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東南アジア諸国における 持続的成長のための諸条件

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東南アジア諸国における 持続的成長のための諸条件
ISSN 1345-5060
東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件
The Institute for Asian Studies
ASIA UNIVERSITY
TOKYO JAPAN
アジア研究所・アジア研究シリーズ№
IAS Asian Research Paper No.82
82
アジア研究所・アジア研究シリーズ No.82
東南アジア諸国における
持続的成長のための諸条件
平成 22・23 年度研究プロジェクト
「東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件」
亜細亜大学アジア研究所
2013年3月
アジア研究所・アジア研究シリーズ82
東南アジア諸国における
持続的成長のための諸条件
平成22・23年度研究プロジェクト
「東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件」
研究代表者 古井 仁
目 次
まえがき 古井 仁 …………………………………………… 1
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
古井 仁 …………………………………………… 3
観光資源の多様化
― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
高山 陽子 …………………………………………… 31
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題
ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
原島 博 …………………………………………… 57
東南アジア諸国における
持続的成長のための諸条件
まえがき 1
ま え が き
研究プロジェクト代表 古 井 仁 東南アジア諸国は、これまで輸出指向の開発戦略に基づき、外資の積極導
入によって工業部門を育成し、輸出主導の経済構造の下で経済開発を行って
きた。その結果、農業部門と工業部門(農村部と都市部)の格差拡大が生じ
たが、堅調な経済成長に支えられて一人当たりの国内総生産は増加し、今日
アセアン主要国では中間所得層の拡大も見受けられる。しかしながら、2008
年のリーマン危機、欧州政府債務危機の後、米国経済、欧州経済が停滞し、
先進国市場という豊かな外需の低迷に加え、相互依存を高めている中国経済
の景気拡大テンポの鈍化によって、総じて足踏み状態にある。外部環境の悪
化を乗り越え、より高い成長軌道に移行するためには、地域統合の推進だけ
ではなく、労働生産性および付加価値率の向上につながる人材育成、イノベー
ション指向の産業基盤構築、個人消費比率の上昇をともなう内需中心の成長
戦略が必要になると考える。これらを実現するための課題を提示するために
亜細亜大学アジア研究所研究プロジェクトとして、平成22、23年度に「東南
アジア諸国における持続的成長のための諸条件」が組織された。本報告書は
その成果である。以下、本報告書の内容を紹介する。
「タイ自動車産業における人材育成」と題する古井論文は、タイ自動車産
業の産業競争力向上をはかる目的から、日本とタイの官民連携によって取り
組まれたタイ自動車産業人材育成事業の効果を分析する。タイローカルサプ
ライヤーの課題を「タイ人による、タイ人に対する、タイ人のための人材育
成」の実施によって解決をはかる同事業における技術移転効果を、パネルデー
タを用いて推定した結果、同事業を利用しているサプライヤーは、未利用サ
プライヤーに比べて労働生産性が向上していることを確認している。
「観光資源の多様化」と題する高山論文は、廃止された監獄を一般公開し
2
観光施設(監獄博物館)として利用する際に問われる、学術性(残虐さの記
憶)と商業性(非日常性)の両立確保について、20世紀初頭ドイツが原型を
築き日本が一時期使用した旧青島監獄と、日本が建設し戦後は戦犯管理所と
して使用された旧撫順監獄を事例して、展示品や展示方法の観点から論じる。
マネキンやパネル、器具のレプリカを多用し、視覚的にアピール力のある展
示方法を指向しているということを見出している。このような展示方法の背
景には中国政府の意向があることを指摘している。
「フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題」と題する原
島論文は、災害発生に対して、国家、地方自治体、市民が有機的に協働して
災害対応にあたることが今日的課題であることを踏まえ、世界的にみて頻繁
に災害が発生するフィリピンにおける地域防災への取り組みを、緊急支援体
制および住民参加の在り方の観点から考察する。1990年から2012年までの自
然災害と被害状況を概観し、災害対策の変化とその特徴を考察した上で、災
害リスクにより貧困が深刻化しないよう配慮された災害リスク軽減管理法の
重要性を強調する。災害対応制度および地域対応システムの確立の背景には、
台風にともなう水害経験があることを、水害により被災した地域への実地調
査に基づいて確認し、同地域における、緊急支援から復興支援の過程での公
私の協働や連携の展開を提示する。
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
3
タイ自動車産業における人材育成
TAHRDP の役割と影響について
古井 仁 Thai Automobile Industry and Human Resource Development
The Purpose and Result of Thai Automobile Human Resource
Development Project
Hitoshi Furui はじめに
本稿は、日本政府と日系企業の手厚い支援の下、タイ自動車業界が取り組
んできたタイ自動車産業人材育成事業(以下、TAHRDP と称す。)の影響を分
析するものである。TAHRDP は、日本とタイの間で締結された JTEPA を契
機に、中小ローカルサプライヤー、中でも日系企業と直接取引していない2
次、3次における人材育成を支援して産業競争力向上につなげる目的から
2005年末に実行計画が策定され、2011年に終了した。
タイに自動車部品のサプライヤーは今日2,
300社程あると推定されている。
1次サプライヤーが600社程、2次、3次サプライヤーが1,
700社程ある。
ローカル中心の2次、3次サプライヤーはおもに末端部品の製造を行ってい
る。しかも日系企業と取引していないサプライヤーは技術指導等をうける機
会が乏しいため、大ロット生産で大量の在庫を抱え非効率な経営を続けてい
る。このような企業は、経営者は従業員教育をおこなう必要性を感じていな
いといわれている。そのため、社内での人材育成は手つかずの状態にあり、
従業員の定着率は悪い。輸入関税撤廃によって輸入部品との競争が激化する
4
と、真っ先に経営危機に陥り廃業に追い込まれると懸念されている。
TAHRDP は、「タイ人による、タイ人に対する、タイ人のための人材育
成」を基本コンセプトにおき、最終目標としてタイ人トレーナーが中小ロー
カルサプライヤーのトレーナーを育成する仕組みを構築することを掲げる。
官民連携の形をとる。日本側は日本政府(経済産業省)
・ジェトロ・JICA
(国際
協力機構)
・JCCB
(バンコク日本人商工会議所)と日系主要メーカー4社(トヨ
タ・日産・ホンダ、デンソー)
、タイ側はタイ政府
(工業省)
・FTI
(タイ工業連
盟)
・TAI(タイ自動車インスティテュート)
・NISD
(タイ労働省技能開発イン
スティテュート)
などが協力する。同事業は次のような分担にもとづいて
2006年からスタートした。トヨタが TPS(トヨタ生産システム)研修、日産が
技能検定試験制度、ホンダが金型製作トレーニング、デンソーがマネジメン
ト&マインド・製造技能研修を担当する。そして各メーカーは研修指導カリ
キュラムを作成し、タイ人マスタートレーナーおよびトレーナーの育成を担
う専門家の派遣を行う。トレーナー候補生を派遣する企業の募集、講座の運
営を TAI が担当する。
TAHRDP の進捗状況・成果を載せた報告書が、2
008年、2009年に出されて
いる。いずれも研修講師陣がまとめたもので、現地人トレーナーとして要求
される知識や技能、教育力に関すること、さらに現地人トレーナー候補者の
取組、パフォーマンスに関することが詳細に記録されている。2回目の報告
書では、現地人マスタートレーナーおよびトレーナーの必要数の達成、タイ
人トレーナー(1次サプライヤー)
による中小2次、3次サプライヤーに対す
る研修、技能検定試験実施に必要な仕組みが整ったことの自己評価が行われ
ていることからも、人材育成事業としての最終目標は一応達成されている
ようである。ただし、同事業の、ローカルサプライヤーのパフォーマンスへ
の貢献に関してはほとんど議論していない。生産効率、経営効率に与えた影
響を探ることは、人材育成支援を通じた技術移転効果の実証という点で貴重
であり、技術移転のチャネルの議論に新たな論点を提供することにもなると
考えられる。本稿では、このような問題意識にもとづき TAHRDP の影響を
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
5
調べていく。
本稿の構成は以下のようになる。TAHRDP の役割と影響について確認する
前に第1節では近年のタイ自動車産業のパフォーマンスを取り上げる。完成
車、主要部品ごとの輸出入動向、国際競争力、日系メーカーにみる現地調達
率を確認する。第2節では TAHRDP の役割について支援内容と実施体制、
進捗状況・成果、主な利用企業の概略を述べる。第3節では TAHRDP の影
響について、TAHRDP を利用している企業と未利用の企業間のパフォーマン
スの差に着目した分析結果を示す。タイローカルサプライヤーの生産性と関
連付けた議論を行い、暫定的な結論を述べる。
第1節 タイ自動車産業のパフォーマンス
(1)輸出入動向と国際競争力
タイ自動車産業(全産業に占める割合は0.
3%、労働人口3,
300万人のうち10
万人を雇用する。)は、生産台数は貨物乗用車(1トンピックアップトラック)
と乗用車を合わせて約165万台(2010年)であった(図1の左)。2015年には250
万台に拡大すると見込まれている。貨物乗用車の生産比率が高いのが特徴的
である。今日、生産台数の半分を輸出しており、貨物乗用車は百数十ヵ国に
輸出されている。乗用車の輸出も2004年頃から拡大し、AFTA(アセアン自由
貿易協定)やそれ以外の自由貿易協定の拡大を背景に輸出の伸びが続いてい
る(図1の右)。
タイ自動車産業の構造は、外資にひじょうに依存した、図2のような状態
にある。企業数で見て組立部門は100%、部品部門は1次サプライヤーのほ
ぼ50%が外資である。外資の中で日系メーカーは最大シェアをもち、生産・
輸出の両面で牽引役を果たしている。タイ自動車産業の発展の方向性は外資
メーカーの戦略に左右されるといっても過言でない。これまで外資はタイを
周辺国への輸出拠点として位置づけた投資を行ってきたが、今後この動きは
新興国市場の興隆を背景に加速化することが期待されるので、引き続き生産、
6
輸出ともに拡大することが見込まれている。
このように順調に発展してきたタイ自動車産業は、国際競争力の面でどれ
だけの力をつけているのであろうか。とくに自動車の競争力を支える部品産
業においてはアセアン各国との比較をするとどのような変化が見られるだろ
うか。以下では国際競争力を中心にタイ自動車産業の現況を確認する。
図1 タイ自動車産業の活動状況
図2 タイ自動車産業の構造(2010年頃)
組立メーカー12社(すべて外資)
1次サプライヤー約600社
(うちローカル資本50%)
2次、3次サプライヤー約1,700社
(ローカル中心)
(出所)TAI 資料に基づき筆者作成。
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
7
自動車産業の国際競争力は、自動車は2003年以降、部品は2001年以降、競
争力向上が見られる(図1の右)。ここでいう国際競争力とは、自動車および
部品の輸出が輸入以上に行われている状態のことである。しかし、自動車、
部品ともに2007年頃をピークに低下しはじめる。自動車よりも部品の低下の
幅が大きい。
部品の国際競争力の低下を主要部品12品目ごとに整理して描いたのが、図
3である。安全シートベルト
(Safety Seat Belt)は唯一、高い国際競争力を維
持している。その他の部品の国際競争力は低下しており、ドライブシャフト
アッシーとディファレンシャルギア
(Drive Axle + Diffrntl)、マ フ ラ ー
(Mufflr)、排気管(Exhaust Pipe)の両部品については低下傾向が著しい。Mufflr,
Exhaust Pipeおよびクラッチ
(Clutches)の輸出競争力はほぼ消滅し、ブレーキ
とサーボブレーキ
(Brakes and Servo-Br)、ドライブシャフトとディファレン
シャルギア(Drive Axle+Diffrntl)およびボディ/アクセサリー(M Vhcl Body
Pts/Acc)は輸入超過に至った。なお、ギアボックス(Gear Boxes)は一貫して輸
入超過にある。
図3 主要部品の国際競争力の推移
8
主要部品の輸出入先はどのような構成になっているであろうか(図4)。輸
入先の上位5カ国は、日本、フィリピン、インドネシア、韓国、ドイツの順
となる。輸出先の上位5カ国は、日本、インドネシア、マレーシア、インド、
南アフリカ共和国の順となる。部品全体で評価して、日本、インドネシアと
の間で補完関係があることが読み取れる。主要部品ごとに評価した場合、日
本、インドネシア以外にも、インド、マレーシア、韓国の間で補完関係があ
ることが読み取れる。
前述の Safety Seat Belt 以外の部品の国際競争力が低下した要因のひとつに
は、輸入先上位5カ国に日本およびアセアン各国が入っていることから、タ
イとこれらの国との間で輸出減または輸入増(および輸出入部品の平均単価
の変化)が生じている可能性が考えられる。この点を確認するために、タイ
と日本、インドネシア、マレーシア、フィリピンとの間での輸出部品全体の
金額および平均単価(輸出額/輸出数量)の推移(2004年∼2010年の8年間)を
見ておく。全体的な傾向として、日本、インドネシア、マレーシア、フィリ
ピンに対して輸出されている部品の平均単価は、2008年をピークに4カ国す
べてに対して低下傾向にある。しかも、リーマンショック後(2008年∼2009
年)
に大幅に減少した輸出額と比べて注目される点は、
2010年の輸出が前年比
130%増、平均単価はほぼゼロ%であった(ただしマレーシアに対する平均単
価は102%増)。このような状況は日本よりもインドネシアとの間で顕著であ
ることもわかった。
2
010年1月、AFTA の現加盟国6ヵ国の間で関税が原則的に撤廃された。
域内で部品の現地調達率が40%を超えると、無関税で輸出が可能となる。こ
のような自由化は域内に進出している外資系企業の生産拠点集約化を促す方
向に働く、と以前からの指摘があった。2
010年の状況が起こった背景には
AFTA の影響がないとはいえない。
以上見てきた部品の輸出入構造の変化を、ここでは輸出品と輸入品の平均
単価の観点から考察してみる(図5)。図5に部品全体の平均単価の価格差
の推移を、図5に主要部品ごとの平均単価の価格差の推移を示した。まず
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
9
図4 主要部品の貿易相手国(上位5カ国)
部品全体の価格差は、2006年以前はタイ製部品の価格上昇によって縮小傾向
にあった。ようやく2006年に1倍を超えたが、しかし2007年以降は1倍を割
り込み、輸入品の平均単価が上回る状況がつづき価格差の拡大傾向が続いて
いる。このような価格差が生じた原因には、自国通貨のバーツ高、部品自体
の付加価値の変化という2つが考えられる。同図からはバーツの対ドル・レー
トは2000年以降、傾向的にバーツ高にあることがわかる。また、タイとの貿
易面での重要性をもとに加重平均して算出される実効為替レート(REER)で
は2005年末までは70前後で推移し、06年から07年にかけて75となりその後は
70後半を維持している。したがって06年以降の平均単価の上昇はバーツ高の
影響によるものと推察される。ただし、07年以降の下落については為替の影
響で説明することはできない。考えられる他の要因は、部品自体の付加価値
の変化、輸出部品の付加価値が一定の下で輸入部品の付加価値が高まったこ
とが考えられる。すなわち、タイ製部品の付加価値向上が順調に行われてい
10
ないのか、あるいは輸入部品の構成に変化が生じているか、2つの原因が考
えられる。
この変化を検証する作業として主要部品ごとの平均単価の差を調べた。価
格差が一律に変化している状況ではないことが見て取れる(図5)。2010年
の時点で見ると、1倍を超えている部品は Road Wheels とエアバッグ(Safety
Airbags With)とバンパー
(Bumpers)、価格差が縮小している部品はサスペン
ション・ショックアブソーバー(Suspensn Shock Absr)とClutchesとGear Boxes
である。しかし価格差の改善ペース(タイ製部品の高付加価値化)は緩慢であ
る。
以上、国際競争力を中心にタイ自動車産業の現況を確認した。車両生産は
順調に拡大しているが、従来の貨物乗用車重視の生産体制から近年乗用車の
生産比率が上昇する傾向にある。FTA の拡大などを背景に輸出も盛んに行わ
れているが、輸出競争力は近年伸び悩んでいる。部品については主要部品ご
との輸出入動向、輸出品と輸入品の価格差で評価すると輸出競争力の低下、
図5 輸出入部品の平均単価の価格差
部品全体
主要部品
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
11
および製品の高度化(高付加価値化)の停滞が起こっている可能性を確認した。
(2)部品の現地調達率の実態
部品産業の発達状況、ローカルサプライヤーの技術レベルを把握する指標
として部品の現地調達率(以下、現調率と称す。)がある。使用部品の何パーセ
ントが現地製のものであるかを表すもので、現調率は一般的に金額ベースで
算出される。タイ政府は現調率を段階的に引き上げる部品国産化規制を課し
てきたので(ただしこの規制は2000年代に入り撤廃された。)、指導的な地位に
ある日系組立メーカーでは車種によるが8
5∼95%に達している。部品メー
カーでは資材等の調達の問題から組立メーカーよりも低い。だが、この値は
過大評価されているとの指摘がある。すなわち、上記の現調率と「真の」現
調率の間に開きがあることが問題視されている。そのため、組立メーカーの
現調率の年々の上昇からローカルサプライヤーの技術レベル向上が起こって
いると理解するのは正しくないという見方がされるようになった。
現調率の乖離問題の具体例を示したのが図6である。これは2007年頃のタ
イ日系一次サプライヤーにおける調達部品の内訳を示したものである。現地
図6 サプライチェーンから見た現地調達率の比較
日本材料
日本部品
日
本
品
(30%)
部品A
部品B
部品C
部品X
部品Y
部品Z
直材費
経費
労務費
現
地
調
達
品
(70%)
見せかけの現地調達
償却費
直材費
経費
労務費
償却費
直材費
日
本
品
(30%)
日
本
由
来
コ
ス
ト
(40%)
現
地
コ
ス
ト
(30%)
真の現地調達
(注)矢印は筆者追記。
(出所)新宅純二郎[2012]にもとづき筆者作成。
12
調達分が70%、日本からの調達分が30%であった(左図)。しかし、現地由来
の資材や労働で作られた部品の調達分は正味30%と、70%から40%乖離して
いることが明らかになった(右図)。ちなみに、日系組立メーカーの場合、現
地調達分90%に対して正味の分は60%と、30%の乖離があった。このような
乖離が生じる原因は、現地製部品の費用構成の中で「日本由来のコスト」と
呼ばれる割合が過半以上になっていることである。すなわち、現地製部品A、
B、C・・・・の費用の中に日本製の部品代や材料費、工作機械の償却費が
溶け込んでいるためである。
これまで自動車メーカーは、タイを中核生産拠点と位置づけグローバル戦
略車の生産を行ってきたが、今日、新興国向けの需要が拡大する中で低価格
帯の小型車へのニーズが高まっていることを重視し、これに向けた積極的な
対応をとり始めている。部品レベルからのコスト削減が必要になっており、
前述した真の現調率を引き上げる対策に乗り出している。サプライヤーでは
現地製の素材に切り替えるための専門部門を現地に設置、組立メーカーで
はローカルサプライヤーが持っている生産設備で製作される部品の使用を前
提に車の設計を行うことなどがある。こういった日系各メーカーの取組は、
結局は、2次、3次ローカルサプライヤーの技術レベル向上を促していくこ
とになるであろう。
第2節 TAHRDP の概略
(1)支援内容と実施体制
TAHRDP は、従来の個別支援事業を引き継いだ形で2006年から始まり、
201
1年に終了した。導入の経緯は本文「はじめに」で述べているので、ここ
では支援内容と実施体制の概略を述べる。同事業の内容は、図7に示したよ
うに、ローカルサプライヤーの抱えている課題に対し、人材育成によって解
決をはかろうとするものである。そして最終的は中小ローカルサプライヤー
が外資系企業のグローバルな生産ネットワークの中に入っていけるだけの実
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
13
力をつけるための人材育成システムを社内に整備してもらうものである。
図7 ローカルサプライヤーの課題と TAHRDP の支援内容
TAHRDP の実施体制、全体構成は図8のようになる。最終目標は「タイ人
による、タイ人に対する、タイ人のための人材育成システム」(タイ人トレー
ナーの育成)を構築することである。同図の中に書き込んである、2つの段
階(フェーズ)を踏んで構築していく。第1フェーズ(2006∼2008年)では1次
サプライヤーのタイ人トレーナー(トレーナーを育成するマスタートレー
ナ ー を 含 む)を 日 本 人 専 門 家 が 育 成 す る(図 中 の「第 1 弾」の 部 分)。第2
フェーズ(2009∼2011年)ではタイ人トレーナーの手によって中小2次、3次
サプライヤーのトレーナーを育成する(図中の「第2弾」の部分)。
「金型(プレス金型)製作」
、
「マネジメン
「TPS」、
「技能検定試験制度」、
ト&マインド・製造技能」の4つの分野でトレーナーの育成を並行的に進
める。第1フェーズにおいてタイ人トレーナーの育成に協力する企業は、ト
ヨタが「TPS」、日産が「技能検定試験制度」
、ホンダが「金型
(プレス金型)
14
製作」、デンソーが「マネジメント&マインド・製造技能」である。それぞ
れの研修の内容については後述する。
ローカルサプライヤーからのトレーナー候補生
(任期は2年)
の募集、ト
レーナーとして認定するために必要な講座(知識教育と実技研修)の運営管理、
施設の提供は、タイ側のカウンターパートナーである TAI が担当する。
TAHRDP は、以上述べたように日系メーカーと TAI の緊密な連携により
運営されていく。
図8 TAHRDP の全体像
(2)研修内容と進捗状況・成果
日系各メーカーの研修内容と進捗状況についてポイントを絞って述べてお
く。まずトヨタが担当する「TPS 研修」についてである。これは、いわゆ
るトヨタ生産システムの基本原理であるジャスト・イン・タイムの在庫管理、
「5S」などを実作業で学んでもらうことを目的に行われている。TPS 研修
はトヨタの仕事をしていなくても自由に利用できる。すでに1
88社が利用し
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
15
ているが、多くの場合、TAHRDP や TAI、取引先からの紹介を通じての申し
込みである。研修が許可された場合、研修を受ける企業にタイ人トレーナー
が派遣され、4カ月かけて当該企業の一部の生産ラインを使った指導が行わ
れる。その際全社的な改革につながるよう、現場の担当者だけでなく、経営
トップ(社長)も参加することが義務付けられている。
研修後、成果が目に見える形で表れている。例えば、仕掛品在庫の33%削
減、作業時間の13%短縮、移動距離の53%低減、生産性の38%向上という他
にも、「仕事が易しくできるようになった」、「仕事が楽になったと感じる」
という従業員からの感想がある。自主的に、まだ改善されていない生産ラ
インの改善に取り組む企業も少なくない。また、TPS 研修の成果として「受
講したことが、日系企業に対する信用となり、取引先を6社も拡大させるこ
とができた」という実利を得た企業もある。さらに、TPS 研修の取り組み
を聞きつけて見学に来る取引先が感激し、導入をはかるという連鎖的効果が
見られる。
次に、日産が担当する「技能検定試験制度」は、タイの既存の国家技能検
定制度(労働・社会福祉省の Department of Skill Development)は業界のニーズ
に対応しきれないとの問題意識から構想されたものといわれる。社内に教育
訓練システム、社内検定制度を持たないサプライヤーが多数存在するという
実情を踏まえ、もの作りの直接作業にかかわる技術・技能を対象にした職種
の検定試験と、直接製造を支える周辺部門に必要な技能を向上させる検定試
験から構成されている。将来的には業界標準を目指す。ただし、同制度は、
TAHRDP が始まる前からの、一部の組立メーカー、サプライヤーに対して実
施されていたTAIによる自動車産業資格制度(2
003年頃)の内容を引き継いで
いる。一例をあげると、4職種5作業(金属プレス加工、プラスチック射出
成形、鋳鉄鍛造、機械加工(旋盤・フライス盤)を対象に3段階のレベルの計
15の作業試験が行われていた。TAHRDP における技能検定試験制度では新た
に電子機器組立、シーケンス制御関係、機械製図(手書きおよび CAD)が追加
され、職種が8まで拡大され合計23の作業試験で行うことになった。さらに
16
第2フェーズの2008年に設備の稼働率安定化に供する保守分野に関する技能
検定が加わった。なお、検定試験実施にあたって必要な研修・試験会場は
NISD が提供する。
第1フェーズにおいて検定試験を担当する現地人トレーナーの育成は指導
員233名、検定員157名であった。試験受験者は400数名であった(以前の技能
検定試験からの累計で見ると約2,
000名を超え、資格取得者は約1,
400名近く
になる)。検定員には検定員養成教育後に「検定員認証」証を授与する。試
験合格者には技能検定合格証を授与する形で運営されている。
技能検定試験制度の整備は着実に前進しているようであるが、期待される
効果、すなわち同制度を利用したサプライヤーの従業員の技能を一定の評価
基準の中で向上させていき、結果的に生産性を引上げることが実現できるか
は、サプライヤー社内における人材育成システムに左右される点に注意する
必要がある。
次に、ホンダが担当する「金型製作」のトレーナー育成は、プレスに関す
る「金型の製造技法を理論と実践を通じて習得する」ことを目的とし、設計
→ CAD/CAM →機械加工→仕上げの順序で研修していく内容で、基礎・仕
上げ専門1・専門2という3段階を踏んで進められた。2
008年に設計・CAD
/CAM・機械加工・仕上げを合わせて1
1名の専門トレーナーが育成された。
最後に、デンソーが担当する「マネジメント&マインド・製造技能研修」
は、前述の研修内容に比べて広範な内容を扱う。平たくいうと「もの作りの
考え方」を学ばせるものといえよう。同研修の全体構成は図9のようにまと
(全社的品質管理)、②仕
められる。マネジメント&マインド研修では① TQM 事の教え方、③人への接し方(人の扱い方)、④働く者の心構えを扱う。TQM
研修では「TQMの基本的な考え方と管理手法を理解し、それを教えることが
できるタイ人トレーナーを育成すること」であったが、2008年の時点で7名
のトレーナーを育成した。仕事の教え方ではタイには職場内での教育機会
(先輩が後輩に教えるといった文化)が乏しいことを鑑みて行われていたが、
5名育成するのに留まった。
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
17
図9 マネジメント&マインド・製造技能研修(デンソー)
人の扱い方ではトレーナーを8名育成し、またトレーナーを育成する役目
であるマスタートレーナーを先の8名のうち5名育成した。これによって、
タイ人マスタートレーナーが軸となりタイ人トレーナーを、タイ人トレー
ナーがトレーニーを研修する自立的サイクルができあがったことになる。最
終的に26名育成した。
製造技能研修では一般・メカ系・電気系を扱う。コースのノウハウおよび指
導ノウハウを提供しエンジニア人材のボトルネックを解消していくことを目
的に行われたが、それぞれの分野でのトレーナーを最終的に21名育成した。
以上述べてきたTAHRDPの進捗状況につき、図10に整理した。
図10 TAHRDP進捗状況の概要
第1フェーズ【マスタートレーナーによるタイ人トレーナーの育成】(416名)
[2006年∼2
008年]
トヨタ「生産システム」:TPS マスタートレーナー7名(タイローカル)、
タイローカル TPS トレーナー44名育成完了
18
日 産「技能検定制度」:レベル1, 2 12科目・299名育成完了(指導員23
3、
検定員157)
ホンダ「金型製作」:26名育成(基礎トレーナー15名、専門トレーナー11
名)完了
デンソー「マネジメント&マインド・製造技能」:9科目・47名育成(マ
ネジメント26名、製造技能21名)完了
第2フェーズ【タイ人トレーナーによる中小企業従業員の育成】(57
, 45名)
[2009年∼2011年]
トヨタ「生産システム」:2次、3次部品企業188社にてTPS 実践
タイ人 TPS トレーナーにより1,
639名のトレーニー育成
日 産「技能検定制度」:受験者 417名 => 合格者282名
12科目(レベル1,2,3)の技能検定制度を整備完了
ホンダ「金型製作」:公開研修 24コース 1,
830名育成
講師を中小企業へ派遣しての、現場研修も実施中
デンソー「マネジメント&マインド・製造技能研修」:10科目(マネジメ
ント&マインド 4科目、製造技能 5科目)18
, 59名育成
(出所)JCCB 自動車部会「タイ自動車産業人材育成事業(TAHRDP)の進
捗状況」(2011年1月更新)にもとづき筆者作成。
(3)利用企業の概略
上記研修にトレーナー候補生(研修生)を出したサプライヤー(日系企業
を含む)および研修を受けたサプライヤーを紹介しておく。まず TPS 研修を
受けた2次、3次サプライヤー188社のうち主な企業を、表1に掲げる。
表1 TPS 研修企業リスト
企業名
Bangkok Metal
Works
Saim Senater
Co., Ltd
資本金
従業員 創業年
(Bath)
3000万
250万
製造品
150 1975 ボディーパーツ
150 1975
所在地
Bangplee-Yai
パイプ材料の加工
Samutprakarn
および溶接加工
Chai Watana
自動車用皮革部品、
Tannery Group
2億2500万 1,
280 1972
Phraeksa
皮革家具
Public Company
Limited.
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
企業名
資本金
従業員 創業年
(Bath)
製造品
Yamasei Thai
Co., Ltd.
7000万
377 1996
Bangkok Poly
Sheet Co., Ltd.
1000万
130 1966 自動車用シート
G.I.F. Engineering
Co., Ltd.
500万
Sangcharon Tools
Center Co., Ltd.
7500万
Fujisah
(THAILAND)
CO., LTD.
1億7000万
340 1992
所在地
パワーステアリング
Pluakdaeng
用等自動車配管部品
Saochingcha
金型製造、プラス
Bangklo
チック製造
300 1989 プレス品
Bangsaothong
234 1998 プレス用金型など
Klongtamru
Bangsue
Atom Manufacturing
Co., Ltd.
1000万
230 1993 金属パイプ
CH. Vatanayont
Ltd., Part.
4000万
110 1967
金型やエンジン部
Klongtoey
品、プレス加工
Thai Auto Tools
& DIE Co., Ltd.
5000万
350 1993
金型設計・製造、
Pathumthani
溶接 ASSYS 治具
Hi-Tech Elastomers
Co., Ltd.
19
1億 2,
000 1997
ゴム部品、プラス
Samutprakarn
チック部品
A.A.A.
Manufacturing
Co., Ltd.
2500万
180 1999
自動車用パイプ部
Samrongnua
品、金属部品
Sunsui Co., Ltd.
4000万
500 1979
自動車用プラス
Samutsakorn
チック部品など
Wisdom Autoparts
Co., Ltd.
1500万
520 1999
自動車用シート用
Chachoengao
鉄鋼部品の製造
Global-Thaixon
Precision Industry 2億2000万
Co., Ltd.
700 1990
旋盤、プレス加工、
Bangpakong
研磨、熱処理
Pacific Rubber
Works Co., Ltd.
2億3000万
400 1940
ゴム部品、プラス
Bangkok
チック部品
Thai Summit
Mitsuba Electric
Manufacturing
Co., Ltd.
6億3000万
ワイパー、パワー
530 1993 ウインドー用モー Chonburi
ターなど
20
企業名
Asia Precision
Co., Ltd.
Chulapat Plastic
Co., Ltd.
Thai Shing Li
Industry Co., Ltd.
Appico Forging
Public Company
Limited
Saimcarton
Packaging
Co., Ltd.
資本金
従業員 創業年
(Bath)
1億8000万
670 1995
700万
70 1992
4000万
製造品
所在地
自動車用の精密金
Chonburi
属加工
プレスチック部品
Samutphrakarn
の製造
ワイヤーハーネス、
179 1994 インジェクション Chacheng Sao
など
5億
600 1991
鍛造、マシニング
Chonburi
加工
450万
180 1992
ダンボール箱の製
Lagkrabang
造
Modern Product
プラスチック部品、
2億5000万 1,
700 2002
Samtprakarn
Industry Co., Ltd.
エアバック製造
Daido Sitipol
Co., Ltd.
C.S. Engineering
Autoparts
CO., LTD.
3億2500万
500万
440 1997
エンジン内チェー
Rayong
ンの製造
120 1989 鍛造部品
I.C.C. International
4億5000万 1,
027 1990 車両用金属部品
Casting Co., Ltd.
K.K.Diecasting
Co., Ltd.
Single Point Parts
(Thailand)
Co., Ltd.
1000万 1,
257 1973
Samutprakarn
Chonburi
二輪車用金属部品
Jomthong
の製造
5000万
HDD 用の金属・プ
280 1997 ラスチック精密部 Singburi
品の製造
Thai
Toyo Rubber
Co., Ltd.
2500万
160 1994 車両用のゴム製品
S.P. Metal Part
Co., Ltd.
1000万
600 1975
Sammitr
Green Power
Co., Ltd.
1億
Samutprakarn
自動車用・家電用
Samutprakarn
部品の製造
CNG(圧縮天然ガ
Bangwa
100 2008 ス)システムの製
Pasijaroen
造
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
企業名
資本金
従業員 創業年
(Bath)
製造品
21
所在地
Shibata
Manufacturing
Co., Ltd.
450万
130 1994
プーリーなど金属
Samutprakarn
部品の製造
Fivestar
Autoparts
Co., Ltd.
100万
220 2003
ステアリングパー
Samutprakarn
ツ
Great Foam
Products
Co., Ltd.
7000万
160 1987
シート用ポリウレ
Chachoengsao
タンフォーム
Kriangkrai
Steel Center
Co., Ltd.
2億5000万
120 1975
鋼板、丸棒鋼材な
Samutprakarn
どの製造
Shin-Ei
Hight Tech
Co., Ltd.
エンジン用、ステ
3000万 3,
000 1995 アリング用アルミ Sungnoen
ダイキャスト部品
P Quality
Machine Parts
Co., Ltd.
1億
エンジンパーツ、
500 2000 コンプレッサーの Samutprakarn
金属部品
Thai Sanei
Co., Ltd.
n. a.
326 1987 金属部品加工
Scan-Inter
Co., Ltd.
30億5000万
Samco Co., Ltd.
7500万
Supavut Industry
Co., LTD.
6億
Thai Asahi Denso
Co., Ltd.
7500万
Thai Metro industry
(1973) Co., ltd.
4000万
Thai techno Plate
Co., ltd.
2000万
500 1989
Chacherngsao
圧縮天然ガス(CNG)
Nonthaburi
の製造
320 1978 金属部品の製造
Samutprakarn
560 2003 プラスチック部品
Chonburi
自動車用・二輪車
194 1997 用スイッチなどの Pluak Daeng
製造
80 1973 チェーンの製造
270 1990
Samutprakarn
製品用プレートの
Phathumthani
製造
(出所)
「がんばるタイの自動車部品企業」
『Info Biz THAILAND』
(第129巻∼第
179巻)
、Nippon Info B にもとづき筆者作成。
22
「プレス金型製作」のトレーナー研修を受けた(研修生派遣)をしたロー
カルサプライヤーは、YMPDD 社、YDM 社の2社あった。
「技能検定試験」を受験したサプライヤー(日系を含む)は104社あった。
なお民間企業の他に、37の大学、22の政府機関からの受験があった。民間企
業のみを記す。
Aisin Clutch Disc, Asia Precision, Auto Advance Material Manufacturing,
Auto Alliance(Thailand), Auto Interior, Bangkok Pacific Steel, Bangkok Spring
Industrial, Century Plastic, CH Radiators, Charoenlap Autopart, Denso(Thailand),
Gold Press Industry, GoldMark Technical Supply, Habour Consulting, Hino Motors
Manufacturing(Thailand), Hitachi Chemical Automotive Products(Thailand),
Hoong Seng Kee Industry, Ingress Auto Ventures, Jindakarnchang, K.H.Matal
Products, K.K. Diecasting, K.P.M.Autopart, Kurashiki Siam Rubber, Kyouei
Precision Device, Microtek tool and die, Mitsui Siam Components, Mprof Limited
partnership, New Somthai Motorwork, NHK Spring, Nissan Power Train
(Thailand), NOK Precision Component(Thailand), O.E.I. Parts, Ogihara
(Thailand), Oriental Copper, Picnic Plast Industrial, Pipattanaphong Karchang.
Part, Plastic Engineering, Power Seal, Press Quality, QSPD Engineering, Quality
Assembly(Thailand), Quality Components, Quality subcontractor, RK. Plastic
Industry, S.S.S. Automotive Industry, Siam Aisin, Siam Kayaba, Siam Motor and
Nissan, Siam Mould&Part, Siam Nissan Automobile, Siam Seneter, SNN Tool &
Die, Sombat Tools & Die Autopressing, Sri Thai Auto Seats Industry, STB Textiles
Industry, Summit Auto Body Industry, Summit Auto Seats Industry, Summit
Electronic Components, Summit Leamchang Auto Body Works, Summit
leamchabang Auto Seats Manufacturing, Summit Steering Wheel, Sunny Tools &
Die, Sunsui, Supavut Industry, T.Krungthai Industry, T.S.Intertech, Taka-TOA, Thai
Arrow Products, Thai Auto Industry, Thai Chanathorn Industry, Thai Heng Foundry
and Machining(Thailand), Thai International Die Marketing, Thai KK Industry,
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
23
Thai Lung Tools&Die, Thai Plastic and Chemicals Public, Thai Radiator
Manufacturing, Thai Rung General Motor, Thai Summit Auto Parts Industry, Thai
Summit Autoparts Industry, Thai Summit Hi-tech Plastic, Thai Summit
Manufacturing, Thai Summit MCI Component, Thai Summit Mold Manufacturing,
Thai Summit R&D Next Technology, Thai Usi, Thai Yamaha Motor, Thai
Chanathorn Industry, Thailand Automotive Institute, Thai-Nichi Institute of
Technology(TNI), Thairung Union Car Public Company Limited, The Siam
nawaloha Foundry, Toyota Gosei(Thailand), Toyoda machinery Work, Toyota
Motor Thailand, UMT International, Union Nifco, Union Plastic Public Company
Limited, Union Solution Technology Tools&Die, Union Stainless Steel Products,
V&R Distribute, V.C.S. Ltd. Partnership, Vicker Pigment, YNP Engineering.
「マネジメント&マインド」のトレーナー研修または研修を受けたサプラ
イヤーにつき企業名、研修生の職種と職位を記す。Bangkok Spring Industrial
(設 計 Senior Engineer)、BKJ Engineer(保 全 Engineer;製 造 Manager)、BSID
(技術 Staff)、Dyna Metal(製造;企画;品保)、Exedy、KAYABA、Kawasaki
Motor Enterprise(製 造 Senior Officer;品 保 Assistant Manager;生 技 Asst.
Manager)、Ladkrabang Tools & Die(設 計 Engineer)、PMK Central Glass, SAB,
Siam Aisin, Siam Calsonic(製造 Engineer)、Siam Furukawa(品保 Engineer;生
技 Asst、Manager;生管 Manager ; TQM Manager)、Siam Piwat、Siam Senater
(環境安全 Section Manager)、Siamsenater、S C H Industry(品保 Manager)、
Somboon Advance Technology(製造 Asst. Manager)、Sriborisuth Industry(品
、Summit Showa Manufacturing
保 Supervisor)、Summit Auto Body(企画 Staff)
(教育 Manager)、Thai Arrow Products(品保 Manager)、Thai Auto Pressparts
(設計 Chief Engineer;製造 Plant Manager)、Thai Hitachi、Thairadiator(品保
Manager)、Thai Steel Cable(製造 Factory Manager)、Thai Summit Autoparts
(品保 Asst. Manager)、Transtron Thailand(生管 Asst. Manager;品保 General
Manager;製造 General Manager;人事 Manager)、TRW Steering & Suspension
24
(品保 Engineer)、Sriborisuth Industry(品保 Mana-ger)であった。
「製造技能(電気系・メカ系、指導法を含む)」のトレーナー研修(研修
生を派遣)を受けたサプライヤー(企業名、研修生の職種・職位)は、
Thai Summit Auto part(Engineer)、Kato Spring(Maintenance)、O. E. I. PART
(Maintenance)、 Siam Calsonic(Maintenance)、 Siam Senator(Engineer)、
Somboon Advance(Maintenance)、Siam Hitachi auto product(Engineer)、Toyota
Boshoku(教育 Supervisor)であった。
第3節 TAHRDP の影響について
(1)研修担当者からの評価
前述の進捗状況によれば、「タイ人による、タイ人に対する、タイ人のた
めの人材育成システム」はうまく機能し現地化されつつあるかのような印象
を受ける。確かにタイ人マスタートレーナー育成のために現地に派遣された
日本人専門家(研修講師)は、タイ人トレーナーに対して好評している。また、
タイ人トレーナーを派遣した企業に対する訪問後の感想として職場環境の改
善やモチベーションアップを指摘している。彼らの見解に従うと、TAHRDP
は初期の目的を達成し、成功裡に完了したと判断してようかもしれない。し
かしながら、本文の冒頭に述べたように経済的効果(人材育成を通じた技術
移転効果としての影響)は、日本人専門家によって確認されていないためど
の程度生じているのかはわからない。本稿は、以下のような設定を設けてこ
の点を議論する。すなわち、同事業を利用したローカルサプライヤーに関し
て生産効率、労働生産性の向上がどの程度実現されたのかを、未利用企業と
の比較によって明示的に表す。
(2)利用企業における生産性向上の測定
TAHRDP は、中小ローカルサプライヤーの抱えている Q
(品質)・C
(コス
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
25
ト)
・D
(納期)上の課題に対し、人材育成を通じて解決をはかるアプローチを
とる。具体的には、生産システムの改善
(TPS 研修)、従業員の意識改革
(マ
ネジメント&マインド・製造技能研修)、個々の製造技能の向上と評価の仕組
みの構築(技能検定試験制度)を促すことである。このような改善・改革が社
内で実現されれば生産性向上という形で表れてくるはずである。
生産性向上の測定は、企業の異質性に注目した分析手法
(異質的企業モデ
ル)を利用して行うことにした。同モデルは、従来のダミー変数を設定して
の推定よりも分析の精度が数段上がるので、同一産業内での企業の選別を行
う場合よく利用される。
生産性を測る観測変数は、従業員1人当たりの出荷額を用いることにした。
ただし、従業員1人当たりの出荷額は、従業員の資本装備率に影響を受ける。
同じ数の従業員により多くの資本設備を割り当てると、労働生産性は高まる
からである。また、資本設備の能力を表す資本生産性にも影響を受ける。そ
のため、労働生産性は企業の収益性や生産効率の実体を表しているとは必ず
しもいえない点に注意する必要がある。ちなみに出荷額の代わりに売上高
を使うと、付加価値化を補足できる。
調査対象になる企業の基本データ(資本金、従業員数、出荷額など)は、
FTI-APIC(タイ工業連盟 自動車部品部会)、TAI の会員企業リストから入手
した。ローカルサプライヤーのうち TAHRDP を利用している企業は前節で
あげた企業の他に数十社追加した。
図11は、ローカルサプライヤーを利用企業、未利用企業にグループ分けを
し、2グループ間の労働生産性の対数分布関数を描いたものである。利用企
業のグループのほうが、未利用企業グループに比べて、重なりはあるものの
全体として高水準の方向に寄った分布をしていることが確認される。した
がって、同事業は人材育成支援を通じてローカルサプライヤーの生産効率に
プラスの影響を与えているといえそうである。
利用すると企業の生産性が上昇するのかを、別の角度から検証を加える。
サプライヤーを、利用の有無で区別し、利用を始めた企業のグループと未利
26
用企業のグループの労働生産性の比率がどのように推移するかを調べてみる。
図1
2にこの結果を示す。TAHRDP の第1フェーズ開始後の2009年時点を起点
として両区分の企業グループの労働生産性の比率は時間の経過とともに拡大
する傾向にあることが読み取れる。もちろん、この労働生産性の比率の差異
が同事業だけによるものであるとはいえないが、プラスの影響を与えていな
いということもいえない。
図11 ローカルサプライヤーの労働生産性分布の相違
確
立
の
密
度
1
2
3
4
5
6
(出所)筆者作成。
図12 TAHRDP 利用と生産性推移
1.5
労
働
生
産
性
の
比
率
1.0
2005
2006
2007
2008
2009
年
(出所)著者作成。
2010
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
27
次に、TAHRDP の内容(ここではTPS研修、技能検定制度、マネジメント
&マインド・製造技能研修の3つ)で分類した場合の、利用企業の労働生産
性への影響を調べる。利用企業の規模や資本集約度(資本- 労働比率)の違
いを多少考慮した上で推定を行った結果、利用企業の生産性の水準自体は、
技能検定試験、マネジメント&マインド・製造技能研修、TPS 研修の間の違
いはあまり見られないが、利用を始めてからの生産性の伸び率については
TPS 研修の利用企業がより大きく表れていることがわかった。後者に関する
結果は、前節で紹介した TPS 研修利用企業からのコメントとおおむね整合的
であるといえる。
(3)若干の議論
前掲の図1
1、図1
2で TAHRDP の影響を表したが、おおむねプラスの影響
を与えていることがわかった。TPS 研修は予想どおり、ローカルサプライ
ヤーの生産性を押し上げる点で有効的であることがわかった。ただし、技能
検定試験とマネジメント&マインド・製造技能研修については利用開始後の
影響は明示的に捉えることは困難であった。測定期間の制約、その他の要因
(社内教育訓練の整備状況など)との関係で本来の機能が働かなかったのでは
ないかと考えられる。というのは、これら2つの研修は、従業員の意識改革
や製造技能の向上に貢献する内容であるため、変化が現れるまでに時間を要
するからである。また他に、従業員の意識改革や製造技能の向上は企業内の
教育訓練または技能形成システムと結び付いて表れるため、研修を受けた企
業の社内での取組に左右されることも考えられるからである。このような点
を考慮すると、TAHRDP の影響範囲を拡げていくためには研修後のフォロー
アップを定期的に行う仕組みを設けることも必要ではないだろうか。
むすび
本稿は、タイ自動車産業における「タイ人による、タイ人に対する、タイ
28
人のための人材育成システム」の構築を目的に立ち上げられた TAHRDP につ
いて取り上げ、人材育成支援を通じたローカルサプライヤーの生産性への影
響について検討してきた。日タイ官民連携の下で、タイ人マスタートレー
ナーおよびトレーナーの育成、技能形成に供する技能検定制度の構築が2006
年から始まり、
2011年に計画通りの目標を達成し終了した。タイ人トレーナー
を4
00名程、タイ人トレーナーによる中小サプライヤーのトレーナーを5,
700
名程育成、100数社からの技能検定試験の利用があった。
以上の人材育成面での成果が TAHRDP を利用した企業のパフォーマンス
に与えた影響を探るために、利用企業と未利用企業間の違いを分析した結果、
労働生産性に関して利用企業のほうが上回っていることを確認した。また、
労働生産性の違いがいつ頃から生じているかを確認するために利用企業と未
利用企業の労働生産性の比率の推移を TAHRDP と関連づけて調べた結果、第
2フェーズ開始時点を起点として労働生産性の比率は時間の経過とともに拡
大していることを確認した。以上は測定期間の制約等から暫定的な結果では
あるが、人材育成支援による、ローカルサプライヤーにもたらした技術移転
効果を把握することができたのではないかと考える。ただし、TAHRDP の影
響について、研修ごとの違いを明らかにしているわけではない。この点を把
握するためには、TAHRDP 利用企業内部の人材育成上の取組状況にまで踏み
込んだ調査を行うことが必要になる。この点は今後の課題の一つといえる。
TAHRDP は今後、タイ自動車産業の発展に必要な人材育成を行う制度的な
インフラの一つとして機能していくことが期待されている。そこで、本事業
の影響範囲を拡げていく上で必要となる施策をあげると、まずは利用企業に
対する研修後のフォローアップを定期的に行う仕組みを設けることがある。
また、本文では言及していなかったが、今後日本からの公式的な支援なしに
タイ側の TAI が核となって自立運営をしていくことになることを鑑みると、
タイ政府は TAI がリーダーシップを発揮できるような人的、資金面での体制
を確立することも重要な施策となる。以上は本事業継続化の課題としても指
摘される内容である。
タイ自動車産業における人材育成 TAHRDP の役割と影響について
29
注
品目別に分類したサプライヤー数(うちタイ資本51%以上)は、エンジン部品63
(28)社、電子部品52
(25)社、変速機・駆伝動部品52
(23)社、サスペンション・ブ
レーキ3
5
(14)社、車体部品1
21
(74)社、アクセサリー3
9
(19)社、その他3
49
(238)
社となる。TAI 資料にもとづく。
ジェトロ・バンコクセンター作成の資料にもとづく。
ジェトロ・バンコクセンター作成の資料にもとづく。
筆者による訪問調査
(2010年8月)先の日系の駆動系一次サプライヤーでは「カス
タマーセンター」と称する部門を社内に新設している。現地製の素材に対する試
験評価などを行うためである。
タイ自動車産業における技能検定制度を扱った文献として高橋・黒川[2003a、
2003b]がある。技能検定制度には、技能者側のメリットとして技能の向上・能
力の証明・目標の設定、企業側は生産性向上・組織活性化・従業員採用コストの
低下があることをあげている。
自動車産業における人材育成を詳細に記述した文献として日本労働研究機構編
[1996]をあげておく。本文献は、デンソーによる「マネジメント&マインド・製
造技能」研修への理解を深める上で有益である。
TPS 研修の内容および利用企業については運営担当者へのヒアリングにもとづく。
「インフォ・ビズ・タイランド」の特集記事にもとづく。
「インフォ・ビズ・タイランド」の特集記事にもとづく。
技能検定制度の担当者へのヒアリングにもとづく。
ジェトロ・バンコクセンター作成の資料にもとづく。
研修担当者へのヒアリングにもとづく。
研修担当者へのヒアリングにもとづく。
全要素生産性(TFP)を用いるとこの問題は回避できる。しかし TFP 測定に必要な
データの入手困難性から労働生産性を用いる。
30
参考文献
日本労働研究機構編『自動車企業の労働と人材育成』日本労働研究機構、1996年。
新宅純二郎「日本企業の海外生産が日本経済に与える影響―海外生産における付加価
値分析―」『第19回全国大会報告要旨』(国際ビジネス研究学会)、15∼20ページ、
2012年。
末廣 昭『キャッチアップ型工業化論』名古屋大学出版会、2000年。
高橋与志、黒川基裕「タイ国自動車産業における技能検定制度の課題と展望」
『産業
教育学研究』第33巻第1号、86∼93ページ、2003年[2003a]。
高橋与志、黒川基裕「タイ日系自動車企業における教育訓練体系:技術移転の方法論
としての視点を中心に」
『国際開発学会』第1
2巻第1号、1
15∼129ページ、2
003
年[2003b]。
「がんばるタイの自動車部品企業」
『Info Biz THAILAND』、Nippon Info B Co., LTD。
経済産業省編「タイ自動車産業人材育成事業 専門家報告書」経済産業省、1
999年。
経済産業省編「タイ自動車産業人材育成事業 専門家報告書」経済産業省、1
998年。
『週刊タイ経済』(THAI KEIZAI PUBLISHING CO., LTD)
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
31
観光資源の多様化
― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
高山 陽子 Diversification of Tourist Resources:
a Case Study of Fushun Prison and Qingdao Prison in China
Yoko Takayama 第1節 問題の所在
監獄が舞台となった映画は多い1。『大脱走』(The Great Escape、
1963年)は、
第二次世界大戦中にドイツの収容所に収監された連合軍の捕虜たちが脱走す
るまでを描き、
『ハノイ・ヒルトン』
(The Hanoi Hilton、
1987年)は、ハノイ・ヒ
ルトンやメゾン・サントラル
(Maison Centrale)と呼ばれたハノイのホアロー
収容所(Hoa Lo Prison)におけるアメリカ兵の話である。19世紀後半、インド
シナ植民地政府は反植民地主義者を監禁するために監獄を建設した。1896年
2。
に竣工したホアロー収容所はその中でも最大級のものであった
(写真1)
『ザ・ロック』(The Rock、
1996年)では、アルカトラズ刑務所を案内している
レンジャーが「今日はレンジャー・ボブが皆さんを一時的にアルカトラズの
囚人に変えます」と言って観光客を監房の中に入れた後、テロリストに刑務
所が占拠されるのが事件の始まりである。『バルトの楽園』(2006年)は、第
一次世界大戦勃発後、徳島の坂東に連行されたドイツ兵と地元の日本人の交
流を描いた。この映画の舞台となった坂東俘虜収容所は、四国八十八箇所の
一番札所霊山寺の近くであり、映画にも札所が登場する。現在では収容所は
32
写真1 ホアロー収容所
なく、跡地に慰霊碑のみが残っている。
『網走番外地』シリーズで知られる網走監獄(1
922年より網走刑務所と改
名)
の建物は、天保山に移築され、1983年に博物館網走監獄として一般公開
された3。網走という立地条件にも関わらず多くの見学客が訪れ、2008年5
月には入場者数通算1000万人を越えた。本州から網走監獄を訪れる修学旅行
4。天保山の博物
生は、近代的な監獄制度と人権について学ぶという(写真2)
館網走監獄では、かつての使用された五翼放射状舎房や教誨堂などが有形文
化財として登録されているほか、1977年、愛知の博物館明治村に中央見張所
写真2 博物館網走監獄
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
33
写真3 中央見張所
が移築された。明治の建物が多数移築されている博物館明治村には金沢監獄
の正門(1907年建設)、前橋監獄雑居房(1888年建設)がある(写真3)。和洋折
衷の前橋十字放射型の舎房は江戸時代以来の牢屋の形式を留めている。一方、
赤レンガ造りの金沢監獄の正門は当時、流行した建築様式を示している。
博物館として一般公開された監獄は、残虐性などの負の歴史を学ぶ場所で
あると当時に、見学者の恐怖心と好奇心を大きく刺激する場所でもある。監
獄観光は20世紀初頭にはすでにタスマニア島のポート・アーサーで行われて
いた。流刑地であったオーストラリアに建設された監獄の中でもポート・アー
サーは最大級の監獄あり、1830年代に建設され、1877年に閉鎖された。19世
紀に建設された監獄は20世紀に閉鎖され、そのうちのいくつかは博物館とし
て保存され、一般公開されている。この監獄見学は、ゴースト・ツアーと呼
ばれ、幽霊が出るという噂が広まった5。
監獄に限らず、人の死や暴力と関わりのある場所への観光はダーク・ツー
リズムと呼ばれている6。日本では広島の原爆ドームや沖縄の南部戦跡がそ
の例として挙げられるが、代表的なダーク・ツーリズムの目的地は、ポーラ
ンドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所である。2011年には入場者
が140万人を超えた。この収容所は、
1947年に国立博物館として一般公開され、
1979年には世界遺産に登録された。ここで展示される大量の人髪の撮影は禁
34
止されているにも関わらず、ひそかに撮影する人は後を絶たない。また、ア
ルカトラズ刑務所を案内するレンジャーが、1969年から71年のアメリカ先住
民によるアルカトラズ占拠事件などの複雑な島の歴史を観光客に丹念に説明
しようとしても、ハリウッドが作り出した「ロック」のイメージを消費する
かのように、観光客は監房に入って囚人体験をすることを楽しむ。これに対
して、アパルトヘイト体制下で収容されていた人々が解説者をつとめるロベ
ン島では、荘厳な雰囲気を保っている7。
監獄博物館を訪れる見学者は、平和や人権への理解を求められていること
を知っている一方で、映画や小説の舞台となった場所への好奇心も持ってい
る。本稿では監獄博物館が何を展示するのかを検討し、観光化において学術
性と商業性のバランスがどのように保たれているかを、中国の撫順監獄(現、
撫順戦犯管理所)および青島監獄(現、徳国監獄旧址博物館)を取り上げて分析
する8。
第2節 近代化と監獄
フーコーが指摘するように、近代的な監獄制度は19世紀に登場するが、人
を監禁する空間としての監獄は古くから存在していた9。そして、監獄は単
に違反者を監禁する施設であるばかりでなく、植民地において人種差別的な
抑圧の道具としても利用された。アジア諸国において監獄は、近代化および
植民地化の歴史を示すものでもある。なぜならば、日本や中国では治外法権
撤廃のために近代監獄制度が整えられたためである。
江戸時代の牢屋や清代の監獄は、刑務執行のための刑務所(既決監)ではな
く、拘置所(未決監)であった。罰金(財務刑)や自由刑を中心とする近代的刑
法とは異なり、肉刑や生命刑を中心としていたため、既決囚を収容する必要
がなかったのである。中国では各衙門の敷地内に監獄が敷設されていた。す
べて雑居房で、男監と女監に分かれていた。両国の前近代の監獄の環境は劣
悪で、病死するものも多かった。監獄の管理者(中国では禁卒)が囚人を虐待
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
35
することもあったほか、中国では牢頭、日本では牢名主が管理者と協力して
牢内を治めていた10。
不衛生で残虐行為の多い牢屋は、19世紀に日本および中国に滞在していた
欧米人から見ると極めて「野蛮」なものだった。また、幕末から明治初期に
かけて彼らが恐怖を感じたのは、刀を持って襲いかかってくるサムライの姿
や、打ち首や引き回し、獄門などの処刑の風景であった。例えば、明治期に
日本に滞在した漫画家ビゴー(1860∼1927)は、1
898年、「巣鴨外人刑務所訪
問記」を『極東にて』に発表し、巣鴨刑務所の様子を描き、領事裁判権が撤
廃されると外国人でも監禁される危険があると述べている。さらに、
「この
刑務所を見学するため、多くの外国人が東京に出かける」と述べている11。
治外法権撤廃のために西洋的な監獄制度を整えることは日本および中国に
とって急務であった。日本では1872年、最初の監獄法「監獄則並図式」が公
布され、集治監が建設された。集治監は後に監獄と名前を変え、多くの政治
犯を収容した。清末、清朝官僚たちは、こうした日本の監獄制度の視察のた
めに訪日した。清末、司法などの改革が進められる中で、欧米の監獄を模倣
するより、すでに近代的監獄を完成させた日本のものを視察するほうが便利
であると考えられたためである。1910年までに監獄視察のために訪日した人
数は、法律家の沈家本など92名にものぼる。訪問先には巣鴨監獄や市谷監獄、
八重洲町警視庁などが含まれていた12。
法律家の沈家本(1840∼1913)の監獄改革によって、既決監である模範監獄
の建設が進められ、1906年、瀋陽に奉天模倣監獄、1907年、湖北省江夏県に
湖北省模倣監獄、1910年、京師模範監獄が完成した。湖北省模倣監獄には東
京監獄および巣鴨監獄の建築様式が用いられた。1903年には流刑囚および徒
刑囚に対する教育および職業訓練のための犯罪習芸所が建設された。天津や
山西、安徽懐寧などの犯罪習芸所が作られたほか、遊民習芸所や女性犯罪者
習芸所も誕生した。そして、各省の法律学堂や新監獄に人材養成のための監
獄学堂が設けられた。ドイツの監獄学を学んだ小河滋次郎は、京師法律学堂
の教授として招聘され、1910年、『大清監獄律草案』を制定した。この草案
36
では、徒刑監獄、拘留監獄、留置監獄という監獄の種類、管理体制および基
本原則が示された。これは中国で実施されることはなかったが、1
913年の
『中華民国監獄規則』、1946年の『監獄新刑』に影響を与えた13。
こうした監獄改革が辛亥革命で中断した一方で、近代監獄は欧米列強に
よって租界や租借地に建てられていった。イギリスが1844年に香港に建設し
たビクトリア監獄は(Victoria Prison)は最も古い監獄の一つである。また、
1856年、イギリスは上海租界アモイ路に監獄を建設し、1903年、虹口に提藍
橋監獄を完成させた14。帝政ロシアが1902年に建設した旅順監獄は、後に日
本が1945年まで使用し、伊藤博文を殺害した安重根が投獄された15。撫順監
獄は日本が建設した後、1949年以降は戦犯管理所となった。また、南京政府
は重慶に疎開した際、アメリカと共同で監獄兼特務養成施設として白公館を
建設した。ここには共産党員が収容され、1949年11月30日の重慶解放直前に
将軍、楊虎城が殺害された。1961年に出版された小説『紅岩』の舞台となり、
図1 中国地図
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
37
江雪琴(モデルは江竹 筠)と許雲峰(モデルは重慶市委員の許建業)が仲間の裏
切りで逮捕され、狂人を装った老人の案内によって脱出に成功し、人民解放
軍と出会うまでが描かれた。このように監獄はしばしば小説の舞台として登
場する。ベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』
(1987年)では、交互
に登場するグレーの撫順戦犯管理所と色鮮やかな紫禁城の違いが溥儀の境遇
の変化を示している。
上海の提藍橋監獄は提藍橋刑務所として現在も使用されているが、旅順監
獄や撫順監獄、白公館は施設の老朽化や監獄制度の変化に伴って閉鎖され、
博物館として一般公開された。西洋列強によって建設された監獄は植民地支
配の記憶を表すものであり、愛国主義教育において重要な役割を果たす。ド
イツが1900年に建設した青島監獄もその一つであり、現在の青島の特徴と
なっているドイツ風建築は「徳国風情」
(ドイツ風情)をかもし出すとともに、
後に日本が使用した際の残虐性を展示する場にもなっている。
第3節 租借地青島
植民地獲得競争に乗り遅れたドイツは、当時、「眠れる獅子」と呼ばれて
いた中国への進出を狙っていた。ドイツが青島に目をつけたきっかけの一つ
は、地理学者リヒトホーフェン(Ferdinand von Richthohen)が膠州湾の水深と
周辺に存在する炭鉱を理由として港湾植民地としての潜在性を指摘したこと
であった。ドイツはロシアおよびフランスとともに、1895年、日本に下関条
約で得た遼東半島を中国へ返還するように求めた。三国干渉によって日本が
遼東半島を中国へ返還した一方、ロシアは本格的に旅順港建設に着手し、ド
イツは「膠州湾租借条約」に基づいて植民都市、青島の建設に取りかかった。
青島租借の原因となったのは、シュタイラー宣教師団のドイツ人宣教師2名
が山東省巨野県で中国人に殺害された事件であった。1897年11月、ドイツ海
軍少将ディーディリヒス(Otto von Diederichs)の率いるドイツ艦隊は青島を
占拠し、1898年3月6日、
「膠州湾租借条約」を締結した。ドイツは9
9年間
38
の膠州湾および周辺552平方キロメートルの租借権、青島−斉南の鉄道敷設権
および鉱山採掘権、山東における優先権を獲得した16。
ドイツ政府は青島を近代都市として開発するために多額の資金を投入する
ことを決めた。ドイツは、イギリスの植民都市の香港やシンガポール、上海
から様々なことを学んだ。上海では、1842年から1910年の間に土地への投機
により地価が500倍から1000倍になったが、イギリス政府は何の利益を得るこ
ともできなかった。土地の個人所有を避け、ドイツ総督が独占的に土地売買
を行うことができる法律を1898年に定めた。「膠州土地法」の下で、総督府
は土地売買の権利を独占し、土地徴収の優先権を制度化した。土地投機を防
ぐために土地売買に対して売却益の三分の一を地価上昇税として総督府に納
税する制度を定めた17。
ドイツ総督府は1899年、「青島都市建設計画」を策定し、鉄道と港の建設
が始まった。同年、青島最初の駅、大港駅が完成した。1901年、青島駅や膠
州郵便局が建設された(写真4)。青島は、西欧人居住区・商業区、西欧人郊
外居住区、中国人居住区3つの行政区に分けられた。青島駅の東側には青島
区、その北東に中国人居住区の大鮑島区、さらに北東に台東鎮が置かれた
[図2]。青島区にはフリードリッヒ通り(現、中山路)という青島の大通りと
なった。青島駅から東への道路はハインリッヒ皇子通り、駅から海岸方向へ
道路はホーエンツォーレルン通りなどのドイツ名が付けられ、大鮑島区には
李村路や山東路などの中国名が付けられた。1899年10月、ドイツ海軍大臣は
新市街地を青島
(Tsingtau)と名づけた。さらにドイツ総督府は1
910年、「青島
新都市拡張計画」を定め、都市の面積が12平方キロから50平方キロに拡大さ
れた18。当時、青島橋(Tsingtau Brücke)と呼ばれた桟橋は、もともと1891年、
清政府が軍需物資運送のために建設したもので、海軍創始者の李鴻章に桟橋
と命名された。青島ビールのラベルに用いられている回瀾閣は1931年、国民
党政府によって建設された。
ドイツが青島都市計画を実施してから、10年の間に多くの欧風建築が青島
に現れた。現存する代表的なものは、総督府や総督官邸、水兵倶楽部、警察
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
写真4 旧膠州郵便局
図2 青島地図
39
40
写真5 総督官邸
署、総督教会、膠州旅館、天主教会などである。総督府は、海岸から北へ伸
びるヴィルヘルム通り
(現、青島路)
とホーエンローエ通りおよびディーディ
リヒス通りが交差する高台に1906年、建設された。総督官邸は、現在の信号
山(当時のディーディリヒス山)に1907年に竣工した(写真5)。
非中国籍の囚人を収容する青島監獄が建設されたのは1900年、中国籍の囚
人を収容する李村監獄は1904年に建設された。当時の青島では西欧人はドイ
ツの法の下に置かれたが、中国籍の住民は1898年に公布された「華人の法環
境に関する条例」に基づいて裁判が行われた。当時のドイツの刑法では禁止
されていた死刑や終身刑を含む身体刑が中国籍の住民に対して実施された。
また、西欧人は青島裁判所で裁判が行われ、司法と行政の分離の原則が適用
されたが、中国籍の住民の裁判は地区行政官が担当し、司法と行政の分離は
適用されなかった。1900年に公布された「華人条例」では儀礼や集会の制限、
夜間の外出制限、中国語使用の制限などが定められた19。
ドイツの青島都市計画は、第一次世界大戦が勃発すると終了した。ドイツ
兵は日本に連行され20、1914年11月7日に締結された「青島開城規約」によ
り日本にドイツ統治期の施設や文書等が引き渡された。ドイツの統治制度に
倣って青島と李村に軍政署が設置されると、12月1日より青島守備軍の占領
統治が始まった。青島租借地の経営、山東鉄道や鉱山の管理はすべて青島守
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
41
備軍司令官の下に置かれ、憲兵が行政警察および司法警察を担当した。1917
年9月29日、青島守備軍民政部条例が公布され、軍事を除く行政および司法
が民政長官下に置かれた。1914年11月20日より青島への移住が認められ、青
島の日本人人口は1915年1月には4000人だったが、民政期に入ると日本企業
の誘致が進み、紡績やビール、製粉、束後、鶏卵などの企業が青島に進出し、
1919年には青島の日本人人口は14000人に増加した21。
1915年、日本は袁世凱政権に21か条の要求を行い、山東省のドイツのすべ
ての利権を日本に譲渡することを求めた。1919年のパリ講和会議において中
国側の代表が要求した21か条の要求の撤廃は、列強によって否認された。そ
れを知った中国の若者たちは5月4日に天安門広場で大規模なデモを行った。
1922年12月10日、ワシントン会議の「山東還付条約」に基づき日本軍が青島
から撤退した22。
再び日本が青島を占領したのは1938年であった。1
937年8月、青島の徳県
路で日本人兵士が銃殺されたのを口実に、1938年1月10日、日本軍が青島を
占領した。1945年に日本軍が撤退すると、アメリカ海兵隊が青島に上陸した。
1
94
9年、アメリカ軍の基地が置かれていた青島に避難した蒋介石は、別荘が
立ち並ぶ八大関の花石楼に住んだ。青島の中国返還について中国共産党とア
メリカが交渉を続ける中、人民解放軍が西安や上海を制圧し、1949年6月2
日、アメリカ軍が青島から撤退した。人民解放軍が青島に入城し、以後、青
島の社会主義化が進められた23。
第4節 「徳国風情」の登場
ドイツが青島を占領していた期間は十数年であるが、現在の青島を語る上
で「徳国風情」
(ドイツ風情)は欠かせない言葉である24。その一つは、マン
サードの赤い屋根と漆喰の黄色い外壁が特徴のドイツ建造物である。日本は
青島に、一部を除いて当事、流行した帝冠様式の建物を建てることはなかっ
た。日本人建築家たちはギリシア様式やモダンな箱型の建物を多く作った。
42
神社は戦後すぐに撤去されたが、その他の日本人が作った建物は現在でも残
されている。例えば、八大関にある元帥楼は1940年に建設された日本式の洋
館である25。また、同じく八大関に1931年、イギリス領事官邸として建設さ
れた花石楼もドイツ式建築である。
もう一つの「徳国風情」は、青島ビールに表わされる。青島ビールは、
1903年、アングロ・ゲルマン・ビール会社(The Anglo-German Brewery Co. Ltd.)
のイギリスとドイツの商人によってミューラー大尉街(現、登州路56号)にゲ
ルマン・ビール会社青島株式会社として設立され、ドイツビール純粋令に基
づいて麦芽とホップ以外に何も加えないドイツ式のビールを生産した。1914
年に日本が青島を占領すると、青島ビール工場は大日本麦酒会社の工場とな
り、日本人の工場長が赴任し、女工が働くようになった。1949年の青島解放
後には、ビール工場に多くの女子工員が登場し、「青島市三八紅旗手」「山東
省労働模範」といった称号が与えられた26。
2006年から青島では文化財保護のための修復工事が進められている。青島
市政府は、ドイツ総督府に300万元、青島桟橋に150万元、青島監獄に1330万
元を投資し修復した。青島ビール博物館は青島ビールが1500万元かけて建設
したもので、全国重点文物保護単位だけではなく工業遺産にも指定されてい
る(写真6)。
写真6 青島ビール博物館
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
43
写真7 八大関
青島で西洋建造物が保存されている地域は大きく分けると3箇所ある。か
つての欧人区における総督府や警察署、教会などが建てられたかつてのフ
リードリヒ通り(現、中山路)から桟橋への通りを中心とした地域、別荘区で
あった八大関、かつての港湾区の中心部である皇帝通り(現、堂邑路と館陶路)
である。八大関という名前は、8つの通りがあることに由来し、列強諸国が
撤退した後は保養地として使用され、一般公開されているのは、花石楼など
ごくわずかである。屋敷は高い塀で覆われ、門の付近には建物の様式を示す
プレートと観光客立入禁止のプレートが掲げられているところが多い(写真
7)。近年、洋館の前で結婚記念写真を撮影することが流行しており、休日
になると、多くの撮影グループが見られる。
2009年2月、堂邑路から館陶路への約1キロの通りが「青島徳国風情街」
(青
(写真8)
。「○○風情」は中国の観光地でしば
島ドイツ風情通り)
となった27
しば見られる言葉で、大連の「俄羅斯風情街」(ロシア風情街)のように○
○の雰囲気のある場所といった意味で用いられる。館陶路を示す看板が、
Guan Tao Straße とドイツ語で表記されているほか、壁や売店の看板にドイツ
語が記載されている。館陶路には、旧大連汽船青島支社(1927年竣工)と旧証
券取引所(三井幸次郎設計、
1920年竣工)、三菱銀行や三井物産、横浜正金銀
行(長野宇平冶設計、
1919年竣工)などのかつての日本企業の建物が残る(写真
44
写真8 ドイツ風情街
写真9 旧証券取引所
9)
。こうした日本企業の建物も含めて「徳国風情」と呼ばれ、以下のよう
に紹介されている。
1899年に建設が始まった館陶路は、1930年代には青島の金融経済の中心
地となり、青島のウォール街と呼ばれた。館陶路における25の歴史建造物
は現在の建物の71%を占める。その中には、約20万平方メートルのドイツ
式歴史建造物がある28。
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
45
日独戦争で青島を離れていたドイツ人商人は、第一次世界大戦後に青島に
帰還し、1922年以降はロシアやイギリス、アメリカなども青島へ復帰した。
青島の貿易額は他の中国の貿易港と比べると急速に増加し、この繁栄の中で
ドイツ人の文化的な立場は強化された29。
第5節 観光資源としての監獄
監獄は使用されなくなってからすぐに博物館として一般公開されるわけで
はない。博物館化された遺産では、「暴力が排除され、かつて暴力が行使さ
30と指摘されるように、建物が観光資
れていたという痕跡だけが展示される」
源となるまでには、実際に使用されていた期間との間に断絶が必要である。
この冷却期間に監獄では「消毒」作業が行われ、生々しい暴力の記憶が語り
の生成を通して抽象的な記憶へと変わる。それは、撫順監獄では「撫順の奇
跡」や「溥儀の改造」であり、青島監獄では烈士の死であった。
撫順監獄は、1
9
50年から7
5年まで撫順戦犯管理所として使用された後、
図3 撫順戦犯管理所
46
写真10 撫順戦犯管理所
31。2
1986年に一般公開された
[図3]
008年から改修工事が始まり、2
010年6
月にリニューアルオープンした。この際に新たに陳列館として建設されたの
は、改造日本戦犯陳列館と改造末代皇帝専題展である。陳列館が増設される
前、監房における溥儀と満州国大臣らのマネキンは展示されていたものの、
特に大規模なレプリカなどがあったわけではなく、監獄の建物と中国帰還者
連絡会の活動内容が展示の中心であった。2010年に開館した陳列館に入ると、
「人道」「正義」「真理」「和平」の文字が目に入る(写真10)。前言は中国語、
英語、日本語で以下のように書かれている。
撫順戦犯管理所の前進は、日本侵略者が中国愛民を収監するために、
1938
年に建てた撫順監獄であった。新中国建国後の1950年7月から1964年3月
までに、かつて中国侵略の戦争に参加した約1000名の日本人戦犯がここに
収容され、改造された。
毛沢東中国共産党主席また周恩来中華人民共和国政務院(後の国務院)総
理の思いやりある配慮のもと、戦犯改造に携わる職員全員が日本人戦犯改
造に関する党及び国家の政策方針を真剣に実行し、長年にわたる辛抱強い
努力の末、日本人戦犯を罪悪の深い淵から抜け出せた。かつて「鬼」で
あった人間が、侵略戦争に反対し、世界平和を推進する新しい人間へと再
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
47
写真11 監房の溥儀
生し、ここに世界の戦犯管理の歴史における「撫順の奇蹟」を創りだした。
我々は、「まず全人類を解放してはじめて、無産階級自らが解放される」
という中国共産党及び中国政府の度量の広さを示し、日本人戦犯の改造に
成功した歴史経験を伝承し、中日両国人民の世々代々にわたる友好を促進
するために、「日本人戦犯改造の歴史展」を世に問うものである。
撫順監獄は、こうした「撫順の奇跡」や「溥儀の改造」を中心に置いた展
示となっている。展示室では最初に日清戦争(甲午戦争)から柳条湖事変(九一
八事変)、盧溝橋事変、日中戦争までの流れが説明され、東北で活躍した革
命烈士の趙一曼や趙尚志などの紹介があり、撫順戦犯管理所における当時の
日本人収監者の日常生活がレプリカやマネキンを使って展示されている。
様々なメディアで撫順監獄を紹介する写真として使用されるのは、監房の中
で裁縫を学ぶ溥儀のマネキンである(写真11)。
この展示館は全体的に照明が暗く、レプリカやマネキンを多用した展示方
法は現代的な印象を与える。こうした展示方法は他の愛国主義教育基地に指
定されるような烈士記念館や革命博物館などで見られる。愛国主義教育基地
の指定は1997年から始まり、1997年に100箇所、2001年に100箇所、2005年に
66箇所が指定されている。これらの施設が観光地として重視されるのは、
2004
48
写真12 青島監獄
年に公布された「2004∼2010年全国紅色旅游発展規劃綱要」によって「紅色
旅游」
(革命観光)の開発がはじまってからである。1950年代から60年代に建
設された中国共産党に関わる記念館や博物館の改修が全国的に進み、見学者
に対して視覚的にアピール力のある展示方法が取り入れられた。その一つが
レプリカやマネキンの多用である。毛沢東時代の数多く生み出されたスロー
ガンを掲げた新聞記事やポスターだけではなく、記念写真の背景として映え
るような立体的な展示が登場した。
青島監獄にもこうした展示方法が見られる。例えば、ドイツ占領期のドイ
ツ人典獄のマネキンや監房内のドイツ兵の映像、日本軍が使用した拷問器具
のレプリカなどである。1900年、ハインリッヒ皇子通り(現、広西路)に建設
された青島監獄
(現在の住所は常州路2
5号)は2007年4月に一般公開された
(写真12)。公開されている建物は、「仁」「礼」「義」
「智」の名前がつけられ
た監房と当時のドイツ膠澳帝国裁判所である[図4]
。
チケットを購入して最初に見学者が入るのは、裁判所として使用されてい
た青島市司法歴史沿革陳列展である。内部は、ドイツ日本占領期
(1897∼1914)、
第一次日本占領期(1914∼1922)、北京政府統治期
(1
922∼1929)、第一次南京
政府統治期(1929∼1937)、第二次日本占領期(193
8∼1
945)、第二次南京政府
統治期(1945∼1949)の6部分に分けて展示されている。ドイツが青島砲台を
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
49
図4 青島監獄
占拠した際の写真や信号山の膠州湾記念碑、提督官邸などの写真に続いて竣
工当時の青島監獄と李村監獄の写真がある。第一次日本占領期、青島監獄お
よび李村監獄は青島守備軍の管理下に置かれた囚禁場とされた。1922年以降
は青島地方検察庁看守所、青島常州路看守所、青島常州路監獄といった呼び
名が用いられた。1924年、ドイツ監獄の東南部の空き地にそれぞれ20の監房
を持つ二つの2階建ての監房が建ち、「廉」と「恥」、あるいは新監南楼と新
監北楼と呼ばれた。第一次南京政府統治期、青島地方法院看守所となった青
島監獄には、「廉」「恥」の北側に二つと同じ様式で、やや小さい建物が建て
られた。1932年の時点で、青島監獄には69の監房があり、500人以上が収容
できた。1935年にはドイツ監獄の東北部に工場と女性囚人を収容する監房が
建設された。青島看守所は5つの監房が並び、それぞれ「仁」
(ドイツ監獄)、
「義」
(新監南楼、
「廉」)、「礼」
(新監北楼、
「恥」)、「智」
(1931年新設)
、女子監
50
写真13 胡信之と李慰農
獄の「信」と改名された32。
北京政府統治期から第一次南京政府統治期にかけては、白色テロの下で多
くの共産党員が投獄・殺害されたことが示されている。その代表は胡信之
(1890∼1925)と李慰農(1895∼1925)、舒群(1913∼1989)である。中国共産党
四方支部書記の李慰農と『青島公民報』の記者の胡信之は1925年に殺害され
た。李慰農は青島で最初に犠牲になった共産党員として青島市烈士陵園に祀
られている。1934 年に投獄された舒群は、抗日小説『没有祖国的孩子』の草
936年に『文学』に掲載され、反響を呼ん
稿を完成させた33。この小説は、1
だという。
旧裁判所の建物の外には、歴史場景復元陳列へと案内が伸びている。この
建物はドイツ占領期の「欧人監獄」、1935年以降の「仁」監房である。建物
の北側が2階建ての事務室で、3階建ての南側が監房であった。花崗岩と赤
レンガで作られ、屋根は赤いスレートで覆われ、円柱型の塔の螺旋階段は地
下室へつながっている。中にはドイツ占領期の典獄当直室や典獄長室、指紋
档案室がある。監房の扉の穴をのぞくとドイツ兵囚人の映像が見えるように
なっている。2階には、胡信之と李慰農の監房、舒群の監房があり、監房に
はマネキンが置かれている。
(写真13)。地下には1938年、第二次日本占領期
に日本軍が作った水牢と尋問室、拷問室が再現されている。日本軍が、両手
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
51
を鉄の鎖でしばり、足を汚水に浸したこと、拷問椅子、電気椅子、はんだご
てなどの拷問器具を用いたことなどの説明がある。旧裁判所の外に、浴室、
1970年に作られた監視塔、井戸、電燈があり、「礼」「義」「智」監房に続く
が、「信」監房と工場、浴室は公開されていない。青島監獄はすべてが監獄
として再現されたのではなく、一部はレストランなどの商業施設として利用
されている。
1949年以降、青島監獄は、青島市人民法院看守所、青島公安局看守所と名
称を変更し、1
995年まで使用された。1
995年、青島市四方区に大山看守所34
が完成すると青島看守所は閉鎖され、修復工事が進められた後、2006年、全
国重点文物保護単位となった。
第6節 娯楽性と学術性
監獄の観光化の特殊性は、人が拘束されていた空間であったという事実で
ある。監獄は、本来、鉄とコンクリートもしくは木材で作られた内部にほと
んどモノを含まない空間である。一度、廃止された監獄が保存され一般公開
される際にはいくつかの展示方法があり、その方法が娯楽性あるいは商業性
と学術性のバランスのどちらに傾くかによって施設としての性格が規定され
る。
第一は、学術性を重視する方法である。当時の司法体系や監獄の収監の実
態を示す資料の展示や、専門の解説員による語りなどの方法である(写真14)。
アウシュヴィッツ強制収容所では収容者の記録やルドルフ・ヘスの書簡など
が展示されており、青島監獄ではドイツ占領期に逮捕された中国人の写真な
どが展示されている。網走監獄では、これまの牢名主をトップとする前近代
的な権力システムではなく近代的な監視システムとしてパノプティコンや斜
め格子が用いられたことなどが説明されている。この方法を通して見学者は
監獄システムを理解することが期待されている。
第二は、監房に見学客を入れる方法である。第一のような資料が展示され
52
写真14 アウシュヴィッツ強制収容所
ているのはかつての個々の監房であるが、展示室として利用されており、見
学客が監房そのものと認識してそこに入るわけではない。一方、アルカトラ
ズの場合、見学客は監房として中に入る体験をする。また、オランダのデン
・ハーグの監獄博物館でも監房に見学客が入った際に当時の暗闇を体験する
ためにわずかな時間、消灯される。監房に見学者を入れる際に、どのような
説明をするかによって学術性と娯楽性のバランスが定まる。
第三は、囚人や看守をマネキンで再現し、視覚的にわかりやすくする方法
である。マネキンを設置する分、商業的・娯楽的要素が増加する。青島監獄
では監房の中の李慰農と胡信之、ドイツ人看守のマネキンがあり、撫順監獄
では監房内で裁縫を学ぶ溥儀と満州国の大臣らのマネキンがある。博物館網
走監獄の数多くの表情豊かな囚人と看守のマネキンはユーモラスでもある。
マネキンは見学客にリアリティを感じさせると同時にその空間をいくらか
キッチュにする性格を持つ。日光江戸村に作られた小伝馬町牢屋敷には、奉
行所の裁きや捕物、牢屋の様子などが再現されている(写真15)。さらし首や
拷問のシーンをマネキンで再現し、グロテスクな様子を強調している。同じ
ような施設は、京都の太秦映画村にも存在する(写真16)。日光江戸村や太秦
映画村は博物館としてではなく、娯楽施設として建設されているため、単純
に監獄博物館と比較することはできないが、監獄をどのように展示するのか、
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
53
写真15 日光江戸村
見学者が監獄のどのような姿を見たいと思うのかなどを分析する上で重要な
資料である。そもそも展示施設にマネキンを置くか否かは国や地域によって
大きく異なるものであり、その背景にどのような価値観の違いがあるかは今
後の検討課題としたい。
何もないコンクリートあるいは木造の空間にリアリティを加えるのは、そ
こに投獄された無名・有名の英雄たちの物語であり、その空間で誰かが殺さ
れたという想像力である。それはマネキンやパネル、レプリカによってでは
なく、古びた写真や手紙、黴臭い部屋のにおいなどによって喚起される。暴
写真16 太秦映画村
54
力の行使された空間は「消毒」されなければ観光施設として利用することは
難しいが、「消毒」しすぎるとその空間の意味を損なってしまう。見て楽し
む「観光」と、見て学ぶ「見学」の境界があいまいになりつつある現在の観
光では、「消毒」の度合いは強まる傾向にあるかもしれない。
──────────────
1 本稿では、
懲役監獄(一般的な刑務所)
・未決監獄(代用監獄)
・債務監獄・女子監獄・
軍事監獄・島嶼監獄などの総称として監獄という言葉を用いる。アウシュヴィッツ
強制収容所や俘虜収容所、拘禁所は軍事監獄に相当する。1922年、司法省監獄局が
行刑局と改名し、監獄は刑務所、監房は居房と改称された。重松一義『世界監獄事
典』柏書房、2005年。
2 メゾン・サントラルはフランス語における監獄の婉曲表現である。ホアロー刑務所
には1964年から1
973年までの間、アメリカ兵が収監された。1
993年、ハノイ・タ
ワーズ(現、サマセット・グランド・ハノイ)の建設のため、刑務所の三分の二が
割譲された。
3 網走監獄の保存は、
現役の網走刑務所を含めて地域全体で進められた。これは全国
でもめずらしいケースだと指摘されている。横田勉「網走市における行政施設の需
要と共存」『国際広報メディア・観光学ジャーナル』14、2012年、63ページ。
4 「網走監獄にぎわう:本州からの修学旅行生が集中」『朝日新聞』(北海道、2面)、
2
002年9月15日朝刊。
5 Jacqueline
Z. Wilson, Prison: Cultural Memory and Dark Tourism.
Peter Land
Publishing, 2008. p. 229
6 Lennon,
John and Malcolm Foley, Dark Tourism: the Attraction of Death and Disaster.
South-Western Cengage Learning, 2001
7 Carolyn
Strange and Michael Kempa“Shade of Dark Tourism: Alcatraz and Robben
Island.”Annals of Tourism Research 30 (2), 2003, p.401
8 本稿執筆に際して訪問した監獄博物館および監獄に関する展示施設は以下の通り
である。撫順監獄(2006年8月、
2011年8月)、旅順監獄(2006年11月)、日光江戸村
(2007年4月)、博物館明治村(2007年6月)、太秦映画村
(2008年2月)、ホアロー収
容所(2008年3月)
、博物館網走監獄(2008年8月)、青島監獄(2010年8月、
2012年9
月)、坂東俘虜収容所跡地(2011年6月)、アウシュヴィッツ強制収容所(2012年3月)、
明治大学刑事博物館(2
012年7月)、デン・ハーグ監獄博物館(2
012年9月)、アム
ステルダム拷問博物館
(2012年9月)。旅順監獄とデン・ハーグ監獄博物館はガイド
ツアーに参加することが義務付けられている。ガイドは現地語のみで、デン・ハー
観光資源の多様化 ― 中国の撫順監獄と青島監獄の事例から ―
55
グ監獄博物館には日本語を含む6ヶ国語のパンフレットが用意されている。アウ
シュヴィッツ強制収容所と博物館網走監獄には有料のガイドツアーがある。監獄の
沿革や展示物については博物館の説明書に依拠する。
9 ミッシェル・フーコー『監獄の歴史』新潮社、1
977年、231ページ。
10 大田出「清代中国の監獄社会と牢頭」
『史学研究』273、2011年、1∼2ページ。
11 ジョルジュ・ビゴー「巣鴨外人刑務所訪問」芳賀徹・清水勲・酒井忠康・川本皓嗣
(編)『ビゴー素描コレクション1−明治の風俗―』岩波書店、1989年、148∼152
ページ。
12 孔頴
「晩清中央政府の法制官董康の日本監獄視察について」『或問』18、2
010年、
4
4∼50ページ。
13 王志亮
(編)
『中国監獄史』広西師範大学出版、2009年、248∼253ページ。 1843年
∼1918年の間に中国は19カ国に領事裁判権を認めた。領事裁判所を設けても監獄
(刑務所)を設置する国は少なく、アメリカはイギリスが上海に置いた監獄を使用し
ていた。高光佳絵「アメリカ外交における中国治外法権撤廃問題と互恵通商協定」
『史學雜誌』110
(9)、2001年、3∼4ページ。
14 王志亮
(編)、237∼241ページ。
15 北大獄と呼ばれていた旅順監獄は1
905年の「旅順開城規約」後、関東都督府が旅順
監獄として使用しはじめた。1939年、旅順刑務所と改称された。1945年8月、ソ連
軍が旅順に進軍し、旅順監獄を解放した。郭富純(編)『旅順日俄監獄実録』吉林人
民出版社、2003年。
16 欒玉璽『青島の都市形成史:1
897-19
45−市場経済の形成と展開−』思文閣出版、
2
009年、23∼27ページ。
17 長谷川章「都市風景論その
(2)ドイツ植民地“青島”に表象された近代都市景観の
イデオロギー」『東京造形大学研究報』10、2009年、44∼46ページ。
18 欒玉璽『青島の都市形成史:1
897∼1945
―市場経済の形成と展開』思文閣出版、
2
009年、32∼34ページ。
19 浅田進史『ドイツ統治下の青島―経済的自由主義と植民地社会秩序』東京大学出版
社、2011年、101∼104ページ。
20 瀬戸武彦によると、
「戦争という悲惨な現実の一方で、虜囚文化とでもいうべきプ
ラスの側面も花開いた」
『青島から来た兵士たち―第一次大戦とドイツ兵俘虜の実
像』(同学社、
2006年、
12∼13ページ)と指摘し、それは音楽やスポーツ、ドイツ菓子
など多岐に及ぶという。日本に連行された4247人のドイツ人捕虜は丁重な扱いを受
け、ベルサイユ講和条約に応じて1920年に帰国した。ヴォルフガング・バウアー
『植民都市青島1
914−1931:日・独・中政治経済の結節点』昭和堂、2
007年、38∼
3
9ページ。
56
21 本庄比佐子「膠州湾租借地内外における日本の占領地統治」本庄比佐子
(編)『日本
の青島占領と山東の社会経済 1914−22年』東洋文庫、2005年、1∼9ページ。
22 青島の五四広場には五四運動を記念して、1
997年、「五月の風」というモニュメン
トが建立された。これは青島の新しいシンボルとしてガイドブックの表紙やみやげ
物のモチーフとして使用されている。
23 民国政府による都市計画が1
935年に定められたが、日本軍の占領により中断した。
第二次日本占領期に日本は「青島特別市都市計画」
「青島特別市母市計画設定網案」
を策定し、黄島新港を建設したが、全面的に実施されることはなかった。趙和生
(主編)『基于文化生態学的城市空間理論―以天津、青島、大連研究為例』東南大学
出版社、2
006年、186∼188ページ。新中国では1957年、1981年、1996年、2009年に
青島市都市計画が策定された。1
957年では、国防・工業・貿易・医療の4機能を備
えた都市とされたが、次第に貿易およびレジャーの重要度が増加していった。
24 「紅瓦緑樹、碧海藍天」
(赤い瓦と緑の樹、
青い海と青い空)という言葉が青島に最
も使われる言葉である。
25 中国の十大元帥のうちの6名
(徐向前、羅栄桓、彭 德 懐、劉伯承、賀龍、葉剣英)
が
宿泊したためこの名前がつけられた。
26 青島䏜酒股份有限公司企業文化中心
(編)『百年回眸―青島䏜酒百年軼事』青島出版
社、
2003年、2∼9ページ。
27 「冷清老路変身“德国風情”館陶路将成総合街区」青島新聞網
http://house.qingdaonews.com/gb/content/2009-02/11/content_7993672_4.htm
28 堂邑路入口の看板より。
29 ヴォルフガング・バウアー『植民都市青島1
914−19
31―日・独・中政治経済の結節
点』昭和堂、2007年、163ページ。
30 荻野昌弘「文化遺産への社会学的アプローチ」荻野昌弘
(編)『文化遺産の社会学―
ルーヴル美術館から原爆ドームまで』新曜社、2002年、7ページ。
31 撫順監獄は、日本が撤退した後、八路軍の撫順県人民政府、国民政府の遼寧省第四
監獄、人民政府の遼寧省人民法院第三監獄を経て、1950年6月、東北戦犯管理処と
なった。撫順戦犯監獄として1956年から1975年まで使用され、1975年、遼寧省人民
辺防武装警察761外籍人員管理所となった。
32 張樹楓「近代殖民司法侵略的標志―青島監獄」Provincial
China(e-journal), Volume
1, Number1, 2009, 9-14ページ。
33 舒群「没有祖国的孫子」
『舒群文集(1)』春風文芸出版社、1985年、1∼25ページ。
34 2
012年8月、大山看守所は北部の即墨市普東鎮へ移った。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
57
フィリピンにおける災害と
地域防災管理の取り組みと課題
ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
原島 博 Community-Based Disaster Risk Reduction in the Philippines:
A Case Study of CBDRRM in Gen. Nakar in Quezon Province
Hiroshi Harashima はじめに
災害は、コミュニティを破壊し、多くの人々の命や生活手段を奪い、さら
に、被災者の心に深い傷を与える力をもっている。開発学においては、災害
は、防災対策が不十分である場合に、地域、国家、さらには世界経済に大き
な損失をもたらすものと捉えることができる。開発途上国であるフィリピン
にとって災害による被害が自国のミレニアム開発目標(MDGs)の達成に重大
な脅威となりえる。そのため災害発生後の対応から災害ハザードに対するリ
スクの軽減の視点に立ち地域レベルでの防災の取り組みを通して災害に強い
社会創りを目指している。
そこで、本稿では、フィリピンにおける近年の災害発生状況を概観すると
ともに、災害に対する国家レベルの法制度の進展状況を概観し、地方自治体
レベルで行われている防災の取り組みの分析から考察をしたい。
58
Ⅰ.フィリピンの自然災害発生状況
フィリピンは世界的にも頻繁に災害が発生している国の一つである。それ
は、フィリピンの地質学的、物理的条件と関連している。太平洋の西側に位
置するフィリピン諸島は、洪水・嵐・大波、それらに伴った地滑り及び他の
被害をもたらす台風、季節風の通り道に位置している。また、フィリピンは
大陸のプレートが衝突して発生する地震と環太平洋火山帯に属しているため
に、大きな噴火も発生している。このようにフィリピンは自然災害にさらさ
れており、防災対策の必要な国として特徴づけられる。
国連「国際防災の10年」が始まった1990年7月15日、フィリピンでマグニ
チュード7.
8の地震が発生し、ルソン島北部に位置するカバナトゥアン市、
ダグパン市、バギオ市において合計1,
283人の死者を出した。同年、その地
域は強い台風に8回襲われ、670人の死者を出し、128億ペソの経済的損失を
被った。1991年には、ピナツボ火山(サンバレス州、パンパンガ州)が400年の
沈黙を破り大噴火した結果、850人の死者を記録した。世界的規模の災害と
呼ばれるほど、その噴火は世界の気候に変化を与えた。そして噴火による噴
出物と雨季の大量の雨水が土石流化して低地の町は飲み込まれ、ルソン島の
中央平原の地形と風景は変貌した。フィリピン経済の新たな牽引役となるこ
とが期待されるスービック湾の経済ゾーンが位置するオロンガポ市と旧ク
ラーク空軍基地で知られるアンヘレス市は、大きな被害を受けた。一方、オ
ルモック市(レイテ島)の鉄砲水は5,
101人の死者を出した。短時間に、また、
防風林としての森林が非常に薄かったこともあり、大型の熱帯性低気圧ウリ
ン(Uring)により下流域に居住する人々を海へと押し流し多くの命を喪失し
た。
破壊的な台風13号がフィリピンを通過した1
99
3年、死者7
94人、経済損失
200億ペソ、1995年の台風9号は死者1,
204人、経済損失150億ペソと推計さ
れた。洪水と地滑りが、フィリピンを襲い続けた。同年、洪水と地滑りがミ
ンダナオ島とネグロス島に被害を与えた。1998年にはエルニーニョ現象によ
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
59
り、約98万5,
000世帯の農業生産に被害を与え、人々は、収入の減少により
厳しい貧困、飢餓を経験することとなった。他方、1999年にはラニーニャ現
象の影響が国内のいくつかの地域で発生し、台風、豪雨により洪水が頻発し
た。
2000年7月3日より1週間雨が断続的に降り続いた結果、7月10日、都市
の貧困の象徴となったケソン市パヤタス地区の大規模なゴミ集積場で大規模
な崩落事故が起きた。そこで働く人々はゴミの中に吸い込まれ、210人の遺
体を確認しただけで捜索は2週間足らずで打ち切られた。推計では800人から
1,
000人が犠牲になったともいわれている。事故発生5日後、フィリピン政
府はそのゴミ集積場を閉鎖し、ゴミ搬入を禁止した。ゴミ集積場に住む人々
は、収入手段を失うこととなった。住民たちはフィリピン議会前でデモを始
めた。「私たちのゴミ捨て場を再開して欲しい」とケソン市長に対して要求
した。11月に搬入が再開されたが、翌年1月にも再度崩落事故が起きてし
まった。
2006年レイテ島、2008年ケソン州では、台風により甚大な被害が生じた。
2011年12月フィリピン南部ミンダナオ島カガヤンデオロ市は、強い台風に見
舞われ、洪水や地滑りが多発し、地元紙インクワイアラーなどによると、死
者200人、また400人近くが行方不明になった。とりわけ、市の中心部のスラ
ム地域やカガヤンデオロ川沿いに住んでいた不法居住世帯に多くの死者が出
た。2012年8月8日フィリピン国家災害リスク軽減管理委員会(NDRRMC)
によると、ルソン中部のカラバルソンなどの各地方で73人が死亡、
195万3,
000
人以上が被災し、多数の家屋が損壊した。89市が大規模な洪水に襲われ、
154
カ所の道路、及び4つの橋が通行不可能となった。マニラ首都圏では河川が
氾濫してスラム街など六割が水につかり、25万人以上が避難所に身を寄せる
ことになった。大統領による災害緊急事態宣言が発令されて学校や民間企業
は休みとなり、二次被害を回避した。
NDRRMC の試算では、1990年から2006年に生じた災害の単年度の損失平
均は20Bペソとなり、GDP の0.
5%にあたることが報告されている。また
60
2009年に発生した台風オンドイとペペンによる損失は GDP の2.
7%に相当す
ると報告されている。開発途上にあるフィリピン国家にとって、災害による
人命の損失とともに経済損失は経済開発に大きな影響を与えた。(NDRRMP
長期計画書2010∼2028)
このような災害発生に対して、国家、地方自治体、市民が有機的に協働し
て災害対応にあたることは、今日的課題である。フィリピン政府は人的また
物理的な被害が自国の対処能力を超えた場合、必要であれば国際的救助を要
請することができる。しかしこうした援助は当該被災地における必要性と要
求に応じて受けるべきものであるとしている。この見解に基づき、フィリピ
ン政府から出された大災害に関する国際援助要請は、1990年7月16日の地震
(マグニチュード7.
8)、及び今世紀最悪の噴火とも言われる1991年6月のピナ
ツボ火山噴火の際に行われた。1990年の地震の際には、発生後最初の10日の
間に国際捜索・救援チーム、及び各国・各団体からの救援物資支援というか
たちで援助がなされた。また1991年のピナツボ火山噴火時における海外から
の緊急救済援助費は、1
0の国連機関、2
4の国々、16の国際 NGO 組織、11カ
国の赤十字社が動員された結果、総額約92,
145,
756米ドルにのぼった。近年
の緊急支援は、国際 NGO などによってフィリピン国内のパートナー NGO
①ピナツボ山大噴火
(1991年6月12日サンバレス州)
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
61
に対してタイムリーに行われるようになった。その背景には、被害状況を瞬
時に世界に伝えることを可能にした IT 技術の発達が大きく貢献していると
言えるであろう。
② 洪水被害(2
011年12月カガヤンデオロ市内)
③ 赤十字と軍の緊急救援
(2012年8月マニラ市内)
Ⅱ.災害対応制度と地域対応システム
(1)災害対策法制度の概要
①大統領令1566号(1978年)
:災害管理法(DM)
フィリピン政府は、1
978年にすでに大統領令1
566号によって災害管理
(Disaster Management)に関する法律を制定した。この法律により、国防局に
62
よる国家災害準備計画の定式化、及び国家災害調整委員会(NDCC)による実
行計画が策定された。これにより、地方レベル DCC ネットワークもそれぞ
れ災害計画をまとめることが期待された。
しかしながら、本法律は、災害とその影響について規定するものであり、
被災対応としては、緊急物資、堤防設置、洪水抑制システムなどのインフラ
整備に限定されていた。中央政府及び地方政府の責任は、災害後の対応に限
定されていたため、被災住民の生活再建及び地域の復興への行政支援は積極
的なものではなく、災害発生件数の増加、災害の影響が拡大するなかで、行
政の責任及び役割が見直される必要性が後に認識されることになった。
(Lagman, et al.:2010)
1991年、災害軽減を含んだ持続的発展とその達成の重要性を認めた政府は、
開発局本部のもとフィリピン中期開発計画のなかに災害管理を統合化した。
それを受けて地方行政レベルにおいて、州・市・町・村はそれぞれの災害管
理計画を各地域の開発計画に統合することになった。この計画には地域の危
険度マップや資材マップの準備、災害管理計画、DCC 運営チームの実行計画、
及び年間行動計画といったものが含まれる。同様に、国と各地域が影響を受
ける可能性のある特定の緊急事態に関する付随計画もまとめられることにな
る。これらの計画は定期的に更新と見直しが図られ、災害や緊急事態の発生
の際に活用されるものとなっている。(フィリピン災害レポート:1999)
その他に、1
991年改正地方自治法
(LGC)として知られる共和国法第7
160号
には、災害予防、災害準備/軽減プログラムの目的や手段が示され、各州(地
方)
政府レベルで災害管理を推し進めることが責務として明記されている。そ
の第16条は「一般福利」を規定している。地方自治体は、それぞれの管轄区
域内では、文化の保存及び振興、健康と安全の促進、バランスのとれた環境
に対する人々の権利の促進、科学的・技術的能力の開発の促進・支援、公衆
道徳の向上、経済の発展と社会の公平性の促進、居住者の完全雇用の促進、
平和と秩序の維持、住民の快適で利便性の高い生活の保持などを確保・支援
しなければならないとされている。第17条では、地方自治体にゆだねられる
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
63
基本的サービスと公共事業が規定されており、地方政府に委託されたサービ
ス及び公共事業については、医療サービスを含む健康サービス、帰還兵
や避難民に対するプログラム、救助活動、人口開発プログラムを含む社会福
利サービス、州民の要求するサービスに応えるための資金活用、州道や橋、
自治体間の水道施設、排水と下水、洪水調整と灌漑システム、開発プロジェ
クト、その他類似設備を含むインフラ整備などが規定されている。
②大統領令10121号(2010年)
:災害リスク軽減管理法(DRRM)
2010年5月27日に新たに大統領令10121号「災害リスク軽減管理法」
(以下、
「DRRM 法」と略す。
)が制定された。DRRM 法は、災害対応から災害リス
ク軽減に焦点をおいた法律である点が特徴である。人々が災害によるストレ
ス対処能力を強化し、災害発生時及び災害直後においても本来あった基本的
機能を回復、維持できることが強調されている。
本法律制定の背景には、2005年の兵庫県神戸市で行われた世界防災会議で
168カ国の政府によって採択された兵庫行動枠組(HFA)が大きく影響してい
る。このフレームワークは、災害に対する国家および地域社会のレジリエン
スを高め、ハザード(台風、地震、洪水、津波、戦争、テロリズム等)に対する
リスクを軽減することを目的としている。持続可能な開発政策、計画及び
事業の策定において災害リスクを統合すること − 災害予防、軽減、対策の側
面、あらゆるレベルの機関及びメカニズムの開発と強化、被災した地域
におけるリスク軽減の諸アプローチ(緊急対策、復興プログラムの実施)を3
つの戦略的目標と位置付けて、5つの優先的な行動(①災害危険軽減の優先化、
②リスクの明確化、③災害教育の促進、④リスク軽減、⑤行動準備)を通して、
災害対策を進めることをねらいとしている。フィリピン政府は、国連ミレニ
アム開発目標(MDGs)に沿ったフィリピン開発達成目標を設定しており、そ
の開発目標に HFA の行動枠組である上記の災害リスク軽減目標が統合され
ている。
また、災害軽減は、国家開発計画の実施に関わって重要な課題である。
64
2010年6月21日には、EO 888号の発効により、2019年までの災害リスク軽減
(DRR)に関わる戦略的国家行動計画(SNAP)が採択された。すなわち、10年
間を設定して災害リスクの軽減に向けて効果的な取り組みを進めるための計
画で、災害リスク、脆弱性、キャパシティのアセスメント、先駆的な取
り組みとギャップ分析、 HFA に基づいた DRR 諸行動計画を3年から10年
間で達成するための条件が示されている。
SNAP における DRR は、次の2つを指針としている。すなわち、① DRR
は貧困削減及び持続可能な発展に直接結びつくものであること、② DRR は
社会においてそれぞれのセクターで DRR をメインストリーム化するために
多様な当事者の参加が期待されている。SNAP は、
「国家および社会において
災害によって人命、社会的、経済的、環境的損失を軽減していく」ことがで
きるよう災害に対するレジリエンスを構築することがねらいである。
次にこのような開発政策的議論と並行して、DRRM を法制化した共和国法
10121号が制定されたことを理解しておきたい。
(2)DRRM 枠組みの特徴
大統領令1566号(1978年)「災害管理法」
(DM)と大統領令10121号(2010年)
「災害リスク軽減管理法」
(DRRM)を図−1のように対比して2つの法律の
間にある災害管理の違いを次のように説明することができるであろう。
DM 法では、中央政府に災害対応に関する権限が集中しているが、DRRM
法においては、地方分権の考えを基盤にした災害に関するアクター(地方政
府、CSO、地域社会)の参加が重要視され、中央政府によるトップダウンか
らボトムアップの考え方に変化した。2点目の違いとしては、DM 法では、
災害は地震、台風、洪水、火災などのハザードに焦点をあてた考え方から、
DRRM 法では、災害は前述のハザードの影響を被るリスクに焦点があてられ
るようになった。ハザードに対する人間や社会のリジリエンスを高めるため
の統合的なアプローチに焦点をあてている。
DRRM 法の災害リスク軽減枠組みとして次の4点が最優先される。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
65
図−1 DM 法と DRRM 法の概念の対比
パラダイム変更
大統領令1566号(DM法)
大統領令10121号(DRRM法)
トップダウン・中央主導の災害管理
ボトムアップ・参加型災害リスク軽減
災害は主に物理的ハザード
災害は主に人間・社会の脆弱性のリフレ
クション
災害発生後の対応の災害想定
災害危険軽減に向けた社会的、人間開発
の統合的アプローチ
①地方自治体において DRR がしっかり優先項目とされ、最も脆弱性の高い
貧困・飢餓状態にある人々、障害者、子ども、女性、貧弱な保健・衛生環
境に暮らす人々、農地など生産手段の限られた人々、自然環境が悪化して
いる地域に暮らす人々、インフラが未整備、行政力が低い地区に住む人々
などに焦点をあてることとしている。
②地方自治体の役割を認知して、地域での対処能力強化を行う。
③市民社会(civil society)のより広いグループからの参加を確保する。
④災害リスクとなる直接的原因を明らかにする。
(3)政府、地方自治体レベルでの災害対応の推進主体者
DRR の推進主体者として、中央政府、地方政府、市民社会、企業、ボラン
ティアが含まれる。政府は、災害対策について関係各省庁が全国災害リスク
軽減管理協議会
(NDRRMC)のメンバーとして、DRRM ポリシー、計画、プ
66
ログラムを確立していく役割がある。地方自治体は、災害対策の先頭に立ち、
災害への備え、対応、復興までの先導役として位置付けられている。他方、
市民社会
(CSO)、民間(Private Sector)、ボランティアは、政府の災害対策と
連携して、フォーマル、インフォーマルな役割を果たすことが期待されてい
る。CSO として、協同組合、住民組織、NGO、教会関係団体及び学校などを
あげることができる。災害時においてコミュニティに暮らす住民は、被災す
る可能性の高い人々であると同時に、災害時に支援を担う人々ともなる。
図−2 DRRM の主要アクター
中央政府、
政府専門機関
市民社会、民間、
ボランティア
地方政府、
地方専門機関
地方自治体
(4)DRRM 計画の策定
NDRRMC によって DRRM フレームワークが開発され、災害危険軽減管理
国家計画
(NDRRMP)が策定される。NDRRMP は、自治局によって策定され
るが、地方政府レベルでは、災害危険軽減管理地方計画
(LDRRMP)が地方危
険軽減管理協議会
(LDRRM)と地方政府の開発協議会の協働によって策定さ
れる。DRRM 法では、以下の5点を重要なポイントとして上げている。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
67
①リスクアセスメント(Risk Assessment)
DRRM では、リスクアセスメントを強調している。存在するハザードやリ
スクを明らかにするのは、中央政府の責任である。そこで明らかにされたハ
ザード及びリスクを災害リスク軽減に関する情報管理システムに集積して、
データベース化を図る。このデータベースを利用して、国家および地方レベ
ルの防災計画を策定することに役立てる。防災計画は、当事者の災害経験を
踏まえたリスクアセスメントである必要がある。
②知識管理(Knowledge Management)
災害は、多くの人々に運命の仕業として解釈されている限り、防災を推進
することは難しい。しかし、国民が災害に関する知識を学ぶことによって、
DRRM の本来の効果が期待される。そのために、社会経済に関するデータ、
災害記録、地図、科学的データの整備して活用することが重要となる。
③脆弱性の軽減(Vulnerability Reduction)
地域社会のハザードに対する脆弱性を明らかにして、対応能力を強化する
ことによって災害の被害を最小化することが可能となる。フィリピンでは、
災害の事後対応に力が注がれてきたが、予防に重点を置く考え方が導入され
るようになった。
④災害準備(Disaster Preparedness)
地方防災事務所(LDRRMO)が災害に対応する主要なアクターに対して、啓
発活動を提供し、その上に、災害対応に必要な知識、スキルを提供すること
が重要である。地方防災事務所には災害基金からの予算割当があり、トレー
ニング、レスキュー用品、備蓄食料の購入などの支出にあてられている。
⑤災害対応(Disaster Response)
大統領による災害発生緊急宣言が発令されることによって、対象となる各
地域で災害対応の行動が開始される。地方防災事務所によって被害状況が評
価され、ニーズ分析に基づいて、対応内容が決定される。また、本事務所長
には、食料やガソリンなどの生活物資の価格の便乗値上げが起こった場合に、
価格をコントロールする権限が与えられている。さらに、公共設備や環境の
68
復旧に必要な無利子貸付などを行う機能を持っている。
これらの項目が地方自治体の防災計画に盛り込まれて初めて、地方で
DRR を意義あるものとすることが可能となる。
次に、ケソン州ジェネラル・ナカル町に災害をもたらした2004年の台風及
び熱体性低気圧の通過に伴い発生した水害事例を取り上げたい。2004年の災
害であるため DRRM 法制定前の災害である。しかし、ジェネラル・ナカル町
では、この水害経験からジェネラル・ナカル町役場、市民社会、国際 NGO、
大学などが災害対応を連携して行っており、完全とは言えないが DRRM 法に
つなげた実践事例である。筆者は、2011年2月に現地を訪問し、地域視察と
調査を行った。事例は2つ提示しているが、両事例ともにジェネラル・ナカ
ル町のものであり、災害緊急支援の展開およびバランガイ・カタブリガンで
の防災を入り口として設立した住民組織の活動を内容とする。
Ⅲ.事例調査:ケソン州ジェネラル・ナカル町の経験
1.ジェネラル・ナカル町の概要
ジェネラル・ナカル町は、ルソン島南部ケソン州(1,
300)の最北に位置し
ており、東側は太平洋に面し、西側はシエラマドレ山脈を望む地理的特徴を
有する。町の人口は24,
895人(2000年)、19のバランガイ(最小行政単位)から
構成されており、おもな産業は、農業、漁業、畜産である。山岳地域では、
炭焼き、小規模鉱業、林業が生業となっている。農産品としては、水稲、ト
ウモロコシ、ココナツ、ラタン、材木が主なものである。ジェネラル・ナカ
ル町とインファンタ町を流れるアゴス川とケソン州とオーロラ州の境界を流
れるウミライ川が主な河川である。ジェネラル・ナカル町の全面積の8
5パー
セント(134,
390ha)は、山地であり、海抜1,
220メートルの高さである。
2
004年11月には4回続けて台風がフィリピンを直撃し、ルソン島南部に位
置するケソン州では土砂崩れが広範に発生し、また、ナカル川が氾濫して地
域に甚大な被害をもたらした。ジェネラル・ナカル町のほとんどの村落に被
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
69
害が及び、被災後の住民の災害対応及び今回の被災経験から、被害を最小限
に抑えるために、どのような災害準備をしておくべきか住民の自己評価を事
例として提示する。
(1)2004年11月4度の台風による被災状況
ケソン州ジェネラル・ナカル町及び隣のインファンタ町はルソン島南部の
太平洋に面した海岸線近くに位置する町であり、台風の直撃に遭った。台風
は時速60キロから130キロの速度で通過し、断続的な雨により、保水許容量
を超えた山々からの雨水が鉄砲水となり下流域に迫り、また、土砂崩れを引
き起こした。
表−1 台風(2004年11月22日∼12月4日)による死者、負傷者、行方不
明者の推計
台 風
死 者
負 傷 者
11月14日∼21日
68
169
68
ヴィオレッタ 11月22日∼23日
31
187
17
893
648
443
73
168
24
ウンディン
発 生 期 間
ウィニー
11月28日∼30日
ヨヨン
11月30日∼12月4日
行方不明者
出所:http:/www.sunstar.com.ph/static/net/2004
1
1月14日∼2
1日に渡り発生したウンディン
(Unding)、11月2
2日∼23日に発
生したヴィオレッタ
(Violeta)、11月28日から30日にかけて発生したウィニー
(Winnie)、11月3
0日∼12月4日に発生したヨヨン(Yoyong)はそれぞれ多くの
死者、負傷者、行方不明者を出したが、中でもウィニーによる損失は最も深
刻であった。
(表−1)台風ウィニーにより4,
985世帯24,
000人が被災した。被
― ナカル橋が
災後1カ月間は道路がふさがれた状態となった。インファンタ 崩落し、バランガイを結ぶ17カ所のつり橋も崩落したため、住民が孤立を余
儀なくされた。また、救援物資の搬送が大幅に遅れることになった。
70
この洪水により用水路が破壊され、NIA(National Irrigation Authority)によ
ると、200万ペソ以上の損害となり、地域経済への影響は深刻であった。水
田の1,
313haと山地の700haが耕作不可能となった。
163隻のエンジン付きボー
トが破壊され、2,
000頭の家畜が失われた。これらの損失により2,
669人の農
民と5
75人の漁民が生産手段を失なった。小学校37校と保育所16カ所が流さ
れた。湧水を利用して作られていた水道システムが回復できない状態となり、
飲料水の確保が大きな問題となった。(GENADEV: 2005)
④大雨で霞むココナツ林(ケソン州)
⑤土石流に飲まれた小学校(ケソン州) ⑥氾濫後の川沿いの様子(ケソン州)
(2)緊急ニーズへの対応
外界と交通が遮断された状態の中、災害前から地域で活動していた NGO
団体のスタッフたちは被災しながらも地域全体の被災状況把握のために被災
直後から情報収集を開始した。教会系団体、NGO、住民組織、資金助成団体
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
71
が集まり、緊急支援物資の調達と被災者への配給を開始した。町役場は被災
状況の情報収集の責任を担った。情報収集結果を被災状況報告書にまとめ、
中央政府に提出した。海岸線に沿って敷設されていた舗装道路が寸断された
ため食料、飲料水などの緊急支援物資の搬入に問題が生じた。また、家屋が
流された家族にとって避難所が緊急に必要になった。さらに、突然の家族喪
失、行方不明の状態にある被災者への心理的ケアが求められた。また、土砂
崩れが広範に渡ったため、その原因を早急に地質学の専門家に分析を要請し
た。
(3)緊急支援に参加した団体と活動の展開
災害直後の対応は、地方政府と中央政府が支援活動を民間団体に業務委嘱
する形で展開された。ケソン州政府、ジェネラル・ナカル町役場を中心に、
地元 NGO である GENADEV とプロテスタント系神学校 ICTC、オランダ系
国際 NGO である Terre des Hommes Netherlands、そして、地元の住民から組
織されている住民組織(People’
s Organization)が主な参加団体となった。
GENADEV は被災直後に、緊急支援に参加する上記の団体の支援協議母体
となる NAKAR(Nagkakaisang Aksyon at Kilos para sa Relief and Reconstruction
= United Action for Relief and Reconstruction)の立ち上げを行った。NAKAR
内に組織されたチームにより、被害状況アセスメントが行われ、緊急医療
ミッション、山林被害アセスメント及び農地リハビリテーションなどの分野
の専門家とボランティアの受入調整を行った。
ICTC は、学生を動員して、社会調査を実施し、調査結果に基づいた緊急
支援計画の策定を行った。地域の教会教区ソーシャルアクションセンターと
連携して、緊急物資の配給システムを構築した。ICTC は、緊急物資配給を
行うに当たり、コミュニティ簡易評価を住民参加のもと実施して、地域の問
題やニーズを把握する能力を住民組織につけるとともに、コミュニティレベ
ルでの緊急救援計画の策定を実施した。簡易評価の結果、調理器具、住宅補
修資材、医薬品、学用品などがニーズとして上げられた。また、ストレス管
72
理のセッションの提供も行われた。
Terre des Hommes Netherlands は、児童、女性の権利を推進するために
NGO に活動助成金を提供する国際 NGO であり、GENADEV から提出され
た助成申請書の審査、承認を行った。
(4)取り組んだ活動
①飲料水復旧プロジェクト:
被災後、飲料水をミネラルウォーターに依存していた状況から水道水へ
転換するために水道設備の設置を行うプロジェクトである。飲料水に適し
た水源を利用することにより、水に起因する感染症を予防することが大き
なねらいであった。また、水道設備の維持・管理については、地域住民の
参加によってシステムが設計された。
②住宅建設支援プロジェクト:
教会教区のワーカーと共に地域の住宅の損壊状況の実地評価を行い、住
宅再建計画を策定した。住宅建築は、世帯単位に建築資材が配給され、建
設に関わる人件費は、フードフォーワーク(Food for Work)のスキームが導
入された。住宅再建の受益者は428人、家財道具の受益者866人、学用品の
受益者1,
287人であった。住宅建築作業は、世帯によって開始時期が異
なった。理由としては、家の建築よりも現金収入を得るための短期雇用が
⑦住宅修繕ローンで再建された家
⑧ガスボンベを利用した手動式警報ベル
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
73
優先されていたこと、また、資材調達の遅れ、風水の影響など様々な事情
があった。
(5)プロジェクトの地元移管
本プロジェクトは、ICTC の学生によって運営されていたため、2
005年2
月中旬には被災地から撤収しなければならなかった。このことによりプロ
ジェクト継続実施に影響がでること、また、モニタリングが十分できないと
いう問題が生じた。解決策として、住民の中からコーディネーターを選出し
て、プロジェクトの調整役を委任した。住民の中からコーディネーターを選
出したことにより、地元リーダーの嫉妬や反感を買ったが、コーディネーター
が無報酬で地道に役割を果たしている仕事ぶりから周囲の信頼を獲得した。
2005年7月にはすべての住宅建設プロジェクトが完了したことが報告されて
いる。
2.考察
(1)地域住民による参加型計画のプロセス
ジェネラル・ナカル町には、今回の大規模な水害が発生する前から地域開
発を推進していた GENADEV という NGO が地元住民の活動を支援していた。
GENADEV が緊急支援の協議会 NAKAR の立ち上げに尽力した。NAKAR に
は、ジェネラル・ナカル町役場、神学校 ITCT、Terre des Hommes Netherlands
に加えて、地元住民組織が災害緊急支援に参加していたことから被災者への
支援が困難ななかにも一定の機能を果たした。特に、緊急支援段階から地元
の住民組織に緊急支援計画に参加してもらうことは、被災者でもある地元住
民が緊急支援の担い手になることを可能にし、住民の問題とニーズに対応す
る支援が実施できたといえる。
(2)助成金団体と地方政府との連携
緊急支援の協議母体となった NAKAR には、地元の町役場と開発支援を助
74
成するオランダの NGO が加わったことで、行政と民間の連携を促進した。
行政は、緊急支援を実施するための予算が十分確保できない状況において国
際 NGO の財政支援を取り付けたことで、緊急支援を迅速に行うことができ
た。
(3)協約書(Memorandum of Agreement)
の締結
緊急支援に関わる全ての団体が、支援に関する協約書に署名したことで、
緊急支援の目的、各団体の役割が明確となった。複数の団体が支援に参加す
ることで、地元で様々なトラブルが生じることがあり、協約書締結によりト
ラブルを事前に回避することができたといえる。協約書を締結することで、
むしろ、チームワークの力が醸成され、信頼に基づくコレクティブな活動が
推進できた。
(4)地元のプロジェクト・コーディネーターの採用
緊急支援段階ではサービスを提供するための調整作業が頻繁に行われた。
調 整 作 業 の 担 当 者 を 地 元 地 域 か ら 選 出 し て お く こ と で、サ ー ビ ス 供 給
(delivery of services)が円滑に進んだ。住宅建築プロジェクトを地元住民に移
管した際に、地元住民間で嫉妬が生じたが、地元住民のコーディネーターの
質が高かったため、後々には、そのコーディネーターの仕事ぶりを反対住民
も認めるようになった。
(5)生業関係
住宅建築プロジェクトでは、被災住民にとって、住宅再建よりも日々の生
活を維持するために現金収入を得ることが優先されたために、なかなか、自
分の家の修繕、建築が優先されなかった。ここから見えることは、復興期に
おいては、収入を確保するために雇用の機会を提供することが求められる。
災害前から貧困状況におかれた住民は、災害によりさらに貧しい生活を送っ
ていることを理解しておく必要がある。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
75
(6)費用対効果(Cost-efficiency)
地方政府は、瓦礫の撤収や道路工事などすべてを民間企業に発注するより
も地元住民に委託することによる費用対効果が高いといえる。住民に雇用の
機会を提供することで、被災後にも現金収入を得ることが可能になった。住
民は救援物資に依存する必要も減少し、行政の被災者への支援における財政
支出を抑えることが可能となった。
Ⅳ.事例調査②:ジェネラル・ナカル町バランガイ・カタブリガン
の住民組織の取り組み
前掲事例においてジェネラル・ナカル町の被災直後の対応について支援実
施団体と住民組織の動員について述べた。本事例においては、ジェネラル・
ナカル町のバランガイの一つであるカタブリガンにおける住民組織 MSMS
(Munting Samahang ng Magkakapitbahay sa Sulok = Organization of House
Owners in Sitio Sulok)への支援と地域災害対応能力強化の取り組みについ
て取り上げる。
1.バランガイ・カタブリガンの概要
(1)地域状況
カタブリガンも台風ウィニーにより大きな被害を被ったバランガイの一つ
である。カタブリガンの125ヘクタールの農地は、泥流に流されてきた大木
と土石などで壊滅状態になった。しかし、死者、行方不明者は幸いいなかっ
た。実は、カタブリガンのスロック地区は山と海に挟まれた位置にあり、大
雨により鉄砲水や土石流による災害の影響を受ける危険性の高い地域である
ことからフィリピン火山地震研究所によって危険地域に指定されていた。
住民は、農業と漁業に従事しているが、農閑期には、近隣の町に出てタク
シー運転手や炭焼きなどで副収入を得ている。地域の住宅の構造は木造建築
で、屋根はトタン及びヤシの葉で葺かれている場合が多い。総世帯数の90%
は電気を利用しており、飲料及び生活用水は、山からの湧水を利用している。
76
小川で洗濯や沐浴する住民が多い。近年は人口増加により、自然環境が悪化
しており、小川の水量は不足している。傾斜地域に居住している住民の林業
従事率は低く、地滑りなどに対する住民による対策は難しい。
地域住民の組織作りのきっかけは、2006年にフィリピン大学都市地域計画
学部の大学院生と、社会福祉地域開発学部の実習生が被災後の地域の住宅事
情について調査を実施したことから始まった。学生たちは、地域の災害につ
いての意識を高めること、そして災害による影響を受けた住民と受けなかっ
た住民の差について調査した。その結果について住民と一緒に妥当性の検討
作業を行った。
(2)MSMS の設立
2006年に行った調査結果の検討作業の中で、住民が地域の課題に取り組む
ための住民組織の必要性を認識するにいたった。2007年3月に、参加型災害
対応管理ワークショップ(Participatory Disaster Response and Management
Workshop)を実施した。参加した住民によって短期及び長期計画が策定され、
200
7年から2
010年にかけて MSMS を組織化することを決定した。
2.把握された問題
(1)耕作地の酸性化による生産性の低下
土石流により耕作地の表土が酸性化してしまい、土壌改良にコストと時間
がかかることにより農業継続が困難な状況が分かった。地方政府からトラク
ターを無料で貸し出してもらってはいるが、酸性土の除去には限界があった。
(2)災害軽減計画が未整備
フィリピン地震研究所の調査結果により、この地域は災害危険地域に指定
されていた。しかし、安全な地域に移住するための資産をもっていない住民
は、危険な地域に住み続けなければならない状況にあった。地域として、減
災計画が未整備状態であり、次の災害への必要な備えがなされていなかった。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
77
(3)NGO への依存度の高まり
今回の台風による大災害により多くの支援が国内外から寄せられたことに
より、支援NGOに依存する傾向が強くなっているとの住民からの指摘が
あった。災害時に求められる住民間の協力が外部より支援団体が入ることで
脆弱になることが指摘された。
(4)脆弱な住民自己解決能力
外部からの支援への依存度が高くなることに加え、地域住民の基礎教育レ
ベルが低いため、地方政府への交渉などができず、問題に気付いているにも
かかわらず、解決を先送りにする、または、人任せにする傾向が指摘された。
生活課題に関わる自己解決能力が低いことが指摘された。
3取り組み活動
(1) 地方政府と MSMS との協働
①土壌浸食・土砂崩れへの対応
避難警報が出たら、近くの安全な親戚の家などに避難すること、情報を
収集しながら帰宅が可能か避難しながら観察すること、さらに、復興期に
は森林に植林活動をすることが、土砂崩れなどによる逃げ遅れや孤立を予
防する行動であることを住民は学習した。
②洪水対策
カタブリガン川の決壊を避けるために土手に土嚢を積み洪水対策を行っ
た。
③土地の代替作物の研究
土壌の状態を元に戻すことは不可能であるが、土地改良を加えて、土壌
に適した農作物の栽培を行うことになった。
④社会サービスの提供
バランガイヘルスワーカー(BHW)は子どもたちの栄養状態のモニタリ
ングを行った。町役場は、BHW にコミュニティの住民の健康状態をモニ
78
タリングしてもらい、医療の必要な地域に医療チームの派遣を行った。
⑤モーターバイク購入ローン
幹線道路から遠く離れて暮らす住民は、トライシクル(三輪オートバイ)
購入のための貸付を受け、自宅から幹線道路まで出るための手段として利
用することができるようになった。
⑥ MSMS 住民組織の行政の支援に関する情報へのアクセス
住民組織メンバーの能力強化と地方行政との関係の改善を図ることが合
意された。
⑦安全な飲料水の確保
直接湧水の水源から水を汲んでいるが、揚水ポンプを設置して、安全な
飲料水を確保することができるようになった。
(2)フィールドワーク学生による取り組み
①収入向上プログラムの実行可能性の検討
ソーシャルワーク及びコミュニティディベロップメントを専攻する
フィールドワーク学生は、収入向上プロジェクトの実行可能性を MSMS
のメンバーと検討した。その過程において、今までの経験が共有された。
組織運営をする上で、特定のリーダーのみで問題解決を図ることの問題点
が指摘された。
②ジェンダーセンシティビティー訓練
住民組織の活動に女性が参加することについて、夫の理解が得られにく
いという問題が指摘された。そのため地域の活動に女性が参加することに
ついて理解を促進するために、男性メンバーに対して、ジェンダーに焦点
を当てたトレーニングセッションを実施した。
③キャパシティ・ビルディング
組織を強化するために、トレーニングの必要性が上げられ、活動実施に
ついてメンバーの責任の認識やチームワークの重要性がインプットされた。
④フィールドワーク学生のコミュニティ・インテグレーションとインフォー
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
79
マルトーク(Hantahan)
フィールドワーク学生は外部者であり、地域住民と信頼関係を構築する
には、両者間のコミュニケーションを進める必要がある。フィールドワー
ク学生は、毎週、異なる家庭にホームステイをさせてもらい、日常生活の
やり取りからお互いの意見や経験を共有することで、信頼関係が創られる
ことを経験した。外部の NGO が地域支援に関わる上で、外部者がどのよ
うに地域住民と関係を構築するかは、地域開発を進める上で重要である。
4.考察
ジェネラル・ナカル町のバランガイの一つであるカタブリガンでの住民組
織が必要とされたのは、2006年にこの地域と関わったフィリピン大学の学生
と教員によって行われたコミュニティでの被災後の住宅関連の調査結果につ
いて行われた住民との話し合いから明らかになった。
かつては住民組織が存在しなかったため、地域住民が感じている共通の問
題に対応する場がなかった。災害対策について住民意識は低く、将来にわ
たって住民が災害対応できるよう準備をしていく必要性が確認された。
地域調査から出されたアクションプランは、地域住民が初めて自分たちで
組織的に地域の課題に対応する行動計画となった。このアクションプランが
策定されたことで、地域住民リーダーの意識と動機づけが高まったといえる
だろう。
地方社会においては、物事の決定は村の男性たちによって行われることが
多く、カタブリガンでも同様であったことが調査結果から明らかになった。
フィリピン大学のフィールドワーク学生を動員して教員によって実施された
ジェンダーセンシティビティ訓練をとおして、地域活動に女性の参加の必要
性が理解された。今後、女性が住民組織 MSMS においてメンバーとなり、将
来的にリーダーシップを取れるようになることがジェンダーバランスのとれ
た地域活動につながっていくことであろう。災害時には、女性と子どもの脆
弱性が高まることが報告されていることからも、災害時における女性と子ど
80
もが後回しにされないようにするためにも女性の声は大切である。
Ⅴ.まとめ
本稿では、2004年の水害により被災したケソン州ジェネラル・ナカル町の
緊急支援及びバランガイでの住民組織作りの事例を取り上げた。
ジェネラル・ナカル町での災害対応は、大統領令第1566号を越える災害対
応が行われた。ジェネラル・ナカル町では当時地域防災意識が低く、災害は
季節に到来する行事であった。しかし、2004年に生じた災害は、住民にとっ
て、大規模なものであり、多くの命や財産を喪失する経験となった。幸いに
も、地元では外部の NGOs とのネットワークが存在していたことから、緊急
支援体制を予想以上に早く整えることができた。
緊急支援体制の立ち上げは NGO のイニシアチブで始まったが、支援対策
協議会には地元自治体及びコミュニティ住民参加が取り入れられており、
201
0年に制定された DRRM 法下のボトムアップアプローチがすでに導入さ
れていた点は、先駆的であったといえる。
外部 NGO の緊急支援の終結に伴い、復興期における地元行政と住民組織
の関係は、トップダウンの関係に逆戻りする可能性も十分に予想される。そ
の意味でも住民組織のキャパシティ・ビルディングは継続的に強化される必
要があると言える。住民組織が町行政に対して適切にニーズを伝え、町行政
のもつ資源を引き出せるようになることは、復興期における地域開発にとっ
て課題と位置付けることができるであろう。
災害ハザードに関する情報は一般住民にも徐々に理解されつつあるとはい
え、その規模については、災害が起こってみないと現実を感じられない人間
の限界もある。災害ハザードに対する人間や社会の脆弱性に気付き、脆弱性
から身を守る手だてを工夫しておくことが、これからの地域防災において重
要であることを本事例から引き出せたと言えるだろう。
フィリピンにおける災害と地域防災管理の取り組みと課題 ケソン州ジェネラル・ナカル町の事例
81
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執筆者紹介
古井 仁(亜細亜大学国際関係学部准教授)
高山 陽子(亜細亜大学国際関係学部准教授)
原島 博(ルーテル学院大学社会福祉学科准教授)
(アジア研究所・アジア研究シリーズ82)
東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件
2013年3月15日 発行
編集者 亜細亜大学アジア研究所
発行者 〒180−8629 東京都武蔵野市境5−24−10 0422
(54)
3111
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印刷所 松井ピ・テ・オ・印刷
〒32
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(662)
2511
ISSN 1345-5060
東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件
The Institute for Asian Studies
ASIA UNIVERSITY
TOKYO JAPAN
アジア研究所・アジア研究シリーズ№
IAS Asian Research Paper No.82
82
アジア研究所・アジア研究シリーズ No.82
東南アジア諸国における
持続的成長のための諸条件
平成 22・23 年度研究プロジェクト
「東南アジア諸国における持続的成長のための諸条件」
亜細亜大学アジア研究所
2013年3月
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