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戦死者葬儀の時代変化
戦死者葬儀の時代変化 ── 京都府久世郡宇治町の事例 ── 直文、増訂者落合直幸『言の泉』明治四二年四版、大倉 る意にて、その葬送の式を、官府にて営むこと」(落合 字義を「国家に功労ありし人の死にし時、これを優遇す 録にも村葬、町葬と記す例は多い。しかし、「公葬」の 行の市町村史においてもよく見る記載である。往時の記 籠 谷 次 郎 はじめに 一 宇治町の概要 二 「明治」の葬儀 三 「昭和」の葬儀 おわりに 書店)、「国事に斃れたる人などの葬式を官府にて営むこ と」(金沢庄三郎編纂『辭林』明治四四年、三省堂書店) とするなら、明治の戦争には公葬は存在しない。これら の字義にふさわしい葬儀は昭和に入ってからである。 (1) かつて、私は戦死者葬儀の推移について町村との関連 葬儀のうち、死者の郷里でおこなわれた葬儀は、日清・ 近代日本の戦死者(戦病死・戦傷死を含む、以下同じ) で、いささか意に添わぬものがあった。例証には同一町 同一町村における推移を踏まえての説明でなかったの ものである。しかし、史料上の制約から例証も少なく、 はじめに 日露戦争以来昭和二十一年まで、村では村葬、町では町 村における推移であることが望ましい。 で論じたことがあった。上記の異論はこのとき気づいた 葬、つまり公葬として営まれたとの理解が強い。近年刊 53 社会科学 76 号(2006 年3月) を周辺村史料で補いながら同町の戦死者葬儀の推移をと 推移が読み取れる。本稿はこれらの史料をもとに、一部 町会文書である。ここから宇治町における戦死者葬儀の 館が所蔵する京都府久世郡宇治町奉公義会文書と同宇治 にも接することが出来た。ともに京都府宇治市歴史資料 づいて同町の昭和期戦死者葬儀の片鱗が読み取れる史料 戦死者葬儀の概要がわかる文書に接することができ、つ 一昨年偶然にも史料所蔵者の好意で町単位での日露戦争 には久世郡役所が淀町から同町に移転し、四十三年に久 開通し、町域北部に宇治停車場が設置された。三十五年 三十八年に関西鉄道奈良線、四十一年に省営奈良線)が あ る。 明 治 二 十 九 年 に 奈 良 鉄 道( 京 都 ─ 奈 良 間、 の ち 人、十年一万一七六〇人、十五年一万二〇六四人の町で 七 三 一、 大 正 九 年 人 口 五 五 五 三 人、 昭 和 五 年 九 二 六 〇 三三九九人(戸数七〇一)、三十七年四一三三人(戸数 を 形 成 す る 大 字 宇 治 町 に 所 在 し た。 明 治 二 十 九 年 人 口 大字を編成して成立した。町役場は町域の中心、市街地 治町、宇治郷、白川村が合併し、旧町村名を継承した三 らえることを目的とする。宇治町における同推移は広く 世郡を管轄する警察署が大久保村から同町に移転し、宇 史料は求めてただちに得られるものではない。しかし、 各市町村における推移と思うからである。あわせて前稿 治警察署が設けられた。 (2) の補遺としたい。 宇 治 町 は 宇 治 川 の 谷 口 に あ り、 景 勝 の 宇 治 川 は 宇 治 村との境界に近い町域の北部を北東から南西に流れる。 世郡宇治町、もう一つは隣接の宇治郡宇治村である。宇 命名する町村は隣接して二つの町村があった。一つは久 明治二十二年の町村制施行後、京都府には「宇治」と 宇治町は「宇治茶」の名で知られるように、古くから 電気株式会社が創業し、宇治町営電燈事業も始まった。 治川に架かる宇治橋東詰に設けられた。この年、宇治川 (七・八キロメートル)が開通し、終点の宇治停留所が宇 一 宇治町の概要 治平等院の所在地として知られるのが宇治町、黄檗宗本 の茶の生産、製造、取引の中心地である。大正十五年に 大正二年に京阪電鉄中書島停留所から分岐する宇治線 山萬福寺の所在地として知られるのが宇治村である。本 は日本レーヨン宇治工場が設置され、翌昭和二年に操業 (3) 稿の主題となる久世郡宇治町は町村制発足にさいし、宇 54 戦死者葬儀の時代変化 久世郡宇治町・槇島村・小倉村・大久保村、宇治郡東宇 の設置は同町人口増加の一要因となった。昭和二十六年、 した。従業員一五〇〇人を超える大工場である。同工場 軍工兵廠舎の地であったことによる。目に見えないもの 団・第十六師団各工兵大隊(高槻・福知山・伏見)の陸 はかつて宇治川を架橋演習の地とした第四師団・第十師 文字の下につづく文字は「省所轄地」といわれる。同地 (5) 治町(昭和十七年に宇治村と宇治郡笠取村が合併して改 もある。現在、宇治川の中州(塔ノ島)に鎌倉石造美術 現在、宇治市内には戦争の記憶を留めるものは多い。 写経石を埋納、八葉蓮台を模した基壇に日露戦争陣没将 にさいし、地下一〇尺立方の基盤に大般若経一字一石の (6) 称)が合併し、宇治市が誕生した。市役所は旧宇治町役 を代表する浮島十三重石塔が建つ。明治四十一年、再興 しかし、本稿の対象となる旧宇治町域には多いとはいえ 兵二十三万八千の霊名を納めたという。同塔刻銘に見る (4) 場に置かれた。 ない。大正十三年秋、帝国在郷軍人会宇治町分会が建て 説明の一節である。 二 「明治」の葬儀 ( マ マ ) た忠魂碑(題字揮毫 田中義一)とその副碑(字蓮華)、 町内のいくつかの墓地にたつ戦死者墓碑、昭和三十年五 月に宇治地区遺族会が造成した旧宇治町戦没者墓地(平 等 院 内 ) が あ る。 ま た 昭 和 四 十 八 年 十 一 月 に 元 工 兵 第 昭和六年四月建設の「宇治川先陣之碑」(揮毫、一戸兵 内)がある。間接ながら軍人の記憶をよびもどすものに が 建 立 し た 同 隊 戦 没 者 招 魂 碑・ 愛 馬 之 碑( 宇 治 神 社 境 岡謙二郎、宇治市役所)にもその記載はない。とりあえ 治市史』(年表とも全七冊、編集責任者林屋辰三郎・藤 のところ不明である。昭和四十八年ー五十八年刊行の『宇 宇治町で近代を通して何人の戦死者がでたのか、現在 1 日露戦争戦死者の葬儀 衛)とその副碑「宇治川戦蹟略記」が宇治川の中州(橘 ず着手した私の調査では、日清戦争、第一次世界大戦に 百十六聯隊(昭和十三年に京都市伏見区で編成)生存者 島)にあり、碑銘に建設者として帝国在郷軍人会宇治町 はいない。日露戦争に七人、昭和期日中戦争─太平洋戦 (7) 分会の名が見える。また、宇治市立宇治中学校敷地の北 争は概数ながら二二三人を超える。正確には不明である。 (8) 端に「陸軍」の二文字が読み取れる石柱二本が残る。二 55 社会科学 76 号(2006 年3月) ( ( マ (4師団歩兵第38聨隊) 37.10.31 C (4師団輜重第4大隊) 38. 1.18 (町葬) 37.10. 8 D (徒歩砲兵第2聨隊) 38. 4.27 (准町葬) 37.10.12 E (4師団歩兵第8聨隊) 38. 6.24 (町葬) 38. 3. 4 F (4師団歩兵第38聨隊) 38.11.24 (町葬) 38. 9.25 G (4師団歩兵第38聨隊) 日露戦争の戦死者は帝国在郷軍人会宇治町分会が建てた (9) 忠魂碑副碑には八人と記し、また日露戦争後に町の児童 が歌った唱歌「六勇士のうた」には六人の名があがり、 一定しないが、戦死者の名前が確認できるのは七人であ る(表1)。七人の葬儀は「町葬」としておこなわれた。 しかし、町葬と准町葬の別があった。宇治町を本籍地と ( する者と入寄留地とする者との違いのようである。宇治 町には「私葬」(個人葬)はなかった。 同町における最初の戦死者 A は、明治三十七年六月 一日、南山の戦いでの死者である。戦死の報が町役場、 家族にどう伝えられたのか、その経緯は明らかでない。 三十七年十月十六日戦死の B の場合、まず所属の第四 マ 師団歩兵第三十八聯隊第十中隊長から遺族宛て戦死場 所、戦死状況を記した「通報」(同年十月十五日付、写) が届けられ、ついで同中隊長から遺族宛て部隊の行動と ( B } 戦場での葬儀について記した書面(十月二十八日付、写) 37.10.16 37.12.17 が届いている。 町で A の葬儀の話が持ち上がったのは翌七月に入っ てからである。七月四日夜、嘱託葬儀委員八人が決定し (理)カ た。町会議員二人、宇治町尚武義会評議員二人、宇治町 奉公義会幹事二人、町内各組(一〇組)総代二人の構成 (4師団歩兵第38聨隊) (町葬) 合同葬 A (町葬) 明治37. 7.11 (( 所属部隊 戦 死 者 死亡年月日 葬 儀 明治37. 6. 1 37.12.17 (( 表1 宇治町日露戦争の戦死者 注 『奉公録』(京都府久世郡役所、明治 40)、久世郡郷土調査研究部編『久世郡郷土教育資料』(昭和7年)、「宇 治町奉公義会文書」 (宇治市歴史資料館所蔵)、 『靖国神社忠魂史』第2・3・4巻(靖国神社社務所、昭和6・9・ 10 年)等から作成。 56 戦死者葬儀の時代変化 定した。このとき葬儀料、香奠についても協議した。翌 て庶務係(四人)、儀式係(四人)、接待係(六人)が決 である。つづいて葬儀仮規程と葬儀執行に必要な係とし 信仰スル宗教ノ儀式ニヨル 第七条 葬儀ハ遺族ノ希望ニ依リ仏式、神式、其他 ベシ 第六条 葬儀ハ虚飾ヲ避ケ極メテ厳粛質素ニ執行ス ( 第八条 儀式列順其他祭典順序等ハ別ニ定ムル方式 ( 五日、葬儀規程は原案どおり決定した。 葬儀規程 ヲ以テ標準トスベシ 第九条 香奠及放鳥生花ノ寄贈ハ一切受納セサルモ 第一条 本町出征軍人ニシテ戦死ナシタルトキハ町 葬トナス 第十条 該家ハ一般会葬者ニ対シ飲食ヲ供スベカラ ノトス ヨリ支出ス ス又葬儀ニ関与スル者ト雖モ該家ニ於テ飲食 第二条 町葬ノ経費ハ本町尚武義会及本町奉公義会 第三条 本町々会議員、尚武義会評議員、奉公義会 第十一条 葬儀事務所ハ葬儀執行五日以前ヨリ本町役 スベカラズ ス 場内ニ設ケ葬儀前日ハ該家又ハ其付近ニ移ス 理事、各組総代中ヨリ葬儀委員若干名ヲ撰定 但本町吏員ハ葬儀委員ト共ニ葬儀ニ干与ス 一人以上会葬スベシ 第十二条 町葬当日ハ各戸半旗ヲ掲ケ弔意ヲ表シ毎戸 事項ヲ協定執行スル 第十三条 葬儀委員ニ於テ葬儀記録ヲ調製スベシ 第四条 葬儀委員ハ遺族ト共ニ葬儀ニ関スル諸般ノ 第五条 葬儀委員ハ左ノ事項ヲ分掌ス 第十四条 此規程以外ノ事項ハ葬儀委員遺族協議ノ上 便宜之ヲ定ム 一庶務係 通信、記録及他ノ部ニ関セサル 事務 葬儀は町葬としておこなうとした。経費は宇治町尚武 評議員・奉公義会理事・町各組総代より選出された葬儀 義会・宇治町奉公義会の支出とし、町会議員・尚武義会 一儀式係 儀式ニ関スル一切ノ件 一接待係 休憩所ノ設備及会葬者接待ニ関 スル件 57 (( 社会科学 76 号(2006 年3月) 時出棺、本町各組会葬者は各戸一名以上、各組ごと組長 おこなわれた(表1)。会場は平等院内浄土院、午前九 により信仰する宗教の儀式によるとした。このとき、仏 が引率し参列した。予定では葬儀は七月十日であったが、 委員が遺族と協定執行するとし、葬儀形式は遺族の希望 式形式も定められた。 A の遺族が仏式を希望したから ( ( ( C 合同葬もこの形式でおこなわれた。翌三十八年六月 仏式葬儀は同年十二月十七日におこなわれた B ・ は終了した。 ( 面宛て葬儀の終了と尽力を謝す挨拶状が発送され、葬儀 町尚武義会長・同奉公義会長・宇治町長の連名で関係方 十日は雨天であったらしく順延した。七月十四日、宇治 樒 樒 名旗 箱提灯 箱提灯 であろう。 高張 寺院方 宿坊 高張 葬式列順 学校生徒 遠見 儀仗兵 紗籠 輿 喪主 軍人総代 町長 本町尚 紗籠 位牌 儀仗兵 (総代)脱カ 武義会長 本町奉公義会長 親族 列二 知 事 郡長 警察署長 郡尚武義会支部長 町名誉職及葬儀委員 列二 各新聞社員 旗 本町赤十字社員 列二 本町愛国婦 尚武義会旗 人会員 列二 本町各組会葬者 一般会葬者 奉公義会旗 喪主 軍人総代 町長 本町尚武義会長 本町奉公 兵第三十八聯隊宛て儀杖兵派遣の申請をおこない、十七 ( 日に準備を終え、翌十八日午後一時三〇分出棺、葬儀は ( 義会長 親族 知事 赤十字社長 愛国婦人会長 愛国婦人会員 愛国婦人会員 儀仗兵 儀仗兵 隊総代 隊総代 柩 喪主 真榊 紅旗 白旗 神饌辛櫃 調饌師 真榊 白旗 紅旗 根越榊 根越榊 郡長 尚武義会旗 奉公義会旗 各組会 本町名誉職員 葬儀委員 親族 町長 尚武義会長 奉公義会長 知事 親族 赤十字社員 赤十字社員 るように見積額最高二八円七〇銭とし、寺院・神官は無 こうした準備作業を終え、七月十一日に A の葬儀が 警察署長 本郡尚武義会支部長総代 楽人 齋部 斎主 名旗 楽人 学校生徒 先追 葬式列順 (( 謝儀とした。 このとき同時に、経費の標準額も決められた。後述す 十字社員総代 本町愛国婦人会員総代 町会議員総代 職員生徒総代 各新聞社員 本町赤 小学校でおこなわれた。 十五日に葬儀委員による打合わせがあり、翌十六日に歩 三十八年一月十八日の D の葬儀は神式である。一月 二十四日の F の葬儀も同様である。 (( 郡尚武義会長 警察署長 郡尚武義会支部長総代 焼香并ニ弔辞順序 (( 58 戦死者葬儀の時代変化 (総代)脱カ 表2 葬儀経費 摘 要 葬者 一般会葬者 葬送者拝礼弔辞順 知事 郡長 警察署長 本郡尚武義会支部長 本町名誉職員総代 葬儀委員総代 学校職員生徒総代 赤十字社員総代 愛国婦人会員総代 生徒唱歌 葬儀委員は葬儀経費を最高二八円七〇銭としていた 注 ⑴と同じ が、 現 実 に は ど の よ う な 支 出 が あ っ た の か。 支 払 状 況 28.245 が わ か る 四 葬 儀 に つ い て み る と、 表 2 の よ う に な る。 三十七年十二月の B ・ C 合同葬儀は三二円三十八銭、 D 、 G は ほ ぼ 予 算 ど お り の 支 出 で あ る。 E の 二 四 32.38 円二六銭はやや少額である。准町葬として行われたこと によるのかもしれない。葬儀に必要とした購入品に位牌、 旗、線香、花、菓子、紙、蝋燭、樒のほか棺、墓標等が みえる。各種の雇用人夫料・伶人招聘料等が支出の過半 を占める。これらは町外からの雇用である。近隣の紀伊 郡伏見町に葬具用達会社があり、これらの雇用料、大型 葬具の借料は共通して同社へ支払っている。 注「明治三十七年十二月 町葬経費簿 宇治町葬 儀委員」から作成。 1. 1.65 4. 1.01 .4 2.235 輿丁 6 人遠見1人傭人料及心付 音楽招聘料及供料 葬儀前後及当日使丁人夫臨時雇 計 19 人半雇料 神饌料2回分 葬祭具借料及手数料 斉部神職各供料及楽人供手当 墓標、鳥居製作費 榊代 雑費(〆縄、荒菰、茶、紙、毛糸、 縄、菓子代) 輿、樒、白張・高張提灯借料 輿丁 12 人 遠見1人 心付 傭人2人代 祭壇用供物料 音楽伶人聘用料 同上人夫料 紙代 檜4寸角墓標2代 草履其他縄代 樒線香代 臨時雇人夫 竹7本、小竹色々 臨時雇2人 蒸茶半斤代 菓子代 リボン・糸・針・毛糸代 葬具買物用伏見行実費 葬具輿修繕ニ付運搬費其他 銘旗2代 円 4.2 5.5 8.25 円 12.9 1.5 .7 5.6 2.5 3.5 .24 1.38 .33 .035 .2 .35 .7 .35 .52 .355 .24 .3 .68 ⑵ 明治38年1月18日 D 家町葬経費(神式) ⑴ 明治37年12月17日 B ・ C 両家町葬経費 金 額 摘 要 金 額 経費清算書は残っていない。唯一、清算がわかるのは 三十七年十二月十七日の B ・ C 合同葬である。同月 ( ( 59 二十八日、清算のうえ、 B 遺族に残金四二円二一銭を、 C 遺族に残金三〇円四一銭を交付している。 (( 社会科学 76 号(2006 年3月) ⑷ 明治38年11月24日 G 家町葬経費 ⑶ 明治38年4月27日 E 家葬儀経費 金 額 金 額 摘 要 円 2.4 .5 1. .9 1. 12.0 .95 1.33 .25 .935 .66 .06 .075 .8 .6 .8 円 2.4 .5 2.4 1. .1 .35 2.4 .35 1. .36 .50 .52 .68 .06 .35 12. 六尺人夫 遠見1人 ハタ持1人カンハン7枚建長 篠提灯樒持代 位牌及心付 臨時雇4人分 祭壇盛物料、音楽招聘料、同 人夫代、寺坊供料、其他実費 羽二重金巾1丈代 紙、菓子代 菓子代 棺及勲章代其他 茶代 毛糸代(銘旗用) 竹代(銘旗用) 終日雇2人分 夜間及時間外2人分 会葬寺院(浄土宗外)借料 1. .075 .8 1.05 .6 .35 24.26 注「領収証」から作成。 摘 要 輿丁6人人夫料 遠見1人 銘旗持其他8人人夫料 樒一対代 タスキ人夫2人付 位牌 高張・小提灯各1対借入料 輿 輿運賃 人夫心付 白羽二重金巾半巾8尺代 軍隊ニ供スルセンベイ2斤代 紙代 墓標代 蝋燭・線香・花代 喜せん半斤代 寺院祭壇盛物料、寺院借料人夫代 音楽招聘料 楽人汽車賃 銘旗ノふさ 傘曲録ノ供4人分 22 日・24 日3人傭人料(1日 35 銭) 寺院供3人(1人2銭) 時間外臨時雇半人ツヽ(2人) 28.845 2 尚武義会と宇治町奉公義会 葬儀費を支出したのは宇治町尚武義会と宇治町奉公義 会である。二つの団体については、現在のところ、その 全容をとらえるまでにはいたっていない。日露戦争後京 都府が編集した『京都府日露時局記事』は、久世郡の軍 事援護団体として郡内の尚武義会、奉公義会・出征軍人 家族慰藉義団を列挙し、各団体の戦時事業の概要を述べ ている(表3)。ここには宇治町の二つの団体も見える。 尚武義会は郡組織であり、後述するように久世郡尚武 義会(会長は郡長)のもとに各町村尚武義会(会長は町 村長)がある。さきの葬式列順、焼香弔辞順序・拝礼弔 ( 辞順に見える郡尚武義会支部(長)は各町村尚武義会(長) ( (( の別称である。久世郡尚武義会の設立は日清戦争前の明 ( 治二十六年十月である。宇治町尚武義会がこのとき同時 ( ( (( に設立されたかどうか確認できないが、日清戦争台湾占 ( 領期の明治二十八年十一月二十九日には存在する。 (ママ) 日露戦争期の久世郡尚武義会規約(年次不詳)は、「本 会ハ軍人出身ヲ奨励シ軍人ヲ優待シ郡民ニ尚武ノ気風ヲ 振興セシムルヲ以テ目的トス」とし(第一条)、この目 的を達するため八つの事業をおこなうとし、①新兵入営 (( 注 ⑶と同じ 60 戦死者葬儀の時代変化 表3 日露戦争時久世郡の軍事援護団体 久津川村尚武義会ニ同シ、 寺田村尚武義会 應召軍人ノ為メニ、送別式ヲ挙ケテ餞別品ヲ贈与シ、応召並ニ現役軍人家族ノ 慰問救済、出征軍人ニ慰問状ノ発送、戦病死者ノ弔祭及ヒ遺族ノ慰問、戦捷祝 賀会ヲ開催シ、出征軍人ニ防寒毛布ヲ寄贈シ、平和克復ノ後、戦病死者ノ招魂 祭及ヒ凱旋軍人歓迎祝賀会ヲ施行シ、時局ニ貢献シタリ、 在郷軍人予餞会ノ執行、凱旋軍人歓迎祝賀会ノ開催等ニ尽シタリ。 戦時ニ方リ本会ヲ組織シ、応召軍人ノ送別見送リ、軍人家族ノ慰問救護、出征 軍人ニ慰問状ノ発送、戦病死者ノ吊慰葬祭、時局中後援事業ニ尽シタリ、 同上、但シ本会ニテハ軍人ノ家族ヲ集メ、軍人被服ノ縫製ニ従事セリ、 在郷軍人予餞会ヲ執行シ、応召軍人ノ見送リ、軍人家族ノ慰問救済、出征軍人 ニ慰問状ノ発送、戦病死者ノ弔慰葬祭、凱旋軍人ノ歓迎祝賀会ヲ行ヘリ、 槙島村尚武義会 小倉村尚武義会 小倉村出征軍人家族 慰藉義団 佐山村尚武義会 同上、 御牧村尚武義会 同上、 富野荘村尚武義会 同上 大久保村尚武義会 同上、 久世郡尚武義会 宇治町尚武義会 宇治町奉公義会 淀町尚武義会 久津川村尚武義会 者 の 送 別、 ② 戦 功 者 の 表 彰 お よ び 従 軍 者 の 慰 労、 ③ 廃 兵・在営・従軍者家族、戦病死者遺族扶助慰藉、④軍人 戦病死者遺族の慰問、⑤行軍宿泊の接遇、⑥軍人会の幇 助、⑦軍人遺族下賜金の保護、⑧其他評議委員会におい て必要と認めたる事項をあげている(第十二条)。会の 事務所は郡役所内に、各支部の事務所は各町村役場内に 置くとした(第三・四条)。会員は名誉会員・特別会員・ (ママ) 義務会員の三種とし、名誉会員は功労もしくは名望ある (ママ) 人で評議員会において推薦された人、特別会員は会の事 業を翼賛し金品を寄贈した人で評議員会において推薦さ れた人、義務会員は郡内において一戸を構える各戸主と した(第五条)。会の役員には会長(郡長が就任)のほか、 町村長からなる評議員一〇名、会長により指名嘱託され た幹事二名、書記若干名を置き(第六条)、支部役員に は支部長(各町村長が就任)のほか、支部長により指名 嘱託された支部評議員若干名、事務員若干名を置き(第 七条)、支部長は会長の指揮により支部に係る諸般の事 務を処理するとしている(第八条)。会の費用は「最近 現在戸数ノ率ニヨリ各支部」に分賦し、各支部は支部評 議会の議決により便宜の方法を定め、会長の承認を得て 寄附もしくは義務会員に分賦徴収するとしてる(第十四 61 戦時中事業施設の概要 団 体 名 注 記載は史料のまま。『京都府日露時局記事』兵事事項(京都府立総合資料館所蔵)。 社会科学 76 号(2006 年3月) 条)。 ( ( ( 露戦争後の事業報告は、各祭祀料はその倍額を贈ったと 遺族に贈るとしている(第二条・第三条)。しかし、日 五円を、軍人従軍中戦死した者には祭祀料一〇円を、各 務中公務のため死亡または従軍中死亡した者には祭祀料 は、本郡出身軍人戦病死者弔慰について規定し、軍人服 ( 久世郡尚武義会の軍人戦病死者弔慰規程(年次不明 ) (( ( ある。 ( 残っている。以下は明治三十七年三月作成の同会会則で が、 宇 治 町 奉 公 義 会 の 記 録 が 一 部、 発 足 初 期 の も の が 宇治町尚武義会の日露戦争期の記録は見あたらない である。ここから両会の事業分担がわかる。 還軍人にかかわる事業、後者が軍人家族にかかわる事業 両者がおこなった事業は、前者が主として出征軍人・帰 葬 祭 等、 時 局 中 後 援 事 業 ニ 尽 シ タ リ 」 と 記 す( 表 3)。 ノ慰問救護、出征軍人ニ慰問状ノ発送、戦病死者ノ吊慰 こなった事業として「応召軍人ノ送別見送リ、軍人家族 賀会ノ開催等ニ尽シタリ」と記し、宇治町奉公義会がお た事業として「在郷軍人予餞会ノ執行、凱旋軍人歓迎祝 『京都府日露時局記事』は、宇治町尚武義会がおこなっ 記す。 (( (( 宇治町奉公義会々則 第一条 本会ヲ宇治町奉公義会ト称ス 第二条 本会ハ日露戦役ノ為メ征途ニ上リタル宇治 町在住軍人ノ家族ヲ保護慰藉シ出征軍人ヲシ テ後顧ノ念ナカラシムルヲ以テ目的トス 第三条 本会ハ宇治町内有志者ヲ以テ組織ス 第四条 本会ノ資金ハ有志者ノ義捐金ヲ以テ之ニ充 ツ 第五条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク 一 会長一名 一 理事五名 一 会計二名 一 評議員二十名 第六条 会長及評議員ハ発起人之レヲ撰挙シ理事及 会計ハ評議員中ニテ互撰ス (ママ) 第七条 委員及ビ事務員ヲ設クル必要アルトキハ会 長之レヲ嘱托ス 第八条 本会資金ノ処分及第二条ノ目的ヲ執行スル 方法其他本会ニ関スル重大ナル事項ハ評議員 (ママ) ノ議決ニ依ル 但評議員会ハ半数以上ノ出席ヲ以テ開会ス ルコトヲ得 第九条 本会ハ日露戦役終局ヲ告ケ応召軍人復員ノ 62 戦死者葬儀の時代変化 日ヲ以テ解散ス 第十条 本会則ノ改正ヲ要スルトキハ発起人会ノ議 なもの(細則第一条第一項)、②家族の疾病あるいは死亡、 不慮の災害に罹ったとき(細則第一条第二項)、③出征 宇治町尚武義会評議員各組総代会が開かれ、翌十日に発 る。三十七年三月九日、出征軍人家族保護を議題とした 宇治町奉公義会の設立は明治三十七年三月十七日であ 者 に は 一 日 白 米 三 合 ま た は 二 合 を 扶 助( 細 則 第 二 条 )、 歳以上の者には一日白米四合または三合、一三歳以下の 中自活可能な者を除き、自活できない者を対象に、一三 一条第三項)とした。保護支給は、①の該当者には家族 軍人の戦死または公務のため死亡・病死のとき(細則第 起人会が設立、十二日に発起人会において会則を制定、 ②の該当者には一時金二〇円以下の範囲内において支給 決ニ依ル 役員が選出され、設置にいたったものである。①会の目 慰藉(細則第四条)、③の該当者には一時金五〇円以下 (ママ) 的は会則第二条が記すとおり、宇治町在住出征軍人家庭 の範囲内において給与慰藉(この場合、①の扶助給与を ( の援助にあること、②会は日露戦争の終結、出征軍人帰 中止)としている(細則第五条)。その後、六月二十八 ( 還の日をもって解散するとしている。③同会の設置は宇 日に出征軍人家族保護追加細則(以下、追加細則と略) ( 治町内有志者によるもので、④資金は有志者の義捐金と が制定され、新たに①の該当者で、④生計困難の程度の (( 除き、宇治町等差により算出し、同仮定額の標準以上を 会の資金となる義捐金は、出征軍人・現役軍人家族を 二条)。 とした(この場合、①④の扶助給与は停止、追加細則第 隊帰郷したときは一〇円の範囲内において給与慰藉する ⑤出征軍人について、戦闘または公務上の負傷により除 の事態が生じたときは中止)するとし(追加細則第一条)、 ( する。会長・書記等には多くは町役場関係者が就任し、 ( 軽きものには出征者一戸に付き月一円を扶助(ただし③ ( 事務所は役場内に置いたが、町役場とは別組織の有志団 体である。 ( 会則施行にあたり制定された出征軍人家族保護細則 ( (以下、細則と略)・家族保護制限規定(以下、制限規定 (ママ)(二)カ と略)は、会則第一条により保護対象となる出征軍人家 族について、その対象を宇治町に本籍を有し、一年以上 宇治町に居住し町費を負担した者およびその家族に限る (( (( とし(制限規定第一条)、その家族のうち、①生計困難 63 (( 社会科学 76 号(2006 年3月) 表4 宇治町奉公義会 第一期(明治37年3月17日−8月31日)収支決算表 支出 支 出 費 目 金 額 備 考 円 % 266.555(76.5) 支給米代金(細則第1条第1項給与) ①白米 18 石1斗6升4合 支給金 ②細則第1条第2項給与 ③細則第1条第3項給与 ④追加細則第1条給与 ⑤追加細則第2条給与 55.200(15.8) 12.200 30.000 10.000 3.000 出征者慰問郵税 2.000(0.6) 旗章調整費 1.450(0.4) 臨時書記給料 2.200(0.6) 印刷費及帳簿代 募金原簿ノ調整、領収証、慰問状ノ認方等 14.660(4.2) 寄附金掲示場設造費 会創立時ノタメ、多額ノ出費 4.855(1.4) 紙代 役場前ノ掲示用、板代・大工手間等 1.580(0.5) (ママ) 計 348.495 収入 募 金 集金予定額(A) 円 既収額(B)B/A 未収額(C)C/A 円 % 円 % 第1回分(3月徴収) 393.680 354.380(90.0) 39.300(10.0) 第2回分(6月徴収) 377.430 194.020(51.4) 183.410(48.6) 771.110 548.400(71.1) 222.710(28.9) 計 注 支出合計はあわないが、史料記載のままとした。収入、支出の差引残高 199 円 90 銭5厘は現在金 として保有。「宇治町奉公義会 第一期収支決算表」から作成。 64 戦死者葬儀の時代変化 ( ( 第一条第二項第三項及追加規則第二条ニ依ル 出征軍人 ( 受けるとしている。宇治町等差とは府税戸数割賦課の等 家族扶助支給原簿』によると、同費は三十七年七月九日 ( 差による町税戸別割の等差である。この年、宇治町戸別 付けの支出で、その内訳は一〇円が香奠、二〇円が葬儀 ( 出 征 軍 人 家 族 扶 助 支 給 原 簿 』 に は、 B 、 C 、 D ( 割の等差は三一で、これを基に「義捐金等差ノ標準」が 費である。同会第二期以降の収支決算表は現存しないが、 ( 表4が現在残る同会第一期(自明治三十七年三月十七 に も、 A と 同 様 の 措 置 が 取 ら れ て い る。 B 、 C に ( 作成され、募集した。徴収事務は、会計係のもとで町各 右の『細則第一条第二項第三項及追加規則第二条ニ依ル ( 日至同年八月三十一日)決算報告表である。支出には設 は三十七年十二月十七日付けで、 D には三十八年一月 ( 立期の経費である旗章調整費、印刷費・帳簿代、寄附金 二十一日付けで支出している。宇治町奉公義会が負担し 宇治町尚武義会の葬儀費支出額は不明である。宇治町 ( 掲示場設造費も含まれるが、圧倒的に多いのは細則第一 ( た葬儀費は各二〇円で、同会一般経費の中から支出して 他方、収入には寄附金はない。唯一の収入である「募金」 奉公義会支出の葬儀費二〇円、郡尚武義会が贈ったと考 香資料等を加えると、宇治町尚武義会支出の葬儀費は、 先述の B ・ C の葬儀費清算額から推測して二〇円と 算表の支出項目には葬儀に関する項目はないが、第二項 会を設置したのは宇治町と小倉村である(表3)。宇治 日露戦争時、久世郡各町村で尚武義会のほかに奉公義 思われる。 支給金の③細則第一条第三項給与三〇円が A に贈られ 町では戦死者葬儀は、経費は両会が支出し、葬儀委員の もとでおこなわれたが、尚武義会だけの町村では町村尚 たものである(表4)。『明治三十七年参月 三十九年弐 こなわれた(表1)。八項目に分類された同会第一期決 同会第一期には、七月十一日に戦死者 A の葬儀がお に基づく募金であったことによる。 に未収額がある。第一回分にも見られるが、第二回分で (( えられる祭祀料二〇円、そのほか他町村尚武義会からの (( はさらに増加している。有志者の義捐金とはいえ「等差」 ( 条第一項に該当する①生計困難な者への扶助である。同 (( いることがわかる。 ( 組(一〇組)ごとに組総代ほか嘱託員が担当した。 (( 扶 助 は 金 額 に 換 算 し て 支 出 総 額 の 七 六・五 % を 占 め る。 (( | 月〔記載は三十八年五月二十六日まで、籠谷記 〕 細則 65 (( (( 社会科学 76 号(2006 年3月) ( 端ノ経費」は同村尚武義会の支出であったことが久世郡 読み取れる(表3)。富野荘村では葬儀のほか、石碑等「万 武義会がおこなったことが『京都府日露時局記事』から 大正八年度─十年度、昭和七年度─十一年度、十三年度、 年度、三十一年度─三十五年度、四十年度─四十三年度、 町村制施行以来、一部の年度(明治二十二年度、二十六 に宇治町歳入歳出決算書がある。同町歳入歳出決算書は ( 役所刊行『奉公録』が記す同村の戦時施設事業報告によっ ( ( 儀の一端がわかる。 ここでは「私葬」の有無はわからない。 ( る上で必要な年度はほぼ揃っており、ここから戦死者葬 十七年度、二十一年度)は欠くが、本稿の課題をとらえ ( 二 「昭和」の葬儀 ( ( 日露戦争期の明治三十七、三十八年度同町歳入歳出決 年にはさらに各地で増加した。中国における増加のほか 戦線拡大によるもので、敗色が濃くなった十九年、二十 死者の戦地はアジア全域に広がった。太平洋戦争による 十 六 年 ま で は 五、六 人 で 推 移 し た。 十 七 年 か ら 急 増 し、 出決算書には「附記」説明がないので、支出状況の一端 祀費(項、目)として支出されている(表5)。同町歳 目)として、十九年度─二十年度は戦時特別費(款)祭 支出され、十八年度は臨時部戦時諸費(款)祭典費(項、 祭典費(種目 以下、特別の場合を除き目と略)として 費は昭和十二年度─十六年度は臨時部事変費(款、項) フィリピン、太平洋、ビルマ、ニューギニア、沖縄で目 がわかる予算提出時の説明を見ると、十四年二月二十四 参照)、死者は十二年二人、翌十三年─ だつ。なかでもフィリピンでの増加が目だつ。両年にお 日 の 昭 和 十 四 年 度 予 算 審 議 に お け る 議 長 説 明 は、 事 変 昭和期宇治町の戦死者葬儀に関する史料は見あたらな 費、祭典費ヲ増加シタルガ主ナルモノデアリマシテ、慰 二 五 一 〇 円 増 と な っ た こ と に つ い て、 そ の 増 は「 慰 問 費( 四 六 一 〇 円 ) が 前 年 度 予 算 額( 二 一 〇 〇 円 ) よ り い。ただ本稿の課題との関連で葬儀の片鱗がわかる史料 結後も各地でつづいた。 ける死者は全体の七〇・〇% を占める。戦死者は戦争終 てみると(注 算書には戦死者および同葬儀に関する支出はない。これ (( 二二三人を超える昭和期宇治町の戦死者は、日中戦争 ( ても確認できる。 (( らの支出が登場するのは昭和十二年度からである。同関係 (( がはじまった昭和十二年が最初である。二二三人につい ( (( (( 36 66 戦死者葬儀の時代変化 問 費 ハ 春 秋 二 回、 祭 典 費 ハ 新 タ ニ 招 魂 祭 執 行 費 ヲ 計 上 なくなり、祭祀費(項、目)は諸費(款)に移り、ここ 二十三日上程の二十一年度予算では戦時特別費(款)は ( シ タ カ ラ デ ア リ マ ス 」 と 述 べ て い る。 ま た 十 六 年 十 月 で三〇〇〇円が計上され、八月十七日の第二回追加更正 ( 二十八日の昭和十六年度第四回追加更正予算で祭典費既 予算で一万円を追加、十一月二十日の第三回追加更正予 ( 決予算額(五〇〇円)に五〇〇円の追加があり、収入役 算 で 五 七 〇 〇 円 を 減 額、 七 三 〇 〇 円 と な っ て い る。 翌 ( はその追加について「□□君ノ戦死ト病死ノ□□君ノ英 ( 二十二年三月二十七日上程の二十二年度予算書では祭祀 ( 霊ヲ近ク迎ヘマスノデ其ノ祭典費デアリマス」と説明し ( 費(項、目)は廃項となる。廃項は二十一年十一月一日 ( ている。また二十年十二月十四日の昭和二十年度第二回 の地方長官宛て内務文部次官通牒発宗五一号「公葬等に ( 追加更正予算で祭祀費の三五〇〇円の増額があり、収入 ついて」によるものである。 ( 役は「コレハ先般行ハレマシタ合同慰霊祭費ニ充テル為 宇治町歳入歳出決算書には「附記」説明がないので、 ( デアリマス、英霊三十二柱ニ及ビマシタノデ多額ニナリ ( みるとおり合同慰霊祭としておこなわれていたと思われ 二十年度第二回追加更正予算審議における収入役説明に 度には一四・五倍となる。両年度の町葬は、先述の昭和 和十二年度に比べ、十九年度にはその八・五倍、二十年 で あ る。 同 支 出 額 は 年 を 追 っ て 増 え て い る。 同 費 は 昭 化しているが、一貫してつづくのは祭典費・祭祀費(目) である。種目は年ごとに変わり、長くても二年ごとに変 表5がこの間の同経費の支出を款単位でまとめたもの 村葬儀執行規程とその歳出決算書にみる記載様式であ 者葬儀費が村費支出に転じたと思われる昭和十二年の同 原村の決算書記載様式、もう一つは久世郡御牧村の戦死 死者葬儀費であることを示しておこう。一つは相楽郡瓶 について、府南部二村の記載事例から、同費の内容が戦 入出歳出決算書における祭典費・祭祀費の様式上の扱い だけでは例証として十分と思えないので、以下、町村歳 戦死者葬儀費であることを述べた。しかし、上記の説明 その内容に触れ、祭典費・祭祀費が戦死者関係費を含む ここでは可能な限り予算審議時の議長・収入役説明から (( マシタ」と説明している。同予算書に貼付された覚書は、 (( (( る。 三五〇〇円は「町葬費」と記す。 (( る。二十一年度歳入歳出決算書はないが、二十一年三月 67 (( (( 社会科学 76 号(2006 年3月) 円 1,780.15 3,952.93 3,980.18 臨時部 事変費(款) (項) 円 1,344.80 1,731.32 304.64 − 円 円 1,081.38 2.00 − 軍隊接待費 (目) 2,026.48 1,887.67 − − 706.49 円 祭典費(目) 送迎費(目) 慰問費(目) 祝賀費(目) 表5 宇治町歳出決算書に見る祭典費・祭祀費 年度 昭和12 14 15 円 円 円 円 円 円 56.00 155.65 円 187.70 − 137.13 − 円 − 国民貯蓄奨 励費(項・目) 92.00 円 国民貯蓄奨 励費(目) 国民精神総動 勤 労 奉 仕 活 員施設費(目)動助成費(目) − 114.80 − 1,067.90 1,182.70 16 金属回収実 人口調査費 国 民 登 録 事 臨時部 祭典費(項) (目) 務所費(項・目) 施費(項・目)(項・目) 戦時諸費(款) 4,547.23 戦時特別費 − 円 978.61 − 円 300.00 − 円 1,103.00 − 円 23.46 − 円 90.00 − 114.00 円 568.00 565.00 1,170.49 473.14 1,770.60 物質需給諸 勤労奉仕費 国 民 登 録 事 墓地整理費 勤労統計調 国民貯蓄奨 金属回収実 戦時農業要員 疎開受入費 費(項・目) (項・目) 務所費(項・目) (項・目) 査費(項・目)励費(項・目) 施費(項・目)施設費(項・目) (項・目) (項) 祭祀費(目) 542.00 18 (款) 31.50 1,263.00 円 2,208.71 450.93 円 2,576.35 3,322.94 円 7,967.63 4,412.05 円 19 9,448.92 円 20 注1.昭和 13・17・21 年度は欠。昭和 17 年度歳出予算書では臨時部戦時諸費(款)1,158 円、祭典費(項・目)500 円、第2回追加更正予算書(10 月 24 日)で祭典費 2.各年度歳出決算書(『会議綴』昭和 14・16・17・18・20・21・22 各年、「宇」)から作成。 1,300 円を追加、第3回追加更正予算書(昭和 18 年3月 13 日)で祭典費 300 円を追加。昭和 19 年度以降は経常部、臨時部の区別なし。 68 戦死者葬儀の時代変化 表6 瓶原村歳出決算書に見る祭典費・祭祀費 年度 臨時部 事変費(款) (項) 祭典費(目) 円 昭和12 13 14 15 16 17 18 166.81 218.27 391.53 227.63 145.90 臨時部 戦時諸費(款) 580.03 臨時部 戦時諸費(款) 590.99 戦時特別費 (款) 19 20 附 記 円 95.50 106.11 371.74 118.29 − 祭典費(項) 村葬費(目) 550.73 村葬費 戦傷死者公葬費 四人合同葬費 (項) (目) 275.34 一人村葬儀(祭壇飾付 108 円、供物 23 円 25 銭、僧侶布施 32 円、其他 112 円 09 銭) (項) 祭祀費 (目) 2,094.52 873.57 489.57 375.07 戦傷病死者村葬費(祭壇飾付3回 169 円 25 銭、僧侶布施 96 円、楽人謝礼 30 円、雑費 194 円 32 銭) 戦死者村葬費用 注 祭典費の計上は昭和 12 年度からはじまる。昭和 19 年度以降は経常部、臨時部の区別はなし。昭和 21 年度は諸費(款) の中にも祭祀費(項・目)なし。 「瓶原村歳入歳出決算書」各年度影写本(加茂町教育委員会所蔵)から作成。 ( ( (( 相楽郡瓶原村は府南部木津川右岸の昭和十五年人口 二二六九人の村である。古代の恭仁京、山城国分寺の地 として知られる村である。表6が同村歳出決算書に見る 祭典費・祭祀費支出である。同村では祭典費(目)と記 すこともあれば、村葬費(目)、村葬費(項、目)、祭祀 費(項、目)と記すこともある。表現は異なるが「附記」 説明から葬儀費であることがわかる。宇治町では招魂祭 ( 執行費も含んだようであるが、同村では全額が村葬費の ( ようである。日露戦争時、同村には二人の戦死者があっ た。明治三十七年・三十八年度同村歳入歳出決算書には ( 戦死者関連支出はない。相楽郡各町村では葬儀は郡尚武 ( (( 義会の監督のもと、同会各町村支部長が祭主となり実施 ( した。経費は有志の寄附金、支部の経費であった。 ( (( 久世郡御牧村は宇治町に近い郡内の昭和十五年人口 10 二九〇一人の村である。日露戦争時、同村には三人の戦 ( 死者があった(注 参照)。葬儀状況は明らかでないが、 ( (( 同村においても戦死者葬儀は御牧村尚武義会によってお こなわれたようである。同村でも戦死者葬儀に変化が生 ( じたのは昭和十二年と思われる。同年十二月十九日、村 ( 69 会に御牧村葬執行規程が提出され、即日議決、翌二十日 に施行した。 (( (( 社会科学 76 号(2006 年3月) 御牧村葬執行規程 第壱条 本村出身軍人ニシテ戦死及従軍中病歿ナシ タル者ハ之ヲ村葬トス 第弐条 村葬経費ハ百円以内トシ村費ヲ以テ之ヲ負 担スルモノトス 第参条 葬儀ニ関シ委員長及委員ヲ置ク 第四条 葬儀委員長ハ村長之ニ当ルモノトス 第五条 委員ハ村会議員区長方面委員軍友会長農会 長産業組合長耕地整理組合長在郷軍人分会 長消防組頭小学校長青年団長国防婦人会長 女子青年団長村吏員ヲ以テ組織ス 第六条 委員会ハ委員長ニ於テ必要ト認ムルトキ之 ヲ召集スルモノトス 第七条 委員会議長ハ委員長トス 第八条 委員会ハ委員三分ノ一以上出席スルニアラ ザレバ開会スル事ヲ得ス 第九条 委員会ノ議決ハ多数決トス 第十条 葬儀委員ハ遺族ト共ニ葬儀ニ関スル諸般ノ 事項ヲ協定執行ス 第十一条 葬儀委員ハ左ノ事項ニ分掌ス 一 庶務 一 儀式 一 接待 一 収支 但 シ 第 五 条 所 定 ノ 委 員 中 ヨ リ 若 干 名 ノ 常 務 委員ヲ置キ前条並前項ノ事務ヲ執行分掌セ シムルコトヲ得 常務委員ハ委員長之ヲ嘱託ス 第十二条 庶務係ハ通信記録及他ノ部ニ属セザル事 務一切ヲ掌ス 第十三条 儀式係ハ儀式ニ関スル一切ノ事務ヲ掌ル (ママ) 第十四条 接待係ハ休息所ノ設備及葬送者接待ニ関 スル件ヲ掌ル 第十五条 収支係ハ収支会計ヲ一切ヲ掌ル 第十六条 葬儀ハ遺族ノ希望ニ依リ仏式神式其他信 仰スル宗教式ニ依ル 第十七条 儀式列順其ノ他祭典順席等ハ其ノ都度定 ムルモノトス 第十八条 葬儀事務所ハ本村役場内ニ之ヲ置クモノ トス 第十九条 村葬当日ハ各戸主旗ヲ掲ゲ弔意ヲ表シ毎 戸一人以上会葬スルモノトス 第二十条 本規程以外ノ事項ハ委員ト遺族ノ協議ニ ヨリ便宜協定ス 70 戦死者葬儀の時代変化 昭和期、町村歳出決算書に見る祭典費・祭祀費が戦死 支出されており、「附記」に「村葬三回分」と記す。 時部事変費(款、項)祭典費(目)で三〇三円五四銭が 状況がわかる翌十三年度御牧村歳入歳出決算書では臨 本規程ハ昭和十二年十二月二十日ヨリ之ヲ施行ス 附 則 からである。時期は昭和七、八年ごろと思われる。市制・ 正期もつづく。変化が起きはじめたのは昭和期に入って づいた。戦死者の葬儀に限っていうならば、同理解は大 の支出がないのはこのためである。この理解はながくつ でもあった。明治期の町村歳入歳出決算書にこれら諸費 外とする理解があったからである。これは「官」の理解 た国家の慶弔など、これらは市制・町村制第二条の範囲 ( 者葬儀費であることは間違いない。戦死者葬儀は主催者、 町村制第二条の規定に大きな変化はないが、次第に町村 費、村(町)葬費、祭祀費等さまざまな種目が立てられ 黙して語らずの状況がつづいた。そのため町村では祭典 ( 経費支出において昭和期に変化したことが読み取れる。 費支出の方向にむかい、十二年ごろ支出は一般化したと ( 変化は宇治町に限らない。瓶原村、御牧村においても同 思われる。この間、監督官庁から町村への指示はなく、 ( じであろう。全国各市町村に共通する変化と思われる。 まず断定してよいであろう。 支出した。種目名称に宇治町と瓶原村に違いがあるのは 項)出征軍人村葬費(目)とする村もあれば、村葬費(款・ そのためである。違いは種目だけに限らない。村葬費(款、 戦死者葬儀の執行は明治期においても町村葬とも呼ば ( 項)、式場費・弔慰金・需用費・雑費(以上、目)とす ( れた。昭和期も同様である。しかし、同じく町村葬(公 ( 明治期には戦死者葬儀に町村は関与しなかった。関与 を意味する科目(款・項)名称、種目(目)名称の違い 一町村においても年度によって異なる。支出方法の違い 吊慰金・需用費・雑費(以上、目)とする村もある。同 しないのが普通であった。戦死者の公葬、軍隊歓迎のた は、昭和十八年度までつづき、十九年度から戦時特別費 のか。この疑問は残る。 ( る村もある。また、事変費(款)村葬費(項)祭壇費・ おわりに (( 葬)と呼ばれながら、どうして執行実態で変化が生じた (( めの凱旋門や凱旋記念碑の建設、軍隊の慰労・祝賀、ま 71 (( (( 社会科学 76 号(2006 年3月) (款)祭祀費(項、目)の名称で統一された。統一は昭 六四・六五号、二〇〇〇年)。拙稿「戦死者の葬儀と町村」(歴史 科学協議会編『歴史評論』六二八号、二〇〇二年八月)。 (2 ) 明治二九年・三七年の数値は第十回・第十七回『京都府治概覧』 和 十 八 年 十 二 月 十 日 の 市 制 町 村 制 施 行 規 則 中 改 正( 内 務省令七二号)の第五四条別記予算様式に依拠した結 ( (京都府立総合資料館所蔵)、他は『京都府市町村合併史』 (京都府、 ( 果 で あ る。 明 治 以 来 定 め が な か っ た 戦 死 者 葬 儀 費 の 支 年表』(宇治市役所、昭 昭和四三年、七三九頁)による。 ( 3 )( 4 )『宇治市史』四巻、『宇治市史 出は同規則改正によってはじめて政府のお墨付きを得 た。 和五三年・五八年)。 (5 ) 池田一郎・鈴木哲也『[新装版]京都の「戦争」遺跡をめぐる』 十八年の市制町村制施行規則中改正でこの先行実態が 入 り 生 じ、 実 態 と し て 町 村 費 支 出 が 先 行 し つ つ、 昭 和 お り「 明 治 」 と「 昭 和 」 で は 異 な る。 変 化 は 昭 和 期 に 者 葬 儀 の 執 行 と 市 町 村 の か か わ り は、 本 文 で 述 べ た と 法、小根尾、白川、山本、米阪の墓地)、寺院内墓地の墓碑にみ 墓地には二二三人の墓碑が並ぶ。他に旧宇治町内の共同墓地(善 (8 ) 昭和三十年五月に平等院境内に完成した旧宇治町出身者戦没者 (7 ) 久世郡郷土調査研究部編『久世郡郷土教育資料』昭和七年。 (6 )『京都府久世郡写真帖』京都府久世郡役所、大正四年。 つむぎ出版、一九九六年、一一七頁。 追 認 さ れ、 制 度 化 さ れ た と い う 経 過 を た ど る。 こ う し C / D G の六つの花/心荒野の夜あらしに/散りし 年、二六五頁)。もれた一人は入寄留者である。 れを語るらん」(『菟道校百年誌』菟道校百年誌刊行会、昭和五二 て九段坂/うら靖国の守り神/君がいさをを伝 うらん/君がほま (ママ) ゆくえぞ/惜しまるる/ああ散る花は惜しけれど/みたまは帰り A (9 )「六勇士のうた」歌詞は、「咲く花の色見るにつけ/ B ● F 、以下同じ) (戦死者姓 る死者を加えると、二二三人をはるかに超える。 賀 田 村 の 事 例 ─ ─ 」( 同 志 社 大 学 人 文 科 学 研 究 所『 社 会 科 学 』 (1 ) 拙 稿「 町 村 制 下 昭 和 期 の 村 財 政 と 生 活 ─ ─ 大 阪 府 南 河 内 郡 加 意味があるのか、残る課題である。 た 変 化 が ど う し て 生 じ た の か。 ま た 変 化 に ど の よ う な お い て も 使 用 さ れ て い た か ら で あ ろ う。 し か し、 戦 死 な か で は 定 着 し て い る。 村 葬、 町 葬 の 言 葉 は 明 治 期 に 戦 死 者 葬 儀 を 公 葬 と す る 理 解 は、 今 日、 自 治 体 史 の (( 72 戦死者葬儀の時代変化 久津川村 2 26 28 寺 田 村 9 79 88 富野荘村 6 76 82 佐 山 村 4 64 68 御 牧 村 3 62 65 淀 4 52 56 47 567 614 大久保村に一人、久津川村に一人である(『奉公録』京都府久世 )( )( )( ) 葬儀関係文書(宇治市歴史資 )( )( )( )( )[ 宇 ]『 明 治 三 十 七 年 三 月 出征軍 )( ) 前掲『奉公録』一八八─一九二・一九七・一九九頁。 治町尚武義会 明治廿八年出兵軍人送別会』)。 ( )( )( 1.5 30 16 5. 11 27 1.3 46 3 17 4.5 10 28 1.1 48 15. 6 18 4. 12 29 1. 69 8 13. 4 19 3.5 24 30 .9 195 9 11. 6 20 3. 30 31 .5 24 10 10. 7 21 2.7 31 11 9. 9 22 2.4 22 7 15 5 19. 5 6 17. 7 )と同じ。 計 ( 人家族保護ニ関スル綴 宇治町奉公義会』。 ( )[宇]『明治三十五年─三十九年 会議一件付属書類』。 26 」 13 ( )「義捐金等差ノ標準 5.5 21. ( ) 久世郡各町村日露戦争戦死者・従軍軍人数。 42 )( 51 6. 4 38 郡役所、明治四〇年、影写版、宇治市歴史資料館所蔵)。同書に )( 1.7 14 24. 4 は明治四一年版もある。 )( 25 4 3 大久保村 戦死者四七人のうち、四人の葬儀は「私葬」と記す。小倉村に二人、 ( ( ) 注( 10 6 4 51 料館所蔵文書、以下、同館文書は[宇]と略記)。 28 27 7. 27. 44 ( ) 高久嶺之介「日清戦時下の京都と尚武組織」(秋山國三先生追 27 1.9 13 2 7 悼会『京都地域の研究』国書刊行会、一九七九年)。 26 24 23 12 小 倉 村 ( ) この日、宇治川畔の万碧楼において宇治町尚武義会主催の出兵 22 30 10 5 ( )[宇]。 73 25 2.1 8. 30. 24 軍人送別会(招待は出兵軍人三人)が開催されている([宇]『宇 注 (注)23と同じ。 759 21 1 23 計 24 戸数 金額 等級 円 23 1 17 戸数 槇 島 村 16 金額 等級 戸数 110 15 円 円 103 14 20 金額 7 13 23 等級 宇 治 町 町 人 人 人 従軍者数 凱旋者 戦死者 町 村 12 29 30 31 32 10 11 18 19 社会科学 76 号(2006 年3月) ( ) 同支給原簿には E の記載はみえない。宇治町に本籍を有しな い者は除くという家族保護制限規定(第一条但書)によったのか もしれない。 ( ) 葬儀費の支出にはいくつかの方法があったようである。相楽郡 高山村田山区では同会計は軍人家族救護費とは別会計で、葬儀費 は別個に戸数割・等差割で徴収している(『南山城村史』資料編、 の廃止は宇治町銃後奉公会の設立をみこしての措置とも思われる が、廃止の経緯も不明。 ( )[宇]『明治三十八年会議一件』『明治三十九年会議一件』。 ( )[宇]『昭和十四年会議綴』。 39 ( )[宇]『昭和十六年会議綴』。 40 ( )[宇]『昭和二十年会議綴』。 41 ( )[宇]『昭和二十一年会議綴』。 42 ( )[宇]『昭和二十二年会議綴』。 43 ( ) 文 部 大 臣 官 房 文 書 課『 終 戦 教 育 事 務 処 理 提 要 』 四 集、 復 刻 版 44 南山城村、平成一四年、二九一─ 二九二頁、同本文編、平成一七 年、四六三頁、各参照)。 ( ) 前掲『奉公録』一七〇─一七一頁。 頁表参照。 ( ) 旧宇治町戦没者墓地墓碑に見る戦死者の年次別・戦地別状況。 十四年会議録』)。この間の同会の活動は不明。十四年度町費補助 (昭和一四年二月二四日)で廃止([宇]『昭和八年会議録』『昭和 会への町費補助は十三年度までつづいたらしいが、十四年度予算 武義会は町費補助団体(年額三〇〇円)になっている。以降、同 治町尚武義会にまわされ(昭和八年三月一三日修正議決)、同尚 軍人会宇治町分会補助金四二〇円(原案)のうち、三〇〇円が宇 かった。昭和年八年度宇治町歳入歳出予算審議に際し、帝国在郷 場 合、 視 野 に 入 れ な け れ ば な ら な い が、 た ち 入 る こ と が で き な ( ) 尚武義会は、その後どうなっていたのか。本稿の課題を考える ( )[宇]『会議一件』『会議綴』各年、。 75 ( ) 前掲『京都府市町村合併史』八八七頁。 二一年一一月二日付。 (文泉堂出版、昭和五五年)三〇六─三〇七頁。『朝日新聞』昭和 45 ( )『京都府相楽郡誌』(京都府教育会相楽郡部会、昭和四七年復刻 46 ( ) 前掲拙稿「戦死者の葬儀と町村」。 版)は二人と記す。九二頁。 47 ( ) 前掲『京都府市町村合併史』八一七頁。 48 ( ) 表3参照、前掲『奉公録』一七三頁。 49 ( )『久御山町行政文書 七八』影写本(京都府久御山町教育委員 50 喜郡青谷村誌編輯部、昭和一六年、四一頁)。 定した村は、ほかにもあったらしい(小田定成編『青谷村誌』綴 会社会教育課所蔵)。昭和十二年、京都府南山城で村葬規程を制 51 33 34 35 36 37 38 74 戦死者葬儀の時代変化 16 15 14 13 昭和12 1 4 6 4 4 2 満州 1 1 1 3 朝鮮 1 1 2 13 13 沖縄 日 本 本土 1 2 3 1 7 フィリピン 蘭領 インド シナ 1 タイ 1 2 ビルマ 8 12 1 16 3 1 4 35 1 1 1 インド 3 太平洋 および 島嶼 シベリア 計 13 ニュー ギニア 2 1 76 東シナ海 〜 南シナ海 5 5 6 6 7 8 80 10 1 18 2 3 1 4 9 4 11 4 223 1 6 1 33 1 6 1 3 4 22 3 2 1 59 6 1 1 英領 インド シナ (注36) (戦死者223人) 17 2 中華民 国 18 12 年 次 19 9 8月15日 20 まで 5 8月16日 51 2 20 以降 21 22 24 計 注 昭和23年は該当者なし。「東シナ海〜南シナ海」には黄海・南西諸島・日本近海を含む。各墓碑銘から作成。 75 社会科学 76 号(2006 年3月) (注 55) 大阪府下3町村の歳出決算書に見る戦死者葬儀費の科目構成 項 祭典費、雑費 種 目 (経) 役 場 費 (支出なし) 款 村 葬 費 雑 給 式場費、需用費 雑費 吊 祭 費 (支出なし) (支出なし) 村 葬 費 項 出征軍人町葬費 出征軍人村葬費 種 目 ⑶ 北河内郡門真村(昭和 14 年4月町制施行) 款 戦死者慰霊祭費 戦死者遺族弔慰金 (臨) 葬儀費 村 葬 費 (臨) 村 葬 費 町 葬 費 出征軍人町葬費 ⑵ 南河内郡加賀田村 (臨) 戦死者慰霊祭費 (支出なし) (臨) 町 葬 費 町 葬 費 軍 人 町 葬 費 ⑴ 南河内郡三日市村 昭和7 (支出なし) 戦死者村葬費 式場費、弔慰金 需用費、雑費 (支出なし) 祭壇費、吊慰金 (臨) 需用費、雑費 町 葬 費 町 葬 費 軍 人 町 葬 費 款 9 (臨) 村 葬 費 村 葬 費 式場費、弔慰金 需用費、雑費 村 葬 費 祭壇費、吊慰金 (臨) 需用費、雑費 町 葬 費 町 葬 費 軍 人 町 葬 費 種 目 12 (臨) 村 葬 費 村 葬 費 式場費、弔慰金 (臨) 需用費、雑費 事 変 費 村 葬 費 祭壇費、吊慰金 (臨) 需用費、雑費 町 葬 費 町 葬 費 19 18 17 16 戦時特別費 戦時特別費 --- (臨) 村 葬 費 --- 祭 祀 費 祭 祀 費 --- --- 祭 祀 費 祭 祀 費 --- 時局特別費 戦時特別費 戦時特別費 祭 祀 費 祭 祀 費 祭 祀 費 祭 祀 費 祭 祀 費 祭 祀 費 時局特別費 戦時特別費 戦時特別費 慰 霊 費 祭 祀 費 祭 祀 費 慰 霊 費 祭 祀 費 祭 祀 費 項 13 (臨) 村 葬 費 村 葬 費 式場費、弔慰金 (臨) 需用費、雑費 事 変 費 村 葬 費 祭壇費、吊慰金 (臨) 需用費、雑費 町 葬 費 年度 14 (臨) 村 葬 費 村 葬 費 式場費、弔慰金 (臨) 需用費、雑費 戦 時 費 村 葬 費 20 --- (支出なし) 15 (臨) 村 葬 費 村 葬 費 (臨) 戦 時 費 21 注 ---箇所は歳出決算を欠くため不明。各町村「款」欄の(経)は経常部、(臨)は臨時部の略。3ヵ町村とも昭和 19 年度以降は経常部、臨時部の区別なし。「各町村 歳入歳出決算書」各年(河内長野市教育委員会市史編修室、門真市教育委員会市史編纂課影写本所蔵)から作成。 76 戦死者葬儀の時代変化 ( )『久御山町行政文書 四五』影写本(京都府久御山町教育委員 会社会教育課所蔵)。 ( ) 筆者が念頭においているのは京都府・大阪府の事例である。全 国的にみて尚武義会・奉公義会等の軍人援護団体によって執行さ れた葬儀がすべて「公葬」(村葬、町葬、市葬)と呼ばれていた かどうか、検討の余地はある。 ( ) 前掲拙稿「戦死者の葬儀と町村」。 ( ) 大阪府下三町村の歳出決算書に見る戦死者葬儀費の科目構成。 頁表参照。 から施行されたので、昭和十八年度決算書から改正様式を使用し た村もある。大阪府南河内郡川上村決算書がその一例(大阪府河 内長野市史編修室所蔵)。 市史編修室、門真市史編纂課では種々お世話になった。また高久嶺之 委員会生涯学習課、久御山町教育委員会社会教育課、大阪府河内長野 追記 史料の閲覧を許された京都府宇治市歴史資料館、加茂町教育 ( ) 昭和十八年十二月十日の市制町村制施行規則中改正は公布の日 76 介氏、坂本博司氏から数々のご教示を得た。ともに厚くお礼申しあげ る。 77 52 53 54 55 56