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パリ亡命雑誌 『クルトウ-ラ』に見るカティンの森事件と戦後

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パリ亡命雑誌 『クルトウ-ラ』に見るカティンの森事件と戦後
岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第2
8号 (
2
0
0
9l
l
)
パ リ亡命雑誌 『
クル トウ- ラ』 に見 るカテ ィンの森事件 と戦後1
岡 野
1
は じめ に
2
1943年 か ら1989年 に か け て の カ テ ィ ン の 森 事 件 に 関 す る主 な先 行 研 究
3
パ リ亡 命 出 版 社 ・イ ン ス テ ィチ ュ ー ト ・リテ ラ ツ キ
4
5
寺 子
r
ク ル トウ - ラJ に あ け る カ テ ィ ン の 森 事 件 1 1947年 か ら 1989年
r
ク ル トウ ー ラJ と カ テ ィ ン の 森 事 件 との 関 わ り
6 あ わ りに
1 は じめ に
本 稿 の 目的 は 、 ポ ー ラ ン ドが 第 二 次 世 界 大 戦 後 ソ連 艦 に組 み 込 まれ て い た 時 代 に 、 パ リ亡 命 出 版 社
の イ ンス テ ィ テ ュ ー ト リテ ラ ツ キ (
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aCkl
)が 発 行 す る 文 芸 誌 rク ル トゥー ラ
(
Kul
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〟r
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の 誌 上 で 、 カ テ ィ ンの 森 事 件 が ど の よ う に語 ら れ て きた か を分 析 す る もの で あ る。
カ テ ィ ンの 森 事 件 と は 、 第 二 次 世 界 大 戦 中 の 1
940年 、 ロ シ ア 国 内 ス モ レ ンス ク近 辺 の 森 で ポ ー ラ ン
ド人 将 校 、着 官 等 約 4400人 が ソ連 の 内 務 人 民 委 月 部
(
NKVD)に よ っ て 銑 殺 さ れ た事 件 で あ るO カ テ ィ
ンの 森 事 件 は 、 ポ ー ラ ン ド現 代 史 に と っ て ワ ル シ ャ ワ蜂 起 と並 ぶ 悲 劇 の 記 憶 で あ り, ま た ソ連 支 配 下
で の 歴 史 の 空 白 で もあ っ た Z
。
.
版におけ
本格はポーラン ド ヤギェウウ寸大学歴史学部で2
0
08年に軌範 した修士論文 「インスティチュー ト リテラ ノキuJ
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るカティンの森恥件研究-バ リ.1
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47
畔から1
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9年をq
]
心に して- 〔
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94
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-1
9
8
9)
」の一部を邦訳、加班 播正 Lたものである0
1
93
9年 9月 1日に ドイy群のポーランド佼攻により節二次性外大戦が勃発 し、そ して9月1
7E
l
、東からソ連FL
が攻めてきた
ことによりポーランドは 2つのE
l
)
によって分割 されることになった。ポーランド東部では、武装解除され7
L
Jポーランド3
r
L
や民
R
I
j
人がソ連禅の捕虜にf
J
.り弘制収容所へ と送られt
.
:
。その うち、将校、畢官等は 3つの収容所.コジェルスク(ロシ7)、オ
2日に蝕
スタシュコ7(ロ/7)、ス タロビエルスク(ウクライナ)に送られ、1
9
4
0
年春頃に射殺されたOそ して,1
9
41
年 6月2
ノ戦勃発、ノ漣に佼攻 した ドイツi
F
i
はカティンの森付近で4
0
03
人以上のポーラン ド3
T
乙
将校らの退体を発見 し,1
9
4
3
年 4月1
3日
に ドイ ノによってZ
l
叩Fが公表 され、ソ連がf
B殺 したもの として非稚 したが、それに対 しソ辿は ドイノの王張に反論 し,ドイツ
の仕桑だと王張 した.絶後、戦勝B]
となったソ逆はカティ/の謙抑 牛に関 して告発されることもなく、共産三森政権I
か
日
義まで
ドイ ノの非 とされてきたO西Wg
o
諸国 も冷載下で ノ連を刺赦 させないt
.
:
めに配膳 し.壬
て相解明に向けてfl
.
体的に動 き出すことは
なかった。そ して.L
9∈
X
)
年 4月にポーランドのヤルゼルスキ大総孤がモスクワに赴 きゴルバチ ョフ大統領と会談 した際に.ソ
。しか L2
05
年 3月 5E
l
.ポ詣閑の外交関係が悪化する中で.ロン7連邦澱拓WL
三
J
L
検軒
連脚は初めて公式にこの都賀をT
認めた
庁はカティンの 串件に1
咽する資料等の公I
鞘を打 ち切 り、そ して1
1日には,カティ/の森i
t
f
件はジェノサイ ドではないとの見
α)
8
年 2月には.ポーラン ド石和 トナスクとL
i
I
J
ロシア大紋節プ-ナンとの閥でカティ/I
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L
件はスターリンの犯非
解を示 した. 2
であると詑l
,
&されたOポ-ラン ド国内では2
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7年1
1月1
4日にセイムで4月1
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lをカティ/の蘇可印r
桟#_
者追憶のE
]とする決議
が可決された0
森
1
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リ亡命雑誌 r
タルトウーラJに見るカティンの郎I
F
件と戦後
F
X
,
野 諸子
第二次世界大戦後は、ポー ラン ドが ソ連圏に組み込 まれたため、ポーラン ド国内で カテ ィンの森事
件 を口にすることがで きない状況にあった。その ような中、戦後多数の亡命者が身を寄せた都市の一
つであ るパ リでは、 ポー ラン ド人亡命者が中心 となった出版社 の イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ
(
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s
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utLJ
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kl
)が,カティンの森事件 を頼繁 に取 り上 げるひとつのセ ンターになっていた。その
活動の中心 に、文芸誌 rタル トウー ラ」があった。 r
クル トウーラJ は、文芸誌ではあるが、政治、社
会に関す る等文、エ ッセイも数多 く取 り上げてお り、在外 ポー ラン ド知識人、文化 人の学際的な篇境
であっただけでな く、 ソ連支配体制に対す る抵抗の シンボルで もあった。 この ような性格 を持つ雑誌
の誌上で、隠 された ソ連の残虐 な行為 を暴 こうとする活動が盛 んに行われたのは、当然の成 り行 きで
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f
あ った とい える。 さらには、rタル トウー ラJ の福娘者 の一 人であ る、ユ ゼ 7 ・チ ャブスキ (
Cz
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)
、そ して ロ ン ドンか ら r
タル トウ- ラ」 へ投届 していたス タニス ワフ ・シフ イアニエ ピッチ
(
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e
WI
C
Z)は、カテ ィン事件の虐殺か ら奇跡的に免れた人物であったことを忘れてはな
らない。彼 ら二人の証言, また ドイツの調査委月会やポー ラン ド赤十字か ら発掘調査作業 に関わった
者たちの回顧録等は、事件の詳細 を知 り得 る戟重 な歴史資料であ り、r
クJ
レトウ-ラJ はカティン邸件
研究において、 さらにそれ を人 々に広めるうえで非常 に韮要 な位'
Eを占めていた と言 える。
9
6
2
年 より r
ゼシュテ ィ ・ヒス トリチュネ
なお、同 じインステ ィチ ュー ト・リテラツキ出版か ら、1
(
Ze
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r
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7
1
e
)
J という歴史 をテーマに扱 った学術雑誌が出版 されている。 これは、ポーラン
ド人歴史研究家たちが、亡命先で検 閲の介入 な く自由に討論で きる鳩 を授供す るとい うE
I
的で刊行 さ
れた雑誌である。 この r
ゼ シュティ .ヒス トリチ ュネ」で カティン事件に関する学術的な研究が沢山
なされて きたにも関わ らず,本箱 では文芸雑誌であ る r
タル トゥ- ラJ に絞 って分析 した理由は 2点
ある。 1点 馴 ま、 イ ンステ ィチュー ト リテラツキ出版の創始者であるイエ ジ ・ギエ ドロイツ (
J
e
r
z
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oy
c)の人脈 を使 い、著名 な歴史家、文学者、作家,帝 人等 に寄稿 を依頼 している点で、rタル
Gl
e
dr
トウ- ラJ が文芸誌 であ りなが ら学際的な論境 と しての役臥
ポーラン ド国民のオピニオ ンリー ダ-
多数ある亡命系雑誌の うち、
特に r
タル トウー
的役割 も果た していた ところにある。 そ して 2点 目は、
ラJが共産主兼体制か ら文化的、政治的に独立 した、つ ま りソ連の影響 を受けない姿勢 を強 く示 して
お り、唯一定期的に、 また大丑 にポーラ ン ド国内に持ち込 まれた西側の反体制雑誌であることである。
共産主我体制下のポーラ ン ド国内で r
タル トウ- ラj を読 むこと自体、反体制の意思 を示すことで も
あ り、執筆者 たちはある程度そ うした読者 を念頭 に置いて執隼 していた。つ ま り.r
タル トウ-ラ」 が
カテ ィンの森串件 を取 り上げること自体、すでに大 きな反体制活動であ り、ポー ラン ド国内の世等形
成に大 きな影響 を与 えた といえる。
9
4
3
年か ら1
9
8
9
年 にかけて世界各地で出版 された、 カテ ィンの森串件の研究 をサー
本箱ではまず、1
ベイ した。次に、1
9
4
7年の初刊か ら1
9
8
9
年 までの lクル トウーラ」全てに 日を通 し. カテ ィンの森串
件及び近いテーマの記事 をピ ックア ップ した。そ してそれを 5つのカテゴリーに分け、年代順に並び
替えて.その内容 を分析 した。 これ まで、rタル トゥーラJ の雑誌 自体 を分析 している研究、濡掛 二間
1
6
0
剛 】
r
大学大学 院社 会文化科学研究科紅 盟節2
8u
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0
91
I
)
わった人物 に関する文献 は数多 く出版 されているが、 カテ ィン事件関連研究.エ ノセ ィ、資料等だけ
を抜粋 して分析 している ものは皆無である。そ して最後 に、r
クル トウ-ラ」が戟後の現代史研究で ど
の ような役割 を果た したか、またその中で カテ ィンの森事件が どの ように語 られて きたか を考察 し、
ポー ラン ド国内の (
お もに地下出版 による)研究 との違いを明 らかに してい きたい。
0年経つに もかかわ らず、ポーラン ドとロシア との間で未だ決着
カテ ィンの森事件 は、事件か ら約7
していないO現在、 ロシア側が何 も語ろうとしない ことで、解決-の道 も閉ざされて しまっている状
態である。現代 史の中でのカテ ィン事件の位置付 けを明 らかに し、両国間の歴史認識のす り合わせを
行 うことは、今後 2国間の、 また言い換 えれば悲劇的な歴史を共有する隣国同士の関係 を未来に向け
て再構築 してい く上で、避 けて通 ることので きないプロセスである。本稿は、そ うしたプロセスの一
端 を担 うもので もあ る。
2 1943年 か ら1989年 にかけてのカテ ィンの森事件 に関する主 な先行研究
1
)
英語で出版 された文献 、(
2
)
亡命先で出版 された文献 、 (
3)
地下出版 、 (
4)
そ してポーラン ド国
まず 、 (
内での正式出版 の項 目に分けて、それぞれの項 日ごとに主要文献 をサ-ヘ イす る。
(
1
)
1
9
43年 に ドイ ツで出版 された rカテ ィンにおける大鼓虐殺 に関する公式資料」 (
Mat
er
L
a
l
.L
1
9
43J
)
がカテ ィン事件 に関する滋初の文献である。 しか しなが ら、 これは事件発光後す ぐ ドイツがプロパガ
ンダを目的 と して出版 した ものなので、学術的な文献 とは言 えないO英語での文献で殻 もよく知 られ
9
62
年 にロン ドンで出版 されたヤヌシュ・
ザポ ドニー (
J
anus
zK Za
wodny)箸の 「カティ
ているのは、1
ンの森の夜 と轟
Za
wodny,r
1
9
62
1
)である。著者
第二次世界大戦 をめ ぐる大虐殺部件の共相記録」 (
は第二次 世界大戦 中、国内軍の一月 として ワルシャワ蜂起 にも参加 し、現在はアメリカに住み、政治
学、国際関係学 を専 門 として教鞭 を執 っているo この本で著者は、当時のポーラン ド人将校たちの取
り巻 く背景、虐殺の要因、そ して事件発光後の調査等 を記す ことで、彼 らの運命をた どっている。 さ
9
7
0年代
らに、著者はカテ ィンの森事件の 目撃者、関わった人たちへの インタビュー も試みている。1
Lout
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Z
Gl
bb
on)のカテ ィンの森事件 を題材に扱 っ
には、イギ リス人作家のルイス・
フイ ソツギボ ン (
Fl
t
Z
Gl
bbon.
1
1
971
日1
9
75日1
9
7
7aH1
9
7
7bl
)
。そ して、1
9
91
年にニュー
た文献が何冊か出版 されている (
ヨークで出版 されたア レン・
バ ウル (
Al
l
enPaul
)著 「
カテ ィン 知 られていないスター リンによるポー
Paul
.r
1
991
I
)では、3つの家族 に焦点 を当て、戦争勃発か ら、カテ ィン事件で家族
ラン ド人の虐殺 」 (
を失い、そ して 1
99
0年代初頭 までの家族の歴史が描かれている。2
00
6年にはポー ラン ド語版が出版 さ
PauL[
2
006
1
)
0
れた (
(
2)
亡命先で出版 された文献では,亡命先つ ま り多 くはイギ リス、アメリカ、フランスで出版 された
9
48年 にロン ドンで出 された rカテ ィン申件の記録一序牽
文献があるO まず 、1
ヴワデ イスワフ ア
ンデルスよ りJ(
Anonym.
L
1
9
4引)は、ポーラン ド語で省 かれた文献の中で一番古 く、そ して当時の事
9
4
9年に、
件 に関わる資料や記緑 を狭めた もの としてri
重 な文献であることで知 られている。そ して、1
1
61
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命雑.
,
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クルトゥ-ラ」に見るカティ/の森I
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H牛と峨後
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野詩
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ア ダム ・モ シンスキ (
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kl
)に よる rカティンの リス トー ソビエ ト ロシアで行方不明に
Mo
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kl
.1
1
9
49)
)がロン ド
なったコジェリスク、ス タロビエルスク、オス タシュコフの捕虜たち」 (
ンで出版 されている。 この文献 は主 に、3つの収容所で捕虜であったポーラン ド人たちの名前、生年
20
0人、オス タシュコフ収容所 は約 1
3
0
0人、ス
月 日、敬業等が記 されているO コジェルスク収容所 は約5
0
0
0人の名前が記載 されている。他 には,1
9
7
4年出版でプロニスワフ・
ムイ
タロビエルスク収容所は約 3
ナ)
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スキ (
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S
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yna
r
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kl
)による彼 自身の回顧録である rソ連の捕虜にて」(
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.[
1
9
7
4]
)
や、1
9
82年 にプ リュ ソセ /
レで 出版 のア レクサ ン ドラ ・タフ イア トフス カ=ヴ イア トゥ(
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eau)による r
1
9
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94
3 カテ ィン」 (
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OWS
ka
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e
au.【
1
982
1
)があるO ここ
ではい くつかの文献 しか紹介 していないが、他に も数多 くのカテ ィン事件 に関する文献が出版 されて
お り, このことは西側諸国で多 くの人 々が カテ ィン事件 に関心 を示 していたことを表 していると同時
に、ポーラン ド国内 と遠い事件 について 自由に口にすることがで きた とい うことを明 らかに している。
3)
地下出版 もカテ ィン研究では重要 な役割 を果 た した。当時、ポーラン ド国内では検閲が 削 こあ り、
(
98
0年代には地下 出版の形が取 られた。反故軌 二村す る取締 りが厳 しい中で、特 にカティン事件
特 に1
9
8
0年に
に関 しては当時 タブーであったため.歴史家、作家等の人 々が違法な方法で出版 し続 けた。1
0周年 として、イエ ジ・ウオイェク (
J
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zyLo
J
ek)による rカティン事件」 (
Lo
J
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k
.
は、カティンの虐殺 4
[
1
9
8
0)
)、ユゼ フ ・チ ャブスキによる r
非 人間的な地で」 (
Cza
ps
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.[
1
9
8
4日 1
9
8
5日 1
98
6
】
)が出版 されて
いる。
(
4)
i
R後に、E]
内での正式出版物 をい くつか挙げた。検閲を突破 して正式に出版 されていることもあ
9
45年 には、クラクフの情報宣伝局によって 「カ
り、ソ連 に都合の良い ように解釈 された文献 もある。1
Wo
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gandyw Kr
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.
【
1
9
4
5】
)
.こ
テ ィンの失 笑」が出版 された (
の文献では.カテ ィン事件 は1
9
41
年秋に ドイツが行 った犯行だ と記載 されている。1
9
52
年 には、ボ レ
ヴ イナ ノキ (
BoL
e
s
l
a
w W6
J
c
I
Ckl
)の rカティンの先 夫Jが出てお り、これ も同様 に犯行は ドイ
スワ7 ・
W6
J
c
I
Ckl
.
【
1
9
52
J
)O さらに1
9
89年 には,ア ンジェイ レシェック・シュ
ツによるものだと沓 かれている (
Sz
cz
由nl
a
k.Ar
l
dr
z
e
JLe
s
z
ek)に よって 3冊 の文献 が 出版 され てい る (
Sz
c
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由nl
ak
.
チ ェ シニ ア ク (
【
1
9
89aH1
98
9bl
.
【
1
9
8
9C1
)
。 これ らの 3冊では、邸件 はソ連によるものだ と主張 されている。
3 パ リ亡命出版社 ・インステ ィチュー ト・リテラツキ (
1
ns
t
y
t
utLI
t
er
aCkl
)
イ ンステ ィチ ュー ト・リテ ラツキ出版 は、1
9
46年 2月に ローマで イエ ジ
ギエ ドロイツ (
J
er
z
y
Gl
e
dr
oyc)の主導の下で設立 され、1
94
7年にはパ リの メゾン ・ラフイツテ (
MaL
S
OnS
La
f
f
l
t
t
e)に移 った。
ギエ ドロイツらは、パ リは世界的 な文化の中心地だ と考 え、 ロ ン ドンー当時ポーラン ド亡命牧村があ
りすでに各地か らの亡命先 となってお り文化権関 も数多 く設立 されていた -ではな くパ リを選んだの
である。
1
94
7年か ら月刊誌 rク)
I
,トゥーラJ が出版 されたO共産主菜時代のポーラン ドでは、出版への検閲
1
6
2
岡山大学大学 院社 会文化科学研究科紀 芋粥2
8
号
(
2
0
091
1
)
が厳 しく言論 も統制 されていたo r
タル トウ-ラ」 は戦後のポー ラン ド人亡命者たちにとって、
共産主
義国ポー ラン ドに対 し文化 的、政治的な見解 を示す ことので きる数少 ない場のひとつであった。 この
雑誌 は、ポーラン ド人だけではな く、 ウクライナ人、ユ ダヤ人、 リ トアニア人、 ドイツ人など、ポー
ラン ド文化 に賛同を示す人々皆 によって読 まれた と言われている。 さらに、フランスに在住す るポー
ラン ド人だけではな く、 ロン ドン、西 ドイツ (
当時) など様 々な所か ら rクル トウーラ」へ投稿 され
ているの も一つの特徴 である。
出版当初、rクル トウ- ラJ は文化的、そ して文学的 な題材 を扱 った記事がほとんどで、政治的な記
事 は少 なかったo ギエ ドロイソの当初の 目的は、r
クル トウ- ラl を通 してポーラン ド文学や文化 を世
界に広めることであった。そのために、ギエ ドロイソは自ら作家や詩人へ執筆 を依頼 L rクル トゥー
ラJ に相戦 している.例 えば、1
9
51
年 にフランスへ亡命 し、1
9
8
0
年にノーベル文学鉱 を受光 したチェ
ス ワフ ミウ オシュは、ギエ ドロイツの良 き理解者そ して協力者 とな り、数多 くのエ ッセイや詩 を r
ク
ル トウーラJ に投稿 している。そ して、2
0
世紀で位 も傑 出 したポーラン ド人作家であるダス タフ・
ヘ
ル リング ・グル ジンスキ (
Gu
s
t
a
wHe
r
l
1
n
g
Gr
u
dz
I
L
I
S
k
l
)ち, イ ンスティチュー ト リテラツキ出版設立
9
L
I
O
年 に地下活動 に従事 してい
当時か らギエ ドロイソの編集活動 に協力 を しているO グルジンスキは1
た として NKVDに逮捕 され ソ連の強制労働収容所で過 ご した経験 があるO
編集長であるギエ ドロイソが政治、特 に東側での問題 に対する西側の見解 に興味 を持ち始め、それ
が徐 々に編集者 たちや投稿者 たちに影響 を与えた。元 々、ギエ ドロイソは束 ヨーロッパ地域 に興味 を
持 ってお り、ポーラン ドが文化的、政治的に独立 し、民主化 されるためにはウクライナ、 リ トアニア、
B問題)が必要不可欠だとしていた (
La
z
ar
l
.
ベ ラルーシとの戦後の国境、
民族間題の解決 (
いわゆる UL
[
2
0
0
7
】
)
Oその考 え方 に賛 同 したのは、ギエ ドロイソの位 も重要 な協力者の うちの一人であ るユ リウ
J
u
l
l
u
S
ZMl
e
r
O
S
Z
e
WS
kl
)だった。 ミエ ロシェフスキは記者であ り、時事評論
シュ ・ミエ ロシェフスキ (
9
4
9
年か ら投稿 し続 けた。そ してポーラン ドを解放へ と
家で もあった。主に現代政治に関する記事 を1
導 く上で UL
B関越の重要性 を rクル トウー ラ」 で訴 えていた。
1
9
5
0
年代 か ら 「タル トゥ-ラ」 は政治的な要素 を含むようになった。例 えば、1
9
5
6
年 6月のポズナ
ンでの労働者 による暴動、そ してその後 ソ連の影響 を受 けず 自主的な路線で政策を推 し進め ようとし
たヴワデ イスワフ・
ゴムウカ政権 を、 「
タル トゥ-ラ」 は政治的に支持 している。ギエ ドロイツらの一
9
6
8年
番の活動 は、rクル トウ- ラJ をポーラ ン ド国内へ送付す る試み を行 ったことだったD さらに、1
9
7
0、1
9
8
0年代 に起 きたス トライキが共産主義か らポー
の 3月事件等 による亡命者 を援助 し、そ して、1
ラン ドを解放する との期待 を抱 き、rタル トウーラ」 を送 ることによって国内のイ ンテ リたちへの支援
を強めていった。 これ らの活動か ら、r
クル トゥ-ラ」 は徐 々に亡命先 における文化、政治的な横間 と
しての地位 を高めていった。他 に も、亡命国で様 々な雑誌が出 されているが、r
クル トゥーラ」 以上に
反共産主尭派 を支援す ることに興味 を示 さず,r
タル トウー ラJ とは反対 に国内へ雑誌 を送 り込むこと
に対 して横極的ではなかったo もちろん,地下出版 を通 して出版物 は国内へ浸透 していったが、r
クル
1
6
3
バ リ亡命雑技
け/
レトウ-ラ」に見るカティンの振耶件と戦後
関野 詩
(
-
トウー ラj ほ ど社会へ与 える影響 は大 きくなかった。西側諸国でのギエ ドロイツの外交的イニ シアチ
ブは、共産主兼圏内で社会が徐 々に変化 してい く中で重要な役割 を果た し、それは ノーベルrfを受光
したチェスワフ ・ミウオシュヤ レフ ・ワレサの活動 と同様 に、共産主義社会に大 きな影響 を与 えた。
r
タル トゥーラJ
Iはこの ように して、
西側諸国における主要 な東 ヨー ロッパの亡命雑誌 としての地位
を急速 に高めてい くとともに、東西対立の時代 における自らの反共産主義 とい う姿勢 を明確 に して
いった。 また同時に、ポ- ラン ド人亡命者 自身がポーラン ド人 と しての7イデ ンティティを表明する
0
0
0年 まで刊行 され
役割 も担 うようになった。 r
タル トウ- ラJ は、 イエ ジ・
ギエ ドロイツが亡 くなる2
た。現在では、r
タル トウー ラj は共産主義下のポ-ラン ドお よび近隣諸国の動向を知 ることがで きる
重要 な資料 となっている。
95
3年か ら、rビブ リオ
他にインステ ィチュー ト リテラツキ出版における代表的な出版物 と して、1
テカ ・クル トウ- リー (
Bt
b
L
1
0
(
e
h
oKL
L
l
h
L
r
y)
」 シリーズが、そ して1
9
62
年か ら、r
ゼシュテ ィ
ヒス ト
リチュネ (
Ze
s
z
yL
yHI
S
L
o
r
y
c
z
l
t
e
)
Jとい う季刊誌が刊行 され、 これは現在 も続 いている。
現在、イ ンスティチュー ト・リテラツキ出版は、 イエ ジ ・ギエ ドロイソの弟のヘ ンリク ・ギエ ドロ
イツ (
r
l
enr
ykGl
e
dr
oyc
)の下で,バ リに住むポーラン ド人たちとともに出版活動、運営 を続けている。
98
9年の非共産党政椎 の誕生,お よび1
9
91
年の ソ連崩壊以降は.上記の役割 を終 え、新
しか しなが ら、1
しい展望 を持 って活動 していることは言 うまで もない。
4
r
クル トウーラJ にお けるカテ ィンの森事件- 1947年 か ら1989年
9
47年か ら1
9
8
9年 にかけて5
07
冊 出版 された。その中か らカティン事件 に関する
r
タル トゥー ラJ は1
4本見つけることがで きた。 さらにそれを、(
1
1
一般向けの記事、(
2)
学術論文、(
3)
文学的作品、(
4)
記串 を3
沓評、 (
5)
声 明 ・読者か らの手紙 と、 5つのテーマに分類 した。各項 目では、 まず年代 ごとにどの よう
な記歩があるか簡潔 に紹介 し、次にそれぞれの記事 の内容 を検討する。
(
l
) 一般向けの記事
1
9
40年代では、2つの記事 を見つ けることがで きた (
Kr
z
er
nus
ki
.1
1
99
1
.Komar
nl
CkiL
1
9
481
)
。 どち
4
らもニユ)
レンベルグ国際軍事裁判 を題材 に した記事 であるが.その中でカティン事件の記述がい くつ
9
45年日月か ら翌年1
0月 まで開かれたこの裁判では、主に ドイツが戦争犯罪で敷かれた。
か見 られた。1
カテ ィン事件 に関 しては. ソ連が ドイツの犯行であると告発 したが、 イギ リスもアメリカもこの告発
に対 しては支持 をせず、結局裁判で この事件が扱 われることはなかった。一つ 目の記事の筆者は. ち
しこの裁判の結果の根拠 を究明す ると、ソ連の政治におけるボルシェビキ党、つ まりNKVDが犯罪組
銘 であったことが明 らかであると述べている。二つ 巨の記事 の筆者は、 カティン事件 については確か
に共相 を明 らかにすべ きと述べ、そ してこの犠牲者は罪人 とい う身分のため追い詰め られ ソ連の捕虜
となった者 たちであるが,全体的に見て犠牲者の大部分は罪の捕虜たちではな く住民なのだと強調 し
1
6
4
岡山大学 人学 院社会 文化科学研究科紀 賢?
,
2
87-(2
0
0
9l
l
)
ている。 さらに、ポーラン ドは第二次世界大戦 中で特に ドイツの侵攻 により犠牲者の数が一番多い国
0
0
万 にもなるが、これについてはニュル ンベルグ裁判では追及
で、強制収容所で殺 された人 々の数は7
されていない と強 く非難 している。
1
9
7
0
年 は, カテ ィ ンの森事 件3
0
周 年 で あ り. それ に開通 した記事 が載せ られ てい る (
KI
Cl
hsk】
.
[
1
9
7
0
]
)
O アルゼ ンチ ン在住の筆者 は、rタル トゥ- ラ」の編集長 イエ ソ ・ギエ ドロイソと交友があ り、
カテ ィン事件3
0
周年の追悼 として記事 の掲範 を依輯 したo筆者 はポーラン ド国内ではカティン事件 を
口にすることはで きないが、誰の犯行であるかは周知であると述べている。
9
7
8
年 の rクル トウー ラJ には匿名 ではあ るが興味深 い記事 を見つ けることがで きた
そ して、1
(
Anony肌 r
1
9
78
】
)
Oあるカ トビ ノツェのポーラン ド文学学会で、作家であるア ンジェイ ・ブラウ ンが、
ポー ラン ド国内での検閲の厳 しさ、特 にカテ ィン事件 に関する陳述への検閲について述べている。 ワ
ルシャワの USI
A(
Unl
t
edSt
at
e
sl
nr
or
mat
1
0nAgenc
y)の通信員、 ロン ペ ンシュタインがこのブラ
ウ ン氏の発表に興味 を持 ち、アメ リカ当局へ屯報 を打 ったOそれに対 し、ポーラン ド局のボイス ・オ
9
4
0
年に虐殺
ブ・
アメ リカはこのペ ンシュタイ ン氏 の'
r
i
K報 をいち早 く調べ、その中の、「ソ連によって1
は行われた」 とい う記述 を削除 した。 この一連 の出来事 を、 ワシン トン ・ポス トの ジャ ノク ・ア ンデ
ルソンが記事 に したO ボイス ・オブ ・アメ リカのポーラン ド局長代理の フェリ yクス ・プロニ ッキは
ペ ンシュタイ ンの報告 がア メリカとソ連の政治的 な相互関係 に危害 を及 ほす可能性 を感 じ、 ソ連 に
とって都合 の悪い記述 を削除す るとい う行動 に出たのであった。当時、共産王森下の国々と遠い,言
論の 自由を有するアメ リカでこの ような検閲が起 こ りえたのは、 ソ連に対する政治的な配慮か らだ と
思 われる。
(
2
) 学術論文
9
5
5
年 5月号では、1
9
4
0
年当時ポー
このカテゴ リーでは、筆者の体験や記録が中心 となっている。1
Kaz
l
ml
er
ZSkar
zy
f
l
S
kl
)が1
9
4
3
年の 6
ラン ド赤十字社の秘怨であったカジ ミエ シュ ・スカルジンスキ (
月に ドイツ等の指揮下で カテ ィンの森に赴 き、その時の印象 を沓 き記 している (
Skar
zy
hs
k
l
,[
1
9
5
1
】
)
.
ポー ラン ド赤十字社 は当時,ポー ラ ン ド総督肘の中で唯一ポー ラ ン ドによる主権が認め られていた組
織 であった。事件発光後、 ドイツ罪の命令でポー ラン ド赤十字社の中か ら代表で何人かが、 ロン ドン
亡命政府 には内密 でカティンの森-調査に行 ったCスカル ジンスキは まずスモ レンスクに行 き、それ
か らグニェズ ドヴオ駅か ら数キロ西へ行った ところにある発掘現場へ赴 き、そこで,週休や将校 たち
9
4
0
年春頃
が持 っていた身分証明苔や手樵等 を調査 した。遺体の状態や手紙の 日付等 を見て、虐 掛 ま1
に行 われた と彼は確信 したのであったO守
皮の調査結果はポーラ ン ド亡命政肘や連合国にとって価値の
あるものであったが、 ドイツはこの報告啓 をプロパガ ンダに利用 し、そ して連合国 とソ連 との衝突 を
期待 した。 しか し、スカルジンスキは ドイツに協力することを拒否 し、 さらに戟後、共産主義者の下
Tymc
za
s
owyRz
a
y
dJ
edno畠
cINar
odo
weJ
)との協力に も応 じなかった。
で成立 した挙国一致臨時政府 (
1
6
5
/
(
リ亡命雄は r
タルトウーラJに比るカティノの軒J
Hf
ト
と峨 後
閑野 蒜(
一
共産主義下のポー ラン ドで彼の報告番 はソ連に とって都合が悪 く.スカルジンスキは身の危険を感 じ
1
9
4
6
年 5月にロン ドンへ亡命 した。そ して、その報告杏 はポーラ ン ド亡命政府 に、つ まり西側諸国に
提 出 された。
1
9
7
0
年 5月にヴワデ イスワ7 .ア ンデルス (
Wl
a
d
y
s
l
a
wAn
d
e
r
s
)将軍が亡 くな り、彼 を追悼 した特
別号 が 出版 され た。 その特 別号 で ア ンデ ルス将軍 の イ ンタビュー記事 が掲載 された (
Sl
e
ma
S
Z
k
o
.
】
)
O イ ンタビューは 1
9
6
7
年 7月に行われてお り、この中で ア ンデルス将軍はカテ ィン事件に関わ
L
1
9
7
0
9
3
9
年 9月の時点で 1万人以上の将校たち
るポーラン ド人将校 について興味深いことを語 っている。1
が ソ連軍の捕虜 とな り、3つの収容所 に送 られたのは周知の事実であるO後 にア ンデルス将軍が知 っ
たことなのだが、 ソ連罪はポー ラン ド人将校 に対 して戦争が終わった後 どこに行 きたいかとい うア ン
ケ- トを行った とい うのである。選択肢は 3つあ り、その うちの一つを選ぶのだが 、 1つ 目は 「ポー
.2つ 目は 「中立国へ行 く」、そ して 3つ E
=ま 「ソ連に留 まる」であったO将校の大部
ラン ドへ帰 る」
分は 2つ 目の 「中立 国へ行 く」 を選んだそ うであるo数少 ない将校が 「ソ連に留 まる」を選び、そ し
て彼 らはモスクワのル ビヤ ンが へ送 られたのだった。つ ま り、3つ 目を選んだ者たちは虐殺か ら免れ
たとい うことである。
1
9
8
9
年 に は、 国際 法 にお け る カテ ィ ン事 件 に対 す る国 の安 任 につ いての記事 が沓 かれてい る
(
Ma
r
e
k
,
r
1
9
8
9
】
)
。雛者 はカテ ィン事件 におけるソ連の安住 とは何か、そ してそのff
任か らとの ような
影響が及ぶか を分析 しているoニュル ンベルグ裁判では扱われることはなかったが、ソ連の国際的な
fi
任は権 限のある裁判 を過 して審理 される必要があるO筆者 は、 カテ ィン事件におけるポーラン側の
行動 と しては懲罰 を与え、婚約 を得る以外 に要求するものはない と結論付 けているO この記事が掲載
9
8
9
年 には、 まだこの種の批争犯罪 を裁 く常設の国際司法権関はなかったが 、1
9
9
8
年に国際刑
された 1
部裁判所が設'
Bされたので、
T
カティン事件が今後国際的な場で審議 され ソ連の戦争犯罪が追及 される
ことになるか もしれない。
9
3
9
年 9月にス タロピエスルク収容所 にいた元兵士の回顧録が掲載 されて
上述 の記事 と同 じ号に、1
Gr
e
l
a
.
L
1
9
8
9
】
)
。筆者 は1
9
3
9
年 8月に兵卒 として徴兵 され、ドイツ罪侵攻の際に戦闘に参加 し、そ
いる (
して ドイツとソ連 との国境近 くで ソ連軍の捕虜 とな り、ス タロビエルスク収容所へ送 られたO収容所
での 日々の生活を綴 っている.収容所 には筆者のような兵卒だけではな く、
将校や督察官 もいたが、
一
時、 ソ連軍人が兵卒たちだけに政治に関す る講義 を行 った りしていた。兵卒たちにはいつか解放 され
ると話 していたのに対 し、将校や昔察官たちへは死ぬ まで働かせ るとい う言動を耳 に したと筆者は思
い起 こ しているo さらに、繁者 は ソ連兵に よるポー ラン ド人将校 の処刑 を目に した という。これはfi
重 な証言 だ と言 える。 2週間のス タロビエルスクでの滞在の後、収容所 を出て西に移動することにな
り、その際 に見張 りの隙 を見て列車か ら脱出 したのであった。
∼NKVD.後の ノ逆臣1軟保I
i
h
<委 i
i
会K
GB本部がある地と
J
oそこには刑席所もある。
1
6
6
剛 山大学大学 院社 会文化科学研究科紀要 節28
号 (
2
0
(
相1
1
)
(
3) 文学的作 品
J
6
Z
e
fCz
a
p
s
kl
)氏の沓いた記事がい くつかある。チ ャブ
この カテゴリ-では、ユゼ 7・チ ャブスキ (
スキは1
9
3
9
年 9月にソ連軍の捕虜 とな りス タロビェルスク収容所-送 られたが、奇跡的に銃殺刑 を免
れたOそ して,1
9
41
年 7月の ソ連 =ポー ラン ド協定によ り解放 され、その後、アンデルス将軍指揮下
の在 ソ=ポー ラン ド人部隊に入 り,行方の分か らないポーラン ド人将校 たちの捜索 に携 わっていた。ま
ず一つ 目は1
9
5
6
年 4月号である
(
Cz
a
p
s
k
l
11
9
5
6
1
)。 フルシチ ョフのス ター リン批判か ら 2ケ月後であ
り,ポー ラン ドは文化、社会、政治において 「
雪解け」の時期 を迎えていたOその最中でチ ャブスキ
は、 ソ連の中でカテ ィン事件の真相の解 明をいち早 くすべ きだ と強 く主張 し、 さらにカティンとい う
名前 は将校虐殺 の悲劇の シンボルであ り、 コジェルスク収容所以外の 2つ収容所か ら行方の分か らな
くなった将校たちをいち早 く捜索すべ きだと述べている4
。実際 、1
9
9
0
年にゴルバチ ョフが公式に罪 を
認めるまで、 ソ連が真相 を語 ることはなかった。二つ 目は、1
9
6
2
年であ り、チ ャブスキ自身が 「
非人
Cz
a
p
s
k
l
,
[
1
9
6
2
】
) とい うソ連の捕虜だった時の 自身の回顧録第二版 を出版 した際に寄稿
間的な地で」(
した記事 であった
(
Cz
a
p
s
k
l
.
r
1
9
6
2
1
)。 この記事で、ソ連の作家でス ター リンの死後 ソ連で顕著になっ
た社会の 自由化の雰囲気 を反映 したイ リヤ ・エ レンプルグの 「
雪解 け」について若干論評 している50
さらに、ドイツに罪 をきせたことはソ連の器用 な戦略であるとしている。チ ャブスキをは じめ、rクル
トゥー ラJ の編集者たちは、 ソ連 との関係修復にはソ連が過去の認識 を改 めることが第一条件である
と主張 している。
その他 に、1
9
6
5
年 3月号では、ス タニスワフ ゴス トフスキ (
St
a
n
l
S
l
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wGo
s
t
o
ws
k
l
)が実体験 をもと
に記事 を番 いている
(
Go
s
t
o
ws
k
l
.
【
1
9
6
5
1
)。 ゴス トフスキ氏 は大戦中 ドイツ軍の捕虜であ り、1
9
4
3
年4
月に ドイツ軍の命令で軍人捕虜の代表 としてカテ ィン-赴いたO彼 は当初か らある一つの疑いを持 っ
ていた.1
9
4
2
年の時点で ドイツ軍によってすでに将校たちの遊休が発見 されていたのにもかかわ らず、
公表 したのはなぜ翌年 1
9
4
3
年 4月だったのであろうか。筆者 は、 ヒ トラーがスター リンと連携 した く、
そのためにはカティンでの遊休の発見が、今後の交渉において障害 となるか もしれなかったのではな
いか と推測 している.ドイツのゲ ノベルス宣伝相が カテ ィンの森で約 1
1
0
0
0
人の避体 を発見 したと公表
した とき、実際 ドイツはさらにソ連領内で殺害 された多 くの将校の数 を知 っていた。 しか し、発掘 さ
れた遊休の数 はかな り少 な く、 ドイツは ソ連 に全 ての犠牲者 に対 して安住 を取 るべ きだと考えていたO
当時オスタシュコフ収容所 とス タロビエ J
L
,スク収容所 については内密 にされていた。
1
9
7
6
年1
1
月に再 びユゼフ ・チ ャブスキが記事 を出 し、そこで イギ リスのカテ ィン慰霊碑の除耕式で
9
91
年になっ
当時、まだオスタシュコフ収容所、スタロビェルスク収容所にいた将校たちの処刑現場が見つかっていない。1
て埋群場所が発見され、発掘作菜が始まった。
「'
j鰍 ナ
」という言柴は、ノ避 東欧諸国の歴史において1
9
5
6年以降の一時期をさしており、由来はイリヤ エレンプル
,
グ
著のタイトルからきている。エレ/プルグは,スターリンの韮非は共産主務者のエリートの中で行われた別約であるとf
L
r
い
ているが、カティンZ
J
L
件はそれとは訳なり、犠牲者の数や枕計にl
瑚しては文廿が公にされていないのでスターリ/の犯罪と
いう前提で検討するのは稚しいと述べている。
1
6
7
パリ亡命連語 r
タルトゥーラ)に見るカティンの凍耶件と取扱
岡野静子
の、イギ リス政府 に対 して批判 している (
Cza
ps
kl
.[
1
9
7
6)
)
。慰霊碑に 「1
9
40年」 を刻 むことにイギリ
1
9
4
0年」を入れるとい うことは、
ス政府 は牡色 を示 し、そ して除幕式に も出席 しなか ったのである。「
イギ リス仰I
が公式に ソ連の犯行だ と認め ることになる。冷戦 により緊張が続いている中で、 イギ リス
はソ連 に刺激 を与 えないためにこのような姿勢 を示 したのである。何 よ りもソ連 自体、そ してポーラ
ン ド政府 も慰霊碑 を作 ることに反対 していた。当時すでにザポ ドニー、 フイ ソツギボ ンなどが文献を
出 しカテ ィン事件の事実 を明 らかに しているのに、 イギ リス政府 はそれ らの文献、そ して事件の真相
を知 らないはずはない と、チ ャブスキは強 く批判 している。
(
4) 沓評
r
タル トウ- ラJの中で一番 カテ ィン事件に関する記事が多 く見 られたのは昏評であった。1
9
40年代
9
49
年 8月号では、rカテ ィン事件の記録一序章 ヴワデ イスワ7.
には 2冊 の本が紹介 されている。1
ア ンデルスよ りJ(
Anonym.r
1
9
48】
) について ヴラガが沓評 している (
Wr
a
ga
,t
1
9
49】
)
。 この本は1
9
4
8
年 にロン ドンで出版 されているが、
評者は戦 後 まもな くに もかかわ らず限 りある資料 を隈な く調べ、
充
実 した内容になっていると高 く評価 している。 さらに、使 われた資料のほ とん どは原本であ り、その
おかげで調査結果 を主観的に公表することを避 け られたのではないか と述べているO もう 11
馴 ま. ソ
連罪 に よる逮捕,連行,強制労 肋 を趨材 に した本 に関す る世評 で、 同 じくヴラガが寄稿 してい る
(
Wr
aga
.1
1
94
7
】
)
。
1
9
50年代 では、 まず 「カティンの リス トー ソビエ ト ロシアで行方不明になったコジェルスク,ス
タロビエルス ク、オス タシュコフの捕虜たちJ(
Mo
s
zyhskl
,r
1
9
49】
)について レビエ ジェフスキの杏評
がある (
Lebl
e
dz
l
e
Wkl
,
(
1
9
50
】
)
。 この本は、1
949年 にロン ドンで出版 されてお り, 3つの収容所で殺害
0
0人、オスタシュコフで約 1
3
0
0人、ス タロビエルスクで約3
00 人)ポー
された (コジェルスクで約52
ラ ン ド人将校の名前、生年 月E
l
、敬菜 などを記 している。評者 は、この本の情報源を高 く評価 してい
9
41
年 に在 ソ=ポー ラン ド人部隊の指揮官の下
る。 まずは.行方不明の将校たちの リス トで、 これは1
で、そ してその何年後かに在中東 =ポー ラン ド人部隊の指揮官の下で さらに詳 しい資料 を集め作成 さ
9
43年に ドイツで出版 さ
れた。 いずれの倭関 も虐殺か ら逃れた者たちか らの情報 も得ているO次に.1
れた r
カテ ィンにおける大盃虐殺 に関する公式資札 l(
Mat
er
i
aL1
1
9
43Ⅰ
)であるが,これは事件発光直
後の調査報告であ り、週休の数 に関 しては比較的信.
1
g
!
性 があると評価 している。そ して次の情報源は、
カテ ィンの森で発掘作業 に携 わったポー ラン ド人か らの証言である。
95
5年 には r
戦争の歳 月] (
Go
et
e11
1
95
5)
)についてヤ シンナ クの沓評がある (
Ja
s
l
ef
l
c
z
yk.
さらに、1
(
1
9
55]
)
。 ゴエ テルは、1
9
43年にポーラン ド人で初めてカテ ィンに行 き、遺体発掘現場 を見た人物であ
る。
1
96
0年代 には、1
9
6
5年ニュー ヨークで出版 された r6時3
0分で止 まった時間 知 られていないカテ ィ
ン事件 よ りJ(
WL
t
t
l
l
nL
1
9
6
5]
)についてのザモルスキの沓評 (
Zamor
s
kLL
1
9
6
6)
)と,1
9
66年バ リで発行
1
6
8
阿山大学大学 院書t会文化科学研究科紀 要那2
81
3
-(
2
00
911
)
された r
カテ ィンの虐殺」 (
Mo
nt
f
o
r
t
.t
1
9
6
6]
)へのチ ャブスキの昏許がある (
Cz
a
p
s
k1
.日9
6
6]
)
。後者の
本については、特にカティン事件 をフランス側の視点か ら見た特徴 を述べている。
1
9
7
0年代 にはカテ ィン事件に関する沓評はな く、1
9
8
0年代 に 2つの番評がある。 1冊 Eは r
痕跡の
保全](
Odo
J
e
WS
ki
.
1
1
9
8
4J
)で、1
9
8
4年にバ リで出版 され、1
9
3
9年の ソ連軍侵攻、ポー ランド人移送、収
Br
oh
s
kl
.【
1
9
8
5
】
)が行っている0
容所、そ してカテ ィン事件 について暫かれている。沓評はプロンスキ (
2冊 目は1
9
8
8
年 にロン ドンで出版 された rカテ ィンの剰 (
Swl
a
t
e
k
.r
1
9
8
81
)で、 シフイアニエ ピッチ
SwL
a
n
l
e
WI
C
Z
,r
1
9
8
9
】
)
o著者 は1
9
5
0年か ら1
9
5
6
年 まで ソ連内の収容所 にお り、その時に
の杏評がある (
カティン事件が囚人の中で密かに話題になっていたと番いている。 この文献の昏評 を投稲 したシフイ
アニエ ピッチは、 カテ ィン事件か ら奇跡的に生還 している事件の生 き証 人の一人である。 シフイア二
エ ピッチは、 この記事の中で西側諸国で出版 されたその他の カテ ィン事件 に関する主要な文献 を列挙
し、内容 を短 く紹介 している。
1
9
47
年か ら1
9
8
9年 までの啓評で、全ての評者 は、 カティン事件 はソ連の犯行によるものだと述べて
いる。つ ま り、西側諸国では事実 を隠すことな く自由に見解 を示せたとい うことが明 らかである。
(
5
) 声明.読者か らの手紙
1
9
6
4年 にユゼ フ ・チ ャブスキが抗議の手歓 を出 している (
Cz
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1
9
6
41
)
oある本の中で、「オス
タシュコ7,ス タロビェルスク収容所の囚人たちが カティンで殺害 された」とい う記述があった。チ ャ
ブスキ氏 はこれに関 し、 カティンで殺害 されたのはコジェルス ク収容所 にいた者たちであるとしてい
る。 オス タシュコ7、ス タロビエルスク収容所 にいた者たちが どこで殺害 され、埋 め られたのかはそ
の当時では まだ分かっていなかった0
1
9
8
0年 の 5月号 で社 会 自衛 委 月 会の声 明 が 出 され た (
Ko
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)
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8
0年はカテ ィン事件4
0
周年であるが、 まだオス タシュコ7、ス タロビエルスク収容所か ら
連れ出 されて殺害 された将校 たちの人数、そ してその遺体が どこに埋め られているか も分かっていな
い。 さらに、 ソ連は まだ ドイツの犯行だ と主張 していた。社会 自衛委貝会はこの声明で、 カテ ィン事
9
3
9年 9月1
7日以降のポーラ ン ド人市民に対するソ連
件の異相の解明 を求めただけでな く. さらには 1
の犯罪 をも明 らかにするとともに,裁 きを与 えるべ きだ と要求 している。
同 じ号 に、
事件4
0
周年の追悼 として上記 とは輿 なる声明 も出されている。3
2
人の ロシア人が「カテ ィ
ン串件 を決 して忘れることな く、そ していち早 くソ連が罪 を公式 に認めることを求める」 とい う声明
に著名 している。
5.r
クル トウーラJ とカテ ィンの森事件 との関 わ り
(
l
) ユゼ 7 ・チ ャブスキ
ユゼ フ ・チ ャブスキ (
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)は、 インスティチ ュー ト リテ ラツキ出版での編典者の うち
1
6
9
バリ亡命雑誌 r
クルトゥーラ」に貼るカティンの在●
l
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と戦 後 l
叫野蔚/
の一人であるとともに画家 として も知 られている。前述の とお り、第二次世界大戦が始 まるとす ぐに
動員 され、その後 ソ連軍の捕虜 とな りスタロビエ ルスク収容所へ送 られた。そ して奇跡的に虐殺か ら
9
41
年 7月3
0日に調印 された ソ連 =ポー ラン ド協定による特赦で解放 された後、再 び軍隊
生 き残 り、1
に入 り、 ソ連軍によって移送 されたポーラン ド軍将校たちの行方の捜索 にあたっていた。編集長のギ
エ ドロイソとは、戦時中ポー ラン ド軍のイラク滞在中に出会い、約半世紀束の友人で もある。戟後、パ
9
9
3
リに移 り、ギエ ドロイツ らとともにインステ ィチュー ト・リテラツキ出版 を立 ち上げ,亡 くなる1
年 まで編集者 として従事 し続けた。 rクル トゥ- ラ」- は、 カテ ィン事件に関する記事だけではな く、
様 々なジャンルをテーマに寄稿 している。 カテ ィン事件 に関する記事は前述の通 りである。
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【
1
9
6
21
)は、 イ ンステ ィチュー ト・リテラソキ出版によっ
彼の代表作、 r
非人間的な地で」 (
て1
9
4
9
年 に出版 された。そ して、第二版は rビブ リオテカ クル トウ- リー」 シリーズ7
6
号 として1
9
6
2
年 に出版 されている。チ ャブスキは、1
9
3
9
年 9月の ソ連軍侵攻 によって捕虜 とな りス タロビエルスク
9
4
2
年か ら1
9
4
7
年にかけて、 ソ連軍
収容所へ送 られたが、虐殺 は免れることはで きた。 この世籍は、1
の捕虜生活、後に解放 されアンデルス将軍 と共に行方不明の将校 たちの捜索に従事 した筆者の回顧録
であるO カテ ィン都件 については全 く触れず、さらに将校 たちの行方の調査報告 も沓かれてお らず、こ
れは筆者が一ポー ラン ド人 として考 え方や洞察力 をふ まえて、ソ連で どう過 ご し、
生 き残 ったかを語 っ
9
8
2
年に地下で出版 されている.
ているものであるO ポーラ ン ド国内では、1
(
2) ス タニス ワフ ・シフイア二エ ピッチ
スタニスワ 7・シフイア二エ ピッチ (
St
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aw Swl
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CWl
C
Z)は、峨前 よ りドイツとソ連の経済比較
について研究に従事 し、 ヴイ1
)ニュスの大学で教鞭 を執 っていたO第二次世界大戦が勃発するとす ぐ
に軍隊に召娯 され戦闘に参加 したが、 ソ連軍の捕虜 とな りコジェルスク収容所へ と送 られた。1
9
4
0年
4月頃か ら、収容所 にいた仲間が次 々と移送 されて (
処刑 されて)いた中, 4月2
9日にシフイアニエ
ビ ノチ も移送 されることになったO仲間たちが カテ ィン近 くの グ二ェズ ドヴオ駅で列車 を降 り、車で
移送 されてい く中で、彼だけが列車 に留め られ処刑 を免れた。彼の研究の専 門が ドイツとの関係にお
いて ソ連 に とって役 に立つ とみ なされ、生 き残 ることがで きた と考え られているOその後、J
L
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ビャン
9
41
年 7月3
0日に調印 された ソ連 =ポーラン ド
カそ して収容所 を転 々 とした後、チ ャブスキ と同様 、1
9
4
2
年 4月に解放 され タイ ビシェフU
の在 ソ連ポー ラ ン ド公使館 で勤務
協定の特赦 に よ り解放 され、L
St
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)大使 と共 にクイビシェフを去 った.戦後はロ ンドン
し、後にス タニスワ 7 .コ yト(
に住み、在外研究 として イン ドネシア、アメリカ、 カナダで再 び教襟 を執 った。
9
4
8年 よ りギエ ドロイツとの手紙のや り取 りか
シフイアこエ ビ ノチ と rクル トゥ- ラ」 の関係 は、1
と
叩き
、/
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ソ連ポーランド公岨輔があっt
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5
句から1
9
9
0
1
ドまでこの郎市はタイビンエフと呼ばれていたが、現在はサマー
ラという名称に変わっている。
1
7
0
ら見ることがで きる。1
9
4
8年 2月のギエ ドロイソか らの手歓 には. シフイアニエ ピッチが カティン事
件 を種族 していること、そ して ソ連の経 済 .政治事情 に頼通 していること等 を挙げ, r
クル トウ-ラJ
への協力、寄稿 を依頼 している7
0その後、シフイア二エ ビ yチは亡 くなる1
9
9
7
年 まで頻う
削こギエ ドロ
イソと手紙のや り取 りを し、情報交換、論文投稿等で r
クル トウーラ]運営に協力 を している。
前述の とお り、「
タル トウーラ」 の1
9
5
0
年 2.3月号で レビエジェフスキが r
カテ ィンの リス トー ソ
ビェ ト・ロシアで行方不明になった コジェルス ク、ス タロビエ)
レスク、オスタシュコフの捕虜たちJ
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9
1
)の沓評 をしているが、これは仮名を使 って シフイア二エ ピッチがむいたものであ
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9
年1
2月の シフイアニエ ピッチか らギエ ドロイツへの手掛 こ、「
家族の
る (
安全のために自分の名前 は-切伏せてほ しい」と記 されているB
. シフイアニエ ピッチ とい う名前が出
て しまうと、ポーラ ン ドB]
内にいる家族 にソ連警察の手が伸 びることを恐れたためである。
1
9
7
6
年 にイ ンステ ィチ ュー トJJテラツキ出版 よ り彼の著啓である r
カティンの閣」(
Swl
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WICZ,
【
1
9
7
61
)が出版 されている。 この文献では、シフイアニエ ピッチが ソ連の捕虜であった時の回顧録、そ
1
9
8
9年にカテ ィン事件に
して 自身が見た カテ ィン事件について沓かれている。 r
タル トゥ-ラJでは、
関す る世評 を寄稿 している (
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【
1
9
8
91
)
。
(
3)
r
クル トウー ラ」 とカテ ィンの森事件
rタル トウー ラ」 は上述の通 り,国外 にいるポー ラ ン ド人だけではな く国内にいる人々にとって も、
社会 ・文化 ・歴史におけるポー ラン ドとい うアイデ ンテ ィテ ィを再確認す るための収 も重要な雑誌で
あったことには間違いない。 rクJ
L
,トゥーラ」 はパ リで発行 されたが、
唯一ポーラン ドへ送 られた雑誌
であ り、特 にインテ リたちの間で読 まれていたO例 えば、イエ ジ ・ギエ ドロイツはクラクフのヤギェ
ウウオ大学付属図番館へ r
タル トゥ-ラ」 を送付 した と言 われてお り、特別の研究者だけが手 に取 る
ことがで きたo 当時、共産主我勢力はそこまで検 閲 しなか った。 さらに、非合法的な経路ではあった
が、一部の一般人の間で も読 まれるようになった。そこか ら、人々は今 まで詳細不明であったカテ ィ
ン事件 の事実 を知 ることがで きたのである。
戦後、 カテ ィン事件の文献は西側諸国で多 く出版 されてお り、その杏評等が r
クル トゥーラJが掲
範 されている。 国内では事件 を口にで きない状況下で も、イ ンテ リたちによって rクル トウーラ」が
読 まれ、事件に対する西側諸国の動向を知 ることがで きたのであるO また西側諸国に対 しては、たと
えば前項で記 した 2名が、事件の 目撃者 としての彼 ら自身の体験 を rクル トウー ラ」で公表すること
で、 カティン事件 に対する西側諸国の人々の認識 を深め させ る役割 を果た した。
71
948
年 2月2
4E
l
付、イエソ ギエドロイノからスタニスワフ シフイ7二エビノチへ。
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9
4
9
年1
2
月3
0日付.シフイ7二エビソチからギエドロイツ-a
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J亡命雑誌 r
タルトウ-ラ」に見るカティンの森g
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件と戦後
岡野詩子
6 おわ りに
本箱 の分析 を通 じ、次の点が明 らかになった
(
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,トウーラJ は、文芸誌であ りなが ら、 カテ ィン事件 を頻繁 に取 り上げてお り、学術的にも
資料的に も価値の高い情報 を提供するとともに、 自由にこの問題 を語 ることがで きる場 となってい
たことが,全号 をチェ ック してカテ ィン事件関連の文献 をピックア ップすることで改めて確認 され
た。
r
タル トウー ラJ が国内外で影響力 を持 った理 由として、それがポー ラン ドの知性 と教葦 を代表
(
2
)
す る著名な執筆陣に支 え られていたこと.国内のポー ラン ド人 と亡命ポーラン ド人の同胞 としての
アイデ ンテ ィテ ィを確認す る場 として広 く認知 されていたこと、創設者、編集者の経歴 と人脈が雑
誌の性格 と質に大 きな役割 を果た したこと、ポーラン ド国内に大患に送 り込 まれて国内的にも認知
皮が高かったこと、著名 な知識人や文化人 を推 した文芸誌 とい うスタンスを崩 さなかったことによ
り、単 なる反共宣伝の政治雑誌 に陥 らず、ポーラン ド人の知性 と不屈の意思の発露 とい うレベルで
の謙論 を維持することがで きたこと,等 をあげることがで きる。
r
(
3
) タル トウ-ラJ では度 々カテ ィン事件の記臥 文献 を取 り上げているが、年代別に見ると、8
0
年
0本の記事が掲載 されているC そ してその中で、特 に1
9
8
9
年に集中 している。 この
代が一番多 く、1
ことは、国内の政治動向、国民運動 と密接 に連動 していたことを示 している。
Ir
クル トウーラJ に掲載 されたカティンi
T
l
件 についての記串の多 くは,
筆者 自身の回顧録やむ評で
(
J)
あった.昏評 は、西側で発行 された資料や文献 になかなかふれることので きないポーラン ド国内の
人 々にとって,外国の研究の一端 を知 る貸重 な惰報源で もあった。
(
5) El
内の地下出版での議論が、 カテ ィン事件の詳細や虐殺 された将校 の特定などに関心 を向けてい
くのに対 し、r
タル トゥ-ラ」誌上での議論 は、西側の研究動向を伝 える、西側政府がこの間題 を政
治的に処理 しようと した ときそれを批判する、現代の国際関係 史の中でこの間題 をとらえようとす
る努力がなされた、等の点で特徴が見 られた。
(
6)
r
タル トゥ-ラJ は、国内では公表することが難 しい体験者の回想録や、事件の真相 に迫る宰直な
意見 を掲載 してお り、 この事件 を解明 しようと努力す ると同時に、事件 を風化 させず世界に訴え説
けるとい う大 きな役割 を果た した。
文献一覧
rタル トウーラj に掲載 された文献
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「カテ ィンの亡霊 」
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