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宗教的能力か、それとも……

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宗教的能力か、それとも……
宗教的能力か、それとも……
新約単篇
第一コリント書の福音
宗教的能力か、それとも……
1コリント 13:1-13
二三日前の新聞に、インド南部のケララ州で起こったヒンズー教徒の事故
が報じられていました。丘の上から、東の森に現れる「聖なる光」を見よう
として集まった巡礼者数千人が、折り重なって倒れて、五十数人が死亡、百
人以上が負傷したのです。似たような事故は毎年、世界のどこかで起こって
います。みんな、そういう特別な宗教体験を得ることで、信者として一種の
エリートになれるからです。
四国遍路というのが、日本にあります。弘法大師ゆかりの地八十八箇所を
巡るものです。観光の目的とか、スタンプ集めや健康法として行く人は別と
して、本来はお大師様にあやかって、何らかの宗教的な力を身に着けるため
の苦行の旅をするのが目的でした。少なくとも人の目には、八十八の霊場を
足で訪ねて「エライな」と映ります。キリスト教でもご多分に漏れず、聖地
巡礼やローマ巡礼を奨励したことがありました。「タンホイザー」のオペラ
では、主人公の罪があまりに重いために、ローマで祝福を受けることができ
ず、傷心のうちに帰って来る話になっています。彼のローマ行きは無効だっ
たのです。
真言宗と天台宗に「阿闍梨」(あじゃり)という僧位があります。千日回
峰(千日間半断食をしながら山の峰を巡る修行)とか、特定の修行を達成し
た人だけに与えられる高い位です。私どもの親類の中にも、その「阿闍梨」
さんの有り難いお話を聞きに参詣する者もいます。特別な力を備えた高僧と
して、多くの人の尊敬と期待を受けるのです。
私自身は宗教的にシラケ人間で、宗教家と宗教団体が嫌い、宗教の組織も
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階級も嫌い、資格をもらって人より偉くなったりするのを見るのが滑稽で耐
えられない……という人間なので、神学校を卒業したら聖職者とか、按手礼
を受けた人が聖餐を司る……とか聞くとガッカリします。でも、私のような
ドライ人間は別として、人は大体そういう宗教的な資格を得たり、人が持っ
ていないような“何かに達している”と目される人を、崇めて憧れます。こ
れは宗教に惹かれる人間の弱点と言わなくても、可愛い共通性のようなもの
ですから、宗教家や宗教団体の方でも、それを効果的に生かして人を教化し
ようとする訳です。
使徒パウロがこの手紙を書いた時代というと、今から約二千年前、正確に
は 1945 年ほど前になりますが、その頃コリントの教会で、どんな人が普通の
信者よりエライと見られたか、どんな宗教的能力をみんなが競って身に着け
ようとしたかは、この 13 章の一つ前の章や、すぐ後の 14 章から覗われます。
たとえば、旧約聖書を隅々までよく読んで知っていて、キリストのことなら
詩篇からでもイザヤ書からでも、すぐ説明できて人を感心させる人たちがい
ました(預言の賜物)。中にはまた、その人が病人に手を置いて祈ると、大
抵の病気はすぐに治り始めるという、評判の治療術師のような人もいました
(癒しの賜物)。
中でも、コリントでもてはやされたのは、もう一つ神秘的でショッキング
な能力でした。その人に霊が乗り移ると、周りの信者には気味悪いほどの異
常な恍惚状態になり、意味の分からない言葉を口走って叫び声を上げる人た
ちがいたのです(異言の賜物を持つ信徒)。この人たちは「聖霊に捉えられ
て」(聖霊のバプテスマを経験して)夢中で神様と語っているのだと言われ
ました。この恍惚状態での意味不明の祈りは、コリントの信徒たちの驚嘆と
憧れの的になりました。
前置きはそこまでにして、今朝のテキスト 13 章に戻ります。ここは何か「愛
の賛歌」的な美しい言葉の絵のように見る向きも多いですが、使徒パウロの
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意図は、そんな手放しの賛歌ではありません。確かにこの 13 という数字と
14 という数字の間の二十数行は、原文で朗読しても、とても美しい文章です。
一部は韻を踏んでいると見ることもできますし、少なくとも一世紀の“現代
詩”のような形をなしています。訳文の中でも、フランシスコ会訳などはこ
れを五十行に分けて印刷し、詩篇やイザヤ書の一部のような詩の体裁にして
います。
けれども本当は、この「愛」の章は、12 章と 14 章の“宗教能力者”の偏
重と期待への警告の中に入ってくるもので、そんな普通の人間の宗教が喝采
するものにシラケよ。それより大事なもの……いや最高のものに目が開けた
ら、能力や資格の競争をすることもないし、大人の信仰に生きる大人の教会
になれる。皆に目を見張らせる“宗教的芸人”はいなくて良い。“超能力者”
が一人もいなくて間に合う。人を宗教的雰囲気に引き入れる魅力的な“教祖
的存在”は、むしろ無いほうが良い。そんな平凡な教会で十分個人が成長し、
教会全体としても強くなって、生きて残る。そういう主張の中で「愛」が語
られるのです。
1.人を幻惑する言葉や実績よりも大きいものは「愛」:1-3.
1.たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わ
たしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2.たとえ、預言する賜物を持ち、
あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほど
の完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3.全財産を
貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そ
うとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
「異言」と訳しているのは、一部の教会で使われる用語を流用したもので、
英語では“tongues”と訳しているもの―霊感状態の中で、実際には学ん
だ筈のない外国語で神を称えるとか、人には意味不明の言葉で、霊に酔った
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人のように語る現象を言うのですが、原文は単に「人々の言語で」また「天
使の言語で」語ろうとも……です。それは異教の宮で興奮を掻きたてる、や
かましい打楽器の音と同じ価値しかないと言い切るのです。私には中学生の
頃に聞いた、中国の娘娘廟(ニャンニャンミャオ)の縁日の銅鑼とシンバル
が、今も耳に残っています。
預言書や詩篇をサッと開いてキリストの証ができる。キリストの意味を誰
よりも深く掴んで、感動的に話せる。その人が手を置いたり祈ったりしたた
けで奇跡が起こる。……5 行目の「信仰」はローマ書やガラテヤ書に言う本
来の「信仰」ではなくて、俗に言う「信仰」……あの人は「信仰がある」と
か「無い」という時の「信仰」を言うのです。「信仰があるからあんな凄い
ことができる!」と。―しかしそんなものは無いのと同じだと、パウロは
断定します。それだけではありません。どんな犠牲的な行為も―仮に私が、
自分の命を人のために投げ出しても、愛を内に持っていてするのでなければ、
それは神からの祝福を全く受けないのだと。
「愛がなければ」という乱暴な、言わば極論に近い仮定をなぜしたのかで
すが、これは恐らく、コリントの信徒たちが自分の威信とか、みんなからの
賛嘆とか、結果としての地位とかを得るために、宗教的能力の競い合いをし
ていたためではないか、と想像されます。
もう一つの疑問は、それでは自分は果たして「愛を持っている」と言える
のか……という不安です。これについては後に詳しく述べます。
2.人を争わせ、苛立たせる賜物より大きいものは「愛」:4-7.
ここは一番皮肉な部分と言いますか、宗教的能力の競争への風刺が最も強
烈な部分です。宗教的威信を競い合う愚かさを背景にして読まないと、ここ
は「愛」というものの定義か、真の愛の美しい描写のように聞こえるでしょ
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う。本当は、コリント教会の悲しい姿を背景にして、「愛はそんなものでは
ない。そんな醜い、情けないものではない」というのです。君たちの宗教熱
心は、あまりにも悲しいではないか! その裏の意味を読みとって初めて、パ
ウロの趣旨が生きてきます。
4.愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5.礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 6.不義
を喜ばず、真実を喜ぶ。 7.すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、す
べてに耐える。
宗教者の誇りを求めて、「何ができるか」という威信に憧れるような教会
の中にあるものは、妬みと自慢と高ぶりと苛立ちです。人を見る時の思いや
りはなく、自分と比べて人の弱さと哀しさを掘り起こしては喜ぶのです。
「不
義を喜ばず、真実を喜ぶ」の背後には、そんな現実への警告が含まれていま
す。7節の四つの動詞に注目します。
「愛は……すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
最初の「忍び」と訳してある語は、「屋根の役目をする」という動詞です。
(「屋根」「屋根になる」)愛は人の屋根になって降りかかる
雨風を代わって受けてやるのです。私なら、「愛はいつも人を覆ってあげる」
と訳します。最後の「耐える」は踏み留まって守る意味です。逃げてしまわ
ない、と言い換えましょうか。
「すべてを信じ」と「すべてを望み」は、相手の人の現在を見るのでなく、
過去を見るのでなく、未来の姿に望みを置くことです。ローマ書を読んだ時
に、「キリストはその兄弟のためにも死なれた」という言葉 (14:15) に
私たちはショックを受けました。もしキリストが私の兄弟のために死なれて、
御霊が私と同じようにその人に宿っておられるのであれば、私の目には今の
彼と重なって、未来の輝く彼が見えるのではないか……もし、愛を持つなら
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です。
ここで、先程の疑問に戻って来ました。そんな愛が私の中にあるか?とい
う疑問です。はっきり言って、それは私自身の中からは湧き上がって来ない
ものです。クリスチャンの最初の霊的発見は、愛が自分の中には無いことで
す。それにも関わらずその私を神が大事にしてキリストの命を下さったこと
から、私たちの信仰は始まります。この愛は「私の中にあるかどうか」を吟
味して嘆いたり、誇ったりするものではなくて、自分が愛されていることに
気づいて愛を受けることです。私がその「愛」を頂いて感謝するとき、同じ
ように「愛されている」兄弟の未来に“かける”ことができるのです。愛の
無さを徒に悲しまないで、神様が「受けよ」と謂われる愛を「受ける」こと
です。
3.幼い教会の一時的補助物より永く存続するものは「愛」:8-12.
ここでも使徒パウロは、コリントの教会が競って身に着けようと焦ったも
のが、実は、初期の教会に与えられた、ほんの一時の補助物に過ぎないこと、
別の言い方をすれば、教会が幼い間だけ役に立ってくれる「幼児の遊具」の
ようなもので、あれほどみんなが憧れた宗教的能力も、人を驚かせた異言の
神秘的な語りも、舌足らずの子供が発する分けの訳の分からない「幼児語」
と同じに、過去のものとなって消え去るのだと言い切ります。そんな「遊具」
と「幼児語」が役目を終えた後に消えずに残るものは、「この私を神が愛し
てくださった」という事実、「その愛を私は頂いて持っている」という体験
だけです。
8.愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 9.
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 10.完全なものが来たと
きには、部分的なものは廃れよう。 11.幼子だったとき、わたしは幼子のよ
うに話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子
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のことを棄てた。 12.わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見て
いる。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、
今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようには
っきり知ることになる。
8 節の「預言は廃れ」というところ。一つの意味では、聖書の意図を解明
してキリストを伝える「預言」は今も続いていますが、ここで言う「預言」
は、私どもがするような聖書の“読み解き”ではなく、初期の教会を導くた
めに与えられた特別の、上からの奇跡的な導きによる賜物のことを言いまし
た。「知識」も同じです。「異言はやみ」のほうは、今でもまだ「止まずに
存続している」と信じている方たちも、一部の教派の中にはおられて、異言
を伴う“聖霊のバプテスマ”が今も主張されます。この聖書解釈の誤りにつ
いては、12 年前の「たねまき」誌に“聖霊にどっぷり”という題で発表しま
した。
使徒パウロの趣旨は、一度はあれほど信徒の羨望の的になった宗教的能力
と強烈な指導力と見えたものも、後から考えると、二歳児の言葉の断片に過
ぎなかったし、あの人は「信仰」があるから神の思いを極めていると見えた
ものも、昔の不完全な鏡に映る像のように、おぼろげなものであった。ああ
いうものに幻惑されて、教会の中での威信を競い合ったことも、それに憧れ
たことも何と空しかったことか!
「顔と顔とを合わせて見る」のは、何を見るのかですが、「今私が(神様
から)はっきりと知って頂いているように」(:12)という言葉と結びつけ
て解釈すると、「神様を見る」ことになります。「神のお心を、何物にも妨
げられずに、はっきり見る」ことを言ったものでしょう。それも預言による
解説や異言による演出抜きで……です。
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《 結論 》残るものと「最大のもの」
13.それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中
で最も大いなるものは、愛である。
美しい、印象的な言葉です。もしこれが、「いつまでも残るのは愛である」
で終わっていましたら、非常に分かり易い結びになるのですが、これに「信
仰と希望」がなぜここに入って来るのかです。三つのことがここを読むため
の鍵になります。
第一のヒントは、すでに 7 節の所で、「愛」が生きていれば「信じる」、
「望む」という二つの働きを生むことが語られたことです。
第二のヒントは、パウロの目的が、「信仰」と「希望」と「愛」を比較し
て格付けすることにはなくて、コリント人たちが幻惑された異言の賜物や特
別な宗教的能力の一時性、小児性を指摘して、そんなものではなく「神から
受けた愛」を大事にせよ。それ以外のものにシラケよという点にあることで
す。異言も知識も廃れた後に愛が残る。
第三のヒントは、「信仰」と「希望」は、「愛」が引き起こす人間の側の
応答であるのに対して、「愛」は神の行為として、二つのものの源になり、
動因になっているからです。13 節を誤解のない形に言いかえるとこうなりま
しょうか。
「こうして、消えずに残るのは、愛と、愛によって呼び起こされた信仰と
希望である。しかし、この二つを私たちの中に生み出した『神が愛してくだ
さった』という現実は、やはり一番重いのである。」
教会の交わりの中には、神が与えてくださった貴重な賜物が溢れています。
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小さいと見える者の持つ宝も、より大きいように錯覚させる人の持つ宝と同
じ程度に貴重です。「あの先輩は何ができるから偉い」と称えるのも、「あ
の人の信仰が大きいから、あんなことができる」と仰ぐのも、パウロに言わ
せれば、一時のお慰み。我々が“曇った古い鏡”の中に覗いている虚像のよ
うなものです。
伝道の実績、聖書を身に着けた熱意、人のために尽くした犠牲的な働き、
病気や災難と戦った苦労。それはみんな、それなりに貴重ではあるけれど、
それで神の恵みの度合いが異なると錯覚するな。その人たちを尊敬するなと
言うのではない。程ほどにして「醒めて」いよということです。大事なのは、
あなたがイエス・キリスト様を通して神様の愛を受けて喜んだか……その一
事だけなのです。もし、それがあれば、あなたは最高の宗教能力を発揮した
兄弟と同等です。神の国では、同じだけの輝きを与えられています。そのこ
とを決して忘れるな……というのが、この愛の章のメッセージだと私は理解
しています。
(1999/01/24)
《研究者のための注》
1.「焼かれるために渡しても」(口語訳)と「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうと
も」
(新共同訳)の下線部が違っている理由は、前者が,後者が
と原文を読んでいるためです(3 節)。との一字違いの写本があるため、新
改訳の脚注が示すように両様に訳すことができます。UBS のギリシャ語テキスト第 4
版は後者を本文に掲げ前者を脚注に示してはいるものの、編集者の評価はどちらが原
作とも断定できないと言います。
2.「すべてを信じ、すべてを望み」(:7)は、「どん
な場合にも信仰と希望を生み出して働く」と訳すことも、「どんな事態においても相
手を信じることができ、希望をもって見てあげることができる」とも訳せます。この
スピーチの初めに掲げた視点から、後者を取りました。
3.「不義を喜ばず」(:6)は愛の倫理性―相手を覆い包むとは言え、義を曲げるもの
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ではない意味に、一般論的にも解釈することができます。しかし、本講の視点から「宗
教的能力を憧れたコリント教会」を眺める場合、相手の不義を探して自分の利益に利
用し、また目的のためには手段を選ばないことへの、風刺をこめた叱責と見ることも
可能です。
4.「完全なもの」(:10)が来るとは、文脈から、特に 12 節の言葉から理解すれば「部
分的でない完全な知識」の到来と実現を指すと思われます。
5. (:13)のニュアンスは時間的に「今この時点において」と見る向きもあります
(今この時点で存続しているのは……)が、むしろ推論的な意味で「こうして」、「そ
れゆえ」の意味に取ったほうが(新共同訳)良いと私は思います。
6.この 13 章を 12 章と 14 章にまたがる「コリント教会における霊の賜物をめぐる偏った
評価と競い合い」への叱責と訂正の中で解釈した読み方は、Wendland と Morris を参
考にしたものです。
7.この「異言ではなく、預言ではなく、いかなる賜物でもなく、愛」という 13 章の趣旨
が、現代の教会にどう適用されるかについては、普通「聖霊のバプテスマ」と結びつ
けて主張される偏った解釈の訂正という直接の字義的適用の他に、異常なカリスマに
よるリーダーシップへの教会の自己防衛、個人の霊的自由の保存というテーマが関わ
ってきます。異言の賜物がコリント人の魂を奪った程度に、個人の霊的自由を奪い、
思考と応用の自由を制限して一方向に統一しようとするカリスマは、今後も後を断た
ないものと想像されます。「一人の師にひたすら師事して福音の生き方を学ぶ」方式
に対して、私がこの二十年来(公の機会に)異義を唱えてきた理由もそこにあります。
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