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無知と野蛮

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無知と野蛮
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無知と野蛮
― コミュニケーションを阻害するもの ―
「自由のためのゼミ」事務局
久 世 基 文
人類の歴史をつらつら振り返ってみると,そこには無知と野蛮が満ち満ちている。そして,それが‘あ
るべき’コミュニケーションを阻害し,人間の生命と自由を奪ってきた。ほとんどどの宗教も神の慈悲
を説き,正義の遂行と勧善懲悪を唱えながら,野蛮をなしてきた。否,人類史はそのような無知と野蛮
の歴史と言っても過言ではなかろう。戦争や虐殺の例を挙げれば,キリがない。だが,そればかりでは
ない。無知と野蛮が多くの科学者や技術者の生命・自由を奪ってきた例は,枚挙に暇がない。ここでは,
主に,無知や野蛮によってその生命や自由を奪われてきた医師たちの例を振り返ってみよう。
■ 無知と野蛮によって奪われた医師の生命や自由
医師や科学者の生命や自由を奪った歴史上の顕著な例1)は,中世の宗教裁判によるものである。中世
イタリアの医学者ダバーノ(Pietro D Abano, 約1250∼1316)は,ギリシアと近東を旅してアラビア医学
を学んだ後,パリで西欧式の教育を受けた。彼は科学時代の到来を予見し,『調停者』という著書を著し
た。これは,アラビア医学とギリシア医学との融合を図ったもので,‘脳は神経の根源である’や‘心臓
が血管の中心である’などの,当時としては先駆的なアイデアを記述していた。また,空気には重さが
あると主張し,1年の長さを正確に測定したりした。だが,特に医術の下手な医者と争い,魔女(魔術者)
の疑いをかけられて,2度宗教裁判にかけられた。一度目は放免されたが,2度目の裁判中にダバーノ
は死亡した。
ルネサンス期フランダースの解剖学者ヴェサリウス(Andreas Vesalius, 1514∼1564)は,ブリュッセ
ルに生まれ,ルーベン(現在のベルギーにある)とパリでガレノス(Galen,約130∼200)の学説を学ん
だが,自ら解剖をしたいと考えていた。だが,当時北ヨーロッパではその願いは叶わなかったので,比
較的学問の自由が許されていイタリアに赴いた。解剖を敬意を払うべき行為とした中世イタリアの解剖
学者モンディーノ・デ・ルッチ(Mondino De Luzzi, 約1275∼1326)の,自らの手で解剖を実演する手
法を復活させたヴェサリウスは,イタリアのパヴィア,ボローニャ,ピサの各大学部で解剖学を教えた。
自ら解剖の実演をする彼の授業には大勢の学生が押しかけた。
『聖書』の『創世記』には,アダムの肋骨からイヴがつくられたことになっているので,中世の人々に
は,男の肋骨は女のそれよりも一本少ないと信じられていた。ヴェサリウスは骨格標本を展示すること
により,男女の肋骨の数が同じであることを示し,これは大きな評判を呼んだ。
ヴェサリウスは,その研究成果をまとめて『人体の構造について』(De Corporis Humani Fabrica)
という大作を出版した。これには正確で美しい解剖図[大部分,画家ヤン・ステファン(Jan Stephan
van Calcar)によって描かれた]が掲載されており,特にその筋肉の描写は正確である。30歳に満たな
いヴェサリウスが書いたこの著書は当初ひどい非難を受けたが,これはポーランドの天文学者コペルニ
クス(Nicolas Copernicus, 1473∼1543)の“地動説”と同時期に,ともに“科学革命”を導いた画期的
くぜ もとふみ
〒320-0851 宇都宮市鶴田町2671-2 「自由のためのゼミ」事務局
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無知と野蛮 ― コミュニケーションを阻害するもの ―
な業績であった。それは,それまでヨーロッパで絶対的な権威をもっていたギリシアのガレノスの医学
を終局に導くものであった。
正確無比の観察をした解剖学者ヴェサリウスも,生理学の面では古代の観念から抜け出せることがで
きず,血液の循環に関してはガレノスの説をとり,血液は心室から心室へと,その間にある壁の目に見
えない細孔を通って移動すると考えた。しかし,晩年にはヴェサリウスはガレノスの学説を疑うように
なり,
また,
心臓が生命・精神・感情の中心であるとする古代ギリシアの哲学者アリストテレス(Aristotle,
B.C. 384∼B.C. 322)の説には反対し,真の中枢は脳と神経系にあると主張した。それ以来,この説が広
く信じられるようになった。
その名声が高まると,ヴェサリウスはカルル5世(Karl V, 1500∼1558)の侍医に任命され,次いで
その皇子で後のスペイン王フェリペ2世(Felipe Ⅱ , 1527∼1598)の侍医となった。名声が高まるにつれ,
これを快く思わない人々の反感を買い,人体解剖やその学説が異端と攻撃され,ヴェサリウスは危うく
処刑されるところだった。王家の侍医をしていたために難を逃れ,減刑されたが,それによってエルサ
レムへの巡礼に旅立った帰途,ギリシア沖で彼の乗った船が難破し,ヴェサリウスは海の中にその命を
落とすこととなった。つまり,死刑を執行されたのと同じ結果となったのである。
同じく16世紀のスペインの医師セルヴェトゥス(Michael Servetus, 1511∼1553)は,1536年にパリに
行って医学を修め,ここで初期プロテスタントの実力者カルヴァン(Jean Calvin, 1509∼1564)に会った。
パリでは他の医者たちと争い,セルヴェトゥスは南東フランスのビエンヌに移って開業した。旧教にも
新教にも反対し,過激なユニテリアン派(unitarians)の思想を抱いていたセルヴェトゥスは,1553年,
匿名でその神学理論を発表した。その中で,彼は肺動脈を通って心臓を出た血液は肺静脈を通って心臓
に戻るのであって,心臓の壁を通り抜けるのではないと主張,ガレノスの権威を打破する一歩を踏み出
した。だが,ガレノスの学説を本当に打破できたのは,それからおよそ75年後,英国の医師ハーヴェイ
(William Harvey, 1578∼1657)によってであった。
その異教的な生理学は問題とならなかったが,匿名で発表したにもかかわらず,セルヴェトゥスの神
学理論は異教的な宗教学として弾劾され,逮捕された。一度はイタリアに逃れたが,愚かにもセルヴェトゥ
スは,陰険なカルヴァンが支配されていたジェノア付近を通ったため,捕らえられてカルヴァンに死刑
を宣告され,火刑に処された。この行為のため,カルヴァンは後世の人々の評判を落とすことになった。
処刑こそ免れたが,16∼17世紀英国の医師ハーヴェイも危険な目に遭っている。裕福な家庭に生まれ
たハーヴェイはケンブリッジに学び,1579年に学位を取った後,イタリア,パドヴァの医学校に学んだ。
そして,彼は当時イタリアで活躍していたガリレオ(Galileo Galilei, 1564∼1642)の思想を医学・生理学
の分野に応用した。1602年に医学博士号を取得して帰国し開業したハーヴェイのもとには,著名な英国
の哲学者ベーコン(Francis Bacon, 1561∼1626)なども患者として訪れ,またジェームス1世(James Ⅰ,
1566∼1625)やチャールズ1世(Charles Ⅰ, 1600∼1649)の侍医も務めた。
医学研究に強い興味を抱いたハーヴェイは,実際に解剖を行い,心臓のふたつの心房とふたつの心室
との間にある弁が一方向のみに開くものであることを発見した。血液は一方向に流れるのであって,逆
流しないのだ。また,動脈を堅く縛ると,心臓側が膨らみ,静脈を堅く縛ると反対側が膨らんだ。これ
は血液が一方通行で流れていることを示しており,ガレノスが考えた「血液は血管中を振動している」
のではない証拠だった。ハーヴェイは,心臓から押し出される血液量は1時間あたり体重の3倍である
と計算した。これほど大量の血液が常につくられたり消滅したりしているとは考えにくい。そこで彼は,
血液は心臓から動脈へ,そして静脈を通って再び心臓へと“循環”しているとの結論に達した。1628年,
ハーヴェイはこの結論とそれを裏づける証拠とを,わずか72ページの小冊子にしてオランダで出版した。
この『心臓と血液の運動について』(“Exercitatio De Motu Cordis et Sanguinis”)と題する書物は,粗
末な紙に印刷したみすぼらしいもので,印刷ミスもあったが,そこに述べられていることは明白で疑う
余地のない優れた科学的議論であった。
だが,ハーヴェイははじめ嘲笑され,医者の仕事も減ってしまった。高名な医者が彼の説に反論しガ
レノスの説を擁護する大冊子を出し,ハーヴェイは“循環器”とあだ名された。それは,ラテン語の俗
語で「やぶ医者」を意味するコトバであった。しかし,チャールズ1世はハーヴェイを信用し,彼に王
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家の鹿を実験用に与えた。チャールズ1世と議会との間に起きた戦争中,ハーヴェイはチャールズ1世
に仕えた。この戦争により,チャールズ1世は王位を追われ処刑されたが,混乱の中,ハーヴェイは無
事ロンドンに戻ることができた。(革命家たちは彼の家に押し入り,ノートや標本の一部を破損した。)
晩年にはハーヴェイの血液循環論が認められるようになり,1654年には医科大学の学長に選出されたが,
彼はこれを辞退し静かな余生を送った。
血液循環論が成立するためには,動脈と静脈とのつながりが発見されなければならなかったが,その
つながりははっきり見ることができなかった。ハーヴェイは動脈も静脈も枝分かれしてだんだん細くな
り,ついには目に見えないものになると考えた。このことは,ハーヴェイの死後30年たって,イタリア
の生理学者マルピーギ(Marcello Malpighi, 1628∼1694)が顕微鏡を使った観察によって証明した。
■ 無知と野蛮,そしてコミュニケーション
本『交流』欄で,山下洵子氏は「コミュニケーション」こそが看護の基礎をなしている趣旨のことを
述べておられる2)。だが,コミュニケーションが基礎となるのは,看護の領域ばかりではない。コミュ
ニケーション,特に言語的コミュニケーションというものは,われわれの‘理解’を推進し,あらゆる
平和的な人間関係を築くのに重要な事柄である。そして,そのようなコミュニケーションを成立させる
ためには,いくばくかの知識と精神的努力が必要である。
実験的方法と数学的論証とを結合させた近代科学の方法を確立し,“地動説”を唱えて宗教裁判にかけ
られたイタリアの科学者ガリレオは,その著『偽金鑑識官』( Il Saggiatore , 1623)に次のように述べて
いる。
「哲学は,目のまえにたえず開かれているこの最も巨大な書[すなわち宇宙]のなかに,書かれて
いるのです。しかし,まずその言語を理解し,そこに書かれている文字を解読することを学ばないかぎり,
理解できません。その書は数学の言語で書かれており,その文字は三角形,円その他の幾何学図形であっ
て,これらの手段がなければ,人間の力では,そのことばを理解できないのです。それなしには,暗い
迷宮を虚しくさまようだけなのです。」3)
もしシラクサに攻め入りアルキメデス(Archimedes, B.C. 約287∼B.C. 約212)に遭遇したローマ兵が
幾何学とその重要性を理解していたならば,あるいはアルキメデスは寿命を全うせずに命を落とすこと
なく,その後の科学技術の発展にさらに貢献したかもしれない。アルキメデスは,砂の上に幾何学図形
を描いて考えていたときに,下級ローマ兵に殺されたのである。ローマ軍の艦隊を率いていたマルケル
ス将軍(Marcus Claudius Marcellus, B.C. 約270∼B.C. 208)は,アルキメデスの力を惜しみ,アルキメ
デスを見つけたら生きたまま鄭重に待遇するように命令を出していた。だが,ファックスもインターネッ
トもなかった紀元前当時の地中海世界では,将軍の命令が下級兵士にまで行き渡ることは恐らく困難で
あったろうし,ましてや遭遇した人物がアルキメデスかどうかを判断することは不可能といってもよかっ
たにちがいない。
現代の技術はファックスやインターネットなどの情報通信,コミュニケーション技術を飛躍的に進歩
させた。だが,それだけでは円滑なコミュニケーションが成立するという保証はない。重ねて述べるが,
本当にコミュニケーションが成立するためには,いくばくかの知識と精神的努力,実験や観察に基づく“実
在の事実”を共通のよりどころとする科学的な姿勢が必要不可欠であろう。無知は独断を招き野蛮をも
たらす。知識を尊重し絶えず自らの無知を顧みる謙虚さこそ,相互の理解と平和的な人間関係の構築に
欠かせないものなのではないだろうか。
参考文献
1)例として挙げたものは,主に Isaac Asimov, Asimov s Biographical Encyclopedia of Science &
Technology , 2nd Revised Ed., 1982, Doubleday & Company, Inc. およびその初版の日本語訳『科学
技術人名辞典』Ⅰ.アシモフ・著/皆川義雄・訳,1971,共立出版 を参照した。
2)山下洵子:
『和文論文作りを通してコミュニケーションを考える −その12
「お金持ち」
と
「優れる」
−』
,
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無知と野蛮 ― コミュニケーションを阻害するもの ―
看護学統合研究7巻2号,p.66,2006.
3)ガリレオ:『偽金鑑識官』,1623,豊田利幸責任編集『ガリレオ』,中央公論社『世界の名著』第26巻,
p.308,1979.
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