてこれを断っ
たことを乾隆帝に報告しており(鈴木 1962:
【史料 15】「漢文録副」165-8005-2,嘉慶
44),ここからもチベット側が福康安を特別
19 年閏 2 月初 6 日,和寧奏62)
の待遇で迎えたことがわかる。
唐古特の俗は,対等に会見するのに互いに
59)『八世達頼喇嘛伝』pp. 183-184,参照。
60) 嗣後駐蔵大臣除上山瞻礼外,其督辦蔵内事務,応与達頼喇嘛・班禅額爾徳尼平等。
61) 鈴木(1962: 44, 52)はこの【史料 13】を引用し,駐蔵大臣は第二次グルカ戦争の終了後もダライ
ラマと会見する際には依然「瞻礼」を行なうべきとされた,と判断した。しかし後述のように,
「瞻
礼」は乾隆 59 年には停止されることになる。
62) 唐古特俗,平等相見,彼此手持哈達,互相問慰。西蔵因達頼喇嘛掌天下黄教,最為番衆所信崇,是
以従前相沿旧習,駐蔵大臣見達頼喇嘛亦以佛法瞻礼,達頼喇嘛并不下座。自乾隆五十八年欽奉上諭,
欽差駐蔵大臣与達頼喇嘛係属平等,不必瞻礼,以賓主礼相接。
64
アジア・アフリカ言語文化研究 81
カターを手に持ち,相互にご機嫌を問いま
この年の 3 月,チベットではハルハのト
す。西蔵では,ダライラマは天下の黄教を
シェートハン,ツェデンドルジが自らの子を
掌り,最も番衆に信じられ崇拝されている
エルデニパンディタホトクトの転世にしよう
ので,従前は旧習にしたがい,駐蔵大臣が
と図り,転世の選出に関与するナワンダシに
ダライラマに会うときもまた仏法によって
賄賂を送ったという事件が発覚している64)。
瞻礼し,ダライラマは決して座から下りま
この事件により,乾隆帝は大転世僧の転世を
せんでした。乾隆五十八年につつしんで上
籤引きで決める金瓶掣簽制度の導入を最終決
諭を奉じてより,欽差駐蔵大臣とダライラ
定した。また翌月には,清朝がチベット仏教
マは対等であり,瞻礼する必要はなく,賓
の興隆に尽くすのはモンゴルを安んずるため
主礼によって相接します。
にしかたなく行なっているのであり,元朝が
チベット僧を妄信して諂い敬ったのとはわけ
この史料の下線部には,乾隆帝が乾隆 58 年に
63)
がちがう,という文言で有名な『御製喇嘛説』
下したとされる上諭の内容が記されている 。
を発表した65)。この事件を通じて,乾隆帝は
この上諭の特徴は,ダライラマと会う際に
チベットのカロン・僧侶・貴族らに対する不
「賓主礼」(賓客と主人の間の対等の礼)を行
信感を一段と深めており,このことが「瞻礼」
なうよう具体的に指示していることにある。
する必要はない,という指示につながった可
また「瞻礼」する必要はないという言葉も,
能性もある。
【史料 13】の「瞻礼」は「無理にする必要は
そして乾隆 59 年 8 月,乾隆帝はついに駐
ない」という控え目な文言に比べ,表現が明
蔵大臣によるダライラマへの「瞻礼」の停止
快である。これらの点,また後述する【史料
を明言する。乾隆帝は,新任の駐蔵大臣とし
16】の内容からも,乾隆 58 年のいずれかの
てチベットに向かっていた松筠に対して次の
時点で,乾隆帝は駐蔵大臣によるダライラマ
ような上諭を下した。
への「瞻礼」は必要なく,対等の礼を行なわ
せるべきであると考えるようになったと判断
される。
【史料 16】「満文寄信檔」141(3),乾隆 59
年 8 月 11 日,松筠への寄信上諭66)
63) この上諭の原文はいまだ確認されていない。未見の史料のうちこの上諭が掲載されている可能性が
あるのは中国第一歴史檔案館所蔵の「軍機処満文廓爾喀檔」であるが,2010 年 1 月に同館を訪問
した際には整理中のため閲覧できなかった。
64)『廓爾喀檔』第 4 冊,pp. 2345-2356,乾隆 58 年 3 月 15 日,上諭,参照。
65)『清高宗実録』巻 1427,乾隆 58 年 4 月辛巳[19 日]条,参照。なお『御製喇嘛説』に関する論考
は多数あるが,ここではその代表的なものとして『御製喇嘛説』の全文を引用して解説を施してい
る(趙 2000: 37-42)をあげておく。
66) cengde isinjifi fonjici. ne heliyen dzang de tefi eiten baita icihiyahangge sain. ① dalai lama de
hengkilerakū sere anggala dalai lama umesi gisun dahambime kemuni kundulere ergide bi.
jirung kūtuktu. damu kūtuktu inde acara de niyakūrarakū ci tulgiyen. funcehe gūwa kutuktu ci
g‛ablun de isitala gemu niyakūrafi baita alambi seme wesimbuhebi. heliyen i ere arbušarangge.
umesi sain. ② yaya ambasa aika gūwa bade uttu coktolome ambakilame yabuci. bi ainaha
seme ojorakū. dzang ni tacin ere utala aniya eyahei eiten baita teisulefi mayan tatabume
fuhali ambasa afabuha be dahame yaburakū turgunde. baita teni šašun akū de isinaha uttu
tuwancihiyaha manggi. toose be ambasa de bici. yaya baita icihiyara de teni fakjin bahambime.
mayan tatabume muterakū ombi. te sungyūn be dzang de baita icihiyabume unggihe. ... ③
damu sungyūn oci. monggo gūsai niyalma suwayan šajin be wesihuleme banin i dalai lama
de hengkilere be boljoci ojorakū. aika unenggi tuttu oho manggi. utala aniya dubihe tacin be
mujakū hūsun bibufi teni tuwancihiyaha. geli dasame eyerede isinaci. baibi. hairakan bime eiten
baita icihiyame gamara de inu mayan tatabumbi. bihe bihei tacin banjinafi. geli dasame
↗
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
成徳が〔北京に〕到着して〔朕が〕問うに,
65
を礼節ある者とすることは,松筠が必ず願
〔成徳は〕「現在,和琳が蔵に駐して一切の
うところに過ぎない。⑤本当に仏教を敬い
政務を処理したことはよい。①ダライラマ
たいというならば,任期が満ちて交代し,
に叩頭しないだけでなく,ダライラマは大
帰還した時に再びダライラマに叩頭すれ
いに〔和琳の〕言葉にしたがい,しかもな
ば,よくないということはまったくない。
お〔和琳を〕敬う側にいる。ジルンホトク
ト・ディモホトクトが彼(和琳)に会うと
この上諭によれば,まずチベットから北京に
きに跪かない以外は,残りの別の転世僧か
戻った成徳が,駐蔵大臣の和琳がダライラマ
らカロンに至るまで,みな跪いてことを告
に叩頭しなかったことを乾隆帝に上奏した
げます」と上奏している。和琳のこの行動
(内容から判断するに,この上奏は口頭で行
はとてもよい。②およそ大臣らがもし別の
なわれたと思われる)。その中で成徳は,和
ところでこのように傲慢に振る舞うなら
琳がダライラマに叩頭しなかったこと,ダラ
ば,我はいかなるとも許さない。蔵の風習
イラマが和琳の言葉にしたがっていること,
はここ数年堕落したままで,一切の政務に
ジルンホトクト・ディモホトクト(それぞれ
あって掣肘を加えられ,一向に大臣らの委
ダライラマ・パンチェンラマの補佐役の大転
ねたことにしたがわないので,政務は結局
世僧)を除き,他の転世僧・カロンらを跪か
めちゃくちゃになってしまった。このよう
せて政務を執っていることを報告した(下線
な歪みを正したのち,権限が大臣らにある
①)。これを受け,乾隆帝は和琳がダライラ
ならば,すべての政務の処理についてはじ
マに叩頭しなかったことを「とてもよい」と
めて信頼ができ,しかも〔カロンらが政務
評した。この和琳の行動は,駐蔵大臣がダラ
を〕掣肘することができなくなる。今,松
イラマと対等の地位にあり,他のチベット政
筠を蔵に政務を処理するよう送った。……
府有力者がすべて駐蔵大臣の属員であること
③ただ,松筠は蒙古旗人。黄教を尊ぶ性で,
を視覚的に明示する効果をもつ。おそらく和
ダライラマに叩頭するかもしれない。もし
琳は,【史料 15】中の上諭とほぼ同様の指示
そのようになった後に,ここ数年大変な力
を受け,このような行動をとったと考えられ
を用いてようやく風習の歪みを正したこと
る。このことを聞いた乾隆帝は,政務上の駐
がまた改めて流れてしまえば,空しく,惜
蔵大臣の地位・権限を明確化するためにはや
しく,しかも一切の政務を処理し片付ける
はりダライラマへの「瞻礼」を停止したほう
のにまた〔カロンらの〕掣肘を受ける。こ
がよいと判断するに至った。
のまま教を成就して,また重ねて歪みを正
しかし同時に乾隆帝は,大臣(清朝官僚)
して整えたいというならば,さらに力が必
が「別のところでこのように傲慢に振る舞
要である。このことについて松筠に寄信す
う」,すなわち中央チベット以外の場所で大
る。自身が蔵についた後,④必ず和琳と同
転世僧に叩頭しないという傲慢な行動をとる
じようにダライラマに叩頭しないで,他の
ことは「いかなるとも許さない」(下線②)
転世僧 ・ カロンらに会う礼も,またすべて
と述べている。この言葉は,駐蔵大臣による
和琳のように行なうように。思うに,自ら
ダライラマ・パンチェンラマへの叩頭の停止
↗
tuwancihiyame teksileki seci ele hūsun baibumbi. erebe sungyūn de jasifi. inu beye dzang de
isinaha manggi. ④ urunakū heliyen i adali dalai lama de hengkilerakū gūwa kūtuktu g‛ablun
sebe acara doro inu gemu heliyen i songkoi yabubukini. gūnici beyebe derengge oburengge.
sungyūn urunakū cihangga dabala. ⑤ unenggi i fucihi i šajin be kunduleki seci. aniya jalufi
amasi ariha erinde jai dalai lama de hengkileci. umai ojorakū sere ba akū.
66
アジア・アフリカ言語文化研究 81
は,あくまで中央チベットにおける駐蔵大臣
いう言葉と同じように,叩頭すべきであると
とカロンらの地位を明確化するための例外的
いうメッセージを伝えるための表現であった
措置であり,それ以外の地域において清朝官
とみるべきである。ただ,基本的にダライラ
僚が大転世僧と会う際には従来どおり叩頭を
マ自身が北京に来ることはないので,ここで
行なうべきである,という意味である67)。こ
の「ダライラマ」は,ダライラマに代表され
れが乾隆帝の意向であったことは,フレーの
る大転世僧や彼らの代理として派遣された使
満洲大臣によるジェブツンダンバへの「叩
者など,チベット仏教世界において崇敬の念
頭」が 1878 年まで続いていたこと(【史料 4】
を表すべき対象のことを意味していると考え
参照)からも窺われよう。
られる。
続いて乾隆帝は,ラサに向かう松筠に対し,
松筠は乾隆末年における乾隆帝の寵臣の一
ダライラマに叩頭することなく,他の転世
人で,モンゴル語に通暁し,理藩院・軍機処
僧・カロンと会う際には和琳と同様に彼らを
でモンゴル・チベット事務の処理経験を積ん
跪かせるよう指示した(下線④)。本来,こ
でいた人物で,乾隆 57 年にはハルハのフレー
の指示は直接口頭で伝えるべき性質のもので
においてロシアとの貿易交渉をまとめあげ
あるが,松筠はすでに北京を離れ,チベット
た。またチベット仏教を信奉する蒙古旗人で
に向かう道中にあった。この決定は,清朝の
もあった(村上 2005: 68-70)。乾隆帝はモン
対チベット政策の根幹に関わる重要な内容で
ゴル・チベット事務の実務経験や対ロシア交
ある。また松筠はチベット仏教を信奉する蒙
渉での実績,またチベット仏教への理解の深
古旗人であり,【史料 14】のような曖昧な指
さという点を総合的に評価し,松筠であれば
示だけでは,ダライラマに「叩頭」してしま
戦後のチベットの秩序回復やグルカとの交渉
う可能性があった(下線③)。そこで乾隆帝
を進めていけると判断し,彼を駐蔵大臣に任
は,敢えて満文上諭を用いて,書面によりこ
用したのである。
の指示を松筠に伝えたのだと考えられる。
下線⑤は,一見すると松筠の個人的心情に
【史料 16】の上諭を受け取った松筠は,次
のように返答した。
配慮した言葉のようにも見える。しかし上述
のように,中央チベット以外の地では,清朝
【史料 17】
「満文録副」3486-29(159-1207),
官僚は大転世僧と会う際には従来どおり叩頭
乾隆 59 年 11 月 13 日,松筠奏68)
する必要があったのであり,当然そのことは
奴才(松筠)はつつしんで旨にしたがい,
離任後の駐蔵大臣にも当てはまる。ゆえに下
蔵に到着して,和琳と同様にダライラマに
線⑤の「よくないということはまったくな
叩頭せず,また彼(ダライラマ)を侮るよ
い」という言葉を字面どおりの意味として理
うな振る舞いをすることもなく,これまで
解すべきではない。むしろこの言葉は,【史
どおり善に導き,鼓舞して,黄教に益をな
料 6】下線⑦の「もとより不可ではない」と
さしめ,衆人の意を〔主の意向に〕したが
67) この上諭は『清高宗実録』巻 1458,乾隆 59 年 8 月丙寅[11 日]条に収録されているが,下線②
の言葉は削除されている。劉(1997: 73)・蕭(1996: 143)はこの実録の記事を引用し,この上諭
により駐蔵大臣がダライラマを謙遜・崇敬しすぎることがなくなったとするが,上諭の原文の下線
②の内容からは,この上諭が下されて以降も清朝官僚にとってダライラマが崇敬の対象であったこ
とに変化はなかったことがわかる。
68) aha gingguleme hese be dahame. dzang de isinafi. heliyen i adali dalai lama de hengkilerakū
kemuni arbun de imbe fusihūšarakū. an i sain yarhūdame huwekiyebume. suwayan šajin de
tusa arabume. geren i gūnin be dahabume yabuki. gūwa kūtuktu. g‛ablun sebe acara doro. inu
urunakū gemu heliyen i songkoi yabuki. [硃批] ere teni inu. saha.
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
67
わせたい。他の転世僧・カロンらに会う礼
ある。しかし乾隆帝は,清朝官僚による大転
もまた必ずすべて和琳のとおりに行ない
世僧への「叩頭」の記録を原則として檔案に
たい。
残さない,残す場合でもこれを私的な行為と
これでこそ正しい。わかった
いう体裁をとって記す,という方針をとって
いた。清朝皇帝は,チベット仏教世界の大施
この奏摺で松筠は,乾隆帝の意向を十分に理
主であると同時に儒教的価値観を根幹とする
解し,叩頭を行なわないと同時に,決してダ
中華世界の皇帝でもあった。乾隆帝は自身及
ライラマを軽んじることなく,これまでどお
び官僚の大転世僧への叩頭に関する情報を檔
りダライラマを保護し,「黄教(チベット仏
案に記録しないことで,これをできるだけ非
教ゲルク派)に益をなさしめ」るために力を
関係者に知られないよう努めるとともに,儒
尽くしたいという決意を表明した。この奏摺
教信奉者の側から批判を受けることがあって
を受け取った乾隆帝は,我が意を得たりとば
も,これを非公式な行為と説明して批判をか
かりに「これでこそ正しい。わかった」と硃
わせるようにしたのである。このような檔案
批を入れている。
記録の規範が存在したため,駐蔵大臣の奏摺
以上のように,乾隆帝は乾隆 59 年に駐蔵
中にはダライラマへの「叩頭」の記録がほと
大臣によるダライラマ等に対する「瞻礼」を
んど残っていない。これは,チベット仏教の
停止することを決断した。しかしこの施策は,
価値観に基づいて成立していた清朝・チベッ
決して従来からのチベット仏教の価値観に基
ト関係の本質を「非可視化」する,あるいは
づく清朝・チベット関係の本質を変えようと
非公式なものと説明できるようにしておくた
したものではなく,駐蔵大臣の政務上の地
めの方策であった。
位・権限がダライラマ・パンチェンラマと対
しかし乾隆 48∼53 年の間に限り,駐蔵大
等,他の転世僧やカロンらよりも上であるこ
臣によるダライラマ・パンチェンラマへの叩
とを明確にすることに目的があった。乾隆帝
頭の報告・要望に関する奏摺がいくつも存在
は,ダライラマ・パンチェンラマの宗教的尊
する。しかもその多くはパンチェンラマの
厳性を否定する気は毛頭なく,むしろチベッ
「仏塔」と「転世」に対するものであった。
ト仏教世界の「大施主」としてチベットに適
この背景には,チベットから熱河・北京を訪
切な秩序を確立し,ダライラマ・パンチェン
れたパンチェンラマ 3 世に乾隆帝や清朝官僚
ラマをよりよく守護する体制を整えるため
が特別な親しみと崇敬の念を抱いていたこと
に,駐蔵大臣の「瞻礼」の停止を命じたので
があったと考えられる。また当時の乾隆帝は,
ある。
対チベット関係を良好・安定的なものと認識
し,チベット情勢を楽観視しており,このこ
おわりに
とも上述の檔案記録の規範が破られた要因の
一つであったと思われる。しかし,チベット
駐蔵大臣がチベットで行なっていた「瞻
仏教の価値観に基づく言動を「非可視化」す
礼」とは,ダライラマ等の大転世僧に叩頭し
る,非公式なものと説明できるようにしてお
て礼拝し,カターを献じ崇敬の念を表す行為
くことは清朝の支配秩序の根本に関わる施策
であった。18 世紀末まで,駐蔵大臣はチベッ
であり,これを遵守しない駐蔵大臣及び彼ら
ト仏教の大転世僧と会う際には,チベット仏
の行動を容認・賞賛する乾隆帝の態度から
教の大施主・守護者である清朝皇帝の代理と
は,緊張感の弛緩が見て取れる。
して,チベット仏教の礼儀・慣習にしたがい
かかる状況下において,乾隆 53 年 6 月に
「瞻礼」を行なわなければならなかったので
第一次グルカ戦争が勃発した。これを機に,
68
アジア・アフリカ言語文化研究 81
乾隆帝は駐蔵大臣がダライラマらに「瞻礼」
の方針もしだいに変化し,乾隆 58 年には「瞻
する,すなわち叩頭して崇敬の念を表すこと
礼」の必要はないと考えるようになり,乾隆
ばかりに力を入れ,チベットの政務にほとん
59 年 8 月には遂に「瞻礼」の停止を命じる
ど関与できていなかったことを問題視するよ
に至ったのである。
うになった。そこで新任の駐蔵大臣に対して
ただ,これらの施策も従来からのチベット
は,ダライラマを軽んじてはならないが,一
仏教の価値観に基づく対チベット関係の本質
心に尊崇して大臣の職権が侵害されることに
を変えようとしたものではなく,その目的は
なってもいけないと述べ,ダライラマとの間
あくまで駐蔵大臣の政務上の地位・権限がダ
にバランスのとれた関係を築くことを命じ
ライラマと対等,他のチベット側有力者より
た。これ以降,駐蔵大臣によるダライラマ等
も上であることを明確にすることにあった。
への叩頭の報告・要望が檔案に記されること
ゆえに中央チベット以外の地では,これ以降
はなくなった。ただし「瞻礼」の行為自体は,
も清朝官僚による大転世僧への叩頭が継続し
これ以降も継続して行なわれた。
て行なわれた。駐蔵大臣の「瞻礼」停止の決
しかし乾隆 56 年 4 月に第二次グルカ戦争
定は,決してダライラマ・パンチェンラマの
が勃発すると,駐蔵大臣が以前と同様に実質
宗教的権威を否定しようとしたものではな
的な権限をほとんど持たず,チベット政府を
く,どこまでもチベット仏教世界の枠組みの
指揮・統制できていないことが改めて明らか
中で,
「大施主」としてチベットに適切な秩
になった。乾隆帝は,駐蔵大臣がダライラマ
序を確立し,ゲルク派に利益をもたらすこと
らに謙遜した態度を示しすぎることで軽んじ
を目的として行なわれたものだったのである。
られ,そのことがカロン等のチベット側有力
者による政務の擅断につながっていると判断
史 料
し,この問題を解決するには駐蔵大臣が政務
遂行上ダライラマと対等の地位にあることを
明確に示す必要があると考えるようになっ
た。それでも乾隆 57 年閏 4 月の時点では,
駐蔵大臣によるダライラマ等への「瞻礼」に
ついては継続する方針であった。しかし,こ
「宮中満文廷寄」中国第一歴史檔案館所蔵.
「満文寄信檔」(「軍機処満文寄信檔」)中国第一歴
史檔案館所蔵.
「満文録副」
(「軍機処満文録副奏摺」
)中国第一歴
史檔案館所蔵マイクロフィルム.
「漢文録副」
(「軍機処漢文録副奏摺」
)中国第一歴
【表】乾隆 45 年∼53 年の駐蔵大臣一覧表(蒙古旗人はゴシック体で表記)
辦事大臣
幫辦大臣
乾隆 45 年 11 月∼,博清額(正白旗満洲)
2 月∼,保泰(正白旗蒙古)
乾隆 46 年 博清額
保泰
乾隆 47 年 博清額
保泰
乾隆 48 年 博清額
保泰(∼ 2 月)→慶麟(鑲黄旗蒙古)
乾隆 49 年 博清額(∼11 月)→留保住(正白旗蒙古)
慶麟
乾隆 50 年 留保住
慶麟
乾隆 51 年 留保住(∼ 8 月)
→慶麟(幫辦大臣から昇格)
慶麟(∼ 8 月,辦事大臣に昇格)
→雅満泰(正黄旗蒙古)
乾隆 52 年 慶麟
雅満泰
乾隆 53 年 慶麟(∼10 月)→舒濂(正白旗満洲)
雅満泰(∼ 12 月)
※本表の駐蔵辦事大臣・駐蔵幫辦大臣の任免年月は,任免の上諭が下った年月である(『清高宗実録』の
記載に基づいて作成)。旗人官僚の旗籍については,『国朝耆献類徴初編』巻 91,博清額伝;同巻 81,留
保住伝;同巻 287,慶麟伝;同巻 286,雅満泰伝,及び『満漢名臣伝』三集,巻 13,保泰伝を典拠とした。
村上信明:駐蔵大臣の「瞻礼」問題にみる 18 世紀後半の清朝・チベット関係
史檔案館所蔵マイクルフィルム.
『乾隆朝上諭檔』中国第一歴史檔案館編,檔案出版
社,1991 年.
『廓爾喀檔』馮明珠主編(台湾・国立故宮博物院),
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書局,1964 年.
『欽定巴勒布紀略』方略館纂→全国図書館文献縮微
複製中心,1991 年.
『欽定廓爾喀紀略』方略館纂→全国図書館文献縮微
複製中心,1991 年.
『国朝耆献類徴初編』李桓輯録→文海出版社,1966
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原稿受理日―2010 年 4 月 1 日
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