Hal Foster “Post-Critical” October Winter 2012, No. 139
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Hal Foster “Post-Critical” October Winter 2012, No. 139
Hal Foster “Post-Critical” October Winter 2012, No. 139, Pages 3-8 ハル・フォスター「批評以降(Post-Critical)」 室井尚・丸山美佳訳 批評理論は 1980 年代と 1990 年代の文化の戦争を経て深刻な打撃を被った。そして状況は 2000 年代に入ってもただ単に悪くなっていく一方である。ジョージ・W・ブッシュの下ではすべての領 域で「承認すること」のみが求められた。その結果、今日では大学や美術館にさえも批評の場所は ほとんど残されていない。保守的なコメンテーターたちに虐め抜かれ、ほとんどの学者たちは市民 の社会参加のためには批評的思考が重要だともはや主張することができなくなってしまった。また、 ほとんどのキュレーターたちも、企業スポンサーに依存しているので、かつては先端的なアートを 公共的に受容するためには本質的なものであると考えられてきた批評的な論争を促そうとはしない。 実際、少しも批評を意に介さないアートワールドの中で、批評が完全に時代遅れになってしまった のは十分に明らかであるように思える。しかし、他のオプションはあるのだろうか? 美の賞賛 か? 情動を肯定することか? “感性的なものの再分配”を願うことか? 普通の知性を信頼す ることか? 批評以降の状況は、(歴史的、理論的、政治的に)私たちを拘束するものから解放し てくれるものであると期待されていた。しかし大抵の場合、それは多元主義とはほとんど関係のな い単なる相対主義を煽るだけだったのである。1. 批評がこれほどまで広範囲にわたって失墜してしまったのはなぜだろう? 長年にわたって、批 評のポジショニングに関する議論に大きな労力が費やされてきた。第一に、「美的判断」、もしく は批評的評価において想定されてきた道徳的権利の拒絶がある。そして、批評が他者を代表して抽 象的に語ることを可能としてきた政治的特権や「権威」に対する拒絶がある。最後に、「距離」、 もしくは批評家が検証しようとした諸条件そのものからの文化的乖離に対する懐疑があった。ヴァ ルター・ベンヤミンは80年以上前に「批評とは正確な距離取りの問題である」と言っている。 「パースペクティブや見通しがあって、ある立場を採用することがまだ可能な世界においては批評 は安泰だった。だが、いまや人間社会ではあまりにも急速に物事が動いている」。 2 今日では物事 はさらにもっと急速に動いている。それでは現在という時代においてどれくらい緊急性は高まって いるのだろうか? しかし、すべての批評が正確な距離取りに依存しているわけではない。ブレヒトにおける〈異 化〉はこの意味において全く異なっていた。アートにおいては(ダダイズムから現代まで)介入主 義的なモデルが存在していた。そしてそこでは批評は模倣への憎悪と象徴的な「迂回」のテクニッ クを通して内在的に生み出されてきた。3(主に左派からきている)その他の古い課題といえば次 の二つに分かれる。つまり、権力(への)意志によって駆り立てられた批評と、真実にたいするそ れ自身の要請を反映しない批評である。しばしばこれらに対する告発は二つの恐怖からなされてき た。一つは、まさに集団や階級の代表者として、それらを変容させる「イデオロギー的後援者」と しての批評に対しての恐怖である(この恐怖に関する有名なものとしてベンヤミンの『生産者とし ての作者』(1934 年)がある)。もう一つには、「自発的イデオロギー」(これはアルチュセー ルによるマルクスの再読解における怪しげな立場である)に対抗しようとする批判理論に帰せられ る科学的真理に対する関心がある。このような恐怖は役に立たないものとは言えないが、だからと 言ってそれが赤ん坊を浴槽の水と一緒に流してしまってもいいという十分な根拠になりうるのだろ うか? 1 もっと最近の批評に対する攻撃は―再現=表象の批評や主体に関する批評に対して特に顕著であ るが―観念連合の罪悪ということに対してなされている。再現=表象の批評というものは真実に対 して忠実であるというよりも、その真理価を奪い去ってしまうものであると言われ、それ故、道徳 的な無関心と政治的ニヒリズムを促すものとされてきた。4 同様に主体に関わる批評というものは、 意図していない結果というものに憑きまとわれ、その批評におけるアイデンティティの構成主義的 な性質を提示するために、主体の位置に関する消費主義を促進するものであると言われた(例えば、 The United Colors of Benetton として再パッケージされた多文化主義のように)。多くの者にと って、これらの二つの結果はすぐさまポストモダニズムとして捉えられ、結果として公然と非難さ れることになったのである。しかし、これはポストモダニズムを新自由主義的な資本主義の決まり きった表現へと格下げしようとする戯画化にすぎない(すなわち、新自由主義が経済の規制緩和を したように、ポストモダニズムは文化を失効させたというわけだ)。5 批評に関してもっと鋭い問いかけを行なっている者に、科学的分野の研究に焦点をあてているブ ルーノ・ラトゥールと、現代アートというお気に入りの話題に焦点を当てているジャック・ランシ エールがいる。ラトゥールにとって、批評家は啓蒙された知識を装っている。その知識によって彼 は、他人の素朴なフェティッシュ的信念を脱神秘化することができる―つまり、この信念がいかに 「それ自体としては何もしていない、物質的な実体に向けられた彼らの願望の投影」にすぎないか ということを明らかにすることができると思い込んでいるのである。6 ここでの批評家の致命的な間違いとは、彼自身の信念、つまり脱-神秘化というフェティッシュ それ自体に対しては、こうした脱神秘化の眼差しをけっして向けようとしないことである。つまり 彼自身が最も素朴な間違いを犯しているということなのだ。ラトゥールは以下のように結論づけて いる。 このことこそが、批評家であるあなたが何の矛盾もなしに、①あなたが信じていないすべて のもの(ほとんどの場合、宗教、大衆文化、芸術、政治のようなもの)に対して反フェティッ シュ主義者であり、②あなたが信じている科学(ちょうどあなたが好んでいる研究分野、例え ば社会学、経済学、陰謀理論、遺伝学、進化心理学、記号論など)すべてにおいて、自責の念 を全く持たない肯定論者でもあり、③あなたが大好きなもの(もちろん批評自体もそうである が、絵を描くことやバードウォッチング、シェイクスピア、ヒヒ、プロテインなどといったも の)に対しては完璧に健康的で屈強なリアリストにも同時になれる理由なのである。7 ランシエールにとっても、批評とは脱神秘化に依存しているがゆえに危険に満ちたものである。 「そのもっとも一般的な表現において、批評という技術は、見る者を世界変容の意識的な担い手へ と転向させ、支配のメカニズムに関わる気づきを打ち立てようとするタイプの技術である」と彼は 書いている。8 しかし気づきや変容が問題なのではなく、ランシエールが以下のように続けるよう に「搾取されている者は、めったに搾取の掟の説明を要求したりしない」ものなのである。さらに いえば、批評という技術は、「日常的な事物や行為の背後に隠れた資本の記号(サイン)を発見す ることを鑑賞者に求める」のだが、しかしそのようにすることは、資本が遂行する「モノの記号へ の変容」を確認してみるだけのことにすぎない。ラトゥールにとっての批評家のように、ランシエ ールにおける批評的技術者もまた邪悪な循環に捉えられてしまっているのである。 これらの二人のメタ批評家に対してはほとんど同じことが言える。ラトゥールはマルクスとフロ イトのメタ批評の動きの再演をしているのであり、以下のように主張する。「あなたたち近代人は 啓蒙されたと考えている。しかし、実際のところ未開人と同じくらいフェティッシュ信奉者であ り— 商品に対してばかりでなく、不適切にもあなたが欲望しているどんな対象に対してもフェティ 2 ッシュである」。この反転にラトゥール自身もはまりこんでしまっている。つまり、「あなたたち 反フェティッシュ的批評家は同様にフェティッシュ信奉者なのである―つまり、あなたが愛用して いる方法論や専門領域に対するフェティッシュなのだ」。そして、このような意味で、彼は自分が 切断を望んでいる批評の修辞的な円環の中に自らも留まってしまうのである。一方ランシエールは フランクフルト学派における批判に渦巻いている疑念の解釈学に取り組んでいるが、こうした挑戦 は単に批判理論においてお馴染みのものであるばかりではなく、隠れた意味の追求から(フーコー における)ディスクールの「可能性の条件」や、(バルトにおける)テクスト的な表層の意味など の考察への批判理論自体への移行に関わる、より根源的なものでもあったのである。9 さらにランシエールは、受動的な鑑賞者を能動的にしようとする投影であるがゆえに批評を非難 している(これは(ラトゥールにおける)素朴な信念を持つ者を脱神秘化することのランシエー ル・バージョンである)。しかし、彼はこのような鑑賞者の受動性を最初から前提としており、そ の上で単なる気づきを超えた能動化の要請について語るわけである。 10 結局のところ、彼の言う 「感性の再分配」はあらゆる問題の万能薬として使われており、資本主義の「モノから記号への変 容」に対抗する望まれるべき思考であり、取り残されたアートワールドにおける新たな麻薬なので ある。11 ここまで言ってしまえば、とりわけそれに自動的に価値があるものと考え、自分を見つめ直す身 振りを強化しようとする今日の批評を見る時に、多くの人々が感じてしまう疲労感が理解できるの ではないだろうか。確かにその道徳的な見せかけの正しさは暴虐的になる可能性があり、その偶像 破壊的な否定性は破滅的なのものになり得るだろう。12 批評家のこのようなイメージに反して、ラ トゥールが彼自身提案している批評家とは以下のようなものである。 (批評家とは)正体を暴露する者ではなく、集積する(assemble)者である。批評家は素朴な 信念を持つ者の足元の絨毯をひっくり返す者ではなくて、参加者たちを闘技場に集まるように と誘う者なのである。批評家とは行き当たりばったりその立場を変える者ではなく、何かが構 築された時に、それが壊れやすく注意深い気遣いや配慮が必要であることを知らせてくれる者 なのだ。13 このような感情移入的な批評家像を否定することはできないと思われるかもしれない。しかし、 そのような寛容の倫理はそれ自身の問題、すなわちフェティシズムの古い「問題」を引き起こすこ とだろう。なぜならここにおいて対象が再び疑似的な主体のように扱われることになってしまうか らである。14 最近の美術史もまた似たような傾向について言及している。つまり、イメージ(image)は 「力」や作用を持っており、画像(pictures)は「欠乏」や欲望を持っていると言うのである。こ のことは、現在の「主観性」という用語で作られているアートや、建築における似通った傾向に対 応している。15 よきミニマリズムの装いのもとで、多くの実践者たちが現象学的な経験の促進を もくろんでいるが、彼らが提案することはしばしば反転に近いものである。つまり、「経験」は 「雰囲気」そして/あるいは「効果」へと回帰していき、親密に思われる効果を生み出すことによ ってアクチュアルなものがヴァーチャルで、そして/あるいは感覚的であるかのように混乱させて いる(アートにおけるジェームズ・タレルからオラファー・エリアソン、建築におけるヘルツォー ク&ド・ムーロンからフィリップ・ラームまでにそのような傾向が見られる)。このようにして 「見ている自分自身を見る」という現象学的な再帰性は、その正反対なものへと近づいていく。つ 3 まり、インスタレーションや建物が私たちの代わりに知覚していると思われるのである。だから、 これもまたフェティッシュのひとつのかたちなのだ。なぜなら、それは思考や感覚をイメージや効 果として処理しており、それらを鑑賞する驚きへ後戻りさせるからである。そのようにして、それ は反フェティッシュ的批評を呼び戻しているのである。16 このことは、より一般的に言えばいわゆる「シニカル理性」(スローターダイク)についても同 様である。「シニカル理性」とは、私たちの文化的生活と政治的生活のようなものから多くのエネ ルギーを抜き取ってしまうなんでも知っているという思い上がりのことである。17 問題は真実が常 に隠されているということではなく(ラトゥールやランシエールはここにおいては正しい)、多く のものが―ただ、それに反応できないほどの透明性をともなってはいるが―余りにもあからさまに 明るみに出ていることである。つまり「私は“免税”という呪文が金持ちに利益があり、私を破産 させることを知っているけれど…」、または「私は大きな美術館が公共文化よりも経済的資本とよ り深い関係を持っていることを知っているけれど…」というように、シニカル理性は、承認と拒否 のフェティッシュ的な操作を行いながら(まさに「私は知っている、しかしながら」)、同様に反 フェティッシュ的批評に向けられているのである。もちろん、このような批評はけっして十分なも のではないのだ。与えられたことに介入し、幾分転回させ、そしてどこかにもっていかなければい けないのである。18 しかし、このような転回は批評からしか始まらない。 だがおそらく、私は完全に間違っているのかもしれない。今日の「批評的アート」の花盛りの状 況についてはどのように考えられるのだろうか? ここでの困難は「批評」と「アート」という二 つの言葉がいかにして結びつくか(または結びつかないか)ということである。それは「社会実践 系アート」について語る場合にも共通しており、この言い方がたとえこの社会と芸術の分離を近づ けようとするとしても、いかに芸術が日常生活から切り離されているかということを強調している ことになるのである(これはランシエールが政治と美学が常に/既に密接に交わると宣言したのと 似たような手品である)。実際、二つの言葉を一緒にしてしまうよりも、このような(社会実践系 アート)という言い方は、所与の実践を社会的な実効性かあるいは芸術的創造性の基準から解き放 そうとする傾向がある。そこでは社会と芸術のどちらか一方が他方のアリバイになろうとしている のであり、一方が社会学的に否定されたとしても、他方が美学的に否定されたとしても余りプレッ シャーにならないのだ。このようにして(批評的アートとか社会実践系アートとかいう)予告され た解決法ではまたしても全く解決にならないのである。 さて、この議論を終えるにあたって、この困難な状況に深く関わっているように思われる図式的 な対立に触れてみたいと思う。まず一方においては、アクティヴィスト的アートにおける疑似=グ ラムシ的な立場がある。それは批評と資本の邪悪な同盟によって切り離されてしまった美学的自律 性を伴って社会的実践に広く開かれた領域を目指している。他方において、最低限の自律性が最低 限の否定性しか保持していないというみじめな感覚とともに、フォーマリスト的な動きを通してし か何もすることができないという状況においても、芸術というカテゴリーに固執する疑似=アドル ノ的立場がある。ある意味で、こうした図式的な相互補完性はギィ・ドゥボールによって指摘され たダダとシュールレアリスムの対立を思いおこさせる。(相互に破壊を承認する彼の弁証法の立場 において)ドボールはかつて「ダダイズムは芸術を実現することなしに廃棄しようとし、シュール レアリスムは芸術の廃棄なしにその実現を探求した」と書いている。19 このように、私たちの状況は 1920 年代を思い起こさせるが、それはさらに危険な仕方で生起し ている。つまり、現在もまた経済的にいえばバブルと破壊の時代であり、政治的にいえば緊急状態 4 が例外的ではなく当たり前の状態であり、芸術的にいえば、経済的危機と政治的緊急事態(再びダ ダのことを思い起こさせる)やカオスからの構築(例えば、構成主義)、その他の秩序への回帰か らそれを解き放つものとして何人かの実践家たちが取り組まなければならない時代なのである (1920 年代における新古典主義的伝統へ向かった堕落した方向への回帰は、現代ではモダニズム 絵画や彫刻の古い常套句へと回帰している状態と同じであるかもしれない)。20 もしこの現在と過 去との響き合いの中に何か意味があるとすれれば、われわれはもはや「批評以降」の状態に今すぐ 向かうべきではないと私には思われるのだ。 註 1.ここで言っていることはそれほど新しいことではない。10年前に出版された『アート批評の現状』(オクト ーバー100、2002年春)のラウンドテーブルを参照。ここで触れられている基本的な問題が本論でも続けられ ている。階級的な自信を持つためにブルジョワジーはかつて批評によるテストを求めていた。つまり、それは 公共圏における彼らの理想に関わるギブアンドテイクの中心的なものと見なされていた。しかし、それははる か昔のことである。本論で私は大雑把な見取図から始まり、ゆえに「批評」「批判」「批判理論」「批評的ア ート」の間の横滑りについて触れている。この5つのうちの最後の2つには後から焦点を当てて論じている。最 後に「批評以降」という言葉は建築における議論では違う意味で使われており、「デザイン的知性」という刷 新されたプラグマティズムへとつながるピーター・アイゼンマンのような建築家における理論的反省とは別の ものであることを付け加えておきたい。だが、このことからもたらされた効果は実は似たようなものである。 2.Walter Benjamin, “One-Way Street” (1928), in Selected Writings, Volume 1: 1913– 1926, ed. Michael W. Jennings, et al. (Cambridge, Mass.: Harvard University, 1996), p. 476. ここで取り上げるには余りに複雑すぎるが、他の否定的な観点として批評とルサンチマンに関わるものがある。 3.脱構築のその他の変異体については言うまでもない。模倣への憎悪については私の以下の論文を参照。 “Dada Mime,” October 105 (Summer 2003). 4.実際、このようなニヒリズムは左翼というよりも右翼の属性である。2004年のブッシュの(カール・ローヴ に対する)公式な挨拶ではこう言われている。「私たちは今や帝国であり、私たちが行動すればそれが私たち の現実となる。そして―あなたがなさっているように慎重にーあなた方がその現実を研究すると、私たちは再 び、新たな現実を作り出すために行動し、そしてあなたもまたさらに研究するのである。こうして物事が整理 されていくのである」。Ron Suskind, “Faith, Certainty, and the Presidency of George W. Bush,” New York Times Magazine (October 27, 2004)を参照。または科学による「社会構築」という考えが地球温暖化の 事実に関する論争にいかに使われているのかを考えてみればよい。Bruno Latour, “Why Has Critique Run Out of Steam? From Matters of Fact to Matters of Concern,” Critical Inquiry 30 (Winter 2004)を参 照。 5. しばしば、このような結びつきはきわめて直接的なものであると言われる。例えば、リュック・ボルタン スキーとイヴ・チアペロは業界内における「芸術的な批評」は資本主義の新しい精神への鍵であると告発して いる。―つまり「芸術的な批評」によって彼らの意図することはほとんどアートとは関係ないのである。 Boltanski and Chiapello, The New Spirit of Capitalism, trans. Gregory Elliott (London: Verso, 2004)を参照。 6. Latour, “Why Has Critique Run Out of Steam?,” p. 237.また、Latour, “What Is Iconoclash? Or Is There a World Beyond the Image Wars?,” in Iconoclashを見よ。さらにまた、: Beyond the Image Wars in Science, Religion, and Art, ed. Latour and Peter Weibel (Cambridge, Mass.: MIT Press, 2002), and Latour, We Have Never Been Modern, trans. Catherine Porter (Cambridge, Mass.: Harvard University, 1993) を参照。 5 7. Latour, “Why Has Critique Run Out of Steam?,” p. 241を参照。 8. Jacques Rancière, Aesthetics and Its Discontents, trans. Steven Cochran (Cambridge: Polity, 2009), pp. 46– 47を参照。 9.他の者においては両者の立場が退化してしまったが、フーコーは現実的実践にのめり込むことなく、言説の 普遍性へと向かった(例えば、ランシエールのいう「レジーム」)。また、バルトは(さらにその下にある) 効果と情動の祝祭へと向かっている。 10. Jacques Rancière, The Emancipated Spectator, trans. Gregory Elliott (London: Verso, 2009) を参 照。 11. 感じられることと感じられないこと、言われ得ることと言われ得ないことをきれいに切り分ける「感性の 再分配」は、マルクスが彼の最盛期にイデオロギーとして理解したものとほとんど同じものである。それは思 考の特殊な内容というよりも、その構造的領域づけなのである。(例えば、いくつかの思想は思考し得ないも のにどのようになっていくのか)。 12. こうした光の下では批評的屈折への疑いは有益である。ジェフ・ドルヴェンはこの文章へのメールでの返 信の中で以下のように書いている。「ここでは基本的に私のプラグマティックな衝動が働いてしまう。という のも、どうやったら私はパーティーのIDを譲り渡すことなしに、批評的ではない美学的経験の多様さを理解し、 その中に住めるかを知りたいと思うからだ。それは、伝染病的なものか?ばかげたことだろうか?自由な解釈 だろうか?模倣性なのだろうか?・・・私はカントが美的経験のなかで見出したと思われる概念的な宙吊り状 態とイデオロギー的な不確定性を発揮することができるのだろうか? 私たちはイデオロギーに抵抗する芸術 作品に本来の美的経験の潜在能力を信じることができるのだろうか? 私たちはそのような経験を呼び込むこ とで、芸術作品を信頼することができるだろうか? 私たちが再びガードを固めて、(おそらくそれはしばし ばあるだろう)私たちが処理できるような批評的資源を保持して、それと同じ対象物においてそれを練り上げ ることが必要な時に、それらを信頼することはできるのだろうか? そしておそらく、この美的自由を縛り、 抑圧する批評を許すことや、批評が我々にそれを消去するように命じる対象物を抑制する美的な可能性を認め ることはできるのだろうか? これが、そこで生じてくる疑問なのである」。 13. Latour, “Why Has Critique Run Out of Steam?,” p. 246を参照。 14. 私のフェティッシュに対する批判は欲望や快楽などに対する疑いではない。それは単なる抵抗なのであり、 マルクス主義というよりもブレイク主義に近いものであり、人類による創造(神とかインターネット)が我々 の上にその代理人を投影し、その位置から我々に奉仕するように思わせて我々を支配しようとするようなすべ ての操作に対する抵抗なのである。 15. Isabelle Graw, ed., Art and Subjecthood: The Return of the Human Figure in Semiocapitalism (Berlin: Sternberg Press, 2011) を参照。 16. モノ性(objecthood)への関心ということでよってミニマリズムに与えられた非難は、本当は客観性 (objectivity)— すなわち構造、空間、空間の中の身体などの客観性— に関わる問題であった。この問題は ミニマリズムの作品の第一義性に関わるものであったが、いまや二義的なものと考える方が支配的となってい る。この逆転については以下を参照。“Painting Unbound,” in my The Art-Architecture Complex (London: Verso, 2011). 17. Peter Sloterdijk, Critique of Cynical Reason, trans. Michael Eldred (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1987) を参照。 18.パオロ・ビーノはシニカル理性に関心を持つように求めている。A Grammar of the Multitudes, trans. Isabella Bertoletti, et al. (Los Angeles: Semiotext(e), 2004).を参照。現在の状況におけるネオ・リベ ラリズムによって練り上げられたこの罠の例としては、Michel Feher, “Self-Appreciation, or the 6 Aspirations of Human Capital,” Public Culture 21, no. 1 (2008)を参照。ここには近年のアートについ て多くの興味深いことが書いてある。 19. Guy Debord, The Society of the Spectacle (1967), trans. Donald Nicholson-Smith (New York: Zone Books, 1994), p. 136. 20. David Geers, “Neo-Modern,” in this issue, and my “Preservation Society,” Artforum (January 2011). を参照。 ※原文は以下のサイトで閲覧出来ます。誤訳やミスにお気づきの方はお知らせ下さい。 http://richardshipps.com/Foster_Post-Crit_2012.pdf 7