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経済危機と経済学の危機 - C-faculty

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経済危機と経済学の危機 - C-faculty
大会実行委員会企画セッション「経済危機と経済学の危機:進化経済学の可能性」
企画趣旨説明とわたしの問題意識
塩沢由典
目次
§1. はじめに
§2. 進化経済学を支えるシステム理論
§3. 生産関数からグローバル・ヒストリーまで
§4. スケール・フリー・ネットワークと経済成長
参考文献
報告要旨
服部茂幸
安孫子誠男
田中宏
喜多一
§1. はじめに
進化経済学会第 17 回大会(中央大学・多摩校舎)の大会テーマは、
「経済危機と進化経済学の
可能性」である。リーマン・ショックや長引く欧州危機、さらには日本の長期経済停滞な
どは、従来の主流の経済学の根底に問題があることを明らかにしている。しかし、主流以
外の多様な流れの中に、次の時代を担う経済学が生まれているかといえば、そうとはいえ
ない。オータム・コンフェランス(2012 年 9 月 15 日)では、この点を念頭に、
① 進化経済学の固有の方法と領域/進化をどう捉えるか
② 経済史からの知見・経済史への貢献/商品・技術・行動の多様化と共進化
③ 商品の多様性をめぐる議論/企業の製品多様性から経済の商品多様性,需要飽和まで
④ 社会技術という観点/制度設計を社会技術開発という観点から捉えなおす
などの観点から、基調報告「進化経済学を棚卸しする/何ができ何ができなかったのか」
とそれに先立つ 20 数本のメール投稿によって、進化経済学とその周辺の諸状況についてわ
たしなりの考えを展開させてもらった。
オータム・コンフェランスのバネル・ディスカッションでは、以下の 4 人の方からそれぞ
れ報告を受けるとともに、会場参加者全体での討論を行った。
江頭進
「進化経済学の方法論」
有賀裕二 「テクノロジーと進化」
横川信治 「マルクス経済学と進化」
吉田雅明 「進化経済学教科書の編集」
1
今回の大会実行委員会企画セッションでは、以下の 4 人の方からのパネル報告を受けたあ
と、一般討論を行なうことになっている。
服部茂幸 服部茂幸服部茂幸服部茂幸「金融の技術革新とサブプライム金融危機」
安孫子誠男「イノベーション・システムにおける制度問題」
田中宏
「体制転換期の制度と行動変動の研究に進化の視点はどこまで有効か」
喜多一
「情報通信技術の動向と進化経済学」
各報告の要旨は、上記リストの人名をクリックしていただきたい。服部茂幸、喜多一両氏
については、要旨とは別に報告論文が別に掲示されている。オータム・コンフェランスと
今回の大会実行委員会企画セッションとを連続のものとみて、会員各位がそれぞれ自分な
りの見解をまとめ、討論に参加することを呼びかけたい。
まず、大会テーマ「経済危機と進化経済学の可能性」について触れておこう。大会テーマ
に含まれる「経済危機」については、リーマン・ショックとそれに引き続く欧州金融危機
を含むのは当然として、
『進化経済学ニューズレター』(No.32、2012 年 5 月 22 日)に書い
たように、よりひろく「少子高齢化問題・人口減少問題、国内産業の空洞化問題、日本経
済の長期停滞、中央・地方の財政危機、サービス経済化の遅延、キャッチアップ期への過
剰適応、博士課程修了者の就職難、など」の重要問題について、社会的・経済的対応がう
まく進んでいないこと全般を指すとテーマ提案者側は考えている。このような重要問題に
ついて、進化経済学はいかなる知見をもたらしうるのか。これが現在、進化経済学に問わ
れている問題である。
今回の実行委員会企画セッションでは、以上の大会テーマをすこし絞って「経済危機と経
済学の危機:進化経済学の可能性」としてある。リーマン・ショック以来、1970 年代以降
のマクロ経済学に対する反省は進んだが、ではそれに代わるいかなる経済学を目指すべき
かについては、明確になっていない。ケインジアンの一部には、
「ケインズに帰れ」という
掛け声がある。しかし、ケインズに戻るだけですむのだろうか。ケインズ以降、経済学が
たどった歴史は、たんなるケインズからの逸脱ではなく、ケインズの経済学が内包してい
たさまざまな可能性の展開の歴史でもあった。歴史の歯車を元に戻すだけでは、経済学の
現在の危機は救えない。1970 年代にジョーン・ロビンソンは「経済学の第二の危機」を唱
えた。その例に倣うならば、現在は「経済学の第三の危機」である。進化経済学は、この
危機に出口を示すものとなるだろうか。これが実行委員会企画セッションの課題である。
もちろん、このように大きな課題に一回あるいは二回のシンポジウムで答えが出るとは考
えていない。4人のパネリストの方々から、それぞれ自己の研究蓄積を踏まえた上で、こ
2
の大きな主題について自分はどう考えているかの大胆かつ率直な考えをお聞きしたい。そ
の上で、それらに刺激された形で、参加者の皆さんから多様な意見を出していただき、進
化経済学に興味をもつものとしてある程度の問題意識の共有ができれば幸いと考えている。
当日の各報告者および討論参加者の意見を誘導する意図はないが、セッションを企画し司
会を担当するものとして、わたしなりの問題意識をここに開示しておきたい。セッション
中に司会の意見を差し挟むことを控える意味もある。
経済学の第三の危機における進化経済学の可能性を考えるには、進化経済学が現在のさま
ざまな経済学(経済学の諸学派)の中でどのような位置を占めているか、その大きな構造を問
題にしなければならない。こここにいう構造は、なにが正統でなにが異端であるとか、な
にが主流でなにが支流であるといった状況分析ではない。経済を分析する理論の枠組みと
して、進化経済学と他の諸潮流とのあいだの差異の構造が問題である。別の言葉を使えば、
進化経済学と他のいう潮流とのパラダイムの違いはなんなのかを問わなければならない。
これは経営手法として流布しているSWOT分析と戦略ポジショニング分析に模していえ
ば、進化経済学の強み・弱みと機会・脅威を反省することであり、他の諸潮流に対し、進
化経済学のポジショニングを明らかにすることということもできる。
進化経済学の特徴(とくにその強み・弱み)が何であるかについては、人によって考えはさま
ざまであろう。パネリストの安孫子誠男は、大著『イノベーション・システムと制度変容
/問題視的考察』(安孫子、2012)において、
「制度の経済学にはイノベーション論が弱く、
イノベーション論には制度理論が希薄だ」という問題意識を明示され、いかにそれら弱点
を補う形で両者の視点を統合できるかに取り組んでいる。その一端は、パネル報告で開陳
されると思われるが、他の3人のバネリストも、進化経済学の可能性について、それぞれ
の立場から期待と批判と展望を持っている。この趣旨説明では、これらパネリストの見解
を紹介するのでなく、わたし自身の考えをまとめてみたい。
わたしは、進化経済学が
①自己組織化 vs. 均衡
②進化 vs. 最適化
の2つの軸で位置づけることができると考えている。この大きな枠組みに立つとき、経済
の諸問題に関し、進化経済学が応えうる領域がおのずと明らかになってくると思われる。
思いつくままに列挙するならば、以下の7項目が考えられる。
①経済における進化の捉え方
②制度と技術変化
3
③金融制度と市場変動
④制度設計と社会技術
⑤大規模データ
⑥技術進歩をどう捉えるか
⑦Random scale-free network、成長するネットワーク
これらは、もちろん相互排除的なものではない。たとえば②と④とは、密接に関連してい
るし、見方によっては③も②、④と切り離して考えることはできない。いうまでもなく、
②は安孫子誠男報告に、③は服部茂幸報告に、④は田中宏報告に、⑤は喜多一報告に深く
関連している。
①は、進化経済学会としては当然のこととしてつねに議論しつづけなければならない議題
であるが、わたしの考えは塩沢(2004、2006)などに示してあるので再説はしない。日本の
進化経済学として、忘れてはならないのは、藤本隆宏が提起した藤本(1997、2000)などで
提起した進化の捉え方である。それは生産現場の変容を長期にわたる聞き取り調査と文献
研究とによって考察してきた立場から、自身の方法スタンスを明確にしたものであり、「意
図せざる試行」
、
「事後的合理性」
、
「緩やかな淘汰」など独自の概念構築が見られる。また、
それら概念体系の上に立って「事後的進化能力(能力構築能力)」
「動態的な進化能力」など、
これも独自の経営学概念を提起している。これは、英語文献を見渡してみても他に類例の
ない優れた概念構築であり、日本の進化経済学が①を主題にするとき、つねに立ち戻るべ
き原点であろう。
しかし、進化経済学は、経済における進化をいかに捉えるのか、に留まることはできない。
進化という視点から見えてくるが、他の方法では問題把握も分析も難しい問題領域が何で
あるかを明らかにしなければならない。その問題領域こそが現在の経済学の危機を生み出
しているところであることが立証できてはじめて、進化経済学は経済学の危機を突破して、
経済危機にも迫ることのできる経済学であることを示すことができる。
このような課題についても、さまざまな議題が可能であるが、ここではパネル報告に関連
する②~⑤は省略して、①に関係した進化経済学の特性と、そこから見えてくる⑥と⑦つ
いて、それぞれいくつかの問題を提起してみたい。
以下の行論は、次のように構成されている。まず第2節では、①に関係して、進化経済学
のパラダイムとすべき考え方について、わたしなりの理解を述べる。第3節では、⑥に関
係して、生産をどう捉えるべきかという観点から、生産関数にについて批判的に議論し、
生産関数とそれに付随する諸概念が経済発展論や工業化、はてはグローバル・ヒストリー
4
にまで及んでいることを問題にする。第4節では、⑦に関係して、近年の知見であるスケ
ール・フリー・ネットとして経済システムを捉えなおすことから、どのような議論・分析
が可能になってくるかについて私見を述べたい。以下の議論は、まったくわたし個人の見
解であり、進化経済学会あるいは大会実行委員会の考えを代表するものではまったくない。
§2. 進化経済学を支えるシステム理論
進化経済学の強みとして、経済の重要なカテゴリーが「進化するもの」という観点で捉え
られることについて、すでにいくつもの機会に強調してきた(塩沢 2006、Shiozawa2004)。
なにを進化するものという観点で捉えるべきかについては、さまざまな考えがあろう。わ
たしが進化するものの 7 つのカテゴリーを上げたとき、市場ないし市場経済はその中に含
めていない。それは、進化するものたちが作りだす場として捉えればよいという考えから
であった。市場経済を構成する多種・多様な構成者からなる集団(ポピュレーション)があり、
その個々の行動・運動と、それらのあいだの相互作用が進化するものであるという考えは、
いまも変わっていない。しかし、それは進化経済学の強い分野を提示するだけで、現在の
進化経済学の弱いところ、欠けているものを示していない。経済学の危機は、進化経済学
を含むすべての経済学の危機であり、主流を占める経済学を含めて、なにが問題であるの
かを問題にしないかぎり、経済学の危機は突破できないであろう。その観点から考えると
き、進化経済学が「進化」という概念によってのみ理論的統一をたもっている状況は健全
とはいえない。それでは、進化経済学は主流の経済学に進化という視点を導入するに過ぎ
ないもの、主流の経済学を補完するものになりかねない。進化経済学は、進化という視点
とともに、それにふさわしいシステム理論ないしシステム理解を必要としている。それは
何であろうか。
わたしは、鍵は自己組織化というシステムの捉え方にあると考える。経済は自己組織系
(self-organizing system)であるといってもよい。これはとくに新しい見方ではない。
Hodgson(2010)は、経済の進化経済学者たちが普遍的に合意している4つの特徴の第4に
「自然発生秩序」あねるは「自己組織化」を上げている。しかし、この2つの概念はかな
らずしも同一ではない。ハイエクは自然発生的に生まれる経済秩序の重要性を強調したが、
自己組織化の考えは、ハイエク以降大きく発展しており、「自然発生的」という観点からだ
けでは捉えられないものとなっている。
自己組織系の概念は、システム理論の創始者のひとりアシュビーによって、1947 年、定昇
されたものであるが、1950 年代には、システム理論の分野で主として議論された。進化理
論との関係では、自己組織化の概念は、カウフマン(2008、原著は 1993)により有名になっ
た。しかし、わたしは自己組織系の重要な性質としてプリゴージンの散逸構造という見方
5
に注目している。
散逸構造は、熱平衡化する宇宙の普遍的傾向に反して、熱平衡から遠く離れたところにの
み成立しうる(ほぼ)定常状態である。この概念については興味のある方は、専門書を参照し
てもらうしかないが、エネルギーの定常的な(一方向への)流れの存在が決定的なメルクマー
ルである(平衡状態には、このようなエネルギーの巨視的流れはない)。散逸構造のもっとも
簡単な事例をあげれば、空気中にあって火が付いて燃えているロウソクがある。火のつい
たロウソクは、みずからの熱で蝋を溶かし、それを毛管現象により灯芯から吸い上げて、
空中の酸素と結合して、光と熱を放散する。この状態は、空中にじゅうぶんな酸素があり、
強い風が吹かず、蝋があるかぎり維持されるが、このどの条件が満たされなくなっても火
はきえてしまう。火が消えた状態は熱平衡にあり、安定であるが、火をつけないかぎり、
みずから自発的に火のついた定常状態に移動することはない。ロウソクの例の重要なとこ
ろは、火が燃える速度(つまり蝋のパラフィンが酸素と化学反応する速度)は、周辺における
酸素の存在量や蝋の存在量によってではなく、燃えている火の状態によって決まっている
ことである。
カウフマンが考察した生命の発生時における自己触媒系においても、それが熱平衡にあれ
ば生きたシステムへは繋がらない。生命の起源となった環境については諸説あるが、現在
有力な考えの一つは、海の中の熱水噴出孔である。これが注目されるのは、熱と化学物質
がつねに供給されることから、火のついたロウソクにたとえられるような散逸構造が容易
に出現すると考えられるからである。
散逸構造は、自己組織系としては、ある意味で単純な系であるが、生命や経済の自己組織
化を可能にする基盤として重要である。現実の生命や経済は、散逸構造の上に、さらには
るかに複雑な相互作用をもつ系として存在している。このような自己組織系の観念が経済
学にとってなぜ重要なのか。それは、自己組織系/自己組織化という概念が、経済学におい
て圧倒的勢力をもつ均衡系(平衡系)/均衡化の概念とするどく対立するからである。
経済を自己組織系と捉えることは、たんなる比喩的表象ではない。日々の経済現象を分析
しようとするとき、経済を均衡系と捉えるか、散逸構造を基礎とする自己組織系と捉える
かによって、分析枠組みそのものが変わってしまう。例として、石油やレアメタルのよう
な、鉱物資源を考えよう。アロー・ドブルー流の一般均衡理論によれば、経済はかならず
採掘利益が 0 となるような限界企業をもつと考える。これは地代論において限界地がある
と考えるのと同様であるが、油田からあるいはレアメタルの鉱床から、どのような速さで
採掘・利用するかを決めるものは、価格の変化にともなう限界企業(限界採掘地)の拡大・縮
小であろうか。多くの鉱山は、ときに赤字に陥るものの、あるていど長期にわたって操業
6
している。実際の油田や鉱床では、一日あるいは年間の生産量をどの程度にするかについ
ては、かなりの裁量がある。また生産量を変えても、短期的には大きな変動はない。価格
が少々変化したからといって、限界採掘地がそのたびに変わるということはない。新古典
派一般均衡理論が地下資源の採掘速度を限界費用の増大によって決められるものと見てい
るのは、それが一般均衡理論の枠組みにのる唯一の可能な理解であるに過ぎない。
もし経済が自己組織系であり、巨大な火のついたロウソクと見なせるならば、石油の日産
量やレアメタルの年間生産量は、埋蔵資源の状態が決めるのではなく、(たとえば GDP で
イメージされる)経済活動度に依存すると考えることになる。長期的には埋蔵資源は枯渇す
るが、その速度は 10 年を単位とするような長期の変動の一部としてあり、その間に技術進
歩や新しい発掘、資源価格の変化などにより、採掘可能な鉱床と可採埋蔵量までが変わっ
てくる。たとえば、現在は、石油価格の高騰により、シェール・ガスの採掘が採算に載る
ようになったし、一時期、中国にほぼ独占されていたレアメタルは、中国以外での鉱床開
発が進み、価格は低落傾向にある。
古典経済学で重要な議題であった地代についても、どこが限界地であるかを決めるのは経
済の活動度である。この活動度は、人口や過去に蓄積された生産能力等とともに経済自体
が決めるものである。これが限界地のような環境条件から一義的に決められないことは、
すくなくとも資本主義経済においてつねに景気変動が観察されることから明らかである。
均衡系か自己組織系かという見方の対立は、価格理論の深いところでの理論構造の対立を
生み出している。あるいは新古典派価格理論を前提にするならば、その大きな変革を必要
としている。次節でみるように、それはグローバル・ヒストリーの解釈にまで関係してい
る。
自己組織化と均衡という枠組みとがかならずしも矛盾しないという考えはとうぜんありう
る。たとえば、クルーグマンはそのような立場にあると考えられる。かれ(クルーグマン、
1997)は経済の自己組織化を語っているが、その主たる業績としての国際貿易論は均衡分析
に基づいている。進化という視点を経済学に導入することについても、かれはかならずし
も反対しているのではないようであるが、その有効性は均衡分析より(すくなくとも現時点
では)乏しいと見ている(Krugman, 1996)。
進化経済学の一部というべき、進化ゲームでは、多くの機会に均衡概念が採用されており、
少なくとも進化概念と均衡概念との間に矛盾はないと考えられていると思われる。しかし、
20世紀の経済学が均衡を主要な枠組みとしてきたこと、それが総じて危機を迎えている
ことを考えれば、均衡の枠組みの上に経済学を再構築するのでなく、新しいシステム理解
に立つべきだという考えはじゅうぶんに説得性をもつものと考える。
7
自然発生秩序はともかく、自己組織化という観念が、ホジソン(2010)がいうように普遍的合
意を得られているとは思えないが、上に示したように自己組織化(ないしその一例として散
逸構造)が経済システムの新しい理解に多くの示唆をあたえることはまちがいない。その一
例として、第4節では、スケール・フリー・ネットワークを議題とする。
この趣旨説明を簡潔なものとするために、
「進化」概念には立ち入らないが、進化経済学は、
①進化と②自己組織化を2つの大きな柱とすべきであるとわたしは考える。そのことによ
り、進化経済学と新古典派を含む他の多数の経済学とのあいだのパラダイム的対立を明確
にすることができる。すなわち、現在の経済学は
①進化 vs. 最適化
②自己組織化 vs. 均衡
という二大対立項によって理論的に対立している。均衡と最適化という、経済学に深く根
付いた2つの伝統的分析枠組みを根底から批判する学問となるためには、進化経済学は進
化と自己組織化という2つの鍵概念の上に組み立てられるべきであろうと、げんざいわた
しは考えている1。
自己組織系と均衡系の対立など、抽象的でほとんど現実の経済学の議論には関係しないと
考える方も多いと思われる。その考えはほとんど当っているが、しかし、経済をいかなる
特性のシステムと捉えるかは、意外なほどわれわれの経済分析を縛っていると思われる。
次節では、その小さな一例を紹介する。
§3.
生産関数からグローバル・ヒストリーまで
まず身近に起こった小さなできごとから話を始めたい。昨年(2012 年)にボアイエ・植村・
磯谷編の本"Diversity and Transformations of Asian Capitalism"が発刊された。編者はい
うまでもなく、各章の執筆者にも進化経済学会の会員が多数参加している野心作である。
この本の成果と評価については、別途議論すべきものであり、ここでは立ち入らない。問
題は、この本の編者3人による「結論」章のちょっとした表現にある。
この第二見出し以下の冒頭に「国際経済関係理論」に関して、次の一文が載っている。
The field was effectively coined by David Ricardo, whose theory of comparative
1
類似の問題意識は古くからあったが、たとえば塩沢(1997)では「定常過程」
「再生産」というシステム
理解が先行しており、自己組織系という捉え方は背景に押しやられている。しかし、経済成長・経済発展
といった現象を捉えるには、
「定常過程」
「再生産」では不十分であり、より動学的な自己組織系という見
方で捉えなおす必要があると考えるようになった。もちろん、塩沢(1990)第 1 章の「経済の自己形成秩序」
は、自己組織系に他ならないが、その理解はハイエクが考えたであろう程度のもので終わっている。
8
advantage is based upon natural endowments of each national territory; this
framework is still the reference in modern international trade theory.
(Boyer, Uemura and Isogai, 2012, p.332)
ここで編者たちが最終的に言いたいのは、より近年の内生的成長理論やイノべーションを
強調する理論を引き合いに出したあとで、それらの成果を決めるのは、けっきょくとのと
ころ制度なものであり、制度論的な比較優位を考えなければならないということである。
その考えの妥当性については、ここでは留保する。
「比較制度優位」という考えは、ホール
&ソスキス(2007)にも展開されているか、わたしにはその概念が理解できない。しかし、こ
こで問題にしたいのは、上の単純な一文にある。ここで編者たちは、2つの過ちを犯して
いると思う2。ひとつは、リカードの比較生産費説の現代版がヘクシャー・オリーン・サミ
ュエルソンの理論(HOS 理論)であるという理解であり、もうひとつは、したがってリカー
ドの貿易理論も各国の資源の賦存状態を基礎に組み立てられているという理解である。
上の一文では、HOS 理論については明示的には触れられていないが、このような学説史
的理解に立たないかぎり、リカード貿易理論が各国の資源(資本や労働力を含めるので「自
然資源」とはかぎらない)の賦存状態により決まるという理解は出てこないと思う。なぜな
ら、リカード自身は、HOS 理論のように考えたわけではなく、HOS 理論がリカード比較
生産費説の 20 世紀版であるという理解は、新古典派経済学の中で作られた神話でしかな
いからである(Fujimoto and Shiozawa, 2011-12 の序文にすこしだけ触れている)。第一の
理解が多くの国際経済学の教科書に「常識」として書かれていることはよく知っているが、
それは新古典派経済学から理解すれば、そう解釈できるというだけであり、新古典派理論
に批判的なものが鵜呑みにしてよいことではない。
リカード理論と HOS 理論との間には、じつは古典派経済学と新古典派経済学におけると同
様の理論的対立がある。それは簡単にいえば、古典派経済学に立つか、新古典派経済学に
たつかの対立であり、より突き詰めていえば経済を自己組織系とみるか、均衡系とみるか
の対立である。
リカードの地代論では、限界地を決めるものは、国民の食料需要であり、限界地をなくす
ように価格体系が調整されるとは考えていない。前節でみたように、自然資源をどのくら
い利用するかは、経済が決めるのであり、新古典派一般均衡理論が考えるように、資源を
使いきる(完全利用する)よう価格と経済が調節されるわけではない[ここはもうすこし丁寧
に表現すべきが、簡単に言っておく]。
2
植村・磯谷両氏の名誉のために付け加えておけば、結論のこの文章を書いたのは Boyer であるという。
しかし、共著者として名前を連ねている以上、この小さな誤解をチェックしなかった責任はある。
9
HOS 理論は、一般には2国・2財・2生産要素のモデルで考えられているが、これは容易
に Arrow と Debreu の一般均衡理論の枠組みに拡大できる。反対に多数国・多数財・多生
産要素の現実の経済に HOS 理論が比喩的にも適用可能であると主張するためには、一般均
衡理論を前提とせざるを得ない(生産要素数はともかく、多数財の場合に拡張できないなら
ば、HOS 理論はモデルとしてなんの代表性ももちえないことになる)3。
すでに議論したように、一般均衡理論では、賦存資源は限界企業の存在によって、その利
用状況が決定されると考えているが、もしいくつかの均質な賦存資源と同一の生産技術を
もつならば、ある資源は完全利用されるか、まったく利用されないかの両極端を振れるこ
とになる[より正確にいえば、利潤率 0 の限界企業のみがその操業水準をなぜか適切に調整
している]。つうじょう一般均衡理論では、このような振れを排除するために、資源は連続
的にその採算可能性が変化していると考える。しかし、通常の HOS 理論ないしより複雑化
した新古典派貿易理論では、ふつう各国ごとの均質な賦存資源と世界共通の生産技術をも
つと想定するので、経済は資源の賦存状態に完全に支配されていることになる。
これは自己組織系(あるいはより狭く散逸構造)という捉え方とはまったく対立するもので
ある。HOS 理論やその変形・一般化では、外部環境が内部構造を一義的に決めてしまうと
見ていることになる。これは均衡理論(物理学でいうなら熱平衡系)の見方にほかならない。
HOS 理論は、まさにこの均衡理論の枠組みで構想され組み立てられている。たとえば、HOS
理論の変形理論ともいうべき、HOV 理論(Heckscher-Ohlin-Vanek 理論)では、貿易を各国
の生産要素の交換としてみている。これが均衡理論の見方の帰結だからである。
リカード貿易論から HOS 理論の学説史がじゅうぶん検討されているとは思わない。日本に
は国際平均からみるとひじょうに多くのリカード研究者を抱えているが。リカード研究家
は貿易理論を研究せず、貿易理論家は学説史に興味をもたないという不幸なすれ違いがあ
る(安孫子誠男が指摘した状況とちょっと似ている)。そもそもリカード貿易理論は、不運な
星のもとに生まれたというべきであろう。貿易ないし国際経済関係を考えるには、国際価
値論を構築しなければならないとリカードもマルクスも考えていたが、その目標を達成す
ることはできなかった。ジョン・スチュアート・ミルはリカードの説明の不十分さに気が
3
ヘクシャーは、スウェーデンにひろい森林があり、良質の鉄鉱石が産出することが、スウェーデンの輸
出品を決めていると考えた。これは、いわゆる HOS 理論でも説明できるが、リカード貿易論にたっても、
じゅうぶん説明できることである。HOS 理論とリカード理論との差異のひとつは、HOS 理論が世界各国
に同一の生産関数を想定するのに対し、リカード理論では、各国はことなる生産技術とその表現である投
入係数をもつと仮定されている。スウェーデンには良質の鉄鉱石が産出するので、珪素含有量の少ない鉄
鋼(スウェーデン鋼)を生産するには、他の国で同じことを目指すのに比べて、特別な珪素除去操作を行なう
必要がない。その分、スウェーデン鋼に関するかぎり、他の多くの国々が対抗することのできない生産費
の低廉さを実現してきた。これは、リカードの枠組み内でかんぜんに理解可能なことである。
10
付いたが、交換比率(交易条件)を生産費によって説明するという古典派(とくにリカード)の
基本視点を放棄して、貿易する両国の需要(相互需要)によって決まるという説明にたどりつ
いた。私見によれば、これが古典派価値論が新古典派価値論へと転換せざるをえない決定
的な分岐点となった。ジェヴォンズ、マーシャル、エッジワースの交換理論には、この視
点にたつミルの影響が見られる(塩沢、未刊、第2章参照)。
しかし、リカード貿易論をどのような理論と見るかは、たんに学説史や教科書的説明の問
題ではない。もっと重要なことは、グローバル化した世界経済(あるいはその一部のアジア
経済)を分析するのに、基礎とすべき理論(簡単にいえば、国際的な価格と各国の賃金率に関
する理論)を欠いている点にある。この理論の欠如が、貿易理論としてリカード(や暗に HOS
理論)に言及するものの、ただ現象的に観察されるパタンの観察に終始することを余儀なく
させている。中間理論を標榜する Boyer らには、このことに気付いてすらいない可能性が
ある。上に引用した一文は、それを象徴的に表現している。このような理論への関心の希
薄さは、かれら自身の分析視点にまで悪い影響を及ぼしている。
Boyer, Uemura and Isogai (2012)の主要な主張の一つは、東アジアの経済動態を理解する
には、国民経済レベルのレギュラシオン様式を並置・比較するだけでなく、国内の変容と
国際関係の変化しつつあるパタンとを結びつける必要がある、というものである。その具
体的な例として、雁行形態(Flying Geese pattern)が引き合いに出され、
「古いパタンはもは
やアジアの統合メカニズムではない」(p.332、見出し)と主張されている。雁行形態を、近
年の英語文献でしばしば捉えられているように、産業の高度化序列と各国の序列化された
分業の固定的パタンと捉えるかぎり、そのパタンに変化があったという主張にはあやまり
はない。しかし、一橋出身の二人が編者になっている本の結論章において、雁行形態論を
このような単純化された形で整理してしまっていることには、いささか疑問がある。
よく知られているように、雁行形態論は、名古屋高商(現名古屋大学)から東京商大(現一橋
大)に移った赤松要が提唱したものである。1930 年代に提起されたその「原型」は、上のパ
タンではなく、後進国日本が、欧米で利用されている商品を、まず輸入し、ついで国内生
産するようになり、最後には輸出するようになるというパタンが各種商品に認められると
いうものであった。その後、国内生産されるようになる製品について、消費財から生産財
へ、粗製品から精巧品と変化していくという「変形」理論が現れ、海外投資を含む国際パ
タンが語られるのは赤松の最晩年のことに属する。このことを前提に考えるとき、「アジア
の(経済的)統合メカニズム」として雁行形態を引き合いに出す以上、まずは雁行形態の原型
理論に変更を余儀なくされていると理解するのか、あるいはその論理は厳然として残って
いるが、国際経済への中国の本格的登場などによって、国際序列に変動が生まれていると
理解するのかでは、雁行形態論そのもの意義とアジア経済の動態を理解する上で大きな違
11
いがある。
わたしは、雁行形態論の論理は厳然として残っていると考えているが、そのためには赤松
要の雁行形態論に指摘された原型的動態がなぜ起こるかについて理論的説明が必要となる。
赤松もこのような理論的説明の必要は理解していたが、かれが提出したものは、弁証法的
論理に訴えるというもので、今日的視点からは理論的説明とはいえない。その事態を帰る
べく立ち上がったのが赤松の弟子の一人である小島清であった。かれは雁行形態論を国際
的に有名にすることに貢献したばかりでなく、雁行という形態がなぜ普遍的に観察される
のか、理論的な説明を提出しようとした。
「近代経済学の観点からする理論化」(小島 2000、p.89)に当って小島が依拠したのは、容
易に推定できるように HOS 理論であった4。この努力は、しばしば繰り返されていて、詳
細は省かざるを得ないが(もっとも簡単には小島 2000 をみよ)、雁行形態を分析するに当っ
て HOS 理論を基礎とすることについては、理論の基本構造において無理があることに小島
は気がつかなかったようである。小島(2001)の「小島モデル」の提起においても、使われて
いるのは HOS 理論の部分モデルとしての Cobb-Douglas 生産関数を基礎とするものである。
HOS 理論には、要素価格均等化定理がある。この定理は、無条件に成立するものではない
が、つうじょう仮定される「1 コーンモデル」(1 cone model, 1 錐体モデル)では、要素価格
均等化定理が成立し、各国の要素価格(したがって要素の一つであり労働力の価格)は、各国
均一になる。賃金率が各国同じというモデルは、ヨーロッパ内の分業においては想定可能
かも知れないが、アジア経済を考えようとする場合には、とうてい前提にできない事態で
ある。それにもかかわらず、均衡の成立する究極においては、各国の賃金水準は平準化す
るのだからといって、不審に思う学生を説得しているのが HOS 理論を教育する場合の現実
であろう。問題は、このようなその場しのぎの説明に研究者自体が巻き込まれて、明らか
に賃金率の異なる2国の経済関係を分析しようとするときにも、HOS 理論を持ち込んで平
気なことである。
小島が陥ったのもこの罠であった。小島(2001b, p.24)では、「要素価格の国際的均等化は成
立しないのである」と断っているが、この問題をどう処理したのか明示していないし、よ
り根本的には賃金率の大きな差異こそが雁行形態の生ずる基本的な要因であるとすれば、
この事態の分析に当っていかなる理論を採用すべきかについて深く考えるべきであった。
4
小島自身は、ヘクシャー=オリーン理論ないしヘクシャー=オリーンの要素賦存比率理論と呼んでいる。
また、小島(2000)に触れられているように、かれはクルーグマン流の固定費用(サンクコスト)を考慮したリ
カード理論に基づいて「合意的国際分業」という考え方も提起しているが、本稿では触れない。
12
財
投
入
係
数
aG
第1図 後発国の技術軌道: 雁行形態
TA 先進国の投入係数
aAG=aBG
TB(1)
TB 後発国の投入係数
TB(1) 試行段階
TB(2) 生産開始
TB(3) 国際水準化
TB(4) 輸出開始
TB(2)
TB(3)
TA
TB(4)
TB(5)
輸入障壁
輸出障壁
aB0
aA0=aB0・wB/wA
a0
労働投入係数
アジアの経済統合のメカニズムを分析しようとして雁行形態を問題にする以上、研究者に
は、中長期の変化を観察するだけでなく、雁行形態を作りだすメカニズムないし論理がど
のようなものなのかを問わずに済ますことはできない。残念ながら、Boyer, Uemura and
Isogai (2012)の「結論」章には、そのような考察の痕跡が見られない。巻末には赤松の 1960
年の論文が載ってはいるものの、小島の英文論文への参照はなく、ましてその理論的説明
に対する批判もない。中間理論を標榜するレギュラシオンの弱点の一つがここに表出して
いる。グローバル経済の進展にともない、貿易や直接投資、それを通しての技術移転には
注目するものの、Boyer らは、貿易という事態、比較優位という事態をどのように理解し説
明するかについてほとんど無関心である。
雁行形態は、リカード理論(ただし中間財貿易を含みうるよう拡大した理論)に基づいて、簡
明に説明することができると思われる。大きな賃金率格差の存在という条件のもとで、先
進国の生産技術を追いかける中進国という枠組みで、技術変化(すなわち投入係数の変化)
を議論すればよいからである。ここに詳しく説明する余裕はないが、その説明図を説明な
しに掲載しておく5。
雁行形態論は、中進国があたらしい生産技術をどのように獲得するかに関する理論であり、
技術がいかに進化するかにという意味では、進化経済学の中核に位置しうる議題である。
5
この点については、ちかく独立の論文を執筆する予定である。基本的には Fujimoto &
Shiozawa(2011-12)と同様の説明を雁行形態の進行という筋書きで書き直すだけである。
13
しかし、技術進化という主題が議論されているのは、アジアの雁行形態だけではない。よ
り広く、経済史の分野でも、技術がいかに進化してきたかは、議論の中核の一部を形成し
ている。
たとえば、経済史において、
「産業革命」という主題を欠くことはできない。それは抽象的
にいえば、ある特定形態の技術群とそれに基づく生産様式がなぜある時期にある地域で発
達し、世界に広まったかという問題である。このとき、多様な選択可能性の中で、なぜあ
る傾向の技術が選択され、全体の連関構造が形成されていったかは、進化という観点から
も自己組織化という観点からも興味ある領域である。この意味で、経済史は進化経済学に
とって、まさに本領というべき分野である。
この分野では、経済史そのものといえないとしても、フリーマンの国民的イノベーション・
システム論を始めとして、進化経済学ないしそれに親近性のある経済学の大きな蓄積があ
る。しかし、残念なことに、この方面でも新古典派的な技術との捉え方に基づく分析が広
く深く浸透している。もちろん、事実そのものの同定において、経済史家たちが事実を歪
曲しているのではないが、すこし大きな理論を作ろうとするとき、説明の枠組みとして採
用されるのが(確率からいえば当然ではあるが)新古典派の、とくに生産関数に基づく総括で
ある。近年は、グローバル・ヒストリーあるいはグローバル経済史という分野が強く追求
されるようになり、その知見の普及のための解説書も刊行されるようになっている。その
こと自体は、大いに歓迎すべきことである。しかし、そこでの説明が新古典派マクロの真
髄ともいうべき Cobb-Douglas 生産関数を下敷きたものが散見されるのはどうしたもので
あろうか6。たとえば、ある国で資本集約的な技術が採用されたのは、その国における資本
労働比率が高かったからであり、逆に他の国で労働集約的技術が採用されたのは、国にお
ける資本労働比率が低かったからである、といったたぐいの説明である。
例を挙げよう。イギリスで産業革命が起こった理由を説明して、アレン(2012)はこう書いて
いる。
「彼らが発明した機械は、労働を節約するために資本の使用を増やしたことである。
その結果、これらの機械の使用から利益を上げられたのは、労働が割高で、資本が格
安であったところ、すなわちイギリスにおいてであった。...この点こそ産業革命がイギ
リスで生じた理由なのである。
」(p.44)
別のところでは、こうも書いている。
「高賃金環境で操業していたアメリカ企業は、労働を節約するように高度に機械化さ
れた、組み立てラインによる生産方法を生み出した。対照的に日本では、原材料と資
6
簡単な検索をした結果に過ぎないが、進化成長理論を含む多くの成長理論論文において、生産関数概念
を明示的に拒否していたのは、Metcalfe and Foster(2010)のみであった。
14
本が節約された。
」(p.168)
私見によれば、このような総括は技術進歩の分析を何重にもゆがめている。ここでもその
詳細に入ることは出来ないが、このような思考の原点が Cobb-Douglas 生産関数ないしそれ
に類似した生産関数による技術と生産の捉え方であることはまずまちがいない。資本と労
働の賦存比率(つまり要素賦存比率)が要素価格と生産物価格を決める。資本労働比率が高い
国では、労働の価格(賃金率)が高くなり、資本が格安となる。そこで生産方法は、生産可能
曲線上をその法線方向が要素価格比率に等しくなるまで移動し、高賃金国では高い資本労
働比率の生産方法が採用される(そしてめでたく、要素間の完全雇用も成立する)。こうした
筋書き下敷きにして、このような言説が生み出されているのだろう。
これはたしかに、ミクロ経済学入門において教えられることであり、アレンはそれを繰り
返しただけなのかもしれない。初心者にてばやく納得してもらうためには、たとえ正しく
ない理論であっても、読者の知っている理論に基づくのが一番であると冷徹に考えている
のかもしれない。しかし、そのため、機械による生産などあたらしい生産方法がどのよう
に選択され、それが技術群の自己組織化過程を経て、いかに新しい生産様式を生み出すに
いたるかの理解をゆがめてよい理由にはならない。
同一財(質を含めて同一)を生産する複数の生産方法の経済的優劣を決めるものは、生産費の
大小であって、資本労働比率ではない。また、資本と労働が与えられているとして、それ
らが完全雇用されるとは限らない。さらにいえば、資本は生産されたものであって、一時
点では所与のものであるとしても、生産にどのくらいの資本が必要とするか、そのときの
技術状態が決めるものである。産業革命期に機械が大量に利用されるようになったのは、
機械が事前に大量に生産されていたからではない。このような注意は、現時点における「適
正技術」の選択においてもいえることであり、低賃金国であるから資本使用量の低い技術
を使えばよいという結論は一義的には得られない。にもかかわらず、このような詳細がす
べて無視されてしまうのは、新古典派の生産関数という捉え方が、経済学の諸分野に深く
浸透しているからに他ならない7。
Cobb-Douglas 生産関数の歴史はながく、北アメリカのマクロ経済学の多くの業績の中核を
なしている。ソローから内生的成長理論、実物景気循環論、動学的確率的一般均衡理論は、
すべて Cobb-Douglas 生産関数(ないし CES 関数などその変形)に依拠している。開発経済
7
大阪市立大学で元同僚だった杉原薫は、アジア内貿易とアジア内労働移動を分析して、明治期以前遡る
アジア内経済発展に新しいビジョンを提出するという偉大な業績を上げている。しかし、今回、共編でだ
された Austin and Sugihara (2013)の表題章を読む限り、かれらのいう産業革命とは異なるもうひとつの
工業化としての「労働集約的工業化」という概念と捉え方が、ここで批判した生産関数を発想の源泉とし
たものでないといえるかどうか危惧している。
15
学でも、ソローの業績を受けた成長会計は、なんの疑問もなく使われている。しかし、マ
クロの生産関数が理論的に問題のあるものであることは、1960 年代の資本測定論争であき
らかになっている。1970 年代になると、資本測定論争は、あたかもそれがなかったかのよ
うに忘れ去られた(たぶん、論争はあったが枝葉末節の議論であり、実際的意義はなかった
と解釈されたのであろう)。
労働と資本を投入要素とする生産関数については、さまざまな批判が可能であるが、多く
の批判にもかかわらず、生産関数が生き延びているのは、それが経済学の諸データの中で
は驚くほどフィットがいいということに助けられている。しかし、異常にフィットがいい
ということ自体、疑問の眼をむけるべきことである。この点については、Simon (1979)が
あることを忘れてはならない。サイモンは、ノーベル経済学賞受賞に当って、受賞講演と
は別に、
もっと重大なこととして Scandinavian Journal にこの論文を投稿したのだったが、
少数の経済学者の注意を引いただけで忘れ去られている。サイモンによれば、Cobb-Douglas
生産関数がデータに対するフィットがきわめていいのは、データを作るにあたって基礎と
した会計恒等式を log 関数を介して転換したに過ぎない。
§4.
スケール・フリー・ネットワークと経済成長
散逸構造系が自己組織系の特殊な事例に過ぎないことは上に注意した。それは、あらゆる
自己組織系の基礎にある構造と考えることができるが、現実世界の自己組織系には、散逸
構造からは想像できない多様な世界がある。わたしがさいきん注目しているのはスケー
ル・フリー・ネットワークである(バラバシ, 2002)。これも詳しい説明をここですることは
できないが、経済に関係させていえば、それは「成長するネットワーク」であると言って
よいであろう。
たとえば、人間が生産するもろもろの人工物を取ってみよう。あらゆる種類の商品は、あ
る種の人工物であると考えられる。たとえば、まいにち食べる米やトマトは、それ自体と
しては植物の一部であるが、米がいまの品種となり、微妙な味をもつものとなったのは、
人類の長い選別(品種選択)の結果である。トマトは、もちろんアジアやヨーロッパに自生し
ていた植物ではなく、また現在のような品種は、アンデスの山地に自生していたものでは
ない。近代経済は、鉄とプラスティックの上に組み立てられているといってよいであろう
が、それを生産する方法と、生産できるようになった時期とは大きく異なるが、どちらも
重要な人工物であることに違いない。
経済成長とはどういう事態か。これは人類史の時代・時代によっても変わってきていよう
が、人類発生以来観察される傾向のひとつに、生産・使用される財の種類が恒常的に増え
16
てきたという事実がある。正確に数えるのは難しいが、カウフマン(2002、p.338)では、現
生人類がうまれてから現在に至るまでに、人類の扱う財の種類は数百から数百万に増大し
たと指摘し、これが「経済の支配的な事実」であるとしている。商品の数をどう数えるか
は、なにを同じ商品とし、なにを別の商品とすると考えるかで大きく異なる。現在の商品
数をわたしは数千万種類から数億種類と見ているが、もちろん憶測にすぎない。しかし、
人間が生産し使用する財の種類が時代を追って増大してきたことは、まずまちがいない。
とするなら、このような財の種類数の増大は、どのような事態なのか考える枠組みを持た
なければならない。スケール・フリー・ネットワークという見方が、そのヒントになると
わたしは考えている(もちろん、これはごく最近の考えであり、昔からそう考えていたので
はない)。
生産・使用される財をいまは簡単に商品とよんでおこう。交換経済が発達する以前にこの
用語を適用するのはおかしいが、ここでは比較的歴史のはっきりしている文字が発明され
たのちの交換経済を念頭におくことにする。
商品の集合(正確にいえば、商品の種類の全体の集合)がある種のネットワークをなすことは
容易に分かる。ある財の生産には別の財の投入が必要であり、生産された財は、さらに別
の財の生産に投入されるかもしれない。スラッファを引き合いに出すまでもなく、経済は
「商品による商品の生産」である。産業連関表は、数千万という商品種類からいえば、ご
く粗い分類項目によってこの投入・産出の連関を捉えたものである。しかし、商品の集合
は、ただ投入・産出関係をランダムにもつだけではない。
バラバシ(2002)が巧みなストーリー・テリングで紹介しているように、ランダム・ネットワ
ークという概念は 1959 年にレーニーとエルデーシュによって導入された。エルデーシュた
ちが研究したのは、ランダムに接続されたネットワークが全体として連結であるのはいか
なるときか問題であった。これは、現在では「小さな世界」(small world)といった認識の
基礎となっている。しかし、多くのネットワークは、古典的なランダム・ネットワークで
はない。
インターネットが発達し、ルーター賀作るネットワークやウェブページの相互リンクのネ
ットワークなどが観察されるようになると、このネットワークは、古典的なネットワーク
とはまったくことなるある特性をもっていた。それはランダム・ネットワークには違いな
いが、ある節点(ノード)は、ひじょうに多数の接続枝(リンク)をもつ。一つの節点がもちあ
る接続枝(リンク)の数を接続次数という。少数の節点は高い次数をもつ一方、多くの節点は、
小さな次数をもつにすぎない。すぐに明らかになったことは、節点の次数が冪分布[べきぶ
んぷ、power law]をなしていることだった(この発見には、バラバシも貢献している)。
17
経済で有名な冪分布は、所得にかんするパレート分布である。この分布は、ある所得水準
を超えると、A y^(-α)という形をしている。指数αは、ふつう 1 から 2 の範囲に収まると
いわれている(累積分布の場合、
密度分布では 2 から 3 の範囲となる)(青木、
1979、pp.64-5.)。
WWWなどのネットワークでも、次数の密度分布指数αは多くは 2 から 3 に入ると報告さ
れている(Albert and Barabasi、2002。例外的に 2 以下あるいは 3 以上の値を取ることも
ある)。アマゾンなどでは、まいねん、100 万近い種類の本(タイトル数)が販売されているが、
あるデータによりわたしが調べた結果では、販売数の大きさ順に並べると、約1万位あた
りではっきり屈折する。1万位以下では、冪指数は 0.64、1万位以上では冪指数は 1.94 だ
った(塩沢、2010、p.132)。
商品の集合が、精粗さまざまな分類項目をとってみても、多数の品種が存在するものでは、
一般に各品目を販売量で順位付けるとき、その分布は冪分布をなすものと思われる(これは、
現在までのところ憶測に過ぎないが、次第に該当例が増えてくるだろう)。
スケール・フリー・ネットワークにわたしが関心をもつのは、品目ごとの販売順位に留ま
らず、商品の商品による生産という構造が動態的に駆動されて出てくる構造ではないかと
いう期待である。投入・産出関係のネットワークを考えてみよう(投入と産出を別の連結と
みる、有向ネットワークという概念があるが、ここでは立ち入らない)。ある種の商品は、
きわめて高い接続次数を持っている。たとえば、鉄は、後方連関をとおして、ほとんどす
べての商品生産に(直接・間接に)投入されている。近年、
「産業の米」といわれる半導体も、
同様の構造をもつだろう(ただし、半導体は、巨大な種類類をもつことを忘れてはならい)。
石油も、これまでは、鉄や半導体にならぶ存在だった。しかし、とうぜんながら、最近で
は、きわめて少数の商品生産にのみ投入される商品も少なくない。というより、種類で数
えるならば、圧倒的多数が、この範疇に属するだろう、たとえば、柿渋(カキシブ)という商
品がある。これは江戸時代には、(衣服の)染色や防寒・腐食防止、火傷や霜焼の治療薬、木
材の防虫・腐食防止など、多数の用途を持っていた。しかし、いまは抗菌作用などが注目
されているにすぎない。
商品が単独で存在しているわけではない。ある商品が誰に利用されているかも、興味深い
ネットワークである。ただし、この場合、商品の集合 C と個人あるいは家計の集合 H とを
考えて、商品 c が家計 h に利用されるとき、節点 c を節点 h に結ぶ二部グラフとなる。こ
れがどんなものとなるか、データ分析なしに推測は難しい。しかし、古典的なランダム・
ネットワークというよりは、きれいなものではないかも知れないが、スケール・フリー性
をもったネットワークになると期待される。
18
現実にネットワークを描くのは、商品やその利用よりさらに困難と思われるが、経済とく
に経済発展を考えようとするとき、ぜひ考えなければならないのは、技術のネットワーク
であろう。技術をどの範囲のものと考えるかは、ひとによって大きく変わり、相互に理解
もむずかしい。一番粗いものでは、技術=生産関数といった考えがあるが、それではネッ
トワークの話にならない。個別の技術をどう定義するかという問題があるにしても、商品
の設計や生産に寄与していると考えられる技術だけでも、たいへんな数になると考えるべ
きであろう。アーサー(2011)は、技術は再帰的構造をもつといっている。すなわち、ある技
術は、ある技術を構成する技術である。ひとつの技術(個別技術)というものをどう同定する
かとなると、きわめて曖昧であることは認めるが、ここではいちおう個別技術できると考
えてみよう。すべての個別技術の集合を技術集合と呼ぶ。
ある技術 A のために別の技術 B が使われるとするとき、B を A の要素と考えることもでき
るが、ここでは技術 B から技術 A に向きのある接続枝を張る。現実にどれだけのものが描
けるかはともかく、こうして技術集合は、ネットワークとなる(グラフと言ってもよい)。こ
のネットワークは、やはりスケール・フリー・ネットワークとなると思われる。
たとえば、鉄を切削する技術は、鉄を材料とする生産にはほとんど汎用的に使われる。し
たがって、切削技術は、ほとんどあらゆる機械の生産技術に用いられるといえる。機械の
種類はおびただしいものであるから、鉄の切削技術は、多数の接続枝をもつ節点となる。
鍛造や鋳造といった技術もそうした接続次数の高い節点である。化学工業における熱管理
や農業における授粉なども、このように接続次数の高い技術であろう。これに対し、ある
きわめて特殊な商品の生産にしか用いられない技術もある。たとえば、時計の設計に重要
な役割を果たした脱進機は、それがいかにすばらしい技術であったにしても、他の機械の
内部に組み込まれることはあまりない。
技術ネットワークでは、しばしば、ある汎用的な技術が発見されて、多方面に応用される(ネ
ットワークでいえば、接続される)。20 世紀の中ごろまでは、コンピュータによる制御はほ
とんど用いられなかったが、いまではマイクロ・コンピュータによる制御はひじょうに広
範に見られる。
これまで、経済にも、さまざまなスケール・フリー・ネットワークがありそうだという話
をしてきたが、問題は現状のネットワークがどのようなものかではない。それ自体、興味
ある研究課題だが、経済について考えるとき、このネットワークがどのように変化・変形
していくのかが重要である。商品ネットワークでいえば、これまでなかった商品がどのよ
うに生まれ、利用されるようになるのか。技術ネットワークでいえば、時代を特徴づける
ような大きな技術(鉄道、化学工業、電気、石油化学、計算機、インターネット、バイオテ
19
クノロジーなど)がどのように現れ、普及していくかは、たとえばコンドラチェフ循環を研
究しようとするとき、欠かすことのできない知見となるだろう。
スケール・フリー・ネットワークについて、本節の最初では正確な定義を与えず、それは
「成長するネットワーク」だという比喩的な紹介をした。スケール・フリー・ネットワー
クの正確な定義は、節点の接続次数が冪分布にしたがうネットワークというものだが、そ
れネットワークがなぜさまざまな領域に出現してくるかを考える必要がある(普遍性の問
題)。インターネットのルーターのネットワーク、ウェブページの相互リンクのネットワー
ク、映画競演者のネットワーク、電話の通話ネットワーク、学術誌における引用ネットワ
ークなどがすべてスケール・フリー・ネットワークになる背後には、成長するネットワー
クに特有の事情が働いている。
たとえば、ウェブページの相互リンクでいえば、接続次数の大きいページにリンクを張る
ほうが、次数が小さいページにリンクを張るより効率的である。このように既存のネット
ワークの構造に依存して、節点(ページ)や新しい接続枝(リンク)が増えるとき、ネットワー
クはスケール・フリーとなる。ウェブページの相互リンクに限らず、このような事情をも
つ自然成長するネットワークは、フィットのよしあしと範囲はともかく、スケール・フリ
ー・ネットワークとなる(Albert and Barabasi、2002)。
経済学において成長は、重要な議題であるが、その研究の多くは量的拡大に向けられてい
る。経済成長には、たしかに量的拡大という側面があり、その分析を欠くことはできない。
しかし、長期の経済成長、工業化の経験、現時点における成長速度の減速などを考えよう
とするとき、量的分析だけではことの本質を見逃す可能性が高い。経済の領域ではスケー
ル・フリー・ネットワークはまだほとんど研究されていないというべきだが、成長するネ
ットワークという特性をもつものは、いまのところ、スケール・フリー・ネットワークし
かないことを考えると、この比較的新しい対象から受けるべき刺激は大きい。このことは、
とくに進化経済学に当てはまる。
進化経済学の一分野に進化成長理論がある。この捉え方もいろいろであろうが、進化経済
学に特有と思われる議題に「需要飽和」がある(たとえば、Witt, 2001; Aoki and Yoshikawa,
2002)。この研究の基礎には、「一般化されたエンゲル法則」がある。すなわち、現存する
商品の集合の任意の真部分集合を取るとき、その部分集合が経済全体の消費量に占める比
率は(初期拡大期を除いて)傾向的に低下するというものである。この法則は、つとにパジネ
ッティがその経済学の中心課題にすえたものである(Andersen, 2001)。
需要飽和そのものにはここでは立ち入らないが、一般化されたエンゲル法則を認めると、
20
新しい商品が生まれ育たないかぎり、経済は次第に停滞を余儀なくされる。では、新しい
商品が生まれさえすれば、成長は維持できるだろうか。それを考える手がかりとなるのが、
商品の集合の売上高の分布である。売上高の多い順に商品を並べたとき、もしそれが
A y^(-α) という形になっていたとしよう8。商品全体ではないが、先に引用したアマゾンで
の本の売上では、販売冊数 1 万位程度のところで屈折していたが、きれいな冪分布となっ
ていた。このとき、驚くべきことに、年間販売数 1 万位以下の冪指数は 0.64 と 1 以下であ
った。これが驚くべきことというのは、もしこの傾向を 1 万位を超えても無限に維持でき
るとすると、年間の書籍販売冊数は無限大になるからである。わたしが用いたのは、アン
ダーソン(2006)のきわめて粗いデータなので、詳しいことはわからない。しかし、もしデー
タを詳細に分析して、この屈折点を拡大する方法が分かれば、書籍業界としては売上冊数
に需要飽和ということはないことになる。げんざい多くの先進国にみられる成長速度の減
速傾向を見るとき、商品の集合全体としても、冪指数は 1 より大きいのかもしれない。も
しそうだとすると、やみくもに新商品の開発を試みるだけでは、望むような需要創造は行
なえないことになる。こうした傾向を打ち破るようなよほど大きな商品革命・技術革命が
出現しないかぎり、総需要が頭打ちになる可能性がある。
長期の経済成長を考えるときにも、商品とその利用がどのように変化・成長し、それを支
える技術の体系がどのように進化・発展するのかを掴むことなしには、歴史自体を大きく
まぢかえて捉えてしまう可能性がある。産業革命に対する「修正主義」的考察が進み、産
業革命を特異な時代と理解することにも反省が広まっている。産業革命に先立つ変化につ
いての研究が進むにつれて、ひとびとがにちじょう用いる商品の種類が増えてきたことも
注目されている(サースク、1984; de Vries, 2008)。プロト工業化や産業革命を理解するにも、
成長するネットワークの知見はこんご不可欠なものになるだろう。
8
これは商品利用の二部グラフを商品についてのみ計測したものといえよう。経済全体でこうしたことを
やろうするとき、まず考えられるのは商品分類・産業分類などを用いることである。売上高の代わりに産
業分類の就業人数をとって順位づけしてみたことがあるが、結果は冪分布とはとうていいえないものだっ
た(産業の分類項目は約 500)。分類表は、商品や産業の重要度に応じて改訂を繰り返しているので、
「自然
な分類」からは程遠いものだったのではないかと考えている。
21
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23
金融の技術革新とサブプライム金融危機
福井県立大学経済学部 服部茂幸
要約
今回のサブプライム金融危機は,従来の銀行危機とは異なる 21 世紀型の影の銀行システ
ムの危機とも言われる。現在のアメリカでは住宅ローンの大半は証券化され,転売されて
いる。そして,証券にはCDSの保証がつけられている。あらたに証券化市場とCDS市
場が加わったのである。そして,こうしてできた負債のピラミッドが損失を拡大させ,住
宅金融市場でも周辺的なサブプライム・ローンの破綻を世界金融危機へと導いたのであっ
た。
本報告で論じることは次の2点である。
第1が影の銀行システムや負債のピラミッドを作り出した経済的な力を明らかにするこ
とである。証券化,さらに市場型金融仲介業の発展は金融工学なしにはあり得ない。その
意味で影の銀行システムもまた自由な市場の働きと言える。そして,アメリカの金融当局
は規制緩和,金融市場の自由化によって,ウォール街の発展を後押ししていた。しかし,
バブルと投機を抑制しないが,バブルが崩壊した時,投機に失敗した時に金融機関を救済
するという歪んだ政策フレームワークもまた投機マネーを保護・育成したのである。
第2が証券化がどのようにしてリスクを集中させたかである。危機の直前まで,アメリ
カの新しい金融システムはリスク分散に成功し,日本のような金融危機はアメリカでは起
こりえないとグリーンスパンやバーナンキは主張していた。ところが,危機後のコンセン
サスは証券化はリスクを集中させたということである。
そもそも証券化がリスクを分散化させるという想定自体が疑問である。銀行は住宅ロー
ンを証券化することによって,リスクをなくすことができても,リスクは単に買い手に転
嫁されただけである。狭い「金融ムラ」の中でリスクを押しつけ合っていただけだった。
金融機関が証券を購入した理由もBIS規制を回避するためという理由を無視できない。
ガルブレイスは金融の技術革新は新しく見えても,レバレッジを拡大させているだけだと
論じた。また金融危機は,過去の記憶を忘れた人々によって同じことが繰り返されている
だけだとも言う。我々は今回の危機の中にも,特殊性の中にガルブレイスの言う普遍性を
見いださなければならないのである。
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24
イノベーション・システムにおける制度問題
千葉大学・名誉教授
安孫子誠男
技術革新と制度変容とのかかわりを視軸にして現代資本主義の多様性と構造変容を捉え
るための conceptual framework を構築することが筆者の基本テーマである。そのばあい、
科学・技術の革新と組織・制度の刷新のいずれに力点をおくかの違いはあれ、イノベーシ
ョンをアクターの相互行為的な連携性と経路依存的な累積性において捉える研究動向(イ
ノベーション・システム論)に着目することは欠かせない。ここでは、C.Freeman, R.Nelson
や G.Dosi, F.Malerba などネオ・シュンペータリアンの〈技術‐経済パラダイム〉論と
R.Boyer, B.Amable や B.Coriat などレギュラシオン学派の〈社会‐技術パラダイム〉論(さ
らには〈資本主義の多様性〉論)とを突き合わせることをつうじて、この作業を進める。
1.F.Malerba(源流としての G.Dosi)らは、産業セクターでのイノベーションを「多
次元的、統合的、動態的に」みる視角を提示し、イノベーションの比較産業セクター論を
展開している。
〈技術レジーム〉の概念が、一方では技術機会・専有条件・累積性、他方で
は諸種の知識性格からなることが示され、〈技術レジーム〉とイノベーションのシュンペー
ター的パターン(革新活動の集中度、革新的企業の安定性、革新の出生率)との関係が論
じられる。かれらの国際比較で興味深い点のひとつは、専有条件と累積性については技術
性格がまさって諸国間に「相当の類似性」が見出されるのに対して、技術機会のほうは諸
国間にやや違いが生ずるという点である。技術機会には、科学と産業を架橋するメカニズ
ムの介在と有効性など、制度・組織上の問題がより関与していることが示唆されている。
2.B.Amable らの〈イノベーションと生産の社会的システム〉論は、
「科学-技術-産
業」の関連の国ごとの違いを「教育制度-労働市場-金融システム」という制度要因によ
って根拠づけるという意味で、
〈技術の内生化〉の一つの試みであろう。しかし、そこでは
諸制度は所与とされ、制度の差異の根拠は説明されていない。Amable ら制度の政治経済学
者が、制度補完性や制度階層性、総じて制度変容をめぐる議論や「政治的なものの再統合」
論を活性化させ、
「分配利益をめぐる対立と妥協」といった政治力学を説明に加えていくの
は、
〈制度の内生化〉を試みるためにほかならない。
3.
〈資本主義の多様性〉論におけるイノベーションの相対優位論をめぐって、企業が競
争優位の主要な源泉として国の支配的制度によって提供される比較優位をつねに利用する
かどうかが争点になっている。S.Casper と D.Soskice らは、
〈資本主義の多様性〉論の視角
から Malerba らの立論を組み込んで「制度的な枠組みと企業レベルの技術戦略との関係」
を論じ、サイエンス型産業における「サブセクターでの特化」を主張している。
4.ネオ・シュンペータリアンとレギュラシオニストが、技術‐制度観の差異(エボリュ
ーション 対 レギュラシオン)にもかかわらず、米国のプロパテント政策、とくにバイドー
ル法のはらむ「アンチ・コモンズの悲劇」に対する危機意識を共有し、scientific commons
の保護という「科学の公共政策」をともに称揚している点は、確認されてよい。 [目次へ]
25
体制転換期の制度と行動変動の研究に進化の視点はどこまで有効か
立命館大学 田中宏
国家社会主義からの体制転換が 1980 年代末から本格的に始まった。それ以降 20 年以
上の歳月が経過した。東欧諸国の場合、特に 2004 年と 2007 年にEU加盟を果たしたこ
とによりこの体制転換が一つの区切りを迎えた。だが、ユーロ導入の成否とポスト世界経
済金融危機の経済成長のバラつきでは各国間に大きな開きが出てきている(田中宏 2013
「ハンガリーはなぜ EU 新加盟の先導国から問題国になったのか」吉井昌彦(編)
(2013)
『シリーズ激動期のEU』
(経済編))
。バルト以外の旧ソ連諸国を観察すると、そこでは
一定程度の収斂状況が示されていると判断できない。資本主義市場経済とは似ても似つか
ぬ経済システムになる恐れもある(岩崎一郎/鈴木拓『比較経済分析』2010 年)。中国の場
合、その資本主義化は、制度とシステムの重層化を進行させ、欧米的制度化・規範化が進
行すると同時にそれに抵抗する非近代的な伝統の厚さがむしろ強く表出してきている(梶
谷懐『
「壁と卵」の現代中国論』2011 年)。このような多極化や分岐、転換の諸困難を進
化経済学と進化の概念はどのように把握し、理解することができるのであろうか。
ところで、80 年代末に体制転換(あるいは移行)が開始されると、すぐに従来のソビエ
ト学 Sovietology や比較経済体制論の学術的「占有」が崩れ、さまざまなレベルで競争状態
が出現した。そのなかで主流派経済学は市場経済への移行の諸制約を分析することに取り
掛かり、80 年代のラテンアメリカの安定化政策の国際的経験、比較経済体制論の社会主義
認識論と結びついて、ワシントンコンセンサス(WC)を生みだした。この WC に対抗する
形で公共選択理論、企業の理論、新制度学派、進化経済学が参入した。WC は自由化 L・安
定化 S・民営化 P の即座の改革を求め、立法による制度の変更、旧システムを破壊するこ
とで新しい制度構築ができる真白なキャンバス(経済社会の姿)の創出を求めた。これに
たいして進化経済学は LSP よりも市場を基礎づけ制度の多角的・多層的な在り方、その創
出のための法と金融・法の強制・政府の改革・自己拘束的な社会的ノルマ・地域統合など
に注目した。そこでは制度の経路依存性と進化が重視される。だが、体制転換諸国におけ
る実際の技術や制度、行動を進化するものとして「外部の観察者」が実感するのは非常に
困難な作業である。報告では、これまで調査研究して(されて)きた諸成果を社会テクノ
ノロジー(Eric D.Beinhocker, The Origin of Wealth, Business Books 2007)の進化という
視点から観察しなおすと何が見えてくるのか(あるいは見えないのか)を明らかにしてい
きたい。
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26
情報通信技術の動向と進化経済学
京都大学情報メディアセンター
喜多一
情報通信技術の進展の速さは目を見張るばかりであるが、ここでは、そのことの進化経
済学、より広く社会科学への意味を考えたい。
まず、情報技術の大まかな動向について述べる。すでに社会に広く浸透している情報技
術の最新動向を概観するだけの見識は筆者にはないが、デジタル情報通信技術の歴史的な
流れを見てみよう。インテルの創始者であるゴードンムーアが提唱した半導体上の集積度
の向上についての「半導体チップ上のトランジスタの集積数が 18~24 ヶ月で倍増する」と
いう技術予測、いわゆるムーアの法則は 1970 年代から 40 年に渡って実現しており、マ
イクロプロセッサ上のトランジスタ数では、40 年間で性能が 100 万倍になった。汎用性
の高い構成がコンピュータを情報処理の万能機として、柔軟性の高いパケット交換方式の
通信網がインターネットという仮想社会の基盤をもたらした。デジタル技術の高性能化が
すべてのメディア技術を一元化し、その個々人までの普及が現在の人々が主体的に参画可
能な仮想社会を実現している。近年ではこれにセンサーやアクチュエータを介して物理社
会を直接結合させることが考えられており、
「スマート~」という用語が様々に語られ、ま
た「Cyber-physical Systems」や「モノのインターネット(Internet of Things, IOT)」など
が注目されている。
コンピュータ駆動の加工機と Web 上のサービスを多用して個人でのも
のづくりを起点にファブレスでスケールアップする Makers ムーブメントも注目されて
いる。
情報通信技術の進展は2つの点で進化経済学など社会科学にとっての挑戦となっている。
一つは社会変革そのものが急速であることである。インターネットで世界中の人々が直接
結びつくことが可能になり、地球規模の活動を支えているが、同時に金融を制御不能にし、
デジタル化により立地制約の減った製造業が有利な立地を求めて地球規模でサプライチェ
ーンを組み替えるようになった。このような状況で、近代国家という枠組みが機能不全に
陥りつつある。研究対象の社会そのものが極めて早い速度で変化する中で進化経済学は社
会に対してその存在意義をどのように示すのかが問われている。
もう一つは、進化経済学を含む社会科学にとっての科学研究の方法の変革である。科学
研究の方法として理論と観測・観察、実験があるが、シミュレーションという手法が実験
の代替手段として使えるようになりつつある。自然科学や工学の世界では、シミュレーシ
ョンの利用はもはや当然のことと位置付けられているが、社会科学がどのようにコンピュ
ータシミュレーションと向き合っていくかは継続的な課題である。もう一つの方法上の可
能性が「観測・観察」である。ネットワークに接続された形で人々が活動し、あるいは IOT
の中で大量のデータコンピュータにビッグデータとして蓄積されている。社会を観測する
粒度が大きく変化する中で社会科学はそれをどう捉え活かして行くかが問われている。
上述の議論は社会科学全般の課題とも言えるが、進化経済学がこの課題に率先して取り
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組むことを期待したい。
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