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日本語の母音 /u/ の音声学的実態 大塲 しおり 東京外国語大学外国語学
日本語の母音 /u/ の音声学的実態 大塲 しおり 東京外国語大学外国語学部 2011 年度卒業論文 2012 年 1 月 要旨 この研究の目的は、日本語の母音 /u/ の音声的実現を調音音声学的な手法を用いて観察・ 分析し、その結果にもとづいて関連する先行研究の音声的記述を再検討することにある。ま た、音声学的観察の過程で浮かび上がる重要な諸問題について論じる。 従来の研究では、日本語(共通語)の母音 /u/ の円唇性に関する記述は、「円唇を伴わな い」とするものが多数を占めているが、その根拠は概略的な観察によるものであり、詳細な 実態の調査にもとづくものとは言いがたい。とはいえ、たとえば、斎藤(2006: 84)の「唇 の丸めがないわけではないが、少ない」という観察や、服部(1984: 131)の「人によっては 多少唇が上下からつぼむこともある」という観察のように円唇性の程度や、唇の上下の狭め の音声詳細が言及されることもあり、円唇性の音声的な記述には、唇の円めの有無という二 項対立では不十分かもしれないことがときおり示唆されてきた。本研究では円唇性の音声的 詳細にかかわるこれらの尺度を発展させ、客観的で広範囲の器械音声学的データにもとづい て日本語の母音 /u/ の円唇性の音声学的実態を分析・考察する。 データの収集と分析の要領は以下の通りである。日本語5母音を音環境と音節数の点でコ ントロールして比較するため、実在する 13 単語を選ぶ。それらの書かれたカード 13 枚を母 語話者に見せ、それぞれ3回ずつ発音してもらう。音声は直接コンピューターに録音する。 それと同時に、発音している際の唇の動きを動画撮影する(正面からと、顔の側部に配置し た鏡に写る側面からの映像)。動画資料は、windows ムービーメーカーを用いて、音声を聞 きながら映像をコマ送りにすることで当該母音の調音における唇の動きの目標近似点を特定 し、それぞれの単語内の母音を調音している時の画像を切り取って、唇の形状を観察する。 観察には、母音単独の /u/ の観察と出現環境による比較の2つの方法を採用する。 観察の結果得られた知見から導き出すことができた結論は以下の3点である。 (1)日本語の /u/ の唇形状には重要な3つのタイプが同定でき、これらのタイプの属性を より精密に記述するため、円唇性の音声詳細に関わる新しい素性セットを本研究で提案した。 この素性セットを用いて /u/ の唇調音を形式的に表示することで、[+compressed] が最も 安定的かつ必須の /u/ の調音音声学的特徴であると記述できる。さらに、日本語の唇形状は 内部に3つのタイプが認められるひとつの連続帯である。 (2)先行子音の /u/ の調音に与える影響に関して、[Coronal] の調音位置をもつ先行子音 が /u/ の唇調音に変化をもたらしうる。 (3)先行研究における音声的記述に関して、日本語教育の分野において定説となっている 「/u/ は非円唇」という見解は、過度に単純化された極端な見解である。 -ii- 謝辞 本論文を執筆するにあたって、録音・録画を手伝ってくださった東京外国語大学大学院生 の柳村裕さん、データ収集に協力してくださった東京外国語大学大学院生・学部生 29 名の 皆さんに心より感謝申し上げます。尚、録音・録画に際しては、東京外国語大学音声学実験 室の防音室をお借りしました。 また、本論文は 2011 年 11 月 12 日に東京学芸大学にて行われた外国語教育学会第 15 回研 究報告大会において、「日本語発音教育における母音 /u/ の円唇性の扱い」として一部を発 表しています。その際に、東京外国語大学の川口裕司先生、岡野賢二先生に有益な質問及び コメントを頂きました。 本文内容に関する限りの責任はすべて私にあります。 -iii- 目次 1. 序論_______________________________________________________________________1 2. 先行研究 __________________________________________________________________2 2.1. 日本語音声学における /u/ の扱い 2.1.1. 服部(1984) 2.1.2. 天沼他(1991) 2.1.3. 斎藤(2006) 2.1.4. Vance(2008) 2.2. 日本語教育学における /u/ の扱い 2.2.1. 今田(1988) 2.2.2. 松崎他(1998) 2.2.3. 池田(2000) 2.3. 本研究が取り組む課題 2.4. 2章の要約 3. 調査方法___________________________________________________________________6 3.1. 資料収集方法 3.2. 録音・録画環境 3.3. 協力者 3.4. 3章の要約 4. 調音音声学的分析___________________________________________________________9 4.1. 母音単独の /u/ の唇形状 4.1.1. タイプ A 4.1.2. タイプ B 4.1.3. タイプ C 4.1.4. 母音単独の /u/ の観察結果 4.2. 出現環境による比較 4.2.1. タイプ A-パタンⅠ 4.2.2. タイプ A-パタンⅡ 4.2.3. 出現環境による比較の観察結果 4.3. 4章の要約 5. 考察______________________________________________________________________17 5.1. /u/ の唇形状の調音音声学的特徴 5.2. 先行子音による /u/ の唇調音への影響 5.3. 応用音声学的含意 5.4. 5章の要約 6. 結論______________________________________________________________________20 付録 参考文献 -iv- 第1章 序論 本研究の目的は、日本語の母音 /u/ の音声的実現を調音音声学的な手法を用いて観察・分 析し、その結果に基づいて関連する先行研究の音声的記述を再検討することにある。また、 観察の過程で浮かび上がる重要な諸問題について論じる。 日本語の /u/ の円唇性は、音声学的な研究領域においてその見解に不一致が認められ決着 がまだついていない。また、日本語教育の分野では「非円唇である」という極端な見解が定 説となっている。これらの問題は、先行研究における見解が /u/ の調音の客観的で詳細な実 態調査に基づいていないことが原因と考えられる。また、服部(1984)の観察における唇の 上下の狭めや、松崎他(1998)の観察における唇の左右の引きへの言及から、円唇性の音声 的な記述には、唇の丸めの有無という二項対立では不十分なのではないかということも示唆 される。本研究では、先行研究に読み取ることのできる円唇性の音声的詳細に関わる断片的 な記述を体系的な観察のための尺度に発展させ、客観的で広範囲の器械音声学的資料に基づ いて日本語の母音 /u/ の円唇性の音声学的実態を分析・考察する。 次章では、日本語の母音の音声的実現を記述している先行研究を取り上げ、これらのもつ 問題点を明らかにし、本研究で扱う課題について論じる。第3章では、日本語の /u/ の音声 特徴を明らかにするための組織的な器械音声学的資料の収集及び分析方法を述べる。第4章 では、収集した資料を調音音声学的方法で観察・分析する。分析に際し、/u/ の円唇性に関 わる音声特徴を明瞭かつ精密に記述するため、新しい素性のセットを提案する。第5章では、 調音音声学的分析の結果をもとに考察を行う。第6章では、本研究の導き出す結論とともに、 今後研究すべき課題について述べる。 -1- 第2章 先行研究 本章では、日本語の母音の音声的実現を記述している先行研究を取り上げ、これらの持つ 問題点を明らかにし、本研究で扱う課題について論じる。日本語の /u/ の音声的実現に直接 関連する先行研究を通覧すると、日本語音声学と日本語教育学における音声の2つの分野に 分けることができる。そこで、以下では、この2つの分野における先行研究の中から、特に 重要と思われるものを取り上げる。第 2.1 節 では、日本語音声学に関して服部(1984)、天 沼他(1991)、斎藤(2006)、Vance(2008)の4つ、第 2.2 節 では、日本語教育学に関し て今田(1988)、松崎他(1998)、池田(2000)の3つの計7つの研究を扱い、これらの先 行研究がもつ問題点を指摘し、それを解決する方策について、第 2.3 節 で論じる。 2.1. 日本語音声学における /u/ の扱い 次の第 2.1.1 項から第 2.1.4 項に挙げる代表的な研究例からわかるように、日本語を扱う音 声学的な研究における記述には、/u/ の音声特徴の捉え方に差異がみられる。つまり、/u/ の 円唇性の調音音声学的な実現の観察や解釈、また取り上げている音声特徴には、見解の不一 致が認められる。 2.1.1. 服部(1984) 服部(1984)は一般音声学書だが、日本語の調音についても多くの観察や解釈を記述して いる。日本語の母音 /u/ に関しても次のような記載がある: 「[u] とは異なり著しく前寄りで、 唇の円めも普通ない。…人によっては多少唇が上下からつぼむこともある。…基本的 [ɯ] と [ɨ] との中間音」である(pp. 131–132)。この記述で注目すべきなのは、/u/ の円唇性の音声 的実現として、唇の丸めの有無ではなく、唇の上下の狭めという特徴に言及している点であ る。この見解は、第 2.3 節で導入する3つの音声特徴に直接関連する。 2.1.2. 天沼他(1991) 天沼他(1991)は、服部(1984)とは異なる観察を示し、/u/ に [ɨ] と [ɯ] という異音を 同定し、円唇性をもつ異音を認めていない。そして、 「[ɨ] と [ɯ] の分布は相補的であり、… 日本語の音素 /u/ の異音とすることができる(p.57)」という音素分析的な解釈をした上で、 「[ɨ] の分布は、[s]、[ts]、[dz] の後ろである(p.57)」と述べている。 「より正確に表そうと すれば、…[ɯ] は [ɯ+] とすべき(p.55)」との記述もあるが、いずれにしても /u/ の異音 として全て非円唇のものを同定している。その点で、天沼他(1991)は程度の差こそあれ /u/ の円唇性を認める他の見解とは異なる。 2.1.3. 斎藤(2006) 斎藤(2006: 84)は、天沼他(1991)の表記に反映する /u/ の円唇性の欠如という見解を、 敷衍し補正する立場ということができるだろう。つまり、/u/ は円唇性を完全に欠如してい るというのではなく、「[u] に比べると唇の丸めがかなり少ないが、丸めのない [ɯ] とも異 -2- なる。[] と表せる音である。…唇の丸めがないわけではないが少ない」と記述しており、 その点で天沼他(1991)とは異なる。この見解は、/u/ の音声的記述に円唇性の有無の二項 対立ではなく、程度の差を導入しようとするものである。 2.1.4. Vance(2008) Vance ( 2008: 54–55) は 、「 /u/ を 正 確 に 記 述 す る た め に 、 Lip Protrusion と Lip Compression を区別する必要がある 」と述べており、円唇性の詳細を記述する2つの尺度 を導入している。「丁寧な発音では明らかに Lip Compression が見られる」が、「一般的な 速度で話される文中の発音では、Compression は一般的に弱くなるか、全くなくなることも ある」ために、日本語の /u/ は非円唇とされていると述べている。 (以上、引用部は大塲訳) Vance(2008)の見解は第 2.3 節で述べる本研究の見解と類似しているが、本研究では円 唇性の記述に有効な音声特徴を3つと考える点で異なっている。また、Vance は発音スタイ ルの違い(丁寧な発音/一般的な速度の発音)と円唇性の関係を考慮している。これは、こ れまでの研究には見られなかった新しい視点である。本研究はスタイルを Vance が「丁寧な 発音」と呼ぶスタイルに限定し、/u/ が潜在的にもつ円唇性が活性化されやすい条件での観 察をしている。詳しくは第 3.1 節の資料収集方法で述べる。 2.2. 日本語教育学における /u/ の扱い 第 2.1 節で取り上げた日本語音声学に関する先行研究では意見の不一致がみられたことか らわかるように、/u/ の円唇性の音声的詳細には解釈の幅があると考えられる。それにもか かわらず、次の第 2.2.1 項から第 2.2.3 項で取り上げる日本語教育学の分野の研究例をみると、 「/u/ は非円唇である」という極端に単純化した見解が定説とされている。 2.2.1. 今田(1988) 今田(1988: 30)は、 「 「ウ」[] は…唇の丸めを伴わない奥舌高母音である」とし、 「「す、 つ、ず(づ)」の [] は中舌化し、[] または [] で表される音になる」と記述している。 「唇の丸めを伴わない」と明記している上、音声表記に [,, ] のみを用いていることから も、日本語の /u/ には音声的に円唇性を認めないという見解であることがわかる。 2.2.2. 松崎他(1998) 松崎他(1998: 103)は、「東京方言の高舌母音 /ウ/ は、英語や中国語、近畿方言の /ウ/ に比べ、円唇性を帯びていない。…非円唇母音 [] の記号を当てる。ただし、唇の横への引 きは [ɯ] ほど強くない」と記述しており、円唇性を帯びていないとしながらも、唇の左右へ の引きという音声詳細に言及している。この点については、後の第 2.3 節で導入する音声特 徴に関連する。音声詳細への言及はみられるが、やはりこの見解も円唇性はないとする点は 明らかである。 -3- 2.2.3. 池田(2000) 池田(2000: 58–59)は、「非円唇なので…「唇に丸めがない」ことを常に意識しておきた いので、[] で表記します」と記述し、非円唇であることを強調している。この研究も、今 田(1988)及び松崎他(1998)と同様に、明らかに /u/ の音声的な円唇性はないという見 解を示している。 2.3. 本研究が取り組む課題 第 2.1 節で述べたとおり、日本語音声学の分野の先行研究においては、/u/ の円唇性の調 音音声学的な特徴に関する見解は一致せず、様々な観察が報告されており、どの記述がもっ とも妥当かを判断するのは容易ではない。一方では、このように多様な見解が並存している にもかかわらず、日本語教育学の分野では第 2.2 節で述べたとおり、 「非円唇である」という 過度に単純化した極端な見解を定説のように扱っている。そして、それを定説とする根拠は 明らかではない。 日本語音声学では見解が一致せぬまま解決を見ず、また日本語教育学では「非円唇である」 という極端な見解を根拠のないまま定説としているというこれらの問題は、先行研究におけ る観察や解釈が /u/ の調音の客観的で詳細な実態調査に基づいていないことが原因と考え られる。また、服部(1984)の唇の上下の狭めや、松崎他(1998)の唇の左右の引きへの言 及をふまえると、円唇性の音声的な記述には、唇の丸めの有無という二項対立では不十分な のではないかということも示唆される。 本研究では、先行研究に読み取ることのできる円唇性の音声的詳細に関わる断片的な記述 を体系的な観察のための尺度に発展させ、日本語の母音 /u/ の円唇性の音声的実態を精密に 記述する。そのために、以下の /u/ の円唇性に関する3つの音声特徴を導入する。 (1) 唇の上下の狭め (2) 両口角の中心への引き寄せ (3) 唇の前への突き出し 第 4.1.4 項及び第 4.2.3 項において詳しく述べるとおり、これら3つの音声特徴を効果的か つ明瞭に表示するために、新しい素性セットを提案する。 また本研究には、実証研究という側面もある。先行研究に欠けている客観的で広範囲の器 械音声学的データを収集することも本研究の意義ある課題である。この新しいデータに基づ き、日本語の母音 /u/ の円唇性の音声学的実態を上記の音声特徴を使用して分析・考察する。 2.4. 2章の要約 本章では、第 2.1 節 と第 2.2 節 でそれぞれ日本語音声学と日本語教育学における先行研 究の /u/ の円唇性に関する記述を取り上げ、批判的レビューを行った。第 2.3 節 ではこれ らの先行研究の問題点を示した上で、先行研究における示唆に基づいて発展させた3つの音 声特徴を導入し、客観的な器械音声学的データを基に、これらの音声特徴を用いて /u/ の 円唇性の音声学的実態を分析することを本研究の取り組む課題とした。 次章では、/u/ の音声詳細に関わる客観的かつ広範囲な器械音声学的データを収集し、分 -4- 析するための調査方法について述べる。 -5- 第3章 調査方法 第 2.3 節で述べたとおり、本研究では、日本語の母音 /u/ の音声特徴を明らかにするため の組織的な器械音声学的な資料の収集と分析を行う。分析に用いる器械音声学的手法は、調 音の動画撮影による唇の形状分析である。本章では、まず資料の収集方法を記述し、次いで 録音・録画環境について述べる。最後に調査への協力者の特徴とともに、本研究が扱うデー タの限界についてもコメントする。 3.1. 資料収集方法 日本語母語話者に日本語に存在する単語の書かれた単語カード 13 枚を机上に並べ、それ ぞれ3回ずつ自然に発音してもらった。後述するように、 「自然に発音」するという指示のも と単語の単独形を読み上げてもらうことから、ぞんざいさを排除した、いわば「丁寧な発音」 というスタイルでの調音が観察できると期待される。 音声はコンピューターに直接録音し、同時に発音している際の唇の動きを正面からと、鏡 を顔の側部に配置することで側面から動画撮影した。撮影した映像は、windows ムービーメ ーカーを用いて音声を聞きながら映像をコマ送りにすることで、母音の調音における唇の動 きの目標近似点を特定し、画像を切り取って唇の形状を観察した。なお、使用した単語リス トは表1に掲げてある。 表1 調査単語リスト 単語 音声 単語 音声 単語 音声 胃 /i/ 木 /ki/ 津 /tu/ 絵 /e/ 毛 /ke/ 酢 /su/ 亜 /a/ 蚊 /ka/ 図 /zu/ 尾 /o/ 子 /ko/ 鵜 /u/ 苦 /ku/ 調査単語の選択は次のような基準で行っている。 ① 他の母音との比較観察のため、/u/ のみではなく5母音を均等に使用する。 ② 出現環境による変化を観察するため、先行子音がない場合、先行子音が軟口蓋音 /k/ の 場合、先行子音が歯茎音 /t, s, z/ の場合の単語を使用する。なお、/p, b/ のような唇の調 音を含む先行子音は、後続母音の唇の形状に直接影響を与えるため除外する。 本研究では調査対象を単語に限定しており、テクスト内における /u/ の唇の形状について はここでは扱わないこととする。単語単独での発音を採用することで、第 2.1.4 項で扱った Vance(2008)の先行研究の記述にある、 「丁寧な発音」のスタイルでのデータの収集を意図 している。これは、Vance(2008)が示唆しているとおり、 「丁寧な発音」では「一般的な速 度の発音」に比べて /u/ が潜在的にもっている円唇性の音声実現がより確実になされるから である。前述のように、単語の単独形を読み上げてもらう際に「自然に発音」するように指 -6- 示することで、ぞんざいな発音ではなく、 「丁寧な発音」における調音が観察できると期待さ れる。 3.2. 録音・録画環境 録音・録画を行った環境、使用機材、保存したファイル形式について簡単に述べておく。 録音および録画は、2011 年 6~7 月に東京外国語大学の音声学実験室内防音室において行っ た。マイクは ELECOM 社製 HS-MC01 を直接コンピューターに接続し、音響分析ソフト praat (version 5.1) を用いて録音した音声を WAV ファイルで保存した。デジタルカメラは OLYMPUS 社製 FE-330 を使用し、録画した映像資料は AVI ファイルで保存した。また、映 像資料から切り取った画像は、TIFF ファイルで保存した。 3.3. 協力者 録音と録画には、日本語を母語とする 18-30 歳の男性 16 名、女性 10 名の計 26 名に協力 してもらった。なお、協力者の出身地、年齢、性別は以下の通りである。 表2 協力者一覧 出身地 年齢 性別 出身地 年齢 性別 S1 北海道 18 女 S14 東京都 18 男 S2 北海道 22 女 S15 東京都 20 女 S3 岩手県 20 男 S16 東京都 20 男 S4 岩手県 22 男 S17 東京都 21 男 S5 宮城県 24 男 S18 東京都 24 女 S6 山形県 20 男 S19 神奈川県 18 男 S7 茨城県 19 女 S20 神奈川県 19 女 S8 茨城県 21 女 S21 神奈川県 20 男 S9 埼玉県 19 男 S22 神奈川県 25 女 S10 埼玉県 20 女 S23 静岡県 28 男 S11 千葉県 19 男 S24 兵庫県 30 男 S12 千葉県 19 男 S25 岡山県 24 男 S13 千葉県 19 男 S26 広島県 20 女 今回のデータでは、調音的な特徴に男女差及び年齢差は認められなかった。年齢差につい ては、今回の協力者の年齢は 18–30 歳と限定されているため、データの年齢の幅を拡大すれ ば重要な差が認められる可能性が考えられる。 出身に関しては、主に関東地方が中心ではあるが、関西を含む他の地方出身の協力者のデ ータも関東出身者のものと重要な差は見られず、むしろ個人差の方が大きく認められた。方 言差については、東京外国語大学の川口裕二先生より「協力者に方言で発音するように言え ば、明確な方言差が出るのではないか。特に関西地方出身者は、方言で /u/ を発音すれば明 -7- らかに円唇が見られるはずである」とのコメント1を頂いた。これは今後検証していくべき課 題であると考える。ただし、本研究では協力者の出身に関わらず発音に際しては日本語の共 通語を用いているため、方言差に関しては論じないこととする。 3.4. 3章の要約 本章では、調査方法として、日本語の母音 /u/ の音声特徴を明らかにするための器械音声 学的資料の収集方法、資料収集の環境及び協力者の特徴について述べた。 次章では、第 2.3 節で導入した3つの音声特徴を使用し、収集した資料を2つの観察方法 で調音音声学的に分析する。分析の結果をもとに、第 4.1.4 項で新しく導入する音声特徴を 発展させた素性セットを用いて、日本語の /u/ の重要な音声詳細を記述する。 1 2011 年 11 月 12 日に東京学芸大学で行われた外国語教育学会第 15 回研究報告大会にて、本研究の一部を「日本語発音教育 における母音 /u/ の円唇性の扱い」と題して発表した。その際に頂いたコメントである。 -8- 第4章 調音音声学的分析 本章では、第3章で記述した方法を用いて収集及び編集した資料を、調音音声学的観点か ら観察・分析する。映像資料から切り取った母音の調音時の静止画像を使用し、/u/ の唇の 形状を以下の2つの方法を採用して分析を行う。 ① 母音単独の /u/ の唇の形状を、同じ狭母音で前後性の異なる /i/ 及び中立的な唇の構え と比較 ② 先行子音がない場合、先行子音が軟口蓋音 /k/ の場合、先行子音が歯茎音 /t, s, z/ の場 合2に分け、唇の形状の変異を観察 以下では、まず第 4.1 節 で①の母音単独で観察した場合の結果につて精密に記述し、次に 第 4.2 節 で出現環境によって比較した場合の結果を詳細に述べる。また、観察に用いた3つ の音声特徴をより形式的に敷衍した新しい素性のセットを提案し、各節における /u/ の唇形 状の精密な表記を提示する。最後に、それぞれの観察で得られた結果を第 4.3 節で要約する。 4.1. 母音単独の /u/ の唇の形状の観察 母音単独の /u/ の唇の形状を明らかにするためには、同じ狭母音である /i/ の唇の形状お よび中立的な唇の構えと比較して観察しなければならない。この観察を体系的に行うために、 第 2.3 節 で導入した3つの音声特徴((1)唇の上下の狭め、(2)両口角の位置、(3)唇 の前への突き出し)を使用した。その結果、母音単独で発音した場合の /u/ の唇の形状は、 以下の3つのタイプに分類することができた。 図1 タイプ A-C と頻度 タイプ A タイプ B タイプ C 18/26 人 7/26 人 1/26 人 69% 27% 4% 第 4.1.1 項から第 4.1.3 項では、タイプ A、B、C の区別がどのように特徴づけられるかを 記述し、第 4.1.4 項では母音単独 /u/ の観察の結果を要約するとともに、新しい素性セット を導入して /u/ 及び /i/ の唇の調音の区別を決定する音声特徴を体系的に捉え、記述する。 2 単語の選択基準については第 3.1 節参照。 -9- 4.1.1. タイプ A タイプ A は 69%と3つの中で最も頻度が高かった。このタイプ A を特徴づける調音特性 を3つの音声特徴に沿って記述していく。まず(1)唇の上下の狭めだが、下の図2の /u/ の 調音時の画像と /i/ の画像を比較してもらいたい。/u/ の上唇と下唇の隙間は、/i/ の隙間よ りも明らかに狭いことがわかるだろう。よって、/u/ は唇の上下の狭めによって特徴づけら れると言うことができる。次に(2)両口角の位置は、/u/ の口角が中立的な構えと比べて 明らかに中心へ引き寄せられている一方、/i/ の口角は中立的な構えと比べて左右に引き離さ れていることがわかる。(S18、S24 いずれの話者においても、/i/ の調音では口角が頬に対 していくぶんくぼみを作っているように見える。S18 については、特に側面の画像に注意し てみると、口角が中立的構えよりも頬側に移動していることを示している。)(3)唇の前へ の突き出しは、側面の画像に着目してもらいたい。/u/ の唇は /i/ や中立的な構えと比べて 明らかに前へと突き出しているといえる。 このタイプ A は明らかに「非円唇」とは呼びがたく、むしろ円唇の [u] に近い唇の形状だ と言える。 図2 タイプ A(S18 と S243は各列の画像の話者を指す。番号は表2のそれに対応する。) /u/ neutral /i/ S18 S24 (1) 唇の上下の狭め:あり (2) 両口角の位置:引き寄せ (3) 唇の前への突き出し:あり 4.1.2. タイプ B タイプ B は 27%とタイプ A に次いで多く見られた。先ほどと同様に3つの音声特徴を用 いて記述していく。図3を見ると、 (1)唇の上下の狭めはタイプ A と同様に、/i/ と比べて 明らかに上下の著しい狭めがあることがわかる。では(2)両口角の位置はどうだろうか。 /u/ の画像を見ると、タイプ A の両口角の位置とは明らかに異なっていて、中立的な構えと 比べて口角の位置にほとんど差がないことがわかる。 (3)唇の前への突き出しは、タイプ A と同様に明らかに前への突き出しが見られる。 口角が中心に引き寄せられるタイプ A とは明らかに異なり、両口角が中立的な位置である ことがタイプ B の注目すべき特徴である。このタイプが認められる(しかも 27%という少 3 第 3.3 節の表1「協力者一覧」を参照。 -10- なくない話者に認められる)ということは、日本語の /u/ においては、3つの音声特徴のう ち、 (2)が他の特徴よりも相対的に重要性の点で低い地位をもつということを示唆する。こ の点については第 5.1 節の「/u/ の唇形状の調音音声学的特徴」で改めて述べることになる。 図3 タイプ B /u/ neutral /i/ S7 S3 (1) 唇の上下の狭め:あり (2) 両口角の位置:中立的 (3) 唇の前への突き出し:あり 4.1.3. タイプ C タイプ C に該当する /u/ をもつ話者は今回のデータでは1人だけであった。データのサイ ズを大きくすればその数も増える可能性がある。頻度は極めて低いものの、このタイプの発 見は唇形状の3つの音声特徴の間の相対的な優位さを考える上で有意義である。図4を見て みると、(1)唇の上下の狭めはタイプ A、B と同様に、/u/ は /i/ と比べ明らかに上唇と下 唇の隙間が狭く、上下の狭めがあるといえる。 (2)両口角の位置は、タイプ B と同様に、 /u/ と中立的な構えの口角の位置の差がなく、中立的な位置であると認められる。このタイプ C がタイプ B と異なる点は(3)唇の前への突き出しであり、側面の画像を見ると /u/ の唇は 中立的な構えと比べてもほとんど差がなく、前への突き出しが見られない。つまり、タイプ C が認められるということは、日本語の /u/ において、3つの音声特徴のうち、(1)だけ で円唇性が実現しうるということを意味する。この意味でタイプ C の同定は重要である。こ の点については、本章の第 4.1.4 項で素性を導入する際にも触れ、また第 5.1 節「/u/ の唇形 状の調音音声学的特徴」でも論じる。 さらに付け加えると、最も頻度の低いこのタイプ C は、日本語教育学で定説とされている 非円唇の [] の唇形状に最も近いと言うことができる。これによっても、日本語教育学にお ける /u/ の円唇性に関する見解が極端なものだということが改めて明らかになる。 -11- 図4 タイプ C /u/ neutral /i/ S22 (1) 唇の上下の狭め:あり (2) 両口角の位置:中立的 (3) 唇の前への突き出し:なし 4.1.4. 母音単独の /u/ の観察結果 第 2.3 節で導入した3つの音声特徴を用いた母音単独の /u/ と /i/ 及び中立的な唇の構え との比較観察から、/u/ の唇調音に上記3つのタイプが同定できた。円唇性を記述する音声 特徴をより効果的かつ明瞭に表示するために、本研究では3つの音声特徴をより形式的に敷 衍した新しい素性のセットを導入する。ここまで使用してきた3つの音声特徴をもとに、そ れぞれにタイプ A-C と狭母音 /i/ を区別するために有効である尺度を設け、以下の3つの素 性を提案する。そしてこれらを用いて /u/ 及び /i/ の唇形状の対立関係を十分に表現する妥 当な記述を提示する。 (1)唇の上下の狭め:[±compressed] (2)両口角の位置4:[±adducted mouth-corner]、[±abducted mouth-corner] (3)唇の前への突き出し:[±protruded] (1)唇の上下の狭めと(3)唇の前への突き出しに関してはそれぞれ単一の二項対立素 性で十分記述できるが、 (2)両口角の位置は /i/ との区別をするためには2段階では不十分 であるため、以下のように3段階を区別することのできる2つで1組の二項対立素性を設定 した。 [+adducted mouth-corner, -abducted mouth-corner](引き寄せ) [-adducted mouth-corner, -abducted mouth-corner](中立) [-adducted mouth-corner, +abducted mouth-corner](引き離し) 4ここで使っている(2)の素性の名称は筆者が作成したものである。 adduct「内転させる」と abduct「外転させる」という 生理学用語を用いて mouth-corner(口角)の運動(「引き寄せ」「中立」「引き離し」の3段階の区別)を表現する調音的素性 のラベルとした。 -12- 図5 素性による分類(/u/ と /i/ の比較)5 (2) (3) [±protruded] [+compressed] [+adducted mc,6 [-adducted mc, [-adducted mc, -abducted mc] -abducted mc] +abducted mc] + - + - /u/ - A /u/ - B /u/ - C 18/26 7/26 1/26 + - (1) [-compressed] /i/ /i/ 8/26 18/26 上の図5からわかるように、 (2)と(3)の素性では、/u/ のタイプ C と /i/ の一部が同列に 位置している(つまり、[ -adducted mc, -abducted mc, -protruded])。一方 、(1) [±compressed] においては、/u/ はタイプ A・B・C 全てが [+compressed]、/i/ は全てが [-compressed] となっている。このことから、/u/ を狭母音の /i/ と区別する最も安定的な調音 音声学的特徴は、(1)唇の上下の狭めがあること(第 4.1.3 項参照)、素性を用いて表せば、 [-compressed] であるといえる。 4.2. 出現環境による比較 第 4.1 節 では母音単独の /u/ の唇形状を狭母音 /i/ 及び中立的な唇の構えと比較して観察し、 3つのタイプを同定した上でそれぞれを素性によって分類した。この節では、同定された3つの タイプを、それぞれ先行子音のない /u/ 、先行子音が軟口蓋音である /ku/ 、先行子音が歯茎音 である /tu, su, zu/ という3つの出現環境を取り上げて唇の形状を比較する。この観察において も第 4.1 節 と同様に、第 2.3 節 で導入した3つの音声特徴( (1)唇の上下の狭め、 (2)両 口角の位置、(3)唇の前への突き出し)を使用する。 観察の結果を簡潔に述べておくと、タイプ A、B、C をそれぞれ出現環境によって比較し たところ、タイプ A のみ話者によって2つの変異のパタンが観察でき、タイプ B と C は /u/ 、 /ku/ 、/tu, su, zu/ の唇の形状に変異はみられなかった。 タイプ A においてみられた2つのパタンについては、次の第 4.2.1 項と第 4.2.2 項で記述 し、第 4.2.3 項では比較観察の結果を要約するとともに、第 4.1.4 項と同様に素性を用いた /u/、 /ku/、/tu, su, zu/ における /u/ の唇の調音の表示を提示する。 5 グレー部分は生理的に成立しないため、排除される素性の組合せであることを意味する。 6 mc は mouth-corner の略記。 -13- 4.2.1. タイプ A-パタンⅠ パタンⅠは、タイプ B、C の話者と同様に、先行子音によって /u/ の唇形状が変異を示さ ないパタンである。母音単独の /u/ の唇形状がタイプ A に分類された話者 18 人中、78%に 当たる 14 人がこのパタンⅠを示した。 図6 パタンⅠ(話者:S18) /u/ /tu/ /ku/ /su/ /zu/ 上の図6を見ると、どの唇の形状を見ても、唇の上下の狭め、両口角の位置、唇の前への 突き出しにほとんど差は見られないことがわかる。 4.2.2. タイプ A-パタンⅡ パタンⅡは、上のパタンⅠ及びタイプ B、C とは異なって、先行子音によって唇の形状に 変異がみられたパタンである。ここで注目しておきたいのは、先行子音のない場合とある場 合で変異があったのではなく、先行子音が歯茎音の場合に特徴的な変異を示したことである。 このパタンは、タイプ A を示す話者 18 人中、22%に当たる4人が該当した。 図7 パタンⅡ(話者:S4) /u/ /tu/ 図8 /ku/ /su/ S4 の中立的な唇の構え -14- /zu/ 図7の上段の /u/ 、/ku/ と下段の /tu, su, zu/ を両口角の位置に着目して比較してみると、 上段の /u/ と /ku/ は両口角が中心へ強く引き寄せられているが、下段の /tu, su, zu/ は両 口角の中心への引き寄せが弱くなっており、むしろ図8の中立的な構えに近くなっている。 この結果から次のことが言える。まず、先行子音をもたない単独の発音に /u/ のもつ円唇 性が最も基本的に実現すると仮定し、さらに、先行子音によってその円唇性の音声的実現が 影響され、変化を受けると仮定しよう。この仮定に基づくと、先行する軟口蓋音は /u/ の唇 の調音に変化をもたらさないが、先行する歯茎音は /u/ の口角の中心への引き寄せを弱まら せる場合がある。隣接する歯茎音が /u/ の唇の調音に影響を与えるというこの問題について は、第 5.2 節の「先行子音による /u/ の唇調音への影響」で議論することにする。 4.2.3. 出現環境による比較の観察結果 第 4.1 節で同定した3つのタイプを、それぞれ先行子音がない場合、軟口蓋音に後続する 場合、歯茎音に後続する場合に分けて比較した結果、タイプ B とタイプ C では出現環境によ る /u/ の唇形状の変異はみられなかったが、タイプ A においては2つの唇形状の変異のパタ ンが観察できた。パタンⅠはタイプ B・C と同様に出現環境による唇形状の変異がみられな いパタンであり、パタンⅡは歯茎音に隣接する場合に両口角の中心への引き寄せが弱いパタ ンである。また、母音単独発音の唇形状を基本形とみなすならば、これらの変異は先行子音 が引き起こす「変化」、つまりプロセスと解釈することができる。 これらのパタンを第 4.1.4 項と同様に3つの音声特徴に基づく素性を使用して記述する。 第 4.1.4 項では、/u/ のタイプ A・B・C と /i/ の唇調音を十分に記述するために以下の素性 を使用した。 (1)唇の上下の狭め:[±compressed] (2)両口角の位置:[±adducted mouth-corner]、[±abducted mouth-corner] (3)唇の前への突き出し:[±protruded] 出現環境による比較では /i/ との比較を必要としないため、 (2)両口角の位置も2段階の尺 度で十分記述できる。したがって、(2)に関しては以下の2段階を設定する。 (2)両口角の位置:[±adducted mouth-corner] -15- 図9 素性による分類(出現環境による比較) (2) [+adducted mc] (3) [±protruded] + - [-adducted mc] + - A-パタンⅠ A-パタンⅡ A-パタンⅡ /u/, /ku/ /tu, su, zu/ [+compressed] (1) タイプ B タイプ C [-compressed] 図9からわかるように、タイプ A の示すパタンⅡにおいて、/ku/ の場合はタイプ A の /u/ と同じ唇の調音であるが、歯茎音に隣接する /tu, su, zu/ の場合は両口角の中心への引き寄 せが弱くなり、タイプ B の示す唇の形状と一致した。タイプ A のパタンⅡに観察される唇形 状のひとつが、出現環境によって異なる別のタイプと重複するという事実は、第5章で論じ る日本語の /u/ の調音特性のひとつである「連続帯」を理解するために重要である。 4.3. 4章の要約 本章では、調音音声学的分析を2つの方法で行った。まず第 4.1 節では母音単独の /u/の 唇形状を /i/ 及び中立的な唇の構えと比較した結果、重要な3つのタイプを同定できた。ま た、観察に使用した音声特徴を発展させて新しい素性のセットを導入し、/u/ と /i/ の唇の 調音を詳細に記述した。次に第 4.2 節では、第 4.1 節で同定した3タイプの出現環境による 変化を比較した結果、特定のタイプにおいて、先行子音が歯茎音の場合に唇形状が変化を示 すパタンが観察された。 次章では、第4章で得られた結果をもとに、日本語の /u/ の調音音声学的特徴について考 察する。 -16- 第5章 考察 本章では、第4章で得られた調音音声学的分析の結果より、/u/ の唇形状の音声学的実態 を考察する。まず第 5.1 節では、第 4.1 節の母音単独の /u/ の唇形状の観察結果をもとに、 /u/ の唇の調音に関する重要な音声学的特徴について論じる。次いで第 5.2 節では、第 4.2 節の出現環境による比較の結果をもとに、先行する子音が /u/ の唇調音に与える影響と、そ こから示唆される音響音声学的問題について議論する。最後に、第 5.3 節で本研究がもつ応 用音声学的意義について述べる。 5.1. /u/ の唇形状の調音音声学的特徴 第 4.1 節で母音単独の /u/ の唇調音を3つの音声特徴を用いて観察した結果、3つの重要 なタイプ A・B・C を同定することができた。これら3つのタイプを第 4.1 節で提案した素 性セットを用いて表示すると表37のようになる。この素性による分類が明瞭に示すように、 /u/ の音声特徴には次の3つの要点が指摘できる。 表3 タイプ A・B・C の素性表示 タイプ A(69%) タイプ B(27%) タイプ C(4%) (1) (2) (3) [±compressed] [±adducted mc] [±protruded] + + + + - + + - - 第一に、この表から明白なとおり、3つのタイプに共通する特徴は(1)の [+compressed] のみである。従って、/u/ の唇調音の最も安定的な特徴は [+compressed] だと結論するこ とができる。 第二に、第 4.1.3 項で述べたとおり、(3)が [-protruded] であるタイプ C が同定され たことにより、日本語の /u/ は3つの音声特徴のうち、 (1)[+compressed] だけで円唇性 が実現しうると言える。言い換えると、[+compressed] は安定的であるばかりでなく唯一の 必須かつ決定的な /u/ の特徴と言える。 第三に、表3の(3)の列からわかるとおり、[+adducted mc] という素性は3タイプの うち B・C の2タイプで負の値をもつ。つまり、第 4.1.2 項でも触れたように、少なくない 割合の話者が(2)[-adducted mc] という口角の位置を示している(タイプ B と C を合 7 この表では /i/ との比較をしていないため、 (2)[±abducted mc] は必要としない。 -17- わせて 31%)。このことから、日本語の /u/ においては、3つの音声特徴のうち、 (2)が他 の特徴よりも相対的に重要性の点で低い地位をもつと言うことができる。 本研究における日本語の /u/ の唇調音に関する組織的なデータの収集とその分析から、も うひとつの有益な知見が得られる。/u/ の唇形状に3つのタイプが同定できたが、それぞれ のタイプの内部でも微細な変異が観察され、しかもその変異はタイプを横断して重複してい た。このことから、日本語の /u/ の唇形状は、重要な3つのタイプが認められるひとつの連 続帯と捉えられると言える。 5.2. 先行子音による /u/ の唇調音への影響 第 4.2 節での出現環境による比較では、第 4.1 節で同定した /u/ の唇形状の3つのタイプ のうち、タイプ A の話者の 22%において先行子音による唇形状の変異が観察された。ここ で注目すべきなのは、先行子音のない場合とある場合で変異がみられたのではなく、先行子 音が歯茎音の場合にのみ、両口角の中心への引き寄せが弱くなるという調音音声学的には説 明の困難な変異を示したことである。 第 4.2 節でも述べたとおり、この結果よりまず次のことが言える。先行子音のない単独の 発音に /u/ のもつ円唇性が最も基本的に実現し、さらに先行子音によってその円唇性の音声 的実現が影響され、変化を受けると仮定する。この仮定に基づくと先行する軟口蓋音は /u/ の唇の調音に変化をもたらさないが、先行する歯茎音は /u/ の唇の口角の中心への引き寄せ の弱化という変化をもたらしうる。本研究のデータでは歯茎音として /t, s, z/ 、軟口蓋音と し て /k/ を 採 用 し た が 、 こ れ ら は 調音 位 置 素 性 を 用 い て 一 般 化 す る と [Coronal] と [Dorsal] と言いかえることが可能である。したがって、以後これらの用語を使用する。 ここでひとつの問題が浮かび上がる。[Coronal] と [Dorsal] のどちらも唇の調音をもた ないにもかかわらず、なぜ [Coronal] だけが後続する /u/ の円唇性に影響を与える場合があ るのか。調音的に考えて、[Coronal](舌先)の調音は唇に影響するのに [Dorsal](舌背) の調音が唇に影響しない理由はない。考えうるのは、[Coronal] の調音がもつ音響的効果が、 唇調音がもつそれと重複する部分をもち、その [Coronal] 調音と唇調音に共有された音響特 性が、調音的には異なる両者の相互作用を引き起こしているという解釈である。したがって、 この問題を解決するためには、/t, s, z/ が後続の /u/ に対してもつ音響的効果と、唇調音が もつそれとを調査する必要があるだろう。一般に、子音から後続する母音へのフォルマント 遷移をみると、唇の調音を伴う音([Labial])は F2 の値を引き下げるが、[Coronal] の音は F2 の値を引き上げるとされている。したがって、収集したデータのフォルマント(特に F2) 値を分析することが、隣接する [Coronal] が /u/ の円唇性に影響を与えるという問題の解決 に有効だと考えられるが、これは今後の研究の課題としておく。 5.3. 応用音声学的意義 本研究が明らかにした日本語の /u/ の唇調音に関する事実は、応用音声学的な含意ももつ。 第 4.1.3 項で最も非円唇の [] の唇形状に近いと考えられるタイプ C の頻度が非常に低かっ たことから、日本語教育学において現在定説となっている「/u/ は非円唇である」という見 -18- 解は、非常に極端なものであるということが明確である。日本語教授者は、この定説にとら われず、本研究が示したように日本語の /u/ の唇形状には重要な3つのタイプが存在すると いう事実を理解しておくことが望ましい。 /u/ の唇形状の3つのタイプの解釈に関して、東京外国語大学の岡野賢二先生より「この 3つのタイプのうちのどれを標準形と捉えればよいか」との質問8を頂いた。3つのタイプに おける標準形を特定するためには、現在のデータからは頻度によって特定する方法しかなく、 その意味では最も頻度の高いタイプ A が標準形であると考えられる。頻度以外の方法で /u/ の唇形状の標準形を特定するためには、さらにデータベースを拡大する必要があり、これも 今後の課題のひとつである。 5.4. 5章の要約 本章では、まず第 5.1 節で /u/ の唇形状の調音音声学的特徴を考察し、/u/ の唇形状は重 要な3つのタイプが認められるひとつの連続帯であると考えた。第 5.2 節では先行子音によ る /u/ の唇調音への影響について記述し、隣接する [Coronal] が /u/ の唇形状に影響を与 えるという問題について論じた。最後に第 5.3 節では本研究がもつ応用音声学的含意につい て考察した。 次章では本研究から導かれた結論を記述し、今後の課題についても述べる。 8 前述(第 3.3 節脚注参照)の外国語教育学会での本研究発表に対する質問である。 -19- 第6章 結論 本研究では、新しく組織的に収集した器械音声学的資料に基づき、日本語の母音 /u/ の音 声的実現を調音音声学的なアプローチで観察及び分析し、その結果について考察した。得ら れた知見から引き出される結論は以下の3点である。 1点目に、日本語の /u/ の調音音声学的特徴を結論づける。本研究では、第2章で扱った 先行研究に示唆されている観察に基づき、記述の枠組みとしての3つの尺度を設定して円唇 性に関わる音声実現を精査した。その結果、/u/ の唇形状の3タイプを同定することができ た。この3タイプを構成する音声的区別に関わる属性を精密かつ明瞭に記述するために、形 式的な表示を可能にする、より敷衍された新しい3つの素性セット( [± compressed], [±adducted mouth-corner], [±protruded])を提案した。これらの素性を用いて /u/ の唇調 音を形式的に表示することによって、[+compressed] (唇の上下の狭め有り)が日本語の /u/ の最も安定的かつ必須の調音音声学的特徴であることが明瞭に表現される記述を可能にする ことができた。さらに、この素性セットを用いることで、それぞれのタイプ内部でも微細な 変異を観察・記述することができた。しかもその変異はタイプを横断して重複していたこと から、日本語の /u/ の唇形状は、重要な3つのタイプが認められるひとつの連続帯であると いう知見を得ることができた。 2点目に、先行する子音がもつ /u/ の唇調音に与える影響について論ずる。出現環境によ る /u/ の唇形状の変異を観察した結果、先行する [Dorsal] は /u/ の唇の調音に変化をもた らさないが、先行する [Coronal] は /u/ の唇の口角の中心への引き寄せの弱化という変化を もたらしうるという結論が得られた。この結論に関連する問題ついては、後で述べる。 3点目に、先行研究における音声的記述の再検討から得られた結論について述べる。日本 語教育の分野において「/u/ は非円唇である」という見解が定説となっているが、これは過 度に単純化された極端な見解であるということが明らかである。本研究で収集した日本語の /u/ に関する組織的データにおいて、最も非円唇の [] に近い唇形状は非常に少数の話者で しか観察されなかった。したがって、「/u/ は非円唇」という日本語教育学における見解は、 日本語の /u/ の音声学的実態を正確に捉えていないと言える。日本語教授者は、極端な定説 にとらわれることなく、本研究が示したような日本語の /u/ の調音音声学的特徴を理解して おくことが望ましいといえる。 最後に本研究がもつ問題点を2点挙げる。 1点目は、先行する [Coronal] が /u/ の唇調音に変化をもたらしうるという結論について である。[Coronal] と [Dorsal] はどちらも唇の調音をもたないにもかかわらず、なぜ先行 子音の調音位置が [Coronal] の場合にのみ /u/ の唇形状に変化が観察されるのか。この問題 を解決するためには、第 5 章の考察でも述べたように、音響音声学的な分析によって、唇調 音と [Coronal] の調音が共有する音響・聴覚的な特徴の解明が必要だと考えられる。これは 今後調査すべき課題である。 もう一つの問題は、本研究が収集したデータの限界についてである。本研究では、日本語 -20- の共通語における単語単独形の発音でのデータを収集した。第 3 章で述べた方言差の問題や、 第 5.3 節で述べた /u/ の唇形状の標準形を特定するという問題を議論するには、今回のデー タでは十分とは言い難い。扱う変種の範囲の点でも、サンプル数の点でも、データベースの 拡大は重要な今後の研究課題である。 -21- 付録 唇形状一覧 <S1> neutral /u/ /tu/ /su/ /ku/ /i/ /zu/ <S2> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S3> neutral /u/ /ku/ /tu/ /su/ neutral /u/ /ku/ /su/ /zu/ /i/ /zu/ <S4> /tu/ -22- /i/ <S5> neutral /u/ /tu/ /su/ neutral /u/ /ku/ /i/ /zu/ <S6> /tu/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S7> neutral /u/ /tu/ /su/ /ku/ /i/ /zu/ <S8> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ -23- /i/ <S9> neutral /tu/ /u/ /su/ /ku/ /i/ /zu/ <S10> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ /i/ <S11> neutral /u/ /ku/ /tu/ /su/ /zu/ neutral /u/ /ku/ /i/ <S12> /tu/ /su/ /zu/ -24- /i/ <S13> neutral /u/ /tu/ /su/ /ku/ /i/ /zu/ <S14> neutral /u/ /tu/ /su/ /ku/ /i/ /zu/ <S15> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S16> neutral /tu/ /u/ /su/ /ku/ /zu/ -25- /i/ <S17> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S18> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ /u/ /ku/ /i/ <S19> neutral /tu/ /su/ /i/ /zu/ <S20> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ -26- /i/ <S21> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S22> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ neutral /u/ /ku/ /tu/ /su/ /zu/ /i/ <S23> neutral /tu/ /i/ <S24> -27- /i/ <S25> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /i/ /zu/ <S26> neutral /tu/ /u/ /ku/ /su/ /zu/ -28- /i/ 参考文献 Vance, T. J. (2008) The Sounds of Japanese. New York: Cambridge University Press. pp. 284. 天沼寧・大坪一夫・水谷修(1991)『日本語音声学』東京: くろしお出版. pp. 191. 池田悠子(2000)『音韻/音声』(やさしい日本語指導 5)東京: 凡人社. pp. 111. 今田滋子(1988)『発音』(教師用日本語ハンドブック 6)東京: 凡人社. pp. 206. 斎藤純男(2006)『日本語音声学入門』東京: 三省堂. pp. 211. 服部四郎(1984)『音声学』東京: 岩波書店. pp. 215. 松崎寛・河野俊之(1998)『よくわかる音声』(日本語教師分野別マスターシリーズ)東京: アルク. pp. 197. -29-