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天武統一国家建設 - 九州天皇家と日本国天皇家

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天武統一国家建設 - 九州天皇家と日本国天皇家
日本國論
4章 壬申天武の乱
日本列島
日本列島の主権交替
天武統一国家建設
天武の
天武の乱の真実
(1 )
壬申・
壬申・天武の
天武の乱は 東アジア世界情勢
アジア世界情勢の
理解されなければならない。
662年、百済救援に
百済救援に向かっ
世界情勢の中 で理解されなければならない
されなければならない。662年
た同盟国「
同盟国「日本」
日本」軍は「白村江」
白村江」において、
において、唐・新羅連合軍によって
新羅連合軍によって壊滅
によって壊滅させられた
壊滅させられた。「
させられた。「白村江
。「白村江」
白村江」が朱に
染まったといわれる程
まったといわれる程の敗北であった
敗北であった。
であった。
戦勝国・
戦勝国・唐は占領司令部・
占領司令部・都督府を
都督府を太宰府に
太宰府に置いた。
いた。唐にとって非戦国
にとって非戦国であった
非戦国であった北九州天武天皇家
であった北九州天武天皇家
と共に「日本國」
日本國」占領支配を
占領支配を遂行するためであった
遂行するためであった。
するためであった。
(2)
唐は百済平定後、
百済平定後、その王家一族
その王家一族を
王家一族を唐都に
唐都に連行し
連行し、百済王朝は
百済王朝は消滅した
消滅した。「
した。「日本國
。「日本國」
日本國」は「白村江」
白村江」で大
敗したものの、
したものの、國が滅びたわけではなかった。「
びたわけではなかった。「日本國
。「日本國」
日本國」王は存命していた
存命していた。
していた。また王都
また王都・
王都・藤原京が
藤原京が占領
されたわけでもなかった。
されたわけでもなかった。唐が、「日本國
、「日本國」
日本國」を完全平定するには
完全平定するには、
するには、再度大軍を
再度大軍を「日本國」
日本國」まで送
まで送り込まな
ければならない。
ければならない。瀬戸内海を
瀬戸内海を船で東進し
東進し、「日本國
、「日本國」
日本國」首都まで
首都まで侵攻
まで侵攻しなければならない
侵攻しなければならない。
しなければならない。敵国の
敵国の内海5
内海5
00km
00kmを
kmを唐水軍は
唐水軍は無事通過できるであろうか
無事通過できるであろうか。
できるであろうか。
・・・・・・・・・無理
・・・・・・・・・無理であろう
無理であろう。
であろう。瀬戸内海は
瀬戸内海は穏やかな海
やかな海ではあるが唐
ではあるが唐にとっては安全
にとっては安全な
安全な海ではない。
ではない。とても
首都まで
首都まで行
まで行き着けぬ。
けぬ。この現状認識
この現状認識に
現状認識に基づいて、
づいて、唐の「日本國」
日本國」占領政策は
占領政策は立てられたと見
てられたと見なければ
ならない。
ならない。ではいかにして日本國
ではいかにして日本國を
日本國を滅ぼすか。
ぼすか。天武の
天武の乱は巧妙に
巧妙に仕組まれた
仕組まれた唐戦略
まれた唐戦略の
唐戦略の一つだったか
もしれない。
もしれない。
(3)
壬申・
壬申・天武の
天武の乱は北九州天武國と
北九州天武國と「日本國」
日本國」との内戦
との内戦でした
内戦でした。
でした。戦勝國唐・
戦勝國唐・新羅と
新羅と友好関係にあった
友好関係にあった北
にあった北
九州・
九州・天武が
天武が敗戦國「
敗戦國「日本國」
日本國」に仕掛けた
仕掛けた戦
けた戦いでした。
いでした。その戦場
その戦場は
戦場は北九州でした
北九州でした。
でした。歴史は
歴史は繰り返すと
云いますが、
いますが、かっては「
かっては「姫氏倭國」
姫氏倭國」と「日本國」
日本國」が九州で
九州で戦いました。
いました。527年
527年、「筑紫國王
、「筑紫國王・
筑紫國王・磐井」
磐井」と「日
本國」
本國」の将軍物部庇鹿火が
将軍物部庇鹿火が筑後川を
筑後川を挟んで一歩
んで一歩も
一歩も引かず徹底
かず徹底して
徹底して戦
して戦いました。
いました。ここが戦場
ここが戦場となったの
戦場となったの
は筑後川が
筑後川が国境だったからです
国境だったからです。
だったからです。日本國が
日本國が磐井の
磐井の國へ遠征しました
遠征しました。
しました。この敗戦
この敗戦が
敗戦が「姫氏倭國」
姫氏倭國」の滅亡
となりました。
となりました。
壬申の
壬申の乱の戦場は
戦場は小倉北区・
小倉北区・小倉南区でした
小倉南区でした。
でした。この地
この地が戦場となった
戦場となった理由
となった理由も
理由も明白です
明白です。
です。ここが天
ここが天
武 の國でした。
でした。神武建国以来、
神武建国以来、天皇家の
天皇家の國 は北九州に
北九州に存在しました
存在 しました。
しました。唐占領司令部の
唐占領司令部の太宰府駐屯
という事態
という事態に
事態に日本國王は
日本國王は北九州天武國を
北九州天武國を訪れ対策を
対策を練りました。
りました。日本書紀の
日本書紀の天智・
天智・天武の
天武の会見がそ
会見がそ
れです。
れです。両者の
両者の会見の
会見の主題は
主題は唐対策でしょう
唐対策でしょう。「
でしょう。「日本國
。「日本國」
日本國」側は天武に
天武に態度を
態度を明確にするように
明確にするように迫
にするように迫ったこ
とと思
とと思われます。
われます。西の太宰府には
太宰府には唐
には唐の占領軍が
占領軍が居る。東の日本國からはどうするか
日本國からはどうするか態度表明
からはどうするか態度表明を
態度表明を迫られ
る。間に挟まった天武
まった天武はどちらに
天武はどちらに付
はどちらに付くか態度
くか態度を
態度を表明することができず
表明することができず、
することができず、山に籠もります。
もります。唐をとるか、
をとるか、そ
れとも日本國
れとも日本國をとるか
日本國をとるか。
をとるか。この決断
この決断をしなければならない
決断をしなければならない天武
をしなければならない天武の
天武の悩みは深
みは深かったでしょう。
かったでしょう。
万葉集26
万葉集26 番歌
み吉野の
吉野 の
耳我の
耳我 の嶺に
時 なくぞ
雪は 降 りける
-1-
間なくぞ
雨 は降 りける
その雪
その雪 の
時なき
がごと その雨
その雨が 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつ来
ひつつ来し その山道
その山道を
山道を
天武は
天武は結果的には
結果的 には唐
には 唐を選択することになりました
選択することになりました。
することになりました。それは日本國王
それは日本國王が
日本國王が亡くなったためです。
くなったためです。国王が
国王が
死んだ。
んだ。これで力関係
これで力関係は
力関係は唐に傾くであろう。
くであろう。若い後継者ではこの
後継者ではこの国難
ではこの国難を
国難を乗り切れまい。
れまい。日本國には
日本國には兵
には兵
も将もいない。
もいない。だが我
だが我が王朝は
王朝は白村江には
白村江には参加
には参加しなかった
参加しなかった故
しなかった故に兵がいる。
がいる。ここは蜂起
ここは蜂起の
蜂起の一手だ
一手だ。
(4) 古事記・
古事記・序は、天武の
天武の動きを次
きを次のように表
のように表しています。
しています。
夢の歌 を開 きて業
きて業 を纂 (つ )がむことを相
がむことを相(あわ)
あわ)せ 、夜の水(かわ)
かわ)に投(いた)
いた)りて基
りて基(もとい)
もとい)を承
(う)けむことを知
けむことを知りたまひき。
りたまひき。然れども、
れども、天の時未だ
時未だ臻(いた)
いた)らずして、
らずして、南山に
南山に蝉蛻(
蝉蛻(せんぜい)
せんぜい)し、
人事共給(
人事共給(そな)
そな)はりて、
はりて、東国に
東国に虎歩(
虎歩(こほ)
こほ )したまひき。
したまひき。皇輿(
皇輿 (くわうよ)
くわうよ)忽 ち駕(が)して、
して、山川を
山川を凌
え渡り、六師(
六師(りくし)
りくし)雷 のごとく震
のごとく震 ひ、三軍電のごとく
三軍電のごとく逝
のごとく逝きき。
きき。杖矛(
杖矛(じょうぼう)
じょうぼう)威 (いきほい)
いきほい)を挙げ
て、猛士烟(
猛士烟(けぶり)
けぶり)のごとく起
のごとく起こり、
こり、絳旗(
絳旗(こうき)
こうき)兵(つわもの)
つわもの)を耀(かがや)
かがや)かして、
かして、兇徒瓦のごとく
兇徒瓦のごとく
解けき。
けき。
・・・・・・・・・これではまるで
・・・・・・・・・これではまるで天武
これではまるで天武は
天武は蜂起する
蜂起する機会
する機会をじっとうかがっていたように
機会をじっとうかがっていたように読
をじっとうかがっていたように読めます。
めます。
天武は
天武は天智の
天智の病気回復誓願のため
病気回復誓願のため吉野
のため吉野の
吉野の山にこもった。
にこもった。にもかかわらず、「
にもかかわらず、「近江
、「近江」
近江」朝は天武を
天武を討と
うとした。
うとした。そこでやむを得
そこでやむを得ず蜂起した
蜂起した。
した。・・・・・これが
・・・・・これが日本書紀
これが日本書紀の
日本書紀の天武蜂起の
天武蜂起の大義名分です
大義名分です。
です。
しかし、
しかし、壬申の
壬申の乱 は日本書紀が
日本書紀 が記すような同
すような同 じ朝廷内の
朝廷内の身内の
身内の確執から
確執 から生
から生じた反乱
じた反乱ではありませ
反乱ではありませ
んでした。
んでした。国家対国家の
国家対国家の戦いでした。
いでした。また国内情勢
また国内情勢によってのみ
国内情勢によってのみ生
によってのみ生じた内戦
じた内戦ではありませんでした
内戦ではありませんでした。
ではありませんでした。
世界最強の
世界最強の帝国唐の
帝国唐の周辺國への
周辺國への侵略
への侵略という
侵略という世界情勢
という世界情勢の
世界情勢の中で生じた天武国家
じた天武国家の
天武国家の反乱でした
反乱でした。
でした。
古事記では
古事記では天武
では天武の
天武の周到な
周到な軍事行動を
軍事行動を読みとることができます。「
みとることができます。「日本國
。「日本國」
日本國」の白村江敗戦と
白村江敗戦と唐占領軍
の 九州侵攻を
九州侵攻をチャンスと
チャンスと捉 えた天武
えた天武の
天武の政治感覚の
政治感覚 の鋭さが現
さが現れています。
れています。唐・新羅と
新羅 と組んだ天武
んだ天武の
天武の反
乱によって日本國
によって日本國は
日本國は滅亡しました
滅亡しました。
しました。この結果
この結果、
結果、唐は極東アジア
極東アジアの
アジアの高句麗・
高句麗・百済・
百済・日本國を
日本國を全て滅亡さ
滅亡さ
せてしまいました。
せてしまいました。
(5 )
飛鳥文明を
飛鳥文明 を築 いた「
いた「日本國」、
日本國」、西
」、西の太宰府に
太宰府に劣らない古代
らない古代の
古代の超都市・
超都市・藤原京を
藤原京を造営した
造営した「
した「日本國」、
日本國」、
世界思想である
世界思想 である仏教
である仏教を
仏教を受 け入れ、仏教的な
仏教的 な政治理念・
政治理念 ・国家理念を
国家理念を掲 げた偉大
げた偉大な
偉大 な「上宮聖王」
上宮聖王 」の「日
本國」、
本國」、栄光
栄光の
の
「
日本國」
日本國
」
はここに終焉
はここに
終焉をむかえました
をむかえました。
。
」、栄光
終焉をむかえました
天武統一国家の
天武統一国家の課題
壬申・
壬申・天武の
天武の乱は「日本國」
日本國」と「北九州倭國」
北九州倭國」との国家戦
との国家戦でした
国家戦でした。「
でした。「北九州倭國王
。「北九州倭國王・
北九州倭國王・天武」
天武」が反乱したので
反乱したので
す。「日本國
。「日本國」
」
は
反乱鎮圧のため
反乱鎮圧
のため北九州
北九州に
に
遠征し
遠征
し
、
敗
れました。「
れました
。「白村江
白村江」
」
で
壊滅した
壊滅
した「
「
日本國」
日本國
」にはもう戦力
にはもう戦力
日本國
のため北九州
。「白村江
した
は残 っていなかったからです。「
っていなかったからです。「近江
。「近江」
近江」方の武将の
武将の一人は
一人は、「壱伎史韓國
、「壱伎史韓國」
壱伎史韓國」です。
です 。この名前
この名前は
名前は 、それまで日本
それまで日本
書記には
書記には一度
には一度も
一度も現れたことのない人物
れたことのない人物です
人物です。
です。恐らく、
らく、壱岐出身の
壱岐出身の武将でしょう
武将でしょう。
でしょう。
壬申の
壬申の乱の勝利によって
勝利によって、
によって、北九州に
北九州に存在した
存在した神武天皇
した神武天皇を
神武天皇を始祖とする
始祖とする国家
とする国家・
国家・天武倭國が
天武倭國が初めて日本列島
めて日本列島の
日本列島の
主権を
主権を握ることになりました。
ることになりました。天武が
天武が初めて「
めて「國王」
國王」の位置に
位置に即いたのです。
いたのです。天武は
天武は「日本國」
日本國」を併合して
併合して統一
して統一
国家を
国家を作り上げました。
げました。天武統一国家日本の
天武統一国家日本の誕生でした
誕生でした。
でした。その後
その後、元明のとき
元明のとき、
のとき、統一国家日本の
統一国家日本の首都・
首都・平城
京が完成し
完成し遷都しました
遷都しました。
しました。天武・
天武・持統政権が
持統政権が統一国家建設を
統一国家建設を押し進めようとしたとき、
めようとしたとき、大きな政治課題
きな政治課題が
政治課題が二
つ存在しました
存在しました。
しました。
第一は
第一は「日本國」
日本國」の王都・
王都・藤原京です
藤原京です。
です。
この旧都
この旧都をそのまま
旧都をそのまま存続
をそのまま存続さすわけにはいかない
存続さすわけにはいかない。
さすわけにはいかない。新統一国家の
新統一国家の政治・
政治・行政・
行政・外交は
外交は、全て平城京が
平城京が中心で
中心で
なければならない。
なければならない。こうして藤原京
こうして藤原京の
藤原京の解体と
解体と破壊が
破壊が実行されました
実行されました。
されました。藤原京は
藤原京は破壊され
破壊 され、
され、有効な
有効な建材は
建材は平城
京の建築資材として
建築資材として利用
として利用されました
利用されました。
されました。藤原京は
藤原京は消え失せ、どこに存在
どこに存在したということすら
存在したということすら近年
したということすら近年まで
近年まで分
まで分からない
まま、
まま、田畑の
田畑の下に埋もれていました。
もれていました。
-2-
天武統一国家の
天武統一国家の首都・
首都・平城京では
平城京では、
では、今年2010
今年2010年
2010年、1300年遷都
1300年遷都の
年遷都の祝賀の
祝賀の行事が
行事が行われています。
われています。もし藤原
もし藤原
京が持統による
持統 による造営
による 造営であったならば
造営 であったならば、
であったならば、元明・
元明 ・平城京遷都より
平城京遷都より持統
より持統・
持統・藤原京遷都の
藤原京遷都の方 が歴史的意義は
歴史的意義 は遙かに
多大です
多大です。
です。祝賀すべきは
祝賀すべきは藤原京造営
すべきは藤原京造営です
藤原京造営です。
です。だが、
だが、どうです。
どうです。藤原京は
藤原京は、ひっそりと夏草
ひっそりと夏草の
夏草の下に眠っています。
っています。
藤原京は
藤原京は天皇家の
天皇家の京ではなかったのです。
ではなかったのです。天武によって
天武によって滅
によって滅ぼされた「
ぼされた「日本國」
日本國」の京だったのです。
だったのです。
第二は
第二は法興寺です
法興寺です。
です。
「上宮聖王」
上宮聖王」建立の
建立の法興寺、
法興寺、百済・
百済・高句麗・
高句麗・旧日本國の
旧日本國の願いを込
いを込めて敬造
めて敬造された
敬造された丈六釈迦如来像
された丈六釈迦如来像(
丈六釈迦如来像(飛鳥大
仏)を本尊とする
本尊とする法興寺
とする法興寺。
法興寺。高句麗・
高句麗・百済・
百済・旧日本國の
旧日本國の三国友好の
三国友好の象徴であった
象徴であった法興寺
であった法興寺。
法興寺。この寺
この寺の存在は
存在は決し
て許されない。
されない。
この寺
この寺が存在する
存在する限
する限り、旧日本國の
旧日本國の偉大な
偉大な王・上宮聖王は
上宮聖王は、民衆の
民衆 の心から消
から消えることはない。
えることはない。その信仰
その信仰の
信仰の
中心、
中心、法興寺は
法興寺は解体されねばならない
解体されねばならない。
されねばならない。・・・・・・法興寺
・・・・・・法興寺は
法興寺は必死に
必死に存続を
存続を嘆願したことでしょう
嘆願したことでしょう。
したことでしょう。せめて上宮聖
せめて上宮聖
王の菩提を
菩提を弔いたい。
いたい。せめて「
せめて「止利」
止利」が敬造した
敬造した上宮聖王
した上宮聖王・
上宮聖王・等身大の
等身大の釈迦三尊佛を
釈迦三尊佛を祀りたい。
りたい。・・・・・・・この
・・・・・・・この願
この願
いは聞
いは聞きいれられたのでしょう。
きいれられたのでしょう。法興寺は
法興寺は解体され
解体され、「
され、「中金堂
、「中金堂」「
中金堂」「塔
」「塔」「回廊
」「回廊」「
回廊」「中門
」「中門」
中門」は斑鳩の
斑鳩の地に移築されまし
移築されまし
た。その名前
その名前は
名前は法興寺ではなく
法興寺ではなく法隆寺
ではなく法隆寺でした
法隆寺でした。
でした。焼失した
焼失した法隆寺
した法隆寺としてのみ
法隆寺としてのみ再興
としてのみ再興が
再興が許されたのです。
されたのです。法興寺は
法興寺は
法隆寺として
法隆寺として残
として残り、現在に
現在に伝わります。
わります。飛鳥には
飛鳥には本尊
には本尊「
本尊「丈六釈迦佛像」
丈六釈迦佛像」が残されました。
されました。東金堂、
東金堂、西金堂がど
西金堂がど
のようになったか不明
のようになったか不明ですが
不明ですが、
ですが、法興寺中金堂が
法興寺中金堂が斑鳩に
斑鳩に移された跡地
された跡地には
跡地には「
には 「元興寺」
元興寺」という名
という名の寺が建造され
建造され
ました。「
ました。「元興寺
。「元興寺」
元興寺」の本尊として
本尊として記録
として記録に
記録に残る「丈六釈迦佛」
丈六釈迦佛」とは法興寺
とは法興寺の
法興寺の本尊でした
本尊でした。
でした。
大法興寺。
大法興寺。天武朝においても
天武朝においても外交舞台
においても外交舞台の
外交舞台の中心であった
中心であった法興寺
であった法興寺。
法興寺。世界に
世界に誇る法興寺は
法興寺は姿を消しました。
しました。古
代国家・
代国家・日本國の
日本國の国家理念として
国家理念として建造
として建造された
建造された法興寺
された法興寺は
法興寺は解体され
解体され単
され単なる一私寺
なる一私寺なり
一私寺なり、
なり、その輝
その輝きは二度
きは二度と
二度と復活す
復活す
ることはありませんでした。
ることはありませんでした。
「日本國」
日本國」仏教は
仏教は支柱を
支柱を失ってしまいました。
ってしまいました。同時に
同時に仏教思想を
仏教思想を理念に
理念に掲げた国家
げた国家も
国家も姿を消しました。
しました。
天武統一国家日本國は
天武統一国家日本國 は 、旧「日本國」
日本國」の政治の
政治の中心・
中心・藤原京と
藤原京 と仏教信仰の
仏教信仰 の聖地・
聖地・法興寺の
法興寺の解体・
解体 ・破壊の
破壊の
上に新国家建設を
新国家建設を推し進めたのです。
めたのです。
律令国家の
律令国家の形成
北九州天武國と
北九州天武國 と 日本國を
日本國を統一した
統一した天武
した 天武がめざした
天武 がめざした国家
がめざした国家は
国家は 日本國とは
日本國 とは異
とは 異 なるものでした。
なるものでした。日本國・
日本國・上宮聖
王がめざした国家
がめざした国家の
国家の理念は
理念は仏教立国でした
仏教立国でした。
でした。その象徴
その象徴が
象徴が「法興寺」
法興寺」でした。
でした。仏教を
仏教を基本とした
基本とした国家理念
とした国家理念は
国家理念は友
好国百済・
好国百済・高句麗の
高句麗の国家理念でした
国家理念でした。
でした。日本國の
日本國の上宮聖王もこれらの
上宮聖王もこれらの先進諸国
もこれらの先進諸国の
先進諸国の国家理念を
国家理念を学びながら日本
びながら日本
國の政治を
政治を推し進めたのです。
めたのです。上宮聖王の
上宮聖王の政治理念は
政治理念は単独で
単独で存在したものではなく
存在したものではなく、
したものではなく、世界史(
世界史(極東アジア
極東アジア)
アジア)
の中のひとつとして存在
のひとつとして存在したものだったと
存在したものだったと理解
したものだったと理解しなければならないでしょう
理解しなければならないでしょう。
しなければならないでしょう。
同じことが天武
じことが天武の
天武の政治理念においてもいえます
政治理念においてもいえます。
においてもいえます。天武が
天武が追求した
追求した国家観
した国家観は
国家観 は優れて現実的
れて現実的でした
現実的でした。
でした。天武は
天武は
唐による百済
による百済・
百済・高句麗・
高句麗・日本國の
日本國の滅亡という
滅亡という世界現実
という世界現実の
世界現実の中で日本列島の
日本列島の覇権を
覇権を手に入れました。
れました。天武の
天武の新国
家建設はこの
家建設はこの世界情勢
はこの世界情勢と
世界情勢と深く関わります。
わります。天武にとって
天武にとって天武統一国家建設
にとって天武統一国家建設の
天武統一国家建設の第一歩は
第一歩は唐の国家理念、
国家理念、統治
形態を
形態を学ぶことでした。
ぶことでした。天武が
天武が世界最強の
世界最強の唐帝国から
唐帝国から学
から学んだ国家
んだ国家の
国家の要が「律令」
律令」でした。
でした。天武は
天武は律令国家建
設をめざして着
をめざして着々と手をうちました。
をうちました。
天武4
天武4年(675)
675)
天武10
天武10年
10年(681)
681)
天武13
天武13年
13年(684)
684)
天武14
天武14年
14年(685)
685)
持統3
持統3年(689)
689)
持統4
持統4年(690)
690)
持統8
持統8年(694)
694)
持統11
持統11年
年
697年)
11 (697年
文武4
文武4年(700年
700年)
大宝1
大宝1年(701年
701年)
大宝1
大宝1年(701年
701年)6月
部曲(
部曲(かきべ)
かきべ)廃止
浄御原令(
浄御原令(きよみはらりょう)
きよみはらりょう)撰定開始
氏姓を
氏姓を改め「八色の
八色の姓」を規定
冠位を
冠位を改め、爵位六十階(
爵位六十階(親王・
親王・諸王十二階、
諸王十二階、諸臣四十八階)
諸臣四十八階)の規定
浄御原令(
浄御原令(きよみはらりょう)
きよみはらりょう)二十二巻頒布
浄御原令施行
藤原宮への
藤原宮への遷宮
への遷宮
「大宝令
「大宝令」
大宝令」の撰定開始
「大宝令
「大宝令」
大宝令」の撰定終了「
撰定終了「大宝律」
大宝律」の撰定開始
「大宝律令
「大宝律令」
大宝律令」律六巻・
律六巻・令十一巻制定
中央での
中央での、
での、令の全面的な
全面的な施行開始
-3-
大宝1
大宝1年(701年
701年)8月
大宝2
大宝2年(702年
702年)10月
10月
大宝2
大宝2年(702年
702年)11月
11月
和銅3
和銅3年(710)
710)
和銅4
和銅4年(711)
711)
和銅5
和銅5年(712)
712)
養老2
養老2年(718)
718)
養老3
養老3年(719)
719)頃
養老4
養老4年(720)
720)
養老7
養老7年(723)
723)
天平12
天平12年
12年(740)
740)
天平14
天平14年
14年(742)
742)
天平15
天平15年
15年(743)
743)
天平16
天平16年
16年(744)
744)
天平17
天平17年
17年(745)
745)
律の
律の編纂を
編纂を終了(
終了(大宝律令の
大宝律令の完成)
完成)
律令の
律令の諸国頒布
造籍(
造籍(大宝戸籍)
大宝戸籍)----律令
----律令の
律令の全国的施行開始
平城京遷都
品位による
品位による禄法
による禄法の
禄法の規定
「古事記
「古事記」
古事記」三巻完成
「養老律令
「養老律令」
養老律令」の撰定開始(
撰定開始(・完成)
完成)
「八十一例」
八十一例」の撰定
「日本書紀
「日本書紀」
日本書紀」三十巻・
三十巻・系図一巻完成
「三世一身法
「三世一身法」
三世一身法」施行
恭仁京遷都
紫香楽宮造営
「墾田永年私財法
「墾田永年私財法」
墾田永年私財法」施行
難波京遷都
平城京再遷都
(参考 http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/e_enkaku.html#KanEnkaku)
)
大宝律令は
大宝律令は「国号日本」「
国号日本」「元号
」「元号」「
元号」「平城京
」「平城京」
平城京」等国家建設の
等国家建設の基本となった
基本となった法律
となった法律です
法律です。
です。この律令制定
この律令制定に
律令制定に伴って
「日本書紀編纂」「
日本書紀編纂」「風土記
」「風土記の
風土記の撰上」「
撰上」「度量衡
」「度量衡の
度量衡の制定」「
制定」「銭貨
」「銭貨の
銭貨の鋳造」
鋳造」の諸施策が
諸施策が実施されました
実施されました。「
されました。「度量衡
。「度量衡の
度量衡の制
定」「銭貨
」「銭貨の
銭貨の鋳造」
鋳造」は統一国家建設にとって
統一国家建設にとって不可欠
にとって不可欠な
不可欠な施策です
施策です。
です。秦の始皇帝が
始皇帝が中国を
中国を史上はじめて
史上はじめて統一
はじめて統一した
統一した
ときの施策
ときの施策も
施策も同じです。
じです。天武王朝が
天武王朝が「日本國」
日本國」を支配下におさめたとき
支配下におさめたとき、
におさめたとき、統一の
統一の度量衡を
度量衡を制定し
制定し、統一の
統一の銭貨
の鋳造することは
鋳造することは必然
することは必然の
必然の施策でした
施策でした。
でした。
天武王朝が
天武王朝が大宝律令を
大宝律令を制定したとき
制定したとき、
したとき、基となった律令
となった律令は
律令は唐高宗が
唐高宗が651年
651年に定めた永徽律令
めた永徽律令と
永徽律令と云われま
す。日本國は
日本國は 662年白村江
662年白村江の
年白村江の戦いで唐
いで唐・新羅連合に
新羅連合に敗れました。
れました。この敗戦
この敗戦が
敗戦が天武の
天武の壬申蜂起を
壬申蜂起を誘発し
誘発し、日
本國王の
本國王の敗死をもって
敗死をもって日本國
日本國は
は
滅亡しました
滅亡
しました。
。
勝利した
勝利
した天武
天武はますます
はますます膨張
膨張する
する唐
唐
に
負
けない統一国家建
けない
統一国家建
をもって日本國
しました
した天武はますます膨張する
設を急ぐ必要がありました
必要がありました。
がありました。従って唐高宗
って唐高宗が
唐高宗が制定した
制定した律令
した律令を
律令を研究し
研究し、強力な
強力な自国建設のために
自国建設のために律令
のために律令を
律令を採用し
採用し
たのです。
たのです。唐の冊封国家ではない
冊封国家ではない新生天武国家
ではない新生天武国家が
新生天武国家が唐 の律令をもとに
律令 をもとに律令
をもとに律令を
律令を制定したのにはこのような
制定したのにはこのような必然
したのにはこのような必然
があったからです。
があったからです。
「新益京(
新益京(平城京)」
平城京)」造営
)」造営
天武天皇は
天武天皇は、新都を
新都を「畿内」
畿内」に構想していました
構想していました。「
していました。「畿内
。「畿内」
畿内」とは「
とは「孝徳」
孝徳」の「大化の
大化の改新詔・
改新詔・其の二」に定めて
います。
います。
凡そ畿内(
畿内(うちつくに)
うちつくに)は 、東は 名墾(
名墾(なばり)
なばり)の横河より
横河より以来
より以来(
以来(このかた)、
このかた)、南
)、南は紀伊の
紀伊の兄山より
兄山より以来
より以来、
以来、
西は赤石の
赤石の櫛淵より
櫛淵より以来
より以来、
以来、北は近江の
近江の狭狭波の
狭狭波の合坂山(
合坂山(あふさかやま)
あふさかやま)より以来
より以来を
以来を、畿内國とす
畿内國とす。
とす。
「畿内國」
畿内國」は現在の
現在の「関西」
関西」とほぼ同義
とほぼ同義です
同義です。「
です。「日本國
。「日本國」
日本國」直轄の
直轄の統治地域でした
統治地域でした。
でした。天武は
天武は13年
13年に畿内に
畿内に多く
の人数を
人数を派遣します
派遣します。
します。
天武13
天武13年
13年 2月 28日
28日に、浄廣肆廣瀬王・
浄廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂、
小錦中大伴連安麻呂、及 び判官・
判官・録事・
録事 ・陰陽師・
陰陽師・工匠等を
工匠等を畿
内に遣して、
して、都つくるべき地
つくるべき地を視占しめたまふ
視占しめたまふ。(「
しめたまふ。(「日本書紀
。(「日本書紀・
日本書紀・天武下」)
天武下」)
この記述
この記述から
記述 から、
から、天武天皇がどこにいたのか
天武天皇がどこにいたのか明白
がどこにいたのか明白です
明白です。
です。もし、
もし、天武が
天武が「畿内」
畿内」に居たのであれば、「
たのであれば、「畿内
、「畿内に
畿内に遣
して」
」とは云
して
とは云わない。
わない。具体的な
具体的な地名を
地名を示したでしょう。
したでしょう。このとき天武
このとき天武は
天武は北九州に
北九州に居たのです。
たのです。そしてそこから「
そしてそこから「畿
内」に、新しい都
しい都を造営するために
造営するために、
するために、人材を
人材を派遣したのです
派遣したのです。
したのです。
「壬申の
壬申の乱」に勝利して
勝利して、「
、「日本國王
日本國王・
・
大友皇子」
大友皇子
」を倒した天武
した天武は
しく日本列島の
地位に即きました。
きました。
して、「日本國王
天武は新しく日本列島
日本列島の王の地位に
そして、
そして、統治の
統治の基本施策として
基本施策として、「
として、「日本國
、「日本國」
日本國 」の都であった「
であった「藤原京」
藤原京」に代わって、
わって、新しい都
しい都を造営することを
造営することを構
することを構
想したのです。
したのです。その場所
その場所が
場所が「畿内(
畿内(関西)」
関西)」でした
)」でした。
でした。そのために「
そのために「畿内」
畿内」に「浄廣肆廣瀬王・
浄廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻
呂、及び判官・
判官・録事・
録事・陰陽師・
陰陽師・工匠等」
工匠等」と大規模な
大規模な視察団を
視察団を派遣したのです
派遣したのです。「
したのです。「畿内派遣
。「畿内派遣」
畿内派遣」の記事は
記事は、天武14
天武14
-4-
年9月にもあります。
にもあります。
天武14
天武14年
14年9月11日
11日に、宮處王・
宮處王・廣瀬王・
廣瀬王・難波王・
難波王・竹田王・
竹田王・禰努王を
禰努王を京及び
京及び畿内に
畿内に遣して、
して、各人夫の
各人夫の兵
を校(かむが)
かむが)へしめたまふ
ここでいう「
ここでいう「京及び
京及び畿内」
畿内」とは「
とは「藤原京」
藤原京」と「畿内(
畿内(関西)」
関西)」です
)」です。「
です。「藤原京
。「藤原京」
藤原京」は「日本國」
日本國」の王都でした
王都でした。
でした。天武は
天武は
新統一国家建設のための
新統一国家建設のための新
のための新しい都
しい都を必要としました
必要としました。
としました。それが平城京
それが平城京です
平城京です。
です。平城京造営の
平城京造営の後、日本國の
日本國の京・藤
原京は
原京は破壊され
破壊され長
され長く畑に下に眠っていました。
っていました。
さらに、「
さらに、「畿内
、「畿内」
畿内」の記事が
記事が続きます。
きます。
天武14
年冬10
10月
天武14年冬
14年冬
10月12日
12日に、浄廣肆泊瀬王・
浄廣肆泊瀬王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・
直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官より
判官より以下
より以下、
以下、併て二十人を
二十人を以て、
畿内の
畿内の役(えだち)
えだち)に任(よさ)
よさ)す。
「畿内の
畿内の役」とは、「
とは、「新都造営
、「新都造営」
新都造営」の任務です
任務です。
です。
和銅元年(
和銅元年(708)
708)、「遷都
、「遷都」
遷都」の詔勅。
詔勅。和銅三年(
和銅三年(710)
710)、元明天皇、「
元明天皇、「寧楽宮
、「寧楽宮」
寧楽宮」へ遷る。
「國-評」から「
から「國-郡」へ
1967年
1967年、「藤原京
、「藤原京」
藤原京」から木簡
から木簡が
木簡が出土しました
出土しました。
しました。この木簡
この木簡が
木簡が「古代史」
古代史」の課題を
課題を一挙に
一挙に解決しました
解決しました。
しました。古代国
家の行政組織が
行政組織が「郡」だったのか「
だったのか「評」だったのかという問
だったのかという問いに回答
いに回答を
回答を与えたからです。
えたからです。
内容的に
内容的に注目されるのは
注目されるのは7
されるのは7世紀後半の
世紀後半の木簡である
木簡である。
である。1967年
1967年に藤原京から
藤原京から出土
から出土した
出土した「
した「己亥(
己亥(699)
699)年1
0月上挟国阿波評松里」
月上挟国阿波評松里」と記す木簡により
木簡により、
により、地方行政組織の
地方行政組織の「郡」がいつ成立
がいつ成立したのかという
成立したのかという、
したのかという、いわゆ
る「郡評論争」
郡評論争」が一挙に
一挙に解決した
解決した。『
した。『日本書紀
。『日本書紀』
日本書紀』では、
では、例えば「
えば「伊予国風速郡」(
伊予国風速郡」(持統
」(持統10
持統10年
10年4月条)
月条)のよ
うに、
うに、7世紀後半の
世紀後半の天武・
天武・持統朝の
持統朝の記事に
記事に「-国
「-国-郡』とみえている。
とみえている。しかし右
しかし右の木簡により
木簡により、
により、701年
701年
(大宝元)
大宝元)年に大宝令が
大宝令が施行される
施行される以前
される以前の
以前の地方行政組織は
地方行政組織は、「国
、「国-評-里」だったのであり、
だったのであり、大宝令
施行以後に
施行以後に「国-郡-里」となったことが確実
となったことが確実となった
確実となった。
となった。つまり、『
つまり、『日本書紀
、『日本書紀』
日本書紀』では、
では、編纂された
編纂された奈良時
された奈良時
代初期の
代初期 の知識で
知識で『日本書紀』
日本書紀』は720年
720年(養老4
養老4)年5月21日
21日に奏上された
奏上された)、
された)、大宝以前
)、大宝以前の
大宝以前の原資料に
原資料に手
を入れているのであり、
れているのであり、そのまま信用
そのまま信用してはいけないことがはっきりしたのである
信用してはいけないことがはっきりしたのである。
してはいけないことがはっきりしたのである。古代史研究におけ
古代史研究におけ
る木簡の
木簡の重要性が
重要性が、この木簡
この木簡によって
木簡によって決定
によって決定したと
決定したと言
したと言ってよい。
ってよい。
(「木簡
(「木簡から
木簡から古代
から古代がみえる
古代がみえる」
がみえる」和田萃
和田萃・木簡学会・
木簡学会・岩波新書)
岩波新書)
要約してみましょう
要約してみましょう。
してみましょう。
(1) 「己亥(
己亥(699)
699)年10月上挟国阿波評松里
10月上挟国阿波評松里」
月上挟国阿波評松里」と記された木簡
された木簡が
木簡が出土した
出土した。
した。
「701年大宝令
701年大宝令」
年大宝令」では「
では「国-郡-里」制である。
である。従って、
って、699年
699年、「大宝令
、「大宝令」
大宝令」以前は
以前は「国-評」制だった。
だった。
(2) ところが、「
ところが、「日本書紀
、「日本書紀」
日本書紀」は「701年
701年」以前の
以前の記事に
記事に「郡」を使って表記
って表記している
表記している。
している。
夏4月の10日
10日に、使者を
使者を遣して、
して、廣瀬大忌神と
廣瀬大忌神と龍田風神とを
龍田風神とを祀
とを祀らしむ。
らしむ。戊戌に
戊戌に、追大貳を
追大貳を以て、伊豫
國の風速郡のひと
風速郡のひと物部薬
物部薬と
と
、
肥後國の
肥後國
の
皮石郡のひと
皮石郡
のひと壬生諸石
壬生諸石とに
とに授
授
けたまふ。(
けたまふ
。(持統
持統10
月条)
のひと物部薬
のひと壬生諸石とに
。(持統10年
10年4月条)
(3) 何故、
何故、このような誤記
このような誤記が
誤記が生じたかというと「
じたかというと「日本書紀」
日本書紀」が奏上された
奏上された720
された720年
720年にはすでに「
にはすでに「国-郡」制が確
立していた。「
していた。「日本書紀
。「日本書紀」
日本書紀」編纂者は
編纂者は、この「
この「郡制度」
郡制度」の中で「日本書紀」
日本書紀」を書いた。
いた。故に本来「
本来「風速評」
風速評」
「皮石評」
皮石評」とあった「
とあった「原資料」
原資料」に「手を入れて」「
れて」「風速郡
風速郡」「
」「皮石郡
皮石郡」
」
と
書
き
直
したのである。
したのである
。
」「風速郡」「皮石郡
私たちの判断
たちの判断
私たちは以上
たちは以上の
以上の考察に
考察に対して別
して別の視点から
視点から次
から次のように考
のように考えます。
えます。
(1)「藤原京」
藤原京」から出土
から出土した
出土した「
した「木簡」
木簡」には「
には「己亥(
己亥(699)
699)年10月上挟国阿波評松里
10月上挟国阿波評松里」
月上挟国阿波評松里」と記されていた。
されていた。
「藤原京」
藤原京 」は 「日本國」
日本國 」の王都であった
王都であった。
であった。そこから出土
そこから出土した
出土した「
した「木簡」
木簡」には「
には「日本國」
日本國」の行政制度が
行政制度が記されて
-5-
いた。
いた。故、「評
、「評」は「日本國」
日本國」の行政制度であった
行政制度であった。
であった。
木簡に
木簡に記された「
された「上挟国阿波評松里」
上挟国阿波評松里」は「日本國-
日本國-上挟国-
上挟国-阿波評-
阿波評-松里」
松里」と解すべきです。
すべきです。
2008.
2008.6.岡山県総社市南溝手の
岡山県総社市南溝手の大文字遺跡から
大文字遺跡から、
から、文字瓦2
文字瓦2点が出土しました
出土しました。
しました。隣接する
隣接する栢寺廃寺
する栢寺廃寺に
栢寺廃寺に
使用されていたもので
されていたもので、「
使用
されていたもので、「評
、「評」などの文字
などの文字が
文字が刻まれていたといいます。「
まれていたといいます。「栢寺
。「栢寺」
栢寺」は、「加夜国造
、「加夜国造」
加夜国造」であった吉
であった吉
備一族の
備一族の実力者・
実力者・賀陽氏(
賀陽氏 (かやし)
かやし)の氏寺でした
氏寺でした。
でした。総社市に
総社市に建立された
建立された四天王寺式
された四天王寺式の
四天王寺式の伽藍配置のお
伽藍配置のお寺
のお寺
で、このお寺
このお寺の瓦に「評」の文字があったということは
文字があったということは、
があったということは、古代「
古代「岡山・
岡山・吉備の
吉備の國」では行政組織
では行政組織として
行政組織として「
として「国-
評 」制をとっていたと考
をとっていたと考えられます。「
えられます。「古代吉備
。「古代吉備」
古代吉備」と「日本國」
日本國」は深い関係にありました
関係にありました。「
にありました。「國
。「國-評」制度は
制度は
「日本國」
日本國」とその影響下
とその影響下にあった
影響下にあった古代国家
にあった古代国家の
古代国家の行政制度として
行政制度として広
として広く施行されていたのでしょう
施行されていたのでしょう。
されていたのでしょう。
(2)では、
では、北九州に
北九州に存在した
存在した「
した「天武」
天武」の国ではどのような行政制度
ではどのような行政制度になっていたのであろか
行政制度になっていたのであろか。
になっていたのであろか。
「天武朝」
天武朝」においては、「
においては、「國
、「國-郡」制が確立していた
確立していた。
していた。このように考
このように考えるべきでしょう。
えるべきでしょう。
「郡」制度は
制度は、「701
、「701年
701年・大宝令」
大宝令」によって確立
によって確立されたが
確立されたが、
されたが、その意味
その意味は
意味は、この時
この時、「郡制度
、「郡制度」
郡制度」が全国的に
全国的に確立
したということで、
したということで、この時
この時に「郡」制度が
制度が新しく創設
しく創設されたのではない
創設されたのではない。
されたのではない。元々、「北九州
々、「北九州・
北九州・天武朝」
天武朝」では「
では「郡」
制度だった
制度だった。
だった。それを全国化
それを全国化したのです
全国化したのです。
したのです。
「北九州」
北九州」の「風土記」
風土記」である「
である「豊後國風土記」
豊後國風土記」では、「
では、「郡
、「郡 」と書かれている。「
かれている。「日田
。「日田の
日田の郡」「直入
」「直入りの
直入りの郡
りの郡」
「大野の
大野の郡」「海部
」「海部の
海部の郡」とある。「
とある。「豊後國
。「豊後國」
豊後國」では、「
では、「國
、「國-日田郡-
日田郡-里」という行政組織
という行政組織だった
行政組織だった。
だった。
だが、「
だが、「風土記
、「風土記」
風土記」においても、
においても、本来は
本来は「日田の
日田の評」「直入
」「直入りの
直入りの評
りの評」だった。
だった。それに「
それに「手を入れて」「
れて」「郡
」「郡」に書き
直したと考
したと考えることは可能
えることは可能である
可能である。
である。しかし、
しかし、そこには全
そこには全ての「
ての「評」を「郡」書き直す理由がない
理由がない。「
がない。「風土記
。「風土記」
風土記」に
は「評」を「郡」に全面書き
全面書き直すほどの必然性
すほどの必然性がないのである
必然性がないのである。
がないのである。たとえば、「
たとえば、「風土記
、「風土記」
風土記」は「姫氏倭國」
姫氏倭國」の行政
制度であった
制度であった「
であった「國-懸」をそのままの表記
をそのままの表記で
表記で書き残している。
している。
(3)「壬申の
壬申の乱」に勝利して
勝利して「
して「日本國」
日本國」を打ち倒した「
した「天武政権」
天武政権」は「日本國」
日本國」の「国-評」制度を
制度を廃止して
廃止して、
して、
自国の
自国の「国-郡」制度を
制度を新しい「
しい「統一国家」
統一国家」の行政制度と
行政制度と定めました。
めました。その法制的表現
その法制的表現が
が
「
701年
701
年
・大宝
法制的表現
令」です。
です。
「評制度」
評制度」は「日本國」
日本國」の行政制度で
行政制度で、「郡制度
、「郡制度」
郡制度」は「天武國」
天武國」の行政制度でした
行政制度でした。「
でした。「日本國
。「日本國」
日本國」を滅ぼし、
ぼし、
列島の
列島 の支配者となった
支配者となった「
となった 「天武」
天武 」は 国内の
国内の行政組織を
行政組織 を統一すべく
統一すべく、
すべく、それまで施行
それまで施行されていた
施行 されていた「
されていた「國- 評」制
度を廃止して
廃止して、「
して、「天武政権
、「天武政権」
天武政権」が用いてきた「
いてきた「國-郡」制度を
制度を全国に
全国に導入しました
導入しました。
しました。こうして「
こうして「中央集権」
中央集権」国家
を建設していったのです
建設していったのです。
していったのです。
もし「
もし「評」から「
から「郡」への行政改革
への行政改革の
行政改革の背景に
背景に「日本國」
日本國」の滅亡と
滅亡と「天武統一国家」
天武統一国家」建国という
建国という史実
という史実が
史実が存在
しなくて、
、ただ単
しなくて
ただ単に「評」制度を
制度を「郡」制度に
制度に名称変更しただけのことであれば
名称変更しただけのことであれば、「
しただけのことであれば、「評
、「評」を消し去る必然はな
必然はな
い。今までは「
までは「評」を使っていたが、
っていたが、今後は
今後は「郡」になったと説明
になったと説明すればすむことである
説明すればすむことである。「
すればすむことである。「日本書紀
。「日本書紀」
日本書紀」全編
に渡って「
って「郡」と書きかえる必要
きかえる必要はまったくなかった
必要はまったくなかった。「
はまったくなかった。「評
。「評」から「
から「郡」への統治
への統治システム
統治システムの
システムの変更は
変更は「評国家」
評国家」
から「
から「郡国家」
郡国家」への日本列島主権交替
への日本列島主権交替が
日本列島主権交替が背景に
背景に存在したからです
存在したからです。「
したからです。「評国家
。「評国家」
評国家」が滅び、「評制度
、「評制度」
評制度」が廃止
されたのです。
されたのです。
(4)「日本書紀」
日本書紀」は「天武統一国家」
天武統一国家」の正史として
正史として編纂
として編纂された
編纂された史書
された史書です
史書です。
です。従って「
って「日本書紀」
日本書紀」編纂者たちは
編纂者たちは、
たちは、
「天武国家」
天武国家」の「郡」制度が
制度が確立した
確立した状況
した状況の
状況の中で、「伊豫國
、「伊豫國・
伊豫國・風速郡」「
風速郡」「肥後國
」「肥後國・
肥後國・皮石郡」
皮石郡」と「郡制」
郡制」で書い
たのです。「
たのです。「日本書紀
。「日本書紀」
日本書紀」を編纂した
編纂した時点
した時点では
時点では、
では、すでに「
すでに「評制度」
評制度」は存在しなかったのですから
存在しなかったのですから、
しなかったのですから、全て「郡制
度」で書いたのは無理
いたのは無理もないでしょう
無理もないでしょう。
もないでしょう。
私たちは「
たちは「日本書紀」
日本書紀」に「評」を見ることができませんが、
ることができませんが、実は見えていないのは「
えていないのは「評制度」
評制度」だけではな
「評制度」
評制度」を施行していた
施行していた「
していた「日本國」
日本國」が見えていないのです。「
えていないのです。「日本國
。「日本國-
日本國-評-里」という統治
という統治システム
統治システムを
システムを全
国に施行していた
施行していた「
していた「日本國」
日本國」が存在したという
存在したという認識
したという認識を
認識を持つことができないのです。
つことができないのです。ここに私
ここに私たちの古代日
たちの古代日
本の歴史認識における
歴史認識における本質的
における本質的な
本質的な課題があります
課題があります。「
があります。「日本書紀
。「日本書紀」
日本書紀」編纂の
編纂の問題を
問題を指摘するのは
指摘するのは当然
するのは当然ですが
当然ですが、
ですが、
「日本國」
日本國」という存在
という存在を
存在を見ることができない私
ることができない私たちの認識
たちの認識により
認識により重大
により重大な
重大な問題があるでしょう
問題があるでしょう。
があるでしょう。
-6-
「伊勢神宮」
伊勢神宮」遷居
関西に
関西に古代天皇を
古代天皇を祭神とする
祭神とする神社
とする神社はありません
神社はありません。
はありません。大阪河内の
大阪河内の大きな神社
きな神社といえば
神社といえば石切剣箭神社
といえば石切剣箭神社(
石切剣箭神社(いしきり
つるぎやじんじゃ)
つるぎやじんじゃ)があります。
があります。
大阪府東大阪市にある
大阪府東大阪市にある神道石切教
にある神道石切教の
神道石切教の神社で
神社で、延喜式神名帳に
延喜式神名帳に記載されている
記載されている河内郡
されている河内郡の
河内郡の式内小社で
式内小社で
す。「石切
。「石切さん
石切さん」
さん」として親
として親しまれ、
しまれ、拝殿と
拝殿と神社入口(
神社入口(百度石)
百度石)の間を行き来する「
する「お百度参り
百度参り」はご利益
はご利益が
利益が
あるとして全国的
あるとして全国的にも
全国的にも有名
にも有名となっている
有名となっている。
となっている。また、「
また、「デンボ
、「デンボ(
デンボ(腫れ物)の神様」
神様」として知
として知られ、
られ、がん封
がん封じの霊
じの霊
験あらたかとして多
あらたかとして多くの参詣客
くの参詣客が
参詣客が訪れる。
れる。物部氏の
物部氏の有力支族である
有力支族である穂積氏
である穂積氏が
穂積氏が祭神を
祭神を祀ったとされ、
ったとされ、物
部氏ゆかりの
部氏ゆかりの神社
ゆかりの神社である
神社である。
である。
本社の
本社の南に大きな絵馬殿
きな絵馬殿があり
屋根上には劔箭
をさしている。現在の
現在の運営は
運営は単立の
単立の宗教法人
絵馬殿があり、
があり、屋根上には
には劔箭が
劔箭が天をさしている。
である神道石切教本庁
ja.wikipedia.org/wiki/石切剣箭神社
石切剣箭神社である神道石切教本庁である
神道石切教本庁である。
である。
石切剣箭神社
「石切さん
石切さん」
東大阪市にある大
きな神社ですが
どう考えても古代天皇
えても古代天皇を
祭神とした神社
さん」は東大阪市にある
にある大きな神社
神社ですが、
ですが、どう考
古代天皇を祭神とした
とした神社ではありません
神社ではありません。
ではありません。
物部氏ゆかりの
物部氏 ゆかりの神社
ゆかりの神社と
神社 と云います。
います。物部氏は
物部氏は 大阪河内を
大阪河内を本拠とした
本拠とした「
とした「日本國」
日本國」の大豪族でした
大豪族でした。
でした。従 って大阪河
って大阪河
内に物部氏の
物部氏の大きな神社
きな神社が
神社が存在するというのは
存在するというのは当然
するというのは当然なのです
当然なのです。
なのです。ところが古代天皇
ところが古代天皇を
古代天皇を祭神とした
祭神とした大
とした大きな神社
きな神社が
神社が
河内・
河内・奈良には
奈良には存在
には存在しないのです
存在しないのです。
しないのです。成る程、天皇陵と
天皇陵と推定されている
推定されている陵
されている陵は存在します
存在します。
します。しかし、
しかし、その陵
その陵には確
には確
かにその天皇
かにその天皇の
天皇の陵だと印
だと印はない。
はない。だが、
だが、神社には
神社には祭神
には祭神が
祭神が代々伝えられてきています。
えられてきています。
北九州には
北九州には至
には至る所に古代天皇を
古代天皇を祭神とする
祭神とする神社
とする神社が
神社が存在します
存在します。
します。大阪河内・
大阪河内・奈良・
奈良・飛鳥には
飛鳥には古代天皇
には古代天皇を
古代天皇を祭
神とする神社
とする神社は
神社は存在しません
存在しません。
しません。理由は
理由は明白でしょう
明白でしょう。
でしょう。古代天皇家は
古代天皇家は大阪・
大阪・飛鳥に
飛鳥に存在したのではなく
存在したのではなく、
したのではなく、北九
州に存在したのです
存在したのです。
したのです。
天武が
天武 が列島の
列島の覇者となり
覇者 となり、
となり、都が平城京に
平城京に遷った後
った後 も、北九州に
北九州に存在した
存在した古代天皇
した古代天皇を
古代天皇を祭神とする
祭神とする神社
とする神社はそ
神社はそ
のまま北九州
のまま北九州に
北九州に残されました。
されました。しかし、
しかし、例外があります
例外があります。
があります。伊勢神宮です
伊勢神宮です。
です。伊勢神宮は
伊勢神宮は壬申の
壬申の乱の時にも登場
にも登場し
登場し
ます。
ます。天武が
天武が吉野・
吉野 ・耳我の
耳我の嶺を下って目指
って目指した
目指した所
した所が「伊勢」
伊勢」です。「
です。「伊勢
。「伊勢」
伊勢」は天武蜂起の
天武蜂起の拠点でした
拠点でした。「
でした。「伊勢
。「伊勢」
伊勢」
には「
には「伊勢神宮」
伊勢神宮」が存在しました
存在しました。
しました。そのような因縁
そのような因縁で
因縁で天武政権が
天武政権が飛鳥に
飛鳥に移動したのち
移動したのち、「
したのち、「伊勢神宮
、「伊勢神宮」
伊勢神宮」も遷居す
遷居す
ることになりました。
ることになりました。天武統一国家の
天武統一国家の国家宗教となったのです
国家宗教となったのです。
となったのです。
日本書紀の
日本書紀の推古・
推古・舒明・
舒明・皇極・
皇極・孝徳・
孝徳・斉明・
斉明・天智の
天智の各天皇の
各天皇の時代には
時代には「
には「伊勢神宮」
伊勢神宮」は一切登場しません
一切登場しません。
しません。何
故かその理由
かその理由は
理由は明白です
明白です。
です。推古紀・
推古紀・舒明紀・
舒明紀・皇極紀・
皇極紀・孝徳紀・
孝徳紀・斉明紀・
斉明紀・天智紀は
天智紀は名前は
名前は「天皇紀」
天皇紀」ですが、
ですが、内
容は「日本國」
日本國」の歴史記録です
歴史記録です。「
です。「日本國
。「日本國」
日本國」にとって「
にとって「伊勢神宮」
伊勢神宮」は無縁の
無縁の神です。「
です。「日本國
。「日本國」
日本國」の歴史に
歴史に天照大
神と「伊勢神宮」
伊勢神宮」は登場しようがないのです
登場しようがないのです。
しようがないのです。
「伊勢神宮」
伊勢神宮」の「祠」は「垂仁紀」
垂仁紀」に登場します
登場します。
します。
垂仁25
垂仁25年
25年3月10日
10日、・・・故
・・・故、大神の
大神の教え随に、其の祠を伊勢國に
伊勢國に立てたまふ。
てたまふ。因りて齋宮
りて齋宮を
齋宮を五十鈴の
五十鈴の
川上に
に興つ。是を磯宮と
川上
磯宮と謂う。則ち天照大神の
天照大神の始めて天
めて天より降
より降ります所
ります所なり。
なり。
「天(あま)」
あま)」とは
)」とは彦島
とは彦島・
彦島・「天(あま)」
あま)」です
)」です。
です。天照大神が
天照大神が初めて「
めて「天(あま)」
あま)」から
)」から他国
から他国へ
他国へ降ったことを伝
ったことを伝える記事
える記事
です。「
。「祠
です
。「祠」を「伊勢國」
伊勢國」に建て、「五十鈴川
、「五十鈴川」
五十鈴川」の側には「
には「齋宮」
齋宮」を建てたと謂
てたと謂います。
います。もし「
もし「伊勢國」
伊勢國」が現在の
現在の三
重県・
重県・伊勢であれば
伊勢であれば、「
であれば、「推古紀
、「推古紀」
推古紀」以降の
以降の記事に
記事に「伊勢神宮」
伊勢神宮」が登場して
登場して当然
して当然です
当然です。
です。しかし、
しかし、ない。
ない。この「
この「伊勢國」
伊勢國」
は、古代伊勢國即ち
古代伊勢國即ち行橋市です
行橋市です。
です。天照大神は
天照大神は彦島から
彦島から行橋市
から行橋市に
行橋市に遷居したという
遷居したという説話
したという説話です
説話です。
です。この説話
この説話は
説話は天照
御神の
御神の居所彦島がもはや
居所彦島がもはや王朝
がもはや王朝の
王朝の中心ではなくなったという
中心ではなくなったという背景
ではなくなったという背景があるように
背景があるように思
があるように思います。
います。この時代
この時代には
時代には小倉南
には小倉南
区・行橋を
行橋を中心とした
中心とした国家経営
とした国家経営となりました
国家経営となりました。
となりました。天照を
天照を祀った神社
った神社もそれにあわせて
神社もそれにあわせて遷居
もそれにあわせて遷居したのです
遷居したのです。
したのです。
その後長
その後長い
後長い空白があり
空白があり天照大神
があり天照大神が
天照大神が再び登場するのは
登場するのは天武
するのは天武・
天武・持統紀です
持統紀です。
です。
天武2
天武2年夏4
年夏4月14日
14日に、大来皇女を
大来皇女を天照太神宮に
天照太神宮に遣侍さむとして
遣侍さむとして、
さむとして、泊瀬齋宮に
泊瀬齋宮に居らしむ。
らしむ。是は先ず身
を潔めて、
めて、稍に神に近づく所
づく所なり。
なり。
天武3
天武3年冬10
年冬10月
10月9日に、大来皇女、
大来皇女、泊瀬の
泊瀬の齋宮より
齋宮より、
より、伊勢神宮に
伊勢神宮に向でたまふ。
でたまふ。
天武15
天武15年夏
15年夏4
年夏4月27日
27日に、多紀皇女・
多紀皇女・山背姫王・
山背姫王・石川夫人を
石川夫人を伊勢神宮に
伊勢神宮に遣す。5月9日に、多紀皇女
等、伊勢より
伊勢より至
より至り。
-7-
持統2
持統2年11月
11月16日
16日に、伊勢神祠に
伊勢神祠に奉れる皇女大来
れる皇女大来、
皇女大来、還りて京師
りて京師に
京師に至る。
持統6
持統6年2月11日
11日に、諸官に
諸官に詔して曰
して曰はく「
はく「當に3月3日を以て、伊勢に
伊勢に幸さむ。
さむ。此の意を知りて、
りて、諸の
衣を備ふべし」
ふべし」とのたまふ。
とのたまふ。
天武2
天武 2年の記事の
記事の伊勢神宮は
伊勢神宮は行橋の
行橋の伊勢神宮です
伊勢神宮です。「
です。「泊瀬齋宮
。「泊瀬齋宮」
泊瀬齋宮」は文学大系・
文学大系・日本書紀下頭注3
日本書紀下頭注3は奈良
県桜井市初瀬とするが
県桜井市初瀬とするが奈良県初瀬
とするが奈良県初瀬と
奈良県初瀬 と三重県伊勢神宮とは
三重県伊勢神宮 とは離
とは 離れすぎます。
れすぎます。奈良県初瀬で
奈良県初瀬で「身を潔める」
める」て伊
勢の天照神に
天照神に近づくに何日
づくに何日かかりますか
何日かかりますか。
かかりますか。遠すぎます。
すぎます。齋宮は
齋宮は神宮の
神宮の近くになければなりません。
くになければなりません。齋宮は
齋宮は垂
仁紀が
仁紀が記すように古代伊勢國
すように古代伊勢國の
古代伊勢國の五十鈴川の
五十鈴川の河上の
河上の齋宮です
齋宮です。
です。
垂仁25
垂仁25年
25年3月10日
10日、・・・故
・・・故、大神の
大神の教え随に、其の祠を伊勢國に
伊勢國に立てたまふ。
てたまふ。因りて齋宮
りて齋宮を
齋宮を五十鈴の
五十鈴の
川上に
に興つ。是を磯宮と
川上
磯宮と謂う。則ち天照大神の
天照大神の始めて天
めて天より降
より降ります所
ります所なり。
なり。
ところが持統
ところが持統6
持統6年の伊勢は
伊勢は 三重県伊勢です
三重県伊勢です。
です。伊勢神宮は
伊勢神宮は九州・
九州・行橋から
行橋から三重
から三重・
三重・伊勢に
伊勢に遷居しました
遷居しました。
しました。大来
皇女は
は、古い伊勢神宮と
皇女
伊勢神宮と新しい伊勢神宮
しい伊勢神宮に
伊勢神宮に仕えた最初
えた最初の
最初の皇族でした
皇族でした。
でした。
持統6
持統6年の伊勢行幸は
伊勢行幸 は持統朝の
持統朝の主要な
主要なメンバ-
メンバ-全員による
全員による大
による大がかりなものだったのでしょう。
がかりなものだったのでしょう。持統は
持統は諸官
に「此の意を知りて、
りて、諸の衣を備ふべし」
ふべし」と命令しています
命令しています。
しています。単に持統個人が
持統個人が参拝したのではなく
参拝したのではなく、
したのではなく、王朝あげ
王朝あげ
て伊勢神宮に
伊勢神宮に参詣した
参詣した模様
した模様です
模様です。
です。故にその行幸
にその行幸のついて
行幸のついて「
のついて「農時」
農時」と重なるから中止
なるから中止してくださいと
中止してくださいと臣
してくださいと臣が諫めた
のです。
のです。
是の日に、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、
中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、表 を上りて敢直言
りて敢直言(
敢直言(ただにまう)
ただにまう)して、
して、天皇の
天皇 の、伊勢に
伊勢に
幸さむとして、
さむとして、農時(
農時(なりはひのとき)
なりはひのとき)を妨げたまふことを諫
げたまふことを諫め争めまつる。
めまつる。 (日本書紀・
日本書紀・持統6
持統6年2月)
しかし、
しかし、持統はそれらの
持統はそれらの忠告
はそれらの忠告を
忠告を無視して
無視して伊勢
して伊勢に
伊勢に出かけました。
かけました。無論持統はその
無論持統はその時期
はその時期が
時期が「農時」
農時」に重なり、
なり、農
民 に大きな負担
きな負担をかけることは
負担をかけることは十分承知
をかけることは 十分承知だったでしょう
十分承知 だったでしょう。
だったでしょう。にもかかわらずあえてその時期
にもかかわらずあえてその時期に
時期に「伊勢行幸」
伊勢行幸」を強
行したのはそうすべき理由
したのはそうすべき理由があったからです
があったからです。
。
伊勢行幸を
伊勢行幸
を
断行しなければならない
断行
しなければならない理由
理由はこの
はこの時北九州行橋
理由があったからです
しなければならない理由はこの時北九州行橋
から三重県伊勢
から三重県伊勢に
三重県伊勢に皇祖天照大御神が
皇祖天照大御神が遷されたからでしょう。「
されたからでしょう。「農時
。「農時」
農時」であろうとなかろうと「
であろうとなかろうと「伊勢行幸」
伊勢行幸」は為さな
ければならない国家行事
ければならない国家行事だったのです
国家行事だったのです。
だったのです。この時
この時 、「伊勢神宮
、「伊勢神宮」
伊勢神宮」は 単に天皇家の
天皇家の祖先神を
祖先神を祀るという私的
るという私的な
私的な存
在から、
から、天武統一国家宗教の
天武統一国家宗教の位置に
位置に昇格したのではないでしょうか
昇格したのではないでしょうか。
したのではないでしょうか。
天武統一国家の
天武統一国家 の国家宗教が
国家宗教 が伊勢神宮でした
伊勢神宮でした。
でした。旧日本國が
旧日本國 が仏教を
仏教を国家理念として
国家理念 として布教
として布教したと
布教 したと同
したと同じように、
じように、
天武統一国家は
天武統一国家 は皇祖崇拝を
皇祖崇拝を国家宗教としました
国家宗教としました。
としました。天武・
天武・持統は
持統は北九州・
北九州・天皇家の
天皇家の数ある祖先神
ある祖先神の
祖先神の一人にす
一人にす
ぎなかった天照大神
ぎなかった天照大神を
天照大神を国家宗教の
国家宗教の核に昇華させて
昇華させて精神的中央集権
させて精神的中央集権を
精神的中央集権を図りました。
りました。
古代伊勢神宮が
古代伊勢神宮が存在したのは
存在したのは行橋市
したのは行橋市の
行橋市の中州だったと
中州だったと考
だったと考えられます。
えられます。そこが天武壬申
そこが天武壬申の
天武壬申の乱の拠点でした
拠点でした。
でした。
天武が
天武が吉野の
吉野の山を下る時「伊勢に
伊勢に逢へ」と命令を
命令を下したのは伊勢
したのは伊勢が
伊勢が天武政権にとって
天武政権にとって重要
にとって重要な
重要な国だったからで
す 。神武の
神武の都 ・田川市から
田川市から見
から見 れば行橋
れば 行橋はちょうど
行橋はちょうど東
はちょうど東に当たります。
たります。当時、
当時、東国とは
東国とは行橋方面
とは行橋方面をさしました
行橋方面をさしました。
をさしました。東
海が周防灘をさしたのと
周防灘をさしたのと同
をさしたのと同じ東方認識です
東方認識です。
です。壬申の
壬申の乱を戦った「
った「東国の
東国の武将」
武将」とは小倉南区
とは小倉南区・
小倉南区・行橋出身の
行橋出身の武
将でした。
でした。天武が
天武が壬申の
壬申の乱を勝利に
勝利に導いた東国
いた東国の
東国の神・天照御神を
天照御神を手厚く
手厚く祀ったのは当然
ったのは当然といえるでしょう
当然といえるでしょう。
といえるでしょう。
天武朝の
天武朝の遣唐使
677年
677年、東アジアに
アジアに衝撃が
衝撃が走りました。
りました。新羅が
新羅が、唐支配に
唐支配に反乱し
反乱し、朝鮮半島を
朝鮮半島を統一したのです
統一したのです。
したのです。唐に対抗
できるほどの統一国家
統一国家が
できるほどの
統一国家が誕生しました
誕生しました。
しました。唐は朝鮮半島から
朝鮮半島から撤退
から撤退を
撤退を余儀なくされました
余儀なくされました。
なくされました。極東アジア
極東アジアにとってこ
アジアにとってこ
れほど重大
れほど重大な
重大な意味をもつ
意味をもつ出来事
をもつ出来事はなかったでしょう
出来事はなかったでしょう。
はなかったでしょう。あの強大
あの強大な
強大な唐が撤退せざるをえなかったのです
撤退せざるをえなかったのです。
せざるをえなかったのです。
唐は朝鮮半島に
朝鮮半島に足場がなくなった
足場がなくなった以上
がなくなった以上、
以上、日本植民地化は
日本植民地化は残念ながら
残念ながら放棄
ながら放棄せざるを
放棄せざるを得
せざるを得ないと判断
ないと判断したので
判断したので
しょう。
しょう。日本からも
日本からも撤退
からも撤退していきました
撤退していきました。
していきました。九州都督府に
九州都督府に置いた唐占領指令部
いた唐占領指令部の
唐占領指令部の記事はこれ
記事はこれ以降登場
はこれ以降登場しません
以降登場しません。
しません。
唐の出現は
出現は、朝鮮半島に
朝鮮半島に栄えてきた古代国家百済
えてきた古代国家百済・
古代国家百済・高句麗を
高句麗を滅ぼす結果
ぼす結果となりました
結果となりました。
となりました。日本國は
日本國は「白村
江」で敗戦した
敗戦した後
後
、
直接唐の
直接唐
の
武力侵略を
武力侵略
を
受
けたわけではありませんが、
けたわけではありませんが
、
この好機
この
好機(
(
壬申)
壬申
)
を
逃さず蜂起
さず蜂起した
した
好機
蜂起した
北九州・
北九州・天武政権によって
天武政権によって滅
によって滅ぼされてしまいました。
ぼされてしまいました。
このように見
このように見ると、
ると、唐は古代、
古代、極東アジア
極東アジアで
アジアで繁栄した
繁栄した百済
した百済・
百済・高句麗・
高句麗・日本國を
日本國を全て滅ぼしてしまったことにな
ります。
ります。その中
その中で、新羅だけが
新羅だけが朝鮮半島
だけが朝鮮半島を
朝鮮半島を統一し
統一し、強力な
強力な統一国家を
統一国家を建設することによって
建設することによって、
することによって、唐から自立
から自立した
自立した
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道を歩むことができました。
むことができました。唐の周辺の
周辺の国々は学んだのではないでしょうか。
んだのではないでしょうか。統一国家のみが
統一国家のみが強大
のみが強大な
強大な唐帝国
の侵略支配を
侵略支配を跳ね返すことができると。
すことができると。
新羅と
新羅と 友好関係を
友好関係を築いてきた天武政権
いてきた天武政権もまた
天武政権もまた統一国家
もまた統一国家を
統一国家を作ることを急務
ることを急務としました
急務としました。
としました。首都平城京造営・
首都平城京造営・大
宝律令制定・
・國-郡制度の
宝律令制定
郡制度の確立・
確立・伊勢神宮遷宮・・・・・・
伊勢神宮遷宮・・・・・・これらは
・・・・・・これらは強力
これらは強力な
強力な統一国家建設に
統一国家建設に不可欠な
不可欠な要件でし
要件でし
た。見方を
見方を変えれば唐
えれば唐による侵略支配
による侵略支配への
侵略支配への恐怖
への恐怖が
恐怖が天武統一国家・
天武統一国家・日本を
日本を作る原動力となったといえるでしょ
原動力となったといえるでしょ
う。
こうして、
こうして、天武統一国家もまた
天武統一国家もまた唐
もまた唐から自立
から自立した
自立した歩
した歩みを進
みを進めることができました。
めることができました。東アジア世界
アジア世界は
世界は唐を中心に
中心に
新羅・
新羅・天武統一国家・
天武統一国家・日本國という
日本國という国家
という国家が
国家が共存する
共存する時代
する時代となりました
時代となりました。
となりました。
その後
その後、天武統一國家日本もまた
天武統一國家日本もまた日本列島
もまた日本列島を
日本列島を代表する
代表する国家
する国家として
国家として、
として、遣唐使を
遣唐使を派遣することになりました
派遣することになりました。
することになりました。新
たな外交関係
たな外交関係を
外交関係を結ぶ為です。
です。その記録
その記録が
記録が、「大宝二年
、「大宝二年(
大宝二年(702)
702)、遣唐使、
遣唐使、栗田朝臣真人を
栗田朝臣真人を派遣 」です。
です。これが
天武新政権にとって
天武新政権にとって初
にとって初めての遣唐使
めての遣唐使です
遣唐使です。
です。その航路
その航路を
航路を見ると、
ると、従来の
従来の旧「日本國・
日本國・遣唐使」
遣唐使」の北路と
北路と異なりま
す。より危険
より危険な
危険な南島航路をとります
南島航路をとります。
をとります。記録によれば
記録によれば、
によれば、この難路
この難路では
難路では、
では、天武國遣唐使は
天武國遣唐使は、無事到着したものはほ
無事到着したものはほ
とんどなかったと書
とんどなかったと 書いています。
いています。航路変更の
航路変更の理由は
理由 は旧「日本國・
日本國・遣唐使」
遣唐使 」から「
から「天武王朝・
天武王朝 ・遣唐使」
遣唐使」への派遣
への派遣
国家の
国家 の交代です
交代です。
です。天武統一国家日本は
天武統一国家日本は 実力をつけていく
実力をつけていく中
をつけていく中 で、やがて遣唐使
やがて遣唐使は
遣唐使は 廃止され
廃止 され、
され、国風文化が
国風文化 が花
開くことになりました。
くことになりました。
)
(ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF-)
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