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Page 1 京都大学 京都大学学術情報リポジトリ 紅
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「サアムシニーグSomething」を描く : 陳澄波(一八九五
∼一九四七)とその時代( Abstract_要旨 )
李, 淑珠
Kyoto University (京都大学)
2005-05-23
http://hdl.handle.net/2433/144438
Right
Type
Textversion
Thesis or Dissertation
none
Kyoto University
【2】
氏
名
リ
シュク
シュ
李淑
珠
学位の種類
博 士(文 学)
学位記番号
文 博 第 325 号
学位授与の日付
平成17年 5 月 23 日
学位授与の要件
学位規則第 4 条第1項該当
研究科・専攻
文学研究科思想文化学専攻
学位論文題目
「サアムシニーグ(Something)」を措く
一陣澄渡(一八九五∼一九四七)とその時代
(主 査)
論文調査委員 教 授 岩 城 見 一 教 授 中 村 俊 春 教 授 根 立 研 介
論 文 内 容 の 要 旨
本論文は,台湾近代美術を代表する洋画家の一人,陳澄渡(1895−1947)の画業の特色を,植民地時代とVlう歴史的コン
テクストを考慮に入れつつ,詳細な作品分析をとおして明らかにしようとするものである。近年この画家は,「祖国愛」の
画家として語られ理解されている。この場合祖国とは,「郷土台湾」と「祖国中国」の両方を指すが,とりわけ後者が強調
され,中華民国の国旗「青天白日満地紅」を措く≪慶祝日≫(一九四六)や,画家自身の言葉「清に生まれて,漠に死にた
い‡生於前清,死於漠室i」(一九四五)がその根拠として挙げられている。だが,この言説は戦後を基準に形成されたもの
であり,特に台湾「光復」直後の政治情況を根拠にするため,ある種の偏りを伴っている。論者は,この言説によって,戦
前の陳澄渡の絵画の特色が軽視または無視されることになったと考える。
このような現在の一般的な理解に対して,論者は,戦前の≪私の家庭≫や≪日本二重橋≫といった作品に注目する。前者
は画家の最初の遺作展(一九七九)では展示されず,図録に掲載された図版にも修正が加えられ,「プロレタリア絵画論」
という文字が削られた。論者によれば,この「プロレタリア」の六文字こそ,当時の政治情況からして,く宅私の家庭≫の公
開展示の妨げとなったものであり,それにもかかわらず,この事実は陳澄渡の祖国愛言説では一度も言及されることはなか
った。論者は,≪日本二重橋≫に関しても,主題の「皇居」が「日本名勝」としてしか語られてこなかった点に疑問をもつ。
戦前に「皇民化」が浸透していた台湾人には,皇居は,額づき,脆拝すべき対象になっており,またいわゆる「大東亜共栄
圏」の心臓部でもあったからである。論者は,戟前と戟後の皇居の全く異なる意義を指摘し,従来の言説の偏りを批判する。
しかも論者は,そのような誤った言説が,この作品の,一九ニセ年と推定されてきた制作年と関わると考える。また論者は,
≪私の家庭≫の制作年(一九三一)にも疑問を呈し,これら両作品の制作年代と制作動機とに詳しい考察を加える。特に注
目すべきは,植民地台湾画壇も日本画壇の「彩管報国」に追随し,台湾人画家が在台日本人画家と共に「聖戦美術」に取り
組んでいたことを,資料に基づく詳細な考察をとおして明らかにした点である。この考察により,≪日本二重橋≫の制作背
景や,台湾には「戦争画」がなかったという,従来の言説の問題点が明らかにされた。
また,論者は,祖国愛言説の形成経緯,とりわけ謝理法と顔蠣其の果たした役割に注目し,その思想的背景を明らかにし
た。すなわち,論者は,両者の言説形成における「二二八事件」の捉え方の特性を解明し,また戒厳令解除後に,現代の画
家が「陳澄渡之死」を画題にすることで,陳澄渡の祖国愛イメージが完成されたことをあとづける。これに対して論者は,
≪私の家庭≫≪日本二重橋≫≪慶祝日≫は,互いに相容れないイデオロギーを含みながら,画家の創作理念「サアムシニー
グSomething」,すなわち,その都度,与えられた現実を真聾に作品化する(「世の中を写実的に描く心i社会写実的情
懐㌻」を大切にする)という画家の基本的姿勢に基づいて作品化されたものだと主張する。
本論文は以下のように構成されている。論者は,第一章において,現行の陳澄渡年表,すなわち画家の基本データを再検
討し,その不正確な点や未確認部分を正すため,画家自筆の三つの履歴書に基づき,それぞれの記入における矛盾を検討・
調査・考察した上で,各履歴書に隠された「現在」と「未来」を明らかにし,陳澄渡のより正確な「過去」の復元を試みる。
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これは,台湾在住の,画家の遺族のもとに何度も調査に訪れ,所蔵される遺品全体を,詳しく整理分析した結果得られた重
要な研究成果であり,すでにこの章は,台湾において雑誌に掲載され,陳燈波研究の基礎資料になっている。この詳細な資
料の分析により,これまで想定されていた≪私の家庭≫と≪日本二重橋≫の制作年の誤りも明らかにされた。画家の年表,
画家所蔵の作品図版(雑誌切抜も含む),絵葉書,書簡等が,細かく整理され表にされ,貴重な参考資料となっている。
第二章では,陳澄渡の祖国愛イメージが検討される。論者はまず,祖国愛言説の形成経緯を整理し,二二八事件の影響や
台湾の戒厳令解除(一九八七年七月十五日)以後行われてきた二二八の記念行事,とりわけ二二八美術に現れた「陳澄渡之
死」という主題による,画家の死の昇華を指摘する。また論者は,祖国愛イメージの最も有力な根拠とされる「清に生まれ
て,漠に死にたい」という発言や,≪慶祝日≫を,「光復」直後の台湾社会の状況や,第一回省展の出品作などに照らして
検討した結果,このような発言や「国旗」の書込みは,当時のいわゆる「光復熟」の産物であったことを明らかにする。画
家の制作理念が政治的動向の中で変化することをあとづけた点で,注目に催する指摘である。
続いて,論者は,祖国愛言説の偏りを論証するために,第三章において,蛋私の家庭≫と≪日本二重橋≫の詳しい考察を
行う。第一節では,「一九三一年」という≪私の家庭≫の制作年が「推測」であったことが主張され,措かれた手紙の「封
筒」の「署名」を手掛かりに『プロレタリア絵画論』が出版された「一九三○年」が,より信憑性の高い制作年代として呈
示される。論者ほ,これを裏付ける新資料も合わせて提出している。第二節では,論者は,叢書『新芸術論システム』全二
十巻に属す『プロレタリア絵画論』の選択について考察する。その結果,論者は,直接プロレタリア運動に参加しなかった
画家が,この雑誌を作品のモチーフの一つとして描いたのは,プロレタリア運動における「階級」という思想が,植民地社
会に生きる陳澄渡の心を捉えたのではないかと推定する。論者は,前田寛治のプロレタリア的絵画,≪棟梁の家族≫(一九
二八)の,≪私の家庭≫の画面構成や主題選択への影響も示唆している。
第三章第三,四節では,論者は,≪日本二重橋≫が台湾の学校に掲げられ「敬礼」を受けていた可能性,そして署名にあ
る「謹写」という二文字から,その主題が,日本の名勝を措いた単なる「風景画」ではなく,「聖戦美術」の性格,つまり
「御真影」として機能していたと推定し,また,この推定を補強するものとして,「一九ニセ年」とされてきた制作年も,画
家の家族宛の絵葉書などに基づき,戦時下の「一九三九∼四○年」だと判断する。更に,論者は,制作背景,すなわち日本
戦時体制下の台湾画壇の状況を第五節で取り上げ,日本画壇の「彩管報国」に追随した台湾画壇の動向を明らかにする。例
えば台展が府展に改組し「美術報国の第一線」として新たなスタートを切ったこと,台陽展が「皇軍慰問室」を設置したこ
と,台湾聖戦美術展などが開かれていたことなどが当時の資料の検討をとおして解明される。
当時府展に出品された「時局物」,とりわけ台湾人画家の措いた作品は,戦後には「題名だけ」という理解しかされず,
≪日本二重橋≫と同様,「単なる風景画」として語られ鑑賞されてきた。これに対して論者は,第四章において,植民地台
湾の「聖戦美術」を考察する。第一節では,日本の「聖戦美術」の全貌が示され,このようなイデオロギーの,台湾当局の
主導による台湾への導入・展開が明らかにされる。また論者は,戟争画の定義や範噂を,「聖戦美術」の絵図録と思われる
『聖戦画譜』(一九三九年)に基づいて,「直接形式」(「前線」「銑後」「美談」)と「間接形式」(「シンボル」「スローガン」
「歴史人物」)の二つの項目に分類し整理している。
この分類に基づいて,第二節と第三節では,論者は,在台日本人画家と台湾人画家による「聖戦美術」表現の相違を考察
する。「直接形式」が多く見られる在台日本人画家の例として,飯田英雄の「戦争画」論(一九四一)や塩月桃甫の「サヨ
ン」の画題が検討される。飯田は戦争画を「記念的」「記録的」「芸術的」「宣伝的」に分けたが,ドラクロワを戦争画の手
本とする日本画壇の言説を踏襲しつつ,「記録的」というカテゴリーに属す「戦闘図」(作戦記念画)を好まず,むしろ「国
家の権威と軍人の栄光を永遠に伝える」「記念的戦争画」を重視したこと,そして,一九三八年に起きた,出征兵士を送る
原住民少女サヨンの落水事政が,「軍国美談」に仕立てられ,原住民の戦時動員に利用され,これをきっか捌こ,塩月が
「サヨン像」制作に熱中し,その「純情愛国」を称えたことがあとづけられる。
一方,論者によれば,台湾人画家の場合には,間接的に,「鷹」や「軍犬」などのモチーフによって時局を「隠喩」した
り,出征風景や勤労奉仕などを措いて時局を「直喩」したりする作品が多かった。論者がより重要だとみなすのは,「聖戦
スローガン」の絵画化である。「児童」に「合唱」という組合せを取り入れた李石礁の≪歌ふ子僕達(現,合唱)≫がその顕
著な例である。戦時下,児童は「/ト国民」や「第二国民」と呼ばれ,「聖戦美術」の重要なモチーフの一つにされ,合唱と
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いう主題も「東洋平和」というスローガンの絵画化にほかならないと論者は指摘する。この主題においては,常に「服装」
による民族の識別も行われていることが指摘される。
第四節では,「聖戦美術」における在台日本人画家と台湾人画家との表現の相違につき,それをもたらしたのが植民地政
府の文化政策の方針転換や台湾人に課された「銃後の責務」だったことが指摘される。また,論者は,台湾「聖戦美術」に
おける「台湾ローカルカラー」の表現に注目する。例えば「扶桑花(仏桑華)」というモチーフは,「百円券」(一九三七)
の図柄に採用されて以来,府展時代に盛んに措かれるようになるが,論者は,その真紅を南進日本の先駆者の血に見立てた
「仏桑華に聴く」という文章(一九四四)に注目し,扶桑花が単なる南国台湾を象徴するモチーフに止まらず,「南進日本」
のシンボルヘと変質していたことを明らかにする。
植民地政府の戦時動員による台湾ローカルカラーの変質に関して,これまで絵画については,そのような指摘はなかった云
第五章第一節では論者は,台湾ローカルカラーの創出と提唱について,第五回内国勧業博覧会に初めて登場した「台湾館」
(一九○三)や台湾の初の映画『台湾紹介活動写真』(一九○七)などにおける「異国情緒」の演出,画家の石川寅治による
台湾らしき題材の指示(一九一七)や,「台湾八景」(一九ニセ)の選出などを例に,総督府によるイメージ操作があったこ
とを指摘する。当時の美術と政治との切り離せない関係を知る上で重要な指摘である。
一九ニセ年の台展創設以来,台湾ローカルカラーは日本人審査員を中心に提唱され,とりわけ東洋画部では「炎方色彩」
や「湾製絵画」と呼ばれる作品が生み出された。「湾製絵画」とは,南国の強い太陽光の下での,強烈な原色対比や極彩色
を用いるものを指し,「炎方色彩」は,台湾ローカルカラーの主題を取り入れ,「熱帯的情調」を表現したものを指す。郭雪
湖≪南街段賑≫(一九三○)が「炎方色彩」の代表例とされ,林玉山寒帰途≫(一九四四)が「湾製絵画」の代表例とされ
ているが,論者は,≪帰途≫は「聖戦美術」の性格をも有していたと推定する。それを論証するために,論者は,文学にお
けるローカルカラーの変質にも目を配る。
総督府から台湾イメージを提供された佐藤春夫は,伝奇小説『女誠扇椅渾』(一九二五)を完成し,これは「異国情調」
文学として位置付けられた。その「異国情調」は,在台日本人作家西川滞の歴史小説『赤軟記』(一九四○)によって直接
受け継がれたが,この小説は単なる異国情調文学に止まらなかった。『赤軟記』では,日本南進の先駆者として言匿われてい
た国姓爺鄭成功の子孫が主人公に据えられ,自らの「日本の血」を自覚し,ベトナム・ルソン・ビルマを征服し,台湾を中
心とする南方大明帝国を再建しようとする様が措かれている。つまり『赤散記』は南方共栄圏イデオロギーを語る作品であ
ったこと,このことが指摘される。
論者は,このような当時の文学作品を参照することで,第二節では,美術における台湾ローカルカラーの変質について,
在台目本人画家の例として塩月桃甫を取り上げる。塩月は「台湾のゴーギャン」と呼ばれ,来台後,台湾原住民を措きつづ
けていたが,その「エキゾティックで装飾性豊かな民族衣裳や,原始的で純朴な原住民族の姿」は,戦時では先述の軍国美
談「サヨン」や,「黒潮」のような軍国主義的なものに変質していたことがあとづけられる。一方,論者は,台湾人画家と
しては,林玉山に注目する。林玉山の「水牛」や「サトウキビ」の主題も,台展時代には台湾ローカルカラーの表現として
知られていたが,論者は,「湾製絵画」の代表例とされる≪帰途≫においては,≪改良蕪作≫(一九四○)という宣伝ポス
ターと同じく,「サトウキビの菓を背負う水牛」という設定が,「日本の国策に動員される台湾」というイメージの表出へと
変質していることを指摘する。また,論者は,このいわゆる「銃後版」に対して,その「前線版」に相応しい≪献馬図≫
(一九四三)が最近(二000)になって台湾で公開されたことも紹介している。
論者は,戦時台湾画壇,とりわけ台湾人画家による「聖戦美術」の存在やその特色を明らかにした上で,第六章では,
≪日本二重橋≫以外の,陳澄渡による「聖戦美術」を改めて検証する。第一節では,一九九四年に同時に初公開された≪雨
後淡水≫(一九四四)と≪嘉義公園≫(年代不詳)とが取り上げられる。「送出征」の風景を措いた≪雨後淡水≫が,同主
題の李沢藩≪送出征≫(一九三人)や翁昆徳≪プラットホーム≫(一九三八)と具体的に比較され,旧画題を舞台にしなが
ら,そこに時局題材を登場させることが陳澄渡の「聖戦美術」の一つの特徴であることが示される。同じ特徴は,「鳥居」
を画面中央に措いた≪嘉義公園夢にも見られる。この作品は真作なら,第十回台陽展に出品された≪鳥居≫(一九四四)で
ある可能性が高いことも指摘されている。
第六章第二節では,陳澄渡作品で唯一動物を主題に措いた≪酪駅≫(一九三九)は,「日の出」という主題と同様,藤島
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武二≪旭日照六合≫(一九三七)にその図像源泉があり,同時に,画家は藤島から,「大陸支配願望」や「占拠地の異国情
緒」をも受け継いだことが指摘される。また,論者は,≪賂駈≫が,「皇軍慰問展」などを開催していた台陽展への出品作
であったことから,その「絵馬」の形は,「慰問」や「慰安」を意図して制作されたと推定する。陳澄渡における藤島武二
の影響は,「波」のモチーフにも見られる。論者によれば,「砕け散る波」は,日本海軍への献納画の主題としてよく措かれ
ていたことから,海軍との深い関係が窺える。また,論者は「波」が,日本の「不沈母艦」とされた台湾に相応しい主題で
もあったと解釈している。
最後に,現代の一般的理解において,陳澄渡風景画によく見られる「電柱」というモチーフが,しばしば台湾本土の近代
化の象徴として強調されることや,二000年の大型巡回展において,陳澄渡が「世の中を写実的に措く心 持土会写実的情
懐を」という展示グループに分類される基準となったことについて,そこで強調される「台湾本土の現実を写実的に描く画
家」という理解の不適切さが指摘される。
これに対して論者は,陳澄渡絵画における「世の中を写実的に措く心」は「台湾本土」に限定されるものではなく,画家
にとって,その都度の情況下で出会う大切な主題という意味での,「サアムシニーグSomething」(一九三三)であり,こ
れが≪私の家庭≫≪日本二重橋≫≪慶祝日≫等において,それぞれの異なる時代,異なるイデオロギーの影響下,その都度
の「像」の作品化として実現されていると結論づけている。多様な資料の渉猟によって得られた,新しい陳燈波像がここに
呈示されたことになる。
論 文 審 査 の 結 果 の 要 旨
本論文は,近代台湾洋画の代表者の一人,陳燈披(1895−1947)の作品の意味を,植民地時代の歴史情況を考慮しつつ,
解明する試みである。日本で学んだ近代台湾第一世代のこの画家は,1947年,嘉義市の議員として二二八事件に関わり,国
軍によって処刑され,以後長い間,その画家としての存在は忘れられていた。だが,1987年の戒厳令解除後,この事件への
評価が変わり,処刑された者の名誉回復がなされる中で,この画家の,「郷土愛」の画家という言説が定着し,また現代の
画家によって英雄像として措かれるようにもなった。論者は,このような現代の陳燈波像の不備を補い,戦後のみか,戦前,
戦中をも考慮に入れて,この画家を捉え直そうとする。
このため第一章では,画家の年表の新たな作成がなされ,これまでの年表の是正が行なわれる。論者も認めるように,い
まだ完壁ではないとしても,何度も画家の遺族を尋ね,残された多くの遺品を調査,整理したことにより,これまで曖昧で
あった,画家の生涯と作品の制作年代に関して,蓋然性の高い年表が作成された。実際この章の内容は,すでに台湾の学術
誌で公にされ,この画家を研究するときの基礎資料となっている。論者が,年表とともに,本論文の「別冊」に入れた,画
家所蔵の多くの作品写真,絵葉書,書簡に関する一覧表もまた,重要引官報を提供するものである。
第二章では,以上のような詳しい資料調査に基づき,従来の「祖国愛」言説の不備が明らかにされる。愛国者,反日の画
家を際立たせるこの言説においては,植民地時代の台湾人画家の,制作の真相が覆い隠されるからである。
第三章において,従来の言説の偏りが,≪私の家庭≫と≪日本二重橋≫の二作品に即して論証される。まず≪私の家庭≫
の制作年が,定説よりも一年早い,1930年であることが,新資料に基づき指摘され,またそこに措かれた書物,『プロレタ
リア絵画論』が,当時の日本の芸術運動を,自己の問題(日本支配下の台湾)として捉え直したものと解される。今一つ重
要なのは,この作品は,この画家の最初の展覧会(1979年)では図録で示されただけで,しかも,プロレタリアの文字が削
られているという事実の指摘である。作家没後,政情の変化の中で,作品は隠され,そして措かれたモチーフにも変更が加
えられていたわけである。ここでは,作家の没後も,芸術理解や評価に,いかに政治的なものが関与するかが示されている。
≪日本二重橋≫も同様である。この作品は,「郷土愛」言説では,単なる「名勝」の「風景画」とみなされ,その政治的
含意は看過されていた。しかしここでも,1927年と想定されていた制作年が,1939−40年に訂正されることで,この作品の
政治性が濃厚になる。本図は,戦時中台湾の小学校で,「敬礼」の対象として掲げるために,学校側が画家に発注した可能
性が高いことが指摘される。皇居と,そこに措かれた桜により,また画面に「謹写」と善かれていることから,この作品が
まさに,「聖戟美術」に属すことが指摘される。作者没後,この作品もまた,長い間闇に葬られていた。これらの指摘によ
り,論者は,まったく看過されていた側面に,光を当てたといえる。
一 8 −
第四,第五章では,陳燈波が巻き込まれていた時局の動向,特に戦時下の「聖戦美術」と「彩管報国」という動向が,い
かに深く,また広く,台湾にも浸透していたかが,特に『聖戦画譜』(1939年)に注目しつつ,実証的にあとづけられる。
また台湾で指導者となり,このような動向に積極的に加わった在台目本人画家,飯田英雄や塩月桃甫の当時の活動がたどら
れる。「軍犬」,「鷹」,「旭日」,「波」,「児童」,「インド牛」,「サトウキビ」等々のモチーフも,当時の軍国主義的動向に沿
ったものであることが,多くの作品を呈示しつつ示される。
「原色対比」と「南国原住民の生活」という「ローカルカラー」もまた,日本が台湾に求め見出そうとした,イデオロギ
ー的表象である。しかも,このようなローカルカラーが,戦時中軍国主義的なものに「変質」したことがあとづけられる。
この点は文学研究において指摘されてきたが,絵画に関してこの間題を論じたのは,論者が最初である。論者は,この変質
を,従来の「ローカルカラー」表象が,日本の南方進出と結びつくことで生じたものとみなす。これにより,当時好んで措
かれた「インド牛」や,台湾南端の「ガランピ燈台」や「波」が,南進基地としての台湾表象になり,「扶桑花(仏桑華)」
もまた,単にその花の赤さによって南方を象徴するのみでなく,それが同時に日本を象徴することで,日本の南進政策を象
徴する機能を果たしたとみなされる。興味深い解釈である。
このような当時の「聖戦美術」の台湾における浸透を明らかにした上で,論者は第六章で再度陳燈彼の諸作品を取り上げ,
それらがいかに時局と切り離せないかたちで実現されたかを論じ,また画家が「皇軍慰問展」等にも積極的に出品し,日本
で当時聖戦美術を制作した,藤島武二に強く影響されていたことをあとづける。このような絵画資料,歴史資料,そして文
学研究をも検討することで,本論文は,従来の陳燈波像を塗りかえる研究成果となっている。論者によれば,画家が目指し
た「サアムシニーグ(Something)を措く」ことは,決して非歴史的な「郷土愛」のごときものではなく,その都度の情況
で出会う主題への,誠実な応答を意味する。
本論文にさらに望まれるのは,絵画という芸術活動が,論者が示したイデオロギー的機能のみで汲み尽くせるものではな
く,イエデオロギーをも組み替える,特殊な<絵画的意味>とその力とを有しもすること,このことを,作品分析をとおし
て明らかにすることである。これが論者の陳燈波研究の,今後の必須の課題となろう。
以上審査したところにより,本論文は博士(文学)の学位論文として価値あるものと認められる。なお,2005年3月30日,
調査委貞3名が論文内容とそれに関連した事柄について口頭試問を行なった結果,合格と認めた。
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