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第 十三巻 - 法然上人鑽仰会
国初十年五月二十日円箆 第 四十三巻 脳拘ニ十四年四月二十八日 飽和五十三年四月二十五日印刷 5 1977 安居 ‘ ψ 化は さ っき附といって、 〈あんご ) 総午の節句 の五川は 句" の季節でらる のぼりがはためく桁幻悼 な気候である。さみ だれがあるからこそ、よ つつじ、さっき、食べ もの は竹 の子等、花よ けるためである。 といわれるの も、 この雨期と真夏の場さを殺 のは、気候的には十月から二月頃までがよい この安居 (佐藤行 信) 伴。 家等は 事を秩安居、冬安居といっていM る て修行 の資としている。 夏、冬に安居そ一 行っ て修行を行っている。なおわが国において、 のような形式で行う行 この夏以外の時期にこ いては、わが浄土宗においても、夏安居とし 中に おレ が伝わった務地域において行われ、 ロ なられるまでつづけられた。そのごは、仏教 、 の行事は、釈迦が悟りをひらいてから 亡く (僧) より 説法を聞く習俄であった。 って二人以上で行い、食事は信者が運び比丘 認められている。その問は、籾矧や寺院に結 れがあるため、前、中、後三筏の安居期間が なお印度は広大なため、地方により雨期にず の場所に住して専ら修行を行ったのである。 が副都く由民知を路殺するため殺生を恐れて一定 行に不便であるためである。天候が怒いと道 、 行っていた。それは、天候からいっても 遊 、 開の雨刷酬の釧問 t居 t{川棚捌)といって夜行を ζの四月中旬より七月中旬にいたる一一 一カ打 し、食べものよし、旅行に、スポーツに快適 。 初変をおもわず臼もあるこの五川は、印 けレさっき附がすがすがしく感 じ られるよう だ である。印度旅行する 岐において は もう雨 間別 ピルマの僧院の内3l1(波峻) i 五月 号 i 智者のふ るまいをせずし て た だ一 向に念仏すぺ し 一一『一枚起訴文』 目 一一一法 次 話一一一 生活に学ぶ… .. .. ・ H ・ . .…....・ H ・..…. . .・ H ・..…....・ H ・.. 吉田光党…… ( 2 ) 形ばかりの比丘……. . .・ H ・..………...・ H ・..…………郷田良謙…… (6) <人生統*コ ーナー>愛と n突 ….. . ・ H ・... .. ・ H ・ H ・ H ・..三 : . 11 ; 明 ・・・ ・・・ (21) くふるさと 紀行>大和 ・ 店招提寺、若葉の頃 おん自の雫欽はばや… .. .・ H ・ .. .. .・ H ・ . .日野西 一一一いのちを考える ②く子供> 輩其開発 徳 明…… (26) 友必滞道 |α 子どもの自によせて...・ H ・ H ・ H ・.....・ H ・ H ・ H ・..……山 田 恵ト(17) <槌惣>心のままに〔四} . .・ H ・. . ….. .・ H ・ H ・ H ・. .…… 川内知光 …… (30) 芭蕉と仏教 〈ー) ... ・ H ・ .....・ H ・ . . . .. ・ H ・..…...・ H ・. . ……河野喜雄…・・ ・ (32) <衰事l. ・ 4隆康曾>安居〈あんど〉・ H ・ H ・....… H ・ H ・.. . ・ H ・ 佐蜂行信 念仏ひじり三国志@ 一一法然をめ ぐ る人 々 ...・ H ・.. …寺 言受紙 内 大吉 ・ … ・ .(37) 久住静絵画一一一一一 : b."t 大豆大学美術S - 1- 凡 夫 さ と り 法 活 落ちついて考えてムると 意でおる〉。 、 革 党マ 寺 自分の愚かさに気付 、 霊 光5 、 ソを鳴らすのを忘れたのかも知れない。してみる a 思わず凡夫の内証を頂けた仏患に合掌いたします。 と感謝しなければならぬのは寧ろお前自身ではないか」 クシ て触れでもしたら大変とハンドルに気をとられてタラ 、 のではなかったのか。運転手はこちらの姿を見つけて万 ったのか。わが身の安全を確保するために通過を待った くのです。「一体お前はお礼宮詰って貰・つために立止ま 然し 町 ックに会うことがある。その場令官払は道路わきにバイク 、 を止めて通過を待ちます。 、 護 団だ は 出かけます。自坊から広い県道までの五百米ほどの距離 県 ず 狭いバラス道です。時たま途中でマイカーや軽トラ 言 吉t ら 率が通り過ぎた瞬間 腹が立つことがある。何だ ひ と か 2 ー ぶ r、二 どい運転手だ、切角、こちらでよけてあげているのに 、 ふ 「有難う」の合図もしないで行ってしまった。ひどい奴 無数獲の野蛮な者の たと ハひどい は非道夷と曾く。極園都非道 疑 - 学 話 生 長村に住む広は、本周の際はいつもバイクを飛ばして の 、 昨年の秋の頃だったと思う。訟は用事から帰って一服 ば継母である。夫人は夫には突に貞淑、で 子供にも夫の 、 前では由民き母であった。然し、夫が留守となると俄然女 森光子司 て下さい」。各地に見・つける幼児の誘拐事i件 i あとで判 ん熱いよ、然いよ、上げて、上げて」と泣・き叫ぶのを スの俊を開いた。お湯はどんどん熱くなる。「お母ちゃ た。弟を先にあげて姉の A予を風呂に残した。そしてガ して風自の中で喧嘩を始めた。それが継母の逆鱗に触れ 父が不在のある晩、小さい姉弟は二人で入浴した。そ 、 すべく 、テ レビのスイッチをひねった。丁度 、 どこにいるんた。早く家へ と 夜叉と化して 子供述に少しでも気に合わぬことがある 折憾の度を越したという災状性絡の持主であった。 、 オには三十位の夫妥と 母の践に抱かれた三成位の男の 会の「三時ーのあなた」が始まったところでした。スタジ 、 A 子、 A子は今 子がいた。犬が悲痛な戸で呼びかけている。 「A子 テレ 帰ってお出で、 A予を連れて行った方は早くうちへ帰し ったことだが、確か大分以?の図舎町の出来ごと 両手で"を押えて、切らく入れておいた。 A子ち平ん 、 ビに出る前日、町の普祭邪に五以の女nvfが行万.小切に は、ぐったりとなりかけたので やっとお湯からよげて 、 なったと隊視から捜索願が山された。位宵祭暑では瓜ちに A子ちゃん 外へ連れて行って一晩おいたらしい。翌朝、 、 、 磐只や消防団を総動員して近辺一都を採したが見当らな は哀れにも虫の息だった。座敷のフトソに寝せると間も 、 い。チラシ十万枚も印刷して一般の協力を要請した。 なく絶命した。そこで、継母は押入の床板をはがして 、 、 顔で夫の m宅 M を迎え、行方不明の願末を告げ テレビ出 何時吸わぬ 遺体を縁の下に放り込み、抽宵祭署へ届け出て A子は非常に倒禿な子供だった。きけば決して一人で と仲よくて、その煙車昆から逃くへ行く時は、必ず告げ 演となった。 遠くへは行かない。二百米ほど離れた煙草屋の叔母さん て行った。そして「叔母ちぞん、今、戻ったよ」と戸か 酷首祭暑では狭い町のこと、不審を抱いた。夫妻の行動 について近所の戸を聞いた。子供たちが母にひどく打れ けて家へ帰ったという。 失は行商をして常に宿泊 、 たのを見たことがあるという証言が入った。いよいよ妥 、 妥は後妻で学年前 、パ ーで知り合って結婚 言わ 、 A子ち ゃんの家は家族四人 がち -3- 、 実は逮捕された。この事件の詳報を再 、 四日間経過していたので 室内には悪臭が感じられ、犯 「A子 、訟 いう意味かときかれて困ったのですが」との質問に イソトへ行くとマナステという言葉があります。ハワ んです。簡に調法てしよう 、 面白いですね、日本にもそ ν 右縫う、さよなら、万品、みんなこの万葉一つで通じる 、 いる婦人から、ム中学生の子供に「街無阿弥陀仏とはどう 、教員 をして が怪しいと討をつけて、家宅観点献に踏み切った。追体は お彼岸の回向に檀家を廻ったときのこと 行は忽ち発覚し 、 は次の様に成明しました。 び蘇光子がコ一一時ーのあなた」で涙ながらに歓送した。訟 、 ちゃんの御冥揺を祈りあげます」。これだけでよいのか。 イにはアロハーがあります。お平う今日は 、御免なさい も家内も泣きながらきいた。だが 最後の言葉 今円、次々と減逆な行為か伝えられてくる。本共はこ れと同じ J葉、いや、それ以上に深い意味宏表わした台 -4- れらの犯人をどう眺め、ど-つ接したらよいのでしょう か。教化者として勘えられない気持で一綜です。だが、 阿弥陀仏は俗にいうあみだ様、極楽浄土にお出でにな 南無阿弥陀仏ですよ@ 葉があります 。 現代の思想、数行、社会の却も聞いたくなる。と♂って 犯人を憎むだけではいけない。犯人の生い立ち、不孝な 悲しい性怖に生れ合した因縁、よき師に恕れなか る仏織のお名前、出無は um依、助けてドさいと心からお 、 環境 願いすることですか、 O お蔭さまで今日も無事過させて頂きました。有難う った不迎にも一一掬の向情を送らねばならぬ。すべては後 の祭 、息 に今できることは、ただ犯人に一日も早く改心 ございました。 O ど・フか引放に遭いませんように。 O試 、 nずさめるよ・フ折るだけです。そして、「一 のお念仏が 生前は御苦労をかけました。 O 可愛がって貰った さん 験に合的怖できますようにお守り下さい O。 お爺さんお婆 娘の縁設が決りました。お喜び下さいO 。こういう悩み い会社への就職が定りました。御安心下さい。 O 今度、 孫も小学伎に入学しました。O一一一却が高伎を本採して良 、 五逆の衆生の生るる放なり」と法然上人がお示しなされ 念十念に足りぬベし、罪人なりとも疑ふべからず 十悪 4ま たさ紙小消息』の文を右鍵く説罰させて頂くのみです。 南無阿弥陀仏 と は七十です。速からず、おそばへ参らせて田きますから があるんですが、よき知惑をお与え下さい。 O 私も来年 を機会に極楽鳥を形どって寺紋を制定、染め抜いてムま 昨年は吉名にあやかつて、山門の幕の寄進があったの ませんか」と言われて早速貿・つことにしました。使利な 、 買ら い が、丁度一一績に働いている友人が持っているか 帰省した時、「先生から極楽鳥の剥製が欲しい言われた 、 今年は、写節労務に東京へ行っている青年が 正月に 阿弥陀綴にお務き下さるよう母からもお願いしておいて O うっかり罪を作りま した。お許し下さい。 o 。 した。 下さい 。 千供述が悪い道に入りませんよ・つにO 。どうぞ成仏され ますように このよ・つにお仏壇の前であみた様に、あるいは御先祖 、 、 、 もので 開悦楽烏は辞典で入ると、m 間h科 M、大風向、ス ν レリチ その娩、電話したとかで 翌日帰省の友人が 事で来たので運撚して来てくれました。寺の什物として 、 初願、欣求浄土と言ったもろもろの気持を総合して絡土 様に申し上♂る喜び、悲しみ、感謝 報告 慰問、追謡、 永く伝える考えです。 、 宗では-市無阿弥陀」とお唱えするのです。阿弥陀様は 四十八の願、あの長野の答光寺の尼宮織のおられますと ヤと呼ばれヒヨタトリともいう。ュュ ギユヤとその問 ころを大本願と一面いますe いわゆる本願を成就されてみ 辺に怯み、四十種矧もある。鳥類小紋去という。繁航期 1 仏織になられた方ですから、とんなことでも聞いて放っ に.たけ雄か美麗な飾り羽宏広げて雌に求愛の戸アイスνプ ーをする。 て下さる仏様なのです。 組鷲聖人は、父母の孝誌のために念仏したことがない 「お浄土で このね業向仰を L詣 mo 品引が見える邸度、紹介すると一問診 でほのぼのとした法悦を覚えました。 、 眺められた。官払はH 掛Aっ Hた子に川の浅瀬を教わった気持 、 しげに眺めて行く。一老婆だけが極集おに と、い仰の兵制を告白しておられるか、一般に先制似供 - 5- 益、抑制先崇打、追持仏教になってしまっている現在の間 烏 お阿弥陀様にお仕えする烏ですか」と合敬礼拝してから 楽 口従に対して広の広義の解釈は銭安心であろうか。 極 一 '' 一口 ー ! 形ばかりの比丘 、 一 zz;j222ii;iiJ 堀田良 謙 んうけ ほたり (静岡市撃隊院住職〉 それは七月二十日のことでるり、子の母が逝って百ケ日にもなろうとする頃であった。そして、このようなっ 亡き母の百ケ日なり郷の戸 ζとに大いなる苦闘であった。 私には母を亡くしたその子がひとしお哀れでならなかった。し 残された子供を迎れに行つての帰りの道すがり かもその年の七月、その子もまた用水に落ちて死んたのであった。これらのことは、少年である私にとってはま はちょうと今時分の暖かい四月二十六円のことであった。その時、私は十二泳、兄の依頼を受けて兄嫁の生家に 、 り村から兄嫁か米て、まもなく男児が生まれ 兄嫁はその予を生んでから病いを得て、生家で亡くなった。それ 、 て分家したのであった。貧乏人の子だくさんの例にもれず、父は苦労したようである。なの物心かついた頃隣 広は三男三女の六人兄携の貧しい食家の末っ子に生まれた。父は三人兄弟の次男であり、六反の図畑をもらっ -6- 、 、 、 今や回草取りの時分でもるったのである。母亡き後 保育に対する関心のなさから 、 、 こ まらぬ句のようなものを詠んだ次第であるが ともかく衰の穂の色づく頃に子の母は亡くなり、いつしか 闘 の戸 とともに図植えも終え の乳幼児はひとり歩きで用水の所まで足を運び 命を落とすことになったのである。親戚の大人たちは雄もが 「亡くなったお母さんが迎えに来たのだ」と慰めてくれたが、このことは今日の児抵の保育過程 Eの 要性をあら ためて思い起こさせるものがあるように思われる。 ところで本年一月、ある保育園で三歳未満児が用水に落ちて溺死したという、同じような事件があった。聞く 、 、 、 、 、 、 ナム 、 ともかく現今の「児竜福祉法」だけでは子供は完全に脊たない 子供は白々成長していることを保有者はつ ところによれば、三人の一-一歳未満児に二人の保母さんが担当していたということであった。福祉課の職員の話で も がら大きかった。しかし母の質成が 、 、 私の決意を一層強くしたことは獲かでるった。ところ僧 が侶になるには 、 、 どこかのお寺へ弟子入りしなければならない。当時でも水呑み百姓の子伶れが僧侶になるこま とこ はとに容易 -7- ねに注意しなければならない ということでもあった。 亡き母の百ケ日なり母亡き児 、 野辺の送りに、父の手に無心に抱かれて限っていた幼児は 読経の声に目をきまし 「ナム ナムアン ナムアソ」とくり返して手を合わせて、会葬の人々を泣かせたのであった。しかし 保育に事欠いたがんぜない 。 三歳未満児のその惨事こそ、周囲の大人たちは決して忘れてはならないだろう。 。 ある日私は、「僧にな り た い」と母に申し出た。母は即座に許してくれたのだが、周囲の反対は当然のことな 。 なことではなかった。いよいよ強くなる周囲の反対の戸に、一度質成した僚も、末っ子を手離したくないという 、 怨いから、私を何とか思いとどまらせようと努める仕末でもあった。それに加えて 六十戸程の広の部落にある 、 、 この真宗では出家制度がなかったことも災いしていた。いずれにしても 後に私がいよいよ浄土宗のお寺へ こヶ寺のお守も、訟の僧侶志願についてはまったく無関心であった。ところで訟の生家は真宗大谷派の門徒であ り は 、 、 、 私が僧侶を志していることをどこから聞いたものか、托鉢姿の一人の尼僧さんが訪ねて来たので 今でも覚えている。 入守することになった時、菩提寺の院住が、「さんさ あんた、浄土宗の寺へ行くのかなん」と申されたこと さてその頃 、 ある。その尼僧さんは真言宗であったが 父と相談の結果、早速私の出家得度のための段取りまで約束ができて 、 、 しまった。しかし、人間の受け渡しのようで いささか官私自身が軽く扱われそのようにも思えたので 翌 日 その 尼僧さんの帰った後、切角ではあったが私はこの申し出をお断りすることにした。かくして、両親の反対とその 、 ほかの障害を押し切って、その年の十一月十日 現在も訟の師籍である浄土宗の寺へ弟子入りしたのである。徐 土宗ではその当時から弟子を養成する制度がしっかりしていたので、広たち在家出身者のためにはまことに噂い 機縁を与えてくれたのである。不思蛾なことに寺に行ってからも、私の法の兄弟は六人あって自分は末弟であっ 、 た。父はなを師匠のもとに送りとどけ、別れ際に 「三部経さんがd めるようになるまで家に mm ることならん。 、 、 、 台所を取りしまる老人とお話ししていたのも、忘れられないできごとであった。とにかく僧侶に たな だりたい 、 配していました。そ・つ思ってまいったのですが 案外みなさんとご一緒にさわいでいるので安心しました」と 入寺してから三日目の孜、訟の偲がひょっこりやって来たのである。「突は泣いているのではなかろうかと心 訓戒こそ訟を誕のお伶上へ渇いてくれたものと思っている。 辛い時には、かつて法然上人が比叡山でご修行されたことを思って辛捧するんだ」と訓戒して帰ったが、その時 のありさまは今でもハーキリと本の記憶に政っていて、一丁字をもわきまえぬ無学の父ではあっ そた のが 時の -8- 、 、 、 父と母の・」とが自分の心にこ 、 また逆に経済的なことにはたいへんうとかっ 僧侶になりさえすればよい というよ・フに願っていた訟も いざ入寺してみると 、 礼儀作法に非常にやかましく とのほか大きく写って来たことも事実であった。 広の師匠はいたって厳情な方で 、 たようだ。だから大寺院を維持する手腕にもいささか欠けていたようにも思われた。従って六人の弟子たちを 、 、 、 し 長成するにも随分と苦労していたようである。現実には 兄勃知子たちはある年令になると還俗したり 貌元へ引 き取られてみんなれ附ってしまったのである。そこで結果的には 弟子として残ったのは最後の忍一人 になって 、 、 まったのである。お廷で私もコ一一部経」が読めるよ・フにもな 師り 匠は次第に私だけを 当 てにするようにもなっ たのである。 そむ 、 十二以の入 4 すから十八践の十月まで師匠のもとでななりに一生懸命仕えたのであるがここで進学 師に逆き師を慕いては経をよむ さて訟は 、 、 さらには人生のよき指現者を求めるための行動であったわ 、 の志望といいながら ともかく師匠にそむいて上京する結果と相なってしまったのである。もちろんこの時も本 自身としては僧侶になることを断念したわけではない。若者の誰でもがもっている血気もあっとた にろ も うが かくにも自分なりの人生の真実を求めた発心であり 、 お世話になった大先輩や法類 けである。しかし、病弱の師匠はそれから三年後に四十二歳の男盛りの年令で遷化したのである。 、 考えてムると、師匠にはほ綜の薄かった自分は時には一定の弟子でもあったし ZHして生きて来たことは真実である。あるい 、 の方々の暖かいご思にもまったく酬いることもできずに、苦しい日々を送ったわけであるがともかく師匠の亡 、 くなった後もすへての学祭を絞けながら 亡き師匠の弟子として 、 あっ は生活の方似や州鉱山な学資を得るためには、師匠換えというようなことも ・る つ得 が度の 怠は 、た いろ わゆ - 9- 、 、 、 、 一度はそむいて寺を出持し 仏祖のお蔭.たけを品切にしみて感ずる日々であ仏 り恩の無上のありがたさに生かされている白 、 師匠は病弱でこそあったが、一期一会の出港いの噂さを大切に考えて 心はひたすら師匠の後を歩んで行ったの である。まさに 分に感謝するたけであった。 師匠の亡くなった年には訟の母も亡くなっていたのですが 突は母の葬儀式には 、 、 、 、 00 、 、 、 、 、 形ばかりの僧侶が許され : : : こうして私が形ばかりの寺に住職したのは 昭和二 、 人間はこんなにも死ななければならないのかと つくづくつくづく感じたものであった。末法の世 、 月匠 ていった本の この忍の母の葬儀の臼に 師匠はありがたくも会葬してくれたのであった。母の死は九師 の死は十一月であった。その後 広の父も亡くなり かくして私の背年期は近親のものの死の連続でもあった。 ま こ とに 、 は名ばかりの比丘が許され 0 年 の ことであった。 、 類焼を受けた二十ニカ寺の住職たちは、毎夜のどとく移転問題等を協磁したのである。火元の 昭和十五年の大火は 静岡全市の大半を類焼させたのであった。当 時 仏教寺院は各宗あわせて二十ニカ寺で あ った。その折 、 、 ついに訟はそうした方々を前にして ・ 、 まさしく-発ぶってしまったのである。「か 制比に持ち出したのは何ゆえか。寺院は大衆とともに適所 、 まったく途方に暮れてしまったのである。そして 各寺々の担信徒総代の世話人の方々がたびたび市の復興局に 、 失火責任者は不可抗力であったとの理由で無罪が判決され 結局僧侶だけでは復興に着手することもできずに 呼び出されることにもなり 、 つて軒制宗の石川市州議帥は 能登の総持与を神奈川 、 、 、 、 まったく時代に逆行するものではないか」と。これに対して 当時の市会滋長をしていた某氏が 「それ 、 において宗教の使命を果すべきであるが 復興局は都市計画の名のもとに 寺院を偏狭の地に追いやろ・っとする のは 、 、 割私自身は 「よし俺は強い坊主になろう 」とばかり 、 、 その後歯を喰いしばる思いをして頑猿ったのである。 は坊主か弱いからた」と大戸で反論し 野次ったのである。まったく厳しい宮楽であった。しかしこのことを契 鹿に 10 ー - 、 、 dをしてくれ あれからもうすでに三十七年が過ぎてしまった。静かに当時を思い起し かのいささか乱暴な発一 、 、 、 、 そして僧侶としての行動に 僧侶としての自覚を自分なりに堅固に悼押して来たつもりでにあ あるいは師匠に逆ってまでも 僧侶になり 、 酬明災後の伽藍の復興に努力し形ばかりの寺ながら一応の体裁を教えて来た 父や僚の心を押し切って のである。広自身も 、 H 形ばかりの比丘 H ながら た市会議長の言葉を心から感謝し る。それは 謹進して来た自分の人間としての責任感に根差し るところであったろう。 いて 。 、 、 こうして老いの身にある訟は 、 、 、 こ ・ して子 フ 、 自分のこれからの余生を可愛い幼な児たちと合怒して 、 まったくの独断の感懐かもしれないが 強い幼主のイメージも 、 「念仏の申されんかたによりて過ぐベし」 あるいは 、 、 「妻子も 後期も 自身たすけられて念仏中さんためなり。念仏のあはりになるべくばもっべからさ 、 供たちのつふらな臨、小さな手 あどけないお念仏の戸の中にしみわたっていったかのようである。これは私の 「ナムナム」して日暮しできる幸せを 心から感謝している。強い坊主として発起した私の努力は うとしたのである。今 ところで忍は殺後境内の一角に保育園を開設して 、幼 ない子供たちの明るく健やかに成長して行く環境を作ろ く〉 などという法然上人のお言葉に援すると 、もはやおおらかな僧侶としての自覚に包み込まれるようである。 -11- 。 いの ち を考える 子 、 場 3子 『 、 確かめられるのは てサイ〆 ー 、 客 経をあげる。はたし 、 、 きまっ ただいぎたない雑な慈し 、 を一本山出しでんと腰をおとした 経をあげたあと茶のみ話になると が繰り返されているということだ。 、 るのか その辺のところは全くわからない。 、 て独り暮しなのか それとも特定の男でもい ない小部屋に通されて はいない。古びた仏砲がおさまる腸のあたら 訪ねるのはいつも昼少し前になるので 理 諦3 ー 、 こちらも相当の爺さんになって 供の頃よく遊んだ女の児の店がある。女の児 、 いまはだらしなく太って 短 え 先方もほどなく六十に手がとどく 、 といっても いるから 、 き 道主 教 I A-_" 徳 j 考 j 管た。むかしは色白ホッチャリの可愛い子だ った。それが 盆咽べ き ; を ; お盆の棚経で廻っていく檀家のなかに 子 の 末の露路裏で小さな飲み屋を開いている。 友t 供 ぬ (二) 発 i る; 開 ; ち : 真 し、 童 。 。, u いのちを考える 一 戸 Uにいつも牛乳瓶が低かれていたが、 夫婦 ていってしまったものだ。寺の前の家など それもいつの間にか働きに出 、 た。広よりガキ大将たった到の子がひとり生 伎という怖ろしい病気の名たけが記憶に残っ ・ 姉妹が順不同で品る聞に消えてしまい、 結 、 ぬでもなく、ゆらゆらとそれをうち動かしな 、 姿勢で弘の方に団扇の風を送るでもなく送ら がら 「グチになるけどさァ、あンたとこんな話 してると、いつもオヨのことを思い出すのよ 、 き残ったが 。生きてたら、いま幾つだろ」 、 訟は幼碓国の園長を兼ね 大事な子 ::・ 、 疎遠になった。 戦後 小学校に入った年の冬に死んだ弟のことを そのうち死ん 供らの生命を預かる立場に立っている。総前 、 った。ある日突然いなくなり ロに出す。やはり子供の頃の訟の遊び仲間だ と述い 、 随分いろんな遊び仲間が欠け 、 、 、 一杯 れなくなった。だが 都会の子供たちには白 、 1 ルだった。巡査 夏は材木恒例制の 山な遊び場が驚く弓と少くなっている。 訟は東京の深川育ちたが 運河がそのまま子供らのプ の限をかすめて小橋の欄干からタイピソグを 、 、 、 高 人夫のいない間トロッコは子供 ここるみ、技を鏡い合ったものだ。道路工事 が始まれば らの観覧山中になる。エッチラホッチラ 13 ー - 幼少年の死亡事ははるかに減ってい だということを報らされた。←ザの附川市水だとい る。生前の内容は勿体ないほど向上し 。 どちら 芸おにい冗られたとい のカケそばを楽に皆して飯を食・フ闘など品ら 、 うことは、よほど後になってから知ったこと も、いなくなった後で だ。日の前の、この飲み昆のバアさんにして gy 、 クを受けた。 うことを大人のロから聞かされた 、 こ・フして険を閉じ あの頃のこ も、子供ごころ ζ シ にいなくなり とを惣うと、死んだり、理由もわからず次々 いま|| 。 いのちを考える 台へトロッコを運びあげ、そこから思いきり 智恵をさずかる喜びもない。同じ年頃のまま 、 所詮ダイナミ 、 そうした空しい気持を抱いていること 、 ごと遊びのような広場からは 、 降りのスピ lトを楽しんた。危険はもとより 、 ックな子供は育つまい ||。預かっていて 、 つきもので 溺死した子の名がついて メチ 数行には一応精は出しているつもりだ} が 、 、 ヤゾ嫡などと呼ばれたりしたが そんな危険 も事実である。 、 子供には不傘である。おそらくおきな心に 「死」を鮮明に記憶する時があったとして 白動皐が走り回る、こんな便利な世の中は 方で を乗り越えていくのが当り前な今から思え ばふてぶてしいような子供の世界があった。 、 も、それは突然予告なしに事にはねとばされ 多くは凋付納訳者や大人の野球 、 いま 部会には子供らの空間はない。猫の 額ほどの公園も 、 、 れぬまま鼻汁をながながとたらし いつまで 、 上で働いていた工夫が感電死し片手のはな 、 高は い電柱の 前払が初めて「死」を日比たの か。 た血みどろな人聞の姿から始まるのではない 、 子供会まかせる場所として広場かわりに に占領されている。だから幼稚園や保育所 が 、 なんと活力のな 、 施設としての役割や意味 或は教育的 利用されている。本はその-施設の責任者で あり 、 も寒風のなかにおかれていた時の努である。 、 の子供の頃とくらべ 正直 白分 な必制使性も充分心得ているつもりだ が うに覚えている。その頃はまだ珍らしいトラ ごわ見上げていた日のことも昨日のことのよ 、 っていた近所の年寄りを 答婆の問からこわ ひろい墓地のなかほどにある立木に首をくく 、 い人為的な そして安全すぎる広場なんだろ そに う 子にぶん殴られることもないかわり いった年季の入った悪童から采暗しい遊びの 、 うと思・三年のはるかに上の腕っぷしの強い -14- 。 いのちを考える ツクの運転台でロを・あけたまま死んでいる浅 黒い運転手の顔もよく覚えている。どれが一 、 番初めのととだったか定かではないがいず 、 「シォ シオ 初めのうちは 、 、 || 」と、ふれ歩く。 、 、 そ 「この餓鬼イ」とか 「バ ッカヤロ」と うるさげに嘘いた老人も 、 死ソだのかア」 、 れで客がつくと 次からは間のびた笑顔を向 死者にはそれぞ れの場合も今考えてみると けるようになった。そして いつの間にか姿 、 れ子供なりにそれを理解できる彼等の生活が を見せなくなる。 、 背景にあった。 「けてあの複や 、 噂を聞いて、みんなそんなことを云いそ た一人の男の姿が残っている。今の子供の不 してありありと、科Hの髄まで真っとうに生き 、 れなり忘れてしまったが 記憶の底にはどう がっている世界||。そういうものが現代の 大人の生活が子供の生活と、そのままつな 社会には稀薄になっているのではないだろう 孝は 、 もう一つ ||。子供には 自由な自分の時 、 遊びのなかに、汗水たらしている大人 か。たとえばむかし 街で遊んでいて、向う の生活の根が充分はれずにいることである。 間がなくなった。幼稚園や保育所に入ること 家に帰ってもみな同じ TV の番 ら悪霊はすぐとからかい気分で率のあとにつ 、 ダイナミックな群の力で遊びをつくり 組に吸いついている。子供らが自分たちの工 、 もそうだし 夫ゃ 出していく楽しみなど もう殆んどなくなっ てしまったのではないか。これも大人に責任 、 す。私たちはそれを真似て、 老人は率をひきながら時折、喉の奥底から 湧きでるような低い濁り調子で売り戸を出 「シォ、滋:・:・」 いたものだ。 ようにしてゆっくりゆっくりゃってくる。私 、 から中風病みの滋売りが大八専に半身を托す 15 ー 。 - いのち を 考え る e 、 、 仏教徒としての 、 、 、 戒は仏を深〈 を取民すことは容易なことではない。だが h頓するとか 父親や得税の生き方を越して幼児もまたそれ 、 敏い日ずる心など広大無辺な精神的翁商は 人を笠すとか 、 ひとたび失った物理的な空間は 再びそれ る。 と時間のなかで大きな施行をはたしたのであ 悠久二千五百年の歴史を越え て、ひ ろい空間 、 であるということが 岡本凶の限 界 を越え って初めて成し如何た利他行であろう。仏教徒 自 覚があ 現地の子供らのために 、 るべき生命の志味が間われてくる。今年日 、 、 第了ての大人の社会にしてからが 本仏教保育協会が印度フッグガヤの日本寺の があるし 週間誌に・フつつを抜かし 新聞の力で ・ 、 一切を苦と受けとめるところ 、 好いた女性と綜婚 、 無期川から 、 TV 、 おのずと 今あるはひとのお 、 これな捌敏したが つくられた枇輸にいいようにルり附されてい . 。 必時下の軍国主義も困るか A,nは人な 2 、 ネドタ人間に成り下ってしまっ 、 隣りに保行闘を刈ぷ る ちっぽけな たよ フ ・ た。 ぬ聞もあるか 。 わが在り方に気がつけば 、 まず父母が額に汗して 働 くこ 一間を照して悔やまずの心さえ 、 生命を燃焼し統け死ん やがて子供もまた白からの生命の噂 在り方に気づき あれば 、 でいくである・っ。 さ 、 を身につけていくことができる。子供の生活 、 、 其に噂ばれ 、 、 かげと そうなってこそ そして 他 人に接する気持に幅も奥行も出 ひとにつ 、 、 と 環境の改善は て然るべきで 人にも人それぞれの独口な空間と時聞かあっ 子供の世界にもそれが型まれるよ・つ心大 、 くす心が品捌いてくる。 仏の言葉も耳心入らない それ中心では 叫 も聞けぬし し家をつくることにまず梢を山寸 にならぬのか人生なのに から出発する。世は侭ならぬもの。思うよ-つ 仏の教えは 。 e o いのちを考える 子供 の日 によせて 、 新しいいのちを持った木の芽も 若葉とし 、 てその緑色を惜し 明私たちみるものにとって は、光と緑の輝かしい交差点のよ・フに感じら き 、 、 五月人形や百部湯 柏餅 、 ちまきなど れます。五月晴れの空には鯉のぼりがはため 「端午の節句」を祝うなつかしい伝統の習俗 は 、 、 この「端午の節句」は男の子のお祝い 、 現在もなお脈々と続いています。ところ で そして三月の「ひな祭り」は火の手のものと 思います。 モ 1リス テル リ ゾタは一九一一 一 年に 、 『汗い 雄で込聞 、 も、「 チ ル チ ル ミチル」という主人公の名前は 概略を少し述べて見ます。この 二人の主人 いたことがあると思います。 ・ 白持』という題名は知ら なくて ました。この有名な作品については 『背い鳥』〈般的〉でーノ ベル文学賞を受賞し ・ メ i 問題に焦点をあわせて少しく考えてみたいと 、 してこれから将来なにをなすべきか と いう き 忠3 学 、 本たち大人 が 一 、 子どもたちに対 クリ 象徴としての脊い鳥を 挫 しに行き ます。魔女 、 スマスイブの日に魔女の娘がほしがる傘摘の 五月五日は 文 公は貧しい木こりの兄弟 として生まれ 、 兎 回だ 「こどもの日」として子どもたちの世界の中 いうように単純に区別せずに ' l i f に定消しています。 そこで今 17 ー - 山主 いのちを考える 、 、 、 の御殿 思い出の圏 夜の御殿 森の中 、 、 寧 米米の同と遍歴して そして朝を迎 ぅ。そこで 、 あまり特くないきじばとをあげ 械の柏駅はこの内仰を見て歩るけるように 、 とすると 、 、 、 「ムなさん あの烏をみ 、 、 そ 人間の自然破 、 、 a a 出円い鳥はまた逃げていってしまい 、 ると 、 稲の同 、 死んだ祖父母に会 なりました。ところ・か かごの中に入れよう 、 思い出の国では えます。魔女の御殿ではその美しさに自をみ はり 思い出してくれるだけで目ざめて皆に会 ます。劇の最後に 、 ぃ つけた人は どうぞわたしたちにかえしてく 、 総 φ 反対の凍えをし テルリソクはこの中で でいます。 うことを聞かされます。ここの背い応は生の 、 メ 1 岐に対しての普告 、 ださい。わたしたちの孝徳のために」と結ん 、 載争そし 世界では生きてはいけません。夜の御殿で は 、三つの扉の中に 幽霊と 病 気 て青い烏ばかりの部屋。部屋からでるとやは り死んでしまう。蘇の中では木々がいつも自 、 れは百年たった今でも強く生きていると思い 二人 分たちの仲間宮切りたおしているから ます。そして人生とは何か幸福とは何か 、 を死刑にしようと森の動物たちと相談してい ほんと・つの価値の るのではないでしょうか。 永遠のものではないかと問いかけてい 、 災を見きわめることこそ 、 やっとの思い 未来 、 外商的な世界を見るのではなく 精神的な其 、 、 ある ます。その時光が基し込んで 一 で逃げだした。字削仰の国では食べる字稿そ 、 して孝福と名ずけられた沢山の幸福か一杯で す。朱来の国では これから誕生して どのような行動になったかを伊藤整 『少年』という一文でこのように舟い 、 次に子どもにとってこの貧話がどのよ・つに 反応し をにな フ ・ 子どもたちが順番をまっています。 氏が つ ・ いう種類 の話を初め ております。「私はそ 、 は見つかりません。家にもどって自がさめる 隣のおばさんの娘が脅い烏がほしいとい 、 あちらこちらと挫し回ったがやっぱり背い応 と いのちを考える 、 それ て聞いたのだった。それ宏聞いていると身体 がしひれて動けないような気持になり でいて心臓がドキドキと無気味に明るのであ なにか怖ろしい真実にぶ 「何か」というものを獲得する資質として結 実したわけなのでしょう。 、 成良に加える一何か」は 広たちが想 、 子どもの時代は大人にくらべてたいへん短 かく 像する以上にたいへん大きいものたと考えま 、 った。ことにぷ米の同の話は 、本 当のことよ りももっと切ない 、 広たちの住む社会では「正義」「勇 す。 現在 つかったような気持に訟をさせた。ヘルギー の詩人メエテルリソク。訟はその名前を忘れ とって 、 憂いなど 、 政治への これらの訪問砲はすべて子,ともに とのよ・つに映っているのでしょう 、 や交通戦 φ 、 そして仏人への不心 忘れてきているような気がします。公諮問題 、 りにとらわれていき 本当の「心」のどこかに 気」「生きがい」などはすべてが 外国ばか これはほんの一節にしかす 、 『酷町リンタ』と私はそれを覚えた」と。 まいとして、ロの中で何度も言って見た。 、 G チともの文学に対する何かが聞 そしてこのようなことをきっ 学校の先生などに読んでもらうと子どもは 、 たいへん驚き かけとして けて行くのです また伊藤投氏のこの挿話が作者 か。なんでもうやむやにしてしまっている私 、 ぎませんし このまま受け継がれてしま たちの世の中が 、 の二十歳前後の経験を十一、二践の頃に移行 、 、 ったら と考えますと 何か怖しい気がしま 、 させて成立したものだというこ す。そんなことは取り越し苦労だと宮われる とを知れば さらに理解しやすいととになると思います。 、 そのように考え 方もあるかも知れ支せんが やはり子ども時代に与 伊藤繋氏にとっては られる「心」も、本たちのある一一聞が狂って 、 えられた「心にっこるもの」か 、人 間形成に いるのではないでしょうか。「心にのこるも 、 とって貨車な経験ハ成長〉を加えてはしめて - 1 9 いのちを考える 、 ・ なものだけとは言えま の」がすべてこのよフ う」 と いう考えや 、 、 「型ばか り決ま っていれ ば」など 、 見破ってしまっても 外側ばかりのニセの世界は すぐに チどもの「心」は非常に彫容を受け どと忠わせないよ・フに 母親と子どもに正し 、 社会思もまた特として受けとってい せんが やすく 、 中だ」な 「これが世の くかもしいません。前引に述べた伊必整民の もっと強 く い見識を持たせるよ・つな「場」を私たちは提 、 し ように宜括の中よりの経験よりも 若 や患を正 、 任が 責く 見られるよ・フな環境を作り出してい かくして弘たち大人には 供しなくてはならないと考え てい ます。 せん。 社会を織成している一番小さな 烈な印象を描えつけることとなるかもしれま 、 あるのではないでしょうか。この社会教育と ところで 単位ば家波です。その中でも千どもに与える 、 、 一番大切なことでありそれより生ずる そ 、 そして家庭という小 、 川中位社会の憐成員がだんだん広がっ大 てき らということを知らせ 、 MW3 は母親が一香多いと思います。母の愛情 「愛」はチともたらに掌稲とは 家庭の 巾 か 、 、 似つ匂いはわかります。問視は子 とは「何か」。何もわからない分別できない 亦ん幼も 、 すべての肱界といえます。弘 チどもの はこの世の・中が時の愛品川によって か。家庭の中に私たちの求める 「 mHい自己 が 本 な社会を変革させていくようなことこ、そ たち大人がなすべき仕事ではないのし でょう どもにとって 人間形成の外給を作っているような気がしま の反省のための日と考えることもできると思 と、 大 人 たち 「子どもの日」は子どもの成長 住んでいるととをもう一度確認 し、そして でしょうか。粋心なチどもは 還や必に対す います。 て一人の子どもを成長させていくのではない す。そしてその母をささえる父親が柱となっ る批判は引私たち大人よりも鋭n いで比ていま 、 す。「ど・フにでもなる」「なんとかなるたる - 20- 実 !( コ ) I (よ) 判 所 拶 明? 判 なれば殺にせびり 、 、 乱暴するという仕末でした。そして 家の中の金自のものをもち出し、しまいには妹の結婚の 、 はては妹の結婚も破談になりまし た。この弟のために、家族の人たちは苦労し 、次 第に追 きり手がつけられず 仕度の着物までもち出したりしました。暴れるとまるっ はある大学の法学部の学生が弟の生命を苫ったとい・フ事 精神病院に相談に行きました。でもそれらは何の力にも いつめられた気分になって行きました。被告人は特祭や 情がありました。弟は者常な酒のみで、しかも酔うと暴 ー - 21 (1) 2 井い : t主主 i t れる癖がありました。金があればみんな酒に費し なく J I ! (本) 件でした。たいへん蕊い罪ですか、それには気のおな事 、 これは ある先躍の裁判官の経験したことです。それ な事件に出会うことがあります。 ..--..竺?み (読) 真 I(ヂ)! 弁元二ニっ l ? と i( ) ¥ ): 愛 永い裁判官生活の問には、時には裁くのに苦しむよう 宿\ 、 、 かりでなく 色々な怠味で幾飛一にも捻かれているので 、 なっ て く れ ま せ ん で し た 。 と も か く 結 果 的 に は 彼告人 す。たとえば 裁判ではかならず裁判を受けた人やその 、 は弟の生命を奪うことになってしまい 法廷でも彼は素 、 直に認めました。波判長は 「法学部の学生ともあろ 関係者からの批判があります。また一般社会からの批判 も当然ながらあります。-つの説判には、世間の人の色 、 うものがどうしてこんなことをしたのか」とゆねまし 、 、 ある時にはそうした世間の批判 色な目が注がれており 「私のしたことについて罪の責任を問わ た。被告人は どのような批刈も攻取にも黙って耐 、 えな A りればなりません。裁判というも今は、どのようた -体忍はど・フしたらよかったのでしょう。教 といわれるように や攻芸ともなるのです。山リ刊日「 どぷ も判官は弁解せず」 、 れるならいた仕方ありません。刑を受けましょう。しか し減判長 えて下さい。訟は確かに弟の生命を奪いました。しかし 、 何と答えたらよいか 、 まったく困ってしまったそう り 、 、 、 、 、 その結果としていただい七批 、 ただ謙虚に耳を傾け 聞くべきものがあれば この裁判も上級豊口などから改めて裁判官の決定自 いずれにしても波判官は円分のしたな判には責任があ 将ボの戒めとして心に止めるばかりです。 判にも て決定したことですから 湯合でも、裁判官のギりギリつ立場に立った判断から下 私たち一家が助かるためにはほかにど・フいう方法があっ たでしょうか」と倣判官に鉱えたそうです。その裁判官 される}つの決断です。ともかく 人れのすべてをかけ は 。 、 息は長年刑事成判に慣わり これに似た経験をしたこ です 、 とがたびたびあり乏す。官執が実際に被告人の立場に置か れたらやはり向じことをしたでしょう。このような時 への外側からの扱きとは別に、いわは内側からの放さと H 良心 Hです。「放 にも定められています。裁判官にとってもっとも大切な 、 判官は良心に従い、独立してその職場を行・フ」と 憲法 いうようなこともあります。それは 体が必かれることもあります。こういう意味での減判官 n 分 n 品討をム、自分自身が抜かれてい 、 ことば 実は自分自身 訟は敏告人の姿に 、 議判官は人を裁くこの裁き vよ h って るよ・フなHX・かしたものです。こ・フいうことを与えます と が裁かれているのたということがいえます。 、 裁判官が裁かれるというのは 今申したような 、 乙とは 自分の由民心に従うということです。訟判官は 、 自分の良心の裁きを恐れなければなりません。自分の心 、 内心の圧力を考えることがあるからです。 、 、 地味な少年審判には気持ちが向かずその折には叔父の 、 人 g のつきやすい派手な刑事裁判にもつばら叫執着し 勧めをすげなく断ってしまっていたのでした。当時の広 は ζかに残っていたのです。それが三十 、 ていたからです。しかし この叔父の人となりとその汁 の中 の圧力 繋が 私の心のど 、 情熱を燃やすようになったのでした。そして後には 、 家 少年への とうして訟は少年響判に携わるようになり 、 紋判官はそうした内心の圧力や誘怒によって 決向か左 右されてはならないのです。裁判官は自分の良心に従っ 年後に実現したのです。 恐れとおののき H 、 て公正な裁判をいつも心録けなければならないのです。 常に 事審判と家事調停にも携わることになったのです。特に 叔父の一言が 、 このように広を動かそうとは 、 官私自身ま 家事調停には精魂を傾けるようになりました。かつての 、 決してむなしく終らないということ ったく夢にも思わなかったことでした。人が真実をこめ 、 て跨ったととは 、 いつも希望をもってことに当りまし 出私自身のこととして経験したのでした。私はこのこ 、 - 23- 裁判官は人を裁きます。しかし弘は裁判をすることに 、 この中 H を感じないではいられません。 、 、 少年相手の仕緋ができるだろう を とを心に深く止め 、 かつて訟に「明は少年審 とれには少年の刑事裁判を 、 専 門 に扱っていた訟の奴父が た。 とうしたことは 私の家庭裁判所における色々な問題 や事件に対する仮本的な心のもち方を示唆してくれまし 東京少年審判所《東京家脱出処判所の 、 、 かすものであることを 実際の調停事件の幾っかを通し ら少年法が随行され 断を与えてく九・ました。との叔父は 大正十二年 一月か 議判官の仕事でも比較的 、 た。誠意にみちた其突の言禁は、人の心をかならずや動 した。ところが若い頃の訟は 少年部の前身)の発足とともに初代所長に任命された人で 、 判官にならないか」と勧めてくれたことが ひとつの決 か と いう不安もありましが 半ばに違していた広が でも約六年間は家庭裁判所の仕事もしました。五十代の 訟はほとんど刑事決判に鵬わって米ましたが (ニ) て 、 、 身をもって感じたことでもあったからです。この意 、 、 ことに気がつきました。食欲が進まず ジュネ ヴでの l 誕は私の止めるのも聞 、 十日程の休眠も役に立ちませんでした。私い 胃 ガソの疑 私が家庭裁判所で過した歳月は 人間のあらゆる 味で いをもちました。しかしながら の侵すところは激しく 、 褒はすでに死の病いの人でし 帰国するとすぐに誕に病院に入りました。しかし病魔 、 生きざまを知らしめ 私たち放判官はほんのわずかなこ かず 苦痛に耐えながらとうとう気力で旅行を殺後まで 、 とに対してもやさしい気づかいと暖かい口を向けて対処 完遂させました。 、 しなければならないことを さらにつくづくと教えてく れたわけでした。 一 一一 た。すでに手遅れで胃を切り取ることさえできなかった 、 のです。短かければ六カ月 長くとも十カ月の生命だと 、 昭和五十年の八月から九月にかけて 割払は妥とふたり 、 いうことでした。退院してニカ月ほどは比較的元気でし 、 で海外旅行に出ました。引払はその前年に裁判官を退職し 、 その日 たが まもなく再入院の日が米ました。そして カナ〆やアメリ 見合いに際 、 私たちはキリスト教の篤い日仰のもとに生きて来まし 行ったのでした。 、 ていたのですが 永い裁判官生活の苦労をともに分ちあ 、 l から十四日包の昨年の八月十日 の朝 妻は天に 召されて 、 スイスのジュネ グで聞かれた国 って来た葉とともに 述の犯罪防止会践に出席するかたわら カの友人をもみねるつもりで旅行に出たのでした。裁判 た。もともと見合い結婚の私たちでしたが 行く先々の教会で 、 オ l ガ-一ストとしての奉仕をいたし ということかあったくらいです。襲は私の勤務の転勤の H 信仰を共にすること山 官を夫にもった妥の永い気苦労に少しでも報いたいとい 、 現に必もこの旅行を非常に楽しみに 、 して忍の出した条件の第一には 、 う気持ちからの旅行で 公聴から開放された広の気楽さ もさることなから 、 、 、 、 ました。私たち夫婦は 四十年間共に暮らしましたが 出掻ける時にはこれが二人の最 その間意凡の合わないこともよくあまりした。しかし していました。しかし 後の旅になるとは夢にも思いませんでした。ところが 、 健肢を自慢にしていた聾が 旅行中に非常に弱勺ている 24 ー - 信仰をともにするHということでは、二人は完全に一 H 欽していました。二人が向き合っては争っても、並んで 神さまに向かえば、二人の心はひとつになりました。 こういう私たちにとって、病いに苦しむ棄との限りあ る設された最後の日々は、とても大切な時間でした。そ 松湧弘道著 新谷判 二六八頁 価四八O 門 八浄土遺書 1V 既刊『仏教的生き方とは?』 して一面、この間の官私たち品川今までの健康.たった時には 味わえなかった何ものかを待たような白川もいたします。 重苦しい病いに耐える妻はまったくいとしい人でした。 石上部応著 ーその寵りかけるもの』 〈浄土遺書 2〉 ニ土ハ頁 価四八O 門 25 ー そして、長も病いに皆し人ながらもいつも私のことを心 配してくれました。.為起不能宏感じてからの安の一言一 新刊『仏像 。 言は、すべて私に対する信績を表明していたように思い ます。妻は天に召される前夜、「感謝、ハレルヤ」と苦 しい忠の中からくり返しゅしました。これが褒の残した 会 最後の オ 葉 で し た 。 〔 文 賀 師 集 部 〕 取扱浄土宗出版事業協会 宛行所浄土宗宗務庁 一 Tm 東京都港区芝公園 4171 仰l TELO三(間三六 V三三五一代 讃 i 夫 i i 今回掲取させていただいた「愛と民笑」は、元東京高 判 !。然 4 ; 1汚 で当 !す法 i 等裁判所判事で、現在弁護士として活鹿されておられ る三弁明さんのお話しです。裁判官として長く活動さ れて米られた一三井さんか、人を法くことのむずかしさ な其訟に語られて、生きることの真実について深く考 えさせられるお話しですこのお話しは、一-一月三十一日 ハ木〉から四月二日〈土〉にかけて放送されたものです。 も注 i 結女 1m は - i l 好 評 てご I ふるさと紀行| ; 大和・唐招提寺、若葉 の頃 ; 一一おん自の CF:拭はばや一一 J ひ 冒 日野西徳明 j (奈良市興術的 ー j i のにしと〈みゆ _ 1 は 非常な関心を示す。私もど多分に洩れず二十古代の 人間はまことに勝手なもので、自分 ζ関係あることに 、 、 とき、同坊が管は店招提寺の H末寺“ "であったと 聞い た途端にこのお寺に対して好意をもった。 、 、 、 一二四O有余年前 鑑真和上は「日本仏教界の戒律の H 、 四分作h "を伝えようと 渡航 乱れを正す為に ぜひ米朝していただきたい」という 入居留学的の請を入れて をくわだて五度海難に遭い失敗。六度目に漸く日本にた 、 、 自らは どりつかれたが、その時は十二年に渉る苦情岬に 変弟子をも海の涜府と失っておられた。こ 、 の凄まじいまでの護法伝道の執念を知った降 忍は完全 盲目となり に鋲真和上に魅せられてしまった。 この四月ハリで公開された位日和上像を、本が最初真 近かに拝ましていただいたのは、ニ普も前たった。 、 頑丈な五体で ゆったりと座禅をくまれたお姿。外の 光を失って閉ざされた御限、回聞の浅い織、太い鼻柱、 強い意志を-mすプ文字口、心もち張った願、どう見ても 、 全身にみなぎっていわゆるHP羅清浄ニシテ三 、 美男ではないが 、俗気を 離れ、心の静けさ、豊 かさ 暖 かさが 、 味現前 Hした、この御像に接した時 広の体に震えがき 、 お胞の底から護法の念が H 、 湧き上ってきたのを 、 、 今 い 伶 て 浄土宗俗は も覚えている。 、 、 四分律 H とい・っと小栗仰とけなし 土宗は大深被だ」と跨り 更に法然上人が 、 、 、 「わがこの身には 成行にをいて一戒をもたもたず 、 ハ中略〉かなしいかな かなしいかた いかがせむ 、 波徐を軽視する風潮がある。しかし 、 かがせむ。ここに我等ごときは すでに戒定惑の援に あらず」 、 上人の添い深い内情からほとばしったも といわれたからと このお苫必は 、 ので、向の努力もしない末世のわれわれが 自己弁護的 、 、 悲しませぬ小にある」と 、 聞いたことがある せめてその千分のて万分の}でもと心 法然同大師の流れを ・ 、 「自分の仏道精進と他を苦しめず 私は竪く信じている。 、 な御都合主義のために 利用してはならないお宮楽だ と 、 戒律の根本精神は 怒らさず 、 が、持戒堅聞のほまれ寓き、持導 扱む名として 々である。 、 仏に我道を照らしていただき 、 手 に普・っか、J 』と志と途ふ HH ない白分に眠気がさ寸円 、 っておられるが わが足もとのおぼつかなきょ 大いなるものの力壬引かれ行く 九条武子夫人は と歌 -2 7- ー「 、 、 「懲りずまにまた 何と頼りないたどたどしい足 を取って導いていただいているのに 懲りずまに」罪を重ねる 、 続けたいと心に守・つ怨か者である。 、 下であ ろ ・ フ 。 し か し そ れ で も 死ぬまで僧侶らしく精進 努刈の生活を 、 、 この現実 ゆ土宗今噂さがあると思っ 弘のための戎いであり 舶行部大仰が H付 h 臼川出 向を脱き付随犯随倣L Hの生活を 教えて下さったのも 、 反動的に鑑 、 、 呼び起してくれるお寺である。これは一山の方がた 、 鑑真利上に対する篤い信仰と 戒律という行を中心 のお寺のせいだと訟は考えている。 樫はすっかり 、 厳本管長織が落ちていた 駁銀 山 H μ があ お寺を大事に護ろう 、 、 ・ 旧閉 其直ぐ御廟へと向った。金主 隅ずみまで神経の行き届いた消浄 、 ロをついて出たのが 、 、 、 、 推祭し乍ら句碑にみいる。この御堂の 、 和上の御事肢を想起し み心に共感し感 こ 親しく拝め H 同期まき u で有名な放機の後に 、 お心が現われていて「尊いなア」と感心した。 、 であったろうと 若葉しておん限の雫拭はばや 涙を他して のお姿に緩し たものだ。芭燕もきっと若葉を通す初互の光の中で 山堂がある。かつては此処に利上像があり 講堂の右を通り 本はいつものように さである。 、 、 府入れへ入れに行かれたお姿を人た 、 軽やかにそよいでいた。玉砂利を敷いた歩道には 、 桜の新緑と共に舷い五月の朝日を受 広い参道の左右の松は手 入れが行届き 、 若葉に衣替えして けて 、 コミ一つない。以前 、 この何気ない動作の中にも をひろって るが とする 、 、 ている。一方こうした実行均を欠く私放に にそくした信行双修の中に 今日もやはり美しく 、 真和上に対して 崎市敬以上のものを感じるのであろう。 訟山出也九州は肱拙良守に その句碑が旧閉山堂下にあった事を思 、 若葉しておん日の雫拭はばや 、 急にせかれるよ・つな気持で店招提寺へ栴世話に という句を残し い出し 。 、 丹塗りの刊門に立つと 明るく雅ひやかなただずまい 出た を 、 が拡がっている。それでいて訟詣者の心に宗教的な感激 の 28 ー - 、 現を一災に 右に小径を進むと がある。 小さな門をくぐると両側は 、 チュイ 、 、 互椛などが立ち ・ 左て林の・中に和上の御麟 槍 ・樫 チュイと鳴きながら飛び交 ならび 木洩れ日が参道に縞鋭様を織りなしている。小 、 、 、 ぎると思われる宝箆印絡であるがいつもの通り、今供 、 、 展転シテ之ヲ行ゼパ 、 待mニ在シテ滅セザルナリ」 、 そのことを和上は信じられたからこそ 、 般的引な H四分 、 仏は常にわが身近くに在ましてたえず私 、 、 えたばかりと感じ取られる。百合や矢車草.か生き生きと 咲き匂っていた。忍はふと『退教経』の 、 ν如来ノ法身 、 「今ヨリ己後 我ガ諸ノ弟子 、 あ 、 則チ是 ・ っていた。鴬の戸も闘える。まさに静寂の境であり 聖 技の間を四十雀か 4しい丸薬を鉱げ 惜端であった。総長い池には蓮が若 心に普 い というお言葉を思い出した。御教を守ろうと ころがっている。岸のか るかなきかの鼠に朝露が宝と 努力する降 、 きっばたは、この御寺にふさわしく上品に 紫の花を清 に励ましの言葉をかけ給・フ 不滅の存在なのである。 、 水に 写 し て い た 。 橋 を 渡 り 御 崎 明 の 前 に 進 む 。 大宗教家鑑真和上のお甚というには 少しささやかす 、 必 H をも舷守されたし、「束力の離れ小品日本へ 戒を 伝よ t はならぬ」と、決心されたに逃いない。々してそ 、 、 組を山地し 必 M 刷米不滅HH遺 H 、 玉砂利を踏みしめ まさに若葉の緑の頃である。 、 、 の脳神は今も、この御舟に休・つっているが放に 広の舷 動の小にも仏わってくゐのだるう。 さて説経つご問願の長い黙棋の後 、 Aな t の泌仏諸答臨を山むべく - 教遵守 H と、わが心にいい聞かせながら 堂 た@大和路は今 - 29- 給仕 ん付 さ 知1 ち 光i 、 かくして 、 、 その後は一時 行かなくてよろしいのですか」。「ありがと 、 採した少年少女を線用して 少し早く出動 ∞ う、たくさん買っておいたから今日はいり 、 さ ん にお茶を出 して机の上を鍋除したり 時制 HH 給仕 ません」というような会話を交したような 私は笠庁すると給仕さんに当時 、 次第でした。 その頃 ります。 チ・ァトした使い走りなどをする仕事であ 『所長さん タバヨを買いに にまとめて買っておくことに定めたので 、 給仕さんの 一日働いた収入を私は痩に ま土品に 、 内之 していたことに気がついて て 〔回 〕 ) 1 1; : したり、米客にお茶を汲んだり、そのほか 、 存知ないかもしれませんが 北H小学校を卒 「給仕さん」といっても最近の若い人はご す。 の 、 これまた五十銭でした。そし 、 でした。その児盆践の給仕さんが ある臼 、 弘の月収は十志向 院長先生は月に三百 、 、 院長室にお茶を運んで来て 「院長さん 、 「かりにこの児掛川院が火事 と質問しました。院長はまったく答えに償制 円、二十倍も多いのはどういう釈ですか」 したのですが に焼けたとしてもあなたには何も変化は起 らないでしょう。ところが院長の私は出張 して京都にいなかった場合でも、災任上首 を切られるかも知れません。責任というも のがあるので高い給料をもらっているわけ 、 です」と答えたそうです。私は まことに 明解な解答であると思いました。 五十年先的 イγド仏政怠村悼の旅行をした時、お釈迦 さま終誌の地クジナガヲにあるお釈泡さま の大きな抑協同付品械があるお守にお酌借りしまし た。そのあと、舷か一哩程と聞きました が、お釈迦さまの火葬の地まで歩いて行っ です。訟はその青年にインドの貧乏はイγ 、 に行って貰ったのです。当時のお金では、 またその当時 京都市児怠践の院長の F たのです。その折 広共夫妥の両側につい 五個で五十銭です。ところがその給仕さん さんの年俸は三千六百円、月にして三百円 て二人のインドの符年が作なってくれたの の自給が 30 ー - JL、 チ畠リーという太巻タバヨを五mm ほと買い , 想 ったおをしたのです。言葉はもちろん英語 は、その人との関係や心情にもよります 「えらいこと中ってくれた」。「どうしてでが、義理の病気見舞いはご聞きりが今いと ドの階級制度に原因があるのでないかといす。その上回さんと、「やりましたね」。 が 、 その隣りにいた仏教関係の大学生が通 ていた時には、四十八人の人からお凡舞い あるのです。家内が今、中田内症になってい ったカステラもそれ以後は食べなくなり、 リ γゴはそろそろ腐り出したという経股が とリンゴが殆んどであって、孫速も好きだ 人もの人聞が必要となる。それにハワイま をうけました。その時の見舞品がカステラ 綜で、北 支に兵隊を送るだけでも百八十万 です。五十年間程使っていない笑必です すか」。「今の東京の人口に対する巡訟の比 思います。払が開口潰蕩にて十八臼間入院し 訳してくれたのです。その時イソドの青年 、 かくして上回さんは揖酬を合わせる度に うような騒をしたのです。 は、「五十年先のインドを見てくれ」といで鉱げるとなるとどうなるのですか」とい この慈を法話の際に話しますと、聴衆は ったのです。 、 みんな笑ったのですが、私は「現在の日本 和尚さんは先見の開怖があって徐い人だと の政治家の中に五十年先、否十年先の日本 食めてくれたのです。この上回さんも今は ますが、お見舞いとして金を封を下さる人 考えてみなさい。悶低五千万人のインドの 年かの刀 nが過ぎたわけですが、現今はま で良いと思います。 な考えて行動している政治家が何人あるかもう亡くなりました。あれからもう三十何 が半数程ありましたが、これも-つの方法 代でもありましょう。 ことを考えているだけででもイ るが、二回以上の人は義理以上の人です。 を買ってくるように首相みました。他人には 弟にはその度に品物に気を使わずに週刊誌 くれました。一一凶の見舞いは義理の人もあ 病気見舞い うであれば、ごく近い貌感知人位には通知 値段もおくないので、昨今宗教大学時代の 死亡した場合は綴戚知人に死亡遜知を出 このようなことはいえませんが、週刊誌は すのが普通であるが、病気の田支ロ盆症の気 よ広いらな Lところは箆む必要もないし、 することもあるが、一般にはなかなか通知 友人がmm閉窓を病んだのですが、ニ阿ロの しないものであります。病気だと開いた貯 見舞いからは週刊総を五 ・六冊持って行く 争の勃発となった災旅湾攻 mm をした翌日の 昭和十六年十二月九日、お情家の上回さん に、見郷いに行くべきか行かざるべきか よとにしています。 毛に月怠りをすることになっていたので 例によって旧聞に属しますが、太平洋験 五十年先ω か」と語ったわけです。 に曙光があると見てよいではありません γドの未来 中に岬恨のニ人だけでも、青年か五十年先のさに十年先というか一年先のわからない時 払の泌は、十八日間に六阿品保いに米て 31 ー - 時巴 蕉 、 ,aE 松尾芭燕は、大阪の御堂前久太郎町花屋仁左衛門喪座敷 の死床に在って 、 ・ 付 、 論官し Z平 →守 主ぎよ き 雄お 此後は 、 ‘.は。 、 年もや 、 ハ各務支考叫笈日記』) ただ生前の俳賠を忘れんとのみおもふは。 上におぼえ侶る也。 是を仏の妄執といましめ給へる、ただちは今の身の さめては山水野鳥の戸におどろく。 や半百に過たれば いねては初出(幕需の聞をかけり 、 .さにもあらねどょのつねこの道を心に簡て 2 野の 、 、 ましょう 明らかに 、 という 、 、 、 、 「此後は ただ生前の俳諮を忘れ 、 その生涯を賭けて 追求して来た 、 言外の意を寓する一語を出だしてい 、 「俳譜」を描棄して 此後はただみ仏の御 手におすがり ん」と れているのみならず その後で、看病のれ抑制切支考一を 枕 川拡 の元 大詩人の臨終間際の一言に仏教が取りよげら 旅に病で夢は松野をかけ廻る の絶吟を吟出したが に呼んで 右の句の別吟などを示して、その意見をも訊 、 いた後 左の様な悲痛な言禁を漏らしている。 、 河3 'A教 と 元禄七年三六九四〉十月八日、当 年五十一識であった 砂防 はた生死の転変を前におきながら ほっ句すべきわ 32 ー - 食凶省 ることは 、 、 、 1 ションを有し 、 一大関鍵を成すものではない すこぶる重大なイムプリケ 、 以下 、 、 謀削に 卑見を述べてみたいと思 、 、 、 強烈 であるが 、 、 、 、 、 入道 当代においては 宗匠立机の場合は もはや 、 、 、 彼はその自民たる被風俳措草始 樹年 入道の形を取ったことだけは疑いない。 、 仏門に入る形を取る事が例であったの芭 で北側も 、剃盤 単に形式的なものにはなっていたけれども して 、 、 、 行の途次 伊勢神宮に詣でているのであるが 、 、 その時の 彼は次の機に述べているのである。 、 、 、 、 浮踏の属にたぐへて 、 、 、 神 前 に入事 仏門に 入って はい 「袋僧にあらずといへ ど 自分が僧侶ではなく 彼はハッキリと 、 、 、 、 、 泉 、 、 、 、 「出 しかもその後 茶の僧服に類するも ほぼ疑いなく 衣類なども 、 半生は 殆んど独居していたのであるから彼が のを常用していたことは には珠教を携え ない ζとを明言しているのであるが 彼が剃髪 し て、手 も」と言って すなわち をゆるさず。云々。角野ざらし紀行』) あらずといへども の珠を携ふ。僧に似て鹿布 俗ににて髭なし。設僧に 腰間に寸鉄をおびず 襟に一裳をかけて 手に十八 ことを 、 の年である貞享元年三六八四)の 「野ざらし紀 行」旅 しかしながら 従米の芭北側研究において、この芭抑制の大郁な その時 剃盤 と本は考える。 芭蕉乃至芭議文学理解の か しかも 、 言葉の含蓄するところに就て触れているものを 。 、 おそらく芭抑制最晩年のも 、 芭燕記念館であったと記憶す 、 訟は、「桑門芭線」とのみ古かれた 芭球の其闘 三重県上野市の して私は知らないので J ・「 、 確か るが を見たことがある。 、 、 、 沙門と同じ とを しかも聯さかも病弱などの気は窺がわ 愚前同淋潟 能勢また非凡で 、 のと思われるが 、 れず 非常に気悦の充実した 一3 であったこ 、 、 ・ るの 九〉 芭燕は俳惜の 芭燕は仏門に入っていたので・あろうか。 出家して仏門に入った僧侶のことを言う。 に印象している。桑門と言えば もちろん く それでは 推定では延宝六 七 ・ 年頃三六七八 、 宗匠立机をして その掠露の万句奥行を済ませてい - 33- 、 、 、 、 その自分自身が 、 怜度 、 自分自身の行絡を顕み 、 、 元禄六年二 月 の 、 「栖 全く僧侶同様の生活を送っ 彼がある時点において 日 家」同様の生活をし いわゆる「在俗入道」の 居士に 常を送っていたことは確かであろう。 放に 類する たときに 、 て来たことを再認識して 居之弁」において 、 、 、 その時 AVひ 、 白身を 柱杖一一跡に命を結ぶ。なし得たり風情 終に加除 しゅ ー!なお放下して、駅 ず 腰に た去 だ百銭をたくはへ て かぶらんとは。 と自分自身を乞食に擬してい るように 、 芭燕が 、 、 先に掲げた 芭娘自身の病 、 決して仏門に入っていなかったこと 「桑門」に熊らえたのかも知れない。 とに角 、 は花かでつて その事実は 。 、 決して仏門には入っていなかった。 、 夜直前の言葉が 何よりも雄弁にそれを立証するであろ ‘「J 芭蕉は 、 、 もちろん そうではない。 、 、 、 延宝 というと 、 僧侶同燃の服装 、 しかし それでは 彼は仏教などには全然介意して い 、 最少限度に仏教への関心が示されているが 日常生活を送っていたこと自 なかったのか 、 彼が 体に 、 、 O 霊九年九月改元、実和〉末 八年ハ一九八 深川芭燕庵に 、 、 、 芭却は 仏教には 決して無縁ではなかっ 、 入崎直後から 仏頂和尚に診制作していることは衆知の事 実であって たのである。 、 、 ある方に客に行て 、 食の後 、 、 「螺燭をはや取ベ その伝?の一市の中に 左のような一一闘がある。 師 《身》 その自心の怒 俳諾也。 、 「いのちも叉かくのごとし」と也。 、 し」といへり。「夜の吏る事阪に見へて心せはしき」 、 (服部士芳『三冊子』「くるさうーと〉 猶亡師の心なり。 、 つづいていはく と也。かく物の見ゆる所 無常の銀 、 、 「無常観」は 古うまでもなく仏教である。芭燕は 、 ッキリと仏教の説くところこの哲学観を熟知しつつ な 、 、 お数て その自身の「俳諮の逃」を孤行独往したので 34 ー - 、 、 、 、 もおそるるけしき見えず 馬のうへにて只ねぶりにね あった。 その、何故に然るかについては後述しよ・フ。今ここに ぷりて、落ぬべき事あまたたひなりけるを あとより 且あげて、あやうき wか m ぎりなし。仏の御心に衆生の 官私たちは、芭出納が仏教に対して、至大な関心 従を布し け惜世を弘給ふも仏弘同 体怜比い撫附阻陣拘レ陀怖 k・ ってま た 仏 説 に 対 し て 深 い 理 解 を 持 っ て い た 事 実 を ハ 当国市世間停車寸のおくに、仏頂和尚山居ハ 跡中あ 略り )。 はし|回同い 投 身 に か へ り 見 ら れ て 、 あ はい府間伊阿波風 ッキリ と 混 ん で お き た い と 思 う 。 ' Q更 .科紀行』) 次のよ・つな彼自身の句支は、尤にそれを立証するであ 凡なかりけり。ハ後前町〉 ろう。 かのつれたる奴僕 、 いと 、 35 ー - 四郎、出家して入店、帰朝の後開山す。其後に虫肘仰 十一日、瑞鍛寺に団側、当寺三十二世の廿、政 w 十監の 、 伊賀国阿波の庄という所に俊乗上人の旧跡有。護法 さて、かの跡はいづくのほどにやと後の山によぢの ぼれば、石上の小廃、岩窟にむすびかけたり。妙神師 山新大仏寺とかや云。名はかりは千歳の形見となり て、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶て悶畑と名の替 の死関 叫広広怯閣の石佳恰弘同がどとし。 木啄も賂はやぶらず直木立 り、民凶 のハ 噂像 M苔 Mの緑に四て、陶代 -ル 除 m問附比倫 4 丈六にかげろふ問し石の上〈 笈の小文わ a 凶ほ同川させ品加わにい 陣 仏 同 陶 協 同 レ ほ 依 恰 防 防 ル ほ K i ル榊 同 怜 い 悦 代 の 名 凝 ら た が じ 同協 に陥 ほ防防附パ 他 K 防防健治 r随降初瞳ほ店協 zい wR 防防凶ほ陣内M いm 林 M紺 Nたる跡、まの晶此勺にこ陀覚、えl られ附仇川 、 限くるめき、たましゐしぼみ 、 足さだまらざりけるに 働、 、 歩行より行ものさへ て 百寺、武証陳閣に挺して、伊円台止鮫の月明らかに にや、としたはる。 師何回略此は J怯 H い 比 除 陣 除問同い恰陀隙隙防防闘いい臥 ける。彼円凡仏盟の寺はいづく 上川崎就の・点M 伽な 直り体 U .“Fe&Fe 、 円頓融通の法の燈かかげそひて、僧坊僚をならベ修 、 立山霊池の験効、人此び且恐る 繁栄 、 凶旭ザ傘 験行法宮励し 長にして、めで度御山と調つベし。一五々 円以上、町おくのはそ逃 』〉 、 これは全くの妄説である。 、 意味する 、とせ られているのであるが 訟はハッキリ言 うけれども その「水道工事云々」は、芭蕉が、芭燕庵入庵直前ま 、 、 その長屋の一戸を与えられて、俳席の 余 、 で 江戸惣名主の一人であった 小沢 ト尺 の名主役所の 3 記役として 、 恰度 、 、 、 芭燕が芭燕庖に入庵し 現に円野原信節の「仲町庭雑録」 、 伝達、取鰹めなどの事務を 水 名主役所の推務を受け持ち 僅かに生計に資して 、 、 、 取扱っていたに過ぎず 、 、 同月二十三日に延引せら 同年六月十三日実施予定の 、そ の 所収の「役所日記」には 、 突はそれは 、 芭蕉自身の藤堂家仕官中の事を言 、 出世禅などではなく藤堂家脱落時における 、彼自身 の 、 そして、その後の「仏総組室云々」とは、決して仏国 っているのである。 あって それが「化官懸命去んこなどでないことは明々白々で れたことが記されているのである。 「水上惣鋭り」 が、雨天の為 た抵宝八年の糸に 江戸市中惣出の 躍を 、 、 、 芭燕の仏教に対する関心およびその理 以上によって 。 、 ときに例年、夏期における の である 金ぷ 、 たどりなき風雲に九討をせめ 花 補修工事に関する 。 、 路淡池 いた と考えたこともあった 。ら〈 一度は仏門 ほぼこれを察するに般からざるものか 、 、 そればかりではない。突は彼自身 解の将位如何は 、 に人るう あるが ら (前略)川川和十月の移こしの 州科 きを 品お 切もふに ある 時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏節祖宝の &6 民に入らむとせしも 此一筋につながる。(後略〉 、 (リ幻住山崎 )記 A その前の「仕官懸命の地を云々」は 、 鳥に怖を労じて、暫く生涯のはかり悦をさへなれば、 、 終に無能無才にして 通説によると すなわち 仏門に入るか それとも俳請の追 、 、 、 彼此去就 、 彼が小石川のよ水道工引に関係したことを意味しその 、 を選ぶか、の問題であったのである。〈つづく〉 、 後の「仏瀧祖室の扉に 云々」は 仏頂和尚への参禅を e o 文治二年のその日。 、 でけ山の淀入もなく符えて 、 、 、 濡れたように光るのを 、 明週は見た。 顕真たらずとも そこが聴きたいところたった。 ろうか。 教義の上で それと法然の念仏とどこが異なるのであ てきていたのである。 必心僧 m に弔るまで、長い伝統と研慣によって信仰され 比叡山における念仏流は慈党大師円仁このかた償川の 顕其が鋭く問うた。 してきたことと同じ考え方ではないだらうか」 寺内会 e i a 然、主ゆか え吃 念伶 32 ・一週③忘 明過は、勝林院の一週、小納庁法印顕兵の住M である 屯祁掌に坐った。大原の本成副が問者となって法然か ら念仏の奥義を聴開した。 、 Aに蹴仰せられたか 法然の品回uは明快であった。諸宗の立場から突っこメ だ質問が次 法然の限か 、 とはこみ上げてくる感動の涙を 発光体に転 いった。 、 濡れた 、 「しかしとれは すでにわが天台宗の念仏者たちが主聾 -3 7- • 化させたことを意味する。 さすがに智怠第一とうたわれた法然訴だ。感動で泣き . 、 てしま・フ。見事にこの情と智とが溶け合っているのを むせぶたけではない。それを、深い知性でおおいつくし d 葉を待った。 明遍は確認できた。 法然の 「違・つのです。観念の念仏ではないのです」 「観念の念仏・・・・・・」 「比叡山の念仏流は、何とかして阿弥陀加来のお姿を観 察して、それを心に強く留怠させる修訟を取ってまいり まし た。 これが間違いとはゆしませぬが、末法末世、学 んだり修法する時間も能力もない人間には、来たし得な 顕真は膝を莱り出さんばかりになった。明遍自身も思 いことです。議に でもできる実践とは、何か」 わず身が前へ傾いてゆくのを感じた。 、 そのすべてをくつ 高度な修法こそ仏徒郡一のっとめ、と教えられ位移も してきた切迫にとって、法然はいま がえ す よ う な 発 言 を こ こ ろ ム ょ う と す る 。 恐るしくも、日険にみちた瞬間であった。 「阿弥陀仏の御名を呼び続けることです。戸に出して叫 J 一 前号のあら す じ 一 法然 よ 人の専修念仏が広まる契犠となった「大原絞議」。一 、明還 の個人的な専修念仏への疑問を公的な場へと引 て』こに 一き闘した 俊象冒府軍の 源企図が存在していた。いうまでもなく 一 位源の希求するところは生きた仏法の輿陵である。東大寺大 一 一仏復興勧進もそこに因由している。法然上人の専修念仏への一 一刻入れも屯必の純粋なこの心 ι白米している。 一 切 Hは 中居 納す 曾る 法 M 掛川源の示唆に従い、大原勝山仲院'』隠 一印顕莫を大原談畿の府に登場させるべく w間以まわし uに向う? 一 綴真はゑ安三年(二七三五月の清綜般における最際議以 一 米八年間というもの公の幼から出総退隠していた人である。 一 後にぬ仲介門跡流の正統として天台雄主に此任する中納 骨u法 印煩真。仏法の大衆実践化を願う俊市mm冊以源と明迎。三三 者 一 一援の恩怒をのせて大原談議はタライマフタスに向う。 「戸に出して弥陀の名を呼ひ続けるのか」 び続けることです」 H 称名山という実践には 相模一 一を法然のもとに派して三十余目、顕其は念仏法 討 門を説みあさった。しかしこの 、 かに有難いものであるかを:::。しかし それだけでは 理治の上では了解できました。阿弥陀仏の大議大悲がい 「そうです。私も黒谷に住して、迷い求めたものです。 思い至らなかった。 38 ー - <六条河原 の処刑> 、 お荻いを求めねばなり れてゆくにはどうしたらいいのか。観念の念仏ではいけ 納得できませんでしに。その有難い阿弥陀仏の慈悲に触 、 店の設滋和尚が明確に指摘していま ません。はっきりと戸に出して ません。その点は 、 す。そして蔀滋和尚は生涯 その称名念仏を実践された のでした」 、 「称名念仏か ただ叫ぶだけなのか」 、 、 胸に十 それだけでも救われま まだ顕真には了解できかねるよう・た。 この称名を続けていると 「もちろん一文不知の人々は 、 称名という突 、 仏箸匿の世界へ近づくことらできるで 、 す。また能化の者は 念が満ちてきて 、 満座の碩学たちを圧倒せんばかりであ ってゆくことだけが生きた念仏なのです」 ありましょう。とにかく観念ではなくて 践からはい 法然の語気は った。 話は余 談 に外れる。 法然が後世のために書きしるしたコ 枚起 間女」に 観念 H だが H 、 現代の人間はともすると字毅を誤 「観念の念にもあらず」という句がある。 この まって受取る。 H観念H をギリジ十哲学のイデエと解釈 39 ー - してしまうからである。 、 、 H 観念的内と言えば 内面だけ 翻訳を間違えたとこるに起因する。西周博士はギリ だがこれは、明治の初年に西洋哲学が流入してきたと で思散する無形な行為ということになる。 き ツャ哲学のイデエを H観念 H と訳した。それも 、仏 教語 からえらんたと彼自身は語っているそうだ。 仏教語における H 観念 h Hではないのであ H 観念 H とはどういう意味か。 決して現代流で言う観念的の る。 観察憶持である。 仏の姿をしっかり観察し、それを深く胸にきざみつけ る、とい・フ意味た。 法然の専修念仏を、称名だけに限定してしまう過程も 法然から発生する。 木曽義仲が都へ乱入したとき やまなかった。 ーー一目、聖経を見ず 、 たった法然は、他日はいつも聖経をひもといていたこ 、 逆な言い方をすれば ギリツャ哲学で言うイデエ的な とを実証する。 内面の充実感がともなってこそ称名念仏は生きた邸がか 、 よってくるということにもなる。観察憶持ではなくて ある。 六条河原で幅削られる情景 、 阿弥陀仏の慈悲と、われら人間の心との深い触れ合いで 安楽房が密通の罪を間われ 、 を「四十八巻伝」は こう描写している。 、 宵同戸念仏欽百反ののち 十念ミちける時きられけ るに、 J いつるにたがはず合掌みだれずして右に この十念とは何か。 高戸念仏教百反ののち十念が満ちてきたのである。 、 伏しにけり。見聞の諸人随喜の涙をながし 念仏 たしかに法然は「南無阿弥陀仏と白・して疑いなく往生 、 する」とも 3 いきった。阿弥陀仏の大慈大悲を亨受する それだけではないのだ。念仏をとなえつつも に帰する人おおかりけり 、 清掃入部として、観察償持ではなくて称名の功徳を強闘は だか した。 仏恩に報ずるために怠りなく学ふことを法燃は唱晴晴して 40 ー - < 自磁烏飾蓮弁香炉〈北宗)> りを信じきる恕いがみちみちてきたのである。 、 。にいっ 称名念仏を十遍となえることではあるまい胸 ぱい阿弥陀仏への思慕や感鰍三世にわたる深い つなが 大原の竜郷堂へ戻る。 、 法然の其意をとことん了解できぬまでも 明週には全 く新しい仏法実 践 の端緒を投げかけられた思 い であっ た。 というもの静かで きわめて個 人的な修行 、 戸に出して阿 弥陀仏の名を呼ベ。ただ絶 叫 せ よ! 、 今大きくそのゆくてを変針させようと 。 かしましくも狼雑な人間な ιM H で踏みにじら ' 、 と法然は主張するのである 、 観察憾持 それは革命であった。 、 方法を れ 仏法の流路が している。革命以外の何ものでもないではないか。 、 しかもそれは明遍が 脳裏で組み立てた 知的 な H理 、 戸を限りに阿弥陀 仏 の御名を 響きわたってくるのである。持仏堂のあたりから大衆 解 Hだけにとどまらなかった。 の合唱による称名念仏が 鯨波のように押し寄せてくる 、 のたった。 呼ぶ人間の美しい合的が - 41- これぞ仏法が新らしい朝を迎えた讃歌以外の何もので 、 もない。この瞬間から日本の仏法は未知な第一歩を踏み 出すことである・フ。 E-agJ 明遍は感動で傾が濡れるのをおぼえた。 Fizz・ 町 -- 法然諸伝は 、こ の大原問答のエピロオグを 信男信女 、 三百余名による高戸念仏の大合唱で締めくくる。 、 とも感 のちの天台座主顕其は塑販に紅一課を流自 しら呑炉を とって持仏堂を行道し、高戸念仏をとなえ給う 動の文章でえがきあげる。 法然に臨持してきに念仏ひ 三百余人の信男信女はいつのまに、何処から集ってき とも畠いた。 ていたのだろうか。 、 そんな配慮が ろうか。 、 いや企画構想が法然自身にあったであ 拡時駆仕する門弟や貌しく古水の樽室へ出入りする念 仏ひじりの幾人かが大原までやってきたことは総量でき る。しかしこんな大衆動員は訟然の人柄、その生き方か ら考えてちょっと信じ得ないことである。 持仏堂からおこった念仏の大合唱を耳にした瞬間、明 逼はま向いに坐っている俊乗封蓋糠に視線を投げた。 視線はじきに微笑で割れた。 ||あんたが仕度してきたことだな。 開明るい皮肉も飛ばしてやりたくなった。あまりにもお 、 これら霊源 いま持仏掌でおこった称名念仏の合唱は う。問答のころあいをねらって 、霊 源の合闘を待って大 の門弟と法然に随仕してきた少数のひじりたちで世のろ は満点であった。 効 mR 合唱をおこしたにちがいない。 じりたちとした。「正源明毅抄」ともなると、三百余名 、 におびたたしい応援デモ隊が押し寄せたことにもなる。 当代流に宮えば 法然と顕真という新旧のトップ会談 の念仏ひじりに二千余名の在俗信者までを加算する。 缶によっては信男信女を 書く。 一一一日三夜、戸、山谷にみち、。き、林野を動かす:::膳立てがそろいすぎていたからである。 高野山の謹準谷から俊采房彊源が大阪へ釆りこんでき たとき、門第三十余名を引き述れてきた、と訟然儲伝は - 42- しかも場所は H 戸間切の地内大原なのだ。 苛をとおし HY 、 そのまま阿弥陀仏の慈悲深い胸 て仏の世界へ迫り得ると信じている m一なのた。 仏名を呼ふこの戸は へ届いてゆくことであろう。 この合唱を聞いた周辺の寺院房舎から美戸の僧たちも 、 、 結願のころ 持仏掌へ馳せつけたかも知れない。さらにこの大原問答 は三日三晩 くりひろげられたというから 俊乗民草源が信男信女に H阿弥陀号 h "を には合唱の大衆が三百余名にふくれあがったとしても不 、 、 思議ではない。 問答のあと 前にも触れた。それは大阪問答の性絡を 法然が先師として畏敬した店の事務大師も教学だけの 、 、 道徳に詞して念仏を確立した勢導は l 凶O年前後)山西の 人ではなかった。点観年中(六O三 普陽におもむき やがて長安の都へやってくると、大衆のあいだを歩きま わって称名念仏をひろめた。 、 、 、 理念の操作ではなくて 行実践で とったえられる。 、 三年を出でずして 長安の域内には念仏の戸が満ち満 ちた 新しき善滋念仏は 、 、 その日だけであった あった。観察憶持ではなくて 戸にのせ て阿弥陀仏の御 、 名をとなえつづけることであった。 大原における称名念仏の興行が かどうか。かりに三日三娩にわたったとしても その期 授けたことは それに乗って中納Z 法印の顕其がヒロインの座 、 不断念仏 Hかかなり長期間にわたって勤行 H フ。 ・ 次のように密いた。 住の聖覚はその「黒谷上人伝| 」|通称「十六門記」で 、 明辺俗世仰の甥にあたりのち法然門下に加わった安居 されたことである が笈現した とっ仙している。談磁だけにとどまらず「法然官私自必」 、 「沙石集」は「往生要集」の談識を中心に四十八日間 如実に物語っている。それは、ただの学問討論の紘佐で a ソでもあったとい・フことである。 間だけであったかどうか。 シ はなくて、ヨ〈下に称名念仏を唱務する一大デモソスト ν l 従米の問答観ば、学問討論にとらわれる傾きが強い。 それでは耐火景を把握しがたくなる。 、 主役は法然でなく、仮まわしを俊東川山由源が周到にめ ぐらし にすわったと与えるべきであるう。 、 むろん法然自身も それを否定しなかったであろう。 43 一 - 、 章子 あり 、兼実自身も日常に勤めているからだ。また大原問 、 、 行 「儒エニ念仏ノ一門ニ入り 真言ノ 、 、 、 その「玉葉」で非栂障をこめるのである。 また派実も 、 〈h玄のあとには 、 と願い 、 叡山の悪僧をバ 、 、 称名念仏を 自己の地盤拡大に刺産した顕真を 慈円 閥解するのである。 ッタにして顕其は座主の地位を強奪した、と悠円たちは それがクーデターまがいのやり口で 構想もしていたことであろう。 本人白身も まで到泌していた。つまり顕列のライバルであった。 景からも天台座主に就任しても不自然ではないところに 、 慈円は年齢こそ顕其より遥かに若かったが 出自や背 的正であるらしき点も顧慮しておかねばならない。 もっとも派実にそんな消息をつたえたのが実弟の慈門 ての九条流突は 興宗教的なものに偏執していいのであろうか。公人とし 、 伝統を翫んじ 公的立場にある天台座主がそうした新 う市裂で裏付けがあったからであろ・フ。 、 顕真が念仏ノ一門に入ったのは行動 つまり称名念仏 、 答が純粋に法論だけで終始したものだったら 派突の耳 処々ノ道場志タ仏名ヲmz 、 繭 に届くことも疑問である。 4/ ヨリ以降 ノ戯エモ併セ念仏ヲロ遊トス。ソノ後法眼顕真ハ 召出サレテ天台ノ座主ニ補七ラル。叡山ノ高僧常 、 (のちに専修/徒として焚紳間へ線われた)を指滋したとい 、 倫ニ起出セリ。此等ノ明匠 皆上人三州シ給フ。 叉山民主顕以 十二人ノ時衆ヲ定メオキテ不断念仏 今エ退転ナシ。 、 、 ヲオコナイ給フ。一向ニ称名相続シテ余行ヲマジ エズ。ソノ行ヲ勤メ始メテ 、 念仏を思忠的,L 学問上で理解したのではなくて 、 尖践として花開不動のものにしたと強調するのであ る。 、 その後のことで理解の届 この記述でもわかるよ・フに 大阪問答の歴史的重量を 学問上の応酬たけに傾けると 、 九条兼突が、顕其の天台座主に疑念をさしはさんだこ かぬ問胞に次々と運治してくる。 とは前にも占いた この「念仏ノ一門」が思想的なものどけであったら、 万行ヲ葉テ」たからである。 非難の対象になるはずがない。憶持念仏は天台の伝統て - 44- は憎んた。この憎し Aはやがて噂修念仏そのものにまで エスカレートしてゆく。 慈円はその若「愚管抄」で法然を噸笑し、俊釆M 草田械 が円ら南無阿弥陀仏なぞと号した、と悶倒しつくす。 大原問答によってもたらされた革命の空気を、態円は 恐れ、かつ忌人鍬ったのである。旧体制側に立つ慈門と しては当然のことだったかも知れない。 その革命も、思惣や斑 A ではない。称名念仏という行 動をであった。 、 すべ 明温は俊来一 ME源と肩を並べて大僚の塁を去ろうとす る。 訟源は未だ頬を紅潮させていた。勝林院での感動がさ を限りに呼びつづけるのだ」 「阿弥陀仏の御名を、 HP めやらぬようである。 正直に言って、高野山からひたむきに駆けおりてきた 「そんな簡潔な、行だけでよいのか」 l マに 情熱の炎を、明過は大阪でややさめされた感じになって いる。 、 大上段に振りかふった民衆への荻い というテ とらえ こたえるに、たた称名では、いかにも陥没い足りぬのであ 慈円に限らない。当時の体制者は僧俗を問わず 、 ての事引が新しい専修念仏を恐れた。その大喰かAH 唱する 深い場所で る。仏法をもっと大仰なかたちで 世たからこそ、簡潔な方法が救いとなる」 、 「あれこれ考えたり ねりあげているいとまはない。乱 、 「乱世なれば なぜ側嗣怖に、か」 、 「乱世 末法だからだ」 「なぜ?」 起源はあっさりと 一 一uいきる。 「そうた、仏法の実践は簡潔であれば、あるほど良い」 、 実践行に心胆を疎結させられたのである。仏法がとんで ることに熟鯨されていた明過だった。 それが、乱世に生きる民衆の唯一つの救済であること もない邪道へ堕ちてゆくことを.畏服した。 を忘れて。 忘れたのでもない。ことさらに否定することで、おの …一一 …一 れの立場を守り抜こうとしたのであった。 、 「ただ ひたすらに称名か」 45 ー - 、 ・ 。やや 仏法におけるこの仕事師は 感覚でものを言 フ しかし 、 この感覚は精度が高かった 、 と言えるであろ こしい理論自体がE源の体質には合わないようである。 。 ・「 J 、 と主彊した。 世に鎌倉仏教と呼ばれるものの特色は、この行実践に 法然は唯-向に念仏すベし おける簡潔さにあった。 、 ひたむきにその御名を 観祭憶持の緩慢有閑な方法を捨て、内積に州立鏡な阿弥 陀仏への景仰をたくわえつつも 、 御名さえ呼べば阿弥陀仏は答えてくれる 、 呼びつづけることを教えた。時としては内面が空白であ ってさえも ! である。 、 ただ坐 法然におくれて世に出た禅家の道元は「只管打座」を とも説いた。 訴えた。 ただ坐っておれ である。 乱枇の気流かいかに身近に吹き荒れようとも っておれ ! そこに理屈も計算もない。その法を信じ抜くことだけ だ。 、 日蓮も 法奪の題目を唱えることだけを教えた。手法 、 は専修念仏の踏穫だが、それだけが大衆の心に喰い入っ と日蓮は信じたのである。 、 この大原問答がおこなわれた時点で 明週は来たそこ て紋済できる まで称名念仏へ前傾しきれない自分を知った。 それと、一つの人間像が明巡の践を箔曳して、純粋な 其の像であった。 視覚を濁ごらせるのである。大原の山夫、中納宮法印顕 「中納言ノ法印ハ心から称名念仏に帰依しているのだろ 置仮に打診してムた。答えはそっけなかった。 ・フか」 「そんなことは、わしらに聞係したことではない」 「法印は計算しているのではあるまいか」 「計算か」 だ。平氏に密着しすぎた先師明雲座主の傷痕が癒える日 「そうなのた。顕真はじっとこの大原で待ち続けたの ,〈、 。 車源は黙したまま、秋のu 仲間に散る落某を踏んでゆ 「・・・・・・」 われてならない」 「八年余にわたる大原への隠棲自体もわしには計算に思 -4 6- 、 る。 、 、 一日も平く大仏が復元すること 、 微動だもしないおのれを むき出しにしてく 明遍は羨やんだ。 、 草甑は を。ただ一点叫んけを見つめていた。その傷が癒えて天台 だ。仏法が興隆して 座主に登湿する日をだ。ぉぬしが連れてきたひじりたち だ」 、 が称名念仏を合唱する戸を じっと捌いていた顕其法印 の臨が それを物語る。そこに宿した涙は待ち続けた 隠佳から、輝かしい世界へ出世してゆく感動で支えられ このひじりには迷いがない。直進するだけなのだ。 γをおのれのためだけに利用し わしは目的は唯一つ 、 と の違いだけ 僧都とい・フ官制の地位、無言のひじ、り にありすぎる。 であろ・っか。 、 タ窓へ集い立った。彼らはどこを特に 樹林の梢にたむろしていた聴の群れが 明週たちの足 音を聞きつけて しているのであろうか。 Bか . 迫った顕真法印を訪問した制り道だ 進に協力を惜しまぬ、とい・フ古賀をもらってきたばかり 座主に就任したら、比叡金山をあげて東大寺大仏の勧 った。 座主への補任の この目、佼来日 m箪源はひとり樹林を歩いていた。天台 答がおこなわれて、すでに三年の鵡月が過ぎた。 大原の樹林で、古木は年齢欄を}つこつと加算した。問 a u ' その点、自分はど・っか。あまりにも小道や繁みが路辺 たものであった」 、 一気に語り続けて 明遍のロは渇した。水分の欠乏か 、 ものを考えられぬのか。生 らではなかった。心底からこム上げたやましさからであ った。 俺はこうした方法でしか 「そうかも知れぬ」 い立ちからきた習性なのでもあろうか。 , と、軍源はあっさり明治の宮築を受容する。顕其はこ のデモソ久トレ lγ た。という意味のことを甘い添えた。 「となると軍減、おぬしの配慮も中納古ノ法印を天台座 「そんなことは、とうでもよい。とんな形ではあっても 主へ持ちあげるための結果におわりそうだ」 、 仏法が興隆してさえくれれば、わしはそれでよい。誰が 座主になろうと勧学になろうとも 師の立場でもあるべき法然回が 、 、 なぜ 明過が洩らしたりロ葉を 今同じ林 おのれの栄述だけを までもない。 、 、 これから吉水の禅室へ立ち寄ってみよう。 吉水の縛室でもの静かに念仏三昧なのであろ 、 、 それほど気は震くなかった。久しい無沙汰 たえて久しい無沙汰がかえりみられた。かとっ言 、 、 そういう場所であった。房主の法然 、 そ・フいう人であった。 、 〈つづく〉 そこへゆくだけで 豊かに心のくつろげるのである。 とは 古水の禅室とは がいっこ・フに気にならぬのである。 て今の亙様 と あの折の礼は言わねばならぬ。 て以来の訪問であったことに気ずいた。 つい先年の女治三年四月。法然によって一命を放われ E 淑は心にきめる。 そうだ ・ 「J 。 のように おそらくあんな大原間容があったことさえ忘れ去ったか 明越はあからさまに口外したが 法然は無官だった。 その新しきリーダーに顕其自身を構想するとこ は言う に精力を傾けている。比叡山を新仏法のよそおいで復元 霊源は勝林院の持払堂であの日の である。現実に近江の荘園の一角まで寄進することを確 、 させようとする。 顕真と商談しつつ 約している。 、 まま称名念仏が流れる戸を仰いた。顕真は本気で 呼修 、 、 やはり大原へしばしばまいられるのか」 用談のあと訊いた。 、 念仏に帰依していたようである。 、 「法然M は と 「いや::あ :れきりさっぱり姿を見せない」 称名念仏では 顕其は重い口調で宮った。 、 あの夕暮 大原問答以後この地へ足を踏み入れぬのであるうか。 包源は 間の道をたどりながら思いうかべている。 、 や はり 法然も顕哀の体質のなかにある貸族の血を感じ たにちがいない。他人を利用して 、 、 顕真は足跡は天台座主をひと あからさまに口外した。 考える測った血流々。である。 明過はそのことを たしかに大原問答以後 、 内には梶井門跡流の正統血脈の資料蒐集 すじに目ざしてきた。外には新興勢力である念仏者たち を身辺に集め -4 8- 編集後記 u 仰 の小学唱歌は、幾つになっ O 五月五日は「子供の日」。 w般のぼり H くらべ や H背 エネルギ ー 、 その真つ盛りの情熱と " の樹怖い発散である。 友とお 夢にmきをかけて H 、 || 輝く日差しが らん鈴懸の径通い馴れたる学校 〈まなびや)の街 ても幼ない心のふるさとへと旅する旅券の 紫かげにきらめく中で 紛らぬ青島町の夢を ようなものである。植田しさがこみあげて、 やさしく WH〈はぐく)んでもらいたい。そ の日への郷愁にうつつをぬかしていられな 、 企凶を盛り込んで 、 総面の充実をいささか 、 H よかったなあグとつくづく感じ入るセンチ れこそが まなびゃ “で勉学することの 一 メンタルは、ひとり訟だけのものではあ る 真実の目的であろう。 . 一 まい。もちろん弘たちは、いたずらに子供 O さて本誌 も、四 月号より二 三の新しい 現災のものとして給災させなければならな てはな っ らないはずである。 るわけであるが 、 それにつけても活後遺品欄 MUL 心g からお願いするとともに 、 やはり少 すがるばかりである。地口さまの暖かUい Aご いだろう。そのための努力の営みには、決の多いことは 、出口 さまのご鴨池怨にただただ して怠りがあ 強く普い起したい。 子供時代の滑らかな勇気や 正広心を今こそ めに 、 HH 何刷会 のご紹介を広くお願いしな u しでも『作上』鉱の購統希切 身をふやすた 号 月 八四 餓 会 一 仰 玄川五日わが Hき H 喝し ιH き山太々え 発印 印 ニ 滋昭 七四ノ刷 ?で 総休 111 一九十 二五ぬ 人 ノ 一 ぃ。幼なき日に夢みた理怨世界は、ぞはりとも計るうと微力ながら努力をいたしてい … る。 子供の円小さくなり靴いくつ籾 ければならない。どうか、皆 さまのやさし O叫川は新総の玄川、午閣のキャン川ス 刷ひたすらにお待ちする次第であ いは ごい 配十 胤を 業の刃さが臼にしみる中で、叫 f生たちの悼刊 しい活 動 が は じ ま っ て い る 。 こ れ も 奇 習 の 一 」ー・嗣 五 C 日 I? 島問佐官 : f 円士L 可日 tlI 制リJ j並彦行刷 風 定 。山 O0 料 0 円 不 lJ!i 、 巻 飯器人 X 交 )J 月認ニ 法 八六 プ可 番~ 説 一購 年竺 四 十 十一十一種郵牛 釘別1 刷 1羽日海編 卒五卒四 物使五月 振,i.5先代 普及京E J,芳s 区 111 奈ニ 会 五五三和~ 宝 一二 八 l ニ 然ょ 総 - 二げ' zt 」 ! f ( I 浄 土 I 昭問 有1 和第昭 E m J 千i H f 寸. - Z問 抽 ltJ E十 十年 詩型 国二巳且 日十 -ー E S 丘巻 浄土宗出版事業協会 l J E 司 、J 1 20 480 1 20 980 1 60 8 8 0 1 60 論と実践のハンドプック 浄土選書 2 石上 善応著 『イム像ーその語りかけるもの 』 l i .1 わが心の反映としての 仏像 の美を 事 月月 発 行 4 8 0 268頁 やさしく人生の歩み方を教える理 土号 日例 措 一 庁日 新岳判 『仏 教 的生き 方 と は ? .n g E寄 五 格|定価|送料 名 浄土選書 1 I 松 濡弘道著 制ニ zs 第 m 1 新 :S 判 200頁 見つめる新しい思索の密 美術雑誌 『芸 術浄土』② 特集 B5 判 衿土宗の国宝 ・ 魂のふるさ 120頁 と と嵯峨野 ミ ほか 『芸術浄 土 J@ 特集 B5 判 浄土宗の国宝 (鎌倉 篇) 84頁 鎌倉 をあるくほか 布教シリーズ|① 浄土 宗 の葬祭 B 6 半11 ② 私 の 一日 一 言 1 6頁 @ 法然上人のおしえ @ 服の歌(岸信矧「 B 6判 32頁 『浄土伝 燈輯要』全一巻 伝総務列祖研 績 の一大集裁として 明治初年発刊の和額三巻本を一本 としてここに再版 ポケ ット判 li'i争土宗寺 院名鑑』 本版を携術用に縮少 『浄土宗 教師必 携.1 附1977年教師手帳 1 部40 300部以上38 500部以 上35 送料実質 1 部60 300部以上55 500部以上50 送料実費 A5 半IJ 1 074頁 70 0 0 お0 1 500 1 20 A6 判 364頁 I A6 変型判l |本尊表 紙I.~ω 資絡分限ほか取得事項記入欄、 主|本体 120 頁If送料} ~宗規宗網を掲i紋 〒 105 発行所 電話 |手帳 124 1共 / r4-")-~ .U ",,% 到 J "I¥7'ヌ I 東京都港区芝公園 4 ー 7 - 4 浄土宗宗務支所内 浄 土 宗 出版 事 業協会 (03) 4 3 6-3 3 51 銀管 〈東京) 6-6 2 5 8 7