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Title ルイ・ブラン『労働の組織』と七月王政期のアソシアシオニスム(下

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Title ルイ・ブラン『労働の組織』と七月王政期のアソシアシオニスム(下
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ルイ・ブラン『労働の組織』と七月王政期のアソシアシオニスム(下) :
普通選挙と「社会的作業場」
高草木, 光一
慶應義塾経済学会
三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.87, No.4 (1995. 1) ,p.546(38)- 567(59)
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00234610-19950101
-0038
「
三田学会雑誌」 87 巻
4 号 (1995年 1 月)
ルイ•ブ ラ ン 『
労 働 の ,組 織 』と
七月王政期のアソシアシオニスム(
下)
—
普通選挙と「
社会的作業場」—
高 草 木 光 一
第3 節
—
カルネ
1840年 の 「労働の組織」
ビ ュ レ と ボ ワ イ エ 一一
(Louis de Carn€ ,1804-1876) は, 1841 年 , 『両 世 界 雑 誌 』 掲 載 の 書 評 論 文 で , 「弥増す精力
をもって労働の組織を要求する学派」 について, 次のように語っている。
「職 場 長
(
chefs d’a te lie r s ) と 労 働 者 の 間 へ の 国 家 の 介 入 。 高 度 な 社 会 的 利 害 の た め に , 政治的自
由そのものの制限として行われる労働の自由の制限。啓蒙的な介入によって失望と災厄を予防する
ために,生 産 を 必 要 と 販 路 (
dgb ou ch gs) に 均 衡 さ せ る よ う 要 請 さ れ る 公 権 力 (
puissance
publi-
q u e ) の配慮。最後に, 軍事力の競争を制限するように,産業力の競争を規制し,制限する国際法。
これらは, そ れ 自 体 と し て は 奇 妙 な も の は 何 も な い 思 想 で あ る が , 共 和派の論客によって彼らの原
理 の 究 極 の 帰 結 と し て ヨーロッパで広 ま っ て い る の を 見 る の は ,少 な く と も 不 思 議 (
sin g u lier ) で
ある 。」
ここで書評の対象になっているのは, ル イ •ブ ラ ン の 『
労 働 の 組 織 』, ビ ュ レ (
Eug6ne
Buret,1810
-1 8 4 2 ) の 『イ ギ リ ス と フ ラ ン ス に お け る 労 働 者 階 級 の 貧 困 に つ い て 』, パ リ の 印 刷 工 ボ ワ イ エ
(Adolphe Boyer, ??-1841) の 『労 働 者 の 状 態 と 労 働 の 組 織 に よ る そ の 改 善 に つ い て 』 と い う 全 く 異
な る 分 野 に 属 す る 著 者 に よ る 三 つ の 著 作 で あ り , こ こ に ひ と つ の 時 代 性 を 見 る こ と が で き る 。 カル
ネ の 目 に 「不 思 議 」 と 映 っ た 点 は , 十 分 検 討 に 値 し よ う 。 つ ま り 「時 代 の 思 想 」 と し て 現 れ た 「労
働 の 組 織 」 は, フ ラ ン ス 革 命 と ど の よ う な 距 離 を 取 り , ど の よ う に 関 連 づ け て 展 開 さ れ た も の な の
( 1 ) L. de しarng,“Publications democratiques et communistes,
” Revue des Deux Mondes, vol.8
(1841) ,7 3 8 . なお, ル イ . ブランは, この論文を, 1847年 の 第 5 版 以 降 『労働の組織』 で紹介して
いる。 cf. 0.7.(1847), pp.205-211. O .r.(1850), pp.230-233. O .T .(Q ), pp.300-304.
( 2 ) Carne, op.cit., 739.
38
( 546)
か, と い う 問 題 を こ の 書 評 論 文 は 提 起 し て い る と 言 え る の で あ る 。 本 節 で は , ビ ュ レ と ボ ワ イ エ の
著 作 を 通 し て こ の 課 題 に 応 え , も っ て 『労 働 の 組 織 』 分 析 の た め の 予 備 的 考 察 と し た い 。
三人の著者に共通の問題は,社 会 問 題 と し て の 貧 困 で あ る 。社 会 調 査 の 先 駆 と 言 わ れ る パ ラ ン -
(
Alexandre Parent-Duchatelet ,1790-1836) の 『公 衆 衛 生 , 道 徳 , 行 政 と の 関 係 か ら
考 察 さ れ る パ リ 市 の 売 春 (De la prostitution dans la ville de Paris, consideree sous le rapport de
(4)
_
I'hygiene publique, de la m orale et de I ,adm inistration)1 が 公 刊 さ れ た 4 年 後 の 1840 年 , 社 会 調 査
デュ シャ 卜 レ
に関する三つの大著が相次いで発表されたことはよく知られている。先に挙げたビュレの著作, ヴ
ィレルメ(
Louis-Reng
Vil]ermg ,1782-1863) の 『綿 , 羊 毛 , 絹 工 場 に 雇 用 さ れ る 労 働 者 の 物 理 的 • 道
徳 的 状 態 一 覧 [Tableau de I’itat physique et moral des ouvriers employes dans les manufactures de
(5)
p
coton, de laine et de 柳 ’e )』 (2 巻), フ レ ジ ェ (Antoine-Honorg Fregier, 1789-1860) の 『大 都 市 民 衆
の 中 の 危 険 な 階 級 と , そ れ を 改 善 す る 諸 手 段 (Des classes dangereuses de la population dans les
grandes villes, et des moyens de les rendre meilleures)J で あ る 。 こ れ は , 産 業 革 命 の 本 格 的 進 行 下
(3 )
ルイ • ブ ラ ン は 『
労働の組織』 の 初 版 (
1840年)執筆に当たってビュレの著作を参照してはいない
が, 1845年の第 4版からその調査結果を利用している。 リゴーディアス- ヴエスによれば, ルイ•ブラ
ンは, 「ビュレとヴィレルメの調査を利用した最初の社会主義著述家である 。
」(Hilde RigaudiasWeiss, Les enquetes ouvriさres en France entre 1830-1848, Paris, 1936, p.118.)
ボワイエもまた, ビュレの著作を十分に利用することはできなかった。 「われわれの著作を始める
に当たって,少なくともわれわれの知っている人間の中で, 誰も労働者の悲惨な状態を緩和するた
めの実践的手段を示さなかったし, ウ一ジヱ一ヌ•ビュレ氏はまだその重要な著作を発表していなか
ったことを言っておく。 人類にとって大いなる悲痛であると同時に大いなる慰めでもある, この著
Boyer, De I’泛tat des ouvriers et de son am elioration par Vorganisation du travail, Paris, 1841,p.146.)
さらに, ル イ • ブランの著作は, ボワイエにそれほど大きな影響を及ばさなかった。 ボワイエは,
ル イ . ブランについて註の中で述べている。 「ル イ • ブラン氏は,労働問題に関する極めて注目すベ
き小冊子を刊行した。 …… しかし,彼 が 提 案 す る方 法 は,すぐに応用できないものであると考え
る。」 {Ibid., p . 6 ) ボワイエは他の多くの著作を引用しているにも拘わらず, ルイ•ブランに関する
作をわれわれは読むことができなかった 。
」(Adolph
言及はこの箇所だけである。
但し, ビュレ がル イ . ブランの著作を参考にしたことはありうる。 「
恐らく,彼
[ ビュレ] は, 『労
Aynard, Justice ou
charite? : Le drame social et ses temoins de 1825 a, 1845, Paris, 1945, p.139.)
(4 ) この著作の新版として,Alexandre Parent-DuchStelet, La prostitution a Paris au X IX e siecle,
texte presente et annot§ par Alain Corbin, Paris, 1981 があり, 邦 訳 も あ る (小杉隆芳訳,法政大
学出版局, 1992年)。七月王政期の社会調査については, ミシヱル•ペロー編集による原典の膨大な
働の組織』が出版されたばかりの同時代人ルイ • ブランを読んでいた 。
」(Joseph
マイクロフィッシュ版 コレクションがあり, また, こ の コレクションと同じ題名をもつ冊子体の解
Michelle Perrot, Enquetes sur la condition ouvriere au 1 9 e siecle, Paris, 1972.
( 5 ) 1 9 8 9 年 ,Paris : Etude et documentation interna tionale か ら 新 版 が 出 版 さ れ , Jean-Pierre
C h alin e と Frangois Dgm ier が序文を書いている。
説書がある 0
39
( 5 47)
で, 資 本 主 義 の 矛 盾 が , と り わ け 労 働 者 の 生 活 に お い て , 貧 困 , 失 業 , 物 理 的 • 道 徳 的 状 態 の 悪 化
と し て 顕 在 化 し て き た こ と の 証 左 で あ り , また, 公 権 力 自 体 が , そ の 実 態 の 認 識 の 必 要 に 迫 ら れ て
い た こ と を 示 唆 し て い る 。 ビ ュ レ の 著 作 は , 「道 徳 • 政 治 科 学 ア 力 デ ミ 一
morales et p olitiq u es)) J
(
AcadSmie des sciences
の 懸 賞 課 題 「貧 困 は い か な る も の で , 各 国 で 何 に よ っ て 表 さ れ , その原
因は何か」 に応募したものだった。
シスモンディ(
Simonde
de Sismondi,1773-1842) 学 説 の 継 承 者 と 言 わ れ る ビ ユ レ は , その貧困に
関する分析を経済学への批判から始める。現実の批判は理論の批判と並行する。 ビュレにとって,
経 済 学 は , そ れ だ け で ひ と つ の 科 学 を 構 成 す る こ と は で き な い し , か つ 構 成 し て は な ら な い 。 経済
的 事 象 は , 道 徳 的 • 政 治 的 次 元 の 事 象 と 不 可 分 に 結 び つ い て い る か ら で あ り , リカードウ以後の経
済 学 は , 「す べ て の 悪 は , 道 徳 科 学 を 計 算 科 学 (
science
m athgm atique) に 変 え た こ と に 起 因 す る 」
( 6 ) 1832 年,道 徳 • 政治科学ア力デミ一を再建したのはギゾーである。Cf_ Pierre Rosanvallon, Le
moment Guizot, Paris, 1985, p.225. Emile Mireaux, Guizot et la renaissance de VAcademie des
sciences morales et politiques, Paris, 1957.
(7 ) ビユレの生涯については,例えば ,“Ngclorogie : Euggne Buret,” Journal des economistes, revue
mensuelle de Veconomie politique, des questions agricoles, manufacturieures, et commerciales, tome
III,1842, 295-297 を参照。 こ の 「葬送の辞」 は次のように言う。 「ド . シスモンディ氏とウージェ一
ヌ. ビュレ氏が亡くなった。 この二人は, 同時に亡くなった, 師と最も立派な弟子の一人であると言
うことができる。 というのは, ビユレは, ジユネーヴの著名な経済学者が主張した学説の最も進ん
だ化身(
personnification ) だったからである。」 [Ibid., p.295)
リゴーディア ス- ヴエスは, ビユレとシスモンディの共通点を以下のように説明する。「ビユレは,
シスモンディと同様に,経 済 学 理 論 の 四 つ の 主 要 な ドグマと戦う。つまり,無制限の生産,諸利害
の 自 然 的 調 和 , 自由競争 ,経 済 法 則 の 自 然 の 動 き に 対 す る 国 家 の 無 介 入 の ド グ マ で ある。」
(Rigaudias-W eiss, op.cit., p .9 4 .) また, ビユレとヴィレルメは次のように比較されている。 「ニつ
の著作の書名が既にその観点の違いを示している
方は,綿, 羊毛,絹の工場において雇用さ
れる労働者の物理的 • 道徳的状態の正確な検証であり,他方は, 貧困の正確な叙述を同じように含み
ながら, その上にその原因についての研究と,社会状態への基本的な批判を含んでいる —
え,社会的災禍としての貧困の一覧が彼らの共通の目的である。」 (Ibid.,
とはい
p .2 9 ) 「結局, ビュレにお
いては,経 済 • 社会理論に由来する経済体制に対する基礎的な批判があり, ヴィレルメにおいては,
とりわけ雇用者側からの社会改革の提案がある。 この提案は,体制と雇用主への信頼から説明され
る。 その実現については,彼自身殆ど考慮にいれていない。」 {Ibid.,
p.90.) cf. William H. Sewell,
Jr., Work & Revolution in France : The Language of Labor from the Old Regime to 1848,
Cambridge, 1980, pp.223-232.
(8 ) Euggne Buret, De la misere des classes laborieuses en Angleterre et en France ; de la nature de
la misere, de son existence, de ses effets, de ses causes, et de I’insuffisance des remedes qu'on lui
a proposes jusqu 'id ; avec Vindication des moyens propres a en affranchir les societes, Paris, 1840,
tome I,p.1 4 . ビユレは,マ ル サ ス (T.-R. Malthus, 1766- 1 8 3 4 ) の 『人 口 論 Essay on the
Principles of Population)! (1 7 9 8 ) については, シニカルな評価を与えている。「マルサスの体系は,
レ セ • フェールの正統な学説の必然的で正当な帰結であり, イギリスの最も優れた経済学者たちは,
この学説を挙って公言している。 マルサスは, ……社 会 科 学 に 最 も 重 要 な 機 能 (
service ) を取り戻
させた。彼は,社会科学が政治と完全に分離することを防いだのである。」 (Buret, op.cit., tome I ,
p.32.)
(9 ) Ibid., tome I, p.15.
40
( 548)
と 批 判 さ れ る 。 「経 済 学 の ベ 一 コ ン (
B acon) 」 で あ る ア ダ ム . ス ミ ス は , 「富 の 研 究 を , 生 産 の 物 的
現 象 の 検 証 に 限 定 は し な か っ た 。」 と こ ろ が , 経 済 学 者 が 経 済 学 を 富 の 科 学 と 規 定 し た 時 か ら , 彼
らは, 「
社会科学の目的は,国民の富の総額だけでなく, そ の 成 員 の 最 も 多 数 の 幸 福 (
b ien itr e)
をも, 無 皞 に 増 大 さ せ る 点 に あ る 」 こ と を 忘 れ て し ま っ た 。 労 働 者 階 級 の 貧 困 は , 経済学者が言う
ような過渡的な現象ではない。 富の増大に付随する社会的現象である。 だからこそ, 貧困の研究は,
富 の 科 学 た る 経 済 学 に と っ て 必 要 不 可 欠 の 部 分 で あ る こ と を ビ ュ レ は 主 張 し た の で ある。
ビ ュ レ は , フ ラ ン ス 革 命 に よ っ て も た ら さ れ た 最 上 の 近 代 的 価 値 は , 「労 働 」 の 復 権 に あ る と 考
える。 「そ れ [ 所 有 権 ] を 神 聖 な も の に し , 合 法 的 な 性 格 を 与 え る の は 労 働 で あ る 」 が ゆ え に , フ
ラ ン ス 革 命 は , 「所 有 権 を 絶 対 不 可 侵 (
a jamais
in v io la b le ) な も の に す る と い う 認 可 (s a n c tio n ) を,
労 働 に 求 め た 」 の で あ る 。 し か し, 理 論 に お い て も , 現 実 に お い て も , 「労 働 」 の 神 聖 性 は も は や
剝 奪 さ れ た 。 経 済 学 理 論 に お い て , 「労 働 」 は 一 商 品 と し て 扱 わ れ , 現 実 に , 賃 金 は 「可能な限り
最低の価格」 まで低下しうる。
では , 具 体 的 に 何 が 必 要 な の か 。 ビ ュ レ の 研 究 は , こ の 時 代 の 多 く の 社 会 調 査 と 同 様 , 「記 述 的
(d escrip tiv e) か つ 処 方 的 (p rescrip tiv e) と い う 二 重 性 」 を持ち, 貧 困 を 解 決 す る 諸 手 段 に 多 く の 頁
を 割 い て い る 。 18 世 紀 が 「労 働 」 の 理 念 を 復 権 さ せ た と す れ ば , 19 世 紀 の 課 題 は , そ れ を 事 実 の 上
で 復 権 さ せ る こ と に あ る 。 「労 働 」 が 「
容易な購入手段となること,最も確実で最も有利な手段」
に な る こ と が 必 要 で あ る 。 ビ ュ レ は , シ ス モ ン デ ィ と 同 様 に , 国 家 の 介 入 を 要 求 す る 。 しかし, そ
れ は 「生 産 と 消 費 の 均 衡 維 持 」 よ り も 直 接 的 な 方 法 で の 貧 困 の 廃 絶 を 問 題 に し て い る 。 ビ ュ レ は ,
賃金労働者(
s a la r ie s ) を 中 世 の 農 民 と 比 較 し つ つ , 「買 い 戻 し (rachat) 」 を 要 求 す る の で あ る 。
「労 働 以 外 に い か な る 財 産 (
pro
p r i a ) も持たない,今 日 の 貧 し い 賃 金 労 働 者 に 対 し て 行 わ な け れ
ば な ら な い こ と は , 貧 困 と い う 辛 い 隸 属 か ら の 突 然 の 解 放 で は な く , 単 に 買 い 戻 し の 手 段 で あ る 。」
ビ ュ レ の 構 想 は , 労 働 者 生 産 ア ソ シ ア シ オ ン に 関 す る ビ ュ シ ヱ の 計 画 と 共 通 点 を 持 っ て いる。 つ
まり, 雇 用 主 と 労 働 者 の 区 別 を 廃 絶 す る こ と , 換 言 す れ ば , 社 会 の す べ て の 構 成 員 が 所 有 者 に な る
Ibid., tome I,p.5.
Ibid., tome I, p.34.
cf. Ibid., tome I,pp.13-14.
Ibid., tome I,p.47.
Ibid., tome I ,p.18.
Perrot, op.cit” p.9.
Buret, op.cit., tome I,p.87
Ibid., tome I, p.90.
) ビュシェは, 「親 方 (m aT tres) と 労 働 者 (o u v r ie r s) の間の区別を廃絶することによって,賃金
労働者(
sa la r iS ) 階級の大部分を漸次的な解放への道に導く」 ことを労働者アソシアシオンの役割
と捉えている。 [P.-J ,B. Buchez], “Moyen d'ameliorer la condition des salaries des villes,”
Journal des sciences morales et politiques, tome I, no.3 (le 17 decembre 1 8 3 1 ) ,3 6 . 谷川稳訳, (河
野健ニ編『
資料フランス初期社会主義 — 二月革命とその思想 — 』平凡社, 1979 年 ) , 89 頁。 [訳
文は必ずしも既訳に依らない。以下, 同様 。
]
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41
( 549)
こと, で あ る 。 しかし, ビ ュ レ が 労 働 者 生 産 ア ソ シ ア シ オ ン に 完 全 に 同 意 し て い た 訳 で は な い 。 ビ
ュレにとって重要なのは, 労 働 者 の 貧 困 を 廃 絶 するトータルな視点である。勿 論 ,小さなアソシア
シオンの依拠する原理が, 友愛と義務の原理であり, 労働者の間に相互的連帯を確立するのに相応
し い も の で あ る こ と を ビ ュ レ は 認 め る 。 しかし, こ の 手 段 だ け で は , 労 働 者 の 状 況 を 改 善 す る の に
は 十 分 で は な い 。 さ らに , 職 人 組 合 の よ う に , 組 織 間 の 社 会 的 戦 争 を 呼 ぶ 可 能 性 も あ る 。
ビ ュ レ に と っ て も 「ア ソ シ ア シ オ ン 」 は 鍵 概 念 だ っ た が , そ れ は ビ ュ シ ェ と は 異 な る 概 念 と し て
も 用 い ら れ て い る 。 「自 分 が 消 費 す る も の を 生 産 す る 手 段 , つ ま り g 分 の 労 働 で 生 き る 手 段 」 をす
ベ て の 市 民 が 持 つ こ と を 妨 げ て い る の は , 「資 本 と 労 働 の 間 の 内 部 抗 争 (
guerre
intestine) 」 で あ り ,
資 本 と 労 働 と い う 「生 産 の 二 つ の 要 素 の ア ソ シ ア シ オ ン , 結 合 (r§union )」 を 図 る こ と が 国 家 の 役
割として求められる。 階級間の宥和としてのアソシアシオン, そのための国家の介入という構想を
ビュレは持っていた。
ビ ュレ は , 労 働 者 の 状 態 を 改 善 す る た め に 国 家 が 実 現 す べ き い く つ か の 計 画 を 提 示 し て い る 。 第
一に, 労働者に, アソシエの資格で産業に参加する手段を与えること, つまり, 労働者の経営への
参加である。 第二に,様々な立法と税体系に従って, 所有を移転することである。 こ の 漸 進 的 .平
和 的 な 改 革 に よ っ て , 資 本 と 労 働 の ア ソ シ ア シ オ ン , つ ま り 「小 所 有 と 大 生 産 の 融 合 」 をビュレは
試みようとした。
ビュレが社会調査によって労働者階級の貧困を科学的に分析したのに対し, 印刷工のボワイエは,
労働の現場から,喫緊に解決すべき貧困の問題を提起した。 その著作の序文に, 主題と視点が提示
さ れ て い る 。 労 働 は , 「公 的 富
(
richesse publique) , 一 般 的 幸 福 (bien-etre ggngral) , 秩 序 , 自由の
(19) Buret, op.cit., tome II,pp.299-301.
(20) Ibid., tome II,p.319.
(21) Ibid., tome II,p.337.
(22) Ibid., tome II,p.362.
(23) Ibid., tome II, p.363.
( 2 4 ) 第 4 編, 第 5 章 (遺言,相続と贈与による所有の移転について), 第 6 章 (意志的あるいは強制的
売却による所有の移転について)
,第 8 章 (
財政的構成あるいは税について) を参照。 Ibid., tome
II,pp.355-414.
(25) Rigaudias-W eiss, op.cit., p.108.
( 2 6 ) ボワイエは, 1841年 10 月自殺した。幾つかの雑誌がこれを取り上げている。 La Phalange : Jour­
nal de la science soctale, politique, nouvelles, Industrie, litteraire, sciences, arts, etc., etc.,10e annee,
IIIe serie, tome IV, no.23 (le 22 octobre 1841).L ’A telier, organe des interits moraux et matiriels
des ouvriers, 2e annee. no.3 (novembre 1841)• Auguste Lerminier, “De la litterature des ouvriers,”
Revue des Deux Mondes, vol.8 (1 8 4 1 ),9 5 5 -9 7 6 . また,死 の 3 年後に次の著作が出版されている。
Adolphe Boyer, Les conseils de prud’hommes au point de vue des ouvriers et de Vegalite des
droits, Paris, 1844.
42
( 550)
源 (i 」 で あ る に も 拘 わ ら ず , 労 働 者 は 富 が 増 大 す る に つ れ て , ま す ま す 貧 し く 惨 め に な っ て い る 。
フランス革命によれば,労働者は政治的には自由であるが,労働とパンが不足しているのだから,
社 会 的 に は 自 由 で は な い 。 「労 働 者 は , 公 道
(la voie p u b liq u e) に お い て は 自 由 で あ り , 法によっ
てすベての市民に認められている保証に囲まれているというのに,作業場の敷居を跨いだ瞬間自由
が 消 失 し て し ま う の は , ま っ た く 奇 妙 で あ る 。」
従 っ て , 最 も 緊 急 を 要 す る 社 会 改 革 は 「労 働 の 組 織 」 となる。 確 か に , 社 会 主 義 者 た ち は , 労働
者 の 貧 困 に 専 心 し た 。 現 在 の 社 会 体 系 を 批 判 し , そ の 矛 盾 を 指 摘 し た 。 しかし, 彼 ら は , 問 題 を 解
決するための具体的な手段を提示はしなかった。 だからこそ, ボワイエは, 直ちに実現可能な労働
の 組 織 に 関 す る 計 画 を 自 ら 提 出 す る の で あ る 。 それは, 無 制 限 の 競 争 , とりわけ機械の導入によっ
て存在を脅かされている労働者の叫びだった。 この困難な状況に直面している労働者は自らの手で
自 己 解 放 を し な け れ ば な ら な い し , そ れ は 可 能 で あ る と ボ ワ イ エ は 主 張 す る 。 「そ れ [ 労 働 問 題 ]
を 覆 っ て い る ヴ エ ー ル を 剝 ぐ の は , わ れ わ れ プ ロ レ タ リ ア の 仕 事 で あ る 。」
ボワイエは,労 働 者の状 況を改善 する二つの 計画を 提案してい る。第一に,労 働 裁 判 所 (
con­
seils de prud’hommes)
の改革である。 この労働裁判所の役割は, ボワイエによれば, 労資紛争を調
停 す る こ と に 限 定 さ れ な い 。 す べ て の 労 働 問 題 , 別 け て も 「強 制 的 失 業 と 労 働 の 不 規 則 性 」 を取り
扱うべきである。新たな労働裁判所は, かつて職人組合が行ったような労働供給のサービスを国家
的規模で行うことかできると考える。 第二の計画は, 労働者生産アソシアシオンの発展を促すため
の 国 庫 補 助 で あ る 。 「労 働 者 は 労 働 手 段 を 所 持 し た 日 か ら で な け れ ば 真 に 自 由 に な り 解 放 さ れ る こ
とはな い」 の だ か ら , 労 働 者 が 労 働 手 段 を 手 に 入 れ る 唯 一 の 手 段 で あ る 生 産 ア ソ シ ア シ オ ン を 作 る
Boyer, De Vetat des ouvriers et de son amelioration par I’organisation du travail 、p.8.
Ibid” p.9.
Ibid” p.51.
Ibid” p.5.
Ibid” p.15.
Ibid., p .1 3 7 . 労働裁判所の制度は, 1806年,ナポレオンによって創設された。cf. J.-M. Jeanneney et Margurite Perrot,Textes de droit economique et social franqais 1789-1957, Paris, 1957,
p p .1 0 9 -1 1 0 . モ ロ 一 (Frangois-Etienne M o llo t) は,弁護士の立場から, この制度の歴史と機能
を検討している。 cf. M ollot,Considerations sur I’urgente necessity d ’instituer des prud’hommes a
Paris,Paris ,1839. Mollot, De la justice industrielle des prud’hommes,expliquee aux ouvriers et d
ceux qui les emploient,selon les lots, reglements et usages, et la jurisprudence des conseils de
pru dyhommesf Paris, 1 8 4 6 . 最近の研究に関しては, 『社会運動』 誌 の 「労働裁判所」特集号を参照。
“Les prud’hommes XIXe-X X e sifecle,
” sous la direction d’Alain しottereau,Le Mouvement social,
no.1 4 1 (octobre-decembre 1 9 8 7 ) . 言うまでもなく,労働裁判所の再組織は, とりわけリヨン蜂起
以後労働運動の重要な課題である。 cf. Uecho de lafabrique (1831-1834 ) . [副題は二度変わってい
る。創刊号は ,“Journal des chefs d’ateliers et des ouvriers en soie” であり, 第 1 号 (
le 30
octobre 1 8 3 1 ) から第23号 (le l er avril 1 8 3 2 ) までは,“Journal industriel de Lyon et du departement du Rhone”,第24 号 (le 8 avril 1832) からは “Journal industriel et litteraire de Lyon” とな
っている 。
]
(33) Boyer, De Vetat des ouvriers et de son amelioration par Vorganisation du travail, p.156.
(27)
(28)
(29)
(30)
(31)
(32)
43
( 551)
ことは, そ の 解 放 の た め に 絶 対 的 に 要 請 さ れ る こ と で あ り , そ の 設 立 , 発 展 の た め に は , 国 家 の援
助が求められる。
ボワイエにおいても, 直ちに実現可能な計画は,利害調停者としての国家の機能なくしてはあり
え な い 。 「こ の ア ソ シ ア シ オ ン は , 同 じ 目 的 , つ ま り 統 一 と 一 般 的 幸 福 に 向 か っ て 歩 む が , すべて
の利害の調停者である権威(
1’a u to r k S ) に よ っ て 指 導 さ れ (dirigges) , 指 揮 (co n d u ite s) さ れ る 。」
「
権力が,産業の頂点に立ち,産業を指導し保護すれば,公的繁栄に貢献すべきもののうちで無視
さ れ る も の は 何 も な い と 思 う 。」
勿 論 , ボ ワ イ エ に お け る 「労 働 の 組 織 」 には , ビ ュ レ の 構 想 以 上 に 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン と の 関
連を見ることができる。 ボワイエが提示する実行可能な方策は,労働者アソシアシオンの設立,発
展 の 契 機 と し て 捉 え ら れ て い る 。 しかし, 敢 え て こ の 二 つ の 概 念 を 範 疇 的 に 区 別 す れ ば , 「アソシ
ア シ オ ン 」 が 労 働 者 の 自 律 的 な 組 織 化 を 基 礎 に し た 社 会 変 革 を 目 指 す の に 対 し , 「労 働 の 組 織 」 は,
社会的事象としての貧困の解決を国家の援助, 介入に求める, と言うことができよう。
(4 )
労 働 者 階 級 の 貧 困 を 問 題 と し , そ れ を 解 決 す る 計 画 を 提 案 す る こ の 二 人 の 著 者 は , いずれもフラ
ン ス 革 命 を 否 定 し て は い な い 。 そ れ ど こ ろ か , フ ラ ン ス 革 命 の 理 念 か ら 考 察 を 始 め , 七月王政期に
おけるその理念と社会的現実との乖離を批判している。 ビュレが言うように, 労働を復権したのは
フ ラ ン ス 革 命 で あ り , ボ ワ イ エ が 言 う よ う に , 「人 間 と 市 民 の 権 利 」 を 宣 言 す る こ と で 労 働 者 を 政
治 的 に 解 放 し た の は フ ラ ン ス 革 命 で あ る 。 しかし, フ ラ ン ス 革 命 は 社 会 的 に 労 働 者 を 解 放 す る に は
十分ではなかった。彼らは, フランス革命を前提としつつ, それが提示した社会構成原理自体に孕
まれる矛盾の顕在化を問題にしているとも言えよう。
経済学の立場から,諸国民の富の源泉が労働にあること,従って価値の生産は労働のみに帰属す
ることを示すことによって, 労働を聖化したのはスミスであり, だからこそ, ビュレもボワイエも,
レ セ • フ ェ ー ル の 原 理 を 批 判 し な が ら も , ス ミ ス を 批 判 す る こ と は な か っ た 。 ところで, フランス
において,政治の領域で労働を聖化したのは, シ エ 一 ス (
Emanud-Joseph
Sieygs ,1748-1836 )
だっ
た。 第 三 身 分 の 市 民 的 権 利 を 要 求 し た 時 , シ エ ー ス が 依 拠 し た の は , 有 用 労 働 の 概 念 で あ り , これ
を 特 権 と 戦 う 最 大 の 武 器 に し た の で あ る 。農 業 労 働 だ け が 有 用 で 生 産 的 で あ る と す る 重 農 主 義 者
(p h ysiocrates) の 見 解 を 踏 み 越 え て , シ エ ー ス は 労 働 一 般 が 有 用 で あ る と 主 張 す る 。 労 働 が 有 用 で
Ibid., p.157.
Ibid., p.149.
cf. Ibid., p.49. Buret,op.cit., tome I ,p.28.
cf. uiovanna Procacci,Gouverner la misere : La question sociale en France 1789-1848, Paris,
1993, pp.78-79.
(38) Siey&s, Preliminaire de la Constitution : Reconnaissance et exposition raisonnie des droits de ,
(34)
(35)
(36)
(37)
44
( 552)
あ る の は , そ れ が 社 会 の 他 の メ ン バ 一 の 必 要 と 欲 求 を 満 た す か ら だ け で は な い 。 その こ と を 通 じ て
社会的統一が図られるからである。「
社 会 を 支 え る 労 働 」 を 担 っ て い る 第 三 身 分 は , そ れ ゆ え 「完
(
une nation com plete) 」 を構成する。市民とは労働を担うものであり, 国民国家は労働によっ
て形成される。 そして,実際, フランス革 命は 労 働 を 市 民 の 義 務 と 措 定 し た 。「
乞食委員会(
Comitg de
m endicite) 」 の 委 員 長 , ラ■ロ ツ シ ュ フ ー コ— リア ン ク ー ル (
Frangois La Rochefoucault-Liancourt,
全な国民
1747-1827) は, 1790 年 , 委 員 会 報 告 と し て 次 の よ う に 言 う 。 「生 き て い る 者 が , 社 会 に 対 し て 『私
を 生 き さ せ て く れ {faites-m oi w’w e ) 』 と 言 う 権 利 が あ る と す れ ば , 社 会 は 同 様 に 『君 の 労 働 を こ
(40)
ちらに寄こせ(
donne_moi ton travail) 』 と 返 答 す る 権 利 が あ る 0 」
所有が労働の結果であり, 労働の指標であるからこそ, シエースは所有権を不可侵のものとした。
「そ の 身 体 (
p erso n n e) の 所 有 は 権 利 の う ち の 最 初 の も の で あ る 。 こ の 第 一 の 権 利 か ら , 行 為 の 所
有 と 労 働 の 所 有 が 生 じ る 。 労 働 は そ の 能 力 の 有 用 な 使 用 で あ る に 過 ぎ な い 。 それは, 身体と行為の
所 有 か ら 明 ら か に 生 じ る 。 … … 私 が そ れ [ 自 己 の 労 働 ] を 注ぎ, 投 下 し た 対 象 (
o b j e t) は, すべて
の 人 の 物 だ っ た よ う に 私 の 物 だ っ た 。 私 は , 最 初 の 先 占 権 を 他 の 人 よ り も 持 っ た の だ か ら , それは
他の人の物である以上に私の物だった。 こうした条件は, この対象を私の排他的所有物とするのに
十 分 で あ 言 。」 しかし, 有 用 労 働 と い う 同 じ 論 理 が , シ エ 一 ス を 「能 動 的 市 民 」 と 「受 動 的 市 民 」
の区別へと導く。 「
一 国 の す べ て の 住 人 は , 受 動 的 市 民 の 権 利 を 享 受 し な け れ ば な ら な い 。 すべて
の 人 間 は , そ の 身 体 , そ の 所 有 , そ の 自 由 , そ の 他 の 保 護 を 権 利 と し て 持 っ て い る 。 しかし, すべ
て の 人 間 が 公 的 権 力 の 形 成 に お い て 能 動 的 に 参 加 す る 権 利 を 持 っ て い る 訳 で は な い 。 すべての人間
が 能 動 的 市 民 で は な い 。少 な く と も 現 在 の 状 態 に お け る 女 性 ,子供,外 国 人 , そして公共機関
(etablissement p u b lic ) の 維 持 に 何 ら 貢 献 し な い 者 は , 公 的 な 事 柄 に 関 し て 能 動 的 に 影 響 を 及 ぼ し
て は な ら な い 。」 所 有 の 大 き さ が 労 働 の 大 き さ の 指 標 だ と す れ ば , 納 税 額 は , 各 人 が 国 家 に 与 え る
「貢 献 (
contribution) 」 の 基 準 と な ろ う 。 しかし, 所 有 が 労 働 の 結 果 で あ る こ と を 認 め る と し て も ,
\ I'Homme et du citoyen, Versailles, 1789. p.7 . この著作には, ここで使用したヴェルサイユ版の他
に, 1789年パリで発行された二つの版がある。
(39) Sieyes, Qu'est-ce que le Tiers Etat?, Paris, 1789, nouvelle edition de P.U.F., 1982, p.28. 大岩
誠訳, (
岩波文庫, 1950年 ) , 23 頁。
(40) "Rapport du Comitd de Mendicity, & expose des principes generaux qui ont ding さson travail;
par M. La Rochefoucault-Liancourt," Gazette nationale, ou le Moniteur universel, le 16 juillet
1790. cf. Procacci, op.cit., p.65. Rosanvallon, L ’E tat en France de 1789 a nos jours, Paris, 1990,
pp_139 - 153.
(41) Sieyes, Preliminaire de la Constitution, p . 6 . ここにロック所有権論の影響を見るこ とができよ
う。 ロッ ク を は じ め と す る , シエ ー ス の 「
精神.的 系 譜 (
filation spirituelle) 」 に つ い て は,Paul
Bastid, Sieyes et sa pensee, nouvelle edition revue et augmentee, Paris, 1970, pp.289-312 を参照。
また,最近のシエースの伝記的研究として, Jean-Denis Bredin, Sieyes : La clef de la Revolution
franQaise. Paris, 1988 がある。
(42) Sieyes, Preliminaire de la Constitution, pp.13-14.
45
( 553)
労 働 が必ずしも所有に到達できるわけではない。 市民が労働を担う者と規定されても,一定数の人
間 は , 「真 の 能 動 的 市 民 , ア ソ シ ア シ オ ン の 真 の メ ン バ ー 」 に な る こ と は で き な い 。
勿 論 , フランス革 命 に お い て , 貧 困 が 直 ち に 各 人 の 無 能 力 の 問 題 に 帰 せ ら れ た 訳 で は な い 。 寧ろ,
貧困は国家が解決すべき中心的課題であったと言ってもいいだろう。 あらゆる中間集団を廃絶し,
国家と個人の間の直接的な関係を志向すれば, 一 方において, 貧困問題の解決, 公的扶助の組織は
「国 家 の 任 務
(
service national )」 で あ る と い う 原 則 が 成 り 立 つ 。 ノレ.
シ ャ ブ リ エ は , コ ルポラシオ
ン を 廃 止 し た 以 上 , 「生 存 の た め に 労 働 を 必 要 と す る 者 に 労 働 を 供 給 し , 身 体 障 害 者 に 援 助 を 与 え
るのは, 国 家 で あ り , 国 家 の 名 に お け る 公 吏 で あ る 」 と 宣 言 し て い る 。 しかし, フ ラ ン ス 革 命 は 能
力 の 「有 用 な 使 用 」 の 発 展 を 妨 げ て い た 封 建 的 特 権 を 廃 止 し た 。 そ れ は , 他 方 に お い て , 公的扶助
が 「
個人的責任の原理と, 労働による社会的統合の義務」 によって補完されるものでなければなら
ないことを意味しているのである。
その後のフランス経済の発展は, 貧困問題を個人と国家という二分法で捉えることの矛盾を露呈
させ た 。 産 業 化 が 本 格 的 に 進 亍 す る 七 月 王 政 期 に お い て , 貧 困 の 増 大 は 産 業 化 の 進 展 に 必 然 的 に 伴
うものであることが認識され, 貧 困 問 題 は 「
個 人 」 に は 還 元 さ れ え な い 「階 級 」 の 問 題 と し て 捉 え
られたのである。 ビュレが解明したのは, まさに労働者階級の貧困が資本と労働の分離に起因する
社会的事象だということだった。 ボワイエが恐れたのは,単にフランスの労働者階級の状態ではな
く, 資 本 主 義 の 先 進 国 で あ る イ ギ リ ス 労 働 者 階 級 の 状 態 だ っ た 。 イ ギ リ ス の 状 況 は , 労 働 者 階 級 の
貧困は資本主義が発展するに従って増大するという確信を彼に与えている。
七 月 王 政 期 に お け る 「ア ソ シ ア シ オ ン 」概 念 の 転 換 , つ ま り 国 家 と い う ア ソ シ ア シ オ ン か ら 中 間
集団としてのアソシアシオンへの転換は,労働者階級の貧困という新たな社会認識と機を一にして
い る の で あ り , 「労 働 の 組 織 」 と い う 概 念 も ま た , 革 命 期 の 公 的 扶 助 の 理 念 か ら 変 質 し て い る 。
(43) Ibid., p.14.
(44) cf. Procacci, op.cit., p . 1 4 . プロカッチは, 「貧困に関する同様の政治的概念,社会的安定のため
にはそれが戦術的に重要性であるという同様の確信,扶助へと向かわせる世俗化と国有化という同
様の方向性」 を挙げ, フランス革命における貧困問題対策の継続性を強調している。 (
/ 况ゴ.,p.66.)
[ 下線は原文イタリック。 以下, 同様。]
(45) cf. Ibid., p.69.
(46) “Rapport par Le Chapelier sur les assemblees de citoyens du m6me さtat & la seance du mardi
14 juin 1791 de l'Assemblee Nationale,
” Archives parlementaires de 1789 a 1860, recueil comp let
des debats Ugislatifs & politiques des Chambres frangaises, Premiere serie (1789 & 1799), tome
XXVII (du 6 juin au 5 juillet 1791),Paris, 1887, p.210.
(47) Rosanvallon, L ’E tat en France, p.153.
(48) ロ ー ザ ン ヴ ァ ロンは, フ ラ ン ス 革 命 期 と 1830年 以 後 を 比 較 し , 次 の よ う に 言 う 。 「貧 民 (indig e n t ) が個人であったのに対し,窮 乏 状 態 (pa 叩 g r ism e ) は労働者階級において支配的な, 巨大な
社会的事象である。」 {Ibid., p.155.) cf. Henri Hatzfeld, Du pauperisme a la sicurite sociale 1850
-1940 : Essai sur les ongines de la securite sociale en France, Nancy, 1989, pp.7—12.
(49) cf. Boyer, De Vetat des ouvriers et de son amelioration par I’organisation du travail, p.33.
46
( 554)
1840 年
の 「労 働 の 組 織 」 は, 中 間 集 団 と し て の ア ソ シ ア シ オ ン の 実 践 に 媒 介 さ れ た も の と し て 構 想
さ れ て お り , 国 家 と 個 人 と い う 二 分 法 に お い て 問 題 が 捉 え ら れ て い る 訳 で は な い 。 『ア ト リ エ 』 の
編集者を務めたボワイエにおいては勿論のこと, ビュレの社会調査の結論は, フーリエ派への期待
によって終わっているのである。 自律的な運動としてのアソシアシオンをどのように射程に入れつ
つ 社 会 を 再 組 織 化 す る か , そ れ が 1840 年 の 課 題 で あ っ た と 言 え る だ ろ う 。
4
—
第
ルイ
-
節
『労 働 の 組 織 』 の 主 題
「能 力 」 主 義 を 越 え て —
ブ ラ ン の 『労 働 の 組 織 』 は, 1840 年 の 人 々 に 熱 狂 的 に 受 け 入 れ ら れ , そ し て 1848 年 , 著者
自 身 の 「政 治 家 」 と し て の 失 脚 と と も に 葬 り 去 ら れ た 著 作 で あ る 。 最 近 の ル イ • ブ ラ ン 研 究 史 を 見
て も, 先 に 挙 げ た 1961 年 の ル 一 - ^ レの伝記的研究, 1980 年 の ユ ミ リ エ ー ル の 文 献 学 的 研 究 が あ る 程
度で, その本格的な思想史的検討はいまだになされていないと言ってよい。 ル イ .ブ ラ ン の 思 想 の
中核をなす『
労 働 の 組 織 』 は, 一 方 に お い て 「国 家 社 会 主 義 」 と い う 展 望 な き 思 想 の イ メ ー ジ を 刻
印され,他方において, 思想としての独自性のない,従って検討するに値しない著作と見なされる。
例えば, ア ン ド レ •ゲランは, ユミリエ一ルの研究を踏まえつつ, 『
労 働 の 組 織 』 は, 折 衷 的 な 著 作
で そ の オ リ ジ ナ リ テ ィ 一 に 欠 け る と 結 論 づ け て い る 。 しかし, ロ ー ザ ン ヴ ァ ロ ン が フ ラ ン ス 革 命 以
後の普通選挙の歴史を書く時, ル イ
.
ブ ラ ン は や は り 無 視 し え ぬ 存 在 で あ っ た し , プ ロ カッ チが フ
(50) cf. Armand Cuvillier, Un journal d ’ouvriers : “L ’A telier” 、1 8 4 0 -1 8 5 0 、,Paris, 1954, p.201.
( 5 1 ) 「フーリエの弟子たちは, ア ソ シ ア シ オ ン の 新 し い 科 学 に お い て 最 も 進 ん だ 師 (maTtres) である
ようにわれわれには思われる。」 (Buret, op.cit., tome II,p.491.)
(52) ローズは, ル イ • ブランに関する論文の冒頭で述べている。 「1848年革命は幾多の令名を破滅させ
たが, ル イ • ブランの破滅の例ほど突然で惨めなものを挙げることはできない。 その年の初めには,
革命的大衆によって選ばれた代理人, 民 主 的 • 社会的共和国の筆頭者であり, その年の終わりには,
ルイ. プラグ(
笑い草 ) ,つまり祖国も党もない面汚しの亡命者なのである。」 (
R.-B_Rose,“Louis
Blanc : The Collaspe of a Hero," E. Kamenka and F.- B. Smith (eds.) , Intellectuals and
Revolution : Socialism and the Experience of 1848, London, 1979. p.31.
(53) cf. M axime Leroy, Histoire des idees sociales en France, tome II,De Babeuf a Tocqueville,
Paris, 1950, p.455. Elie Halevy, Histoire du socialisme europeen, Paris, 1948, nouvelle edition revue
et corrigee, 1974, pp.84-86.
(54) cf. Andre Gueslin, L ’invention de Veconomie sociale ; Le X IX e siecle francais, Paris, 1987, pp.
139-141.
(55) cf. Pierre Rosanvallon, Le sac re du citoyen : Histoire du suffrage universel en France, Paris,
1992.
47
( 555)
ラ ン ス 革 命 か ら 1848 年 革 命 ま で の 貧 困 に 関 す る 思 想 史 を 考 察 す る 時 , 『
労 働 の 組 織 』 は七月王政期
の分析に不可欠の著作として現れている。
ルイ
•
ブ ラ ン を 単 線 的 な 社 会 主 義 思 想 史 上 に 無 媒 介 に 位 置 づ け よ う と す れ ば , その固有の意義は
見失われよう。 問題は, 普通選挙要求という政治改革とアソシアシオン創出という社会改革の二重
の 運 動 が 展 開 さ れ る 1840 年 の 歴 史 的 状 況 に お い て , ル イ
ある。 それは, ル イ
.
.
ブランの『
労 働 の 組 織 』 を捉えることに
ブラ ン が い か に フ ラ ン ス 革 命 の 理 念 を 問 い , いかにその矛盾を乗り越えよう
とした か, と い う 問 題 に 答 え る こ と で も あ ろ う 。 「政 治 改 革 な し に 社 会 改 革 は 不 可 能 で あ る 。 社会
改 革 が 目 的 で あ る と す れ ば , 政 治 改 革 は 手 段 で あ る 」 と言う時 , ル イ
.
ブ ラ ン は , まさにフランス
革命と対峙しつつ, 自らの構想を展開しようとしているのである。
(56) cf. Procacci, op.cit. pp.270-279.
(57) cf. Roger Garaudy, Les sources frangaises du socialisme scientifique, Paris, 1948, pp.141-145 . 平
田清明訳, (ミネルヴァ書房, 1958年), 215-221 頁。
(58) cf. Procacci, op.cit., p.276.
(59) O.T.(1840), p.96. O.T.(1841); p.68. 1845年版以降, 第6章 「二重の改革の必要性」 は削除され,
内容的にこれに相当する部分は序論として書かれている。 この引用箇所に相当するのは次の部分で
ある。 「
社会改革に専心することが必要であるとしても,政治改革を推進することもまた必要である。
なぜなら,前者が目的であるとすれば,後者は ^ ^ だからである。」 0.7U B .1845) ,P.22. O.T.(P.
1845) ,p.xviii. 0. T .(1847) ,pp.13-14. O. T .(1850) ,p.12. 0. T. (Q) ,p.13.
本稿の考察は基本的に 1840年版に基づいているが,参考までに, 1840年 版と 1850年版の目次を揭
けておく。
【
1840年版】
1章
第 2 章 競 争 は 民 衆 に と っ て皆殺しの体系である
第 3 章 競 争 は ブ ル ジ ョ ワ ジーにとって破滅の原因である
第 4 章 イ ギ リ ス の 例 に よ って断罪される競争
第 5 章 競 争 は 必 然 的 に フ ランスとイギリスの間の致命的な戦争を導く
第 6 章二重の改革の必要
第
結論
【
1850年版】
序論
第
1 編 工業
1章
第 2 章競争は民衆にと
第
て皆殺しの体系である
女性の労働
男性の労働
トロワ(
Troyes ) の産業統計
第 3 章 競 争 は ブ ル ジョワジーにとって破滅の原因である
第 4 章イギリスの例によって断罪される競争
第5 章工業労働の組織—
工業の社会的作業場
第2 編農業労働
第
1 章大耕作体系の採用以外に田園に救いはない/
556 )
48 (
ビュレやボワイエと同様, ル イ
.
ブランにとっても, この時期の最大の問題は労働者の貧困であ
り, 『労 働 の 組 織 』 は, 貧 困 の 原 因 と し て の 無 制 限 の 競 争 に 対 す る 徹 底 的 な 批 判 と し て 書 か れ て い
る。 彼 に と っ て , 「一 定 数 の 労 働 者 の 排 除 に 至 る 賃 金 の 組 織 的 低 下 が 無 制 限 の 競 争 の 不 可 避 的 結 果
である」 ことは自明だった。単純な労働市場の例によって,競争の構造は次のように説明される。
「労 働 者 に 関 す る 競 争 と は 何 か 。 そ れ は 競 売 に 掛 け ら れ る 労 働 で あ る 。 企 業 主 が ひ と り の 労 働 者 を
必要とし,三人の労働者が現れる。 —
私には妻子があります。 —
あ な た の 労 働 は い く ら に つ き ま す か ?—
で は , あ な た の 方 は ?—
2
妻 が い ま す 。 — そ れ は い い 。 で は そ ち ら の 方 は ?— 2
3
フランです。
フラン半です。私には子供はいませんが,
フ ラ ン で 十 分 で す 。 私 は 独 身 で す 。—
—
では , あ な た に し よ う 。 こ れ で 終 了 し , 市 場 は 閉 ま る 。 排 除 さ れ た 二 人 の プ ロ レ タ リ ア は ど う な る
の だ ろ う か 。 … … 三 人 の 中 で 最 も 幸 運 な 者 に 関 し て も , そ の 勝 利 は 仮 の も の に 過 ぎ な い 。 二日のう
ち一日は断食することのできるほど頑強な第四の労働者がやってくる。値引きの傾向は極限にまで
進 む だ ろ う 。 お そらく,新 た な 賤 民 , 強 制 労 働 (
b a g n e ) の た め の 新 た な 募 兵 (recrue ) が 現 れ る
の だ 。」
\
第2章
フランスの農業の衰退は小耕作体系の応用, 土地の過剰な細分化に帰せられなければな
らない
第 3 章 フ ラ ン ス に お い て は ,個人主義の原理ではなく, アソシアシオンと共同所有の原理とと
もに, かつその原理と組み合わせて,大耕作システムを確立しなければならない
第 4 章農業労働の組織—
農業の社会的作業場
以 上 2 編の法案の形式での要約
第3 編文芸労働
第 1 章悪の本質とは何か
第 2 章提案された救済策の無力と不条理
第3 章文芸労働の組織—
社会的書肆
第4編信用
第 1 章資本の利子は原則として合法的(
Iggitime ) ではない
第 2 章 個 人 主 義 と 競 争 の 体 制 で は , 資本の利子の廃止は不可能であり, すべての人間に対する
信用の無償化あるいは信用の民主的組織はアソシアシオンによってしか可能ではない
第 3 章信用の民主的組織—
地方における高利
国家銀行
通知
いくつかの反論に対する回答
氺
氺
氺
ルイ • ブランは, 1841 年版から,文 芸 労 働 に 関 す る 章 と 「いくつかの反論に対する回答」 を加えて
いる。 第 2 編 と 第 4 編は, 1850年版で付け加えられた。
(60) O.T. (1840), p.21. O.T. (1841), p.13. O.T. (B.1845), p.45. O.T. (P.1845), p .ll. O.T. (1847), p.32.
O.T. (1850), p.27. O .T.(Q ), p.31.
(61) O.T. (1840), pp.18-19. O.T. (1841), p .ll. O.T. (B.1845) ,pp.43-44. O.T. (P.1845), pp.9-10. O.T.
(1847) ,p.30. 0. T .(1850), p.26. O. T. (Q) ,pp.29-31.
49
( 5 57)
賃 金 の 下 落 に 関 す る ル イ . ブランの認識は, ビュレと共通している。 ビュレにとって,社会的現
実 の 批 判 は 経 済 学 理 論 の 批 判 と 並 行 的 な も の で あ り , そ れ 故 , 「労 働 」= 商 品 の 理 論 が 徹 底 し て 叩 か
れ な け れ ば な ら な か っ た 。 しかし, ル イ
•
ブランにとっては, レ セ • フヱ一ルの理論ではなく, そ
の 現 実 を 形 成 し て い る 政 治 的 枠 組 み こ そ が 問 題 だ っ た 。 「貧 民 は 社 会 の 成 員 な の か , 敵 な の か 」,
「競 争 は 貧 民 に 労 働 を 『
確保する(
ASSURER) 』 手 段 な の か 」 と 問 う 時 , ル イ • ブ ラ ン が フ ラ ン ス
革 命 の 「自由」 を 問 題 に し て い る こ と は 明 ら か で あ る 。 競 争 が 「自由」 の 経 済 的 表 現 で あ る と す れ
ば , そ の 「自由」 の 原 理 が 問 わ れ な け れ ば な ら な い の で あ る 。 「自由, こ れ こ そ , 獲 得 す べ き も の
で あ る 。 しかし, 真 の 自 由 , 万 人 に と っ て の 自 由 , こ の 自 由 は , そ の 不 滅 の 姉 妹 で あ る 平 等 と 友 愛
の な い と こ ろ で は 探 し 出 す こ と は で き な い 。」 「野 蛮 状 態
(
gtat s a u v a g e ) の 自 由 は , 力 の 不 平等 と
結合し, 身体の不自由な人間を敏捷な人間の餌食にするだから,実際には, 忌まわしい抑圧でしか
ない。」 労 働 者 に 労 働 を 確 保 す る 手 段 た り え な い ど こ ろ か , 労 働 を 奪 う こ と に な る 競 争 シ ス テ ム は ,
近 代 的 「自由」 の 名 に 値 し な い の で あ る 。
そ し て , ル イ . ブ ラ ン は , こ の 問 題 を 「自然権」 批 判 と し て 展 開 す る 。 「抽 象 的 な 方 法 で 考 え ら れ
る権利は, つ け 込 ま れ た 民 衆 (
peuple
a b u s g ) を1789 年 以 来 引 き つ け て い る 幻 影 (m ir a g e ) で あ る 。
民衆にとって,権利は, 民衆に与えられるべきだった生きた保護に取って代わった形而上学的で死
ん だ 保 護 で あ る 。 権 利 は , 憲 章 で 仰 々 し く か つ 不 毛 に 宣 言 さ れ た が ,個 人 主 義 体 制 の 発 端 が 不 正 だ
っ た点 , 貧 民 の 放 棄 が 野 蛮 だ っ た 点 を 隠 蔽 す る の に 役 立 っ て い る に 過 ぎ な い 。 自 由 を 権 利 と い う 言
葉 で 規 定 し た た め に ,飢 餓 の 奴 隸 ,寒 気 の 奴 隸 ,無 知 の 奴 隸 ,偶 然 の 奴 隸 が 自 由 人
(
hommes
lib r e s ) と 呼 ば れ る に 至 っ た の で あ る 。 だ か ら , も う 一 度 す ベ て の 自 由 に 関 し て 言 お う 。 自 由 は ,
授けられる『
権 利 (
DROIT) 』 だ け で は な く , 正 義 の 支 配 の 下 で , 法 の 保 護 の 下 で , 諸 能 力 を 行 使
し発展させることができるよう人間に与えられる『
権 力 (
POUVOIR) 』 に も 存 す る の で あ る 。」
普 遍 的 , 抽 象 的 「自 然 権」 は, 実 質 的 な 権 利 を 保 証 し な い 。 政 治 的 に は , 「貧 民 」= 労 働 者 は 市 民
としてその自然権を保証されていながら, 投票権は奪われている。経済的には,所有への権利は形
式的には認められているにも拘わらず,所有に接近することはできず, さらには所有に接近する唯
一 の 手 段 で あ る 労 働 か ら も 遠 ざ け ら れ て い る 。 労 働 者 は , 形 式 的 に は 市 民 で あ り な が ら , 実質的に
は市民ではない。 だから, 問題は,労 働 者 を 実 質 的 に市民たらしめる社会構想を示すことにある。
(62) O.T. (1840), p.15. O.T. (1841), p.9. O.T. (B.1845), p.41. O.T. (P.1845), p.7. O.T. (1847), p.28.
0_ T .(1850) ,p.25. O. T. (Q ), p.28.
(63) O.T. (1840), p.18. O.T. (1841), p .ll.O .T . (B.1845), p.43. O.T. (P.1845), p.9. O.T. (1847), p.30.
O .r. (1850), p.26. O .T .iQ ), p.29.
(64) O. T. (B.1845) ,p.26. O. T. (P.1845) ,p.xxi. O. T .(1847) ,p.16. 0. T_ (1850) ,p.14. O. T. (Q) ,p.16.
(65) O.T. (B.1845), p.26. O.T. (P.1845), p.xxi. 0.7.(1847), p.16. O.T. (1850), p.15. O .T .iQ ), p.16.
(66) O.T. (B.1845), pp.29-30. O. T. (P.1845), pp.xxiii-xxiv. O.T. (1847), p.19. O.T. (1850), p.17.
O.T.(Q), pp.18-19.
50
( 558)
ルイ
•
ブランの『
労 働 の 組 織 』 は, ボ ワ イ エ の よ う に , 労 働 者 階 級 を 貧 困 か ら 救 済 す る た め の 直
ちに実行可能な方策として主張されたのではない。 ル イ
.
ブ ランにとっては, 労働者階級の利害を
守 る こ と で は な く , ト ー タ ル な 社 会 構 想 を 示 す こ と が つ ね に 問 題 に な っ て い る 。 だ か ら こ そ , 競争
は 「民 衆 に と っ て 皆 殺 し の 体 系 」 で あ る だ け で は な く , 「ブ ル ジ ョ ワ ジ ー に と っ て の 破 滅 の 原 因 」
でもあり,従って社会全体にとっての災禍である, と批判されるのである。
競 争 に よ る 貧 困 を 直 接 的 原 因 と す る 社 会 的 悪 と し て , ま ず 犯 罪 の 増 加 が 挙 げ ら れ る 。 競争によっ
て 労 働 を 奪 わ れ た 労 働 者 は , 「乞 食 を 禁 じ る 法 律 が あ る 」 以 上 , 私 的 慈 善 に 訴 え る こ と は で き な い 。
国家による労働供給が機能しないとすれば, 「
個人的責任の原理」 が労働者を圧迫するだけである。
生 き 延 び る 道 は , 窃 盗 以 外 に な い 。 こ れ は , 労 働 者 階 級 の 道 徳 的 頹 廃 だ け で は な く , 所 有を原則と
す る 社 会 全 体 に 対 す る 脅 威 を 意 味 す る 。 「競 争 は , だ か ら 貧 民 の 生 存 と 同 様 に 富 者 の 安 全 に と っ て
致 命 的 で あ る 。」
もうひとつの不吉な結果は家族の解体である。 ル イ
子
•
ブランは, 内 縁 関 係 (
concubinage ) , 捨て
(
enfants trouvgs) , 嬰 児 殺 し (in fa n tic id e ), 売 春 , そ の 他 の 「社 会 悪 」 は 貧 困 に 直 接 起 因 す る と
考 え る 。 家族の解体は,近代社会のシステムそのものを破壊する可能性をもつ。 ル イ .ブ ラ ン が 労
働 者 の 物 理 的 • 道 徳 的 • 知的状態の改善を主張するのは, それが社会秩序の回復のために必要だか
らであ り, 労 働 者 階 級 の 代 理 人 と し て 語 っ て い る わ け で は な い 。 「あ る 階 級 が 抑 圧 さ れ て い る 国 民
は, 脚 に 傷 を 負 っ て い る 人 間 に 似 て い る 。 病 ん だ 脚 は , 健 康 な 脚 を 動 か な く さ せ る 」, 「
社会全体が
上 昇するか,社 会 全 体 が 下 降 す る か 」 という問題意識が, この著作を貫徹している。
さらに, 生 産 に お け る 競 争 の 原 理 , つ ま り 「
安 価
(bon m archg) 」 の 原 理 は , 何 よ り も ま ず ブ ル
(67) O .r. (1840), p.15. O.T. (1841), p.9. O.T. (B.1845), p.41. O.T. (P.1845), p.7. O.T. (1847), p.28 .
O. T .(1850) ,p.25. 0. T. (Q), p.28.
(68) O .r. (1840), p.58. O.T. (1841),p.40. O.T. (B.1845), p.90. O.T. (P.1845), p.58. O.T. (1847), p.76.
O. T .(1850) ,p.57. 0. T. (Q) ,p.71.
(69) 0. T .(1840) ,p.16. O. T .(1841),p.10. O. 丁. (B.1845) ,p.42. O.T. (P.1845) ,p.8. O. T .(1847),p.29.
O .r .(1850), p.25. O .T .iQ ), p.28.
(70) O .r. (1840), p.34. O .r. (1841), p.23. 1845年版以降, この部分は大幅に書き換えられている。該
当箇所は,次の部分に見いだせる。「貧困の母たる競争は, 前 者 [ 貧者]にとっては呵責なき暴政で
あり,後 者 [ 富者 ] にとっては永続的な脅威である。」 O.T.(B.1845), p.67.
O.T. (P.1845), p.34.
O. T .(1847) ,p.54. O. T .(1850) ,p.44. O. T. (Q) ,p.53.
( 7 1 ) O. T .(1840) ,p.37. O. T .(1841) ,pp.24-25. O. T. (B.1845) ,p.75. O. T. (P.1845) ,p.42. O. T .(1847),
p.61. O .r. (1850), p.49.0.r.(Q ), p.59.
(72) a r .(1 8 4 0 ), p.12. O.T. (1841), p.7. O. T. (B.1845), p.38. O. T. (P.1845), p.4. O. T .(1847), p.26.
O. T .(1850), p.23. O. T. (Q), p.26.
(73) O .r. (1840), p.12. O.T. (1841), p.7. O.T. (B.1845), p.38. O.T. (P.1845), p.4. O.T. (1847), p.26.
O. T .(1850), p.23. O. T. (Q) ,卯 .25-26.
51
( 559)
ジョワジーの生存そのものにとって脅威となる。「
安価, それは独占という高度な仕事の執行者で
あ り, 中 間 的 産 業 , 中 間 的 商 業 , 中 間 的 所 有 の 吸 い 上 げ ポ ン プ で あ る 。 一 言 で 言 え ば , 産 業 的 寡 頭
支 配 (
o lig a rq u e) の 利 益 の た め の , ブ ル ジ ョ ワ ジ ー の 根 絶 で あ る 。」 競 争 は ブ ル ジ ョ ワ ジ ー の 基 本
原 理 た り え な い の で あ る 。 「ブ ル ジ ョ ワ ジ ー は , 暴 政 の 原 理 で あ る 無 制 限 の 競 争 の 上 に そ の 支 配 を
確立した。 …… その無制限の競争によって, ブルジョワジーが滅びるのを今日われわれは目撃して
ぃ る 。」
一 方 , 国 民 経 済 の 視 点 か ら も , 競 争 は 否 定 さ れ る 。 「こ の 競 争 は , 消 費 の 源 泉 を 枯 ら す 傾 向 に あ
り, 生 産 を 飽 く な き 活 動 に 追 い や る 。」 無 制 限 の 生 産 は 消 費 の 限 界 性 と 矛 盾 す る ゆ え に , 生 産 と 消
費 の 均 衡 維 持 が 人 為 的 に 図 ら れ な け れ ば な ら な い , と い う シ ス モ ン デ ィ 的 認 識 を ル イ • ブランは持
っていた。 『
労 働 の 組 織 』 に 「イ ギ リ ス の 例 に よ っ て 断 罪 さ れ る 競 争 」 を 設 け た の は , フ ラ ン ス 国
民経済の視点に立ってのことであり, イギリスとは異なるフランスの産業化を要請するためだった。
こ の よ う な 認 識 に 立 っ て 具 体 的 に 構 想 さ れ た の が , 「ア ソ シ ア シ オ ン 」 の 原 理 に 基 づ く 「
社会的
作業場
(
ateliers s o c ia u x )J で あ る 。 基 本 的 に サ ン - シ モ ン 主 義 に 依 拠 し て い る と 言 わ れ る そ の 「ア
ソシアシオン」概念は, 「
競 争 」 と 対 極 的 な 概 念 と し て 捉 え ら れ る 。 そ し て , 「ア ソ シ ア シ オ ン は 普
遍的であるという条件においてしか,進歩を構成しない」のだから, 「
社 会 的 作 業 場 」 の計画は競
争システムの全面的な否定となるはずである。
(74) 0. T .(1840) ,pp.59-60. O. T .(1841) ,p_41_ 0. T. (B.1845),p .9 1 .0. T. (P.1845) ,p.59. O. T .(1847) ,
p.77. O .r. (1850), pp.57-58. O .T .iQ ), p.72.
(75) O.T_ (1840) ,p.13. O.T. (1841), p.7. O.T. (B.1845), p.39. O.T. (P.1845), p.5 O.T. (1847), pp.2627. O.T. (1850), p.23. O .T .iQ ), p.26.
(76) O .r. (1840), p.61. O .r. (1841), p.42. O.T. (B.1845), p.92. O.T. (P.1845), p.60. O.T. (1847), p.78.
O. T .(1850), p.58. O. T. (Q) , p.72.
(77) O.T. (1840), pp.70-86. O.T. (1841),pp.49-60. O.T. (B.1845), pp.99-111. 0 .7 . (P.1845), pp.67-79.
0. T .(1847), pp.85-96. O. T .(1850), pp.62-69. O. T. (Q), pp.78-87.
(78) cf. Jean Walch, Michel Chevalier, economiste saint-sim onien 1806-1879, Paris, 1975, p.444.
なお, ル イ • ブ ラ ン は サ ン - シ モ ン 主 義 を 綿 密 に 検 討 し て い る 。 cf. Louis Blanc, Revolution
franQaise ; Histoire de dix arts 1830-1840, tome III, Paris, 1843, pp.96-139, pp.345-366.
(79) 「競争の上にアソシアシオンを接ぎ木するというのは貧しい思想である。去勢された男を両性具有
者に置き換えることである。」 (
O.T. (1840) ,p.65. O.T.(1841), p.45. O.T. (B.1845), p.95. O.T.
(P.1845) ,p.63. O. T .(1847) ,p . 8 1 . O. T .(1850) ,p.60. O. T_ (Q) ,p.75.)
(80) O.T. (1840), p.65. O.T. (1841),p.45. O.T. (B.1845), p.95. O.T. (P.1845), p.63. O .T .(1847), p.81.
O. T .(1850) ,p.60. O. T. (Q) ,p.75.
ル イ . ブランとかつてサン - シモン派の重要なメンバーだったミシェル.シュヴァリエの論争の基
礎には, アソシアシオンに関する観点の違いがある。 シュヴァリエは, 1848年 の 著 作 で 「自由社会
における労働の組織」 と し て 貯 蓄 金 庫 (
la caisse d’gpargne) ,労働裁 判 所,成 人 学 校 (les cours
d’adultes) ,年 金 基 金 (la caisse des retraites), 労 働 者 手 帳 (le livret) を考え,アソシアシオンの精 /
52
( 560)
「
社会的作業場」の設立は国家の強制力を必要とする。 この認識が彼の構想を労働者アソシアシ
オンとは異質なものにしている。 「
社会的作業場」 を創設する主体は労働者ではなく, 国家である。
f 政 府 は 社 会 的 作 業 場 の 唯 一 の 創 設 者 と 見 な さ れ る の だ か ら , 政 府 が 規 約 (s t a t u t ) を 起 草 す る 。 こ
の 規 約 の 作 成 は , 国 民 の 代 表 に よ っ て 討 議 , 採 決 さ れ , 法 の 形 式 と 力 を 持 つ こ と に な る 。」 ここで
•
ルイ
ブ ラ ン は 「労 働 権
(
droit au travail) 」 と い う 言 葉 は 使 っ て い な い も の の , こ れ は 「労 働 権 」
を 実 効 た ら し め る た め の 「法 の 形 式 と 力 」 の 要 求 で あ ろ う 。
ビュシヱの労働者アソシアシオンの構想においては, 国家の役割は資金の貸付に限定されており,
またその国家の役割は「
博愛的な団体(
rgunion
philanthropique )」 に よ っ て 代 替 可 能 な も の と さ れ
て い た 。 ア ソ シ ア シ オ ン の 主 体 は 飽 く ま で 労 働 者 で あ り , だ か ら こ そ , こ の 構 想 は 1840 年 に 『アト
リエ』 に 引 き 継 が れ , 労 働 運 動 に 広 範 な 影 響 力 を 与 え る こ と が で き た 。 勿 論 , ル イ • ブ ラ ン が , 労
働 運 動 の 自 律 性 の 論 理 を 考 慮 に 入 れ て い な か っ た 訳 で は な い 。 「第 一 年 度 中 , 社 会 的 作 業 場 の 設 立
が 続 く 以 前 に は , 政 府 が 機 能 の 位 階 制 を 定 め る だ ろ う 。 第 一 年 度 が 過 ぎ れ ば , 事態は同じではなく
なる。 労 働 者 は お 互 い を 評 価 し あ う 時 間 を 持 ち , 後 に 見 る よ う に , 全 員 がア ソ シア シ オ ン の 成 功 に
同 じ よ う に 関 心 を 持 つ か ら , 位 階 制 は 選 挙 原 理 か ら 出 発 す る 。」 「各 作 業 場 は , 第 一 年 度 が 過 ぎ る と ,
独力でやっていけるので,政府の役割は, 同種のすべての生産センターの関係の維持を監視するこ
と, 共 通 規 約 の 原 理 か ら の 逸 脱 を 阻 止 す る こ と に 限 ら れ る 。」 しかし, 「
社 会 的 作 業 場 」 は, 労 働 運
動の論理から発想されたものではなかった。 ル イ
\
•
ブランは,競 争 シ ス テ ム に 取 っ て 代 わ る ,社会
神の最も重要な応用のひとつとして労働者の利益への参加を検討している。結論として, 「
産業を間
近に検討すると, アソシアシオンのシステムについて思われている以上に多くの兆候が既にある。
既に存在し, 多くの点で自発的に現れているこの種のものを発展させることだけが問題であり, か
くして, 時 代 の 要 請 に 適 合 する もの がす べての 人 間の ため に訪 れる 」 と述べられている 。Michel
hevalier,Lettres sur I’organisation au travail, ou etudes sur les pnncipaies causes de la misere
et sur les moyens proposes pour y remedier, Paris, 1848,p.3 1 5 . 両者の論争については ,Jean
Walch, Michel Chevalier, chapitre VI を参照。
(81) O.T. (1840),p.l09. O.T. (1841) ,pp.76-77. O.T. (B.1845), p.118. O.T. (P.1845), p.86. O.T. (1847),
p .1 0 3 . この部分は 1850年 版 以 降 次 の よ う に 書 き 換 え ら れ て い る 。 r社会的 作業 場に 託さ れた 規約
{S ta tu ts) の起草は, 国民の代表によって討議され,票決されるだろう。規約は法の形式と力を持
つだろう。」 (O.T.(1850), p .7 1 .O. T. (Q), p.89.)
(82) cf. [Buchez], op.cit., 3 8 . 訳,93 頁。
( 8 3 ) ビュシェとアトリエ派の関係については,以下を参照 。Armand Cuvillier, P.-J.-B. Buchez et les
origines du socialisme chretien, Paris, 1948. Armand Cuvillier, Un journal d'ouvriers : “L ’A telier”
(1 840 -1 850), Paris, 1954.
(84) O. T .(1840) ,p.110. 0_ T .(1841) ,p.77. O. T. (B.1845) ,pp.118-119. O. T. (P.1845) ,pp.86-87. O. T.
(1847) ,p.103. 1850 年版以降, 「政 府 (gouvernement) 」が 「国 家 (E tat) 」 に代わり,他にも若干
の語句の修正が見られる。 0 . ア_(1850) ,p .7 1 .O. T. (Q), p.89.
(85) O.T. (1840), pp.116-117. O.T. (1841), p.82. O.T. (B.1845), p.125. O.T. (P.1845), pp.91-92. O.T.
(1847), p.108. 1850 年版以降, 「政 府 (gouvernem ent) 」 が 「国 家 (E tat) 」 に代えられている。
0. T .(1850) ,p.78. O. T. (Q) ,p.99.
し
53
{ 561)
全 体 を 規 制 し う る シ ス テ ム を 提 示 し よ う と し た の で あ り , 『ア ト リ エ 』 の 構 想 と は 異 な り , 「
社会的
作業場」への資本家の参加を認めるのはその当然の帰結だったと言える。
「
社 会 的 作 業 場 」 は,何 よ り も 競 争 シ ス テ ム に よ っ て 破 壊 さ れ た 社 会 秩 序 の 再 建 と い う 課 題 を 担
うものであり, ル イ
•
ブランは,特殊的利害と一般的利害を経済的かつ道徳的に一致させる構想と
し て こ れ を 提 示 し た の で あ る 。 1845 年
2
月 の 『
論 争 紙 』上で, ル イ
.
ブランはミシヱル.シュヴァ
リ ヱ の 反 論 に 対 す る 回 答 と し て 次 の よ う に 述 べ て い る 。 「わ れ わ れ が 設 立 を 提 案 す る 社 会 的 作 業 場
においては, 各労働者は利益に參加するのだから,個 人 的 利 益 (
in tSretpersonnel) の 分 け 前 は , 矛
盾 な く 行 わ れ る 。但 し , 利 益 は , 全 員 に と っ て 上 昇 し な い 限 り , ある一部の人間にとって上昇する
ことはありえない。か く し て 競 争 心 (
g m u la tio n ) は 枯 渴 さ れ る こ と な く , 純 化 さ れ る 。 個 人 的 利
益 は , 憎 悪 へ の 刺 激 で あ る こ と を や め て , 調 和 の 手 段 , 友 愛 へ の 奨 励 と な る 。 個 人 的 刺 激 は , その
エ ネ ル ギ ー を ま っ た く 失 わ ず , 道 徳 的 な も の に な る 。」 競 争 シ ス テ ム に 対 す る 「
社会的作業場」の
経 済 的 利 点 は 「協 同 生 活
(la vie en co m m u n ) に よ る 節 約 」 と 労 働 者 の 参 加 へ の 意 志 に よ る 生 産 の
上 昇 にある, と主張されているが, 生 産 力 の 問 題 は むしろ二次的なものであろう。 ル イ .ブ ラ ン の
力 点 は こ の 構 想 が 経 済 的 改 革 と 道 徳 的 改 革 を 同 時 に 実 現 し う る こ と に 置 か れ て い る 。 「産 業 的 改 革
は, こ こ で は , 現 実 に , 深 遠 な 道 徳 的 革 命 と な る だ ろ う 。 あ ら ゆ る 説 教 家 の 講 話 や あ ら ゆ る 道 徳 家
の 忠 告 を も っ て 一 世 紀 か か る 以 上 の こ と を 一 日 で 変 え て し ま う だ ろ う 。」 既 に 述 べ た よ う に , 『
進歩
雑 誌 』 の 「序 言 」 に 示 さ れ た 社 会 秩 序 回 復 の た め の 課 題 に は , 「政 治 的 統 一 」 「
社 会 的 統 一 」 に並ん
で 「道 徳 的 統 一 」 か 挙 げ ら れ て い た 。
(86)
「資本家はアソシアシオン内に招かれ,投入した資本の利子を受けるだろう。 その利子は予算の上
で彼らに保証される。 しかし,彼 ら は 労 働 者 の 資 格 に よ っ て し か 利 益 (
bgngfices ) に参加すること
はないだろう。」 (
O.T. (1840) ,pp.in-112. 0 .7 :(1841) ,pp.78-79. O.T. (B.1845), p.120. O.T. (P.
1845), p.88. O.T.(1847), pp.104-105. O.T. (1850), p.72. O.T. (Q), 9 0 . ) この点は, 『アトリエ』 と
原理的に対立する。「資本家を利益の共同分配者の資格でアソシアシオン内に認めることは決してあ
りえないことを原則として認めなければならない。換言すれば,労働 だ け {seul 、 が,分配への権利
industrielle : De l’association ouvrigre,
” L'Atelier,
organe des interets moraux et materiels des ouvriers.1 6re annee, no.6 (f6vrier 1841) ,4 3 . 谷川稳訳,
河野編, 前掲書, 281 頁。)
(87) Louis Blanc, “Au redacteur/' Journal des debats politiques et litteraires, no. du 17 fevrier 1845.
これは, 1847 年 版 以 降 『
労働の組織』 の巻末に付録として収められている。 0 . ア. (
1847) , p.138.
0. T .(1850) ,p.194. 0. T. (Q) ,p.252.
(88) O .r. (1840), p.112 . O.T. (1841), p.79. O.T. (B.1845), p.120 . O.T. (P.1845), p.88. O.T. ( 1847 ),
p.105. O.T. (1850), p.76. O.T.(Q), pp.96-97.
( 8 9 ) これに対して, シュヴァリエの生産力主義の立場は, 前 掲 書 の 第 1 論 文 「民衆の進歩は生産の増
大を要求する(
Le progrfes populaire exige l’accroissement de la production) J , 第 2 論 文 「生産の
増大は資本の増大を要求する(
L’accroissement de la production exige I’accroissement du capi­
tal) J に示されている。Chevalier•,ゆ
pp.1-38.
(90) 0.7.(1840), pp.126-127. O.T. (1841), p.89. O.T. (B.1845), p.130. O.T. (P.1845), p.99. O.T.
(1847), p.115. O. 丁. (1850), p.82. 0. T. (Q), p.104.
を持つのでなければならない 。
」("Reforme
54
( 562)
労働者アソシアシオンに対する「
社会的作業場」 の特徴は, その利益分配に関して顕著に現れる。
「社 会 的 作 業 場 」 では , 「毎 年 , 純 益 の 報 告 が 行 わ れ る が , そ の 純 益 は 三 つ の 部 分 に 分 か れ る 。 一部
は, ア ソ シ ア シ オ ン の 成 員 間 に 平 等 な 割 合 で 分 配 さ れ る 。 一 部 は , ⑴ 老 人 , 病 人 , 身 体 障 害 者 (
in-
fir m e s ) の 扶 養 費 (e n tre tien ) に, (2)す べ て の 産 業 は お 互 い に 援 助 • 扶 助 し あ わ な け れ ば な ら な い の
だ か ら , 他 の 産 業 に 押 し 寄 せ る 恐 慌 の 軽 減 に 充 て ら れ る 。 最 後 に , 第 三 の 部 分 は , ア ソ シ ア シオ ン
が無限に発展できるよう, アソシアシオンの一員たらんとする者に, 労働手段を供給することに充
て ら れ る 。」
確 か に , 会 員 間 の 相 互 扶 助 は , フ ラ ン ス 革 命 以 前 か ら 職 人 組 合 の 原 理 だ っ た 。 職 人 組 合 は ,徒弟
修 業 を 終 え ,親 方 に な る 以 前 の 職 人 が 互いに助け合う一種の共同体であり, 会員が職を求めている
時 や 病 気 の 時 に は こ の 共 同 体 が 援 助 し た 。 ボ ワ イ エ が 言 う よ う に , 『ア ト リ エ 』 の 目 指 す 労 働 者 ア
ソ シ ア シ オ ン は , 職 人 組 合 の 排 他 主 義 や 封 建 的 性 格 を 排 除 し つ つ , そ の 「ア ソ シ ア シ オ ン の 精 神 」
を受け継ぐものだった。
しかし, 『ア ト リ エ 』 に よ っ て 起 草 さ れ た 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン の 「契 約 (
Contrat) 」 (1841年)
には , 『
労 働 の 組 織 』 に 見 ら れ る 「老 人 , 病 人 , 身 体 障 害 者 の 扶 養 費 」 に 関 す る 条 項 は 存 在 し な い 。
『ア ト リ エ 』 自 身 は こ の 点 に つ い て 次 の よ う に 説 明 し て い る 。 「わ れ わ れ の 『契 約 』 に 病 人 , 子 供 ,
老人に与える扶助に関する条項がないことは, おそらく驚かれるだろう。 われわれはこの条項を故
意 に 外 し た 。 実 際 , 現 代 に お い て 『ア ソ シ ア シ オ ン (
A ssociation) 』 が 困 難 で あ る こ と , 競 争 と も ,
そ し て お そ ら く 他 の 障 害 と も 戦 わ な け れ ば な ら な い こ と を 忘 れ て は な ら な い 。 ところで, アソシア
シオンが病人, 子供, 老人を扶助することを引き受けたとすれば, たったひとつの病気でもアソシ
ア シ オ ン を 破 滅 さ せ る に は 十 分 と な る だ ろ う 。」
扶 助 条 項 の 欠 如 は , 「困 難 な 」 状 況 か ら だ け で は な く , 七 月 王 政 期 の 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン の 思
(91) 0.7.(1840), pp.110-111. O.T. (1841), pp.77-78. O.T. (B.1845), p.119. 0 . T. (P.1845), p.87. O.T.
(1847) ,p.104. 1850 年版以降,次のように書き換えられている。「獲得された純益の一部だけが,
アソシアシオンのメンバ一の間で分配され, この利益の一部は老人,病人, 身体障害者に割り当て
られなければならない。 そして別の一部は,すべての産業を連帯させることが問題であるのだから,
別の産業に襲いかかる恐慌の緩和に割り当てられるだろう。」 O.T. (1850), p.72. O .T .iQ ), p.90.
( 9 2 ) 職人組合については, Jean-Pierre Bayard, Le compagnonnage en France, Paris, 1977. Jean
Bernard, Le compagnonnage, rencontre de la jeunesse et de la tradition, 2 vols. Paris, 1982 を参
照。
(93) Boyer, De Vital des ouvriers et de son amiioration par I’organisation du travail,pp.53- 59.
(94) “Rgforme industrielle : De l’association ouvri§re,
” L fA telier,1 6re annee, no.5 (janvier 1841),38.
訳, 287 頁。 なお, 1843年 の 「
労働者アソシアシオン契約」 では,「老齢, 身体障害, その他すベて
の 正 当 な 理 由 で 退 会 す る 会 員 」 に つ い て の 規 約 が 設 け ら れ て い る 。cf. “Contrat dissociation
ouvrigre,
” L ’A telier ,3e annee, no.5 (janvier 1843) ,39.
55
( 563)
想的枠組みからも説明されうると思われる。 労働者アソシアシオンは,会員が労働手段の所有者に
な る こ と で , 賃 金 奴 隸 か ら 自 己 解 放 さ れ る こ と を 目 的 と し て い た 。 1833 年のストライキの際にノぐン
フ レ ッ ト を 発 行 し た 製 靴 エ エ フ ラ ン に よ れ ば , 「ア ソ シ ア シ オ ン 」 は, 同 じ 職 業 の 労 働 者 で 構 成 さ
れ る 生 産 協 同 組 織 で あ る に 留 ま ら ず , 労 働 者 階 級 全 体 の 連 帯 を 意 味 す る 概 念 で も あ っ た 。 しかし,
七月王政期パリの労働運動の担い手は専ら熟練工であり, アソシアシオン運動もこの熟練工の同質
性 に 基 礎 を 置 く も の で あ っ た と 言 え る 。 ビュシェは,機 械 の 歯 車 に 過 ぎ な い 工 場 労 働 者 は , 労働者
ア ソ シ ア シ オ ン を 形 成 す る の に 相 応 し く な い こ と を 明 言 し て い る 。 『ア ト リ エ 』 は, ア ソ シ ア シ オ
ンはすべての労働者に開かれていると主張するものの, そこには暗黙の境界が前提されていたと言
うことができよう。
『ア ト リ エ 』 は, シ エ ー ス と 同 様 に , 市 民 の 義 務 は 労 働 で あ る と 考 え る 。 「
義 務 (
devoir ) の 実践
がとりわけ社会的美徳であること, この実践は共通の目的に人間を結合することができる唯一のも
の で あ る こ と , そ し て す ベ て の 実 現 と す べ て の 進 歩 の 最 上 の 手 段 で あ る こ と 」 を 主 張 す る 。 しかし,
「義 務 の 感 情 を 持 ち , そ れ を 実 践 し よ う と す る だ け で は 十 分 で は な い 。 道 徳 と 社 会 的 利 害 が 国 民 の
すべてに課す義務(
o b lig a tio n ) を 最 大 限 に 達 成 す る 能 力 も し く は 『権 利 (DROIT )』 を各人が思う
ま ま に す る こ と が な お 必 要 で あ る 。」 そ こ か ら , 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン の 必 要 が 生 ま れ る 。 そ れ は,
労 働 者 が 自 ら の 手 で 市 民 に な る 試 み だ っ た 。 創 刊 号 「序 文 」 に は こ う 書 か れ て い る 。 「わ れ わ れ は ,
労 働 者 が 友 愛 と 献 身 を 実 践 す る こ と が で き る だ け で な く , 自由と平等 に 値 す る こ と , 政治的権利に
値 す る こ と , 現 在 生 き て い る 産 業 的 隸 属 か ら 解 放 さ れ る に 値 す る こ と を 示 す こ と に な る だ ろ う 。」
労働者が「
社 会 資 本 」 の 共 同 所 有 者 と し て 経 済 的 か つ 政 治 的 に 解 放 さ れ る こ と , そ れ が 『アトリ
エ』 の 目 指 し た こ と だ っ た 。
確 か に , 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン は , こ う し た 「市 民 」 概 念 を も っ て 職 人 組 合 の 「
排 他 主 義 」 を乗
り 越 え る 論 理 を 提 示 し た 。 しかし, ア ソ シ ア シ オ ン の 構 成 員 は 「不 可 譲 渡 (
inalignable )」 「不 可 分
(indivisible) 」 の 資 本 の 共 同 所 有 者 に な る の だ か ら , 構 成 員 と し て 認 め ら れ る に は , 「よ い 労 働 者
(95) cf. Zael Efrahem, De Vassociation des ouvriers de tous les corps d'etat, Paris, [1833 ] . 阪上孝
訳, 河野編,前掲書, 200-204 頁。
(96) cf. Bernard H. Moss, The Origins of the French Labor Movement 1830-1914 : The Socialism
of Skilled Workers, Berkeley, 1976, pp.9-16.
(97) cf. [Buchez], op.cit., 3 8 . 訳,93-94 頁。
(98) 「アソシエの数は制限されない。つまりアソシアシオンはその中に必要とするすべての労働者を認
める義務をもつ。」 (“R6forme industrielle : De l’association ouvrigre,
” L ’A te lie r,1 ere annee, no.2
(octobre 1840) ,1 2 .) 「アソシアシオンは,やって来た献身的なすべての労働者を,労働の必要に応
じて迎え入れる義務を持つ 。
」(“Rgforme industrielle : De l’association ouvriSre," L 'A te lier,1 fire
annee, no.5 (janvier 1 8 4 1 ) ,3 8 . 谷川稳訳,河野編,前掲書, 287 頁。)
(99) “Devoir,” L 'A telier,1 Sre ann^e, no.4 (decembre 1840) ,25.
(100) “Droit,” L 'A telier,1 6re annee, no.5 (janvier 1841),33.
(101) “Introduction,” L ’A te lie r,1 5re ann€e, no.l (septembre 1840) ,2.
56
( 564)
(bon travailleur) 」であることが求められ,かつ除 名 規 定 も 存 在 す る 。構成員の能力の同質性がそ
こに前提されていたと見ることができよう。社 会 的 「弱者」 をも含む国民全体の統一という論理は,
労働者アソシアシオンの論理からは直接には演繹されない。
労働者アソシアシオンは, 「
近 代 」が 提 出 し た 「
能 力 」 の問題に対して社会全体の再組織化とい
う視点から答えるものではなかった。例えば,革命家ブランキは, 一方において労働者アソシアシ
オンの持つ自律性を評価しながらも, そ れ が 内 包 せ ざ る を え な い 「能力」主 義 を 「
全 体 」 の視点か
ら批判する。 「アソシアシオンが広まると,参 加 の 形 式 が 自 由 で あ る 以 上 , 弱者,病 人 , 未熟練は
除外され, 熟練,健康, 頑強の者しか入ることが許されないのは明白である。 … …部分的なアソシ
アシオンはエゴイズムのより強烈な表明でしかなく,社会悪の増大しかもたらさないことの新しい
証拠である。」 この批判の視座は, ル イ . ブランにも共通していると言えるだろう。 「ここ数年の間
に, 一 群 の 合 資 会 社 (
soci§t§s
en com m a n d ite) が設立されている。 その歴史の醜聞を知らない者が
いるだろうか。個人と戦う個人であれ, アソシアシオンと戦うアソシアシオンであれ, それはつね
に戦争であり, (
策をめぐらす)暴力の支配であり, (
化粧を施した暴政である。)」 「能 力 」 の差異を組
み込み, 労働者アソシアシオンを包摂する社会組織の構想を示すことが, ル イ • ブランの課題だっ
たのである。
(6 )
「
才 能 (
a p titu d e) の不平等は,権利の不平等に帰着するのではない。義 務 の不平等に帰着する。」
『
労働の組織』 はこのように締めく くられている。 近 代 の 「能力」 主 義 を いかに乗り越えるか, そ
れ が ル イ . ブランの思想的課題の中心にあったと言っていいだろう。 この視点こそ,社 会 「
全体」
を 包 括 す る 新 た な 体 系 と し て の ア ソ シ ア シ オ ン の 構 想 を 彼 に 与 え た 。 「競 争 」 に端的に示される
「能力」主義は, そ れ 自 体 「出生の平等」 を 前 提 と し た 「
近 代 」 の 原 理 ではあるが, それが生み出
し た 「無秩序」か ら 社 会 「
全体 」 の 「
政治的統一」 「
社会的統一」 「道徳的統一」 を図るためには,
ギゾーの能力 = 権利論が批判されなければならな か っ た し , サ ン - シ モ ン 主 義 者 の 「
普遍的アソシ
アシオン」概念や労働者アソシアシオンの運動の論理を乗り越える構想を提出することが必要だっ
(102) “Rgforme industrielle : De l’association ouvriere," L'A telier, 1 6re annee, no.5 (janvier 1841),38.
訳,286 頁
(103) Ib id . 訳,286-287 頁
(104) Auguste Blanqui, “Rapport Lefebvre-Durufle (fgvrier 1850),
” Critique sociale, tome II,Paris,
1885, p.271.
(105) O.T. (1840), pp.65-66. 0 .7 . (1841),p.45. 1845年版以降引用文中に括弧内で示した部分が省略さ
れている。 O.T. (B.1845), p.95. O.T. (P.1845), pp.63-64. O.T. (1847), p.81. O .r. (1850), p.60.
O.T.iQ), p.75.
(106) O.T. (1840), p.131. O.T.(1841),p.93. O.T. (B.1845), p.133. O.T. (P.1845), p.102. O.T. (1847), p.
118. O. T . (1850), p .81. O. T. (Q ) , p.106.
57
( 565)
たのである。
普 通 選 挙 構 想 に お い て , ル イ • ブ ラ ン は , 「能 力 」 を 諸 個 人 の 能 力 に 還 元 す る こ と な く , 集団的な
ものと捉えることによって, そ し て 「
社 会 的 効 用 」 か ら 要 請 さ れ る 「義 務 」 の 観 念 を 導 入 す る こ と
に よ っ て , ギ ゾ ー の 「理 性 主 権 」 を 批 判し , 万 人 に 政 治 的 決 定 へ の 参 加 の 道 を 用 意 し た 。 すべての
人 間 を 「市 民 」 と 措 定 し た 上 で , 様 々 な 能 力 の 違 い を も っ た す べ て の 人 間 に 開 か れ た ア ソ シ ア シ オ
ンの実現形態として「
社 会 的 作 業 場 」 は 構 想 さ れ た の で あ る 。 従 っ て , 「普 通 選 挙 の 採 用 が , その
論理的帰結として, すべての階級の権力への接近だけではなく,社会における富の新たな配分をも
引き起こすことを彼は証明しようとした」 といった評価は, ル イ .ブ ラ ン の 思 想 の 核 心 を 突 い て い
る と は 言 え な い 。 「能 力 」 の 差 異 を 「義 務 」 の 差 異 に よ っ て 置 き 換 え る こ と を 基 礎 原 理 と す る 『
労
働 の 組 織 』 の 構 想 は , 新 た な 「市 民 」 規 定 の 上 に の み 成 り 立 つ も の で あ り , 普 通 選 挙 は , 「市 民 」
を創出する装置として不可欠な論理的前提だったのである。
「ア ソ シ ア シ オ ン 」 の 観 点 か ら 整 理 し て み よ う 。 19 世 紀 の ア ソ シ ア シ オ ニ ス ム の 課 題 は , 革 命 後
の社会の組織化という課題に応えるべく国家と個人の間に中間集団を創出することにあった点は既
に述べた。 ルソー的なアソシアシオンが依拠していた諸個人の同質性が現実に破壊された以上, 国
家 だ け を 唯 一 の ア ソ シ ア シ オ ン と す る 18 世 紀 の 論 理 は も は や 維 持 し え な く な っ た 。 1840 年 代 に 広 範
な 影 響 力 を も っ た 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン の 理 念 と 運 動 は 中 間 集 団 創 出 の 典 型 的 な 例 で あ り , これは,
資 本 主 義 の 進 展 下 で 熟 練 労 働 者 層 が 生 き 延 び る た め の 唯 一 の 方 策 と し て 位 置 づ け ら れ る 一 方 , 労働
者 の 自 律 性 に 基 礎 を 置 く 新 た な 社 会 を 展 望 す る も の で も あ っ た 。 『ア ト リ エ 』 は 国 家 の 問 題 も 捨 象
してはいない。 労 働 者 ア ソ シ ア シ オ ン の 形 成 • 発 展 の た め に は , 普 通 選 挙 に 基 礎 づ け ら れ る 共 和 政
政府の保護と奨励が必要であるという認識から,政治改革運動とアソシアシオン運動の連結を試み
て い る 。 しかし, そ の 中 間 集 団 が 構 成 員 の 同 質 性 に 依 拠 す る と す れ ば , 今 度 は 個 々 の 中 間 集 団 と
「全 体 」 と の 関 係 が 問 題 と な っ て く る 。
ルイ
.
ブランの発想は, 労働者アソシアシオンの論理とは逆に,社会全体の改革という視点から
の 「
社会的作業場」 の形成にあった。様々な能力の違いをもったすべての社会構成員を包含するト
一タルな社会変革の理念,能力の不平等を平等なシステムの中に解消する社会構想を提示すること
が そ の 課 題 だ っ た の で あ る 。 そ れ は , 諸 個 人 の 同 質 性 が 崩 壊 し た 時 代 に お い て , ル ソ ー の 「政 治的
アソシアシオン」の全体性を確保しつつ,労働者アソシアシオンの自律性を組み入れようとする試
みであった, と言うことができよう。
確かに, その構想において, ル イ
•
ブランは労働運動の自律性の論理を十分には考慮しなかった。
『ア ト リ エ 』 が , ル イ • ブ ラ ン を 批 判 す る の は ま さ に こ の 点 に お い て で あ る 。 1848 年 に お け る ル イ -
(107) I. Tchernoff, Louis Blanc, Paris, 1904, p.103.
(108) cf. “La reforme politique doit-elle preceder la reforme sociale?” L ’A telier, 4e annee, n o.ll
(aoflt 1844),訳, 294-297 頁。
(109) cf. “Opinion de la presse sur l’organisation du tra v a il: la Revue des deux mondes,
” L'Atelier,
58
( 566)
ブ ラ ン の 挫 折 の 要 因 の ひ と つ を こ こ に 見 い だ す こ と も 可 能 だ ろ う 。 しかし, 19 世 紀 の 課 題 が 中 間 集
団 の 創 出 に よ る 社 会 の 再 組 織 化 で あ り , ギ ゾ ー に お い て も , サ ン -シ モ ン 主 義 者 や フ ー リ エ に お い
て も そ こ で 取 り 組 む べ き 問 題 が 「能 力 」 の 問 題 で あ っ た と す れ ば , ル イ
.
ブ ラ ン の 試 み が , 時代の
要請に対するひとつの回答であったことは間違いない。 『
労 働 の 組 織 』 の 射 程 は 広 く , その歴史的
意味を検証するためにはなお多くの検討課題が残されているが,本稿をもって, 『
労働の組織』 を
基 軸 と す る 七 月 王 政 期 ア ソ シ ア シ オ ニ ス ム 研 究 の 「序 論 」 に し た い と 考 え る 。
( 経済学部助教授 )
\ 3e annee, no.3 (novembre 1842) ,2 1 .“M_ Louis Blanc/' L'Atelier, organe special de la classe
laborieuse, 8e annge, no.l (octobre 1847) ,7 - 1 0 . 〔『アトリエ』の副題は, この号から変わった。 ま
た, 1848年 2 月27 日 号 (
8e annge ,no.6 ) から “organe sp§ciale des ouvriers” になつている。]
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