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ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ) Title Author(s) Citation Issue Date URL 台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動 : 技術論と社会発展の観点から 星, 純子 茨城大学人文学部紀要. 社会科学論集(59): 57-70 2015-02-27 http://hdl.handle.net/10109/12108 Rights このリポジトリに収録されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作権者に帰属 します。引用、転載、複製等される場合は、著作権法を遵守してください。 お問合せ先 茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係 http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html 57 台湾台中市東勢区における寄接梨の 発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から The Development of Shoot-connecting pears and its quality improvement in Dongshi, Taichung in Taiwan: from the perspective of technology and social development 星 純 子 要約 亜熱帯に属する台湾では、品質がよく高値で取引される温帯果樹の日本ナシが戦後山間地の梨山 で栽培され始めた。休眠に必要な低温時間不足のため平地での日本ナシ栽培は不可能であったが、 高値で取引されていたため、農家の張榕生が 1976 年に寄接(花芽接ぎ)の技術を開発し、平地部 の東勢でも栽培を可能にした。これ以後、東勢の農家らは収入向上のために寄接時のテープ、安全 ナイフ、袋掛け、人工授粉など様々な技術や道具を開発した。しかし、複雑な流通経路や穂木の入 手経路の制限、価格競争が招いた品質悪化により、日本ナシの値段は低迷し、栽培は衰退しつつあ った。東勢区の日本ナシ農家の品質向上運動はこの状況に対し、個々の収入向上のために開発され た栽培技術を「皆がお金を稼ごうとしていた」という共通の記憶として再構築しながら、品質のよ いナシを消費者に直売することで、環境、経済的に持続可能な農業をめざしている。 0.はじめに (中国語で「花芽接ぎ」の意味、2.で後述) の技術がどのように生まれ、またその技術を 台湾の果物は、バナナやアーウィン(愛文) 用いた同組合がいかなる社会状況の中で発生 種マンゴーなど日本でも有名である。台湾で し、どのような活動を通じて自らの目的を達 は 1988 年に果物が、1998 年に野菜がコメの 成しているのかを考察するものである。これ 生産額を追い抜き(蔡 2009:2) 、果物は台 によって、グローバリゼーション下の農家の 湾農業の生産額上大きな割合を占めている。 取り組みについて農村社会学的に考察すると しかし、グローバリゼーションは世界中の農 ともに、台湾独自の社会状況下で寄接という 業地域に大きな変化をもたらしており、台湾 技術がどのように生まれ、それが現在の果本 もこれと無縁ではない。2002 年の台湾 WTO の活動でどのように実践されているのかを検 加盟に代表されるグローバリゼーションの中 討したい。 で、農村では様々な変化がおき、それに対し て取組がなされている 1。 0.1 先行研究と本論の視角 本論文では、台湾中部に位置する台中市東 台湾では近年、新自由主義的開発のひずみ 勢区の温帯果樹農家グループである「果本山 が農村に多く表れているため、農村に注目が 農組合」 (以下、果本)を事例として、寄接 集まっている。本節では先行研究を整理しな 1 たとえば、台東県池上郷の池上米など農会の特産品推進活動、2009 年より浩然基金会が助成している 「小農復耕」計画(1 事例あたり 50 万元、5 年計画)など、小規模農家による生産を育成および保護す る動きである。 58 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 がら、本論文の視点を示していきたい。 係者の手で積極的に再構築されている 3。この 台湾の農村研究は費孝通に代表される留学 ようなポスト生産主義の農村で、 東、 林(2012) 帰国組の漢人研究者による事例研究や、日本 は台湾で発達した観光農業主体の農場を「世 人による『中国農村慣行調査』などの中国漢 界の最先端を行く」レジャー農場として事例 人社会研究に起源を発する。戦後、これら 紹介している。張宏政(2013)のように、ア の中国調査をもとに、Wolf(1968)や Cohen グリツーリズムの生産者のみならず観光の消 (1976)など冷戦下で中国に行けない欧米人 費者にも焦点を当てて研究したものもあり、 社会人類学者が代替フィールドとして台湾の いずれも 2002 年の WTO 加盟以後、観光農業 漢人「中国社会」を研究し始めた。これが台 を台湾農業の生き残り戦略の一つと位置づけ、 湾農村社会学の嚆矢である。台湾の民主化に その可能性を模索する研究といえる。 ともない、農村社会学者や社会人類学者の関 第二に、新自由主義下の農村に注目する研 心は「伝統中国社会の一部としての台湾」か 究である。農村における社会運動は民主化期 ら「台湾の特色」へと移行したが、伝統的な の 1988 年の 520 運動に象徴される農民の農 農村社会への関心は宗族や廟、エスニック・ 会統制や福祉削減、輸入自由化などに反対す グループの対立(械闘) などを中心に続いた 2。 る社会運動があるが、近年の関心は WTO 加 これが近年、さまざまな変節を遂げている。 盟に代表されるグローバリゼーション、政府 一言でいえば、人類学的な農村の側面のみな による農地の強制収用など新自由主義的政策 らず、生産以外の農村空間全体の商品化や農 で変化する農村に集まっている。関心を持つ 地の流動化、すなわちポスト生産主義に注目 代表的な集団は 2008 年に成立した台湾農村 する研究が出現している。以下、もう少し詳 陣線であり、多くの研究者が学生を動員して しく見ていこう。 毎年のように啓発活動を兼ねた大規模な農 第一に、観光農業に注目する研究である。 村調査を行っている(台湾農村陣線 2011, 食料の供給が充足し、農業も十分に近代化し 2012)。同団体に参加する研究者も個別に激 た台湾においては、農業は単なる生産のみな 変する農村の姿や社会運動を様々な角度から らず、都市住民の交流やレジャーの目的とし 検討している 4。 ても注目されている。このことは農村空間の 第三に、農村における技術に注目する科 商品化をもたらし、従来農村生活や農業生産 学 技 術 社 会 論(STS) の 研 究 で あ る。STS 方法の近代化の中で「過去のもの」として忘 の提唱者であるラトゥール(Latour 1991 = れ去られたものや、農村では当たり前のもの 2008:13-20)は、ヒトとモノを区別せず、 として日常生活に存在しているものが、都市 同様の行為者(アクター)とみなすアクター 消費者の再発見・再評価の対象として見直さ ズネットワーク理論(Actors Network Theory, れ、デザイナーや農民、さらには社会運動関 ANT)を提起したが、その手法は差別化され 2 施振民(1973)ら中央研究院民族学研究所による濁水渓流域の大規模調査は、人類学者や社会学者の 台湾本土への関心の始めとされている。 3 たとえば、U ターンした若者が 2011 年に結成した美濃のデザイン会社「野上野下」の手仕事や飲食文 化に関するパンフレットなど(野上野下 2012)。 4 戦後台湾の農民の異化を研究した蔡培慧(2009) 、近年重要性を増す再生可能エネルギーと農業生産の 関係を研究した李宜澤(2012)など。台湾農村陣線じたいの行動についてはスポークスマンである蔡 培慧(2010)自身がその水平的ネットワークについて考察している。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 59 た高品質の農産物が農業・農村におけるネッ ク理論だけでもなく、技術と社会の関係につ トワークといかに関連しているかを研究する いてより柔軟に分析したい。 Alternative Food Network としてイギリスで農 次節では本論文で分析する事例と使用資料 村社会学の中に応用された(Murdoch 2000) 。 について述べる。 台湾では楊弘任がその代表格であり、 著書 『コ ミュニティはいかに動き始めるのか?』 (楊、 0.2 本論文の事例と使用データ 2007)の中で、屏東県林辺郷の蓮霧栽培の 本論文で分析対象とするのは、台湾全土で 徒弟関係ネットワークや栽培技術の向上心と 寄接梨の生産の約半数を占める代表的産地、 いったメンタリティが、いかに地方派系(地 台湾中部の台中市東勢区である。本節では寄 方派閥)に分断された地域社会を動かしてい 接梨に関する研究を整理してから、本論文の くのかを鮮やかに描写した。しかし、楊の研 地域研究的な文脈を改めて検討する。それか 究では技術が伝わるネットワークや技術の向 ら本論文で用いる資料と調査方法について述 上心が地域を動かしたことについては書かれ べる。 ていても、技術自体の特徴が社会をどう動か 寄接梨に関する分析は、技術的な観点から したのかについては書かれていない。台湾の 研究した李・張(2002)のほか、寄接梨の 農村における技術について、技術の発生した 発生原因について研究した斎藤・陳(1984)、 ネットワークのみならず、技術自体の性格を 日本へのナシ輸出の観点から産地の生産や 検討することは、技術をより一つの行為体と 流通の課題を分析した古関(2012)がある。 して分析することを可能にし、さらには現在 しかし、寄接という技術がどのように語ら 技術集約的な農業が発達しつつある台湾にお れてきたか、またそれがいかに地域社会と関 いて意味を持つと思われる。 わっているかについては研究がなく、本論文 そこで、本論文では台湾の日本ナシ栽培に ではこの点について解明していきたい。 おいて発達した寄接梨という独特の技術がど 本論文で用いる資料は文献資料とインタ のように誕生し、またそれがどのように栽培 ビュー資料である。 文献資料は既存の出版物、 地域である台中市東勢区を変えていったの 農会や台中市のパンフレットなど刊行物のほ か、そして果本が近年いかに誕生したのかを か、未刊行の口述資料を用いる。なかでも、 ローカルな動きから検討する。スケールメ 寄接についてさまざまなアクターの口述を リットを生かせない台湾の小規模農業は、持 三合一肥料店の店主である劉龍麟がまとめた 続させようとする限り必然的に労働集約的、 『東勢区寄接梨産業史』(未刊行)は A4 サイ 技術集約的にならざるをえないため、この技 ズで 80 ページ以上におよぶ大著であり、技 術についてさらなる研究が必要と考える。実 術の開発から穂木の輸入の過程まで詳細に書 際、これらの技術は社会のある状況下で生ま かれている資料である。もちろん、寄接の物 れたものだが、社会の変化によって従来とは 語を肥料店の店主が編纂しようとしているこ 異なる意味合いを持ったり、また技術が社会 と自体が分析を加えるべき現象であり、本論 を変えていったりしている。これによって、 文ではその点に注意しながらこの資料を用い 楊弘任(2012:59-65)が水利会による小水 る。このほかにも、2012 年以来筆者が 1 年 力発電の研究で述べているように、技術は に 1、2 回、数日の滞在期間で東勢に通う中、 社会によって構築されたものだという技術の 肥料店関係者、農会関係者、農家などにイン 社会構築論(social construction of technology, タビューを行った。調査では現場に長期滞在 SCOT)だけでもなく、 アクターズネットワー していないため、人的ネットワークの細かい 60 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 部分までは観察できなかったが、文字資料や 1.1 林業の町東勢 インタビューなどを用いながら適宜補完し、 東勢は山地に近いことから、林業の集散地 本論文の目的は達成できたと考えている。次 として栄えた。今も残る東勢林場は、往時の 節では本論文の構成を述べておこう。 林業の隆盛を物語っている。以下、歴史的に 整理していこう。 0.3 本論の構成 東勢一帯は樟脳の供給地として繁栄した。 本論の構成は、 以下のとおりである。まず、 1. クスノキから採れる樟脳はもともと薬として で東勢の社会開発を歴史的に検討し、日本ナ 皮膚病の治療や強心剤として使用されていた シ栽培が戦後の外省人流入、梨山の山地開発 が、 1869 年に人類初の合成樹脂「セルロイド」 および林業の没落の中で始まったことを示す。 が発明されると、1890 年以降その可塑剤と 次に 2.で、その日本ナシを平地の東勢で栽 して樟脳が大量に使用され始めた。樟脳は経 培するという「寄接」の技術が誰によってど 済発展を支える材料であったといえる。19 のように開発されたのかを検討する。3.では 世紀末、日本と台湾は二大樟脳山地であった その寄接の技術の完成過程を考察し、時代ご が、1890 年以降日本では樟脳が枯渇したた との課題とそれが誰によってなぜ開発された め、台湾が世界市場を独占した(林 1997: のかを検討する。4.では完成した寄接の技術 33)。かくして東勢も台湾有数の樟脳の供給 が人々にとっての意味を変え、社会を変えて 地として繁栄したが、日本統治期に台湾のク いく様子を口述資料から検討し、寄接を開発 スノキは枯渇し、樟脳業は幕を閉じた。 してきたモチベーションが寄接によって失わ 樟脳業に代わって戦後栄えたのは林業(ス れていくことを示す。5.では 1999 年の 921 ギ)である。初期には私有地での造林が行わ 震災と 2002 年の WTO 加盟で農業が壊滅的打 れていたが、1952 年に政府が傾斜地の国有 撃を受けた後、果本が誕生する過程を考察し、 地を無料で林家に貸し、苗木についても補助 6.では総括と今後の展望を述べる。 金を出して造林奨励政策を始めた。東勢は 傾斜地が多く、農業に適しなかったので、造 林はたちまち東勢に広まった。間伐、除草な 1.台中市東勢区 どの手入れをしながら伐採後もヒコバエ(木 の脇から生えてくる苗)から造林を行うと 本論文で取り上げる事例は、台中市東勢区 いう方法が取られた(東勢鎮農会 2003: である。同区は台中市北部に位置する客家の 11-12)。台湾中央山脈の中央に位置する大雪 集住地区で、北は同じく客家居住区の苗栗県 山、梨山、福寿山はいずれも東勢に近く、山 卓蘭鎮、東と南は閩南・客家混住地区の新社 から流れる大甲渓の水力発電開発、林業と一 区、石岡区、西は原住民の住む山間地である 体となって東勢は発展した。1960 年代に林 和平区に隣接し、面積は約 117 平方キロメー 業はピークを迎えた。 トル、2014 年現在の人口は 51,936 人である。 しかし、コスト回収に 12 年∼ 15 年と時 2010 年までは台中県東勢鎮と呼ばれていた 間がかかることや、重労働、安い輸入材の導 が、台中県と台中市の合併により、中央級の 入により、東勢の林業は 1970 年代になると 台中市東勢区として改編された。本章では同 衰退していった。寄接梨はこのような林業没 区の社会経済的発展を整理し、寄接梨が開発 落の中で新たな経済収入源の模索の一環とし される経緯を考察したい。 て編み出された。次節で寄接梨の栽培が東勢 で始まった経緯を見ていこう。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 61 1.2 農業の町東勢 58 品種の果樹 1,170 株が導入され、福寿山 台湾における日本品種のナシ栽培は日本統 以外にも山間地である和平郷や仁愛郷の山地 治期に始まるが、寄接による日本ナシ栽培の 集落の 33 戸にナシ 4 品種、クリ 4 品種、リ 歴史は決して古くない。本節では東勢の農業 ンゴ 1 品種の苗木が移植されたほか、1960 の歴史を整理し、林業に代わって住民の主要 の中部横貫道路完成にともなって開設された な生計として台頭してきた農業が、稲作か 清境農場(1961 年開設)、武陵農場(1963 ら商品作物に転換し、その中で日本ナシが経 年開設)でも温帯落葉果樹が栽培された。か 済収入源として注目されてきた経緯を示した くして戦後退役軍人の雇用対策として始まっ い。 た山地開発は、こんにちの台湾における温 日本ナシの栽培は、日本統治期の台湾で実 帯落葉果樹栽培の基礎を築いた(朱 1961: 験的に始まった。1930 年から 32 年の間に温 236-7)。東勢はこの山間部への入り口にあた 帯落葉果樹のナシ、リンゴ、モモ、クリ、ウメ、 り、多くの外省人が出入りし、温帯果物の消 カキなどが日本から導入された。もともと日 費文化をも持ち込んだ。 本ナシは、温度の低い時間(休眠時間)が十 その中部横断道路が開発されたころ、東 分でないと花をつけることができないため、 勢の農業はバナナ栽培に沸いた。東勢にお 亜熱帯の台湾では栽培されていなかったが、 けるバナナ栽培は東勢鎮興隆里出身の林水 中央山脈に位置する梨山では、標高 2000m 金が 1947 年に萬興貿易公司を設立し、駐日 という高冷地の特徴をいかして、二十世紀と 米軍への輸出を始めたのが始まりである。こ 長十郎がそれぞれ数十株ずつ試験的に栽培さ れ以後日本輸出向けのバナナ栽培が発展し、 れた(朱 1961:236-7) 。当時の雑誌に「台 1968 年には台湾全土でバナナの耕地面積は 湾でナシ栽培の見込はないが、 高地で鳥梨 (小 8 万 ha に達した。バナナは当時台湾の外貨 さく果肉の粗いナシ、 飴がらめなどに用いる: 収入の 3 分の 1 を占めるほどの大産業であ 著者注)の野生がある位であるから、適地を り、東勢では 1ha のバナナ農園の収入は年 求めて栽培すれば必らず出来るものと思ふ」 間 10 万元に達した。当時の公務員の月収が (田中 1935:323)と書かれているように、 500 元であったころから、バナナ農家の高収 栽培結果はあまりいいものではなかったが、 入がうかがえる。この輸出過程で、輸出を独 「石井早生、二十世紀、菊水が比較的暑熱に 占的に扱う公的機関である青果聯合社は地域 強い」 (同前 1935:323)と書かれている で大きな影響力を持った。しかし、1968 年 ように、品種によっては栽培の見込みがある に青果聯合社の主席呉振瑞の収賄事件「金盤 とされた。 金碗舞弊案」が発生し、数十人が投獄され、 日本ナシ栽培を亜熱帯の台湾で可能にした 中央銀行総裁までが辞職する騒ぎとなったた のは中部横貫道路による山地開発であった。 め、輸出を扱う青果聯合社は大きな打撃を受 光復後、国共内戦にともなって国民党政府と け、バナナ栽培も減少し始めた(東勢鎮農会 ともに台湾に移民してきた外省人の兵士たち 2003:19-20)。また、台湾バナナはしば は、雇用対策として新天地台湾で山地開発と しば台風の影響を受け、価格変動が激しかっ いう新たな任務を課された。1956 年に台中 たため、日本の商社はバナナの輸入元をフィ と東部の花蓮を結ぶ中部横貫道路の建設が始 リピンへと変更した(鶴見 1982)。 まると、1957 年に退役軍人の公営農場であ バナナ栽培が衰退したときに東勢で注目さ る福寿山農場が梨山に建設された。1958 年 れたのが、ブドウ、ナシ(中国ナシ) 、カキ、 には日本からナシ、リンゴ、クリなど 11 種 ポンカンなどの温帯果樹や柑橘類であった。 62 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 中でも注目されたのが、高山地である梨山で ける接ぎ木とは異なり、寄接は毎年結果部に 栽培を確立していた日本ナシである。標高が 花芽を一つ一つ接いでいく必要があるため、 400-1000m の東勢ではバナナ栽培に代わる経 膨大な時間と労力がかかる 5 が、これこそが 済作物として、果肉が荒く大味の横山ナシ(中 平地の東勢で「稼げる」温帯果樹を栽培する 国ナシ)が栽培され始めたが、梨山産の日本 ために生み出された技術であった。2008 年 ナシは横山梨より果肉が繊細で、食味もよく、 現在、東勢の日本ナシ栽培面積は約 1700ha 高値で珍重されていた。米価が政策的に低く と台湾全土のナシの約半分を占めており、そ 抑えられている中、稲作では生計の維持は望 の生産額は年間 23 億元にのぼり、東勢区内 めず、ブドウやカキなど様々な温帯経済作物 の農産物の生産額の半分近くを占めている 6。 の栽培が試みられていた東勢で、高値で売れ 以下、日本ナシの栽培がいかにして東勢で可 る農作物を栽培するのは農家の悲願であった。 能になったのか、 時系列にそって見ていこう。 このように、東勢では林業もバナナ栽培も 衰退し、また、傾斜地が多く稲作にも向かな 2.1 寄接が生まれる文脈 温帯果樹との関 連から いことから、農業の経済作物化、なかでも柑 橘類や温帯果樹が栽培の中心となってきたと 寄接の技術を発明したのは東勢出身の農 いえる。この状況下で、高値で栽培される日 民、張榕生(1930-1993)である。張はどの 本ナシ栽培を平野部の東勢で栽培するために ような経緯で寄接の技術を発明したのか、以 始まったのが寄接である。次節で具体的に寄 下劉龍麟(2013)の資料に依拠しながら述 接梨の発明過程とネットワークについて考察 べる。 していく。 張榕生は 1930 年、現在の東勢区中 里に 生まれた。張は台中師範学校卒業後、故郷の 東勢で小学校の教師を務めていたが、きょう 2.寄接梨の誕生 だいがいなかったため、病気で倒れた父の後 をついでわずか 33 歳、1963 年に果樹農家と 前節では寄接が誕生する背景について述べ なった。張は農家にしては高学歴で、日本語 た。本節では寄接が何を克服しようとして成 の農業技術雑誌を読むなど技術の向上に熱心 立した技術なのかを整理し、その開発過程に であり、1960 年代初頭には 100 本あまりの横 ついて述べる。 山梨から 6 万斤(36000kg)の収量を上げる まず寄接とは何か。寄接は日本語では花芽 など、収益をあげていた(同前 2013:41) 。 接ぎと訳され、横山梨の台木に切れ目を入れ 寄接梨の源流は 1967、8 年ごろに始まっ て日本ナシの徒長枝についた花芽を挟み込 たブドウの接ぎ芽である。東勢の隣町である み、テープなどで固定して接ぐ技術を指す。 苗栗県卓蘭鎮で、高冷地の白毛台で花芽に分 日本ナシの徒長枝は高冷地で栽培した、休眠 化した苗を作り、それを土地の安い南部の屏 時間(低温時間)を十分にとったものを用い 東県高樹郷にトラックで運んで接ぎ芽を行 なければならない。一度接げば毎年花芽をつ い、栽培に成功した人がいた。南部でブドウ 5 現在 30a のナシ畑で約 10 人/日ほどかかる。受粉は同面積で 1 人/日。東勢では様々な果樹が栽培さ れているため、親戚を通してではなく近所で日本ナシを栽培している農家どうしが手伝ったり、手伝い で足りない部分は人を雇ったりして労働力を調達している。2014 年 1 月、ナシ農家への聞き取りによる。 6 東勢区農会推広股長提供の農会資料(2008 年度)による。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 63 を栽培すれば、地価などのコストも安く、気 していた日本ナシの徒長枝を用いて、初めて 候の関係で早く出荷できるため、高値で取引 寄接の技術を用いて東勢で新世紀ナシを栽培 でき、しかも 1 年に 2 度収穫できる。これ した(同前 2013:42) 。横山梨の台木に 2, は高値で売れる農産物を模索していた当時の 3000 個の花芽を接ぎ、成果も数千斤(1 斤 東勢の人にとって魅力的であった。張榕生ら = 600g:筆者注)とよかった(同前 2013: 数人も、この話に乗って数名の友人と 1970 10) 。同年、 張は強いリーダーシップを発揮し、 年代初頭に南部でブドウを栽培する計画を立 自身を含め 6 名から成る寄接の研究班を設立 てたが、張の夫人が地元を離れることに反対 した(同前 2013:40) 。二年目の 1976 年、 したため、提案した張本人が計画から脱退し、 張は 400 株の横山梨の台木に 2,3 万個の花芽 他の友人も計画を取りやめた。当時張とブド を接ぎ、自らの畑を全面寄接梨に切り替えた。 ウ栽培の計画を立て、後に寄接の技術を張と 同年、張は研究班の成員を 12 名にまで増や 一緒に開発する劉俊男によれば、このとき、 したが、メンバーシップは農薬店、日照の専 張は「ブドウの話がなくなったのならば、梨 門家、植物生理学など各分野で熱心かつ信用 山で作った日本ナシの花芽を地元東勢に持っ できる人物を中心に慎重に選ばれ、多くの人 てきて、 (横山ナシに:筆者注)接いだら日 を入れなかった(同前 2013:42) 。成員た 本ナシが東勢で栽培可能ではないか。しかも ちは毎月会議を開き、個々人が議題を提起し 東勢は梨山より気温が高いから早く出荷でき て報告した(同前 2013:13) 。 る。どう思うか」と劉に聞いたという(同前 しかし、秘密結社のようにも見えた研究班 2013:8-9) 。 の中は、きわめて「無私」であった。寄接梨 このように、寄接の発想は当時東勢一帯で の記録をまとめた劉龍麟によれば、初期メン 行われていた温帯果樹栽培に着想を得たもの バーたちはリスクを引き受けながら新しい技 であった。前節で見た通り、林業やバナナ栽 術を開発する意志を持ち、「個人の利益を図 培が衰退する中、もうかる農業として温帯経 らず、共同の目標に向かって無私の努力を惜 済作物への移行が進み、その流れでブドウ栽 しまなかった」(同前 2013:40)という。 培に着想を得て寄接のアイデアは生まれた。 1977 年 8 月 13 日、戒厳令下で人が集まるに 次節では張たちがどのような開発体制を組ん は政府機関に組織として登録しないと違法で だのかを見ていく。 あったため、研究班は「東勢鎮果樹産銷共同 経営研究班高級水果組」として東勢鎮農会の 2.2 「無私」な秘密結社の誕生 正式な出荷組合(産銷班)として申請した。 1975 年、張榕生は寄接の技術を開発し、6 申請すると、会議のたびに東勢鎮農会推広股 名からなる研究班を非公式に設立した。翌 の職員が列席するようになったが、研究班で 1976 年には研究班の成員を 12 名まで増や は農会は寄接の技術開発には何の役にも立た し、1977 年 8 月 13 日 に 同 班 は「 東 勢 鎮 果 ないと認識していた。1978 年 4 月には同研 樹産銷共同経営研究班高級水果組」として東 究班は「東勢鎮果樹産銷計画平地高級水梨生 勢鎮農会(日本の農協に相当)の正式な出荷 産研究班」と改名し、農業改良場の系統にも 組合(産銷班)として申請した。この研究班 入れられたため、農業改良場の技術指導員も の組織過程は、東勢の当時の状況と密接に関 会議に列席し、 寄接の技術を記録し始めたが、 わっていた。以下、本節で検討したい。 それも寄接の技術に対する助言などはせず、 1975 年 1 月、張はかねてから技術の研究 当初はただ記録するだけであったという(同 に熱心だったこともあり、梨山の借地で栽培 前 2013:22)。これらの技術員たちは農家 64 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 から助言を求められた際、寄接について研究 えが寄接の技術開発に関わる人たちの共通認 班の研究成果にもとづいたアドバイスを行っ 識となっていた。お金を稼ぐという元来非常 た。研究班はあえて寄接の技術を広めること に利己的な寄接の開発は、農家からの経済波 はしなかったが、それでお金を稼げると人々 及効果を信じることによって、「みんなが」 が認識すると、多くの人が研究班や農業資材 お金を稼ぐという集合的な語りとなって現れ 店、肥料店などを通じてその技術を学び始め たといえる。しかも農会からも農業改良場か たが、研究班ではその技術の伝播をあえて防 らも補助金や技術指導を受けず、すべて自分 ぐこともなかった(同前 2013:25) 。 たちの手で技術を開発しているのだという強 研究班の「無私」は、研究班に肥料店も関 烈な自負がそこには存在した。劉龍麟は「研 わっていたことから看取できる。寄接の開発 究班の人々は自分の力で自分の未来を開拓で には、肥料店で働いていた劉俊男の働きが不 きると知った」(2013:10)と述べているよ 可欠であった。劉は、肥料を売るためしばし うに、この記録を作った劉は東勢の人々が自 ば山間部の梨山に出入りし、冬場に剪定し不 分の道を自分で切り開いたという集合的記憶 要となる花芽をつけた徒長枝の存在を知って を造り出している。そこでは「お金を稼ぐ」 いた。張の組織した研究班は、劉のルートで という個々の利己的行為は「みんながお金を 穂木となる徒長枝を大量に入手し、寄接によ 稼ぐ」という形で集合行為へと変換されて る日本ナシ栽培の生命線となる穂木の調達を いった。この物語は劉だけでなく、東勢鎮農 可能にした。 会(2003)の中でも語られているものであり、 農家ではなく肥料店の劉俊男は、なぜ寄接 集合的記憶(collective memory)として東勢 の開発に熱心だったのか。劉はこのように語 で語られてきたことから、地域のアイデン る。 ティティを示す語りとして特産品の寄接ナシ と合わせて語り継がれていると考えられる。 わたしは確かに肥料を売っているけど、ど のような果樹をどのように管理するかという 2.3 小結 知識は普通の農民に負けません。大げさにい 本章では寄接の誕生について検討した。寄 えば、それを指導できるような立場にあるく 接の技術は創始者である張榕生一人の発明で らいです。なぜなら、我々肥料店は役所の補 は決してなく、そこには温帯果樹栽培の技術 助金には頼れず、農民への技術指導に頼るし 革新の文脈、農家だけでなく肥料店の参入、 かないからです。…(中略)…われわれが一 戒厳令下の台湾で農家が集まるというリスク 番恐れるのは、顧客がお金を稼げないことで の克服など様々な文脈の上に寄接が発明され す。顧客がお金を稼がなければ、我々もお金 た。かくも多様な人々が集まって寄接の技術 を稼げません(劉 2013:27) 。 を開発した動機は「お金を稼ぎたい」という 実にシンプルな動機であったことが分かる。 ここからは、農民がお金を稼げば、肥料店 多くの人々が関わったのは自分も含め「みん の自分もお金を稼げるという劉俊男の考えが なが」お金を稼げるからであり、農家がお金 うかがえる。当時肥料店や資材店がナシ農家 を稼げば肥料会社や袋掛けの袋メーカーもお よりも積極的に寄接の技術を開発した(同前 金を稼げるという経済の波及効果は自明のも 2013:25)ことから分かるように、農民 のとされていた。また、寄接の技術はまだ改 の収入は基礎的なものであり、それによって 善の余地があり、それを努力すればさらにお こそ「みんなが」お金を稼げるのだという考 金を稼げるという希望があった。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 65 次節では寄接技術の発展と変化を検討す 固定しなければならない。寄接が始まった る。その中で、技術が複雑化し、中間搾取の 頃、固定作業は月桃の葉を使ったり、電気工 問題も出現したことが明らかになる。 事用のテープを使ったりしていたが、どちら もテープを枝に巻いたあと、ハサミで切る作 業が必要であり、労力を要していた。また、 3.寄接技術の発展と変化 これらのテープは雨にあたるとはがれるた め、接いだ花芽に雨除けの細いビニール袋を 寄接の技術が発生した経緯については前節 掛ける必要があった。この袋は開花の際取り で検討した。さまざまなアクターの「お金を 除く必要があるが、開花する時期はちょうど 稼ぎたい」という意志と、当時の地域社会の 旧正月にあたり、すべての袋を取り除くとな 状況下で生まれた寄接の技術は、その経済性 ると旧正月にナシ農家は休めないという悩み から東勢中に広がり、横山梨の価格が下落し があった(同前 2013:49)。 たため、1981 年ごろには東勢で生産されて 上記のナシ農家の悩みを受けて、1980 年 いた横山梨のほとんどが、寄接による日本ナ 代初頭に研究班のメンバーであった張光山が シ栽培に淘汰された(同前 2013:20) 。また、 手でちぎれるテープを開発した。その後東勢 一度できた寄接の技術は研究班の手を離れて の複数の企業が品質改良を続けた。品種や接 さまざまなアクターのもとでさらなる改良が いだ時期を区別するため、テープの色もさま くわえられていった。本節では寄接に付帯す ざまな色が開発され、寄接の省力化と栽培管 る様々な技術を検討し、寄接の技術が複雑化 理に貢献した。 また、 地域独特のニーズはテー していったことを示したい。 プ製造という地域独自の産業を生み出した。 もう 1 つの技術である蝋がけについては次節 3.1 安全ナイフ で検討する。 寄接において、台木の枝に切れ目を入れる 作業はかなり力の要るものであった。これは 3.3 蝋による花芽の蒸散防止 どのように克服されたのか。以下、見ていき 細長いビニール袋を接いだ花芽の上にかぶ たい。 せる方法に代わり、1984 年から 85 年にかけ 当初、台木は肥後守のような小刀で切れ目 て、花芽の切り口に蝋をかけることで花芽の を入れていたが、それは女性の力では難しく、 養分の蒸散を防ぐ技術が確立された。当初は 男性でなければその作業ができなかった。し 固体の蝋を切り口に塗る方法であったが、手 かし、1980 年代初頭にギロチンのように枝 間がかかることから、鍋で溶かした蝋を一定 を固定して刃だけを入れる安全ナイフが発明 温度に保ち、その鍋に剪定ばさみで切った穂 され、力のない女性でも簡単に枝に切れ目を 木の切り口の両側を浸して養分の蒸散を防ぐ 入れることができるようになった。これによ 方法が肥料会社で働く曽光明の手で開発され り、寄接で女性の労働力の動員が可能になっ た(同前 2013:50)。この技術により、休 た。ナイフの技術開発は省力化、さらにいえ みを過ごしたい旧正月期(1 月末から 2 月初 ばより広範囲からの労働力を可能にするため 旬)の作業が減り、農家は安心して旧正月を に行われたといえる。 ゆったりと過ごせるようになった。蝋がけの 技術は、蝋をかけるという労力は増やしたも 3.2 テープ のの、正月のビニール袋除去作業をなくした 寄接で台木に切れ目を入れた後には花芽を という点で、省力化に大いに貢献した。 66 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 曽は肥料会社の職員として寄接の技術の習 と考え、日本でこれを農家に直談判して学ん 得や開発に熱心であったが、それは「農家の だ。帰国後、彼の仕事熱心と人柄もあって、 苦労を知っていたので、助けたいという気持 人工授粉は東勢に広がっていった。当初はピ ちもあったし、農家が結果率を上げ、収量を ストルのような機械で花粉を花の中に打ち込 上げられればお金を稼げるようになり、結果 んでいたが、安価な授粉棒が日本から導入さ 的にそれが自分の稼ぎにもなるから」と考えて れ、結果率は低コストで上昇した 8。 7 いたという 。ここでも、一貫して研究班以来 しかし、問題は花粉の調達であった。台湾 の「農家がお金をかせぐ=みんながお金をか でナシの人工授粉をやっている産地は他にお せぐ」という図式が前提となっていることが分 らず、日本からの輸入はコストが高いので、 かる。曽はさらに、人工授粉による異花授粉 当初は梨山で生産されている横山ナシの花粉 の技術をも東勢に導入した。次節で述べる。 を自分の手で収集したが、1 人が一日花粉を 集めても 1 グラムにしかならず、花粉は 1 グ 3.4 人工授粉による異花授粉 ラムにつき 1 日の人件費 1000 元とかなり高 上述のとおり、寄接の労力を減らす努力 価なものであった。しかし、鳥梨という品種 はなされてきたが、1980 年代半ばになると、 はもっと花粉が多いことが分かり、1 グラム 生物学的な課題が浮上した。日本ナシの代表 あたり 800 元と価格を抑えて売ることができ 品種であり、保存もきく豊水ナシは異花授粉 た。1990 年代初頭、雹が降って安く花粉を が必要であるが、東勢では人工授粉の技術が 売る必要に迫られたとき、中国からの輸入を なく、結果率は低かった。前述の曽光明は蝋 思いつき、現在では 1 グラムあたり 150 元で の技術だけでなく、人工授粉の技術を日本か 販売している。これによって、肥料会社は少 ら東勢に持ち込み、さらには 2011 年に果本 なからずお金を稼ぎ、曽自身も「 (隣町の筆 の設立者となる。人工授粉はいかにして可能 者注)豊原に家を建てられるくらいにお金を となったのか、以下検討するが、まず曽自身 稼いだ」という。 のライフヒストリーを見ておこう。 このように、肥料店員による技術革新は農 曽光明は 1959 年、2 男 3 女の長男として 家にお金を稼がせることで自分もお金を稼げ 東勢に生まれた。家は農家で、小さいころか るという店員の認識にもとづいていた。しか ら農作業を手伝っていたという。中学時代の し、それはナシ農家をさらに貨幣経済に巻き 教師が肥料会社を創業したのにともない、羽 込んだ。寄接梨の生産量が増えると技術はさ 毛牌肥料会社で働き始める。 「業務員」とし らにコストを要するものとなってくる。 て農業技術の指導や取得に奔走するなか、さ らなる技術向上を目指して 1986 年の台湾省 3.5 花芽の供給 政府農林庁の試験に合格し、OISKA の国際 寄接梨の生産が増加すると、国内の高冷 農業交流計画の研修で 3 か月間日本の愛知県 地である梨山産の穂木だけでは到底足りず、 三好町に滞在し、農業技術を学んだ。曽は日 穂木の調達が課題となった(同前 2013: 本のナシが皆丸くておいしいのに驚いたとい 18)。1979 年に海外旅行が解禁されると、東 う。そして、台湾で当時 2 割と低かった結果 勢では日本に旅行に行き、検疫を通さずに穂 率の向上や、品質の向上のカギは人工授粉だ 木を密輸入する人が後を絶たなかった。中に 7 2014 年 9 月、曽への聞き取りによる。 8 2014 年 9 月、曽への聞き取りによる。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 67 は箱の上部にセロリを詰め、その下に穂木を た。寄接は技術が複雑化し、省力化やコスト 隠して密輸入を図った人もいた。1983 年に ダウンに成功する一方、技術が一定程度完成 政府は穂木の個人輸入を「正式に」禁止した すると複雑な資材を要するためコストダウン が、高まる穂木のニーズを受けて、1988 年 の余地がなくなった(2013:39)。また、穂 に穂木の輸入を認めざるを得なかった(同前 木の供給を輸入に頼り始めたため、東勢の寄 2013:25) 。その際中心となったのは、以前 接梨農家は青果合作社や農会など独占的な販 東勢でバナナ輸出の中心となっていた青果合 売ルートに頼らざるを得ず、それが新たな中 作社であり、穂木を輸入するために日本ナシ 間搾取を入れる余地を作った。かといって日 の主な生産地を財政部の検疫担当者と訪れ、 本ナシの売値の上昇も見込めない中で、寄接 産地を検討した。当時青果合作社職員であっ は 「みんなが」 お金を稼げる技術ではなくなっ た黄岳によると、日本では寄接をしないため、 たといえる。 穂木の太さや出荷時期などの模索が数年間行 次章では、震災や WTO 加盟で日本ナシ産 われた。また台湾側は日本での休眠時間や日 業が打撃を受ける中、果本が何を目指して活 本各地の出荷体制などの検討を行った結果、 動しているのかを検討したい。 福島、長野、新潟からの輸入を決めた(同前 2013:54-67) 。穂木の需要増加にともない、 日本からの輸入という形で模索しながら供給 が解決されたといえる。 4.921 大震災と WTO 加盟、 そして果本の誕生 しかし、穂木の供給は生産コストの高騰と、 その入手ルートが青果合作社など限られてい 1999 年 9 月 21 日、台湾の921大地震で ることから、高度に政治的な問題を引き起こ 東勢の農業は壊滅的な打撃を受けた。さらに した。穂木はどんなに努力しても絶対に下げ 2002 年 1 月 1 日、台湾は中国と同時に WTO られないコストとして東勢における日本ナシ に加盟した。これにより、安価な農産物が台 栽培の上にのしかかったのである。また、入 湾に輸入され始め、台湾国内の農業は大きな 手ルートが限られたことから、それらの会社 打撃を受けた。日本ナシは主に韓国や南半球 は寄接の時期を見て価格操作を行うようにな から輸入されており、 寄接をしていないため、 9 り、これが農民を苦しめた 。技術の高度化 形や品質のよいものが多いうえ、価格は台湾 や大量生産化は、一方で技術革新を促進した 産の日本ナシとさほど変わらない。台湾産の が、他方では中間搾取や価格操作の余地を入 寄接梨はこれらの農産物と価格でも品質でも れ、日本ナシ農家の利益→関連業者の利益→ 競争を強いられることなった。本章ではこれ 再び農家の利益という利益還元のサイクルを らの打撃の後、果本はどのように生まれたの 崩し始めた。 かを検討する。 まず、果本は 2011 年に温帯果樹の直売を 3.6 小結 東勢で行う組織として成立した。生産者メン 本章では寄接技術の発展と変化を検討し バーは 4 名であり、約 1.5 ∼ 2.5ha の経営面 た。農家だけでなく、肥料店や資材会社など 積を持つ。メンバーは 40 代後半から 50 代 は寄接の技術改良が自分の稼ぎにつながると 半ばの男性であり、品目は日本ナシ、カキ、 の認識のもと、非常に熱心に技術改良を進め ビワなどの温帯果樹を生産しているが、最 9 2014 年 1 月、曽への聞き取りによる。 68 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 も多く生産されているのは日本ナシなので、 競争力を失ったという。また、農業改良場の ここでは日本ナシにしぼって述べることに 林嘉興は「規格は農民にとって不公平だよ。 する。日本ナシの市場価格が 1 台斤(600g) おいしいナシは 8 両(300g)なのに、規格 あたり 30 元(出荷最盛期)∼ 70 元(5 月初 上の問題で高く売れない。品質のいいものを 10 であるのに対し、果本は 120 元とかな 旬) 作っても高く売れない」(2013:39-40)と 11 で消費者に直売 いうように、高品質のナシが規格の細分化に している 12。果本のメンバーには日本ナシ栽 よって市場で評価されない矛盾を指摘してい 培にあたりホルモン剤や下草の除草剤を用い る。これらの語りから見えるのは、技術の複 ない、果本が主催する技術の講習会に出席す 雑化により、農民は高品質のナシを作っても る、傾斜地に植樹を行うなどの「環境に配慮 それが市場で正当に評価されない、すなわち する」 、そして品質向上のための規定があり、 高値で売れないという嘆きである。 残留農薬検査に合格したナシのみを出荷す そこで、果本は「努力すればお金を稼ぐこ る。注文の分配、広報などの事務局業務は肥 とができる」という寄接発明当初の技術の語 料店を退職した職員が無給で担っている。 りを援用しながら、東勢の集合的記憶として 東勢の日本ナシ関係者は収入改善の余地に 寄接梨の歴史を再構築している。努力の内容 ついてどのように考えて来たのか。研究班の は昔と異なり、却って労力をかけようとする 創始メンバーである劉俊男は寄接梨には前途 ものだが、それは農業を持続可能なものにす がないという。 る環境保護、そして何より品質向上のためで り高値で出荷し、宅急便 あり、その高い品質を正当に価格に反映しよ 寄接梨は今後、作れないわけではありませ うとする取り組みであるといえる。果本メン ん。ただし、黄金時代は過ぎました。梨山の バーであり、日本ナシを 1.5ha 栽培する専業 梨だってピークがあったのと同じようにね。 農家はこう語る。 …(中略)昔は台湾は北半球の中で最も早く ナシを生産できたけど、今は南半球のナシと 昔は寄接梨を作るだけでもうかったけど、 競争しなければならない。しかも寄接梨はコ 今はナシを作っても 1 斤たったの 30 元さ。 ストが高すぎる。…(中略)…東勢の技術は WTO 以前は品質が悪くても安ければ売れた 複雑になりすぎた。 (同前 2013:36-37) けど、今は違う。安くてそこそこ品質のいい 輸入物が入ってきたから、安いだけではダメ このように、技術の複雑化が高コストをま だし、その値段では何より農業が続かない。 ねき、WTO 下で品質が悪くない外国産地と じゃあ、高値で売るには消費者に直売するし 競争しなければならないのに、寄接梨は価格 かない。しかも、120 元という市場価格より 10 出荷最盛期には、消費者の手に届くころには約 100 元∼ 150 元の値段となっている。 11 統一グループ資本によるクロネコヤマトの宅急便は、2000 年前後に台湾の農村部に進出した。郵便局 まで農家が荷物を搬入しなければならない小包と異なり、宅急便は個々の農家に集荷に来るため、消 費者への直売を行う農家にとっては非常に重要であった。 12 ただし、主な大口購入者である消費者団体「主婦連盟」台中支部には、包装をせず大量に出荷するか わりに、1 台斤あたり 80 元で販売している。2014 年 9 月、果本メンバー農家への聞き取りによる。 主婦連盟は正式名称を台湾主婦連盟消費合作社といい、台湾最大の生協組織で 1993 年に設立された。 会員数約 3 万人。 星:台湾台中市東勢区における寄接梨の発展と品質向上活動:技術論と社会発展の観点から 69 高い値段で消費者に直売するには、絶対に人 本章では、果本の取り組みについて概観す を感動させられるような高品質のナシでない るとともに、その取り組みが寄接の語りをど 13 とダメなんだ 。 のように変えているかを検討した。果本の取 り組みは、環境保護などの新しい語りも加え ここからは、農家が高い値段で消費者に直 ながら、高品質の寄接梨を高値で売り、持続 売することによって、日本ナシ栽培で再びお 的な農業をめざす取り組みである。高品質の 金をもうけられるようにしたいという実にシ 日本ナシを作るには、従来の寄接技術以上の ンプルな意図がうかがえる。実際、果本運営 技術の習得が必要であるが、それらは価格に 3 年目となった 2014 年は、この農家の日本 反映されるため、農家にとってやりがいのあ ナシの売り上げは 1 年に 2 回以上買うリピー るものとして認識されている。 果本のなかで、 ター客の増加により、実に 300 万元(日本 寄接梨は再び「お金をかせげる」技術として 円で 1000 万円以上)近くにのぼった。売上 語られ実践され直されているといえる。 増の原因を、このナシ農家は品質向上に努め てきたからだと分析する。 5.おわりに 去年(2013 年) 、日本(茨城県常陸太田市: 筆者注)を訪れてナシ農家を見学したとき 本論文では、台湾において寄接梨が誕生、 に、ナシの品質が非常によいと思った。もち 発展し行き詰まる過程を検討した。東勢の社 ろん日本と台湾では気候が違うから、日本と 会発展から生まれた「稼げる」寄接梨は農家 全く同じようにはできないけど、自分のナシ から肥料店や関連資材への波及効果が暗黙の にはまだまだ品質向上の余地があると思った 前提とされていたため、多くの人がこれを熱 んだ。今年は収量は去年と同じくらいだけど、 心に開発した。しかし成立後、技術の複雑化 品質は去年より少しよくなったよ。頑張れば と高コスト化によって寄接梨は「稼げる」産 14 お金を稼げるんだ 。 業ではなくなった。大地震や WTO 加盟で農 業がますます衰退する中、果本の取り組みは 筆者は、この見学旅行でツアーガイドを務 消費者に直売することで高い売値の確保を可 めたため、筆者へのリップサービスは差し引 能にし、「頑張れば稼げる」という寄接梨の いて考える必要があるとしても、この農家の 語りの維持を可能にしている。 向上心は少なからずリピーターの心をつかん このような技術の複雑化や高コスト化は、 だといえる。リピーターは銀行の行員や主婦 台湾だけでなく小規模で技術集約的な農業が 連盟台中支部など大口の消費者から、大学教 さかんな日本や韓国など東アジアの新興国に 授やこの農家の子女の友人など個別の消費者 も今後発生すると思われる。グローバリゼー まで様々であり、この農家は複雑な技術のコ ションにともなう輸出入の問題、農業の衰退 ストを払い、さらに品質向上のために重ねた などに小規模な農家がどのように対応するの 自分の努力が価格上正当に評価されているこ か、またその国や地域の農業をどのように変 とに少なからず手ごたえを感じていることが えていくのか、今後さらなる検討が必要とい うかがえる。 える。 13 2014 年 9 月、日本ナシ農家への聞き取りによる。 14 2014 年 9 月、日本ナシ農家への聞き取りによる。 70 茨城大学人文学部紀要 社会科学論集 本論文では、果本が生まれるまでの状況を 考察したが、果本の誕生には東勢の社会およ び経済発展だけではなく、台湾全土の農村に 関する政策、社会運動、消費者運動などにつ いては検討できなかった。また、述べてきた ような東勢の多様な産業の発展は、多元的な 政治体制(レジーム)をもたらしたが、それが 寄接による東勢の日本ナシ栽培の生産体制や 流通とどのように関わるかは検討できなかっ た。これらについては今後の課題としたい。 台湾農村陣線(2011)『夏耘農村草根調査調査文 集』台湾農村陣線。 台湾農村陣線(2012) 『巡田水、誌農郷:2011 夏耘農村草根訪調文集』国立政治大学第三 部門研究中心、台湾農村陣線共同出版。 張宏政(2013) 「參與休閒農場體驗營 有可休閒 能力之研究」 『台湾郷村研究』11:55-92. 野上野下(2012) 「美濃好食」 。 楊弘任(2007)『社区如何動起来 ? ─黒珍珠之郷 的派系、在地師傅與社区総体営造─』新店、 左岸出版社。 日本語文献(著者五十音順) 東 正則、林梓聯編著(2012)『世界の最先端を 楊弘任(2012)「行動中的川流発電:小水力緑能 技術創新的行動者網絡分析」 『台湾社会学』 23:51-99. 李宜澤(2012)「漂浮的技術地景:台湾生質能源 計画的技術選択與規模的三重辺界」 『科技、 医療與社会』15:187-252. 李国明、張健生(2002)「蘭陽地区寄接梨不同包 行く台湾のレジャー農業』農林統計出版。 古関喜之(2012) 「台湾における寄接ぎナシ栽 培の展開と生産地域の課題」『地域学研究』 25:53-77. 裏嫁接法試験」 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