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Title Author(s) Citation Issue Date Type ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディス ト アンドレイ・T・ボロトフのこと 坂内, 徳明 言語文化, 50: 31-63 2013-12-25 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/26106 Right Hitotsubashi University Repository ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)の エンサイクロペディスト アンドレイ・T・ボロトフのこと 坂 内 德 明 1.アンドレイ・ボロトフとは誰か アンドレイ・ボロトフは 1738 年に生まれ,1833 年に亡くなったロシア最大のエ ンサイクロペディストである。彼の全生涯は,18 世紀初頭のピョートル大帝期に 誕生したロシア帝国が同世紀半ば以後,暴発するかのように拡大・成長する中,ロ シア文化が実体ならびに言説として形成されていく過程を体現するものである。 その生没年から明らかなとおり,皇帝の治世から見ればアンナ女帝(在位 1730︲ 40)からニコライ一世(1825︲55)までの 7 代の長きにわたって彼は生きた。同時 代のエリートの一般的な道筋に沿って,新たな国家に奉仕すべく軍人としてスター トしながら,彼は軍務から「解放」されることを切望し,1762 年のピョートル三 世によるいわゆる「貴族自由令」公布直後に退役し,自分の小さな領地に引っ込み, 生涯の大半をそこで過ごした。ペテルブルグやモスクワにおける「中央」の政治や 社交,学問や研究,あるいはいわゆる文化の世界とはほとんど無縁に,都会と離れ た,辺境でこそないものの「地方」の屋敷で自身の「趣味」と知的好奇心の赴くま ま,領地経営と農業・造園はじめ各種の実験,読書と著述に明け暮れたのである。 彼の生涯を象徴する言葉としては,田舎暮らし(ロシア型「晴耕雨読」) ,書斎派, 農業改革,農地経営, 「人生と出来事」 (彼の手記・回想記のタイトル),そして長 寿,とでもなるだろうか。キーワード的な表現を用いるならば,国家勤務からの解 放と自由,地方の復権,私的時間ならびに空間としての余暇(1)の獲得,生産活動と 趣味によるロシア的個有化(プリヴァチザーツィヤ),文化的トポスとしてのウサ ーヂバ(貴族屋敷)である。 彼が趣味に費やした膨大な時間は後世に何を残したか。現時点で,その全体像が 32 言語文化 Vol. 50 十分明らかになっているとは必ずしも言えないが,大きく見れば,ロシア農学の創 始,ロシア・メモアール文学史の起点に位置づけられる「手記」その他の文学作品, ロシア式風景庭園をめぐる基本デザインの提示,ロシア・ウサーヂバ文化の具体化 があげられる。そして,それらの背後に広がるのは,当時のロシアにあっては知の 体系化が未だ不十分で,理論と方法を備えた独立した学問領域が形成されていなか った状況下にあったにせよ(2),彼の関心分野のずば抜けた大きさと広がりである ― 農学,農業技術,生物学,植物形態学,栽培・園芸・庭園学,都市計画,天文 学,医療,哲学・倫理学,歴史,文学,児童文学,文芸批評,音楽,美術,児童演 劇,翻訳・雑誌刊行等々。したがって彼を形容する枕詞 ―ロシア農学の開基者, 傑出した文人,特に森羅万象に興味を抱いた博物学者,西欧的教養人,庭園理論・ 実践家,啓蒙家,作家で劇作家,メモアリスト等 ―が数多いことも十分納得でき るのである。彼を,博物学者=エンサイクロペディストとして,ロシア啓蒙主義の 時代の基本的特徴を反映した人物であると考えて間違いない。 多くの分野に対するボロトフの関心の「集中と拡散」,そしてその「揺らぎ」の 振幅が示す活動の全貌はいかなるものだったのか,しかも絶え間なく好奇心を発揮 し,かつ,自らの観察,直観,思念を絶えず書きつけていったモチベーション ― 記述衝動としか呼びようのない(3)― はどのようにして形作られたのか,ボロトフ の知的営為がいかなる「場」で創造されていったのかを素描することが本稿の目的 である。ロシア最大のエンサイクロペディストである彼の生涯と仕事のアウトライ プロレゴメーナ ンをたどり,今後のボロトフ研究への 誘 い としたい。 2.誕生からケーニヒスベルグ時代まで アンドレイ・チモフェエヴィチ・ボロトフは,1738 年 10 月 7 日(新暦 18 日, ただし以下は旧暦で表記)にトゥーラ県カシーラ郡(現在アレクシン郡)のドヴォ リャニノヴォ(ドヴォレニノヴォとも)村に生まれた(4)。その村は,トゥーラ街道 から西に 7 露里(1 露里は約 1 キロ) ,駅亭からは 4 露里ほど奥に入った,スクニ ガ川河畔にある小村 сельцо である。彼が生まれた当時の村の詳細は不明だが,後 に 1762 年に郷里に戻った時点で村の戸数は全部で 11 戸という記録からすれば,き わめて小規模の村だった。このドヴォリャニノヴォ村の創設者は 17 世紀前半のエ ロフェイ・ゴリャイノフなる人物である(5)。ただし,ボロトフ一族の出自に関して は,セルプホフ市にあった関連文書が 1618 年のウクライナ・コサック軍の攻撃で ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 33 消滅したため詳細は不明だが,ボロトフ自身の言葉によれば,キプチャクハーンの 時代に るという(6)。そして,叔父マトヴェイ(1711︲65)が作成した系譜によれ ば,16 世紀初頭のロマン・ボロトフなる人物が一族の祖とされている(7)。このロ マンから数えて 6 代目のピョートル(1680 年代︲1730)がアンドレイの祖父である。 ピョートルはリガ駐留部隊の正規軍に勤務し,北方戦争に参加,1730 年にリガで 死去した。チモフェイ(1700 頃︲1750),マトヴェイ(1705 頃︲1765)という名の二 人の息子を残したが,兄である前者がアンドレイの父である。 チモフェイはリガのドイツ人学校で算術とドイツ語を学んだあと,第一竜騎兵部 隊で勤務し,クリミヤ遠征(1735︲39)の功により親衛隊として知られるイズマイ ロフスキイ連隊大尉の位を得た。さらに,1740 年にアルハンゲリスク歩兵部隊長 となり,1750 年 9 月に亡くなるまでその職にあったから,生涯を軍務に捧げた人 物である。母マーヴラ(1700︲52,マルファとも)はカシーラ地方の貴族バケーエ フ少佐の娘であり,このバケーエフとボロトフの祖父がリガで知り合った縁で彼女 はチモフェィの妻となった。チモフェィとマーヴラには二人の娘プラスコーヴィヤ (1725︲66)とマルファ(1736︲63, 64)が授かっていたが,男の子はなかったので, アンドレイの誕生はこの家族にとってきわめて大きな喜びとなった。待望の男の子 で,しかも一人息子となったために親,特に父親の期待が大きかったことは,以下 に記す教育熱が物語っている。それは,父親個人の志向であるだけでなく,能力・ 実力重視と立身出世という新たな時代の教育精神の賜物である。 アンドレイの子供時代(12 歳まで)の生活は,父親の勤めで各地を転々とする 中で送られた。オストゼイ地方(バルト海沿岸のドイツ系住民が多く住む地域)な らびにフィンランド各地の宿営地と領地ドヴォリャニノヴォを往復することで,学 業が不規則となったのはやむを得ない(18 世紀半ばのロシアの国家・社会状況か らすれば「まともな」教育を求めることが不可能であったのは言うまでもない)。 しかし,だからこそ,子どもの教育に関する親の考え方と意識の持ち方が重要であ り,アンドレイの場合,それは特に父親の圧倒的ヘゲモニーに負うところが大きか った。父はボロトフに 5 歳から読み書きを習わせ,語学能力に大きな関心があった 彼自らドイツ語,フランス語,算術,地理を教えたという(8)。むろん,仕事に追わ れる父親の教育だけでは不十分なので,彼は周囲の多くの人々に息子の教育を頼み 込んだ。ウクライナ人の老軍人で連隊書記のクラシコフはアンドレイに読み書きを 教え,絵画への興味を目覚めさせた。聖書の歴史に詳しい農奴のアルタモン老人か ら本の読み方を教えられ,ドイツ人将校ミュラーからドイツ語と算術を教え込まれ 34 言語文化 Vol. 50 る。また,部隊が駐留したクアランドでは,貴族のネッテリゴルストが父チモフェ イに対する敬意からアンドレイの教育を申し出る。この人物は自身の子供たちとと もにドイツ語,フランス語,絵描きの教育を一年以上もの期間にわたって与えたの パンシオン である。さらに父親は息子をペテルブルグのフェレが経営する寄宿塾(9)へ送ってフ ランス語学習を継続させ,息子に絵の才能があると認めると,今度はダングエルと いう絵の名人のもとで習わせることまでしている。ピョートル改革期に育ち,新た な時代の教育の必要性を人一倍に自覚していた父親は,息子の教育に金を惜しむこ となく,領地からの収入(当時としてはかなりの額にあたる 100 ルーブリ(10))を すべて息子に注いだという。こうした父親の意は息子に十分伝わったと言ってよい (後世,アンドレイの息子パーヴェルに対する教育でもこの熱意は受け継がれた)。 アンドレイは「手記」で,10 歳になるかならぬかのこの時期にはすでに学問,芸 術,美術への興味が芽生え, 「今の自分にあるすべての良きことのはじまりがそこ (11) と記している。 にあった」 1748 年 6 月,アンドレイは父親が所属するアルハンゲリスク歩兵部隊に伍長と して登録された(同年 10 月主計官,同 12 月軍曹)。彼の年齢からすれば少々早す ぎるが,おそらくは父親の意志によるものと思われる。しかし,1750 年 9 月に最 大の庇護者である父親が部隊のヴィボルグ駐留中に亡くなり,息子は郷里のドヴォ リャニノヴォ村に戻らざるをえなくなる。父が残した農奴は 95 人を数えたという から,規模としては中程度に位置する領地貴族である(12)。村での生活がしばらく 続くが,息子の将来を気遣った母は彼をペテルブルグの叔父アルセニエフのもとへ 送り,学業は続けられた。算術,ドイツ語,フランス語,地理学,絵描きを完全に 習得した彼は幾可学,城塞学,古代史にも通じ,その知識と学力は陸軍幼年学校の 卒業生と同等であったという。1752 年春,アンドレイ 14 歳の時に今度は母親が亡 くなり,それを契機に再度ドヴォリャニノヴォ村へ戻ることになる。 かつての父親の部隊で軍務を再開したのは 1755 年 4 月,アンドレイ 16 歳であ る(13)。その後,七年戦争(1757︲63)でプロシアとの戦いに参加,特に最大の闘い として知られるグロス・エゲルスドルフの戦闘(1757 年 8 月 19 日)では,戦さそ のものには加わらなかったが,会戦全体が見渡せる場所にいて貴重な目撃証言を残 している。しかし,こうした軍隊生活から得たものは,「自分は戦争のためにでは なく,学問のために生まれついている」 ,そして「戦争はいかに悲しい結果をもた らすか」との思いである。この時点で,彼のその後の生涯のオリエンテーションは 決まったと考えてよい。運命は彼のこうした思いに強く味方することになる。 ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 35 1758 年,ロシアの東プロシア占領によってボロトフの部隊はケーニヒスベルク (現カリーニングラード)への駐留命令を受け,その後 4 年近くの期間を彼はこの 町で過ごすことになった。彼の任務は書記ならびに官房付通訳であったが,このと きのロシアのプロシア総督 Н. А. コルフ男爵の実質的な秘書役として働いた(1760 年 1 月から中尉)。事務職にあった彼は軍の戦闘勤務から解放され,多くの「自由 な」時間を得たが,それは彼の精神形成に絶対的とも言える影響をもたらすことと なる。それは,ロシアが占有していたこの地域の思想史・精神史的状況のなせるも のである。言うまでもなく,この時期の東プロシアはドイツ啓蒙主義運動の一大中 心地となっていた。哲学者カントが母校ケーニヒスベルク大学で教鞭を執っていて, そこにヘルダーはじめ,多くの若き啓蒙主義の担い手たちが集結していたことは広 く知られている(14)。そうした中でボロトフは,大学で哲学の講義(クルチウス Crusiusu C. A.(1715︲75)他)を聴講し,公開討論会に参加,モスクワから来てい た学生たちとも盛んに交流した。演劇の公演は必ず見ていたといい,アマチュア劇 団に彼自身が出演することもあった。さらに,思想・哲学・芸術関連の本を買い集 めては読みふけり(15),その一部翻訳を試み,絵描きにも没頭した(彼の絵はケー ニヒスベルク造幣局により新硬貨の多くの意匠の原画として使用された)。特に, ドイツ啓蒙主義をめぐる最新の仕事としてゴットシェート Gottsched J. C.(1700︲ 66) ,クルチウスの他,特に美学者ズルツァー Sulzer I. G.(1720︲79)の著作を読 んだことは決定的だった,と「手記」に記されている。この時期の読書リストに は(16),未だ農業や庭園関連の書籍は含まれていないものの,ドイツ啓蒙哲学の書 物が多く見られ,それへの親近感は生涯にわたる彼の世界観を形作ったのである。 この町はまさに彼の「至福の場所」locus amoenus となり,そこでの時間の中で彼 の知的好奇心は思う存分に発揮された。ケーニヒスベルク時代は彼の精神形成にと っての「黄金期」であった同時に,次に展開される郷里の村での活動に不可欠な 「転形期」となった。 3.田舎暮らし プロシア総督コルフは 1761 年 1 月,ペテルブルグ市警察長官(ゲネラル・ポリ ツメイステル,1765 年まで)の任を与えられ,帝都へと向かった。彼に替わって プロシア総督になったのは,後に「アルプス越え」で知られた А. В. スヴォーロフ 将軍の父親 В. И. スヴォーロフであり,ボロトフは彼の下でしばらく勤務するが, 36 言語文化 Vol. 50 コルフによって都へ呼び寄せられる。この時期,エリザヴェータ女帝が死去(1761 年 12 月) ,彼女の指名により彼女の甥でピョートル大帝の孫にあたるホルシュタイ ン大公カールがピョートル三世として即位するが,1762 年 6 月にエカテリーナ二 世が皇帝の座を奪取するまでの「大混乱」の帝都にコルフとボロトフはいた。ボロ トフがコルフ付侍従武官としてペテルブルグに到着するのは 1762 年 3 月末である。 彼の任務はコルフの宮廷への送迎などであり,宮廷生活や上流階層の実情を見る貴 重な機会を得ることになったが,これは彼の興味を引くものではなかった。「まっ たくの嫌悪感」を感じるだけだった,という(17)。こうした彼の感じ方が,当時の 宮廷内部の厳しい権力闘争を背景に生まれたことは当然である。ボロトフが,「陰 謀」の首謀者の一人であるグリゴーリイ・オルロフに近い人物との評判も生まれ, ピョートル三世「打倒」とエカテリーナによる権力奪取のクーデタにあやうく参加 するところだった。平和主義者で「争い」を好まぬボロトフにとって,陰謀加担と いう選択はそもそもありえなかったはずだが,彼の「中央からの退去」を強く後押 ししたのは一つのマニュフェストである。ボロトフにとって,ピョートル三世が公 布した,いわゆゆる「貴族自由令」 (1762 年 2 月 18 日付,ПСЗ, т. XV, № 11444) は絶好のタイミングで出されたまさに天からの恵みとでも呼ぶべきものだった。こ のマニュフェストの意義に関しては多くの議論が必要だが,「プライヴェートな人 間という,まったく新しいクラスの創出への道を切り開いた(18)」ことは間違いな い。彼には中央政界にも,帝都の社交界や華美な世界になんの未練もなく,その公 布をまさに心から待ち望んでいたかのように(19),彼は同年 6 月 14 日付けで大尉の 位をもって退職する。彼は 23 歳 8 ヶ月だった。そして,郷里のドヴォリャニノヴ ォへと一目散で向かった。到着は 1762 年 9 月 3 日である。 故郷の村と実家はどのような状況だったのか。彼が戻った時点で土地と農奴をど れほど所有していたかに関しては,当時の土地課税台帳を調査した Е. Н. シシェー プキナの研究に詳しい。生家のあるドヴォリャニノヴォとその周囲の 4 村(ボロト ヴォ,トレイノ他)の戸数は 11 戸,彼の家は高台にあったから,川の対岸の農民 小屋を見降ろすというウサーヂバの典型的な空間構造を作り出していた(20)。しか し,彼の家にすでに両親はなく,両親や姉たちと過ごした家と周囲が荒れ果てた状 態だったことは想像に難くない。古びた母屋に家具はなく,食器も古く,割れ,ま ともな馬も馬車もない有様である。彼は「手記」に旧邸宅のスケッチ(図 1)と部 屋の間取り(図 2),そして庭の様子(図 3)を描き残しているが,ここから明らか なように,旧宅は一階建て,木造,平面図で長方形,小窓と切妻屋根があり,家の ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 37 横側面には小部屋(煙出しなしの 台所兼召使部屋)がある。 「手記」 には,室内移動が不便で,狭苦し く,耐えがたいほどに暗く,室内 にいかなる飾りもインテリアも見 られないと記されている。建替え る必要があったが,資金不足から 不可能だった。新宅建設は,生活が 多少落ち着いた 1766 年に決意し, その計画に取り掛かっている(21)。 1764 年 7 月 に ア ン ド レ イ は, 当時 14 歳のアレクサンドラ・ミ ハイロヴナ・カヴェーリナ(1750︲ 1834)と結婚した(二人は 70 年 を共に暮らし,生涯で 9 人の子ど 。その喜びを彼 もに恵まれた(22)) は,壁に自分の絵を飾ることで示 している。ここに,彼は家庭人と 図 1 アンドレイ・ボロトフによる旧宅スケッチ (ボロトフ「手記」より) して,両親の残した土地の所有主 =農業経営者として,そして書斎 での読書と執筆に明け暮れる文人 る。彼の田舎生活が本格的に始動 するのである。 彼の活動の中心となったのは, 1765 年にロシアで最初の農業振 食料 ・ 物置 物置 表玄関間 としてのスタートを切ることにな 表部屋 裏玄関間 居間 小部屋 興組織として創設されたばかりの (23) への積極的関 「自由経済協会」 与である。きっかけは 1766 年に モスクワで,協会が刊行する「紀 要」の購入を勧められたことだっ た。協会の活動に興味を抱いた彼 煙出の ない部屋 図 2 旧宅間取り(「手記」をもとに作成) 38 言語文化 Vol. 50 図 3 ボロトフによる旧宅庭園スケッチ(1763 年春,「手記」より) ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 39 は,1766 年 3 月に協会が行った「土地所有の形式」に関する 65 問からなる質問状 に対して回答を送った。当時,戻ったばかりの自分の領地での農業をはじめとする 領地経営全般に関する彼の知識は不十分であったから,具体については,執事のフ ォーミチ老人に協力を求め,彼に確認しながら回答を作成した。しかし,これ以降, 彼は書記 А. А. ナルトフ(パーヴェル帝期に同協会総裁)との文通をはじめとして, 協会の活動に精力的に参加し,1766 年 12 月には正規の会員となった。 彼は「紀要」誌上に,農業と関連分野を取り上げた数多くの論文を次々と発表す ることになる。それについて詳しく検討する余裕はないが,論文は全部で 21 点 (1766 年から 1779 年まで)を数える。最初の著作は「カシーラ郡の土地の特性な らびに良質さ,その他の状態に関する記述,質問に対する回答として」と題されて 「紀要」の 1766 年第 2 部に掲載された(24)。これは,上記の協会からの質問に対す る回答として書かれたとはいえ,全体で 92 ページ,実に詳細に記された大論文で ある。この時点ですでにボロトフには,抜群の観察・記述力が備わっていたことを 十分に物語っており,彼の文字通りの処女作としての意義が高く評価されるもので ある(農具の緻密なイラストが添えられているのも,絵心のある彼ならでは,であ る) 。その他, 「紀要」に掲載された論文テーマのいくつかを例示すれば,森の開墾, 農地利用(七圃制),各種植物・樹木の生育,じゃがいも・リンゴ・ホップ等の栽 培,新型荷馬車,と実に多岐にわたっている(25)。その中で,論文「管理人への指 示」 (1770 年)は大金メダル賞, 「畑の分割」(1771 年)も銀メダル賞を授与されて いる。 この時期,帰郷から数年しか経過していないにもかかわらず,ボロトフの研究は 植物分類・形態学,栽培法,農業生物学,土地学,農地経営法等々といった幅広い 関連分野に目配りがされており,彼のそうした研鐕の成果は協会の活動と不可分に 結びついていた。その意味で,ドヴォリャニノヴォ村の彼の領地は「自由経済協会 が遠く離れた土地への影響をもたらしたことの証拠」であり,彼の活動が契機とな って「協会の努力の結果として,貴族農業者の個人的ライフスタイルがロシアのエ (26) と言って間違いない。 リートに受け入れられ,希望ある使命となった」 1768︲69 年,待望のボロトフの家が新築された(図 4)。前述のとおり,村に戻っ たばかりの時期には断念したが,その後,家族数も増え,親族はじめ訪問客も多く なっただけでなく,生活も軌道に乗り,家全体のより住みやすさを求めたことが新 居建設の理由である。新居の場所も新たに選ばれ,スクニガ川から 20 サージェニ (約 40 メートル)の高さの丘の背骨部分に建てられたから,周囲を見降ろす眺めは 40 言語文化 Vol. 50 中庭 洗面 表玄関間 3 1 4 物置 アンドレイ 5 書斎 食堂 女中部屋 2 8 洗面 義母用部屋 玄関廊下 6 7 子供部屋 寝室 客間 広間 5 トイレ 丘斜面に庭園 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ 図 4 1768-69 年に建造されたボロトフ家新宅間取り(「手記」をもとに作成) Ⅰ 窓と壁穴 Ⅱ 扉 Ⅲ タイル暖炉 Ⅳ レンガ暖炉 1 本棚 2 薬棚 3 文机 4 発電機 5 ソファ 6 食器台 7 寝床 8 屋根裏階段 最高である。縦横の長さ 21 メートル×13 メートルは地主屋敷としてさほど大きく はないが,旧宅に比べて(27),内部は全体としてはるかに合理的・機能的に住みや すく作られている。部屋数は 10 余り,彼自身の書斎や義母の部屋等が巧みに配置 され,家族・住人のみならず使用人も移動しやすく,意味のない通路部分もなくな った。屋根は板二枚重ねで,冬は暖かく,夏は涼しいように工夫されている。窓は 23 を数え,マツの太い丸太で作られた木造一階建て,ファサードは小川に向いて いる。母屋脇には忘れずに花壇も造営された。全体の建設費用は 540 ルーブリで, 当時としては廉価であると彼自身が記している。 図 5 は,この母屋ならびに各種付属施設を含めた屋敷の全貌である。庭園部分を 見ると,この時点では,当時の流行に従った整形庭園である。これは,ボロトフ自 身に未だパーク造営の実際経験がなく,西欧の庭園に関する知識もないことのため である。しかし,ボロトフ領地の庭園の植生を詳細に点検した Н. А. フィリポヴァ によれば,そこでは,森から野生の多年草を移植した草花栽培も行われており, 「ロシア風」風景庭園となるにはそれほど多くの時間は必要なく,すでにドヴォリ ャニノヴォの時代(厳密に言えば,第一期)にランドシャフト庭園とランドシャフ ト建築家が生まれていたという(28)。むろん,整形庭園から風景庭園への移行は, ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 図 5 ボロトフ家屋敷(ウサーヂバ)全体図(「手記」より) 1 母屋 2 前庭 3 台所庭 4 穀物倉庫 5 馬車置場 6 入口正門 7 管理人部屋 8 厩 9 後庭 10 出口門 11 羊小屋 12 家畜小屋 13 地下室付納屋 14 氷室 15 召使部屋 16 馬庭 (馬場) 17 野菜園 18 貯蔵室付養蜂場 19 召使小屋 20 門 21 召使部屋と台所 22 白樺林 23 下池 24 上池 25,26 穀物乾燥小屋 27,28 家畜飼料用わら保存小屋 29 乾草堆 30 果樹園 31 大麻畑 32 ボロトフ義母が植えた果樹園 33 先祖からの大庭園 34 水路 35 風呂小屋 36 丘 37 先祖が植えた下庭園 38 蒸留酒製造所 41 42 言語文化 Vol. 50 より具体的には,以下で述べるボゴロヂツク庭園の造営後だが,ボゴロヂツクでの 仕事中にもボロトフは郷里の村へ度々戻っていたから,同時並行的であったし,ボ ゴロヂツクの仕事から解放されてからの作業によって,その移行は本格化すること になる。 こうした住環境の中,彼の読書と執筆活動が全面展開された。それは,上記協会 への論文送付を大きな契機として,農学や植物学に関わる多くの分野に及んだ。植 物や天候をはじめとした森羅万象に目を凝らし,観察と記述に没頭した。さらに, ケーニヒスベルク時代に集中的に学んだドイツ啓蒙哲学をもとにした宗教・道徳的 な著作に着手するのもこの時期である。「手記」によれば,1760 年代末の彼の蔵書 数は 600 冊を越えたという。しかも彼は,自分だけが書斎に籠るタイプではなかっ た。1770 年代初めには,自分の子どもだけでなく,知人の子どもを集めて教育す べく私塾を家(おそらくは彼自身の書斎)で開いた。そこで彼は自ら算術,測量, 絵描き,地理を教えたが,それは,かつて父親によって個人経営の寄宿塾へ送り込 まれたことの再現である。 子弟の教育について,ボロトフ父子の認識は共通していた。教育は,そのための 特別な方法論や近代的システム・制度に依存することなく,行動スタイルそのもの の修得(しつけ)によって実現できるのであり,生活様式の理解と共有化こそが教 育の最大の課題であった。18 世紀哲学史の再構築を試みる Т. В. アルテミエヴァが, ボロトフに「生活様式としての哲学」を見ていること(29)は興味深い。 4.ランドシャフト建築家誕生 故郷の村での生活を淡々と続けていたボロトフに大きな転機が到来した。10 余 年に及んだドヴォリャニノヴォ暮らしはいったん終息し,1774 年からの 23 年間は モスクワ県南部とトゥーラ県の町ボゴロヂツクでボロトフは仕事をすることになる。 転機のきっかけは,エカテリーナ二世が領地として購入を予定したいくつかの土地 の調査を「自由経済協会」に依頼したことである。この要請は,協会メンバーだっ た С. В. ガガーリン伯爵を通して行われ,協会は,ボロトフとも親交があった秘書 А. А. ナルトフの意見を受けてボロトフを推挙する。候補地はモスクワ県南部のキ ヤソヴォ郷である(30)。ガガーリンはボロトフへ書簡を送り,仕事の条件を提示し た。好条件であったことに加えて,ボロトフの住まいからさほど遠くなく,妻と義 母の勧めもあってボロトフは快諾する。ただちに調査報告がなされ,皇帝領地とし ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 43 て購入が決まった(1774 年 7 月)だけでなく,その管理もボロトフに任された。 おそらく,調査時点からそのことは予定されていたのだろう,1774 年 7 月末には ボロトフは家族ともどもキヤソヴォに移り住むことになる。一家はここで二年間を 過ごし,農業を再興させ,土地経営を軌道に乗せた。それまでナウモフ家のウサー ヂバがあったものの,荒れ果てていた二つの整形庭園を整備し,第三の整形庭園の 造営に着手する。彼はここに並木を植え,若い実をつける樹木と茂みを使って植込 みをこしらえ,家の窓下には,例によって花壇を配した。すぐ後に彼がボゴロヂツ クで実現させる非整形式庭園への道筋がすでに見え隠れしている。 キヤソヴォでの仕事ぶりが高く評価されたためであろう,今度はトゥーラ県内に ある,同じく皇帝領地ボゴロヂツクの管理がボロトフに課せられた。1776 年秋の ことであり,以降 23 年間は,このボゴロヂツクの宮殿ならびにその庭園の整備, さらに町建設に捧げられた。ここでボロトフの仕事は全開することになる(ただし, ドヴォリャニノヴォを朝出立すると夕刻にはボゴロヂツクに行ける距離であったこ とから,家族ともども頻繁に往復していた(31))。 トゥーラから東南に 65 キロメートルに位置するボゴロヂツクは,現在では,第 二次世界大戦時の損傷の傷跡が修復されてミュジアムとして多くの観光客を迎え入 れている地方の文化遺産小都市だが(32),歴史的に見れば,アレクセイ帝期の 1663 年にウペルタ川左岸に「タタール襲撃から周辺土地を守るために」作られた比較的 新しい村が起源である。1770 年にエカテリーナ二世は,この村とここから数十露 里離れた村ボブリキの二ヶ所に,グリゴーリイ・オルロフとの間の非嫡子アレクセ イ・ボブリンスキイ(1762 年 4 月生まれ)のための宮殿を建設し,周辺にウサー ヂバを造営することを思いつく。その全体計画を任されたのはロシア古典主義建築 を代表する И. Е. スタロフである。彼は翌 1771 年から図面作りを開始,1774︲76 年 に建築家 Я. А. アナニインによって建設された(33)。1777 年にボゴロヂツクは郡都と なって川の右岸へ移り,川が作る湖をはさんだ対岸の高台に宮殿やカザン教会をは じめとする建物群と庭園が整備された。 こうした中,先のガガーリン公爵とナルトフの要請によりボロトフがボゴロヂツ クに呼び寄せられた。当時,確かにキヤソヴォでの彼の仕事ぶりは評価されていた とはいえ,いまだ設計・建築家,まして庭園プランナーとしてはまったく未知数の ボロトフであった。したがって,スタロフのプランとの関係には不明の点が多く, ボロトフ招聘の時点までにスタロフの計画がどこまで実現され,ボロトフがそれを どれほど忠実に継承したのか,修正したのか,については今後の研究によらねばな 44 言語文化 Vol. 50 らない。いずれにしても,ボロトフはスタロフのプロジェクトを発展・完成させ, エカテリーナの希望を実現させるべく招かれたのであり,しかもそれは,多くの場 合,手探り状態での実地体験であった。 彼はまず,ボゴロヂツクの町の構造そのものから考え始める。スタロフのプラン によれば,町は 5 本の主な放射線,その中の 3 本が湖の岸辺にある八角形の広場に 通じていた。こうした町の区画すべてと湖をはさんで聳える宮殿を一つに結び,放 射線状に位置づけられていたスタロフのプランを生かし,放射線の中心が宮殿の楕 円形ホールに来るようにし,その窓からは,放射状に広がる通りをはじめ町全体を 一望できるようにした。宮殿の仕上げはパークの造園である。スタロフが提案した 整形式庭園が上司の満足を得られなかったことが味方して,イギリス風の風景庭園 がボロトフの手で実現された。その理由,具体的植生ならびに全体については,こ こでは述べないが(34),パークの宮殿側部分と比較的平坦な部分,直線状の並木道 とボスケは整形式を採用しながら,それ以外はすべて風景式スタイルとした(35)。 ボゴロヂツクの建設,特に庭園造営がいきなりの実技開始であったとはいえ,そ のための「座学」をボロトフは欠かさなかった。同時代の西欧,特にドイツ世界で 広く読まれていた庭園関連の書物,例えば,風景庭園理論家 C. C. L. ヒルシュフェ ルト(1742︲82)の著作に目を通していたことは十分可能性がある(後にボロトフ はロシア語訳を試みるが,完成しなかった。一部を雑誌「経営雑誌」に掲載し 。とはいえ,それらの著作にはロシアに関する言及がまったく見られなかっ た(36)) たから,実際のロシアの目前の風土と伝統を執拗に観察し,それぞれの土地に対応 する庭園作りを工夫しなければならなかった。彼は「新しい庭園スタイルをロシア (37) のであり,庭園造営家兼理論家としてのボロ の好みと観念の言葉へと翻訳した」 トフがここに実現した。 ここで重要な点は二つある,第一に,彼が庭園に関する理論家,実践家であるだ けでなく,積極的な普及・啓蒙家として目覚しい活躍をしたこと,第二は,ロシア の庭園が整形庭園から非整形庭園へと変容していくちょうど「転機」にボロトフが 登場したことである。 前者に関して言えば,ボロトフの文章は同時代の地主にとって庭園作りのマニュ アルとして待ち望まれていた。そのために彼は,雑誌という媒体の積極的利用を思 いつく。18 世紀後半は,まさしく「雑誌の時代」(П. Н. ベルコフ)であったから, それが最高の媒体であり,最大の効果をもたらすことをボロトフは知っていた。雑 誌との具体的関わりについては,以下で述べるが,庭園知識の普及と啓蒙のために, ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 45 雑誌を自ら発行することも彼は辞さなかった。そして,18 世紀半ばから末にかけ て,ヨーロッパ・ロシアの多くの領地でウサーヂバ建造が大きなブームとして沸騰 する中,貴族地主たちは新しい庭園の形を模索していた。ボロトフはそれまでの 「古い」庭園を「新しい」ものとするのはどうしたらよいのか,を具体的にアドヴ ァイズする記事(例えば「古い庭園の直しに関して」(1782)他)を続々と雑誌に 掲載した。ボロトフを含めて庭園に大きな関心を抱いていた同時代人(Г. Р. デル ジャーヴィン,Н. М. カラムジン,Н. А. リボフ,Н. П. オシポフ,П. С. パラス) による庭園への言及ならびに庭園論を緻密に検証した Е. П. シシェープキナの調査 に従えば,ボロトフの庭園に関する論文は,「経営雑誌」に 59 点(1780︲86) , 「村 の住民」誌に 12 点(1778︲79), 「自由経済協会紀要」に 5 点(1766︲92)を数える という(38)。 後者については,ボロトフがボゴロヂツクの庭園で実現したことの文化史的意味 をめぐる問題として捉えなおす必要がある。それは,整形庭園から非整形庭園へと いう狭義の技法上の「移行」としてのみ理解されるべきではない。確かに,彼は整 形庭園から非整形庭園への道を開いた。しかしその際,後者のいわゆるイギリス式 風景庭園を彼が「装飾」,あるいは「楽しみ」庭園と名付けたのは重要である。そ こには,ボロトフの庭園が求めるものが明確に表現されている。西欧で当世流行中 の様式をそのまま「輸入」したものでも,西欧・ロシアの自然を模倣や再現したも のでもなく, 「楽しみ」という言葉に表現されるロシア的満足感をもたらすものと しての庭園こそ彼が目ざしたものである(39)。この時期に書かれた「ロシアにおけ る庭園に関していくつか」 (1786)をはじめとするいくつかの論考によれば,ロシ アの庭園は,習俗伝統により作られた自然・文化・歴史的条件に合うものでなけれ ばならず, 「それをロシア的と呼ぶ」とされるのである。ボロトフにより,ロシア のランドシャフト庭園を造ろうという考えが生まれ,ボゴロヂツクのパークと庭園 はまさしくそれを具現化する作品であった。 さらに,ボゴロヂツクの庭園に関して一つ書き加えるべきことがある。それは, 庭園を記憶に留めるべく風景画をシリーズで製作するという考えが彼に芽生えたこ とである。幼い頃からの絵描きの修業とそもそも備わっていたと思われる絵の才能 がここで大いに役立った。 「庭園が元の姿のまま留まる期間は短いことを理解して いた」彼は,「絵画の中に庭園を永遠に刻みつけておく」ために,息子のパーヴェ ルとともにボゴロヂツクをスケッチした(図 6,7) 。「ボブリンスキイ家領地風景」 と題されたその画帖には,78 枚のデッサン,45 枚の水彩画,さらに未完成のペン 46 言語文化 Vol. 50 図 6 ボゴロヂツク宮殿(ボロトフ父子による水彩画) 図 7 ボゴロヂツク庭園(同前) ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 47 画や鉛筆画が収められているという(筆者未見,現在,モスクワの歴史博物館・絵 画部門に収蔵) 。また,やはり同じくボゴロヂツク・パークの風景を描いた 24 枚か らなる画帖が製作され,1787 年 6 月半ば過ぎにトゥーラに行幸したエカテリーナ 二世に贈呈されたという(40)。 ボゴロヂツクの宮殿は,ボロトフにとってたんなる建築作業の対象にとどまらな かった。実際の文化・啓蒙活動の場として活用されたのである。具体的には,以前 から興味があり,ドヴォリャニノヴォでも開設していたパンシオンを 1778 年から 開いた。ここには貴族子弟を集め,息子のパーヴェルにも頻繁に通わせていた(41)。 また,宮殿の一部屋を 200 人収容可能の子ども劇場とした。ただし,ここでは 1779 年 10 月からオーケストラ,バレー,芝居(例えばヘラスコフの作品)が公演 されていたが,演劇の出し物に子ども向けのものがなかったので,ボロトフが自分 で戯曲を作ることになる。第一は 1779 年に作られた三幕 15 場のコメディ「名誉自 慢」 ,第二が,フォンヴィージンのテーマにもとづいた「不幸な孤児たち」(三幕 15 場,1780 年に作られてモスクワ大学出版所から 1781 年に刊行)であり,ともに ここの子ども劇場で初演されている(42)。1781 年の火事による中断までの二年間に 約 20 のレパートリイが舞台にかけられた。 こうした啓蒙活動への強い意欲は,この時期の彼が没頭した宗教・道徳的な著作 とも通じる。母と子どもたちの対話形式による彼の道徳観を披歴した『子どもの哲 学』 (1775 年に完成,さらに 1779 年に続編が書かれた。ルプランス・ド・ボーモ ン夫人(1711︲80)の著作『子どもの学校』 (全 4 巻,ロンドン,1756)を真似たと される), 『キリスト教の感じ方』 (1781 年,ノヴィコフの印刷所で出版),『道徳倫 (全 3 巻,1784 年)といった著作が残された(43)。しかも,これらの著作が 理案内』 当時の知的文化との深い関わりの中で社会へ発信されるために,媒体としての雑 誌・書物の発行と,そのための人的ネットワークとしての社交・友人が必要となっ たのは当然であろう。 まず,ボロトフが手掛けたのは,ロシア最初の民間農業雑誌「村の住民」の発行 である。1778 年 4 月から 1779 年 3 月まで一年間だけの刊行だが,本屋 К. リジゲ ルの資金によってモスクワ大学出版所で印刷,予約者分 100 冊のみ,短期間で終わ ったことから見て,成功したとは言えなかった(44)。 しかし,この雑誌発行が契機となって,天才的ジャーナリスト兼批評家として同 時代最高のインテリゲンツィヤである Н. И. ノヴィコフとの交流が始まったことは 大きな成果である。彼との出会いが実現した 1779 年 9 月 2 日をボロトフは「全人 48 言語文化 Vol. 50 生でもっとも記念すべき日」であるとしている(45)。そして今度は,ノヴィコフが 発行する「経営雑誌」に積極的に参加することになる。これは,新たな農業と自然 科学知識の普及を目的として,ノヴィコフが資金提供と編集を行い,彼の印刷所で 刷られた雑誌(週刊)である。 「モスクワ通信」付録として 1780 から 10 年間にわ たって全 40 巻が刊行され,定期講読者には В. А. リョーフシン,М. М. シチェルバ トフらがいた。先に述べたように,ここにボロトフは新たな庭園・ウサーヂバ文化 を求める平均的地主に向けた多くの論文を発表し,西欧庭園の紹介をしつつ(ヒル シュフェルトの著作の一部翻訳の掲載),ロシア庭園芸術の置かれた状況と将来に ついての考えを述べた。この雑誌がノヴィコフの知名度のためでもあろうが,長期 間にわたって続いたことからすれば,発行は成功した。「経営雑誌」は「地主層の (46) となった。ボロ 中で大いに流布し,多少とも文化的な地主にとっての座右の書」 トフの著述は大きな影響をもたらしたと考えてよい。 この他,ボロトフの仕事に見られる関心の広がりは留まるところを知らない。 1790 年からは果実学に関する研究を開始し,リンゴ新種発見・観察記録やトマト 栽培にも熱中し,合わせて「自由経済協会」の活動も再開させた(47)。ロシア農業 史を中心にボロトフの仕事を検証した А. П. ベルドィシェフによれば,ボロトフは 自然科学に関するロシアならびに西欧の科学文献をほとんどすべて知っていたばか りでなく,同時に,実際の農作業にも通暁しており,西欧を越える発見もあり,彼 の見出した農業技術の方法や農業システムに関する考え方は現代の学説の基礎とな っているという(48)。 医学にも彼の関心は及ぶ。植物学への興味から薬草の処方は重要なテーマとなっ たし,電気治療にも関心を持ち,書斎でそれを実験するとともにマニュアル本も著 した(49)。さらには,ロシア国内外の政治的・社会的状況やロシア皇帝パーヴェル をめぐる ・小話に対しても彼は筆を動かさずにはいられなかった(50)。 5.再度,村へ 1796 年 11 月にエカテリーナ二世が逝去し,ボゴロヂツクは新帝パーヴェルによ ってボブリンスキイの所有となった。そこで仕事を続けることをボロトフは望まず, 1783 年に与えられた 8 等官の地位で職を辞す。1797 年初頭に,58 歳のボロトフは 郷里へ戻った。 ドヴォリャニノヴォで始まった「第二の村生活」は,おそらく,それまでの彼の ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 49 生活スタイルを忠実に継承し,きわめて堅実かつインテンシヴな日々の連続となっ た。この間,1803 年に土地境界をめぐる係争でペテルブルグへ行き,10 ヶ月程滞 在し,1804 年には皇帝から与えられた新領地の点検をすべくタンボフへ,さらに 1810 年に,息子パーヴェルに与えたこの土地を見に行ったものの,これらの外出 を除いて彼は完全に村に引き籠って仕事を続けた。ドヴォリャニノヴォのウサーヂ バの管理として,庭園ならびに果樹園の整備は大きな仕事だった。ボゴロヂツクで の試みをここでも継続させ,風景式パークを完成させるべくこれまでの計画を練り 直す。こうして彼のウサーヂバに,湾曲する小道,小草原,小広場,いくつかの池, 八角形のパビリオンのある小屋等が新たに登場した。彼は,パークに流水を絶やさ ない装置を作って上池から湖へ水が落ちるカスケードをこしらえ,池には花で飾ら れた小島を配した。魚の水路を掘ってそこに小さな橋をわたし,グロットも建造さ れた。小川を作る際には水の流れの音にも配慮されたのである。また,果樹園から は豊かな実りが生まれ,当時としてはかなりの額である年 3500 紙幣ルーブリがも たらされたという(51)。 著作活動としては,例えば,1809 年からは新聞「北の郵便」の求めで,「土地で 起きたこと」をはじめとして,農業や治療関連の記事を定期的に発表している。 1822 年から刊行された「農業雑誌」に数多くの論文を掲載し,彼の生前最後の論 文「果樹園について」も同誌の 1830 年の巻に発表された。 だが,何といっても多くの時間は,彼の生涯を「自らの子孫のために」書き綴っ た「手記」の執筆に割かれた。このメモアールの構想はすでにボゴロヂツク時代の 1789 年に生まれ,書き始められていたが(図 8),本格的に打ち込んだのはこの時 期である。この「手記」については,次節で述べる。 こうした老境にあったボロトフの日々の生活ぶりは,孫のミハイルの記述によっ て知ることができる。それによれば,祖父は「いつも,とても早起きで,夏は 3 時 過ぎ,冬も 5 時だった。朝の祈りの後,彼は毎日の朝用のお勤めの言葉を読んでか ら,文机に坐って書きものを始める」 。欠かさず記したのは「気象学ノート」(前日 と今朝の天気(温度,気圧,日の出時の風と空の状態)に関するもので,これは 52 年間続けられ,後にアカデミーへ献呈された)と,「出来事日誌」(前日に自分 が何をしたか,いかなるイデーや思索が浮かんだのか,客があれば特にその時にど のような興味ある会話や話があったか)の二つである。ボロトフはそれを,家の者 の皆が起き出し,祖母がお茶を運んでいくまでにはすべてをやり終えていた。大好 きなお茶を,最初は熱く,次は何かパン類のかけらと,三,四杯目は冷めたものと 50 言語文化 Vol. 50 いった風に何杯も飲む。そ して,フキタンポポの草を 混ぜたトルコたばこを燻ら せながら,大好きな「ハン ブルグ新聞」を読んでは, 面白い記事があるとそれを ノートに書きつけた。それ から自分の書きものに取り 掛かり,正 まで続けた。 「12 時過ぎには必ず食卓に つく。食事は 4 皿か,時に は 5 皿(冷製,温製,ソー ス,焼物,ケーキ)が出さ れたが,彼はクワス(ロシ アの発酵飲料― 引用者) 以外は飲まない。その後, きっかり一時間休息し,目 を覚ますと何か甘味,特に フルーツを好んだ。5 時に は奥の部屋でお茶を飲み, 図 8 ボゴロヂツクの書斎で「手記」執筆中のアンドレイ・ボロトフ (息子パーヴェルによるポートレート) 新聞を読んでもらう。9 時 の夕食後,すぐに就寝した。 彼は,秋と冬は必ずこれを日課にしていたが,春夏は庭の作業をしたので,書きも (52) 。このような晴好雨奇を楽しみつつ日々励む生活 のは天気の悪い日にしていた」 は 40 年近くも続いたのである。 1833 年 10 月 3 日(4 日とも)にアンドレイ・チモフェエヴィチはドヴォリャニ ノヴォ村の自宅で息子パーヴェルの手の中で亡くなった。94 歳である。4 日後の誕 生日に葬式が執り行われた。70 年を共に暮らした彼の妻は夫の死の翌年,やはり 彼の誕生日にあたる 10 月 7 日に 85 歳で他界した。二人はドヴォリャニノヴォ村か ら二露里(約二キロメートル)の隣村ルシャチノにあった教会墓地で共に眠ってい る。埋葬時にあった木造教会は現存せず,当初作られた墓碑は新しくなって今に残 っている。 ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 51 6.その遺産 彼が「中央」の軍務や仕事を早々に捨てて郷里の村に引き籠り,自らの余暇と趣 味に費やした膨大な時間は後世に何を残したのだろうか。現時点で,その全体像が 十分明らかになっているとは言えない。というのも,彼の書き残した文章の分量が 膨大であり,しかもその多くが原稿のまま残されたこと(53)に加えて,書かれた内 容のジャンルと関連分野が,これまでの叙述に明らかなとおり,きわめて多岐にわ たるためである(54)。 彼が生前に発表した著作に関しては,彼の死から 5 年後に活字化された目録(55) が参考になる。そこには,ボロトフが生前に刊行したのは著作 8 点,翻訳 4 点であ り,死後に未刊のまま残された手稿は 60 点以上にのぼることが記され,さらに, その中でより重要な著作 22 点のタイトルがあげられている。そして,この 22 点の 最後に「22.自身の生活の記述,39 部」とされているのが「手記」に該当すると 考えられる。 「手記」は文字通り彼が約 30 年を費やして書き残したメモアール=自伝・日録で あり,生活内のごく当たり前の現実を,ごく細部に至るまで観察し,「親しい友人」 に宛てた書簡 300 通(全 29 部)の形式を取っ て書き綴ったものである。それは生前には刊行 されることなく,没後,子孫の手元に残され, 一部分が雑誌に掲載されてきた(56)。そうした 流れを大きく変えて, 「手記」の全体像を明ら かにしたのは歴史家 М. И. セメフスキイ(1837︲ 1892)である(57)。彼はボロトフの原稿ノート (29 冊,各冊 400 葉)を校訂・編集し, 「手記」 全文を自分が発行人となった雑誌「ルースカ ヤ・スタリナー(ロシアの古事)」に完全版と して掲載した(同誌付録全 4 巻,1870︲73 年, 翌年に同じく 4 巻の単行本 600 部,1 ページ二 段組みで 2408 ページ) 。その際,表題もそれま での「アンドレイ・ボロトフの手記」から,原 稿ノートの表紙(図 9)に記された『ボロトフ 図 9 「手記」表紙 52 言語文化 Vol. 50 の手記,あるいは子孫のために自ら書いたアンドレイ・ボロトフの生涯と出来事』 となって現在に至っている。この「手記」刊行後,テクストをめぐって新たな事実 が明らかになった。それは,セメフスキイが確定した「手記」で扱われている内容 の時間幅が,1738 年の誕生(ただし,自分の出自や祖先の記述として ることも ある)から 1795 年までとされていたのに対して,1795 年以降の分も書き続けられ ていたことが判明したことである。1799︲1802 年(36︲37 部)の記述,さらには 1816 年の記述(上記書簡の番号で第 351)が残っていたことが分かり,それらが相 「手記」改訂版が編まれる可能性もあるだろう。 次いで活字化された(58)。今後, ボロトフの未完の「手記」は著者の生前に刊行されることなく,その意味で,彼 の同時代の社会に直接の影響をもたらさなかった。しかし,それが書かれた事実そ のものはロシア文化史の大きな事件である。レフ・トルストイの「もっとも価値あ るメモ書き」との評価(59)の真意をどのように理解すべきか,議論は分かれるが, 質量両面においてロシアの文学=記述文化史上で類を見出すことのできない作品で あることに間違いはない。日常生活の細やかな観察とその記述の無限の集積である (60) の冒頭を飾る作品として, 「手記」は,18 世紀後半に始まるロシア「自伝文学史」 また,18 世紀ロシア生活・習俗の百科事典,ロシア風の「篤農訓」あるいは「家 (61) として,ロシアの「地方」における「日常性」と生活様式の実践記録とし 政誌」 て,その意義は大きい。 18 世紀半ば以降,モスクワ近郊(ポドモスコーヴィエ)を中心としたヨーロッ パ・ロシア地域でウサーヂバ建設の一大ブームが起きた。その中で,ボロトフがド ヴォリャニノヴォ村に創造した時空間とその世界はロシアの中小ウサーヂバの模範 となるべく営まれた。ドヴォリャニノヴォに彼の質素な屋敷と庭園が作られたのに 対し,ボゴロヂツクには宮殿が建造され,パークと庭園が宮殿を囲んでいたが,そ れはまた 18 世紀後半におけるロシア大貴族のウサーヂバの典型を示すものである。 (62) の観点から見て,同一人物の手になった ロシア「ウサーヂバ的ランドシャフト」 二つのウサーヂバの存在はきわめて貴重である。 優れた生活人としてプライヴェートを貫き通したアンドレイ・ボロトフは,ウサ ーヂバというロシア的時空間に関する文化的記憶を今に鮮明に伝えてくれる。 注 1.「余暇 досуг」をめぐる諸問題の重要性は,近年のロシア文化史研究において流行の感 がある(『余暇の神話学』をはじめとしてロシア余暇文化史を構想する Н. А. フレノフの ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 53 一連の仕事を参照,Хренов (1988))が,やはり,セルゲイ・アヴェリンツェフ,ミハイ ル・バフチン,ユーリイ・ロトマンらによるソビエト期の仕事が基調にある。18 世紀言 語文化史を新たな視点から構築しようとする В. М. ジヴォフ論文は,досуг というターム にこだわりながら 18 世紀後半の「余暇文化」に関する重要な指摘を含む(Живов, 2004) 。 日本語では,山田(1995)の論考が貴重である。 2.ロシア的土壌からすれば,西欧社会におけるディシプリンのジャンル区分との差異とロ シア的特性そのものが問題化されるべきであり,例えば,「百科全書」がロシアではなぜ 作られなかったのか,の意味は考えられてよい。 3.ラエフによれば graphomania(Raeff, 1973:ⅲ),言うなれば「書き中毒症」。ただし, 記述(文字)文化史の視点から見て,18 世紀以前が宗教的ならびに公的なもののみを文 字化していたのに対して,特に 18 世紀半ば以降,記述のモチベーションが爆発的に「解 放=世俗化」され,すべてのモノとコト,自身の心象風景が記されていったことを考えれ ばボロトフは例外ではなく,「時代の病」によるものだった。 4.以下のボロトフ一族の歴史ならびに郷里の村・地域の歴史については,Бердышев (1988а), Щепкина(1890)による。Болотов を発音する際,力点位置を第一音節か第二 音節のどちらにおくか,それに対応していかに表記するか(ロシア語には長母音がないが, 日本語表記では多くの場合,音引きを使用することから,ボーロトフ,ボロートフとな る)に関しては,生涯をボロトフ研究に捧げたベルドィシェフが可能な限りの多くの文献 や子孫たちの発言・記録を参照し,かつては Бoлóтов とされた(呼びならわされていた) が,現 代 で は Бóлотов と な っ た こ と,そ の 理 由 に つ い て 記 し て い る(Бердышев, 1988a:19︲23)。彼自身は現行のボーロトフを採用するが,本稿ではボロトフとする。 5.革命前の歴史家シチェプキナによれば,1578︲79 年の課税台帳に地主のボロトフ 5 家族 の名前が見出され,その中でテシロフスキイに住んでいた家族がアンドレイ・ボロトフの 先祖であるという(Щепкина, 1890:2︲3)。なお,彼女によれば,ボロトフの祖先は中 世ロシアの典型的な小士族 боярские дети というが,確実な根拠は書かれていない。 6.Болотов(1870:Т. 1, 5). 7.Бердышев(1988а:31︲35). 8.Щепкина(1890:61︲62);Биография Болотова(1838:183︲184) . 父親の死後に息子 が開封した荷物箱には,未刊の翻訳原稿の他,多数の書籍が収められていたという。父チ モフェィの息子に対する熱心な教育ぶりに関しては,Dukes(1967:24︲25, 28︲29) . 9.個人経営による貴族子弟のための有料教育施設。Щепкина (1890:84)を参照。ペテ ルブルグでは 1749︲50 年に次々に開校され,ドイツ人,フランス人により経営された。 1780 年には 23 を数えた(Санкт-Петербург. Энциклопедия. СПб., 2004. С. 639) 。 10.1742 年に中尉の年俸 300 ルーブリ,1748 年の大尉年給 360 ルーブリという記述がある (Смилянская, 1998:7, 9)。 11.Болотов(1993а:Т. 1, 75). 12.1737 年時点で,農奴 20 人以下の地主数は全体の 59%,21︲100 人 32%,101︲500 人 9% (Дворянская, 2001:38) 。1777 年には,同 59%(41000 人) ,25%(18000 人) ,16%(11000 人) (Миронов, 1999:90)で全体比率に時代による大きな変化はない。 13.「手記」の記載による。ただし,Бердышев(1988а:65︲67)によれば 1754 年という。 54 言語文化 Vol. 50 14.池内紀氏の近著『消えた国 追われた人々』 (2013,みすず書房)を参照。ボロトフ 「手記」の記述にこの町の当時の歴史を見ようとする仕事は多い。例えば,Кретинин (1996) ;Губин и Строкин(сост., 1990) 。Newlin(2001:22)は,ボロトフが大学でカン トを目にした可能性を指摘するが,「手記」にその記述はなく,ボロトフの観察眼と「記 述マニア」ぶりからすればその可能性はない。 15.Болотов (1993а:Т. 1, 466). 彼 の 本 の 収 集,蔵 書 と そ の 後 の 行 方 に 関 し て は, Глаголева (1987)に詳しい。「手記」によれば,1782,1787 年の二度の家の火事で蔵書 の多くが消失したが,晩年には 3000 点を越えたという。彼の死後,蔵書は子孫たちが所 有していたが,多くが散逸,一部がロシア帝室公共図書館(現ロシア国立図書館)へ売却 された(同図書館に現在収蔵され,彼の所有が判明しているのは 43 点)。この他,現在, 彼の蔵書はモスクワ,ペテルブルグの複数の図書館,ドヴォリャニノヴォのボロトフ・ウ サーヂバ=ミュジアムに保存されている。 16.彼の子ども時代からの読書については,Хотеев(1989) , Глаголева(1988) 。愛読書の 一つであるフェネロン『テレマークの冒険』は息子パーヴェルにも勧められ,パーヴェル はロシア語訳を読んだ。同作品は 1747 年に最初のロシア語訳が刊行されたが,彼が手に したのは 1786 年に出たザハロフ訳とされる(Козлов, 2006:256) 。 17.Болотов(1993а:Т. 2, 160). 18.De Madariaga(1981:89). 19.Болотов(1870:Т. 1, 131︲132). もっとも,喜び勇んで帰郷したのがボロトフだけでは なかったことは,「貴族自由令」に関する秀逸な研究を発表した И. В. ファイゾヴァのモ ノグラフに読める(Фаизова, 1999:120, 122︲23) 。 20.Щепкина (1890:90︲94). ボロトフ晩年に関する孫の回想によれば,ボロトフ所有の 農奴は 109 人,その中で農民 52 人,川向こうのドヴォリャニノヴォ 3 世帯,そこから 4 露里のボロトヴォ 4 世帯,6 露里の距離にあるトレイノ 6 世帯(Болотов, М. П., 1873: 746)。 21.ボロトフ旧宅の建設時期は正確には確定できないとしても,18 世紀以前であることは 間違いない。とすれば,18 世紀に貴族屋敷が続々と新築,改築され,さらに「貴族自由 令」公布による地主たちの「郷里へのユーターン」現象も手伝って,文字通りの建設ブー ムが到来する背景の中でボロトフの新旧ウサーヂバを捉える必要がある。以下の注 27 も 参照。また,18 世紀以前のウサーヂバの生活ぶりの詳細な観察記録として,チモフェ イ・テクチエフが編纂した「家政指南」(1754︲57)はボロトフの記事との比較としても貴 重な資料となる(Смилянская, 1998)。 22.彼は,自身の知的興味を妻と共有したいとの期待が裏切られ,むしろ読書好きで庭の手 入れに多大な興味を抱く妻の母親と共感が得られたことを「手記」に記している。誕生し た順に子どもの名前をあげると,ドミトリイ(1766 年,6 カ月足らずで死去),エリザヴ ェータ(1767︲1820 年代),ステパン(1768︲1773) ,パーヴェル(1771︲1850) ,アナスタ シヤ(1773︲1820),オリガ(1775︲1820 年代),アレクサンドラ(1777︲78) ,エカテリー ナ(1778︲18??),ヴァルヴァーラ(1781︲82)。三人生まれた男の子の中で成人したのは パーヴェルのみであったことから,この実質上の一人息子は父親アンドレイの寵愛を受け て育ち,雑誌編集や新聞記事の切り抜き等々で父親をサポートする一方,音楽や絵画等の 分野で才能を開花させた(ロシア音楽史上の彼の仕事の意義については,Дружинин ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 55 (1927)が詳しい。そこで扱われている資料は彼の未刊の「日誌」である)。ちなみに,作 家・文献学者で文部大臣アレクサンドル・シシコフ,作家アレクサンドル・フヴォストフ, 詩人フョードル・チュチェフ,作家ニコライ・レスコフは遠縁にあたる。 23.この協会の概要に関しては,ロシア語では,何よりも Орешкин (1963)が今なお価値 あるモノグラフであるが,ボロトフ研究者として知られる Бердышев (1969)も参考に なる。最新の研究である Leckey (2011)は,ずば抜けた情報量と分析に抜きん出るだけ でなく,ボロトフに対しても十分な目配りがなされている。日本語では,山本(1965: 1967)が参考になる。ボロトフへの言及も見られる。 24.Болотов(1766:127︲291). 25.特に有名なのは,彼によるジャガイモ栽培の奨励であろう。ただし,これは自由経済協 会の方針に従ったためである。彼の論文「ジャガイモに関する注釈」 (1769)がロシアで 最初のジャガイモに関する学術論文とされることが多いが,これは誤りである(1758 年 に「地のリンゴの栽培について」がすでに発表されているという(Бердышев, 1988а: 16)) 。ボロトフ論文の紹介と検討は,Бердышев(1988б:71︲79)にある。 26.Leckey(2011:132). 27.18 世紀以前に建てられていた家屋敷が 18 世紀半ば以降(特に 1762 年「貴族自由令」 公布後)に改築・新築されていく過程は,ロシア建築史研究のみならずロシア文化史全体 にとって大きなテーマとなることは想像に難くない。したがって,ボロトフの「手記」 (部屋図面も含めて)が貴重な資料となることは Байбурова (1980:142︲149) , Евсина (1985:164︲165)に明らかである(特に,後者(「同時代人の理解における 18 世紀後半 ︲19 世紀初頭ロシアの都市とウサーヂバ」の章)は,18 世紀後半にブームとなったウサー ヂバ建設をめぐる法規制も含めた文化的諸問題が叙述されており,きわめて参考になる。 また,建築学の視点から見たボロトフ屋敷をめぐる最近の研究として Тулупов (2000) がある。 28.Филиппова(2011:15). 29.Артемьева(2005:159︲166). 30.キヤソヴォ(現在はモスクワ県セルプホフ郡にある)は 18 世紀初頭に大膳職 Ф. В. ナ ウモフのウサーヂバとして作られ,続いて息子,さらに娘が所有,1774 年に皇帝領とな った。その後,19 世紀半ばまで県貴族会長 Л. Н. ガガーリンが所有した。18 世紀前半の 主館は存在しないが,カザン教会(1710)と柵(19 世紀)が現存する(Чижков, 2006: 201) 。 31.Козлов(2006:60︲61 その他). 32.ボゴロヂツクの宮殿とパークの再建は,第二次世界大戦後,町の世論昂揚と復興キャン ペーンの中で町執行委員会が改修委員会を作り,歴史・文化記念物保護全ロシア協会の全 面的支援と多くの協力者のヴォランタリー活動によって行われた。現在は「宮殿ミュジア ムとパーク」としてほぼ完成し,パーク修復が続けられている。 33.スタロフについては,網羅的成果である Воронов(2008)を参照した。スタロフならび にボロトフによるボゴロヂツク建造に関しては,同書 стр. 140︲149 に詳しい。なお,ア ナニインは 1771 年からモスクワの養育院建設に携わった人物である。 34.Филиппова (2011:17︲21). ランドシャフト建築家らしく彼女は,ボゴロヂツク庭園 56 言語文化 Vol. 50 の特に注目すべき 7 つの要素をあげて分析を試みている。 35.ボロトフによる 72 項目からなるボゴロヂツク建築計画書(未刊)は Болотов (1783) によって読めるようになった。 36.「手記」には「ヒルシュフェルトの庭園の本(複数) 」としか記されていない(Болотов, 1870︲73:Т. 3, 1;Т. 4, 65)。ただし,ボゴロヂツク造営開始時点でボロトフは,ヒル シュフェルトの庭園論の主著『庭園芸術の理論』(全 5 巻,1779︲85)を読むことができな かった。ボロトフの蔵書リスト(注 15 を参照)に見えるヒルシュフェルトの著作は, Das Landleben. Bern, 1767;Ammerkungen über die Landhaüser und das Gartenkunst. Leipzig, 1773 であり(Глаголева, 1987:86) ,おそらくこれらを参照したと思われる。 後に上記主著を読み,そこにある諸外国庭園の記述を翻訳したことになる(掲載は,「経 営雑誌」1786 年第 25 部)。ヒルシュフェルトに関しては,日本語では,赤坂信「ドイツ 国土美化の研究」「千葉大造園学報」第 4 号(1991)pp. 290︲295 を参照。また,彼の主著 Theorie der Gartenkunst(1777︲1782)の英訳版として,Hirschfeld C. C. L.(2001)を参 考にした。 37.Любченко(1985:88). 38.Е. П. シシューキナの博士候補論文(刊行は 2007 年だが,合格は 1952 年!)は,ソビ エト期においてロシア庭園・ウサーヂバ研究が健在であったことの大きな証明である。彼 女は,18 世紀末の庭園とパーク芸術が時代の社会的志向と美的探究をこれほど多面的か つ鮮明に反映した分野は他にないとする。この時期のウサーヂバ庭園・パーク文化の全体 像を,具体的な建築・庭園学の調査を踏まえながらも幅広い芸術・思想文化への目配りの 中で明らかにした仕事は他に例がなく,今なお価値を失わない(Щукина, 2007) 。次注 にあげるリハチョフの仕事がその研究伝統を基層レベルで継承したと言えるかもしれない。 39.ボゴロヂツクの庭園に対するボロトフの考えは Д. С. リハチョフの著書(Лихачев, 日 本語訳 1987:239︲243)に紹介されている。さらに,彼はボロトフの時代の庭園文化を通 じて「新しさの発見」 ― 個人の趣味の発展,自然における人間の感覚の表現,自然と人 間の個性の融合 ― が行われたとする。ただし,イギリス文化に通じた彼は「イギリス式 風景庭園」というタームを使用しない。 40.Любченко (1984:99). 女帝へ謹呈された画帖は発見されていない。この時,15 歳に なるボロトフの息子パーヴェルが,女帝のトゥーラ行幸(1787 年 6 月 20︲20 日)前後の 様子を詳細に記している。彼が一年間,毎日記した日誌「1787 年卓上カレンダー」によ れば,トゥーラ県知事がボロトフ父子に対し,ボゴロヂツクの宮殿,庭園のスケッチ 20 点を描くよう命じたという。もっとも,それ以前(1784 年段階)からボロトフ親子がボ ゴロヂツクをスケッチしていたことは「手記」に読める。したがって,庭園造営と視覚化 とが並行して進められたと考えられ,絵画に描かれたボゴロヂツクの景観がこの当時のピ クチャレスク,パノラマについて考える上で最適の素材となるはずである。18︲19 世紀ロ シアにおけるピクチャレスク概念については,鳥山(2000;2005)を参照,ここにはボロ トフの庭園論への言及もある。ロシア風景画史上のボロトフ風景画の位置に関しては, Федоров-Давыдов (1986)を参照,また,絵画に描かれたウサーヂバを概観した Гренок(1997),ウサーヂバの写真の古絵葉書を収録した Слюнькова(ред., 2003)には,と もにボゴロヂツクが取り上げられている。息子パーヴェルは詩人ジュコフスキイに絵の手 ほどきをしたことで知られ,曾孫ドミトリイ(1837︲1907)も肖像画家として活躍,美術 ロシア貴族屋敷(ウサーヂバ)のエンサイクロペディスト…… 57 アカデミー会員になった(1876)。 41.Козлов(2006:92). 42.公演には,息子パーヴェルだけでなくアンドレイも出演した。これらの戯曲作品は, Болотов(1993)で読むことができる。子ども劇場の活動の全体に関しては,Привалова (1958)に詳しい。 43.ボロトフがこれらの著作(書きかえも含めて)を子どもたちも含め家族に読み聞かせて いたことが息子パーヴェルの「日誌」に書かれている(1787 年 1 月 14,18,19,21,23, 28 日 等)。朗 読 は,ア ン ド レ イ 自 身 の 書 斎 で,朝 晩,あ る い は 夜 遅 く ま で 行 わ れ た (Козлов, 2006)。また,近年,ボロトフの宗教・哲学・道徳的著作についての研究が多い (例えば,Щеблыгина, 1996а;1996б;1999) 。著作は,Козлов, Емельянов, сост., 1990 で読める。 44.定期講読者として,ヴラドィギン,ヴォエイコフ,有名な企業家デミドフらの名前が見 られる。 45.Болотов (1870︲73:Т. 3, 858). ボロトフ自身はフリーメイソンの考え方を受け入れな かったが,二人の友情がノヴィコフの死まで継続したことは 1815 年の書簡により分かる。 また,詩人アレクサンドル・ブロークが学生時代に書いた「ノヴィコフとボロトフ」 (1904)も参照。 46.Ронский (1931:LXVI). ボロトフがこの雑誌に書いた記事は庭園論も含めて 4 千点を 越えるという(Козлов, 2006:256)。 47.Болотов (1900)は,リンゴとナシ 640 種の詳細なスケッチ付の記述(全 8 巻,1797︲ 1801)の簡略版である。ボロトフのトマト栽培については,小林(2001)に言及がある。 48.Бердышев (1984а, 8︲9)によれば,ボロトフの活動は A. D. テーア,A. ヤング,J. V. リービッヒらの近代西欧農学の流れに劣らぬものであり,例えば,近代の合理的農業・農 学の「祖」となるテーアの仕事よりも先行していたという。この点のさらなる検証は専門 家の今後の大きなテーマであろう。西欧の農学思想史については,とりあえず,祖田 (2013)を参照した。 49.Болотов(1803). 50.Болотов(1875). 51.Любченко(1984б:94). 52.Болотов М. П.(1873:741︲742). 53.革命前の著名な文学史家 С. А. ヴェンゲーロフは,ボロトフが書き残した文章全体が 「通常のフォーマットで 350 巻にのぼる」と算定するが,その根拠は記されていない。ボ ロトフのアーカイヴ(著作原稿,日記,息子との往復書簡等々)は,РНБ, БАН, ИРЛИ, РГБ, ЦГИА, ГИМ 等に収蔵されている(Глаголева, 1987:80) 。 54.ここでボロトフに関する研究史を述べる紙幅はないが,概観すれば,1)19 世紀半ば― 後半の「手記」刊行,2)1920︲30 年代の「文学史的」関心,3)1940 年代に始まるベルド ィシェフの農学史的関心ならびに伝記解明(ボロトフを文字通り忘却の淵から救い出した のは彼の一貫した熱意と仕事の賜物である。彼の努力により 1988 年にドヴォリャニノヴ ォにミュジアムが開設された),4)1980 年代の「手記」に対するロシア語史・語彙研究, ならびに郷土・地方史,5)1990 年代以降,ウサーヂバ・パーク・庭園(建築)史的研究, 58 言語文化 Vol. 50 それらと文学研究との統合,さらには宗教・思想史的アプローチ,といった展開を経て現 在に至るが,近年のロシアにおけるボロトフ研究は質量ともめざましいものがある。欧米 では, 「手記」独訳が刊行されている(1990)他,特にアメリカでは,1970 年代に歴史家 M. ラエフ,J. L. ライスがボロトフへ注目し,最近では Newlin (2001)の優れたモノグラ フが刊行されている。 55.「農業雑誌」1838 年 5 号に掲載された(Биография Болотова, 1838) 。 56.1839 年(「祖国の息子」誌),1850︲1854 年(「祖国雑記」誌),1858︲60 年(「読書の文 庫」誌)等。 57.彼は 1870 年に雑誌「ロシアの古事」を発刊し,亡くなる 1892 年までその編集・出版者 だった。彼については,Семенова Г. В. М. И. Семевский и его книга. В кн.: Семевский М. И. Павловск:очерк истории и описание 1777︲1877. СПб., 2011. に詳しい。 『エカテリーナ二世治世下の農民』(全 2 巻,1882︲1901)で知られるヴァシリイ・セメフ スキイは 11 歳年下の弟。 58.「ロシアの古事」誌(1889,1895)に掲載されている。ボロトフは 1821 年まで執筆を続 けたとされる。上述の死後 5 年目に作成された「未刊原稿リスト」に見える自伝構成の 「39 部」という記述は,現行の「手記」29 部の誤植ではなく,本来はボロトフが構想・着 手していた全体規模を示す数字かもしれない。なお,日記原稿は 1828 年までがある。 59.レフ・トルストイは二度(1878,1907)ボロトフの「手記」に言及している。ちなみに, ソビエト時代には,中小規模であれ地主としてのボロトフの農奴制,フランス革命,ロシ ア・ナロードに対する考え方について議論の余地がほとんどなかった。かろうじて,「二 重性」というタームでイデオロギー問題を回避していた(Азадовский, 1958:80) 。 60.狭義の「自伝文学史」としてではなく,「手記」を手がかりとした 18 世紀文学史の再構 築が考えられる。その一つの試みは,18 世紀後半に誕生した「大衆文学」(Ф. エミン, М. コマロフら他)に強い関心を示した 1920︲30 年代の文学研究者の指摘に見られる。ヴ ィクトル・シクロフスキイによるボロトフ「手記」の「脱構築」とでも呼びうる実験的叙 述(Шкловский, 1929)を参照。また,子ども時代の「経験化としての文学」(例えば, ボリス・エイヘンバウムが『若きトルストイ』で叙述した)という観点から見た時,ボロ トフの膨大な「手記」には子ども時代が「書かれていない」という指摘(Newlin, 2001: 218︲19)は重要である。「書かれていない」とは,正確に言えば,「ボロトフは自分が子ど もであった日々を確かに書いたが,子ども時代と議論したとは言えない。彼は子どもの世 界知覚の再創造の試みは決してしなかった」(Watchell, 1990:217)。 61.「全き家」の実現としてのロシア「家政学」の成立という問題を考えるとき,ボロトフ の仕事は再考されてよい(ブルンナー,1974)。 62.Веденин(2004). 参考文献 Азадовский М. 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