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私たちの発表文集です

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私たちの発表文集です
と き 平成 19 年 11 月 17 日(土)
ところ 東総文化会館 大ホール
私たちの発表文集です
主 催
協 賛
旭 市 教 育 委 員 会
旭市青少年育成市民会議
旭市PTA連絡協議会
目 次
■小学生
1
地域の祭りと若い人達
中央小6年
加瀬 奈都美…………P1
2
通学路のゴミ拾いをして
琴田小6年
奈良 一志……………P2
3
将来の夢
干潟小6年
海老原 圭……………P3
4
夢に向かって
富浦小6年
加瀬 涼華……………P5
5
私の実家は牛屋さん
矢指小6年
塩谷 佳菜恵…………P6
6
資源は地球からかりたもの
共和小6年
疋田 大輝……………P7
7
あいさつの輪を広げよう
豊畑小6年
渡邉 栞奈……………P8
8
私の将来の夢
鶴巻小6年
川名 風彩……………P9
9
私の夢
滝郷小6年
木内 咲綺……………P10
10 できることから共生社会
嚶鳴小6年
塚本 みなみ…………P11
11 将来の夢
三川小6年
石毛 颯人……………P12
12 家族
飯岡小6年
葛馬 七星……………P13
13 「あいさつ」ってすばらしい
中和小6年
佐野 彩奈……………P14
14 夢に向かって
萬歳小6年
渡邉
15 環境を見直す心がけをしよう
古城小6年
金杉 拓哉……………P16
16 ぼくを強くしてくれたもの
第一中3年
石橋
17 日本の平和と人権
第二中3年
菅谷 穂乃加…………P19
18 青空
海上中3年
向後 愛沙……………P20
19 人と人との出会い
飯岡中2年
遠藤 華子……………P22
20 今、思うこと
干潟中2年
鵜澤 和也……………P24
21 みんな 気付いていますか?
旭農高2年
伊藤 静香……………P26
22 夢にむかって
東総工高3年
木内 雅也……………P28
23 夢に近づく世界への一歩
成田国際高1年 伊藤 未玖……………P30
緑……………P15
■中学生
徹……………P17
■高校生
■青 年
24 限りがある私達の資源:海の生きもの
メーガン
ア ン
ド ア テ ィ
ALT(外国語指導助手)24 才 Megan Ann Doherty …………P31
地域の祭りと若い人達
旭市立中央小学校
6年
加瀬
奈都美
私は今、旭市の宿天神で毎年行われている太田祇園の小太鼓に熱中していま
す。
この太田祇園を運営しているのは、20代から40代の男の人達です。練習
に 参加 し ているのは小学生4人、高校生4人、20代の男性は2~3人です 。
私は父と兄と一緒に練習しています。
今は、20代から40代の人達が中心に活動していますが、その人達の中に
も引退する人が出てきます。そうなると、笛や太鼓をやる人達がいなくなるの
で、太田祇園ができなくなってしまいます。
私は、もっと若い人達に祭りを盛り上げてもらいたい!そう考えていますが、
なかなか私だけではどうにもなりません。父の話では、今の太田祇園を運営し
ている大人達の間でも、今のままでは祭りが成り立たなくなってしまうのでは、
と いう 意 見が出ているそうです。「太田地区の子どもたちを集めて、まだ小さ
い うち か ら笛や太鼓、すり金の技術をたたきこんでおこう。」という声も出て
いるそうですが、未だにそれは実現していません。
私は そ こで、「大人の人達はそういうアイデアを出し合っている。じゃあ子
供 の私 に も何かできることはあるだろうか。」と考えてみました。私の考えた
ことは、次のようなことです。
いやでも人は年をとります。父ももう少しで引退するようです。そうすると、
今の祇園を運営する人がいなくなってしまいます。ですから、人任せではなく、
私 たち 子 供が練習を続けて、太田祇園を受けついでいくしかないと思います 。
それに、まだ20代のお兄さん達もいるので、一緒にやっていけます。今はあ
まり練習に出てこない人もいますが、本番には10人くらいのお兄さん達が来
てくれるので、みんな太田祇園が好きなのだと思います。
でも、これだけでは問題は解決しません。少ない人数でやっている太田祇園
なので、仲間を増やしていく必要があります。では、どのようにすれば、太田
祇園に参加してくれるでしょうか。
例えば、引退した人達に協力してもらって広告を出してもらうことはどうで
しょうか。そうすれば、関心をもってくれる人がいるかもしれません。たとえ
1人でも仲間が増えることを願っています。
私は太田祇園が好きなのでどうしてもこの祭りを守っていきたいのです。太
田祇園のよさは、同じ地区に住むふだんかかわりのない大人や子供とも一緒に
活動できることです。そして、何よりも一つのものに向かってみんなが熱中す
る楽しさを味わえることです。
このようなすばらしい伝統がある場所に生まれ、ここで生活しているのです
から、あきらめずに太田祇園のよさを伝えていこうと思います。
私はこの町が好きです。これからも地域にある文化を受け継ぐ者の一人とし
て自分にできることを続けていきたいと思います。
1
通学路のごみ拾いをして
旭市立琴田小学校
6年
奈良
一志
ぼくは,学校の帰り道にごみ拾いをすることがあります。特にごみが多いの
は,田んぼの中の道です。周りにあまり家がないので,捨てやすいのだと思い
ます。毎日通る道なので,いろいろなごみが落ちているのを見ると,とても気
になります。
落ちているごみで一番多いのは,空きかん,ペットボトルなどの飲み物の容
器です。なかには,飲みかけのもので中身がくさっているものや,たばこの吸
いがらが中にたくさんつめられているものなどもあります。また,ビニル袋い
っぱいにごみが詰め込まれているものも時々あります。
なぜ,このようにいろいろなごみが道に捨てられてしまうのでしょうか。ぼ
くの考えでは,ただ単に面倒くさいとか,あるいは,自分の部屋や家が汚くな
らなければよいと自分のことしか考えないなどが理由かなと思います。自分の
捨てたごみがこの後どうなるのかとか,田んぼの持ち主やぼくのような毎日近
くを通る人たちがどんな気持ちになるかなどということを,ほんの少しでいい
ですから考えてほしいと思います。
ぼくは,どうしたらこのようなごみのポイ捨てがなくなるかという対策を考
えてみました。看板を立ててもあまり効果がないように思いますし,かと言っ
て,だれかがずっと見張っているわけにもいきません。そこで,次のようなこ
とを考えてみました。それは,小さいうちから親など大人といっしょに月に一
度ぐらい,ポイ捨てが多い場所でのごみ拾い活動をするということです。小さ
なころからそういった活動を積み重ねることで,自然とごみのポイ捨てなどが
できない人間に成長していくのではないかと思います。道にごみを捨てるとい
うことがどういうことを引き起こすのか,そしてそのようなごみを拾ってきれ
いにすることがどんなに大変なことなのかなどが,身をもって理解できると思
うのです。また,みんなで定期的にごみ拾いをして,常に街中をきれいに保っ
ておくことができれば,ごみをポイ捨てしようと思っても,しにくくなるとい
う効果も期待できます。
ぼくが今やっていることは,とても小さなボランティアです。ぼくだけでや
っていてもそれほど街はきれいにならないかもしれません。でも,ぼくが提案
したような活動が本当にひろがっていったらいいなと思います。ぼくは,これ
からもこの小さなボランティアを続けていきたいと思っています。いつか街中
がごみ一つ落ちていないきれいな街になることを想像しながら・・・。
2
将 来 の 夢
旭市立干潟小学校
6年
海老原
圭
僕の将来の夢は,漫画家になることです。漫画家になりたい理由は,4つあ
ります。
1つ目の理由は,漫画を描くことが食べ物よりもとても好きで,得意だから
です。2 つ目の理由は,漫画を読むことが大好きということです。漫画ばかり
読んでいるのでお母さんによく怒られます。でも,面白い漫画を読むと,とて
も楽しい気持ちになります。だから僕も面白い漫画を描いて,たくさんの人を
楽しい気持ちにさせたり,たくさんの人を笑わせたりしたいと思います。3 つ
目 の理 由 は,尊敬する漫画家がいるからです。僕の尊敬する漫画家は,「こち
ら葛飾亀有公園前派出所」を描いている「秋本治さん」です。この漫画は,僕
が生まれる前から続いています。たくさんの単行本が出ています。これだけた
くさんの漫画を描いているのに,どの話も面白く「なぜ,この人はこんなに面
白い漫画を描けるのかな あ 。」と思います 。それに,「浅草のことをよく知って
い るな あ 。」と驚くことが何度もありました。ぼくも秋本さんのような漫画家
になりたいと思います。4つ目の理由は,有名になってお金をたくさんもらえ
たら,いつも掃除,洗濯,ママさんバレーでがんばっているお母さんに,マッ
サージ機を買ってあげられるということです。
では漫画家になるには,どうすればいいのか考えました。僕が漫画家になる
ためにこれからがんばることは,絵がもっと上手になって,クラスのみんなか
ら も,「 う まい!」と言われるようにならないといけないと思います。また,
お父さんからは,
「漫画家になるには,頭がよくなきゃいけないんだぞ。」
と言われ,お母さんには,
「じゃあ,その為にべんきょうしなくちゃね。ドリル買ってくるわ。」
と言われました。「漫画家になるために,どれだけ勉強すればいいのだろう。」
と思いました。
僕が 行 っている塾に本が置いてあり,それは職業についての本だったので ,
読んでみたら,漫画家になるためにはものすごく勉強しなければなれないとい
うことがわかりました。漫画家になるためには,もっと勉強していろいろな事
を知っておく必要があります。国語,算数,理科,社会どれもとても大事です
が,特に算数が大事だと思います。漫画を描く時には,コマ数やどのように描
くか,いろいろと頭の中で計算します。それに頭の回転が速くないと,面白い
話が作れないと思います。よくテレビに出ているお笑いの人は,頭の回転の速
い人が多いそうです。いつも面白い話を考えているのだと思います。僕もいろ
い ろな 事 を勉強して,みんなから「よく知っているなあ。」と感心してもらえ
るようになりたいと思います。
それから,漫画家は,よく徹夜をするそうです。だから体力がないと,とて
もやっていけません。体を鍛えることも必要です。今の僕は,夜なんかすぐ眠
くなってしまいます。だからとても徹夜なんかできませんが,漫画家になった
3
ら,いい漫画を描くために徹夜をしてがんばります。
これから僕が中学生になり,高校生になって大人になった時に,自分の夢が
かなうように,勉強に運動にがんばっていきたいと思います。漫画家になった
ら,アシスタントは 5 人ぐらいほしいと思います。
最後に,漫画には夢があると思います。実際にはあり得ないことが,漫画で
は表すことができるのです。自分の夢も漫画のように,自分の手で描いていけ
たらいいなと思います。
4
夢に向かって
旭市立富浦小学校
6年
加瀬
涼華
私の夢は,将来卓球の世界チャンピオンになることです。
私は,友だちのおじいちゃんの高橋先生に誘われ,卓球を始めました。まだ
保 育所 に 通 っていたころで,卓球のことなんて全く知らなかった私でしたが ,
楽しく練習をしていたという記憶があります。それから2年。卓球の愛ちゃん
にあこがれた私は,毎日練習を積み重ね,ついには全国大会に出場できるまで
になりました。しかし,初めての全国大会では,予選のリーグ戦をぬけるのが
精いっぱいでした。負けてしまったくやしさと,来年もまた全国大会に出るん
だという決意を胸に,私は家の車庫に卓球台を出して練習しました。お母さん
に球出しをしてもらい,毎日3時間の練習をこなしました。上手く球を当てら
れずに,くやしさに涙を流したこともありました。しかし,練習の成果が出て,
今まで勝てなかった高学年の選手にも勝てるようになったときには,本当にう
れしかったです。
私は,全国大会に出場できるようになって,学校の友だちだけではなく県外
にもたくさんの友達ができました。また,卓球を通して技術だけではなく,あ
いさつや礼儀などの精神的な部分でも多くのことを学ぶことができました。私
が,5年連続全国大会に出場できたのは,もちろん自分だけの力ではありませ
ん。毎日教えてくれるクラブのコーチ,元全日本の外部コーチ,そして,毎日
送り迎えをしてくれるお家の人のおかげだと思います。いつまでも感謝の気持
ちを忘れることなく,自分の夢に向かってがんばっていきたいと思います。
平成22年には,国民体育大会が千葉県で行われます。旭市は卓球競技の開
さ い地 で , その大会には中学3年生から高校3年生まで出場資格があります 。
私は,中学3年生になっています。地元旭市で,国体の代表になることが現在
の目標です。
私は今,家の人が建ててくれた卓球場で練習しています。平日は一日4時間,
土日は約10時間練習をしています。もちろん,中学生になってもこの練習を
続けていくつもりです。でも,練習がつらくて卓球を嫌いになったり,やめた
くなったりしたことは一度もありません。自分でもびっくりするくらい,卓球
が生活の一部になっています。食事をとったり寝たりするのと同じくらい卓球
が大好きです。
夢は実現するものだと私は思います。これから先たくさん練習をして,たくさ
ん涙を流すこともあると思います。しかし,涙を流した分だけ強くなれると信
じています。
私の夢は,将来卓球の世界チャンピオンになることです。
自分の夢に向かって…。40㎜に魂こめて。
5
母の実家は牛屋さん
旭市立矢指小学校
6年
塩谷
佳菜恵
私 の母 の 実家は牛屋さんです。 銚子で酪農の仕事をしています。牧場には ,
乳 牛と 肉 牛 がいます。乳牛はすべてメス牛で,子牛を産むとミルクが出ます 。
ミルクはすぐ冷やし,出荷されます。温度管理がたいへんで,今は衛生面でと
ても気をつかっています。肉牛は,生まれてすぐは母牛のミルクを飲ませます。
2,3日目から粉ミルクを溶かして飲ませ,2ヶ月くらいからえさを食べさせ
ます。そして,約2年半で出荷します。子牛の時は発熱と下痢に気をつけます。
えさも重要で,栄養面でとても気をつかっています。
母は,この牧場で毎日働いています。朝,私たち家族を送り出した後,働き
に行きます。9時くらいから子牛にミルクを飲ませます。大きなほ乳ビンで飲
ませる重労働です。これが,2時間くらいかかります。その後,肉牛の牛舎に
行き,えさをあげたり牛舎を整えたり子牛の様子を見たりしているうちに,も
う午後遅くになってしまいます。少し休むと銚子から旭まで私を迎えに来ます。
そ して , 私を連れて,また牧場に向かいます。まだ夜の仕事があるからです 。
また子牛にミルクをあげたりして,終わるのは夜の8時くらいです。銚子の実
家 で夕 食 を食べ,お風呂に入って,旭の家に帰宅するのは10時くらいです 。
子牛が産まれるという時には,夜に働きに行くこともあります。毎日,母をは
じめ牧場で働く人たちはがんばっています。
私もこの牧場で過ごすことが多いので,夏休みなどは手伝うことがあります。
正直,私にはたいへんな仕事です。バケツ2,3個を持って運ぶ仕事は,とて
も重く感じます。子牛にあげるミルクのほ乳ビンも抱えるほど大きいので,重
労働だと思うのです。力がいる仕事が多くてたいへんだと思うのですが,働い
て いる 人 たちからは「仕事がたいへん。」という言葉は聞いたことがありませ
ん。みんな仕事に情熱を持ってがんばっているからかもしれません。
感動することやうれしいこともたくさんあります。
感動するのは,子牛が産まれる時です。子牛が産まれるときは,何人もで子
牛の脚を引っ張り,母牛にとっても生まれてくる子牛にとっても苦しそうです。
時には,病気で死んでしまったり,出産の時に死んでしまったりすることもあ
ります。がんばって育てているだけに,皆がっかりします。それだけに,元気
に 生ま れ て きた瞬間,そして,母牛が愛しそうに子牛をなめる姿を見るのは ,
感動です。
うれしいこともあります。何年もかかって苦労して育てると,出荷するとき
には寂しさもありますが,いい牛を出荷できたという満足感でいっぱいになり
ます。品質検査でA5ランクが取れたときやコンクールでトロフィーをもらっ
たときには,みんな大喜びで笑顔がいっぱいになります。
私は,毎日この牧場に行きます。そして,この牧場で多くのことを学んでい
ます。仕事への情熱の傾け方,生や死のある命の大切さ。牛の世界にもボスが
いて,力の弱い牛はいじめられてしまうこともあります。ケンカで傷ついた牛
が血を流しているのを見たこともあります。牛の血は赤く,ペンキのように濃
く,重さを感じます。そして ,二度と傷つかないように牧場の人たちは気遣っ
て世話をするのです。私は多くのことを感じ,経験できる場に育っているので
はないかと実感しています。命の重さが,そしてそれを支える人たちのがんば
りが私を後押ししてくれます。
これから先,私が大好きなバレーでも,困難が待ちかまえる人生でも,笑顔
でがんばっていけると思います。命を大切に,守る側の人間になって生きてい
きたいと思います。
6
資源は地球にかりたもの
旭市立共和小学校
6年
疋田
大輝
「資源をむだにしている人が多いな。」
僕は、省エネ活動をしています。なぜかというと、以前テレビで資源を多く
使っている国の紹介をしているところを見たからです。その番組の中に、日本
が紹介されていました。日本は、電気や燃料などを多く使っていて,その素に
なる地球の資源も多く使っていることを知りました。世界の国々と比較しても,
上位に入るほどの利用率でした。その利用方法はいろいろあるそうです。例え
ば,家庭や工場,ビル等で使われる電力や,その電力を発電するために使われ
る燃料,自動車に使われるガソリン等たくさんあります。
この事実を知って,このままでは僕たちが大人になったときに地球の資源は
底をついてしまう。さらに,その代償で地球の温暖化も進んでしまい,住みよ
い暮らしができなくなってしまう,と思いました。その時から、僕の省エネ活
動がスタートしました。
まず、今の自分にできることを考えました。
誰もいなくなった部屋の電気をこまめに消すこと、使っていない電化製品の
コンセントを抜くこと、冷房の温度を高めに設定したり,暖房の温度を低めに
設 定し た り することなど、たくさん考えました。今すぐに実行できることは 、
身の回りにたくさんあることに気がつきました。
次に、みんなで気をつけていかなければならないことを考えました。
真っ先に思いついたことは,自動車のことです。日本やアメリカなど先進国
と 呼ば れ る 国々では,有害な排気ガスを出す自動車がたくさん走っています 。
自動車は,燃料であるガソリンを使っているだけではなく,地球の温暖化も進
めます。ガソリンを使うことで,化石燃料という貴重な資源も底をつきかけて
い るそ う で す。自動車を減らすことは,今の社会にとって難しいと思います 。
しかし,身近な取り組みから,駐車場でのアイドリングストップをしたり,出
かけるときには、電車や自転車等を使って出かけたりすることで,ガソリンの
使用を減らし,自動車から排出される二酸化炭素も減らすことはできると思い
ます。また,各国の自動車会社でも地球の環境を守ろうと,ハイブリッドカー
や燃料電池車等を開発しているそうです。これらは二酸化炭素の排出を減らす
ように工夫されているそうです。
僕は,このように世界中の人々が,身近なことから協力して地球の環境を守
ろうとすることが大切だと感じました。また,それらが実行しやすいような社
会のしくみがもっと必要だと感じました。
地球上で暮らしている動物や植物のことを,一人一人が真剣に考え,少しで
も 実行 し て いければ,地球の環境が悪くなることを防げると思います。僕は ,
み ん な に 資 源は 地 球に かり て いる もの だ とい うこ と を心 に とめ てお い てほ し
いと思います。地球のために。
7
あいさつの輪を広げよう
旭市立豊畑小学校
6年
渡邉
栞奈
「 おば あ さん,こんにちは。」私は,近所のおばあさんにいつも笑顔であい
さ つを し て います。あいさつをすると,そのおばあさんはとても喜んでくれ ,
に こに こ し てあいさつを返してくれます。たった一言の「こんにちは。」とい
うあいさつなのに,こんなに喜んでくれるのには,何か秘密があると思い,考
えてみることにしました。
あいさつは身近にあり,誰でも知っているでしょう。でも,あいさつをしな
い 人が 最 近多くなっていると思います。あいさつは,とても不思議なもので ,
してもらえないとちょっと悲しくなってしまいます。でも,あいさつをするだ
けで,喜んでもらえたり,笑顔になってもらえたりします。あいさつには,人
の心と心を結ぶ不思議な力があると,私は思います。この不思議な力があいさ
つの秘密なのではないでしょうか。
地域の方々との交流も,まずはあいさつから始まると思います。あいさつを
されると,ほとんどの人がうれしくなり,みんなが笑顔になれるでしょう。す
ると,あいさつをした人もうれしくなり,みんなが笑顔になれるのではないで
しょうか。
私の学校では,ろう下に「オアシス言えますか?」という看板が何か所かに
あります。私は,はじめは言えなかったけど,今は全部言えるようになりまし
た。オアシスのオはおはようございます,アはありがとうございます,シは失
礼します,スはすみません,です。これはあいさつの基本だと言えます。他に
も,こんにちは,さようならなどがよく使われます。これらは,私達が生活し
ていく上で,全て大切なものだと思います。
あいさつは,心で思っているだけでは何にもなりません。自分から率先して
あいさつをすることが大切です。良いコミュニケーションをつくるきっかけに
もなるからです。
あい さ つの「あ」は明るく,「 い」はいつでも,「さ」は先に,「つ」は続け
て ,だ と 私は考えました。これをモットーにあいさつをするよう心がけると ,
今まであいさつをしなかった人も,心が温かくなり,少しずつあいさつの輪が
広がっていくと思います。
また,あいさつは自分ができているつもりだけではいけないと思います。き
ちんと相手に伝わるように,心をこめて,相手の目を見てあいさつをしていく
ことが大切ではないでしょうか。
元気ではつらつとしたあいさつは,見た目にもさわやかで,良い印象を与え
ます。この元気ではつらつとしたあいさつを,みんなでし合えたら素晴らしい
と思います。私は,みんなが気持ちよく毎日を過ごすことができるあいさつを
どんどん広めていきたいと思います。そうすることによって,今よりもっと笑
顔のあふれるすてきな旭市になっていくことでしょう。
8
私の将来の夢
旭市立鶴巻小学校
6年
川名
風彩
私は将来,プロのバレーボール選手になりたいです。小学3年生の時に,海
上の地区バレーボール大会に参加し,試合に出場させてもらいました。そして,
その大会で優勝することができました。その時に金メダルをもらったうれしさ
がきっかけとなり,小学校5年生の時クラブチームに入って,バレーボールを
始めました。
その時に入ったチームが今も続けている,「NPO スポーツアカデミー」のバレ
ーボールチームです。私が入ったときにいた6年生の練習の姿を見て「かっこ
いいな。」と思い,もっとバレーボールをやりたくなりました。初めは,「どん
な こと を するのだろう。」と思っていましたが,チームの6年生や5年生がと
ても優しく教えてくれたおかげで,だんだんチームになれて,心からバレーボ
ールが好きと思えるようになりました。
バレーボールのチームですが,練習以外にいろいろなレクリエーションがあ
ります。夏に群馬へ行き,2泊3日の合宿がありました。1日目の練習が終わ
った後,夜にきもだめしや花火をしました。そして,きもだめしの時にチーム
の友だちがいなくなってしまい,みんなでとても心配していました。しかしそ
れはコーチたちが計画したものでした。その友だちが見つかった時には,みん
な泣いていました。だれか一人がいなくなるだけで,こんなに大変なことにな
るとは思いませんでした。しかしそのおかげで,チームメイトの大切さがとて
もよくわかりました。
私は今,6年生になりチームのキャプテンを任されています。初めは「キャ
プテンが自分にできるかな」と思っていましたが,今ではキャプテンという自
覚をもちキャプテンとして自分のことよりも一番に,チームのみんなのことを
考えて行動するようにしています。練習が始まる20分くらい前には体育館へ
行って,練習の準備をしたり,練習後の後片付けなどに早く取りかかるように
したり,なるべく長い時間練習ができるようにしています。12月には,交流
試合があるのでその試合に向けて練習をがんばっています。試合には中学生も
参加しますが,みんなではげまし合ってよい結果が出せるようにがんばってい
ます。
私は も う6年生なので,引退まであと半年ぐらいしかありません。ですが ,
そ の残 さ れた少ない時間の中で,チームの中心となり,みんなの良いところ ,
悪いところを指摘し合い助け合って,最高のバレーボールチームにしたいと思
います。そのために,キャプテンとして今まで以上にもっともっとチームを引
っぱっていきたいと思います。また,中学校へ行っても将来の夢に向けてバレ
ーボールを続け,1年生でレギュラーになれるようにしたいです。そのために,
今 や っ て い るチ ー ムの 練習 に 休ま ず参 加 し目 標に 向 かっ て がん ばり た いと 思
います。
9
私の夢(一期一会とクラスの仲間)
旭市立滝郷小学校
6年
木内
咲綺
『一期一会』という言葉に出会い、辞書で調べました。この四字熟語は、「一
生 にた だ 一度だと考えて、常にまことをつくすべきだとする考え。」という意
味だそうです。これは、みんなで話し合って決めた卒業アルバムのタイトルの
言葉です。
今、班ごとにいろいろな言葉を出し合って います。私の班では、「旅」「なか
ま」「友だち」などが候補としてあがりました。一つの言葉で「卒業への思い 」
や「クラスへの思い」を表したいと私も考えました。私が思いついたのは「な
かま」でした。
滝郷小学校は、市内の小学校の中でも小さく、各学年一クラスしかありませ
ん。入学した時、私が通っていた保育園からは私一人で、知った顔は誰もいま
せんでした。けれど、一年生から六年間一緒に授業を受け、消しゴムをかりた
り 、 大 声 で しゃ べ った り、 笑 った り、 ふ ざけ てつ つ きあ っ たり 、肩 を 組ん だ
り・・・。席替えがあるたびにたくさんの友だちができました。もちろん、ケ
ンカをしたこともありましたし、いやな気分で話をしない時もありました。
今年の7月にこんなことがありました。私が「嫌い」と言われたことを気に
して落ち込んでいたとき、友だちに相談しました。友だちは、だまって私の話
を うな ず き ながら最後に「気にしないほうがいいよ。」とアドバイスしてくれ
ました。この一言で私の落ち込んでいた暗い気持ちは吹き飛び、ちょっぴり元
気になりました。「友だちって、大切だな。」「友だちがいるって、心強いな。」
とあらためて気付くことができました。
ク ラ ス 35名は、「友だち」・・・いやいや、それ以上の「仲間 」で す 。一 人
一人の顔がはっきり浮かびます。名前も漢字で全員書けます。みんなのいいと
ころもたくさん言えます。こんな仲間と出会えたことは、私にとっての「一期
一会」であって、大切にしなければならないものです。
私は今、一人で計画していることがあります。それは、卒業までに一人一人
に手紙を書こうと考えていることです。みんなの顔を一人一人思い浮かべなが
ら、どんな言葉を書こうか、どんな気持ちを伝えようか、考えるだけで心がド
キドキ、ワクワクしてきます。また、どんな気持ちで手紙を読んでくれるだろ
かと心配になったりもします。気持ちは複雑ですが、仲間に私の気持ちを伝え
ることができたら、どんなにすばらしいことでしょうか。
「一期一会」イコール滝郷小学校6年の仲間達です。共に学び、楽しいこと
も悲しいことも、そして苦しいことも一緒に経験してきた仲間とのつながりを
守っていきたいと心から願っています。これからも、共に助け合い、手をつな
ぎ合っていけたら、すばらしいと思います。
これから出会ういろいろな人達とも、一期一会の「どんなときでも一度きり
か もし れ な い。」という気持ちをもって、人との出会いを大切にしていけるよ
うな人に成長することが、今現在の、そしてこれからの大きな夢です。6年1
組の同級生のみなさん、ころからもよろしくお願いします。
10
できることから共生社会
旭市立嚶鳴小学校
6年
塚本
みなみ
みなさんは,障害を持っている方と接したことがありますか?私は去年まで
そのような方と接したことはなかったので,知らないことがたくさんありまし
た。
し かし , 去年,肢体不自由の方 と千葉まで電車で出かけるという体験をし ,
実際に車いすに乗ってみることができました。今年は,視覚障害の体験で,ア
イマスクをし,白い杖で歩くという体験をすることもできました。車いすを押
して道を歩くとき,私は周りに人が多くて全然進むことができず,凄く苦労し
たのを覚えています。特に困ったことは,歩いている人たちが道をゆずってく
れ ない こ と でした。私は,(一人一人が少し道をゆずってくれるだけでいいの
に ,な ぜ 協 力してくれないのだろうか。)こう思いました。でも,体験する前
の私を振り返ってみると,道をゆずるということをしたことはなかったかもし
れません。しかし,道を歩くときに車いすを優先することは,簡単にできるこ
とです。だから,できることは一つ一つ実行していこうと思いました。それか
ら,車いすに乗ってみたときにも困ったことがありました。それは,車が歩道
に止めてあったことです。車いすでは危険ですが,車道に降りて通るしかあり
ませんでした。でも,車が止まっていなければ,危険をおかして車道に出なく
てもよかったのです。車一台を止めるのもきちんと場所を考えて欲しいと思い
ます。
視覚障害の体験では,実際に障害物のあるところを白い杖を持って歩きまし
た。見て歩いたら十秒くらいで歩ける所を,目隠しをして白い杖を持って歩く
と,五十秒もかかりました。それから,何かにあたるかもしれないという不安
な気持ちもありました。私は,今まで道を歩くときに白い杖を使っている人を
何人も見たことがありました。しかし,それほど不安に思うことだとは思わず,
見かけたときにあまり気にかけたことはありませんでした。でも,視覚障害者
の方の気持ちを知って,何か私にできることはないかと考えるようになりまし
た。これから視覚障害者の方を見かけたら,積極的に話しかけ,その人達の助
けになりたいと思いました。
私は幸運にも,昨年,今年と実際に障害者の方に会うことができました。二
人 は, 障 害 の種類は違いますが,共通点がありました。私は会う前,「障害者
の方は,普段とても苦労しているから,少し静かなのかな?」と思っていまし
た 。し か し ,二人ともとても明るく,よく笑っていました。「本当に障害を持
っている方なのかな?」と思うほどでした。私は二人に会うことができ,本当
に良かったなと思っています。
私は,二つの体験をして,気づいたこと,思ったことをこれからの生活に生か
していきたいと思います。さらに,他の方々にも呼びかけ,みんなで協力する
ことで,障害を抱えている人の不安や不便を少しでも減らすことができればい
いなと思います。できることから 始めて いき,障害のある人でもない人でも ,
共に楽しく生きられる明るい社会になればいいなと私は思います。
11
将 来 の 夢
旭市立三川小学校
6年
石毛
颯人
ぼくには,なりたい夢が2つありました。一つはプロ野球選手,もう一つは
テレビ局のアナウンサーになることでした。
プロ野球選手にあこがれたのは,次のような理由からです。東京ドームで読
売ジャイアンツの試合を観戦した時,広くてきれいな球場で大勢の人達の前で
野球をする選手がとてもカッコいいと思いました。スポーツ少年団で野球をや
っていたぼくは,大きくなったら絶対にプロ野球選手になろうと心に強く誓い
ました。
テレビ局のアナウンサーになりたいと考えたのは,アナウンサーがとてもす
てきに見えたこと,自分もいろいろな番組に出演したいと思ったという,単純
な理由からです。
でも,総合的な学習の「いろいろ仕事発見」で将来の仕事についての学習を
してから,自分の考えがまとまってきました。
学習に必要な資料を集めているとき,母が,インターネットで日本テレビの
「見学コーナー」というサイトを見つけてくれました。アナウンサーの仕事に
ついて調べるよい機会になるかもしれないということで,実際に見学してみよ
うということになりました。でも,その「見学コーナー」は学校の学習の一環
という条件だったので,担任の先生に手続きをお願いしました。そして,学校
が休みになる夏休みに見学できることになりました。
日本テレビでは,見学担当の方に局内のいろいろな場所を案内していただい
たり,説明をしていただいたりしました。
ぼくは,何よりも興味を持っていた,アナウンサーになるためにはどうした
らよいかという質問をしてみました。
すると,その方から次のような回答が返ってきました。
①正しい日本語が使える事。
②観察力と表現力が必要な事。
③集中力を高め,時間管理と健康管理ができる事。
そしてアナウンサーとして一番大切なのは,人とのコミュニケーションがと
れ,協調性があることだと付け加えられました。
ぼくは,この見学から,アナウンサーは知識を身につけるだけではなく,い
ろいろな能力を付けなければならないことを知りました。と同時に,ますます
アナウンサーへのあこがれを強くしました。
ぼくはこれから,アナウンサーをめざして知識を身につけることはもちろん
のこと,教えていただいたいろいろな能力が身につけられるよう努力し,人間
としても成長していきたいと思います。
12
家
族
旭市立飯岡小学校
6年
葛馬
七星
わたしは,幼い時に,悲しい思いをしたことがあります。保育園の時で,弟
も生まれていない時のことです。お母さんは仕事で,私はずっとおばあちゃん
の家で一人でお母さんの迎えを待っていました。お母さんが出ていく時は,私
は大泣きです。それでも,お母さんは行ってしまうのです。わたしは,どうし
て行ってしまうのだろう,他の子どもはお母さんと遊んでいるのに,と思って
いました。だから,この頃のわたしは,お母さんとお父さんが大きらいでした。
だけど,わたしが大きくなって,やっと年長さんぐらいになると,今度はわ
たしは一人ぼっちではなくなりました。そう,弟が産まれたのです。わたしは
久しぶりに笑顔があふれました。そしてついに弟が家に来ました。けれどそこ
は ,お ば あ ちゃんの家でした。わたしは,いやな予感がしました。そうです 。
わたしの幼い時のように,弟も同じ悲しい思いをしたのです。わたしは,大泣
きしている弟を見て,せいいっぱい,面倒をみてあげようと思いました。そん
なある日,わたしが小学校に入った時です。お母さんが,おばあちゃんになに
か言っているのです。そして,わたしのところへ近づいてきて,こう言ったの
です。
「七星,おばあちゃんの家で,ゆうとといっしょに泊まりなさい。」
それをきいて,わたしはショックでした。もちろんわたしは,お母さんが十二
時にならないと帰ってこないことも知っていました。だから,またさみしい思
いをすることがこわかったのです。そんな毎日が続いていきました。でもある
日,わたしが5年生の2学期のころ,うれしいニュースが入ってきました。そ
う,もう泊まりではなくなったのです。お母さんもたぶん,わたしが大きくな
ったから,ゆるしてくれたのでしょう。夕方五時ごろに毎日迎えに来てくれる
ようになり,今のわたしと昔のわたしとでは,比べものにならないくらい気持
ちが晴れやかになりました。
そしてわたしは,今回家族について考えてみて,強く思ったことがあります。
それは,家族は自分の家で,みんながそろっているのが一番よいということで
す。今ではお母さんもあまり悲しい顔をしなくなりました。昔のわたしは,か
んちがいをしていたのです。お母さんも,本当はわたし達をおいていきたくは
なかったのです。あんなにお父さん,お母さんが働いていたのは,お金をかせ
ぐため,家庭を守るためだったのだということが,今ではよくわかるようにな
りました。そして今は,お父さん,お母さんのことが大好きに思えるようにな
りました。
でもわたしは,お父さんやお母さんみたいなことをしないで,わたしなりの
お 母さ ん , つまり,子ども達といつでも一緒にいるお母さんになりたいです 。
わたしをそう思わせたのは家族だと思います。そして,家族はやがてはバラバ
ラになることもあるけど,それは,自分で自分の家庭を作っていくことでもあ
り,そうすることで未来につながっていくのだと思います。
13
「あいさつ」ってすばらしい
旭市立中和小学校
6年
佐野
彩奈
「 お は よう」「行ってきます」「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」な
ど,あいさつは毎日何気なく口にしていますが,その一言で気持ちが通じると
ても大切なものだと思います。
私は,大きな声であいさつする事が,どちらかというと苦手なほうです。少
し はず か しかったり,照れくさかったり,時には面倒くさかったりもします 。
特に大人の人にはなかなか大きな声であいさつができないので,少し頭を下げ
るだけになってしまう時が度々あります。
私達は毎日,近くのガソリンスタンドに集まって集団登校しています。そこ
に は, と てもやさしくておもしろいおじさんがいます。毎朝「おはよう」「お
はようございます」と一人一人にあいさつをしてくれます。私も「おはようご
ざいます」と返します。時々はずかしがって声を出さない子がいると,近くま
で行って何度も声をかけてくれます。大きな声であいさつ出来た時は,気持ち
がいいです。相手も私もとてもうれしい気持ちになり,元気が出ます。おじさ
んは私達が安全に登校できるように,思いやりを持っていつもやさしく見守っ
てくれているのだと思います。
学校生活でも色々な場面であいさつがあります。その中でも,私なりに毎日
必ずしていることがあります。それは,下校の時,学校の門を出る瞬間に小さ
な 声で 「 さようなら」とつぶやきます。学校に「今日もありがとう」「明日も
がんばるね」という感謝の気持ちを込めてあいさつしています。
あいさつは,言葉は違っても世界中で使 われています。「サンキュー」「ボン
ジ ュー ル 」「アロハ」「ニーハオ」などは誰でも耳にした事があると思います 。
日 本に 来 た外国人が日本語で「コンニチハ」「アリガトウ」と言っているのを
テレビでよく見ますが,会話をするのはなかなか難しいけど,あいさつ程度な
ら外国人とも話す事が出来るし,気持ちは相手に届くと思います。私の学校の
1 年生 に 外国人の子が転校してきました。その子はフィリピンから来た子で ,
日本語はほとんど話せません。どういう風に接したら良いのか分からず動作で
表 現し て みました。でも,なかなかうまくコミュニケーションがとれません 。
そこで私は,あいさつをすることから始め,友達になっていこうと考えていま
す。
これから私は,中学校,高等学校そして社会人になってからも,たくさんの
人との出会いがあります。初対面の人には第一印象がどうであるかがあいさつ
の 仕方 で 変わってくると思います。そして,「あいさつ」は一言で色々な意味
を持ち,気持ちも伝える事ができ るすご い力を持っているものだと思います 。
これからも自分から相手の目を見て,笑顔で元気に気持ちよいあいさつをす
るように心がけていきたいと思います。
「あいさつ」ってすばらしいものだから。
14
夢に向かって
旭市立萬歳小学校
6年
渡邉
緑
皆さんは,将来の夢が決まっていますか。私の夢は「通訳」の仕事につくこ
とです。「通訳」とは,言葉の違う人々の会話を助ける仕事です。
なりたいと思ったきっかけは,私自身の性格と大きく関係しています。私は,
お しゃ べ りがすごく好きです。そのおしゃべり好きが高じて,「違う国の人々
と も, し ゃべってみたい。そんな仕事をやってみたい。」と,思うようになっ
たのです。
私は,夢を実現させるために英語を習っています。周りはみんな中学生とい
う環境で英語を学習し始めて一年半になりますが,まだ,なかなか慣れること
ができません。中学生は英語の先生を交えてどんどん話したり,笑ったりして
いますが,私はまだ,そこまではできません。正直言って,時々やめてしまい
たくなる時があります。でも,夢の実現のために続けてがんばっていきたいと
思っています。どんなにつらい環境にあっても,自分の夢の実現のためならが
んばれます。
私は,夢の実現に向けて心がけていることがあります。
一つめは,英語を心から楽しんだり,好きになったりすることです。どんな
に英語が上手でも,心から楽しんだりしない限りその先に進むことができませ
ん。たったこれだけのことですが,するとしないとでは自分にとって大きな違
いがあるのです。
二つめは,どんなに小さな事でも一生懸命にこなすことです。小さな事もろ
くにできない人が,大きな役目を果たせるわけがありません。ですから,私は
どんなに小さな事でも一生けん命がんばって,それを次に生かすことのできる
人になりたいです。
この先,もしかしたら夢が変わるかもしれません。もしも変わってしまった
としても,その夢を叶えたいという気持ちを忘れないようにしていきたいです。
また,私は最近,夢を叶えるために大切だと考えたことが二つあります。
一つめは,その夢についてきちんと知ることです。その夢は本当に自分がや
りたいことなのか,本当に自分に向いている仕事なのか,きちんと考えること
が大切だと思います。
二つめは,これからも努力を続けることの大切さです。才能だけで物事をや
っ てい く に は,限界があります。書道で有名だった古橋飛山先生も,「才能有
限,努力無限」という言葉を,よく小学生に贈っていたそうです。私は,旭市
の音楽会に向けて,ピアノ伴奏の練習を一生けん命がんばりました。とても難
しいリズムで,初めは全くうまく弾けませんでした。でも,練習をがんばって
いるうちにだんだん指が動くようになってきて,何とか伴奏ができるようにな
りました。そのように,その時にできることに対して最善を尽くすことが何よ
りも大切なのだと思います。
以上,二つのことを念頭におき,自分を信じて頑張ってまいります。
15
環境を見直す心がけをしよう
旭市立古城小学校
6年
金杉
拓哉
ぼ く は こ のご ろ ,テ レビ や 新聞 の報 道 で取 り上 げ られ る 問題 の一 つ とし て
「地球温暖化」について何か自分達でできることはないかと考えるようになり
ました。それは,地球の温暖化が進んできていることを肌で感じるようになり,
環境においても深刻な問題になってきているなと考え,ぼく達子どもにも何か
少しでも温暖化をくいとめる方法はないかと思うようになったからです。
まず,ぼくはインターネットや本で「地球温暖化とはどういう状況でなるの
か」と自分なりに調べることにしました。地球温暖化の主な原因は,工場や車
などから出る排気ガスや森林ばっさいによる二酸化炭素の増加です。この排気
ガ スな ど が地球に温室効果ガスをつくってしまいます。この温室効果ガスは ,
地球のある程度の熱が地球の外に出ないようにする働きがあります。この温室
効果ガスがあるおかげで,ぼく達生物は生き続けることができるのです。だか
ら,適量であれば問題はありません。
しかし,温室効果ガスが多くなりすぎてしまうと,気温が高くなりすぎてし
まいます。これが地球の温暖化です。この温暖化で地球の表面温度が上がると,
海面の水位があがり,水没してしまう島がでてきてしまいます。今,北極の氷
が確実にとけ出しています。今までは船の航路に北極回りはありませんでした
が,最近は氷がとけていることで容易に通ることができます。便利に感じる反
面,とけ出した氷で海面は上昇し,水没する島は増えつつあります。日本だっ
て島国です。周りが海である以上危険と向き合う毎日となる日も近いはずです。
他にも干ばつなどの異常気象の増加が見られます。これらは少なくとも,温
暖化で気象条件を変えられているからです。今,台風や大雨の被害にあること
が多くなっています。今まで考えられなかったことが起きています。
そこでぼくは,この地球温暖化を少しでも防止するには何をすればいいかを
考えることにしました。ぼく達のできること,それは,一人一人がまず深刻な
問題だととらえることです。冷暖房温度の設定,電気をできるだけこまめに消
す,車はできるだけ必要のある場合をのぞいて使用しないなど,みんなで真剣
に 取り 組 むことです。「自分だけはいいだろう」と考えている人が一人でも減
らない限り,この問題は解決しません。
便利な世の中をつくった大人達が,やがて自分達を苦しめる世の中をつくっ
てしまったことをぼく達一人一人が心から考え直し,みんなで気持ちを一つに
して問題解決にあたっていかなければなりません。
地 球 温 暖 化は 一 人一 人の ち ょっ とし た 心が けが あ れば 防 止に とて も 役立 ち
ます。ぼくもこれからももっと省エネでできることを積極的に行い,地球温暖
化防止に役立っていきたいと思います。
16
ぼくを強くしてくれたもの
旭市立第一中学校
3年
石橋
徹
僕は生 まれつ きの 病気で 足に障害を持っています。そのせいで馬鹿にされた
り,喧嘩をうられたりすることもかなりありました。喧嘩を売られたときには,
思わず 手を出 しそう にな ったこ ともありましたが,やってはいけないと思い何
もしな いで黙 ってい まし た。こ の時には,足の障害を本当に憎く思いました。
普通の 人とは ほんの 少し 違うだ けで,差別を受けたり馬鹿にされたりすること
はとてもつらいことです。
しか し, つら い体 験ば かりで はありません。障害を持って生活していく中で,
人の優しさを感じられるできごともたくさんありました。
三年生の修学旅行でのことです。五色沼を散策することになった僕は,先生方
と一緒に一番後ろを歩くことになりました。友達と一緒に行けないと思ったの
でとても残念でした。でも,クラスの友達の一人が,一番後ろまで戻ってくれ
て ,足 場 の確認をしてくれたり,危ない所では手を引いたりしてくれました 。
他にもあぶくま洞の中では,急な階段を昇り降りするたびに,僕の後ろになっ
たり前になったりして僕を守ってくれました。おかげで僕は,三日間すべて皆
と おな じ ように行動することができました。その他にもいろいろなところで ,
たくさんの友達に助けられました。本当に嬉しかったです。
中学三年生もあとわずかになった今,今日までの自分を振り返ってみると,小
学校の時には想像もつかなかった強い自分がいます。そうなれたのはもちろん
僕の力だけではありません。僕に力を与えてくれた友達や先生,家族のおかげ
です。
中学校に入学してから,部活動は何に入ろうかとても迷いました。足に障害を
持っているからです。でも,足を強くするために運動部に入ろうと考えていた
ので,いろいろな部を見学し,剣道部に入部することにしました。剣道は,足
を踏み込んで相手に向かって打ち込んでいくスポーツなので,かなり足の力が
つくと思ったからです。
入部すると,まずは基本の練習からです。すり足,素振りなどを教えてもらい,
必死に練習しました。不安はありましたが,先生や先輩の指導のおかげで何と
かみんなについていくことができました。
しかし,防具をつけての練習が始まると,今までのようなわけにはいきません。
小さな僕の体には,胴着さえも重く感じました。その上,面と小手をつけると
なおさら思うように体が動きません。竹刀を振って向かっていってもすぐ飛ば
されてしまいます。先生や先輩に何度突き飛ばされたかわかりません。皆のス
ピードについていけず,足手まといになっている気がしてとても悲しかったで
す 。 何 度 や めよ う と思 った か わか りま せ ん。 でも 先 生は 「 もう 少し 続 けて み
ろ!」と言ってくれました。同じクラスの剣道部の友達は「がんばれ!」と励
ましてくれました。自分もここであきらめたら何の意味もないと思い,続けて
みることにしました。もちろんその後の練習もきついものでしたが,とにかく
あきらめないで頑張りました。
17
そして,一年生で初めての大会に出場することになりました。僕は個人戦に出
場しましたが,試合らしい試合ができないままあっという間に終わってしまい
ました。結果は当然負けです。とても悔しかったです。でもまだ先があると自
分を慰めました。
二年生になると,後輩が入部してきて僕達は教える立場になりました。後輩達
に教えるのはとても難しく,この時初めて,先輩たちの苦労を知りました。僕
の教え方が下手なせいで,先生に怒られることもたくさんありました。それで
も 後輩 は ついてきてくれました。この時,「剣道を続けてきてよかったなぁ」
と思いました。練習も後輩が入ってきたことで,今まで以上に厳しくなりまし
たが,練習試合で勝つこともできませんでした。ただ以前と違うのは,一本と
れるような打ち方ができるようになったことです。一年生の時と比べると,試
合でも練習でも突き飛ばされることが少なくなってきて,やっと剣道らしい動
きができるようになりました。また段審査も二回目に合格し,何とか初段を取
ることができました。
そして,先輩が引退,僕達も三年生になりました。部活動ができるのも残り三
ヶ月になりました。今までの大会で成績を残すことができなかったので,最後
に 少 し で も 成績 を 残し たい と 思い ,一 生 懸命 練習 を しま し た。 とて も つら い
日々でしたが頑張りました。その甲斐あって団体戦では一回戦を勝ち抜くこと
ができました。僕は負けてしまいましたが,あと少しで一本になる打ちができ
ていたと言われ,今日まで頑張ってきてよかったと思いました。結局試合では
一勝もできませんでしたが,悔いはありません。部活を通して,たくさんのこ
とを得ることができたからです。もし,一年生の時にあきらめてやめていたら,
熱心な先生方や,苦しい練習を共に頑張った仲間に会うことができなかったと
思うし,何よりも,努力することの大切さや,運動をする楽しさを知ることも
できなかったと思います。小学校の時は苦手だったスポーツも,今では好きに
なりました。走ることも球技も楽しく取り組めるようになりました。
今僕の周りには,三年間生活を共にしてきた仲間がいます。差別されたり,仲
間はずれにされたりしたことはありません。遊びにも誘ってくれます。体育の
時も上手になれるようにアドバイスもしてくれます。同じつらさを味わった部
活動の仲間もいます。僕を一生懸命応援してくれている先生方もいます。たく
さんの人のおかげで,僕は強くなれました。今は,障害を持って生まれたこと
を恨んだりしていません。最高の仲間や先生に出会うことができたのですから。
僕をここまで強くしてくれたたくさんの人に感謝し,これからの人生を歩みた
いと思います。
18
日本の平和と人権
旭市立第二中学校
3年
菅谷
穂乃加
今の日本は平和なのでしょうか。私は昔に比べればとても平和だと思います。
歴史の授業で太平洋戦争について学びました。戦争のビデオの中に病気やけが,
やけどで苦しんでいる日本人がたくさんいました。私は,何の罪もない人々が
なぜ苦しまなければならないのかと疑問に思いました。
昭 和 2 0 年8 月 6日 と9 日 は日 本に ア メリ カの 原 子爆 弾 が投 下さ れ た日 で
す。その日は日本が変わってしまった日でもあります。原子爆弾投下で何十万
人もの人が亡くなりました。中にはまだ長く生きられる子どもも多くいたはず
です。たくさんの人が死ぬとわかっていながら,アメリカはなぜ原子爆弾を投
下したのでしょうか。投下したアメリカ人兵士はどんな気持ちだったのでしょ
うか。私だったら絶対にそんなことはできません。どんなに偉い人の命令でも
人は殺せないと思います。でもそれは,今だから言えることなのかもしれませ
ん。そして,もしもその時代に私が生きていたとしても,戦争を止めることは
できなかったと思います。日本の 人々を 助けることもできなかったでしょう 。
私は今,中学校に通い,毎日たくさんのことを勉強することができます。で
も戦争の時代の子どもたちは,勉強ではなく毎日働かされていたそうです。勉
強できずに働かされるなんて,とてもつらかったと思います。
8月 1 5日,多くの国民が,戦争が終わったことを知りました。「正しい戦
争」だと信じてがんばってきた人々は裏切られた気分になったと思います。ア
ジア各国の犠牲者は二千万人以上になるといわれています。日本がもっと早く
降伏していれば,少なくても原子爆弾が投下される前に降伏していれば死者を
少なくすることができたはずです。
多くの犠牲を出した戦争の反省のもとに作られたのが日本国憲法です。その
第9条には「・・・戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は・・・永久にこ
れ を放 棄 する。」と書かれています。私はこの考えに賛成です。62年前の悲
惨 な出 来 事を二度と繰り返さないためにこの第9条ができたのだと思います 。
また,第11条では「侵すことのできない永久の権利」として基本的人権を保
障 し, 第 14条では,「すべての国民は,法の下に平等であって・・・差別さ
れない」と規定されています。これらがあの戦争の時代にも保障されていたら,
多くの人々が苦しんだり悲しんだりしなくてすんだと思います。また,世界中
の国がこの憲法を持っていれば,戦争なんか決して起こらないはずです。
しかし,悲しいことに今でも戦争を続けている国があります。まだ核兵器を
作っている国もあります。それらの国々が一日でも早く「基本的人権の尊重」
の考えを取り入れ,民主主義のしくみを整えてほしいと思います。そうすれば
世界中が平和になります。戦争がこの世から無くなります。みんなが望んでい
る平和が実現されるはずです。
私は,この世界が平和で,二度と戦争が起こらないことを望んでいます。一
人一人が自分を大切にし,世界中の人々を大切にして,争いのない世界になる
ことを願っています。
19
青
空
旭市立海上中学校
3年
向後
愛沙
涙 の分 だ け悔しさを味わいまし た。弱音の数だけ諦めかけました。だけど 、
笑った回数だけ仲間の支えに感謝しています。
あの頃から今も、ずっと・・・。
これからみんなに伝えることは、ずっとずっと誰かに話したかった、聞いて
もらいたかった、そんな気がします。私の夏の話です。
4月、忘れることのないあの日。今でもたまに夢に出てきます。走ることが、
跳ぶことが、ただ純粋に好きだった私の足はあまりにも簡単に壊れていきまし
た。それを医者は「左足外果骨折」と一言。そして私は次の言葉に耳を疑いま
す。
「まず、治すのに一ヵ月。それから、リハビリを始めましょう。」
下を向いていた私は思わず顔を上げました。
「あの・・・、私はいつから走れるようになりますか。」
きっと私の声は震えていたと思います。静かで重たい空気の中、医者は言いま
した。
「6月半ば過ぎだと思っていてください。」
私の夏はない、そう思うと勝手に涙が出てきました。走れるようになってか
ら総体までは約一ヵ月。今みたいに跳べるようになるのは・・・?
どう考えても一ヵ月では足りません。
な くな っ た、全部なくなった。 自己新も、優勝も、県大会も、全部・・・ 、
なくなったんだ・・・。
歩くことさえできない足での生活は、思ったより大変でした。だけど、部活
に は必 ず 出 ました。本当を言えば出ていないと不安だった、これが本音です 。
自分の居場所もなくなる気がして怖かったのです。
あの頃の私は弱虫でした。けれど、私は一人じゃなかったんです。だから弱
自分にさよならできたのです。そして、優しく見守るような太陽の下を走る部
員たちの姿は、私に諦めないことを教えてくれました。その姿は真夏の太陽み
たいにキラキラと輝いていて。夢や目標を失いかけていた私に、勇気を与えて
くれました。
足が治ると前以上に高く、そして遠くに跳びたくて練習を重ねました。辛い
と思った時は一度もありません。走ることが、跳ぶことが私の幸せでした。
そして向かえた夏の舞台、総体。私にとって今までのどの大会よりも輝いて
見えました。不安がなかった訳ではありません。だけど自分を信じていました 。
全体でのアップを終えて時計を確認すると、八時十分を過ぎた所でした。走
り幅跳びの競技開始時間は九時。「そろそろかな」、私は立ち上がりました。
そこに弱い自分はもういません。負ける気がしませんでした。
競技場所に着くといつものメンバーがいました。みんな私のライバルであり、
友 達で す 。 どこか懐かしい感じがした後、みんなが私に言いました。「おかえ
り。」
20
多くの人が私の復帰を待っていてくれました。私は「ただいま」と答えます。
根拠はありません。だけど跳べる、そう確信しました。
・・・けれど私は負けました。きっと一番かっこ悪い負け方をしたと思いま
す。言い訳をするなら、「踏み切り板に足が合わなかった」。
六センチ足らなくて決勝に残れず、私の夏は終わりました。
泣かない、決めたはずでした。なのに、涙がとまりません。こぼれ落ちない
ようにと上を向くけれど、そこには今にも雨が降り出しそうな空で。何となく、
今の私に似ているような気がしてやっぱり私は泣いてしまう。
だけど、みんなの前では、笑顔の私でいたかった。泣き顔は、見せたくなか
った・・・。
私は、誰もいない場所で声を殺して泣きました。
泣き続け、涙が枯れる頃には、自然と後悔はありませんでした。
「最後まで諦めなかったこと」このことは、自己新よりも、優勝よりも、県大
会よりも、何倍もの価値がありました。
私は、前を向いて歩き出します。その目に、涙はもうありませんでした。
そして、向かえた最後の部活。これが、本当の終わり。私が向かったのはや
っぱり、愛し続けた走り幅跳びの場所でした。私は今日というこの日に、最後
の跳躍をしようと決めていたのです。ユニフォームでも、試合用のスパイクで
もありません。審判もいなければ、もち ろん大会の様な声援も聞こえません 。
だけど目を閉じれば、私は、夏のあの日にいました。
試合の時と同じように準備を始めて、それから私は助走路に立ちました。
28・4mのスタートラインに立った時、私の頭の中には、たくさんの事が
浮かんできました。怪我で涙した日々、何度も諦めかけました。でも、その度
に仲間が支えてくれました。いつだって、私は一人じゃなかったんです。だか
ら今、私はここに立っていられるんだと。
全てを思い返した後、私はイメ ージをし ました。踏み切った瞬間の自分を 。
私は跳びました。熱く照りつける太陽の下。より高く、より遠くを目指して。
跳び終えた後、私は助走路に向かって一礼し、「ありがとう」と呟きました。
「終わったんだ」そう思うと一瞬、目の前が涙で霞んだ気がして、私は、慌て
て顔をあげました。
時が止るのを感じました。そして、私は、歩き始めます。
新たな道へ、夢への道へと。
驚く程、青い青い空の日でした。
そして最後に・・・私にはあの頃、伝えたかったことがあります。
だけど不器用な私はそれを、うまく伝えることができませんでした。
あの時の気持ちを、今ここで伝えます。
「ありがとう・・・」
21
人と人との出会い
旭市立飯岡中学校
2年
遠藤
華子
「 本 当 にすてきな時間を過ごせて良かった。」・・・・ 私は,今でもその時を
振り返るとその思いでいっぱいになります。
それは,去年の出来事です。学校でボランティアの募集がありました。そこ
で 私は 友 達と一緒に行くことを約束し,参加を希望しました。しかし,当日 ,
友達は他の友人とずっと一緒で,バスの中でも活動班を作るときも私達は別々
になってしまいました。そんないきさつがあって,せっかくのボランティアな
のに,最初は全く意欲がなく,気持ちも沈んだままのスタートになってしまい
ました。私が,ボランティアをさせていただいたのは,恵天堂のデイサービス
にいらしているお年寄りです。中には,大勢のお年寄りがいて,楽しそうにテ
レ ビを 見 ていました。私のボランティア初仕事は,お年寄りが使う椅子,机 ,
ベットをきれいにすることでした。みなさんがカゼをひいたりしないようにと
すみずみまで丁寧に拭いている時,ふと,壁にかかったカレンダーが目にとま
りました。そこには毎日たくさんの楽しそうな行事が記入されていました。私
達 がう か がった日はバレーの日でした。「バレーをするのかぁー」と掃除の手
を止めて,まだテレビを見ているお年寄りを後ろから見ていると,自分が自然
に笑顔になっていることに気がつきました。そして自分の祖父母のことを思い
出し,もし,一緒に暮らしていたらどんな毎日になるのかなぁなどと考えなが
ら掃除を続けていると,大きな風船とネットが用意され,バレーコートが整い
ました。思いがけず,私達もバレーに参加することになりました。そして,い
よいよ対戦が始まりました。するとまわりの皆さんの表情が一瞬のうちにぱっ
と明るくなり,若返ったように感じました。そして,バレーは白熱の試合にな
りました。試合の途中,ボランティアの一人がおじいさんがボールを取る寸前
に 取っ て しまいました。その時のおじいさんの顔を忘れることはできません 。
くやしくてたまらないといった感じの表情。そんな生き生きした表情を見てい
ると,私達はボランティアをしてあげているのではなく,させていただいてい
るのだという思いが私の中で大きくなってきました。人を相手にする仕事は難
しいと何度も聞いたことがあります。きっと友達も,白熱した試合の中で,自
分 が「 ボ ールを取ってあげなくては」という気持ちになったんだと思います 。
でももしかしたら,自分がその人のためにと思ってしたことも,その人にとっ
て感じ方が違うのかもしれないんだと気付き,そんな出来事から今まで自分も
そんなことがあったかもしれないと振り返ることもできました。
おやつの時間には,お年寄りの皆さんといろいろなお話をしました。耳の遠
い人と話すときは,口ごもる私の下手なしゃべり方では聞き取りにくいのでは
ないかと思い,ジェスチャーをまじえて話しました。自分なりにできることを
考えて悪戦苦闘をしている時,一人のおば あさんに,「おねぇちゃん,トイレ 」
と声をかけられました。突然のことだったので,私にできるかどうか不安にな
り,焦ればあせるほど私の行動は空回りしました。ボランティアに来ているの
にそんな言葉にとまどい,何もすることができない自分が恥ずかしくなりまし
22
た。同時に仕事の難しさも痛感させられた一言になりました。
皆さんが帰り支度を始めた時,私も一日を振り返ってみました。ふだんの学
校生活では知ることのできない大切なことを,人生の大先輩からたくさん教わ
った気がします。最初はいろいろあってボランティアに対して中途半端な気持
ちだったけど終了した時,私の心の中では,今日,出会えたおじいさん,おば
あ さ ん と 本 当に す てき な時 間 を共 有さ せ てい ただ い たと い う感 謝の 気 持ち で
いっぱいでした。ボランティアに誘ってくれた友達とペアになるとかならない
とかそんなことは小さな事なんだと私に気付かせてくれたのは,デイサービス
に来ていたおじさんやおばあさん達です。夢中で風船のボールを追っていたお
じいさん,私の下手なジェスチャーまじりの話を一生懸命に聞いてくれたおば
あさん達に負けないように,私もその時,その時をいきいきと過ごしていこう
と思います。そして,これからもいろいろな活動に参加して,多くの人との出
会いと感動を大切にしていきたいと思います。
23
今、思うこと
旭市立干潟中学校
2年
鵜澤
和也
ぼくは、この世の中が強いものと弱いものに区別されているのが不思議でた
まりません。動物の世界では弱肉強食のように強い者と弱い者の差がはっきり
しています。しかし、それは生きるためには仕方がないことです。けれど、人
間 の世 界 で は違います。生きるためというよりは,むしろ、強い者が弱い者を
支配したいからです。いじめは、自分より弱い者を作ることで、仲間を増やし
自分の立場を確実なものにします。弱い立場の者たちの気持ちは無視して…。
実はぼくも、いじめを受けたことがあります。小学校六年生の時の事です。
はじめは単なる悪ふざけだと思っていました。時がたつにつれて、その悪ふざ
けはエスカレートしていきました。話しかけても口もきいてくれません。ぼく
はひとりでいることが多くなりました。何ヶ月もそんな状態がつづき、ぼくは
初めていじめられた人の心の傷の痛さを知りました。人前では涙を見せなかっ
たけれど、ぼくの心はいつも、泣いていました。さびしくて、怖くて、悲しく
て心が痛くなることを初めて感じました。
夏休みが終わって、二学期が始まった時の事です。ぼくは学校が早く終わっ
た日に友達と遊ぶ約束をしました。家に帰ってもう一度電話してから出かけよ
うとしたら、「今日は遊べなくなった」という返事が返ってきました。ぼくは、
仕方がなく家族で買い物に出かけました。すると、遊ぶのを断った友達が他の
友達とあそんでいる姿をみかけました。その時、ぼく、仲間はずれにされたこ
とを知りました。それ以来,約束をするたびに断られ、そのうち遊ぶことさえ
できなくなりました。そのストレスで母や弟をたたいたり、蹴ったりするなど
八つ当たりをしてしまいました。
今、思うとぼくも母や弟を弱い者として区別していたのかもしれません。知
らず知らずのうちに、ぼくの言動が友達を傷つけていたのかもしれません。
ぼくは、悩んだすえ、両親にいじめを受けていたことを告白しました。両親
はすぐに学校に相談してくれました。担任の先生の協力もあり、一時はいじめ
も収まりました。ところが、中学に入学すると、収まっていたいじめがまた、
始まりました。けれど、ぼくはもう一人ではありませんでした。いじめを見て
いた友達が助けてくれたのです。今でもあの時、ぼくを助けてくれた勇気のあ
る友達に、ありがとうの気持ちは忘れません。苦しい時も悲しいときもそばに
いてくれる家族や先生、友達がいたから今のぼくがあるのだと思います。辛い
経験があったからこそ、友達の大切さ、家族や先生のありがたさを実感できま
した。
やはり、いじめは良くないことです。無視は無言の暴力、悪口は言葉の暴力
だと思います。いじめは人の一生をかえてしまうことがあります。いじめた者
はいずれいじめたことなど忘れてしまうでしょう。しかし、いじめられた者の
心の傷は一生癒えません。
ぼくは、自分のいじめの経験をこの機会に発表しようと思った理由は、大好
きなサッカーができ、今こんなに元気で頑張っていること、毎日友達と楽しく
24
生活していること、とても充実した生活を送っていることを伝えたかったから
です。
本当の強さとは、力ではなく、弱い立場の者にも思いやりをもち、どんな障
害にも立ち向かう勇気を持つことだと思います。
25
みんな
気付いていますか?
千葉県立旭農業高等学校
2年
伊藤
静香
「そんなの、意味ないじゃん。」と思わず私は、叫んでしまいました。
最近、バイオエタノールが3%混合された E3ガソリンが販売されたニュー
スを観ました。CO 2 の排出量の削減が期待されているバイオエタノールですが、
今回混合されたものは全て輸入したもので、その輸送時に排出される CO 2 量が、
E3 ガソリンによって削減される CO 2 量を上回っているというのです。
幼い頃から動物好きだった私は、幅広く動物について学ぶことができる旭農
業高校の畜産科に入学しました。その授業の中で北極の雪の上で白熊の親子が
海 を見 つ めている写真を見る機会がありました。「うわぁ かわいい」と思っ
て見た写真ですが、その写真の意味することは、とてもショッキングなもので
した。白熊の主食であるアザラシを捕まえるために必要な海上の氷が「温暖化」
により解けて薄くなり、白熊がアザラシを捕ることができず餓死しているとい
うのです。写真の白熊の親子は、途方に暮れて海を見つめていたのです。私は、
愕然としました。「北極や南極の氷が解けるのって、もっと先の話じゃないの 。
も う解 け てるの。」このことがきっかけで私は「地球温暖化」の現実に気付い
たのです。
南太平洋の島国「ツバル」では、海面の上昇により、近い将来国全体が海に
沈んでしまうため、もうすでに国外への移住が始まっています。私の住む旭市
も 海に 面 した街です。今あらためて海を眺め、「あの小熊はまだ生きているの
だろうか、いま一つの国が海に沈もうとしている。この砂浜も沈んじゃうのか
な 。」 と 思 うと、とても悲しく、とても怖くなりました。しかし、同時に「未
来の話ではないんだ。もう始まっているんだ。なんとかしなきゃ!」と強く思
うようになったのです。それからは、意識してゴミを減らす努力をし、夏はエ
アコンの代わりに団扇を使い、冬は厚着をし暖房の設定温度を低くすることを
心がけました。今では、両親も近場への移動には車ではなく自転車を使い、ECO
活動に協力してくれています。
そんなときに E3 ガソリンのニュースを聞いたのです。そこで私は、本当に
バイオエタノールは CO 2 の削減に有効なのかを調べてみることにしました。バ
イオエタノールを効率よく活用するためには、原料の栽培から混合ガソリンの
販売までをなるべく狭い範囲で行い、輸送コストを極力抑えることが必要です。
つまり地産地消が理想です。現在日本では、国からの助成金を交付された自治
体 や 団 体 が 各地 で 様々 な作 物 を使 って バ イオ エタ ノ ール の 試験 的な 生 産を 行
っています。その中で私は、JA新潟が行っている、米を原料とした取り組み
に注目しました。米はトウモロコシに比べ1トンあたりのバイオエタノールの
生産量はやや劣りますが、日本においてはトウモロコシよりも米の栽培の方が、
地産地消を考えたときに現実的です。そこで、千葉県での米を使ったバイオエ
タノールの生産量を自分なりに計算してみました。米を栽培する水田は、休耕
田や放棄水田を活用します。米は新潟で試されている多収穫品種で、10アー
ルあたり14俵の米が収穫ができる、インディカ米を用います。千葉県の休耕
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田や放棄水田は、2005 年度で約 3600 ヘクタールあります。この面積で多収穫
米を栽培すると約 3 万トンの収穫となります。この米から約 1 万キロリットル
の バイ オ エタノールが生産できます。しかし、県内のガソリン販売量は 2005
年度で約 320万キロリットルでした。このガソリンすべてにバイオエタノール
を3%混合するには、9 万 7 千キロリットルのバイオエタノールが必要となり、
10 分の 1 程度しかまかなうことができないという結果となりました。
私は、この結果について農林振興センターの先生に、農業の立場からのご意
見 をも ら いに伺いました。水稲担当の指導員の先生からは、「休耕田に再び水
が入ることは、里山などの復活にもつながり、地域環境の改善にも貢献できる
方 法で す ね。」と言ってくださいましたが、実際には立地条件等で放棄水田の
すべてが再利用できると限らないこと、労働力の問題、米の買い上げ価格の問
題などがあり、行政が補助金を設定したり、土地改良・基盤整備などを行った
上で、第3セクターなどの企業体が栽培管理をしないと、3万トンの米を収穫
することはできないであろうと指摘してくださいました。
私は今回の試算で、日本で消費されるガソリン全てに、国産のバイオエタノ
ールを混合することは、かなり難しいということが解りました。バイオエタノ
ールはあくまでも CO 2 の削減の一手段であり、日本は何よりもガソリンの消費
量を少なくすることの方が CO 2 の削減には効果的であることを実感しました。
新技術に期待し頼るのではなく、一人ひとりが真剣に「地球温暖化」や「CO 2
の削減」について考え、小さなことでも、今すぐに実行することが大切なので
す。私は今後も、今できる努力を怠らないことと、農業や畜産の勉強を通じて、
将来もっと地球環境の改善に貢献できる人間になることを決意しました。
みなさん、本当に気付いていますか? このままだと白熊たちのように海を
眺め途方に暮れる日が来てしまうことに。
27
夢にむかって
千葉県立東総工業高等学校
3年
木内
雅也
皆さんの夢は何ですか。私の夢は甲子園に行くことでした。私は野球が好き
で 、高 校 でも野球を続けたいと思い、東総工業高校の野球部に入部しました 。
正直言って、今まで強豪と言えるような成績を残せておらず、甲子園出場とい
う夢をかなえるためには程遠いものでした。しかし、迫屋先生が市立銚子高校
から赴任してきてから、野球部の雰囲気が変わっていきました。当たり前のこ
となのですが、練習は毎日 50 メートルダッシュを 20 本以上、そこからまた走
ったりのトレーニングが続き、ボールに触れるのはほんの少しの時間で、体力
には自信があった私も、体中の筋肉痛が取れず、毎日かなり辛かったです。
2年になり、1年の頃とは比べものにならないほどボールに触り、ノックや
バッティングもでき、もちろん練習はきついけれど楽しくてたまりませんでし
た。新チームのレギュラーは7人が2年生でしたが、秋季大会、東部大会と納
得のいく結果が残せずに、オフシーズンを迎えました。ウエイトトレーニング
やダッシュなどの体作り中心のメニューに変わっていき、この時期が一番伸び
るので、大切な時間でした。春になると自分でも驚くくらい体力が付いたのを
実感しました。しかし、なかなか結果がついてきません。その年の夏季大会も
去年と同じベスト 32 で敗れ、先輩達のことを考えると悔しくて仕方がありま
せんでした。このとき、自分達で記録を塗り替えてやろうと強く思ったのです 。
先輩達が引退した後、自分達の新チームがスタートしました。私はキャプテ
ンを任され、自分でも責任を感じ、練習でも進んで声を出し、練習に励み、確
実に力を付けてきて、秋季大会を迎えました。しかし、初戦唐川率いる成田高
校に0対9、7回コールドで負けてしまったのです。この負けは、自分達にと
っても先生にとってもかなりのショックでした。次の日から猛練習が始まりま
し た。 そ れ は地獄のようなメニューでした。ノックの時間も倍以上に増えて 、
バットスイングも一日千回以上振り、補強トレーニングも6種類以上のメニュ
ーをこなし、練習試合でも負けたら 50 メートルダッシュ 20 本などを行い、精
神的な面での強さも身に付けました。そして結果が出始めたのです。
春季大会は予選で横芝敬愛を延長 12 回でサヨナラ勝ちして、県大会では志
学館や市立船橋を破り、初のベスト4まで勝ち上がりました。準決勝で千葉経
済に6対7で敗れてしまいましたが、初のAシードを獲得することが出来まし
た 。今 ま で 夢のようだった甲子園への道は、近づいてきたように思えました 。
そして、創立初のAシードで挑んだ夏季大会。キャプテンとして悔いの残らな
いように試合に臨みました。順調に勝ち進み、準々決勝の安房戦、みんな力ん
でしまったのか、普段の力が出せませんでした。しかし、9回の裏に意地を見
せ、1点を返し、1対4にしてなおワンアウトで満塁。バッターは6番2年生。
私は1塁ランナーで必ず打ってくれると信じていました。しかし、フルカウン
トからの6球目、打球はセカンドゴロ、私は必死に走り2塁へスライディング、
バ ッタ ー も 1塁へヘッドスライディングをしましたが、ゲッツーで試合終了 。
ベンチ前で相手の校歌を聞き、ロッカールームに下がると、みんな泣いていま
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した。最後に打った2年生はうつむいて大泣きでした。その姿を見て私は思い
ました。私の高校野球は終わりました。しかし、甲子園への夢は後輩達が引き
継いでいってくれるのだと。
そして、私は夢にむかって走ってきたこの3年間を誇りに思います。皆さん
も、夢を持って、あきらめないで夢に向かっていってください。たとえ夢が叶
わなかったとしても、自分はやれることをやりきったという思いは、消えるこ
とはないからです。私はこれから、次の夢にむかって走っていきます。
29
夢に近づく世界への一歩
千葉県立成田国際高等学校
1年
伊藤
未玖
「Nice to meet you」この一言から始まったホームステイは、今回のカナダ研
修の中で1番の思い出となった。
もちろん生活は全て英語、という環境に初めは本当に不安だった。しかし、ホ
ストファミリーはとても優しく、そんな不安もすぐになくなった。
ホストファミリーと共に生活を送る中で、様々な文化の違いを感じることがで
き た。 心 配していた英語も、ジェスチャーを行いながらも話すことができた 。
普段の会話を英語にすることで、自分の言いたいことがうまく伝わらないもど
かしさや、伝わったときのうれしさが身をもって経験でき、もっと英語を勉強
したいと思った。
ホームステイ体験は、16歳の私にとって世界に目をむけるすばらしい体験と
なった。
そのほかにも、大学の見学や、バンクーバー新報での研修、ジェトロの研修
など、たくさんのすばらしいことを体験でき、世界の出来事に興味を持つよう
になった。
カナダは土地がとても広く、人々がとても優しいと感じた。買い物に行って
も、わからないことがあるとすぐに教えてくれる。そんな人々の優しさがとて
もうれしく、慣れない英語を使いながらも、カナダでの生活を楽しむことがで
きた。
私の将来の夢は、キャビンアテンダントになること。夢の実現に一歩近づく
ためにも、もっと世界を見てみたいという思いで応募した今回のカナダ研修は、
私を変えてくれた。
研修を通し、もっとたくさんのことにチャレンジしたいと思えるようになると
共に、将来の夢を絶対に実現したいという思いもより強くなった。
世界を舞台に活躍したいという気 持ちを 、これからも忘れないようにしたい 。
国際交流が深まる現在、人々の考えの違いも様々だと思う。しかし、ほんの
少し世界を知ることで、また違った考えも生まれてくる。国境を越えてお互い
を理解するには、相手の国のことを知るということが大切だと思う。
今回のカナダ研修では、生活、政治、経済など様々な面からカナダを知ること
ができた。16歳でこの経験ができた私はとても幸せだと思う。
そして、今回の経験を活かし、こ れから の旭市の発展にも貢献していきたい 。
今回私をサポートしてくれた方々に感謝すると共に、カナダで感じた文化や
生活の違い、身をもって学んだ英会話など数えきれない程のすばらしい経験を
これからの生活に十分活かせるように努力したいと思う。
そして、ホストファミリーに心をこめたお礼を言いたい。
I want to go to Canada again.
You are very kind. You made me so happy.
Take care And I miss you.
30
限りがある私達の資源:海の生きもの
ALT(外国語指導助手)24 才
メ ー ガ ン
Megan
ア
ン
Ann
ド
ア
テ
ィ
Doherty
日本人の食生活で海産物は欠くことのできない食品です。日本人一人当たり
の年間消費量は 70 キロで世界一です。日本全体では,毎年 1000 万トンを消費
しています。それだけ消費しているわけですから,消費者は海の状態について
関心を示すべきだと思います。
海の生きものは,限りがある私達の資源です。効率の良い漁法や利益を上げ
るための漁船の増加等により,世界の漁獲量は,1950 年の 4 倍になっており,
1989 年の世界の漁獲量は,過去最高の 8200 万トンというピークを迎えました。
その中で大量に獲られているのは,黒マグロです。日本は世界の黒マグロの漁
獲量の 80 パーセントを消費しています。黒マグロは,主に刺身や寿司として
食べられています。大量に捕獲されたため,今や絶滅寸前になっています。今
では繁殖数が 90 パーセントも減りました。魚が繁殖するよりも速く捕獲して
しまっているからです。また,漁獲が規制されていないことで乱獲が進み,黒
マグロの数を更に減らす原因にもなっています。一方,漁業で生計を立ててい
る漁業関係者は,漁獲量の減少により倒産に追い込まれている会社も少なくあ
りません。政府は,現在十分な対策をしていません。自然の保護と漁業関係者
の保護について真剣に対策を講じていかなければならないと思います。
さて,私たちは,黒マグロだけではなく海の資源である魚を獲りすぎている
ことに責任を感じなければならないと思います。そこで,現在の漁法を考えて
みると,大きな船で大きな網によって大量の魚を捕獲しています。網の中には
目的以外の魚を多く捕獲しており,漁獲量の 25 パーセントを無駄にしてしま
っていると聞いています。魚を捨ててしまう理由は,その魚に価値がないとか,
船に余裕がない,漁獲の許可証がない,魚が小さすぎるなど色々な理由があり
ます。25 パーセントの魚が生存することで,食物連鎖によって鮭やイルカが餌
として食べる小魚を増加させ,それらを食べる黒マグロのような絶滅寸前の魚
をも守っていけるのではないでしょうか。
捕獲する方法は色々あります。自然を維持できるような捕獲方法や魚が生息
しやすい自然環境を作っていかなければなりません。無駄の少ない漁法や自然
保護に貢献している漁師や科学者を支え,自然と共存できる環境を作っていか
なければなりません。
私たち消費者にできることは,黒マグロのような絶滅の危機にある魚類を食
べるのをひかえて,他の魚類を食べるようにしましょう。
私は,海産物をたくさん食べる日本人が海洋保護の先導者になるべきだと思い
ます。
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旭市青少年育成市民会議では
◎大人が変われば、子どもも変わる運動
◎地域の子どもは、地域で守り育てる運動
を推進しています。地域の皆さまのご協力とご支援をお願いします。
旭市青少年育成市民会議 事務局:旭市教育委員会 生涯学習課
〒289-2692 旭市高生1番地 TEL 0479-55-5727 FAX 0479-55-5825
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