Comments
Description
Transcript
合鴨農法 - 内閣府経済社会総合研究所
事例 4 合鴨農法 生きものが棲む田んぼの自然を世界の水田に 有機農業で社会に貢献したい 一念発起して挑戦した完全無農薬の有機農業は失敗と苦労の連続でしたが、 こだわり続けて確立させた古野式の合鴨農法は広くアジア各国に普及しています。 プロフィール 古野隆雄 Takao FURUNO ふるの・たかお●1950年、福岡県で農 同農法を国内外に伝播・普及させた功 家の息子として生まれる。九州大学農 績で、2001年、シュワブ財団より「傑 学部を卒業。大学院に進学するが、78 出した社会起業家」のひとりに選出さ 年に中退し有機農業をはじめる。80年 れた。著書『合鴨ばんざい』 や研究成果 に結婚。88年「合鴨除草法」に出会っ は英文でも出版されている。2008年、 たことをきっかけに、画期的な有機農 九州大学で博士号を取得する。5人の 法「合鴨水稲同時作」の技術を確立。 子どもの父親でもある。 これまでの歩み 1978 年 大学を中退して家業の有機農業に従事 1988 年 合鴨農法への取り組みを開始 1990 年〜 アジア諸国の合鴨・アヒル農法を視察 2001 年 著書「合鴨ばんざい」が英訳・出版される シュワブ財団「傑出した社会起業家」受賞 2008 年 九州大学で博士号を取得 農法は、アジアではかなり古くから行われていたそう です。しかし古野式では、合鴨を飼う水田を囲い込み、 稲作と畜産を同時に行うことが特徴といえます。雑草 や虫の防除、稲への養分供給もすべて合鴨まかせ。 「有 機農法は手がかかる」という常識を覆す、非常に効率 的な農法なのです。 この優れた技術を、日本各地はもとより、中国、韓国、 古野隆雄・久美子夫妻が営む「古野農場」は、福岡県 ベトナム、フィリピン、インドネシア、キューバなど 桂川町にあります。有吉佐和子の『複合汚染』に影響 に伝播・普及させた功績が大きく評価されています。ま を受け、78年から完全無農薬の有機農業を目指して孤 た、稲作のほか、完全無農薬で野菜も栽培しています。 軍奮闘してきましたが、最初の10年間は苦難の連続。 さらに鶏卵や鴨肉の生産・販売も手がけており、ネット 「完全無農薬なんてできるわけがない」と言われながら も志を曲げずに、夫妻で草取りに追われる日が続きま した。 転機となったのは富山県の置田敏雄さんの「合鴨除 草法」に出会ったこと。それをヒントに、約3年の試行 錯誤の末、91年には画期的な有機農法「合鴨水稲同時 作」の技術を確立させたのです。 合鴨とはアヒルとマガモをかけ合わせたもの。昼間 にアヒルを水田で放し飼いにして草や虫を食べさせる 22 直販も行っています。 農閑期もアジア各国を 飛び回り古野式のコン セプトとノウハウの伝 授に余念がない PROCESS 社会イノベーション・プロセス STEP1 イノベーター・ステップ 社会貢献めざし完全無農薬の有機農業に挑戦 で水田の草取りに明け暮れる日々が続 機は、有吉佐和子の『複合汚染』を読 きました。周囲はそんな古野夫妻を冷 んで、問題意識に目覚めたから。 「有 ややかに見ていましたが、 「有機農業 機農業で社会に貢献したい」との思い の大切さを理屈で説くのではなく、実 を抱き、完全無農薬の有機農業を目指 際に作物をつくることが重要だと思っ したのです。しかし、最初の10年間は ていた」と、古野さんは振り返ります。 苦労ばかり。自分なりのやり方を見つ 合鴨に出会うまで、有機農法は「苦し けたくて、さまざまな方法を試します いもの」だったのです。 4 :合鴨農法 野さんは、有機農業に挑戦します。動 事例 が、なかなかうまくいきません。夫婦 有機農業 78年に九州大学大学院を中退した古 STEP2 アントレプレナー・ステップ 運命の出会いと合鴨を守る孤独な闘い 転機は88年に訪れます。隣町に住む でも合鴨をあきらめきれず、野犬と闘 自然農法の先生から「富山県の置田敏 うことを決意するのです。 「今振り返る 雄さんが合鴨を田んぼに放して除草を と、壁にぶち当たっていたこの時期が している」と聞いたのです。資料を送 いちばん辛かった」 (古野さん) 。90年、 ってもらって試してみると非常にうま イノシシ防御のための電気柵を偶然に くいき、喜んだのも束の間。同年8月、 発見し、それを使うことで野犬の撃退 3匹の野犬に合鴨が襲われてしまいま に成功。その後も独自の工夫を重ねて、 す。置田さんに相談するも「野犬がい より効率的な「合鴨水稲同時作」を確 るところでは難しい」との返事。それ 立したのです。 外敵から合鴨を守る電気柵はいまや必需品 STEP3 ディフュージョン・ステップ 世界に広がる古野式合鴨農法 技術指導を求め海外から調査団も訪れる古野農場 「合鴨水稲同時作」という技術を確 訳された著書『THE POWER OF DUCK』 立したことで、苦しかった有機農業が が読まれたことで同農法はさらに広が 「楽しいもの」に変わりました。忙しさ り、近年はキューバにも伝播。また「全 からも解放され、時間的、経済的な余 国合鴨水稲会」の代表世話人として、 裕も生まれたため、今度はこの優れた 国内でのさらなる普及や、カモ肉を食 技術を、全国各地はもとより、アジア べる習慣を広げる活動にも尽力してい 各国に普及させるべく活動をはじめま ます。10年ほど前から古野農場の合鴨 す。当初は、技術指導に出かける際の 米を使った日本酒「一鳥万宝」もつく 旅費も自身の持ち出しだったとか。英 られています。 23 インタビュー I N T E R V I E W, I M P L I C AT I O N & V I S I O N 原点は家族が食べるものをつくる 百姓 24 古 野さんは、 「百姓」という肩書きを好んで使 っています。 「百姓というと差別用語のよ うに思われていますが、米や野菜もつくる し、鶏も育てる、小屋も建てるなど、百の仕事をこな すから百姓と呼ぶ。本来、農業とは自分の工夫次第で おもしろくできるもの。 〝百姓百作〟でいろいろな物を つくるからこそ変化があって楽しいし、循環も成立す る。カモの糞で稲が育ち、クズ米がカモのエサになる。 そして野菜クズで鶏が育つんです」 もうひとつこだわってきたのが、 「家族で農業をする」 田植え後 10 日ごろヒナが田んぼに放される っても他の農家は減農薬なのに、自分だけが完全無農 ということです。最近では研修生も受け入れています 薬に挑戦して、失敗ばかりしている。ほんとうにバカ が、過去30年近く、人を雇わずに家族だけでなんとか なんじゃないか」と思いつめ、絶望的になっていたの 切り盛りをしてきました。5人の子どもたちも小さい です。 頃から農作業を手伝っているそうです。 万策尽きた夫妻は、気分転換を兼ねて、山間の村に 「売るために作物をつくるのではなく、家族で食べる 住む妻の姉を訪ねます。そこでイノシシ防御のための ものをつくるのが本来の百姓の姿。その延長で自分た 電気柵を見つけ、田んぼに応用したところ大成功。3 ちが食べているものを消費者にも届けるということ。 年におよぶ野犬との闘いに見事に勝利したのです。 農業は自分たちでやることに意義がある。時代が変わ っても、家族農業の原型は保っていきたい」と、古野 さん。 働き者の食いしん坊が 農業の敵・雑草をプラスの材料に変えた 大切な家族が食べるものだから、おいしくて安全な その後もさらなる創意工夫を重ね、たどり着いたの 作物をつくりたいと思うのは当然のこと。農薬や化学 が「合鴨水稲同時作」の技術です。囲いをした水田に 肥料を使わない古野農場の米や野菜は、家族の健康に 合鴨のヒナを放ち、雑草や害虫を駆除しながら、稲と とっても理想的といえるでしょう。 合鴨を育てます。稲作と畜産を同時に行うから「同時作」 完全無農薬有機農法への孤独な挑戦 絶望の日々を乗り越える と呼ぶのです。「ふたつを組み合わせることで、従来の 日本の農業では邪魔モノ扱いされてきた雑草や虫が、 合鴨のエサという資源に変わるんです」 しかし、古野さんにとって、有機農法の技術の確立 また、合鴨は草や虫を食べるだけではありません。 までの道のりは試練の連続でした。理想に燃え、完全 合鴨が水をかき、くちばしや羽で刺激することで丈夫 無農薬の有機農法に取り組んだものの、最初の10年間 な稲が育ち、その糞が稲の養分となるなど、合鴨を飼 は、夫妻で草取りに明け暮れる毎日。除草や防虫の効 うことが稲にプラスの影響を与えるのです。ヒナを放 果的な方法はなかなか見つかりませんでした。 った後はそのままにしておくので、合鴨を移動させる 88年、置田敏雄さんの「合鴨除草法」を知ったこと 手間もいりません。驚くほど人手がかからない、画期 で希望の光が差しましたが、合鴨が野犬に襲われたこ 的な有機農法なのです。「有機農法であっても効率を求 とで、再び窮地に追い込まれます。それでも合鴨をあ めるのは当然のこと。手間がかかるのは技術が完成し きらめきれない。背水の陣で野犬との闘いに挑んだも ていないから。誰でも簡単にできる技術をつくりあげ のの、何をやってもうまくいかず連戦連敗。「有機とい ることが重要だと、合鴨が教えてくれたんです」 社会的価値 合鴨が取り戻してくれた 循環型農業 創意工夫でアジアの暮らしと環境を守る 有機農業 ひとくちに合鴨農法といっても、方法はさまざまで す。日中のあいだアヒルを水田で放し飼いにして草や 虫を食べさせ、日が暮れると合鴨を小屋へ移動させる、 というやり方は、中国をはじめ、アジアではかなり古 事例 :合鴨農法 くから行われていました。ですが、稲作に農薬を使う ようになった1960年代以降、この方法は廃れます。農 薬の害でアヒルが死ぬようになったからです。 古野式はこの伝統農法の復活ともいえますが、大き な違いは合鴨を飼う水田を囲い込むこと。アジアでも、 も収穫が落ちますが、「合鴨水稲同時作」では同程度の 今ではこの囲い込み方式が普及しています。 収穫を確保できます。完全無農薬の有機農法であるた 経済にも環境にもうれしい技術が海を越える 古野式の導入は経済面でも大きなメリットがありま す。雑草・虫の防除や養分供給はすべて合鴨がやってく れるため、農薬や化学肥料が不要。カモ肉の売上げも め、環境保全、資源節約の面でも優れている。まさに「一 鳥万宝」。古野さんの言を借りれば、「実にエコロジカ ルでエコノミカル」な技術なのです。 有機ブームでも商売より技術の完成 加わるため、売上げから経費を引いた所得はおよそ2 健康志向の広がりや環境問題への関心の高まりとと ~3倍に増えます。また、天候不順で米が不作のとき もに、日本でも有機野菜、有機米の需要が伸びています。 もカモ肉で収入が確保できるなど、リスクヘッジの側 通常、無農薬米は普通の米の倍の価格で販売されてい 面もあり、貧しいアジアの農家にはうってつけのイノ ますが、それでも売れ行きは好調です。 ベーティブな技術といえるでしょう。 にもかかわらず、古野農場の「合鴨米」は10キロ 「水牛で田んぼを耕しているアジアの国々では、トラ 5000円とリーズナブル。「手間がかからないから、値 クターなどの大型機械や農薬に頼った近代農業は普及 段を高くする必要がない。有機米ではいちばん安いん しない。技術が広がるには、その技術が合理的である じゃないかな」と、笑う古野さん。儲けることにはま ことと、経済合理性を備えていることが必要なんです」 ったく関心がないようです。 と、古野さんは語っています。 一般的に有機米は、農薬や化学肥料を使う方法より 4 左/囲い込みが特徴の古野式を伝授 右/主食もおかずもデザートも同時作 さらなる効率化を目指し、古野さんはきょうも技術 の改良に取り組んでいます。 将来ビジョン 循環型農業という「アジアの暮らしの原点」を守って いきたい。最近は水田にドジョウも放しています。50 年代のように、田んぼで子どもたちがドジョウをつか まえる姿を復活させるのが夢。昔の田んぼには魚もい た。稲作と畜産、水産を同時にやれば、田んぼは子ど もたちのワンダーランドになると思います。 25 事例 5 大地を守る無農薬野菜 安全な食 を考える人の輪を世界に広げたい 〝糾弾型の学生運動〟から提案・実践型の有機農業運動へ―。 社会の根幹をなす第一次産業の持続可能な発展をめざす活動を支えたのは消費者でした。 揺らぐことのない軸足で 大地 を踏みしめ、社会へメッセージを発信し続けています。 プロフィール 藤田和芳 Kazuyoshi FUJITA ふじた・かずよし●株式会社「大地」代 の生産・流通・消費のネットワークづく 表取締役、環境NGO「大地を守る会」会 りに乗り出す。75年、活動母体となる 長。1947年、岩手県の農家に生まれる。 「大地を守る会」を設立し、翌年には同 66年、上智大学に入学。学生運動に参 会の活動に専念。77年、流通部門を 「大 加するも、最後には挫折感を味わって 地」 として独立させ、安心して食べられ 出版社に就職。有機農法を研究する医 る農産物、畜産物などの供給と、生活 師との出会いをきっかけに、有機野菜 の安全を守る市民運動に力を注ぐ。 これまでの歩み 1975 年 1977 年 1985 年 1999 年 2006 年 市民運動団体「大地を守る会」を設立 青空市で無農薬野菜の販売をはじめる 「大地を守る会」の流通部門として株式会社 「大地」 の数も増えていきました。 手応えに背中を押されて、75年、市民運動団体「大 地を守る会」を設立。「農薬の危険性を100万回叫ぶよ を設立 りも、1本の無農薬の大根をつくり、運び、食べるこ 宅配事業「自然宅配」(現在の「大地宅配」 ) を開始 とからはじめよう」をスローガンに活動をはじめます。 「大地を守る会有機農産物等生産基準」 を策定 〝顔の見える国際交流〟を提唱し「DAFDAF基金」 を 設立 2年後には、その理念を実現するため、流通部門を株 式会社「大地」として独立させ、消費者に安全な食べ 物を届けるしくみを構築したのです。さらに85年には 宅配事業に着手。このビジネスモデルは食の安全への 大学在学中には学生運動に参加して世の中の矛盾を 糾弾していた藤田さんですが、卒業後は小さな出版社 する同種事業の先駆けとなりました。 に就職します。 「これでよいのだろうか?」と自問自答 一方「大地を守る会」では、日本の第一次産業の持 する毎日を送るなかで、農薬を使わない農法を研究す 続可能な発展と、環境や生活の安全を守るための活動 る医師と出会い、それをきっかけに有機農業に関心を をしています。 持ちます。 「虫食いがあるので無農薬の野菜は売れない」 という有機農家の嘆きを聞き、 「買い手は必ずいる。私 に任せてください」と奮起。ところが、あてにしてい た生協に取引を断られ、追い詰められた藤田さんは、 会社の休日に東京・江東区の団地で青空市を開くこと に。これが予想外の評判となり、販売拠点となる団地 26 意識の高まりとともに消費者に支持され、のちに普及 30 年にわたる取り組みを象徴 するように青空の下ではため く 「大地を守る会」の会旗 PROCESS 社会イノベーション・プロセス STEP1 イノベーター・ステップ 医師との出会いで知った 〝農薬に毒薬成分〟 問題点に目覚めます。もともとは岩手 る高倉煕景医師の存在を知ります。戦 の農村の生まれ。 「農業は社会の根幹。 時中に毒ガスの研究をしていた高倉医 そこに足場を置いて自分や社会を見つ 師は、農薬に毒ガスの成分であるDDT め直してみよう」と考えるようになった が使われていることに危機感を抱き、 水 のです。水戸に何度も通ううち、 「有機 戸市の近隣農家を説得してミネラル農 野菜は見栄えが悪いため、売れない」と 法(現在の有機無農薬農法)に取り組ん いう有機農家の悩みを知り、自分が販 でいました。高倉医師を訪ねた藤田さ 路を見つけようと発奮するのです。 5 :大地を守る無農薬野菜 で、農薬を使わない農法を研究してい 事例 んは、その話を聞くうちに農業が抱える 有機農業 会社員時代、藤田さんは雑誌の記事 STEP2 アントレプレナー・ステップ 青空市場からはじまった有機農業運動 「生協なら買ってくれるはず」 。そう 回る団地の数が増え、仲間で購入・分 考えていた藤田さんですが、目論みは 配するという「共同購入」の原型も生 はずれてしまいます。引っ込みがつか まれました。この勢いを受けて、 「大 なくなり、75年、日曜日に東京・江東 地を守る市民の会」 (のちに名称変更) 区の団地で青空市を開くという苦肉の を設立。 「農薬の危険性を100万回叫ぶ 策に出たところ、これが大好評。団地 よりも、1本の無農薬の大根を作り、 に住む若い母親たちが、 「昔の野菜の味 運び、食べることからはじめよう」と、 がする」と、無農薬の野菜をよろこん 有機農業運動を進めるのです。 で買ってくれたのです。やがて販売に 安全な野菜もとめる主婦でにぎわう青空市 STEP3 ディフュージョン・ステップ 大地 とともに広がる市民運動の輪 77年、流通部門として「大地」を独 人会員が活動を支えています。誰もが 立させます。株式会社設立の資本金 安全な食品を手に入れられるしくみが 1699万円は、「大地を守る会」会員の 社会に支持されて、事業も拡大。類似 生産者や消費者22000人に、1株5000 の事業者も増えてきました。現在は、 円で株を売って調達しました。当初は 宅配や共同購入、卸売りのほか、加工 運営に苦労しましたが、85年に導入し 食品製造やレストラン運営も。また 「遺 た宅配事業の成功などで会員は増え続 伝子組み換え食品反対運動」や「100万 け、2008年現在、約2500の生産者会 人のキャンドルナイト」などの市民運 員と約85000の消費者会員、5社の法 動も積極的に展開しています。 流通の拠点・大地宅配の配送センター 27 インタビュー I N T E R V I E W, I M P L I C AT I O N & V I S I O N 消費者と生産者がともに育てる 〝おいしい〟 藤 田さんは、岩手県の稲作農家の次男坊とし て生まれました。農村の封建的な社会を嫌 って、 「山の向こうには東京がある。東京 に行けば幸せになれる」と信じて上京、上智大学に入学 します。やがて学園紛争に巻き込まれて学生運動に身 を投じますが、 「最後には何をしていたのかわからなく なった」 と語ります。 挫折を味わいながら就職し、悶々とした日々を過ご していたときに出会ったのが、無農薬の有機農業を研 誰もが安全な食品を手に 入れられるしくみづくり を通じて、生命を大切に する社会をつくりたい 究する高倉医師でした。高倉医師や有機農家と関わる でなく、資金繰りの厳しい時期には、社員の給料を払 ことで、いつのまにか有機農業運動へ。 「農村から逃げ うために加藤さんからお金を借りることもあったとか。 たつもりだったのに、気がつけば〝原点〟に戻っていた 株式会社「大地」の設立時には、同社の筆頭株主も加 んです」 。そう藤田さんは振り返ります。 藤さんだったそうです。 75年当時、食品の安全や有機農産物に対する理解や 関心はそれほど広がっていませんでした。そんななか、 「大地を守る会」を立ち上げて、農薬公害の追放と有機 農産物の安定供給をめざします。その活動の根底にあ ったのは〝糾弾型の学生運動〟への反省でした。 「農薬会社や農協を糾弾、告発するだけでは問題は解 「30年やってこられたのは 『大地』 の野菜がおいしかったから」 有機農業運動の旗手として、また日本の社会起業家 のパイオニアとしての実績を持つ藤田さんですが、そ の成功の要因を、本人はこう分析します。 決しない。生産、流通、消費の各段階で、既存のもの 「『30年やってこられたのは、理念がしっかりしてい に代わる解決策を提案、それを実践することで、有機 たからですね』と、よく言われるのですが、そうでは 農業運動を進めようとしたのです」 ありません。最大の理由は、扱った農産物に農家の人 大根一本からの〝革命〟 生産者、消費者と有機農業を育てる その思想が、 「農薬の危険性を100万回叫ぶよりも、 1本の無農薬の大根をつくり、運び、食べることからは じめよう」 という活動コンセプトに表れています。農薬、 たちの心がこもっていて、おいしかったから。いくら 無農薬だ有機農法だと言っても、味が悪ければ消費者 は離れてゆく。商品に力があったんですよ」 母体となる市民運動でも、自然環境と調和した生命 を大切にする社会をめざし、 「遺伝子組み換え食品反対」 「アオサを回収し、有機肥料として活かす試み」など数々 化学肥料に頼らない、自然の力を活かした有機農業を、 の取り組みを行っています。とりわけ「でんきを消して、 生産者と消費者がともに育てていく。それが農薬公害 スローな夜を。」と、ライフスタイルの見直しを呼びかけ をなくすことにつながると考えたのです。 学生運動をしていたときの人脈も役に立ちました。 キャンドルナイ 全学連委員長だった藤本敏夫さんが「大地を守る会」 ト」は、国内だ の活動に参加し、76 ~ 83年まで同会の会長を務めて けでなく世界 くれたのです。藤本さんの妻である歌手・加藤登紀子さ にも広がる一 んのサポートも、大きな助けとなりました。「大地を守 大ムーブメント る会」の活動や有機農産物のPRに協力してくれただけ 28 る「100万人の 100万人のキャンドルナイト となりました。 社会的価値 食の安全・健康・環境を守る市民運動 持続させたのはビジネスとの二人三脚 業ですが、現在は安全な農・畜産物や水産物の宅配、 面でも、注文ごとに個別に 共同購入、卸売りのほか、加工食品製造やレストラン 箱詰めをする工程に工夫を 運営などを行い、年商は144億円(08年3月現在)にの 重ね、ベルトコンベアでの ぼります。特筆すべきは、 「食の安全や環境、消費者の 手作業から、機械化、コン 健康を守り、日本の第一次産業を発展させる」という ピュータ化へと、効率化を 市民運動と、株式会社としての営利事業を、車の両輪 図っています。 のようにして回していること。株式会社という形態が 環境問題やスローライフ 「営利に走るのか」との誤解を与え、他の市民運動団体 への関心が高まるにつれ、 から批判も受けたようですが、結果的にこのやり方が 持続可能な組織を生んだといえるでしょう。 「大地宅配」を利用する消費者は、年会費1000円を 払って「大地を守る会」の会員となるため、事業が成長 5 〝土づくり〟 は 「大地」 の原点 「少々値段が高くても安全なものを食べたい」という消 費者が増えてきました。また有機農法に対する生産者 の意識も変わりつつあります。この時流の変化を受け、 同社の手法を模倣する業者も出てきました。 すれば会員も増え、運営基盤はより強固になります。 「各地の団体・企業がまねをしてくれれば、この運動 2008年現在で、約2500生産者会員と約85000の消費 も広がる」と藤田さんはそれを歓迎し、ノウハウを惜 者会員が「大地を守る会」の活動を支えています。 しみなく伝授しています。事業の目的が営利ではなく、 宅配事業で女性のニーズをつかむ 会員数を伸ばす要因となったのは、食品の安全に対 する消費者意識の高まりと、宅配事業の成功です。 〝食の安全〟 を消費者のもとへ宅配 事例 :大地を守る無農薬野菜 ったため。オペレーション 有機農業 無農薬の野菜を売ることからはじまった「大地」の事 「生産者と消費者をつなぐことで有機農業の拡大を促 す」というイノベーションにあるからです。 「欠品を恐れない」という経営姿勢も、営利追求型の 企業とは異なる点といえるでしょう。天候不順などで 宅 配 事 業をはじめ 注文を受けた商品が揃わない場合に、代替品で間に合 たのは、働く女性が増 わせるのではなく堂々と欠品を告げるのです。大切な え、 専 業 主 婦のネッ のは顧客の信用を裏切らないこと。「何が事業の目的な トワークに頼る共同購 のか、その軸がブレなければ、やるべきことは明らか 入だけでは消費者のニ です」。そう藤田さんは力説するのです。 ーズに対応できなくな 将来ビジョン 日本の農業をなんとか復活させたい。アジアなど世 界の農業生産者やNGOとの連携を深め、国際的なネッ トワークづくりも推進していきます。有機農業推進法 も出来ましたが、これからも「上からの力」に頼るので はなく、 「自分たちの頭で考え、行動する」という内発 的な力を失わずにいたいと考えています。 29 事例 介護はプロに 6 有料だからこそ継続して提供できる在宅ケア ・サービス 授産施設を見学して初めて知った〝施設に暮らす障害者〟 という現実。 地域で暮らしたい 。願いをかなえようと取り組みつづけた生活支援活動は、 国の介護保険制度のモデルとなり、高品質なサービスが国際標準規格を取得しました。 プロフィール 石川治江 Harue ISHIKAWA いしかわ・はるえ●NPO法人「ケア・セ ち、81年、立川駅にエレベーターを設 ンターやわらぎ」代表理事、社会福祉 置する運動を開始。87年に 「ケア・セン 法人「にんじんの会」理事長。1947年、 ターやわらぎ」を設立し、24時間・365 東京生まれ。国際羊毛事務局に秘書と 日の在宅福祉サービスをはじめる。97 して勤務。退職して居酒屋を経営して 年には社会福祉法人「にんじんの会」を いたとき、友人に誘われて授産施設の 設立、12 ヶ所の事業所で介護老人福 見学に。以来、障害者福祉に関心を持 祉施設の運営や介護事業などを行う。 これまでの歩み 結婚前、石川さんは国際羊毛事務局で働き、仕事の を持ちました。81年には施設で出会った障害者の人た おもしろさを知ります。しかし体力的な問題もあり、 ちと、立川駅にエレベーター設置を要求する運動を展 妊娠を機に退職。子どもが歩きはじめた頃、居酒屋の 開し、8年間にわたって障害者の日常生活を支援する 経営をはじめます。そして78年、友人に誘われて障害 ボランティア活動に没頭します。その経験から、ボラ 者の授産施設を訪れ、障害者福祉のあり方に問題意識 ンティアの限界と在宅ケア・サービスを継続して提供で きるしくみの必要性を痛感した石川さんは、87年、24 1978 年 友人と授産施設を見学、ボランティア活動をはじめる 時間・365日の在宅福祉サービスを有料で提供する「ケ 1981 年 立川駅エレベーター設置運動を開始 ア・センターやわらぎ」を設立。94年には介護サービス 1987 年 任意団体「ケア・センターやわらぎ」を設立 1994 年 ケース管理業務支援情報システムを開発 1997 年 2000 年 2001 年 立川駅にエレベーター設置 社会福祉法人「にんじんの会」を設立 「ケア・センターやわらぎ」がNPO法人格を取得 ISO9001を4事業で取得 社会福祉法人「にんじんの会」 特別養護老人ホー 2005 年 ムを開設 NPO法人「ケア・センターやわらぎ」 複合福祉施 設を開設 2006 年 30 「キッズクラブやわらぎ」を開設 を「可視化」するための独自システム「ケース管理業務 支援情報システム」を開発します。このシステムは 2000年に施行された介護保険制度のモデルとなったと いわれています。 しかし、ケアを仲介する「やわらぎ」のサービスには 課金しなかったため、やがて運営資金不足が深刻化。 97年、社会福祉法人「にんじんの会」を設立して、行 政からの委託事業を行うことになります。また、2000 年の介護保険制度施行に合わせて介護保険サービス事 業者の指定を受け、「やわらぎ」もNPO法人の認証を取 得。現在は社会福祉法人とNPOの両輪で、介護老人福 祉施設の運営や介護事業などを行っています。 PROCESS 社会イノベーション・プロセス STEP1 イノベーター・ステップ 〝障害者福祉〟 というカルチャーショック 子育てをしながら居酒屋や喫茶店を 代わりになったのは、自身が経営する 経営していた頃、友人に誘われて授産 駅前の居酒屋です。深夜、店に仲間が 施設を訪れた石川さんは、初めて知っ 集まり、お酒を飲みながら明け方まで た福祉の現状にショックを受けます。 議論をするという毎日が続きました。 頻繁に施設に通って入居者と話をする また、障害を持つ人たちの「施設を出 うちに問題意識を深め、81年東京・立 て、地域で暮らしたい」との願いをか 川駅にエレベーターの設置を要求する なえるため、アパートを探して保証人 運動をはじめます(実際にエレベータ になり、家財道具を揃える手助けをす ーが設置されたのは16年後)。事務局 るなどの支援にも乗り出しました。 福 祉 事例 STEP2 アントレプレナー・ステップ 24時間・365日の在宅ケア・サービス ンティアでは安定した人手が確保でき 活をはじめると、どうしても介助者が ないことを実感。在宅ケア・サービス 必要になります。ところが当時の公的 を継続して提供できるしくみの必要性 サービスは、週に18時間の家事援助だ を痛感します。そして87年、24時間・ け。そこで、学生や地域市民に呼びか 365日の在宅福祉サービスを有料で提 けてボランティアを募ることに。各人 供する「ケア・センターやわらぎ」を任 の時間の割り振りなどのマネジメント 意団体として設立。94年、介護サービ を石川さんが引き受け、8年間、こう スを「可視化」するための独自システ した生活支援活動を続けますが、ボラ ムを開発しました。 6 : 介護はプロに 障害を持つ人が施設を出て実際に生 住み慣れた地域で暮らせるしくみをつくる STEP3 ディフュージョン・ステップ 介護保険制度のモデルとなったシステム 「やわらぎ」20年・ 「にんじん」10年の実績 「やわらぎ」が開発した「ケース管理 時に介護保険サービス事業者の指定を 業務支援情報システム」は高く評価さ 受け、05年には特別養護老人ホームを れ、98年「情報化月間推進会議議長表 開設するなど事業を拡大してきました。 彰」も受けました。同システムに厚生 現在は立川市や国分寺市など12の事業 省(当時)の担当者が感心し、介護保 所で、有償福祉サービス事業や、ホー 険の制度設計の際にモデルとしたこと ムヘルプサービス、デイサービスなど は、関係者にはよく知られています。 の介護事業を展開。ヘルパーを含め約 97年には社会福祉法人「にんじんの会」 630人のスタッフを雇用しています。 を設立。2000年の介護保険制度の施行 31 インタビュー I N T E R V I E W, I M P L I C AT I O N & V I S I O N サービスの可視化が実現したしくみづくり 石 川さんの持論は「介護はプロに、家族は愛 を」 。この言葉は2000年に出版された石川 さんの著書のタイトルにもなっています。 介護はあくまで「行為」であって、家族の「思い」と は別のもの。介護を担うことが家族の義務だと思い込 むのではなく、必要に応じてプロにサポートを頼めば いい ― そんな在宅介護を可能にするシステムをつく ることが、 「ケア・センターやわらぎ」のミッションと いえるでしょう。 その根底にあったのは、社会に対する怒りと、「自分 がやるしかない」という信念でした。そして、団塊の 世代らしいエネルギーと並外れた行動力で、どんどん 道を切り拓いてゆくのです。 「やわらぎ」の立ち上げを決意したのは、ボランティ アによる障害者の生活支援に限界を感じたから。ボラ ンティアに頼るやり方では、安定した人手を確保する のは難しいと判断したからです。在宅福祉サービスを 有料で提供することに対して、 「障害者を食いものにす るのか!」と激しく糾弾する人たちもいました。 提供したかを記録することで情報を共有し、料金請求 などの事務処理を劇的に軽減したのです。 画期的なシステムが 介護保険制度のモデルに 「このシステムをつくるのに1年くらいかかりました が、楽しかったですね。家に帰って、お風呂に入って しかし石川さんはそれに屈せず、 「何が何でもやって シャンプーをしているときに、よくアイデアを思いつ やる!」と発奮します。 「叩かれればファイトが沸く。 くんですよ。それで車を飛ばして事務所に戻り、また 外敵には強いんです」 作業をするといった調子で。ケア・メニューのコード化 介護サービスの可視化で 情報を共有する は日本初ですし、たぶん世界でも最初でしょう。たと えば、食事なら経管栄養なのか、それとも自力で食べ られるのか、排泄はポータブルなのか、自立なのか。日々 「やわらぎ」がめざしたのは、24時間・365日の在宅 の介護の仕事を片っ端から書き出していったら、700 ケア・サービスを継続して提供できるしくみをつくるこ 以上も項目があった。最小限の項目数で最大限に仕事 と。そこで力を入れたのが、次の2点です。ひとつは、 を効率化できるところまで絞り込んだんです。これが ニーズを把握して最適のケアプランを作成するコーデ 介護保険制度のモデルになりました」 ィネーター(介護保険制度ではケアマネージャーと呼 2001年には、品質マネジメントシステムの国際規格 ぶ)を育成すること。もうひとつは、介護サービスを 「ISO9001」を、訪問介護、訪問看護、デイサービス、 記録して、可視化、システム化することです。 後者は、 画期的な 「ケース管理業務支援情報システム」 32 「やわらぎ」デイルームの家庭的な温もり ケアプランの在宅ケア4事業で取得するなど、先進的な 試みを続けています。 の開発(94年)につながりました。受付からケアプラ 「ISO9001」取得の際は、手続きを外部に頼まず、自 ンの作成、サービスの提供、モニタリングなど、ワー 分たちで挑戦して費用を4分の1に抑えたとか。 「お金 クフローを7段階に整理して、細かいケアのメニューを がないから知恵が出る。それが私たちの血となり肉と コード化。いつ、誰に対して、どんなサービスを何回 なっているのだと思います」 社会的価値 自主自立の活動を支えつづけた やわらぎ への愛着と経営センス 30年におよぶ石川さんの活動を支えてきたものは、 きっかけだそうです。「仕事の進め方やマネジメントの 「信念」 「運動」 「人脈」 「蓄積」 「先進」の5つのキーワ 基本は、国際羊毛事務局時代の上司から学びました。 ードに集約されます。 まず、 「自分がやるしかない」との「信念」に基づき 行動していたこと。また、すべての活動の原点が、立 川駅にエレベーター設置を求める「要求運動」にあり、 「やわらぎ」の活動が、地域に必要とされる機能をつく る「機能運動」であったことも重要です。 私から仕事を取ったら何も残らないほど仕事が好き。 経営をおもしろがることが大事だし、そういう経営者 に人はついてくる」と語ります。 自主自立の方針を貫く 活動の歴史のなかで、97年に社会福祉法人を設立し たことはひとつの節目といえるでしょう。当時「やわ 労働省内の「人脈」 、ボランティア時代からの在宅ケア・ らぎ」の経営は危機的な状況でした。有償サービスと ノウハウの「蓄積」 、介護サービスをシステム化したり、 いっても、利用者が払う料金に「やわらぎ」の運営費は 「ISO9001」を取得するといった「先進」的な取り組み 含まれていません。10年間、事務所の経費やケアを仲 事例 が、組織の強みとなってきたのです。 福 祉 さらに、近隣の自治体首長とのネットワークや厚生 介するコーディネーターの人件費は、自治体からの助 成金や居酒屋経営で蓄えた石川さん個人の資金でなん です。新規事業に利用者が集まらないと見ると早々に とか賄ってきたのです。ところが石川さんの資金も底 撤退を決めるなど、辣腕ぶりを発揮していますが、意 をつき、事態は切迫。活動をやめる、株式会社化する、 外にも、経営者としての自覚を持ったのは最近のこと。 社会福祉法人をつくる、どこかの傘下に入る、という 2002年頃、予算17億円で特別養護老人ホームの建設 4つの選択肢から、「社会福祉法人をつくって行政委託 が決まり、これまでにない大きな責任を感じたことが の仕事を受ける」という道を選びました。 6 : 介護はプロに 石川さんのカリスマ性や経営センスも特筆すべき点 ほどなく介護保険制度がスタート。行政の助成金が 石川さんの話に刺激を 受け、それぞれの信念 と熱意を胸に質の高い 介護を追求する なくても「やわらぎ」の事業を継続できる体制が整いま した。「自主自立をめざすのが基本。社会福祉法人へ の〝天下り〟も断固拒否しています」。非課税の社会福 祉法人に事業を一本化することも検討しましたが、愛 着のある「やわらぎ」は残し、現在は、両法人の特徴を 活かし同様の事業を展開しています。 将来ビジョン 地域に子どもを産み育てる環境をつくっていきたい。 2006年に開いた「キッズクラブやわらぎ」は、託児所 ではなく「たまり場」です。近いうちに法人内保育も手 がけたいと考えています。この計画の発案者は私です が、職員のなかには〝石川を超える〟人が何人も生まれ てきている。その活躍に期待しています。 33 事例 り 7 障害者福祉からのまちづく 知多半島から全国へ発信する 国際標準の福祉 障害者の母、病に倒れた父、生活保護 ―7人兄弟の長男が知った日本の福祉の現実。 しくみがないのなら、つくればいい 。 シミュレーションゲームで培った経営センスと戦略立案の力が障害者福祉を変革します。 プロフィール 戸枝陽基 Hiromoto TOEDA とえだ・ひろもと●社会福祉法人「むそ 施設を担当する。退職後、約1年の準 う」 ・NPO法人「ふわり」理事長。1968 備期間を経て、1999年「ふわり」の運 年、群馬県生まれ。91年、日本福祉大 営を開始。2003年に「むそう」を設立す 学社会福祉学部を卒業。愛知県半田市 る。また、04年よりNPO法人「全国地 の社会福祉協議会、及び社会福祉事業 域生活支援ネットワーク」事務局長も 団でケアワーカーとして通算7年間勤 務めるほか、社会福祉法人「全国手を 務。知的障害者の小規模授産所や更生 つなぐ育成会」理事なども兼任する。 これまでの歩み 1991 年 1999 年 2000 年 大学を卒業してケアワーカーとして勤務 任意団体「ふわり」を設立 レスパイト事業・余暇支援事業を開始 「ふわり」がNPO法人格を取得 デイサービス事業を開始 ます。そのとき感じた数々の疑問や問題点が、のちの 活動の原点となりました。障害が重い人でも社会参加 ができる、地域で暮らすことができる――そんな社会 システムをつくろうと起業を決意。1999年、任意団体 「障害のある方とご家族のための生活支援サービスふわ 2001 年 平飼養鶏や喫茶店の運営を開始 り」を立ち上げます(翌年NPO法人に)。2001年には 2003 年 社会福祉法人「むそう」を設立 養鶏場や喫茶「なちゅ」といった障害者の活動の場を創 設し、地域とのつながりも強くなっていきます。また、 7人兄弟の長男として生まれた戸枝さんは、10代の 2003年には社会福祉法人「むそう」を設立。通所授産 頃から「自分が家族を守る」という強い使命感を感じて 施設「アートスクウェア」を建設して、アジア雑貨店や いたといいます。舌がん、喉頭がん、乳がん、胃がん ラーメン店などの運営をはじめました。また、デイサ など、立て続けに闘病を強いられた母親は、声帯を摘 ービスなどの生活支援やグループホームの運営、成年 出したため話すことができない障害者でした。大工だ 後見などのサービスも行っています。 った父親も、戸枝さんが中学生のとき結核にかかり、 2年間療養所に。一家は生活保護を受けながら、なん とか暮らしていた時期もあったのです。そんな自身の 経験から福祉のあり方に問題意識を持ち、日本福祉大 学に入学。障害者福祉に出会います。 卒業後も大学のある愛知県半田市に残り、社会福祉 協議会に就職、ケアワーカーとして施設の現場で働き 34 障害のあるかたが一市 民として働き生活の糧 を得る場「アートスク ウェア」 PROCESS 社会イノベーション・プロセス STEP1 イノベーター・ステップ 体験し学んでわいた、 日本の福祉への疑問 母親ががんと闘う障害者で、一時は 生活保護を受けながら、7人兄弟の長 する」という障害者福祉のあり方に問 題意識を持ちます。 男として育ちます。差別的な扱いを受 障害のある人を社会に送り出すため けた自身の経験から「日本の福祉とは にほんとうに必要なのは、住み慣れた 何か」と、日本福祉大学に入学。卒業 町で、働き、生活できる環境を用意す 後は、愛知県半田市の社会福祉協議会 る地域福祉ではないか、と考えた戸枝 に就職し、知的障害者のための施設で、 さんは、 「どんなに障害が重い人でも地 7年間ケアワーカーとして勤務。 「大き 域のなかで暮らせるしくみをつくろう」 な施設に多数の障害者を収容してケア と、退職を決意するのです。 福 祉 事例 STEP2 アントレプレナー・ステップ 利用者の声にこたえる地域支援と協働 喫茶店は地域でも評判が高く、住民と ィングを重ねた戸枝さんは、1999年、 の交流や行政との協働も進みました。 任意団体「ふわり」を設立。一軒家を 「通所授産施設をつくってほしい」との 借りて風呂やトイレを改築し、レスパ 要望が高まり、03年、その運営主体と イトサービス や余暇支援事業をスタ して社会福祉法人「むそう」を設立し ートします。翌年にはNPO法人の認証 ます。約1億1500万円の建設費用をか を取得。正規職員1人とパート職員を けた授産施設「アートスクウェア」に 雇用して、デイサービスも開始します。 は、アジア雑貨店やラーメン店を開き 昼間の活動場所として設けた養鶏場や ました。 ※ 7 :障害者福祉からのまちづくり 障害を持つ子どもの母親らとミーテ 活動の場が障害者にもたらす笑顔と生きがい ※レスパイトサービス…家族の負担軽減のため介護を要する人を 一時的に預かるサービス STEP3 ディフュージョン・ステップ ふわり から むそう へ 広がる多角経営 障害者向けサービスを一般の児童・高齢者にも 障害の特性や個人の向き不向きなど 者向けの機能を、児童や高齢者の支援 に合った就労の場を設けようと事業を にも活用することをめざしています。 多面化。弁当配食、椎茸栽培、古民家 一方、事務局長を務めるNPO法人「全 を利用した蔵喫茶&バーなど、2008年 国地域生活支援ネットワーク」では、 春現在で9つの拠点を展開しています。 「障害者自立支援法下における地域生 また、グループホーム(ケアホーム) 活支援事業所ガイドブック」を発行。 の運営、成年後見のサービスなども行 自身の経営ノウハウを公開して、地域 っています。08年4月には小学生向け での生活支援の取り組みを全国に拡げ の放課後児童クラブを開設して、障害 るための活動にも力を入れています。 35 インタビュー I N T E R V I E W, I M P L I C AT I O N & V I S I O N 地域でふつうに暮らせる 国際標準の福祉 戸 枝さんが障害者福祉の分野を選んだのは、 自身の生い立ちと無関係ではありません。 舌がん、喉頭がんと次々に大きな病に侵 きのこハウス にょきにょき さんが中学生のとき結核にかかってしまいます。 3 生活保護に頼る暮らしを余儀なくされるなか、学校 2 喫茶 なちゅ お弁当 ぐぅ〜 法人本部 4 ・レスパイト ・相談支援 ・ホームヘルプ ・日中一事支援 ・デイサービス ・移動支援 ・ショートステイ 枝さんは語ります。 何も悪いことはしていないのに、辛い思いばかりす る。懸命に生きているのに、誰も助けてはくれない。 ケアホーム hanabitaikai 生活支援センター あっと たまごハウス ケアホーム ぴよぴよ なかよしホーム 生活や社会のなかで、いわれなき〝差別〟を受けたと戸 1 2 3 4 福祉とはいったい何なのか― それを知るために、日 本福祉大学に進学、社会福祉を専攻したのです。 地域で暮らすしくみがないなら 自分たちでつくればいい 大学で障害者福祉と出会い、卒業後は愛知県半田市 の社会福祉協議会に就職。知的障害者のための施設で ケアワーカーとして働きはじめた戸枝さんは、「入所施 できるプロになること。そして「ふわり」を立ち上げて、 設中心主義」ともいえる日本の障害者支援のありよう 地域支援型の福祉の実践をはじめるのです。 に、強い違和感を覚えます。 「自閉的な傾向のある方は、 耳や目から入ってくる刺激にとても敏感なんですよ。話 すときもひそひそ声でちょうどいいくらいで……。障害 ノーマライゼーションの理念に触発され 国際標準の福祉をめざす が重い人ほど集団でのケアは向かないのに、大きな施設 一家がキリスト教の信者だった戸枝さんは、大学生 に50人や100人もの障害者を収容している。障害の特 の頃、障害を持つ信者が世界中から集まる会合に、母 性に合った環境を用意するという発想ではないんです」 親に付き添って参加します。そこで触れた北欧の先進 授産施設での訓練にも大きな疑問を感じていました。 例など、日本とあまりに違う世界の福祉のスタンダー 「日本の障害者施設の職業訓練は、彼らが社会に出るこ ドは、戸枝さんに大きなショックを与えました。 とを前提にしていない。 『そういう訓練で人生が終わっ ノーマライゼーションの理念のもと、「住み慣れた地 てしまうのは、搾取と同じではないか』と、思いつめ 域で障害者が生活し、働き、社会参加できる環境を整 てしまったんです」 える」というヨーロッパ流の思想は、「どんなに障害が 障害のある人が体験的に学べる場を地域につくる必 重くても、最後まで地域で暮らし続けることができる 要がある。そう考えた戸枝さんは、退職して起業する システムづくり」という、「ふわり」や「むそう」のミッ 道を選びます。 「施設が必要なのは、地域で暮らすため ションへとつながっていきます。 のしくみがないから。ならば、それをつくればいい」 めざしたのは、単なるケアワーカーではなく、欧米 のソーシャルワーカーのように、社会システムを変革 36 1 平飼い養鶏 ニワトリ小屋 されながら3男4女を出産した母親は障害を抱えてお り、大工として働き大家族を支えていた父親も、戸枝 喫茶なちゅ 有脇店 アート スクウェア 亀崎古民家 蔵喫茶&蔵Bar 「むそう」 の事業展開マップ 「日本では新しい考え方かもしれないけれど、僕らは 国際標準の福祉をやりたいだけ。自分では、そんなふ うに考えています」 社会的価値 福祉の仕事は 〝まちづくり〟 誰もが安心して暮らせる地域社会へ 旧来のハード(施設)中心の福祉に対し、戸枝さんが 互に人格と個性を尊重 提唱するのは、個別ニーズに合わせたサービスという し安心して暮らすこと ソフト重視の福祉ともいえるでしょう。 のできる地域社会の実 「バッシングする人がいても利用者が集まるのは、結 現に寄与すること」を 果を出しているから。基本的にサービス業ですから、 目的としています。こ ユーザーが満足してくれればいいんですよ」と、戸枝 うした時代の流れは、 さんは語ります。利用者がたくさんの笑顔を見せてく 戸枝さんらの活動を後 れることが、満足のひとつの証明なのです。 押しするものといえるでしょう。 暮らすか、生活に制限の多い入所施設で暮らすか、と いうふたつの選択肢しかありませんでした。そこに、 「4 ブレーンを置いて経営戦略を練る 「むそう」が展開する活動の場は、養鶏場、椎茸栽培、 喫茶店、ラーメン店、雑貨店など、多岐にわたっていま 加えたいと、戸枝さんは考えています。 す。小規模な事業を多面的に展開したのは、障害の特性 やその人の個性を考慮して仕事を生み出したから。彼ら らしを支援する草の根の活動は、日本でも10数年前か にとって働きやすい環境を整えれば、重い障害があって らはじまっています。その連携を深めるため、2004年 も、社会のなかで役割を果たすことができる ― それ NPO法人「全国地域生活支援ネットワーク」が設立さ を地域の人に理解してもらい、彼らの社会的価値を認め れ、戸枝さんが事務局長に就任。地域での実践を国の てもらいたいと考えているのです。 すっかり板についたラーメンづくり 7 :障害者福祉からのまちづくり 戸枝さんの事業のように、地域における障害者の暮 事例 ~ 5人の単位で家族以外の誰かが支援する」地域支援を しくみにする活動も行っています。 福 祉 これまで日本の障害者には、家族に支えられて家で 障害の特性に合った仕事で活躍 また、持続可能な組織運営ができるよう、安定した 日本でもノーマライ 収益を確保することにも重きを置いています。経営コ ゼーションの考え方が ンサルタントや税理士などのブレーンを持ち、自分は 徐々に広まってきまし 経営者として戦略立案に徹する、というのも従来の た。2006年に施 行さ NPOにはほとんど見られなかったスタイルです。こう れた「障害者自立支援 した経営センスは、ゲームソフト『信長の野望』で身に 法」も、 「障害の有無 つけた、というのも興味深いところ。新世代の社会イ にかかわらず国民が相 ノベーターといえるのではないでしょうか。 将来ビジョン 地域福祉の問題を考えると「まちづくり」に行き着く。 子ども、障害者、高齢者と切り分けるのではなく、障 害者のための機能を高齢者や子どもにも活用して、ユ ニバーサルな地域支援のしくみを構築したい。僕たち が半田市や知多半島で実践している「自立と共生のま ちづくり」を他地域に広めることも課題です。 37