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第一節 Section 1

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第一節 Section 1
第一節
Section 1
メッセージ・エッセイ
Messages・Essays
「憤り」の人
飯倉洋一(大阪大学文学研究科)
2005年2月18日、私は高麗大学における韓国日本学会で発表するために、仁川
空港に降り立った。私を出迎えに来ている学生がいるはずだと、キョロキョロしている
と、まもなく学生は見つかったが、彼はその時間に到着する別の人物をもホテルに案内
することになっていたのだった。その人こそ、小林登志生先生だった。
私はやや居ごこちが悪かった。なぜなら、私の専門は江戸時代の文学であり、先生の
ご専門は、メディア教育であって、お互いに関心の交差するところはなさそうだったし、
どうも相手は気むずかしい人物のように見受けられたからである。ホテルに移動する間
は別々に座って私たちは言葉をほとんど交わさなかった。
しかし、ホテルに到着後、私たちは間違った案内をされ、小林先生の部屋に私の家内
から電話がかかって来たことでそのことが発覚したころから、少し仲良くなっていた。
高麗大学に到着して、別れ別れになるかと思ったら、レセプションまでの時間、案内役
の金さんという女子学生と三人で学内をぶらぶらすることになり、すっかりうち解けて
しまった。そのあとのレセプション、翌日の学会後の打ち上げ、二次会、三次会と、ほ
とんど行動を共にした私たちは、2月20日には堅い握手を交わして「友人」としての
再会を約束していたのである。
その後は、先生が関西出張にいらっしゃる折や、私が東京出張した折などに、たびた
び会った。会うだけではなく家内とともにご自宅に招待していただいたことまである。
会うといっても、互いの学問の話をするわけでもなく、何を話したのかよく憶えていな
いことが多いのだが、とにかく、飽きることなく、何時間も語り合っては、最後は必ず
握手して、再会を約すということがくり返されるのである。
もちろん、先生の波瀾に満ちた人生経験や、豊かな海外経験などをいろいろと伺うこ
とで、私の知らなかった様々な世界を知ることが出来たことに深く感謝しているのだが、
一方で印象に残っているのは、先生の強い私的感懐(「憤り」)に基づくお話である。
私の研究対象のひとつである、上田秋成という江戸時代の文人は、「物語発憤説」を
唱えている。物語は作者の憤りによって成り立つというものである。「発憤説」という
のは司馬遷が『史記』を著した時のモチーフとして以来、中国では『水滸伝』発憤説な
ど伝統的な文学観の系譜を作っており、江戸時代にもその影響があった。伝統的な発憤
説は、政治・社会のあり方への「憤り」を述べるものとされるが、自らの私的な「憤り」
を述べるために物語をつくるのだというのが秋成の文学観であり、それは江戸時代にあ
っては近代的な文学観なのである。
2
そういう秋成的な「憤り」を小林先生にも感じることがある。小林先生を衝き動かし
ているのはそういう「憤り」ではないのか。先生が自らを語る時、それは時に物語以上
に物語的であり、劇的であるのだが、その物語の成り立つ根源には、秋成的な「憤り」
があるのである。ここで断っておけば、秋成的「憤り」とは、現在の概念よりも広い。
「怒り」だけではなく、
「悲しみ」
「喜び」
「哀れみ」
「親しみ」など、人に対する思い入
れの強い感情そのものを指しているのである。
このような私の感想を正直に申し上げたことがあるが、小林先生は「わが意を得たり」
という反応を示された。小林先生は、文学者的なセンスをお持ちだと思う。その波瀾万
丈の自叙伝を、物語以上に面白く書き綴る時が来るのではないだろうかと私はひそかに
思っている。
ご退休に際して、私のような門外漢が文章を書くのもいかがかと思われたが、お誘い
に甘えて、勝手なことを書かせていただいた。先生のますますのご活躍を祈念申し上げ
て、筆を擱くこととする。
韓国高麗大学で
ニュートンプレイス・ロビーで
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2009 年 6 月 28 日:小林先生退官記念文集投稿「当人気付きの点」
石松弘幸
私は現在、
在リトアニア日本大使館で専門調査員として勤務している。
当館は昨年、
バルト三国の中ではじめて大使館に昇格し、
本任大使と専門調査員を置くことになった公館
であるが、人員は少なく、専門調査員の私が政務と経済の両方を担当しており、学業的な研
究を行なう時間はない。したがって私は小林先生が立ち上げられた「多文化関係学会」の活
動に積極的に参加することができない、いわば「幽霊会員」である。
小林先生との出会いは、多文化関係学会の九州地区第一回研究会が 2007 年 3 月 27
日、九州大学の六本松キャンパスで行われたときにさかのぼる。研究会当日、私は会場を間
違えて箱崎キャンパスに行ってしまった。会場を間違えたことに気付き、急いで六本松キャ
ンパスに向かったが、すでに研究会の開始時刻を 20 分も過ぎていた。階段を駆け上がって
研究会が行われている教室にたどり着く。ドアを開けると、白い髭をたくわえた恰幅のよい
中年の紳士が「待っていたよ」という温かい目で迎えてくれた-。不思議な感じがした。遅
れてきた者をとがめるような目ではなく、なにかじっと見つめられていたからだ。このとき
私はただ参加するだけで発表しなかったが、
遠隔教育の可能性に関して話された小林先生を
含む発表者に対し、いくつか質問をさせてもらった。この研究会の発表の内容は、後日、学
会のニューズレターで研究会の報告としてまとめたとおりである。さて、この研究会の二次
会は松永先生が幹事で行われたが出席者は全員でなんと 4 名。学会の二次会というものに参
加したことのなかった私は、多少はめをはずし、小林先生ともぶっちゃけた話をしようと試
みた。なぜか小林先生と意気投合したので、実は前世で知り合いだったのではないかなどと
いう話まで飛び出し、
「先生、今度はぜひわが家に遊びに来てください」とリクエストをし
た。
2回目に先生とお会いしたのは2007年10月に兵庫県立大学で行われた多文
化関係学会においてである。私はこのような場が苦手であるし、偉い先生ばかりだったので
もじもじしていると、小林先生は「この青年は私が九州に行ったときに一本釣りをしてきた
男でねえ」といって、学会の幹部の先生たちに一介の非常勤の私を紹介してまわってくださ
った。このような親切をしてくださる人はそういない。このときの大会で、私は「アダムス
ミスの共感論の多文化社会への意義」という題で発表した。日本のいわゆる敷居と格調が共
に高い学会の発表においては、原稿を準備しこれを読み上げることをもって発表とする。こ
のとき初めて日本の学会で発表した私は、この方式を踏襲したのだった。しかし、やはり参
加者にとっては口頭でアドリブも交え、
参加者の顔を見ながら話をするほうが面白いに決ま
っている。小林先生はわざわざ私の発表に出席してくださったのだが、発表のあとで、「石
4
松君は発表の練習をしなければいけないね」と言って私の肩をポン、と叩かれた。
それからしばらくの時間が経過し、
先生と3回目にお会いしたのは専門調査員の採
用が決まり、外務省本省での研修のため東京に滞在していたときのことだ。2008 年 1 月の
ある日、私が東京に滞在していることをご存じの先生から電話をいただき、昼食を御馳走し
ていただいた。そしてその後日、先生のご自宅に夕食に招いていただくという光栄を授かっ
た。
そして、
そのあと昨年の8月に私が現在滞在しているビリニュスにて先生にお会い
する予定であった。しかし、丁度そのとき(小林先生は信用してくださらないのだが・・・)
ビリニュスに歯の治療に帰国することになっていた。しかも、バルトの公館のなかで初めて
本任大使が着任するに際し、慣れない仕事をたくさん振られ、先生のアポ先との交渉などの
お世話をすることができなかった。私の帰国中に先生はビリニュスを訪問され、カウナスの
VM大学で早稲田の長岡先生と共に講義をこなされた。
杉原チウネが訓令に背いてユダヤ人
にビザを発行した旧領事館が現在の日本学センターとなっているが、
ここで行われた講演は
大成功であったとうかがった。
滞在中には大使館にもおいでになり大使と 2 時間もお話をさ
れたとうかがった。
今度はどこで先生とお会いすることになるのだろうか。
リトアニアにももう一度来
ていただきたいのだが、私の任期中にそれがかなわないのであればとても残念である。私の
印象によれば、小林先生はどこぞの省庁勤務にありがちな、リスクミニマムの狭量な人間で
はなく、むしろ時に賭けや勝負に出る人のようである。賭けについては、私のような専門調
査員という外務省の契約社員で首の皮一枚でつながっている野良猫にも未だにコンタクト
をとってきてくださっているのだから、いわゆる逆張り好みなのではないか。
いずれにしても先生の私に対する見立てが正しいものであったかは今後私がどの
ような人物になるかで決まる、いわばこれからのお楽しみである。
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「雨男」
放送大学 岡部洋一
小林先生がもう退職されると伺い、頭ではわかっていながら、ちょっと戸惑っています。
先生とのお付き合いは、2006 年度。私が東大を定年になり、放送大学に赴任すると同
時に、NIME の清水理事長からのご依頼で、同組織の非常勤理事(研究開発担当)になっ
て以来です。先生の仕事は国際関係ということで、NIME の海外渉外的な役割を一手に
担ってこられたということですが、それよりも教職員の過半数代表者であったというこ
とが鮮明に思い出されます。
過半数代表者といっても、組合の委員長ではないので、通常は労使契約をする際の代表
者であるという比較的象徴的な役割以外は何もないはずなのですが、たまたま 2007 年
度半ばに NIME の廃止が決定され、2008 年度は、NIME は廃止に向けての巨大な嵐に巻き
込まれたので、その心痛は並々ならざるものがあったかと推測しています。
私自身は、2007 年度より放送大学副学長を仰せつかり、激務が予想されたため、NIME
の理事はお断りさせていただきましたが、その直後に、まさか廃止の話が出るとは予想
だにしていませんでした。
小林先生はちょび髭を生やし、いかにも元外務省官僚といった風情で、海外との交流を
楽しまれていらっしゃったようですが、2007 年度半ばの廃止決定以後からは、教職員、
特に教員の将来が心配になられたようで、たまたま併合先の副学長になっていた私と、
しょっちゅう見通しに関する議論をされました。私自身は、今迄の国の機関が廃止や併
合になった際、いずれも、併合先が余程無理難題を突き付けない限り、所員が不幸にな
ったという例を見ておりませんでしたので、大丈夫ですよと申し上げてはおりましたが、
それこそ 100%の保証などできるはずもなく、また、内部には色々不条理な噂なども飛
び交っていたようで、やはり当事者の代表者である先生の心労は大変であったろうと思
います。
2009 年度には残念ながら小林先生は退職されますが、いよいよ NIME の併合となります。
今のところ、私の予想通り、比較的円満に併合されると予想しております。ただ、与野
党共、きわめて乱れており、いつ廃止法案が通過するのかの予測が付かないなど、未だ
に予断が許されない状況にあります。
6
こうしたいわば公的なお付き合い以外にも、私的なお付き合いもありました。先生は、
ちょっとメタボ気味だったのを心配されていたので、私の趣味のハイキングを薦め、私
の主催しているハイキングクラブに入っていただきました。クラブと言っても、私の関
係のある方が、毎回平均 10 名程度参加する会です。で、初めて参加された 2007 年 7 月
の日光霧降高原のときの私の記録は次のようになっています。「小林先生初デビューな
のに、天気予報が外れて 11:10 ぐらいからパラつく。大山から牧場車道へ出たところで
道がわからなくなったが、ゲートの先に指導標が見え、ゲートを突破。その後 13:20 ま
で雷と豪雨のため、猫の平から牧場車道へ逃げる。ゲート通過困難。東武線は落雷で動
かず、高くて遅い JR を利用して帰宅。花はまったく見えず。」この雨は本当に豪雨で、
傘なんてほとんど役に立たず、ゴアの雨具の中にまで浸水してくるほど。車道は水捌け
のよいところでも、数 cm の水深という状況で、このハイキングクラブを始めて以来、
最大の雨となってしまったのです。
さらに、その次の会は、雨で流れたのですが、小林先生だけ、連絡がうまく取れず、JR
武蔵五日市の駅に一人で放っておかれ、これ以来、ご自身を雨男と認定し、また出張な
どで忙しいこともあって、難々再登場されませんでした。再登場は 2009 年 1 月の三浦
アルプスで、一日曇りでしたが、雨は降らず、ほっとしたのは、小林先生のみならず私
もでした。
2009 年度からは、先生は公職を離れられ、悠々自適の生活に入られると伺っておりま
す。この二年間に溜めこんだストレスをレリースされ、ぜひとも、ハイキング三昧に耽
っていただけるよう、切にお祈りいたしております。
雨天の霜降高原ハイキング、2007.7.19
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不思議な出会い
「もしもし、小川さんですか。」
9 年前のこの電話での何気のない一言が我々夫婦を心底から驚かしたが、それが小林さん
とのお付き合いの始まりであった。
事の起こりは 26 年前のローマで、小林さんの一卵性双生児の相方、故渡邉幸一氏との出
会いに遡る。それは私が博士号取得後、イタリアに渡りローマ大学で研究生活を始めようと
した時で、当時、私は遅れてやってくる妻と生後 2 ヶ月の長女のためのアパート探しで途方
に暮れていた。日本で調べておいた、頼るべきローマ在住の知己に頼み込んでもサッパリ見
つからず、なかば諦めながら最後に連絡したのが、日本を発つ直前にイタリア語教師のイタ
リア人から連絡先を聞いただけの幸一氏であった。しかし、法務省から国連犯罪司法研究所
に出向中だった彼は、
全く面識のなかった我々のために心を尽くして給費留学生の奨学金に
見合う家を見つけてくれたのである。私にとっては、まさに救世主が現れた思いであった。
それから家族ぐるみのお付き合いが始まり、イタリアを旅行したり、帰国後は、年に1、
2回食事を共にする等の楽しい交流が続いた。
幸一氏は限りなくやさしく思い遣りに満ちた人であったが、それは彼の仕事柄(心理学
を専門とし、刑務所や鑑別所等の所長を歴任)ゆえだけではなく、人と接する際に常に相手
の望むことを迅速に把握し、的確な判断と指示をさりげなく相手に伝える能力に、長けてい
たことに由来すると思う。外国で心細い思いをしていた我々だけでなく、縁のある様々な人
たちを無償の愛で支える彼の生き方に、我々は多くのことを学んだ。とくに、自分が困って
世話を受けたことに対し、世話をしてくれた相手に御礼を返すより、その手を次に同じよう
に困っている人に差し伸べよ、ということは幸一氏からもらった最高の遺訓である。 Pay
it forward!
幸一氏は 1999 年 7 月、フィジーでの飛行機事故で悲運の死を遂げる。その小さな新聞記
事を見つけたのが、滅多に新聞も読まない長女、真弓であった。ローマで助けてくれた幸一
氏が真弓を通して話しかけてくれたのであろう。慌てておもむいた告別式で、ご家族と顔を
会わせた時の涙と胸の痛みは、いまだに忘れることができない。それでも、生前の幸一氏と
は年に数度のやりとりだったせいか、一周忌が過ぎても本当に亡くなられたという実感がわ
かなかった。いや、実は今でも実感はない。
そんな気持ちでいた我々の家に、一周忌の後、かかってきたのが小林さんからの電話であ
ったのだ。一卵性双生児なら当然だが、声は全く同じである。季節も夏で存命ならそろそろ
電話でもあると思っていた矢先である。天国からの電話か、あるいはやっぱりあの事故で幸
一氏は亡くなっていなかったのか、
と幸一氏と寸分違わない声を聞きながら絶句したもので
ある。その後の小林さんとのお付き合いでますますその意を強くしたが、幸一氏を喪った友
人達は、皆、同様の思いを小林さんとのお付き合いに感じていることであろう。小林さんは
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今は一人で幸一氏の分まで二人分生きるという mission impossible をあえてされているの
ではあるまいか。
小林さんはあの電話の後、我々の週末用の山の家(幸一氏も何度もご家族と犬達を連れて
泊まりに来てくれた。)に泊まりに来られ、幸一氏の好きだったイタリア料理を一緒に食べ
ながら過ごしたが、我々の気持ちはなんとも複雑で幸一氏と話をしているのか、小林さんと
の会話なのか訳が分からなくなって困ったものである。
小林さんのことは生前の幸一氏から
時々うかがっていたが、なぜか幸一氏存命中はお会いする機会がなかったのも、今となって
みると不思議な気がする。幸一氏がいずれ小林さんにバトンタッチをする気持ちで、あえて
機会を作らなかったのだろうか…。
私のような平凡な人生を歩んでいる人間にとって、このような奇跡とも言える知遇を得た
こと、それが残された次の人々に確実に伝わっていることを感じることは、あまりにも悲し
く幸せなことである。悲しみの先には幸せがあるのだ。
つい先日も小林さんを山の家にお招きし、
私が勤務する研究所の気の置けない老若男女達
と秋の楽しい BBQ をしたばかりである。
常に話の輪の中心にいらっしゃる小林さんの姿を拝
見しながら、新しい次の世代、年齢を超えた友人へのあたたかい気持ちの広がりが、すっか
りフリーとなられた小林さんによってさらに大きくなっていくことを確信した。
小林さんは
異文化間や国際間どころか冥界にも通じる communication のエキスパートであると。
そして、
小林さんと天国の幸一氏との二人三脚はこれからも続いて、Pay it foward の伝道者であり
続けることであろう。
小川雄二郎(Family Friends)
小川家山荘にて
渡辺家(双子養家)墓所にて
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「ほっこり」温かい小林登志生先生
キムジョンウン
金廷恩(東京大学総合文化研究科大学院)
自転車でバイト先に向う一時間弱、今日はずっと小林先生のことを考えてみた。尊敬する
先生のご退官記念誌に、できれば立派な文章を書きたいという思いであった。だが、独り思
い出し笑いをして「ほっこり」するのに忙しく、構想を練るまでには至らなかった。これか
ら感謝の気持ちをこめて、その心温まる小林先生との思い出を、飾らずに綴りたいと思う。
小林先生に初めてお会いしたのは、2005 年 2 月、韓国高麗大学における日本学会の時で
ある。当時日語日文学科に在籍していた私は、大阪大学の飯倉先生と、小林先生の通訳兼案
内を担当していた。キャンパスを案内し、レセプション会場にお連れするのが私の役目であ
った。外を歩くには厳しい冬の日だったので、足早にキャンパスを巡った。しかし、短縮し
すぎたのか、街に出るには時間が足りず、会場に行くには早い、微妙な時間が余ってしまっ
た。完全に私のミスである。
朝から飛行機やバスに揺られた先生方は、少しお疲れのように見受けられた。
そこで私は、
失礼を承知しつつも、
最後に案内した中央図書館での休憩を提案した。
図書館のロビーには、
学生たちの休憩用にテーブルと椅子がいくつか並べてあるような場所がある。落ち着くには
程遠いが、寒い中歩いて行かれる距離に喫茶店が思い浮かばなかった。私は、地下の売店で
飲み物と大衆向けの伝統菓子を買って、先生方のところに戻った。私の不安を察して下さっ
たのか、お二人はとても喜んで下さり、はじめてほっとしたのを覚えている。
この図書館の一角で、三人の不思議な会話がはじまった。両先生もその日の午前中に初め
て顔を合わされたばかりの上、私も無知な学生に過ぎない。何を話せば良いかわからないそ
の場を率いて下さったのは、小林先生であった。高い識見と広い経験をもとに、豊富な話袋
をお持ちで、学生の私も会話に入っていけるよう、常に気を配って下さった。長く感じられ
たレセプションまでの時間も、楽しい会話であっという間に過ぎていた。最後に先生は、私
の留学が決まっていた東京で再会しようと連絡先を教えて下さった。
通訳をしていると、
「日本にいらしたら、連絡してください。
」などと、名刺を頂くことが
よくあるが、実際に連絡を取り合う関係になることはあまりない。旅先での楽しい時間も、
帰国すれば元の多忙な生活によって「遠い昔の思い出」化してしまうことが多いので、こち
らから連絡するのも憚られる。ましてや、先生がわずか数時間をともにした一学生を気にか
けるのは稀である。ただ、小林先生は、特別であった。帰国後すぐにメールを下さったので
ある。改行の少ない簡潔な文面から、早口の小林先生の低い声が今にも聞こえて来るようで
あった。
私が東京に来てからも、先生は変わることなく、何年も知り合っていたかのように気さく
に接して下さった。研究会やお食事会などがあると、お声をかけて下さり、私は、様々な分
野の方々と接する機会を得た。小林先生でなければ、おそらく一生お話することも叶わなか
10
ったであろう方々との交流である。彼らも小林先生と同じ空気を持っていらして、井の中の
蛙の私を、いつも優しく指導して下さる。
もっとも、小林先生が与えて下さったのは、学術的なものにとどまらない。なかでも私が
一番感動したのは、小林先生のピアノである。先生は、飲み会や食事会の最後にピアノを披
露してくださることがあるが、その美しい旋律で締めくくられると、帰途にもその余韻が残
り、その一日がとても心地よいものとなる。精力的な研究活動の傍ら、このような高尚な趣
味をお持ちだなんて、魅力的としか言いようがないではないか。小林先生のお人柄通りのピ
アノの音は、思い出すだけで私の心を「ほっこり」癒してくれる。
小林先生が教訓じみたお話をなさるのを、私はまだ聞いたことがない。先生の行動やジョ
ークの合間に、とてもさりげなく、先生の教えが滲み出ており、知らぬ間に教えられている
のである。周りに頭が上がらない大人は大勢いるが、小林先生のように無条件に心温まる方
はそういらっしゃらない。先生の優しさと愛が前面にあって、その奥に教えがほのかに感じ
られるからであろう。私も、先生のように、
「ほっこり」自然体で教えられる大人になりた
い。
私は、
ただ先生の恩恵を蒙るばかりで、いつ頃一人前になって、
恩返しができるだろうか。
今は、先生のますますのご活躍と、ご健康をお祈り申上げるばかりである。
韓国高麗大学で(2005 年 2 月)
11
小林登志生教授について
私が小林さんのことについて述べるならば、まず最初にピアノについて言及しなけれ
ばならない。まったくど素人の私がピアノに触れてみたいと思うようになったきっかけ
は、約 20 年以上も前のことであるが、小林さんの演奏するピアノの音色を聞いてから
である。当時の小林さんのイメージとはかけ離れた、「フランシス・レイ」の「ある愛
の歌」の素人の領域を超越した音色をきいて私は小林さんの奥の深さに感心してしまっ
た。私は他人の魅力について過大評価してしまう傾向があるが、小林さんの個性には評
価以上の不思議な魅力がただよっていた。仕事を通して発揮される小林さんの記憶力の
確かさにはいつも驚かされた(小林さんと私はホノルルの総領事館で一緒に仕事をして
おり、小林さんは私の仕事の危機をいつも助けて下さった。
)きっと私にはない音楽的
能力と記憶力が比例しているのであろうといつも思うことがよくあった。様々な場で的
確に発揮される判断力、知的ユーモアなどは小林さんの存在感そのものを感じさせる文
化的素養であり、時にそれは毒舌の裏に潜んだ優しさと思いやりにあふれていた。そし
てなぜか私の心にはそれら小林さんの素養がピアノの音色と結びついた。私が 50 代近
くになってピアノに興味を持ちだしたのはそのような小林さんのもつオーラが常に私
の目の前にあったからである。いまショパンのノクターン 20 番をようやく一通り奏で
ることができるようになった(と本人は思い込んでいる)が、小林さんの足元ぐらいに
は及びたいと願いながら日々楽しく精進してきたからであり、いまも練習を継続してい
る。これからの私の残された人生もピアノの旋律の中に浮かぶ小林さんの存在という強
力な引力をもつダークマターによって左右され続けるであろう。
小林さんには、これまでずっと小林さんを支えてこられた美しい聡明な奥さま、とも
に大変優秀な一人のご子息と二人のきれいなご令嬢がおられる。大変魅力的な方たちで
ある。小林さんがこれまで縦横な人間関係を豊かに背負いながら極めて多忙なお仕事を
何とか乗り切ってこられた背景にはこのご家族の存在がある。心から敬意を表したい。
久留米大学 古賀幸久
今後一層のピアノ演奏チャレンジ人生が楽しみ
12
その男、コバ ヤシ
コージン・サカモト
(歌人・アメリカ詩誌 RMA 編集委員)
上方では人名「小林」は、ふつう“コバヤシ ”と抑揚を伴わずに発音される。少な
くとも筆者の耳はそのように聞きとってきた。
そこへ、
「
“コバ ヤシ ”です」と現れたのが小林登志生さんである。時に 1986(昭和
61)年 9 月 25 日、後期授業開始出講の日。所は京阪間の某大学非常勤講師控室。
初見で筆者が小林さんに捉えられたのは、彼の知性と野生の複合した不思議な魅力の
せいだ。「この人は、同性はもちろん、異性をも直ちに虜にするのではないか」と思え
たほどだということも付け加えておこう。
筆者は、小林さんに先立ちその年4月から出講していたが、同じくこの年度より初め
てご出講の F 先生と親しくなっていた。先生は某大学名誉教授にして名誉学長。見るか
らに碩学、古武士的風格を備えておいでである。そこへ野武士的活気を発散させる小林
さんが現れたものだから、ここに老若・静動という絶妙の対比が見られることとなった。
これらお二人に筆者を加えた三人は、下校の途次などしばしば四季の風趣を愛でつつ
至福の時を共有する仲間となる。これを名付けて“三楽の会”。時には紅葉の丘、時に
は花の下、多岐にわたる談論を楽しめたのは、この頃の筆者の大きな幸せであった。在
外経験豊富な小林さんの話は、いわば知的で愉快な冒険談であったし、学殖豊かな F 先
生のお話では、古今東西に心を遊ばせることができた。
ただ、F 先生のお話は、絶妙で危うい一線を越えようとすることがあり、そういう時
は「ここを越すと私は不名誉教授になります」という一言で、残念ながら落着してしま
うのが常であった。小林さんも筆者も、当時はなお人生の発展途上にあったのであろう、
某一線から遠く離れたところで気勢をあげていたに過ぎないと言えよう。何しろ五分の
一世紀ほども前のことである。昔というも愚かなりか。
ところで、行列割り込み常習者のことにも触れておきたい。これも小林さんと関わり
があるからだ。出講先の最寄り駅からは大学行きのバスが出ている。通学時には長蛇の
列だ。それに並びもせず、いつも平気で行列の先頭に割り込みやすやすと座席を占める
男がいた。紅毛ではないが碧眼。しかもその大学の教員。しかも、常に手ぶら。
13
ある日、小林さんと一緒に並んでいた朝のこと、常の如くその男が現れ行列の先頭に
向かう。すると、小林さん、躊躇なく列を離れて奴を追い、乗車寸前のところで引き留
め注意するではないか。しかし、結局、男は乗車。小林さん憤懣やるかたない面持ちで
戻って来、
「あいつ、
“This is the Japanese way”と言います。反省の色なしです」と。
たまたま、筆者はその大学の学長の腹心と言われる人物を知っていた。当日、小林さ
んと共にその人物の部屋に赴いて状況を説明し、「事実確認の上、当人にご注意を」と
話を結んだ。ところが「辞めていただきましょう。第一学生の訓育上よろしくありませ
んし、大学の恥です」ということになってしまった。それならば、教授会事項になるの
ではないかと思えたが、大学それぞれの対処法もあろうかと異は唱えぬこととした。
これには後日談がある。奴の夫人の声涙ともに下る懇願により、退職の件は見送りに
なったという。夫人は日本人。まさに内助の功。これぞ“Japanese way”であると奴は
思い知るべきだろう。ちなみに、こののち奴は行列に割り込むこともなく、満員バスの
車内で従順な立ち姿を見せることとなった。
もうひとつ、授業参観のことにも触れておこう。大学では、同僚の教室に入り込んで
授業を参観するという機会などあまりないのではないか。ところが、どういうわけだっ
たか、筆者に空き時間ができたのを幸いに小林さんの授業を見せてもらうこととなった。
最初、教室の扉の隙間からそっと覗くと、まっさきに目に入ったのは、学生たちの笑顔
で、そのことから、小林さんが学生たちに愛されていることが瞬時に見てとれた。羨ま
しい限りだ。自己紹介をさせられた時、その教室にピアノが置かれてあるのに気がつき、
“小林さんは、実は、ピアニスト志望の少年でありました”と暴露(?)したものだ。
学生たちからは、驚きと感嘆の声があがった。小林さんにとっては迷惑な話であったか
も知れない。しかし、結局、小林さんは上着を脱ぎ、腕まくりして一曲演奏という次第
となった。そのお返しか、筆者が一席つとめざるを得ない羽目となり、“先住民虐殺と
アメリカ”なる殺伐な外題でご機嫌を伺う始末となってしまったのである。その時限の
科目は、実は、
「日本研究」であったのに。
小林さんはこのほか「コミュニケーション論」を担当。ちなみに、F 先生は「英文学
史」。筆者は「英語科教育法」
。
“Time flies.”というが、実は“Everything flies.”であろう。別れの日は来る。
小林さんは東京へ栄転。F 先生はご体調不如意。筆者は本務校役職に就任。三者とも非
常勤出講を打ち切らざるを得ない事情となった。1988 年度末のことである。
14
そこで、一日、小林さんと惜別の宴を共にした。所は東山山麓、嘉永2(1849)年創
業という料亭。古くは頼山陽、近くは志賀直哉なども愛用したとか。その千坪ばかりの
庭園の一隅に茶室がある。男二人がこもるのは如何かと思えたが、いずれ小林さんが上
洛の折り、然るべきお方を招かれるのにふさわしかろうと思案して選んだまでのこと。
小林さんを前に盃を傾けていると、なぜか、さる詩人の詩の一節が思い起こされた。
少女期の
B29 のことを
ふと洩らされるものだから
思わず抱きすくめる茶室は
二畳
いや、いかん
いかん。小林さんはこういうことはなさるまい。気を取り直そうと盃
を置いたが、なおも詩句はつづいて脳裏を駆け巡る。
顎を引き
声をころして
心の底を隠そうとなさるこのお方は
香道師範
裾が割れても
“これ、一線を越えているのではないか。F 先生ならどうおっしゃる”このような筆
者の妄想をよそに、小林さんは悠々と酒肴を楽しみ続ける。若くして大人の風格ありだ。
“願わくは今日の風情を江戸に伝え給え”とは口に出さぬものの、あらためて盃を重ね
別離の刻々を惜しんだのであった。
東京人で東京タワーにのぼる人は多くないと聞くが、都人でも京都タワーなるものを
好んで訪れる人は稀なはず。
しかし、私たちは京都駅前のそのタワーに敢えてのぼってみた。小林さんとの 20 年
ぶりの再会だ。2008(平成 20)年 12 月 15 日、学会の所用を終えた小林さんが時間を作
ってくれたのである。ただ、その 20 年の間に、辛いことだが私たちは F 先生を喪って
いた。
ところで、タワー最上階には人影なく、あるのは四囲 360 度京の全景のみ。私たちは、
15
比叡山から稲荷山に至る東山三十六峰を見はるかす席を占めた。しかも、そこは洞窟め
いた作りで、二人連れがこもる風情を確実に保証する類のもの。折もよし、一片の雲も
なき快晴。かつて遊んだ料亭のあたりもしかと指させる。まさに絶景。五右衛門ならば
なんと言う。
定年を目前にするという小林さんとの、来し方行く末をめぐる談話の興趣は尽きるを
知らず、二人の間に 20 年の空白など無きが如しであった。ただ、その時言い落とした
ことがひとつある。補足しておこう。
「90 歳の老婦人が一冊の本を買い求めるのを見ま
した。その表題は、なんと『始めるのに遅過ぎることはない』でした」さて、小林さん、
さらに何をお始めになる。
(平成 21 年3月 5 日・啓蟄の日)
16
神戸時代の小林先生ご一家
始めて先生とご家族の皆様にお会いしたのは 20 年ほど前になります。神戸外大生だ
った私は双子のお嬢さんの家庭教師として毎週ご自宅へ伺うことになったのです。
海外から帰国されたばかりのご一家の生活スタイル(日常的な国際電話,テーブルマ
ナーやセッティング,デロンギのヒーターも初めて見ました)に目を見張り,知性と教
養,そしてホスピタリティにあふれたご家庭の雰囲気に魅了され,今振り返ると,ご一
家と過ごした数年間が,私にとって,視野を広げ,大人の輪郭をつかんだ時期でした。
加連さん真里さんは素直で優しいお嬢さんたちで,私はすぐに姉のような親しい気
持ちになりました。双子なのでよく似ていらっしゃいましたが,間違えたことはなかっ
たと思います。2人は絵画の才能に溢れていて,精密な花の絵や,ねずみの家族の絵を
描いてプレゼントしてくれたこともありました。
勉強の後はいつも夕食をご一緒させていただきましたが,奥様の作るお料理が毎週楽
しみでした。食事時には先生も帰宅され,話題の豊富な食卓はいつも楽しかったです。
双子さん達が先生のちょっかい(?) に英語で文句を言ったりして(そういう時はなぜ
か英語でした)
,幸せな風景だと感じていました。
食後にはコーヒーをいただきながら,奥様のバイオリン,息子さんのピアノを聴くこ
ともありました。奥様はとても素敵な方で,先生が奥様を大切にされている姿を拝見す
る度,私まで嬉しい気持ちになったのを覚えています。
ご一家との思い出は,加連さん真里さんがアメリカに留学していた時に先生と一緒に
会いに行ったり,お留守の時に猫(Peter,Taro)のごはんをあげに行ったり,私が仕
事で東京にいた頃は先生のご兄弟の恵比寿のご自宅に招いていただいたり・・・語りつ
くせません。
当時の私は本当に未熟な若者でしたが,ご一家は家族の一員のように温かく受け入れ
てくださり,海外からお客様がいらっしゃるときにも同席させていただくなど,さまざ
まな機会を与えてくださいました。そうした新しい経験に刺激を受け,自分というもの
を考えるきっかけにもなりました。今ある自分は,ご一家か
ら受けた多くの影響によって形づくられていると言えます。
ご一家が東京へ移られ,お会いする機会がなくても,私の
心の中にはいつも皆様との思い出がありました。
この度,先生が退官されるにあたり,こうして感謝の気持を
お伝えする機会を得,有難く思っています
先生,ご家族の皆様の,ますますのご多幸をお祈りしております。
田中真紀
17
横浜から田園調布、大阪、そして箱根
谷川 清隆(国立天文台)
2007 年 10 月 7 日の午前 11 時過ぎに会議は終った。ふたりは地下鉄で横浜に出, 東急
東横線に乗って多摩川駅で下り, 細長い多摩川台公園を南東から西北に歩く. 歩きな
がらしゃべる. 亀甲山古墳を過ぎて公園の西北端近くでベンチに座ってまた語り, し
ゃべる. 田園調布の駅まで歩き, 寿司を食べて渋谷に出, 別れる. そして夢から醒め
る. しゃべり通しの, ふわふわした午後の数時間であった.
民族学博物館の出口正之氏が主催する総研大共同研究「何語で教え、何語で研究する
か・・・言政学構築に向けて」の仲間に入れてもらった. 第一回の会議が 10 月 6 日, 横
浜は中華街近く, 地下鉄駅を出たすぐのビル内で行われた. 出口氏はあちこちの分野
から面白い人を集めてきて、わくわくするような会議であった. 自分がそんな中にいて
いいのかと不安になった. 集まった人の中に, 小林登志生氏がいた. 色黒で白いあご
ひげ, 背は高からず精悍な風貌. 夕方は「無国籍」の著者・陳天璽さんの姉が経営する
中華街の店で食事.
「…ですけどサ」という口ぐせの小林氏.
あけっぴろげの性格. 前向きな生き方. 同じような背格好で, 鏡に映してプラスとマ
イナス. 陰と陽. なんとわたしと違う人生を歩いてきた人なんだろう. 田園調布の山
を歩きながら, 小林氏から話を聞く. 積極的, あるいはずうずうしいという意味では
人後に落ちないとの自信を持つこのわたしの影が薄くなるほどの強烈な自己主張とそ
れを支える行動的な生き方.
そんな小林氏がなぜわたしに興味を持つ? 不思議だ. よき聞き手として選んだのか?
あきらかに, わたしが人生においてひるんだ時点を, 小林氏は乗り越えている. あの
ケプラーが惑星運動の三法則を定式化したときのことを「ケプラーは中世と近世の間に
横たわる峠を夢遊病者のように乗り越えた」と伝記作家がいう. わたしは峠の高さに恐
れをなして引返した口であり, 小林氏は乗り越えた口である. ひるんだ人がどんな人
生を送っているのかに興味を持ったか? 乗り越えられなかった峠や壁を近くで見なが
ら, 無力感を持ち, 悲しい想いをする. そんな自分を馬鹿らしく見る. 複雑な気持ち
が表情に出るのだろうか?
新大阪の夜, 知らずに, 安いだけが取り柄のホテルに小林氏と泊まる. 部屋の外の共
用の風呂にふたりで入る. 二人が入ると小さな湯舟の湯があふれる. ふたりの小さな
子を代わるがわる洗っている若い父親がいる. 子どもの表情にみとれる. われわれふ
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たりは狭いサウナに肩寄せあって入る. よく考えると危険な関係. 出口氏主催の「言政
学」研究会が 2008 年 12 月 13 日, 東京は品川で, そして次の日, 大阪は千里の国立民
族学博物館で行なわれた. 民博での会議で自分の考えが少しずつかたまる.
そして 2008 年 12 月 21 日は箱根で疾風怒涛の一日. 出口, 小林, 谷川の 3 人が角突き
あわせて言いたい放題. いわゆるブレインストーミング. いい大人が, 何時間も部屋
を出ずに, しかも酒もなしで口角泡を飛ばす. 出口氏の言政学と小林氏の経験, そし
て谷川の何だろう? 素直さか? 素直に疑問を持つことであると思いたい. 出口氏の企
画力と小林氏の実行力, そして谷川は何だ? 壁を乗り越えようとする年来の意欲, そ
うだ, その意欲と思いたい.
そして小林登志生氏は定年だという。何も終っちゃいないですよね. まだ始まったばか
りじゃないですか. 続けるんですよね.
研究会後京都のパブで、出口・谷川両先生と
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小林先生と言政学(Linguapolitics)
国立民族学博物館・教授
国立大学法人 総合研究大学院大学文化科学研究科教授
出口正之
テレビ画面を通した小林先生は、雄弁に遠隔教育の必要性を訴えていました。小林先
生と初めて「お目にかかった」のは、法人化前の総合研究大学院大学(以下
総研大)
のテレビ会議。小生は葉山、小林先生は幕張でした。当時、小生はインターネットの利
用と、多国籍の国際学会の運営から、「言政学」(Linguapolitics)という概念を作り出
していましたが、なかなか賛同者が集まりませんでした。小林先生のお話のポイントは、
小生が言政学的問題と小難しく表現するものと一致しており、一度、ゆっくりと共同研
究の可能性について話し合いたいと、考えておりました。
しかし、その後、何度か電話のやり取りはありましたが、法人化へ向けて時間がそれ
こそ矢のように流れ、なかなかお会いできるチャンスはありませんでした。
小生は、総研大教育研究交流センターから大阪の国立民族学博物館に移っておりまし
たが、平成 19 年に総研大から、
「新領域研究」の募集の知らせがありました。願っても
ないチャンスと思い、小生は長年温めていたテーマを小林先生や国立天文台の谷川清隆
先生らと実施すべく、<何語で教え、何語で研究すべきか・・・「言政学」構築へ向け
て>というテーマで、小さな研究プロジェクトを立ち上げました。
<言政学とは、複数の「言語」が使用可能な状況の中で、1つ又は複数の「言語」を
取引言語として選択する前後に生じる、政治的、社会的な影響を考察する学際的科学>
と定義し、総研大を例として、わが国高等教育機関の教育・研究の言政学的課題を探り
ながら、「言政学」という新しい学問体系を構築しようとするもので、目標は非常に大
きいものです。国際間のICT教育に深く携わってこられた小林先生は、小生の拙い説
明をいち早くご理解いただきました。実際に先生が、実施しようとしていた、非英語圏
間の英語によるネットワークの重要性は、言政学の用語を使うことで、「純粋第三者言
語ネットワーク」として表現できます。
この二人に、「日本の科学者は日本語で論文を書くべきだ」と主張する、谷川先生が
加わった三人による一般向けの共著が、出版社こそ決まっていませんが、ほぼ出来上が
っており、数カ月以内には出版できるのではないかと思います。この種の議論は、理系
の先生が英語論文を主張し、文系の先生が日本語論文を主張するのが常ですが、今回は
逆になっており、小林先生のおかげで、斬新で深奥な視点も随所に入ったのではないか
と思います。
共同研究が佳境に入ったところでのご退職ではありますが、小林先生のこれまでの研
究と国際的な人的ネットワークは、大変な財産であり、これを継続発展できるように道
を探ることが、我々後進に与えられた使命であると思っております。
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世界を飛び回る野武士・小林登志生先生へ
小林先生と知り合った瞬間から、その強烈な個性に魅了されました。発想スケールの
壮大さ、爆発的な行動力、他人の微妙な感情の起伏を感じ取る繊細なセンサーなど複雑
系の要素を併せ持ち、国際感覚に満ちた日本人らしくない日本人・・・・
「個性の強い、
破格な人物だな」が第 1 印象でした。神田外語大学で知り合ってから、かれこれ 15 年
になるでしょうか。
それ以来、一緒に飲む機会を何度も得るほどに(最近はお互いに飲めない体調になり
残念!)ウマが合い、知れば知るほどその人間的魅力に圧倒されるようになりました。
小林先生との話で一番花が咲いたのは、苦労した(が、今から思い出すと楽しい)青春
時代のことです。小林先生はアメリカに、私は欧州に行きました。貧乏生活ながら、希
望に燃え、働き、学んだ日々の思い出を語り合うと、小林先生も私も目が輝き始め、
「我々
は野武士みたいだったね」と話したものです。その野武士が、ある時にショパンのピア
ノ曲を弾いてくれました。鍵盤を走る指先の持ち主が、全くの別人に見えました。
仕事の面では、コミュニケーション分野で相互協力関係を深めることができました。
お互いが構築してきた国際的人脈ネットワークの一端を紹介しあったり、NIME の研究
会に研究協力者として参加させていただいたりしました。私にとっては NIME の研究
活動から学ぶことは多く、貴重な経験となりました。
まだまだ若く、エネルギッシュな小林先生が定年を迎え、退官されるとは信じられま
せん。しかし、再び「野武士」に戻られると伺い、「もったいない」と思いつつも、小
林先生らしい「男の美学」なのかもしれないな・・・と推察しています。小林先生、精
神的な若さを失わず、
理想に燃えた青春時代に Play back!ですね。
そして舞台は世界!
私も、そう遠くないうちに野武士仲間に入れていただくことを楽しみにしつつ・・・。
戸門一衛 (とかど・かずえい)
神田外語大学・国際コミュニケーション学科・教授
(From KUIS Teacher's Profile)
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オコバのこと――
普段、私が感謝している小林先生---そのそぶりを私は見せないのだが。
ユーロピアノ㈱ ベヒシュタイン日本総代理店
戸塚 亮一
私は、45 年間、ピアノ販売をしている。
特に、ドイツ製の“ベヒシュタイン”を日本総代理店として、取り扱うようになって、販売
と言うよりも、ピアノの歴史、作り方の違い、創業者のピアノに対する考え方、構造の違い、
音の違い、などの啓蒙活動(ピアノの話をしたり、文章を書いたり)に終始している。とい
うのも、日本はブランド志向の国民性で、裏を返せば個人の判断力がない。
「みんなで渡れ
ば怖くない」と共通する根っ子である。ピアノでいえば、「ヤマハとスタインウェイがあれ
ば事足りる」と日本の殆どのピアノ教授が考えているからである。それが証拠に、世界に冠
たるベヒシュタインが、芸大、
(旧奏楽堂に古いものが 2 台だけある)T,M,K,音大、などな
ど全くない。
日本の音楽大学に戦後、60 年も経って、一台もないのである。
大阪教育大、鳴門教育大など、杉並公会堂、テイアラ江東など、教育大学、公共ホールの一
部の例外を除いて、教育機関である、地方の芸大や国立大学や、NHK にも、公共のホール
やサントリーホールにもない。
なんと情けない日本の現実であろうか!
リストが愛し、ドビュッシーをして、「ピアノ音楽はベヒシュタインだけのために書かれる
べきである」と言わしめた、世界の名器が、これほど日本では受け入れられないのである。
右へ習え!だから仕方がない。
この事実も含めて、私は機会を頂ければ、全国どこへでも行く。弊社のホームページにも、
『社長のブログ』というコーナーがあるし、
「ドイツ人社員の物語」というブログもある。
直接的に、ベヒシュタインのよさばかり説いても、私は、輸入総代理店の社長であるから、
3 流ピアノメーカーの社長のいうことと同じで、
“誰だって、自分のピアノを一流と言うに
決まっているさ!”と理解されてしまう。
だから、ピアノに限らず、ピアノ教育についても日本とドイツを対比して語らなければなら
ないし、文化構造の違い、音大のもつ意味・意義、を話させていただく。
時には、ドイツに対してもいいたいこともある。因みに、私は、35 年間、ドイツに住み続
けている。
(ドイツでもピアノ販売業を営む)
さて、私は、日本のピアニストの卵などや、教授先生方に対しても、士農工商の最下級の分
際でありながら、偉そうな口を利く。
(ドイツでは「商」であっても、
「士」=ピアニストと
同等である)
例えば、
“ピアノは 7-8 歳くらいまで習う必要はない、”
“0 歳から、7 歳くらいまでは耳の訓練が最も重要で、良い音楽を沢山聞かせて、脳細胞に、
音の美的体験をさせる。美意識を叩き込み形作らせることが大切である、
”
22
“ピアノを始めるのは、骨格の発達し始める 12 歳くらいからで十分だ!”などなど。
ここで小林先生の登場である。
「オコバ」こと、小林登志生教授とは、幼い頃の近所の遊び友達である。歳は私が 6 つ上
だが、なんとなく、当時から畏敬の念を持っていた。彼は両親がクラシック音楽家(父親が
バイオリニスと、
母親が石井獏クラシックバレー団のプリマドンナ)、という家庭に育った。
従って、良い音楽を沢山聴いていた。中学生頃までは、ピアノは全く弾かずに過ごした。私
が、カワイに就職したので、ピアノや作曲でもやって見ようかという気になって、私のとこ
ろに尋ねて来た。
そこでカワイ音楽教室の優秀な作曲家の端山先生を紹介した。そうしたら、
3 ヶ月もしないうちに、その先生が、当時、日本の一流の中堅ピアニストとして誉れの高い、
井上二葉先生につくことを薦めた。何しろ 15 歳くらいからピアノを始めて、すぐ、こんな
一流のピア二ストに就くことになったのである。
私は、
“音楽は耳だ”と言い続ける裏づけに、オコバの例をいつも出している。
日本のピアノ教育の批判として、
「テクニック偏重」と「コンクール重視」が叫ばれて久し
いが、未だに、音の聴き方が出来ていない。レッスン中に“もっと音をよく聴きなさい!”
という先生は多い。でも、一歩突っ込んで、タッチとピアノメーカーとの関係で、音を工夫
させるというか、違うメーカーのピアノの響きを聴かせている、弾かせている先生(レッス
ン)は聞いたことがない。
(殆どの音大の教授のレッスン室は、スタインウェイとヤマハで
ある。そして、ヤマハは、スタインウェイのコピーである)
ドイツには、ピアノ設計のコンセプトの異なる個性豊かなピアノが沢山ある。
だから、このような授業を行うと、学生の音楽性はどんどん育つ。
この様に、日本のレッスンの風潮にささやかな抵抗を試みるのだが、いつも思い出すのはオ
コバの存在である。その後オコバは、美しい元エールフランスのスチワーデスだった年上の
女性と恋に落ちてアメリカへ駆け落ちし、違う分野で才能を発揮し名を成した。
これは単なる私の思いだが、彼が、演奏と合わせて
“音が混ざる時や消え行くときの色彩感を意識して弾いてごらん!”とか、
“このピアノだと、こう響くだろう?!あのピアノだと、どう響くか、聴いてごらん。
そして、
君の望む音を夫々のピアノで出す工夫をしてごらん!どちらのピアノのほうが作曲
家の意図をよりよく表現できると思うかい?”そして“あなた自身を表現するのはどちらの
ピアノがいいと思う?”
なんていう授業
をオコバがしてくれたとしたら日本ももっ
と早く啓蒙されて、もっと音楽文化が、ヨ
ーロッパに近づいたかもしれない。さて彼
の後半生がどのような展開を見せるかにつ
いては興味が尽きないが、これからのオコ
バに期待しよう。
23
小林面白顔左衛門殿へ贈る言葉
2009.3.1
永岡慶三
早稲田大学人間科学部 教授
面白顔左衛門(おもしろかおざえもん).その語源は,昭和 20-30 年代にシュールな不
思議世界を描く漫画家杉浦茂(1908-2000)の「猿飛佐助」に出てくる人物.特にその登
場人物に顔や動作が似ているというわけではありません.ほぼ同じ頃に少年時代を,そ
れも偶然にも近所でお互い過ごし,期せずして共通に読んでいた漫画を発見し,両者我
が意を得たりと互いに登場人物を適当に引用して,小林=面白顔左衛門,永岡=コロッ
ケ五円の助を拝命しただけの話です.国籍不明の風貌と何語ネイティブかわからないし
ゃべりの超国際派小林先生には似つかわしくない純日本的子ども漫画のキャラクタ名
でした.
Sehr geehrte Herr von Gesicht(親愛なる顔左衛門殿)で始まり Croquette(コロッケ)
の署名で終わる,怪しげなドイツ語による e メールも,両者だけが面白がっているふざ
け半分の隠語的なコミュニケーション手段でした.その e メールも正確な連絡が必要に
なると怪しげドイツ語では誤解が生じるのを危惧して,いとも簡単に日本語で書くこと
になります.
しばしば海外出張にごいっしょさせていただきました.多くの場合,肝胆相照らして
気の合う楽しい旅となりました.しかし,ときに調査訪問先機関には我々二人でメディ
ア教育開発センターの人間として情報収集に行ったはずが,討論も盛り上がって顔左衛
門氏の機関銃式英語が最高潮に達する頃には,先方の人間とネイティブスピーカどうし
で徒党を組んで,べらべらと冗談を言ってはこちらの反応を見るという,どちらが味方
かお客か渾然とした展開に困惑することもありました.
10 年間同じ職場の同僚として年月をともに
させていただきましたが,その存在は特異な
ものがあり,華族の末裔として実に邪心の無
いその人柄には,もう今後日本にはこのての
人間は誕生しないのではないかと,恐竜の絶
滅期に立ち会ったような,いささかの感慨を
覚えたものです.
(1994.3-2004.4 メディア教育開発センター研究開発部)
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小林登志生先生へ
永岡朗里
2008 年夏のフィンランド旅行でご一緒させていただきました.渡航前から,父への
電話の取り次ぎの際等でその気さくなお人柄に触れ,旅先では様々なお話ができて嬉し
かったです.楽しそうに冗談を言うところや,ユニークなものの考え方は,私の父とよ
く似ていると感じました.小林さんと父が二人で楽しそうに会話をしながら歩いている
と,少しメタボ(?)な体型も相まって,まるで双子の様にそっくりで,微笑ましかっ
たです.またお会いできることを楽しみにしています.
(永岡慶三次女)
25
小林登志生先生にお会いしてよかった
仲筋一夫(日本ユネスコ国内委員会委員)
小林登志生先生お疲れ様でした。
この度の御退官は独立行政法人メディア教育開発センターの組織改編に伴うこともおあ
りでしょうか。
私の方は、四年前に退職をして現職時とはまた「違う質の時」の過ごし方を楽しんでいま
す。
先生との出会いは、二年前の二月の日本ユネスコ国内委員会でした。先生の方から話しか
けて頂き、
委員に就任したばかりの私には、心強い同僚委員を得たおもいで嬉しかったです。
普及委員会とコミュニケーション委員会は合同委員会としてもたれることが多く、小林委
員長は田舎ものの私の小さな意見をも後押ししてくださるのでいつも感謝しています。
小林委員長は、常に幅広い、高い視点から発言をなさいます。長く外国で生活されたこと
からでしょうか、
会裁きも常に委員の意見を事務局に届けるように配慮して進めておられま
す。先生の委員会の采配は、私の会参加の楽しみにもなっています。
昨年度、おきなわ県民カレッジ主催の生涯学習フェスティバルにおいては、基調講演「生
涯学習と地域づくり:技術革新によるコミュニティーの広がり」をテーマでお話していただ
き、大勢の参加者に学習活動の意義づけをしてくださいました。
二度目お会いした国内委員会の帰りの一杯屋のお酒と寿司・刺身はおいしかったです。た
しか、小林先生の馴染のお店であったよう思いました。席待ちのために並んで入ったら、カ
ウンター式のぎゅうぎゅう詰め席、元気のいいお姉さんが客の注文をさばいていて、客は長
居せず、私たちもほろ酔い気分で三月のちょっと肌寒い空気にあたりながら帰ったことは、
楽しい想い出になっています。
小林先生は愛妻家ですね。
小林先生と二人で美ら海水族館に行った車中で奥さんとの出会
いのこと、二人のお嬢さんのことを聞かせてもらった。水族館は何度観ても楽しいものです
が、小林先生が奥さんやお嬢さんのことを嬉しそうに話されるので、その日は楽しさが二倍
になりました。小林先生があまりにもご家族のことを幸せそうに話すものですから、私も先
生から聞かれるままに妻やこどものことをついつい話してしまいました。
先生は、ものごとを本質的なところから捉えられ、正義感をお持ちで先生と話していてい
ると爽やかになります。先生の明るくてやさしい物言いが
先生の魅力を際だたせているのでしょう。
この間、先生は研究活動・啓蒙活動など多忙な毎日で、
加えて海外へのご出張も多かったことでしょう、今後は、
努めて自慢の奥様との共通の時間をお持ちになることを
お勧めします。
もちろん、小林先生には、蓄積された研究の成果を活か
され日本の教育界に大いに貢献されることをご期待申し
上げます。奥様とご一緒に沖縄にもおいでくださることを楽しみにしております。
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小林登志生先生
先生とお知り合いになれたきっかけは JICA でした。当時、小生は数カ国の JICA 専門
家経験を通して JICA 専門家派遣前研修(Presentation skill)を担当していましたが、
国際経験豊富な先生は、微力な小生にとって憧れの大先輩でした。そんな小生に、これ
からの国際協力活動に求められる人材について暖かいアドバイスをくださったり、また
バンコクで開催された UNESCO 国際 ICT 専門家会議にご推薦頂き、貴重な体験をさせて
頂いたこと生涯忘れません。その時に執筆した日本での ICT の教育活用の論文を読んで、
遠くニカラグアから一人の優秀な大使館推薦の留学生を受け入れることができました。
教育・研究に多忙な日々を送られる中、海外各地を駆けめぐる精力的なお姿を影ながら
いつも応援していました。
先生とお出会いできたのも、きっとご縁があったものと確信し、先生の NIME ご退職
後も末永くご交際いただきご教示頂ければ幸いです。NIME ご退職後も、先生は国際教
育協力面での教育・研究者の第一人者として、これから小生を含む多くの後輩を導いて
くださることと確信しています。どうかお体をご自愛いただきますよう祈念しています。
私も、山口大から関西の立命館大に戻りましたので、どうかこれを機にお出会いする機
会が増えることを楽しみにしています。最後に、NIME(ハード)は消滅しても小林登志
生(ソフト)は不滅です。これは先生が、最初に小生にご教示いただいたコンセプトで
す。
林徳治 拝
立命館大学
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「小林登志生教授へのメッセージ」
小林さんとの交友は40年に近いのですから、不思議ではないのですが、文部科学省の研究
所の教授を定年で退官されることになったと伺い、改めて時の経つのの速さに驚いています。小
林さんの語学や音楽の才能はよく知っていますし、メディア教育開発センターでのご活躍も伺っ
ていました。e learning とか virtual university
はその言葉だけでも時代の風を感じさせ老
人の私にとっても極めて刺激的です。しかしそれらにつき具体的な知識がない私が、小林さんの
退官にあたり、なにか彼にメッセージを送るとすれば、やはり若かりし日の彼が社会人としての
第一歩を踏み出されたのは私の法律事務所においてであったこと、また納賀雅子さんという素晴
らしい人を人生の伴侶として獲得されたのも私の事務所においてであったということ、おこがま
しい言い方ですが、私はそのように彼の人生の接点になっているので、彼にメッセージを送る資
格があると思います。その後、お二人は三人の魅力的なお子さんに恵まれました。このことにい
ても改めて祝福させていだだきます。
港区西新橋の第三森ビルに事務所を持っていた私は、昭和44年、アメリカの大きな法律事
務所と提携することにして、すぐ近くの大和銀行(現在のりそな銀行)虎ノ門支店ビル6階に事
務所を移転しました。そのアメリカの国際法律事務所の Jack Beem 弁護士が採用して連れてき
た何人かのスタッフの中に小林さんと納賀さん(現在の小林夫人)がいたのです。優雅でバイオ
リンを趣味とする納賀さんは秘書兼レセプショニスト、小林さんはパラ・リーガルといったとこ
ろでした。当時私は41才、彼は22才であったと思います。みな若かった。このアメリカの法
律事務所との提携は仕事や会計方式の統合に不自由があり、まもなく提携は解消しました。
理由は記憶しませんが、彼と納賀さんはまもなく事務所を去られました。その直後、風の便
りに二人が結婚されたと聞き大変驚いたことを記憶しています。お二人は、アメリカに渡り、オ
レゴン州の大学で勉強されました。親しい関係はその後も続き、お二人は、時々、私の事務所に
立ち寄られることがありました。
約20年前、私がハワイに立ち寄った時、彼はホノルルの日本総領事館に勤務しておられま
した。その後、帰国されてメディア教育開発センターに教授として勤務されるようになったと伺
っています。
彼はときどき駒沢の拙宅に来訪されています。我が家には、娘が幼い頃、弾いたものの久し
く使うことがないピアノがありますが、彼は、鍵盤をポンと叩き、皮肉げに「調律はしてあるん
だ」と言いながら、我が家の者たちのリクエストでモッァルトを聞かせてくれるのが常でした。
私は、小林さんが定年退官されても年来のヴィジョンは追求されるものと確信し、今後のご
活躍を期待しているものです。
2009.2.14
福田彊(国際関係弁護士)
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小林登志生さんと私の交友録
小林さんと私との出会いは 1973 年に遡ることができる。小林さんと私とは、札
幌の姉妹都市である米国オレゴン州ポートランドのポートランド州立大学院で異文化
コミュニケーションのクラスを受講した間柄の関係でもある。また同じく、二人のアド
バイザーは美人の先生と知られていたラレイ・バーナ教授であった。バーナ教授は、米
国における最初の「異文化コミュニケーション」大学院修士のプログラムをジョン・コ
ンドン博士らにも相談をされ開設されたパイオニアでもある。ちなみに、バーナ教授は
故斉藤(福永)美津子先生の同窓でもありまた友人でもあった。
1970 年初め、異文化間コミュニケーションという新学問領域は、アメリカにお
いても認知度は低かった。1973 年のある日、小林さんが私のアパートを訪ねられた時、
突然、膝を組みながら「昭ちゃん、この学問はいつかきっと日本においても必要な学問
領域になる。お互いに研究を続けよう。」と力説されていた姿を今でも鮮明に覚えてい
る。その時、私は「この方はいつか、日本のためというより文化間のミディエーターと
して国際交流機関で中心的なお仕事をされるであろう」と即、想定することができた。
小林さんは、米国西海岸に住む日本人留学生の間では「英語の達人」としてその
名をとどろかせていた。それには理由がある。小林さんは、普通日本人留学生がアメリ
カ滞在期間中には経験できない、ありとあらゆるアメリカのアルバイトを経験され、ま
た多様な職種の人とのコミュニケーションを通して英語をマスターされた方である。ボ
ディ・ガードのアルバイトはむろん、造船所でもアルバイトをされた経験もおありで、
まさしく、何でもこなせる“ Jack of all trades”型の人物である。
話は少し逸れたが、私から言わせてもらうと小林さんは、英語の達人というより
も、むしろ「語学の達人」といえる。なぜならば、小林さんはドイツ語の達人でもある
からだ。
以下で取り扱う小村寿太郎も同じく語学の達人であり、サムライ気質においては
二人はどことなく相通じるところがある。
私が日本帰国後、小林さんが我が家を訪問された時、現在の文部科学省のメディ
ア教育開発センターで初のコミュニケーション教授になられたことをお話になった。そ
の目出たいニュースをお聞きした時、私は別に驚きはしなかった。なぜならば、それは
「当然の抜擢」でもあったからである。むしろ文部省に対してして大変失礼ではあるが、
「抜擢が遅すぎる」と思ったぐらいである。ただ、個人的には「文部省もずいぶん変わ
ったな。文部省も国益のみならず、世界の高等教育機関との国際・異文化交流促進のた
めに適任者を見つけたな」と内心思った次第である。
その小林さんが 2009 年の 3 月をもって退官されるという。大変、寂しい限りで
ある。現在の小林さんの地位と活躍の場があるのは、何といっても奥様の内助の功があ
29
ったからこそだと言っても過言ではない。特に奥様の存在と、また御家族の協力をなく
しては、今の小林登志生氏の存在と人生は語られないであろう。
小林さんには、今後も何らかの形で多文化関係学会や国際交流、多文化間交流、
その他の分野においても相談役と兄貴分のアドバイザーを世界のためにも続けて頂き
たいと願っている。今後の国際教育分野での活躍と益々の御健勝を家内ともどもお祈り
申し上げたい。この機会に(以下では)、ささやかな試みであるが『小村寿太郎の生い
立ち:ポーツマスへの道程』と題した筆者の研究記録の一端を紹介し、小林さんへの寄
稿とさせて頂きたい。
『いつまでも登志生スピリットを維持され、健康には留意されお過ごし下さい!』
(札幌大学教授・日本交渉学会会長
御手洗昭治)
30
小林登志生先生とのお付き合い
京都大学学術情報メディアセンター
美濃 導彦
小林先生との付き合いは,先生が遠隔教育を始められたころからです.私も,京都大
学で遠隔教育を研究プロジェクトとして行っており,工学系の研究者として特に遠隔講
義システムの研究から始めて,なんとか教育に使えるものを作ろうと悪戦苦闘をしてい
た時期であります.小林先生は私とは対照的に教育をどう遠隔で行うかという視点から
遠隔講義を考えておられました.初めてお会いしたときから,ちょっと失礼な言い方を
させていただきますと,同類という感覚があり,それ以降,親しくつき合わせていただ
いております.
先生は国際的な人脈の構築とその維持に精力を注いでおられます.これは大変な努力
が必要なことで,到底私にはできません.きっと,外交官としての経験が大きくものを
言っているのではないかと思います.この経験を生かして,NIMEの国際的な認知度,
知名度を高めることを目指して貴重な人脈を開拓,維持されている姿勢には感服します
が,ここ数年は残念ながらNIMEがこのお気持ちを生かせるような場所でなくなって
しまいました.小林先生の無念さが手に取るようにわかります.こんな環境の中でも,
愚痴はいろいろとお聞きしましたが,前向きに行動されていた姿勢に敬服しています.
一度,小林先生のマンションのゲストハウスに泊めていただいたことがあります.都
心の良い場所に位置しており,窓からの眺めが絶景でした.このマンション,いくらか
かったのだろうと変な詮索をしたり,どんな人が住んでいるのだろうと見回したり,ま
るで田舎者でした.大学に残ったことを後悔すると同時に,世の中の厳しさを考えると
やはりよかったのかなどと人生についていろいろと考えさせていただきました.小林先
生は涼しい顔で,シーツや枕カバーを持ってきてベットメイキングからいろいろと用意
をするのを手伝ってくださいました.横顔を見ながらうらやましいなと思っていた次第
です.朝になると,朝食をご家族と一緒に頂きました.奥様も娘様も大変気さくでいろ
いろとお話くださり,大変楽しく過ごさせていただきました.猫ちゃんも含めて大変明
るく楽しい家庭で,これが先生のエネルギー源だと認識した次第です.
定年退職といっても,今の時代,まだまだ元気でご活躍されるはずです.これからも,
国際的な研究動向,遠隔教育などについて,先生の豊富なご経験に基づいたいろいろな
お話を聞かせていただければと思っています.教育の分野では今後はオープン化ととも
に,グローバル化がすすみ,ますます国際的な感覚が必要になります.先生が,この分
野で本の執筆を考えておられます.今後も時間がなくて忙しい生活をされていくと思い
ますが,是非,本を執筆していただいて,これまでの集大成にしていただければと思っ
ております.私も微力ながらご協力させていただければ大変ありがたく思います.今後
とも,よろしくお願いいたします.
31
NIME でご一緒した15年
山地弘起
私の知る限り、小林先生は常に動いておられた。いったい睡眠時間はどのくらいとら
れているのか、ぎりぎりの体調で大丈夫なのだろうか、とお顔を拝見するたびに案じた。
NIME の国際交流関係は一手に引き受けておられたし、NIME 外での多くの役割もあって、
年の半分は海外に出ておられたのではないだろうか。NIME ではいろいろ面倒な会議や
交渉も必要であったから、ご心労も大変であったことと推察する。このたび、ようやく
NIME の頸木を離れて、自由に国際ネットワークを拡大していくことができるのは、小
林先生にとって喜ばしいことに相違ない。心からお祝いを申し上げる。
先生とは、まだ放送教育開発センターの頃の 1992 年、同時に赴任した同期である。
といっても、先生はすでに多くの実績をあげておられたが、私は大学の助手から移った
ばかりの生意気盛りであった。しかも、専門分野も所属セクションも異なって、仕事で
ご一緒する機会は少なかったにもかかわらず、同期の誼でずいぶん親しくしていただい
た。そのお返しというわけでもないが、研究面で評価やデータ解析のお手伝いをするこ
とも多々あった。ただ、最も印象に残っているのは、2002 年の国際シンポジウムをお
手伝いした時のことである。
そのシンポジウムでは eLearning と多文化主義がテーマであったが、準備委員長であ
った小林先生の議論があまりに感覚的で、データも方法も欠くことに大きな不満を覚え
た。しかも、司会を任されたセッションは、先端テクノロジー利用の報告と反グローバ
リズムの報告が同居する厄介なところで、議論の方針をはっきりさせていないとただ交
錯して終わるだけになりかねなかった。先生とはいつになく激しいやりとりをした記憶
があるが、ある時点で、これは自分の課題として引き受けるしかないなと諦めることに
した。これが、その後の私を変える思いもよらぬ導きであったとも知らず。
そのセッションでは、構築主義的な人類学に基づく報告とオートポイエーシスの観点
からの教授デザインの報告が含まれていた。それらの原稿をふまえて、関連資料をサー
チしたり読み込んだりするうち、私はそれまでの怯懦を完全に打ち砕かれた。なんと自
分は、ただ観念的に多文化主義やメディアを語っていたに過ぎなかったのだ。文化葛藤
の具体事例を深く追究して、自分自身の(「研究者」としての、
「教育者」としての、あ
るいは「日本人」としての)政治性や暴力性を十分に自覚することなく、いつの間にか
表層的な、自己保全に枠づけられた理解に落ち着こうとしていただけなのだと気づかさ
れた。これは痛かった。
このシンポジウムの後、私はいっそう批判教育学やコミュニティ心理学などの発想に
影響されていくことになるのだが、その大きなきっかけがここにあった。小林先生に責
任を負わせるつもりはないが、2007 年に一足先に NIME を退職して英国に渡ったのも、
こうした背景がないとはいえない。大きな学恩に与ったことを感謝している。願わくは、
先生がまずは健康第一に、最も得意とされる国際ネットワーキングの活動を今後とも充
実させて、我々をさらに新たな領野に導いてくださることを。
32
小林先生から学ばせていただいたこと
小林先生、ご退官おめでとうございます。マルチメディアを利用した異文化間教育の第一
人者として世界を舞台にご活躍され、ご退官の時をお迎えになられたことを心よりお慶び申
し上げます。
先生に初めてお会いしたのは、私がまだ 20 代半ばの大学院生の頃でした。インターンを
していた研究所でお目に掛かった時、学生の私にも気さくに話しかけてくださり、嬉しかっ
たことを覚えています。そして「心の壁を感じさせない、とても魅力的な先生だな」という
のが最初の印象でした。それから早いもので 15 年が経つわけですが、先生は今でも当時の
印象そのままで、
ご出講されている大学でお会いする度に、私にお声を掛けてくださいます。
これまで、先生のお人柄に触れる度に、何と言っても先生の魅力は「老若男女、国籍を問
わず、周囲の人達を惹きつけてしまう」ところだと感じてきました。そして、先生から学ば
せていただいた大事なことが二つあります。一つは「人を国籍や職業、性別、年齢などで区
別しないという意思」
、二つめは「自分の仕事や研究に情熱を持って取り組む姿勢」です。
先生は世界中に多くのご友人をお持ちですが、先生のこの魅力は、天賦の資質に加えて、
先入観などを持たずに人と接する、というご意思と、細やかな心遣いがあるからこそだと勝
手ながら思っています。このことは、人と接していらっしゃる際のご様子から窺えますし、
私自身も初めてお会いした学生の頃から現在まで、
先生のさりげない温かなお心遣いをいつ
も感じてきました。
また、仕事に情熱を持って取り組んでいらしたことも先生の魅力の一つだと思います。立
派な業績を残された先生ですから、いつもご多忙のご様子でしたが、それにもかかわらず常
に意欲的にご研究等をされていたお姿が印象的でした。自分の仕事に信念を持ち、情熱を傾
けて取り組む先生の姿勢もまた、周囲の人達を惹きつけたはずです。
「人を国籍や職業、性別、年齢などで区別しないという意思」「自分の仕事や研究に情熱
を持って取り組む姿勢」は人の生き方として、私が先生から学んだことです。まだまだ先生
の足下にも及びませんが、少しずつでも見習っていけたらと思っています。
ご退官後も、ご健康に留意されつつ、教育活動等でご活躍されますことをお祈り申し上げ
ます。どうぞ、これからも私たち周囲を魅了し続けてください
横田智美(神田外語大学非常勤講師)
33
Dear Mr. Toshio Kobayashi
吉井
孝次
流通科学大学 商学部 経営学科 2009 年 3 月卒業
小林先生へ
定年退官おめでとうございます。長い間、本当にお疲れ様でした。
長年のご功労の中では私などの若輩者には想像もつかないような困難があり、大変な
苦労もされてきたかと思います。
先生との出会いは、私が大学2回生のときに受けた『アメリカ研究』の授業でした。
踏んできた場数の違う先生の授業はダントツに面白く、授業以外からも大変多くの事を
学ばせていただきました。2005 年のその時期は、ちょうど大学を休学して何かしよう
かと考えていた時期だったこともあり、先生との出会いが海外留学へむけての大きなエ
ネルギー源となりました。
先生とは不思議な縁で、いつも絶妙なタイミングで入れ替わっている気がします。一
年間のニュージーランド滞在から大学に戻って来た頃には先生はもう流通科学大学に
は在籍されておられませんでした。そして今回、私が4月から新社会人として社会に出
ることになり、小林先生はその前の月の3月いっぱいで退官されることになります。世
代交代と呼ぶにはまだまだ荷が重過ぎますが、これから流通科学大学生一同、若い世代
もパワフルな小林先生に負けないよう頑張っていきます。私自身もこれから誰もが通る
社会人一年生を全力で乗り越えていきたいと思います。まだまだ未熟者ですので、今後
もご指導の程よろしくお願いします。
これからも健康で素敵な人生を送ってください。
Profile
吉井 孝次 Yoshii Koji
Yours Sincerely
Koji Yoshii
1984 年 2 月 9 日生まれ 神戸出身
2009 年 3 月 13 日(金)
34
CONGRATULATORY MESSAGE
As a friend and colleague, it gives me great pleasure to recognize Professor
Kobayashi’s retirement from the National Institute of Multimedia Education where
I have followed his work and contribution for some fifteen years.
That NIME’s
organizational life as an autonomous institution will not survive Professor
Kobayashi’s retirement provides an ironic twist to this momentous occasion.
Toshio, as he quickly urged that we call him, was an important contributor to the
highly enjoyable year that I spent at NIME as a visiting scholar from 1993 to 1994.
He opened his arms both professionally and personally, extending invitations to
participate in his research projects as well as in his personal life. We spent many
an evening together: eating, drinking beer, and talking.
Toshio also hosted my
wife Lou and me on several occasions in his Chiba apartments, and in so doing
demonstrated not only his excellent culinary expertise but also his formidable
talent as a pianist.
In spite of a very hectic work life that required weekly commuting from Kobe (a city
which thanks to his hospitality we had the opportunity to explore), Toshio was
always able to make time and extend himself to me, to Lou, and to other foreign
visitors at NIME.
Though not formally responsible for international visitors at
that time (a duty that for reasons very obvious to me he was asked to assume
shortly after our departure), Toshio always sought to make all international
scholars feel at home and fully functional. He humorously (but effectively) helped
us to not get bogged down by some of what were, for us, curious and hard to
overcome administrative procedures or regulations, and did so in such a way that
ensured that our objectives were met.
I also had the opportunity to host Toshio in Alberta (and even to seek out some pipe
tobacco that he became rather fond of!), and to establish a more formal partnership
between NIME and Athabasca University. His diplomatic background and related
professional skills meant that it was indeed a pleasure to work with him in this
capacity as well.
35
Given NIME’s future, it may not be logical to say that the institution will never be
the same again, at least in the eyes of its foreign scholars and guests. True
professional and personal relationships, however, often outlive the institutions and
circumstances that allowed them to flourish, and in this case, that will be doubly
true.
Thank you for the opportunity to work with you, Toshio, and for the ensuing
friendship that unfolded.
I look forward to us finding more time than we have had
in the last few years to build on this relationship.
I wish you the very best in your
well-earned retirement, and know that your many skills, loves, and interests will
make this next period of time a very happy one.
Dominique Abrioux
President Emeritus & Professor Emeritus
Athabasca University
(but more importantly, your friend!)
At Toshio’s “Bachelor’s” flat in Makuhari
36
This page
left blank
for my esteemed
colleague and friend
Toshio Kobayashi sensei
in the hope
life will fill it
in future days.
Georg J. Anker, University of Innsbruck
(12 October, 1957 - 15 March, 2009)
37
I first met Professor Toshio Kobayashi when we were both invited by the Ministry of
Education in Colombia to speak at their national e-learning conference "Colombia
Aprende" in August 2005 [1]. We rapidly became firm friends and close collaborators
and over the years met on several occasions around the world. Perhaps the most
memorable for me was when I was invited to spend a short period as a Visiting
Professor at NIME in April 2007 [2]. Toshio also was able, with colleagues, to visit the
UK from time to time, including twice in 2006, and many of us in Sheffield well
remember the seminars he gave in our city and to the University [3], as well as in
several other locations of the UK. In our wider work, I have been involved with Toshio in
connection with Online Educa where he has been a regular attender in recent years - in
particular leading the specific Japan session in 2006 [4] - and in the European
Commission project Re.ViCa on the review of virtual campuses, in order to learn
lessons from the future. We have had several animated discussions on the role of
e-learning in Japan and the Asia-Pacific region.
What I take from our relationship - and I hope that he has had value from it also - is to
remember to take a wider and more culturally-aware perspective on a number of
matters where it is all too easy to be trapped by one's own culture. I like to think that I
have borne these lessons in mind in my recent work on benchmarking e-learning and on
critical success factors, as they move from their breeding ground in the UK out to
Europe and beyond - and I hope I can reflect this in my paper [5] to be presented at the
ICDE/EADTU conference this summer in Maastricht, Netherlands.
Knowing Toshio, I am sure that he will still be active - with his retirement meaning
merely a "change of mode" and not his absence from the field. I note that NIME is also
coming to an end in its current mode - but the talent there is surely too good to waste
even if NIME has a challenging "change of mode" ahead too in its new role within the
Japanese Open University. So I am looking forward to further collaboration with
Japanese experts including Toshio and continuing my links with Japan.
References:
1. An indirect reference to this is
at http://halfanhour.blogspot.com/2006/07/ict-in-education-in-colombia.html
38
2. "e-Learning support in Japan: Reflections on a recent visit to the National Institute of
Multimedia Education (NIME)", ALT News issue 58, July
2007, http://www.alt.ac.uk/docs/alt-n_58_final.pdf
3. d-SY e-Learning SIG Newsletter Issue No: 9, January
2006, http://www.digitalsy.org.uk/html/SIGs/elearning/docs/Newsletters/Newsletter2006
01.pdf
4. Session on Japan, including Toshio's paper "Initiatives and Prospects in Japanese
Higher Education with a Focus on the AIDE Project at
NIME", http://www.online-educa.com/pdf/post_conference_report_2006.pdf
5. "Benchmarking e-learning in UK universities: lessons from and for the international
context", paper to be presented at the ICDE/EADTU conference, June 2009, Maastricht
Paul Bacsich
Director, Matic Media Ltd
Senior Consultant, Sero Consulting Ltd
Visiting Professor, Middlesex University
==============================
In Bogota, Columbia where we met
39
Retirement is not only a time to look forward, it is also a time to look
back. Professor Toshio Kobayashi can look back on a life of extraordinary
achievement and happiness.
I have known Toshio Kobayashi since the mid l960s. I have watched with great
interest as he completed his education in the United States, worked for the
Japanese consulate in Honolulu and embarked on a highly successful teaching
career.
Professor Kobayashi has been supported by a wonderful family. He is blessed
with a beautiful and charming wife, a son who is a successful business man, and
beautiful twin daughters.
Knowing Toshio Kobayashi, I am certain that he is already planning a variety of
interesting projects to undertake as he enters the next phase of his life. I wish
him and his family the very best.
Best regards.
Jack Beem
Partner (retired), Baker & McKenzie, Chicago and a family friend
Reunion in Tokyo
40
Prof. Toshio Kobayashi Can Add One More Stone in Nepal Japan Relation
Dr. Ram Chandra Bhusal
With the establishment of diplomatic relations in September 1, 1956 the
relationship between Nepal and Japan has been ever expanding on diverse sectors.
The Nepalese Embassy was opened in Tokyo in July 1965 and this was reciprocated
by the opening of the Japanese Embassy in Kathmandu in February 1968. Japan is
a highly dedicated development partner and also a close friend of Nepal. It has been
extending its supports to the Nepal government to achieve sustainable economic
development by alleviating poverty since 1969. The Japanese government
contributes to the socio-economic development of the developing country Nepal
through Official Development Assistance (ODA).
Besides such governmental assistance, several Japanese Non-Government
Organizations and individuals are also active in helping Nepalese people in various
sectors such as education, agriculture, health, community development etc. People
in remote Nepal have been greatly benefited by such endeavors. Similarly, Nepalese
people feel close affinity with Japan and hold this country in high esteem. In fact,
the ever growing Nepal-Japan relationship is praiseworthy.
The most important thing we can perhaps learn from the Japanese people is their
commitment and love for ones duty and work. Similarly, Japan’s practical education
is another important factor influencing its prosperity. Besides text books, Japanese
teachers and parents focus on mannerism. As such, a child after completing
elementary school has a strong sense of right and wrong and tends to stick to the
rights learnt. Surprising as it may sound, elementary school children save their
tiffin and pocket money for the education of their peers they have never seen, far
away in poor countries. An instance of sacrifice Japanese are taught from early
childhood.
The government of Japan always considers skilled human resources as the most
important property of the country and always focuses on moral, practical and
quality education. The ratio of Japan’s human resource development to
infrastructure development is 7:1. Japan is another example of how a government
prioritizes human resource development next to infrastructure. Literacy rate in
Japan is over 99 %. This means its farmers are also well educated.
As a good neighbor, Japan wishes to see a developed Nepal. Several grants to the
country and the projects Japan is running in Nepal are testimony to its commitment
for Nepal’s speedy economical progress. As is apparent, many Nepalese students are
being benefited from the Japanese government Monbukagakusho, one of the world’s
41
best scholarship programs. A rough data shows that more than 200 Nepalese
students are studying in various universities through out Japan at present. So far
more than 100 Nepalese, most of them holding a PhD degree, must have returned
home and could be contributing somehow to the development of the nation to this
day. The Japanese government provided study opportunities to the Nepalese youth
in Japan by accepting a group of eight bright Nepalese for the first time in 1902.
They were also the first government sponsored students from Nepal to go overseas
for study. The reason Nepalese government chose to send Nepalese students to
Japan might be due to some similarities between Nepal and Japan on the cultural
and political front. There is a very strong cultural link between the people of Nepal
and Japan. Nepal and Japan already share some common features in the fronts of
culture, custom and religion. These countries have had no sorts of political problems
either. Higher frequency of exchange of nationals between the two countries
contributes to a better understanding of each other at the social level-the best way
to tighten a friendly knot.
Among the exchange programs I was involved in between Nepal and Japan, Prof.
Toshio Kobayashi, NIME and his team have visited Nepal in September 2008. I met
him in his office NIME, Chiba Japan for the first time during my stay in Japan.
Professor Dr. Takao Hosokawa, Faculty of Agriculture, Ehime University Japan
introduced me to Prof. Kobayashi for the first time. After that I was in regular
contact with him by email. He made a short visit to Nepal in September 2008.
During his visit to Nepal, we had a talk program in the Faculty of Education,
Tribhuwan University and Hilbert International College, Kathmandu. Prof.
Kobayashi delivered a very nice speech in these two talk programs and all faculty
members and students were impressed. I had an opportunity to invite him and his
team for a dinner program at my house in Kathmandu during his Nepal visit.
Even though I had spent only a few times with him, I have a very good impression of
him. He is a Japanese professor who feels difficulties in speaking Japanese and
more comfortable in speaking English during conversation with foreigners. He has a
very good command of the English language not less than a native English-speaking
academician. I am very hopeful that I will be in touch with Prof. Kobayashi and can
strengthen personal relations as well as Nepal-Japan relations in the future too. He
is trying to introduce some Nepalese youth to Chiba University for their higher
studies. As a matured, capable and very good networking academician, I would like
to request him to help/encourage Nepalese youth with study opportunities in
Japanese universities as well as with other possible opportunities. I found him to be
a very capable and potential person who can put one more stone in the Nepal-Japan
relation.
42
Dr. Ram Chandra Bhusal is currently working as an
Agriculture Research &
Development Program Coordinator in Winrock International, Nepal Agriculture
Program (Nepal SIMI Project). He is an Executive Member of JICA Alumni
Association of Nepal (JAAN); Executive Member of Nepal Horticulture Society
(NHS); Executive Member of Bhusal Society, Nepal; Chairman of Tahachal Bafal
Social Service Committee, Kathmandu; Board of Director in Hilbert International
College, Kathmandu; Advisor of Federation of Nepal Cottage & Small Industries in
Nepal; Life Member of Japanese University Alumni Association of Nepal (JUAAN).
43
This Is What We Called Golden Year
The reality of life is certainty in the uncertainty. The certainty is that everyone will go
through the stages of birth, growing up, getting old, and death. (Some also believe that
we will reborn again.) The uncertainty is the differences on how we are born, how we
grow up, and how we die. Nothing is certain.
From the day we were born, we start to
learn about the world. Everything is new. When growing up, we were educated formally
or informally.
Then, we struggle to work for a living (or to survive!). Some work really
hard. The whole life is working and working. However, others may just work for survival.
Even though, some barely survive.
Then, there is the time to stop working when we
are getting old. (Some are lucky enough to retire at a young age.)
RETIREMENT.
We call this
Anyhow, some never have retirement in their whole life! The life
beyond this is our golden year. (I still wonder why ‘golden year’ instead of ‘fading year’!)
From now on, like it or not, we were labeled as a retiree, old man/old lady, elder, senior
citizen, and several other terms.
There is a remark that old people are just like children. We turn to be children again!
They say we behave, act, think, and do things like children. The older we are the more
we act like younger kids! We have to learn how to live in this old age situation (to live in
this world as we have learnt when we were born). We start to need assistance with our
daily chores in daily life. The same way a child needs parents’ help. We enjoy the
benefit as children have, for example, reduction fee on transportation, amusement park,
etc. We get the same charge for ‘child/elder’ fee. We may also get our special seat as
‘reserve for children and senior citizen’. We are in the same category as children.
Children grow up in their own world, own group of friends, and own way of living. Senior
citizens also have their own world, own group of friends. The differences are that the
children develop their circle of friends from their own proximity, the elder develop their
friends from the selection they have encountered with in their adult life. Some retiree
spouses, at least two of my friends who love each other dearly, after having been
together all the time, 24 hour a day for a year or so, one of them start to find something
else to do separately outside. One (or both) will return back to work, paid or not paid.
They get use to working during the day, and meeting each other at night (a good
husband!) and weekend. There is time they need a break from too much togetherness.
Life after retirement, for some, has to be adjusted and compromised.
44
Anyhow, most of
my friends are still happily doing things closely together.
Lots of retirees do lots of things they have not yet done before retirement. So, this is the
time. Common activities for the retirees are gardening, painting, writing a book,
catching-up with technology, traveling, and doing exercise. Some go back to church,
temple, and practice meditation. Some spend time to visit family and old time friends.
We are always being warned that we better do something we want to before we are too
old and have no strength or energy to do anything.
Like others, at this golden year, I have friends scattered around the world. Some I have
been visited, some I have not yet visited. There are lists which I doubt that I will have
enough time and strength to visit, but all are in my intention.
Someday, someday I may
do it.
I have a friend, very good friend from another country. We have not met as frequently as
we should, but we feel very close to each other. Compatible friendship has developed
into spiritual kinship. Now, we are twin brothers. He is about to retire. So, it comes the
time when we will meet each other more often.
Welcome to the retiree club, brother.
Now, the certainty of life is that we are getting old, but let’s feel young and act young.
Chawalert Lertchalolarn, Bangkok, Thailand
Regarded as “Twin Brothers”
45
Dear Toshio,
I regret to remember only faintly our first meeting in Boston University, where you
accompanied Akemi to her graduate study in the program of my doctoral studies.
Even that escaped me until I met you afresh a second time in Eskisehir train
station as we both waited for our train to Istanbul after a conference. We talked on
the way over a few beers and got off the train as friends. Except for your uncanny
resemblance to the colonel from Kentucky of a certain chicken fast food franchise,
you are as easy going as one can be to carry out the representative and globe
trotting job of yours, the very face of Mr. NIME (read as neeme but not as naym).
Thanks to you, I was able to come to Japan twice for a conference and for a longer
stay as a visiting researcher. If it weren’t for you Toshio, Japan would be a tougher
place for me. You were my main connection to a culture that is strangely familiar
but yet quite different from the Turkish culture of mine, and my Anglo-Saxon
language and cultural experience were not very helpful either. The last time I met
you was only a few hours as you were barely able to make your way to Bogazici
University a third time. I am sorry that I wasn’t able to get you the room with the
view of the Bosporus that you and your wife stayed before, but the blue fish and the
talk were great.
Our trip to Hokkaido was an eye opener for I noticed that I hit a real germ, an
English speaking community of students capable of online communication with
Turkish English speakers for a study of mine. That, I realized, was really hard to
come by in Japan, and I still think about the French restaurant, Yuri Nishihori took
us for lunch near the Hokudai, complete with the limited space and hours, and a
French attitude by the chef on top of an excellent service.
Toshio, I am grateful that I met you and your family and that I have been to NIME.
I am sorry that NIME couldn’t continue as NIEL (NI of E-Learning) but taken up by
the University of the Air, which is more like a service and not necessarily as bold
and free as a research institution.
I hope to smoke cigars with you again, perhaps
in your backyard or in Bogazici. Keep up the
good spirit as you always seem to manage
somehow, and get some sleep at nights.
Happy retirements Toshio, and cheers (to you!!)
Hamdi, Bogazici University, Istanbul
46
St-Petersburg State Polytechnic University
Main Building
“All Mankind is of one Author, and is one Volume …
No man is an Island, entire of it Self … .”
Devotions Upon Emergent Occasions
Meditation XVII
John Donne
(1572 –1631)
Dear Professor Toshio Kobayashi,
Saint-Petersburg in the Northwest of Russia and Chiba on the East coast of Japan
are two points on the globe that are not only very much apart but indicate places
which differ in many ways. Geographically there is an extremely long way between the
regions: a jet-flight across 2 oceans and over a territory of 6 time-zones takes many
hours. The regions have distinctively diverse climates, economic levels, cultural
backgrounds, prevailing religions and traditions; they belong to countries with quite
different political structures, ambitions, and, regretfully, not without certain historic
disagreements between our two great nations.
The extremely long distances, aggravated by
the aforesaid disparities and contradictions
have stood for a long time in the way of those
who endeavored to establish bonds between
cultural, scientific, and educational
institutions or businesses and industries in
Japan and Saint-Petersburg.
In the not so distant past such connections were scarce. However, mutual
advantages of economic, cultural and educational relations are increasingly recognized
on both sides and, as a result, fruitful connections recently are growing in number and
variety, thus bringing many benefits.
Almost five years ago, you, distinguished Professor and the Chair of Committee for
International Collaboration at NIME were not stopped by the above mentioned
difficulties when supported by the newly elected President of NIME Prof. Yasutaka
47
Shimizu and have volunteered to go a long way to Saint-Petersburg to initiate and
encourage search for possible co-operation with SPBSPU.
By pure chance (or, rather, by the good luck as I come to understand now) I was
among those few persons who were assigned by the Institute of International
Educational Programmes (IIEP) at the Saint-Petersburg State Polytechnic University
(SPbSPU) to meet the small NIME delegation – You, Prof. Kobayashi, and Prof.
Akemi Kawafuchi.
I quite vividly recall our first meeting at IIEP on Wednesday October 20th 2004.
During that first meeting we have exchanged presentations on behalf of our
institutions and the interesting discussion followed. I have felt right-away that we
may have come upon something potentially promising which should lead to an
important Collaboration Agreement. What I could not foresee, though, was the time
and effort needed to pave the road for the agreement, least of all that I personally will
be involved in the process.
It happened so that on the above mentioned date – which is memorable for me – we
have stepped upon the road along which me and some of my colleagues in SPbSPU
have found new opportunities for international academic exchange, contacts,
possibilities for presenting our R&D activities and achievements in DL ICT spheres.
In the process I had the honor and pleasure to personally meet many times both on
Russian soil and in Japan with You, Prof. Kobayashi, with Your charming family, as
well as with many of Your distinguished colleagues and learned scholars, especially
with Dr. Kimio Kondo, with Prof. Akemi Kawafuchi, and with the President of
NIME Professor Yasutaka Shimizu.
We have formulated, signed and followed the Agreement on International Exchange
between NIME and SPbSTU.
We took part in several major international Conferences and Forums organized and
hosted by our Institutions as well as other leading Universities (respectively in Russia
and in Japan) that were dedicated to International Distant Learning and
Educational problems.
What, may be, is even more important, we have
succeeded in building up a videoconferencing bridge
over the Internet between the Regional Academic
& Research Network in the Northwest of Russia
(ROKSON) and the Space Collaboration System
(SCS) supervised by NIME . The 1st historic VC
connection was successfully established and
recorded on Thursday July 21st 2005.
48
Soon the Far East National University (FENU)
has joined us in a VC multipoint meeting. Regular
VC sessions became the essential means of our
communication.
FENU was to host the annual APRU Distant
Learning & the Internet’2005 conference in
Vladivostok and the Programme Committee has
invited us to present our reports. Thus our teams
have met again on Monday October 3rd 2005.
The same week in Vladivostok we have formulated and signed the Memorandum of
Intentions for Future Collaboration on behalf of our institutions,
As the next step, together with Prof. Vladimir Ivanov we were invited to pay a visit
to NIME and to participate in the Tokyo Open Forum dedicated to “International
deployment of Higher Education with a focus on cross-cultural educational exchange
by the use of ICT & Multimedia” on Monday January 10th 2006. Our 1st visit to
Japan enriched us professionally and gave many unforgettable impressions about the
beautiful country and the great nation.
In turn, we have invited a delegation from
NIME to present papers and speak at the
annual summer IESC (International Education
& Scientific Co-operation) conference to be held
in Saint-Petersburg and hosted by IIED. The
invitation was accepted; the NIME delegation
arrived and presented reports about AIDE
project.
The most important part of the visit was the
AGREEMENT on international exchange
between SPbSPU and NIME signed by the
President of NIME Dr. Yasutaka Shimizu and
by the Rector of SPbSPU Academician Mikhail
Fedorov on Thursday June 22nd 2006.
The AGREEMENT confirms aspirations to foster links between our countries and
universities and is aimed to promote mutually beneficial co-operation in the field of
education and research,
The immediate follow-up was a short-term internship research program offered by
NIME to an assistant professor from IIEP who has used this remarkable opportunity
to study concepts of LOM and GLOBE in the summer of 2006.
49
The next important events followed in connection with the APRU DLE 2006
conference hosed by the University of Tokyo. On Tuesday November 7th 2006 a
delegation from SPbSPU headed by the Rector Prof. Mikhail Fedorov and First
Vice-Rector Prof. Dmitriy Arsenyev have paid the official visit to NIME upon
personal invitation by Dr. Yasutaka Shimizu. The same week the delegation has
visited University of Kyoto and has signed an important agreement on co-operation
between the two Universities.
In years 2007-2008 there were other visits, contacts, exchanges, many VC session and
discussions in the framework of such projects as Advancement of International
Distance Education (AIDE).
Multipoint VC sessions included a Collaborative VC Workshop dedicated to
“Cross-boarder learning networks for non-English speaking parts of the world based
on Linguapolitics”.
The international participants of the workshop
included partners in Japan, Turkey and Austria
(Sokendai, Anadolu and UBIK Universities), with
Professor Toshio Kobayashi as Organizer, Chief
Speaker and Moderator.
Recently, other similar collaborative activities are being planned for the near future
with the emphasis on the use of ICT as the basis for educational and research
international exchange. In this respect me personally and my colleagues at IIEP of
SPbSPU continue to very much rely on You, Professor Kobayashi.
For us You have always been, recently are and will beyond doubt remain the Chief
initiator, designer and the driving force on the Japanese side of all our bilateral
collaborative efforts and exchanges. We are aware of the high esteem You have
rightfully earned among the higher rank scholars and officials of the leading
Universities in many countries of the world (far beyond Pacific Rim to which we in
Saint-Petersburg – being a part of Russia – claim the right to belong to :-).
It was not once that we heard people addressing You as “Sensei”. Please rest assured
that the profound knowledge, dedication and energy that You possess as a world-wide
known specialist in the fields of cross-cultural relations and distant education are
highly valued by those who had and still has a good chance to meet and to work with
You in SPbSPU.
In the context of the highly cited essay referred to in the Epigraph it is obvious that
no region of the World, least of all no country can remain or should be isolated.
However, in parallel or in contrast to globalistic tendencies, preservation of national
50
historic, cultural and spiritual heritage becomes an urgent problem for many countries.
With this background the role of intercultural relations and exchange in spheres of
humane mentality and creativity is of growing importance.
There is a Russian saying:
“A man is accomplished if he has planted a tree, has
built a house of his own and has raised a son”. You
have done all that and much more.
May I wish You to always remain in your saddle
with a long and rewarding stretch of fruitful life
waiting for You ahead.
Cheers and the very best personal wishes upon the occasion!
Your colleague and Your Russian friend
You can always trust and rely upon
Alexander Glebovsky
Associate Professor (Docent)
Division of Distributed Processing & Networking
Faculty of the Engineering Cybernetics
Head of Electronic Campus Division
Institute of International Educational Projects
Saint-Petersburg State Polytechnic University
Saint-Petersburg
Russia
51
Addendum
AGREEMENT
on international exchange
between
THE ST. PETERSBURG STATE POLYTECHNICAL UNIVERSITY, RUSSIA
and
THE NATIONAL INSTITUTE OF MULTIMEDIA EDUCATION, JAPAN
Following the aspiration to fostering links between our countries and universities and
taking into consideration interests of both universities in promoting mutual beneficial
co-operation in the field of education and research,
the St. Petersburg State
Polytechnical University
(SPbSPU),
in the person of Rector Dr. Prof. Mikhail P. Fedorov
and the National Institute of Multimedia Education
in the person of President Dr. Yasutaka Shimizu
(NIME)
(called hereinafter "the Parties") agree as follows:
The parties will carry out the following activities:
I
1. Development and implementation of joint educational programmes.
2. Joint research efforts in the fields of mutual interest and in accordance with the
funds available.
3. Exchange of teaching staff in accordance with requirements accepted in both
countries.
4. Exchange of information concerning scientific achievements, the most important
conferences and symposia of mutual interest, as well as arrangements concerned
with celebrations of jubilee dates and memorable events.
5. Other co-operation activities of mutual interest.
52
II
On the basis of this Agreement, the Parties shall develop the Working Programmes for
co-operation comprising specific measures aimed at this Agreement execution, which
shall be considered and signed as separate documents.
III
Both Parties may offer changes and additions to the Agreement aiming at fostering
the co-operation. They are entered in a written form and become effective only after
their signing by officials of both Parties.
IV
This Agreement becomes effective immediately upon its signing by official
representatives of the two Parties. It shall remain in effect during five years and can
be renewed until either party gives a written notice to the other one of intention to
terminate the Agreement. This notice shall be given at least six months in advance
prior to its termination. The Agreement is to be deemed terminated after
accomplishment of the work on any sub-agreements being effective in the framework
of this Agreement.
V
The states and governments of the Parties do not bear any responsibility for default
and improper execution of the obligations taken by the Parties in conformity with the
Agreement.
The Agreement has been written in two original copies in English and both are equally
valid.
_______________________
______________________
Prof. Dr. Mikhail Fedorov
Dr. Yasutaka Shimizu
Rector
President
St. Petersburg State
National Institute of
Polytechnical University
Multimedia Education
Date: 22nd June 2006
53
I first met Toshio at OECD’s Centre for Educational Research and Innovation
(CERI) in Paris in 2006 when I was working on a project on Open Educational
Resources (OER). Our mutual professional interest in e-learning and digital
learning resources was a gateway to a personal friendship which has deepened over
the years since. At that time Toshio was kind enough to devote time to discuss my
preliminary findings which was of great help to my work. A few months later we
jointly arranged a video conference between NIME in Tokyo and OECD/CERI in
Paris. It is not easy to turn a video conference which involves a lot of people into a
valuable and interesting event, but with his usual engagement and fervor Toshio
managed to make this occasion into a great success. Later Toshio committed himself,
together with colleagues, to translate the final report from the OER project from
English to Japanese. It was only due to his great personal engagement and
generosity both in terms of time and money that this endeavor could survive the
bureaucracy of OECD. As far as I understand the Japanese version of the report has
been instrumental in the growth of the Japanese OCW movement.
I also have had the great pleasure to visit Toshio in Tokyo, and at NIME. Again he
showed his never ending kindness and energy in arranging a seminar where I got
the opportunity to share some preliminary results from an ongoing project and to
learn from comments and insights offered by himself and his colleagues.
Being Swedish and not communicating in my mother tongue and coming from the
Scandinavian culture which is sometimes a bit blunt, I am sure I have made
numerous mistakes in my communication with Toshio and his colleagues and
country-men. But with his great skills both language wise and culturally and with
his great generosity Toshio elegantly over-bridges such problems. I am very grateful
to be able to call me his friend and I hope our friendship will grow even deeper in
the years to come.
Toshio, I wish you all the best for the coming years.
Jan Hylén
54
From Colin Latchem, Visiting Professor at NIME 1998, 2001 and 2005
In 1997, on a visit to Western Australia, Kobayashi-sensei asked me if I would be interested in a
visiting professorship at NIME, something which not only eventuated in 1998 but again in 2001 and
2005. I was also at NIME in 2003 when I was invited as a plenary presenter at the International
Symposium, ‘Networks without Borders: Towards Cross-cultural Learning Communities’. So in
total, my wife Marion and I have spent about a year in Japan, seeing it in all of its seasons, and we
shall both be eternally grateful to Kobayashi-sensei for introducing us to life and work in Japan, a
country we have grown to really love.
Kobayashi-sensei involved me in research and seminars at NIME, teaching via the Space
Collaboration System, co-presenting papers with him at educational technology conferences in
Honshu and Hokkaido, and guest lecturing at universities in Tokyo, Kanazawa, Kobe and elsewhere.
Many interesting discussions took place between us and with other colleagues at NIME on the nexus
between instructional technology and educational change, the barriers to e-transformation in
Japanese universities, and the role of NIME in 21st century higher education. Would that all our ideas
could have been put into practice!
My times at NIME also enabled me to meet and become close friends with visiting professors from
other overseas institutions, including Cemil Ulukan, now an associate professor in the Open
Education Faculty of Turkey’s mega-university, Anadolu University, and Professor Ali Ekrem Özkul,
former Dean of the Open Education Faculty and Vice-Rector at Anadolu who is currently a
permanent member of the Turkish Higher Education Council or YÖK in Ankara. Many more
interesting exchanges and ideas took place with Cemil and Ali Ekrem over endless cups of coffee!
The intellectually stimulating environment and opportunities to learn from scholars from other
countries led to my becoming extremely interested in the cultural and organizational dimensions of
the kinds of change envisaged by MEXT/ Monbusho. In fact, this laid the foundations for much of
my current research and writing in this field.
But of course, there is much more to life than work. Thanks to Kobayashi-sensei, my wife and I had
many opportunities to experience Japanese life and culture, ancient and modern. We wended our way
with him up the flanks of the live volcano, Sakurajima, and scaled the ramparts of that magnificent
castle, Himeji-jō. We attended wonderful events such as the Asakusa Sanja Matsuri Festival and
Meiji Jingu Kikkaten. We marveled at the colourful spectacle of Kabuki and came to appreciate the
subtleties of Nōgaku. We spent many happy hours exploring the Shitamachi and Yamanote in the
55
world’s most exciting city. And we had the pleasure and privilege of meeting Kobayashi-sensei’s
lovely family and enjoying their kindness and hospitality in Kobe and more recently, Tokyo. Also
with the Kondos.
For as long as I have known Kobayashi-sensei, he has been in constant orbit. I see from the
NASA site (http://science.nasa.gov/headlines/y2002/20sep_mysteryobject.htm) that some small
unidentified object has been rotating around our planet once every minute. I suspect this could
be Kobayashi-sensei. What else could possibly explain this phenomenon other than his
dynamism within the real and virtual interactive universe of multimedia?
Kobayashi-sensei . . . Toshio . . . Marion and I shall always value your friendship and be grateful to
you for opening the doors to some unexpectedly rich, varied and exciting experiences. We wish you
all the very best in what we hope will be an extremely long, happy and fulfilling life in whatever
role(s) you tackle in your ‘retirement’. We also send our very best wishes and fondest regards to the
beautiful ladies in your life - Masako, Marie and Karen.
Colin Latchem
Perth, Australia
February 2, 2009
Professor Toshio Kobayashi in one of his rare earth landings with Colin Latchem in Istanbul, 2008
56
For Toshio Kobayashi
The first thing I noticed when I met Toshio was a smoking pipe and a pair of small
smiling eyes. It was not in Japan, it was not in Greece. It was in Turkey, Eskisehir.
Being in a neutral place I think we felt a kind of solidarity and strong friendship.
From that time on we had many discussions about common issues. I am always
impressed by his analytical mind and his ability to analyze, to compose and to give
shape to initial thoughts.
Toshio always has been a citizen of the world. He has a clear eye for things all over
the planet. This is a natural gift. His inner balance helps him to have the ‘third’ eye
and observe everything in a three dimensional way. If there was a way I would ask
him to join our institution and build it again from the beginning. He knows well how
to harmonize different dynamics.
My dear friend, I am happy to have you as a good and warm friend. Thank you for
all our time we spent together talking and recreating the world. It was a great
journey. Let’s make it as long as possible.
I am sure that if the Greek poet C.P. Kavafis was in life, he would dedicate his poem
to you:
ITHACA
As you set out for Ithaka
hope your road is a long one,
full of adventure, full of discovery.
Laistrygonians, Cyclops,
angry Poseidon - don't be afraid of them:
you'll never find things like that one on your way
as long as you keep your thoughts raised high,
as long as a rare excitement
stirs your spirit and your body.
Laistrygonians, Cyclops,
wild Poseidon - you won't encounter them
unless you bring them along inside your soul,
unless your soul sets them up in front of you.
57
Hope your road is a long one.
May there be many summer mornings when,
with what pleasure, what joy,
you enter harbours you're seeing for the first time;
may you stop at Phoenician trading stations
to buy fine things,
mother of pearl and coral, amber and ebony,
sensual perfumes of every kind as many sensual perfumes as you can;
and may you visit many Egyptian cities
to learn and go on learning from their scholars.
Keep Ithaka always in your mind.
Arriving there is what you're destined for.
But don't hurry the journey at all.
Better if it lasts for years,
so you're old by the time you reach the island,
wealthy with all you've gained on the way,
not expecting Ithaka to make you rich.
Ithaka gave you the marvellous journey.
Without her you wouldn't have set out.
She has nothing left to give you now.
And if you find her poor, Ithaka won't have fooled you.
Wise as you will have become, so full of experience,
you'll have understood by then what these Ithakas mean
By C.P. Kavafis, 1911
http://www.youtube.com/watch?v=1n3n2Ox4Yfk&feature=related
Ithaca by C.P.Cavafy (with Sean Connery & Vangelis)
58
In front of the Senate House, the University of Athens, Greece (March, 2008)
It was a great honor to have Toshio giving a speech in the Senate House, University
of Athens. This historical place has accommodated and welcomed well known
scholars and academics for so many years.
Antonis Lionarakis
Your good friend in Athens, Greece
59
One of the Twins
Toshio Kobayashi is for me someone special, the quintessence of communication
between different cultures. I never had a chance to listen to his lessons at University but
I have been given the great chance throughout my life to know him as a person. And I
can say that he is the living proof that Edward Keeping was wrong when he wrote '' East
and West, the two twins who will never meet''. Communication starts and ends with the
language and Toshio is a living book of languages, a living book of intercultural
communication.
Being an Italian journalist with a long experience of work in Japan, I've been able to
appreciate to the fullest extent how great is the value of people like Toshio who strives
for learning languages in order to speak to and to understand other people. I am sure
that Toshio now is a very happy man. Like was his twin brother Koichi Watanabe who
died in a tragic air crash ten years ago and who was like him a living book of languages
and a living book of intercultural communication.
The twins where East and West have always been able to meet each other. But Toshio,
like Koichi and like me, cannot be happy now when a University for intercultural
communication ends its life. I am sure that Toshio in Japan and Koichi from Heaven will
continue to work in this field, which is crucial for our future.
Toshio, many thanks from Italy for your career as a University teacher and many wishes
for your never ending career as a living teacher of intercultural communication
Roberto Maggi
60
Sensei and Sensibility:
On Retirement of Professor Kobayashi, or Kobayashi Sensei
Yuki Miyamoto
DePaul University
The contributors in this anthology have already commended Professor Kobayashi’s
remarkable contributions in academia, and that needs not be repeated by someone who is unfamiliar
with his area of expertise.
This essay, thus, is about my personal gratitude towards Professor
Kobayashi, shedding light on his personality, rather than his professional accomplishments.
I am one of the first and more fortunate students who were able to take an English
composition class that Professor Kobayashi―whom I like to refer to as Kobayashi sensei,
reminiscent of the good old days―taught at Kobe City University of Foreign Studies. Back then, I
was certainly a strayed sheep, not knowing what I would like to do in my life, nothing seemed
meaningful to me, and had lost interest in learning from life. In retrospect, that was definitely a
luxury.
I had plenty of time to think of who I was and what I should be doing with my life, yet I
did not have many experiences to think of what I could do, and what I should be doing for others.
With this dark cloud hanging over my head, I am now unable to recall what Kobayashi sensei’s class
was about, but can only recall the sparks, that is, how lively and challenging I thought the class was.
Anyone who gets to know Kobayashi sensei would not deny that he has this distinctive
charm, which sounds cliché, but pertinent only to a certain group of people who love humanity.
It
is not a sort of “love of humanity” in Dostoevsky’s sense: “The more I detest men individually, the
more ardent becomes my love for humanity.”
Kobayashi sensei is not very concerned for the
abstract concept of humanity, but does care for each individual whom he encounters. Thanks to his
care, the strayed sheep eventually found her path, as convoluted as it was. During those times,
Kobayashi sensei always made himself available, sometimes giving me concrete advice, or other
times simply showing up where I was―Hiroshima, Kobe, Tokyo, Chicago―to check up on me.
Such care requires sensibilities. You cannot be too imposing, yet you cannot be too detached.
Kobayashi sensei is a man of sensibility. In his youth, he once dreamed of becoming a pianist (It
seems that the artistic talent runs in the Kobayashi family for generations), devoted himself to
Chopin, and still plays La Campanella to express his love for his beloved wife of 40 years. His
listening ability trained to be a musician also has served him to be multi-lingual. He easily picks up
languages wherever he goes, which allows him to communicate with people with ease. His deep
61
appreciation of, and curiosity for the local culture, from music, architecture, literature, to cuisine, in
various parts of the world has helped him to make friends, not mere friends, but best friends almost
like family, all over the world.
It is rare, it seems to me, to find the combination of child-like anxiety-free curiosity for the
unknown, highly sophisticated intellect, and matured sensibility all in one person. During his last
trip to Chicago, Kobayashi sensei, his former student Ms. Yoshikawa who was visiting him from
Colorado, and I were invited to a dinner party at the Consul General’s official residence. At the
dinner table, Kobayashi sensei charmed the people with his sense of humor in a sensible manner.
Consequently, Consul General Hisaeda and Kobayashi sensei continued to carry the conversation
with lots of laughter even after the candles on the table were extinguished by the butler and the clock
struck the chord of 10:00 and again at 10:30.
The following evening, Kobayashi sensei was scheduled to give a talk at the Japan
Information Center.
Networks.
His talk was entitled: Sense and Sensibility in Cross-Cultural Learning
Indeed, sensei is a man of sensibility.
With Yuki (left) and Minako (right) in Chicago, March. 5, 2009
62
A Tribute to Professor Toshio Kobayashi
Professor Ron Oliver, Pro-Vice-Chancellor (Teaching and Learning)
Edith Cowan University, Western Australia
As Professor Kobayashi, known to all his international contacts simply as Toshio,
moves to retire from NIME, we can all marvel at his lifetime of achievements and
the impact his work has made on international communication and collaboration in
distance education and technology-supported learning.
Toshio spent his career as an academic at NIME as a true ambassador connecting
Japan with the rest of the world. He did this through his outstanding abilities to
communicate with strangers and to develop their trust and friendship.
And he
knew which people to connect with, and chose those whose friendships and interests
would last.
I first met Toshio when he visited my university, Edith Cowan University, in 1995.
Toshio had previously established links with the Director of our Distance Education
Centre and he had come to the university to discuss some projects and
collaborations.
At that meeting he mentioned to me that his institution, NIME,
ran a Visiting Professor Scheme and the rest is now history.
Toshio helped to
facilitate my application and in 1996, my family and I spent 6 delightful months in
Japan where we strengthened our social and academic links.
Since this time Toshio has continued his connections with Edith Cowan University.
In ensuing years we have participated in several joint projects seeking to explore
and understand intercultural communications. We have co-presented at several
conferences and forums and facilitated other communications and collaborations
among our colleagues.
Kanazawa 1996
L-R: Ron Oliver, Helen Oliver,
Tomeck
Starecki,
Toshio
Kobayashi, Keizo Nagaoka
63
Since my sabbatical in NIME in 1996, I have continued my research and
development activities in e-learning and distance education and I frequently meet
people who have worked, or who are still working, with Toshio and his NIME
colleagues.
The immense numbers of networks and collaborations that Toshio has
formed during his years at NIME have all helped to make the world a smaller place.
He has collaborators and colleagues, and people who call him a friend, in all corners
of the world.
When I meet new people in my field, I am constantly amazed at how
many of them have met Toshio and have NIME links. And often our friendships are
strengthened through the Kobayashi connection.
At this instant in 2009, for example, Toshio is coordinating and leading an
International Forum on International and Distance Education which will take the
form of a joint videoconference between universities in Malaysia, Australia and
Japan.
This 2 hour event will connect up to 50 academics with interests and
expertise in international education and it is likely that many new connections and
collaborations will evolve.
This is another clear example of how Toshio uses his
skills to bring people together and to facilitate and sustain their ongoing
communication and collaboration.
Cultural Activities at NIME 1996
L-R
:
Maestro
Toshio
Kobayashi
(piano), Ron Oliver (flute), Tomeck
Starecki (Baritone)
There are too few people like Toshio in the world who have mastered several
languages and cultures and have the personality to be conduits between nations
and cultures. It takes particular skills and personality to be able to do this and
requires enormous amounts of patie
nce, perseverance and hard work to bring
linkages to completion in ways that can be sustained into the future. This seems
not to be a learned skill but a god-given talent which Toshio was born with.
64
Toshio is not just a very clever and capable academic. He is also a very decent
human being who touches everyone with his charm, generosity and warm
personality.
And he is an outstanding musician and lover of the classics.
My family formed a close friendship with the Kobayashi family the instant we met
and we have maintained these links to this very day. My son looks on Toshio as his
Japanese Father, a man who has encouraged his language studies and provided
friendship and support. My daughter looks on the Kobayashi family as her extended
family in Japan. Both our children have spent every year since 1996 improving
their Japanese speaking skills and are now quite fluent and comfortable in their
second language.
Who knows what the future will hold for them?
There is
definitely a large Japanese element all stemming from the connections made way
back in 1995 with Toshio on one of his cultural visits abroad.
NIME 1996
Sally and Toshio
During my stay at NIME I had the privilege to meet and work with a number of
outstanding academics from many different countries and we formed a particular
bond with our NIME Polish neighbour, Tomeck Starecki.
We found a number of
shared interests including classical music, tennis and hospitality.
This is but one
example of Toshio’s activities leading to lasting and valued friendships between
cultures.
Serious Thinking at NIME 1996
Ron and Tomeck in a relaxed mood at NIME
65
As I ponder the future, I know that many of the activities that Toshio started for us
will continue for some time.
I know that Toshio and his family will remain good
friends with our family and our children will continue our friendships as well.
I
know that I will continue to meet and work with colleagues from NIME that Toshio
has introduced. I wish them luck in their future activities as the Institute changes
and the staff move to new areas of work.
Into the Future, beyond 2009
Toshio and Tim
And I hope that when I retire I can look back on my career and see that I have
influenced people and brought about some changes that are lasting. Toshio can
retire with the comfort and confidence of a job well done, lasting friendships and a
lasting impact on his corner of the world and far beyond.
I wish you a restful and happy retirement my good friend and I look forward to
meeting with you again soon.
February 2009
66
Congratulations Toshio-Sensei and best wishes
for a wonderful new chapter in your life
As a person who had been one of the most influential in my life it is difficult to write for
your retirement bulletin. Knowing that we will be in touch in the future please accept the
following words.
It was fate that brought you to Turkey in 1997 when I was a new entrant from an
engineering
discipline to the flourishing world of Open and Distance Learning.
As
an advocate of the field you have inspired many people including me and many of my
colleagues here at Anadolu University and in Turkey. Our fellowship opened up
opportunities for me to meet new people and to know new institutions. Also it was great
to meet the members of
the magnificient Kobayashi
Family
- all elegant and
talented individuals.
I know this is not a retirement but a new endeavor for you . Because you are a valued
and productive member of not only NIME but an international community. Therefore I
am sure you will continue to be influential to your colleagues all over the world and to
those you will meet in the future. Your name; Professor Toshio Kobayashi will be
remembered as an 'Ambassador' to bridge across different cultures bringing peoples
and countries together.”
Ali Ekrem OZKUL
Professor and former Vice Rector of Anadolu University
Executive Board Member
Council of Higher Education
Ankara, Turkey
67
On behalf of the University of Innsbruck it is my great honour to thank Prof. Toshio
Kobayashi for a long and close personal friendship and fruitful academic
collaboration.
In 2001 the National Institute of Multimedia Education and the University of
Innsbruck signed a collaborative agreement designed to foster research partnership
and to increase exchange in the area of multimedia education in favour of the people
in Japan and Austria.
In Japan this agreement was brought to life with the treasured support of the
institutional leaders and the researchers of the National Institute of Multimedia
Education who were carefully woven together by Prof. Toshio Kobayashi, and on the
side in Austria this partnership was built by his personal friend Dr. Georg Anker,
who recently died much too early. As chief designer of the New Media Team he and
his colleagues of the Central Information Service of the University of Innsbruck
joined Toshio Kobayashi’s pioneering efforts to combine academic bridge-building
between Asia and Europe with innovative and working multimedia education
applications.
Their network, which comprises experts and students in Russia, Turkey and other
important countries in the world today, offers a unique platform with a view into the
future of higher and multimedia education and research.
While Toshio Kobayashi improved the latest technology to new horizons, he always
had his focus on true humanity. We encountered this humanity in personal
meetings with former Rectors Hans Moser and Manfried Gantner, former
Vice-Rector Peter Loidl, long-term University Representative for International
Relations Prof. Erich Thoeni, former Dean Stephan Laske, distinguished teachers
and administrators such as Manfred Nikolussi, Anton Tremetzberger, Ortrun
Groeblinger, Dirk Draheim, and many more on behalf of Innsbruck, who all
enjoy(ed) working with Toshio Kobayashi. Praising him on the occasion of his
retirement includes the wish to further contacts in the future and all the best
wishes to him personally and to all his colleagues of
the National Institute of Multimedia Education after
its transition into the Open University.
Dr. Mathias Schennach
Head, International Relations Office
University of Innsbruck
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Dear Toshio,
Some years ago, I got an e-mail from a good friend from Turkey telling me that a
Japanese researcher would like to come to Granada and get some on-the-spot
information about the international e-learning activities that were going on at our
University. At that time, I did not expect at all that such a visit would have any
impact on my life or future. But once I met you for the first time, it became very
clear for me that an interesting, open-minded and warm-hearted soul has crossed
my path. Your kind invitation to come to Japan and do some research there, simply
changed my life.
Evidently, I started to learn Japanese and became interested in Japanese culture
and way of life. This experience introduced me to a world that I knew before only
very vaguely and opened the door for new friends and interesting experiences.
When I read the tentative title for your retirement special lecture, “Some thoughts
on international collaboration: human factor as the key,” the first thing that came to
my mind was “What a nice summary of your personality!” The human factor was
always the key for our friendship and I'm more than convinced that this is also true
for the rest of your life. Your visit to Granada had an impact not due to sound
scientific discussions but simply due to your human qualities. I will take this as an
example and consider it a lesson that I have learned: Don't forget the human factor
for whatsoever you are doing.
Knowing that your retirement will again be the start of a new and interesting phase
of your life, I wish you all the best for the future.
Take care,
Artur Schmitt
University of Granada, Spain
On home turf, Alhambra Palace
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Professor Toshio Kobayashi
Tomek Starecki, Warsaw Univesity of Technology
It was about 15 years ago in Japan, when I met Toshio for the first time - friendly fellow
and definitely non-standard Japanese, if you can say so. My first impressions were
overwhelmed by the way he was speaking - it was like he was shooting a words-loaded
machine-gun. With the time passing my impressions were influenced by some other
observations of non-standard behaviours for a Japanese person: for example, eating rice with a
fork, back-slapping, interests in ghosts, and searching for Polish roots. Perhaps the most
impressive aspect of this man was his ability to give long presentations or to hold serious
discussions on virtually any subject starting from "Japanese as a language of international
communication" to "Christmas or Easter: which is better and why"
Due to my poor
knowledge of Japanese I am not sure if the topics were exactly as stated above, but they must
have been very close to this. Despite my strong efforts during a whole year at NIME I wasn't
able to persuade him to play tennis with me. Fortunately I discovered that we had common
interests in other areas, namely: sumo, sushi, admiration for pretty women and serious drinking.
I learned quickly that watching sumo was a great passion we shared when one day,
while sitting at NIME and watching the Nagoya basho I was suddenly thrown from my chair by
Toshio's loud "YEEEEEEES" coming from his office room located on the 5th floor (mine was
on the 4th). It was when Mainoumi won his bout by okuridashi, i.e. pushing out from the dohyo
another rikishi who was more or less twice his size. Once I realized how great a fan of sumo
Toshio was, and reasoning that as a Japanese he must have had some practical experience with
martial arts (which he acknowledged), possibly sumo (which he denied), I was hoping to see
him performing some sumo exercises. Unfortunately, he wasn't that enthusiastic about the idea,
and used an excuse like "practising sumo could have a bad influence on my playing the piano",
so that my great dream of watching Toshio fighting Mainoumi had to be abandoned.
Sushi was a different story. On the day I
arrived in Makuhari for my one year stay at NIME I
was welcomed by Toshio. "Well, where shall I take
you for lunch?" he asked me after I had my luggage
dumped in my apartment at NIME's hotel. "What
about kaitenzushi?" I asked. "Wow, OK" was the
only answer. At the beginning I didn't know what
that "wow" stood for. Things cleared up a little bit
later when we sat in front of the moving plates and I
saw the amount of sushi he was able to eat, his
speed and the smile expressing his delight. Being
188 cm tall and close to 100 kg I don't consider
myself a tiny guy (well, at least in comparison to
Toshio), so, from theoretical point of view, I should
have had a much better chance of winning that fight.
But he was a tough competitor, and after about one
hour, when we were finished and leaving the
kaitenzushi, hardly moving our legs due to the
substantial amount of rice and raw fish in our
stomachs, it was not possible to call a clear winner.
Toshio with his reports
We have had a few more sushi matches since then. So
far we are even, but I still hope to beat Toshio one day.
As regards to women I must admit he had met my wife well before I got to know her -
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strong point for Toshio! And this topic was usually discussed during our evening serious
drinking sessions. Serious drinking was, as a matter of fact, introduced by Ron Oliver - my big
brother from Australia, whom I was lucky to meet at NIME. Once he explained the concept of
serious drinking, we (me and Toshio) realized immediately that we could not miss such an
opportunity of deepening our understanding of other nations through verbal and non-verbal
means of expression, so we decided to start regular exercises. It turned out that Toshio was
heavily overloaded with work and his family duties, so that the sessions were continued mainly
by myself and Ron, with Toshio joining us only occasionally. 1 And I must say, that the time that
I spent during my stay at NIME with the Olivers had a strong impact on different aspects of my
life, including a significant improvement of my English, my sense of humour and my tennis
skills. I even had a change of heart towards Mozart. As a result I started looking for an
opportunity to move to Perth for a year or two, but this is another story...
Well, a lot of my memories from Japan are
dedicated to Toshio and
other people from NIME, the Olivers, sumo, sushi,
serious drinking, etc. And
today I can say exactly the same words I
was saying over ten years
ago when I was leaving Japan "I
wish one day we will
meet again and have
great times again". The
only problem
is that the time is
running so fast, life is
running too fast.
Ron after
serious
drinking...
... of his green tea
Tomek Starecki, Warsaw University of Technology
1It is worth noticing, that the sessions led also to some truly scientific output and were mentioned in published
papers.
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A word of praise and celebration for Toshio Kobayashi:
Persisting, persisting – even through years of absence staying in mind so completely
that, when the door opened and again there was Toshio, it was truly as though there
had been no lapse of time at all.
None. One change however was felt instantly: the
affectionate regard for our two splendid Japanese friends had, with but the merest drop
of interim watering, miraculously grown to full bloom.
How do you explain such a thing? Joan and I don’t question, we just appreciate. This
good fortune came to our lives in about the year 1970 with Toshio as a University of
Portland student staying after class to talk to the professor (I was teaching European
history).
And one day he told me about the beautiful woman he was going to marry;
she was a stewardess for Air France.
A year or so after the wedding, they had a
bouncing baby boy. “Tako” (as they called him for short) coincided neatly with the
arrival of our first-born, Tim. There came one unforgettable wintry night when the
power failed that we spent together for warmth. Such small happenings do much to
cement a budding relationship.
Those were not easy years. Toshio was a foreign student without secure income
having to provide for his family.
He did translating for visiting businessmen,
tour-guiding, and looking around for scholarships, while Masako managed a neat and
parsimonious household.
They made it! and the career began to build.
Persistence that strong pays large dividends.
True to his basic nature Toshio has
become by profession and through personal example the true internationalist, bringing
fresh inspiration for the hopeful new century.
remarkable achievement.
And so it is with a deep sense of honor that we
join the celebration of Toshio and his splendid
family on this great occasion of his retirement
from service to country and humankind.
Jim and Joan Strassmaier, Portland, Oregon
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We feel personal pride in his
To Toshio - a friend forever,
I can say that, frankly, you are someone who has had a dramatic influence on me, in
every aspect. Your invitation to me to be a visiting scholar at NIME opened new
horizons in my academic and personal life. It provided invaluable opportunities to
research, write, and exchange ideas with many distinguished researchers and
established everlasting friendships around the globe. It has also helped to further my
career here at Anadolu. I can honestly say that the one year I spent at NIME was a
turning point in my life. It was when I began to gain real insights into distance education,
educational technology and interactive multimedia and the leadership and management
issues involved in these.
I shall always appreciate your endless efforts to make NIME an international platform
where eminent academics from all around the world could meet and plan and
implement new collaborative research and development projects. Your retirement
represents only a shift in the arena on which you perform your mission. It will always be
a pleasure for me and for my colleagues in Turkey to maintain our working links and
personal relations as enthusiastically as ever.
I wish you great success in your new pathway as an Emeritus Professor and good luck.
I shall be keeping in touch.
Your Friend in Turkey.
Assoc. Prof. Dr. Cemil Ulukan
Anadolu University
Open Education Faculty
Eskisehir-TURKEY
In gorgeous guest facility at Anadolu
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I still remember the night when I rode in the back seat of my grandparent’s car with
Toshio, the first encounter we had since I was just a baby. Though I was still only ten
years of age, the conversation that we shared that night was not what one might have
expected. For this University Professor was not content to simply patronize me with
inane childish tones nor did he act dry and distant as many others in his position would
have. Instead, he treated me like he would any other colleague. He spoke in a
straightforward adult manner and did not withhold any of the respect or warmth he
would have paid to anyone else. This was the first time that any adult had simply
talked to me like they would any other grown up person, and this had an impact on me
that still has resonance to this day.
Many people will tell you that there is something special about this man Toshio
Kobayashi, a certain quality that has helped catapult him to the heights of his profession
and afforded him opportunities that would not be open to most men with twice his
credentials. But I beg to differ, in that I do not think that there is anything special about
him at all.
What is different in his case is that he does what most people claim to or attempt to but
can never truly manifest in themselves: under all circumstances and with every person
he meets, whether a dignitary or a young man of ten years old, he conducts himself with
honesty, integrity, and a genuine human interest. Toshio loves what he does and
wants nothing more than to share his vision with the world, and works tirelessly to
accomplish that end, a man in perpetual motion it sometimes seems.
Though I am still a student myself and cannot truly think of myself as a colleague, I am
honored to be able to call Toshio Kobayashi my friend. As a mentor his support has
quite literally turned my life around when I was on the verge of relinquishing any hope of
attaining my dreams and ambitions, and for this I am forever in his debt.
Though I may not be one myself, I would like to take
this opportunity to join in with his rich network of
distinguished colleagues in wishing him the best of
luck in his future endeavors.
The world is better for having him here with us, in
whatever role he chooses to fill in the coming years.
Congratulations!
Yours,
Eric Van House, Portland, Oregon
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For Professor Toshio Kobayashi – a friend, colleague and role model
Toshio Kobayashi, Professor of the National Institute of Multimedia Education and the
Graduate University for Advanced Studies turned 63 this year. I would like to use this as
an opportunity to appreciate his lifetime achievements, his professional support and
advice as well as his loyal friendship.
I have known Toshio personally since June 2004. I became acquainted with him at the
International Conference on Virtual University: Model, Tools and Practice at Warsaw
University of Technology/Poland. Toshio convinced me sustainably by his profound
expertise and professional appearance in speeches and discussions. A second time we
met each other at the International Symposium on "Gender Sensitivity and Diversity in
E-learning" at Sookmyung Women's University (SMU) in Seoul/ Korea. We had been
invited by the local UNESCO-chair to present our research results. That Toshio had
been invited as Keynote Speaker clarified his international reputation and presence.
Since then we keep in touch for scientific exchange and my personal conversations with
him are not only extraordinarily inspiring from an professional point of view, but are also
shaped by his very personal, amicable and courteous manner.
My tribute is for an internationally renowned scientist and colleague, who – perhaps
more than any other – gave distinction to the international discussion with regard to
intercultural communications and multimedia education in the last decades and
enhanced the development of media didactics with respect to diverse aspects in
research and teaching. His lifetime achievements are characterised by commitment to
research in developing and evaluating the methods and contents of innovative
international educational exchange by using various networking technologies, and in
clarifying and identifying the issues in cross cultural distance teaching and learning for
enhancement of international higher education and building global learning networks.
The results of his work find expression in an impressive number of publications and
international speeches. The publications and conferences mirror Toshio’s tremendous
spectrum of scientific interests and competencies. Apart from that Toshio is an
affectionate husband and father of three children. Due to his care and love for his family,
his collegiality, his cosmopolitanism and his humour as well his ability to present
complicated topics in a comprehensible way, Toshio is a highly valued and favoured
friend, colleague and role model for his family as well as for generations of students and
colleagues.
Dear Toshio, I consider it as a great scientific and personal gain that I belong to your
companions. Because of your imperturbable academic excellence, your profound
expertise, your cosmopolitanism and – above all – because of your benevolence, I met
you and started to esteem you as an outstanding scientist and an extraordinary person.
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I wish you health, a continuously fulfilled scientific and private life and still many
encounters and conversations with you – in your professionally challenging and
benevolent, friendly and warm manner that is so special about you.
Claudia Wiepcke
------------------------------------------------Dr. Claudia Wiepcke, deputy professor
Head of department
University of Education
Oberbettringer Str. 200
73525 Schwäbisch Gmünd/ Germany
[email protected]
Presentation at UNESCO Symposium
On excursion at Korean traditional village
76
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