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ロレンスと「新しし瓦」牧羊神パン

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ロレンスと「新しし瓦」牧羊神パン
D.H.
ロレンスと「新しし瓦」牧羊神パン
中 西 善 弘
I
パン(Pan
rcadi
)は元来は,古代ギリシアのアルカディア(A
god
larur
神 (Grek
fo
tirips
)であり,洞窟に住む「自然の霊」(‘
erodtus
うであった。へロドトス(H
erutan
〕地方の
)の『歴史』によれば,ベルシ
ア軍がギリシアに侵入を企てたベルシア戦争で,パンはベルシア軍に「パ
anic
ニック」(‘P
半身が「山羊,J
roret
’)を起こしペルシア軍を敗北させたという。
半身が「神」の姿をし,その攻撃的な「角」は「上」
方の太陽の光線を,また,その毛むくじゃらな「脚」は大地,本能(エロ
ス〉など「下」方の力を表す逆説的な表象,その豊能な「生」指向ゆえに,
色欲が強い羊飼いたちの牧神パンは,英文学におけるモチーフとしてとり
わけ興味ぶかい歴史がある。事実,古代神話から由来する極めて人工的な
意味において神話的なパンの原イメージは,文学のほかに音楽,美術,彫
刻等々に普遍的な支配的形式として,笛を吹く「山羊の神」とし、う大いに
装飾的でときには粗野で,しかし慈悲深く牧歌的な,相愛関係にある表象
でもある。道徳と倫理とのかかわりの全くない「キリスト教以前の世界」
rp
(e
‘
naitsirhC
・
world
’)に迎えられたパンは,「文化」以前のアンチ・
「アポロ」的存在として,同時に多発的な主題群の発生源なのである。
ionysu
霊魂の不滅,ディオニュソス(D
密儀的「オルフィスム」(Orphism
)崇拝を説いた古代ギリシアの
)哲学者は,「パン」の定義を誤って,
宇宙を意味する「汎J,「全J と解釈した。十九世紀にイギリスに伝わった
ロマソ派の詩人は,この「オルフィスム」信奉による言語学上の誤謬を
「万物」全体にみなぎる普遍的生気として,ロマン主義の「自然」観に都
合のよい,感傷的空想的精神傾向を意味するものと受け止めた。たとえば,
obert
ブラウニング(R
Browning
〕は,パンと月の女神ノレナ(Luna
),パ
天理大学学報
96
ンとシュリンクス
(Syrinx
〕一一パンに言い寄られたニンフで彼女が葦
に変ると,結ばれなかったパンは葦を使って笛を作った
のような古典
の物語に激しい性愛的特質を再発見し,それを個人の内面の象徴として題
obert
材に取り上げた。また,スティーブンソン(R
は,パンの恐れの念に留意し,
siuoL
Stevnso)
「全」自然界との擬似神秘的,霊的交感と
してパンを捉え,無上の祝福を与える存在としてのパン,そして悪魔的存
在としてのパンという「二重性」(‘ytilaud
’〉のヴィジョンを与える体験
の源泉として現代パン神話の中心的役割の前兆となった。もっともそうす
るうちに,ロマン派の作者は,具体的に視覚化されたパンを象徴として使
用するに留まり,
「山羊の神」の本質的パラドックスの精髄を見失ってい
っTこ。
全自然界は美と歓喜だけではなく,同様に敵意や恐怖の可能性を内包し
ている。必然的に畏怖の要素は含まれなければならないが,
「近代」初期
に恐怖物語において不吉な邪神パンを創造した作家は,アーサー・マケソ
othic
)である。この「ゴシック」(' G
Machen
(Arthu
’)のパンの表象は
パンを愚弄するものに復讐したり,死を導いたり,発狂させたりする。淫
楽と罪悪を通してこの上なく恐ろしいヴィジョン,目に見えない畏敬の念
に打たれるヴィジョンをもつものである。
文学史上のパンの系譜はさておくとして,ロレンスもまた,パンのヴィ
ジョンを自分の作品の中へ引き上げて,現代のパン神の神話を創造した。
本稿では,伝統的なパンのイメージに沿いながらも,パンとキリストの対
立と克服による弁証法,
sirhC
理」('t
elpicnirp
「パン原理」(‘Pan
elpicnirp
’〉と「キリスト原
’〉の闘争による有機的全体性の追求,とりわけ,
マケンとその後継者のゴシック・ヴィジョンをもっパンという,それぞれ
の重要なパンの特色を評価すると同時に,既成の文芸上のパンのモチーフ
の系譜からは対眠的に,戸レンスに顕著な,
「ロマン派」的超越的パンの
シンボルの意味とパンの有する「ロマン主義」的アシビギュイティを解明
したい。とくにパンの特性を表わしている典型的作品を網羅して,パンの
形象的シーンを指摘し,パンの意義とその特質的スタイルを作者の内なる
宗教史,精神史の視点から探ってみたい。
ロレンスと「新し L 、」牧羊神パン
D.H.
97
II
くパン神像の青白い胎児>
『白孔雀』 (
The
etihW
ネザミア(Nethermer
,kcocaeP
191
)のアナブ、ル(Anable
)は,
)という森と湖に抱かれた自然世界のなかで,地
主に雇われて生きている森番である。恐ろしいほどの体力を有し,彼自身
はいつも地主の森やその猟獣の群棲地で密猟を行なうものを捕える民を作
ったり,木を伐ったり,若木を植林したり,或は「昼間」は眠り,
「夜
間」は侵入者を警戒するために歩き巡っている。アナブルは最後の長編
Lady
『チャタリー卿夫人の恋人』 (
roleM
する森番メラーズ(s
yelretahC
〕の前身,
’
S,
revoL
2
918 )に登場
アーキタイプとしてよく言及され
るが,ここではアナフ、ノレは,密猟者をなさけ容赦なく取り締ったので,村
人から嫌われ,「悪魔」(‘ demon
’〉,「悪党」(‘lived
’〉呼ばわりされている。
つぎの引用文は,この人物の両面価値,すなわち,森(「聖なる空間」)の
守護神とも称すべき存在でありながら, 村の人たちには悪魔像をイメージ
させる「悪意を抱いた牧羊神かなにか」(' some
suoiclam
Pan
’〉のよ
うな姿を示している。
人々はみな,彼のことを憎んでいた一一村人たちにとって,彼は森の、
悪魔(lived
fo eht
wods
)のような男だった。…だが僕は大いに
uogiv
彼に魅力を感じた。彼の堂々たる体格,彼の偉大な活力(r
ytilativ
生命力(
),彼の浅黒い(swarthy
)陰うつな( glomy
)と
)顔が
僕をひきつけた。
彼はひとつの観念に取りつかれた男だった。一一それは,文明はす
ungs
べて彩られた腐敗菌( f
た。彼は文化の萌し(ngis
fo senetor
fo erutluc
)であるというものだっ
)ならどんなものでも憎んだ。
…彼は考えごとをすると,人類の衰退(d
ecay
)のことをつくづく
考えるのだった一一愚かさと弱さと腐敗に傾きかけた人類の衰徴
enilced(
)のことを。 「健かな動物であれ,設の動物的本能(a
niml
tcnitsni
)に忠実たれ」が彼のモットーだった。
天理大学学報
98
naP
ここでは,アナブルが処女作以後に登場する「パンの神の形象」(‘ ’〉としての必須の条件を備えていることが読みとれる。彼はそのモ
serugif
ットーに著しいように「動物」そのもののような荒々しいバイタリティを
有し,
「悪魔」のように「浅黒い」肌をし,
「昼の世界」よりむしろ黒々
と茂った暗い森,言わば「夜の世界」に力強い生命力を潜在させている人
物である。あわせて人類全体を蝕む現代文明を憎悪し,この病幣によって
「世界の終需」が到来する恐怖を暗示し予言するのだ。
0291
ni ,evoL
『恋する女たち』 (Women
)の作者の分身パーキン
nik )に継承されるアナブルのこの啓示的哲学的側面と同時にまた,
riB(
彼は小説の語り手,「僕」ことシリル(liryC
影」(‘A Shadow
ni gnirpS
)に,第一部第二章,
')で,自分自身の過去の結婚をうちあける。
回想によれば,アナブルはケンブリ
γ
ジ大学を出て小さな村の牧師補 に
なったころ,教区長の従姉妹グリスタベル夫人(Lady
lebatsyrC
三年ほど同棲するが,彼女は,ラファエロ前派ふうな女性,
(yluos
‘
「春の
’〉なシャロット姫(Lady
etolrahC
)と
「精神的」
)的な女性になったという。
要するに,この貴婦人は十全な生の成就を回避する理想主義的,虚飾に満
ちた母性の象徴,
「白孔雀」の魂をもっ女性であった O 肉体の誇りを冒漬
されたアナブ、ルは,その後,妻と子供を得るものの,その妻は家に放り棄
てられ,子供も野犬同然で、少しの扶けも教え込まれていなかった。
このような男女関係に「真の運命」を共有する結合は,望むべくもない。
暗い活力を秘めた人物ではあるが,共同体に住む人間と共鳴し合う近親性
を飲落し,本来の「内なる自己」の機能を保ちえない「牡の動物」(‘nos
animl
, アナブールは,悲劇的にも事故死してしまう。そして,この森番
)
'
が石切場で不意に死んだのは,
isadventur
「思いがけない災難」(‘ m
evng
ヒよるものと検視される。が,村内では彼の死が「復讐」(‘ r
’
〉
’〉に
よるものであったという障が立ったほどである。
アナフ守ルは,パンの神の具象をアーキタイプとして造型されたものと思
われる。だが,この段階では,ロレンス独自のパンの思想、も確立しておら
ず,全体を通じてアナブルの存在を説得させるまでに書き込まれていると
はいえない。社会倫理規範においても,宗教的,創造的両性関係において
も,アナプルは野性的,粗野な「牡牛」(‘nos
fueob
' の表象の域を出てい
)
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
D.H.
9
ない。完全な本能主義と,精神主義の軽蔑,精神と肉体の分離,徹底した
唯物主義と,神秘主義否定を濃厚に担う男を暴いてはいるが,両者の融和
は,この小説の基調と呼応して,実現されるすべもなし、。その点は,次の
紀行においても例外ではない。
『イタリアの薄明』 (
thgiliwT
Duro
ni,ylatI
2191
)こと,ファウスティーノ(o
nitsuaF
)のイル・ドゥーロ(11
)は,年の頃が三二,三の農
夫で,叔父の農園を譲り受け,小さな家に独り身で住んで,葡萄畑で働い
ている。一年中,野菜を育てながら,春には葡萄の若枝を切って接ぎ木を
したり,石灰や牛糞の肥料をやったりすることなどが,彼の日課である。
季節のリズムとともに,生活を規制しているイタリア人である。
彼は午前中と午後,ずっと,葡萄の木のあいだにいて,その前にし
ゃがみこんで,きらきら光る鋭利なナイフで,神のように(ekil
god
a
),目を見はるばかりに,素早く,確かにそれらを切り倒していた。
彼がなにか異様な獣神(some
egnarts
animl
god
)のように,若
い葡萄の木の前でしなやかにしゃがみこんで,腰をかがめて,無心に,!
迅速に,生き生きと,若芽を切って,切って,切りまくって,無雑
作に地面に落とすのを見ていると,
tros
fo cinap
いわれない恐怖のようなもの( a
)に襲われるのを感じた。そのあとで彼はまた,持
ち前の奇妙な,なかば山羊に似た足どり suoiruc(
movement
taog-flah
)で畑を横切って行って,石灰を用意するのだった。
ekil
(
符
(8)
点筆者)
イル・ドゥーロの動作を見ていると,
「素早く」(‘tfiws
「無心に」(' w
ithou
‘
(yldiv
’
〕
,
「半人半獣神」の姿が見てとれる。
「確かに」(‘erus
thoug
’〉,「しなやかに」(官ylbixe
’〕,「迅速に」(’yltfiws
’
)
,
’〉,「生き生きと J
〉
’ といった修飾語で表現される下半身の動きは,動物の属性
(「なかば山羊」)に相当する決定的特質を秘めた柔軟性,すなわち非人間
的な「獣のような無意識さ」(' a
niml
senuoicsnu
’〉に純粋に従う
動きかたであることが分かる。それはカメレオンのように「変幻する生き
もの」として,
『恋する女たち』のノミーキン(そしてメラーズに通じる代
天理大学学報
01
弁者としての作者自身)のうちに認められる「自発的な生に従う能力」と
も結びついてくる。
また,イル・ドヮーロに特有の能力(生の流動性,感応力〉は,
「おの
れ自身の肉をもって親しく喚び出しながら,大地という肉体に人間の命を
接ぎ木する神」の行為に似ている。執拙な意志を伴う観念的な自我を超え
tamin
「自我ならざるものJ,大いなる自然の世界と親密な関係(e
て
,
comunion
)をもっているといった「生物」(' erutaerc
’)なのだ。作者
はそこに「 L 、われない恐怖」を触感する。心身を刺す突然の「畏れ」のよ
うなもの,一種の「脅え」を認識させられる。パニック(恐怖〉によって
胸を一杯にさせ得るこの心身一如の効果は,知的認識によっては不可知な
ものであり,感覚,とくに「肉体的感覚」(‘lacisyhp
ア γ ノゥ γ e
s巴noitasn
’〉によっ
そクズ・オプ・ピーイ γ グ
、て生きている人間のうちに認められる「未知の存在様式」を反映している
点で,神秘的かつ根源的である。
そしてパンの神は,人間の「可感の世界」(‘elbisnes
world
’)に属する
ものとされている。イル・ドゥーロがパンの神の表象になぞらえられるの
は,彼にとって「感覚Jnoitasnes'(
’〕自体が絶対であるからである。葡
萄など「植物の敏感な生命(elbisnes
efil )のなかや,彼が手にしている
石灰や牛糞に溶け込んでいっているのは,彼の五感(senes
だ
」
)だけなの
(符点筆者〉。イル・ドゥーロが自分の「手」で仕事をしたり,対象と
自己を知覚したり,理解する作用は,この「感覚J,頭悩によらないでト「五
感」によって達成されるのである。
こう説明したあと,結婚できないイル・ドゥーロが問われる。ロレンス
的信条によれば,結婚には,「精神的成就」('lautirips
consumation')
を必要とする。それが達成されてはじめて,男と女はそれぞれ完成した全
一の存在となる。
tirips
結婚が行なわれるのは,精神(
)においてである。肉(
)hself
においては結合はあるが,ただ精神においてのみ,二つの相異なり
相反するものの中から,新しいものが創り出されるのである。肉体
(body
)において僕は女と結合する。だが精神において僕と女との結
合は,第三のもの(driht
gniht
),絶対的な存在(etulosba
),「言葉」
(Word
101
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
D.H.
〕を創造する。それは僕でもなければ女でもなく,僕のもので
)OI(
もなければ女のものでもない,絶対的なものである。
しかし彼にあっては,すでに見た通り,「肉体的感覚」が絶対であり,「精
神的成就」をもたらす「魂(luos
)」を持ち合わせていない。
この霊的
「魂」を持っていないので,彼はいつまでも独り暮らしを続けているのだ。
結婚しないイル・ドゥーロは,結婚しないパンの神に似ている。
avlys
神もパンの神の使徒たちも,森の神々(n
婚しないのだ。彼らは,単独で(elgnis
gods
)というものは,結
detalosi
〕孤立した(
)存在であ
gnarts
る」。ひとり身のイル・ドゥーロは,森林に住む「異様な」(‘e
obaid-flah'(
「なかば悪魔的なcilJ
「パンの
’
〉
’〉動物神に,肉体的「感覚」の絶対者
に属しているのである。
作者は,イル・ドヮーロに一方で魅惑されるが,他方で反接する。彼の
「肉」における姿は肯定できるが,男の「精神」における状態は,人間の
ne
「一つの全体」(‘o
whole
holens
’),「全一性」(‘ w
’)からは分離して
いるからである。ロレンス的な真の永遠的存在は, 「結婚」によって保障
されるものであるが,イル・ドヮーロと作者の聞には,
「夜と昼がし、っし
ょに流れ漂っている」ように,完全な相違しか感じられなかった。作者の
説くパン神像のヴィジョンとして,
のない「肉」だけの,「昼(day
「精神」のない「感覚」だけの,「魂」
)」のない「夜(thgin
)」だけの生は,一元
的で,その個の存在を充足された存在として承認するまでに至らないので
ある。不思議な類似は,つぎの「性の年代記」へと転じている。
)にとっては,その
191 〕のアーシュラ(Ursula
肌 5
The obniaR
』 (
虹
『
当時の作者本人がそうであったように,パンの神は,よろずの神を組織す
るパンテオンの神々の一員であり, Tこんなる「地方の神」にすぎなかった。
アーシュラにとって,「多くの宗教は,すべて地方的 lacol(
って,宗教は普遍的(lasrevinu
も,地方的分派lacol(
branch
)なものであ
)なものであった。キリスト教といえど
)にすぎなかった。地方の複数の宗教が,
今までのところでは,普遍的宗教に同化融合していないだけであった」(符
点筆者〉。これが『虹』の第十二章, すなわち,
アーシュラが「娘」から
「女」になる段階で,彼女が懐くに至る宗教観である。
天理大学学報
201
アーシュラの幼少のころの生活を扱っている以前の章では,一群のキリ
スト教的イメジャリーがかたまって物語の筋を運んで、いた。が,少しあと
イュ γ ェ ー ジ 旦 ソ
で彼女が通過する「成長段階」では,キリスト教的イメジャリーを引き伸
ばしつつ,古典的イメジャリーをそのなかに含んでし、く。そして,この両
者のイメジャリーの様式がオーバーラップするところに,
出現する。第十章「拡がる環」(‘The
elcriC
Widening
「バンの神」が
')では,この特
性が次のように指摘されている。
ゼ、ウス )evoJ(
は,人間の女を愛するために,牡牛になり,人聞に
なった。ギリシアで、は,たしかにそうであった。アーシュラ自身に
ついて言えば,彼女はギリシアの女ではなかった。ゼウスも,パン
(Pan
)も,これらのどの神々も,いや,バッカス(Bachus
),アポロ
)ですら彼女のところに来るは ずはなかった。だが,人の
olpA(
ons
娘たちをめとって妻とした神の子たち( S
fo Go のであれば,自分
02)
をめとって当然妻にするべきではないか。
この箇所が,『旧約聖書』の「創世紀」第六章冒頭から第四節までを対立的
に置いて,
1761
hoJ(
ミルトン n
Milton
esidaraP
)の『復楽園』 (
,deniageR
)第二巻から引し、た意匠を下敷きにしていることは言うまでもない。
しかも,キリスト教的様式が,いまだに支配的である。その様式に対照さ
せて,同時に,ギリシア・ローマ神話に登場する古典的神々が,ちょうど
取り入れられるような展開をみせるものの,すぐにそれらは排斥されてい
る。そこに読者は,アーシュラの精神的動揺を窺い知るのであるが,これ
は彼女の幼年時代よりそれだけ広い見地をもつに至る最初の象徴でもある。
(洗練された章題 , 「拡がる環」に注目したい。)
さらに,アーシュラは,こう考える。「水の精(nymph
)にでも生れて
rk
いればよかったのにと 思った。そうすれば,箱舟( a
)の窓越しに笑っ
J
て洪水(臼od
〕の水をノア(Noah
)31(
)にはね飛ばしていたろうに。」アー
シュラにとって『聖書』の物語の文句は,新しい意味を帯びて響いてくる。
結局,神とは何か,どんな神かは知らないが,とにかく一応,神はいるの
だと,彼女は思うようになる。この「ノアの洪水」のイメージが,アルカ
D.H.
ロレソスと「新しし、」牧羊神パ γ
301
ディアのイメージとぶつかり合うところで,アーシュラは,森の中や遠い
dayr
谷陰にいる「森の精」(‘ s
’)や「牧神たち」(‘s
nuaf
’〉を否定したり
拒絶しなくなる。ついに「神」について思い煩うことから束縛されない,
より高いレベルの新しい「自己」を認識するに至るのである。
III
く「暗き英雄」の原型としてのパン一一悪意ある伝統>
『
セ γ ト・モーア』 .
(
tS
Mawr,
5291
)において,ロレンスはエッセイ,
「アメリカのパンの神」の材料を中編小説の目的に脚色した。ヒロインの
ルウ(Lou
)は,占星家兼画家のリコ(R
ico
神」(‘nelaf
Pan
〕によって,「堕落したノ4γ の
’〉を代表する男の内部世界に向かわせられる。リコは山
羊の目のように輝く黄灰色の目を持ち,逆立った眉と尖った耳を持つなど
山羊の神のような顔をし,山羊の姿に似ている。しかし,読者は, リコが
ロレンス的な意味での芸術家ではないことを伝え聞かされる。卑しい心に
満ちた皮相的芸術家は,どれほど彼が「山羊の神」のように見えようとも,
「堕落したパンの神」, すなわち誤れる類いの老いたパンでしかなし、。実
際
, リコに典型的にみられるように,彼は原罪的「堕落」によって反生命
的な意識の個性から出られない存在へ挫折している。彼が本能的ではない
にしても,少なくとも知性的にその挫折を自認していることは,皮肉であ
る
。
ルウは, リコと明らかに符合して,混血のインディアンであるメキシコ
hoenix
人,フィーニッグス(P
〕のなかにも,パンの神がそのために死ん
erob
でしまっている「退屈しきっている未開人」(‘ d
る。フィーニ
γ
savge
’〉の姿をみ
クスは,ルウの母親のおともをしていたが,自分の条件に
帰って行くにつれて,かたくなにも倣慢な態度をとりはじめ,自分の性を
ひそかに売り物にしようとしていた。この男の考えでは,白人の女性であ
れば,それを求めているはずで、,
「現金」と引き換えることができるので
あれば,自分自身の手でパンの神が意味するものを殺してしまう。
もう一人の馬丁,ルイス(Lewis
)は,フィーニッグスと戦闘的な潜在
的共感をもっ使用人である。 「原始人のようなルイス」は,黒い髭をもっ
ウエールズ人で,
「セント・モーア」という栗毛の馬を扱うことになる。
401
天理大学学報
ルイスは,ブィーニックスとは対照的で「別の世界」(‘r
ehtona
world
にとどまって,とくに女性に対する「パンの力」(' Pan-power
〉
’
’〕を持ち合
わせている。ルウの母親に向けられる行為は,それを十分,証明している。
母親は,森の端の「暗がり」(' shadow
‘
〈s
enkrad
’〉の中を,古きパンの神の「暗黒」
’)の中を並んで馬を歩ませながら, 彼女はルイスに結婚を申
し込む。が,彼は自分が「召使い」として仕えている婦人に肉体的に接触
されることは,男の肉体を冒蹟することだと返答して,
る。ルイスは男に対して尊敬心を持たない女から,
「奥様」を拒絶す
(イル・ドゥーロのよ
うに)超脱した状態を保つ。 「パンの神」という言葉は,ルイスが言及す
る枠のなかにみられないが,彼は「妖精たち」(‘
seiriaf
‘
(moon
司
boy
’),「月の人間」(‘moon
elpo
’〕,「月の子供」
’〉と結びつけて考えられてお
り,エッセイの言葉を借りれば,彼は日中見ることが危険なパ γ を
,
「
夜
,
ぼんやり」と見ることができる点で注目すべきである。
ついに,ルウは,
「堕落せざるパンの神」(‘nelafnU
Pan
’〉の表象を,
セント・モーアに見出す。この荒々しくやや恐ろしい「悪魔」的な, しか
し「神」のような「馬」は,ちょうど「暗き英雄」(‘Dark
Hero
’〉がそう
であるように,内部に野性である精神や神秘な力を保っている。セント・
モーアの生命力に燃える「パンの焔」(‘e
malf-nP
’〉は,騎馬の遠乗りの
旅行が計画された場面で,とりわけて明白である。
一同は,狭い踏みつけた草道を進めて行く。そのときセント・モアが大
砲でも撃たれたときのように横にさがり,ヒースの中をうしろへ退り出そ
うとする。リコは宙に跳ね上げられる。道の脇に石で殺された毒蛇がし、て,
馬はそれに驚いて突然踏び上がった。馬の失態でリコは一生びっこをひく
ことであろう。この事件に続いて,ルウは「悪の幻影」(‘noisiv
fo live 〉
’
を発見する。
それは何か恐ろしい(gniyfiroh
)もの,何か逃れることのできな
いものであった。ひっくり返った雄馬の薄い黄金色の腹(yleb
荒々しくもがく蹄(sfoh
)を,
)を,むごたらしく曲がった馬の股(hams)
を,それからあの弓なりになった魚のような頚(neck
張や,大きく見ひらかれた目 )seye(
)の不吉な緊
たどを彼女が見たとき,それ
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
D.H.
は幻(noisiv
105
)を見るように彼女の心に浮かんだ。仰向けに投げ出
され,蹄を宙に蹴っている。ひっくり返った恰好の馬は,純粋に悪
live(
)そのもの。
彼女は人の内部にも同じものを見た。人も仰向けに投げ出され,そ
うして悪にもがき苦しんでいる。しかも,馬の乗り手は,押しつぶさ
れながらまだ手綱を引し、て起こそうともしない。
d
「悪の洪水」(‘日o
fo live
’〉のイメージは,この引用のなかでフィジ
カルな語感と官能的なリズムをもって溢れている。恐ろしい「悪の潮流」
edit'(
fo live
(
、sevar
’
〉
,
fo live
「悪の流れ」(‘tneruc
fo live
’
)
, 「浪のような悪」
’〉とともに,それはリコを呑み尽くしている。なぜなら,
馬に乗っていたリコは,
『恋する女たち』のジェラルド(d
lareG
)のよう
に(同書,第九章参照〉, 無理やり自分の「意志」を馬に押し通そうと野
性の獣を,
「服従」のなかに包みこみ「支配」していたからである。この
強いられた「深い生命の源泉」(‘ d
ep
sgnirps
fo efil ’)に全存在(腹,
蹄,股,頭,目〉をかけて反抗するのが,セント・モーアである。ここで
馬が表わすものとして,単に「性的な力」を読みとるだけでは正しくない
ことは明白だ。セント・モーアという野性の馬は,それ以上の深遠な啓
示を示しているのだ。馬の本性は,自己防衛,)ecnefed-fles(
自己保存
noitavreserp-fles(
),自己主張(
noitresa-fles
)に極度に高い緊張のあ
ミ
ド
ル
・
オ
プ
・
ザ
・
ワ
ー
ル
ド
る釣り合いを保っており, 「宇宙の中心」から逸脱することなく,均衡を
維持して生存している。自然な野性的要素や生命本能に「抑圧」を蒙れば,
それを排除すべく「生命衝動」(‘
noislupmi-efil
うを爆発させる。「生命力
を危険に陥れるようなもの,誤った道についての確かな直観,警戒的知覚
…悪と悲惨についての警告的直覚」を行使するのだ。従って生命力を回害
し,悪意のある意志の服従を余儀なくさせる「見せかけの」騎手(現代文
明世界の共謀者の一人)を乗せている場合には,生命衝動を具象せる馬は,
身の毛のよだっ「幻影」のなかで, 恐ろしい悪, つまり 「肯定的な悪」
‘
(
evitisop
live
’〉を啓示する主役を割り当てられ,一役演じることにな
る
。
結末部で、ルウは,ロレンス自身が 6291
年に発表した「アメリカのパンの
601
天理大学学報
神」でそうしたのと同様,パンの神の「高貴な焔」(' e
malf
fo ytilibon
〉
’
にもっとも近寄る。彼女は,そそり立つ「松林J の向こうの青い山並みに
「松の木のように粗く,そして雷のように身の毛のよだっ」野性のアメリ
カの風景のもつ「地霊」(‘tiripS
fo ecalP
’)にみずから迎えられることを
感じる。それはアメリカの山岳地方の奥深く野蛮で粗野な原始の精神,す
なわち,意識下のはるか深いところにある悪意ある未開世界のヴィジョン
なのだ。つづいて転じる異質な世界においても,さらにそれが拡大され精
練され書き付けられる。
『翼ある蛇』 (The
Plumed
eS ゆ,tne
6291
)の中心人物,四O 歳の孤
独な未亡人,ケイト(Kate
)は,メキシコで小柄なインディアンの将軍,
ドン・シプリアーノ(Don
onairpC
「永遠のパン神」(' The
rev
)に聖なる「主なる神」(‘ Master
匂g
nits
Pan
’
)
,
’〉を認める。この小説では「救
いへの道」は,古い様式のゴシック作家が「地獄への道」と受けとめた多
くの境界標を通過する。一九二0 年代初期のメキシコは,精神的にも物質
的にも,醜悪な混乱と貧困がみなぎる虚脱と恐怖に端いでおり,人間的な
次元の政治による革命は,反体制運動や反革命を誘発して,血なまぐさい
騒乱を引き起こしていたが,そうした現状を政治的次元ではなく「宗教
的」次元で救済しようと,
興信仰と運動
「ケトサルコアトル」(' ltaoclazteuQ
〉
’ の新
古代アステカの神「翼ある蛇」の結合,「鷲」(=知性)
と地に潜む「蛇」(=肉体〕との結合による人間存在の回復
が促進さ
れていた。この運動の幕僚格シプリアーノは,堕落せざる「パン神の男」
‘
(Pan-male
’)になぞらえられる。
「あの小さな両手,顎から軽く垂れさがっている黒い山羊髭のあの小さ
な自然な房,弓なりになった眉毛,かすかに傾いた眼,漆黒の髪のはえた
美しく丸いインディアンの頭。これらはすべて彼女にとって別世界の神秘
rehtona(
mystery
),薄明の原始世界(
,tiliwt
evitmirp
world
)の過
去の神秘の象徴とも思われた。そのような世界においては,小さい形が突
如影の上に巨大魁偉となって現われ,シプリアーノに似た顔が神( god
顔たるとともに,また悪霊(lived
Pan
ecaf
)の顔,不死なるパン神の顔(undying
)となるのである…
だまって腰掛けながら,シプリアーノは古い薄明のパン神の力(
tiliwt
)
の
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
D.H.
Pan-power
701
)をケイトのうえに投げかけるとき,彼女は自分がこれに服従
),屈服している(sucumbing
nitmbus
し(g
れなかった」
)ことを感じないではいら
07 〕
(符点筆者〕。
ケイトはケトサルコアトルによる結婚によって,
Pan
retsi
,
’〉の役割を演じるシプリアーノを受けることになる(第二O 章
by ltaoclazteuQ
Mariage
-niS
(
「不吉なパン」 ‘
’)。が,彼女は個人的な意志(エゴ〉や「自
我」意識にこだわる。彼女は「男性への女性の服従」とし、う気持ちを捨て
きることができず,アイルランドへ帰国する支度に取り掛かろうとまで思
い惑う。そして宗教運動の指導者の妻に諭され,執着するケイトは,
従」のもつ意味を示唆される。じつは,それは静けさであり,
服
「
「服従」と
いう言葉が意識的に表すには強すぎるものである。むしろ,それは人間性
の存在中枢と考えてしかるべきである。
いよいよ最後には,シプリアーノとの性の交渉のなかで,ケイト自身は
自我や意志などよりはるかに大きく,ずっと奥深い力が働いて,自分では
気づかないまま男との調和した結合が包んでくれることを知る。もう,そ
こでは,
「性」とは,個人の情慾を越えた契りの場所(「昼」と「夜」の
ratS
「明けの明星」,‘Morning
さかいの星,
’〕であり,自己の内部に生
命が生き生きと弾けかえるばかりに湧き上ってくる「大いなる力J なのだ。
cilahp
それは古代の男根崇拝の神秘(tneicna
fo eht
lived-og
い神魔(tneicna
こに「大いなる性」(‘eht
male
xes
retaerg
Pan
mystery
),男神パンの古
)の再生である。そして,そ
うを内在させるのだ。
誰だって限界があるじゃないか。人が無限になろうとすれば,忌わし
い人聞になってしまう。私に触れ,私を制限し,私の意志をおし沈め
てくれるシプリアーノがし、なければ,私は忌わしい中年すぎの女にな
ってしまうだろう。私は制限されることを「求める」べきだわ。もし
誰か男性か強い意志と,あたたかな接触によって,私を制限してく
れるなら,
ntaerg
sentsav(
)ss
巴
「よろこぶ」ぺきなんだわ。私がわが大いなる力
(my
と叫び,私の背後から支えてくれる「主」の広大な力
fo eht
Lord
dniheb
me )と呼ぶものが,私を虚無のうつ
ろな床の下に落したればこそ,かつて, L 、かなる男性の手も私をあた
108
天理大学学報
たかく燃えさせ,限界をつけられた存在にはしてくれなかった。ああ,
そうだ/
の道(my
1
薄気味悪い中年すぎの女になるくらいなら,私は私の服従
submion
〕を進んでいこう。私が必要とするかぎりに
おいて,それ以上には出ない服従。
(符点筆者)
ケイトは,この「悪霊のごとき恋人J ('demon
)gl(
revol
’),シプリアーノのも
'
suineg
とに,同時に重苦しいメキシコという「土地の宿命」 (
icol ’〉から
逃れ出ないで、とどまることを自覚する。彼女のその悟りは,たんに男のも
つうわベの魅力や欲情といったものでは決してなし、。女が女となる生命の
道,人が人となる生命の道は,どこに存在するのか。ケイトは,人間とい
うものがわがままなエゴをある部分は棄てて打っちゃって生きていかなけ
「制限J をつけないで、生きていってはならないも
ればならないのであり,
のである,と悟る。彼女は,非人間的で、隷属的な度を越えた「屈服」では
なく,自己の必要とするかぎりの静かな「服従」を選択する。反援を覚え
ながらも牽かれ掴まれていくアンピヴァレントなケイトの,パン神への異
様な恐るべき「自己放棄」は,ほとんど自分を鞭打つような自己成就,す
なわち「極地」 ‘
(consumation
で
,
’〉である。諦観と自己を遺棄するなか
「冷酷な確信」をもっ「男根の風」(‘cilahp
wind
’〉が,閣の世界を
駆けめぐるのだ。そこにおいて,性的宗教的「恐怖」が奇妙に入り揖ざり
つつ,凄まじい結合,いわば,
「恐ろしい結婚」(‘elbiret
)'egairm
が達成される。シプリアーノは,灘んだ「暗さ」を湛えた一体化において,!
gniyfiret
とりわけ,恐ろしく(
)なければならないヴィジョンに道を開
いている。新しい酒をいれた「恐怖派」の古い皮袋,とでも評すべきであ
ろうか。
「恐怖小説」と言えば,パンの恐ろしい復讐という新ゴシック(new
Gothic
)02(
)物語にロレンスが負うもっとも明白な証拠は,短編小説「さいご
の笑い」(“ The
Last
Laugh
ぺ4291
)に見出せる。新ゴシックというこ
のカテゴリーへのロレンスの主要なる貢献は,彼のつけた題名に示されて
いる。ロレンスの生命の神パン,「笑うパ γJ gnihgual'(
Pan
’〉は,彼
の書簡や「アメリカのパンの神」のなかで言及されているように,野蛮性
と喜劇的性格の機能を行使している。 「笑い」は,自己の最上の「蘇生」
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
D.H.
‘
(
roitceruser
901
りであり,笑いによる「珪り」のテ)マ
的,旧ゴシック(dlo
Gothic
k
,作品を戦傑
)物語のジャンルに位置付・けながらも,伝統
的なホラー・ストーリーの趣味傾向と目的の枠からはみ出るロレンス風様
式ならしめている。
「クリスマス」の「夜,J
「さいごの笑し、」は,
ロンドン郊外の「森」
のなかで,異教のパンの神が「復活」して帰ってきたという,キリスト教
理念と異教の他神とのコントラストを喚起する幻想的ドラマである。荒々
しい雪が肌を刺す「風」をともなって吹きすさぶ夜空に,とどろく「稲妻J
が瞬いたかと思うと,怪しげな「笑い声j が聞こえてくる。
笑い声 rethgual(
gniraet(
)がそれにも増して続き,そして引き裂くような
)物音がした。風(wind
)に乗って,紙切れと書物の数ペー
ジが,暗い窓から,雪のなかにくるくるまわってやってきた。それか
ら白い物が,狂った烏のように朔けめぐり,まるで翼でも生えている
かのように風に煽られて舞いあがった。それからばたばたもがくよう
にして,外の黒い木の上にとまった。それは教会の祭壇掛けで、あった。
陽気なさえずるような楽の音が,ちょっと聞こえてきた。風が素早
く行きつ戻りつしながら,
sepi
anパイフ。オルガンの上を, パンの笛(p
)のように, 吹きまくった。熱狂的で,陽気で,さえずるよう
な,切れ切れに聞こえる楽の音と,どっと押し寄せるむきだしの低い
笑い戸。
(符点筆者)
「ヲ|き裂くような J gniraet'(
けめぐり」(‘gniraos
’〉,「くるくるまわって」(‘g
nilrhw
’〉,「期
’
L 「ばたばたもがくようにして」(‘gnilgurts
’〉と
いうこの場面の「風」を修辞する表現は,パ γ神が出現するまえの壮大な
全宇宙に響く聴覚的要素を引き立てるのだ。 「稲妻と響きと雷鳴」が流れ
出し,
『新約聖書』の天変地異式な「ヨハネ黙示録」を想定させる「風の
音」の伴奏をまじえて,パンを呼び出す「風の呪文」が行なわれる。
ここで中心的役割を果たす「風」の流れは,生きている天地の呼吸や鼓
動のけはい,
「動く大気」である。風とは,そもそも,
り,それこそは「生命力のある仮の姿,J
「宇宙の息」であ
すなわち, 大いなる宇宙的転変
Ol
天理大学学報
メタプ 7
が行なわれる生命現象の隠喰と言えるものにほかならな L 、。さらに霊魂を
形成する物質自体を暗示する自然の力となる。
不可解な風の流れの焦点は,引用文第二パラグラフに移行するに従って,
「雪」と『聖書』の「紙っ切れ」と「祭壇掛けJ とし、う「白色」のイメー
ジが,夜の戸外と「木」という「黒色」のイメージに包みこまれる。その
とき,風はパイフ。オルガンの音管によって,
奏でる。その音色に呼応するかのように,
gnillirt
ような」(‘
’
L 「素早く」(' ylkciuq
「パンの笛」のような音色を
「陽気な」(‘ gay
’〉,「熱狂的」(‘d
liw
’〉,「さえずる
’)とし、った血
肉たる生命的リズムを「反復」する主調音にヴァリエーションが加えられ
る。同時に,風は,
「新生」への変化過程を示す際立った効果を出す。ざ
わめきの「物音」(' sound
’〉は,「楽の音」(' music
’〉に変奏される。そ
こに,「闇J C「陰」〉を通過した「光」(「陽」〉,「破壊」(「死J)を通過した
「創造」(「復活」〉のノ4 ターン,ロレンス的パラ
γ
ドックスの音楽が開示
sym'(
される。そのうえ,この前奏は,それに続くパン神の「奇蹟劇J yret
yalp
')の伏線として奏でられるのだ。
復帰した「異教」の神パンの笑い声で満ちあふれた「風の音」が,
「
キ
リスト教」の衰退と終鴬を連想させる「教会の物音」のなかから再生し,
新しいサイクルの交替を迎える朝,神秘的現象は「非日常的」世界のなか
でジェイムズ嬢(Mis
James
)とマーチパンクス(Marchbanks
)の身の
うえに生じる。
赤髭をはやした黒い顔の男,
「笑うパン」をみた耳の遠いジェイムズ嬢
の目には,以前のあらゆる価値を棄て,従来よりはっきりものを見ること
のできる「新しい世界」が映る。もはや,パンの映笑の響きをとらえた彼
女の耳に,補聴器は要らなかった。
「古くさい,固い皮膚」(‘,dlo
hard
「新しい風」に触れることで,彼女は
niks
トラソスフィギュ νイシ z ン
’〕を破って「変
我的世界に,官能的覚醒なる「新しい青い天」(' new
eulb
容」した忘
heaven
’)に,
以前より豊韓な生を認識し,本来の自己に立ち戻る。さらに,マーチノミソ
クスへの愛は意識的みせかけの愛にすぎず,彼との関係が不毛な言葉だけ
の空疎なものであったことを見抜く。この勝利があのパソの存在にあずか
るものであると彼女が悟ったとき,
「春」の風といっしょに「アーモンド
の花」 (生殖的生命力を表す〉の匂いが漂ってくる。
ロレンスと「新し L 、」牧羊神パ γ
D.H.
11
一方,マーチバンクスは,ジェイムズ嬢がパンの供笑によって「歓喜の
fo thgiled
炎」(‘日 ame
’〉を全身に燃えあがらせているあいだ,
髪と「黒い」目をした行きずりの女と淫らな情事を重ねていた。
、
「黒L」
「堕落し
たパン」の顔をもっ好色的で冷笑的なマーチパンクスは,最後に突然,警
告もなく打ち倒される。ジェイムズ嬢のすぐ耳もとで「低 L 、,永遠の笑い
戸」(‘,wol
laugh
lanret
「射たれた獣」(‘tohs
')が聞こえてくるやいなや,マーチパンクスは
animal
’)のような絶叫の声をあげて,
あれはあの男だったんだ」と吠えるように言ったかと思うと,
れた男」(‘ man
by gnithgil
kcurts
「そうだ,
「雷に撃た
')のように絶命する。そして,結
局,マーチパンクスは,パンによる致命的な「笑い」で罰せられる宿命を
担うのだ。
IV
く「すべてに寛容なパンの神」>
ロレンスの最後の二つの作品,
The
』 (
男
Man
Who
,deiD
9291
『チャタレイ卿夫人の恋人』と『死んだ
)において,パン神のこうごうしい「神
性」ある美しさと恐怖を示す象徴は,しかしながら,基本的に,かつての
高速な位置から引き降ろされる。
『チャタレイ卿夫人の恋人』の第一九章,終りの部分に注目したい。メ
ラーズはコニー(Conie
)に手紙をあたえて,体制のなかに押さえこまれ
た大衆が偏狭な消費的生活のなかで堕落している点を非難し,現代産業世
界に生きる一般「大衆」にふさわしい取扱いについて,メラーズ個人の理
論をコニーに打ち明ける。読者は,メラーズの芦(すなわち,作者ロレン
スの声)にしては,異常なほど推論的な展開で話しているさまを聞くこと
ができる。
裸体になって美しくなること,皆といっしょに歌い,古い集団舞踏を
し,自分の腰かける椅子に彫刻をし,自分の紋章を縫いとりするとい
ったことを学ぶべきです。そうすれば,金は要らなくなる。それが産
業問題を解決するただひとつの方法です。金銭を浪費する必要などな
くて,生きうることを,美しい生活をすることを訓棟することです。
天理大学学報
12
ところがそれが実行できないでいる。現代の人聞は,みんな偏狭な精
神になってしまっている。そんなふうだから,大衆に考えさせるわけ
にはいかなし、。というのも,大衆には考えるということが「できな
しづからです。人々は生き生きとして跳ね回り,あの偉大なパンの神
eht(
taerg
god
Pan
)を認めなければいけない。その神こそ,永久
に,大衆にとって唯一の神(eht
ylno
god
rof
eht
mases
iger
少数の人聞は,好きなように,もっと高尚な信仰(h
)です。
stluc
)に
入っていってもいい。しかしながら大衆は永遠に異教徒(pagan
)た
)42(
らしむべきです。
(符点筆者)
パンは,とくに,牧歌的コミュニティでの歌と踊りと結びついた平凡な民
衆の「二流」の神と化してしまう。そこで、は,パンは,ものを考えること
のできない「大衆」のための神であり,そういう大衆の獣的な性の神であ
る。迷えるパンは,ロレンスの重要な象徴から離れて,かつての古典的役
割に戻っている。怖るべき暗黒を創造して燃えたった「パンの神秘」の炎
は
, 『チャタレイ卯|!夫人の恋人』で、は,メラーズがパンの助けを借りずに,
コニーとの「あたたかい」炎の交わりによって生まれる「平和」(' peac
)
’
elttil
を通して守られる。それは二人のあいだの「小さな二叉の炎」(‘
forked
flame
betwen
っと高い神秘」(吐rehgi1
me and
you
mystery
')の存在として昇華されるのだ。
’〉であり,「パンの神秘」より「も
『死んだ男』にも,メラーズが示した大衆のためのパンに非常に酷似し
た一節がある。作者の晩年の傾向と歩調を合わせるかのように,
の神のひとつとしてのパソが到達した形容語句は,
「群小」
「すべてに寛容な」と
して捉えられている。
死んだことのある男(man
who
had
捧げる女(woman
pure
hcraes
fo eht
deid
)と,純粋な探求に身を
)。この三人の男女は,暖か
く照り輝く西日のなかで言葉もなくじっと坐っていた。
太陽は燦然たる冬の光を発しつつ海のかなたに沈んでし、く。奴隷た
ちが小石の海岸で網をひろげて走り廻るとき,太陽の輝きは,奴隷た
たちの赤く輝いた大きな瞥部と小さな黒い頭をもった艶々した裸体の
ロレンスと「新し L 、」牧羊神パン
D.H.
31
うえに降りそそいだ。すべてに寛容なパンの神(
tnarelot-la
Pan)
が奴隷たちを見守っている。すべてに寛容な牧羊神(
tnarelot-lA
Pan
)こそ永遠に彼らの神であるべきだ。
以前よりもパ γ の神に似た生と性の真実に開眼し,もう一度生まれかわ
った「死んだ男」一一つまり「腔ったキリスト」(' nesir
tsirhC
’〉一ーは,
第二部において,肉体のなかに「新しい太陽」を昇らぜ,肉の完成と成就
をイシス sisI(
)の「亙女」(‘setseirp
’〉との合ーのなかで体験する。男
は過度に与えたり受けたりする「愛」の道をとらず,心のうちに笑いなが
ら
,
「生命の道」(‘way
「風」の吹くように,
fo efil ’〉を進むままにま
かせる。作者は,この「死んだ男」をノミンではなく,控った「失われたオ
シリス Jtsol'(
sirisO
’〉と同一視する。もはやパンは,「死んだ男」の神
でもなければ,再生の太陽を待つ蓮の曹,亙女の神でもない。パンは,作
者の同志として貴族的に超然とした亙女と「死んだ男」がなおざりにし嫌
悪感さえ抱いていた,裸の奴隷たもの干j
ll となる。それが,ロレンスがパン
に与えた究極の結末なのだ。
V
「大衆」にとっての神,一群の跳ね回る「奴隷たち」にとっての神とは
別に,メラーズは「少数の人間」の宗教を,既出のように,
な信仰」として望んだ。
「もっと高尚な信仰」とは,
「もっと高尚
「死んだ男」と亙女,
メラーズとコニーが,それぞれの生活において新しく行動に移す「やさし
さ」(','senrednet
sendik'
’)の宗教を含むことは,疑う余地はない。
なるほどこのやさしさの宗教は,
『翼ある蛇』のケイトとシプリアーノの
関係のように,性的な男女両性関係に基づいている。しかし,『翼ある蛇』
のパンは,一群のパン神の形象のなかで,もっともやさしくない神であ
った。つまり「神魔パン」(‘ god-demon
(warmth
たかさ J ‘
ント・モーア』の,
world
Pan
’〉は,「やさしさ」,「あた
’)より重要視されたので、ある。パンが存在する『セ
「
i生以前の原始の世界」(' lauxes-erp
’〉には,愛の神,キリスト,「全能の愛すべき神 (
ythgimlA
sert-eniP(
Go のはいないのだ。そこにいる神とは,松の木
primeval
gnivol
)のように粗
天理大学学報
14
くて,稲妻 (lightn
elbiroh
)のように恐ろしい (
)62(
」ものであった。
)
『セント・モーア』のパンの舞台は,荒審たる世界を露呈していた。
「やさしさ」の決定的な要素は,ロレ γスの「性の哲学」(‘ philosophy
’〕につけ加えられた。しかもロレンスは,このパンの神をその「や
of sex
さしい生命の接触J ('tendr
touch
of efil
')の神に変える選択をしなかっ
た。作者がパンの形象に執着することは容易である。が,そうすればその
表象のもつ生命感を喪失させ,生命力を枯渇させることにもなりかねない。
表象とは,生命主義の作家にとって,それほど短かい寿命しかない単なる
ー現象にすぎなし、。パンの表象そのものの意味を変える難しさ以上に,パ
、
ンの表象のもつ切迫した事実は,重要なのだ。やさしい「生の触れ合 L」
「小さな二叉の炎」の神にパンを変えるより,むしろパンを解き放
の神,
して自由にすることのほうがパンの自然の移りゆきであり,表象としての
パンの真の在り方であった。明らかに,死期を目前にしたロレンスの復活
願望と相侯って,パン神の表象の生命感と活力は疲弊しており,ロレンス
は進んでパンの形象の使用を止め,静かな信念をもって忘却を迎え入れよ
うとしている。勿論,パンは「更生ったキリスト」によって征服されたわけ
「蛙ったキリスト」と同一なものと考えられたわけで、もない。パン
でも,
「死んだ男」の肉の復活によって,あらがうことなく元の位置に戻さ
,
は
れたのである。異教の終荒とキリストの降誕は,
「偉大なパンが死んだ」
という声で迎えられ,キリスト教はパンを既成の悪魔の神に変身させた。
が,しかし,ロレンスは悪魔をパンの神に匙らせ,ついに一切受容の精神
をもって,キリストと並置しうる正当なる座にまで,この異教の神を復位
させた。ロレンスの全作品に一貫する「生」一一「死」一一「再生J の循環,
「回生」の主調音を主題とするロレンスの思想は,このパンの神というノミ
ースベクティブからも,成就されることになるのだ。キリスト教文化によ
って殺されたパンを,キリスト教的文明の現代において,再帰還さぜ相互
補完の関係に変えた価値こそ,ロレンスの偉大さではないか。
j主
(1)
へロドトス,松平千秋訳『歴史』 (岩波文庫, 6891 〕,巻三,巻六参照。
Imagery [ Amsterdam•
and
.fo slobmyS
de irV 巴SyranoitciD
’
,
‘ruatnec
. eS ,
4791 〕
Company,
gnihslbuP
dnaloH-htrN
Ad
(2)
London:
D.R.
‘
goat
(3)
ロレンスと「新しし、」牧羊神パン
51
’
,
‘ Pan .
’
エドガー・ウィント,田中英道他訳,
『ルネサンスの異教秘儀』 (品文
),第十三章。ジャン・セズネッタ, 高田勇訳, 『神々は死なず,
ノレネサンス芸術における異教神』 (美術出版社, 791 )。高階秀爾, 『ルネ
ッサンスの光と闇』 (中公文庫, 7891 ),第八章他。 アレイザー, 永橋卓介
訳
, 『金枝篇』(岩波文庫, 5791 ),第四十九章。 「森林の主」と呼ばれたパ
ンは,森林の精霊に属するものとして表現された。旧約にみられるような山
社
, 6891
羊
牧神パ γーーディオニュソスーパッカス崇拝との関連にも注目したい。
( 4)
Arthur
Machen,
The taerG
God Pan and The tsomnI
thgiL
(London
& ,
notsB
.)4981
(5 〕 ,eS aicirtaP
,elavireM
Pan eht :doG-taoG
His Myth
ni Modern
Times
(Cambridge:
( 6)
Harvard
niloC
ytisrevinU
fo:noitulosiD
reviR
,ekralC
msictnaoR
(London:
Routledg
,serP
.)9691
.D
.H
,luaP
巴& Kegan
Lawrenc
& hsilgnE
.)9691
ロレンスの「生ける統合」,溶解(‘gnivil
noitargetnisd
’〉の思想の面から
クラークはロレンスに新しい照明をあてた。 「新」ロマン派の文学者として
ロレンスを位置づける問題を考えさせてくれる。
( 7)
.D H. Lawrenc,
The etihW
kcoaeP
(Cambridge:
Cambr
吋g
e -inU
ytisrev
Lawrenc,
,serP
The
,)3891
Cambridge
noitdE
fo eht
Works
fo.D
H.
.p .741-641
ロレンスの作品については,以下,原則としてすべて「ケンブリッジ版」に
依っているが,未刊のものについては,ハイネマン社の「不死鳥版」に依つ
った。
(8)
.D.H
Lawr
巴
,en thgilwT
ni ylatI .tpr(
London:
Heineman,
,)0791
The Phoenix
noitdE
fo.D
H. Lawrenc,
.p .801
( 9)
.D H. Lawrenc,
Women
ni evoL .tpr(
London:
Heineman,
691 ,
〕
.p .58
thgilwT
ni ,ylatI
.D H. Lawrenc,
)01(
)l(
.p .901
The
Rainbow
.tpr(
London:
Heineman,
,)8691
.p .043
21( 〕,.dibI
,.dibI
Edward
)31(
)41(
Lawrenc
.p .572-472
.p .423
McDonald,
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(Cambridg
.p .97-87
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ヲ開文中の符点は筆者。
London:
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天理大学学報
16
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D.H.
0791
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Lawrence,
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London:
Heineman,
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.p .834
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14 .57
なお,ウィドマーは,ニヒリスティクな「悪霊のごとき恋人」像としてのパ
)02(
ン表象を,人間の「歪曲」的側面を中心に解明している。
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.)3591(
邦訳,大久保直幹他, 『感情と形式 E 』 (太陽選書, ,)5791
とくに 560365 頁参照。ラソガーも指摘するように, 「笑い」は, 生命感情の波動から
生じ,波にも比すべき生命感の波頭であり,優越感の「昂揚」を伴なう。
D.H.
Lawrence,
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London:
Heineman,
,)691
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and Stoughton,
.)4891
)2(
邦訳,木幡和枝, 『風の博物誌』 (河出書房新社, 5891 )参照。「風」と「霊」
anima
)
」という語根で、双方を表わし,アニマか
はラテン語では,「アニマ (
ら「魂」を表わす「アニムス (
animus
)
」を派生せしめる。
2( の D. H. Lawrence,
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London:
Heineman,
,)1691
.p .263-163
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Who
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52( 〕 D.H.
II .tpr(
London
: Hein 巴man,
,)8691
.p .43
)62(
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Mawr
And
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,seirotS
.p .741
原文イタリック。
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