...

研究成果Vol.20(P1-P96) .indd

by user

on
Category: Documents
15

views

Report

Comments

Transcript

研究成果Vol.20(P1-P96) .indd
日本野鳥の会の会誌『野鳥』にみられる鳥類画の研究
伊地知 栄美
嘱託助手
大学院
平成 25 年度
日本野鳥の会は昭和 9 年(1934)に詩人で僧侶
ことである。その記事には新宿伊勢丹で開催され
であった中西悟堂によって創設され、同年 5 月に
た「野鳥生態画展覧会」会場の様子の写真や堀田
会誌『野鳥』も創刊された。この『野鳥』は第二次
光鴻が描いた野鳥画の図版も載せられている。堀
世界大戦のため、昭和 19 年(1944)9 月号を最後
田光鴻が絵画作品として鳥の生態そのものを題材
に休刊するが、昭和 22 年(1947)7 月号より再度
としたことに注目した。
刊行され現在に至る。
この会誌で取り上げられている内容は、鳥類学
堀田光鴻は、
「野鳥を描く」において、アメリカ
の鳥類学者ジョン ・ ジェームズ・オーデュボン
だけでなく、野鳥観察愛好家向けの情報、そして
(John James Audubon, 1785 - 1851)だけでなく、
鳥にまつわる文化や芸術なども含まれている。そ
鳥類画家のルイス ・ アガシス・フェルテス(Louis
もそも日本野鳥の会の趣旨は、
「本会は科学的、民
Agassiz Fuertes, 1874 - 1927)、英国の鳥類画家
族学的、飼育的、美術的、文学的な処方面から鳥
アーチボルド・ソーバーン(Archibald Thorburn,
を観察し、研究し、伝達する公の機関となり、月
1860 - 1935)などの名前を挙げ、海外での野鳥画の
刊の機関誌「野鳥」に諸家の協力によって、文献を
受容についても紹介している。
逐次記載して学術的、趣味両方面から真に健全な
つまり、堀田光鴻は日本でも早い時期に海外の
愛鳥の思想を普及する」としており、創設当初か
野鳥生態画について紹介をし、さらに自ら描いて
ら「鳥の科学と芸術の交流」を目指していた。つま
いたことになる。その作品は昭和 15 年に大阪ガ
り『野鳥』を取り上げることで、当時の鳥類画に関
スビル、昭和 16 年には神戸大丸、そして昭和 18
する様相もわかるのである。そこで、本研究では
年には新宿伊勢丹で「野鳥生態画展覧会」として
日本野鳥の会が刊行している会誌『野鳥』の内容
公開されたのである。
から鳥類画について調査分析した。
堀田光鴻は日本野鳥の会大阪支部所属であり、
昭和 18 年 1 月と 2 月刊行の『野鳥』には堀田光
当時の実地指導者は『野鳥便覧』を刊行した榎本
鴻(?−1961)が「野鳥を描く」という記事を 2 回
佳樹(1873−1945)であった。榎本佳樹は図版を描
にわたって書いている。ここでいう「野鳥画」と
くにあたり、他者が撮った写真や他の鳥類図鑑な
は、野鳥観察に基づき、その鳥だけでなく、その
どの挿絵を一切使用せず、野鳥観察をしながら写
生息環境や習性・生態まで正確に描く絵画作品の
生をした。
74
昭和 10 年代後半にこのような野鳥観察に基づ
く「野鳥画」の流れが出てきた背景を調べていく
西で「野鳥生態画」という新しい鳥類画を発展さ
せた要因のひとつとなったのである。
うちに、京都野鳥の会名誉会長であり、生物学者
しかしながら、川村多実二と堀田光鴻、榎本佳
であった川村多実二へと行き着いた。川村多実二
樹らの交流関係はまだ不明な点が多く、絵画制作
(1883−1964)は第三高等学校で学んでいた明治
にどの程度の影響を与えたのか、またそれに続く
36 年(1903)、聖護院洋画研究所(現:関西美術院)
鳥類画家にどのような影響を与えたのか、など今
にて浅井忠から本格的な絵画教育を受けた。その
後の研究課題としたい。
後、東京帝国大学理科大学動物学科に進学して飯
島魁と箕作佳吉に師事した。川村多実二はのちに
執筆した『芸用解剖学』
(興文社版、1913 年刊)で
の「緒言」で「故浅井忠先生より受けた西洋画に対
する嗜好と、故箕作佳吉先生より受けた解剖学に
対する興味」と書いている。即ち、第三高等学校
時代に浅井忠に学んだ美術教育と東京帝国大学時
代の動物学研究が川村多実二の美術と科学の考え
方「科学と芸術の融合」の原点となっていると考
えられる。このことはドイツの狩猟画の展覧会に
触れ「独逸を訪うた際にその盛況に驚き、自身が
専攻する動物生態学との関連上甚だ喜ぶ可き動向
と考えたから、帰国後時々遅拙な筆を呵して野鳥
の油絵数点を試作した」と述べていることからも
わかる。
川村多実二と堀田光鴻、榎本佳樹は共に探鳥会
に参加し、その後によく会食をして鳥の話をして
いたとの回顧している。また堀田光鴻は川村多実
二がフェルテスの野鳥画を好んでいることも知っ
ていたことから、三人の間で野鳥画についての談
義が交わされていたのではないか、と推測される
のである。
川村多実二が京都帝国大学で講義及び野外実習
していた生態学やドイツでの狩猟画展覧会での体
験、そして芸術と科学を融合させる思想は、堀田
光鴻と榎本佳樹にも影響を与えたと考えられ、関
75
Fly UP