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聖霊降臨節第 10 主日 礼拝説教 「やましさを感じない人」 列王記上 17 章
聖霊降臨節第 10 主日 礼拝説教 「やましさを感じない人」 列王記上 17 章 8~16 節 ローマの信徒への手紙 14 章 10~23 節 1. お祭りに行ってもいい? 先週梅雨が明け、いよいよ夏本番で す。夏休みに入りいつもより静かになっ た幼稚園にも、「虫探しをすると言って 聞かないので、そこらへんでさせるわけ にもいかないので、幼稚園なら安心と 思って連れてきました」と顔を見せてく ださる親御さんもありました。新しい虫カ ゴを持って来園した子どもたちは、はり きって探しに行きました。この園庭で虫 らしい虫が見つかるだろうかと、何だか 申し訳ないような気持ちになりましたが、 帰りには、カゴの中の半分に土や木の 枝などを入れてうれしそうに見せてくれ ました。よく見るとたくさんのアリが入れ られていました。家の中で脱走しないと いいなと思いながら、子どもたちを見送 りました。 皆さんの間でも、離れて暮らしている お子さんやお孫さん、家族や親戚を迎 えたり訪ねたりする季節かもしれません。 今年は、いわき市内でも勿来の海水浴 場が海開きして、地元ばかりでなく、県 内の待ちに待っていた人たちが集まっ て賑わっているようです。お盆休みには、 普段考えられないほどたくさんの人たち が渋滞をつくりながら故郷へと帰省しま す。お盆は、祖先をおぼえる仏教的な 慣習ですが、家族内だけのことだけで なく、お祭りや盆踊りなど町が賑やかに なる季節でもあります。皆さんは、お祭 りに行かれたことがおありでしょうか? わたしは子どもの頃は、よく兄や従兄弟 たちとお祭りに出かけて、出店などで綿 あめやおもちゃを買うのが楽しみでした。 「お祭り」と聞くだけで心が躍ったような 気がします。成長するに従って「お祭り」 に見向きもしなくなりましたが、それどこ ろか、教会に通い始めてから、過剰に 仏教的なもの、異教的なにおいのする ものを避けるようになりました。お祭りに 誘われても断ったり、祖父母の家を訪 ねても家族で一人だけ仏壇にお線香を あげなかったり、仏式の葬儀や法事な どでもクリスチャンとしてどのようにふる まおうかとそわそわしたりもしました。こ のような経験を、皆さんもお持ちではな いでしょうか? わたしは仙台の学生時代に、宣教師 館の離れに下宿していました。母屋に は宣教師の J 先生家族が住んでいた のですが、その家には小さな子どもた ちがいてよく一緒にあそびました。ある 土曜日に子どもたちの顔を見て実家に 帰ろうとしていたら、子どもたちの姿が なく、J 先生曰く「お祭りに行ったよ」と 言います。訳もないよ、という顔で言うの です。また、あるとき庭先で J 先生と立 ち話をしていると、ゴーンとお寺の鐘が 鳴りました。ここでも朝 6 時になるとお寺 の鐘の音が聞こえてきますが、わたしが 学生時代に住んでいた仙台の米が袋 は、朝夕 6 時になると愛宕神社の鐘が 鳴りました。神仏習合の名残からか、小 高いところに立つ神社に鐘があり、下界 の広い地域に降って来るかのように、ま さに「山のお寺の鐘がなる」(夕焼け小 焼け)のでした。わたしは潜在的な対抗 心からでしょうか、その音を聞いて心穏 やかではありませんでした。町を包み込 むかのようなゴーンという音が、日本人 の心を捉えることを知っていたからです。 ところが、その鐘の音に耳を澄ませるよ うに会話を一時中断した後で、アメリカ 人の J 先生が「いいよね、この音」と言う のです。 考えてもみれば、「ゴーン」と響き渡る 低い鐘の音を「いいな」と思ってもよい ではありませんか! 「いいな」と思える ようになると、不思議とその音を聞くと、 J.ミレーの「晩鐘」を思い起こしました。 畑にいる夫婦が、夕暮れに聞こえて来 た鐘の音に、農作業の手を止め、頭を 垂れ、手を合わせて静かに祈る絵です。 遠くには、小さく教会が見えます。日本 では、教会の鐘よりも、お寺の鐘の方が ずっと一般的です。わたしたちはそのよ うな日常の中に身を置きながら、無意 識にも、わたしたちの信仰に合わないも のを否定したり、軽んじたりしていない でしょうか。 2.問われるのは、あなたの決心 今日、ご一緒に朗読を聞きましたの は、ローマの信徒への手紙 14 章。手 紙の書き手である使徒パウロがこの章 で取り上げていることは、ローマの教会 内に起こっていた食事に関する問題で した。 初代の教会において、共に食卓を囲 むことは最も大切な交わりの一つでした が、宗教的な慣行の違いからその食卓 に緊張が起こっていました。何を食べて もよいと信じている人と、特定の食べ物 (肉やワインなど)を食べてはならないと 信じる人がいました。ローマ帝国の生活 の中で、市場に出回る肉やワインは、し ばしば異教の神々に供えられてから売 られていたので、それを気持ち悪く思う 感覚は、わかるような気がいたします。 しかしパウロは、はっきりとこう告白して います。「それ自体で汚れたものは何も ないと、わたしは主イエスによって知り、 そして確信しています」(14 節)。主イ エス御自らが、このように言われました。 「口に入るものは人を汚さず、口から出 て来るものが人を汚すのである」(マタ 15:11)。昔からの言い伝えを守らず、 食事の前に手を洗わない弟子たちが非 難されたので、主はこのように言われま した。「すべて口に入るものは、腹を通 って外に出される…しかし、口から出て 来るものは、心から出て来るので、これ こそ人を汚す」(マタ 15:18)。人の言 葉、思いこそが問題であり、食事そのも のではない、と主によって知ったパウロ は、何を食べても大丈夫という確信があ りました。パウロが言いたかったことは、 しかし、「何を食べても大丈夫」というこ とではないのです。 パウロは言います。「なぜあなたは、 自分の兄弟を裁くのですか? また、な ぜ兄弟を侮るのですか?」(10 節)。大 変厳しい口調です。これまでパウロは、 ローマの教会の人々へ勧告の言葉を 、、、、、、 向けるときに「あなたがたは」と呼びかけ 、、 てきましたが、ここに来てパウロは「あな 、、 たは 」とし、集団としてではなく一人ひと りの、「あなたの」問題として問いかけま す。「他人(神)の召し使いを裁くとは、 、、、 、 いったいあなたは何者ですか?」 、、、、 (14:4)、「なぜあなたは …裁くのです か ? なぜ(あなたは)…侮るのです か?」と、傍に詰め寄るように言います。 パウロは、ローマの教会内に起こって いた「裁き合い」(13 節)に触れて、こう 言います。「もう互いに裁き合わないよう にしよう。むしろ、つまずきとなるものや、 妨げとなるものを、兄弟の前に置かな いように決心しなさい」(13 節)。「決心 しなさい」(クリナテ)と訳された言葉は、原 文では、「裁く」(クリノーメン)と訳された言 葉と同じ“クリノー”という言葉です。“クリ ノー”は裁く、訴える、判断するといった 意味合いの動詞です。人を判断するの ではなく、自分を判断しなさい、と言っ ているのです。兄弟姉妹を躓かせてい ないか、妨げとなっていないか、自分自 身をこそ吟味しなければならない、と。 何でも食べられる信仰が正しい。な ぜならば、主御自らがそのようにおっし ゃったから。しかし、何でも食べる自由 さが、教会内で不和の原因になるなら ば、正しいことも正しくはならないので す。あなたの判断を問われるのは、神 御自らです。パウロは言います。「あな たの食べ物について兄弟が心を痛める ならば、あなたはもはや愛に従って歩 んでいません」(15 節 a)。 3.神の家族の食卓 「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはな りません。キリストはその兄弟のために も死んでくださったのです」(15 節 bc) とパウロは語ります。わたしたちは、飲 食については信仰的にも習慣的にも自 由です。むしろ「もう少し節制してくださ い」と言われるくらい自由かもしれませ ん。ですから、食べ物のことで「兄弟を 滅ぼす」とか「兄弟のためにキリストが死 んでくださった」とかとまで言われると、 大袈裟なように感じてしまいます。 しかし、この問題が教会にとっていか に深刻であったか、です。パウロはここ で、教会の人たちを「その人」とか「彼ら」 とは言わずに、「兄弟」と言います。「兄 弟」(アデルフォス)という言葉は、今日の短 い箇所の中だけでも 5 回も繰り返され ています。このことは何を意味するでし ょうか? わたしたちは、しばしば自分 たちのことを≪神の家族≫と呼び、互 いに互いを≪主にある兄弟姉妹≫と呼 びます。この呼び方は、わたしたちに、 自らがどのような群れであるかを確かめ させます。パウロは、群れの内のだれか を裁いているのではなく、一貫して、「わ たしたちは皆、神の裁きの座の前に立 つ」(10 節)という信仰に立っているの です。自由な者も不自由な弱い者も、 すべての人が主にある兄弟姉妹であり、 神に相対しています。正しく裁かれる方 は、ただ神お一人でいらっしゃるので す。 今月は≪神の家族≫月間で、特に すべての世代を迎えるにふさわしい家 づくりを憶えて、わたしたちは今祈って います。この礼拝堂に立つ時、神のみ 前に立つ時、わたしたちは、互いに比 べることのできない、かけがえのない家 族です。「家族」や「兄弟姉妹」という言 葉は、時に限定的な、閉鎖的な響きに とられることもありますが、そうであるなら ば、なおさらわたしたちが、この家のド アを開いていかなければなりません。教 会は、神の国の祝宴へのドアを開くの であって、単に飲み食いするレストラン のドアではないのです。パウロはこう言 っています。「神の国は、飲み食いでは なく、聖霊によって与えられる義と平和 と喜びなのです」(17 節)と。 4.弱さの中で強い≪家族≫に 生まれたばかりの教会の姿を、聖書 はこのように記しています。「信者たち は皆一つになって、すべての持ち物を 共有にし、財産や持ち物を売り、おの おのの必要に応じて、皆がそれを分け 合った。そして、毎日ひたすら心を一つ にして神殿に参り、家ごとに集まってパ ンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食 事をし、神を賛美していたので、民衆全 体から好意を寄せられた。こうして、主 は救われる人々を日々仲間に加え一 つにされたのである」(使徒 2:44~46)。 一人ひとりが全く違う者でありながら、全 く等しい者として神の前に分かち合い、 心一つに祈り、一緒に食べ、讃美する 人々の信仰の在り様が、さらに仲間を 増やしていきました。 教会の理想の姿に見えます。しかし 同時に教会は、いろいろな背景を持つ 人たちが集まる場であるがゆえの難しさ も持ち続けてきました。教会は、多くの 信仰者を生みだしていく聖なる場所で ありながら、多くの問題を抱えている場 所でもあることを告白せざるを得ません。 わたしたちはしばしば、クリスチャンとし てかくあるべき、これをしてはいけない、 あれもしてはいけないと思っています。 それを人に対して求めることもあります。 わたしたちの間にある違いは、違和感 を生み、葛藤を生まれさせます。共にい ることが難しくなることさえあります。 本来あってはならないことですが、教 会内に争いや奢りが生じ、あるいは教 会の交わりに偽善や律法主義見て教 会を去っていく人もあります。アメリカの ある牧師は、そのような幻滅に値する教 会の姿を包み隠さず述べながら、あえ てこのように言っています。 「完全な教 会でなければ愛せないという幻想を早 い段階で捨て去ることによって、私たち は格好をつけることをやめ、私たちが皆 不完全で、恵みを必要としていることを 認めることができるようになります。…教 会は皆、次のような表示を立てると良い かもしれません。『完全な人はご遠慮く ださい。ここは自分が罪人であることを 認め、恵みを必要とし、成長したいと願 っている人たちのための場所です』」と (R.ウォレン)。 自分自身の正しさは、時に心にやま しさを残します。自分の正しさゆえに、 相手を退けることがあるからです。「自 分の決心にやましさを感じない人は幸 いです」(22 節 b)と、聖書は言います。 わたしたちは自信がなくても、神はわた したちの「決心」に委ねてくださいます。 わたしたちもまた、神に信頼し、神の集 められた家族、兄弟姉妹を信頼しましょ う。わたしたちは、たしかにたくさんの違 いを持っています。しかし、その違いを はるかに超える大きな共通点がありま す。わたしたちには、一つのルーツがあ り、共通の目的を持っています。わたし たちは、一人ひとりの脆さや違いを超え て、神の国を共に建て上げていくため の家族として召されているのです。 祈り