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保険会社における錯誤の有無

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保険会社における錯誤の有無
保険会社における錯誤の有無
東京地判平成16年6月15日(平成14年(ワ)第26926号 保険金請求事件)
(判例マスターWeb版掲載)
[事実の概要]
Aは、昭和45年9月23日、茨城県筑波郡大穂
町で父Bl・母B2の二男として生まれ、平成3年
5月28日、Cと結婚したが、同13年6月15日、
離婚した。
Aは、平成13年3月8日、千葉県柏市南逆井か
ら千代田区神田駿河台(D株式会社の本店所在
地)に転入し、同年10月4日に死亡するまで、住
民票上の住所はそのままであった。しかし、Aは、
平成2年4月20日に武蔵野市吉祥寺南町に住所を
定めたのを皮切りに、前記転入までの間、10回に
わたり住民票を異動させている。
Aは、平成11年10月頃から、E株式会社で住
み込みで働くようになった。同社は生ごみ処理機
の販売業の他、高利の金融業を営んでいた。Aの
上司はFであった。AがE社で働くことになった
のは、Gが友人FにAを紹介したことによる。G
とAはH系暴力団組員であり、Aは、背中、上腕
等に広範囲に入れ墨をしていた。Aは、E社では、
貸金の取立て、貸付先が逃げた後の建物の占有、
たこ焼き屋等をしたりした。AはE社から月額15
万円くらいの給料を得ていたが、賃金台帳や給料
明細はないし、税金控除もなかった。平成11年11
月8日、I株式会社が設立された。
Jは、平成9年からK生命保険相互会社(当時)
の募集人を務めており、平成11年頃、E社の担当
を引き継いだ。Jは、銀行よりも高利回りで運用
できるし、保険契約もとれることから、E社に対
して運転資金を貸し付け、Fの紹介で、E社の関
係者を当事者とする保険契約を40件近く締結し
た。Jは、平成13年頃には、Fに対し約1,200万
円を貸し付けていた。
Aは、Y生命保険相互会社(被告)との間で、下
記の通り、本件保険契約を締結した。
契約日 平成12年1月1日
保険契約者・被保険者 A
死亡保険金受取人 Ⅹ(Aの兄。原告)
死亡保険金額 4,000万円
保険料 月額1万2,421円
Aは、平成11年12月25日に本件契約を申し込
んだが、事前に設計書を渡されたり、保険プラン
の説明を受けていない。申込みにあたって、住所
は千葉県柏市南逆井、勤務先はE社、仕事の内容
は生ごみ処理機販売とした。本件契約では、親族
以外が死亡保険金受取人になることはできない。
Aは、同月27日、告知書による告知をし、生命保
険面接土と面接したが、入れ墨については知らせ
なかった。Aは、この時、7年くらいはXとの音
信が絶えていた。本件契約の保険料支払は当初口
座振替とされたが、その後、毎月26日頃の集金方
法に変更された。保険料は、AがJに対して直接
支払うことはほとんどなく、FがJに支払った。
JはFに対して保険料領収書を渡し、Fがこれを
保管していた。
平成13年8月15日、FはI社を退社し、千代
田区岩本町の事務所で、生ごみ袋の輸入販売業、
高利の貸金業を始めた。Aは、同年9月初め頃、同
事務所で寝泊まりを始めた。
同年9月20日9時過ぎ、Aが会社のソファで尿
失禁、嘔吐しているのが発見され、Fは救急車を
手配したが、救急隊員がAの入れ墨を見つけ、警
察に通報したため、警察官が来て、事務所内を捜
索したりしたことから、Aは、同日16時15分頃
に救急車でL大学付属病院に搬入された。担当医
師は、Fに対し、Aには脳内出血があり、手術が
必要なので、身内の承認が必要だと説明した。A
は家族のことを知らせていなかったため、FはA
の携帯電話から親族を探し出し、妹B3に連絡を
取った。翌21日、母親B2とB3が病院を訪れた。
また、B3がXに連絡を取り、同月27日、Ⅹも病
院を訪れた。Ⅹはこれ以外には病院を訪れていな
いし、病院で初めてFに会った。
Aは、同年10月4日、病院で、脳出血により死
亡した。Fは、A死亡の1週間後、Jから死亡保
険金の請求書類を受け取り、Xに書類に署名押印
してもらったようである。ただし、Y会社には2
通の支払請求書が提出されており、10月24日付け
の書類にはXは自署しておらず、12月10目付けの
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書類は前記と筆跡が異なり、振込先の銀行口座も
異なる。
Y会社は保険金の支払を拒んだ。Fは、Y会社
に対し、Aが保険料を支払う余裕がなかったので
自分が支払ってきたし、領収書も全部持っている
などと説明していた。Fは、Xに対してM弁護士
を紹介し、弁護士への委任状に署名押印してもら
い、同弁護士を通してY会社と交渉してもらった
が、同弁護士は辞任した。その後、Fが再びY会
社に請求をしたが、XがY会社に対し直接死亡保
険金の請求をしたことはない。
FとⅩが会ったのは、病院の見舞いを除いては
2回くらいである。FとⅩは、Fが交渉の窓口に
なっていたことから、XがFに対し、本件死亡保
険金の一部を謝礼の趣旨で支払う旨の話をしてい
た。
Ⅹの住民票上の住所は神奈川県伊勢原市〔…〕
となっていたが、そこには住んでいなかった。死
亡保険金の請求書、弁護士への委任状、後記のⅩ
自身の保険契約、本件訴訟委任状は、いずれも前
記住所が記載されている。Xは、FからJを紹介
され、平成13年11月1日、生命保険契約に加入
した。保険契約者・被保険者はX、死亡保険金受
取人は妻N、合計死亡保険金額は3,500万円であ
る。申込書、告知書は、Xが自署していない。1
回目の保険料はFが支払ったが、2回目以降はF
もⅩも支払わず、契約は失効した。
Fについては、平成12年12月22日から翌年10
月25日にかけて、妻0、子2名を被保険者、死亡
保険金受取人をFとする生命保険契約4件が締結
された。Fは、住民票上、千代田区神田駿河台か
ら葛飾区東四つ木等へ3回にわたり転入したこと
になっていた。
本件訴状では、当初、Ⅹの住所地は神奈川県伊
勢原市〔…〕とされていた。また、訴状には、次
のような記載がある。Aには体力面で不安があっ
たため、Fは疾病入院特約を付けることを条件
に、保険料支払を立て替える形で保険加入に応じ
ることにした。Jも、Fが保険料を立て替えて支
払っていくことを当初から熟知していた。
XはY会社に対し、平成13年10月26日、保険
金請求関係の書類を提出して支払を求めたが、Y
会社は翌年3月1日付けの回答書で支払を拒否し
た。
本件では、中心的な争点として、本件契約の効
力が争われ、Y会社は次のように主張している。
Y会社は、保険契約者及び被保険者に関する重大
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な要件を知ることなく、契約申込みを承諾してお
り、重大な錯誤があるから、本件契約は無効であ
る。Aが広範囲に入れ墨をしていることを知って
いれば、申込みを承諾することはあり得ない。ま
た、本件契約に基づいて保険金を支払えば、Fが
死亡保険金を取得する結果を是認することにな
り、遺族の生活保障という生命保険契約の本来の
制度趣旨に反するモラルリスクを来す結果となっ
てしまうゆえに、本件契約は公序良俗違反の契約
であり無効である。
[判旨]請求棄却
「2 これらの事実に基づいて検討する。
(1)本件契約に至った経過は、Aが保険契約を締
結することを積極的に希望したのではなく、J
がFに対し貸金業の資金を提供していたことか
ら、その見返りとして、FがAに対し、保険加
入を勧めたと認められる。したがって、後記の
保険加入の必要性、保険料支払の負担を併せて
考えると、Aが自ら保険加入をする意思を有し
ていたかどうかは甚だ疑問である。
(2)本件契約の内容のうち、死亡保険金受取人を
兄であるXと定めた経過は判然としない。死亡
保険金受取人は親族に限られるとしても、Aに
は、母も、妹もいたのであり、約7年間音信不
通の関係にあったXを死亡保険金受取人とした
理由は明らかではない。XがAが入院したこと
を知ってからの対応を検討しても、XとAが家
族の間で特別に深い関係を持っていたと窺わせ
る事情は認められない。
さらに検討すれば、仮にAが入院(通院)給
付金を受けられるようにするため、保険に加入
する必要があったとしても、Aは、一人で(通
常夫婦の場合妻を保険金の受取人とするから、
Aの場合には夫婦の実体がなかったと認められ
る。)、住所も転々として不定に近く、仕事も定
職に就いていなかったから、4000万円もの高額
の死亡保険金を必要としていたとは考えられな
い。したがって、Aが本当に保険加入する意思
を持っていたかどうかは疑問が多い。
(3)また、本件契約の内容のうち、住所について
は、Aは、千葉県柏市と申告したが、実際には
千代田区神田駿河台〔略〕に住み込み従業員と
して居住しており、保険の申込みにあたって、
事実と異なる住所を申告していたといわざるを
得ない。なお、千葉県柏市の住所地は、競売物
件を占有していたということだから、住所とは
いえない。
(4)また、Fの証言等によっても、Aは、平成11
年10月にいわば住み込みでE社に勤めたばかり
で、給料明細もなく、月額15万円の収入を得て
いるだけであるから、A自身の生活も大変であ
ることが容易に推測できる。それでも、Aが、月
額1万2000円の保険料を支払って保険契約に加
入するのかどうかについては、合理的に考えれ
ば疑問がある。
(5)Aは、本件契約を締結する時点で、背中や、上
腕に広範囲にわたり、入れ墨をしていたから、
告知書に入れ墨をしていることが含まれていな
いとしても、Y会社が、これを知っていれば、本
件契約を締結することはあり得なかった。
(6)本件契約が締結されてからAが死亡するまで
の経過を検討しても、FがLに対し保険料を支
払い、Fが領収書を保管していたと認められ、
Fが主体となって、また責任を持って保険料を
支払い続けてきたと認められる。
(7)Aが死亡してからも、F、またはFが依頼し
た弁護士がY会社に対し死亡保険金の請求をし
ていると認められる。これに対し、Ⅹは、直接
Y会社に対し死亡保険金の請求をしていない
し、Fから本件契約の保険証券の交付を受けた
こともないと認められる。これに付け加えれ
ば、2通の支払請求書が提出されていることも
不可解というはかない。
Xが、Fに対し、Fが事情をよく知っている
ことから、死亡保険金請求の手続を依頼するこ
とは、一般論としてはあり得るが、本件は、Ⅹ
はあまりに手続に関与していないというほかな
く、この点からもAが本件契約の契約者であっ
たかどうかは疑わしい。
さらには、関係者の証言によれば、死亡保険
金の一部がFやJに対して支払われることが窺
われ(略)、遺族の生活保障を目的とする死亡保
険金の趣旨とは相容れない。
(8)本件契約以外についても、Ⅹ自身、FとJの
勧めで保険契約を締結したが、Fが1回目の保
険料を支払い、その後は、XもFも保険料の支
払をしなかったため、当該保険契約は失効し
た。この契約もⅩが保険加入する意思を持って
いたかは甚だ疑問である。また、Fの家族を契
約者や被保険者とする保険契約も同様である。
3 これらの検討によれば、本件契約について
は、Aが保険契約を締結する意思を有していた
かどうかは疑問が多く、保険の申込みにあたっ
ては事実と異なる事項が記載され、Aが入れ墨
をしていたことだけでもY会社が保険申込みを
承諾することはあり得なかったから、Y会社が
これらの事情を知っていれば本件契約を締結す
ることはなく、本件契約は錯誤により無効と解
することが相当である。
これに対し、Xは、保険加入の動機として、A
が死亡しなければ死亡保険金を受け取ることは
できないし、Aが死亡しても親族以外は死亡保
険金を受け取ることができないから、Fが保険
料を支払ってまで保険契約を締結する理由はな
いと主張する。しかし、FはJが貸金業の資金
を提供する見返りとして保険契約締結を多数斡
旋していたことから、Fが自ら保険料を支払っ
てまで保険契約を締結する動機はあったという
べきである。このことは、AがE社に入社して
直後に加入したという事情のほか、Ⅹ自身やF
の家族も保険に加入していたことからも明らか
である。
また、Xは、要するに、FがAの親代わりと
して保険加入を勧め、Aが死亡してからも死亡
保険金支払の手続を補助した旨を主張する。そ
れも一般的にはあり得ないことではないが、し
かし、本件では、(略)Fが、知り合って間もな
く、収入の少ないAに保険加入を勧め、自ら保
険料を支払い続け、Aに知らせないで転職しな
がら、Aの死亡後は、死亡保険金受取人である
Xに代わって、専らY会社に対し支払請求の手
続をしていたことは明らかであり、Fが本件契
約の実質的な契約者であるかのような言動をし
ていたと認められ、Ⅹの前記主張が事実経過を
正確に反映、また評価しているとはいいがた
い。このことは、FやJが、Ⅹから、死亡保険
金の一部の支払を受けるかのような言動をして
いることからも明らかである。
また、Xは、仮にY会社に錯誤があったとし
でも、動機の錯誤である旨の主張をする。しか
しながら、保険料を支払い続ける意思と能力を
有する者が保険契約者となること、保険契約者
(被保険者)は住所、仕事等について保険会社に
正確に申告し、事実と異なる申告をしないこと
は、保険契約の締結にあたって当然の前提と
なっているはずであり、保険契約者(被保険者)
は、当然に知っているか、知っているはずの事
柄である。したがって、これらの事項は、保険
会社の動機(内心)にとどまる事項というべき
ではないから、動機の錯誤ということはできな
17
い。この点に関する原告の主張は認められな
い。
したがって、本件契約はY会社の錯誤により
無効であるから、Xの死亡保険金の支払請求は認
められない。」
[研究]
1.本判決における論点
本判決において、裁判所は、Aが保険契約を締
結する意思を有していたかどうかは疑問が多く、
保険の申込みにあたっては事実と異なる事項が記
載され、また、Aが入れ墨をしていたことだけで
もY会社が保険申込みを承諾することはあり得な
かったから、Y会社がかかる事情を知っていれば
本件契約を締結することはなく、本件契約は錯誤
により無効(民法95条)と解することが相当であ
る、と判示している。
このことから、本稿では、本件契約において、Y
会社につき錯誤による無効の法理が妥当するか否
かについて検討すべきことになる。
2.民法95条の法理
(1)錯誤の意義・種類
錯誤とは、表示行為から推測される意思と表
意者の真実の意思とが食い違っていることを表
意者が気が付いていないことをいう(内田貴
『民法I(第3版)』63頁∼64頁(東京大学出版・
2005年))。それが意思表示のどの段階にあるか
によって、動機錯誤、表示上の錯誤、表示行為
の意味に関する錯誤(内容の錯誤)(後2者は表
示錯誤と総称される。)に分類され、動機錯誤
は、理由錯誤と性質錯誤からなる(山本敬三『民
法講義I』152頁∼155頁(有斐閣・2001年))。
(2)錯誤無効の要件
意思表示は、①法律行為の要素に錯誤があ
り、かつ、②表意者に重大な過失がなければ無
効となることから、この2つが錯誤無効の要件
となる(民法95条。内田・前項書64頁)。その
結果、錯誤論として、要素の錯誤の中に表示錯
誤の他に動機錯誤も含まれるか否か、意思表示
を無効とするた糾こはいかなる要件を設定すべ
きか、という点について議論が展開されている
(山本・前掲書156貢∼157頁)。
錯誤論に関する議論を概観すると、次のよう
になろう(中松櫻子「錯誤」星野英一編集代表
『民法講座第1巻』387頁(有斐閣・1984年)等
を参照)。すなわち、(D95条の錯誤は表示錯誤
に限られるとする二元論がある(我妻栄『新訂
18
民法総則』295頁以下(岩波書店・1973年)等。
従来の通説・判例)。この説は、効果意思を欠い
た場合を意思の欠秋と理解した結果、動機は意
思表示の前提をなす理由にすぎず、そこに勘違
いがあっても問題にならないとした上で、95条
の錯誤とは、法律行為の内容に関して錯誤があ
り、その錯誤がなかったならば、表意者はその
意思表示をしなかったと認められ、かつ、同様
の状況においては、表意者だけでなく他の一般
の通常人もその意思表示をしなかったであろう
と認められる場合をいい、動機が意思表示の1
当時、法律行為の内容として表示されたときは
95条の錯誤にあたる、と解している(大判大正
3年12月15日民録20輯1101頁、最判昭和29
年11月26日民集8巻11号2089頁等)。
これに対して、②錯誤顧慮の要件設定につ
き、相手方の正当な信頼を保護するという考え
方(信頼主義)に基づいて、95条の錯誤には動
機錯誤も含まれるとする一元論がある(舟橋淳
一「意思表示の錯誤」『十周年記念法学論文集』
627頁以下(岩波書店・1937年)、川島武宜「意
思欠峡と動機錯誤」『民法解釈学の諸問題』200
頁以下・218貢以下(弘文堂・1949年)、野村豊
弘「意思表示の錯誤(6)」法協93巻5号74頁
以下(1976年)等)。この説は、表示錯誤と動機
錯誤という2つの錯誤の区別は難しいこと、表
示錯誤の場合でも取引の安全が害されることな
どからして、2つの錯誤を区別して扱う理由は
ないとし、相手方が表意者の表示を信頼して、
その信頼が正当なものといえる場合は錯誤無効
を認めるべきではない、とする(山本・前掲書
164頁∼165頁を参照)。
これらに対して、近時、錯誤顧慮の要件設定
につき、当事者がした合意を尊重するという考
え方(合意主義)に基づき、③95条の錯誤は表
示錯誤に限られ、動機錯誤に関する問題は錯誤
法の外で扱うべきであるとする新二元論(石田
喜久夫編『現代民法講義1』153頁以下(法律文
化社・1985年)(磯村保筆)等)と、④錯誤法を
一元的にとらえる新一元論(森田宏樹「『合意の
戦痕』の構造とその拡張理論(1)」NBL482号24
頁以下(1991年)等)とが有力に提唱されてい
る。このうち④は、95条は、法律行為の要素を
基準として、法律行為のいかなる部分に錯誤が
あるかによって、顧慮される錯誤の範囲を確定
するという立場を採用していると考えられ、し
たがって、法律行為の要素に錯誤があれば、表
示錯誤か動機錯誤かにかかわりなく錯誤無効が
認められ、要素の錯誤とは合意の原因に関する
錯誤である、とする(山本・前掲書173頁を参
照)。
以上のことから、このような新しい錯誤論に
よれば、錯誤とは意思の欠映ではなく、「情報不
足や不注意などから、不本意な意思表示をする
こと」ということになると解した上で、錯誤の
要件論で重視すべきは、相手方の単なる知・不
知(悪意・善意)ではなく、表意者の錯誤を利
用することが許されるかどうかであるが、それ
は、表意者の意思表示の過程や相手方の主観だ
けではなく、当該取引を巡る経緯やその背後に
ある慣行や社会関係が分からなければ判断でき
ない、とする見解がある(内田・前掲書71頁∼
72頁)。
(3)錯誤の効果
錯誤による意思表示は無効となる(民法95
条)。錯誤無効の主張は、原則として、表意者の
みが主張できるもので、表意者が無効を主張し
たときに意思表示が失効する。ただし、錯誤を
無効とする目的は表意者の保護にあることか
ら、表意者に重過失あるときは、表意者も含め、
誰も無効を主張できない(最判昭和40年6月4
日民集19巻4号924頁)。
3.判例
(1)はじめに
生命保険契約の錯誤による無効の問題は、従
来は、主として、告知義務違反(商法678条)の
問題と関連して論じられ、95条は商法678条に
よって適用排除されるのか、保険者が被保険者
の健康状態に関する判断を誤ったことが要素の
錯誤に該当するか等の問題が論じられてきた
(中西正明『保険契約の告知義務』140頁∼172
頁(有斐閣・2003年)。説明義務・情報提供義務
を巡る判例と理論については、竹濱修「保険契
約と説明義務・告知義務」判タ1178号92頁以
下(2005年)を参照)。
これに対して、保険者や保険契約者について
保険契約に関する錯誤を理由として当該契約を
無効にする判例は存在するが、とりわけ、変額
保険契約の有効性を巡る判例では、保険契約者
側に錯誤があったとして当該契約を無効とする
ものが多い(変額保険契約に関する近時の判例
については、石川知子「いわゆる『貸し手責任』
をめぐる裁判例と問題点」判タ1163号56頁以
下(2005年)、石田剛「融資一体型の変額保険契
約と融資契約が要素の錯誤により無効とされた
事例」判タ1166号101頁以下(2005年)等を参
照)。
(2)保険者の錯誤に関する主な判例
i 保険者の錯誤
①東京地判昭和54年5月29日(判タ394号94
貢)は、航海中梱包に被損した状態で陸揚げ
された貨物につき、後日、船積前、積載船舶
未定として締結された海上保険契約を巡り、
このような予定保険契約では、積載船舶のい
かんが保険者において承諾の決定を左右する
重大な事項であり、かつ、予定保険契約は船
積船舶が未定であることを前提とするもので
あり、保険者の承諾の意思表示にもその旨が
表示されているのであるから、本件契約は保
険者の意思表示に要素の錯誤があり、無効で
あるとした。
②高知地判昭和61年11月26日(判時1252号
101頁)は、生命保険会社と傷害特約付き生命
保険契約を締結していた保険契約者が、新た
に保険会社4社と傷害保険契約を締結したこ
とは、保険契約者の詐欺によるものと認定し
たが、これら4社は、保険金額を他社の同種
契約のものと合計して引受限度額を定め、こ
れを超える保険金額を内容とする保険契約を
締結しないという内規を定めており、これを
巡って、本件契約は保険者の錯誤により締結
されたものではあるが、これは動機錯誤であ
り、かつ、この動機が本件契約の締結時に表
示されていたとは認められないなどとして、
保険者の錯誤を認めなかった。
元 保険者と保険契約者の共通の錯誤
③大阪地判昭和62年2月27日(判時1238号143
頁)は、生命保険契約につき、契約当事者に
共通の錯誤があるとしてその無効を認めた
(判批:小林一俊・判評348号208頁(1988年)、
久保宏之・法時60巻5頁(同年)、中西正明・
事例研レポート42号1頁(同年)、黒沼悦郎・
ジュリ958号105号(1990年)、森本滋・商事
法務1222号50亘(同年)、山下友信・商法(保
険・海商)判百(第2版)86頁(1993年)、関
澤知則・事例研レポート100号7頁(1994年)
等)。
4.検討
(1)はじめに
裁判所は、本判決において、本件契約の締結
にあたりAに締結の意思があったか否かは疑問
19
が多いこと、申込書に記載されていた住所や仕
事が不実であったこと、入れ墨をしていたこと
等について、Y会社が、かかる事実を知ってい
れば本件契約を締結することはありえなかった
から、本件契約はY会社について錯誤により無
効と解することが相当であるとするとともに、
保険契約について、保険料を支払い続ける意思
と能力を有する者が保険契約者となること、保
険契約者は住所、仕事等について保険会社に正
確に申告し、事実と異なる申告をしないこと等
は、保険会社の動機(内心)にとどまる事項で
はないから、Y会社の錯誤は動機錯誤といえな
い、と判示する。これらのことから、本判決は、
95条の錯誤について二元論の立場で判示し、こ
れまでの判例の立場を踏襲しているといえる。
また、本判決は、Ⅹの保険金請求権を否定する
にあたり、保険法に固有の法理ではなく、錯誤
による無効という民法の一般法理によって結論
を導いた数少ない判例の1つであり、理論上お
よび実務上興味深い。
以下、Y会社の錯誤による本件契約の無効を
判断する場合、検討すべきは、①Y会社に本件
契約について要素の錯誤があったか否か、そし
て、②Y会社に重過失があったか否か、という
ことになる。
(2)Y会社の錯誤の内容
本判決において、裁判所はY会社の錯誤を認
めているが、その内容は、前述の通り、本件契
約の保険契約者はAではなく、実質的には、保
険料をAに代わって支払続けていたFであった
と認められることから、保険契約者の錯誤であ
るということができる。そこで、Y会社につい
て認められた保険契約者の錯誤が95条の錯誤に
該当するか否かについて検討しなければならな
い。
まず、保険契約において、保険契約者は当該
契約の当事者であり、保険料支払債務を負う
が、保険契約者と被保険者とが異なる主体であ
る他人の生命の保険(商法674条)が存在し、ま
た、本件のように、保険証券に保険契約者とし
て記載された者とは異なる者が、保険契約者に
代わって保険料を支払い続けるケースもありう
ることから、保険会社にとり、保険契約者は、保
険契約上、重要な要素ではないと解することが
できるかもしれない。しかし、有効な生命保険
契約が存在するためには、一般的に、保険契約
の当事者、保険金受取人、被保険者、保険事故、
20
保険期間・満期、保険金額、保険料等が契約の
要素として必要とされる(大森忠夫『保険法(補
訂版)』256頁以下(有斐閣・1991年)、西島梅
治『保険法(第3版)』312頁以下(悠々社・1998
年))。さらに、実務上、保険料の支払に関して
集金級の場合の集金場所、免責条項にいう保険
契約者とは誰か等を判断する局面において、保
険契約者を確定する作業がきわめて重要な意味
を持つ(山下孝之「生命保険契約における当事
者確定論」『生命保険の財産法的側面』121頁∼
122頁(商事法務・2003年)。また、約款の中に、
保険契約者を変更する場合には、被保険者およ
び保険会社の同意を必要とする旨の規定が挿入
されていることが一般的である。さらに、モラ
ルリスクがあるような場合には、契約の相手方
に関する錯誤が存在するとの主張が可能である
と考えられるが(山下(孝)・前掲125頁)、本
件の場合、FがⅩから死亡保険金の一部の支払
を受けるかのような言動をしていることからし
て、モラルリスクの可能性が考えられる。これ
らのことから、保険契約者は、保険契約上、重
要な要素の一つであるゆえに、Y会社の錯誤は
内容の錯誤であると解することができる。な
お、Y会社の錯誤は、保険契約者の取り違えで
はあるが、厳密には、保険契約者と被保険者と
の関係における錯誤であると解される。という
のは、本件判旨では触れられていないが、実務
上、本件のように、死亡保険金受取人を被保険
者の親族に限定している保険では、保険会社の
内規において、保険契約者についても同様の制
限を課していることもあるようであり、そうで
あるとすると、保険料を支払い続けていたFは
Aの親族ではないゆえに、Y会社の錯誤は、保
険契約者を取り違えたことによる錯誤とはいえ
ないからである。
つぎに、Y会社の錯誤が95条の要素の錯誤で
あるか否かについて検討する。申込書に記載さ
れたAの住所、仕事について、裁判所はいずれ
も虚偽であったと認定している。それゆえに、
Y会社は申込書の記載内容から判断して承諾の
意思表示をしたのであるから、Y会社の錯誤は
動機錯誤であると解することができるかもしれ
ない。保険契約の射倖契約性の結果として、保
険契約にあっては契約関係者に特別の善意と信
義誠実が要請される(善意契約性)(大森「保険
契約の善意契約性」『保険契約の法的構造』169
頁以下(有斐閣・1969年))。また、本判決にお
いて、裁判所が、保険料を支払い続ける意思と
能力を有する者が保険契約者となること、保険
契約者等は住所、仕事等について保険会社に正
確に申告し、事実と異なる申告をしないこと
は、保険契約の締結にあたって当然の前提と
なっているはずであり、保険契約者等は、当然
に知っているか、知っているはずの事柄であ
る、と判示していることは、当該保険契約の妥
当性を判断する場合、そのすべての事柄が必然
的な要素であるとはいえないが、保険契約の善
意契約性を広くとらえて考察すると、必然的な
要素ではないかと考える。また、Y会社は、A
が提供した情報に基づいて本件契約を承諾する
と判断し、承諾の意思を表示したわけであるか
ら、Y会社について、前述の二元論のいう意思
の欠快があったとはいえないと考える。という
のは、Y会社の承諾という意思表示についてみ
ると、その効果意思と表示内容はいずれも本件
契約の申込みを承諾するものであったといえる
からである。さらに、Y会社は承諾の意思を表
示しているが、この意思表示の意味内容を誤解
していると考えることもできる。それゆえに、
Aが保険契約者ではないとする理由とされてい
る契約の締結意思が不明であることも含めて、
虚偽の報告(住所・仕事等)を巡るY会社の錯
誤は要素の錯誤にあたると考えられ、この点に
関する本件判旨は妥当であると解する。
以上のことから、Y会社の錯誤は要素の錯誤
といえるので、Y会社には95条の錯誤があった
と解することができる。
本稿では、Y会社の錯誤の内容について、以
上のような結論を示したわけであるが、近時の
錯誤論のうち、表示者において、情報不足や不
注意などから不本意な意思表示をしたことが錯
誤であるとする見解によって結論を確認してみ
たい。この見解は、錯誤の要件論で重視すべき
は、相手方が表意者の錯誤を利用することが許
されるかどうかであるとする。Aが保険契約者
としての自覚ないし能力に欠けること、Aが申
込書に記載した住所や仕事は不実であるという
こと、さらに、保険料はFが支払い続けていた
という事実等は、保険契約者側が知りながらY
会社に提供した事柄あるいは本件契約の締結後
に継続していた事実であるから、保険契約者側
は、本件契約の成立およびその後の経緯につい
て異議を唱えていない限りにおいて、Y会社の
錯誤を利用していたということができ、このこ
とは当然許されるものではないと解することが
できる。それゆえに、Y会社について、Aに関
する情報不足などにより不本意な意思表示をし
たことから錯誤があったということができる。
なお、裁判所は、Y会社は、Aの入れ墨につ
いて知らされていれば承諾しなかったとして、
Y会社の錯誤を認定しているが、しかし、入れ
墨の有無は、一般的に、当該契約の危険測定に
重要な要素として告知書ないし質問表に記載し
なければならない事柄ではないし、保険契約者
の住所や仕事等とは性質の異なるものでもある
ゆえに、裁判所は、Aの入れ墨をその量からし
て反社会的要素と判断し、本件契約の締結を承
諾する場合において好ましくない要素であると
考えている、ということもできるが、これを含
めて錯誤を認定していることについては疑問を
覚える。
(3)Y会社の重過失の有無
保険契約において、表意者に重過失があった
か否かという点について明確に判示する判例は
見ることができない。本件においても、裁判所
はY会社の重過失の有無について判示していな
い。意思表示の錯誤による無効の要件は、前述
のように、①法律行為に要素の錯誤があり(民
法95条本文)、かつ、②表意者に重過失がない
(同条ただし書)ということとされている。①②
の関係を考えると、実体法上の要件とは異な
り、手続法上、表意者が錯誤の存在を主張立証
することによって意思表示の無効を主張し、相
手方が表意者の重過失の存在を主張立証するこ
とが必要となる。本件の判決文では、Ⅹ側がそ
の主張立証をしていることが明らかでないこと
からすれば、それゆえに、裁判所はY会社の重
過失の有無について判断しなかったのかもしれ
ない。とはいうのもの、実体法上の解釈の観点
に立っと、本件においてY会社に重過失があっ
たか否かについて検討すべきであると解するの
で、以下、この点について検討する。
Y会社の重過失の有無を判断する材料を探る
と、本件判旨によれば、Aに関連する事柄とし
て、①AがF社に住み込んで働いており、申込
書記載の住所および仕事は事実と異なること、
②Aは働き始めて間もないうちに、月額収入も
少ないにもかかわらず本件契約を締結している
こと等を指摘できる。そして、Fに関連する事
柄として、③JがE社に資金提供したことによ
る見返りとして、FがAに対して本件契約の締
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結を勧めたと認められること、④本件契約の保
険料はFがAに代わって支払い続けていたとい
うこと等を指摘できる。Y会社の募集人である
Jは、①②について、本件契約締結時に認識し
ていたと考えるほうが自然であろうし、③④は
J自身が関与している事柄である。告知義務の
局面ではあるが、「生命保険募集人にも合理的
に期待できる情報の伝達についてはその情報を
保険者に伝達しなかったことにつき悪意・過失
があれば保険者の監督上の過失を認めてよいの
ではないか」(山下(友)『保険法』315貢(有斐
閣・2005年))という見解によれば、①②④につ
いては、JはY会社の錯誤に関連する事実とし
てこれらを認識していたことから、Y会社に伝
達しておくべきであったと考える。また、Y会
社においても、被保険者と保険契約者との関係
につき、前述のような内規があったとすれば、
④の状況を継続させていたJの行為は、内規に
反するものであるということができるし、E社
ないしFに対する資金提供の事実も認識してい
たであろうと考える。
以上のことからして、Y会社側に本件契約の
締結過程およびその後の経緯について重大な過
失があったということができるかもしれない。
近時の錯誤論に従って前述の事実ないし経緯を
本件契約を巡る経緯としてとらえれば、かかる
事実は、保険契約者側がY会社の錯誤を利用す
ることが許される理由になりうるかもしれな
い。
(4)おわりに
本判決については、その理由付けの一部に疑
問を覚えるが、結論には賛成する。
ところで、本件契約を無効とする理由とし
て、錯誤とは違う他の理由付けが可能でなかっ
たであろうか。Y会社は、本件契約の錯誤無効
の主張の他に、本件では、保険金をFが取得す
ることになり、生命保険契約の制度趣旨に反す
るモラルリスクを来すゆえに、本件契約は公序
良俗に反して無効(民法90条)であるとも主張
している。この主張は考慮すべきであるとは思
うが、しかし、Y会社の募集人であるJもまた、
Ⅹから死亡保険金の一部を受け取るかのような
言動をしていると認定されていることからする
編 集
・発 行 者
と、公序良俗違反を理由とすることは難しいの
ではないかと考える。もし、保険金受取人を問
題とするのであれば、Y会社に保険金受取人に
ついて錯誤があったとして、無効を認めるとい
う考え方も可能であるかもしれない。しかし、
この場合、前述のように、Jが、実質的に、死
亡保険金を受け取る可能性があったことから、
Y会社の重過失が認定される可能性がないわけ
ではない。また、目的ないし動機の不法に基づ
く無効が考えられる(山下(友)・前掲87貢を
参照)。しかし、本件では、実質的な保険契約者
あるいは保険金受取人であるとされるFについ
て保険金を詐取する意図があったか否かは不明
であり、さらに、本件契約締結の目的ないし動
機の不法を巡り、その不法性が認定されていな
いことからしても、目的ないし動機の不法を理
由として同様の結論を導くことは難しいのでは
ないかと考える。
(平成17年10月14日:大阪)
報告者:神戸学院大学 教授 岡田 豊基氏
指 導:大阪学院大学 教授 中西 正明氏
財団法人 生 命 保 険 文 化 セ ン タ ー
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