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第2号 - 奈良女子大学

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第2号 - 奈良女子大学
 第2 号
目次
子どものうそ
浜田寿美男
1
中等教育学校入学式の日から
荒木ユミ
2
『ウルトラマン』が「ウルトラマン」になるまで
中根絵美
4
映画評『リトル・ダンサー』
平野裕子
6
2004年度第一回公開研究会報告
『ADHD/LD など軽度発達障害をもつ子どもと
養育者について』を聞いて
北野享子
7
金澤ますみ
10
学校生活に問題を抱える子どもたちと
スクールソーシャルワーク
∼岸和田児童虐待事件から考える∼
子ども学プロジェクト関連の今後の予定(04.7.16)
12
2004年度 後期講義『子ども学の探求』
(予定)
14
編集後記つれづれ
15
子どものうそ
浜田寿美男
「うそは泥棒のはじまり」と言います。うそをついて不当に自分の利益を求
める、それは泥棒と変わらないということなのでしょうが、人がつくうそをあ
れこれ並べてみると、そのなかには泥棒につながるのとはまったく異なる別種
のうそがあることに気づきます。
こんな話があります。ある父親が10歳すぎの娘を連れて、他家でお茶をい
ただいたときのこと。家の主人がテーブルの上でお茶を立てて、湯呑みに入れ、
お湯を注いだ魔法瓶を置いてから、何か所用があってか、その場から奥の間に
引き下がったのだそうです。客間に娘と二人きりになって、父親が立ててもら
ったお茶をいただこうと湯呑みに手を伸ばしたとき、テーブルが不安定だった
のか、魔法瓶の置き所が悪かったのか、不意に魔法瓶が倒れ、ガシャンと床に
落ちたのです。誰も魔法瓶に手を触れてはいません。音を聞きつけた主人が奥
の部屋から戻ってきて、割れた魔法瓶が床に転がり、お湯がこぼれているのを
見て、「大丈夫ですか」と声をかけると、一瞬、間をおいて父親が「申し訳あり
ません。うっかり魔法瓶に手が当たってしまって」と答えたのです。その家を
辞して帰路についたとき、娘が父親に「お父さんは手も触れていないのに、な
ぜうそをついたのか」と尋ねます。そのとき父親はこう答えます。
「たしかにお
父さんは魔法瓶に手は触れていない。だけどそのことを言っても相手には言い
訳にしか聞こえない。むしろ見苦しいうそになって、かえって関係が悪くなる。
おとなの社会とはそういうものだ」
。
じつをいうと、この種のうそはおとなに特有のものではありません。小学校
にフィールド観察に入っている平野裕子さん(奈良女子大学人間文化研究科博
士前期課程2回生)からこんな話を聞きました。
1年生の授業でのこと、先生は子どもたち全員に課題を与えてやらせていた
のですが、早く課題を終えたA君は席を立ってウロウロしていたようです。先
生が同じように早く終わった女児二人に用事を頼んで、二人が教室から出て行
ったあと、A君は羨ましそうに教室の入り口付近で外を眺めていました。先生
はそこではじめてA君に気がついて、彼が教室の外に出ていたと思ったらしく、
とがめる口調で「どこへ行っていたの?」と聞きました。A君はウロウロして
はいましたが教室の外には出ていません。ところが彼はそこで「おしっこ」と
答えたというのです。正直には「どこにも行っていません」と答えるべきとこ
ろ、とっさにそれが先生にはうその言い訳に聞こえると思ったのでしょう。A
君は先生から「おしっこはしかたないけど、今度からはちゃんと先生に言って
から行きなさい」と言われ、その場はおさまりました。
さて、こうなると「うそは泥棒のはじまり」というより、むしろ「うそは冤
罪のはじまり」ということになるのかもしれません。子どものことばの世界は、
おとなのそれと同じくらい、じつは複雑なもの。我がまま一杯に見える子ども
が、相手の思いや場の雰囲気にけっこう敏感なのです。けっしてあなどること
はできません。 (『小児歯科臨床』2004年8月号より転載)
1
[投稿]
中等教育学校入学式の日から
奈良女子大学大学院人間文化研究科 荒木 ユミ
(本学附属中等教育学校教員)
a「あしたから自分で朝起きて自分で学校に間に合うように登校しよう。」
b「今日から、子わかれの覚悟をしてください。」
上記は、本校の入学式の日、新入生(a)とその保護者(b)に担任から伝
えた言葉です。本校は6年間一貫の中等教育学校で 12 歳∼18 歳の子どもたち
が同じ校舎で同じスタッフのもと、同じ教育環境の中で生活をしています。本
校の校是は「自由・自主・自立(できれば自律)」。この6年間で子どもたちが
「自分の人生を自分の力で自分で拓いていく力」を身につけることを支援でき
ればというのが本校の教育目標です。
本校は国立大学附属の中等教育学校なので、入学してもらうためには「適性
検査」に合格しなければなりません。ということで本校に入学してこられる生
徒さんや親御さんは小学校時代に多かれ少なかれ「中学入試」という特殊な「お
受験」の経験をされてきた方ばかりです。このように書くと否定的な感じがし
ますが、少なくとも今までは「子どもを育てる」ということについて「積極的
にあたたかい関心」
をもって接してこられた方々ばかりということになります。
また、本校に「合格」をはたしておられるということで、今までの子育てにつ
いて「肯定的な達成感」をもって、要するに「自信をもっている」ということ
が予想できるかと思います。(そうでない方もおられますが・・本校がマイナス
選択の場合ですね(笑))心理学専攻らしいことをかきますと、エリクソンの発
達課題説における第四段階「勤勉さ課題」まではほぼクリアしてこられたとい
うことでしょうか。そして中等教育学校入学。今後は「勤勉さ課題」のハード
ルは年々高くなり、同時に第五課題であるところの「アイデンティティーの確
立」課題が始まります。さらに第六段階の「親密さ」課題も降ってきたりしま
すので、もはや「親の支援できることは限界」状態にほどなく行き着いてしま
います。ということで、入学式のこの言葉になるというわけです。中学入試の
合格は確かに子どもの努力が実を結ぶことではありますが、その基本的なお膳
立ては親御さんの力です。親御さんのなかで困ってしまう方は、これからもこ
れまでと同じように子どもとかかわれると思っておられる方です。実際はもち
ろんそうではありません。勉強の課題もどんどん高度になりますので、もはや
全教科にわたって親御さんが面倒を見ることのできる範囲はあっという間に超
えていきます。また、なによりも子ども自身が健全に育っていく中で親御さん
からどんどん離れていく時期でもあります。
「あしたから自分で朝起きて自分で学校に間に合うように登校しよう。」こ
れは入学した「生徒の課題」として提示されるものです。生徒の中には中等教
育学校入学後初めて電車通学を始める者も多くいます。今までとは異なる時間
2
管理をしなければなりません。また慣れない通学に電車に乗り間違えて奈良に
着くはずが大阪に行ってしまう場合もあります。こんなときでもできる限り大
人に頼らず自分なりに課題に取り組むよう促すことで「自立」の覚悟を決めて
もらおうというのです。また、この課題は生徒の課題という意味だけではあり
ません。今まで手をかけ庇護してきた子どもに対して、その課題には介入しな
いということを親御さんにも覚悟して頂くという意味も兼ねています。子ども
の課題は基本的には親は介入することはできません。しかしなかなかそうはで
きないのが実際です。「かわいい子どもが寝坊して学校に遅刻して先生にしか
られる」のは親としては「子どもがかわいそうでいたたまれない」のでどうし
ても「朝、口うるさく起こして」子どもの課題に介入してしまうのです。しか
し、このように親がいつまでも子どもの課題に介入していると子どもが一人で
生きていく力をつけていこうとする可能性をくじいてしまいます。この時期、
子どもはもう十分自分で自分のこと管理し自立的に身を処していく力をつけて
いけるときです。これからもこの「自分で生きていく力」をのばしていくこと
を支援していくために親御さんには入学式の日に「子わかれ」の覚悟をして頂
くという訳なのです。
3
[投稿]
『ウルトラマン』が「ウルトラマン」になるまで
奈良女子大学大学院人間文化研究科 中根絵美
ウルトラマンって知っていますか?
「ウルトラマン」は昭和 47 年 7 月 10 日、ウルトラ Q に続くウルトラシリー
ズ第 2 作、世界初の本格的巨大ヒーロー作品として誕生しました。その後もウ
ルトラシリーズは続いています。近年放送されたのが「ウルトラマンコスモス」
です(2001.7.7∼2002.9.28)。時代とともに細かな設定も変わり、「コスモス」
では“優しくあること、戦いよりも対話を”をコンセプトとして打ち出してい
ます。しかも、悪の象徴であった怪獣は、実は人間が作り出したものであった
りと、そこには“人間と自然との共存”、“文明の産物の影響”などの奥深いテ
ーマが潜んでいるのです(*)。
製作者サイドの熱い思いは時代とともに変化するのですが、「ウルトラマン」
に対する子どもの思いは昔からあまり変わっていないように思います。「ウル
トラマン」はやはり“強くて優しいヒーロー”なのでしょう。今でも幼稚園で
は「ウルトラマン」役の取り合いになり、怪獣役は見当たらないのに「ウルト
ラマン」が何体(人)も走り回るということが起こります。しかし熱心な「ウル
トラマンごっこ」が見られるのはせいぜい幼稚園までであって、小学生がそれ
に勤しんでいる姿はめったに見られません。私はそこに、子どもの中で、
『ウル
トラマン』が「ウルトラマン」になるという変化が起こっていると思うのです。
ここでの『ウルトラマン』とは、例えばウルトラマンコスモス(ルナモード)
で言うと、身長 47m、体重 42000t、最高飛行速度マッハ 7、走行速度マッハ 2
…というウルトラマンの存在のことを指します。それに対して「ウルトラマン」
とは、円谷プロ製作部の人々によって作られ、中に人間が入り(きっと中では汗
だく)、模型の町がセットされたスタジオで走る…というウルトラマンの存在の
ことです。
では、どのように『ウルトラマン』が「ウルトラマン」になるのでしょう。
Ⅰ期 『ウルトラマン』=「ウルトラマン」
幼児に「本物のウルトラマンに本当に会ったことある?」と尋ねると、「TV
で会った」や「遊園地で会った」という答えが返ってきます(**)。TV 映像
や着ぐるみを見て“ウルトラマンに会った”と思っているようです。「ウル
トラマン」は『ウルトラマン』なのでしょう。この時期は、まだ『ウルトラ
マン』と「ウルトラマン」が分化していないようです。
Ⅱ期 『ウルトラマン』≠「ウルトラマン」
①「ウルトラマン」はニセモノだった(「ウルトラマン」の“虚”への気づき)
次に『ウルトラマン』と「ウルトラマン」が同一でないことに気づく時期が
あります。分化が始まるのです。M ちゃん(年長、6:5)「遊園地で会ったの。
でも中は人間かもしれない。髪の毛ちょっと見えたから。後ろにチャックあ
4
ったもん。
」 見えてしまったようです(涙)。
②でも『ウルトラマン』は現実世界にいる
A ちゃん(年中、5:3)は、「ウルトラマン」をニセモノだと思いつつも、
『ウル
トラマン』については「会えるよ。遊ぶところのジャングルに行ったらいい
って、ビデオで言ってた。
」と現実世界での存在を認めています。
③『ウルトラマン』は現実世界にいないのかもしれない
H くん(小 2、7:8)は、
「人が被ってるウルトラマンはゲームセンターにいたけ
ど・・・。人間が入っていないウルトラマンがいるかどうかはわからない。」と
自信がなくなってきます。
④『ウルトラマン』は現実世界にいない。でも・・・
『ウルトラマン』は現実世界から消えていきます。B くん(年長、5:10)
「ウ
ルトラマンはどこにもいない。本当は天国にいる。天国を守る騎士。」 ん?
『ウルトラマン』は生き残っていました。現実世界から抹消されても、<天
国>という異次元でちゃんと存在するようです。『ウルトラマン』の生き残
る術として、異空間・異時間が使われます。
Ⅲ期 『ウルトラマン』の消滅
(『ウルトラマン』の“虚”への気づき)
とうとう『ウルトラマン』は現実世
界からも宇宙世界からもいなくなっ
てしまいます。C くん(年長、6:4)
「誰かが作った」その通り(汗)。T
くん(小 2、7:8)「その会社の人が考
えたのかな」円谷プロです(汗×2)。
“宇宙から来た『ウルトラマン』”
という設定こそが人間が作り出した
虚であると認識し始めます。『ウル
トラマン』の存在をすっかり忘れて
しまっていた Ko くん(小 3、8:8)は、
「ウルトラマンって本当にいるのか
な?」という問いに「いるよ。スタ
ジオで撮影してる。
」とさらりと言
います。Ko くんにとってウルトラ
マンはもう既に「ウルトラマン」で
しかないのです。
『ウルトラマン』はこのように「ウルトラマン」へと進化(?)するようです。
ではなぜこのような変化が生じるのでしょうか。“ウルトラマンの謎”への旅は
まだまだ続きそうです。
(*)ウルトラマンコスモス ISM(2003)辰巳出版株式会社 (**)中根絵美(2003) TV キャラクターの実
在性に対する幼児の認識 京都国際社会福祉センター紀要「発達・療育研究」19
5
[投稿]
映画『リトル・ダンサー』
(監督:スティーヴン・ダルドリー / 脚本:リー・ホール / イギリス/ 2000 )
奈良女子大学大学院人間文化研究科
平野 裕子
イギリスの北東部の炭坑町。主人公ビリー・エリオットは 11 歳の少年です。
家族は炭坑夫のお父さんとお兄ちゃん。若い頃の夢を少女のように語り、ちょ
っと目を離すといなくなってしまうおばあちゃん。そして大好きなお母さんの
形見のピアノに囲まれて過ごしています。学校に行って、家ではおばあちゃん
の世話を任されてと、ビリーの日常はお母さんをなくした悲しみにひたるどこ
ろではありません。そんなビリーにお父さんは、強くたくましくと願ってボク
シングを習わせます。ある日、ボクシングの練習に通うホールでビリーはバレ
エのレッスンに出会います。どんどんバレエにひきつけられ、すいこまれてい
くビリー。女の子ばかりのレッスンに抵抗を感じながらも「うまくなりたい」と
頭の中は踊ることでいっぱい。学校に行く途中もお風呂の中でも、こっそり練
習を重ねます。ところがひょんなことで、ボクシングの練習に行っていないこ
とがお父さんにばれてしまいます。お父さんは大激怒。まして「バレエを習って
いるなんて!」と。
お父さんやお兄ちゃんはバレエを全く受け入れられません。
それでもビリーはあきらめない。そしてクリスマスの夜、ビリーはお父さんの
前で力いっぱい踊り、それを見たお父さんにビリーの真剣な気持ちが伝わりま
す。ビリーの気持ちを知ったお父さんは、今まで一番軽蔑していたスト破りを
し、亡くなった妻の時計さえも質に入れて、息子の夢を叶えようとお金を工面
します。そしてビリーはロイヤルバレエ団に見事合格。不安と期待を胸に家族
とはなれて一人ロンドンへと旅立ちます。時は経ち、電車でホールへと急ぐお
父さんとお兄ちゃん。二人が見つめる視線の先には、立派なプリンシパルとし
て白鳥を踊るビリーの姿がありました。
この映画でやはり一番ひきつけられるのは、ビリーの強い思いです。それは、
たとえお父さんやお兄ちゃんに反対されようと抑えることのできないバレエへ
の思いです。その思いには強さがあります。父親の前で意を決して力いっぱい
踊るビリーのすがたや、バレエの入団テストで踊っているときの気持ちをきか
れて、「すべてが消える。体の中に炎が。」ということばからも伝わってきます。
「これだ!」と決めたときの譲らない子どもの強さ。そしてただ自分の思いを押
し出すだけでなく、その中に家族への遠慮をひめた強さはみるものを惹きつけ
ます。ビリーにとってのバレエ。言い換えると、自分にとって誰に何をいわれ
ようと好きで好きで譲れないもの。おとなになるにつれて見失いかけていた子
どものころのことを思い出します。誰もが持つそんな気持ちがよみがえる、さ
わやかであたたかな映画です。
6
2004 年度第1回公開研究会報告
「ADHD・LDなどの軽度発達障害をもつ子どもと養育者に」ついて
〈障害告知の意義と弊害―ラベリングは必要か〉 を聞いて
奈良女子大学大学院 人間文化研究科 北野享子
2004 年6月2日に、今年度第1回目の公開研究会が行なわれ、奈良女子大学
大学院修士1回生の山本智子さんが、“「ADHD・LDなどの軽度発達障害を
もつ子どもと養育者」について〈障害告知の意義と弊害―ラベリングは必要か〉”
というテーマで発表されました。山本さんは現在、関西在住の「LD・ADH
D 母の会」の会員の方々の協力を得て、軽度発達障害をもつ子供とその親た
ちの面接をしておられますが、その面接を通して、どうして母親が子供との日々
の暮らしの中で想像を絶する「心の痛み・しんどさ・苦しさ」を感じなければ
ならないのか、という問いに直面し、それに対する答えを模索する中で、AD
HD・LDなどの「曖昧な障害」と呼ばれている軽度発達障害を子どもに告げ
る意義と弊害について、また、子どもたちの障害像を個々異なるものにし、彼
らの自己観を、肯定的あるいは否定的に導く要因は何なのかを事例を通して考
察されています。
発表後は、現在の社会が、家庭、学校、地域社会などを含めた社会が抱える
問題点についても広く意見が出され、活発な議論が交わされました。
まずはじめに山本さんの発表、次にその後に交わされた意見について、私な
りにまとめ、報告します。
【山本さんの発表より】
「ADHD・LDなどの軽度発達障害をもつ子どもと養育者」について
〈障害告知の意義と弊害−ラベリングは必要か〉
1.「個々に状態像が違うLD・ADHDなどの〈軽度発達障害〉って何?」
ADHDとかLDとか言われている子どもたちの面接をしていて感じること
が、それぞれに状態像が違っていたり、あるいはそうではない子どもたちとの
違いが分からない、否もっと言えば違いがないのではないかと感じることもあ
ります。ADHD・LDの要因については、例えば生物学的要因、心理学的要
因、社会学的要因など、いろいろな要因が説明されていますが、周囲の人々の
もつ文化・社会的価値観の違いによっても状態像が違ってきます。また(軽度発
達)障害があると告げられたり、分かったりしたとき、その子どもを含めた周り
人たちの受け取り方もさまざまです。養育者は養育者自身の中でジレンマを抱
え、教師は教師自身の中でジレンマを抱え、また友人間の中でジレンマを抱え、
そのジレンマが、それぞれの内側でぐるぐる回り、さらに養育者、教師、友人、
子どもの間をぐるぐる回るという構図になります。それが子どもへの処遇の違
いとなり、その違いが子どもの自己観−つまり自分をどう捉えるのかに違いを
うむことになります。単純に分けると、否定的な自己観をもつ子どもと肯定的
な自己観をもつ子どもがでてきます。否定的から肯定的までの間には、それぞ
7
れ少しずつ程度が違えてさまざまな自己観が存在はしますが。例えば否定的な
自己観をもっている子どもに、その時その障害を告げると、非常に自己が傷つ
けられます。その子どもは自傷や自殺念慮、やけになったりします。また肯定
的な自己観をもっている子どもの場合ですと、自己は傷つきますが克服しよう
と捉えることができます。性格の一部、個性として捉えることもできるように
なります。
両極端ではありますが、その典型例として、否定的な関係性の中で否定的な
循環が廻るケースと、肯定的な関係性の中で肯定的な循環が廻るケースの二事
例を次に見てみたいと思います。
2.「傷つく自己」のケース
3.「傷つくが克服しようとする自己」のケース
(2つの具体的な事例報告がありましたが、プライバシーに配慮して割愛させ
ていただきます。)
4.まとめ
障害告知によって影響を受ける子どもの「自己観」は大きく2つのパターン
に分かれると考えられます。自己評価や自己存在価値の低下・自己嫌悪感によ
り「傷つく自己」と、より生きやすい環境への努力に結びつけようとする「障
害と向かい合い克服しようとする自己」です。それゆえ、障害を告知する場合
は、子ども自身の存在価値や自己評価を低下させることなく将来に向かう力と
なる「障害告知」であって欲しいと思います。
子どもの自己観を否定的、肯定的に導く大きな要因には、それまでの子ども
を取り巻く人々の関係性の質や処遇の違いといった「子どもを取り巻く環境」
が大きな役割を果たしていると言えるのではないでしょうか。
今後は子どもと周囲の者たちの心の中で起こっているジレンマがどう循環し、
それぞれが外部の他の対象にどう絡み合っていくのかを見ていきたいと考えて
います。
(障害を告知する目的に対して疑問を投げかけられ、また「母の会」の勉強会で
実施されたアンケートの結果も報告されましたが、最後のまとめの中にその趣
旨が含まれていると思いますので、報告には入れませんでした。詳しくは山本
さんのレジュメを参照してください。)
【発表後の議論】
「障害の告知をされた人も、されてない人も、どういう形で対応がなされて
いたのかが問題であると思う。否定的な循環、悪循環で回っているケースは、
告知がどう関係しているのか、あるいは関係していないのか、そのことだけが
この悪循環をうんでいるのだろうかを考えてしまう。
」
「告知が問題というより
は、ひとつのエピソードと考えた方がよく、関わり方次第で循環が変わると考
えられる。結果的に両極端ということであって、構図は同じである」という意
8
見が出されました。悪い循環で廻ったケースは、やはりスタートから本人と関
わる人たちが否定的で、告知される以前からすでに悪い循環の中にあり、そこ
に否定的な意味を持つ告知が加わったと言えます。逆に肯定的な良い循環のケ
ースは、本人のもつしんどさからそれに関わる人たちも時として否定的になり
そうにながらも、肯定的な関係性に支えられ、良循環へと復活して前進してい
るのです。その時は「障害告知」がその肯定的な循環を断ち切る力を持ち得て
いないと言えるでしょう。
Nくんのケースでは、この悪循環を断ち切れそうなポイントが何回かあった
にもかかわらず、それができていないことへの怒りが会場の参加者から感じら
れました。子どもたちに関わる家族の者、保育所や学校、そしてそれぞれの先
生達が果たす役割は大きく、子どもたちがいかに生きていけるかの鍵を握って
いると言えます。「Nくんの場合は、医療モデルの中でことが進む関係性の中に
あり、ポジティブな関係性の中で本人の状態像が、ADHDといわれる子ども
の状態像が変わっていくという考え方もなく、またそのためにそのようなポジ
ティブな体験を母親もできていなかったというところに問題がある」「ポジテ
ィブな関係性の中から、このような良い循環が生まれるのだという、このよう
な循環図とでもいうものを、親にも教師にも示していければいい」という意見
も出されました。
私達はさまざまな形でこのような関係性に関わることができると思います。
それによって、子どもたちが巻き込まれている悪い循環を断ち切り、良い循環
へ向かうことができるように少しでも助力できたらと感じました。
9
2004.7.28 子ども学公開研究会予告
学校生活に問題を抱える子どもたちとスクールソーシャルワーク
∼岸和田児童虐待事件から考える∼
TPC 教育サポートセンター 金澤ますみ
学校で見える「問題」とその背景にある「児童虐待」
ここのところ、児童虐待のニュースが毎日のように報道される。そしてその
報道の中には必ずといってよいほど、「もっと早く虐待に気づけなかったのか」
という声があり、その批判の対象となるのが、児童相談所と子どもたちが籍を
置く学校である。
もちろん、子どもたちと直接関わる時間の多い学校の職員たちが、児童虐待
の早期発見をできる立場にあるものだということで、よりいっそうの期待があ
るのはうなずける。しかし、児童虐待の有無は、子どもたちと長い時間を共に
過ごすだけでは見えてこない。
学校の中で子どもたちが抱える問題としてすぐに見えてくるのは、
「不登校」
「いじめ」「非行」「学級崩壊」などの問題である。ただ、これらの問題は、
あくまでも一つの現象を示す言葉にすぎないため、当然ながらその背景はさま
ざまである。この背景の一つに児童虐待はある。岸和田の事件では「不登校」
という現象への対応を継続した結果、虐待の発見が遅れたとされる。それゆえ
に、児童相談所や学校は厳しい批判にさらされた。
しかし、この事件を稀にみるケースとして批判することは短絡的ではないだ
ろうか。というのもほとんどの学校現場は、問題の背景を視野に入れ、どのよ
うに子どもの生活環境にかかわるかを、依然模索している段階であるからだ。
そこでこの「背景」を視野に入れて、問題の解決を目指していくソーシャル
ワークの視点で学校問題を見ていく必要があるだろう。
ソーシャルワークの視点とは
ソーシャルワークというのは、人々が抱える問題を解決するために、人々と
その人を取り巻く環境の相互関係に焦点をあてる。つまり、「個と環境との関
係をどうみるか」という視点である。
そこで、このソーシャルワークの視点を学校現場にも導入し、子どもが抱え
ている問題にアプローチしていこうというのが、スクールソーシャルワークで
ある。つまり「学校で子どもが見せる行動(不登校もその一つ)と、その背景
にある子どもの環境とがどのように関係しているのか」を考えていくというこ
とである。
10
私の関心事から
児童虐待の問題については、「福祉と教育の連携を」ということが常々言わ
れてきたし、その具体的な方法については地域ごとに検討しているのが現状で
あると思う。そういった意味では、私も仕事がら、児童虐待へのアプローチ方
法については教育分野、福祉分野の方々からお話を伺う機会を得られることが
多い。ただ、目の前のケースにどう対応していかなければならないかという話
を優先しなければいけない場面が多い。
そこで、今回は岸和田の事件をもとに、スクールソーシャルワークの視点が
どのように児童虐待問題にせまれるのか、改めて整理をしたい。また、私の関
心事である「児童虐待と発達」というテーマについては、なかなかじっくりと
議論できる場をもっていない。このような点からもご意見をいただければ幸い
である。
11
子ども学プロジェクト関連の今後の予定(04.7.16現在)
7月16日 『子ども学通信』第2号(今号)
7月28日 子ども学公開研究会② *10 頁の案内をご参照下さい
「学校生活に問題を抱える子どもたちとスクールソーシャルワーク」
∼岸和田児童虐待事件から考える∼
TPC サポートセンター・桃山学院大学講師 金澤ますみ
7月30日 (生涯学習教育研究センター主催公開講座)「学校と子ども」
人間関係行動学講座 浜田寿美男
10月 2日 人間文化研究科公開講座 子ども学の新しい地平1
「子どもを『選ぶ』ということ」
教育文化情報学講座
柳澤有吾
「子ども向け伝記『ベーブルース』を読む」
教育文化情報学講座 功刀俊雄
9日 「虐待する親、される子」
京都市児童福祉センター 古田直樹
「現代の親子事情」
人間関係行動学講座 浜田寿美男
10月 中旬 『子ども学通信』第3号(予定)
11月 6日 文学部公開講座 子ども学の新しい地平2
「子どもの空間と時間」
人間関係行動学講座 天ヶ瀬正博
「対話がひらく子どもの学び」
人間関係行動学講座 本山方子
11月13日 「よい抱っこ わるい抱っこ
ほどよい抱っこ」
人間関係行動学講座 川上範夫
「子どもの現実 おとなの現実」
人間関係行動学講座 浜田寿美男
12月11日 子ども学公開講演・シンポジウム
「育てる者と育てられる者」
12
講師:鯨岡峻(京都大学大学院人間・環境学研究科)
指定討論:田中文子(子ども情報研究センター)ほか2名
12月22日 子ども学公開研究会③
「未定」
1月 下旬 『子ども学通信』第4号(予定)
2月23日 子ども学公開研究会④
「未定」
13
2004年度 後期講義『子ども学の探究』(予定)
①10月 8日 子どもが生まれるということ1 出産という出来事
担当:浜田寿美男
②10月15日 子どもが生まれるということ2 出生前診断と優生学
担当:柳澤有吾(教育文化情報学)
③10月22日 子どもが生まれるということ3 討論
④11月 5日 赤ちゃんの世界とその不思議1
担当:麻生武(人間関係行動学)
⑤11月12日 赤ちゃんの世界とその不思議2 討論
⑥11月19日 子どもはどのような存在として見られていたか1 日本
担当:加須屋誠(古代文化地域学)
⑦11月26日 子どもはどのような存在として見られていたか2 西洋
「中世ヨーロッパには<子ども>はいなかった!」
担当:西村拓生(教育文化情報学)
⑧12月 3日 子どもはどのような存在として見られていたか3
「子どもと時代」
担当:浜田寿美男
⑨12月10日 子どもはどのような存在として見られていたか4 討論
⑩12月17日 子どもの障害と子育て1
担当:障害をもつ子どもの保護者の方
⑪ 1月 7日 子どもの障害と子育て2 討論
⑫ 1月21日 子どもとおとなの狭間を生きること1
担当:竹内康浩(ヨーロッパ・アメリカ言語文化学)
⑬ 1月28日 子どもとおとなの狭間を生きること2
担当:水間玲子((人間関係行動学)
⑭ 2月 4日 子どもを生きること 子どもと生きること 討論
14
編集後記つれづれ
大学教員をやっていると、大学の外からもいろんな仕事が舞い込んでくる。
それは当然のことだし、歓迎すべきことでもある。ただ、ときに考え込んでし
まうことがある。
思えば、研究一筋に脇目もふらずアカデミズムの世界で邁進すればいいなど
という時代はとっくに終わっている。実際、私が大学生だった30余年まえ、
すでにその種のアカデミズムへの幻想は過去のものになろうとしていた。「大
学解体」などというスローガンが、どこまで現実的なものだったかはともかく、
あちこちで叫ばれ、大学の建物が文字通りに封鎖されていた。世間では政治の
時代だったと思われていたかもしれないが、その渦中の私たちを捉えていたの
は、「いったいこの世の中をどのように生きればいいのか」
という素朴な問いだ
ったような気がする。大学での研究というものが、この社会のなかで、あるい
は自分が生きるこの生活のなかでどういう意味をもつのかを抜きに、研究がそ
れ自体で意味をもつことはない。そういうことをいつも意識せざるをえない時
代だったのである。
そうした目で見れば、大学が今日のように社会とつながるのは、まことに結
構なことだとも言えるのだが、一方で、もろ手を上げて素直に喜べない気持ち
が私のなかにはある。
ずいぶんと古い言い草になってしまうが、かつては学生をはじめとする大学
人の多くが「産学共同路線反対」を叫んでいた。営利追求を原則とする産業界
に順接的につながることに対して、多くの人が強い抵抗感を覚えていたのであ
る。それにひきかえ、いまはほとんどの大学が「産官学連携」を看板に掲げて
いるのだから、まさに隔世の感がある。これを単に時代の流れだと言ってすま
せられない。もちろん大学が孤高の象牙の塔であっていいわけはないし、そも
そも社会とのつながり抜きに研究に意味はない。そう思うからこそ、私自身、
障害をもつ人たちの地域での自立生活に関心をもってきたし、それなりの活動
もしてきた。あるいは冤罪事件での虚偽自白など、それこそまったくの畑違い
と思える領域に首を突っ込んで、刑事裁判の世界に向けて発言もしてきた。そ
うして社会とのつながりを求めてきたと、自分では思っている。問題はその社
会とのつながり方である。
今日の社会のありように少なからず違和感を抱き、このままでいいはずがな
いと思うことが一杯ある。そこのところで協力を求められたとき、そんなふう
に違和を感じる社会に順接でつながっていいのかと、やはり思ってしまう。
先日、地元の教育委員会から、障害児をもつ親たちの強い要望があってあら
たに養護学校を作りたい、ついてはそのための審議会を開くので委員長を務め
てほしいとの要請があった。長く別学体制を堅持してきた日本の学校教育にお
いては、障害をもった子どもたちが普通学校のなかに居場所をもてない現実が
ある。そのなかで障害をもった子どもたちの保護者たちが「現実的な」居場所
として、また教育の場所として養護学校の設置を要請する気持ちはもちろん理
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解できる。しかしそうして養護学校を新たに設置することが別学体制の固定化
につながることも否定できない。
どのような子どもも原則的に同じ場で生き、そこで学びあうという共生の理
念は、単なる絵空事ではなく、現実の問題として追求していかなければならな
いものだと、私は思っている。その長期的な展望をにらんでの協力依頼ならば、
私も喜んで引き受けたかもしれない。しかし話を聞いてみると、もう学校新設
が来年度の日程に上がっているなかでの話。とすると既定の手続きを進行する
だけの名目の役割に終わりかねない。もちろん私がやらなくても誰かがその役
割を担って、事は流れていくのであろうが、私自身がそれをやる気持ちにはや
はりなれなかった。真意のこもった懇請を受けたうえで、結局、その場で断っ
てしまった。ただ、断ってすむ話でないことも、また確かなのである。
自分が是とできない世の中の主流に順接でつながることを潔しとしない。と
言って手を染めないままに、結果的に傍観するだけで終わっていいわけではな
い。そうした悩ましい選択肢を前にして、遠い先の方をにらんでの現実的な取
り組みはどのあたりにあるのだろうかと、考え込んでいる。(浜田寿美男)
『IEP ジャパン』13号より転載
通信への原稿募集!皆さんの投稿を期待します。
「子ども」にまつわることであれば内容はお任せします。例えば自分
の研究紹介やフィールド紹介.子どもに関する映画や本の評論.何気
ない子どものエピソードについてのエッセイ。この場を借りてひとこ
と言いたい。などなど…(これまでの通信を参考にしてみてください)。
第3号〆切:2004年10月8日金曜日(浜田研究室E155まで)
打ち出しの原稿とFDを提出してください。
書式:用紙サイズ B5 <1∼2枚程度>
余白(上20mm,下18.6mm,左25mm,右25mm)
文字数 35 行数 40
文字サイズ (基本は)10.5 フォントはお任せします
*ページ番号はつけないでください
質問などありましたら,編集委員まで・・・
編集委員 浜田寿美男(E155 内線3337)
M2 中根絵美・平野裕子(E160 内線2245)
M1 山本智子(N237 内線2244)
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☆子ども学通信−第2号− 2004年7月16日
☆発行・編集 奈良女子大学文学部 「子ども学」プロジェクト
〒630−8506
奈良市北魚屋西町 奈良女子大学文学部
TEL/FAX 0742−20−3337
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