...

44.孫崎亨・著「戦後史の正体」 感想文:林 久治

by user

on
Category: Documents
20

views

Report

Comments

Transcript

44.孫崎亨・著「戦後史の正体」 感想文:林 久治
44.孫崎亨・著「戦後史の正体」
感想文:林
久治
(記載:2016 年2月 14 日)
著者:孫﨑
亨(まごさき
うける)
発売日:2012 年7月 24 日
発行所:創元社、「戦後再発見」双書
定価:1620 円
略歴:1943 年7月 19 日、満州・鞍山市にて
生れる。元・外務省国際情報局長。1966 年
に外務省へ。最初に英国陸軍学校に派遣さ
れ,ロシア語を学んだことがきっかけで,西
側陣営から「悪の帝国」と呼ばれたソ連に5
年,「悪の枢軸国」と呼ばれたイラクとイラ
ンにそれぞれ3年ずつ勤務。その間東京で
は,情報部門のトップである国際情報局長も
務めた。ソ連やイラク,イランがどのように
動き,なぜ敵対的行動をとろうとしているの
か,各国からその情報を集め,分析し,対策
を考えるのが仕事。その後,2002年に防
衛大学校教授となり,7年間,戦後の日本外
交史を研究。
(1)前書き
昨年、私(筆者の林)は「林久治のHP」で、「アメリカ・インデイアン悲史」
の本と「なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか」の本との感想を書いた。前の
本を読んで、私は次のような「私の見解」を書いた。 米国は 20 世紀の初頭には、
フィリピンまで進出していたのであった。その間、米国はインディアン達の土地を
奪いながら彼らを大虐殺して来た。換言すれば、米国は先住民に対して「ジェノサ
イド」を行い、彼らの国土を乗っ取ったのである。その上、米国はアフリカから黒
人奴隷を大量に購入して、広大な農園で彼らに「過酷な労働」を強要し、本書に記
載されているように(p.205)黒人女性を「Sex Slaves(性的奴隷)」として陵辱した。
後の本を読んで、私は次のような「私の見解」を書いた。20 世紀の初頭に、フィ
リピンまで進出した米帝国主義の次ぎの目標は「シナ大陸」であった。そこには、
日本がロシアを追い出して進出していた。そこで、米国は日本に戦争を仕掛けて駆
逐することを企んだ。その真相が、本書に詳しく記載されている。米国は日米戦争
でまんまと成功した後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争な
どの侵略戦争を次々と仕掛け、有色人種を虐殺し続けている。故に、米国はまさに
世界史上で最大で最悪の「テロ国家」であったし、現在もそうである。
戦前の大日本帝国は、米国の謀略にまんまと嵌まって太平洋戦争に突入し、大敗
北を喫して無条件降伏に追い込まれた。孫崎亨・著「戦後史の正体」(以後、本書
と書く)によれば、1945 年9月2日に戦艦ミズリー号で日本政府が調印した降伏文
書の中身は、「日本政府は連合国最高司令官からの要求にすべて従う」ことであっ
1
た。当時、米国の狙いは、「日本が再び大国として再生しないように国家の根本を
改造し、民族を再教育しようとする」ところにあり、米国は「日本人の生活水準は、
彼等が侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっ て良い理由は何
も無い」と考えていた。
本書によれば、日本の戦後は(占領時代はもちろん、1951 年のサンフランシスコ
講和条約で日本が独立した以降も)米国から様々な要求が露骨に出て来た歴史であ
った。それらに対応する日本側には、進んで米国の対日政策に追随する人達が存在
しており、彼等の路線が「対米追随路線」である。一方、日本側にも、日本の国益
を堂々と主張する人達も存在しており、彼等の路線が「自主路線」である。
本書は、著者(孫﨑)が外交官として実際に現場で体験した情報により、戦後の
日本外交を動かしてきた最大の原動力を、米国から加えられる圧力と、それに対す
る日本側の「自主路線」と「追随路線」の相克として解説している。本書は 2012 年
に発行され、22 万部のベストセラーになった。しかし、私(林)は「本書がそのよ
うに売れたにも拘らず、現在の日本では残念ながら、安倍首相を始めとする対米追
随路線が支配的である」と考えざるを得ない。
本書を未だ読んでいない方々には、図書館で本書を借りて読まれることを推奨す
る。本書は「高校生でも分かるように」平易に書かれているので、短時間で読破す
ることが可能であろう。また、ネット上では戦後史の正体-創元社//fのサイトに、
本書の第一章が掲載されている。ここを読むだけでも、本書の要点を理解すること
が出来る。また、本書の紹介としては、「戦後史の正体」(前半)/9と「戦後史の
正体」(後半)/1とのサイトが優れている。
(2)本書の内容
本書の目次は、以下の通りである。
序章
なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか
1
日本の戦後史は、「米国からの圧力」を前提に考察しなければ、その本質が見えてきま
せん
第1章
「終戦」から占領へ
17
敗戦直後の 10 年は、吉田茂の「対米追随」路線と、重光葵の「自主」路線が激しく対立
した時代でした
第2章
冷戦の始まり
89
米国の世界戦略が変化し、占領政策も急転換します。日本はソ連との戦争の防波堤と位
置づけられることになりました
第3章
講和条約と日米安保条約
115
独立と対米追随路線がセットでスタートし、日本の進む道が決まりました
第4章
保守合同と安保改定
179
岸信介が保守勢力をまとめ、安保改定にものりだしますが、本質的な部分には手をつけ
られずに終わります
第5章
自民党と経済成長の時代
221
安保騒動のあと、1960 年代に日米関係は黄金期をむかえます。高度経済成長も始まり、
安全保障の問題は棚上げされることになりました
2
第6章
冷戦終結と米国の変容
309
冷戦が終わり、日米関係は四〇年ぶりに一八〇度変化します。米国にとって日本は、ふ
たたび「最大の脅威」と位置づけられるようになりました
第7章
9・11とイラク戦争後の世界
335
唯一の超大国となったことで、米国の暴走が始まります。米国は国連を軽視して世界中
に軍事力を行使するようになり、日本にその協力を求めるようになりました
本節では、私(林)の印象に残った本書の内容を簡潔に紹介する。その他の内容
に関しては、ご自分で本書を是非お読み下さい。(なお、本節では、私の調査結果
や意見を青文字で記載する。)
本書によれば、重光外相が 1945 年9月2日に戦艦ミズリー号で日本の降伏文書に
署名した直後に、米軍は日本政府に「明朝に、次の布告を行うので、準備をしてお
くように」と通告してきた。その布告案とは、次のような厳しい内容であった。
①日本全域の住民は、連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく。行政、立法、司
法 のすべての機能は最高司令官の権力のもとに行使される。英語を公用語とする 。
②米側に対する違反は米国の軍事裁判で処罰する。
③米国軍票を法定通貨とする。
日本全国の住民を「連合国最高司令官の軍事管理のもとにおく」ということは、
軍による直接支配(直接軍政)そのものであった。日本政府はもちろん強いショッ
クをうけ、緊急の閣 議が夜遅く開かれた。重光は、9月3日午前8時ごろ、横浜税
関に到着して、日本の閣僚として初めてマッカーサーと会見することに成功する。
重光の著書「昭和の動乱」(中央公論 社)のなかに、彼は元帥に次のように言っ
たと書いている。「ポツダム宣言は、あきらかに日本政府の存在を前提としており、
日本政府の代わりに米軍が軍 政をしくというようなことを想定していません。
(略)もしポツダム宣言を誠実に実行しようとするなら、日本政府によって占領政
策を行なうことが 賢明だと考えます。もしそうでなく、占領軍が軍政をしいて直接
に行政を行なおうとするなら、それはポツダム宣言には書かれていないことを行な
うことになり、混乱を引き起こす可能性があります。」
このときマッカーサー元帥は非常に機嫌がよくて、重光の話をじっと聞き入って、
ややしばらく考えたうえ、「日本側のいうことはよくわかった。この布告は自分の
権限で全部とりやめることにする」とはっきり言ってくれた。東久邇首相は9月 17
日に重光外相を更迭し、吉田茂を外相に任命した。その後、重光は東条内閣と小磯
内閣で外相を務めた責任で、A級戦犯の容疑で逮捕され、禁固7年の判決を受けた。
敗戦処理を任務とした東久邇内閣は 10 月9日に総辞職した。本書によれば、後任
の首相人選は木戸内府、近衛公、吉田外相を中心に進められた。吉田外相がマッカ
ーサー司令部にサザーランド参謀長を訪問するなど、米軍司令部の内意が確かめら
れていた。「進んで米国の対日政策にしたがって行こうとする熱意ある人」が首相
の条件で、吉田が米側との窓口になっていた。その結果、幣原内閣(1945.10.91946.5.22)が成立し、吉田外相は留任して米軍司令部との折衝に当たった。
3
図1.1945 年9月2日、戦艦ミズリー号で日本政府代表として、降伏文書に署名
する重光外相(米軍の軽装は非礼である、と私は思う)。
重光 葵(しげみつ まもる、1887.7.29-1957.1.26)は、東条内閣と小磯内閣で外相
を務め、終戦時の東久邇内閣でも外相を務めた(1945.8.17-9.17)。重光は、1932
年1月に駐華公使として欧米諸国の協力の下、第一次上海事変の停戦交渉を行う。
何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月 29 日、上海での
天長節祝賀式典において、朝鮮独立運動のテロリストにより爆弾攻撃に遭い右足切
断の重傷を負う。降伏文書に調印後、重光は占領軍との対応で外相を更迭される。
後任の外相は吉田茂。その後、重光は東条内閣と小磯内閣で外相を務めた責任で、
A級戦犯として逮捕され、禁固7年の判決を受ける。重光は、講和条約の規定に基
づいて恩赦により刑の執行が終了後、衆議院議員に当選し、改進党総裁に選出され
た(1952.6.13-1954.11.24)。第 1~3 次鳩山内閣では外務大臣・副総理を務めた
(1954.12.10-1956.12.23)。
本書で著者は次のように書いている:吉田茂がこうして米側にすり寄っていたの
は占領初期だけではありません。その後の首相在任期間を通じて一貫した行動です。
重光外相は、降伏文書に署名したわずか 13 日後に外務大臣を辞任させられています。
「日本の国益を堂々と主張する」外務大臣は、米国にとって不要だったのです。求
められるのは「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」外務大臣です。そ
れが吉田茂でした。 戦後の日本外交の歴史において、「自主路線」が「対米追随路
4
線」にとって代わられる最初の例です。吉田茂は占領期・占領後を通じて、外相、
首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向を決めた人物です。さらに吉田の政策
はその後、自民党の政策となり、50 年以上継続します。ですから私たちはいま、彼
の歴史的評価をしっかり行なっておく必要があるのです。
本書はさらに次のように書いている:吉田首相については、その業績を高く評価
した学者たちの本が数多くあります。高坂正堯の「宰相吉田茂」(中央公論社)が
その代表でしょう。高坂は 次のように書いています。「実際吉田は、マッカーサー
と対等の立場を自然にとることができる人物だった。吉田は何よりも日本の復興の
ことを考えていたし、改革がこの目的 に反する場合、徹底的に反抗した。」著者の
孫崎は言う「本当にこうした評価が正しいのでしょうか。」
本書は次のように指摘している:吉田茂本人は「鯉はまな板の上にのせられてか
らは庖丁をあてられてもびくともしない」と言って、連合国総司令部(GHQ)に
全面的に降参する姿勢でのぞんだ。そのような人がどうして、「マッカーサーと対
等の立場を自然にとることができる人物」になるのでしょうか。占領初期、米国は
日本経済を徹底的に破壊します。現在の私たちが常識としているような「寛大な占
領」だったわけでは、まったくありません。その方針が変わるのは冷戦が始まり、
日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってからのことなのです。吉田
首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があったわけではありません。
図2.吉田茂の風刺漫画 吉田茂(1878.9.221967.10.20)は、日本の外交官、政治家。第1次
吉田内閣(1946.5.22-47.5.24)、第2次吉田内
閣(1948.10.15-49.2.16)、第3次吉田内閣
(1949.2.16-52.10.30)、第4次吉田内閣
(1952.10.30-53.5.21)、第5次吉田内閣
(1953.5.21-54.12.10)で首相を務める(通算:
2616 日)。吉田首相は、1951 年9月8日にサン
フランシスコ平和条約と日米安保条約に署名し
た。両条約は、1952 年4月 28 日に発効した。
本書は終戦直後の驚くべき秘話を次のように書いている:重光は「占領軍に対す
るこびへつらい」を激しく批判しました。それは政治の世界だけではないのです。
半藤一利 の「昭和史」(平凡社)には「進駐軍にサービスするための『特殊慰安施
設』が作られ、すぐ『慰安婦募集』がされました。 いいですか、終戦の3日目です
よ。内務省の橋本警備局長が 18 日、各府県の知事に占領軍のためのサービスガール
を 集めたいと指令をあたえました。」 と書かれている。
本書は次のように書いている:慰安施設は 27 日には大森で開業し、1360 名の慰
安婦がそろっていたと記録に残っています。内務省の警備局長といえば、治安分野
の最高責任者です。その人が売春の先頭にたっていました。 しかも占領軍兵士のた
めに。歴史上、敗戦国は多々あり、占領軍のための慰安婦が町に出没することはあ
5
りました。慰安施設 が作られることもありました。しかし、警備局長やのちの首相
という国家の中核をなす人間が、率先して占領軍のために慰安施設を作る国という
国があったでしょうか。
これに関して、私(林)は次のような意見を持っている:現在の視点からは、特
殊慰安施設は女性の人権を蹂躙するとんでもない施設として非難されるのが当然で
ある。しかし、70 年前の 1945 年頃には、世界各国で売春は合法であり、売春施設
の衛生状態を管理することが政府の任務であった。「明日は誰が死ぬかが分からな
い」戦場では、若い兵士にとって「特殊慰安施設」は必要悪であった。現在、韓国
は「大東亜戦争中に、多数の韓国女性が日本軍の従軍慰安婦として Sex Slaves(性
的奴隷)の扱いを受けた」と非難している。日本政府は「当時の従軍慰安婦は民間業
者が軍に提供したもので、日本軍が直接関与したのではない」と苦しい弁解をして
いる。しかし、私は「戦前の朝鮮でも、終戦直後の日本でも、ベトナム戦争でも、
その他の多くの戦争でも、特殊慰安施設は必要悪として存在したことを、歴史的な
真実として認識すべき」と考えている。
本書によれば、1946 年2月 13 日に、外務大臣として公邸でGHQ憲法草案を受
けとった吉田茂は、 同年5月 22 日に首相となります。わずか半月前の5月4日に
は、直前(4月 10 日)に行なわれた戦後初の総選挙で勝利した鳩山一郎・自由党総
裁(鳩山由紀夫元首相の祖父)が、組閣直前にGHQから公職追放されていました。
代わりに首相となった吉田茂は、その後、国会での憲法審議をへて、11 月3日の憲
法公布、 翌 1947 年4月 25 日の新憲法下での総選挙、5月3日に憲法が施行された。
1947 年4月 25 日に、新しい日本国憲法のもとではじめての総選挙が行なわれた。
その結果、社会党が第一党になり、片山内閣が成立した。当時は、食料すら満足に
ない時代で、社会的不満が高まるなか、国民が社会主義政党に投票したのはそれほ
どおかしなことではなかった。この時期にマッカーサーが社会党政権の樹立を許し
たのは、片山がキリスト教徒であったからである。マッカーサーは日本の民主化を
大きな目的のひとつとしたが、彼にとっての民主主義とは、その基盤にキリスト教
が存在するものであった。
しかし、平野農相が左派過ぎるので、GHQは片山首相に平野の解任を求めた。
そして片山首相は要求にしたがい平野農相を解任した結果、片山内閣は平野派 40 名
の支持を失って総辞職に追いこまれた。1947 年2月に片山首相は、芦田外相を次期
首相に指名した。芦田も重光と同様に自主派であった。吉田派はそれを「政権のた
らい回しだ」と非難し、朝日新聞と読売新聞も芦田の首相就任に激しく反対した。
しかし、こうした波乱のなか、1948 年3月 10 日に成立した芦田内閣は、わずか
3カ月後に大スキャンダルにまきこまれた。昭和電工事件であった。この事件は、
戦後の農業再興のため割り当てられた復興金融公庫からの融資に関し、大手化学工
業会社である昭和電工の日野原社長が、政治家・官僚・財界に賄賂を贈ったという
疑惑であった。このなかにはのちに首相となる福田赳夫(当時大蔵省主計局長)な
ども含まれていた(結果は無罪)。
6月 23 日に日野原社長が逮捕されたのち、東京地検特捜部は9月2日に「昭電事
件特別捜査本部」を設置した。10 月6日には芦田内閣の前副総理だった西尾末広
(社会党書記長) が逮捕され、翌7日に芦田内閣は責任を取って総辞職。辞職後、
芦田自身も逮捕された。昭電事件の裁判は 14 年半をついやし、1962 年 11 月に最高
裁で判決が出ます。実刑判決はゼロ、執行猶予付き懲役刑 21 名、芦田と福田は無罪
6
で、西尾も高裁で無罪となっていた。昭電事件とは、「G2(参謀第2部)―吉田
茂―読売新聞・朝日新聞」対「GS(民政局)― 芦田均―リベラル勢力」という戦
いだったのです。マッカーサー時代、GHQ内部には、民主化を進めるGS(民政
局)と、共産主義との対決を重視するG2(情報部門)の対立があり、日本の政局
はこの対立にまきこまれたのであった。
検察は米国と密接な関係をもっている。特に「特捜部」はGHQの管理下でスタ
ートした 「隠匿退蔵物資事件捜査部」を前身としている。その任務は、敗戦直後に
旧日本軍関係者が隠した「お宝」を摘発し、GHQに差しだすことであった。米国
の情報部門が日本の検察を使って仕掛ける。これを利用して新聞が特定政治家を叩
き失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からも明らかである。
本書は「芦田内閣崩壊には次の要素があります。」と書いている。
① 米国の一部の勢力(この場合はG2)が、日本の首相の政策に不満をもつ。
② 日本の検察が汚職などの犯罪捜査を、首相本人ないし近辺の者に行なう。有罪に
ならなくてもよい。一時的な政治上の失脚があれば目的が達せられる。
③マスコミがその汚職事件を大々的にとりあげ、政治的、社会的失脚に追いこむ。
④次の首相と連携して、失脚させた首相が復活する可能性を消す。
本書は「この状況は、田中角栄首相や小沢一郎民主党代表の追い落としのケース
ときわめて似ています。」と書いている。1976 年7月 27 日に、田中前首相が「ロ
ッキード事件」で逮捕され、政治的に失脚した経緯はよく知られており、本書でも
詳しく取り上げられている(p.260-275)。
私(林)は「小沢を政治的に葬ったのは、占領時代に形成された米国→検察と連
なる対米追随派の陰謀である」と確信している。本書でも(p.86)、「この小沢事
件のもっとも重要なポイントは、2009 年3月に始まった検察と大手メディアによる
激しい攻撃がなければ、(同年 8 月 30 日に行われる衆議院議員総選挙で民主党が圧
勝して)9月に小沢一郎氏はほぼ確実に日本の首相になっていたということです。
日本国民が正当な手続きによって選出した指導者を、もし特定の政治的意図をもっ
て東京地検特捜部が排斥しようとしたなら、これは民主主義国家の根幹を揺るがす
大問題です。」と書いている。
本書は(p.366-368.)、戦後の政治家達(首相クラス)を、対米「自主路線」と
「追随路線」という観点から次のように分類している。
自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たち)
重光葵:降伏直後の軍事植民地化政策を阻止。のちに米軍完全撤退案を米国に示す。
石橋湛山:敗戦直後,膨大な米軍駐留経費の削減を求める。
芦田均:外相時代,米国に対し米軍の「有事駐留」案を示す。
鳩山一郎:対米自主路線を唱え,米国が敵視するソ連との国交回復を実現。
岸信介:従属色の強い旧安保条約を改定。更に米軍基地の治外法権を認めた行政協
定の見直しを行おうと試みる。
佐藤栄作:ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価値が高まるなか,沖縄返還を実現。
田中角栄:米国の強い反対を押し切って,日中国交回復を実現。
福田赳夫:ASEAN外交を推進するなど,米国一辺倒でない外交を展開。
宮沢喜一:基本的に対米協調。しかしクリントン大大統領に対しては対等以上の態
7
度で交渉。
細川護煕:「日米同盟」よりも「多角的安全保障」を重視。
小沢一郎:在日米軍は第七艦隊だけでよいと発言。中国に接近。
鳩山由紀夫:「普天間基地の県外,国外への移設」と「東アジア共同体」を提唱
追随派(米国に従い,その信頼を得ることで国益を最大化しようとした人たち)
吉田茂:安全保障と経済の両面で,極めて強い対米従属路線をとる。
池田勇人:安保闘争以降,安全保障問題を封印し,経済に特化。
三木武夫:米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため,特別な行動をとる
中曽根康弘:安全保障面では「日本は不沈空母になる」発言,経済面では「プラザ
合意」で円高基調の土台をつくる。
小泉純一郎:安全保障では自衛隊の海外派遣,経済では「郵政民営化」など制度の
米国化推進。
その他の追随派:海部俊樹、小渕恵三、森喜郎、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野
田佳彦。
成程、自主派の人達の在任期間は概して短く、米国からの工作などで失脚に追い
込まれた人達も多い。私(林)は、岸首相や佐藤首相が自主派に分類されているこ
とには、驚いてしまった。私は大学に入学したばかりの 1960 年の春、「安保反対」
のデモに参加して、勉学が疎かになったことを鮮明に憶えている。
本書によれば、岸首相は、在日米軍の撤退に切り込む意向だったが、安保騒動で
退陣し、結局切り込めずに終わった。安保反対運動は、百万人を超える国民がデモ
に参加した。岸政権を崩壊させた安保闘争の金は財界から出た。財界が金を出した
のは、岸の自主独立路線に危惧した米軍及びCIAの意向を受けて、打倒岸に動い
たためであった。日本の大手新聞は、最初は「安保反対」の論調であったが、その
後「打倒岸」に移り、「七社共同宣言」で「反暴力・議会主義を守れ」へと変化し
た。(私の体験でも、当初の「安保反対」のデモが、いつの間にか「岸を倒せ」の
声に変わったことに気付き、「大変な違和感」を感じたことを記憶している。)
以上で、私(林)は本書の一部をごく簡単に紹介した。これだけでも、我々のよ
うな普通の日本人が知り得なかった「戦後史の正体」を垣間見た印象が強い。その
他の内容に関しては、ご自分で本書を是非お読み下さい。
(3)本書の感想
本節では、本書「戦後史の正体」と関連して、最近の政治情勢を考えてみたい。
2016 年 1 月 21 日 発売の「週刊文春」に、「甘利明大臣事務所に賄賂 1200 万円を
渡した」との政界激震スクープが掲載された。甘利大臣は1月 28 日に記者会見を行
い次の事を認めた。①大臣本人が大臣室などで 50 万円を2回受け取り政治資金報告
書に記載した。②一人の秘書が 500 万円を受け取り、200 万円は記載したが、300 万
円は秘書が私的に使用した。③その秘書は接待を受けていた。
即日、甘利大臣は辞任を表明し、後任には石原伸晃氏が任命された。私(林)は
これらの報道を聞いて「甘利大臣は矢張り、例の陰謀に嵌まってしまった」と直感
した。「例の陰謀」とは、本書で記載されている「対米追随路線」一味の陰謀であ
る。しかし、私の疑問は「甘利大臣は TPP 交渉を熱心に推進したにもかかわらず、
どうして米側の陰謀で辞任に追い込まれたか」と言うことである。
8
TPP とは、環太平洋戦略的経済連携協定のことである。2010 年 10 月 1 日、菅直
人首相(在任:2010.6.8-2011.9.2)は、衆議院本会議所信表明演説で TPP への参加
検討を表明した。2011 年 11 月 11 日に、野田首相(在任:2011.9.2-2012.12.26)
は「交渉参加に向けて関係国との協議に入る」と表明した。2012 年 12 月 16 日に行
われた衆議院総選挙では、自民党は「聖域なき関税撤廃を前提とする TPP には参加
しない」と選挙公約に明記していた。この選挙で大勝して首相になった安倍晋三は、
2013 年2月 22 日にオバマ大統領と会談し「TPP では聖域なき関税撤廃が前提ではな
いことが明確になった」と述べた。
図3.2012 年 12 月 16 日に行われた衆議院総選挙における自民党のポスター
この選挙で、自民党は「聖域なき関税撤廃を前提とする TPP には参加しない」と選
挙公約に明記していた。
2013 年3月 15 日に、安倍首相が TPP 交渉に参加を表明し、参加国にその旨通知
するとした。また甘利明内閣府特命担当大臣を、TPP に関する総合調整の担当大臣
に任命した。2015 年 10 月5日、米国・アトランタにて TPP 交渉に参加する 12 カ国
の閣僚会合で、5 年半におよぶ交渉が大筋合意に達した。2016 年2月4日、ニュー
ジーランドにて TPP 署名式が行われ、12 カ国間で署名が行われた 。この間、安倍首
相は「日本政府が TPP 交渉を粘り強く行った姿」を、甘利大臣の活躍で国民に示そ
うとしたようだ。そのような TPP 交渉の主役であった甘利大臣が、署名式に晴れ姿
を見せられなくなったのは異常事態である。
私は「米国政府は今回の TPP 合意内容に不満がある。特に、甘利大臣の交渉力を
嫌悪したのではなかろうか」と考えている。今回の合意内容は、米国議会で承認さ
れないと発効しない。しかし、現在の米国議会では、野党の共和党が多数を握って
いる。従って、オバマ大統領は議会から「こんな TPP ではダメですよ! 再交渉し
て、米国にもっと有利な内容に変えて来い!」と言われるのは必定であろう。オバ
マの大統領の任期は 2017 年1月までである。その時までにオバマ大統領が TPP 批准
に失敗すれば、次期大統領にバトン・タッチされる。処が、民主党のクリントン候
補も、共和党の総ての候補者も、現在の TPP には賛成していない。
私は「TPP は再交渉が必定である。再交渉で日米の合意が成立しない場合は、TPP
はご破算になる。その方が日本国民のためになる。」と思っている。そこで、米国
のシグナルは「アマリはやり過ぎた! もっと、馬鹿な代表に替えろ!」であろう
9
と、私は考えている。安倍ボンは恐縮して「それは大変申し訳ございませんでした。
甘利はさっそく首にして、アホの石原に代えますので、どうかご勘弁下さい」と答
えたのではなかろうか。私の勘繰りでは、安倍首相は「甘利疑惑を国民の目からそ
らす」ために、「清原逮捕」、「ベッキーの不倫事件」、および「イクメン議員の
不倫事件」を大々的にマスコミに報じさせているようだ。
本書の最後には(p.360-364)、TPP の危険性が記載されている。私もかねてから
「林久治のHP」で、TPP 参加に強く反対してきた。(次のサイトをご覧下さい:
http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/O-18.pdf)私は「安倍首相の提唱する
TPP を含めたアベノミックスや橋下前大阪市長の提唱する道州制は、日本の国民と
国土を米国に安く売り渡す売国政策である」と強く反対する(次のサイトでも、私
と同様な主張があります:http://wjf-project.info/blog-entry-149.html)。
最近、日銀総裁は安倍首相の意を汲んで、マイナス金利という禁じ手を始めた。
処が世界情勢は真逆に反応し、「円高や株安などのアベノミックス破綻の兆候」が
見えて来た。マイナス金利という禁断の園に足を踏み入れると、マイナス金利が亢
進して、我々国民の預貯金金利もマイナスになる(つまり、日本国民は手数料を支
払って預金するようになる)ことが必定である。そうなると、一般国民の資産は公
然と日米の大資本に強奪されることになる。
私の「自公政権を糾弾する」のサイト(http://www015.upp.so-net.ne.jp/hhayashi/O-17.pdf)で、「21 世紀における日本国の生きる道」を主張した。以下に、
その要点を再録する(詳細は、上のサイトをご覧下さい)。
21世紀における日本国の生きる道:日本清貧党の主張
我が党(日本清貧党)を代表して、私(林)は次のように主張する。
(1)経済成長を追及することは人類の自殺行為である。
(2)自国民を圧政したり搾取してはならない。
(3)原発を直ちに廃止し、自然エネルギーの範囲で生活すべきである。
(4)新自由主義やTPPなどの誤った国際化をせず、自力更生を目指せ。
以上のような我が党の主張に対して、「それでは、21世紀において日本国民は
どのような生活を送ればよいのか?」との疑問を持つ人々は多いであろう。以下に
おいて、私はそのような疑問に答えてみよう。
先ず、人生の基本姿勢から考えてみよう。新自由主義に基づく生き方は、「自分
や自分の仲間さえ良ければよい」とか「お金を沢山儲けて、物質的な快楽を享受し
よう」とかを追及する生き方である。このような生き方は、経済成長による地球環
境の破壊(温暖化や環境汚染など)や他者(自国民や外国の人々)に対する圧政や
搾取を必然的にもたらす。その結果、1%の勝ち組と 99%の負け組が生じる。
そのようにならないように、私は精神的充実と友愛精神に基づく生き方(清貧主
義)を提唱したい。日本国民は縄文時代から現在までの1万年以上もの長い間に、
豊かな自然と健全な精神を獲得してきた。日本国民はこのような優れた伝統を発展
させ、豊かな地球環境を守りつつ、「他者の幸せは自分の幸せ」という友愛精神を
涵養すべきである。
10
図4.日本国民の皆さん!
安倍首相の売国政策を断固阻止しましょう。
11
Fly UP