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第2部 永遠なる存在 中編
ノーザンダンサー物語 第2部 永遠なる存在 中編 ダービーへの険しき道 1964年1月 フロリダ州マイアミ、ハイアレアパーク ノーザンダンサーの調教は再開されたが、大切なのは「ゆっくり慣らしながら」という点であった。 したがって、最初は競馬場周辺の長い距離をゆっくりと走らせるという形での調教になった。ど うやらノーザンダンサーはビル・ベインの詰め物を受け入れてくれたようだ。それをうるさがる様 子も、裂蹄を気にする様子も見られなかった。むしろ蹄の痛みが消えたおかげで、ダンサーは本 来の強さと熱狂とを急速に取り戻しつつあった。 厩舎関係者は、チャンピオンホースもしくはチャンピオンホース候補の馬を「ビッグ・ホース」と 呼ぶ。小柄なノーザンダンサーも、関係者の間では「ビッグ・ホース」の一頭に数えられるように なった。ダービーを勝てるだろうとはさすがに誰も言わなかったが、出走するだけの資格はある と見なされたわけである。 ケンタッキーダービー。それは「参加できる」というだけでもたいへん名誉なレースなのだ。自 分の馬がダービーに出れることになって、平然としているような馬主はほとんどいない。このレー スに出走できるのは、毎年わずか 20 頭でしかないからだ。馬たちはその狭き門を目指し、数ヵ 月間に行われるいくつものステップ・レースに出走する。これは、いわば入学試験のようなもの だ。そして獲得賞金で上位 20 位までに入ることができれば、晴れてケンタッキーダービーの ゲートに入れてもらえるということになる。 3冠レースの出馬登録が行われるのは、毎年1月の中頃。オーナーたちはこれに自分の持つ 最高の馬(最高だと信じる馬)たちを登録するわけだが、登録料はそう高くないので(1994年 は600ドル)、だいたい300頭から400頭の若駒たちがこの時点で登録されることになる。3月の 最終週までには、これだけの馬たちがわずか 25 頭にまでに絞られることとなり、継続登録料も かなり高額(1994年は4500ドル)となってくる。ここで 25 頭が残されるというのは、本番までの1 ヵ月に何が起こるか分からないからだ。ここに残るエリートたちは再三にわたり全力を出しきるレ ースを重ねているので、故障が起こる可能性も低くはない。仮に 25 頭すべてが絶好調でダー ビー当日を迎えたとしても、出走できるのは賞金獲得額上位の 20 頭だけだ。そして出走が正 式に決まった時点で、オーナーは最終登録料と出馬料(1994年はともに1万ドル)を支払うこと になる。 1964年1月、ウィンドフィールズも北米競馬界最大の栄誉を夢見る何百というオーナーの一 員として、ノーザンダンサーの3冠レース登録を済ませたのだった。 一流馬のほとんどが、その競走キャリア全体をひとりの騎手とのコンビで送るものだが、これま でノーザンダンサーにはすでに4人もの騎手が騎乗してきた。こうした頻繁な乗り替わりの下で は、騎手との間の確かなパートナーシップや信頼関係を期待することはできない。 そろそろ主戦騎手を決めなければならない。そう考えたルーロが、ダンサーのパートナー候補 として選んだのは、ほかでもないビル・シューメーカーだったのだ。7年連続でリーディングの栄 冠を射止め、またダービーでもそれまでに2勝(1955年のスワップス、1959年のトミーリー)をあ げていた名騎手である。シューメーカーの方も3冠レースでの騎乗については確約を避けたが、 ステップレース数戦での騎乗については快諾してくれたのだった。 ウィンドフィールズ陣営が最初のステップレースに決めたのは、3月3日のフラミンゴS(ハイア レア競馬場、1800㍍)だった。これまでサイテーション、ケリーバック、ティムタム、シアトルスルー、 スペクタキュラービッドらのダービー馬を輩出した登龍門レースである。 フロリダの冬は雨が多く、調教トラックのコンディションも悪化しがちだった。ときには悪条件に よる故障をさけるためにダンサーの調教を休ませたりもしたルーロだったが、フラミンゴSが近づ くにつれ、この馬を仕上げるにはレースを使う必要があると思いはじめたのだった。 1964年2月 10 日 ハイアレアパーク シューメーカーが騎乗できなかったため、ボブ・ユッセリーが第5の騎手として、ノーザンダンサ ーの 10 戦目に騎乗することになった。この1200㍍戦を前にしてルーロが与えた指示は、「楽に 走らせること。そしてどんな場合であろうともムチを使わないこと」。 このレースには、やはりフラミンゴSを目指す6頭がダンサーのライバルとして出走してきた。一 番人気になったのはビル・ハータックが騎乗するチーフテイン(2・1倍)で、ノーザンダンサーは これに続く2番人気(2.4倍)。3歳時のレースぶりはダンサーの方がはるかに印象的なものだっ たが、そのほとんどはカナダでのレースだったことがダンサーの評価を下げた格好だ。多くのフ ァンにとっては、カナダでのレースなど、北極海に浮かぶ流氷の上で行われているにも等しいも のだったのである。 ダンサーの明け4歳初戦は不運なレースとなった。ゲートを飛び出した直後に他馬に接触し、 ほとんど止まりかける不利を受けたのである。仕方なく馬群の最後方からの追走となったダン サーだが、それでも何とか体勢を立て直し、道中は着実に差を詰めている。しかし、それも前の 馬が壁になるところまでだった。そこでスピードを落とさざる得なかったダンサーは、チーフテイ ン、マムズリクエストに続く3着でゴールインした。 問題となったのは、ゴール間際のすでに勝ち目のなくなったところで、ユッセリーが火の出るよ うなムチを入れたことだった。これに激怒したルーロは、ユッセリーの騎乗ミスを公然と非難し、 また自らの指示に背いたことについても激しい弾劾を浴びせた。 1959年春のできごとが再び繰り返されたのだ。このとき、サラトガのスピナウェイSに出走した ナタルマに激しいムチを浴びせたのもこのユッセリーだった。 ケンタッキーダービー制覇というウィンドフィールズの夢。それは、またもや霧散しようとしてい るのだった。 1964年2月 11 日 ハイアレアパーク 翌日のハイアレアの朝は、いつもとまったく変わることなく始まった。ダンサーも6時頃にはカイ バ桶に顔をつっこみ、ときには口の中のカイバを水で流し込みながら、いつものように食事を平ら げている。それから一時間ほど後には、手入れ、鞍つけなど調教準備も済まされ、軽い運動を するため、調教騎手を背に調教コースへ向かったのだった。ポニーにまたがったルーロが同行 したのも、いつも通りだった。 だが競馬場のコースが近づくと、ダンサーは突然に立ち止まり、決して前に進もうとしなくなっ た。騎手が脇腹を蹴って「進め」と促しても、後ろ脚立ちをし、また地面へと脚を下ろしただけだ った。もう一度、同じことをしてみると、今度は跳ね上がり、その力強い後肢で宙を激しく蹴るよ うな仕草をする。ダンサーが競馬場を嫌がってるのはもう明らかだった。そして、この馬に言うこ とを聞かせられる者はどこにもいない。 元来、ウマという動物は論理的思考を行なうようにはできていない。そのかわりに備わってい るのが、「筋肉の記憶」とでもいうべきものだ。ウマたちは、筋肉に与えられた経験(痛みなど)を そのときの状況と結びつけて覚えているのである。これはウマたちにとっては、ひとつのサバイバ ル・メカニズムとなっている。ある種の危険が起こりうる状況の下では、この筋肉の記憶が危険 信号として機能し、安全な場所へ逃げ出すように自身を駆り立てるわけだ(ときには、この筋 肉の記憶がマイナスに働くこともある。たとえば火事になった際に、燃えさかる馬屋へと突進す る馬を見ることがあるが、これは何も馬に自殺願望があるわけではない。その記憶の中で、自 分の馬房と安全のイメージとが結び付けられているためである)。 ユッセリーによるムチはあまりに激しいものだったので、ダンサーの中ではこれと競馬場とがひ とつのものとして深く刻みこまれたのだ。ちょうどナタルマのときと同じだった。違うのは、ダンサ ーがより狂暴で力強い牡馬だという点だけだ。 忍耐だけが唯一の道のように思われた。続く数日間、ダンサーを競馬場のトラックへ連れて 行こうとする試みが行われたが、トラックが目に入るところまでくると、彼は決して進もうとはしな くなった。無理に歩かそうとしても、怒らせ狂暴にするだけだ。一行は仕方なく厩舎村と競馬場 とを隔てる松並木を行ったり来たりしたのだった。今後のローテーションどころではなくなってし まったということだ。 これに対しルーロが取った手段は、ナタルマのときと同じものだった。つまり軽いトランキライザ ーを与えてから、厩舎地区をぶらぶらと散歩し、少しづつトラックへと近づかせるようにしたので ある。ダンサーもこれを受け入れてくれ、やがて調教が再び行なえるようになったのだった。 1964年2月 24 日 ハイアレアパーク とはいえ、実際のレースになってもダンサーが普通に走ってくれるか、それはまだ分からなかっ た。調教とレースは別物である。観客の熱気や、パドック、本馬場入場からスターティング・ゲー トまでの誘導、そしてレースそのもの。いったい何がユッセリーのムチを思い出させるきっかけと なるかは分からない。また、いったんそうなるとダンサーが何を始めるかも見当がつかなかった。 そこでルーロは模擬レースを行なうこととした。相手にはチーフテインとトレーダー(サウスカロ ライナ州で調教されているなかなかの馬だった)の2頭が選ばれた。この3頭立てレースを通じ て、ダンサーの騎手とムチへの嫌悪を克服しようとしたわけだ。この大事な大仕事を任せられる 人物がただひとりしかいないことは、ルーロには分かっていた。そう、シューメーカーである。シュ ーメーカーの並外れた判断力と意志疎通、それに匹敵できる騎手は北米にはいないだろう。 結果は成功だった。シューメーカーに導かれ、ダンサーは7ハロンを1分 23 秒4の好タイムで 駆け抜けたのだった。後の2頭につけた差は7馬身。 1964年3月3日 ハイアレアパーク 翌週のフラミンゴSでも、シューメーカーがノーザンダンサーに騎乗した。出走馬は全 11 頭。こ のレースの結果は、多くのオーナーや調教師たちに、自分の馬にダービーを狙うだけの能力が あるのか、その答えを否応なしに見せつけるはずだった。東海岸地区のトップ4歳馬たちが集う、 このレースは、ハイアレアパーク競馬場最大の呼び物となっていた。 ハイアレアのパドック脇には、実物大のサイテーションのブロンズ像が飾られている。期待に胸 を弾ませたオーナーたちにとって、1948年にフラミンゴSを勝ち、そのまま3冠馬へと飛翔したサ イテーションほどこれにふさわしい馬はないように思えたことだろう。それ以降、3冠馬は誕生し ていない。 ハイアレアパーク競馬場が建設されたのは1920年代のこと。したがって、ここにはニューヨーク の上流階級の間でフロリダで冬を過ごすことが流行だった時代のなごりが色濃く残っていた。 その頃はホイットニー、ヴァンダービルト、デュポンといった財閥の人々が、内馬場を闊歩(かっ ぽ)する450頭ものピンク・フラミンゴを見物にここを訪れたものだ。 1964年には上流階級が集まることもなくなっていたが、そのかわりに数多くのファンが詰めか けていた。ノーザンダンサーを応援したいという熱狂的なカナダ人ファンも多数訪れており、ダ ンサーとシューメーカーのコンビは単勝2倍の一番人気に支持されていた。 いつも通り猛烈な勢いでゲートを飛び出したダンサーを、シューメーカーは先頭に立つミスタ ーブリックの後ろに控えさせた。そのまま直線入り口まで我慢し、そこでシューメーカーが軽く 仕掛けると、ダンサーはミサイルのようにトラックを駆け抜けたのだった。ミスターブリックに2馬 身をつける圧勝。3着のクアドラングルがゴールインしたのは、この2頭から 10 馬身も遅れての ことである。タイムは1分 47 秒8。1953年にボールドルーラが樹立したコース・レコードから1秒遅 いだけの好タイムだ。 この日はカナダの競馬ファンたちにとっても素晴らしい日となったが、何よりも、このレースのた めにバハマから駆けつけたウィニフレッド・テイラーにとっての忘れられない日となった。夫のE・ P・テイラーがトロント空港の霧による飛行機の遅れのために間に合わなかったので、彼女がダ ンサーの優勝トロフィーを受け取ったのだ。そのテイラーがようやく到着したのは、当のダンサー がすでに馬房で休んでいる頃のことだった。 このフラミンゴでの勝利を見る限り、ダンサーは競馬場拒否症から完全に立ち直っているよう だった。調子も上々で、次のレースが待ちきれない様子の彼は、間違いなくケンタッキーダービ ーへと続く道の上にいた。 この日の夜、ノーザンダンサーはルーロ気付で送られてきた一通の電報を受け取っている。 「バラは赤い/スミレは青い/勝手にしろっていうのなら 私はお前を追い抜くよ/ヒルライズ より」 1964年3月8日 フロリダ州北マイアミ、ガルフストリームパーク 次の目標フロリダダービー(4月4日)に向け、ノーザンダンサーは1400㍍戦に出走した。この レースもシューメーカーに先約があったので、マイケル・イカザが騎乗。コース・レコードを更新 する1分 22 秒4、4馬身差の楽勝だった。2着には、ダンサーよりも8ポンド(約3・6㌔)軽いザス カンドレルが入った。この馬もやはりケンタッキーダービーを目指していた。 1964年4月3日 ガルフストリームパーク この日、翌日のフロリダダービーにむけた最終調整が行われた。ルーロが予定していたのは 軽く流す程度の追い切りだったが、実際には「軽く流す」どころか、「奔流」のようなものとなって しまったのである。 調教でいつも騎乗しているラモン・ヘルナンデスがトロントにいたため、この朝は別の騎手がノ ーザンダンサーに乗ることになった。しかし、ダンサーは決して乗りやすいタイプの馬ではないし、 またレースを目前にして突然に別の人間が乗ることについても確かに不安もあった(それが現 実となるわけだが……)。 この朝、騎手に与えられた指示は「半マイルを 48 秒ぐらいで」というもの。だが、ダンサーには 彼自身のテーマがあったようだ。気力・体力ともに充実し、レースに向けてすでに仕上がってい たダンサーは、ハミをがっしりとかみ、猛然と走り始めたのだ。こうなると、騎手はもうなすすべが ない。何とかダンサーを抑えたときには、1000㍍を 58 秒6で駆け抜けた後だった。 つまり、ノーザンダンサーは一日早く自分だけのレースを走ってしまったのだ。これでフロリダ ダービーに出そうというのは、2日続けてレースをするのに等しい。だが、全力で走った次の日に もう一度レースを走る余力のある馬などいるのだろうか。 1964年4月4日 ゲートに引かれて行くノーザンダンサーを見守りながらも、ウィンドフィールズのスタッフたちは ほとんど何の期待も持っていなかった。しかし、楽観的なファンたちはダンサーを1・3倍の大本 命に支持していた。 今回もスタートは良かったが、最初のコーナーに差しかかる頃には、他馬に包まれて抜け出し ようもない馬群の真ん中にまで下がってしまう。これに対し、シューメーカーの取った策は内ラチ 沿いでじっと我慢するというもの。最終コーナーまでに前が開き、ダンサーは先頭に進出するが、 シューメーカーは座ったままで決してムチを使おうとはしない。結局、そのまま2着のザスカンド レルに1馬身差で勝利を収めたのだが、タイムも1800㍍で1分 50 秒8と平凡なものだった。しか し、事実上の「連戦」だったことを考えれば、これは偉業といってもいい。ダンサーにまともに走れ るだけのスタミナが残っていたこと自体、驚くべきことなのだ。 ノーザンダンサーがケンタッキーダービーで勝ち負けするだろうことは、ウィンドフィールズ陣 営にとって、いまや疑うべくもないことに思えた。しかし、競馬マスコミの見方は違ったようだ。 「ノーザンダンサーのフロリダダービー快勝に対する反応は、奇妙なことだが、おおむね『もう 少し長いレース(ケンタッキーダービー)では、この馬は勝てないだろう』というものだった。(中 略)。確かにダンサーの勝ち方は圧倒的なものだったし、2着馬はなすすべがなかった。とはい え、あと1ハロン伸びるレース(ダービー)では、ザスカンドレルはより手強い存在となるだろう」 (サラブレッドレコード誌) 「ゴールでは余力があるようには見えなかった」(デイリーレーシングフォーム紙のコラムニス ト・ジョー・ヒルッチ) ブラッドホース誌のアート・グレイスは、こうした傾向に逆らう数少ないジャーナリストだった。 「あと2周したとしても、ザスカンドレルはノーザンダンサーをつかまえられなかっただろう」 そうした外野の議論をよそに、厩舎に戻ったノーザンダンサーはひとり気が狂ったような勢い でカイバにむさぼりついていた。その頃、ダンサーの馬房の床には寝藁の代わりにピートモスが 厚く引き積められるようになっていた。というのも、ダンサーは調教やレースの後にはよく食べる タイプの馬で、普通の2倍近くもカイバをとっても、まだ足りずに、何の栄養にもならない寝藁に まで手を出すようになっていたからだ。 その同じ夜、ダンサーの関係者たちも勝利を祝うディナー会を開いたが、こちらはシューメーカ ーの「ダービーではダンサーに乗れない」との発言の後は沈んだものとなっていた。シューメー カーは、ザスカンドレルとヒルライズの両陣営から騎乗依頼を受けており、自身はヒルライズを 選ぶつもりだという。 「この冬、サンタアニタで何度かヒルライズの走りを見る機会があったが、とても印象的な馬だ った。ノーザンダンサーも素晴らしい馬だし、この馬に騎乗するチャンスをくれたことについては、 テイラー、ホレーショ・ルーロ両氏に非常に感謝している。だが騎手としての私の本能が、ダー ビーではヒルライズに騎乗しろ、と命じているのだ。私としては、これが正しいものであることを祈 るばかりだ」 後には、シューメーカー自身「とんでもない間違いだった」と語っているが、この報を聞いたダン サー不要派は「やはりケンタッキーダービーでのノーザンダンサーの勝利はありえない」と意を 強くしたのだった。何と言っても、アメリカ最高の騎手が最後に選んだのは、このカナダからの挑 戦者ではなく、西海岸のエース・ヒルライズだったのだから。 このヒルライズもホレイショ・ルーロが預かることになりかけたという経緯があったというから面 白い。1962年のケンタッキーダービーをレコードで優勝したのはデサイディドリーという馬だっ たが、これを管理していたのもルーロだった。次の冬にサンタアニタに行った際、ルーロはその オーナーだったカリフォルニア在住のジョージ・ポープから「次のシーズンに3歳馬を一頭、また 東海岸の方で面倒を見てくれないか」との申し出を受けたのである。ルーロは承諾し、スピード 豊かに見える一頭の牡馬を自厩舎用に選んだのだった。 数日後、サンタアニタのルーロの厩舎に一台の馬運車が到着した。そこから降りてきたのは、 雄大な馬格の、脚の長いハンサムな牡馬だったが、それはルーロの選んだ馬とは違った。予定 の馬が脚をぶつけてしまったために、かわりにこの馬ヒルライズが送られてきたのだった。何日 かヒルライズを調教してみた後、ルーロはポープへと電話をかけた。 「この馬は春には仕上がらないと思います」 ヒルライズが成熟するためには、もっと時間が必要なように思えたのだった。そして、ルーロは ヒルライズをまたポープへと送り帰したのである。 結局、3歳シーズンの末までヒルライズはデビューできなかったのだから、ルーロの考えは正し かったわけだ。しかし、素晴らしい馬格を誇るヒルライズはいったんデビューする(1963年 11 月 22 日)と、後は瞬く間に7連勝を飾り、西海岸地区最大のダービー・トライアル、サンタアニアタ ダービーまでも勝ってしまったのである。 そのヒルライズに騎乗することをシューメーカーに告げられ、ルーロはすぐにビル・ハータック に騎乗を依頼した。ハータックは、ダービーでデサイディドリーに乗ってくれた騎手であり、それ を含めてダービーを3勝した経験を持っていた。ハータックはとりあえずダービーの前に行われ るブールグラスSで騎乗することを約束し、特に問題がなければ、ダービーでも乗ってもいいと 答えたのだった。 ビル・ハータックといえば、歯に絹を着せぬ、一家言持つジョッキーとして知られていた人物だ。 ときには傲慢なまでに辛辣に調教師たちを批判したし、マスコミへの暴言も多かった。彼にとっ てルーロは数少ない尊敬できる調教師ではあったが、それでも彼が降りるといってしまえば、ダ ンサーはまた騎手がいない状態へと戻ってしまうのだ。 1964年4月6日 ガルフストリームパーク ノーザンダンサーが押しも押されぬ一流馬であることはすでに明らかだった。フロリダで冬を 過ごした普通の馬たちがウッドバインやベルモント、その他の自分の厩舎へと移動し始めるの をよそ目に、意気揚々のダンサー一行は堂々とケンタッキーへ乗り込むというわけだ。 ケンタッキーまでの長旅の準備として、ダンサーの脚には、その球節から膝にかけて木綿のガ ーゼが巻かれ、3インチ幅のバンテージがこれをしっかりと固定した。 馬運車の中に作られた馬房の周囲には、口が届く距離に、目の粗い網でまとめられた乾し草 が用意され、その前方のスペースには、水桶、カイバ桶、作業用熊手、馬衣、馬具一式、そして 予備のカイバが積まれた。 すべての積み込みが終了して、ようやくダンサーは馬運車へと導かれ、自分の馬房に落ち着 いたのだった。 ガルフストリームからキーンランドまでは2万㌔近くもある長旅である。たとえ4本の脚を持って いたとしても、これはじゅうぶんこたえるだけの距離だ。したがって、旅の途中では、ジョージア州 にあるルーロの牧場で1、2日の休憩が取られた。 1964年4月 10 日 ケンタッキー州、レキシントン、キーンランド競馬場 キーンランドへの長旅は無事に終わった。キーンランドは、ブルーグラスに囲まれた、北米では 珍しいタイプの田園地帯にある競馬場で、馬たちにとっては一種の保養地のような役割を果 たしていた。その境界を示す数マイルにもわたる柵の向こう側には、牧草地帯が延々と広がっ ていた。都市部の競馬場からここを訪れたノーザンダンサーやその他の馬たちは、その牧歌的 風景に心を洗われたことだろう。特にフロリダの中心部からやってきたダンサーにとって、ここの 凛として澄んだ空気はなおさら爽やかに感じられるものだった。 1930年代にジョン・キーンのキーンランド・スタッド・ファームの設備の一部としてレキシントン 郊外に作られた同競馬場は、数世紀にもわたるケンタッキー競馬の誇らしい歴史を反映して いる。ツタが絡まる建物や、花壇、木々が陽射しをさえぎってくれるパドックへは、巨大な並木に 挟まれた長い道が続いていた。 ノーザンダンサーがキーンランドに着くより前に、ヒルライズも飛行機でカリフォルニアから到 着していた。だが、両馬の対決は本番まで待たなくてはならなかった。ヒルライズ陣営が最後 の調整に選んだレースは4月 17 日のフォアランナー・パースだったからだ(この1400㍍戦には シューメーカーが騎乗し、あっさりとヒルライズの連勝を8へ伸ばしている)。 これに対しダンサー陣営が最終ステップに選んだのは、ダービーの9日前に行われる、キーン ランド春開催の目玉レース、ブルーグラスS(距離1800㍍)だった。 ダンサーにハータックが騎乗することについては、誰もが賛成していたわけではない。たとえば、 ブルーグラス直前に行われた新聞のインタビューに対し、ジョー・トーマスは「ハータックがベス トの騎手とは思えない」と発言し議論を巻き起こしている。翌日の新聞には、「厩舎の責任者は 私だ」というルーロの怒りの言葉も載ることとなった。 1964年4月 23 日 キーンランド競馬場 ブルーグラスSの朝、ノーザンダンサーが朝のカイバをぱくついている頃、ケンタッキーの多く の牧場では、何とかカナダからやってきた小柄な快速馬をひとめ見ようと、スタッフたちが大急 ぎで仕事を片付けていた。 各馬がパドックに登場すると、大勢の人々がノーザンダンサーの許へ押し寄せた。人々がこの 馬をもっとよく見たいともみ合う一方で、ダンサーの方も人々の間抜け面を見てやろうとばかり に首を高く掲げたのだった。 5頭立てとなったこのレース、ダンサーは1・8倍の本命に支持されていた。素早くゲートを出た ダンサーは、もしハータックが抑えなかったら、そのまま先頭に立っただろう勢いだった。しぶしぶ 控えたダンサーに代り、先頭に押し出されたロイヤルシャックが逃げる形でレースが流れ始め る。 直線に入り、ハータックがほんの少し手綱を緩めてやると、ダンサーはするすると先頭に躍り 出る。やがて馬群の中からケンタッキー産馬のアレンアディアーが抜け出してきて、地元のファ ンを熱狂させる。肩越しにそれを一瞥したハータックは、さらに少しだけ手綱を緩め、アレンアデ ィアーに半馬身をつけたまま、ダンサーにゴール板を通過させたのだった。だが、その後もハー タックはダンサーを止めようとせず、1ハロン余分に走らせたのである。つまり、ダービーと同距 離を走らせたわけだ。ダンサーの2000㍍でのタイムは、デサイディドリーのレコード2分0秒4を かなり下回る2分3秒フラット。これを見た予想家たちは、ダンサーには2000㍍は持たないと結 論し、ヒルライズの方を本命としたのだった。 ケンタッキーダービー 1964年4月 25 日 ケンタッキー州ルーイヴィル、チャーチルダウンズ競馬場 馬運車の短いタラップを下ったノーザンダンサーが導かれたのは、チャーチルダウンズの 24 号厩舎だった。キーンランドからここまではわずかに110㌔ほどしか離れていない。だが雄大か つ優雅なキーンランドと比べると、チャーチルダウンズはまったく別の世界であった。 ここではわずか140エーカーの敷地内に、48 号まである厩舎設備、乱雑な印象のグランドス タンド、1マイルのダートコース、1400㍍の芝コース、厩務員宿舎、オフィス、関連施設、駐車場、 ケンタッキーダービー博物館など、それら全てのものが収められていた(ちなみにウッドバイン 競馬場の総敷地面積は773エーカーもある)。その周囲を多くの家々や商店、ガソリンスタンド、 工場などに囲まれ、チャーチルダウンズ競馬場は、まるで建物の海に浮かぶ孤島のようにさえ 見えた。 独特の2本の尖塔の下、ホームストレッチ沿いにクラブハウス近辺まで伸びているスタンドに は、まったく統一感というものがなかった。最初にグランドスタンドが建設されたのは1895年のこ とだが、その後ダービーの隆盛とともにそこかしこにバラバラのスタイルでの増築が行われてき たためである。そのけばけばしい飾り部分、カーブした庇、さまざまな形と大きさのバルコニーな どは、かえって不思議な魅力を漂わせるものにさえなっている。 近代的な競馬場の持つ便利さもキーンランドやサラトガの気品も、確かにチャーチルダウン ズにはないかも知れない。だが、ここには何よりも名誉の歴史があった。チャーチルダウンズでは 毎年春に、ダービー・デーのたくさんの人手を見越した「お化粧直し」が行われる。白の羽目板 とその緑の縁取りは塗り直され、床の堅材も革で丹念に磨きあげられる。通路の敷石や花壇 の手入れはいうまでもない。 ケンタッキーダービーが始まったのは1875年のこと。ケンタッキー産馬の「ショーケース」として、 本家イギリスのエプソムダービーにならい企画された。もともと、このチャーチルダウンズ自体が ダービーを行なうために建設された競馬場なのである。第一回ケンタッキーダービーは1875 年5月 17 日に行われ、およそ一万人のケンタッキー市民が見守る中、アリスタイドが栄えある 初代ダービー馬に輝いた。 その後、このレースが瞬く内にケンタッキーの競馬界と社交界における重要なイベントとなっ ていく一方で、競馬場の方は 19 世紀終り頃までには経営難に陥り、閉鎖の危機を迎えること となる。そこに登場したのがマット・ウィン大佐だった。かっぷくも良く、いつでも葉巻を離さなかっ た彼は、他の投資家グループとともに、1902年にチャーチルダウンズを買収した。それは同時 にチャーチルダウンズとダービーとに捧げられた彼の生涯にわたる情熱の発火点ともなった。 彼はダービーに北米中のベスト・ホースを集めようと計画したのだが、東海岸の大厩舎からす れば、この片田舎で行われるレースに自分の馬をわざわざ送り込む理由は何もない。そこでウ ィンは、ダービーに新たなコンセプトを与えることとした。すなわち、東西の最強4歳馬が激突す るチャンピオン決定戦というのが、それだった(本当はレキシントン東西の最強馬が戦うレース に過ぎなかったのだが、彼のセールストークはそんなことで鈍りはしなかった)。 そうした努力のおかげか、やがて、プレス関係者もこのレースに訪れ始める。その中にはデイ モン・ランヨン、グラントランド・ライスら、強い影響力を持つ新聞の論説委員たちの姿もあった。 ウィンは彼らを食事とワインで盛大にもてなし、彼らの方もお返しにダービーを派手に持ち上げ た記事を書いた。たとえば1914年のダービーをローズバドという馬が勝ったときには、グラントラ ンド・ライスは「バラに捧げる走り」というフレーズをひねり出してみせたりした。 その翌年のダービーを勝ったのは、リグレットという牝馬だった。オーナーのハリー・ペイン・ホ イットニーは「この馬がこの先にどのレースを勝とうが、いやどのレースに出るかということだって、 もうどうでもいい。彼女は北米最高のレースに勝ってくれたんだから」と喜びを語った。 ニューヨークの有名なホイットニー厩舎が、それも牝馬で、このレースを勝ったというニュース は、アメリカ中の新聞を賑わした。ウィンの友人であるジャーナリストたちは、繰り返し「北米最 高のレース」というホイットニーの言葉を引用した。ウィンはそれをさらに推し進めて、ダービー に「最も偉大な2分間」というキャッチフレーズをつけた(だが、ケンタッキーダービーを実際に2 分で駆け抜ける馬が現れるまでには、ウィン自身の死から、さらに 15 年を待たなくてはならな かった)。 こうしたマスコミの好意に対して、ダービーの側も数々のドラマを提供することで応えてきた。 ゴール前の激しい競り合いの中、互いをムチで叩き合ったふたりの騎手。ケンタッキーダービ ーで、生涯ただ一度の敗戦を喫した名馬ネイティブダンサー。ハロン棒をゴールと勘違いして、 ギャラントマンを止めてしまったビル・シューメーカー(レース後には、まったく同じことが起こる夢 を見たとオーナーが発言し、それも話題になった)。 そして、今度はノーザンダンサーが、こうしたダービーの伝統にしたがい、マスコミに多くの話 題を提供する番となったわけだ。 1964年4月 28 日 チャーチルズダウンズ競馬場 本番を間近に控え、ダンサーは絶好調だった。この由緒あるコースで行われる早朝の調教で の様子からも、それは明らかだった。だが、ダンサーのようなタイプの馬を落ち着かせ、リラック スさせたままレースまで持って行こうというのは、ただでさえ易しいことではない。そしてダービ ーともなると、さらに厄介な問題もあった。マスコミの取材である。早朝の厩舎地区にはマスコミ 各社の人間が「何かいい話しはないか」と大挙して押しかけるのだった(1994年の場合では、こ うした新聞、雑誌、ラジオ、テレビの記者は1200人にも達している)。彼らの多くは、ダービーの ときを除けば、決して競馬場を訪れることもしない人種である。馬のことは頭のてっぺんから尻 尾の先までまったく知らない連中たちであるから、当然、分かりやすい話に群がることになる。そ ういう意味では、カナダからやってきたこの小柄の鹿毛馬は格好のネタだった。 こうした取材攻勢の中でもダンサーをリラックスさせておくという点で、ルーロが全幅の信頼を おいていたのはビル・ブレバードという名の厩務員だった。ルーロ自身、このブレバードについて、 「かけがえのない戦友。その穏やかな性格、担当馬への愛情、そして責任感は、理想のパート ナーといってもいい」ほどの存在だと語っている。 チャーチルダウンズの 24 号厩舎にも絶え間なくカメラマンたちが訪れ、「写真を取りたいから ノーザンダンサーを馬房から出してくれ」と注文をつけるのだった。余分なプレッシャーや混乱 が生じることを恐れたルーロは、そこで一計を案じた。彼の知る限りでは、ノーザンダンサーに 限らず、ダービーに出る馬を見分けられるカメラマンはほとんどいない。彼らがダンサーについ て知っていることと言えば、小さな馬、それだけだった。そこでルーロは、自分のポニーを写真 撮影用の影武者としたのだった。そのポニーはダンサーとは似ても似つかぬ馬だったし、第一、 毛色すらダンサーと違って栗毛だった。しかし、カメラマンたちは誰ひとりとして、この馬がにせも のであることに気づきはしなかった。 この日の遅い時間、ヒルライズが初めてチャーチルダウンズのファンの前にその姿を現した。 ファンたちもこの馬がすっかり気に入ったようだ。ヒルライズはビル・シューメーカーとのコンビで、 前哨戦のダービートライアルSを2馬身半差で快勝していたが、これは、これまでサイテーション、 ダークスター(ネイティブダンサーに先着した唯一の馬)を含め5頭ものダービー馬を輩出して きたレースだった。そして、この週末には同レース出身の6頭目のダービー馬が誕生することに なるだろう、そう誰もが思っていた。 ノーザンダンサーの評価は、最有力2着馬候補というところだった。 1964年5月1日 チャーチルダウンズ この朝、大一番にむけての最後の調教が行われた。ゆっくりとスタートしたダンサーはまず最 初の1ハロンを 24 秒4で行き、5ハロンを1分 00 秒4で通過、6ハロンでは1分 14 秒の時計を 出している。ダンサーから降りた調教騎手のレイモンド・セアザの手は、行き過ぎぬよう手綱を 抑えていたために、赤く、痺れ上がっていた。完璧な仕上がり具合だった。 この調教が終わると、ルーロは、すでに大勢の調教師、関係者、オーナー、記者らが集まって いる競走役員のオフィスへと向かった。 そして、枠順の抽選が始まった。 そこには、出走各馬の名前が記されたカードの入った箱が用意されていた。まず、それらのカ ードを一枚づつ取り出して行き抽選の順番を決めるわけだが、その名誉ある役割は、一昨年 のダービー調教師であるルーロに任された。ルーロが引いた順に、各馬のプレートが並べられ ていった。 午前 10 時ちょうどには、1から 12 までのナンバーがくっきりと刻まれた 12 個の象牙製のボー ルが、革で包まれたボトルの中へと落とし込まれた。競走役員がボトルを振り、それを横向きに 倒すと、一個、また一個とボールが転がり出てくる。そこに刻まれている数字がそのまま各馬の 枠順となるのである。 枠順は、出走頭数やレースの距離、コースの形状などによっては、結果を左右する重要な要 素ともなりえる。北アメリカの楕円形のコースでは、普通は3番枠か4番枠が最も好ましいとされ ている。それより内よりだと第一コーナーへ向かう途中で包まれる可能性があるし、外枠の場 合はより長い距離を走らなければならないことが不利となる。 しかしチャーチルダウンズでは、僅かな差ではあるが、最も多くの勝ち馬が最内の1番枠から 発走していた。続いて2番枠、5番枠、10 番枠という順となる。 幸運の1番枠を引き当てたのは、フラミンゴSでノーザンダンサーに敗れた快速馬ミスターブ リックであった。ヒルライズは 11 番枠。ノーザンダンサーの順番になって、ボトルから転がり出て きたのは7番のボール。この年の出走馬は 12 頭だったから、7番枠といえばほぼ真ん中である。 ルーロはそれを満足げな表情で見ていた。 1964年5月2日 午前7時。ノーザンダンサーはカイバ桶の燕麦を一粒残らず平らげ、それから馬房の中を見わ たし、干し草を捜し始める。燕麦の後は干し草というのがいつもの彼のコースだ。だが、この日は 干し草は与えられなかった。 「干し草をもらえないときはレースがあると、馬の方でも分かっているんだ」 ビル・ブレバードは、馬房の外に立っている記者に向かってそう説明した。 馬の消化器官はデリケートなので、胃が一杯になっているとレースでは十分に実力を発揮で きない。そこで調教師たちはレース前にはカイバの量を調節するようにしていた。それが何回か 繰り返されるうちに、馬の方でも「何かいつもと違うようだ」と分かるようになり、それが何を意味 するのかについても理解するようになるのだ。 いつもと違うのは、朝のカイバが少ないことだけではなかった。厩舎地区全体の雰囲気もどこ かしら異質のものとなっていた。取材陣の姿はもうほとんど見当たらなかった。いまや本番のレ ースだけが彼らの関心の的となっていたので、厩舎を訪れる必要はないというわけだ。いつもの 仕事を手際良く片付けていく厩務員たちも、この日ばかりはおし黙りがちで、冗談もあまり交わ されなかった。そして、そのまわりを調教師たちが手持ちぶさたにウロウロとしていた。彼らにで きるのは、もう待つことしかなかったのである。 食事が終わると、ブレバードはその鹿毛が輝きを放つまで、ゆっくりとダンサーをブラッシング してやった。それからルーロとともに、小柄な馬体を毛の一本にいたるまでくまなくチェックした。 その後は、厩舎付近を1時間ほど注意深く歩かせた。 午前中半ばには、軽いアルミの勝負鉄がしっかり装着されているか、装蹄師が調べにきた。そ れが終わると、ブレバードは再びカイバ桶に燕麦を空けてやる。軽い昼食が済むと、今度はた てがみ編みだ。たてがみをきれいにまとめられたダンサーは、いつもよりさらに小柄に、コンパクト に見えた。その姿はとても北米最高のレースに挑戦する馬だとは信じられないものだった。どち らかといえば、ポニー・クラブのコンクールにでも出る馬のように見えた。 同じ頃、24 号厩舎から数百㍍離れたチャーチルダウンズの内馬場は、ピクニック・バスケット や毛布、携帯用の椅子、ドリンク・クーラーなどを携えた人々ですでに一杯になっていた。内馬 場は午前8時から開放されていたのだ。あいにくの曇り空ではあったが、20 度をいくぶん超える 過ごしやすい気温であったこともあり、彼らのパーティはまさにたけなわであった(チャーチルダ ウンズの内馬場を占領する何千という人々の中には、レースにまったく関心のない者も少なく なかった)。 こうした群集の間を、ケンタッキーダービー記念グラスに入れられたミントジューレップ(バーボ ンウィスキーに砂糖やハッカの葉などを加えたカクテルで、ダービーのオフィシャル・ドリンクと なっていた)を抱えた売り子たちがすり抜けて行く。 競馬場の外では、一週間以上も前からケンタッキーダービーフェスティバルが盛大に繰り広 げられてきた。ストリートや公園、家々、庭園など、ルーイヴィルの至るところで、汽船レースや気 球レース、ガーデン・パーティや正式な晩餐会、ケンタッキー・カーネル・バーベキュー、コンサ ート、午餐会などが行われてきたのである。毎年恒例のペガサスパレードも大事なイベントだ。 こうした日々が過ぎ行くうちに、グランド・フィナーレとなるダービーへの期待と興奮は、いやまし に高まって行くのだった。 内馬場に溢れるピクニックスタイルの人々とは対照的に、クラブハウスに陣取った金持や名 士たち、そして自称名士たちは思い思いの盛装に身を包んでいた。デザイナーのオリジナルで 決めている有名人もいれば、伝統的なドレスにパラソルを携えた南部美人もいる。中には、チャ ーチルダウンズのグランド・スタンドとそのふたつの尖塔をかたどった紙製の帽子をかぶった女 性さえもいた。ダービー・デーには、まさに何でもありなのだ。 第6レースが終了すると、11 頭のダービー出走馬たちは、それぞれの厩務員とともにバックス トレッチ側の厩舎からスタンドの反対側にあるパドックへと移動した。ノーザンダンサーもブレバ ードに導かれ7番の装鞍所に落ち着いた。パドックの周りを取り囲んだ大勢の観客たちは、真剣 な眼差しで出走馬たちに見入っている。ブレバードは、ダンサーの脇に立ち、そのからだを軽く 叩きながら何か話しかけている。 集合のラッパが鳴り響くと、ビル・ハータックが、ルーロの手を借り、ダンサーに騎乗する。テイ ラー夫妻は固く互いの手を握りあったまま、愛馬にまたがったハータックを、ウィンドフィールズ のターコイズブルーとゴールドの勝負服に身を包んだその姿を、見つめている。内馬場では、 楽隊が「星条旗よ永遠なれ」を演奏していた。 ミスターブリックを先頭とした各馬がコース上に姿をあらわすと、「マイ・オールド・ケンタッキ ー・ホーム」の演奏が始まり、10 万人を超える観客たちによる合唱がそれに続いた。ノーザンダ ンサーは一瞬、荒々しく跳ねるような仕草をする。 一頭だけ未熟な馬が混ざっているようにも見えるダンサーだが、一度コースに出てしまえば 落ち着きを取り戻したようだった。それでも他の馬たちと比べれば、その体は 10 センチは小さ い。ダンサーの前を行進していたのはミスターブリック、ザスカンドレル、クアドラングルら。そし て後ろには、漆黒に輝くヒルライズの素晴らしい馬体があった。 ヒルライズは、首を丸くしたまま、ダートコースの上を滑るように悠々と進んでおり、その大きな 目は爛々と輝いていた。 前の6頭のゲートインはスムーズに終わったのだが、ダンサーはゲートを嫌がるそぶりを見せた。 ゲート係員はダンサーの頭絡をつかみゲートに入れようとするのだが、ダンサーは彼らを引き ずったまま後ずさりする。こうしたダンサーの姿も、ミントジューレップを中断してヒルライズの馬 券を買ってきたばかりの大勢の観客たちにとっては、大して興味を引くものではなかったろう。 だが、テイラー夫妻、そして応援に駆けつけたカナダ人ファンはそうではなかった。ノーザンダ ンサーが本気で入らないと決めているのなら、たとえカナダから騎馬警察隊をそのまま連れて きたって、この馬をゲートインさせることはできやしないのだ。 だが突然に、抵抗を始めたときと同じく突然に、ダンサーはゲートへと滑り込んだ。カナダ人た ちは、はたにもハッキリ分かるほどの大きな安堵の息をつく。 カナダ人ジャーナリストたちが、連日のようにケンタッキーから伝えてくるノーザンダンサーの 近況や応援記事は、カナダ国内での関心と熱狂をあおりたてるものであった。それがたとえど んなに僅かな可能性であろうとも、ダンサーはこのレースをきっと勝ってくれる、そう私たちは信 じるようになっていた。もしかしたら、カナダ競馬を馬鹿にしているアメリカ人たちに「それは間 違いだ」と証明したいとの思いが、私たちの気持ちの中では、さらに重要なものだったかもしれな い。 どちらにせよ、1964年5月の最初の土曜日、この曇った日には、何百万というカナダ人がダン サーの応援のため、テレビにかじりついていた。そうした人々の多くは、これまで競馬場に出か けた経験すらない者たちだったのである。 ノーザンダンサーは、残りの出走馬の枠入りが済むのをゲートの中でじっと待っていた。最後 の一頭が入った数秒後、スタート・ベルがなり響き、ゲートのドアがバタンと開く。そして、4歳馬 たちはコースへとまっしぐらに飛び出して行く。 スタンド脇を通り、第一コーナーに向かうところでは、外枠の馬たちが内を目指して切れ込ん で行った。ノーザンダンサーは内ラチ沿いの7番手。前は開いていたが、コーナーを曲がり、向こ う正面へと進む間も、ハータックはダンサーをそのままの位置で我慢させる。 最終コーナーに差しかかるところでも、ダンサーはまだ内側。他馬の厚い壁に囲まれて抜け出 せそうにない。ハータックの作戦が裏目に出たのだ。本来なら、ここで楽々と先頭に出るのがダ ンサーのレースなのだが、いまは抜け出す隙間すらない。ほんのわずかなチャンスすらも、獲物 を追いつめるハンターのようにダンサーの外側を並走するヒルライズによって潰されていた。 そのときである。ダンサーが突然にすばやく横へ飛び出し、ヒルライズのあごの下をくぐるかの ように、先頭を走る馬たちの中へ割り込んだのである。ダンサーは猛烈な勢いでその短いストラ イドを回転させながら、首をまっすぐに伸ばして前に出て行く。何が起こったか気づいたシュー メーカーが慌ててヒルライズを追撃させようとするが、この大型馬にエンジンがかかるまでには 数秒の時間が必要だった。 それでも、いったん勢いがついた後は、その大きくパワフルなストライドを叩きつけるようにして、 ヒルライズは一完歩ごとにダンサーに迫っていった。小柄で、跳びも小さいダンサーが、力強い 追い上げを見せるヒルライズから逃げきることはとうてい不可能なことに見えた。 ヒルライズは、まるで高速パトカーのように、カナダから来たスピードスターに追いつき、並びか ける。いまダンサーの後肢のところにあったかと思ったヒルライズの頭は、次の瞬間には脇腹の ところまで来ていた。ゴールまでほんの数メートルのところで、ダンサーはその首をさらに前へと 突き出した。きっと、ヒルライズの息が自分の肩にあたるのを感じたに違いない。そして、2頭は そのままゴールを駆け抜けた。ダンサーは、クビ差でヒルライズを下したのだ。タイムは2分フラ ットのコースレコードだった。 その瞬間、ダンサーは私たちにとって特別な馬になった。カナダでは多くの人々がダンサーの 勝利を祝って道へ繰り出した。車に乗っている者はクラクションを鳴らし、見知らぬ同士が互い の背中を叩き合う。彼の勝利は、まぎれなく私たちの勝利だったのだ。私たちはみな、彼がもた らした勝利の味に酔っていたのだった。 ノーザンダンサーは、ただアメリカ最高のレースでの勝利をもぎ取っただけではなかった。90 年に及ぶ絢爛たるダービーの歴史の中で、どんな名馬よりも早く、チャーチルダウンズの2000 ㍍を駆け抜けたのだった。 ダンサーの勝利はカナダ中の新聞の一面を飾った。 「これまで 89 頭のダービー馬のうち 79 頭までを送り出してきた馬産地ケンタッキー。その地 元ケンタッキーのファンで埋め尽くされたグランドスタンドから、今年はまったく新しいサウンドが 響きわたり、10 万人の観客から立ちのぼる喧騒を制することになった。 スタンドに誇らしげに立ち上がった5人のカナダ人が合唱する『オー・カナダ』の一節こそがそ の新たな響きだった。それは、心の奥底からわき起こる衝動に動かされての行動だ。その手に きつく握りしめられた、壁一面に貼りつめられるほどのノーザンダンサーの馬券も、彼らがどれほ どこの馬の勝利を願っていたのかを雄弁すぎるほどに語るものだった」(トロントスター紙、レイ・ ティムソンの記事) カナダ人ジャーナリストのトレント・フレイン氏も、ケンタッキーダービーを取材するため、ルーイ ヴィルに向かった数多くのスポーツライターのひとりであった。 「私が立っていた(そして、いつの間にか大きな声援を送っていた)この古めかしいグランドス タンドからでも、激しく追い上げるヒルライズの脚が止まったことは明らかに分かった」 そうフレインは、ノーザンダンサーについての自著に書いている。 「ゴールまではあと何完歩分かの距離が残されていたが、その鼻先がノーザンダンサーの首 に届いたところで、ヒルライズは止まってしまったのだ。ノーザンダンサーはその小さな頭を前に 突き出した独特のフォームで走り続けている。そして、この馬にストップをかけるものなど、何も ありはしなかった。 気がつけば、私は、仕切りとなっている手すりに何度もこぶしを叩きつけながら、繰り返し繰り 返し大きな叫び声をあげていた・・勝てるぞ、勝てるぞ! そして、もちろん、彼は勝ったのだった」