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詩篇の瞑想 (Ⅱ)
詩篇の瞑想 (Ⅱ) 詩42篇~詩72篇 空知太栄光キリスト教会牧師 銘形 秀則 詩篇 第二巻 詩42篇 指揮者のために。コラの子たちのマスキール 42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、 神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。 42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。 いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。 42:3 私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。 人が一日中 「おまえの神はどこにいるのか」と私に言う間。 42:4 私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。 私があの群れといっしょに行き巡り、 喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに 神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。 42:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。 私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。 42:6 私の神よ。私のたましいは私の前でうなだれています。 それゆえ、ヨルダンとヘルモンの地から、またミツァルの山から 私はあなたを思い起こします。 42:7 あなたの大滝のとどろきに、淵が淵を呼び起こし、 あなたの波、あなたの大波は、みな私の上を越えて行きました。 42:8 昼には、【主】が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります。 私のいのち、神への、祈りが。 42:9 私は、わが巌の神に申し上げます。 「なぜ、あなたは私をお忘れになったのですか。 なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩くのですか。」 42:10 私に敵対する者どもは、私の骨々が打ち砕かれるほど、私をそしり、 一日中、「おまえの神はどこにいるのか」と私に言っています。 42:11 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。 なぜ、私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の顔の救い、私の神を。 2 ◆この詩篇のキー・ワードを2節「わたしのたましいは、神を生ける神を求めて、渇いてい ます。」としたいと思います。その理由は、詩篇の中ではじめて「渇く」ということばが登場 するからです。この「渇く」という経験は、人間の内にある最も深いニーズと関係していま す。 ◆「鹿のように(As the deer)」で知られる有名な賛美歌がありますが、その歌詞は詩41篇 から取られています。もともとこの賛美歌は失恋の経験を通して作られたと言われています。 失恋の経験をしたことがある人ならだれでも、それがどんなに心打ちひしがれることである かを知っています。慕う心が強ければ強いほど、その痛みは増し加わります。 ◆「恋する心」「慕う心」、それは一体感への希求です。交わりへの希求、愛の希求です。こ の希求は神が人間にのみ与えられた基本的欲求です。人が恋しい、だれかといっしょにいた い、だれかと話がしたい、あの人が好き・・、これらはすべてこの希求と言えます。そして、 この希求が満たされ得ないとき、人は心の渇き、愛の渇きを覚えるのです。また、この希求 があまりにも強過ぎるとき、人の道からはずれてしまうこともあるのではないかと思います。 ◆イエスがサマリヤで出会ったひとりの女性(ヨハネの福音書4章)は、人一倍、この欲求に 渇いていました。イエスはそのことを知っていました。旅の疲れでイエスはサマリヤの井戸 のそばで休んでいたときに、人目を避けるように、暑い昼の最中に水を汲みにきたひとりの 女性と出会いました。イエスはその女性に水を一杯飲ませてくださいと願うところから、こ の女性との会話が始まっていきます。イエスはこの女性に「この(井戸の)水を飲む者はだれ でも、また渇きます。しかし、わたしの与える水を飲む者だれでも、決して渇くことかあり ません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」 と不思議なことを言いました。彼女には五人夫がいましたが、すべて別れて、今は夫でない 人と一緒に暮らしていたのです。イエスはこの女性を、ふしだらな女性だとさばくことをし ませんでした。むしろ、愛に飢え渇いた一人の人間として見てくださっていたのです。表面 的な愛ではなく、本当の愛としての一体感の希求は、結局は、神との交わりによってのみ完 全に満たされることをイエスは彼女に気づかせようとしたのです。サマリヤの女性と同様、 実に、多くの人々が自分のほんとうの渇きに気づいていないことが多いのではないかと思い ます。 ◆詩41篇の作者は自分の渇きを自覚した人です。それを表わすことばがたくさんあります。 「慕いあえぐ」 「生ける神を求めて」 「渇いています」 「思い起こし」 「心を注ぎ出しています」 「私の救い」 ・・これらはみな神への一体感の希求を表わす用語です。しかし作者は今、神と の一体感を喪失しています。かつて味わったことのある神との一体感のすばらしさを思い起 こし、その希求が高まるのですが、 「それでもなお、意気消沈し、ふさぎ込んで」しまってい るのです(LB訳、6節) それゆえ、繰り返し、自分に向かって呼びかけ、問いかけ、叱責して 3 いるのです。 「神を待ち望め」、「なおも神をほめたたえよ」と。 ◆一体感の希求、愛の渇きはどうしても満たされなればならないものです。一杯の水のあり がた味は渇きを経験した者でなければわかりません。神のすべての祝福は渇く者にのみ与え られます。イエスは言われました。 「義(神との関係)に飢え渇いている者は幸いです。その人 は満ち足りるからです。 」(マタイ5章6節)と。そして、主イエスは今も私たちに呼びかけて おられます。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者 は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようにな る」(ヨハネ7章37、38節)と。私は、このイエスのことばの約束に立ち、生ける水によ って渇きがいやされ、生ける神を味わいたいと思います。 〔追 記〕 ◆イエスが十字架上で語った「わたしは渇く」ということばは、私たち人間の罪のための身 代わりの死のために、御父との一体感を喪失したときのことばです。このことばはイエスの 「十字架上の7つの言葉」の5番目です。その前のことばは「わが神、わが神、どうしてわ たしをお見捨てになったのですか。 」です。一体感、御父との永遠の愛の交わりを保ってきた 御子イエスが、その一体感を喪失することは私たちの想像を絶しています。イエスの「わた しは渇く」とはそのレベルの渇きです。しかしイエスはその後で、御父に「わが霊をゆだね ます」と言って息を引き取りました。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みな さい」と言われた方が、ここで、私たちに代って完璧な渇きを味合われたのです。やがて、 イエスは御父によって復活し、その渇きはいやされます。永遠の神と人との一体感を味わう 道が回復されているのです。ですから、 「だれでも、渇いているなら、わたしのものに来て飲 みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人との心の奥底から、生 ける水の川が流れ出るようになる。 」(ヨハネの福音書7章37、38節)とのイエスの招きは 今も有効なのです。 4 詩43篇 43:1 神よ。私のためにさばいてください。 私の訴えを取り上げ、 神を恐れない民の言い分を退けてください。 欺きと不正の人から私を助け出してください。 43:2 あなたは私の力の神であられるからです。 なぜあなたは私を拒まれたのですか。 なぜ私は敵のしいたげに、嘆いて歩き回るのですか。 43:3 どうか、あなたの光とまことを送り、私を導いてください。 あなたの聖なる山、あなたのお住まいに向かってそれらが、私を連れて行きますように。 43:4 こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、 立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。 神よ。私の神よ。 43:5 わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。 なぜ、私の前で思い乱れているのか。 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。 私の顔の救い、私の神を。 ◆この詩篇は、前篇である42篇と結びつけて一つとなっている場合もあります。それは双 方の詩篇に同じリフレーン(繰りかえされる句、あるいはコーラス)があるからです。共通し ていることは、神への渇きです。しかしその渇きは具体性をもっています。つまり、もう一 度、エルサレムにおいて、シオンの聖なる山において、喜びの源泉である神を礼拝したいと いう渇きです。もう一度、シオンに帰還させてほしいという願いと、神を賛美したいという 願いをもって神を待ち望んでいるのがこの詩篇の特徴です。 ◆したがって、詩43篇のキー・ワードは 3 節の嘆願にあると信じます。 「どうか、 ・・・あ なたの聖なる山、あなたのお住まいに向かって、 ・・・私を連れて行きますように。」(新改訳) LB 訳では「どうか、 ・・・きよいシオンの山にある神の宮へと導いてください。」となってい ます。bring me back to Zion シオンに帰還し、そこで神の臨在を楽しむこと、これが具 体的な作者の神への渇きです。 5 ◆バビロンの捕囚の地にあって、神の民の中にこうした渇きが起こってくることを神は願っ ていたはずです。この渇きを起させるために、神は作者を一時「拒まれ」(新改訳)、 「突き放 され」(LB 訳)、 「見放され」(新共同訳)、 「捨てられ」(口語訳)たのかもしれません。神に対す る強烈な飢え渇きなしには、詩1篇にあるように、神のみことばを昼も夜も口ずさむといっ たライフスタイルは生まれなかったに違いありません。そして、神のみことばがなんと甘い ものであるかということも知らなかったはずです。シオンを慕い求める者たち(シオニスト) の存在もなかったといえます。再起への希求、それはシオンへの熱いあこがれであり、飽く なき飢え渇きをもって神を礼拝することなのです。 ◆イエスは飢え渇いていたサマリヤの女性に言われました。 「真の礼拝者たちが霊とまことに よって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求め ておられるからです。」(ヨハネの福音書4章23節)と。 ◆いつでも、どこでも、神は真の礼拝者を求めておられるということです。 「霊とまことによ って神を礼拝する飢え渇きがもっと与えられるように、神を知りたいという飽くなき飢え渇 きをもって、神を追い求める者となりたいのです。」と祈ります。 6 詩44篇 指揮者のために。コラの子たちのマスキール 44:1 神よ。私たちはこの耳で、先祖たちが語ってくれたことを聞きました。 あなたが昔、彼らの時代になさったみわざを。 44:2 あなたは御手をもって、国々を追い払い、 そこに彼らを植え、 国民にわざわいを与え、 そこに彼らを送り込まれました。 44:3 彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、 自分の腕が彼らを救ったのでもありません。 ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。 あなたが彼らを愛されたからです。 44:4 神よ。あなたこそ私の王です。 ヤコブの勝利を命じてください。 44:5 あなたによって私たちは、敵を押し返し、 御名によって私たちに立ち向かう者どもを踏みつけましょう。 44:6 私は私の弓にたよりません。 私の剣も私を救いません。 44:7 しかしあなたは、敵から私たちを救い、 私たちを憎む者らをはずかしめなさいました。 44:8 私たちはいつも神によって誇りました。 また、あなたの御名をとこしえにほめたたえます。 セラ 44:9 それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめました。 あなたはもはや、私たちの軍勢と共に出陣なさいません。 44:10 あなたは私たちを敵から退かせ、 私たちを憎む者らは思うままにかすめ奪いました。 44:11 あなたは私たちを食用の羊のようにし、 国々の中に私たちを散らされました。 44:12 あなたはご自分の民を安値で売り、 その代価で何の得もなさいませんでした。 44:13 あなたは私たちを、隣人のそしりとし、 回りの者のあざけりとし、笑いぐさとされます。 44:14 あなたは私たちを国々の中で物笑いの種とし、 民の中で笑い者とされるのです。 44:15 私の前には、一日中、はずかしめがあって、 7 私の顔の恥が私をおおってしまいました。 44:16 それはそしる者とののしる者の声のため、 敵と復讐者のためでした。 44:17 これらのことすべてが私たちを襲いました。 しかし私たちはあなたを忘れませんでした。 また、あなたの契約を無にしませんでした。 44:18 私たちの心はたじろがず、 私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。 44:19 しかも、あなたはジャッカルの住む所で 私たちを砕き、死の陰で私たちをおおわれたのです。 44:20 もし、私たちが私たちの神の名を忘れ、 ほかの神に私たちの手を差し伸ばしたなら、 44:21 神はこれを探り出されないでしょうか。 神は心の秘密を知っておられるからです。 44:22 だが、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。 私たちは、ほふられる羊とみなされています。 44:23 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。 目をさましてください。いつまでも拒まないでください。 44:24 なぜ御顔をお隠しになるのですか。 私たちの悩みとしいたげをお忘れになるのですか。 44:25 私たちのたましいはちりに伏し、 私たちの腹は地にへばりついています。 44:26 立ち上がって私たちをお助けください。 あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。 ◆この詩篇では、1節~3節まで、神の民に対する神の愛を歴史的に回顧しています。約束 の地であるカナンを与えられたのは、神ご自身であり、神が自分たちを愛されたからだとし ています。4節~8節までは、イスラエルの神はどこまでもご自分の民を防衛し、それを保 障してくださっていることを告白しています。6節がそうです。「私は私の弓に頼りません。 私の剣も私を救いません。」と。しかし、「それなのに」(9節)・・・なのです。 ◆詩篇を瞑想するとき、基本としている聖書だけでなく、いろいろな聖書を読み比べます。 今回も、詩44篇を読み比べていく中で特に目を引く訳がありました。それは14節の LB 8 訳です。 「『ユダヤ人』ということばが外国人の間で侮辱と恥の代名詞となったのは、神様の(あ なたの)せいです。」となっています。とてもおもしろい意訳ですが、この意訳の中にこの詩 篇がいつ頃書かれたものであるかが想定されています。神の民が「ユダヤ人」と呼ばれるよ うになったのは、バビロンの捕囚以降のことであり、軽蔑用語でした。それにしても、 「神様、 あなたのせいです。」とは喧嘩腰のことばです。 「あなたのせいよ」「いや、おまえのせいだ」 と夫婦が喧嘩しているような感じです。 「喧嘩する夫婦ほど仲がいい」と言われますが、神と イスラエルの民(ユダヤ人)の関係は、民が神に対して思うことを言える間柄であったと言え ます。 「あなたのせいです」と感情的に、あるいは赤裸々に言うことで、むしろ神様との関係 が深めるられているのです。なぜそんな喧嘩腰なことを言っているいるのでしょうか。それ は、「あなたが、私たちを拒み、卑しめた」からだというのです。(9節) ◆外国人(異邦人)からの「そしり」 「あざけり」 「笑い種」 「物笑い」 「辱め」 「ののしり」を受 けた現実があります。神の民は、完全に自分たちが神から「拒まれ」 「「捨てられ」 「見放され」 「無視され」たと思いました。では、彼らが神を見捨てたかというと全くそうではありませ んでした。むしろ逆でした。17~18節にしるされているように、 「これらのことすべてが 私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無 にしませんでした。私たちの心はたじろがず、私たちの歩みはあなたの道からそれませんで した。」という生き方を選んだのです。しかし、それはあくまでも拒絶という危機的状況の中 での防御的な姿勢でした。 ◆つまり、異教文化の支配の中で、その文化を強要される中で、ユダヤ人たちが自らのアイ デンティティを守るために取った方策は、頑強なバリア(障壁)を築き上げることだったので す。自分たちの国(といえども、現実は異邦人によって支配権が奪われている)が生存するた めに、国家としてのアイデンティティを守り、保つために、彼らは神の律法を厳格に守るこ とにおいてそれを見出そうと考えました。そしてそれはますます強度を増していったのです が、異邦人からはますます拒絶される結果を生み出し、彼らは迫害され続けるものとなった のです。19節にはこうあります。「しかも、あなたはジャッカルの住む所で私たちを砕き、 死の陰で私たちをおおわれたのです。」と。 ◆神のために生きることを目指しながらも、いつしか自分で自分を防御してしようとして作 られる心のバリア(障壁)。このバリアは神の光さえも拒むほどの危険性をはらんでいるので す。特に、神のためと思っている場合には、神との生きた関わりを自ら打ち壊すことになる とはほとんど気づいていないものなのです。 ◆もういちど、自分を反省しなければならないと思います。拒絶ゆえに心のバリアが築かれ ていないか、そのバリアが神の名の下に築かれているならば、それを悔い改めなければなり ません。「主よ。あなたの光によって、私を導いてください。」と祈ります。 9 詩45篇 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。 コラの子たちのマスキール。愛の歌 45:1 私の心はすばらしいことばでわき立っている。 私は王に私の作ったものを語ろう。 私の舌は巧みな書記の筆。 45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。 あなたのくちびるからは優しさが流れ出る。 神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。 45:3 雄々しい方よ。あなたの剣を腰に帯びよ。 あなたの尊厳と威光を。 45:4 あなたの威光は、真理と柔和と義のために、 勝利のうちに乗り進め。 あなたの右の手は、恐ろしいことをあなたに教えよ。 45:5 あなたの矢は鋭い。 国々の民はあなたのもとに倒れ、王の敵は気を失う。 45:6 神よ。あなたの王座は世々限りなく、 あなたの王国の杖は公正の杖。 45:7 あなたは義を愛し、悪を憎んだ。 それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油を あなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。 45:8 あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおりを放ち、 象牙のやかたから聞こえる緒琴はあなたを喜ばせた。 45:9 王たちの娘があなたの愛する女たちの中にいる。 王妃はオフィルの金を身に着けて、あなたの右に立つ。 45:10 娘よ。聞け。心して、耳を傾けよ。 あなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。 45:11 そうすれば王は、あなたの美を慕おう。 彼はあなたの夫であるから、彼の前にひれ伏せ。 45:12 ツロの娘は贈り物を携えて来、 民のうちの富んだ者はあなたの好意を求めよう。 45:13 王の娘は奥にいて栄華を窮め、 その衣には黄金が織り合わされている。 10 45:14 彼女は綾織物を着て、王の前に導かれ、 彼女に付き添うおとめらも あなたのもとに連れて来られよう。 45:15 喜びと楽しみをもって彼らは導かれ、 王の宮殿に入って行く。 45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わろう。 あなたは彼らを全地の君主に任じよう。 45:17 わたしはあなたの名を代々にわたって覚えさせよう。 それゆえ、国々の民は世々限りなく、あなたをほめたたえよう。 ◆詩篇の中には「王の詩篇」と呼ばれるものがいくつかあります。たとえば、第2篇、18 篇、20篇、21篇、45篇、72篇、89篇、110篇などがそうです。そこには、神が 王を即位させたこと、その神をたたえる歌、王のためのとりなしの祈りが記されています。 詩45篇は王自身をたたえている珍しい詩篇です。ここでの王は「神」とさえ呼ばれている ほどです。 ◆バビロン捕囚以降、イスラエルにおいて王制はなくなりました。それまでの王は神の代理 者として立てられたにもかかわらず、その任に失敗したからです。かつてイスラエルの民た ちは「どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちにも、ほかのすべて の国民のようになり。私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私た ちの戦いを戦ってくれるでしょう。」と神に願いました(サムエル第一、8章19~20節) この願いによってイスラエルに人間の王が立てられることになりましたが、それはあくまで の神の代理者としての王です。ここが他の国の王制とは異なる点でした。しかし、神の代理 者としてふさわしい王はわずかしかいませんでした。多くがこの王と変わらない専制的な王 となっていき、神をないがしろにしました。そのために神はその国を滅ぼし、バビロン捕囚 によってリセットしようとしたのです。へたな人間の王を立てない方が良い、神こそわれら の王でいくと考えるようになりました。しかし、異国による支配が長引くにつれ、ダビデの 時代のような、神から油注がれた王なるメシヤの到来の期待が民衆の間に次第に高まってい ったのです。 ◆ところで、この詩45篇の「あなた」という名称がだれのことを言っているのかは明らか ではありませんが、新約聖書のヘブル書には、 「あなた」とは御子イエスのことを指している と解釈しています。ヘブル書の記者は詩篇の6節~7節を引用しています。その光をもって この詩篇を読むなら、王なるイエスの麗しさ、優しさを讃えている預言的な歌といえます。 11 ◆賛美の内容を見てみましょう。2節には「あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの くちびるからは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。」とあ ります。(ここでいう「神」とは御父のことだと理解できます) 6節では、「あなたの王国は 世々限りなく、あなたの王国の杖は公正の杖、あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、 神よ。あなたの神は喜びの油を、あなたのともがらにまして、あなたに注がれた。」と王の威 光と権威を讃えています。 ◆この王こそ私たちの花婿です。この王なる花婿のすばらしさを讃えるだけでなく、やがて 私たちを花嫁として迎え入れるために再びこの地上に迎えに来てくださる方です。その方を 「あなたの夫として迎えよ」と訴えています。 「娘よ。聞け。耳を傾けよ。あなたの民とあな たの父の家とを忘れよ。そうすれば王は、あなたの美を慕おう。彼はあなたの夫であるから、 彼の前にひれ伏せ。」(10、11節) 肉親の愛にも勝る、花婿に対する愛が求められます。 ◆それゆえ私は祈ります。 「わが花婿なるキリスト、あなたをお慕いいたします。その麗しさに心が奪われるようにし てください。あなたこそわが永遠の夫であり、とこしえにあなたにお従いいたします。」 12 詩46篇 46:1 神はわれらの避け所、また力。 苦しむとき、そこにある助け。 46:2 それゆえ、われらは恐れない。 たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。 46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、 その水かさが増して山々が揺れ動いても。 セラ 46:4 川がある。その流れは、 いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。 46:5 神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。 神は夜明け前にこれを助けられる。 46:6 国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。 神が御声を発せられると、地は溶けた。 46:7 万軍の【主】はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらのとりでである。 セラ 46:8 来て、【主】のみわざを見よ。 主は地に荒廃をもたらされた。 46:9 主は地の果てまでも戦いをやめさせ、 弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 46:10 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。 わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 46:11 万軍の【主】はわれらとともにおられる。 ヤコブの神はわれらのとりでである。 セラ ◆ この詩篇は三つの段落からなっていることが分かります。もし、最初の段落の終わりに (3節の後に)、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでであ る。」(7、13節)とあるならば、完璧な構造ですが、隠されていると考えても良いと思 います。第一段落(1~3節)は自然において、第二段落の4~7節は歴史において、第三 段落の8~11節は終末(この世の終わり)について、それぞれ神の臨在の確かさとそのみ わざを歌っています。 13 ◆今回は、4~7節で歴史の中で現わされた神の臨在の力について瞑想したいと思いま す。特に4節、 「川がある。その流れは神の都を喜ばせる。」という箇所に注目したい。 「川 がある」、正確には a river つまり「ひとつの川がある」ということです。神の都はエル サレムのことです。 ◆エルサレムという町(神の都)は山の上にある要塞都市であって、川はありません。にも かかわらず、ここにはっきりと「川がある」と記されています。実は、 「川があった」の です。しかも地下深くに。近年、考古学者によってそれが発見され、 「ヒゼキヤの水路」 と名づけられました。ヒゼキヤ王の治世に敵国アッシリアがこの町を包囲しました。し かもその軍勢は18万5千。敵は町に攻め入らなくても、やがて水に困って根をあげる と考えていました。ところがなかなか根を上げる様子がない。それはエルサレムの地下 を掘り抜いて水源を見つけ、その尽きることのない泉から絶えることなく水が流れ出て いたからです。そうしているうちに、敵の軍勢は夜明け前に神によって全滅したのです。 これについてはイザヤ書37章~38章を参照。神が選ばれた都は神の臨在する場所で す。 「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」とあるように、どんなに人間もそ の町をゆるがすことはできないのです。これは、歴史の中で神が実際に働かれたあかし なのです。 ◆「一つの川」、それは今もイエスを信じる者のうちに流れている川です。そこには神が 臨在します。それゆえ、どんな危機が襲ったとしても、決して揺るがされることはない のです。なんという祝福でしょうか。神こそすべての問題の解決者であり、打開者なの です。 ◆その「ひとつの川」は常に人の目には隠されたところにあります。大きな船も、大き な木も、その下には目に見える部分と同じくらい見えない部分が存在します。隠れたと ころにライフラインをもっている人は幸いです。見えない部分にこそ、本当の力の秘訣 があるというわけです。それは信仰者に当てはめるならば、隠れた神との交わりの生活、 祈りの生活といえます。 ◆さらに、この「一つの川」は、豊かないのちの実を結ばせます。 神の都、エルサレムの神殿の敷居の下から流れ出る水のヴィジョンは、エゼキエル47 章1~12節、および、ヨハネの黙示録22章にあります。ばじめはちょろちょろ流れ ている水が、次第にその水かさは増して、やがてはすべてを押し流していく流れとなり ます。そしてその水が流れ込むところにあるすべてのものは生きるようになります。そ して多くの実を結ばせるのです。 ◆一つの川、いのちの水、それは神の霊、聖霊の象徴です。イエスが語ったことを思い 起こしたい。「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信 じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るよ うになる』」と(ヨハネ福音書7章37~38節) ◆生ける水、その源泉がイエスにあることを信じ、それが尽きることなく流れる出る祝 福が注がれていることを感謝したい。 14 詩47篇 指揮者のために。コラの子たちの賛歌 47:1 すべての国々の民よ。手をたたけ。 喜びの声をあげて神に叫べ。 47:2 まことに、いと高き方【主】は、恐れられる方。 全地の大いなる王。 47:3 国々の民を私たちのもとに、 国民を私たちの足もとに従わせる。 47:4 主は、私たちのためにお選びになる。 私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。 セラ 47:5 神は喜びの叫びの中を、【主】は角笛の音の中を、 上って行かれた。 47:6 神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。 われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。 47:7 まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。 47:8 神は国々を統べ治めておられる。 神はその聖なる王座に着いておられる。 47:9 国々の民の尊き者たちは、 アブラハムの神の民として集められた。 47:10 まことに、地の盾は神のもの。 神は大いにあがめられる方。 ◆詩47篇は、46篇、48篇と共に一連の主題を持っていると思います。それは神の永遠 の支配による平和の実現です。それの実現は人間の戦いによってではなく、神によってのみ 実現すること(46篇)、その平和支配がどのような形においてなされるのか(47篇)、しかも それはこの地上のエルサレム(シオン)において実現する(48篇)という預言的な内容を持っ ています。これらの詩篇によって、旧約の人々の歴史観、終末観を知ることができます。 ◆まず、46篇8節~10節「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主 は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。 『(戦 いを)やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であ がめられる。』」と。この部分はやがて神がすべての人間の戦いをやめさせて、神による平和 を実現されるというものです。歴史的にも神が介入されたことが4~7節であかしされてい 15 ます。人間の平和実現はいつも戦いによるものです。ですから、やがてはその戦いによって 地には荒廃がもたらされます。神は戦いを「やめよ」(新改訳)、「力を捨てよ」(新共同訳)、 「静まって」(口語訳)、 「よく聞きなさい」(LB 訳)とあるように、地上の戦いを永久にやめさ せて神の平和が実現するという思想がここにあると信じます。しかもそれによって神は国々 の間で、地の上であがめられるとありますから、千年王国の預言とみることができます。そ のことを裏付けているのがこの詩47篇です。 ◆地上の神による平和の実現は、どのような形においてなされるかと言えば、3節に「国々 の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。」とあるように、やがて、神の民 イスラエル(ユダヤ人)は民族的にこの地上での支配国とされるのです。これは千年王国の到 来を預言しています。そして約束されたカナンの地は完全に受け継がれます(4節)。そのよ うな形で神は国々を王として支配されるのです。 ◆しばらく前に、メシアニック・ジューの方から、ユダヤ人と日本人クリスチャンの終末に ついての見方の違いを指摘されたのを思い出します。私たち日本人クリスチャンは天国のこ とを考えますが、ユダヤ人はまず地上での神の約束の実現を考えます。それはこの地上にお けるシャロームの実現です。この二つの見方はいずれも聖書のなかに保証されていますが、 私たち日本人はこの地上での神の平和の実現(千年王国の到来)に対する期待はそれほど強く ないような気がします。しかし、ユダヤ人にとっての救いとはきわめて地上的なことなので す。というのも、神の選びの民ユダヤ人に対する神の約束は完全に実現していないからです。 またユダヤ人が民族的に救われて地上の支配国となることなしには、神の救いの計画は完全 に実現することはないのです。それは神のはっきりとした計画です。神の計画はやがてユダ ヤ人も異邦人もキリストの名のもとに一つとされることです(エペソ1章)。そして完全な神 の支配、つまり、天国(新天新地)が実現するのです。 ◆歴史の終結がどうなるのかが彼らに大きな希望を与えてきました。彼らは「まことに、神 は大いにあがめられるべきお方」(10節)として、信仰によって喜びの声を上げているので す。教会でも、私は「手を叩け、すべての国々の民よ、おぉ、主に叫べ、歌を歌え喜びの声 上げ。力強い主はわれらの中に、栄光ある主は、国々を取り囲む。」と賛美して歌っています。 これからも、神の救いの歴史の終結を仰ぎながら、スケールの大きなこうした預言的賛美を 希望をもって賛美できる者となりたいものです。と同時に、ユダヤ人に対する神の救いの計 画が実現できるように、なんらかの形で、私も関わっていきたいと強く願わされています。 16 詩48篇 歌。コラの子たちの賛歌 48:1 【主】は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。 その聖なる山、われらの神の都において。 48:2 高嶺の麗しさは、全地の喜び。 北の端なるシオンの山は大王の都。 48:3 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。 48:4 見よ。王たちは相つどい、 ともどもにそこを通り過ぎた。 48:5 彼らは、見るとたちまち驚き、 おじ惑って急いで逃げた。 48:6 その場で恐怖が彼らを捕らえた。 産婦のような苦痛。 48:7 あなたは東風でタルシシュの船を打ち砕かれる。 48:8 私たちは、聞いたとおりを、そのまま見た。 万軍の【主】の都、われらの神の都で。 神は都を、とこしえに堅く建てられる。 セラ 48:9 神よ。私たちは、あなたの宮の中で、 あなたの恵みを思い巡らしました。 48:10 神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、 地の果てにまで及んでいます。 あなたの右の手は義に満ちています。 48:11 あなたのさばきがあるために、シオンの山が喜び、 ユダの娘が楽しむようにしてください。 48:12 シオンを巡り、その回りを歩け。 そのやぐらを数えよ。 48:13 その城壁に心を留めよ。その宮殿を巡り歩け。 後の時代に語り伝えるために。 48:14 この方こそまさしく神。 世々限りなくわれらの神であられる。 神は私たちをとこしえに導かれる。 17 ◆詩47篇でも述べたように、詩46篇から48篇までは一連の主題を持っています。それ は神の永遠の支配による平和の実現です。その実現は人間の戦いによってではなく、神によ ってのみ実現すること(46篇)、その平和支配は神の民ユダヤを支配国として実現すること (47篇)、しかも具体的な場所は神の都エルサレム(シオン)である(48篇)という預言的な内 容を持っています。この詩48篇のキー・ワードを、9節「神よ。私たちは、あなたの宮の 中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」としたいと思います。エルサレムの巡礼者たちが なすべき目的は、いつの時代であってもそこにあるからです。 ◆エルサレムは、詩48篇では「聖なる山」 「神の都」 「全地の喜び」 「大王の都」として呼ば れています。神はその都を「とこしえに堅く建てられます。」それはその都がもっている神の 救いの歴史における最も重要な神の臨在の場所であり、神の計画の中心地だからです。この 都の役割の一つは、人々を救うために地上に来られる方、メシヤなるキリストを証言するこ とです。初臨においても、また、再臨においてもです。 ◆いろいろな聖書を読み比べる中でひときわ心惹かれる訳があります。特に12節~13節 です。 「シオンを巡り、その回りを歩け。そのやぐらを数えよ。その城壁に心を留めよ。その 宮殿を巡り歩け。後の時代に語り伝えるために。 」 しかしこの訳では、なんのためにシオン を巡り、その回りを歩くのか・・がよく分かりませんが、尾山令二訳の現代訳聖書の訳を見 るとよくわかります。その訳ではこうなっています。 「エルサレムの都を尋ねて、主のなさっ たことを思い出しなさい。エルサレムの都を尋ねなさい。それは、後世の人々に語り伝える ためである。 」と。つまり、主のなさったことを思い出し、神の確かな支配を後世の人々に語 り伝えるためである、ということです。このために神が人々を世界中から今もこの町へと引 き寄せているのです。イスラエルが20世紀(1948 年)に奇跡的に建国し、世界中からユダヤ 人が帰還しているのもその目的のためです。またそれを支援する多くのクリスチャンたちも その地を訪れるようになりました。 ◆12~13節は、まさに、エルサレムを訪れ、世界中に神のメッセージを持ち帰る巡礼者 たちに語られた言葉です。これは今も昔も変わらないのです。私も是非そのひとりとしてく ださいと祈ります。 18 詩49篇 指揮者のために。コラの子たちの賛歌 49:1 すべての国々の民よ。これを聞け。 世界に住むすべての者よ。耳を傾けよ。 49:2 低い者も、尊い者も、 富む者も、貧しい者も、ともどもに。 49:3 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。 49:4 私はたとえに耳を傾け、 立琴に合わせて私のなぞを解き明かそう。 49:5 どうして私は、わざわいの日に、恐れなければならないのか。 私を取り囲んで中傷する者の悪意を。 49:6 おのれの財産に信頼する者どもや、豊かな富を誇る者どもを。 49:7 人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。 自分の身代金を神に払うことはできない。 49:8 ──たましいの贖いしろは、高価であり、 永久にあきらめなくてはならない── 49:9 人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。 墓を見ないであろうか。 49:10 彼は見る。知恵のある者たちが死に、愚か者もまぬけ者もひとしく滅び、 自分の財産を他人に残すのを。 49:11 彼らは、心の中で、彼らの家は永遠に続き、その住まいは代々にまで及ぶと思い、 自分たちの土地に、自分たちの名をつける。 49:12 しかし人は、その栄華のうちにとどまれない。 人は滅びうせる獣に等しい。 49:13 これが愚か者どもの道、 彼らに従い、彼らの言うことを受け入れる者どもの道である。 セラ 49:14 彼らは羊のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。 朝は、直ぐな者が彼らを支配する。 彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。 49:15 しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。 神が私を受け入れてくださるからだ。 セラ 49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。 49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、 その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。 49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、 また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。 19 49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、 彼らは決して光を見ないであろう。 49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、 滅びうせる獣に等しい。 ◆この詩篇には、人間の普遍的な問題である死がもたらすものについての格言(知恵)が教示 されています。 ◆その第一は、人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても、人は、死ぬとき、何 一つ持って行くことができないということです(16、17節)。つまり、人の栄誉も財産も 人の称賛も死の前には全く無力であるという教えです。 ◆第二は、人は死後も栄華の中にとどまりつつげることはできないということです。人は、 心の中で、自分たちの家は永遠に続くと思い込んでいるのです。しかしそれは幻想に過ぎま せん。 ◆第三は、人はたとえ栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅び失せる獣に等しいという ことです。 ◆「悟り」を得るとはどういうことでしょうか。 ①「よみ」の存在です(14、15節)。ヘブル語ではシェオル(Sheol)です。詩篇の中ではそ れほど多く使われていません(6篇5節、16編10、11節を参照)。よみは神との交わ りが絶たれた場所であり、そこではだれも神をめたたえることができません。そしてそこ は神の言うことに耳を傾けることをしない者たちが行く所であり、住む所です。 ②よみからたましいを引き上げる(買い戻す)ことは人間には不可能です。なぜなら、たまし いの贖い代はあまりも高く、この世の富をいくら積んだとしても買い戻すことはできない からです。それほどに、たましいの代価は高価なのです。人間的には永久に諦めなければ なりません(7~8節)。 ③しかし、ただ神だけがたましいをよみの力から買い戻してくださいます(15節)。 「買い戻 す」とは、 「身代金を払う」 「代価を払う」 「贖う」とも表現されます。神は御子イエス・キ リストを通して、私たちをよみからいのちの道に引き上げてくださったのです。 ◆これらの三つのことを悟ることか大切だと信じます。ただ栄華の中でそれを得ることは難 しいかもしれません。ただ私は、イエス・キリストを通して、よみから買い戻された者であ ることを心から信じて感謝します。 20 詩50篇 アサフの賛歌 50:1 神の神、【主】は語り、地を呼び寄せられた。 日の上る所から沈む所まで。 50:2 麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。 50:3 われらの神は来て、黙ってはおられない。 御前には食い尽くす火があり、その回りには激しいあらしがある。 50:4 神はご自分の民をさばくため、 上なる天と、地とを呼び寄せられる。 50:5 「わたしの聖徒たちをわたしのところに集めよ。 いけにえにより、わたしの契約を結んだ者たちを。」 50:6 天は神の義を告げ知らせる。 まことに神こそは審判者である。 セラ 50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。 イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。 わたしは神、あなたの神である。 50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。 あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。 50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。 あなたの囲いから、雄やぎをも。 50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、 千の丘の家畜らも。 50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。 野に群がるものもわたしのものだ。 50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。 世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。 50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、 雄やぎの血を飲むだろうか。 50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。 あなたの誓いをいと高き方に果たせ。 50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。 わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」 50:16 しかし、悪者に対して神は言われる。 「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。 21 50:17 おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。 50:18 おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。 50:19 おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。 50:20 おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。 50:21 こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。 わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。 わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。 50:22 神を忘れる者よ。 さあ、このことをよくわきまえよ。 さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。 50:23 感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。 その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」 ◆神は神の臨在の場である「麗しさの窮みシオンから、光を放たれます」(2節)。それは、 天と地を証人として、ご自分の民に対して、あることで告発するために神の法廷に召喚させ るためです。「光を放たれる」とは、そこに暗闇の状況が前提とされています。暗闇の中に、 これからとても大切なことを語るため、私たちに警告を与え、戒めるために、神の光が放た れるのです。 ◆ところで、神がこれから語られようとしている大切なこととはいったい何なのでしょうか。 それは14節、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。」と いうことです。礼拝において、いけにえがささげられていなかったわけではありません。き ちんとささげられていました。8節には「全焼のいけにえ」がささげられていました。この いけにえは本来、いけにえの中でも自発的な最高のささげものです。しかし、民の心に大切 なものが失われていました。それは感謝と賛美の心です。(旧約では感謝も賛美も同じ言葉が 用いられます。英語では praise です。)「感謝のいけにえ」こそ、神をあがめるにふさわし いものなのです。しかも、この「感謝のいけにえ」には、私たちが神にささげるすべてのいけ にえを包含しているものと信じます。 神への礼拝も、奉仕も、賛美も・・すべて感謝のわざとしてのものでなければなりません。 感謝は神に対するすべてのわざの源泉です。その源泉が形骸化していることが神にとって問 題とされているのです。 ◆私たちの礼拝が形式的なものになりうることは十分にあります。心を伴わない、形だけの 礼拝は神の御名をあがめることにはなりません。むしろそれは神に対する冒涜です。神の豊 かな恵み、変わることのない神の愛に対して、私たちができることはまず感謝することです。 そのことだけを神は求めておられるのです。 22 ◆14 節には、 「感謝をささげる」ことと「誓い」がワンセットになっています。「感謝」と「誓 い」にはどのような関係があるのでしょうか。感謝の真の価値は「自発性」にあります。また、 誓いの真の価値は「自意性」にありますと考えます。誓いは、英語では I will で表されます。 神の I will と人間の I will が交差するところに真の交わりが成り立ちます。神はこのよう なかかわりを求めておられるです。ですから、 「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓 いをいと高き方に果たせ。」と命じているのです。 ◆15節「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。 わたしはあなたを助け出そう。あなたはわた しをあがめよう。」とあります。私たちは往々にして「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、苦 しい時に神に助けてもらった恩も、楽になれば忘れてしまうのが常です。なんと私たちは身 勝手なものかと思います。イエスはある村で、重い皮膚病で悩む10人の人々に出会いまし た。彼らは声を張り上げて「イエスさま、どうぞあわれんでください。」と嘆願しました(ル カの福音書17章11~19節)。彼らは祭司に自分を見せるように言われて、そこに行く途 中で皆いやされました。ところが、自分のいやされたことが分かって、引き返してイエスの 足もとにひれ伏して感謝した人は、なんとサマリヤ人の一人だけでした。このことを考えて も、何と人間は身勝手かと思わせられます。ですから、神は、神への感謝を忘れやすい私た ちに対して、私たちを苦難の状況へと置かれます。私たちが神によって支えられていること を忘れず、感謝の心を絶やさせないためです。 ◆神への感謝は、神の御名をあがめることにつながります。23 節では格言のように、「感謝 のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。」と述べられています。すべての行為の源 泉に神への感謝がある人は、神をあがめることになります。イエスが「主の祈り」の中で、 「天にいます父よ、御名があがめられますように」と祈るように弟子たちに教えられました が、どのようにして御名があがめられるかといえば、詩篇 50 篇で教えられているように、 感謝の心を持つことです。ですから、礼拝のたびごとに、感謝と賛美を携え、主の御前に進 み出ているかどうか、絶えず、自分の心を吟味する必要があります。その意味で、詩篇 50 篇はとても心探られる詩篇のひとつと言えます。 ◆〔追記〕 ・・・この詩50篇の表題は「アサフの賛歌」となっています。詩篇において、 「ア サフの詩篇」は73篇~83篇にまとめられていますが、50篇だけ孤立してここに入って いるのは、いけにえのことを問題としている51篇との関わりによるものかもしれません。 51篇16節、17節では「まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけえを、 望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなた は、それをさげすまれません。」とあります。 23 詩51篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通った のちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき 51:1 神よ。お恵みによって、私に情けをかけ、 あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。 51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、 私の罪から、私をきよめてください。 51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。 私の罪は、いつも私の目の前にあります。 51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、 あなたの御目に悪であることを行いました。 それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、 さばかれるとき、あなたはきよくあられます。 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、 罪ある者として母は私をみごもりました。 51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。 それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。 51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。 そうすれば、私はきよくなりましょう。 私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。 51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。 そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。 51:9 御顔を私の罪から隠し、 私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。 51:10 神よ。私にきよい心を造り、 ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、 あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。 51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、 喜んで仕える霊が、私をささえますように。 51:13 私は、そむく者たちに、 あなたの道を教えましょう。 そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。 24 51:14 神よ。私の救いの神よ。 血の罪から私を救い出してください。 そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。 51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。 そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。 51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。 全焼のいけにえを、望まれません。 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。 神よ。あなたは、それをさげすまれません。 51:18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、 エルサレムの城壁を築いてください。 51:19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、 義のいけにえを喜ばれるでしょう。 そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。 ◆この詩篇のキー・ワードを17節「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔 いた心。」といたします。「砕かれた、悔いた心」とはどんな心なのか。なぜ神はそうした心 を喜ばれるのか。そして私たちはそこにどんな希望をおくことができるのかについて思いを 巡らしたいと思います。 ◆第一に、 「砕かれた、悔いた心」とは、神に対する背きの罪に対する認識と、自分の罪に対 する徹底した正直さです。3節でダビデは「まことに、私は自分の背きの罪を知っています。 私の罪は、いつも自分の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あな たの御目に悪であることを行いました。」と告白しています。この詩篇には、ダビデが実際に 犯した罪が背景にあります。それは姦淫と殺人の罪です。表題にもあるように、ダビデの罪 が預言者ナタンによって指摘され、その後に作られたのがこの詩篇だと考えられます。 ◆詩篇の中でも、罪の問題をこれほどまでに深くえぐり出したものは他にありません。17 節の「砕かれた、悔いた心」の反対は、堅い頑固な心です。それは人間の暗い心の面を直視 しようとしない心と言えます。しかしそうした心が打ち砕かれて、悔いた心となる。 「悔いた 心」とは「悔い改めた心」です。単に、悔いるということではなく、悔い改められた心、つ まり、造り変えられた心です。それは神によって新しくされた心です。神はこの心をことの ほか喜ばれます。 ◆ダビデの罪の意識は、単にこれこれの罪を犯しましたということにとどまりません。たと え、もしそのような罪を犯さなかったとしても、生まれながらにして、存在そのものが罪深 25 い者であるという認識です。5節を見ると「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者と して母は私を身ごもりました」と述べています。この罪は原罪と言われるものです。どんな にかわいい赤ちゃんでもそれは隠れています。そしてやがてそれは芽を出してきます。人間 はこの原罪から逃れることは決してできないのです。ダビデはだれよりも神を求め、神を慕 い、神を愛した人です。と同時に、だれよりも神に背いた人でもあります。なんという謎。 明暗、清濁併せ持つ存在、 ・・これが人間の真実な姿なのです。ダビデは6節でこう祈ります。 「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」と。LB 訳では「神様をお喜ばせるのは、徹 底した正直さだけです。ああ、そのことを私に徹底的に分からせてください。」と訳されてい ます。 ◆第二に、 「砕かれた、悔いた心」とは、新しい心、統一された心を祈り求めることです。私 たちの心が分裂していることは、人間が本来的な自己を見失い、地上的な一時的な欲情に惑 わされて、不安と迷いの中に生きることを意味します。善をしようとしても、心が分裂して いるゆえにできないのです。ここに人間の悲惨さがあります。使徒パウロもこの罪で苦しみ ました。そして「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救 い出してくださるのでしょうか」(ローマ7章24節)と叫んでいます。 ◆私たち人間は、こうした悲惨さから私たちを救い、心の分裂をいやし、私たちの心を統一 させてくれる存在を必要としているのです。ダビデは1節で「神よ。御恵みによって、私に 情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしの背きの罪をぬぐい去ってください」 と祈っています。神のあわれみに訴えています。しかしこの祈りは新しい心を祈り求める消 極的な面です。ダビデはもっと積極的な祈りをしました。それは10節です。 「神よ。私にき よい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と。「きよい心」とは別な 言葉でいうならば、「統一された心」と言えます。「造る」とは、バーラー(ヘブル語)です。 創世記1章1節の「はじめに神が、天と地を造られた」という所に使われている言葉と同じ です。つまり、「きよい心を造る」とは神にしかできないことをダビデは知っていたのです。 私たちの努力では作ることは不可能なのです。神の霊、神から与えられる聖霊によってのみ 可能なのです。ですから、 「きよく、正しく、美しく」といった人間の言葉は偽善のなにもの でもありません。 ◆すでにこの方(聖霊様)は、イエス・キリストを信じる者のうちに働いておられるのです。 この方の助けを歓迎し、この方に助けを求めることです。 「砕かれた、悔いた心」、 「きよい心」 が新しく造られて、神との交わりにあずからせていただきたいと祈ります。そして、ダビデ と同じように、「私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、 あなたのもとに帰りましょう。」と告白したいと思います。 26 詩52篇 指揮者のために。ダビデのマスキール。エドム人ドエグがサウルのもと に来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た」と言ったときに 52:1 なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。 神の恵みは、いつも、あるのだ。 52:2 欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。 さながら鋭い刃物のようだ。 52:3 おまえは、善よりも悪を、 義を語るよりも偽りを愛している。 セラ 52:4 欺きの舌よ。 おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。 52:5 それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。 こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。 セラ 52:6 正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。 52:7 「見よ。彼こそは、神を力とせず、 おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」 52:8 しかし、この私は、 神の家にある生い茂るオリーブの木のようだ。 私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。 52:9 私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。 あなたが、こうしてくださったのですから。 私はあなたの聖徒たちの前で、 いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。 ◆詩 51 篇は、神への背きの罪が告白されていました。その背きの罪がもたらすものは、欺 きと偽善です。詩 52 篇は欺きと偽善を愛する生き方ではなく、神の恵みに拠り頼んで生き ようとする意志が明確に告白されています。ですから、この詩篇のキー・ワードを1節後半 と8節の後半のダビデの告白にしたいと思います。1節後半では「神の恵みは、いつも、あ るのだ」とあり、8節後半では「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む」とあります。 ダビデは自分の生涯において、とこまでも神に背く悪の存在に悩まされ続けますが、その中 で神の恵みを数多く経験した人でした。「あなたが、こうしてくださったのですから。私は あなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。」(9節後半)と信 仰の決意を新たにしています。 27 ◆表題―エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来 た」と言ったときにー、を見る限り、作者が、理不尽な、不条理な経験の中にしばしば置か れたことを想起させます。 ◆ダビデはサムエルを通して、王位を約束され、神からの王としての油注ぎを受けました。 しかし、このときから、ダビデがイスラエルの王となるまでの10年余、神による訓練が始ま ります。数々の不条理、理不尽とも思える経験、忘恩の仕打ちなどを経験します。しかしそ れらの経験はすべて、ダビデが人間の真相を知り、人間の罪深さを身をもって体験するため のものでした。荒野における放浪生活、人生における夜という生活を味わったことで、ダビ デの人格は磨かれ、やがてイスラエルの王にふさわしい者とされていったのです。 ◆ところが、ダビデの放浪生活にとって、表題にある出来事は理不尽なものであったに違い ありません。自分が神によって王となることを約束されたことによって、自分とかかわる者 たちに、自分でも考えられなかった不幸が襲ったのです。 ◆ダビデがサウルのもとから去って最初にたどり着いたのが、祭司アビメレクのところでし た。単身でやってきたダビデを見てアビメレクは不信を抱きました。そこでダビデは、自分 がサウルのもとから逃げていることが知られるならば、すぐに密告されてつかまってしまう かもしれないという恐れから、即座に祭司アヒメレクに嘘をついてしまいます。その嘘はダ ビデが自分を守るための最小限の手段でした。祭司アビメレクはダビデの言うことを信じて、 パンを与え、また剣をも与えました。ところが悪いことに、その日たまたまサウロの家臣で あったドエグがそこに来ていた。ドエグの目には、ダビデと祭司アビメレクが結託している かのように見えました。ドエグは自分が見たことをサウルに伝えたことで、アビメレクとそ の家族が(一人を除いて)すべて殺されるという事態が起こります。この事態を知ったダビデ の心中は果たして如何に、 ・・・と思わせられます。ダビデが自分とかかわった者に甚大な被 害が及んでいくのを知っても、ただ神にゆだねるしかないことを学ばなければなりませんで した。なぜなら、その背後には神に敵対する者がいつでも存在するという現実があるからで す。 ◆「清濁合わせ飲む」という言葉があるように、神の訓練の中にはそうしたプムグラムがあ るように思われます。ダビデはサウロの殺意が自分にあることを知らされると同時に、サウ ロの息子ヨナタンからの無二の友情を経験しました。ダビデに対するヨナタンの友情は、ま さに神によって結びつけられたものであり、それは私欲のない、しかも首尾一貫して変わる ことのないものでした。ダビデとヨナタンの二人の出会いは神によって導かれたとしか言い ようがありません。本来ならばライバルであるダビデに対するヨナタンの友情は神の恵み、 神の賜物そのものでした。神はヨナタンを通してダビデを守られたのです。 28 ◆父サウルとダビデの板挟みになって苦しみながらも、なんとか親友ダビデを救おうとする ヨナタンの姿をダビデは生涯忘れることはありませでした。後のダビデの治世において、王 国の祝福と繁栄を前にしたときも、ダビデの心は弱い存在に対する者に向けられました。ま た、ヨナタンの息子メフィボシェテを王宮に迎え入れ、食卓を共にし、生活を保障しました。 メフィボシェテは足が不自由であり、王宮に迎え入れられるには当時、不適格者であったに もかかわらず、王子のごとく受け入れられました。これはダビデに対するヨナタンの無二の 友情のゆえです。そしてダビデはそこに神の恵みを味わっていたのでした。 ◆詩篇の 52 篇の1節の「神の恵みは、いつも、あるのだ」という宣言はダビデの経験に裏 付けられたものです。どんなに背後に悪が存在し、神に敵対しようとも、 「しかし、この私は、 神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む。 」 (8節)と告白し続ける者でありたいと思います。 29 詩53篇 指揮者のために。「マハラテ」の調べに合わせて。ダビデのマスキール 53:1 愚か者は心の中で「神はいない」と言っている。 彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている。 善を行う者はいない。 53:2 神は天から人の子らを見おろして、 神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 53:3 彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。 善を行う者はいない。ひとりもいない。 53:4 不法を行う者らは知らないのか。 彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、 神を呼び求めようとはしない。 53:5 見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。 それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。 あなたは彼らをはずかしめた。 それは神が彼らを捨てられたからだ。 53:6 ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。 神が御民の繁栄を元どおりにされるとき、 ヤコブは楽しめ。 イスラエルは喜べ。 ◆この詩篇はほとんど詩14篇と同じです。4節で「彼らは(バビロン)パンを食らうように、 わたしの民(イスラエル)を食らい」とあることから、イスラエルの民がバビロンで捕囚とな っていたときに作られたものだと思います。なぜイスラエルの民がバビロンの捕囚の身とな ったのか。それは、神がご自身の民をもう一度新しく再建するためでした。神に対する新し い心をもって神を礼拝する民として造るためでした。6節で「ああ、イスラエルの救いが、 シオンから来るように。神がとりこになった御民を返されるとき、ヤコブは楽しめ、イスラ エルは喜べ。 」とあるように、パンを食うように人を食い尽くしているという現実の中で、神 の助けを期待し、捕囚の身となった神の民がもう一度、回復するその時を待ち望んでいる姿 が映ります(7節)。 ◆このイスラエルの民の待ち望みは、ペルシャの王クロスによって歴史的事実として回復さ れます。彼らは再びイスラエルに帰還し、神を礼拝する民として回復されたのです。このと 30 き、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになります。しかし、歴史は繰り返されます。彼らの民 族的、精神的基盤となっていたエルサレムの神殿は西暦70年にローマによって破壊され、 ユダヤ人は全世界に離散させられます。しかも「ユダヤ人はキリストを殺したために、神か らのろわれる存在となった」 「神はユダヤ人を捨てられ、代わりに教会をその選びの中に入れ られた」という神学が、教会で教えられるようになりました。こうした土壌の中で、反ユダ ヤ主義が形成されていったのです。ユダヤ人とキリスト教徒の溝は、379 年の「キリスト教 のローマ国教化」によって決定的に深まっていきました。以降、ヨーロッパを中心とするキ リスト教国によって、ユダヤ人迫害が深刻化していったのです。特に、近年におけるナチス・ ドイツにおけるホロコースト(ユダヤ人絶滅政策)が始まり、約6百万人がユダヤ人であると いうだけで虐殺されたのです。 ◆ユダヤ人はこのような民族滅亡にかかわる迫害を何度も(西暦 70 年以降実に 11 回も)くぐ り抜け、生き延びてきました。そしていつの日か、約束の地シオン(エルサレム)に帰還する ことを毎年の過越の祭りごとに覚えて祈るようになったのです。そして、1948 年、彼らの 悲願はかなえられ、世界はイスラエルの建国の奇跡を目の当たりにするようになりました。 まさに、 「イスラエルの救いが、シオンから来」たのです。しかしまだユダヤ人の多くは、本 当のメシヤ(キリスト)に出会っていません。 ◆イエス・キリストは、再臨する直前まで、エルサレムは異邦人の国々にわたされていると 教えられました。と同時に、聖書は、エルサレムでの主の礼拝が回復される日が来るとも約 束しておられます(アモス9章11~12節、使徒の働き15章16~17節)。最初の教会 となった「エルサレム会議」の議長ヤコブは、なんとアモス書を通して、エルサレムの神殿 が破壊され、将来再建されて、神の民と異邦人が共に神を礼拝する日が来ることを予見して いました。しかしそれが実現する前に、つまりユダヤ人が民族的な救いを経験する前に大患 難の時代が来ると、イエスは預言されました。なぜなら、主の敵はなんとしても主の計画を 阻止しようしてくるからです。しかし主は、その患難時代で苦難にあう神の民ユダヤ人のと ころに帰ってきます。それがキリストの再臨です。そのとき「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は 喜び、サフランのように花を咲かせる」(イザヤ35章1節)という預言が回復するのです。 ◆「ああ、イスラエルの救いが、シオンから来るように。神がとりこになった御民を返され るとき、ヤコブは楽しめ、イスラエルは喜べ。」(詩53篇6節) は、まさに今日においても 預言的なみことばです。神の民に対する励ましの言葉です。そう思うと、 「ああ、主イエスよ。 来てください。」と祈らざるを得ません。 31 詩54篇 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール。 ジフの人たちが来て、「ダビデはわれらの所に隠れているではないか」 とサウルに言ったとき 54:1 神よ。御名によって、私をお救いください。 あなたの権威によって、私を弁護してください。 54:2 神よ。私の祈りを聞いてください。 私の口のことばに、耳を傾けてください。 54:3 見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、 横暴な者たちが私のいのちを求めます。 彼らは自分の前に神を置いていないからです。 セラ 54:4 まことに、神は私を助ける方、 主は私のいのちをささえる方です。 54:5 神は、私を待ち伏せている者どもにわざわいを報いられます。 あなたの真実をもって、彼らを滅ぼしてください。 54:6 私は、進んでささげるささげ物をもって、あなたにいけにえをささげます。 【主】よ。いつくしみ深いあなたの御名に、感謝します。 54:7 神は、すべての苦難から私を救い出し、 私の目が私の敵をながめるようになったからです。 ◆この詩篇は4節を境にして前半と後半との明暗が対照的です。4節は信仰告白です。 「まこ とに、神は私を助ける方、主はいのちをささえる方です。 」とあります。 この4節こそ、こ の詩篇のキー・ワードです。 ◆ダビデの苦難は彼がイスラエルの王として油注ぎを受けた時からはじまりました。ダビデ はサウル王の妬みによる迫害で追われる身となりました。それのみならず、彼は放浪の地で もさまざまな人たちから心傷つけられる経験をします。たとえば、サムエル記第一の23章 には、ダビデが神の導きに従い、ペリシテ人と戦ってケイラの住民を救いました。これを知 ったサウル王は、そこへ下り、ダビデと彼の部下たちを取り囲もうとしました。ところが、 ケイラの住民は恩を忘れて、ダビデと彼の部下たちをサウル王に引き渡そうとしていること がわかったのです。ダビデはずくさまケイラを去って、いずことなく放浪の旅を余儀なくさ れました。 ◆恩を受けていながら、その恩を仇で返すとは。これは人間としても許し難い行為です。し 32 かしダビデはそれを受け止めました。また、それからもダビデはジフ人による密告によって、 自分たちの隠れ家をサウルに知られ、執拗に追い掛け回されます。しかもサウル側の追手は 3千人の選び抜かれた精鋭たちでした。普通ならば、精神的に追い詰められて参ってしまう ところです。やがて見つかってしまうのでは、という恐れが、ダビデの心を支配するように なっていきました。この詩54篇はこのような状況におかれていた時のダビデの心情を垣間 見ることができます。 ◆先が見えない状況の中でダビデは神に訴えます。 「見知らぬ者たちが、私に立ち向かい、横 暴なものたちが私のいのちを求めます」(3節)と。 「見知らぬ者たち」とは、敵なのか味方な のかはっきりしない者たちのことです。実際はジフ人のことでしょう。サムエル記第一の2 6章参照。いずれにしても、寄らば大樹の陰とばかりに密告する者たちに対して、ダビデは なにもしませんでした。ただ神を信頼し、神にゆだねる決心をしたのです。これこそ、神が ダビデに与えた荒野の訓練でした。神がダビデを王として選んだのであれば、神が彼を守る のは当然のことといえますが、その守りを確信する訓練がダビデには必要だったのです。や がて神の働きのリーダー的な役割を担う者にとっては、それは選択科目ではなく、必修科目 です。実地訓練を通して、神への信頼を学ばなければなりませんでした。イエスの生涯もそ の一点に尽きるといえます。 ◆ダビデは告白しました。 「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」 まさにこの告白のごとくダビデのいのちは支えられたのです。神の召しは神の偉大な力によ る守りの保障が約束されています。生存の保障、そして敵からの防衛の保障です。そのこと をはっきりと、繰りかえし告白する必要があるのです。そのとき神はその告白に基づいて「す べての苦難から救い出し、敵をながめるように」してくださるのです。 「私のいのちを支える 方」を心から賛美します。ハレルヤ!! 33 詩55篇 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール 55:1 神よ。私の祈りを耳に入れ、 私の切なる願いから、身を隠さないでください。 55:2 私に御心を留め、私に答えてください。 私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています。 55:3 それは敵の叫びと、悪者の迫害のためです。 彼らは私にわざわいを投げかけ、激しい怒りをもって私に恨みをいだいています。 55:4 私の心は、うちにもだえ、 死の恐怖が、私を襲っています。 55:5 恐れとおののきが私に臨み、 戦慄が私を包みました。 55:6 そこで私は言いました。 「ああ、私に鳩のように翼があったなら。 そうしたら、飛び去って、休むものを。 55:7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、 荒野の中に宿りたい。 セラ 55:8 あらしとはやてを避けて、 私ののがれ場に急ぎたい。」 55:9 主よ。どうか、彼らのことばを混乱させ、分裂させてください。 私はこの町の中に暴虐と争いを見ています。 55:10 彼らは昼も夜も、町の城壁の上を歩き回り、 町の真ん中には、罪悪と害毒があります。 55:11 破滅は町の真ん中にあり、 虐待と詐欺とは、その市場から離れません。 55:12 まことに、私をそしる者が敵ではありません。 それなら私は忍べたでしょう。 私に向かって高ぶる者が私を憎む者ではありません。 それなら私は、彼から身を隠したでしょう。 55:13 そうではなくて、おまえが。 私の同輩、私の友、私の親友のおまえが。 55:14 私たちは、いっしょに仲良く語り合い、 神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。 55:15 死が、彼らをつかめばよい。 34 彼らが生きたまま、よみに下るがよい。 悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。 55:16 私が、神に呼ばわると、【主】は私を救ってくださる。 55:17 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。 すると、主は私の声を聞いてくださる。 55:18 主は、私のたましいを、敵の挑戦から、平和のうちに贖い出してくださる。 私と争う者が多いから。 55:19 神は聞き、彼らを悩まされる。 昔から王座に着いている者をも。 セラ 彼らは改めず、彼らは神を恐れない。 55:20 彼は、自分の親しい者にまで手を伸ばし、自分の誓約を破った。 55:21 彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。 彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である。 55:22 あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。 主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。 55:23 しかし、神よ。あなたは彼らを、滅びの穴に落とされましょう。 血を流す者と欺く者どもは、おのれの日数の半ばも生きながらえないでしょう。 けれども、私は、あなたに拠り頼みます。 ◆この詩篇には有名なみことばがあります。それは22節「あなたの重荷を主にゆだねよ。 主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはな さらない」です。とても励まされ、慰められるみことばです。しかしこのことばは、おそら くはダビデの議官であり、有能な進言者でもあったアヒトフェルがダビデに対して謀反を起 こした後、ダビデを皮肉ったことばであると知っても、つまずかない者は幸いです。たとえ、 それが皮肉られたことばだとしても、やがてその通りになってしまったからです。ダビデは いつも22節のような内容を公言していたのだと思います。しかしそれが真底試される事件 が起こります。その事件とはダビデの息子の中でも最も賢かったアブシャロムによるクーデ ターです。 ◆この詩篇においては人称が混乱しているように思います。「彼」とは誰なのか。「彼ら」と は誰のことなのか、そして「あなた」とはだれのことか、分かりにくさがあります。しかも この詩篇には具体的な表題はありません。しかし、ダビデが王となった後で起こった息子ア 35 ブシャロムによる「クーデター」を背景として読むと人称の問題は容易に解けます。サムエ ル記第二、15章~18章を参照のこと。 ◆息子アブシャロムのクーデターによって、ダビデは命からがら都を後にします。都落ちで す。そのときのダビデの本当の心情をこの詩篇で知ることができるように思います。それは 決して奇麗事ではありません。自分の身内から起こった反逆です。 「わたしは悩みによって弱 りはて・・気が狂いそうです。」(2~3節、口語訳)とあるように、まさにこのときダビデは 発狂寸前の状態だったのです。祈りどころではありません。LB 訳はいみじくもこう訳してい ます。「重荷につぶされそうなこの身からは、うめきと涙しか出てきません」と。 ◆「うめきと涙」しか出てこない、そんな日がいつ私たちに襲わないとも限りません。外か らの敵ではなく身内による裏切りは、ことのほか身にこたえるものです。そうした経験は心 の傷(トラウマ)となります。現代ならば、引きこもりの症状をあらわすことでしょう。ダビ デもそんな症状をあらわしたようです。 「ああ、私に鳩のように翼があったなら、そうしたら、 飛び去って、休むものを。ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。あらし とはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。 」(6~8節)。これはだれもが経験する思いで はないかと思います。「それは現実逃避だ ! もっと前向きに立ち向かえ!」と言われようとも そうできないのです。 ◆17節でダビデは「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」。朝から晩まで絶え間なく泣きうめ いている。ただそれだけ。祈ることも賛美することもできない。しかし、実は、その嘆きと うめきの声は神に聞き届けられているのです。うめきの声はどんな祈りの言葉よりも雄弁な 祈りとして神に届いているのです。サムエルを生んだ母ハンナもそうでした。 ◆神との関係において、感情を表にさらけ出すこと、これができるかできないかによって明 暗が分かれます。感情を人の前でも、神の前でも、本当の自分を隠しながら「良い子」でい ようするなら、必ず、よくない結果になります。ダビデはそういう意味では、神の前に自分 の本当の気持ち(感情)をぶつけることのできた人でした。神はそうした姿に目をとめてくだ さる方なのです。 ◆この詩篇の表題には「ダビデのマスキール」とあります。 「マスキール」とは、教訓詩のこ とです。この詩篇の教訓とは何かを考えてみるならば、ただうめくことしかできなくても、 神はそのうめきを聞いてくださる方だということです。最後に17節と22節に目を留めま しょう。 「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。 」 ◆「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる(新共同訳「支え てくださる」)。主は決して、正しい者(LB 訳「信じて従ってくる者」)が、ゆるがされるよう にはなさらない(LB 訳「足をすべらせたり、倒れたりするのを、神様は黙って見ておられる はずがありません。」)。 36 詩56篇 指揮者のために。「遠くの人の、もの言わぬ鳩」の調べに合わせて。 ダビデのミクタム。ペリシテ人が、ガテでダビデを捕らえたときに 56:1 神よ。私をあわれんでください。 人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。 56:2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。 誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。 56:3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。 56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。 私は神に信頼し、何も恐れません。 肉なる者が、私に何をなしえましょう。 56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。 彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。 56:6 彼らは襲い、彼らは待ち伏せ、私のあとをつけています。 私のいのちをねらっているように。 56:7 神よ。彼らの不法のゆえに、彼らを投げつけてください。 御怒りをもって、国々の民を打ち倒してください。 56:8 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。 どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。 それはあなたの書には、ないのでしょうか。 56:9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。 神が私の味方であることを私は知っています。 56:10 神にあって、私はみことばをほめたたえます。 【主】にあって、私はみことばをほめたたえます。 56:11 私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。 人が、私に何をなしえましょう。 56:12 神よ。あなたへの誓いは、私の上にあります。 私は、感謝のいけにえを、あなたにささげます。 56:13 あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、 つまずきから、救い出してくださいました。 それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。 ◆この詩篇の8節、とりわけ LB 訳を取りあげます。それによればこう訳されています。 「神 様は、私が夜通し寝返りを打っているのをご存じです。神様は、私の涙を一滴残さず、びん にすくい集めてくださいました。その一滴一滴は、余すところなく、神様の文書に記録され ています。」 37 ◆この詩篇はダビデがサウル王のもとから逃れて流浪の生活に入ったころの歌であることが 表題から想像できます。ダビデはただ一人で逃避行をはじめました。ダビデの下に集まって くる者はまだひとりもいませんでした。自分を受け入れ、助けてくれた祭司とその家族、親 族がダビデをかくまったということで皆殺しにされるという痛ましい事件がおきました。回 りはすべて敵という状況です。だれかが自分を見つけるかもしれません。 「人が私を踏みつけ」 「しいたげ」(1節)、多くの者が「戦いをいどむ」(2節)。ダビデのことばをねじまげ、待ち 伏せ、付け狙っています。 ◆「夜通し寝返りを打って」眠れない経験をすることがあります。それはどんな理由にしろ、 とても辛い経験です。だれにも分かってもらえない辛さ、恐れと不安、 ・・そんな状況の中で 8節が語られています。すべて主語は、「神様」です。 ①神様が、私を夜通し寝返りを打っているのをご存知です。」 ②神様は、私の涙を一滴残らず、びんにすくい集めてくださいました。」 ③神様の文書には、その一滴一滴の涙が、余すところなく、記されています。」 ◆ここで言わんとすることは、神が私を受け止めてくださる唯一の味方だという確信です。 人生の戦いの中でだれが自分の敵であり、味方なのかを知ることは重要です。自分の涙の意 味を理解してくれる者はすべて味方のように思います。しかもその味方は決して多くないか もしれません。しかし、唯一、確かで最も勇気を与えくれる神が味方についてくれるなら鬼 に金棒です。恐れることはありません。しかし神が味方だと言う確信が与えられなければ、 私たちは恐れのゆえに涙を流し続けなければならないかもしれません。神が味方であるなら 神が戦ってくださいます。ですから、戦いの流れは必ず変わっていくのです(9節)。 ◆人は究極のところ孤独な存在です。たとえ連れ合いがいたとしても、ある領域では孤独か ら免れることはできません。たとえば、死に直面するとき、その死からだれも助けてくれる ものはいません。孤独の中でみなそれに直面しなければなりません。そのときの自分の心の 複雑な感情のひだをすべて共感できる者などいないかもしれません。しかし、 「わかっている のはただこの一時、神様が味方だということです。」このことによって、恐れは逃げ去ります。 ◆使徒パウロもローマ人への手紙8章において「神は私たちの味方である」という力強い信 仰の確信を述べています。8章31節以降参照。そこでパウロが言っていることは次のこと です。もし、神が私たちの味方であるならば、 ・・・・ ①だれも私たちに敵対できない。なぜなら、すべての助けを与えてくださるから。 ②だれも私たちを訴えることはできない。なぜなら、神が義と認めてくださるから。 ③だれも私たちを罪に定めることはできない。なぜなら、復活のイエスが父の右の座でとり なしていてくださから。 ④だれも私たちをキリストの愛から引き離すことはできない。なぜなら、どんな中にあって も、私たちを愛してくださった方によって圧倒的な勝利者となることことができるから。 ◆なんというすばらしい力強い味方でしょう。God For Us(Me) 神こそ私たちの、私の味 方なのです。この確信に立ち続けたいものです。そして言いましょう。「主の御名によって、 恐れよ。去れ! 」と。 38 詩57篇 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデの ミクタム。ダビデがサウルからのがれて洞窟にいたときに 57:1 神よ。私をあわれんでください。 私をあわれんでください。 私のたましいはあなたに身を避けていますから。 まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。 57:2 私はいと高き方、神に呼ばわります。 私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。 57:3 神は、天からの送りで、私を救われます。 神は私を踏みつける者どもを、責めておられます。 セラ 神は恵みとまことを送られるのです。 57:4 私は、獅子の中にいます。 私は、人の子らをむさぼり食う者の中で横になっています。 彼らの歯は、槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。 57:5 神よ。あなたが、天であがめられ、 あなたの栄光が、全世界であがめられますように。 57:6 彼らは私の足をねらって網を仕掛けました。 私のたましいは、うなだれています。 彼らは私の前に穴を掘りました。 そして自分で、その中に落ちました。 セラ 57:7 神よ。私の心はゆるぎません。 私の心はゆるぎません。 私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。 57:8 私のたましいよ。目をさませ。 十弦の琴よ。立琴よ、目をさませ。 私は暁を呼びさましたい。 57:9 主よ。私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、 国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。 57:10 あなたの恵みは大きく、天にまで及び、 あなたのまことは雲にまで及ぶからです。 57:11 神よ。あなたが、天であがめられ、 あなたの栄光が、全世界であがめられますように。 ◆ダビデの放浪生活、荒野における訓練の目的は、ひとえに、 「神を信頼する」というこの一 39 点に収斂されます。信頼の絆は、順境の日ではなく、むしろ逆境においてこそ試され、強め られます。 ◆詩51篇でダビデが祈った祈りー「神よ。私に・・ゆるがない霊を私のうちに新しくして ください。」-は、様々な試みの中で確かなものとされていきます。そして、56 篇3節では、 「恐れのある日に、私はあなたに信頼します」と告白しています。 「信頼します」という言葉 は、「拠り頼みます」とか、「身を避けます」ということばでも訳されています。 ◆まず、信頼の消極的表現として、1節では、 「私のたましいは、滅び(敵の様々に策略)が過 ぎ去るまで、御翼の陰に身を避け」ることです。めんどりがひなを覆っているイメージです。 ひなは親鳥の覆いの中で安心しています。ダビデも「私は、人の子らをむさぼり食う者の中 で、横になっています」(4節)と表現しています。「横になっている」という表現は、詩3篇に も出てきます。息子アブシャロムが起こしたクーデターによって、ダビデが都落ちしたとき に歌われた詩篇とされていますが、そのときにも「私は身を横たえて、眠る」(5節)とあり ます。何という平安な姿でしょう。この平安は神への信頼からくるものです。 ◆イエス・キリストも地上に残される弟子たちにこう言われました。「わたしは、あなたがた にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。 あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネの福音書 14 章 27 節 a)と。イエスは「わたしの平安」と言っています。この平安はイエスご自身が経験してい たもので、それは御父を信頼することによって与えられたものです。ですから、この世が与 えるのとは違うと言っているのです。この御父と御子の信頼関係こそ、永遠のいのちと言え ます。イエス・キリストの生涯は、この信頼関係―永遠のいのちーの中に、私たちを招くため のあかしの生涯であったと言えます。「父よ。御手にわが霊をゆだねます。」これは、イエス が十字架上で語った最後のことばであり、その生涯を貫いた御父との信頼の絆のことばでし た。 ◆詩 57 篇において、ダビデが神をどのように告白しているかが鍵です。詩 57 篇では、神を 「私のために、すべてを成し遂げてくださる神」(2節 b)と告白しています。 God who performs all things for me. (NKJV) / who supplies my every need. (TEV) ◆同じ告白の表現は詩篇138篇8節にもあります。そこでは「主は私にかかわるすべてのこ とを、成し遂げてくださいます。」とあります。57篇と内容は全く同じです。この神への信 頼が、ダビデの心をゆるぎないものにしているのです。神をどのようなお方として知ってい るか、それがとても重要なことなのです。しかも、ダビデは神への信頼を「歌う」ことで表し ました。7節以降では、「私は歌い、ほめ歌を歌いましょう」と告白しています。 I will sing, I will praise 神への感謝と賛美の思いは「暁を呼びさましたい」(8節後半)ほどでした。 つまり、神をたたえる感謝と賛美をもって、暁を呼びさますほど、夜を徹するほど、ダビデ は神との深い交わりを願ったのです。 40 詩58、59篇 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。 ダビデのミクタム 58:1 力ある者よ。ほんとうに、おまえたちは義を語り、 人の子らを公正にさばくのか。 58:2 いや、心では不正を働き、 地上では、おまえたちの手の暴虐を、はびこらせている。 58:3 悪者どもは、母の胎を出たときから、踏み迷い、 偽りを言う者どもは生まれたときからさまよっている。 58:4 彼らは蛇の毒のような毒を持ち、 耳をふさぐ、耳の聞こえないコブラのよう。 58:5 これは、蛇使いの声も、 巧みに呪文を唱える者の声も、聞こうとしない。 58:6 神よ。彼らの歯を、その口の中で折ってください。 【主】よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。 58:7 彼らを、流れて行く水のように消え去らせてください。 彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。 58:8 彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、 また、日の目を見ない、死産の子のようにしてください。 58:9 おまえたちの釜が、いばらの火を感じる前に、 神は、生のものも、燃えているものも、ひとしくつむじ風で吹き払われる。 58:10 正しい者は、復讐を見て喜び、 その足を、悪者の血で洗おう。 58:11 こうして人々は言おう。 「まことに、正しい者には報いがある。 まことに、さばく神が、地におられる。」 [ 59 ] 指揮者のために。「滅ぼすな」の調べに合わせて。ダビデのミクタム。ダビデを殺そうと、 サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに 59:1 わが神。私を敵から救い出してください。 私に立ち向かう者が届かぬほど、 私を高く上げてください。 59:2 不法を行う者どもから、私を救い出してください。 血を流す者どもから、私を救ってください。 41 59:3 今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。 力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。 【主】よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。 59:4 私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。 どうか目をさまして、私を助けてください。 どうか、見てください。 59:5 あなたは万軍の神、【主】。イスラエルの神。 どうか目をさまして、すべての国々を罰してください。 悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください。 セラ 59:6 彼らは、夕べには帰って来て、犬のようにほえ、 町をうろつき回る。 59:7 見よ。彼らは自分の口で放言し、彼らのくちびるには、剣がある。 そして、「だれが聞くものか」と言っている。 59:8 しかし【主】よ。あなたは、彼らを笑い、すべての国々を、あざけられます。 59:9 私の力、あなたを私は、見守ります。 神は私のとりでです。 59:10 私の恵みの神は、私を迎えに来てくださる。 神は、私の敵の敗北を見せてくださる。 59:11 彼らを殺してしまわないでください。私の民が、忘れることのないためです。 御力によって、彼らを放浪させてください。 彼らを打ち倒してください。 主よ。私たちの盾よ。 59:12 彼らの口の罪は、彼らのくちびるのことばです。 彼らは高慢に取りつかれるがよい。 彼らの述べる、のろいとへつらいのために。 59:13 激しい憤りをもって滅ぼし尽くしてください。 滅ぼし尽くして、彼らをなくしてください。 そうして、神が地の果て果てまでもヤコブを治められることを、 彼らが知るようにしてください。 セラ 59:14 こうして、彼らは夕べには帰って来て、犬のようにほえ、町をうろつき回る。 59:15 彼らは、食を求めて、うろつき回り、満ち足りなければ、うなる。 59:16 しかし、この私は、あなたの力を歌います。 まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。 それは、私の苦しみの日に、あなたは私のとりで、また、私の逃げ場であられたからです。 59:17 私の力、あなたに、私はほめ歌を歌います。 神は私のとりで、私の恵みの神であられます。 42 ◆詩58篇も詩59篇も、いずれも悪の問題に対して、神の正しいさばきがなされることを 切願しています。 ◆まず詩58篇を見てみましょう。詩58篇の1節では「力ある者よ」と呼びかけています。 これは地上における上に立つ権力者(もしくはその背後にある 悪魔的力をも含めた存在)を 意味しています。作者はこの詩篇の中で悪の実態を克明に訴えています。 「心では不正を働き (口語訳「悪い事をたくらみ」)、「暴虐を、はびこらせている」(2節) から「踏み迷い。さまよっている」(3節)。 この世に存在する時 詩人はそうした者たちの「歯を、その口の中 で折ってください。主よ。若獅子のきばを、打ち砕いてください。消え去らせてください。 ・・・ 彼らを、溶けて、消えていくかたつむりのように、また、日の目を見ない、死産の子のよう にしてください」(6、7節)と訴えています。 ◆詩58篇で大切なことばは、 「まことに」ということばです。 「こうして人々は言おう。 『ま ことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。』」 つまり、た とい、人間の悪がどのように暴虐にみちたものであろうとも、悪魔的であったとしても、さ ばきを行なわれる神が厳存としておられるということです。このおごそかな事実にこそ、悪 の問題の解決に対する確かな希望があります。 ◆詩59篇を見てみましょう。3節を見ると、ここにも「力ある者ども」が作者に襲いかか ろうとしています。そして何の罪もない者が不当な仕打ちで苦しんでいることの窮状が反復 されて訴えられています(3~4節、6~7節、12節、14~15節)。そして13節では 復讐の祈りがなされているのです。 ◆作者はこうした状況の中で、神に目を向けています。まず8節「しかし主よ。あなたは、 彼らを笑い。すべての国々を、あざけられます。」 神が笑うのは、詩2篇4節にも見られま す。 「神が笑う」という表現は、人間の思い上がったはかりこどを全く超越する神の尊厳さを 示しています。作者はそうした神に目を向けています。その表現が9節と10節にあります。 「私の力、あなたを私は、見守ります。神は私のとりでです。私の恵みの神は、私を迎えに 来てくださる。神は、私の敵の敗北を見せてくださる。」(新改訳) ◆この節を他の訳でも味わってみましょう。 (新共同訳)「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。 神は、わたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を 神はわたしに支配させてくださいます。」 (LB 訳) 「私の力の源、神様を賛美します。 神様は、私の安全な隠れ家ですから。神様は、 常に変わらない愛を注ぎ、私を助けに来てくださいます。 また、敵を私の思い どおりにしてくださいます。」 43 ◆「私はあなたを見守ります」 「あなたを見張って待ちます」(I will wait for You)が、LB 訳 ではより積極的に「神様を賛美します」となっています。これは16節で I will sing と 繰り返されます。 ◆復讐を自分からせず、正しくさばかれる神にゆだねること、そしていつも神に目を向け、 神を賛美することによって、悪しき者は自滅し、神による勝利がもたらされるということを この詩篇は私たちに訴えているように思います。賛美することは戦いにおける最も力強い武 器なのです。 ◆新約聖書で、使徒パウロがこの悪の問題についてどのように教えているかを引用します。 ローマ人への手紙12章19節~21節です。そこには悪に対するより新しい、積極的な関 わり方が教えられています。これはまさに主イエスがなされたことでした。私たちも主に倣 う者となりたいものです。 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せな さい。それは、こう書いてあるからです。 『復讐はわたしのすることである。わたしが報いを する、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、 飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるので す。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」 44 詩60篇 指揮者のために。「さとしは、ゆりの花」の調べに合わせて。教えのため ダビデのミクタム。ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦って いたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したと きに 60:1 神よ。あなたは私たちを拒み、私たちを破り、 怒って、私たちから顔をそむけられました。 60:2 あなたは地をゆるがせ、それを引き裂かれました。 その裂け目を、いやしてください。 地がぐらついているのです。 60:3 あなたは、御民に苦難をなめさせられました。 よろめかす酒を、私たちに飲ませられました。 60:4 あなたは、あなたを恐れる者のために旗を授けられました。 それは、弓にかえて、これをひらめかせるためです。 セラ 60:5 あなたの愛する者が助け出されるために、 あなたの右の手で救ってください。 そして私に答えてください。 60:6 神は聖所から告げられた。 「わたしは、喜び勇んで、シェケムを分割し、 スコテの谷を配分しよう。 60:7 ギルアデはわたしのもの。 マナセもわたしのもの。 エフライムもまた、わたしの頭のかぶと。 ユダはわたしの杖。 60:8 モアブはわたしの足を洗うたらい。 エドムの上に、わたしのはきものを投げつけよう。 ペリシテよ。わたしのゆえに大声で叫べ。」 60:9 だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。 だれが私をエドムまで導くでしょう。 60:10 神よ。あなたご自身が 私たちを拒まれたのではありませんか。 神よ。あなたは、もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。 60:11 どうか、敵から私たちを助けてください。 まことに、人の救いはむなしいものです。 60:12 神によって、私たちは力ある働きをします。 神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。 45 ◆この詩篇は12節からなっています。最後の12節がこの詩篇のキー・ワードです。 「神に よって、私たちは力ある働きをします。神こそ、敵を踏みつけられる方です。」 ◆1節から11節までの内容を知らなくても12節だけを味わうことができるかもしれませ んが、それでは詩60篇の存在価値は薄れてしまいます。ダビデというと連戦連勝のイメー ジがあります。聖書の歴史書のでは、 「主はダビデ行く先々で、彼に勝利を与えられた」と記 しています。実に、淡々と描かれています(例えばサムエル記第二5章6,12節参照)。そこ では、ダビデの戦いにおける心の内はなにも伝わってきません。しかし詩篇ではダビデの心 にあるものがありのままに伝えられています。そのことでダビデが私たちにとって、より近 い存在となります。 ◆ダビデはイスラエル全体の王となる前も、また、王となってからも戦いに明け暮れた人で した。しかしいつも連戦連勝であったわけではありません。かなりの苦戦を強いられること もあったのです。詩60篇の9~10節を見るとそれがわかります。特にエドムとの戦いが そうであったようです。 「だれが私を防備の町に連れて行くでしょう。だれが私をエドムまで 導くでしょう。」とあります。おそらくダビデはエドムとの戦いにおいて苦戦し、ある意味で 敗戦を嘆いています。それが詩60篇です。ダビデは神に訴えます。 「神よ、あなたは私たち を拒み、私たちを破り、怒って、私たちから顔をそむけられました」(1節)。 「あなたは、御 民に苦難をなめされられました。」(3節)。「神よ。あなた自身が私たちを拒まれたのではあ りませんか。 ・・・もはや私たちの軍勢とともに、出陣なさらないのですか。」(10節)と。 ◆エドムはイスラエルの南にあります。ダビデはすでに西側(海側)の勢力であるペリシテを 2度の戦いで完全に封じ込めました。また北のアラム諸国も攻め取りました。北西のフェニ キヤのツロの王ヒラムとは友好関係を築き、エジプトとも同盟関係を築きました。こうして、 ヨルダン川の東側のアモン、モアブ、そしてエドムに勝利し配下におきました。当時、ダビ デによる大王国に並ぶ国はありませんでした。 ◆ダビデは戦いにおいて思うようにいかないことがあったのです。これは私たちも同じです。 信仰の戦いーそれは宣教の戦いであり、教会を建て上げる戦いであったり、自分の罪との戦 いであったりといろいろです。神がもはや自分を見捨て、拒まれているのではという状況に 出くわしたりします。しかし、そのような信仰の揺らぎを経験しつつも、神の約束に立って、 再び、神の信仰によって戦いに臨もうとするダビデの姿勢は私たちのモデルです。 ◆「まことに、人の救いはむなしいものです。神によって、私たちは力ある働きをします。 神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。 」(11、12節) ◆敵を踏みつけられる方こそ神です。この神に信頼して、どんな戦いもあきらめることなく、 信仰に立って、心新たに戦っていきたいと思います。 46 詩61篇 指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデによる 61:1 神よ。私の叫びを聞き、 私の祈りを心に留めてください。 61:2 私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。 どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。 61:3 まことに、あなたは私の避け所、 敵に対して強いやぐらです。 61:4 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、 御翼の陰に、身を避けたいのです。 セラ 61:5 まことに、神よ。あなたは私の誓いを聞き入れ、 御名を恐れる者の受け継ぐ地を私に下さいました。 61:6 どうか王のいのちを延ばし、 その齢を代々に至らせてください。 61:7 彼が、神の御前で、いつまでも王座に着いているようにしてください。 恵みとまこととを彼に授け、彼を保つようにしてください。 61:8 こうして、私は、あなたの御名を、 とこしえまでもほめ歌い、私の誓いを日ごとに果たしましょう。 ◆この詩篇には表題がないため、その背景を確定することはできませんが、おそらくダビデ がその愛する息子アブシャロムの謀反によって神の都エルサレムを後にしなければならなか った状況が考えられます。それはダビデにとって痛恨の窮みであり、 「私の心が衰え果てると き」(2節)と告白しています。他の訳では、 「わが心のくずおれるとき」(口語訳)、 「心が挫け るとき」(新共同訳)、「失望落胆して心がくずおれるとき」(LB 訳)となっています。 ◆ダビデはそうした心を「地の果て」と表現しています。 「地の果て」とは、単なる地理的な 距離のことではなく、神を慕い求める者が神の助けを求めている姿であり、しかも、自分の 力では到底回復できない状況を表わしていると言えます。そんな「地の果て」と思われるよ うな状況の中からダビデは神に心の叫びを上げたのです。 ◆ダビデは、イスラエルの歴史において音楽を伴った賛美を中心とした新しい礼拝をはじめ た人です。彼は神を賛美し、礼拝する壮大な神殿の構想を持っていました。実際にその神殿 を建てたのはダビデの子ソロモンですが、その詳細な神殿の設計図と賛美礼拝の詳細はすべ てダビデの構想です。材料さえもダビデが準備していました。ソロモンは父ダビデの構想を 47 そのまま実現したに過ぎません。ダビデの賛美礼拝は、彼が賛美することが好きだったから そうしたのではありません。そうではなく、ダビデが賛美することを誓ったからです。詩6 1篇にはそのことが記されています。 ◆この詩篇には「私の誓い」ということばが2回出てきます。5節と8節に。 「私の誓い」と は、ダビデの心が「地の果て」にあったときのものだと考えられます。その内容は「もし、 あなたがこの状況にある私の心の叫びをお聞きになり、奇跡的な、人間的には決してあり得 ない回復を与えてくださるならば、私は生涯、いや永遠にあなたを賛美しましょう」という 誓いです。 ◆不思議にも、ダビデの叫びは神に届き、アブシャロムのクーデターは失敗に終わり、神の 幕屋のあるエルサレムに復帰することができたのです。まさに「私の及びがたいほど高い岩 の上に」(2節)と願ったダビデの祈りが聞き届けられたのです。そのことで、ダビデは神の 代理者としての王の務めをますます忠実に果たしていったのです。それだけでなく、賛美に よって神を礼拝する壮大なヴィジョンを実現しようとしたのです。そうした決意の背後に、 「地の果て」におけるダビデの「誓い」があったのです。 ◆この詩篇において、神に対するダビデの誓いとは三つあります。しかもそれらはみな連動 しており、神との親しい関係を表明するものと言えます。しかもそれらはみな強制や義務で はありません。誓いが強制されたものであるならば、それは誓いとはいえません。誓いはあ くまでも自発的であるということに大きな価値があるのです。 ①神の幕屋に住むこと I will abide in Your tabernacle forever ②御翼の陰に身を避けること I will trust in the shelter of Your wings. ③主を賛美すること I will always sing praises to you; ◆日ごとに神を賛美するという誓いとは、神はいつもすばらしいお方、Good な方、いつく みし深い方であることを告白し、ほめたたえ、その方の御住まいに住み続けることです。 「日 ごとに」(Always)「いつまでも」「とこしえまでも」「とわに」「永遠に」(Forever)です。 ◆誓いは神と共に歩む者の堅い意志です。自分の神への誓いをもう一度確かめ、その誓いを 果していこうと思わせられます。 48 詩62篇 指揮者のために。エドトンによって。ダビデの賛歌 62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。 私の救いは神から来る。 62:2 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。 私は決して、ゆるがされない。 62:3 おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。 おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。 あたかも、傾いた城壁か、ぐらつく石垣のように。 62:4 まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。 彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。 セラ 62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。 私の望みは神から来るからだ。 62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。 私はゆるがされることはない。 62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。 私の力の岩と避け所は、神のうちにある。 62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。 あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。 神は、われらの避け所である。 セラ 62:9 まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。 はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。 62:10 圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。 富がふえても、それに心を留めるな。 62:11 神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。 力は、神のものであることを。 62:12 主よ。恵みも、あなたのものです。 あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。 ◆この詩62篇はきわめて明確な神への信頼の詩篇です。キー・ワードは1節にあります。 「私のたましは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」と。しかも自分に向か って語りかけています。このキー・ワードは5節でも繰り返され、8節では民に向かって呼 49 びかけています。神を待ち望むこと、それは神の主権に対する信頼です。ですからダビデは こう言っています。 「私の救いと、私の栄光とは、神にかかっている」と(7節 a)。LB 訳では 「私が守られるのも、名声を獲得するのも、神様のおこころひとつです」と。 ◆「神を信じること」、 「神を信頼すること」とは、 「神を待ち望む」こととイコールです。そ れはまた「神を恐れること」「神を愛すること」ともイコールです。ところで、「神を待ち望 む」ことは私たちが考えているほど容易なことではありません。旧約の民は、神を待ち望む ことができず、神に信頼することができずに自分の思いや考えで事をなそうとして失敗して います。 ◆神を待つということについて、新約聖書の「使徒の働き」1章で復活されたイエスがご自 分の弟子たちに語っています。 「待つ」ことはお勧めではなく主イエスの命令です。ですから その命令をないがしろにすることはできません。 ①何を(誰を)待つのか ◆それは父の約束です。その約束とは「もうひとりの助け主(聖霊)が与えられる」というこ とです。その助け主を待つことがキリストの弟子たちに求められています。その方の助けな しには私たちは何も知り得ず、神のみこころをすることができないからです。もしこの「助 け主」が私たちの上に臨まれるならば、神の力を受けます。その力とは神を知る力であり、 神をあかしすることのできる力です。しかもその力は私たちの能力を越えた力なのです。 ②どこで待つのか ◆それはエルサレムです。そこは弟子たちが主を裏切った苦い経験をした場所です。つまず きの場であり、失敗の場です。しかも周りのだれもがそれを知っている場でもあったのです。 そんな場所から弟子たちは立ち去ろうと思っていました。しかし主イエスは彼らに言いまし た。「エルサレムを離れないで・・・待ちなさい」と。そこを「動くな」「とどまって」と主 は言われます。弟子たちの名誉挽回の場所となるのは、彼らの最も醜いものが暴露された場 所でなければなりませんでした。ダビデが「黙って」(詩62篇1節)、神からの救いの手が 指し伸べられるのを待ったように、イエスの弟子たちも待つことを学ばなければなりません でした。彼らの名誉を挽回できるのは神様だけです。 ③どのようにして待つのか ◆それは「ひたすら祈りながら」です。詩62篇の「黙って」は、単に「果報は寝て待て」 の意味ではなく、神に心を注ぎ出し、神の御声を聞くことをひらすら求めながら待つという 意味です。私たちの弱さは、祈って待つことよりも、自分からなんらかの行動を起してしま いやすいことです。祈って待つことに耐えられないのです。神の前に「黙って」とは、動く ことをやめ、神の語りかけを聞くために静まることを意味しています。そうした静かな時、 沈黙の時をもつことができない私たちの生き方が問題なのです。これは神への信頼のテスト です。 ◆私もダビデのように神の主権を認め、神の御手を信じて、ただ、黙って神を待つことをし たい。そしてダビデが語ったように「私の救いと、私の栄光とは、神にかかっている」と告 白します。 50 詩 63篇 ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに 63:1 神よ。あなたは私の神。 私はあなたを切に求めます。 水のない、砂漠の衰え果てた地で、 私のたましいは、あなたに渇き、 私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。 63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、 こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。 63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、 私のくちびるは、あなたを賛美します。 63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、 あなたの御名により、両手を上げて祈ります。 63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、 私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。 63:6 ああ、私は床の上であなたを思い出し、 夜ふけて私はあなたを思います。 63:7 あなたは私の助けでした。 御翼の陰で、私は喜び歌います。 63:8 私のたましいは、あなたにすがり、 あなたの右の手は、私をささえてくださいます。 63:9 しかし、私のいのちを求める者らは滅んでしまい、 地の深い所に行くでしょう。 63:10 彼らは、剣の力に渡され、 きつねのえじきとなるのです。 63:11 しかし王は、神にあって喜び、神にかけて誓う者は、みな誇ります。 偽りを言う者の口は封じられるからです。 ◆この詩篇には実に多くの<礼拝用語>(ダビデの神に対する姿勢、行為、態度を表わす動詞 に注目)が出てくるのに驚かされます。1節から8節までになんと12の礼拝用語が見られま す。 ①「切に(朝早く)求めます」 ②「渇きます」 ③「慕います」(気を失うほどに、気も狂わんばかりに) 51 ④「仰ぎ見ます」 ⑤「賛美します」 ⑥「ほめたたえます」(生きている限り) ⑦「祈ります」(両手を上げて) ⑧「賛美します」(喜びにあふれて) ⑨「思い出します」 ⑩「思います」(⑨⑩は瞑想すること) ⑪「喜び歌います」 ⑫「すがります」 ◆これらのことばは、この詩篇の表題にもあるように「ユダの荒野」において告白されたも のです。これまでもダビデは整えられたシオンの幕屋で神を礼拝していました。しかし今や、 アブシャロムの反乱によってそうした整えられた環境から離れることを余儀なくされたので すが、ダビデはそうした環境的なものに頼ることなく、神を慕い求めたのです。ここに、ダ ビデがいかに模範的な礼拝者であったかをうかがわせます。予期せぬ出来事に出会って、神 への信仰を捨てる人もいますが、ダビデにとってそれは神との関係を深める出来事となった のです。神を礼拝することは、ダビデの「いのちの拠点」でした。 ◆予期せぬこの荒野経験は、ダビデをしてさらなる神への思いを募らせることとなったので すが、その強烈さに圧倒させられます。特に8節の「私のたましいしは、あなたにすがり、 あなたの右の手は、私をささえてくださいます。 」という確信は、その前のすべての礼拝用語 を統括するものだと信じます。 ◆「すがる」という用語は、普段あまり良い意味で使われることはありません。というのも、 くっついて離れない、執着する、固執するというイメージがあるからかもしれません。しか し神に「すがる」ということは神を喜ばせる態度です。どんな状況に陥っても神を必死の覚 悟で放すまいとすることです。あるいは、神にあって、決して希望を捨てないという態度で す。そのような者を神はどこまでも「ささえてくださる」のです。この確信を与えられたダ ビデをだれも崩すことはできません。 ◆ちなみに、旧約聖書で「すがりつく」恵みを体験した女性がいます。それはダビデの曾祖 母であるルツです。ルツはモアブ人でしたが、姑ナオミにすがりつきました。ルツはナオミ に言います。 「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あ なたの行かれる所へ、私も行き、あなたの住まわれるところに私も住みます・・・あなたの 神は私の神です。あなたの死なれるところで、私は死に、そこに葬られたいのです。」(ルツ 記1章) ルツは、ヘブル人ナオミにすがりつくことで、ナオミの信じている神にすがりつい たのです。神はこのルツをご自身の懐にしっかりと抱きかかえました。そして「はからずも」、 52 ボアズと出会い結婚し、ダビデにつながる子孫をもたらし、やがてはメシヤが生まれるとい う神の計画にあずかったのです。 ◆予期せぬ荒野の経験を通らせられたとき、私たちが主に「すがりつく」者となることは幸 いです。それはすばらしい結果をもたらすからです。ダビデの系譜はまさに「神にすがりつ く系譜」です。 ◆詩63篇に見られる荒野経験での神への強烈な思慕はダビデを変えました。それは神に対 してだけでなく、周りの人々に対する対応において彼を寛容な人に変えました。それは敵に 対してもそうでした。サムエル記第二19章14節はその結果が記されています。 「こうして ダビデは、すべてのユダの人々をあたかもひとりの人の心のように自分になびかせた」と。 ◆まず自分に背いたアブシャロムに対して部下たちに「手心を加えるよう」に命じました(Ⅱ サムエル18章5節)。次に、都落ちを余儀なくされた自分を呪ったサウル家の一族のシメイ は、やがてダビデが返り咲いてエルサレムに帰還した折に、自分の罪を謝罪しました。する とダビデは彼を赦したのです。また、アブシャロムについてその軍団長となったアマサに対 しては、ダビデは彼を殺すことなく、自分の軍の将校に取り立てました(同、19章13節)。 また、ダビデとその一行を養ったギルアデ人のバルジライに対しては最高の境遇で迎えよう としました(同、19章31節以降)。 ◆ダビデのこのような計らいはユダのすべての人々の目に麗しく映ったと思われます。ダビ デはアブシャロムの反乱の出来事を通して、清濁併せ呑む王として、寛容な王としてそのリ ーダーシップを発揮することとなったのです。実に、ダビデは私たちにとって学ぶべき多い 神の器であることをあらためて思わせられます。 53 詩64篇 指揮者のために。ダビデの賛歌 64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。 恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。 64:2 悪を行う者どものはかりごとから、 不法を行う者らの騒ぎから、私をかくまってください。 64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、 苦いことばの矢を放っています。 64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、 不意に射て恐れません。 64:5 彼らは悪事に凝っています。 語り合ってひそかにわなをかけ、 「だれに、見破ることができよう」と言っています。 64:6 彼らは不正をたくらみ、 「たくらんだ策略がうまくいった」 と言っています。 人の内側のものと心とは、深いものです。 64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、 彼らは、不意に傷つきましょう。 64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。 彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。 64:9 こうして、すべての人は恐れ、 神のみわざを告げ知らせ、 そのなさったことを悟ります。 64:10 正しい者は【主】にあって喜び、 主に身を避けます。 心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。 ◆詩篇の中にはしばしば繰り返される真理があります。それは、神を恐れず、神に敵対する 者がたどる「自滅の原則」です。悪をはかる者はやがて自分の罠にはまるというこう原則で す。ダビデもそうした原則を自分の生涯の中でしばしば経験してきました。聖書の中にも、 モルデカイを陥れようとしたハマン(エステル記)や、ダニエルを陥れようとした敵がその良 54 い例です。 ◆今回の詩 64 篇8節だれでなく、詩 7 篇 14~16 節、27 篇 2 節、63 編 9~10 節にも同じ く、「自滅の原則」が述べられています。 ◆自分の高慢な言葉、つまり、悪事をたくらむ者たちが、互いに知恵を絞って策略を巡らし、 その結果、 「だれも、見破られない」と言っている高慢な姿は、やがてそのしっぽを掴まれる 運命にあります。この詩篇 64 篇は、時代劇(たとえば、「水戸黄門」)で、必ずや、秘密の談 合が確認され、やがてしっぽを掴まれて、悪が明るみに出される、そんなシーンを思い起こ させる詩篇です。 ◆今日、巷をにぎわす悪事のニュースのネタは事欠かないほどである。悪事はどこでどうば れるのかわからないが、詩篇 64 篇3節では、 「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、 苦いことばの矢を放っています」とある。これに対して、神も同じく、不意に、矢をもって 彼らに射掛けられるのである。その結果、 「彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとし た」(8節)結果に陥る。ひそかに計画めぐらして安全だとするのは妄想である。神は隠れた ものを、ことごとく明るみに出される方です。 ◆だれにも見破られないように、どんなに周到な陰険な計画が準備がされていても、その悪 事は必ずや神によって明るみに出される時が来る。その時は、7節にあるように「不意に」(新 改訳)、あるいは「突如」(ATD)です。 ◆この詩篇の主題は、悪は必ず自滅するという原則の存在です。それゆえ、すべての者が神 を恐れて生きなければならないということです。また、悪に対する防御法は、主に身を避け ることしかないことも教えられます(10 節)。 55 詩65篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。歌 65:1 神よ。あなたの御前には静けさがあり、 シオンには賛美があります。 あなたに誓いが果たされますように。 65:2 祈りを聞かれる方よ。 みもとにすべての肉なる者が参ります。 65:3 咎が私を圧倒しています。 しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。 65:4 幸いなことよ。 あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。 私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。 65:5 私たちの救いの神よ。 あなたは、恐ろしい事柄をもって、義のうちに私たちに答えられます。 あなたは、地のすべての果て果て、遠い大海の、信頼の的です。 65:6 あなたは、御力によって山々を堅く建て、力を帯びておられます。 65:7 あなたは、海のとどろき、その大波のとどろき、 また国々の民の騒ぎを静められます。 65:8 地の果て果てに住む者も あなたの数々のしるしを恐れます。 あなたは、朝と夕べの起こる所を、 高らかに歌うようにされます。 65:9 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。 神の川は水で満ちています。 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、 彼らの穀物を作ってくださいます。 65:10 地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、 夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。 65:11 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、 あなたの通られた跡にはあぶらがしたたっています。 65:12 荒野の牧場はしたたり、 もろもろの丘も喜びをまとっています。 65:13 牧草地は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をおおいとしています。 まことに喜び叫び、歌っています。 56 ◆この詩篇の1節はいろいろな聖書が実に様々に訳しています。新共同訳では「沈黙してあ なたに向かい、賛美をささげます」と訳しています。ボンフェッファーハ「神よ、人はシオ ンにて、沈黙してあなたをほめたたえるであろう」と訳しています。いずれにしても、沈黙 の賛美があることがわかります。沈黙の中で、神に選ばれ、赦され、引き寄せられ、神の家 に住むその喜びを感謝しながら神を賛美している姿が見えてきます。 ◆さて、1 節に「神よ。あなたの御前には静けさ(沈黙)があり、シオンには賛美があります。 あなたに誓いが果たされますように」(新改訳)とありますが、この詩篇の作者であるダビデ は、かつて神に「賛美の誓い」をしていたことがわかります。「賛美の誓い」には、「主が私 に良くして下さった」という恵みの事実がその背景にあります。ダビデは賛美が好きだった から賛美するのではありません。いつでも神を賛美することを誓ったから賛美するのです。 ダビデは自分が「肉なる者」に過ぎないことを自覚していました。「肉なる者」とは、弱く、 もろく、貧しく、罪深く、神にそむく者でしかないという自己認識です。しかしそのような 者が、神に「赦され」、「選ばれ」(指名され)、「引き寄せられ」、主と共に「住む」者とされ たのです。特に、2 節「 「咎が私を圧倒しています」とあるように、自分の犯した罪で苦しみ、 その罪責感で自分が押しつぶされるような者であったとしても、神はその者の罪を赦される のです。罪責感から解放されるだけでも幸せ者ですが、神の恵みは無尽蔵なのです。そうし た幸いを、ダビデは深く感じ入って、かつてなした賛美の誓いが果たされるようにと祈って いるのです。 ◆「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たち はあなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。 」(4 節)こそこの詩篇の キー・ワードです。 「良いもので満ち足りる」ことです。 「良いもの」とは、神の豊かさ(the riches) です。その豊かさに満ち足りる者こそ、ほんとうに幸いな者だというのです。 ◆神の「良いもので満ち足りる」その幸せを一つの絵にしたとしたら、こんな感じになるの ではというのが後半の部分(9~13節)です。そこには自然界を通して表わされる神の恵みの 無尽蔵な豊かさを水(川)にたとえています。神の訪れは、いのちの水が注がれることを通し て表わされます。その水は雨となり、堅くなった地を柔らかくします。また山に降った雨は 地にしみ込み、川となって流れます。荒野は豊かな牧草地となり、もろもろの谷は豊かな穀 物をもたらします。羊も人も共に喜び叫びます。ダビデはそれを「あなたの通られた跡には、 あぶら(the riches)がしたたっています」(11 節)と表現しました。 「あぶら」とは、 「喜びの油」、 つまり「満ち足りた喜び」のことでしょう。それが「したたっている」のです。なんとすば らしい表現でしょうか。このリッチ感覚。 ◆新約聖書にも、そうした満ち足りた喜びを伝えようとしたした人がいます。それは使徒パ ウロです。彼は生涯の終わりにローマの獄中から教会に宛てていくつかの手紙を書きました が、その中のピリピ人への手紙は、まさに「喜びの手紙」と言われています。彼は言ってい ます。 「・・私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中に 57 いる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えること にも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」と(ピリ ピ 4 章 11~13 節)。パウロはここで大切なことを言っています。それは「「満ち足りること を学んだ」と。 「学ぶ」とは訓練が必要だということです。秘訣を会得することの必要性を訴 えています。 ◆パウロがピリピの人々に伝えようとしたのは「満ち足りる喜び」でした。第一の喜びは< 環境に支配されない喜び>です。パウロは獄中の中です。すべての活動はできません。束縛 されていますが、束縛できないものがあります。それは主にある喜びです。その環境の中で、 パウロは神の恵みの豊かさを心ゆくまで味わい、福音の真髄を手紙にまとめることができま した。それが今、聖書の中に残されているのです。もし彼が獄中の身とならなかったとした ら、その手紙は存在しなかったかも知れません。 ◆第二の喜びは<人の存在に支配されない喜び>です。私たちはややもすると、人の言った 事、人がすることで左右され、あるいはそのことで傷を受けたりしやすい者です。人の存在 に脅かされない秘訣があります。それを会得しなればなりません。 ◆第三の喜びは<持ち物に支配されない喜び>です。能力や才能、地位や立場、持っている ものを人と比較することで心に妬みを抱いてしまうことがあります。しかし、そうしたもの で支配されない秘訣があります。それを体得しなければなりません。 ◆第四の喜びは<思い煩いに支配されない喜び>です。この病にかかるとなかなか立ち直れ ません。すべてか悪い方向に考えてしまいます。心が休まりません。安眠できません。いつ も心配です。しかしそうした心に支配されない秘訣があります。 ◆その秘訣とはなんでしょう。パウロはこう言っています。 「私は、私を強くしてくださる方 によって、どんなことでもできる(対処できる)のです。 ・・・また私の神は、キリスト・イエ スにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」 ◆私たちもひとりひとり神の「良いもので満ち足りること」ができます。それは神の愛と恵 みに基づく交わりによってもたらされる満足です。それはお金では決して得ることができま せん。人が与えることのできるものではないからです。 ◆最後に祈ります。 「主なる神さま。あなたによって私の心が満たされますように。そしてあ なたによって、貧しさの中にいるときも、豊かさの中にいるときも、どんな境遇にあっても それに対処できますように。いつもあなたにあって、しあわせだなぁと感じる心をもつこと ができるようにしてください。」 58 詩66篇 指揮者のために。歌。賛歌 66:1 全地よ。神に向かって喜び叫べ。 66:2 御名の栄光をほめ歌い、神への賛美を栄光に輝かせよ。 66:3 神に申し上げよ。 「あなたのみわざは、なんと恐ろしいことでしょう。 偉大な御力のために、あなたの敵は、御前にへつらい服します。 66:4 全地はあなたを伏し拝み、 あなたにほめ歌を歌います。 あなたの御名をほめ歌います。」 セラ 66:5 さあ、神のみわざを見よ。 神の人の子らになさることは恐ろしい。 66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。 人々は川の中を歩いて渡る。 さあ、私たちは、神にあって喜ぼう。 66:7 神はその権力をもってとこしえに統べ治め、その目は国々を監視される。 頑迷な者を、高ぶらせないでください。 セラ 66:8 国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。 神への賛美の声を聞こえさせよ。 66:9 神は、私たちを、いのちのうちに保ち、 私たちの足をよろけさせない。 66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、 銀を精錬するように、私たちを練られました。 66:11 あなたは私たちを網に引き入れ、 私たちの腰に重荷をつけられました。 66:12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。 私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。 しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。 66:13 私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、 私の誓いを果たします。 66:14 それは、私の苦しみのときに、私のくちびるが言ったもの、 私の口が申し上げた誓いです。 66:15 私はあなたに肥えた獣の全焼のいけにえを、 雄羊のいけにえの煙とともにささげます。 雄牛を雄やぎといっしょに、ささげます。 セラ 66:16 さあ、神を恐れる者は、みな聞け。 59 神が私のたましいになさったことを語ろう。 66:17 私は、この口で神に呼ばわり、 この舌であがめた。 66:18 もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。 66:19 しかし、確かに、神は聞き入れ、私の祈りの声を心に留められた。 66:20 ほむべきかな。神。 神は、私の祈りを退けず、御恵みを私から取り去られなかった。 ◆この詩篇は「賛美への呼びかけ」です。しかも全地に呼びかけられています。前篇(65篇) が沈黙の賛美であるならば、66篇は、爆発的な賛美です。喜びの叫び(Shout of joy, The joyful shout)です。この詩篇はおそらく神の民がバビロンの捕囚から解放されてエルサレム に帰還し、神殿を建設して、かつてなされていたダビデの幕屋、およびソロモン神殿での賛 美礼拝を復活させた頃のものと思われます。「神への賛美を栄光に輝かせよ!」これが帰還し た民たちのなすべきことでした。 ◆ところで、 「神への賛美を栄光に輝かせる」とはいったいどういうことなのでしょうか。そ の意味を瞑想してみましょう。 ◆第一に、神が過去になされた偉大なみわざを想起することです。以下の出来事は、いずれ も神にしかできない奇跡でした。 ①出エジプトのみわざ(6節前半) ②ヨルダン渡河のみわざ(6節後半) ③バビロンからの帰還のみわざ(9~12節) ◆第二は、神のみわざの前に置かれていた苦しみの状況を想起することです。上記の①②③ の神のみわざは、イスラエルの歴史におけるきわめて重要な出来事ですが、その背景には人 間的な罪による失意や失態、不信工による苦しみの叫びがあります。しかし神は、その叫び をお聞きになり、神のみわざの恵みが証されているのです。たとえば、①の背景を思い起こ してみましょう。神はモーセを80歳にして神の民をエジプトから脱出させ、約束の地へと 行かせるための指導者として召し出しました。彼が神の言われるようにエジプトに行き、パ ロにその要求を告げた時、民たちの苦しみはそれまで以上に苦しいものとなりました。その ため、民たちはモーセの言うことを信用しなくなりました。にもかかわらず、神は民の苦し みの叫びを退けませんでした。過越の出来事(すべての初子が死ぬ)というさばきによって、 エジプトの王パロはヘブル人たちをエジプトから解放しました。しかしすぐに追いかけまし た。神は立ちふさがる紅海を二つに分け、民たちを渡らせたあと、追ってきたエジプト軍を 壊滅させたのです。 60 ◆②のヨルダン渡渉の出来事の前の40年間は荒野の訓練がありました。これは神の約束に 対する不信仰の結果でした。ヨシュアとカレブ以外はみな死に絶えました。第二世代になっ て新しく神の約束を受け取るべく信仰の戦いを求められたのです。その最初の一歩がヨルダ ン渡渉で、祭司たちが一歩足を踏み入れたその時に、川の流れは止りました。そこで民たち はヨルダン川を渡ることができました。 ◆③の出来事の背景には、神の民の霊的姦淫、つまり偶像礼拝によって神の民はバビロンに 捕らえ移されました。それは神の民にとって屈辱的な出来事でした。これは神の民を新しく するための神の配剤でした。人々はこの試練を通して、 「神よ。まことに、あなたは私たちを 調べ、銀を精錬するように、私たちを練られました」(10 節)と受け止めることができました。 ◆第三は、苦しみの状況の中で、涙をもって悔い改め、新しい決断(誓い)へと導かれること です。 幸いにも、バビロン捕囚の屈辱は神の民に悔い改めの実をもたらしました。18 節の「もしも 私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」とあるように、少なくとも 作者は神への悔い改めへと導かれました。そして生涯、神に仕えていくことを、最高のささ げものをもって神を礼拝することを約束(誓約)したのです(13 節)。15 節の「全焼のいけにえ」 とは、神への感謝のささげものの中で最高のものを意味します。 ◆第四は、神の恵みに感謝することです。苦しみの状況はすべて人間側の罪がもたらした結 果だったにもかかわらず、神は彼(彼ら)の祈りを退けず、御恵みを取り去ることはありませ んでした。20 節に「ほむべきかな。神。神は、私の祈りを退けず、御恵み(constant love) を私から取り去らなかった。」とあります。この思いこそ、神への賛美を栄光に輝かす上で大 切なことです。神のすばらしさは、いつも私たち人間の罪の現実に対して、恵みをもってか かわってくださることです。この感動こそ、神への賛美にいのちと輝きを与えるものです。 ◆イエス・キリストの十字架の出来事。それは、私たち人間の深い罪の現実が最も顕わにさ れた出来事でした。イエスを十字架につけた直接的な人々は、当時、最も神を敬う者とされ ていた人々だったのですから。しかしイエスは「彼らをお赦しください。彼らは自分がなに をしているのかわからずにいるのです。」と祈られました。そのイエスのとりなしの祈りを父 はお聞きになりました。神の変わることのない愛が、人間の罪のどん底で現わされたのです。 その驚くべき愛に触れた者がささげる賛美こそ力があります。「神への賛美を栄光に輝かせ よ」との命令は、結局のところ、恵みに満ちた神のご介入なしにはあり得ないのです。 ◆私はこう祈ります。 「主よ。あなたにいつも生きた賛美を通して、あなたを礼拝する者としてください。 パフォーマンスの賛美ではなく、感謝にあふれた賛美を通して、 あなたがどんなにすばらしいお方であるかがあかしされますように。 」 61 詩67篇 指揮者のために。弦楽器によって。賛歌。歌 67:1 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、 御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。 セラ 67:2 それは、あなたの道が地の上に、 あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。 67:3 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、 国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。 67:4 国民が喜び、また、喜び歌いますように。 それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。 セラ 67:5 神よ。国々の民があなたをほめたたえ、 国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。 67:6 地はその産物を出しました。 神、私たちの神が、私たちを祝福してくださいますように。 67:7 神が私たちを祝福してくださって、 地の果て果てが、ことごとく神を恐れますように。 ◆「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださるよ うに。」(1節) これがこの詩篇のキー・ワードです。6節にも、そして7節にも「祝福して ください」ということばが出てきます。人称は「私たち」(複数)となっていますが、 「私」単 数)に置き換えることもできます。 ◆この1節を一言で言うなら、 「私を祝福してください」という祈りです。何のために、それ は神の祝福が多くの人々に分かち与えられるためです。この祈りの背景には、自分(たち)が 神の祝福の種として、あるいは祝福の基として神に選ばれているという明確な自覚がありま す。 「すべてのことが神から始まり、神によって、神へと至る」のですが、その担い手として の自覚と責任をもって神の祝福を願い求めているのです。 ◆この詩67篇は有名な「ヤベツの祈り」(Ⅰ歴代誌4章9~10 節)の詩篇版と言えます。 「ヤ ベツの祈り」とは、以下の祈りです。「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を 大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいか ら遠ざけて私が苦しむことがないようにしてくださいますように。』 」 62 ◆聖書の中で最初に祝福されたのはアブラハムでした。神は彼に対して「わたしはあなたを 祝福する」と約束されました。それだけでなく、人々が「あなたによって祝福される」(創世 記12章3節)とも語られました。神の祝福は単なる個人でとどまることなく、よりグローバ ルに拡大し、流れていくものです。一人の者が受けた祝福は他の人々にそれが分かち与えら れ、巡り巡って何倍にもなって最初の所に帰ってきます。帰ってきた祝福は、さらに勢いを 増して流れ出します。これが祝福のダイナミズム、祝福の循環といわれるものです。これは 私たちに大いなるチャレンジを与えます。目を見張るような神の救いのみわざを見るために、 「どうが、私を祝福してください」と大胆に祈りましょう。まず、私が祝福されなければな りません。私たちの神は祝福の神ですが、それを私たちが大胆に祈り求めることを神は願っ ておられるのです。なぜなら、「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから」(ペ テロ第一3章9節)です。 ◆ところで「ヤベツの祈り」はどうなったでしょう。 「・・・そこで神は願ったことをかなえ られた」のでした。 この詩67篇にある祝福の目的が記されています。 ①神の救いがすべての国々の間に知られるため (2節) ②国々の民がこぞって神をほめたたえるようになるため (3節) ③地の果てが神を恐れるようになるため (7節) (祈り) 「主よ。私をあわれみ、私を祝福してください。私の地境を広げてください。それはあなた の祝福を人々に分かち与えるためです。」 63 詩68篇 指揮者のために。ダビデの賛歌。歌 68:1 神よ。立ち上がってください。 神の敵は、散りうせよ。 神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。 68:2 煙が追い払われるように彼らを追い払ってください。 悪者どもは火の前で溶け去るろうのように、神の御前から滅びうせよ。 68:3 しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。 喜びをもって楽しめ。 68:4 神に向かって歌い、御名をほめ歌え。 雲に乗って来られる方のために道を備えよ。 その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。 68:5 みなしごの父、やもめのさばき人は 聖なる住まいにおられる神。 68:6 神は孤独な者を家に住まわせ、捕らわれ人を導き出して栄えさせられる。 しかし、頑迷な者だけは、焦げつく地に住む。 68:7 神よ。あなたが御民に先立って出て行かれ、 荒れ地を進み行かれたとき、 セラ 68:8 地は揺れ動き、天もまた神の御前に雨を降らせ、 シナイもイスラエルの神であられる神の御前で震えました。 68:9 神よ。あなたは豊かな雨を注ぎ、 疲れきったあなたのゆずりの地をしっかりと立てられました。 68:10 あなたの群れはその地に住みました。 神よ。あなたは、いつくしみによって悩む者のために備えをされました。 68:11 主はみことばを賜る。 良いおとずれを告げる女たちは大きな群れをなしている。 68:12 万軍の王たちは逃げ去り、また逃げ去る。 そして家に居残っている女が獲物を分ける。 68:13 あなたがたは羊のおりの間に横たわるとき、銀でおおわれた、鳩の翼。 その羽はきらめく黄金でおおわれている。 68:14 全能者が王たちをかしこで散らされたとき、ツァルモンには雪が降っていた。 64 68:15 神の山はバシャンの山。 峰々の連なる山はバシャンの山。 68:16 峰々の連なる山々。 なぜ、おまえたちは神がその住まいとして望まれたあの山を、ねたみ見るのか。 まことに、【主】はとこしえに住まわれる。 68:17 神のいくさ車は幾千万と数知れず、主がその中に、おられる。 シナイが聖の中にあるように。 68:18 あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、 人々から、みつぎを受けられました。 頑迷な者どもからさえも。 神であられる主が、そこに住まわれるために。 68:19 ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。 私たちの救いであられる神。 セラ 68:20 神は私たちにとって救いの神。 死を免れるのは、私の主、神による。 68:21 神は必ず敵の頭を打ち砕かれる。 おのれの罪過のうちを歩む者の毛深い脳天を。 68:22 主は仰せられた。 「わたしはバシャンから彼らを連れ帰る。わたしは海の底から連れ帰る。 68:23 それは、あなたが、足を血に染めて、彼らを打ち砕くために。 あなたの犬の舌が敵からその分け前を得るために。」 68:24 神よ。人々は、あなたの行列を見ました。 聖所でわが王わが神の行列を。 68:25 歌う者が先に立ち、楽人があとになり、 その間にタンバリンを鳴らしておとめらが行く。 68:26 「相つどうて、神をほめたたえよ。 イスラエルの泉から出た者よ。【主】をほめたたえよ。」 68:27 そこには、彼らを導く末子のベニヤミンがおり、 その群れの中にはユダの君主たち、ゼブルンの君主たち、ナフタリの君主たちもいる。 68:28 神よ。御力を奮い起こしてください。 私たちのために、事を行われた神よ。御力を示してください。 68:29 エルサレムにあるあなたの宮のために、王たちは、あなたに贈り物を持って来ましょう。 65 68:30 葦の中の獣、それに、国々の民の子牛とともにいる雄牛の群れを、叱ってください。 銀の品々を踏み汚す戦いを喜ぶ、国々の民を散らしてください。 68:31 使節らはエジプトから来、クシュはその手を神に向かって急いで差し伸ばす。 68:32 この世の王国よ。神に向かって歌え。 主に、ほめ歌を歌え。 セラ 68:33 昔から、いと高き天に乗っておられる方に向かい、ほめ歌を歌え。 聞け。神は御声を発せられる。力強い声を。 68:34 神の力を認めよ。 みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。 68:35 神よ。あなたはご自身の聖なる所におられ、恐れられる方です。 イスラエルの神こそ力と勢いとを御民にお与えになる方です。 ほむべきかな。神。 ◆この詩篇の冒頭には敵に対する命令の祈りが記されています。 「神の敵は、散り失せよ。神 を憎む者どもは御前から逃げ去れ。悪者どもは・・神の御前から滅び失せよ。」 ◆「散り失せよ」 「逃げ去れ」 「滅び失せよ」 ・・これが敵に対する命令です。どんな根拠によ ってその命令が力を持つかといえば、それは「神が立ち上が」られるからです。 「神よ。立ち 上がってください。 ・・・」(1節)というフレーズは、本来、神が神の民が荒野を行進する際 に、神の臨在を象徴する「契約の箱」が出発するたびにモーセが語っていた言葉です。民数 記10章35節を参照。 ◆この詩68篇の歴史的背景として、ダビデはイスラエル全体の王として君臨するときに「契 約の箱」をエルサレムに移動したときのことが考えられます。このことによってエルサレム が神の民の中心となりました。ダビデは周囲の敵を滅ぼし、勝利をもたらしました。その様 子が 20~27 節に記されています。ダビデの功績の一つはイスラエルの 12 部族を統一した ことです。その北方の部族の代表(ゼブルン、ナフタリ)と、南方部族の代表(ベニヤミン、ユ ダ)の名が 27 節に出てきます。彼らは神の民が一つに集う聖所に神をお迎えするという共通 の、そして永遠の目的があったのです。「相つどうて、神をほめたたえよ」(26 節)。これが その目的でした。 ◆神の民はその歴史の中で、常に敵との戦いを余儀なくされましたが、その都度、神は圧倒 的な勝利をもたらせました。そのことが7~10節に記されています。出エジプトの際にも、 また荒野においても、神が御民に先立って出て行かれ、勝利をもたらしました。また8節は 66 約束の地カナンにおいての戦いです。女預言者デボラとバラクの時代に敵であるカナンのシ セラは戦車九百両でイスラエルに立ち向かってきました。そのとき、神は雨を降らせ、それ らの戦車をすべて使い物にならないようにしました。そのようにして神は勝利をもたらしま した。そして今やダビデの時代、神は、 「契約の箱」をエルサレムのシオンに持ち運び、そこ で神を礼拝しようとしたダビデを通して勝利をもたらし、周囲の国々を支配させました。 「ほ むべきかな。日々、私たちのために、重荷を担われる主。私たちの救いであられる神。」(1 9節)とありますが、ここでの「重荷」とは、敵との戦いのことです。ここでダビデははっき りと勝利を宣言しています。 「神は必ず敵の頭を打ち砕かれる」と。この日々の神にある勝利 宣言こそ信仰者にとって大切なのです。 ◆さらに、この詩篇では終末的な究極の勝利についても言及されています。それが 28~34 節です。来るべきハルマゲドンの戦い、千年王国の到来、その中心地がエルサレムです。す べての諸国民はエルサレムにやってきて、神を礼拝するときが来ます。それゆえ私たちは神 による大勝利を確信していなければなりません。そして日々、イエスの御名によって勝利を 宣言し、その勝利を自分のものとして感謝していく必要があります。私たちが神を賛美する とき、そうした主の勝利を敵に対して宣言すると共に、命令によって敵の敗北をも宣言しな ければならないのです。これを、日々実践することこそ信仰の戦いだと信じます。 ◆この詩篇でもうひとつ大切なことは、メシヤについての言及があることです(メシヤ詩篇に ついて69篇で再度、取り上げたいと思います)。その現況の箇所は18節です。 「あなたは、 いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々からみつぎを受けられました。 ・・・・」 この聖句を新約聖書でパウロは、イエス・キリストの昇天と着座についての説明として引用 しています。エペソ人への手紙4章8節。 「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連 れ、人々に賜物を分け与えられた。」。ここでは、主は、勝ち誇る将軍のように、捕虜となっ ていた者たちを救い出し、彼らを凱旋パレードに伴われます。主は戦利品である賜物をご自 分の軍勢に分け与えてくださるのです。 (祈り) 「主よ。あなたの勝利を感謝いたします。いつの時代においても、あなたはご自身の民に勝 利をもたらしてこられました。その戦いの勝敗はすでに十字架と復活の出来事によって決定 づけられていますが、今尚その戦いは続きます。私たちは主のからだである教会を通して、 信仰の戦いを勝ち取っていく者となります。そしてこの詩68篇のように宣言いたします。 『神の敵は、散り失せよ。神を憎む者どもは御前から逃げ去れ。悪者どもは・・神の御前か ら滅び失せよ。」』と」 67 詩69篇 指揮者のために。「ゆりの花」の調べに合わせて。ダビデによる 69:1 神よ。私を救ってください。 水が、私ののどにまで、入って来ましたから。 69:2 私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。 私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。 69:3 私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、 私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。 69:4 ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、私を滅ぼそうとする者、 偽り者の私の敵は強いのです。 それで、私は盗まなかった物をも返さなければならないのですか。 69:5 神よ。あなたは私の愚かしさをご存じです。 私の数々の罪過は、あなたに隠されてはいません。 69:6 万軍の神、主よ。あなたを待ち望む者たちが、 私のために恥を見ないようにしてください。 イスラエルの神よ。あなたを慕い求める者たちが、 私のために卑しめられないようにしてください。 69:7 私は、あなたのためにそしりを負い、 侮辱が私の顔をおおっていますから。 69:8 私は自分の兄弟からは、のけ者にされ、 私の母の子らにはよそ者となりました。 69:9 それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、 あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。 69:10 私が、断食して、わが身を泣き悲しむと、 それが私へのそしりとなりました。 69:11 私が荒布を自分の着物とすると、 私は彼らの物笑いの種となりました。 69:12 門にすわる者たちは私のうわさ話をしています。 私は酔いどれの歌になりました。 69:13 しかし【主】よ。この私は、あなたに祈ります。 神よ。みこころの時に。 あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。 69:14 私を泥沼から救い出し、私が沈まないようにしてください。 私を憎む者ども、また大水の底から、私が救い出されるようにしてください。 68 69:15 大水の流れが私を押し流さず、深い淵は私をのみこまず、 穴がその口を私の上で閉じないようにしてください。 69:16 【主】よ。私に答えてください。 あなたの恵みはまことに深いのです。 あなたの豊かなあわれみにしたがって私に御顔を向けてください。 69:17 あなたのしもべに御顔を隠さないでください。 私は苦しんでいます。早く私に答えてください。 69:18 どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。 私の敵のゆえに、私を贖ってください。 69:19 あなたは私へのそしりと、私の恥と私への侮辱とをご存じです。 私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。 69:20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。 私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。 慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。 69:21 彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、 私が渇いたときにはすを飲ませました。 69:22 彼らの前の食卓はわなとなれ。 彼らが栄えるときには、それが落とし穴となれ。 69:23 彼らの目は暗くなって、見えなくなれ。 彼らの腰をいつもよろけさせてください。 69:24 あなたの憤りを彼らの上に注いでください。 あなたの燃える怒りが、彼らに追いつくようにしてください。 69:25 彼らの陣営を荒れ果てさせ、彼らの宿営には だれも住む者がないようにしてください。 69:26 彼らはあなたが打った者を迫害し、 あなたに傷つけられた者の痛みを数え上げるからです。 69:27 どうか、彼らの咎に咎を加え、 彼らをあなたの義の中に入れないでください。 69:28 彼らがいのちの書から消し去られ、 正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。 69:29 しかし私は悩み、痛んでいます。 神よ。御救いが私を高く上げてくださるように。 69:30 私は神の御名を歌をもってほめたたえ、 神を感謝をもってあがめます。 69 69:31 それは雄牛、角と割れたひづめのある若い雄牛にまさって 【主】に喜ばれるでしょう。 69:32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。 神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。 69:33 【主】は、貧しい者に耳を傾け、 その捕らわれ人らをさげすみなさらないのだから。 69:34 天と地は、主をほめたたえよ。 海とその中に動くすべてのものも。 69:35 まことに神がシオンを救い、ユダの町々を建てられる。 こうして彼らはそこに住み、そこを自分たちの所有とする。 69:36 主のしもべの子孫はその地を受け継ぎ、 御名を愛する者たちはそこに住みつこう。 ◆詩69篇には、作者が経験した事柄の中にイエス・キリストに当てはめられている箇所が 三箇所あります。 ①4節の「ゆえなく私を憎む者は・・」。これはヨハネの福音書15章24、25節に「『彼 らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることが成就するためです。」(理 由なしにとは、不法にという意味です。憎む理由は確かにあったのです。それは妬みによる ものです)と引用されています。 ②9節の「それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす。 」 これはヨハネの福音書2章 17節で引用されます。神を思う熱心さが苦しみを引き起こすという意味です。 ③21節「彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え(口語訳では「毒を入れ」)、私が渇くと きには酢を飲ませました。」。これは福音書のすべてが引用しています。マタイ 27:34,48、マ ルコ 15:36、ルカ 23:36、ヨハネ 19:28~30。「食物」とは生きるに必要なエネルギーです。 人からの励ましや慰めをも意味します。それを最も必要とする時に、人々はその食物に毒を 入れたのです。 ◆さて、今朝の詩69篇のキー・ワードは「そしり」です。そのことばがなんと6回も出て きます。「そしり(謗り、誹り、譏り、讒り)」とは、人を非難し、けなし、悪しざまに言う 言葉です。そしられることで、私たちはしばしば掻き乱され、傷つけられます。私たちがそ しりによって翻弄されると、肉の思いによって反応し、新たな混乱と罪を生じる言動となり ます。そしりとは、今日で言う陰湿な「いじめ」です。 ◆1節から12節まで、作者(ダビデ)は精神的な苦痛を神に訴えています。 ①〔状況〕 「水が、私ののどにまで、入ってきました。」 「私は深い泥沼に沈み、足がかりもあ 70 りません。私は大水のそこに陥り、奔流が私を押し流しています。」 ②〔理由〕「ゆえなく私を憎む」「あなた(神)のためにそしりを受けている」 ③〔相手〕 「敵(神をそしる者)」 「自分の家族・兄弟」 「門に座る者たち」(社会的に地位のある 人々)「酔いどれ」 ◆13節からは、このそしりから救い出してほしいとの嘆願がなされています。そして再度、 窮状が神に訴えられます。 「そしりが私の心を打ち砕き、私はひどく病んでいます。」と。(20 節) ◆「ひどく病んでいる」という部分は、口語訳では「わたしは望みを失いました」 新共同 訳では「わたしは無力になりました。」 LB 訳では「ふさぎの虫になりました。」と訳されて います。しかも、だれも同情してくれる者はいない。慰めてくれる者もいない。私の心の苦 しみをわかってくれる者は誰もいないという孤独が追い討ちをかけます。それどころか、 「私 の食物(生きるエネルギーとなる同情や慰め)の代わりに、苦味を与え(毒を入れ)、私が渇いた 時には酢を飲ませた」と。まさに、生きるすべての力を奪う、それが「そしり」の恐ろしさ です。イエス・キリストもこの経験を受けられたのです。 ◆今日の日本でも、多くのいじめが学校で、職場で横行しています。そして人を死―精神的 な死もふくめてーに追いやっている現実があります。このいじめの問題は、教育、行政、道 徳では解決することができません。なぜなら、その陰湿さは人間のもつ罪に深く起因してい るからです。 ◆「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。」という詩篇があ りますが、人間の力では助けは不可能です。理解してもらおうと、言葉数を増やし、どれほ どの知恵や知識や論法を駆使したとしても、ただ疲労を深めるだけです。神の助けが必要で す。また、私たちがいじめ(そしり)に対して正しく対応するためには、神の訓練が必要なの です。Ⅱサムエル記16章5節~14節には、ダビデのそしりに対する神の訓練が記されて います。ダビデの訓練は、そしる者の心の内を理解することでした。そして、そしる者にも 実は心の傷があることを知ることでした。そうした現実の中に神のメッセージを受け取るこ と、ここに神の訓練があると思います。 ◆最後に、詩69篇29節の「・・わたしは悩み、痛んでいます。神よ。御救いが私を高く 上げてくださるように」は重要なキー・ワードだと信じます。それは、神こそ私たちの究極 的な救いであることを告白することばだからです。神以外に、そしりの問題、いじめの問題 に対処する力はないと信じます。どんなに社会正義に訴えたとしても、それによっては心に 受けた傷は癒えません。イエス・キリストの十字架の苦しみと復活の事実こそ、すべての解 決の光だと信じます。 71 詩70篇 指揮者のために。ダビデによる。記念のために 70:1 神よ。私を救い出してください。 【主】よ。急いで私を助けてください。 70:2 私のいのちを求める者どもが、恥を見、はずかしめを受けますように。 私のわざわいを喜ぶ者どもが退き卑しめられますように。 70:3 「あはは」とあざ笑う者どもが、 おのれの恥のためにうしろに退きますように。 70:4 あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。 あなたの救いを愛する人たちが、 「神をあがめよう」と、いつも言いますように。 70:5 私は、悩む者、貧しい者です。 神よ。私のところに急いでください。 あなたは私の助け、私を救う方。 【主】よ。遅れないでください。 ◆詩 70 篇は、詩 40 篇の最後の部分とほぼ同じです。内容的には同じでも、よく見ると(同 じ聖書でも)、微妙に表現が異なっていますが、ここではそうした違いに目をとめず、より大 切なところに目を留めたいと思います。それは4節の「あなたを慕い求める人がみな、あな たにあって楽しみ、喜びますように」という祈りです。 「神にあって楽しみ、喜ぶ」という関 わりの世界が存在するのです。 ◆ユダヤ人の哲学者マルチン・ブーバーは、自著『対話的原理』の中で、この世界には二つの 関係しか存在しないと言いました。ひとつは「我-汝」のかかわり、もう一つは「我―それ」 の関係です。そして人類は「我―それ」のしがらみから解放され、「我-汝」の関係に生きる ことを切望すべきことを訴えています。すべてのかかわりをこのように二つの関係で見る見 方は、アインシュタインの相対性原理にも匹敵する 20 世紀の偉業だといわれています。 ◆主イエスも「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからで す。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言 を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天において あなたがたの報いは大きいのだから・・」(マタイ5章 10~12 節)と語られましたが、「義のた めに迫害される」ということが、あたかも当然であるかのように語っています。 「義のために」 とは、あるかかわりを意味しています。それは「我-汝」のかかわりの世界です。 「我―それ」 のかかわりと「我-汝」のかかわりは、この世においては両立しえないのだと思います。イ エスは後者のかかわりで生きようとしたために、この世から拒絶されました。 72 ◆信仰という名のもとに、私たちの身勝手な行動や自分本位な考えによる疎外を迫害と考え てしまうことは良くないことだと思います。ここでの迫害は、あくまでも「義のために」、つ まり、何よりも神とのいのちに満ちた関わりを優先し、大切にするゆえに起こってくる迫害 です。神は、そうした迫害を許しておられます。イエスも「義のために」―イエスの場合は、 御父とのかかわりのゆえにー迫害されましたし、初代教会におけるステパノも迫害を受け、 最初の殉教者となりました。しかしその殉教者の血は、人々の思いを越えて広がり豊かな実 を結びます。イエスが自分のもとに訪ねてきたギリシャ人に、 「まことに、まことに、あなた がたに告げます。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、も し死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいの ちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネの福音書 12 章 24~25 節) と言われました。ギリシャ人はなによりも自分のいのちを愛する文化―エロス文化―を謳歌 します。そうした彼らに、イエスは「自分のいのちを愛する者はいのちを失う」と明言され たのです。報われることはないということを教えようとしました。 ◆「自分のいのちを愛する」という価値観は、マルチン・ブーバーの言う「我―汝」の関係では なく「我ーそれ」の関係です。 「それ」は交換可能な対象であり、すべて自分にとって価値が あるかどうか、そのためには相手と取引をし、利用するという Give and take の世界です。 こうした世界は、この世のあらゆる領域に浸透しています。ビジネスにしても、教育にして も、家庭や学校や社会も、またスポーツや芸術の世界でも、この関係で動いています。そこ では人との関わりはきわめて希薄です。ビジネスで企業戦士として働いてきた人も、そのビ ジネスから身を引くことで、その世界の人々との関わりも失ってしまいます。 ◆「我―それ」の世界では、自分が必要とされるために価値ある者となり続けなければなり ません。その報酬として自分の存在が認められるからです。ですから、Give and take の世 界では、常に、 「頑張りの世界」です。それを強いられる世界とも言えます。そして、その結 果は疲れと空しさです。 ◆そのような世界で翻弄させられることなく歩むためには、「我―それ」の関係で生きるので はなく、 「我-汝」の関係で生きることを選び取るほかありません。と言っても、それはあく まで「我―汝」としてかかわってくれる神がおられるゆえに、それを見出すことができるの です。「我-汝」のかかわりを選び取ることは、「我ーそれ」のかかわりとの戦いを余儀なく されます。それは、イエスのいう「義のために」というかかわりを意味します。それは、当 然、この世の価値観とは異なり、葛藤が生じます。場合によっては、周囲からのいやがらせ や迫害を受けるかもしれません。しかし、その結果は、永遠のいのちに至るとイエスは約束 しています。それは切れることのない、決して失われることのない永遠の愛のかかわりであ り、すべての行為と思いの苗床です。そのようなかかわりこそ、人を輝かせていくいのちだ と信じます。いのちへのあこがれを新たにし、それを保ち続けたいと祈ります。 73 詩71篇 71:1 【主】よ。私はあなたに身を避けています。 私が決して恥を見ないようにしてください。 71:2 あなたの義によって、私を救い出し、私を助け出してください。 あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。 71:3 私の住まいの岩となり、強いとりでとなって、私を救ってください。 あなたこそ私の巌、私のとりでです。 71:4 わが神よ。私を悪者の手から助け出してください。 不正をする者や残虐な者の手からも。 71:5 神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、 私の信頼の的です。 71:6 私は生まれたときから、あなたにいだかれています。 あなたは私を母の胎から取り上げた方。 私はいつもあなたを賛美しています。 71:7 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。 あなたが、私の力強い避け所だからです。 71:8 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。 71:9 年老いた時も、私を見放さないでください。 私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。 71:10 私の敵が私のことを話し合い、 私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。 71:11 彼らはこう言っています。 「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。 救い出す者はいないから。」 71:12 神よ。私から遠く離れないでください。 わが神よ。急いで私を助けてください。 71:13 私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。 私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。 71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、 いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。 71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。 私は、その全部を知ってはおりませんが。 74 71:16 神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、 あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。 71:17 神よ。あなたは、私の若いころから私を教えてくださいました。 私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。 71:18 年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。 私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、 後に来るすべての者に告げ知らせます。 71:19 神よ。あなたの義は天にまで届きます。 あなたは大いなることをなさいました。 神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。 71:20 あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、 私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。 71:21 あなたが私の偉大さを増し、 ふり向いて私を慰めてくださいますように。 71:22 私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。 わが神よ。あなたのまことを。 イスラエルの聖なる方よ。 私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。 71:23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。 また、あなたが贖い出された私のたましいも。 71:24 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう。 それは彼らが恥を見、私を痛めつけようとする者どもがはずかしめを受けるからです。 ◆この詩篇には、繰り返し、作者の内に秘められた「賛美への誓い」が出てきます。その「賛 美の誓い」とは、神に対する思いや行動をうながす主体的な意志と言えます。その意志は、嘆 きや感謝、そして信仰告白と密接なかかわりを持っています。 ◆ダビデの賛美礼拝への意気込みは、賛美が好きだったから賛美したのではなく、賛美の誓 いをしたゆえに賛美したのです。これはとても重要なことです。 ◆ダビデの生涯にわたる神への賛美の姿勢に見られるものは、自分をある一つのイメージに 合わせて、 「らしく」あろうとして意地を通したのではなく、あくまでも、自発的な、自由な 意志を貫いたという点です。 ◆詩篇における「賛美の誓い」は、「・・・します」「・・・しましょう」という表現で表され ますが、英語では、I will ・・です。詩 71 篇では、 75 NKJV 71:14 But I will hope continually, And will praise You yet more and more. 71:16 I will go in the strength of the Lord God; I will make mention of Your righteousness, of Yours only. 71:22 ・・・ I will sing with the harp,O Holy One of Israel. TEV 71:14 I will always put my hope in you; /I will praise you more and more. 71:15 I will tell of your goodness; /all day long I will speak of your salvation, 71:16 I will go in the strength of the Lord God; /I will proclaim your goodness, yours alone. 71:22 I will indeed praise you with the harp; /I will praise your faithfulness, my God. /On my harp I will play hymns to you, /the Holy One of Israel. 71:23 I will shout for joy as I play for you; /with my whole being I will sing /because you have saved me. 71:24 I will speak of your righteousness all day long, 71:14 しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、 いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。 71:15 私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを 語り告げましょう。 71:16 神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、 あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。 71:22 私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。 ・・・ 私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。 71:23 私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。 71:24 私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表しましょう。 ◆日本語訳では 10 回(英語訳では 11 回)、賛美の誓いを表す表現がなされています。賛美の 誓いは、現在の意志であり、同時にそれは将来に向けられていますが、作者は、これまでも、 過去における神の守りと助けに対する感謝のゆえに、賛美し続けてきました。 私はいつもあなたを賛美しています。(6節) 私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。(11節) 76 ◆神への「賛美の誓い」がなされる場合、次の三つの背景が考えられます。 ①神が、~のことをしてくださったので、私はという理由が背景にある場合(15,16 節) ②神が、~のことをしてくださるなら、私も、という条件が背景にある場合(22,23,24 節) ③周囲の環境が、~にもかかわらず、しかし私は、という決断が背景にある場合(14 節) ◆いずれにしても、神に対する力強い賛美の誓いですが、ただ、神を賛美していきますとい う決意だけが前面に出でいるのではなく、その誓いには、作者の神に対する信仰告白―すな わち、神が自分にとってどういうお方であるのかーがあります。詩 71 篇では、 あなたこそ、私の巌、私のとりで (3節) 若い頃からの私の望み (5節) 私の信頼の的 (5節) 私を母の胎から取り上げた方 (6節) 私の力強い避け所 (7節) あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、 地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(20 節) ◆こうした信仰告白、あるいは確信に基づいて、作者は人生の折々に襲ってくる嘆きの 現実の中で、あるいは信仰の危機の中で、神に嘆願し、瞑想し、賛美の誓いを更新している のです。 ◆信仰は動的です。私たちは、必ずしも、信仰を分析的に考えて、整理してわけではありま せんが、これまで述べた要素が密接にかかわって螺旋階段のように心が上におられる方に向 けさせられていくのだと思います。 ◆私個人としては、時に、20 節のみことばに励まされます。「苦しみと悩み」の中には、自分 自身の失敗も弱さも含まれます。そんな私を神は「再び生き返らせ、地の深みから、再び私 を引き上げてくださる」方であるゆえに、私もまた神に顔を向けることができます。そして、 今も、そしてこれからも、ずっと神に歌をもってほめたたえていくことができるのです。 77 詩72篇 72:1 ソロモンによる 神よ。あなたの公正を王に、 あなたの義を王の子に授けてください。 72:2 彼があなたの民を義をもって、 あなたの、悩む者たちを公正をもってさばきますように。 72:3 山々、丘々は義によって、 民に平和をもたらしますように。 72:4 彼が民の悩む者たちを弁護し、 貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。 72:5 彼らが、日と月の続くかぎり、代々にわたって、 あなたを恐れますように。 72:6 彼は牧草地に降る雨のように、 地を潤す夕立のように下って来る。 72:7 彼の代に正しい者が栄え、 月のなくなるときまで、豊かな平和がありますように。 72:8 彼は海から海に至るまで、 また、川から地の果て果てに至るまで統べ治めますように。 72:9 荒野の民は彼の前にひざをつき、 彼の敵はちりをなめますように。 72:10 タルシシュと島々の王たちは贈り物をささげ、 シェバとセバの王たちは、みつぎを納めましょう。 72:11 こうして、すべての王が彼にひれ伏し、 すべての国々が彼に仕えましょう。 72:12 これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、 助ける人のない悩む者を救い出すからです。 72:13 彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、 貧しい者たちのいのちを救います。 72:14 彼はしいたげと暴虐とから、彼らのいのちを贖い出し、 彼らの血は彼の目に尊ばれましょう。 72:15 それゆえ、彼が生きながらえ、彼にシェバの黄金がささげられますように。 彼のためにいつも彼らは祈り、一日中、彼をほめたたえますように。 72:16 地では、山々の頂に穀物が豊かにあり、 その実りはレバノンのように豊かで、町の人々は地の青草のように栄えますように。 72:17 彼の名はとこしえに続き、その名は日の照るかぎり、いや増し、 78 人々は彼によって祝福され、すべての国々は彼をほめたたえますように。 72:18 ほむべきかな。神、【主】、イスラエルの神。 ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。 72:19 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。 その栄光は地に満ちわたれ。アーメン。アーメン。 72:20 エッサイの子ダビデの祈りは終わった。 ◆私は、以前、メシアニック・ジューであるひとりの男性に出会いました。アリエルという独 身のユダヤ人でした。私は彼と話をする中で、クリスチャンがイメージしている天国と彼ら ユダヤ人がイメージしているものとは全く違っていることをはじめて知りました。彼らの御 国の到来は、明確な地上でのメシヤの到来であり、千年王国の到来を意味します。それまで、 私は、千年王国の到来について深く考えることもありませんでした。漠然とした天国のイメ ージしかありませんでしたが、それ以来、千年王国の到来は、聖書のいろいろなところに記 されていることを知るようになりました。千年王国の到来は神の不変のご計画であり、神の 約束であり、聖なる山シオン(エルサレム)において実現します。それが実現するとき、神に 敵対するすべの勢力はクライマックスに達しますが、結果的にハルマゲドンにおいて滅ぼさ れます。そして千年間、この地上において、メシヤの王国が実現します。このことを知らず して、旧約の預言者が語っている終末のヴィジョンは理解できないことを悟りました。特に、 イザヤ書の2章、11章、32章~33章、65章~66章はそうです。他にも、エゼキエ ル書、ダニエル書、ゼカリヤ書などは千年王国の栄光について預言している箇所がたくさん あります。 ◆この千年王国の到来とその祝福を扱った詩篇としては、第2篇、第8篇、第24篇、11 0篇がありますが、72篇もまさにその詩篇です。千年王国で統治される王は、神の御子で す。その方の統治がいかなるものであるかが、この詩72篇で預言されています。 ◆この72篇1節の「あなたは」は神ご自身であり、2節の「彼」は、神に代理者としての 王です。直接的には、ダビデともソロモンとも言えます。ダビデとソロモンの時代は、イス ラエルの歴史において、黄金時代を築いた時代でした。ダビデは周囲の国々と戦い、領土を 拡大し、ソロモンの時代において領土は最も拡張されました。 ◆イスラエルの王制は他の国々の専制君主的な王制とは異なり、王はあくまでも神の代理者 でした。神の代理としての王である限り、神から最も信頼され、神の祝福を受けました。と ころが、ソロモンの統治はやがて代理者としての立場から逸脱していくようになります。そ のためにイスラエルの王制の理念は空洞化していくようになります。それはともかく、ダビ デ・ソロモンはやがて神の救いのご計画におけるメシヤによる千年王国を予表するヒナ型で した。 79 ◆詩72篇における王(メシヤ)の統治の特徴は、 「公正」と「義」によるさばきと、豊かな「平 和」(シャローム)の実現です。かつて、ソロモンが王位についたときに、彼が求めたものは 「公正」と「義」でした。列王記第一3章9節参照。また、 「平和」はソロモン時代の特徴で した。 ◆正しい王は、国を豊かにし、繁栄へと導きます。また民も王を通して神を恐れる者となり ます。 11節「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」とある ように、すべての国々の民の王と民は、神の立てられた全地の王の前にひざまずくときが来 るのです。 ◆しかも、その統治では、王の民は強制されてではなく、自発的な服従を喜びとしています。 王は特に、悩む者、弱っている者、貧しい者たちに対して、あわれみ深い方です。それはす でにこの世に来られたイエス・キリストに見られるものであり、この方こそ、全地の王として 統べ治める方としてふさわしい方なのです。 ◆1948 年のイスラエルの建国以来、神の終末は秒読み段階に入っていると言われます。そ してユダヤ人の救いなくして御国の完成はないのです。まことの全地の主、王の王にお会い する日は確実に近づいているのです。 ◆今日の新しい“Worship & Praise” では、キリストの再臨による千年王国の到来を待ち 望む歌が多いように思います。全地の王なる方の到来を待ち望みなから、忠実に、主にお仕 えしていきたいと祈ります。 ◆栄光の王であられるキリスト、再び、来られるとこしえの王、大いなる方、正義と愛をも って統べ治められる王の王、主の主に、栄光と誉れと賛美がとこしえにあるように。 第二巻 完 80