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第3回 江戸文化サロン「天海と寛永寺」(12月3日) ご報告

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第3回 江戸文化サロン「天海と寛永寺」(12月3日) ご報告
認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン
第3回 江戸文化サロン「天海と寛永寺」(12月3日) ご報告
「江戸文化サロン」が昨年12月3日夜、東京・神保町区民館にて開催されました。3
回目となるこの日は「天海と寛永寺」 のタイトルで行われました。10月に行われる予
定だった第3回でしたが台風のため繰り延べとなったものです。
当会顧問 西川壽麿氏(総合文化研究所代表)を主宰役に、ファシリテーター(黒田裕
治氏)の誘導で クリスマス月間 に相応しく和やかな雰囲気で行われました。
※なお、26年度計画最終回となる第4回は「山岡荘八で味わう『徳川三代の人生』」の
タイトルで、2月4日に開催の予定です。
↑講演前半で紹介された今年3月17日付読売新聞夕刊掲載の伊東マンショ肖像画発見の記事 ↑西川壽麿講師
●この日の内容構成
〈開始前〉前回の解説漏れフォロー→〈開始〉木川氏(当会理事)挨拶→出席者の自己紹
介→欧州に赴いた日本人→Diorと徳川チーム→(小堀遠州ミニ講座)→紫衣事件→〈休憩
10分〉→天海の生涯→比叡山 天台宗の歴史→(円仁の話)→寛永寺紹介→沢庵和尚と春
雨亭、品川東海寺→質疑応答→参加者の感想
※紙面の関係上その全てを掲載することはできませんが、西川氏スタッフにまとめていた
だいた前半部分を掲載いたします。どうぞお楽しみください。
なお、参加者の自己紹介、講師とのやりとりなどの部分は省略してあります。
また、文中の〈〉は、その場面の状況を描写しております。
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講師:西川壽麿(総合文化研究所代表)
認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン
第3回江戸文化サロン「天海と寛永寺」 記録
講師(サロン主宰役):西川壽麿氏
⃝プロフィール⃝
シンクタンカー(文化,文化設計,文化戦略,地域づくり)
総合文化研究所代表,日本文化フォーラム代表,神保町シンクタンク座長
❏今日の内容構成❏
今日は、次のような話題をお話ししたいと思っております。
〈開始前〉前回の解説漏れフォロー→〈開始〉木川氏(当会理事)挨拶→出席者の自己紹
介→欧州に赴いた日本人→Diorと徳川チーム→(小堀遠州ミニ講座)→紫衣事件→〈休憩
10分〉→天海の生涯→比叡山 天台宗の歴史→(円仁の話)→寛永寺紹介→沢庵和尚と春
雨亭、品川東海寺→質疑応答→参加者の感想
なお、いま「ファシリテーター」という職業が有りまして、いってみれば皆さんの本音
トークを上手く引き出しながらまとめていく司会者の国際版みたいなお仕事ですけれど
も、安曇野シンクタンク所属の黒田裕治さんにファシリテートしていただきながら、開始
冒頭で皆さんに自己紹介していただく予定です。
(開始前)
❏前回の解説漏れフォロー❏
今日はそのような流れで進めていく予定ですが、開始前に前回解説漏れをしてしまった
箇所がございますのでフォローさせていただきたいと思います。
●「中門廊」と「中門」●
前回サロン後半の部分で、「中門廊(ちゅうもんろう)」について解説いたしました
が、その後それを省略して現れる「中門(ちゅうもん)」についての図面をお見せするの
を忘れてしまいました。
〈法住寺殿の平面図を映しながら〉
まず復習ですが、これは「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ばれる、後白河上皇が
1161年4月から御所としてお使いになっていた建物図面です。現在の京都市東山区「三十
三間堂」の東南方にあったと推測されます。典型的な寝殿造の建物です。
このように東西の「対屋(たいのや)」から南に延びる廊下があります。途中に「中門
(ちゅうもん)」というのがありここが開きます。ここから客人が入ります。
南の方には、このように「釣殿(つりどの)」があります。その南北を中門北廊・南に
行く方を「中門南廊」といい、北に行く方を「中門北廊」と申します。この北廊側には履
き物をぬぐ所「沓脱(くつぬぎ)」を設けていました。一方、南廊の方は廊下であると同
時に「南庭」で何か行事・催しがあるときは、参列者の座席が設けられます。
〈法然上人絵伝からの映像を映しながら〉
これは平安末期の浄土宗の開祖、法然(源空)を鎌倉時代になって描いた『法然上人絵
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伝』に登場する美作(みまさか)国、現在の岡山県の地方武士である漆間時国(うるまの
ときくに)という人の屋敷です。このように先ほどの「中門廊」が短くなり、その名残で
ある「中門」と呼ばれるものが描かれています。
〈聚楽第の平面図に画面が切り替わる〉
そしてこれは1588年に完成する 聚楽第大広間の平面図です。その東南にあたる位置に
「中門」というものがあります。これが入口、即ち玄関の役割をはたしています。これは
17世紀の初めあたりまで続きます。
●屛風の基礎知識●
前回、国立歴史民俗博物館蔵の『江戸図屛風』左隻(させき)をご覧いただきました
が、開始まで今少しお時間があるようですので、屛風鑑賞の基礎知識もお話しながら右隻
の方もご覧いただきます。右隻の方には、このように川越城本丸御殿も描かれています。
この御殿は文字通り「御成御殿」でして、家光の来訪宿泊を想定して造られております。
川越は関東における古くからの茶の産地でもありますから、茶の湯接遇にも最適です。
さて、先ほど「『江戸図屛風』左隻(させき)・右隻(うせき)」ということを申しま
したが、これは向かって左・右ということを言っているのか、屛風側からみて左だ右だと
言っているのかどちらでしょうか?
はい、これは向かって左が左隻、向かって右が右隻ということで今日の展示では統一し
ております。
それからよく「六曲一双(ろっきょくいっそう)」というような言い方をしますが、
「六曲」というのはつなぎ合わせた画面の数が6枚であることを表し、それが二点一組で
あるものを「一双」といいます。
「双」の文字は元々「隻(せき)」の字を組み合わせた「雙(そう)」の文字が旧字で
す。「隹」は訓読みが「とり」ですがこれは尾の短い鳥を表しておりまして、「又」の部
分は手を表しております。「隻(せき)」は手に1羽の隹(とり)が居る状態、「雙(そ
う)」は手に2羽の隹(とり)が居る状態です。
従って、屛風1点だけの場合は「一隻」または「半雙(半双)」と申します。
また、扉や窓板をよく「一扇(せん)二扇…」と数えますが、屛風の画面一つずつを向
かって右から「一扇」「二扇」として、その画面をさして遣います。例えば、「『江戸図
屛風』左隻の六扇上部に描かれた富士山…というように。これを覚えておいていただくと
美術館などで一緒に行かれた方と感想を談義するときに便利です。
屛風は風を防ぐという意味だというのは良いとして、もうひとつ、これは外国人や子ど
もたちを案内したときにいきなり訊かれる質問ですが、「この屛風の『屛』という字は中
がどうなっているのか?」というんですが、これはいかがですか? 美術館のパンフには
略字の「屏」ではなく「屛」の字が遣われていることが多いんですが、メモを取り始める
とき、いきなり「屛」の字が書けなくて困るようです。
〈象形文字が映し出される〉
そこで話を省くために、先ずこの「しかばね(尸)」の中の「ヘイ( )」の文字の成
り立ちを表す象形を見てみますと、このように電車ごっこのように二人の人が並んでいま
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してそこに紐がかかっているような形をしております。漢音で「ヘイ」、呉音で「ヒョ
ウ」と読みます。訓読みでは「あわ-せる、なら-ぶ」です。
それではファシリテーターの黒田さんに、この文字の書き順をやってみていただきまし
ょう。きょうは黒田さんの中学校時代の恩師でしかも国語の先生の齋藤松夫先生がお越し
ですので、黒田さんも緊張気味だと思います。
齋藤先生、黒田さんにアドバイスを…。
齋藤松夫先生:大丈夫、上から下に素直に書けば良いです。
〈黒田さん、ホワイトボードに無事書き終える〉
西川講師:はい、黒田さん、ありがとうございました。なお、略字で「并」と書いた場
合は、外国人の皆さんは鳥居の上に鳥が2羽とまっているようだなどと申しています。
(笑)
❏木川理事 開会の挨拶❏
〈木川静雄理事 正面に立ち挨拶〉
木川理事:それではどうも大変お待たせいたしました。今日は第3回目の江戸文化サロ
ン、「天海と寛永寺」というテーマで、お話を頂きます。
今さら申すまでもなく、講師は総合文化研究所代表の西川壽麿先生です。私共の会の特
別顧問も務めて頂いております。実はこの会は、10月の15日に開催予定だったんですが、
台風が来ているということで早めに判断し、2ヶ月後の今日に内容が順送りされました。
実際には当日台風一過で大変いいお天気だったんですが、皆さんに大変ご迷惑をお掛けし
ましたけれどもどうぞよろしくお願いいたします。たぶん12月の師走ということもありま
してお申込みの数が若干少なかったのかなというふうに思っております。では先生よろし
くお願いいたします。
❏出席者の自己紹介❏
では早速皆さんの自己紹介から行きましょう。ファシリテーターの黒田裕治さんお願い
します。クリスマス月間らしく音楽を入れながら行きましょう。
〈クリスマスソングがボリュームを落として流れる中で…〉
黒田裕治ファシリテーター:皆さんこんばんは!前回と同じように、ポストイットにお名
前を書いて頂いて、そして自己紹介の中で「自分がなんと呼ばれたいか」を語っていただ
きたいと思います。
〈出席者自己紹介が行われました〉
❏欧州に赴いた日本人❏
〈西川講師のお話が始まる〉
きょうは、この時代に欧州文化がいかに深く入り込んでいたかについて知っておいてい
ただくところから始めます。
先ずは、文久遣欧使節団の幕府外国方同心として福澤諭吉らと欧州に同行した齋藤大之
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講師:西川壽麿(総合文化研究所代表)
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進(さいとうだいのしん)をご先祖にお持ちで、いまそのご先祖を研究しておられる齋藤
松夫先生がお見えですので、「欧州に赴(おもむ)いた日本人」の初期3組を整理する形
で始めたいと思います。
●ベルナルド●
〈ベルナルドの履歴が映し出される〉
先ず、ベルナルド。日本名は分からないので「鹿児島のベルナルド」と呼んでいます。
生年は分からないんですが没年は1557年です。戦国時代のキリシタンでこの人物が日本人
最初のヨーロッパ留学生とされます。先日インド・ゴアで10年に一度フランシスコ・ザビ
エルのミイラを公開するイベントがニュースで紹介されていましたが、この人物は天文
(てんぶん)18年(1549)に鹿児島でなんとそのザビエルから洗礼をうけ、平戸、山口、京
都へ同行しています。そして、2年後の天文20年(1551)ザビエルと共にゴアにわたり、さ
らに2年後の天文22年(1553)リスボンでイエズス会に入会。ローマ法王庁でイエズス会
総長に会います。その後、ポルトガルのコインブラ大学で学びます。
しかし、4年後の弘治(こうじ)3年1月病死しました。この弘治3年というのは日本では信
玄と謙信が川中島で激突する第3次川中島決戦の年です。
●天正遣欧使節(天正少年使節)●
〈天正遣欧使節についてのまとめフリップが映し出される〉
「欧州に赴いた日本人」としての次は、天正遣欧使節です。「天正少年使節」ともいわ
れます。天正年間に九州のキリシタン大名の名代として、イエズス会の企画によって南ヨ
ーロッパに派遣された伊東マンショら4人の少年使節です。この使節団に関するニュース
として、今年の3月17日の読売新聞の夕刊に、伊東マンショの肖像画発見が報じられまし
た。のちほどその記事をご覧いただきます。
この使節団企画のキーマンとなるのが、その生涯で都合3度来日するアレキサンドロ・
バリニャーノ(Alexandro Valignano )という人物です。イタリアはナポリ王国の貴族で
あった氏は、イエズス会会員となったあと巡察師としてインドやマカオでお仕事をされた
あと、日本にやってまいります。まず、最初の来日は1579年(天正7)とされます。この
来日の時の織田信長との会談の模様がドラマでも描かれるのでご存知のかたも多いと思い
ます。そして、日本人の若者をキリシタン大名の使節としてヨーロッパに派遣することを
考えます。その目的は次の二つです。
一つは、日本人自身に欧州現地を見てもらい、帰国後にその様子を直接語ってもらお
う。そのほうが布教成果が上がるだろうというねらい。
もう一つはローマ法王・王侯貴族らに日本人と直に接してもらえば、その礼節・教養・
文化から日本という国がなかなかなものだということが理解され、資金援助が得やすくな
るだろうというねらいです。
そのために、日本における人選には慎重を期し、島原半島の有馬セミナリオの在学生の
なかから、次の4名を撰びます。
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先ず、大友宗麟(そうりん)の名代としては、宗麟の妹の縁者、正確には妹の娘の夫の
妹の子である伊東マンショが選ばれます。マンショは洗礼名です。
有馬晴信(はるのぶ)と大村純忠(すみただ)の名代としては両人の親族である千々石
(ちぢわ)ミゲルが選ばれました。
そして、中浦ジュリアン、原マルチノ両人を副使と致しました。
さて、この使節団一行は、1582年2月20日、長崎を出帆します。バリニャーノはゴアま
で使節と同行します。ちなみに、信長が本能寺の変で倒れるのはこの年の日本暦では6月2
日のことです。
ヨーロッパ各地で歓迎を受けながら、85年(天正13)3月教皇グレゴリウス13世に謁見
しました。
●バリニャーノが早速書いた広報出版物●
1590年に澳門(マカオ)でイエズス会が出した『デ・サンデ天正遣欧使節記』という
ラテン語で書かれた書籍があります。このときの天正遣欧使節の紀行を扱ったものです。
「デ・サンデ」というのは編集者の名前で、著者はバリニャーノです。実は、一行が欧州
から持ち帰った活字印刷機を用いた刊行物です。使節団一行をゴアで待ち構えていたバリ
ニャーノがインド副王の使節として一行の帰国に同行し、澳門(マカオ)にいる間にまと
めたものです。少年たちが語った直の言葉ではなくバリニャーノが、千々石ミゲルの従兄
弟にあたるレオとリノの2人と4人の使節との対話形式の文章を創作したものです。渡航
体験のないレオとリノが、使節団4人に8年間のことをいろいろ尋ねる内容になっていま
す。
日本語版は当時は作成されませんでしたが、現在、1969年刊『新異国叢書 第I輯 第5
巻、デ・サンデ天正遣欧使節記』(泉井久之助 他共訳)で読むことができます。
●帰国後●
さて、1590年一行はすでに禁教令が出ていた日本へ戻り、1591年(天正19年)に聚楽
第で関白豊臣秀吉に謁見しインド総督の信書を呈します。バリニャーノはこのとき2度目
の来日です。この来日の意義が日本史の上で大きいのは、このときバリニャーノが日本に
欧州から活字印刷機をもたらし、キリシタン版の出版を興したことです。
伊東マンショのその後を追いますと、91年天草(熊本県)においてイエズス会に入り、
1608年(慶長13)司祭となりました。そして小倉へ赴任し、萩、山口、宮崎の飫肥(お
び)の布教にあたります。その後1612年(慶長17)長崎コレジオ(大神学校)にて病死
いたしました。生年が不確かなので推定ですが享年43歳かと思われます。
●読売新聞の夕刊(2014年3月17日)●
〈読売新聞の夕刊(3月17日)が投影される〉
先ほど冒頭でご紹介しました、今年3月17日読売新聞の夕刊記事というのがこちらです。
「伊東マンショの肖像画発見」とあります。
●慶長遣欧使節●
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〈支倉常長の映像が映し出される〉
次に、「欧州に赴いた日本人」は、慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)と呼ば
れる、かの支倉常長(はせくらつねなが)一行です。
といっても「常長」という名前は、後に支倉家が付けた名前で、実際当時用いていた名
前は「支倉六右衛門長経」です。「支倉六右衛門」として外国資料にも記載されていま
す。
伊達政宗の家臣として政宗の書状を携え1613年10月(慶長18年9月)スペイン人宣教師
ルイス・ソテロとともに仙台藩で建造した日本国産の船にて太平洋を渡りました。
メキシコから大西洋を横断するルートでスペインに行きます。スペインマドリードの教
会で「フィリポ・フランシスコ」の教名で洗礼を受けます。スペインの支援でローマに行
き1615年11月、法王パウロ5世に謁見します。
仙台に戻ったのは、1620年(元和6)でした。その2年後52歳で亡くなりました。
❏主なキリシタン大名❏
〈主なキリシタン大名のリストが投影される〉
さて、この中で、最初にキリシタンとなった大名は、肥前の大村純忠(すみただ)で
す。1563年(永禄6)に受洗しています。その後、高山飛騨守(ひだのかみ)、三ケ(さ
んが)頼照(よりてる)、池田丹後守教正(たんごのかみのりまさ)、小西隆佐(りゅう
さ)・行長(ゆきなが)父子、高山飛騨守の長男右近(うこん)、有馬義貞(よしさ
だ)、さきほど出てきた豊後の大友宗麟(そうりん)、蒲生氏郷(がもううじさと)、今
年の大河ドラマ主人公の黒田孝高(よしたか)、小西隆佐・行長、黒田孝高、安威了佐
(あいりょうさ)、大村喜前(よしあき)、小早川秀包(ひでかね)、伊東祐兵(すけた
け)、京極高次(たかつぐ)・高知(たかとも)、寺沢広高(ひろたか)、宗義智(そう
よしとし)、織田秀信(おだひでのぶ)(信長の孫)といった面々が居ります。 秀吉による1587年バテレン追放令(宣教師追放令)以降、信仰を捨てたと思われる武
将も多いわけですが、1613年(慶長18)12月の徳川家康の禁教令によって高山右近およ
び内藤如安(小西行長に仕えていた武将)の一族は信仰を捨てず、翌年マニラに流されま
した。
●全国に展開していたキリスト教布教●
お手元の地図で、北は松前から南は薩摩まで、いかに全国にキリスト教布教の足跡があ
るかがご理解いただけると思います。キリスト教施設というと単にお祈りをしているだけ
と思われがちですが、イエズス会は1561年(永禄4)より日本国内で学校制度を展開し
ております。九州各地の教会には小さな規模ではありますが初等学校が設置され天正11年
の段階では200校を数えます。
先ほどのバリニャーノにより天正8年、有馬と安土にセミナリヨ(一般教育機関・小神
学校)、豊後の府内にコレジヨ(神学院)、豊後の臼杵にノビシヤド(修練院)、大村に
語学コレジヨが開設されました。科目もセミナリヨではラテン語・文学、日本語・文学、
音楽、美術工芸の学科が個人指導の形で教授され、寄宿舎制度もあり、音楽・演劇・体
育・遠足など様々な行事も行われていたわけですが、なにやら明治期の様子を彷彿させま
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す。
正に東西文化の架け橋を養成しようというバリニャーノの大方針の下に、慶長18年の禁
教令公布の翌年まで34年間に亘り学校運営が行われていました。
こうした時期に、先ほどの活字印刷機を用いてのローマ字本の『伊曽保(いそほ)物
語』『口語訳平家物語』などが刊行されたこともご承知かと思います。
一方、スペインの「エル=エスコーリアル僧院」には、1600年(慶長5)日本耶蘇会刊
の、なんと藤原公任『倭漢朗詠集』が所蔵されています。宣教師たちが日本語を学ぶため
に編纂されたものとのことです。
これだけの関係密な期間があったのですから、なにか日本文化に影響を与えているので
はないかとご質問が出ると思いますが、やはり今日顕著に認められるのは工芸の分野かと
思います。「葡萄蒔絵聖餅箱(まきえせいへいばこ)」(鎌倉・東慶寺)、「洋人蒔絵鞍
(くら)」(東京国立博物館)、「秋草蒔絵宝石箱」(東京国立博物館)などが知られま
す。
寛永文化を語るとき、常にウラの人物として見え隠れする小堀遠州については、来年ど
こかで特集を組まなければなりません。作庭を含めその作品を一つ一つ見ていただくと
様々なところに東西文化交流と交易がもたらした技術や着想を感じるかと思います。
❏Diorと徳川チーム❏
さて、今日はクリスマス月間に行っておりますので、ちょっと趣向を入れまして、
Christian Dior のお話をここに挟みます。折しもいま銀座3丁目特設会場で「ディオール
展」を行っております。先日きょうのファシリテーターの黒田裕治さんに行っていただき
ました。黒田さんご報告お願いします。
江戸時代のことを、人物も覚えなければいけない、年号も覚えなければいけない、地名
も覚えなければいけない…大変だよという声も頂きますので、きょうは本当のアナログ的
な説明を試みたいと思います。
黒田裕治さん:ディオール展に行ってまいりまして、のちほど皆さんにパンフレットを
お回しいたしますが、驚いたのは美智子皇后の結婚式のときの衣装、美智子皇后がご成婚
パレードでお召しになった衣装はディオールだったんですね。日本の文化とか技術をとて
もリスペクトしているんです。葛飾北斎の絵画をモチーフにしたドレスなども飾られてい
ました。イブ・サンローランはディオールの弟子で、ディオールブランドを引き継ぐわけ
ですが、そのサンローランもそうです。日本に対するオマージュがありまして、着物をデ
ザインしているんです。では、このあと先生の方から詳しい解説を頂きます。
西川壽麿講師:黒田さん、ご報告ありがとうござました。
●ディオール少年が母から与えられた宿題●
お手元のクリスチャン・ディオールの略歴をご参照いただきながら、お話を進めてまい
りますと、彼はノルマンディーのグランヴィルというところに1905年に生まれます。グラ
ンヴィルというのはここです。
〈グランヴィルの地図が映し出される〉
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そして、航空写真で見るとこういうところです。
〈グランヴィルの航空写真が映される〉
グランヴィルの港がこちらで、彼の生家はこちら側にあります。ご覧のように海に面し
た絶壁にあります。
20世紀初頭ディオール一家が暮らした家です。ディオールはここで幼少期の5年間を過
ごしました。その後別荘として用いられました。現在は、夏の間だけオープンする「クリ
スチャン・ディオール美術館」となっています。
さて、15歳のとき、彼は母親のマドレーヌ・ディオールから、宿題を出されます。すで
に母が薬草園としているそこにバラ園と蔓棚などを造る建設監督をしてほしいと…。いま
見たようにここは海岸縁で風も強く、しかも切り立った崖地です。かなりの工夫が必要で
す。
〈現在の旧ディオール邸「クリスチャン・ディオール美術館」の写真が映る 〉
そして、これが完成した庭園です。花畑も池も造りました。現在はこのように香水のテ
スターも設置されています。
彼の最初のデザイン作品、それはこの庭園でした。悪条件の崖地に盛り土をし、採水に
も工夫しました。植物の植生にも気を遣いました。セイヨウサンザシ、キダチルリソウ、
フジ、モクセイソウ、そしてバラ…。
その後、画廊勤めのあと、服飾デザイナーとして出発。ロベール・ピゲ店、ルシアン・
ルロン店で働き、1946年、フランスの繊維王マルセル・ブサックの後援で独立し、アベ
ニュー・モンテーニュに店を構えました。
そして47年2月、「ニュー・ルック」を発表し鮮烈なデビューを果たします。また同年
にフレグランス「ミス・ディオール」を発表。庭園の花々の中で培った調香師としての才
覚を発揮します。強い海風にも負けない香がディオール香水の特色です。
以後、そのアーキテクトな感覚の本領がその後も発揮され、Hライン、Aライン、Yライ
ンなど話題作を発表して行きます。そして、スカーフ、靴下、ネクタイなどにオートクチ
ュールの名をつけるライセンス・ビジネスの先鞭をつけ、オートクチュールを巨大企業に
発展させたことでも知られます。
●秀吉が家康に出した宿題●
一方、家康チームの方ですが、それは西暦で云えば1590年、小田原城攻めの後でし
た。無事、小田原城が落ち、秀吉は家康にそれまでの三河・駿河などの5カ国を召し上
げ、相模・武蔵など関八州への国替えを命じました。
家康は、鎌倉・小田原といった古くからの都市のさらに東にある低湿地帯、「江戸」を
中心とする遠大な都市計画に取り組みます。
●50年かけてやり遂げた徳川三代(家康・秀忠・家光)●
5つの小台地(品川台地・麻布台地・麹町台地・本郷台地・上野台地)と、その間にあ
る谷・沼・川、地下に流れる悪水と云われる伏流水、そして日比谷入江などをいかに整備
し、理想の城下町として行くかが課題でした。1590年8月1日八朔(はっさく)の日に江
戸入りした家康に始まり、以来3代に亘って土埃(つちぼこり)と大土木工事の日々がそ
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の後50年続きました。
平安京をモデルとして「四神相応」に基づく大規模なこの地の改造を行いました。一町
を40丈(121.2m)四方に区画し町人地を設け、本町通と日本橋通を6丈(18.2m)とす
るなど、大都市創造を当初から目論むものでした。1603年には神田山を削って日比谷入
江を埋め立てました。翌1604年には城の大構築計画を発表し、石は伊豆より採石、木材
は木曽などから運びました。
江戸城総工事が終焉を見たのは1640年家光の代でのことでした。
●たった2日でその成果を灰燼に帰した「明暦の大火」●
1657(明暦3)年1月18日から20日まで、まる二日二晩にわたる大火災(明暦の大火)
により江戸市中の大半が焼き尽くされ、西の丸を残して天守・本丸等の江戸城も全焼しま
した。4代将軍家綱の後見役・保科正之のその間の陣頭指揮ぶりは今日までも語り継がれ
ます。
この時の大火は、神田山を削ってつくり上げた人工都市「江戸」にとっての最悪の試練
となりました。徳川三代50年のまちづくりの成果が、たった2日で壊滅してしまったので
す。都市とは誰のためにあるべきなのか。
正之は、直ちに最新技術での測量を実施し『明暦の江戸図』を作成。それまでの軍事の
城下町から「行政の城下町」へと改めるべく、当時16歳の前田綱紀(加賀藩主)に天守
台は造らせましたが、天守は再建しないことを決めました。都市とは民のためにあるべき
ものだと。
そして、大名や旗本屋敷の移動、寺院や町家の移動、防火堤・火除地の設置、道路の拡
張、架橋など、その後の江戸繁栄をもたらす大改造を施しました。死者10万数千人の無
縁の屍を葬るために回向院ができ、 両国橋が架けられ、橋の西詰には両国広小路が火除
地として設けられ江戸随一の盛り場に発展します。東詰の回向院も御開帳や見世物小屋で
賑わいました。この施策の成果こそが「江戸文化」を花開かせたとも言えます。
❏今回の小堀遠州ミニ講座❏
さきほどもお話しましたように、この時期の文化のいたるところに小堀遠州の存在が見
え隠れします。クリスチャン・ディオールの対(つい)になるアーチスト名として、この
遠州を思い浮かべる方も多いでしょう。
来年、何回か特集を組まなくてはならない人物ですが、ここではミニ講座として短く挟
みます。
〈孤篷庵 忘筌(ぼうせん)の写真が映される〉
孤篷庵 忘筌(ぼうせん)です。
この、今日でも我々の住宅を思い浮かべます時に、これほどの狭い空間でもこれだけ歴
史に遺るほど美しいと感じせしめる設計ができるという事例でもあります。
「孤篷」とは、小堀遠州が春屋宗園から授かった号で、「一艘の苫舟」の意です。なお
遠州の法諱は「宗甫」と申しまして、これも春屋宗園から付けられたものです。
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講師:西川壽麿(総合文化研究所代表)
認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン
●孤篷庵の歴史●
まず、この建物の歴史を短くお話をいたしましょう。
今年の大河ドラマ『軍師官兵衛』にも登場する息子の黒田長政が父如水の菩提をともら
うために、慶長13年(1608)に大徳寺のなかに塔頭(たっちゅう)「竜光院」を創立し
ます。開基は春屋宗園(しゅんおくそうえん,大徳寺第112世住持)という人物です。この
人についてはあとで触れます。
塔頭というのは、大寺の内にある小院のことです。祖師や大寺の高僧の死後、その弟子
が師徳を慕って塔の頭(ほとり)に坊や庵を構えました。中国を通して伝わったこの形式
は鎌倉時代の末から我国では独特な仕組みとなっていきますがここでは割愛します。
そしてその4年後、慶長17年(1612)、竜光院のなかに小堀遠州がこの「孤篷庵」を造
ります。遠州34歳のときです。
この庵は、のちほど紫衣事件にもお名前が出てまいりますが江月宗玩(こうげつそうが
ん)を開基として始めました。「孤篷」は、「一艘の苫舟」の意で、遠州が師事した春屋
宗園から授かった号ですが、春屋宗園は完成一年前の慶長16年にすでに入寂しておりま
す。
そして、寛永20年(1643)現在地、即ち大徳寺境内西端に独立した塔頭として移され
ました。
しかし、火災に遭ってしまいます。寛政5年(1793)11月1日のことです。
それが、寛政9年6月に客殿・庫裏・書院が図面に基づき忠実に再建されました。
この忘筌は十二畳の広さの茶室です。床脇一畳の点前座+八畳の客座+三畳の相伴席か
らなります。
内部の写真をご覧いただくとお分かりのように、利休の当時の草庵茶室の雰囲気はな
く、むしろ今日の和風住宅のお座敷のような書院造風です。このように下方だけを吹抜き
にしてそこから露地の風景が見えるようにしています。今日の住宅に似ているというより
も今日の設計士がこの手法を参考にしていると言い換えたほうが良いと思います。
ここには黄金分割の手法も用いられておりますし、これからもますますこの人物につい
ては海外の人の関心も高まると予測されます。
❏紫衣事件❏
●事件の経緯●
なぜ事件と名付けるかというと、これは幕府側がかなり無理難題を承知で宗教政策を行
っている時に起きた出来事で当時の最高峰とも言うべきという高僧の方々が流罪のような
扱いを受け、さらに結果的に幕府も知らぬ間に後水尾天皇の突然の退位宣言にまで及んで
しまう顛末となるからです。
背景には、天皇家と寺院が結びつくことの危険を幕府はなにより恐れており、天皇・公
家の収入源を阻む意図があったと言えます。
では、経緯をお話して行きますと、慶長18年(1613)6月『勅許紫衣法度』というのを
幕府は出しております。これは、特に大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌
寺・粟生光明寺・金戒寺の8ヵ寺の住持職について法度を出し、勅許以前に幕府に申し
出、同意を必要とすることを定めたものです。
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そして元和元年、まず7月17日『禁中并公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっ
と)』を発布し、さらに同24日に『諸宗本山本寺諸法度』を発しました。これは朝廷の
勅許は慎重に行わるべきことを規定し、幕府が介入する可能性があることを明確にしたも
のです。
●30年修行、公案1700●
臨済宗の大徳寺と妙心寺には特に厳しいものでした。「30年間修行し、公案1700を工
夫せよ!」というのです。この1700なる数字はどこから出てきたかというと、『景徳傳燈
録(けいとくでんとうろく)』なる中国の北宋景徳元年(1004)に編集された30巻の書
籍、禅宗の祖師たちの伝記集がありまして、そこに出てくる祖師の数が1701人なのです。
好意的に云えば、一つオマケしてあります。「悟り者全員の公案を理解しているのが当た
り前であろう」という話です。実際、大徳寺には現在も正和2年(1313)の写本(重要文
化財)が所蔵されています。また、国会図書館でも読むことが出来ます。
ですが、この『傳燈録』に肝心の祖師の立伝が書かれているのは951人で、名だけで立
伝のないものが750人です。無理難題とはこのことをいうのではないかというぐらい無茶
な話です。これは、今日は取り上げませんが金地院崇伝の策謀とされます。
さらに30年の修行が必要となると、自分が仏門に入って30年後に初めて弟子を取り、
さらにその弟子が30年経たないと一人前にならないとなりますと、かなりの高齢長寿が
条件となります。ほとんど相続は不可能です。
●元和以降の紫衣勅許すべて取り消しの通達●
そして寛永4年4月のことですが、この無理難題に敢然と挑んだのが沢庵宗彭(たくあん
そうほう)です。大徳寺法嗣(ほうし)・正隠宗知(せいいんそうち)を天皇に推挙しま
した。
それがきっかけとなり、寛永4年(1627)7月土井利勝・板倉重宗・金地院崇伝が合議
して、幕府は禅僧でさきほどの元和元年法度以後に紫衣勅許を受けた者すべてについてこ
れを取り消すなど、5ヵ条の制禁を出します。
これに対して、大徳寺の沢庵宗彭・玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)・江月宗玩(こう
げつそうがん)の3人は寛永5年(1628)幕府に「年数・公案数に拘るべきでない」旨の
意見書を提出しました。ちなみに、この3人は春屋宗園の法を嗣(つ)いだ兄弟弟子にな
ります。
そして3人は寛永6年(1629)閏2月江戸に呼び寄せられます。6月に判決が出ました。沢
庵は出羽上山(かみのやま)に、玉室宗珀は陸奥棚倉に流されます。ただし、江月宗玩は
単に意見書に名を連ねただけだと赦されます。しかしこれにより江月宗玩の世間での評判
はガタ落ちとなります。
●天皇の退位●
そして、この事件の最中、寛永6年(1629)5月に天皇が病気を理由に退位の希望を幕府に
申し出ます。幕府は、さきほどの3人に判決を出した後の8月に、退位は時期尚早と天皇に
回答します。ところが、後水尾天皇は11月8日朝に各公家に招集をかけ、その席で「位を
興子内親王に譲る」と発表してしまいます。幕府にはまったく事前の連絡もせずに…。結
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局、その10ヶ月後、即位式が行われ興子内親王は明正天皇になりました。天皇の真の動
機については最新の研究もありますのでそれはまた別の機会に譲りまして、とにかく世間
はこの紫衣事件の流れの中ですっかり嫌気が差されたのではないかと受け取りました。
●春屋宗園について●
今日のお話の人脈理解のための裏キーワードとなる方が、春屋宗園(しゅんおくそうえ
ん)という方でして、今日お話している人物たちと、例えば沢庵宗彭とも小堀遠州とも非
常に深い関わりを持っています。さきほど遠州の「孤篷庵」もこの方が名づけたとご紹介
しましたが、遠州の法諱(ほうき)「宗甫」も宗園によるものです。
この方は、今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」での、黒田家とも大変関わりの深い方で
す。博多に「崇福寺(そうふくじ)」というお寺があります。黒田如水・長政ら代々の藩
主の墓がある、黒田家の菩提寺です。焼失していたお寺を1600年(慶長5)に黒田長政
が、この春屋宗園(しゅんおくそうえん)を中興開山として再興しております。
「春屋」は道号、「宗園」はいま申し上げた法諱(ほうき)を表しまして、この方もと
もと俗姓は「園部」とおっしゃるので、「園」の文字が法諱に入っています。法諱とは仏
門に入って得度する際に付けられるものです。道号は相応の法階に達した時に師により授
かります。そして道号と法諱との間にはこのようにつながりのある文字を選びます。
のちの、武者小路千家・表千家・裏千家の基(もとい)となります千宗旦(せんのそう
たん)は、11歳のときに大徳寺三玄院に喝食として入りこの春屋宗園の下で修行しており
ます。春屋から「元叔」の道号も授かっておりますから、「元叔宗旦」となりますね。
また、今日このあと後半で解説する沢庵宗彭(たくあんそうほう)が未だ19歳の折、
徳大寺三玄院に訪ねてきたときにその法諱を「宗彭」と名づけたのも春屋宗園です。な
お、「沢庵」という道号は、後に堺の陽春寺一凍紹滴(いっとうしょうてき)が授けたも
のです。
●千利休について●
ところで時代さかのぼりますが「千利休」および「千宗易」というお名前についてです
が、千利休は堺の魚屋(ととや)田中与兵衛の長男で与四郎と申しました。「千」は祖父
の田中千阿弥(せんなみ)からとったとされます。法諱の「宗易(そうえき)」ですが、
先程の春屋宗園が記した『一黙稿』には「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也」
(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)と出てまいりますから、これは大林宗
套(だいりんそうとう)大徳寺90世が授けた法諱のようです。
1585年(天正13)9月正親町天皇(おおぎまちてんのう)より「利休」居士号を勅賜さ
れ、10月秀吉の禁裏茶会において初めて「利休」の名で出席しました。「居士」と書いて
呉音では「こじ」と読みますが、在家の仏教修行者あるいは学深きながら民間に居て仕官
しない人、すなわち「処士(しょし)」の意味合いもあります。
これが江戸時代、戒名の末尾につける敬称・尊称戒名としても用いられておりますか
ら、皆さんの仏間の位牌や墓標にも目にしておられるやもしれません。我家にも江戸元禄
期辺りから居士号の先祖が幾人か居ります。
しかし、1831年(天保2)4月には幕府より「百姓・ 町人の葬式・ 石碑建立に制限を加
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え、 併せて院号・ 居士号の使用を禁じる」との御触書が出まして、勝手にはつけられな
くなりました。
では、ここで休憩を入れます。
※ 「江戸文化サロン」事務局より
このあと休憩を挟んで後半へと続きましたが、このホームページでの掲載はここまで
とさせていただきます。ここまでお読みいただきありがとうございました。
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