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オスマン朝王家の兄弟関係の変質 -兄弟殺しはどのように起こったか-
オスマン朝王家の兄弟関係の変質 -兄弟殺しはどのように起こったか- 西南アジア史学科 平成 11 年入学 林 淳 [原稿用紙 50 枚相当] -目次- Ⅰ、序文 Ⅱ、史料解説 A、オスマン朝初期の史料 B、Kitab-ï Cihan-nüma の史料的性格 Ⅲ、初期オスマン家の兄弟関係 A、オスマン朝の起源と Ertuğrul の兄弟達 B、Osman の国家建設とその兄弟達 C、Orhan の兄弟達 D、MuradⅠの兄弟達 Ⅳ、初期オスマン朝の組織・制度の特色 A、オスマン朝の遊牧国家的側面 B、軍事及び政府の組織・制度の変化 Ⅴ、オスマン朝成立過程における周辺国家の状況、 A、オスマン朝とビザンツ帝国、セルビア、ブルガリアの関係 B、オスマン朝と諸君侯国の関係 Ⅵ、兄弟殺しの開始 A、OsmanⅠの Tundar 殺害 B、MuradⅠの Halıl、Ibrahim、Savcı 殺害 C、BayazıdⅠの Ya'kub 殺害 Ⅶ、結語 1 Ⅰ、序文 13 世紀末アナトリア西北部のビザンツ国境地帯で軍事行動を開始したとされるオスマン一 族は、14 世紀中葉にはアナトリア西部の海岸地方までもほぼ勢力下におき、バルカン半島に 進出するまでになった。この国家がこれほど急速に発展できたのは、当時の小アジアやバルカ ン諸国の政治事情、オスマン一族への付随者達の軍事力、そして当時としては革新的な制度な どが深く関係している。 またオスマン帝国には数多くの史料が残されており、全時代に亘って詳細な研究がなされて きた。最初期においても史料は多くないものの、かなり詳細な研究がなされてきた。ただ従来 最初期に関する研究は、当時の社会状態を踏まえたオスマン一族の出自とその性格、またその 軍事活動に付随した者達をどう捉えるかといった軍事的・組織的な面と、イスラム国家として のオスマン帝国といった宗教的・制度的な面が別々のテーマとして検証されてきた感がある。 従って本稿では、初期オスマン国家における個々の組織と具体的な諸制度のつながりを重要視 したい。 諸制度といっても様々あるが、本稿では国家の初期段階から行われていた“兄弟殺し”の制 度を採り上げることにする。兄弟殺しといってもこの「兄弟」には、王子達やその息子達、ま た先帝の兄弟といった王位継承権を持つすべての男子を含んでいる1。この制度は一般に、財 産分与に伴う領土細分化の防止や、事前に反乱の芽を摘んでおくといった目的で初期から行わ れていたとされ、第 7 代 MehmedⅡ治世下において成文法化されたものである。本稿では初 期オスマン国家の形態を具体的に明らかにしていく一助として、初期オスマン一族内における 王位継承権者間の関係がどのように変化したのか、またこの制度がどのようにして成立してい ったのかを、国家の発展と組織的な変質を念頭に置きつつ明らかにしていきたい。 Ⅱ、史料解説 まず歴史を紐解く前に史料について述べておく。オスマン朝初期の史料は、数は少ないが互 いに重要なつながりを持っている。夫々の史料の特徴と、それらのつながりを説明することで、 Neşrī の史料的価値を説明したい。 A、オスマン朝初期の史料 オスマン朝の修史はかなり遅れて開始された。Osman(在位?~1326)の時代から1世紀を 経てようやく歴史叙述が現れる。その最古の作品は 1410 年頃書かれた Taceddin Ahmedi (1334~1413)の Dastan ve Tevarih-i Müluk-i al-i Osman(オスマン諸王の史詩)である。 Ahmedi は 14 世紀アナトリアの代表的なトルコ詩人で、初めゲルミヤン君候国の首都キュタ ヒヤにいたが、1380 年頃オスマン家の下に身を寄せた。1402 年アンカラの会戦で Bayezid 1 トルコ語の研究書では、多くがこの制度を”Kardeş Katli”と表記している。英語論文におい ては”Fratricide(近親殺し)”と訳されているが、本稿では日本の研究論文で「兄弟殺し」と いう訳語を最もよく見かけることと、トルコ語の直訳から、 「兄弟殺し」という一般用語とし て使用する。 2 Ⅰ(在位 1389~1402)が Timur に敗れた後、Ahmedi は Edirne で Emir Süleyman の庇護に 浴し、彼のために「オスマン諸王の史詩」を書いた。これはトルコ語のマスナヴィーで 340 の対句からなり、Osman の父 Ertuğrul から Ahmedi の庇護者 Emir Süleyman までの歴史を 物語っている。 Ahmedi についで古いオスマン史料は、MuradⅡ(在位 1421~1451)の宮廷で作られた暦 表形式の歴史年表 takvim(royal calendars2)である。最も古い takvim は 1444 年の日付があ り、アダム以後の預言者、歴代カリフ、イスラム諸王朝の主なる出来事の年代順リストに、天 文・占星術に関する章が続いている。オスマン朝史は極めて簡略なもので、歴代君主の出生と 即位の年、主な征服事業だけを記録している。現存するいくつかの takvim の内容は共通して いて、毎年宮廷の占星術師によって新しい年表が作られ、前年のものは処分されたと考えられ る。事件の年代はヒジュラ暦の日付でなく、年表が作られた年から何年前に起きたかで示され ている。 MehmedⅡ(在位 1451~1481)の治世に書かれたオスマン朝の史書には次の 3 書がある。 Sükrullah の Behcet üttevarih Enverı の Düstürnamei Enverı Karamanı の Tevarih üs-Selatin ül'Osmaniyye Mevlana Sükrullah(1388~1465?)は、MuradⅡの時代のウレマーを代表する人物で多数 の叙述があり、またオスマン朝の使節としてカラマン君候国やカラ・コユンルに赴き、重要な 外交交渉に当たっている。 Behcet üttevarih(歴史の精華)は 1459 年頃書かれ、 大宰相 Mahmud Paşa に献呈された。大世界史の構成をもつが大部のものではなく、やや生硬なペルシア語で 叙述されている。全 13 章中の最後の章がオスマン王朝史に充てられているが内容はいたって 簡略なものである。 Enverı は、 大宰相 Mahmud Paşa に従っ て多く の戦い に参加 した こと 、その 著書 Düstürnamei Enverı(法則の書)を、1465 年に完成したこと以外は知られていない。この書 は 22 の短い章に分かれ、第 18 章がオスマン王家の起源から MehmedⅡの即位に至るオスマン 朝史となっている。この書のオスマン朝史の部分は、前述の takvim を史料としたと見られる。 Karamani Nişancï Mehmed Paşa(?~1481)はコンヤに生まれ、オスマン朝に仕えて書記 官長、国璽尚書、大宰相を歴任し、1481 年 MehmedⅡの死の直後大宰相の身で暗殺された。 Tevarih üs-Selatin ül'Osmaniyye(オスマン朝諸スルタンの歴史)は、アラビア語散文体で叙 述され、簡略な内容であるがオスマン王朝のみを扱った史料としては現存する最古の作品であ る。 BayezidⅡ(在位 1481~1512)の治世では、多数のオスマン朝年代記が書かれた。その多く は無名氏による“popular anonymous chronicles3”で、これらは一般に Tavarih al-i Osman 2 L.V.Menage,”The Beginnings of the Ottoman Historiography”, Historians of the Middle East,ed. Bernard Lewis and P. M. Holt, London, 1962;p.170 3 L.V.Menage,”The Beginnings of the Ottoman Historiography”, Historians of the Middle 3 (オスマン王家の歴史)と題され、多少の相違はあるものの共通の原史料から編纂されたと考 えられる。この原史料は MuradⅡの初年には完成していたらしいが、その原本は伝わっていな い。その内容は前述の takvim とは異なり、年代記としての体裁を備えていたはずである。ま たこれら無名氏以外の年代記筆者としては、Oruç Bey、Aşïkpaşazade、Neşrī の 3 人が挙げら れる。 Oruç Bey Adil の年代記は、年代下限が 1493~1494 年で、その内容は無名氏の Tavarih al-i Osman に極めて近い。著者の人物、経歴は不明である。Aşïkpaşazade(1400~1484?)は Aşïkpaşazade Tarihi と通称されるオスマン王朝史 Tavaih-ï Menakïb-ï Al-i Osman(オスマ ン王朝の歴史と事績)を著した。この書はトルコ語散文で書かれた詳細なオスマン朝専史であ り、後世に編纂された多くのオスマン王朝史の原史料の一つとなった。ちなみに Aşïkpaşazade はその序文の中で、Yahşï Fakï なる人物の書物を見たとしているが、その史料は現在に伝わ っていない。 そして Mevlana Mehmed Neşrī(?~1512?)は、彼らよりやや年代が下るが、 それまでで最大規模のオスマン王朝史 Kitab-ï Cihan-nüma(世界の観望書)を著述した。 Neşrī Tarihi と通称されるこの史書をもってオスマン朝初期の歴史叙述は完成し、以降はアラ ビア語やペルシア語をふんだんに盛り込んだ、比喩的・婉曲的な、技巧を凝らした文体の史書 へと移っていく。以上が初期オスマン史書の流れであるが、次項では、初期オスマン朝の歴史 叙述として完成をみた Neşrī の Kitab-ï Cihan-nüma について、Neşrī 自身の解説と合わせて その史料的性格を示す。 B、Kitab-ï Cihan-nüma の史料的性格 まず Neşrī 自身については詳しいことは分からない。彼の著作では名前以外のことは述べら れていないからである。だがいくつかの Tezkire(詩人伝)において Neşrī は詩人として登場 する。また Abdül Mavla Çelebi(1541~1600)の Künh-ül ahbar(伝承の精髄)では Neşrī を MuradⅡ時代のウレマーの一人として記載しており、その出身地についてもアナトリアの小 さな町で生まれ、Bursa で育ったとしている。さらに Evliya Çelebi(1611~1678)もその著書 seyahat-namesi(旅行の書)の中で、Neşrī がゲルミヤンの出身で SelimⅠ在位中に逝去した と伝えている。ちなみに Neşrī とは本名ではなく、1479 年の日付を持つ Bursa の Kadı の名 簿に見える“Huseyn b. Eyne Beg”こそが Neşrī の本名との指摘もある4。 続いて Kitab-ï Cihan-nüma についてであるが、その体裁は全 6 部で構成されており、そ の第 6 部がオスマン朝史に当てられている。ただし第 1 部から第 5 部までは現存しない。唯 一現存する第 6 部は、Oğuz Han から書き起こし、BayezidⅡの治世までを物語っている。ま た Neşrī はその序文で 「私の見たところ、他の学問は多くの著作があり全て満足すべきものなのに、歴史という学問 East,ed. Bernard Lewis and P. M. Holt, London, 1962;p.171 4 L.V.Menage, Neshri’s history of the Ottomans: the sources and development of the text , London, 1964;p4 4 分野はそうではない。そして特にトルコ語では一つの歴史すらない5。 」 としていることから、トルコ語で新たな歴史体系を築くことを目指したと思われる。 その原史料としては、Aşïkpaşazade Tarihi を主なものとし、The Oxford Anonymous History と前述の takvim を使用していると見られる。The Oxford Anonymous History は大法官府の役 人をしていた筆者が BayezidⅡに促されて書いたもので、その内容は前項で述べた Sükrullah の Behcet üttevarih に似ている。ただし長さ、詳しさで Sükrullah より優れており、直接の 引用ではないらしい。Neşrī がこの書物を直接利用したかどうかには疑問の声もあるが6、か なりの類似点があることは確かである。takvim は主に Aşïkpaşazade Tarihi に記載されてい ない戦い等を付け加えるために使われている7。 また Kitab-ï Cihan-nüma には最古とされる Menzel 本を初めとして、新たに Aşïkpaşazade Tarihi や他の史書からの追加を加えた Hanivaldanus 本、Paris 本、Manisa 本、Vienne 本、3 種類の Istanbul 本等多くの写本がある。本稿ではその中でも、1656 年に作成された Istanbul Veliyeddian 本から 1731 年に複写された本を底本とし、各種の写本も勘考した 1949 年刊行の Mehmed Neşrī,Kitāb-ı Cihān-nümā,Neşrī Tarihi,cilt1 を使用する。Veliyeddian 本は先に 挙げた無名氏の”popular anonymous chronicles”の校訂本を使って多くの補足がされている 8 。 以上、オスマン朝修史の流れや個々の史料の関係を見ると、Neşrī の Kitab-ï Cihan-nüma には様々な時代の、様々な人間の目から捉えられたオスマン朝初期の情報が凝縮しているとい えよう。その点でこの史料は非常に重要であり、利用価値の高いものと考えられる。よって本 稿では Kitab-ï Cihan-nüma を一次資料とし、補足として Ahmedi の Dastan ve Tevarih-i Müluk-i al-i Osman と Aşïkpaşazade の Tavaih-ï Menakïb-ï Al-i Osman を使用することにす る。 Ⅲ、初期オスマン家の兄弟関係 次頁の表1は、原則 Neşrī に従って作成した初期オスマン家の系図である。他の史料で出て くる関係のはっきりしない血縁者はここでは省略した。Ⅲ章ではこれらの人々が互いにどのよ うな関係にあったのか、初期オスマン朝の中で如何なる位置づけであったのかを Neşrī を引き つつ探っていきたい。また他の史料に現れる血縁者についても解説したい。 5 Faik Reşit Unat and Mehmed Altay Köymen ,Mehmed Neşrī,Kitāb-ı Cihān-nümā,Neşrī Tarihi,cilt1 ,Ankara, 1949;p4(以下 Neşrī) この問題については L.V.Menage の Neshri’s history of the Ottomans: the sources and development of the text の p13~14 に詳しい。 7 BayezidⅠと Kadı Burhaaneddin の Kırk-Dilim での戦いもこの史料からの引用と思われ る。 8 前半ではスルタンの年齢や統治期間を付け加えたり、後半ではいくつかの地形表を付けたり している。個々の写本の特徴については、L.V.Menage の Neshri’s history of the Ottomans: the sources and development of the text の p41~53 に詳しい。 6 5 表 1 Süleiman Şah Ertuğrul Tundar Osman Gün Toğdı Saru Yatı Sunkur Tekin Gündüz Bay Hoca Ay Doğdï Alâ üd Din Süleyman Paşa İbrahim Ak Temür Orhan MuradⅠ BayezidⅠ Halıl Ya'kub Ibrahim Savcı A、オスマン朝の起源と Ertuğrul の兄弟達 まずオスマン朝の起源についてであるが、Neşrī を含め古年代記にはその祖がどの部族に属 していたのか記述がない。ただし Orhan 時代に鋳造された銀貨に Kayï 部族の damga(部族標 識)が刻印されていることから、Kayï 部族の出身である可能性が高い。Kayï 部族はトルクメ ンの 24 部族の筆頭に位置する部族で、トルクメンの族祖 Oğuz Han の最年長の孫 Kayï をその 祖とする部族である。この説を主張する Köprülü は、Kayï 部族は 11 世紀に開始されたセルジ ューク朝のアナトリア征服に付随して部族全体がアナトリアに到来し、その内部を西進して各 地に分散した、という推論をなしている。事実当時 Kayï の名を冠する部族が多数存在してい た可能性は高く9、オスマン朝の起源はアナトリア西北部に分布した Kayï 部族組織を構成する 一氏族であった可能性がある10。 ただ Neşrī に Osman 以前の族長として、 9小山皓一郎 「オスマン朝の始祖オスマンと 「オスマン集団」 の性格」 『東洋学報』 50 巻 3 号 ,1967, p49,50 10 Wittek はこの Kayï 部族出自説を疑問視し、近隣の異教徒との戦いに献身する gazi 集団か らの出自説を提起している。 6 『 (Osman の父)Ertuğrul は Süleyman Şah の子。Süleyman Şah は Kaya Alp の子。…11』と、 Oğuz Han やその曽祖父に至る 52 人の名を記載しているのだが、 同時代の Enverı や Karamanı は Osman の祖父をよりトルコ系の名である Gündüz としているし、あるオスマン朝史抄 (Risale fi’t-Tarih il-Osmanniyye)は Gökalp、Gündüz Alp、Ertuğrul の順に族長になった としている12。またあるビザンツ史家は Ertuğrul の父を Oğuzalp、祖父を Gündüz Alp とし ているなど全く統一性に欠けており、Osman の祖父以前は創作である可能性が高い。つまり オスマン朝の系図は、部族の特定はある程度できるにしても、Osman の父 Ertuğrul から後し か確認できないのである。Ertuğrul に関する同時代資料はないのだが、Orhan のワクフ寄進状 にその祖父として Ertuğrul の名が明記されていることから、この人物が実在したことは疑い ない。よってオスマン家の人間関係を探るにあたり、まず Ertuğrul の生涯やその兄弟につい ての解説から始めたい。 Neşrī によれば、Ertuğrul の父 Süleyman Şah が東方へ帰る途上ユーフラテス川で溺死し、 その後で 『4 人の息子が残された。Sunkur Tekin、Gün Toğdı、Ertuğrul Gazi、Tundar13である。14』 と Ertuğrul の兄弟の名が挙げられている。このうち Sunkur Tekin と Gün Toğdı のどちらか 一方は、部族の一部を従えて遠い郷土に向けて去り、もう一方はシリア方面に赴いてその地に 留まり、以後歴史から姿を消す。残された 2 人は『400 の家々』を率いてアナトリアを西進し、 当時ビザンツと争っていたルーム・セルジューク朝の Alâ üd din に、 『Söğüt を冬営地として、 Tomanic と Ermeni を夏営地として与え15』られた、とされている16。その数年後(1280 年?) 『Ertuğrul は 93 歳で永久に死に、Söğüt に埋葬された17』 。また Tundar については第Ⅵ章で 扱うためここでは省略する。 B、 Osman の国家建設とその兄弟達 Neşrī, p54,56 や Aşïkpaşazade、Oruç Bey などは Neşrī に近い家系図を記載しているが、いず れも人数や人名に違いがある。 13 Aşïkpaşazade、Oruç Bey、無名氏、Ahmedi の史料では Süleyman Şah の息子は 3 人とな っており、Tundar の名は入っていない。また Sükrullah と Karamanı の史料では Ertuğrul のほかの兄弟は言及されていない。これについて Kafadar は、この事実は OsmanⅠが肉親を 殺したという悪行を書きたくなかったため意図的に外されたのではないか、彼らより年代の下 る Neşrī の時代には、兄弟殺しが絶対悪と見なされなくなったため書かれたのではないか、と 指摘している。Cemal Kafadar ,Between two worlds : the construction of the Ottoman state ,Berkeley , 1995, p107(以下 Kafadar) 14 Neşrī, p60 15 Neşrī, p64,66 16 ルーム・セルジューク朝の Alâ üd din は実在の人物であるが、セルジューク側の史料には Ertuğrul との接触については一切触れられていない。また Alâ üd din がビザンツと争ったと の記録はセルジューク・ビザンツ双方とも残されていないことから、実際に Alâ üd din に領 土を与えられたのかは疑いが残る。ただ Ertuğrul が Söğüt を冬営地、Tomanic と Ermeni を 夏営地としたことは、ほぼ全ての伝承が一致するため事実と思われる。 17 Neşrī, p78 11 12Sükrullah 7 Köprülü によれば、 Osman はおそらく最初は Paphlagonia18のエミール Umur に従っていたが、 Umur の死後同地方がチャンダル侯国の手に渡る過程で独立したのではないか、と指摘してい る19。また Shaw によると、Kastamonu に首都を置いてビザンツに対抗していたチョバン侯国 の内紛を治めた Ali という人物が、その威信を利用して独立し、その後ビザンツと協力して傭 兵隊指揮官の役割を担っていた。しかし彼がこの役割を放棄したので、Osman がそれを継いだ、 と指摘している20。いずれにしろ Osman は権力の空白地帯に、Karaca Hisar を中心として自 分の侯国を建設したようだ21。Osman の名が最初に現れるのはビザンツの Pachymeres の年 代記であるが、詳しい記述はない。Neşrī によると『Osman は(1258 年頃)Söğüt で生まれ 22』 、1334 年頃ブルサ陥落の直前に死んだようだ。 兄弟については『Ertuğrul には 3 人の息子がいた。Osman、Gündüz、Saru Yatı である23』 、 とされている。Saru Yatı は Ertuğrul の長男で Osman が Beğ になると彼に従い24、1286 年 の Ine-Göl との 2 回目の戦いで『殉教し(中略)、父 Ertuğrul と共に埋葬された25』とされる。 彼には息子 Bay Hoca がいたが、それより前(1285 年?)Osman が初めて Ine-Göl を攻撃し た際同じく殉教している26。 もう一人の弟 Gündüz はまず Osman の側近の立場で登場する。Karaca Hisar の征服後、 『お前はどう思う。どんな方法で征服するか。27』と意見を求められている。また Osman は 『スバシの地位28を兄弟 Gündüz に与え29』るなど軍事面でかなり重用していたようだ。また Osman の死後も Orhan によって『Karaca Hisar を与え30』られるなど31、初期オスマン家の 18 19 黒海南岸 Sinop 等を含む地域 M.Fuad Köprülü; translated and edited by Gary Leiser ,The origins of the Ottoman Empire ,New York, 1992, p111(以下 Köprülü) 20 Stanford Shaw, Empire of the Gazis: the rise and decline of the Ottoman Empire 1280-1808,Cambridge, 1976, p12,13(以下 Shaw) 21 Colin によれば“Ertuğrul の息子 Osman”と刻まれたコインが見つかっていることから も、彼が独立を成したと見ていいだろう、としている。Colin Imber ,The Ottoman Empire 1300-1481 ,Istanbul, 1990, p18(以下 Colin) 22 Neşrī, p64 23 Neşrī, p70 24Saru Yatı は Osman より 30 歳も年長であり、叔父 Tundar と共に Osman と Beğ の継承争 いをしたとの指摘もあるが、今回の史料からは確認できなかった。三橋冨治男『オスマン=ト ルコ史論』吉川弘文館 1966, p51 25 Neşrī, p84,86 26 Neşrī, p80 27 Neşrī, p86 28 スバシは従来サンジャクベイの次位に位置するものとされるが、この時期においては独立 の軍管区長であった可能性が高い。米林仁「オスマン朝初期のベイリルベイリク制-アナド ル・ベイレルベイリクの設置時期をめぐって」 『アジア・アフリカ言語文化研究』No24 ,1982, p148~156 に詳しい。 29 Neşrī, p112 30 Neşrī, p162 8 重要人物だったといえよう。 また Gündüz には息子が2人いた。Ay Doğdï は 1302 年に Bursa のテクフルらと Dinboz で戦った際殉教した32。もう一方の Ak Temür はまず『Karaca Hisar を獲得した時(中略) 派遣した33』人物として登場する。ただしすぐ後で『Karaca Hisar のサンジャクを息子 Orhan に与えた34』とされているので、ここでは城の管理防衛のために遣わされたと思われる。また Osman は Bursa 包囲の際要塞を 2 つ築いているが、『Kapluca 側に要塞を建てて、中に兄弟 の息子 Ak Temür を置いた。なぜならとても勇敢な男だからだ35』と扱われ、さらに Ak-Ova 戦では『Akça-Koca36は Ak Temür と共に Ak-Ova へ突進した37』と書かれるなど、生粋の軍 人として活躍していることが分かる。しかしどこかに封土を与えられたという記述はなく、 Ak-Ova 戦以降彼の名は全く見られなくなる。Osman に従って活躍した他の Gazi 達が封土を 与えられ、その後も戦役に加わっていることを考えると少々不自然に思える。しかしこれ以上 は推測の域を出ない。 C、Orhan の兄弟達 Osman は、西部アナトリアに絶大な影響力を持っていた Ahî の Şeyh Edebali の娘 Mal Hatun と結婚した38。この 2 人の間に 1288 年に生まれたとされる Orhan は、Yar Hisar のテ クフルの娘 Nilüfer を娶った時の記事で初めて現れる。ここでは『Osman Gazi は息子 Orhan へ(Nilüfer を)与えた。その時 Orhan は勇敢だった』とされ、続けて『もう一人息子がいた。 彼を遊牧のために託した39』と兄弟の存在にも言及されている。その名は、 『もう一人の息子 Alâ üd Din Paşa を自分と共に置いた40』との記事で明らかになる。Neşrī に限らず古年代記 においてこの 2 人の関係は頗る良好だったとされ、理想の形態のように扱われている。2つ例 を挙げる。 『 (Osman が死ぬと)Orhan と Alâ üd Din Paşa は一箇所に集まった。 (中略)Orhan は言っ た「何を命じるのか」と。Alâ üd Din Paşa は言った「この領土で遊牧するには、全ての臣民 31 ただし Oruç Bey の C 写本では Gündüz を“Orhan の叔父の子”としている。 Neşrī, p114 33 Neşrī, p110 34 Neşrī, p112 35 Neşrī, p116 36 Osman の後期以降名前が見られる人物で、Konur Alp、Gazi Abdur-Rahman と共に主に 北部方面で征服活動を展開した。Neşrī p136 では彼らの指揮の下に Kara-Çepiş や Ap-Suya をはじめ多くの都市を征服した記事が載せられている。 37 Neşrī, p128 38 イスラム教指導者の Ahî は、ギルド的な民衆組織の esnaf と結びつくことで、これに属す 32 ムスリムの宗教的指導者として君臨し、また彼らによって経済的基盤を有することができた。 Osman はこの両勢力と融和することで、イスラム法による統治の実現と経済的基盤の獲得を狙 ったものと思われる。なおオスマン朝のその後のイスラム国家的体制については、羽田明「イ スラム国家の完成」 『岩波講座世界歴史』8,岩波書店 1969, p499~505 に詳しい。 39 Neşrī, p104 40 Neşrī, p112 9 と騎士を監視する大王が必要だ。 (中略)私が相続する物は何もない」と。 (中略)Orhan は 言った「それなら私の vezir になれ」と。受け入れず言った「Kite 草原に Foture という村が ある。これを私に与えよ。私はそれで十分だ」と。Orhan はその村を彼に与えた41』 『ある日 Orhan Gazi へ兄弟 Ali Paşa が言った「おお兄弟!神の恩恵で大王になった。日ご と日ごとに兵が増大し始めた。最後の審判の日まで忘れられないよう、他の兵から区別し自分 の兵に印を付けよ」と。Orhan は言った「あなたの言う事、私は受け入れよう」と42』 このように Alâ üd Din は自分の相続権を放棄し、Orhan に全て譲っている。更に Orhan の個人的な相談役として意見するなど、軍人色の濃い初期オスマン家の中では異色の存在とい える。しかしこの Alâ üd Din は、他の史料からも実在が確認できる人物ではあれど、謎の多 い人物である。Orhan より年長なのかもはっきりせず、上記の記事以降は姿を消している43。 以上のように Neşrī では Osman の息子は 2 人とされているが、Aşïkpaşazade では 1324 年 に Orhan がワクフをした時44の証人として、他にも兄弟がいたことが確認できる45。 Çoban、 Hamid、 Melik、Savcı、Fatma、Hatun、Pazarlu と 7 人が記載されているが、彼らについては名前以外 は知られていない。しかし唯一 Pazarlu についてはギリシアの Nikeforos Gregoras や John Ⅵ Cantacuzenus46の年代記にその名が見える。それによると、1328 年 Orhan の弟 Pazarlu が率いる軍が Pelekanon47でビザンツ軍に破れるも、Orhan が陣を丘の上に張ったことでビザ ンツ全軍は突入できず壊滅は免れた。その後 Orhan が巻き返して AndronicusⅢに致命傷を与 え勝利した。この時一部始終を Pazarlu はスパイを通して Orhan に報告していた、とある48。 このように他国の年代記にも取り上げられている以上、少なくとも Pazarlu は実在したので はないか。Osman、Murad と、一族の軍人色の濃い時代にありながら、Orhan の兄弟だけがこう いった特徴が薄いことは不自然に思える。逆に Pazarlu のような兄弟が存在したと考える方が 自然ではなかろうか。それにしても Osman 時代の甥達についてまで詳しく語っている Neşrī が、同じく軍事活動を展開した Pazarlu や他 6 人の兄弟達の存在を記載せず、また Alâ üd Din についても軍事活動や王位とは関係のない人物のように扱っているのは何故なのだろうか。7 ページ注 13 で挙げたように、Neşrī がそれ以前の史家が載せなかった史実を書いているとい う事実は、現存しないより正確な史料が伝わっていたことを意味する。その中に当時理想の世 Neşrī, p146,148 Neşrī, p152,154 43 A.D.Alderson, The Structure of Ottoman Dynasty, Oxford, 1956(以下 Alderson), p163 ここに載せられた系図では Alâ üd Din Paşa は 1331 年に死に、その後も 6 代に亘り続いたこ とになっている。 44 この時のワクフは Orhan の名でなされていることから、 Uzunçarsılı はこの時 Osman は既 に死んでいたのではないかと指摘している。Gazi Orhan Bey Vakfiyesi, p282,283 45 これが確認できるのは Aşïkpaşazade のみで、Oruç Bey、無名氏、Neşrī にはない。 46 JohnⅥ Cantacuzenus は 1354 年に JohnⅤに譲位を余儀なくされ、以降 1383 年に死ぬま で政治活動はせず、修道院で歴史や静寂主義擁護の論文を書いて過ごした。 47 ボスフォラスから 2 日半の地。 48 Pazarlu の記事は Colin Imber ,The Ottoman Empire 1300-1481 ,Istanbul, 1990, p20(以 下 Colin)及び, Kafadar p189 より引用した。 41 42 10 とされ Şücaeddin49と称されていた Orhan に、兄弟間の事件の存在が見出されたとしても、立 場上記載することはできないであろう。次章で詳しく扱うが、この時期既にオスマン朝の組 織・制度は変化してきていた。Orhan が兄弟殺しの端緒を開いていた可能性も否定できない。 D、MuradⅠの兄弟達 MuradⅠは、前述の Orhan と Nilüfer の婚姻で『 (Nilüfer は)Sultan Murad Gazi と Süleyman Paşa の母となった50』と、初めてその名が挙がる。Murad は 1326 年に生まれ、 Bursa や Őnü で育ったとされるが、詳しいことは分からない。Neşrī も即位前の Murad につい ては、 『Orhan Gazi はそのウジをサンジャクにして小さい息子 Murad に与えた51』 、 『Bursa を もう一人の息子 Murad に与えた52』と 2 箇所で扱うのみである。 それと対照的に、長男の Süleyman Paşa の名は随所で目にする。Neşrī では、Orhan が Iznikmid へ進軍する際 Ap-Suyı53で出迎えた記事54を初め、その征服後 Iznikmid に配され55、 その後 Yenice、Göynük、Mudurni と合わせて与えられた56、と記されている。さらに『Süleyman Paşa はその領地(上記の 3 市)でとても正義と公正を為した。 (中略)その領地の繁栄は、全 て Süleyman Paşa が与えた決定に基づいて今も確立されている57』、 『Orhan Gazi は偉大な息 子 Süleyman Paşa を呼んで、Karasi 州の管轄者の地位を与えて、自身はまた Bursa へ戻っ た58』とされるなど、Orhan の信頼厚い人物として描かれている。また Süleyman Paşa は、 1349 年セルビアの Stefan Duşan の軍をビザンツの要請で出動して破り、その見返りに Cimbeni を獲得してルメリ進出の足がかりを得た59。その後も Akça Limon、Gelibolı、Tekvur tağ、Köklük、Konur-Hisar、Dimetoka、Hayre-Bolı、Çorlı と立て続けに征服し60、軍事指導 者としての才能も発揮している。このように実質的に Orhan に代わるほどの働きをしていた Süleyman Paşa であったが、 『ある日乗馬中に投げ出され61』て死んだ、とあっけない最期を 遂げている。Orhan もそれによほどのショックを受けたのか『2 月後に死んだそうだ62』63。 Neşrī にはこの 2 人の記述しかないが、Murad にはもう 2 人兄弟がいたことが分かってい る。その 1 人 Halıl は Orhan と JohnⅥ Cantacuzenus の娘 Theodora との間にできた一番下 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 「英雄」の意。 Neşrī, p104 Neşrī, p150 Neşrī, p162 9 ページ注 36 にある Ap-Suya と同じ地名と思われる。 Neşrī, p150 Neşrī, p152 Neşrī, p162 Neşrī, p164 Neşrī, p166 Cimbeni は Gelibolı の南西 20km の都市。 Neşrī, p174 に関連する記事がある。 Neşrī, p176~184 にかけて一連の征服活動が載っている。 Neşrī, p184 Neşrī, p186 ただ実際死んだのは 2 年後であったようだ。 11 の弟である。Süleyman Paşa の死後ビザンツとの調停役をしていた64、とか Ankara 近くに拠 点を持っていた65、など様々指摘されているが詳しいことは分からない 66。もう 1 人の兄弟 İbrahim は、Murad の異母兄であるということ以外ほとんど知られていない。第Ⅵ章で解説す るが、両者とも Murad の即位と共に処刑されたとされる。 同じく第Ⅵ章で扱うが、MuradⅠの息子達についても解説しておく。Neşrī からは Bayezid と Ya’kub の 2 人の名が確認できる。おそらく後者が年長で、宮廷内部では Ya’kub をスルタ ンに推す動きも強かったようだ67。 ただ 1387 年のカラマン君候国戦における布陣では、Bayezid が左翼、Ya’kub が右翼の将となっており68、また Gümüş Hisar 戦では Bayezid が Ya’kub の 前を歩いている69。これだけでは断言できないが、少なくとも MuradⅠは 2 人を対等に扱って いたように思える。当時 Bayezid は Kütahya、Ya’kub は Balıkesir を治めていたようだ。 他にも 2 人の兄弟の存在が認められる。İbrahim とおそらく最年長の Savcı である。前者は Bayezid が即位する前には既に死んでいたらしく、詳しいことは分からない。後者については 第Ⅵ章で扱うのでここでは省略する。 Ⅳ、初期オスマン家の組織・制度の特色 この章ではオスマン朝が国家としてどのような側面を持っていたのかを解説すると共に、そ の軍事的組織・制度がどのように変化していったのかを考えたい。 A、オスマン朝の遊牧国家的側面 まず初期オスマン朝というと、その活動内容から軍事集団としての印象が強いが、Neşrī に は遊牧国家としての側面を持っていたことを窺わせる部分がある。以下例を挙げて検証する。 『そして Ertuğrul の子のうち Osman が勇者となった。そのため人々は Osman を尊敬し て、狩猟の時若者は彼の下に集まった70』。ここではこの“狩猟”がどの程度の規模・頻度で 行われたものかは分からないが、Ertuğrul から“遊牧首長”としての地位を継承したように も見受けられる。また Osman の即位後にも、 『(Bilecük に預けていた荷を引き取る際)油と 64 65 66 H.Inalcık ,The Ottoman empire The Classical Age 1300~1600 ,London ,1994, p10 Shaw, p17 Colin や Akman は、Halıl は Izmit 湾で小船で旅行中 Foça の海賊に捕まった。当時海軍 はまだ弱く、陸路にも Saruhan 侯国が立ちふさがっていたため、Orhan は JohnⅤに助けを求 めた。海からの襲撃は失敗したが、2 年半後莫大な身代金に換えて取り戻し、10 歳の娘 Irene を妻として同行させ Izmit へ連れ帰った。JohnⅤは Halıl が後継者になるよう望んでいた、 と指摘している。 (Foça は Izmir の北西 40km の都市。古名 Phocaea。1455 年までジェノヴァ 領) Colin, p26、Mehmet Akman,Osmanlı Devletinde Kardeş Katli ,Istanbul, 1997, p47 (以下 Akman) 67 Alderson, p9 68 Neşrī, p224 69 Neşrī, p276 70 Neşrī, p70 12 チーズと絨緞を贈り物として贈って…71』と、遊牧で得た品々を他国との交易に使用する様子 が窺える。そして第Ⅲ章でも扱ったが、『もう一人息子がいた。彼を遊牧のために託した72』 とする記事。 この時期 Osman はビザンツ領の侵略に忙しく、 遊牧に勤しむ記事は見られない。 それを息子の Alâ üd Din が受け継いでいたことを証明する記事である。さらに Osman の遺 品についての記事には、 『何頭かの良い馬達と幾群れかの羊があった。 (中略)そして Sultan Őyüği に良い牝馬と何組かの腹帯が残った。73』と Osman の財産に遊牧に関する物品があった ことが分かる。 このように初期のオスマン朝には遊牧的要素を垣間見ることができる。また第一次 Ine-Göl 攻撃や Bilecük 攻略が、いずれも遊牧活動を展開する上での障害となったことが主因であるこ とを考えると74、少なくとも最初期のオスマン朝は遊牧活動を重要な生業とする集団であった と思われる。しかしこれ以降は防衛のためというよりも、略奪のための軍事活動が主になって いき、遊牧的な要素も急速に減少する。その間遊牧を引き継いでいたと見られる Alâ üd Din も、Orhan が即位する際『私に何が残ろうか75』と Orhan に全てを委ねており、その後遊牧 の記事が全く見られなくなることから、Orhan の時代にはオスマン一族による遊牧活動は完 全に終了したと言えよう。これ以降君主は、純粋に軍人としての性質を帯びるようになる。 B、軍事及び政府の組織・制度の変化 前項で述べた通り、Osman の軍事活動は遊牧生活を守るための戦闘から、略奪目的の戦闘 へとその性格を変えていった。その大きな変化を証明するのが Samsa Çavuş と Köse Mihal の 存在である。前者は Neşrī によると、 『Ertuğrul と共に来た。Ine-Göl の異教徒の迫害から逃 げて Mudurnı に定住した。 (中略)そしてまた集団は多かった76』とされる人物で、別の遊牧 集団を率いていたと思われる。また後者は元 Harman-Kaya のテクフルで、Osman が『殺す のを惜しんで罪を許して放免』し、 『Osman beğ へ従者と共に盟友となり、真の友となった77』 人物である。2 人ともオスマン一族ではないが、Osman の軍事活動に協力しその発展の基礎 を築いた。Saru Yatı、Gündüz、Bay Hoca といった一族のみで国家が運営されていた時代か ら、外の優秀な人材を積極的に組み入れ共闘する時代へと変化したのである。さらに Orhan が戦場に出るようになると、Turgud Alp、Akça-Koca、Konur Alp、Gazi Abdur-Rahman78と 71 72 73 74 Neşrī, p80 Neşrī, p104 Neşrī, p146,148 Ine-Göl は Osman が夏営地と冬営地を行き来する際妨害をしたことが原因である。一方 Bilecük は季節移動の際荷物を預かってくれる重要な都市だったのだが、Osman との約束を 違えて Ine-Göl と通じたのが原因であった。なおこれら遊牧集団の構成要員については、小山 皓一郎「オスマン朝の始祖オスマンと「オスマン集団」の性格」 『東洋学報』50 巻 3 号 ,1967 参照。 75 Neşrī, p148 76 Neşrī, p90 77 Neşrī, p76 78 Akça-Koca、Konur Alp、Gazi Abdur-Rahman については、9 ページ注 36 参照。 13 いった人物が散見されるようになる。彼らもまた自身の勢力を持ち、Osman に協力する形を とっていた。 この時期になると軍隊の構造にも変化が見られる。3回目の Ine-Göl との戦闘で Neşrī は、 『Turgud Alp は、Ine-Göl のテクフル Aya-Nikola が聞いて逃げると言って、すぐ雷のように 到着して Ine-Göl を包囲した。 (中略) (Osman は)Ine-Göl に来て、すぐ略奪を命じた。Gazi 達は瞬く間に城に入り、男を殺して女を奴隷にした79』、と書いている。ここから読み取れる ことは、略奪目的の戦闘であったこと、そしてその略奪を生業とする“Gazi 達”の存在であ る。最初期のオスマン軍は、前項からも分かるように遊牧によって結びついた集団であったが、 この時期にはその内部構造が変化していたといえる80。この時代 Osman に略奪品や土地を下 賜されることでその支配に属する、 “恒常的構成員81”の予備軍が育っていたといえよう。 また Osman の遺品には、 『馬の鎧』 『塩樽』 『赤い軍旗82』といった軍人が戦場に携帯する物 品も見られることから、Osman 自身前期は遊牧族長、後期は Gazi 集団の長といった性格の 変化があったといえる。 続く Orhan の時代まず注目したいのは、北部地帯で勢力を保っていた Akça-Koca、Konur Alp が続けて死んだことである83。オスマン家の関与はここでは確認できないが、この地方は 以降 Süleyman Paşa のサンジャク地となり、オスマン朝の直接支配が及んだ。この事例に見 られるように、この時期は Orhan が先代から“協力”してくれていた勢力を、ほぼ配下とし て組み込む再編を完了させた時期といえよう。 次に注目すべきは yaya の創設である。Neşrī によれば、『「我がスルタンよ、さもなくば国 民から yaya を編入して徴発しよう」84』、と Alâ üd Din が提案し Orhan が受諾して創設され たとされる85。Alâ üd Din は他にも Orhan の兵だけは帽子の色を変えて区別するよう提案す るなど86、君主直属の軍隊を整備しようとしていた。これは先代から増えつつあった軍隊の恒 常的構成員を確実に掌握し、軍団として機能させる一環であったと思われる87。同時に Orhan は長男の Süleyman Paşa のみを軍事面で重用し、他の息子達はサンジャクベイとして地方統 Neşrī, p102 ただし構造の変化が戦闘の性格を変えたのか、戦闘の性格の変化が構造を変えたのかはは っきりしない。 79 80 81米林仁「オスマン・オルハン時代の軍事集団」 『史朋』7 号,1997 より引用。 Neşrī, p146,148 Neşrī, p150 84 Neşrī, p154 85 Shaw によれば Orhan は、訓練されていない遊牧を生業とする兵士では防衛された町を攻 めるには不向きで、占領地域に定住させることも難しいため、そういった生活を送る遊牧民を なくす目的で yaya を創設したと指摘している。Shaw, p25 86 10 ページ注 42 参照 87君主直属軍創設の考えは次代の MuradⅠにも引き継がれ、より君主に忠実で、政治に介入 82 83 する弊害も削減した奴隷軍隊(kapu kulu)として結実する。この kapu kulu はオスマン朝の 行政官僚も供給し、中央集権的な官僚体制を次第に整えていった。 14 治を委ねていた88。米林氏によれば、サンジャクとして組織されている地方はティマール制が 施行されている地域であり、その意味でサンジャク区は数少ない安定した戦力供給地であった。 そのため Orhan の最も信任厚い皇子が派遣されていたと指摘している89。しかし Murad など 他の息子達を中央でほとんど使っていないことから、Orhan はこの時点で既に、国家の財産 は均等に分割されるべきものでない、と考えていた可能性もある。 以上のことは、Osman の時代は政府と軍隊は同じ人々で構成されていたが、Orhan の時代 には軍事や行政の肥大化・複雑化に備えて、政治・財政などを軍事から切り離していった、と いえよう。そして MuradⅠの治世に入ると最早兄弟間の会話も見られなくなり、君主の息子 達以外のオスマン一族も登場しなくなる。また vezir の地位もチャンダルル家が主に世襲する ことで、オスマン一族がこの地位に座ることもなかった。このように行政機関の再編・分権化 や行政官僚組織・軍事組織の整備によって、皇子達の役割は徐々に後退していったと考えられ る90。 Ⅴ、オスマン朝成立過程における周辺国家の状況 この章では、オスマン朝が大きな抵抗を受けることなく拡大できた背景を知るために、その 周辺諸国の当時の状況を解説したい。 A、オスマン朝とビザンツ帝国、セルビア、ブルガリアの関係 1261 年 MichaelⅧ Palaelogus により成立したパレオロゴス朝は、当初から様々な問題を 抱えていた。既に軍事的自由農民は没落しアクリタイは散逸、国境は無防備となっていた。 1300 年頃までには Osman らによって小アジアは多くが制圧されており、傭兵として雇った カタルーニャ軍団には逆に国土を荒らされる始末であった。同じ頃北部からは、モンゴル族の 支配を脱した Theodor Svetoslav 率いるブルガリアの圧力が増していた。 1320 年代になると内部の問題も表面化してくる。AndronicusⅢが父 MichaelⅨに対する暗 殺未遂事件を起こし、その後 MichaelⅨは急死。さらに祖父 AndronicusⅡに対しても反乱を 起こし、後に正帝として即位している。北部ではブルガリアの GeorgiⅡ Terter、MichailⅢ Sisman が侵入を繰り返し、1324 年には北トラキアを奪われた。 1330 年にはセルビアとブルガリアで戦争が起こり、MichailⅢ Sisman が戦死するとビザ ン ツ は 一 旦 兵 を 引 き 上 げ た 。 し か し 直 後 両 国 で ク ー デ タ ー が あ り ブ ル ガ リ ア は Ivan Alexandar、セルビアは Stefan Duşan が即位して互いに連携するとビザンツ領内に侵入し、 88 サンジャクベイはベイレルベイの下位とされるが、それは MehmedⅡ以降のことであり、 当時のサンジャクベイの権力は大きなものであった。ルメリベイレルベイは MuradⅠの創設 だが、アナドルベイレルベイは MehmedⅠ以降の創設と見られ、1422 年以前のサンジャク区 が小アジアのみで皇子が派遣されていることからも、その格の高さが窺える。 89米林仁「オスマン朝初期のベイリルベイリク制-アナドル・ベイレルベイリクの設置時期を めぐって」 『アジア・アフリカ言語文化研究』No24 ,1982, p146 90 Shaw は、Orhan、Murad、Bayezid のキリスト教徒の妻が連れてきた顧問が、こういっ た変化を加速させていった、と指摘している。Shaw, p24 15 マケドニア一帯を蹂躙した。アジア側では 1331 年に Nikaia、1337 年に Nikomedia を Orhan に奪われている。 さらに 1349 年 JohnⅤと JohnⅥ Cantacuzenus の間で帝位を巡る内乱が勃発した。これ より前の 1346 年 JohnⅥ Cantacuzenus は、Orhan の力を利用すべく娘の Theodora を嫁が せていたが、この同盟関係が奏功して後者が帝位に就いた91。しかし Süleyman Paşa がその後 与えられた Cimbeni を拠点に、Rodosto までのいくつかの都市を征服するなど92、オスマン朝 の本格的なルメリ進出のきっかけともなった93。1355 年には Stefan Duşan が死んで、Stefan UroşⅤが跡を継いだが、諸侯が各地に乱立するに至って国家は分裂した。ブルガリアも Ivan Alexandar の死後、多数の侯国に分裂することになる。 この頃ギリシア正教会は、ブルガリアやセルビアの分裂に伴う教会勢力の後退に乗じて勢力 を伸ばしていた。そのためビザンツ帝国とカトリック教会との関係は悪化し、西欧諸国の軍事 的な援助も受けられず、バルカン半島でオスマン朝に対抗しうる勢力は自然に消滅していった。 その後ビザンツ帝国は、JohnⅤが MuradⅠに臣下の礼をとることで生き残りを図るも、 AndronicusⅣ94や JohnⅦの反乱等内乱が絶えず、滅亡を迎えることになる。95 B、オスマン朝と諸君侯国の関係 1239 年のババイの反乱で大きな打撃を受けたルーム・セルジューク朝は、国力を回復し得 ないままモンゴル軍の侵入を受け、1277 年にイル・ハン国の藩臣、ついで傀儡政権となり、 1308 年には完全に消滅する。それと前後して各地域のウジ達が自立し、多くの侯国が成立し た。Osman の侯国もその一つだったのだが、Köprülü によると Osman が侯国を建設した際96、 周辺国はビザンツの領土を侵略するという方向性は一致していたし、各侯国がカラマンやゲル ミヤンに従う形を取っていたので、あえて反目する理由もなく Osman に対して敵対しなかった、 と指摘している97。事実 Neşrī にも、初期において Osman が、国境を接するジャンダル侯国、 カラシュ侯国、サルハン侯国、ゲルミヤン侯国と重大な紛争を起こしたという記述は見当たら ない。 Orhan 以降になって漸く侯国間での紛争の記述が見られる。1336 年にはカラシュ侯国を併合 し、Süleyman Paşa に与えている98。また MuradⅠ時にはカラマン侯国の Alâaddin が Bursa に 攻め込んだり、逆にオスマン側から攻め入ったりといった大きな会戦も行っている99。しかし Colin は、Orhan は 1346 年~50 年にかけて 3 回大軍を送り JohnⅥ Cantacuzenus を援 助した、としている。Colin, p23 92 これに対し JohnⅥ Cantacuzenus は強く抗議し、町の返還を求めたが、Orhan はイスラ ム法では征服した異教徒の土地を引き渡すことは認められない、と拒絶した。Shaw, p16 なお Rodosto は Gelibolı の北東 100km の都市。 93 11 ページ参照 94 19 ページ参照 95 別掲の表 2 参照 96 Osman の国家建設については 8 ページ参照 97 Köprülü, p112 98 Neşrī, p164 99 Neşrī, p224 91 16 各侯国とも基本的には友好関係を保っていたように思われる。侯国同士での婚姻が進んでおり、 ゲルミヤン侯国やアイドゥン侯国は、夫々国土を遺贈、寄贈という形でオスマン朝に吸収され ている。 またこれらの侯国は王位継承の際、財産を兄弟で分割するという遊牧民族的な国家であった。 カラシュ侯国が併合されたのは内部の王位継承問題に絡んでのことであったし100、Konya の北 西に位置するアンタリア周辺はハミト侯国の分家の領土であった。またアイドゥン侯国では Mehmed beğ が即位した際、一番下の息子以外は自分の領土を持ち半独立状態であった。更に Mehmed beğ の死後は子の Umur beğ と兄が対立し、結局叔父と弟の Khıdır の主張で Umur beğ が退けられている101。 以上のように、オスマン朝は建国当初から東の諸君侯国による妨害は少なく、西も敵対勢力 が徐々に自滅して、拡大するのが容易な状況であった。また周辺の君侯国が王位継承争いを繰 り返すことで、国力が低下する様を目の当たりにしていた。特にこの時期カラシュ侯国に干渉 した Orhan は兄弟による国家財産の分割の弊害を痛感していたといえよう。 Ⅵ、兄弟殺しの開始 まず兄弟殺し自体はオスマン朝独自の習慣ではない。オスマン朝の祖とされる Oğuz Han や中央トルコ国家、大セルジューク、ルーム・セルジューク朝でも行われている。またイスラ ム圏以外にもカスティリヤの Pedro による弟 Don Fadrigue の殺害、ビザンツの Andronicus ⅢComnenus による弟 Michael、George の殺害、唐の李世民による兄弟建成、元吉の殺害な ど例を挙げれば枚挙に暇がない。ただカーヌーンとして定めたことにオスマン朝独自の特徴が ある。この章では特に OsmanⅠ、MuradⅠ、BayezidⅠの兄弟殺しを検証し、それぞれの特 徴を挙げることで、カーヌーン成立に至る過程を明らかにしたい。 A、OsmanⅠの Tundar 殺害102 『 (OsmanⅠは)叔父の Tundar と協議した。Tundar は言った。 「あちらではゲルミヤン一 族が、こちらでは周囲の不信者達がみな我らの敵だ。これをも敵とするなら、我らがとどまる 場所がなくなるだろう」と。この Tundar の言葉は Osman を苛立たせた。彼の出撃を叔父が 妨害していると考えて、Tundar を矢で射殺した。103』 Neşrī は Tundar 殺害をこのように伝えている。この時 Osman は既に父 Ertuğrul の跡を継 いで Inegöl や Karaca Hisar を征服し、Köse Mihal のような有能な盟友にも支えられて、族 長の地位を確立していた。かたや Tundar は 80 歳を超える老人であった。ここで注意したい のは、Osman は常から感情に任せて行動する人物としては描かれていないことである。異教 Orhan の支援する Tursan Beğ と、Hacı Il-Beği が王位を巡って争いをし、結局後者が 勝ち、直後 Orhan が征服した。Neşrī, p164,166 101 Umur beğ は父 Mehmed beğ の反対を押し切って Gelibolı 遠征をするほどの実力者で、Orhan にも脅威を与えていた。Köprülü, p113 102 この事件は Neşrī にしか記載されていない。 この事実に対する Kafadar の指摘については、 7 ページ注 13 参照。 103 Neşrī, p94 100 17 徒であった Köse Mihal の処遇104や Derviş Turvud との会話105、また弟 Gündüz との会話106に おいても Osman が思慮深く、 寛大な人間であることが窺える。Ibn Kemal はその著書 Tevarih Al-i Osman p129 で「叔父 Tundar は指導者への野望を持っていた」と書いているが107、たと えそうだったとしても意見が合わないからといって、まして老人をすぐ排除する行動に出ると は Osman としてはかなり短慮な印象を受ける。 またこの行動が突発的なものであることや、Tundar 自身の考えはともかく、勢力も衰えて いたであろう108人物を殺害していることからみて、以降の兄弟殺しとは一線を画すべきもの であるといえる109。 B、MuradⅠの Halıl、İbrahim、Savcı 殺害 まず MuradⅠが即位した 1360 年に行われたとされる Halıl、İbrahim の処刑についてであ るが、Neşrī にはそれに関する記述は全くない。ただし Ahmedi の史料に MuradⅠの兄弟に ついての記述があるので、そこから考える。 『敵である主な兄弟達の企みを全部消した。サーベルで皆死んだ。神は庇護してくださった 110』 この記述からも Neşrī には現れない兄弟がいることは確実であるが、MuradⅠが処刑した 兄弟が誰であったのかは記述がない。異母兄の İbrahim が処刑されたことについては過去の 研究でも異論はないのだが、Halıl についてはランシマンが「自然死だったらしい」とするな どはっきりしない111。ただ Orhan が死んだ時点で生き残っていた皇子は Murad、Halıl、 İbrahim の 3 人なので112、 「兄弟達」とされていることから考えて Halıl も処刑されたと考え る方が自然であろう。またイスラム法において正当な王家を倒すことは禁じられているため、 Akman の Halıl と İbrahim は反乱を起こしたため処刑された113とする考え方も成り立ちうる。 ただし上記以外の記述が見つからない以上、どのような理由で 2 人が処刑されるに至ったかを 断言することはできない。 Neşrī, p76 Neşrī, p82 106 Neşrī, p86 107 Kafadal, p108 108 Neşrī, p78 において、Ertuğrul の跡継ぎを決める際既に「氏族は Osman を好んで、手の 下から知らせを送って意を通じあった。Tundar も民衆の中に入って、Osman に対する民衆 の愛着と服従を見てとって、ベイの地位を諦め、Osman に忠誠を誓った」とあることから、 この時期にはもはや Tundar の勢力はほとんどなかったであろうと思われる。 104 105 109更にこの Tundar 殺害によって、父から子への相続形態が確定したとの指摘もあるが、この 時傍系の殺害が定められたわけではないので、この時確定したと言い切るのには問題がある。 結果としてそうなっていると理解すべきであろう。Alderson, p5 110 Akman, p47 111 ランシマン 護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房 1983, p61 112 Alderson, p165 の家系図による。この図は初期オスマン朝に関係する多くの史料を元に作 成されており、その後の研究でもこの部分の修正はなされていないため、3 人と判断した。 113 Akman, p47,p124,p141 18 次に MuradⅠの息子 Savcı の処刑についてであるが、これも Neşrī には該当箇所がない。 他の史料には見られるのだが、Mehmed Zeki の Maktul Şehzadeler や Mahmud Bey の Solakzade Tarihi や Hoca Sadeddin Efendi の Tacü’t Tevarih といった史書間で年代や史実 に関する矛盾が多くこれまで様々な説が出されてきた。しかし Alderson らが唱える 1373 年 に一度反乱を起こして許され、1385 年に Bursa で再度反乱し処刑されたとする説114はほぼ否 定されている。これはヴェネツィアの Raphayni De Caresinis の年代記によって、1373.9.29 までに Dhidhimoteichon115で盲目にされたことが確認されたためである116。これらの先行研 究を総合すると、Savcı は 1373 年にビザンツの JohnⅤ(1332~1391)の息子 Andronicus と組んで反乱を起こしたが117、父親達に破れ盲目にされ118、この傷が元で死んだらしい119。 これらの処刑をみると、前項で述べた Tundar の殺害とは明らかに内容が異なる。MuradⅠの 在位中実際反乱を起こした Savcı は別としても、Halıl と İbrahim の処刑はスルタンの即位に 際して他の兄弟を処刑する兄弟殺しの魁であるといえよう。Ahmedi の記述が、MuradⅠの兄 弟殺しを正当化するための辻褄合わせだったか、2人が本当に反乱を起こした(起こそうとし た)証言なのかはともかく、一族共闘の時代から兄弟が王位簒奪者になりうる時代への移行を 示しているからである。 C、BayezidⅠの Ya’kub 殺害 『(MuradⅠは)確かに殉教した。すぐにその異教徒をバラバラにした。Tîzcek Han に従って天幕で一致して、Sultan Bayezid を連れてきた。そして Ya’kub Çelebi に「来な さい、あなたの父上が呼んでいる」と言って天幕へ入れて、死刑に処した。120』 これは Neşrī に見る、Kosova の戦いで MuradⅠが Milosh Kobilovich に暗殺された直 後の記事である。BayezidⅠによる Ya’kub 殺害は多くの初期オスマン史書で同様に扱わ れている。御前会議の構成員が誘導した印象も強いが、最早兄弟間の協調に向けた動きが 全く見られないことからも、この行為を兄弟殺しとして認定することには何の問題もない と思われる。 しかしこの史料自体について Colin は、 『MuradⅠは Kosova で 1389.6 に殺され、Bayezid が Ya’kub をその場で殺してスルタンに なったと言われている。しかし BayezidⅠの名を刻んだコインは 1389.12.20 からであり、こ の期間 Ya’kub と争った可能性がある。また Azîz b. Ardashîr が Bazm u Razm の中で、「国 Alderson,p49 Edirne の南約 30km の都市。 116 Colin, p32 及び Akman, p49 117 Andronicus は片目を盲目にされただけで助かり、その後 MuradⅠの援助もあって皇帝に 即位している(1376~1379 在位) 。 118 盲目にする刑は元々ビザンツの処刑法であった。オスマン朝ではこの他に、Musa が Emir Süleyman の子 Orhan を、 MuradⅡが弟 Ahmed,Mahmud,Yusuf を夫々この刑に処している。 119 1365 年に Ankara を治めていた Süleyman Paşa の子 Melik-ı Nasır を処刑したとの指摘 114 115 もあるが、今回使用した史料及び論文からは確認できなかった。Alderson, p165 120 Neşrī, p304 19 は無秩序状態になっている。カラマンとモンゴルが荒らし回っている」と書いている。この間 カラマンが Bey şehir を回復したとも言われるが、仮にあったとしても秋ごろまでであっただ ろう。1389.10.26 にはガラタのジェノヴァ外交使節と協約を結んでいるため、その頃には BayezidⅠの地位は安定したと思われる。(以上要約)121』、と興味深い指摘をしている。また Neşrī にも「BayezidⅠの即位」の項で 『Murad Han の息子 Bayezid Han は Ramazan 月 4 日王位に就いた122』 とある。Bayezid の時代では何をもって「王位に就く」ことになるのかは明確でないが、Murad Ⅰが暗殺されてから 3 ヶ月というのは遅いのではなかろうか。仮に Colin の指摘が正しいとす ればこの時間差にも納得がいくが、Ya’kub が戦場で殺されたという最初の記事自体が虚構で あることになる。 このように史料に若干の疑問は残るものの、Ya’kub がこの時期以降歴史から姿を消すこと は事実であることから、ここでは Bayezid による Ya’kub 殺害の事実を認め、前述の理由によ り兄弟殺しとして認定したい。123 Ⅶ、結語 以上 6 章に亘り初期オスマン朝を様々な面から解説してきたが、それらを総合すると、遊牧 から出発したオスマン朝は一族とその付随者による軍事活動や、周辺諸国の事情によって急拡 大し、それに伴って軍事や政府の組織・制度も急変していった。そしてその変化によって皇子 達の役割も後退し、逆に周辺侯国に見られたような兄弟が存在していることの弊害が際立って きた。その結果兄弟殺しが起こった、という構図が浮かび上がる。ただこの国で独特なのは、 君主直属の軍勢を整備しようとするなど君主自ら強力な専制君主・中央集権化を推進しており、 国家の初期段階にもかかわらず、簡単に分裂させられない組織に仕上がっていったことである。 つまり初期オスマン朝の兄弟殺しは、他国のように財産分与に伴う領土細分化の防止や、事前 121 122 123 Colin, p37 Neşrī, p310 その後時代が下って、第 7 代の MehmedⅡは即位後すぐに1歳の弟 Ahmed を処刑し、カ ーヌーンを発したとされる。以上の 3 項に加え、祖父 MehmedⅠが内戦中 3 人の兄弟と戦い、 父 MuradⅡが叔父と弟に反乱を起こされ処刑するに至ったことから、MehmedⅡは兄弟を生 かしておくことの危険性を痛感していたに違いない。彼はそのカーヌーンを「この法と法典は、 わが父・わが祖父の法でありまた自らの法でもある」と規定し、第 2 部の中でコーランに拠り つつ「その兄弟達を天下の秩序のために殺すのは妥当である。ulema の大部分の者もこれを 承認した。これに従って行動するように」と定めている。これにより兄弟殺しは法として公に 認められることになった。これ以降兄弟殺しは飛躍的に増加するが、詳しくは別掲の表 3 を参 照されたい。カーヌーンは護雅夫「Isla^m 帝国としての Osman 朝国家」 『 「イスラム化」に 関する共同研究報告』No2,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 1969, p85,87 よ り引用。またこの法のイスラム法的根拠やその後の適用例については、Akman の第 4 章に詳 しい。 20 に反乱の芽を摘む目的だけで行われたのではなく、その特徴的な組織形態から起こるべくして 起こったといえよう。またこの特徴的な組織は Orhan 時代から整備され始めていることや、 当時の他国の状況、またその息子達の処遇を見ると、兄弟殺しの魁を Orhan に求めることも 強ち無理とはいえまい。ただこの問題に関してはより詳細な議論が必要だろう。 21 表2 パレオロゴス朝系図124 ①MichaelⅧ Palaelogus ② AndronicusⅡ Irene Andronicus ③MichaelⅨ ④AndronicusⅢ ⑥ JohnⅥ Cantacuzenus Anna ⑤⑦⑨JohnⅤ ⑩ManuelⅡ Orhan Helena ⑧ AndronicusⅣ TheodoraⅠ Irene Irene Theodora Halıl JohnⅦ ⑪JohnⅧ □ Emir Süleyman ⑫ConstantineⅪ (滅亡) Orhan 124 番号は皇帝の即位順。なおこの系図はオスマン家に関係する人物を紹介することを目的と するため、ビザンツ側の人物はかなりの部分を省略した。 22 表3 兄弟殺し一覧表i スルタン名 処刑された者 処刑年(月日) スルタンとの関係 OsmanⅠ Tundar 1298(1302?) 伯父 MuradⅠ İbrahim 1360 兄弟 Halıl 1360 兄弟 Melik-ı Nasır 1365 Savcı 1373 息子 BayezidⅠ Ya'kub 1389.6 兄弟 MehmedⅠii Isaiii 1405(?) 兄弟 Musa 1413.7.10 兄弟 Mehmedşah 1421.12.30 偽 Mustafaiv 1422 伯父 Mustafa 1423.12 兄弟 Alaaddin Ali 1443.6 息子 男 1443.6 Ahmed 1451.2 Orhanv 1453 Oğuz Han 1482.12 甥(Cem の息子) Mehmed 1507.3 息子 Mahmud 1507 息子 BayazidⅡ(?)vii 1512 父 Mehmed 1512.12.16 甥(Şehinşah の息子) Alaaddin 1512.12.16 甥(Şehinşah の息子) Musa 1512.12.16 甥(Mahmud の息子) Orhan 1512.12.16 甥(Mahmud の息子) Emir 1512.12.16 甥(Mahmud の息子) Osman 1512.12.16 甥(Alemşah の息子) Mustafa 1513 甥(Ahmed の息子) Korkut 1513.3 兄弟 Osman 1513.4.24 甥(Ahmed の息子) Ahmed 1513.4.24 兄弟 Abdullah 1514.11.20 息子 Mahmud 1514.11.20 息子 Murad 1514.11.20 息子 MuradⅡ MehmedⅡ BayazidⅡvi SelimⅠ 23 甥(Süleyman Paşa の 息子) 従兄弟(Emir Süleyman の息子) 孫(Alaaddin Ali の 息子) 兄弟 又従兄弟?(Emir Süleyman の孫?) SüleymanⅠ MuradⅢ MehmedⅢ Kasım 1518.1.29 甥(Ahmed の息子) Murad 1522.12.24 甥(Cem の息子) Cem(?) 1522.12.24 孫(Murad の息子) 男 1522.12.25 孫(Murad の息子) Mustafa 1553.10.6 息子 Mehmed 1554.5 孫 (Mustafa の息子) Bayazid 1562.7.23 息子 Orhan 1562.7.23 孫(Bayazid の息子) Osman 1562.7.23 孫(Bayazid の息子) Abdullah 1562.7.23 孫(Bayazid の息子) Mahmud 1562.7.23 孫(Bayazid の息子) Mehmed 1562.7.23 孫(Bayazid の息子) Murad 1563(?) 孫 Abdullah 1574.12.21 兄弟 Cihangir 1574.12.21 兄弟 Mustafa 1574.12.21 兄弟 Osman 1574.12.21 兄弟 Süleyman 1574.12.21 兄弟 Mustafa 1595.1.28 兄弟 Osman 1595.1.28 兄弟 Bayazid 1595.1.28 兄弟 Selim 1595.1.28 兄弟 Cihangir 1595.1.28 兄弟 Abdullah 1595.1.28 兄弟 Abdurrahman 1595.1.28 兄弟 Hasan 1595.1.28 兄弟 Ahmed 1595.1.28 兄弟 Ya'kub 1595.1.28 兄弟 Alemşah 1595.1.28 兄弟 Yusuf 1595.1.28 兄弟 Hüseyin 1595.1.28 兄弟 Korkut 1595.1.28 兄弟 Ali 1595.1.28 兄弟 İshak 1595.1.28 兄弟 Őmer 1595.1.28 兄弟 Alaaddin 1595.1.28 兄弟 Davud 1595.1.28 兄弟 Mahmud 1595.1.28 兄弟 Murad 1595.1.28 兄弟 24 Mahmud 1603.6.7 息子 Selim 1597.4.20 息子 OsmanⅡviii Mehmed 1621.1.12 兄弟 MustafaⅡ 男 1622.6.1 男 1622.6.1 Bayazid 1635.8.26 兄弟 Süleyman 1635.8.26 兄弟 Kasım 1638.2.17 兄弟 MehmedⅣ İbrahim 1638.8.18 父 OsmanⅢ Mehmed 1756.12 MustafaⅣ SelimⅢ 1807.7.28 MahmudⅡ MustafaⅣ 1808.7 兄弟 AbdülhamıdⅡ MuradⅤ 1878.5(未遂) 兄弟 MuradⅣ 従兄弟(AhmedⅠの息 子) 従兄弟(AhmedⅠの息 子) 従兄弟(AhmedⅢの息 子) 従兄弟(MustafaⅢ の息子) i 今回使用した全史料、論文等を基に作成した。「スルタンとの関係」は分かる限り載せたが、1563 年 処刑の Murad など、関係の分からなかった人もいる。 ii もう一人の兄弟 Emir Süleyman は 1411.2.17 に Musa によって処刑された。 iii Isa は 1405 年を最後に史書から消えているため、その最後ははっきりしない。 iv 偽(Düzme)と名は付いているものの、彼が真に BayezidⅠの息子であった可能性もある。 v この Orhan がどういう関係の者なのかはっきりしない。ただ Süleyman Paşa の娘の子と、Bayezid Ⅰの息子 Kasım Yusuf の息子が同じ Orhan という名で、両者ともコンスタンティノープル陥落の 1453.5.29 に死んだとされていることから、このどちらかと見ていいだろう。ちなみにランシマンの『コ ンスタンティノープル陥落す』p90 において、この時殺害された Orhan は Emir Süleyman の孫だった、 としている。ただここでは確証がなく分からなかった。 vi BayezidⅡも弟 Cem と皇位を巡って激しい争いをした。その詳細は新谷英治「スルターン・ジェムの 時代のオスマン朝とヨーロッパ」 『西南アジア史学』24 号,1985 に詳しい。 vii SelimⅠが父を殺害したという記述はないが、BayezidⅡが譲位し引退先であるトラキアのデイメト カへ向かう途上で急死したことから、SelimⅠによる毒殺説が根強い。 viii OsmanⅡの父 AhmedⅠが 1603 年に兄弟殺しの制度を廃止している。そのためこれ以降は図のよ うに兄弟殺しの例がかなり減り、兄弟でスルタン位に就く例が増えた。スルタン位の長子相続が定 着したのもこの頃からである。ただ制度の撤廃によって兄弟達は解放されたのではなく、全員トプ カプ宮殿の第4庭園にある kafes に押し込められることとなった。元来この kafes は SüleymanⅠの 王子 Bayezid の反乱以降、サンジャクに出る王子以外を軟禁する場所だったのだが、これにより王 子達は誰もサンジャクに出なくなったことになる。これ以降 AbdülmecidⅠに至るまで、幼年で即位 した MehmedⅣを除く 16 人全員が kafes で育つことになった。これら帝国末期における兄弟関係は、 アラン・パーマー 白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論社,1998 に詳しい。 25 参考文献 〔一次資料〕 Faik Reşit Unat and Mehmed Altay Köymen ,Mehmed Neşrī,Kitāb-ı Cihān-nümā,Neşrī Tarihi,cilt1 ,Ankara, 1949 F.Taeschner, ĞIHĀNNŰMĀ, Die altosmanische Chronik des Mevlānā Mehemmed Neschrī, vol.1, Leipzig, 1951 〔二次資料〕 A.D.Alderson, The Structure of Ottoman Dynasty, Oxford, 1956 AN HISTORICAL ATLAS OF ISLAM, 2ed, Leiden, 2002 Cemal Kafadar ,Between two worlds : the construction of the Ottoman state ,Berkeley , 1995 Colin Imber ,The Ottoman Empire 1300-1481 ,Istanbul, 1990 F.Babinger ,Die Fruhosmanischen Jahrbucher des Urudsch, Hannover ,1925 H.Inalcık ,”The Rise of the Ottoman Historiography”, Historians of the Middle East, ed. 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