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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
Title Author(s) Citation Issue Date URL <批評・紹介>川本吉昭著 魏晉南北朝時代の民族問題 石見, 淸裕 東洋史研究 (2000), 58(4): 777-790 2000-03-31 https://doi.org/10.14989/155268 Right Type Textversion Journal Article publisher Kyoto University 7 7 7 川本芳昭著 鶏膏南北朝時代の民族問題 第一 章 内朝制度 第二篇北貌孝文脅改革前の政治・祉曾鐘制と孝文帯の改革 第二 章 監察制度 第三 章 封霞制度 第四章北族社舎の祭賞と孝文帯の改革 第五章 孝文一帝 のパーソナリティと改革 第六 章 北族集園の溺嬢と太和二十年の謀反・北鎮 の飢 し、一書にまとめられたものである。これまでも多くの研究者が 、 第三 章 胡族漢化の寅態について 第 一章 北裂における身分制に ついて 第二 章 五胡十六園・北朝史における周躍の受容をめ ぐ って 第 一章 六朝における蟹の理解についての 一考察│山越 ・鐙漢 六朝期における蟹の漢化について てきたはずであり、評者もまたその一人であった。そうした意味か されたことは誠に喜ばしく、感界に寄興するところ大であると恩わ まず、右の構成を参照しながら、本研究の基底を貫く著者川本氏 の基本的視座を確認しておきたい。本書 の﹁はじめに﹂で、 著者は おわりに 第三 章 高 句麗の 五部と中園の﹁部﹂について の 一考察 第二 章 四 ・五世紀の中園 と朝鮮 ・日本 第一 章 倭の 五王によ る劉宋遺使の開始とその終鷲 第五篇四・五世紀における東アジアの園際関係 の吠況について 第三 章 措置の問題を中心と してみた六朝期段階に おける各地域 融合の 問題 を中心とし てみ た │ らも、現段階における川本氏の研究のほぼ全貌がこうした形で提示 第二章五胡十六園・北朝時代における﹁正統﹂王朝について 第一章五胡十六園・北朝時代における華夷観の繁遜 第一篇胡漢抗争と融合の軌跡 はじめに 書評の都合上、本書の章立てを掲げれば次のとおりである。 を考えてみたい。 れる。そこで、本書の内容を紹介・批評し、あわせて今後の問題貼 第二 章 第 四 篇 轡漢抗争と融合の軌跡 営該問題を川本氏がどのように理解されたか、氏の論文を参考にし た川本芳昭氏が、その既設表の論考二二篇をテ!?に沿っ て分類 本書は、長年精力的に中園貌 E 日南北朝時代の漢族と非漢族との接 裕 第三篇五前十六園・北朝時代における胡漢融合について 清 燭・融合の事象と、それが中霞史に果たした役割とを考察されてき 見 第三章景穆太子と雀浩│北貌太武帯による駿併前後の政局を めぐって│ 第四章 部族解散の理解をめぐって -137ー 石 778 らされた﹁民族移動﹂現象であり、それが東アジアの諸民族に種々 の獲容を生み出すことになった。そうした袋容は、北方民族が漢民 次のように述べる。貌耳目南北朝時代の中園枇品目に見られる最も特徴 的な現象は、漢一帝園山朋填後の中圏内外の諸勢力の激突によってもた とその歴史において一健いかなる意味をもったのかという貼にこ そ、強い問題意識を抱いているからであろう。それならば、本書は それを個々にどのように分析し たであろうか。以下、順を追っ て見 る。それは著者が、やがて階麿政権を生み出す前提として北朝史を E 南北朝という時代が漢民族の形成 とらえているだけではなく、貌 日 が置かれていたといってよい。ただし、著者の研究の大きな特徴の 一つは、北朝史のみならず南朝史をも分析の針象としている黙にあ 一したため、胡族・漢族の民族差を越えた中華政権を志向し始める からであり、太武一帝の慶併断行もそれによって理解できるからであ る。この太武帝期の胡漢封立解消という現象が、孝文一一帝期には胡族 漢族土大夫暦の関に 北貌を自ら の王朝と認識する史料が散見されて くる。この出炭化の分岐結を、著者は太武帯期とみる。それは、太武 一帝期に鮮卑 拓政政権は他の胡族政権をも支配下にお さめて華北を統 しての屈辱感・恐怖感が存在し、一方胡族側には漢族に到する軍事 的優越感とともに文化的劣等感 ・反援帽酬が混在してい た。こう した 自他意識は北貌初期にも確認されるが、それが孝文帯期になると、 胡族に糾問す る文化的優越感とそれに伴う蔑視観、および 彼女配者と 西膏 ・五胡十六閣期の胡族と漢族は それぞれ自(我)と他︿非我﹀ とを明らかに峻別しており、そうした 意識の根底には、 漢族側には どり、蛍時の中園における意識面での胡漢融合の貧相に迫 る論考。 まず第一篇では、競耳目南北朝期における北方民族と漢族と の抗 争 ・融合過程の底流をつかもうとする。 第一章は、胡族の漢族観、漢族の胡族観のあり方とその襲警Lをた てみよう。 族に同化するというだけでなく、北方民族の移動によって政治・文 化のあらゆる分野にわたって漢民族のあり方が須賀させられてもた らされた。一方、こうした努化は南方世界においても見られ、漢民 族の南方移動は江商社舎にも大きな愛容をもたらした。山越等の江 南先住民の漢民族化だけでなく、先住民との接燭によって江南移住 の漢民族社舎にも製容が生じたのである、と。 こうした槻熱から、著者は分析の観黙を次のようにまとめる。 ①五胡諸民族の移動は、具鐙的には嘗時の中園世界のどの部分 にどのような獲革をもたらしたか。 ②長江以南の非漢族はどのように漢族に吸枚され、また漢民族 形成にいかなる意味を輿えたか。 ③ そ れ ら と 関 連 し て 、中園における民族努容が、中園周透諸民 族の園家形成・民族形成にどのような影響を輿えたか。 このうち、①の税黙に立つ諸論考が本書の章立ての第一 J三篇に 相蛍し、②の硯黙が第四篇に、③の硯燃が第五篇にそれぞれ割りふ 日南北朝期の られている。①に多くの枚数が割かれているのは、貌 E 民族抗争・融合 を考察するにあたって 、五胡等の北方民族が果た し た役割を抜きにして語ることはできず、それどころか北朝は彼ら北 族が政権を掌鐙したために 、北族と漢族との接綱・乳樹怖がストレー トに史料に反映され、そこから多くの問題黙を浮かび上がらせ るこ とができるからであろう。著者のこれまでの研究も、この貼に中心 -138- 7 7 9 の漢族社舎への同化の色彩を強め、南朝に制到する憧僚や ひけ自の 意 識も諸問れ、ちょうどその頃、南朝では侯景の飢による建康壊滅や西 たのであり、こちらは﹁菅(金) ←越 ( 水﹀←燕(木﹀←秦(火) ←貌 質した。とこ ろで 、北致の水徳採用には 反制到する意見も貧は存在し (土)﹂を正統と見る立場で、中原占嬢設に立つ。しかし、 結局こ してきたこ と等の 要因が存在し、 それらが孝文喬一期 の水徳採用に 結 貌による江陵陥落があって華夷観の存在基盤が失われ、ここに北朝 を正統とする思潮が確立し、それが惰唐に受け構かれる。例 の西貌 の中原占嬢設は水徳訟の前に敗れ去り、そこで雀鴻は十六園を傍俄 とする立場から﹃十六園春秋﹄を編纂したのであって、今日の我々 た。本章は、前章 で述べた胡漢の抗争か ら融合への流れ を、王朝の が五胡十六園という時代を想定する歴史認識もこの時に確立され の胡姓再行も、そうした政策を施行しても這和感のない新たな中華 世界がそこに 出現していたことを裏づけるとする。 ただし 、胡姓再 行は政治的・軍事的意味合いも強いと思われ、果たして胡漢融合を 五胡政権に、 正統意識を跡づけることによって確認したものである。北数以前の 跡づけるだけで解答が得られるかどうか等の黙は、問題が残 ろう。 なぜなら、太武帯慶併の政治的背景は 後掲第三重で専述され るが 、 う意識が存在したかどうか興味が 残るが 、北貌を中園史として扱う ﹁中華﹂﹁王師﹂ という自認 はともかく﹁正統﹂とい 西貌・北周、東貌・北斉期の専論は本書 にはないからである。た だ、そうはいっても本章は、従来議論されているようで貨は さほ ど 以上は避けて通れない問題といえよう。 廷事件が協相愛する が、著者によれば監園 であった 景穆太子(太武帝 は、健治の 訣殺、 宣官によ る皇帝謀逆等、短期間のうちに大きな宮 第三章は、太武脅し慶併の政治的背景を取り 上 げ る 。太武一帝期に 正面から取り上げられてはこなかった内面の民族意識の襲遜を迫っ ており、著者が本書で展開する議論の基底ともいうべき見解が 示さ れている。本章が冒頭に置かれたのもそのためであり、以下第三篇 までは本章から個々の問題が掘り下げられる。 第二章では、﹁五胡﹂﹁十六園﹂﹁五胡十六閣時代﹂等の呼稽が めざす勢力と それを撃まない勢力との確執が存在し、前者の中心が の皇太子) の死も皇帯による謀殺の可能性が高い。こうし た事件の 背景には、華北統一を果たした北貌宮廷内に、さらな る帯 一権機大を 太武一帝と雀浩であり、後者の中心は北貌を自己の正統王朝と認めた いつごろ確立されるかという問題から出渡し、五胡十六園・北朝時 子孫を自認したところから五行では土徳を採用したが、孝文帝期に アティプを雀浩に握られている 景穆太子 は必然的に 後者の立場に 加 がらない漢人士大夫麿であって、監園でありながら朝廷内のイニシ 代における諸王朝の正統意識を考察する。北貌は、拓政氏が黄帝の には、東呂田の滅亡、劉宋の出現によって華北の漢人土大夫麿 の南朝 という漢人閲の確執、および華北を統一した北軸却を今後どのよう に 導くかという鮮卑指導者関の経管路線封立が 、複雑にからみあって 措的とな る。すな わち、これらの 宮廷事件には、車 に民族針立 とい うだけでは なく、鮮卑北貌を自己 の王朝と して受け入れ るかどう か 菅(金徳)を直接継承する王朝として水徳に改められた。 その背景 志向が薄れ、やがては南朝を島夷として非正統と見るまでに彼らの 日を正統と見 る意 意識が出炭化したこと、一方胡族の諸政権には、東 E 華北統一によって自己の新しい中華世界を北貌に求める志向が生起 識と自らを中華と認識するものとが混在したが、それらも太武一帝の -139ー 0 8 7 わゆる﹁部族解散﹂を取り上げる。この問題に封する著者の理解方 一帝期を、政治史の側面から論考した 章 である。 第四章は、北貌政治史のうちでも最も重要な政策の一つであ るい の現れとす る。第一章で、胡漢融合の一つの縛換貼と跡.つけた太武 事件に反映されているのであり、駿併もそうした確執 ・封立の 一つ 閏目頭で、部族解散とは ﹁拓政部に随従する諸部族に封し断行された 幻叫叶 で、﹁諸部族に封し皇城周透への定住を命じ﹂ ﹁ 族長の部民 った理由とが必ずしも明確になってはいないこと。それ は、本意の 部落解散﹂の内容とそれをそ の時期 に行 まず第一に 、道武需の ﹁ 法の特徴は 、太租道武帝の行った政策(著者は﹁部落解散﹂と稽 に糾問する支配権の園家への移縛とを内容とする ﹂政策といいきって しまったため 、自らの議論が この枠の中に限定されてしまっ たか ら では ないか。それよりはむしろ 、官氏志 ・賀動停・高車俸の嘗 記 該 一 事の史料批剣から迫るべきではなかったか。第二に、その官氏志の す)と高租孝文需の政策(﹁部族解散﹂と稽す) とに分けてとらえ の諸部に何らかの封策を行ったとは解圃揮できないこと。序紀によれ 民。﹂の﹁此四方諸部﹂とは、こ の前文の一柳元皇帝期の東西南北の 徐部諸姓を指し、それに封して後段はそれよりはるか後世の道武帯 期の政策を述べ ているのであって、この記事をもって道武需が四方 記事﹁凡此 四方諸部、歳時朝早一一貝。登園初、太租散諸部落、初同居局編 で著者は、まず北貌 一代を、通じて領民曾長等の曾帥の存在が逃境地 一 帯のみならず畿内にも普週的に認められること、したがって道武一帝 ば、紳元皇帝以後は拓政部の勢力は 弱ま り、さらに前秦持堅の 攻撃 に まとめられると 、それは五 る貼である。氏の研究がこうして一官官 胡・北朝史の胡漢接燭 ・融合を段階づけてとらえようとする一連の 見方と同一の視座に立つものであることがよくわかる。さて、 本章 の段階で﹁部族構成員が解散﹂されたとは考えにくいことを指摘 る。第三に、孝文一帝の ﹁部族解散﹂で最も重要な政策ともいうべき 姓族分定 の分析が 十分ではないこと。 官民志﹁太和十九年詔﹂の難 は 代王の位に聞いたのである 一 帯 を受けて部内が壊滅した吠態で道武一 から、とすればこの記事の後段は拓政部内再整理の策を俸えたもの 部族解散﹂の出設貼にかかわる問題であ ではない か。これは 、北貌 ﹁ 、 同姓婚、拓 、 さらにそれを補強する形で道武帯後の部族の集佳 し 政部十姓のあり方等を分析し、そうした北族の停統は孝文脅の改革 によってか なりの部分解消されたと説く。道武帯後も北族 の氏部族 制が存績するであろう黙は 、大筋において評者も賃意を表したい。 解散﹂とは記されず、﹁部落﹂ また、 い う ま で も な く 史 料 に は ﹁ 第二篇 は、漢族 ・漢文化と接鰯することによって北族↓粧品聞がどの 解さには評者も閉口するが 、それでもこれは避けては遁れない問題 であり、分析するのであれば本章がふさ わしかったのではないか。 後も内地洛陽周迭の北族とは別に、六鎮の飢に よ って移動し始める 北族は部族制的停統をいまだ色濃く保持して南下してくるととらえ る黙等は、魅力に富む。しかし、それにもかかわらず、北朝史にお ように祭質したかを 、 主 として政治制度の側面から分析した諸論 考。焦黙が孝文帯の諸改革に嘗てられる。 散﹂を﹁解 ﹁部﹂を ﹁ 散﹂ ﹁離散﹂﹁分散﹂ したのであり 、こ の ﹁ ﹂ の意ではなく ﹁移動﹂に近い意で解四押する貼ゃ、孝文脅の改革 堕 ける本章のテ l マの重要性を考える時、 つぎのような問題黙が残さ れる のではあるまいか。 -140ー ③門下省の諸官を指す。このうち、①と③には多くは北族出身者が り、具健的には、①北族起源の近侍官(職務は禁中の警備、詔命の 第一章で取り上げられる内朝とは、北貌の ﹁侍官﹂の総務であ 。 る ことを示す 一つ の典型的な具鐙例にほかならないということにな ことがわかる のであり、著者によれば、その改革は御史肇の外朝化 とともになされたものだという。す な わち孝文帯の 監察制度改革 は、北裂の政治制度が中図的な内朝・外朝値制へと移行 ・幾世帯した がって、孝文帝改革によって北貌の監察権は御史登に一本化された って追求したものであり、論旨は明快である。著者は、それらの改 以上二編の論考は 、北貌 の北族中心の支配値制から中園の停統的 支配鐙制への脱皮を、政治の中権制度のあり方を分析することによ 、 出入、日常の下聞の答申、向書の列曹や州鎮の査察等﹀、②中書省 園以来北貌宮廷内の質権はあくまで北族によって鐙られていた こと 官僚を門下省に濯すこと、によって行われた。改革の目的は、構造 北族起源の諸内朝官を底止すること、および信任厚い中審省の漢人 革を孝文一帝による﹁部族制度﹂の駿止という社曾改革の 官制面での 現れと解しているのである 。 を確認する。こうした陸制に封す る孝文需の改革は、主として①の 面でも構成員数面でも複雑多岐化してしまった内朝を、中園的官制 に基づいて機能的に再整理する黙にあった。これによって、北貌の 内朝は中書・門下・富官系に基づく中園的鰻制に努化し、政治運営 ともなうものであることは、道武-帝天賜元年の受封者二百徐名がい 第三 一章は 、北貌の封爵制を、従来いわれるよう な慮封制ではな く、質封制と見て考察したもの。まず北貌の封爵が寅封(食邑)を わば建園の功臣であり、しかも彼らが閣官を有してい る黙から確認 される。受封者は封土を本貫に授けられる場合が多く、これは北貌 の中植は北族中心鐙制から脱却したとする。なお、この官制改革に る。道武一帝天興四年以後、孝文脅の官制改革までの約九0年間、北 た、北貌の封爵制の特徴は爵品と官品とがほぼ 一致する傾向を示す 政府が郷村支配を在地宗族に依存したためであると考えられる。ま 制到する北族の不満が、後述第六 章の事件を生むことになる 。 致の監察諸官は内朝に所属していた。その内誇は、①御史菱、②候 第二 章 では、監察制度の努革を取り上げて前震の結論を補強す 官、③内侍長 、@中散である。このうち、①の御史肇は通常想起さ 測される。すなわち、就官のコ I スが在地支配のラ ンクに臨応じ て用 意されていたと恩われ、著者はこうした意味からも北貌の封爵は質 帝に よる 封的と見るのである。ところで、こ の寅封健制は、 孝文一 黙にあり、このことから封爵制と就官とが密接な関係にあったと推 ﹁食邑何戸﹂という爵制に切りか えられた 。それは、三 長制施行等 れる職務とは異なって寧除監察を主な任務としており、朝廷内外の もいうべき北貌前期の行政鰻制の特徴なのであろう。ところが、孝 制には奇異を感ずるが 、貧はこれこそが﹁北族中心の軍事園家﹂と の﹁一鐙﹂感を打破する目的で行われた改革と結論づける。軍なる による園家権力の在地への伸張と表裏した政策であり、同時 に北族 非違監察は②以下の官が行っていた。②以下の官は 、前章で見た 代 園以来の拓政政権の近侍官に由来する 。監察機構のこのような分散 非這潮岬劾を御史が行った事例が史料上多数現れるようになる。した 文一帝の官制改革によって②以下の官は慶止され、同時にそれ以降は 1ー 4 -1 就任し、②に 漢人が就任した。これらの分析によって、著者は、建 1 8 7 2 8 7 に撲人が多く、そのため本章は渓人を封習の封象として考察されて 後に次のような疑問も抱かせられる。すなわち、①登場する 受封者 園家祉曾値制を浮き上がらせた重要な論考といえよう。ただ し、讃 制度の分析ではなく、むしろそこから郷村支配の方法と袋遜という ように解す るか。②の軍制面では、殿中向書率いる殿内の禁軍と 、 帝に先 立 洞石刻文﹂に﹁王業の輿りは皇祖より起る﹂とあり、孝文一 一帝を建園の租としているのを、どの つ太武一帝 の段階で 明らか に道武一 道武脅と認識する原黙と思われる 。ただしそれならば、例の﹁頃 仙 重要であり、 特に 前者の南郊祭 天は 、現在の我々が北貌初代 皇帝 を 前者は孝文需の官制改革によって兵権が取り 上げられ 、後者は援止 された。これによって北貌では、領軍将軍が 一元的に統帥す る中図 就任者が 多く 、北族本来の軍隊構成を色濃く残した兵制であるが、 司術監率いるその他の禁軍と が取 り上げられる。い ずれも北族系の いる印象が強く残るが 、北族 の場合はどうなのか。 北族も削到象に含 謬であ むとすると、彼らも傑人と同様に在地支配を委ね られてい るるから、そうであるならば、この制度による北族のご鐙﹂感とは どこからくるものなのか。②﹁太租紀﹂天賜元年十一月僚に見える 的な禁軍が創設されるのである。③ の婚姻制に関しては、従来北族 一 の開では向部族内での呉氏族婚が一般的形態であったが、孝文一帝 ﹁太和七年詔﹂(高-岨紀上)はそれを禁止した政策と位置づける。 賜爵者二千徐人︿著者によれば虚封)は、北貌封留制の中でいかに 考えればよいのか。また北族の場合、封筒制は虚封・質封ともに、 一の 行った(著者のいわゆる)﹁部落解散﹂の結果と閥係があ 道武喬 るのかないのか。あるとすれば、それはどのような関係か、の二黙 これは、 漢族の 同姓不婚に則ったもので、これ以後は北族と 漢族と 以上二編の論考は、制度改革を取り上げながらも、 著者の主眼は 自己の言語を喪失 してゆく過程にも紛れられる。 族の結合を弱める方向に作用し、漢文化の 掻取にともな って 北族が の聞の逼婚事例が史料上多くなる。こうした傾向は、 嘗然なが ら北 である 。 第四章は、北貌吐舎の嬰質と孝文一帝の改革を 、①儀雄、②軍制、 ③婚姻制の側面から追った論考。①の儀雄面では、南郊祭天儀雄と 帝が紳元皇帝一を始祖として 傍統儀躍であるが 、北貌の場合は、道武一 むしろその背景にある杜舎の愛質に向けられている。第四 一章におい 帝の改革が 一方的 に断行されたのではなく 、園初以来の ては 、孝 文一 西郊祭天儀躍を取り上げる。前者は、建閣の祖紳を夫に配す る中園 の 南郊祭天ではその道武喬を太租と 帝 南郊に祭ったのに射し、孝文一 し、始祖を改めている黙が注目される。これは、北貌が五胡政権と 腫制の風化と北族の図結の弱健化とを承けてそれがな されたこと も 第五一軍 は、諸改革に着手した孝文帯の精一脚世界にメスを入れた考 。 る 北統一 によって 北族と漢族と の緊張関係が 弛 緩 し た こと、等であ 浮き上がってくる。具盤的にいえば、軍制では北族軍の地方分駐と その永屯の傾向、躍制では西郊祭天の形骸化、婚姻制では北貌の華 の逮捕相性を断ち、自己を正賞な中原王朝と位置づけ直した認識と表 の考察と関連する。後者の西郊祭天 章 一 は、拓政部を中心とした部族連合による祭天儀躍で 、北族儀躍の名 裏する幾革で、第一篇第二 残であるが、こちらは孝文一帝によって駿止された。それと同時に、 それまでは拓政部十姓が優っていた北貌の祭杷権は、園家の職司の 管格下に組み込まれたとい う。櫨制は園家の性格を考える際に大第 -142ー 7 8 3 民の中央政府 への 不満にまで設展し た 黙に、蹴の本質がある とす る。いずれも、事件の背景に園初以来の 北族集園 の鼠擁朕況と階層 制到する下級銀民(主に被征服民﹀ の不満に端を裂し、それが上級銀 分化を認識す る見解である。確かに、 六鎮の鋭の場合、北族集圏が 察。まず、孝文需の生母問題が取り上げられる。著者は、孝文一 帝の 賓母を従来いわれる文明太后鴻氏とす る設 の根壊はいずれも薄弱と しながらも、新史料(﹃貌書﹄八三上、李鳳停﹀の提示によ って あ 孝文帯以後の 漢化政策路線に不満をも って反抗を企てたと見 るの は であって、 賞擦 には新健制確立 を指向する ものであ る。六銀の 飢も らためて文明太后設を採る。輝崎氏は第四代文成一一帝の皇后で、 漢人出 、 まさにそう なので あって、とすれば、 著者の指摘に従うとし ても それならば この反乱が何を壊し て何を生み出したのかとい う問題 に した不満が、復古路線をとる とは限らな いのはいずれ の反鋭も同様 の後、洛陽遷都に始まる一連の漢化政策を貧行する。彼の精紳の奥 もどり着くのではなかろうか。著者は、この反飢の本質を姓族分定 単純に過ぎ るか もしれ な い。しかし、現鐙制の 打破という形で現出 底で、それまで生活してきた北族世界か ら脱却しようとする一意志が によって固定化した階級閲の闘争と見るが、それならば姓族分定が 身であり、次代の献文-一帝と漏氏とのレヴィレ lト婚によって孝文一 帝 は出生した。官崎氏の死によって自分 の生母 を初めて 知ら され、 その に謝する意識はどのようなものであったのか。著者は、孝道重親や 強く働いたと推測されるのである。それならば、その孝文脅 の北族 何をどのよ うに作り上げた制度で、 六鎮の 飢がそれ をどのように 獲 生母による父親隊文帯の獄逆を知った孝文一一帝(時に一一一一一歳)は、そ ており、その政治的立場も華夷意識は極めて希薄であり、どちらか 漢文化への精通から、孝文-帝は自己を中閣に連績するものと意識 し 第三篇は、これまで述べてき た北族・漢族の融合が 、 力。 えたのか 、さらに 踏み込んだ分析 が 必 要 となるのでは な いだろう の上でどのよう な意味をもつかを考察した 三編 の論考。 ﹁中園史﹂ というとむしろ漢人の立場から諸政策を寅行したと見る。出 生や 血 統、教育がその皇帯の政策に影響を及ぼす場合が多いのはいう まで 第六章では、上述の孝文需の改革に劃する北族の不満から起こっ もなく、本章は本書中で一つのアクセ ント的な一軍となってい る 。 たとされる二種の事件を取り上げる。その一つ、太和二十年の 謀反 事件であって、それはむしろ北族集圏 の形骸化と崩壊進行過程にお 権喪失の意識等、謀反加措者が各自の雑多な不満によって起 こした 強固に結束して起こしたものではなく、漢人優遇による疎外感や特 指し、南人とは華北の漢人、もしくは南朝からの鯖降人を指す場合 される。北人とは、主として種々 の言語を使用する北族の 集まりを 帝 以後の史料にはそ は拓政部構成員を ﹁園人﹂と呼稽するが、道武一 北人﹂﹁南人﹂、﹁沓人﹂﹁新人﹂な る用語が散見 れに代わ って ﹁ e けて 論じる。 制の確立 を、北貌の統治霞制と関係 つ ﹃ 致書﹄序紀に いてその本質を把握すべき動向とする。もう一つの北鎮の鋭(六鎮 が多い。一方、 警人とは古くか ら北貌配下にある民 を指し、新人と 第一章一は、中園史研究において 重要な 問題である﹁良 ・奴﹂身分 の観)についても同様で、それは孝文帯の改革以前の獄況に復腸し 事件は、確かに漢化に反劃する動きではあるが、それは北族集園が ようとする指向性は弱く、北銀内における上級銀民︿主に北族)に -143- 7 8 4 は一般に新しく北貌に 入附し た民を指す。もちろん、こ れらの語 で れる 。 こうし た周躍重視の風潮 は、ひと り北族側 のみのもので はな のは、北貌道武帝が周般の六官や岡天儀躍 を範にと った例 に萌芽が と見る思想の生成とともに、﹁周の辱重 +貌耳目批判﹂の路線が具僅 見え、太武帝期には周穫を園策決定 の基準とす る姿勢さえが見出さ てい る のであれば、北人・南人も奮人・新人もいずれも良身分とさ 示され る質鎧は時代とともに獲化し、新人は時聞を経て 醤人と な る。そして、もし良奴制が北数以前に成立し、それを北貌が 適用し く、漢族側 においても、太武帝の華北統一によって北貌を自己の 園 れるはずである。ところで、こうした支配民分類の背後では、南人 新人を庇護して権力機大をめざす皇帝側との暗闘が 存在す るの であ ば そ れ だ け でな く、俸蔽制・度量衡制・宮殿制・ 後宮制 ・七廟制 性を得び始めるという。 北貌 の均田制が 井田 制を、三 長制が 周 の郷 紫理念 の影響を受けているこ とはし ばしばいわれ るが、著者 によれ より優越感 を抱く北 人、お よび新人を排斥 しよう とする沓人側と、 り、北貌史における政治闘争はこの封立闘式をと る場合が多 い。と 主義の一部であり、そればかりか洛陽遷 都です らそれ と軌を一にす し、また 模範と している。均回制や三 長制はそうし た総合的な周耀 る政策だと見る。北朝における周躍受容は取り上げられるべき問題 等、孝文一帯一の諸改革はより深い根本的な部分において 周制 を意識 針立の緊張感が薄れ、かわって北貌はより普遍的な民衆統治理念の ころが、北貌が 華北を統一し、鮮卑拓政部より高水準の文化をもっ 導入の 必要性に迫られる。それが良奴制であり、そこには新人 の沓 であり、 本一章のいうとおりだ とすると、 西貌・北周の政治路線 は北 南人・新人が屋倒的多数を占めるようになると、この 北南・ 奮新の 人化(正式な園家構成員化)の狙いがあった。かくして良奴制は 北 に濁す る反動とと らえる見方は 修正を迫 られることに なりそうで あ 貌の直接 の後縫者としての面目 をも つことになり、それを門閥主義 軍の論旨である。問題が重大であり、他の要素との関係も考慮しな る 。 貴族制の専家 の意見を聞きた いと ころである 。なお本章 の論旨 の基底にかか わる ことである が、史書 を書き残した 漢人の志向が史 貌孝文一 帝期に確立し、それが階唐良賎制につながるとす るのが 、本 ければならず、またそれならば﹁奴﹂ 身 分 は北貌ではどのように位 置づけられたのかという問題も残される 。さらにいえば、良奴制確 料に反映しているのではないかという見方を否定しなく てよい のか どうか 、い ささ か気にかかる 。 立を孝文一帝期とする大前提が本章 に は あ る よ う に 思 え な く も な い が、本書のこれまでの考察との関連からいえば、著者の論旨は概ね 第三章 は、北族の漢化が中園史にどの ような歴史的役割をはた し 承けて形成されるのかを探る。五胡の君主の多くが自らの始源を三 第二章は、西貌・北周の周雄主義が、前時代のどのような風潮を 遷都後に短期開 のうちにその形式が定型化され、これ が惰唐あるい ち良奴制の問題は本篇第一章で述べたとおり)。墓誌は、北貌洛陽 がれた例として、墓誌の形式と良奴制 の確立が指摘 される(この う 前より中園に存在した要素が北族によって純化され て後世に 受け滋 たのか、すなわ ち本篇の主題を直接取り上げる。まず前半 では 、 以 首肯できる。中園史研究が﹁漢民族の歴史の愛展﹂という観熱から 皇五帝に求め、また周の文王を仰ぎ慕うように、概ね彼らはまだ夷 だけでは不十分であることを、あらためて考えさせられる。 夏の分離しない周以前に好感を抱いていた。それが政策面で現れる -144ー 7 8 5 代風潮との関連が推測され よう。ただ し本書 では、その具陸的な要 が皇族元民のものが多い黙から、確かに墓誌定型化は孝文一一帝期の時 はそれ以後に受け継がれる。この時期に形式が確立し、しかもそれ つての漢族の轡地進出を示しており、後世と比較して 蛍該時代にお は、畿の脅威に謝する防衛という側面とは別に、経済的な利金を狙 債の田土・鎖山・堕井等の略奪の事象が散見される。こうしたこと の-課税や鐙人そのものの略取・賎隷化だけでなく、漢族園家 による 一人 ける漢族膨張の特徴の一っとする。後者のケ l スでは、漢人が一商 因までは述べられてはいない。後半では、北族固有の要素と中園古 来の要素との出禽いによって新しい文化が生み出された例として、 から逃れて轡域に逃入する例があり、逆に轡人が 漢人地域に季節労 として轡域に入境する例や接縄地帯に市を立てる例、あるいは苛政 働者的形態で入境する例等も認められ、中には鐙族有力者と婚姻関 府兵制の八柱園二十四軍値制を取り上げる。八柱園の﹁八﹂は、八 概念であり、それから字文泰と元氏を除いた 六位固とい う数は周制 係を結んで鐙漢雨族にまたがる地域豪強と 化す漢人の存在が指摘さ 姓・八部・八園等、拓政政権がつねにその園家腫制の中編とした数 の六官・六軍の影響が認められ、それに楚官の柱園、後漢の柱園大 するル lトが圏家側に開かれること、園家が熱蝋慣を課税封象である れる。その結果、蟹人の漢族官界 への進出とそれを恒常的 に可能に 良民として支配しようとする動きを見せ始めること等、轡族が自ら 将軍の官稽が合わさってできたのが八柱閣の軍制であったと 読く。 上の新文化は北族要素・漢族要素の匿別なくいずれもを自己の文化 孝文一一帝以後の北族には漢族に劉するコンプレックスは全くなく、以 第二章は、債の集落のあり方に 着目し て、前章の考察をよ り深め の文化を漸次喪失して中園政治秩序の中に組み込まれていく過程が 約をうけるであろうが、こうした理念の問題とは別にもう少し具鐙 れる存在ではあっても、だからといって彼らは全く未開の種族とい 追求される。 的な融合の賀態、例えば家族制、村落制、生活習俗の繁化等にもも う少し目を向けてしかるべきではないか。 れ、また奥の兵力の主要部分を構成するなど、相嘗文明化(あるい とする時代相の上に成り立つとするのは、重要な指摘であろう。た 次の第四篇では親野を華中・華南に縛じ、営一該時期の史料に ﹁洞﹂を取り上げ、それが史料上は特に梁末から頻出すること、そ は漢化﹀していたことを確認する。ついで、山越を含む績の集落 だ、本章が﹁胡族漢化の寅態﹂と銘打たれるのであれば、史料的制 ﹁盤﹂と線稽されて登場する非漢族が、南方に端技展した漢族とどの の劉敬拐など、轡化した漢族が轡族と提携して地域豪強化する傾向 は漢化した轡人が居住するだけでなく、一繭建の陳費態や宮崎氏、江西 の背景には梁末の動蹴と中央支配力の 弱化があげられること、洞に う謬ではなく、その一部はすでに呉の時代から郡勝制下に取り込ま た内容。まず﹁山越﹂を例に取り、山越は漢族から轡として 認識 さ ように接鯛し、またそれが階唐にどのように受け継がれるのかを展 まず第一 章では 、轡の漢化の過程・形態を、それが轡に封す る漢 が認められるとする。これらのことから、梁末陳初の反飢で動きを 望する。 て生じる場合とに分けて考察する。前者のケ l スでは、轡族地帯へ 族園家権力の干渉によって生じる場合と、一般漢人との接燭によっ -145ー 6 8 7 しめす﹁渠帥﹂率いる勢力は大部分が非漢族であるとしながらも、 それは質際には誕化し た鐙族、およ び償化した漢族であり、そ こに 。 そ 六朝期の鐙の漢化過程の深化と 、 漢融合地帯の 抜大化 を見 る 制 凶 してこのことは 、 六朝期 の江南を鐙漢二元的な分別に よっ て理解し ようとする見方は安嘗性を紋き、そこには績漢の混じり合う康大な フロ ンティア地帯を想定す る必要性があるという主張 に校徴されて いく。 的に取り上げた本篇の 意義は 深 い。特 に、鵬首漢融合の過程 に爾者の 経済面で の接鮒を見る親貼や、鐙と 漢 を二元的にとらえ るので はな く、その中関 ・混合地帯を設定す る指摘 は重要で ある 。本篇を、後 世の宋代 の華南諸種族を取り上げ た岡田宏 二氏 の分析と比較 してみ るのは 、興味深い作業かもしれないや それによって、 唐宋へ の展望 。 また、嘗該時代 の鐙族の 中 には、山岳部に がつかめる から であ る 中野部 に下りてきて 漢族と援燭する 居住し、 そ こから河川に 沿って 一 と、清代 の例 であるが 、掌中 ・華南の﹁山匿経済﹂ のあり方 は、そ れ以前の鐙漢 の経済面での接簡を考察する際にも、我々は 念頭 に置 町 いておくべきであろう もちろん 、 これ らは本書の責任外 の問題 で ある。なお 、営該時代に卸し て いえば、 三園時代 の要衝荊州におい て武陵鐙が果 たした役割ゃ、宋・ 斉時代の鐙の一部は南北朝 の針立 事例が見らい勺こうした高低差によ る民族の棲み分け は唐代 の四川 の美族にも見られるばかりか、 今 日の雲南等にも認められる。 する 漢 人園家や漢文化との接網状況、自然環 ﹁分布﹂﹁人口 ﹂ ﹁ 状 況 ( ﹀ の朕況﹂に従って史料を整理 境等)﹂ ﹁豪強﹂﹁後代(唐 ・宋代 。 これら する 。蛍該時代の轡の姿を知 る恰好 の史料集となってい る の地域は現在では大部分が漢族の居住地となっているが 、そうした の接鮎地帯に居住していたがため に誕化と移動をおこすという 、谷 口一房男氏の指摘に は、燭 れておくべ き ではなかったか 。 第三一章は、その績の分布紋況や社舎 のあり方を地域ごとに 史料を 、 分類・ 整理 したもの 。取り 上げられる地域は、河南 ・准北、 准南 長江下流域、一陥建、江西、湖北、 湖南であり、各地方ごとに鐙の 状況はすで に唐代にはほぼできあ がっていたと思われる 。な ぜな 、 唐代 にはこれらの地域には鴇腐州が置かれず、内地州豚制が施 ら 第五篇は、調野をさらに朝鮮、日本へと庚げ、賞一該時代 の日 中交 渉と 、中園・朝鮮 ・日本の社曾値制 を比較する。 第 二章は、倭の五王に見られるように 、 この時代の日 本の 中園遺 行されるからであ る。このことは、とりもなお さず江南の轡族祉舎 日南北朝期に進行したことを物語っているの であり、本 の漢化が貌 E 篇の三論文はその漢化の朕況を追求したものと解してよい。本 の 一 章 、 貴州、雨庚地方がは ずされているのは、これ 制到象から四川、雲南 使が宋朝一朝に集中している謎から出愛し 、その理由 を主として中 園(特に北貌)側の情勢から説明し た論考。 まず、 倭の五 王時代の 東耳目末J宋初期に高句麗や倭が中園遺使を再開させる最大の要因と 中園遺使 ルlトは、封馬海峡から朝鮮半島西岸を海路北上し、黄海 を横断して山東牢島に至るル lトであ った黙を確認する 。 ついで 、 ら の地域が今日でも多数の非漢族が居住して いるからであり、この ことからも著者の考察が﹁漢化﹂を念頭に置いたものであることが よくわかろう。 南方 における民族接絹・融合は 中園史上 の 一つの重要な研究テ 1 、それが本格的におこった軸窪田南北朝期 の南方世界を線鐙 7であり -146ー 7 8 7 モのごとく、氏族を母慢にした 玉 の 側 近 官 組 織 、②倭閣の倉人・酒 、北貌の比徳虞・胡洛 人等の﹁人 新羅の 旨篤人・助人等の﹁人 L ﹂(人) のごとく、側近官の﹁人 員等の ﹁ 岡、 県 制 L的官司制、 ③北貌 ﹂ の八部、高句麗の五部、百済の五部、新羅の六部のごとく、族制に ジア諸圏の政治制度 ・社舎陸制を比較すると、①北貌の内朝、高句 麗の中裏制、百冊聞の内官十二部司の前内部、新羅の内省、倭園のト であった。評者なりに要約すれば、衣のようになろう。蛍時の東ア 第二一章は 、北貌 ・朝鮮三園 ・日本における制度面での類似性とそ の理由に目を向ける。正直にいうと、本書中で最も難解なのが本章 後倭の五王研究にあたって参考されるべき論考となろう。 裂表された倭の五 王とその時代の日中関係であるが 、それをほぼ全 面的に中園側の情勢から説き明かした考察。論旨は 明快であり、今 本の遺使が集中している理由であるとする。これまで幾多の論文が 百済王都・漢域の高句麗による陥落がかさなって倭の外交路線は 再 検討を迫られ、それが遣使断紹をもたらす。以上が 、宋朝一代に 日 よって様相が第わり始め、山東の北貌領化と 、准水 ・長江河口沿岸 地帯に良港がないことによって倭の南朝遺使が困難となり、そこに して、南燕滅亡後の 山東を南朝が制墜し、朝鮮│山東│内陸水 路 │ 南朝のル lトが開通した黙を指摘する 。それが 、北貌の勢力東進に 部 ・順奴部・濃奴部 ・消奴部(滑奴部)の貌志東夷俸の五部と 、 内・北 ・東 ・南 ・西部の﹃高麗記﹄(﹃翰苑﹄巻三O) の五部 のご セ 第三章は 、前一意で取り 上げた諸制度のうち 、高句麗の ﹁五部﹂と 北致の﹁部﹂制との関連に焦黙をあてる。高句麗には桂婁部 ・紹奴 論にはたどり着けないのではなかろうか。これら諸民族が氏族制祉 舎から古代園家建設にむかうとはいっ ても、そのあり方には 首然違 いかなる黙で影響を奥えたのかを追求しなければ 、上述 のような結 中園とは耳目王朝以外にはありえない 。そう であれば、菅の健制がど のようなもので 、それが鮮卑・朝鮮・倭のどのような固有の陸制に その北貌のモデルとなった源制度が中園にあり、 それが北貌 ・朝 鮮 ・日本に 影響を奥えたということ にな ろう。そして、ここ で著者 のいわれるこれらの民族に 王放を授輿し 、諸制度のモデル となっ た 朝鮮・日本の制度は北貌のもの を直接模倣したのではなく、さらに を王放を授輿された中園のプランから吸牧したために、共通した経 過をたどる必然性があった 、と。以上の 理解に大過 ないとすれば、 的に日本に惇えられたと考えられるだけでなく、 これら諸民族が氏 族制祉曾から古代園家建設へと向かい始めた際に、その建設プラン 理由としては、北貌の諸制度が朝鮮または後 の惰唐を経由して閲接 部、消奴部(滑奴部﹀を西部に 一致させる ﹃高麗記﹄の理解は首肯 されるべきだとする。右回りの方角記述は 、著者があげる百済の例 ットの五部が史料上確認される が、方角を右回りに記述す る法則か ら見て、桂婁部を内部、紹奴部を北部、順奴部を東部、港奴部を南 いがあるであろうし、その差異を見ずに共通性のみを追うだけ で は、比較方法に問題か残されるの ではあるまいか。 る偶然とは思えない類似性が認められる。こうした類似性が生じた 基づくいくつかの行政区登(日本の部民も擬制的血縁関係という側 面では北貌の氏 ・部族制と共通性がある)、 ④北貌の拓政部構成員 たる ﹁奮人 ﹂と被征服種族である﹁新人﹂、庚関 土王 碑文に見える ﹁ 奮民﹂と被征服民たる ﹁ 韓・議二百廿家﹂、 新羅の﹁六部人﹂と ﹁ 新附人﹂のごとく、奮来の支配民と新来の被征服民とを区別する 統治燈制、の諸熟において 、北貌・朝鮮三園 ・日本の制度には単な -1 4 7ー 8 8 7 だけでなく、突販の前(東)、右(南﹀、後(西﹀、左(北)や、﹃貌 書﹄官民志の四方諸部の記載順等に見られるように嘗時の北方民族 の習慣であり、したがって高句麗の場合、王族たる桂築部(内部) が第一に、王族の婚族たる紹奴部(北部)が第二に置かれ、ついで 東方から右回りに記述されるとする貼は納得できる。ただし著者 は、こうした 一致はあくまでも方角上の問題であって、二種の五部 の寅柚阻までが一致する と述べている謬ではない。それは、 高句麗の 桂婁部等の﹁部﹂はあくまでも中園側が理解を容易にするために附 一一園志﹄の段階ではいわゆる﹁那償制﹂の 加させた用語であり、﹃ 一 五族集幽を中園側の概念で﹁部﹂と表記したにすぎない と解される からである 。ところが、﹃官同麗記﹄の段階 では高句麗人自らが﹁部﹂ という呼穏を用いており、ここに高句麗内部の祉曾鐙制の貧質的廃 化(五部制への移行﹀が想定される。その獲化は、﹁方位部+大 人﹂制の導入と同様に、都接する五胡の燕の影響と見るのが安嘗で あり、その時期は高句麗の卒駿遷都以前のことと考え られる。すな わち、以上の論旨を逆にたどれば、 笹川に も北貌と同様に都大人制 が存在した、②それが高句麗に影響を輿えた、③それによって高句 麗固有の五族が五部制に移行した、ということになろう。 本篇所枚の三論文は日本・朝鮮古代史の分野にも関わり、それら をそれぞれの園内の事情だけでなく、嘗時の中園情勢との関係をも 視野に入れる必要性を問いかけている。その意味では重要な問題意 識である。ただし 、その関係を分析する際に類似性 ・共通性だけを 追うのでは限界がある貼もまた感じさせるのであり、同時に仮設が やや多い印象を受ける。また 、第 二章の巨 視的に見た中園文化の影 響と、第三一挙空高句麗の祉舎健制を五胡・北裂の影響と見る親貼と が論理的にど のように関わるのかという黙は、もう少し掘り下げて もよかった ので はないか。本書の﹁おわりに ﹂ で著者自身が述べら れてい るように、第 五位胴の問題は今後 さらに検討を要し よう。 ﹁おわりに﹂では、その第五篇のテ l マと関連して、二つの黙が 述べられる。一つは、古代東アジア諸園家 における中華 識の問題 一 意 である 。 これら諸図家が中華思想を詩人 もしくは形成し たこと は従 来いわれる とおりであるが、その 際の 中華思想とは漠然と周代ある いはそれを受けた漢代の思想を念頭に置きがちであ った。しかし な がら、同時代の中園における中華思想は 、漠代以後の 華夷観の務濯 や胡族園家の正統性をめぐって再編成されたものであり、それを視 野に入れずに東アジア諸園家の中華意識形成を語るのは片手落 ちで ある黙が指摘さ れる 。 もう一つは、そうした中華意識の俸播 ・形成に大きな役割を果た した渡来人の問題である。上述のと おり、北貌 ・高句麗・百済・新 ﹂ 羅・倭には﹁部﹂の制度が存在し、 それらはいずれも﹁プ﹂ ﹁ベ と設一孟一目し、王都周迭に築住した軍事行政的性格を基礎とする。この ような共通した現象は、 ﹁部﹂という漢語表記で一定のイ メージを 描き得た人々によってもたらされるものである。とすれば、その媒 鐙として、 漢族の 外地への進出と外地政権への参輩 、もしくはそれ によって中園 の鐙制を熟知した人々 のさ らに外側への 進出を想定し なければならない。それこそが、進出を受け た側から見れ ば﹁渡来 人﹂にほかなら.す、彼らは﹁ 奮人﹂から見れば﹁新人﹂にほか なら ない。先述の第五篇の第二 章と第三 一章との関わり方についての疑問 には、ここで一つの回答が輿えられるようである。すなわち、漢鶏 -148ー 9 8 7 耳目期の中園文化そのものが朝鮮・日本 に停わったのではなく 、中園 べて、批評にかえたい。 み終えて不満に感じた黙が全くない謬ではない。最後にそれらを述 獲質してゆく過程・要因が、第一篇から第三篇において様々な側面 まず第一に、北族の祉曾侵制が原初的形態から中園王朝的慢制に 固有の文化は北族との接鍋によって 形を鑓え 、その第容し た中園文 -帝園尉媛後の民族移動と異文化接燭から筆を起こした本書が、最後 から詳述されるのであるが、それらの結論はいずれも孝文帯期に完 化が渡来人によって周進地域にもたら されたとする見方であ る。漢 ったのである。 に朝鮮三園と日本にまで視野を庚げたのは、ここにその必要性があ 唐にどのよう につ ながるのかとい う黙が、今 一つ明確にならないこ 陪 とである。かつて谷川道雄氏は、この黙を明らかにせんとして ﹃ 第二としては、そのために、それらが孝文一帝以後の北朝、特に惰 J あらかじめあるように感 ぜられてしまう黙である。 成をみるとするものである。したがって、これらの分析には、北貌 史の底流を追うにあたって、孝文一帝期を一つの到達貼とする前提が きて、以上が各篇・各章の要約および筒許である。本警は、貌育 唐帯一図形成史論﹄を裂表された。谷川警 の意義は今日の皐界におい 南北朝期における北族・漢族・轡族の接燭と融合、それによる 中園 じる。本書を貫く主要テ17を一言で 表現すれ ば、それこそ﹁漢民 祉舎の舞質、および東方地域へのその影響を、種々の側面から論 族そのものの製容﹂にほかならない。全盛として本書は、中園史が 帯以後の時代 への親黙 は、本書第五篇とも密接に関係す るはずであ 。 る わるのか 、こ の黙が 必ずしも明確に浮 かび 上がってはこない 。孝文 第三には、孝文一帝﹁姓族分定﹂の分析がなされていない貼であ ても決して失われてはおらず、本書はその谷川設とどのようにかか の意義は、非常に大きいといわねばならない。特に、北軸舗の 官制 ・ 秦漢以来の漢族の歴史﹂という枠内では解けないことを明示して ﹁ 封爵制等の諸制度の仕組みに北族的色彩を見て取り、そこから氏部 る。﹁姓族分定﹂は本書のテ l マでは避けでは逼れない問題であ り、いずれかの場所に一一章を割いて専論すべきではなかったか。そ いるのである。従来、問題として 一意識される割 りには意外と専論さ 族制祉曾の姿を浮き彫りにし、それがどのように舞質したのかを明 れがなされなかったことが、以上のような問題か残された一つの理 れるととの少なかった本テ17を、正面から取り上げて 論じた本書 ちろん存在せず、﹃幾重田﹄の断片的記事からその背後の姿を浮き上 らかにした黙は、重要である。そうした内容を直接俸える史料はも 由となってい るの ではなかろうか 。 震後に、本書の主要部分を占める北朝史研究は、いうまでもなく がらせた手腕は、高く評領されるであろう。さらには、その北朝が 漢人が書き残した史料をもとにして行 われる。 したがっ てそこ に なぜ後世に現れるような征服王朝の形をとらなかったのか、遼・金 等の園家鐙制と比較考察するにあたっても、本書は恰好の材料とな のではなく、漢人流の記録のしかたや作法をとって停わっている部 は、北族の姿や彼らの行った政策がストレートに書き記されている このように 重要な研究であるが、それにもかかわらず、本書 を讃 るであろう。 -149ー 7 9 0 分が少なくないと恩われる。その割りには、本書は史料に針して批 てみた五胡十六園南北朝期段階における四川地域の朕況につい て﹂(﹃史淵﹄一一一一六、一九九九年﹀、﹁民族問題を中心として 園家と 地域﹄万水書房、一九九九年﹀、﹁民族問題を中心とし ん、そうした 史料しか残されていない のであるから 、困難であ るこ 剣的に自を向け る精紳がやや乏しいのではないだろうか。もち ろ とは理解できるが、﹃融調書﹄等の記事を鵜呑みにして見誤る ことが 一例 をあ.ければ﹃{木書﹄各七 七、柳元景停に見え る劉道産 一九九八年一一月東京汲古書院 A 5剣 六三 一 + 六 頁 一 四OOO固 一編第二 章 コニ園時代の武陵鐙﹂、第三章﹁宋・斉時代の鐙﹂。 (5) 年)、七二 以下。 員 一 谷口房男﹃華南民族史研究﹄(線蔭書房、一九九七年﹀、第 の記事(標黙本、一九八一頁﹀。 岸本美緒﹃東アジアの ﹁ 近世﹂﹄(山川出版社、 三年)。 (3) 一九九八 みた北朝後 期 段 階 に お け る 四 川 地 妓 の朕況について ﹂ (九州大 皐 ﹃東洋史論集﹄ 二七、一九九九年 ﹀ 。 (2﹀ 岡 田 宏 二﹃中園華南民族社禽史研究﹄(汲古書院、 一九九 で、いうまでもなく本書の償値が下がるもの ではない。 本書は 、今 後の軸窪田南北朝史研究において必ず参考にされるはずであり、鼠平 界 (4) ないのかどうか、こうした危倶を抱くのは評者のみであろうか。 以上のような、敢えて 粗探しのごとき批評を加えてみたところ に多大な影響を残すことは間違いない。だからこそ、敢えて附け加 えさせていただいた。理解不足のために誤解している貼があれば、 著者のご寛恕を切にお願いしたい。 註 (1﹀その後、川本氏は四川を封象と して同様の分析を行 ってい る。川本芳昭﹁民族問題を中心としてみた軸翌日段階における四 川地域の状況について﹂( 唐代史研究禽﹃東アジア史におけ る -150ー